何でも書こう


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何でも書こう

1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

1701: 名無しさんAA:18/11/25 15:05
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   732   > 

 鴻池善右衛門は江戸時代の代表的豪商の一つである摂津国大坂の両替商・鴻池家(今
橋鴻池)で代々受け継がれてきた名前だ。家伝によると祖は山中幸盛(鹿介)であると
言われている。その山中鹿之助の子の、摂津国伊丹の酒造業者鴻池直文の子、善右衛門
正成が摂津国大坂で一家を立てたのを初代とされている。当初は酒造業でしたが、1656
年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥を形成しました。歴代当主から
は茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出しています。上方落語の「鴻池の犬」や
「はてなの茶碗」にもその名が登場するなど、上方における富豪の代表格として知られ
る存在です。明治維新後は男爵に叙せられて華族に列しました。なお現在まで15代を数
え、今も鴻池新田会所に隣接するビル群の経営などで鴻池家は健在している。旧鴻池本
宅屋敷は、大阪市中央区北浜2丁目にあったとされ、昭和22年(1947)大阪美術倶楽部
に売却され現在に至っている。創業業態を酒造業(のちに両替商・海運業)としている
が起源を調べてみれば、酒は灘の酒と言う透明の酒の出現で、その売れ行きの良さに目
をつけ兵庫と和歌山を海運して財をなし、兵庫に酒造業を興している。だが造ってはみ
たものの大阪ではライバルも多かった為に、名古屋や江戸まで送る事で成功した。現在
も鴻池組と名を同じくする企業が現在ありますが、旧鴻池財閥との関連が明白なものは
ありません。なお旧鴻池銀行は統廃合により現在の三菱UFJグループに統合されてし
まっている。九州でも喜多氏や後藤家田尻や富安家などが酒造として興している。その
意味では鴻池が酒造家として成功したのも頷ける。実は城島郷は地域では酒造地帯で知
られている。円亨2年(1745)創業の富安本家酒造の酒蔵をそのまま展示しているという
、富安本家酒造は、戦国時代の城主・西牟田氏以来の歴史がある。酒づくりの伝統と技
を伝えてきた旧家である。しかし日田薫長酒造の流れであり久留米山川の富の寿の富安
酒造とはそれぞれ縁戚である。田尻氏の松浦酒造は創業三百余年である。伊万里のこの
酒造所は、佐賀県西部に位置し、昔から陶磁器の輸出港として栄えた。三方を山に囲ま
れ、山水画を想わす秘窯の里・大川内山。海のシルクロードとして遠くヨーロッパに通
じ、また、今なお生きた化石といわれるカブトガニが生息する伊万里港があり山里には
梨や葡萄など、豊富な果物がいっぱい獲れる素晴らしい自然に恵まれる地だ。もともと
灘の酒は和歌山の般若湯とどぶろくから発生している。これを清酒にする技法はあった
。しかしそれを分業化し一つ一つ次々に樽を分けて醸造し出して連続出荷が出来る事が
灘の酒つまり今の清酒の強みだった。一樽ずつ仕込み順次仕込む。

1702: 名無しさんAA:18/11/25 15:06
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   733   > 

 比翼鶴酒造は二ノ宮氏が経営する城島郷の酒造会社である。「天にありては願わくば
比翼の鳥となり、地にありては願わくば連理の枝とならん。」長恨歌の名句「比翼連理
」に准える蔵元の家紋「比翼鶴」が代表銘柄です。明治31年、巴里萬國博覧曾に於て有
功金牌受領後、連続6回優等入賞酒にのみ贈られる珠玉の「大名誉賞」を受賞する等、
数々の栄誉に輝く伝統をもつ酒蔵とされる。比翼の鳥とは、雌雄一体となって飛ぶとい
う鳥。連理の枝とは、木の枝同士が連なって木目が通じ合っていることを表わし、どち
らも仲睦まじい様子が表現されています。私たちが目指すのは、味わい深く、飲み飽き
のしない日本酒。いつもそばにそっと寄添うお酒であることを理想の姿だと考え、蔵の
敷地内には浄水場と精米場を持ち、地下二百メートルから汲み上げる筑後川の伏流水と
自家製米で丁寧に研いた地元の酒米を用い、昔ながらの日本酒造りを守っているとされ
る。しかしこの二ノ宮氏は今の柳川沖の端の領主であったとされる。鶴亀伝説からこの
地は鶏肉を食しない。池亀酒造はそうした縁で蒲池氏が代々酒蔵を継ぐ。池亀は久留米
藩の師範代で、剣の達人と言われた初代蒲池源蔵が、明治8年に筑後川のほとりに創業
した。源蔵は、進取の精神に富んだ人物で、筑後川の水を使用した新しい醸造法を考案
、養成した杜氏を派遣して筑後地方の酒造り貢献したと言われる。弊社ではその気風を
受け継ぎ、良き伝統は守りながら常に新しい酒造りに挑戦し、お客様が新鮮な驚きや感
動を感じる商品作りに邁進したいと語っている。菊美人酒造は1735年、江戸期創業とさ
れる。屋号は薩摩屋とされ現社長は八代目で、先々代社長は江崎喜三郎の妻加代は柳川
の詩人「北原白秋」の実姉にあたる(北原酒造場、北原長太郎の長女)。昭和16年、白
秋は妻子、門下の歌人等とともに西下、故郷の柳川及び瀬高町の清水山山頂にて盛大な
歌会を催し、「菊美人」の菰かぶりを飲み干した。なお、白秋は「菊美人」を墨書し、
三幅の扁額を遺した。爾来「菊美人」は白秋の命名と世人は伝える。当社は別に「九州
男児」銘柄で辛口の酒を出荷している。仕込み水は、酒蔵の傍らを流れる矢部川の伏流
水を使用して醸造する。この薩摩屋こそ実は先の櫨の木蝋の交易で財を成した薩摩貿易
から付けられた名だった。 黄櫨(はぜのき)は、別名に「琉球櫨」りゅうきゅうはぜ
又は単に、「櫨(はぜ)」と呼ばれる。筑後平野は江戸期の殖産活動で多くのハゼの木
があった。ハゼの原産地は中国から東南アジア・インド一帯で日本の原種はない。


1703: 名無しさんAA:18/11/25 15:06
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   734   > 

 日本には中国から琉球に渡来し、鹿児島に伝わったといわれ、藩の秘匿品所謂藩抱え
の交易品だった。晩秋の頃に収穫されたハゼの実は砕いて粉にされ、蒸して搾られ生蝋
(きろう)ができる。生蝋を精製し、太陽に晒して、漂白したものを白蝋とか晒蝋(さ
らしろう)と言いその一大産地が柳川だった。これらの蝋を総称して「櫨蝋」(はぜろ
う)または「木蝋」(もくろう)と呼ばれ蝋燭(ろうそく)などの原料だった。当初の
江戸の木蝋は東北地方で漆(うるし)の実から精製されたが高価で手に入りにくいもの
だったが、九州和蝋は安価で使い良かったのだ。立花櫨は鎌倉時代からの原木とされ、
その果肉の多さは突然変異で起こった物だったとされる。インド櫨とタイワン櫨のかけ
合わせとされたが、今や柳川市は保存もしていない。江崎氏は代々船問屋であった。江
戸期に立花氏が藩財政改革には櫨の木を使った殖産で成功したし、戦国期の交易品では
蒲池氏はこの晒蝋の輸出で潤ったとされる。江戸期に武田製蝋店に20数年間雇われた
高田町海津の江崎宗四郎は、地元にかえり木蝋の製造を起業し、優秀ゆうしゅうな白蝋
が談議所の岸から大川の若津港に行き神戸の商店に運ばれた。村周辺の人達は好評を聞
き付け木蝋業を始め18軒にも増え益々発展したといわれる。武田氏は立花氏の御用宿
主であり貸付は、鴻池に裏書きした田中惣右衛門と瀬高町(現・京町)の富安長左衛門
が行ったとされる。熊本藩は享保8年(1723)に薩摩から1石9斗(3,500リ
ットル)の実を仕入れ、本格的に苗を作り櫨の木の栽培を始めている。延享2年(17
45)には財政の危機を救うために本格的な櫨の植え付けを始め、柳川藩に櫨の視察に
訪れ、ハゼを密集させて植えることなどを学び堤防のハゼは生垣のごとく繁殖したとい
う。菊池川流域でとれた櫨の実は、舟で下って運ばれ大浜町(玉名市大浜町)の廻船問
屋大坂屋に集められ精蝋されて大坂に積み出された。藩主細川重賢はさらに財政再建を
目的とした宝暦の改革(1752)をおこない、殖産興業の目玉作物として 水俣をは
じめ、田浦、南関、小田現・玉名郡、大津など県内一円で川や井手の堤防、道沿い、さ
らに畑に10万本を超す櫨の木が植えられ、民間の製蝋所はすべて禁止され櫨方役所の
直営の製蝋施設とし、藩による櫨蝋の専売制がしかれ、熊本の特産品として藩外に売り
出して収入増をはかった。熊本城にはその名残なごりの「櫨方門(はぜかたもん)」が
ある。水俣市侍さむれ地区には当時植えられた「宝暦櫨(ほうれきはぜ)」という大き
な櫨の木が残っている。現在、近くには「侍街道はぜのき館」という櫨蝋はぜろうの資
料館がある。 

