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何でも書こう
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世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   780  > 

 実はこの中に興利倭船(こうりわせん)の廃止があった。興利倭船とは、室町時代、
日本から朝鮮へ交易のみを目的に訪れた商船で別名興利船と言われた。これは古くから
の私設の物々交換の漁民船だったが、朝鮮動乱で壱岐対馬に移民してきた事情か島に米
などの食糧が無く弁も通じた。しかし朝鮮王朝建国期に倭寇が猛威を奮っており、朝鮮
王朝は交易の利を持って倭寇の沈静化を図った。九州探題や守護・国人のような大勢力
に対し外交と公貿易を兼ねた通交が許可され、それら通交使節を派遣する船は使送船と
呼ばれた。一般庶民に対しても朝鮮に来港し自由に交易を行うことが許可され、こうし
て派遣された交易船が興利倭船だった。交易のみを目的として訪れる日本人は興利倭人
もしくは興利倭と呼ばれた。興利倭船の担い手は平常は漁を行なっているような庶民で
あり、使送船のように胡椒・丹木・銅のような高価な物資を取り扱うことは出来ず、塩
や魚をもって米穀に替えていた。興利倭は倭寇の転身したものであり、明で倭寇を働き
その略奪品を持って朝鮮へ交易に訪れる、あるいは船中に武器を携帯し防備の厚い所で
は交易を行う一方、防備の薄い所では倭寇と化す者もあり、朝鮮王朝にとって油断のな
らない相手であった。1400年、朝鮮王朝は興利倭船の入港場を釜山浦・薺浦(慶尚南道
昌原市)に限定するが徹底されず、1407年に居住地領主の行状(渡航証明書)の所持が
義務化されるなど規制を厳しくした。こうした入港場の制限は興利倭の生活を困窮させ
るものであり、1427年に倭寇出身の対馬の実力者早田左衛門太郎が慶尚道全域において
任意に交易出来るよう朝鮮王朝に請願するが拒絶され、代わりに塩浦(蔚山広域市)の
み入港場に追加された。その後も早田氏・宗氏などにより入港場の増設が請願されるが
許可されることはなかった。入港場の制限に伴い、取引相手が付かず長期滞在し、民家
に散入し押し売りを働く興利倭が出現したりする。朝鮮王朝はそうした買い手の付かな
い物については王朝が買い取ることで興利倭船の早期出港を図ったりした。こうした興
利倭船はみな対馬などの島を根拠地としていたと考えられている。朝鮮王朝建国当初に
おいては対馬以外の地域からも興利倭船が派遣されていたが、入港場の制限・行状所持
の義務化・文引制の施行等、通交統制が進み通交経費の増加に伴い、対馬以外の地域か
ら派遣される興利倭船は姿を消すことになる。1510年、三浦の乱において宗氏及び恒居
倭(三浦に定住していた日本人)の蜂起が失敗に終わると、壬申約条において興利倭船
は禁止され、以降姿を消した。47年に「丁未約定」が結ばれ,さらに57年の「嘉靖丁巳
約定」によって多少修正が行われ,豊臣秀吉の出兵まで継続された。
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