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何でも書こう
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世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   773  > 

 つまりこれは、そうした過酷な下剋上の時代の一場面に過ぎない事を物語っていた。
このことが後の、秀吉や家康の伴天連追放令、いわゆるキリスト教の禁教令に繋がった
ものだ。信長は宗教は別にキリスト教でも仏教でも構わなかった。彼の目的は天下布武
つまりこの織田信長以外の君臨者つまり治める国の他の王を許さない事にあった。それ
が領民の信仰でも税の帰依でも何でも構わない。兎も角は織田信長と言う新王をあがめ
奉り、いう事を聞け。というものだったのだ。従って家臣にも横柄であった。天正四年
、一月半ばに「安土城築城」の為に現場にきて満足そうに見上げる信長に、光秀の敗報
の知らせが入る。それを聞き「直ちに安土へくる様に伝えよ」と言ったと言われこの頃
から、横暴さは家康さえ目を背ける物があったと言う。信長は柴田勝家に対して「ひげ
くじら」羽柴秀吉の事を「はげざる」光秀の事を「きんかん頭」と言い出した。勝家や
秀吉は「信頼の証」と受け取っていたものの、光秀始め、多分に侮辱的な呼び名には、
常に不快感が漂っていた。「そうか、信長殿にとって、それがしはキンカン頭であるか
」光秀は、重臣達の前でそう呟いたと言われる。1576年、「石山本願寺攻めの為、兵の
過半を割って与力せよ」との信長の命が下る。丹波平定の最中に、一年半も天王寺砦へ
の攻撃をせざるを得なかった。この時黒井城攻略に失敗した光秀は悩み、主君・信長が
耳にすれば激怒し、もしかしたら丹波平定の任務を解かれるばかりか、近江・坂本の城
と領地も召し上げられてしまう。「惟任日向守」は滅びた九州の名族の事をさしていた
為、光秀は自分がいずれ、九州の果てにまで行かせて働かされる。という不安の中での
、光秀は京に呼び寄せられた。そして信長は「大和一国を采配せよ」と言うのである。
固辞した光秀は「筒井順慶」を勧めると、信長はその伝達と仕切りを命じ、光秀は直ち
に兵を率いて奈良に赴き、数日かけて大和の仕置きを終えると、その足で「天王寺砦」
へ帰るという過密なスケジュールをこなした。光秀49歳の時である。光秀の「天王寺砦
」では突如目眩と肩が抜ける様な疲れを感じ激しく倒れた。「先がよく見えない、手足
も言う事をきかぬ」と意識が朦朧となり、胸から腹にかけて絞る様な痛みが奔る。微熱
・悪寒・嘔吐が治まらず、行く先を当初の坂本城から京へ変え、曲直瀬道三の診断を受
ける。「明智殿のお体は凝り固まり、まるで石の様で御座います。このまま働き続けれ
ば、命を捨てる事になる、積年の疲労による全身的な虚脱、長期の安静が必要。」とい
う診断で京の吉田兼見邸で療養することになる。現代医学であれば「神経症」と診断で
きる。

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