1704: 名無しさんAA:18/11/25 15:06
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   735   > 

 ろうそくはかなり高価な物だったが頻繁に使われた。冠婚葬祭や祭りやお祈りに必要
だったからだ。江戸時代の夜の明かりには主おもに行燈あんどんに菜種油なたねあぶら
を燃していましたが、ロウソクは高額な為に主に夜間外出用の提灯や、お城や富裕層、
寺社仏閣のみで使われていました。しかし江戸期では平和になって、早寝せず夜の道具
として必要になった。ハゼの実を砕き蒸して搾しぼると生蝋しょうろうができ、再精製
された白蝋(はくろう)を使ってロウソクが作られました。当時は藩の奨励もあって田
畑や道筋に多くの櫨はぜの木が植えられ、秋の紅葉の時期には筑後平野を赤く染めてい
ました。製造された木蝋もくろうは高価で取引され、柳川藩でも財政を潤すために元禄
16年(1703)には「櫨運上の制」を定め木蝋の製造が促進された。 藩内で早く
から手がけたのは享保2年(1717)創業の瀬高町下庄八幡町の武田蝋屋と言われて
いる。柳河藩の御用商人 となったのは宝暦元年(1756)の頃の武田鹿次郎(寛保
2年1742年生れ)の時代と推測される。善七(安政元年1772年生れ)・平助(
享和2年1802年生れ)・鹿蔵(天保元年1829年生れ)・弟の梅次郎(嘉永元年
1848生れ)、又衛(安政4年1854年生れ)、弟の平太郎(慶応3年1867年
生れ)と製蝋業を継承されている。 製造された生蝋さらに下庄田代の晒業者に委託し
天日に晒し、再精製した上質の白蝋も作られた。これらの櫨蝋はぜろうは柳川藩の統制
下でお蔵の浜(上庄)から帆掛舟ほかけぶねで長崎や大坂などに運ばれ、ロウソクや髪
結いの鬢付(びんつけ)油の原料になった。幕末には大量の櫨蝋を薩摩藩が買い占め、
上海のヨーロッパ人に密貿易して、軍艦輸入や軍備の資金を稼かせぎました。談議所の
港から満潮に乗って長崎港まで運ばれ、ここからシナ辺の海外に輸出され、見返り品と
して、綿花や糸などを輸入したようである。明治期の武田蝋屋は武田平太郎と弟の記一
(明治8年1875年生れ)が木蝋製造を継承し筑後地方では有力な蝋屋となった。明
治34年(1901)に武田蝋屋を本部とする「筑後木蝋同業組合」が創設され久留米
市京町に事務所が、2市6郡には支部が置かれ、販売斡旋・製造研究に努めた。と書か
れる。 櫨の実から搾った木蝋は、燈明とうみょう用として固形のローソクがそれまで
の菜種油なたねあぶらと共に使用されてきた。


1705: 名無しさんAA:18/11/25 15:13
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   736   > 

 薩摩における櫨の木埴栽及び製蝋の起源は種々あるが彌寝家(ねじめけ)の伝承によ
れば、天正年間(1573〜91)頃、大隈半島の南西海岸にある小根占(こねじめ:
南大隅町根占)の領主、彌寝重長(しげなが)が毎年、中国に渡航する商船に托して櫨
苗を取り寄せ所領地に植栽したとある。文禄4年(1595)に薩摩半島の西海岸にあ
る吉利郷(現・日置市吉利)に領地替えされた彌寝家は、元禄(1688〜1703)
頃、彌寝清雄(せいゆう)が家老時代に旧領地の小根占より櫨苗を移植栽培し、「櫨の
強制耕作制度」を設けて薩摩本土の農民に栽培をさせた。この制度は後に農民を苦しめ
る結果となる。元禄(1688〜1704)・宝永(1704〜11)の頃、会津出身
の金山職人が、桜島の櫨の実は製蝋に適していると告げた。製蝋したところ大いに成功
し、薩摩苗の流通とともに、会津出身の金山職人の伝えた蝋絞り技術も伝播していきま
した。しかし、本来、薩摩藩は初めの頃は地場産業として櫨を藩の専売とし、藩外への
流出を厳しく取り締まっていた中の話である。別の資料では「正保2年(1645)異
国船が櫻島に漂着し船修繕の間に、土人に黄櫨の種子を与え小河の地に植えしめ、実を
取り蝋を製することを教へたり。」(草木六部耕種法・佐藤信淵・1832)(鹿児島
県史昭和15年刊)とある。しかしこの説には「桜島には小河なる地名もなく湾口より
遠く桜島まで漂着すること事態に疑問があり漂着したのは小根占村の雄川のことである
と思われる」(根占郷土誌・昭和49年刊)と指摘している、正論と思われ大隈半島の
小根占は櫨の木栽培や精鑞の発祥の地と言えるだろう。別の説では、江戸初期の寛永1
4年(1637)に薩摩の大島代官おおしまだいかんが、中国から琉球持たらされた後
奄美大島にも自生していた櫨苗を持ち帰り指宿いぶすきや山川やまかわに植えて広まっ
たという。薩摩半島の開聞岳の山麓を歩くと、櫨の巨木があちらこちらに見られるが、
その頃のものであるという。琉球櫨の果実は実が大きく別名薩摩の実とも呼ばれ、栽培
された櫨苗は「薩摩苗(さつまなえ)」といって良質であったといわれる。実は推定で
三百年を超える原種は立花櫨として柳川にあった。かつての蒲池氏が居城を建てる前の
話でその頃から大きな櫨の実があったとされている。柳川西の門がそこにあったといい
柳川城の頃は米蔵の前とされた。今の西日本ガス社や、警察寮の部分に5本ほどあった
とされていたのである。代々の口伝では、柳川を守った木とされ、ご神木であったとい
う。しかし今や柳川市民は見向きも伝承もせず 捨て去っている。



1706: 名無しさんAA:18/11/25 15:17
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   737   > 

 そのほかに博多の豪商輸入説がある。豊臣秀吉が天下統一した翌年の天正19年(1
591)に、博多の豪商・貿易商人である嶋井宗室と神屋宗湛(1551〜1635年
)によって精蝋目的で櫨の種子を中国の南方から取り寄せ肥前(佐賀県)の唐津におい
て栽培し、そののちに筑前(福岡県北部)にも広げたといわれている。神屋宗湛は天和
年間(1615〜23)に中国から櫨蝋の製法を伝習し、自ら生産し、福岡藩から専売
権をもらい大阪に出荷して利益を上げていたのが櫨の導入の始まりという。のちの寛永
10年(1633)に鎖国令が発布され博多の貿易港は地位が低下し長崎に移住する商
人が増えている。嶋井、神屋の二人は福岡藩の産業開発に貢献し、鎖国令発令の前後の
年に天寿を全まっとうしている。当初の櫨ろうそくは10匁もんめ(約38g)の大き
さのもので24文もんし、これは職人さんの一日の賃金と同じくらいで、高額でお城や
富裕層、寺社仏閣でしか使われませんでした。のちには蝋ろうから作ったビンツケ油は
、髪結かみゆいに使用されるようになり、次第に木蝋の需要が増し、木蝋製造業や蝋商
人ろうしょうにんが増え続け本格的に盛んになりました。幕末には禁止されていた外国
との密貿易により蝋の利益が莫大な金額となり、各藩は軍艦を購入するなど軍事費にあ
てる程この産業は藩の目玉経済商品だったのだ。事実、島原藩などは、安永4年(17
75)に櫨方役所が設置されて、専売制度を敷き、藩財政の増収策としていた。天明の
大厄害の天明8年(1788)には約170両の益金を生出している。寛政4年(17
92)の「島原大変、肥後迷惑」の雲仙普賢岳の噴火および眉山の崩壊で櫨の木や民家
も倒壊された折、その時の火山灰で埋もれた製蝋所の「ロウ横木式絞り器」が白土湖で
発掘されている。現在、島原城キリシタン史料館に展示されているが、会津資料館所蔵
の蝋絞(ろうしぼり)器と同型である為、会津の蝋絞り技は薩摩から伝播し島原・その
他にも伝わっていたと思考される。寛政8年(1796)には40万斤の木蝋を大坂に
送り1万2千両の収益を出し、翌9年に交かわされた大坂の蔵元油屋彦三郎との覚書で
は、年間5千両から7千両を納金するようになっていた。これらの益金はこの「島原大
変」の災害復興資金に大きな役割を果したといわれる。7千両いまで言えば1両25万
円程度で換算して20億円程度である。この大変な額を毎年産んでいた。



