[*]前 次[#] [0]戻 [4]履歴
[1]最新 [2]最初 ▼[3]コメント欄

何でも書こう
176/176頁 (1750件)
1750: 12/27 10:50
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   782  > 

 大正十四年発刊の「三潴郡誌」では四郎丸村の坂本神社の祭神が大山咋命だけになっ
ていました。「三潴郡誌」発刊当時の三潴郡に関する内容は驚くほど詳細に紹介されて
います。神社の内容について、取材漏れ、記載漏れがあったとは思えません。四郎丸の
坂本神社の祭神から高良玉垂命が外されたのは、江戸期以降高良山の権威と力が弱まっ
た事。住吉神が外されたのは江島氏が武家でなくなった事。また船や航海に関係のない
一族になった事に関係しているのではないかと思われている。住吉神は航海の神である
とともに戦いの神、軍神でもありました。前回も少し触れましたが、慶長(1596―1615
)年間に四郎丸江島氏の当主と思われる「江島四郎左衛門」が「青木鼻」と呼ばれてい
た湿地を開きます。続いて元和三年(1617)、家臣と思われる「鷲頭右京」と「江頭正
玄」が当地を青木島村と称して新開を計画しました。実はこの「江頭正玄」という人物
も「鷲頭右京」同様に、水軍に関わりの深い人物ではなかったかと思っています。江頭
と言えば佐嘉鍋島村江頭の「江頭摂津守」を思い浮かべられるでしょうが、私は「近江
江頭氏」の出自を持つ人物ではなかったかと考えています。太田亮(著)の「姓氏と家
系大辞典」によると、「元は江州、佐々木氏の臣。故ありて肥前に移り、大村純前公の
恩名を蒙りて臣となり川棚村に住むと云う。近江圀野洲郡江頭邑よりおこりしならむ」
。とあります。江頭村は現在の近江八幡市の江頭町でしょうか。今では琵琶湖から少し
離れていますが、昔は琵琶湖の入り江に位置し、江頭氏は水軍であったと言われていま
す。この後、江島四郎左衛門、鷲頭右京、江頭正玄は青木島村に移り住み、鷲頭、江頭
両名は帰農したようです。また四郎左衛門は藤原正喜と改名しましたが、江島姓を名乗
らない方が都合の良い状況があったのだろう。後に四郎左衛門の子孫は造り酒屋をして
いたとの記録があるようです。「青木鼻」とは筑後川に突き出た青木の岬という意味で
すが、岬の付け根辺りは入り江になっていて江島氏の軍船が何艘も泊まっていたのかも
しれません。四郎丸村から江島氏と家臣達が青木島村に移ってしまうと、四郎丸村は田
畑仕事にいそしむのどかな村へと変わり、江頭氏や江島氏の守護神、住吉神も徐々に忘
れ去られていったのだろう。柳川は浦島太郎伝説のふるさとではないだろうか。と時々
ふと思う事がある。ここ2〜3年で馬鹿げた都市開発で柳川の風情は消えてしまったの
だが、その理由はいまでも柳川の太郎信仰は消えない。つまりいつでも、「早稲物好(
わせもんずき)」のままであるからだ。

[*]前 次[#]
▲[6]上に [8]最新レス [7]ピク一覧

名前:
Eメール:
コメント:

sage
IDを表示
画像を投稿(たぬピク)
現在地を晒す