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何でも書こう
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1749: 12/27 10:49 ID:YYM
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   781  > 

 よく坂東太郎筑紫次郎などと称されるが、これは江戸時代の単なる語呂合わせに過ぎ
ない。大川の風浪宮社伝では、もともとは柳川の安曇磯良丸が元祖であり本家であった
為に、この酒見城の風浪宮を次郎と称したようだ。又酒見城と風浪宮社は今では一帯が
一つとなっているが、まだ酒見城があった頃は小さな社が他にあった様だ。かつて次郎
丸とされたここらの人はこうした海の戦いに連れ出され戦士となった。埴安神社(はに
やすじんじゃ)は次郎丸の氏神様である。この地は南に背振山、東に油山、西に飯盛山
を望み、室見川に接し、早良平野のほぼ中央に位置しているとされる。埴安神社がいつ
ごろから祀られ、今日に至ったかについて、埴安神社明細書には「埴安神はかく鎮座、
年代は不明なれども最初次郎丸字庄ノ町参百九拾番地の一に鎮座したることは棟札によ
り明らか。」とある。この地は今も「古宮跡」といって石碑が残っている。(社より北
西に約三百米)現在のような神社になったのは、今から三百三十五年前、江戸時代寛文
年間に宝殿一宇を建立したことにはじまる。又、天明年間には「拾陸天神社」として祀
られたことは定か。この古額は今も神殿に祀られている。神紋が「梅鉢」であり「牛の
石像」があることからも、うかがい知ることができる。以下由緒について「棟札の写し
」より抜粋しここに記す。拾陸天神(じゅうろくてんじん)は、じつは33間堂と同じ
く16面の2面皮観音を示し、表の顔と裏の顔の世間が16X2=32相をもつ中で、
自分の本願の大日如来の1身を足して33とする世界を示した陰陽道に即した仏願御堂
である。関ケ原の戦いで負けた西軍に、江上八院の戦いが起こる迄は、江島氏は国人領
主として安堵されていた。江島、四郎丸は十時連貞の知行地ではなかったがそれまでは
支配地だったのである。社方開基にある二度目の四郎丸、坂本大明神の再興の時は江島
氏はまだ四郎丸の領主だったのです。十時摂津守と江島村との関係についても何の表記
がありません。江島、四郎丸が以前、立花家の支配下にあった事は、当時誰もが知って
いることだが、十時連貞は永禄12年(1569年)に父と兄・惟則が多々良浜の戦いにおい
て戦死すると家督を継ぎ、筑前国那珂郡板付村のうち30町歩の所領を相続した。その後
天正9年(1581年)、嗣子の無かった道雪が高橋紹運の長男・立花宗茂を養子に迎え、
道雪の命令で宗茂付の家臣となった。天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州征伐が始ま
ると、島津の人質となっていた宗茂の生母・宋雲院と弟の高橋統増を救出している。宗
茂が柳川に入ると筑後山門郡内で三潴分33町歩の所領を与えられ家老となった。

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