1707: 名無しさんAA:18/11/25 15:18
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   738   > 

 柳川藩(福岡県南部)は、海上交易により櫨の苗も薩摩あるいは島原から移入され元
禄(1688〜1703)の初め頃から櫨を植え生蝋や白蝋の生産をしていたと考えら
れる。精蝋事業が広まった事から元禄16年(1703)に「櫨運上の制」を定めてい
る。柳川藩で早くから木蝋製造を手がけたのは、享保きょうほ2年(1717)に瀬高
町八幡町の武田蝋屋と言われている。また出来た生蝋を瀬高町下庄田代の晒業者により
天日にさらされ加工し白蝋(はくろう:さらし蝋)となり特産物となった(瀬高町誌)
。生蝋や白蝋は柳川藩の統制下で沖ノ端や談義所の浜から帆掛舟ほかけぶねで長崎や大
坂などに運ばれました。製蝋業は後に武田蝋屋に雇われた高田町海津の江崎宗四郎など
によって、益々発展したといわれる。高田町江浦の荒木精鑞の先代の荒木岩太郎や息子
の順治により高田町の山間部で収穫された櫨で蝋を製造していたと推測されている。今
の荒木製蝋の前身だろう。 佐賀藩は天保14年(1843)に筑後から仕入れた苗木
2万5千本を筑後国に隣接した三養基郡や神埼郡などの村々に配布し、生産された佐賀
産の蝋は大阪市場で好評で、早速、藩は大阪の蔵屋敷を通じて売る専売制を敷いた。安
政4年(1857)には外国船来航に備えてオランダの帆船飛雲丸(ひうんまる:木造
外輪蒸気船 150馬力、全長51.8m 船幅9.1m )を銀千貫分(十数億円相当)の蝋で支払
う契約で購入し、翌年にも木造艦電流丸(でんりゅうまる:300トン)を購入してい
る。蝋の需要は増え、この年の櫨の本数は60万本に達した。その4割が植樹間もない
若木だったという。蝋のほかに松浦郡山代炭坑(現:伊万里市)や、高島炭坑(現・長
崎市高島)、杵島郡福母(きしまぐん ふくも)炭坑(杵島郡大町町大字福母)などの
石炭の採掘で、これを輸出して大きな利益も上げ軍事費に当てている。安政6年(18
59)オランダ海軍伝習から伝習生が帰還きかんするや筑後川の支流早津江川の河口、
三重津(みえつ:佐賀市川副町早津江)に海軍学寮と海軍基地「三重津海軍所」が設置
され、慶応元年(1865)には国産初の小型蒸気船凌風丸(りょうふうまる:出力1
0馬力)が建造された。つまり佐賀の軍艦がこの櫨の実の精蝋から支払われている現実
がある。もともとのこの櫨の特産は富安郷や中山行基郷の特産品であった。柳川藩領の
上妻郡北山村国見(現・八女市立花町北山国見)の商人の惣七は天保15年(1844
)11月に甚四郎の船に白蝋37箱(2,775斤)を積み長崎に移出していることが
古文書に見える。その外に弘化2年(1845)正月から5月にかけて、1万1500
斤が移出され、冥加銀(租税)287匁もんめ5分を納めている。


1708: 名無しさんAA:18/11/25 15:22
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   739   > 

 長崎からは薩摩の砂糖を同村の佐兵衛と共同で1,750斤を移入し代金78両6合
を支払っている。この頃の古文書では、蝋・茣蓙(ござ)・茶・和紙を移出し、砂糖(
薩摩産)・魚の干物を移入している。嘉永3(1850)頃の、古文書から江浦町(高
田町)の荒木岩次郎が櫨蝋を生産していた。荒木製蝋で製造された「白蝋」を、江浦の
廻船問屋・角屋(大坪)儀兵衛が買い付け、長崎の山口屋駒之助に出荷していた。高田
町江浦の大坪家には、安政2(1855)年から明治11(1878)年までの「売仕
切覚」などで、江浦の角屋(大坪)儀兵衛が白蝋24箱(正味2019斤・122kg
)を長崎油屋町の山口屋駒之助へ、矢部川河口域の徳永河港から移出し、その代金27
0両を、山口屋が角屋に支払ったという記録が残る。福岡藩での本格的な櫨栽培は、お
そらく少し遅れてのことであろう。嶋井宗室と神屋宗湛が唐津で始めたとされるが、今
唐津にそうした和蝋の伝説はあまり残っていない。しかし、享保15年(1730)に
筑前の那珂郡山田村(現・筑紫郡那珂川町大字山田)の庄屋の高橋善蔵(たかはしぜん
ぞう:1708〜1761)に始まるとされる。善蔵は櫨栽培の薩摩や肥前を訪れ栽培
法を視察し、にぎり飯の中に櫨の実を入れて持ち帰り栽培し研究したという話が受け継
がれる。享保17年(1732)の飢饉で総人口の3割を失ない、福岡藩は農村復興・
荒地復旧に櫨栽培を奨励し、元文5年(1740)頃より郡奉行管轄下の使役で荒地に
櫨を栽培させ、その地を10年間無税とした。高橋善蔵の山田村は模範栽培の見学地と
して藩から指定され、来訪者の質問に応ずるため延享4年(1747)、39才の時に
櫨栽培の手引書『櫨植遺言書』別名『窮民夜光の珠きゅうみんやこうのたま』を書き、
藩の実植奉行の命で郡役所で写して40人の大庄屋に配布し、さらにここで必要部数を
写し庄屋に配布されやっと栽培法が普及したぐらいだ。宝暦元年(1751年)に藩は
、上座郡内現・朝倉市の櫨畑に櫨樹を植えさせて栽培普及にあたった。寛政8年(17
96)には櫨実木蝋奉行を置いて博多、植木、甘木に蝋座(藩営専売所)を設置した。
文政9年(1826)には博多・植木・甘木・黒崎・芦屋などに生蝋会所を設置し、会
所に生蝋を集め、大坂に送って売り捌さばきました。こうした契約をしたのが物産会所
であった。今の柳川辻町の角であり、関屋かまぼこの裏手にあったと言う。後に菊水と
言う小料理屋や簡易旅館が並べて建てられた。しかし高椋銀行の所有であった為に、あ
る時期から無くなった。とされる。そもそも柳川小学校はそうした物産の為の保管倉庫
の場所だったのである。

1709: 名無しさんAA:18/11/25 15:23
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   740   > 

 こうして福岡藩で蝋生産がされる頃になって、久留米藩(福岡県南部)でも享保15
年(1730)に竹野郡亀王村現・田主丸町大字秋成の庄屋・竹下武兵衛周直(たけした
ぶへいしゅうちょく:1704ころ〜1781)が初めて櫨の木を植え始め熱心に取り
組んだとしている。寛保2年(1742)には丹波屋・鞍打の甚四郎・国分村の九郎兵
衛の3名が城下辺りの西久留米村鞍打現・久留米市西町や国分村現・久留米市国分町な
どに櫨を植付した。寛延2年(1749)に藩の家老有馬主膳は山守鑓水九左衛門を、
薩摩に派遣して唐櫨苗1万本を購入して、生葉郡山北村大野原現・浮羽郡三春に植え付
けている(石原家記)。この頃から久留米藩は「櫨方(はぜかた)」をおき、空地や荒
地に櫨栽培を奨励し、のちには藩は川堤や官道かんどうの縁にも植え付け、手入れや収
穫は農民にゆだねて3年ごとに検査し、収穫の3分の1の櫨実代銀を上納させている。
櫨の植付に取組んだ竹下武兵衛は20年にわたる体験によって、寛延3年(1750)
に櫨栽培の技術書「農人錦の嚢(のうみんにしきのふくろ)」を世に出し「櫨の実は袋
の中から金貨をとりだすようにたやすく富を手に入れることができる。」と櫨栽培が多
大なる利益をもたらすと増殖を奨励し、実の良し悪しと種実の選び方、よい苗木の見分
け方、接つぎ木や栽培方法を指導した。武兵衛は宝暦2年(1752)に久留米藩から
検分方下役という士分役をもらい、同4年(1754)、宝暦一揆の責任を負って辞め
された田主丸の石井氏にかわって大庄屋職についている。こうして田主丸から伝わった
櫨栽培の技術が久留米藩内に浸透した。宝暦年間には耳納山麓の松山(現・森部地域)
において櫨の自然変異の一品種を発見し「松山櫨(まつやまはぜ)」と名付けている。
この「松山櫨」は、当時の農学者大蔵永常による大著「農家益」の中で「七種の銘柄め
いがらのうち最上である」と賞される程の逸品で、筑後一円に広く普及ふきゅうした。
竹下武兵衛の郷里に近い農村地帯の吉井町は櫨蝋の製造者や蝋商人も生れて筑後木蝋は
日本で生産高、品質ともに第一位となって櫨の国であった筑後の名声を担った。蝋屋の
益金が金融市場に流れて「吉井銀」を生みだし、繁盛し白壁の土蔵商家の町並みが生れ
たともいう。明治の中頃でも15軒が蝋屋を営み、職人が竹にさした芯に手で蝋を塗り
付ける「蝋燭かけ」の風景があちらこちらで見られたという。耳納連山から北流する川
の曽根にはどこもかしこも植栽され、櫨並木は耳納北麓の景観を彩っていたが、現在は
櫨に生産上の利益がなくなり伐採されて、延寿寺曽根の櫨並木がかろうじて残っている


1710: 名無しさんAA:18/11/25 15:29
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   741   > 

 宿場町であった吉井町の白壁の商家がこうした蝋の利益で出来ていたのである。元禄
(1688〜1704)・宝永(1704〜11)の頃、会津あいず出身の金山職人が
、会津の漆の実から蝋を絞る方法からみて、桜島の櫨の実は精蝋に適していると告げた
。試みに精蝋したところ大いに成功した。のちに薩摩の櫨苗は九州はもとより中国・四
国地方へと伝播されているが、薩摩苗の流通とともに、会津出身の金山職人の伝えた蝋
絞技術も伝播していった。寛政4年(1792)に使用していた会津の蝋絞器と同じ胴
が島原で発掘されてている。しかし薩摩藩は初めの頃は地場産業としての希少価値を守
ろうと櫨を藩の専売とし、重要な産品として藩外に流出することを厳きびしく取り締し
まっていた。福岡藩、博多大浜町の北国某(なにがし)という者が薩摩に行ったとき、
櫨蝋の利益あるのを見て櫨の実を持ち帰えようとしたが、薩摩藩では藩外に出すことを
禁じていた為に、思いをめぐらし弁当箱の底に櫨の実を入れ、その上に飯を盛って持ち
帰り、その種子を蒔まき育てたとも言われる(朝倉町史)。しかし、時代が進むに連れ、
櫨の有益性が他藩にも知られ、薩摩と海上交易が盛んであった肥後・島原・筑後・筑前
などに櫨の種や苗が密ひそかに移入され、櫨栽培が広まったとされている。島原藩(長
崎県南東部)での櫨栽培が始まった時期は『長崎県の歴史』では島原の乱の後の慶安4
年(1651)、藩主に移封された高力忠房の時代から櫨栽培が始まったという。万治
3年(1660)頃には他藩に先駆けて櫨の栽培を奨励したという。宝永6年(170
9)に島原村では櫨苗1反8畝12歩(約60m四方)を営んでいた。藩は全体で精蝋
事業で2万1864斤余(13トン)の生産をあげている(被仰出書)。延享元年(1
744)に領内に5万本を植え、のちには、さらに5万本を増殖している(深溝世紀)
 柳川藩は維新前に薩摩藩からの蝋やお茶の特需にわいた。立花町地域の蝋を扱う商人
は地元だけでは需要に応じきれず、久留米藩内の蝋も仕入れ小舟に乗せて矢部川を下り
、瀬高の浜から河口に近い鷹尾・泰仙寺・島堀切などの海運業者に委だねて長崎に運ん
でいる。出荷が急がれる時には、臨時の保管庫として瀬高の酒蔵を使用している。(大
和町史)この商いに携わったのは上妻郡北山村国見や光友村兼松(立花町)の商人と思
われる。上妻郡光友村の兼松(八女市立花町)は久留米から肥後(熊本)へ抜ける脇街
道の宿場町でした。宿場の柳川藩の御用商人「松屋」(まつや:松延氏)や「芥屋」(
あくたや)は矢部川山間部の産物の木蝋・お茶・紙を長崎のルートを通じて大坂、京都
などに販売していた豪商だった。

1711: 名無しさんAA:18/11/27 16:40
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   742   > 

 大正6年に編纂された「稿本こうほん八女郡史」によると代々商いを営む「芥屋」の
店主の高橋治平の息子善助は17歳にて海外貿易を志したが父の反対にあい、知人から
若干の資金を得て下関 にて地元の木蝋(もくろう)・お茶・百田紙(ももだがみ)な
ど販売して利益をあげる。遂に父に認められ資本を貸してもらい大阪・長崎・鹿児島・
四国の豪商と商いを行い芥屋は益々繁盛した。さらに英仏に開港されていた琉球に秘か
に出向き海外貿易を試さんと活動している。しかし高橋善助は慶応3年(1867)に
46才で病に倒れ亡くなり芥屋も廃業となっている。向え側の商家「松屋」の松延まつ
のぶ家は文政5年(1822)には商いをしており、柳川藩の山間部の特産品である百
田紙(ももたがみ)・茶・櫨などを買集め、瀬高や柳川あるいは長崎の商人に納めてい
ました。国 の重要文化財(建物)に指定されて、当時の商家の面影を残しています。
立花町兼松の国指定重要文化・松延家は、藩はこの特需に対応するため統制をきびしく
して特定業者のみに蝋の取扱いをさせた。榎津(大川市)の大庄屋・吉原家はこれに反
して蝋の販売をした為に藩から厳重な取調べを受けている。柳川市保加町の武松豊氏の
所蔵の文久四年(1864)の武松家「大福日記帳」(武松文書)などの資料からは、
幕末(文久・元治・慶応年間)莫大ばくだいな量の蝋ろうとお茶が貿易品となり長崎の
貿易商・松尾屋伊助に送られていたことがわかる。武松家の長崎の取引は殆んど松尾屋
伊助であり柳川藩から出向いた御用商人で物産の仕入れや薩摩藩などへの売込商人と思
われる。また武松虎吉が、父甚吉に宛てた手紙には蝋を長崎の「グラバー商会」に売込
み高値で売れて、3千両を送った内容がある。外国商人と密貿易(みつぼうえき)まで
して、死を賭けて藩の財政貢献のために働いている事が見える。みやま市高田町江浦で
蝋屋「角屋」を営んでいた大坪富美雄氏所蔵の安政2年(1855)から明治11年(
1878)の「角屋」の角屋儀平・儀平衛(大坪氏)の33通の長崎方面の交易の文書
には生蝋7〜15叺(かます)高砂屋吉平衛へ、白蝋22〜80箱が定期的に長崎の売
込商人である武若屋太七(鍛冶屋町)・山口屋駒之助(油屋町)・福島屋太郎左衛門(
本篭町(もとかごまち:辻町付近)松尾屋伊平(恵美須町)に送られている。移入した
ものには干物の魚類や黒砂糖である。薩摩から長崎に移入された砂糖が各地に売られた
と思われる。柳川と長崎の交易。



1712: 名無しさんAA:18/11/27 16:41
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   743   > 

 安政6年(1859)以来、藩主から藩政改革の全権一任を受けた家老の立花壱岐は
借金の藩財政の建直しに取組み、準備金の無い藩札(空札)を御用商人に買付金として
発行し、御用商人は特定集荷人から藩札で蝋を買い集め、船で長崎の売込商人に納め、
受取った金貨(幕府通貨)は藩の銀会所に上納された。藩札は金貨に変じる循環を繰返
し、しかもインフレのために藩札の発行と金貨の流入は鰻登りに増加して財政が潤い黒
字財政に転じている。家老の立花壱岐は藩の約30万両の借金を改善し2年間で14万
両を蓄そなえた。また輸送艦船「千別丸」を購入している。慶応4年(1868)の戊
辰戦争の越後戦線では兵員輸送と上陸展開の速報連絡役を務めている。立花壱岐は殖産
振興にも力を注ぎ、万延元年(1860)に彼が開発した櫨の新品種は、「壱岐穂いき
ほ」と名付けられ、接木で増殖された苗は藩内で植えられ、農民たちから「生神様いき
がみさま」、「有難い壱岐様」などと慕われた。熊本藩にも「壱岐穂」が広まっている
。肥後布田現・熊本県阿蘇郡西原村布田の横井小楠の弟子・竹崎律次郎は、同じ門弟の
筑後柳川藩の池辺という人から、同藩の立花壱岐が仕立つる櫨のよい事を聞ました。そ
の櫨は壱岐穂と称えて盛に接木されたものです。立花壱岐と横井小楠とは関係が深く、
福井藩の松平春嶽公から招かれる際にも仲介している。招かれた横井小楠は福井藩の改
革とか、幕政改革などに大きな功績を残している。その縁で紹介され、息子の新次郎に
その壱岐穂を貰いに柳川に旅出させ「穂を日にあててはいけぬ、夜道を帰れ」と言いつ
けました。布田ふたから柳川への二十里を旅して貰もらい受けた櫨の苗は植樹され増え
続けられ、現在の布田の山上に残っている櫨の木はそれらの名残りといわれる。久留米
藩は元治元年(1864)1月には、英国から蒸気艦船「雄飛丸」を購入して洋式海軍
を創設、翌年に米国から木造帆船玄鳥丸を購入、英国からは木造蒸気船晨風丸(100
馬力)・木造帆船翔風丸・遼鶴丸・蒸気艦船神雀丸(8馬力)の3隻を購入して兵式も
西洋方式とし、幕府、薩摩藩、佐賀藩に並ぶ強力な海軍力をつくり上げたとされる。久
留米藩の木蝋の生産高は寛政9年(1797)には3千丸程度であったが、幕末の慶応
3年(1876)には4倍の11千丸を生産し全国でも主要な木蝋の生産地となりまし
た。明治3年(1880)の見込高では19千丸と記されている。櫨栽培の進展に伴い
、製蝋業者も増大し、専門的に独立して板場(はんば)班が(製蝋場)を経営する者、
他の商品も扱う大商人で板場(はんば)を経営する者、副業として板場を経営する農民
などが、成長した。特に問屋(とんや)は、小生産者に資金を前貸(まえかし)をして
櫨の実や蝋を独占し、独占的な生産と販売により巨利(きょり)を得たと言われる。

1713: 名無しさんAA:18/11/27 16:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   744   > 

 明治36年(1903)に、大阪の天王寺会場を中心に開催された「第五回内国勧業
博覧会」に出品した福岡県の各市町村の櫨実・生蝋・白蝋の業者数の統計図を見ると、
福岡県筑前地方は筑後に隣接した朝倉町3、甘木市6など全部で30の業者にすぎない
が、筑後地方では小郡市13、久留米市11、太刀洗町6、甘木町6、田主丸町5、吉
井町16、杷木町(はきまち)4、浮羽町2、黒木町3、広川町25、八女市17、瀬
高町6、山川町7、高田町6、三橋町12、と139の業者が出品している事から、当
時の櫨蝋に係った業者の分布がおおまか理解できる。伝承された記録の通り、小郡市の
生蝋生産者が多く、吉井町の白蝋生産者が多い。山間部に近く耕作面積の広い広川町や
八女市は生蝋生産者が多いのが目立つ。三橋町は白蝋生産業者が占め日本一の粗製白蝋
の生産を記録している。大正期(1879〜1926)には石油合成品であるパラフィ
ン、西洋ローソク、安価な輸入蝋に押され、石油ランプや電灯の普及によって次第に衰
退し、生蝋の生産量は明治32年と比較すると半分以下に下がっている。博多の商人は
蝋から将来の花形商品である石炭の取扱商人と変っていった。第二次世界大戦(193
9〜1945)の物資不足で生蝋の生産は一時増え価格も暴騰したが、戦時中の食料増
産や終戦後の農地解放により、戦前までは1,339町歩あった櫨の作付面積は櫨の木
は伐採されていった。ここでほとんどの貸り木の製蝋屋はその権利を失い、又小作農令
で伝来の農業土地も失っている。弁護士の資格を持つ由布氏や三池氏の元には、多くの
家老や男爵の家系の子孫がその訴えを裁判所に出しているが、証拠資料となる大牟田が
空襲で焼失している事から裁判に負けて、多くの不埒者が暴れて留置された。留置場の
辻町門牢の跡地は今図書館になっている。図書館の前には、もう一つの特産品となった
煙草の葉が集められた。今では開きと言われる干拓地は、米が獲れ海苔生産が主要だが
当時は塩害で米が獲れず、海苔も竹による栽培で2回ほどしかなく初摘みを秋芽(あき
め)といい年明けの春を春芽(しゅんめ)とされた。年明けの海苔摘みは2番海苔とさ
れ、のち葉竹の撤去で、後は八女の山に登って茶摘みを行うのが習わしだった。つまり
八女の人と海の人は一緒になって、冬は海苔を摘み夏はお茶を摘み、途中は農家で田植
えと稲刈りをして集団で移動する今の人材派遣の様な労働者だったのである。こうして
筑後地方の地場産業として栄えたハゼ蝋(櫨蝋)生産は、昭和30年(1955)頃から
安価な石油製品に押され、さらに時を同じく進められた日本の貿易自由化政策によりミ
ツロウ(蜂の巣)など海外産天然ワックスの流入もハゼ蝋(櫨蝋)産業を圧迫し廃れた。

1714: 名無しさんAA:18/11/27 16:43
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   745   > 
 木蝋の最盛期は幕末から明治時代であったが、明治の初め頃の輸出用木蝋(白蝋)は
主として貿易商社によって取り扱われ、日本特産の「ジャパン・ワックス(Japan Wax
)」として輸出され外貨獲得上かせぎの商品であった。明治6年では生糸きいと(72
0万円)・茶(470万円)・蚕卵紙さんらんし(306万円)・石炭(64万円)・
銅(61万円)・昆布(53万円)・米(53万円)・木蝋(42万円)で木蝋は第8
位であった。明治10年頃は三井物産・三菱商事・浅野物産などの商社が輸出していま
した。明治6年(1873)の蝋価格の大暴落で櫨の木が伐採され久留米県・三池県・
柳川県が合併した三潴県は伐採禁止令を出したが効果はなかった。明治34年(190
1)に瀬高町下庄の武田蝋屋に筑後木蝋同業組合の本部が創設され久留米市京町に事務
所が、2市6郡には支部が置かれ、販売斡旋・ 製造研究に努めた。経営改善と合理化
のため、人力による蝋の搾取に蒸気力利用の機械搾りが取入られ零細業者から大工場に
集約されて行った。明治35年(1902)以後も、櫨裁培、木蝋生産が減少した。以
前は百斤きんにつき15〜16円であったものが、その後、時には40円前後まで高騰
したが、明治44年(1911)には9円に下落している。原因は中国産生蝋の輸入が
激増したのによる。近年は昭和62年の木蝋の生産量は全国で 169 tonで、福岡県 111
ton、佐賀県 24ton、愛媛県 20ton、長崎県 12ton、大分県 1ton、鹿児島県 1 tonであ
る。製蝋業者数は全国で12軒で福岡県6軒、長崎県2軒、愛媛県2軒、佐賀県1軒、
鹿児島県1軒であった。最盛期の明治時代には年間1万3千トン以上も作られていまし
た。平成2年の櫨の実の収穫量は福岡県150ton熊本県150ton長崎県120ton愛媛県100ton
佐賀県90ton鹿児島県32ton宮崎県30ton大分県20tonなどで全国692tonとされる。この頃
まで橋本氏(外立花氏)は地主や神主として水田神社の神領は支配していたと思われる
。再び天日晒された粗製白蝋は製蝋工場に集荷され精製され角型の型に流しマーク入り
のきれいな白蝋に製品化され、神戸・大阪の輸出業者によってアメリカや西欧に送りだ
された。大正時代に木蝋産業は急速に衰退したが昭和10年には町の予算が14万57
17円だったのに対し、生産額はその3倍近い43万2200円。昭和20年代に日本
一の生産量を誇った。白蝋は蝋燭の他鬢付け油や化粧品(ポマード、口紅、クリーム)
文房具(鉛筆の芯、クレヨン、朱肉、カーボン紙)繊維用(ノリ剤、仕上げ用蝋染、光
沢剤)家具類の艶付、医療、石鹸原料、飛行機塗料、靴墨原料として用いられてきた。
当時百町島町の目野賢氏は、蝋に苛性ソーダと水を加えて柔らかい石鹸を製造され晒専
門の業者が多かった。旧三橋町役場の東にあった橋本蝋屋は武田氏と共に江戸期以前か
らの、地場の生蝋の生産業者であった。現在はすべての業者が廃業している。

1715: 名無しさんAA:18/11/27 16:44
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   746   > 

 瀬高地方では湿地のことをドブ・ガタ・ジュツタンボなどと呼びますが、地名として
のフケ呼び名もその一つです。高柳にある不毛・福久・深田の水田はフケに宛てた漢字
の湿地帯の開拓水田の意です。と説明される。ところが実は違っていて「ふけ」とは、
江戸期に「普化宗」となった吹け衆徒のことである。吹け衆とは、実は平安以前からの
陰陽道の祭り宗徒であり、言わば尺八など竹細工の名人の一団の事である。彼らは代々
柳を植え竹を植えそして農地を築いて来た。実はつい最近まではそうしたクリークの淵
に柳の木があり、御幣竹が植栽されていた風景は普通の事であった。9月9日の長幼の
節句では、牡丹餅を奉げ、子供に梵綱と言う相撲や縄引きと言う綱引きが行われていた
ようだ。恐らくは古い鷹尾神社の宮司を司り高柳には宮司町、聖町、大工町などが瀬高
清水の門前町として栄えていたようだ。浜田は字のごとく浜を開拓し田にして土地を得
た所で、浜田城は鷹尾城の支城として、江の浦、津留、堀切、と共に永禄えいろく年間
(1558〜1570)に築城され、鷹尾の本城と共に鷹尾五城と称しょうした。浜田
城は浜田南の天満宮から西に50m行った左側にあり、東西19m、南北39m平地よ
り3m高く周りに小堀がある。現在は浜田の城址に内藤さん宅の2軒がある。堀に沿っ
た道の北側の土地は侍屋敷さむらいやしき呼ばれ、当時の家臣たちの住いがあったとい
われる。実は聖川(ひじりかわ)と矢部川の交差点で行基橋のある本郷は、その陰陽道
の後継普化衆徒の聖地であったようだ。その後保化町に移された僧侶は柳川小学校から
沖の端までにいた。つまり保化町は本来普化町だったがいつの間にか藩政に侵されない
事から「ほかまち」と称されたようだ。対岸の上町には普化宗の駆け込み寺があった。
とされ、不義密通や離縁の寺としていた。又英彦山からの、ほら貝を拭いて布施を貰っ
て旅行く修験道の山法師(やんぼっさん)は必ず立ち寄り上町一泊する場所だったと言
われる。実はこの上町も元は神町だったのではないかと推測される。不思議な事だが大
分の別府は、平安末期に山門郡鷹尾郷の干拓が進み、鷹尾神社が税を取りここに通行証
の別符(べっぷ)を発行してそれを代々行っていた別府氏が、大友氏傘下となって貰っ
た領地が別府なのである。上町が英彦山傘下の宿場町だったならおかしくはない。かつ
て飛鳥時代から板橋氏は中山つたいから五拾町には橋があって、本郷を久末と称してい
たらしいほど古く今の様な、大きな矢部川や沖の端川が明確に無かったという。その当
時は江曲が柳川の名前だったらしい。当時門番だったのが壇氏や板橋氏の起こりと言わ
れる。

1716: 名無しさんAA:18/11/27 16:47
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   747   > 

 柳川の常盤町は、鷹匠なる技術者達(武士)が殿の鷹狩の側近として仕えていた屋敷
のあった町で鷹匠町と言われていた。旧柳川藩の「諸絵図箱」には宝暦9年(1759
)年に描かれた、鷹狩りをやる場所の瀬高町、本郷・上長田・上坂田・有富・大江・下
小川の各村の鳥のねぐら・巣のある藪を示す御塒付絵図が残されている。鷹匠小路は明
治6年に鷹匠町となり後に常盤町に合併している。名残りとして西鉄矢壁駅前の橋は、
鷹匠や殿様が鷹を放した所の橋として御鷹匠橋(おたかんばし)と言われる。この堤防
筋に三柱神社となった高畑天満宮社や御嶽神社が並びその先に日の出橋がある。正式に
は井出の橋らしい。がこの通りに江月院があった。下総国(現・千葉県の一部)小倉の
一月寺に属していた。普化(ふけ)宗 金先(こんせん)派。九州筋同派の蝕頭であっ
た。元来は三池郡大間村(現・大牟田市三池の一部)にあり、初めは却月院と号する。
天和3年(1683)に藩主鑑虎(あきとら)の命令で、城下の脇道町(現・上町)に
移り江月院と改めた。大牟田市三池の却月院跡には小堂と地蔵堂があり残された石塔や
地蔵像が残されて祀られている。寛政2年の絵図によれば、沖端川に面する松並木の土
手下の脇道町通りから南に道が延び、その左手に観音堂があり、突き当りに四方を堀で
めぐららされた江月院がある。本尊は観世音菩薩で行基の作であったという。中興開山
は無限和尚とする。宝暦年中より御蔵米30俵を拝領する。旧藩時代では威勢甚だ強盛
なりとされた。江月院は治外法権を認められた寺で、罪人も寺の門に入れば捕えること
は叶わず、定められた期間仏道の修行をすると罪は消え許された。ただし殺人犯だけは
敵討ちの出願をすれば、寺入り後も断われなかったという。藩の家老や目付役などが、
民情視察の為に尺八を奏で虚無僧(こむそう)の姿の普化宗僧に化けて監視していた事
が知られている。寺の宗制は厳格で主君に罪を犯した者は容赦なく院内で処罰をしてい
たという。普化宗(ふけしゅう)は明治4年(1871)に明治政府により禁宗となり
江月院は3年後に廃寺となり空き地となった。ただし江月院の北隣にあった江月院の旧
地の横に観音堂を建て、元・沖端川岸にあった観音堂の観世音菩薩を移し、堂の前には
「金先派 江月院跡」と刻んだ石碑を建てた。本当の江月院跡は南側の堀割で囲まれて
いる草むらである。昭和35年(1960)に江月院跡の周囲の掘割が埋まっていたの
をきれいに堀り上げ橋をかけ、江月院顕彰祭(献笛祭)が、日本一の尺八の師匠の神如
道大先生をはじめ、福岡の一月寺や熊本。延岡・長崎など九州各県の、もとの普化宗末
寺のたくさんの尺八の同僧に参詣してもらい盛大な尺八供養を挙行している、翌年まで
献笛祭が柳川小学校講堂で行われたようだ。

1717: 名無しさんAA:18/11/27 16:48
 明治以降のその後も佐賀方面から尺八修行の為に、深編笠の虚無僧姿で江月院跡を訪
れ碑前で尺八を吹奏した後、托鉢に各家庭をまわっていたが、今は殆んど見当たらない
。昔は「虚無僧を無下に断ると、逆笛さかふえを吹かれて家が絶える」と恐れられたと
いわれる。虚無僧は布施を受けると、その多少にかかわらず御礼として、更に一曲吹い
て立去ったものである。廃寺後の江月院の秘仏や大般若経は鍛冶屋町の天叟寺に移され
、その後、大般若経は報恩寺に保存さてたと言う。観音堂には昭和30年に江月院南側
の掘割から出土した中国明代の香炉が奉納された。本通りから東の横丁を別当町と呼び
、東へ入る入り口左側二軒目に、もと別当池末氏の子孫の家が在る。町名は別当の家の
ある町を意味する。先祖は池末右馬允宗可(うまのじょうむねよし)で蒲池家の支族で
あった。蒲池氏が滅びた後、浪人となり、町家に住む。立花宗茂公が再城の後、坂巻・
冨安と共に町別当を勤め、帯刀を許されている。行止まりに観音寺あり、これより鷹匠
小路に続く。鷹匠小路とは町人以外の武士や足軽・扶持人たちが住んでいたところです
。西の横丁は蟹町です。町内には稲荷社大神宮社がある。明治6年に脇通町(わくどま
ち:松並木土手下)と別当町(べっとうまち:上町東入横町)を合併して上町とした。
明治17年、74戸・426人。昭和60年、60世帯、233人。明治から100年
の間で人口が半減している。舟運時代は蟹町・魚屋町・八百屋町の筋が主要街であった
が、乗合馬車〜軌道時代に入ると上町通りが栄え、西鉄電車時代になると、京町通りに
移り、昭和後期からは電車駅付近が繁華街となった。しかし旧き川には水多きの喩たと
えで、出橋辻町通り・京町通りには伝統や風格が保持されていたとしている。辻門と井
出橋門(出橋)の中間が、中町と呼ばれた。東側には鳥居が建てられ、参道の先に霊應
山天王院音楽寺があった。柳河明証図会には「音楽寺のうらの流れを柳川と言ふと言え
ども、證あかしとすべき事なし 古来柳川村といふは東は明王院の角より南は水門まで
を境とし 西南は鍛冶屋町、西北は土居町禅門堀(現・糀屋町と筑紫町の境の堀)を境
とす」とある。この水路の名称が「やながわ」という地名の起源とも言われがあったが
、その証拠はないという話である。古来、柳川村は明王院隅(宮地嶽神社付近)から、
城下町をほぼ東西に流れる水路は城下町以前に遡さかのぼる古くからの流れであった。
音楽寺は明治の神仏分離令により、廃寺となり、同所に祭られていた祇園社が残され、
現在の中町八剣神社となっている。この町に西の筑後川の湿地「紅粉屋開」(大川市大
字紅粉屋)を干拓するなど財力をもった豪商「紅粉屋」があった。紅粉屋七郎左衛門は
柳河藩貨幣方だった。外町には宿駅の馬立場があったが旅籠がまったくなく、中町には
旅宿が多かった。出の橋番所の門限の事情で、旅人は城郭内に泊まる必要が生じる場合
が多かったからである。

1718: 名無しさんAA:18/11/27 16:52
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   749  > 

この旅館の並びにには遊郭はなかった。ここが守りの要として出入り口だったからだ。
この出橋横には、代官などが宿泊した「松屋旅館」があった。今や九州歴史資料館に古
文書まである。また祇園社の北を流れる柳川の川添には3階の部屋がある料亭「宰府屋
ざいふや」(創業不明)が営業していた。江戸の頃の柳川は筑後地区の中心都市であり
お接待が多くて太宰府から腕の良い料理人をたびたび招いていたが余りに回数が多いの
で柳川に住み込んだという。現在、椿町の宰府屋旅館が営業している。明治17年45
戸・227人。昭和60年、47世帯・164人。の資料がある。この堤防沿いには、
西覚寺がある。寛永8年(1632)石崎円誓が開祖したとされる。円誓は材木町の明
善寺の住職であったが、本山より別の寺号を頂き、田中吉政の老臣、石崎若狭の下屋敷
を寄付し西覚寺を開山した。石崎若狭とは親族の間柄である。西覚寺の山号の石崎山は
この石崎若狭守にちなんだものとのこと。この所在地を西覚寺小路と称した。その堤防
には日の出橋までにもう一つの寺院があった。本院は三宝院の直末としてあった。開祖
は豊後鵜木領主の斉藤播磨鎮実の子孫の斉藤内記である。大友氏が没落後に浪人となっ
た為、宗茂公の柳川御再城を聞いて仕官を希望したが希望者は多く、願い叶わず蒲船津
に住んだという。後に諦めて剃髪して、文殊院休実法印と号した。元和9年に鋤崎の地
、1反を賜り1院を建立する。寛永14年に休実は息子の実内と忠茂公に従い、島原の
役の出陣し、十時三弥組に加わり陣屋祈祷加持役を勤め、以後も続けた。藩主の陣具、
陣袈裟は代々当院より献上していた。息子の実内は蓮華院と称した。寺院は鳳来寺の跡
にあったが、宝永年間に金剛院の転退につき、稲荷社兼帯にて同所に引移る。享保7年
2月20日に鷹匠小路の天満宮社地の2町を賜り移転する。6代目の蓮華院はこの一派
の蝕頭を勤めた。享保18年の大火で本尊の大日堂が類焼し、小道具小路に移る。院地
は6畝。白米40俵を拝領し、後に32俵となる。本院の本尊の大日像は明暦3年に、
忠茂公の夫人の法雲院殿の守仏であり仙台伊達家の家宝仏を忠茂公の子孫の疱瘡(ほう
そう)安全祈祷として当院に預け1宇を建立された。寺内には天満宮・庚申堂・弁天堂
・稲荷社があったが維新後に廃寺となり今はない。この普化州においては、かなりの力
があって、九州の普化宗の総本山とされ御座主や顕主僧がいた。とされる。したがって
かなりの財力があったらしく、かの昔は大牟田に臥龍梅で有名な二月堂にいた。その頃
まだ宗茂公は健在で柳川を治めていたので弟忠茂公は三池を治めていたのである。その
頃まで唐人町はこの普化宗徒が貿易を行っていた。この好況ぶりから柳川に移させた。


1719: 名無しさんAA:18/11/29 09:36
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   750  > 

 牛嶋三郎左衛門公俊には、船津鑪水(たたらみず)の辺り、教員住宅の上に墓石が一
基ある。墓石に「梵字 忠浄々仙七分金得所・牛嶋三郎左衛門橘公俊(彦五郎三郎左衛
門)元亀2年辛未(かのとひつじ)八月時正敬白」とある。また中川内区に同氏の墓石
とおもわるるのが一基ある。「南無阿弥陀仏釈浄雲(じょううん)、天正元年十月五日
硲川討死(うちじに)」とあり氏名がない。この事について『肥後国誌』には左のとお
り記してある。天正元年(1573)十月五日小代(しょうだい)と三名字と領地を争い遂
に武力によって事を決せんと、互に、日を定めて玉名郡の内、硲川(玉名市玉名町迫間
:ならん)にて三名字の大将三人の中、牛嶋三郎左衛門公俊、田尻上野惟家討死す。右
二箇所の墓碑には、たたらみずのには牛嶋三郎左衛門と氏名があり、場所及び戦死年月
日がないので何れが正しいか疑問として河内小学校勤務中、同僚徳永訓導と研究してい
たが、考証を肥後文教所平野芳洲(ホウシュウ)氏並びに後藤是山氏に依頼したら、た
たらみずの墓は逆修(シュウ)碑であることが分かった。牛嶋下野守(しもつけのかみ
)橘藤七郎公綱の葛山区に阿弥陀堂がある。区民の人達が古い御堂を修復して保存して
おり、中に木像の阿弥陀仏が安置してある。傍らに牛嶋氏一統の墓がある。その中の一
つの墓石の、「表には」、雲生院浄楼大居士、天正十五年十二月七日(1587)と記し、
裏には、牛嶋下野守(しもつけのかみ)橘公秀の次男藤七郎公綱は人皇第百八代後陽成
(ごようぜい)院の御宇、関白秀吉公の、命により、佐佐陸奥守殿の与力たり。天正十
五年(1587)当国に、下着し、玉名郡田中城に於て、朧月七日合戦のみぎりに、「和仁
勘解由親実(ワニカゲユチカザネ)」の臣松尾日向と組み、岩壁より落ち相共に戦死せ
り、「維時」、享保十九年(1734)、「甲寅年(きのえとらどし)」九月七日人皇第百
十六代の、「孝孫(コウソン)」牛嶋衛門公續(キミツグ)謹銘とある。又、潮見城 
武雄市 角川日本地名大辞典、一部武雄市史より武雄市橘町永島《字》アザ潮見にあっ
た城伝では、武雄盆地の南端で西から東に突き出た潮見山(151.7m)の頂上に築かれた
山城。「北肥(ホクヒ)戦誌」巻16に「塩見城主渋江家の祖先を如何にと尋ぬるに橘次
公業といふ。鎌倉頼経将軍の近習にありて薩摩守に受領す。此の公業が時、「嘉禎(カ
テイ)三年丁酉(1237)、初めて予州より肥前に来たり、長島荘に移りて塩見山に城郭
を構へて居住しけり。」と、築城の年代について記している。従って、公業は潮見初代
城主であったと言える。長島荘とは武雄や、伊万里の事だ。


1720: 名無しさんAA:18/11/29 09:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   751  > 

 橘次公業(たちばな つぐきみひら)といふは南北朝期には足利氏に属し菊池氏と戦
った。「永和2年」(1376)には今川了俊入道に攻められ落城し、城主は7代渋江公治
(キミハル)。また応永11年(1404)には九州探題の渋川満頼(ミツヨリ)に攻められ
て降伏した。8代公親(キミチカ)から11代公代(キミシロ)にかけて、「支族」牛島
氏との争いもあった。渋江公代については、その後、13代渋江公勢(キンゼイ)は本
城を日鼓城に移して潮見城を支城としたが、この時期が長島荘渋江氏勢力の最盛期であ
った。「公勢(キンゼイ)没後は」武雄の後藤氏が勢力を持ち、天文11年(1542)、14
代公親(キミチカ)の時に後藤純明(スミアキラ:武雄後藤18代)に本領を奪われた。
渋江公親(キミチカ)は佐賀与賀の、龍造寺に身を寄せ、その子、渋江公師・公重(キ
ミモロ、キミシゲ)は肥後山鹿談義所寺、山鹿(赤星)重行に養育されていた。永禄2
年(1559)に、後藤貴明(武雄後藤19代)によって有馬への対抗策として渋江氏は潮見
城にもどされた。この時、渋江の一族郎党は此処彼処に離散していたが、都合 170名が
肥後川尻に馳来たりて渋江公師・公重(キミモロ、キミシゲ)に従い、肥前潮見城をめ
ざしたという。永禄3年(1560)8月有馬氏に攻められて落城,15代渋江公師(キミモ
ロ)は城を脱出したが、弟の公重(キミシゲ9は戦死した。有馬氏の撤退後は後藤氏の
、支城として利用された。更に調べてゆくと、肥後の牛島氏を平氏とするは過ちで、橘
姓渋江氏であることが記載されている。肥後(河内)牛島氏の考証すれば、熊本県河内
町史・昭和62年誌では、牛島刑部助公尚(ギョウブノスケキミナオ)が河内浦に着船
し居住始めが、建久九年(1198)とされているが、阿蘇品氏の研究によれば牛島を平姓
とするのも、紀州中山から移ったとするのも、河内へ移ったのを建久九年とするのも共
に誤りで、橘公業に肥前長島荘が与えられたのは、嘉禎二年(1236)で渋江氏を称する
ようになったのは南北朝期である。牛島は渋江からの分出であるから、牛島の河内移住
は、南北朝期以後ということになる。更に時期を追究すれば、次の、所論から十五世紀
中葉だろう。河内の牛島家の祖を渋江五郎平公尚(タイラのキミナオ)と称し、その三
十四代の末裔牛島公友が、「清田家(せいだけ)祖」としている。三十六代牛島公忠(
キミタダ)が、中島家の祖、三十八代牛島俊正が、中川内の嫡家の祖、と各系図は伝え
ている。

1721: 名無しさんAA:18/11/29 09:39
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   752  > 

 橘姓は飛鳥時代に、橘島田麻呂の男である橘眞主が熊野連多賀志麿の養子となり熊野
国造家を嗣ぎ、その曾孫の熊野廣方が橘良殖の猶子となり橘姓へ復して橘廣方となった
。これが起源とされる。この廣方の子孫が和田庄に移り和田家の祖となる。和田良成の
代に伊都郡橋本庄に住し、その地を本願地とする橋本家がはじまり、後裔は橋本一族や
楠木一族として活躍する。酢屋家は和田良成の子の酢屋二郎兵衛が最初で、その子孫酢
屋与市正高は河内石川郡弘川に拠点を持ち奮戦するも討死し、一時酢屋家は絶えるが、
楠木右近将監正忠の子の蔵人将監正幸が名跡を継ぎ隅屋正幸として存続し楠木一族の筆
頭となる。平安時代に九州に来たのは、刀伊の入寇(といのにゅうこう)があったから
だ。刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)
の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件
とされ、刀伊の来寇ともいう。しかし、記録に残る9世紀から11世紀に掛けてのもの
であり、もっと早くから白水江の戦い以降は、日本はいつでも受けていたとされている
。つまり百済に日本の領地があっ頃から攻撃されていたのである。、記録に残るだけで
も新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を
被ったのが筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸であった。刀伊に連行された対馬
判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい、脱出後に連れ去られた家族の安否を心配してひそか
に高麗に渡り情報を得た。長嶺諸近が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこ
と、また日本人捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺諸近の家族の多くは殺害され
ていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったことなどの情報を得ている。「刀
伊の入寇」の主力は女真族であった。女真族とは、12世紀に金を、後の17世紀には
満洲族として後金を経て清を建国する民族であるが、近年の発掘で、10世紀から13世紀
初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクおよびからその北側に
かけての沿海州の日本海沿岸部には女真族が進出していた時期であった。天候不順で、
女真系の人々はアムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事
していたものと考えられる。10世紀前後の資料で東丹国や熟女直の母体となった人々で
、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った
女真族と思われる集団は、日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであっ
たと考えられている。この橋本一族や楠一族が九州に来て住み着いたのは間違いない。

1722: 名無しさんAA:18/11/29 09:40
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   753  > 

 13世紀初頭に蒲鮮万奴(ほせんまんど)は中国東北部に大真国を建てたが、これら
日本海沿岸部に進出していた女真族たちもこれに加わっており、ウラジオストク周辺や
沿海州周辺の日本海側には多数の山城が建設された。しかし、日本海側沿岸部に進出し
た山城群は1220年代にモンゴル帝国軍によってことごとく陥落したようである。とされ
る。近年の発掘報告によれば13, 14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構などは
その後使用された形跡がほとんど確認できない。日本海沿岸部に進出していた女真グル
ープは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われる。としている。が彼らは、居なくなっ
た朝鮮人のに替わって江原道や慶尚北道に移り住んだものと考えられる。何故なら早く
からモンゴル帝国に従属し早期にモンゴル兵にも替っていたぐらいなのだからだ。アム
ール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク
海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフト
した。また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を
警戒していたことが知られているが、これに反して元朝側には資料でのアムール川以東
の地域の地理概念上に日本は含まれていなかった。したがってモンゴル兵は日本海を東
のはずれと見ていたので日本を知っていたのは女真族と朝鮮族のみだった。後に満洲族
として後金を経て清を建国する民族である事を思えば今の中国人がこの凄惨な事の出来
た女真族なのである。926年に契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺
民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。当時の東北部にいた靺鞨・
女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに
輸出して糧を得ていた。10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したこと
で女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに 991
年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざ
されてしまった。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。
1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。1019年には
北九州に到達・襲撃するようになった。これがいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の
人々の活動である。寛仁3年(1019年5月4日 )刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団
を組んで突如、対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。国司の対馬守遠晴
は島からの脱出に成功し大宰府に逃れ、報告する。賊徒は続いて、壱岐を襲撃した。


1723: 名無しさんAA:18/11/29 10:55
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   754  > 

 壱岐対馬では、老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて、牛馬
家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を受けて、国司の、壱岐守藤原理忠は、ただちに
150人程の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団にはとうてい敵わず
玉砕してしまうのだった。実はこの時この瀬高の庄にも早馬の知らせで馬場氏が連絡が
きた。沖海変事として報告は、菊池軍一帯に触れが出た。一方、壱岐で藤原理忠の軍を
打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島
内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒
を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱
出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後に寺に残った僧侶達は全滅してし
まい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。とされる。嶋分寺は、その頃朝鮮
で起こっていた漢学の諸文書文献の宝庫として知られていた。その為遣唐使や遣隋使に
なれなかった者の最先端の国外との交流場所とも言えた。『続日本紀』『類聚三代格』
によれば、天平13年( 741年)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。内容は
、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』
を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ご
とに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の
名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田
10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置
くことも定められた。この国分寺を全国に置き後に護国寺としたのだが、これが対馬に
おいての嶋分寺だった。従って、連絡網も交通路もやっと整えていた頃と言う事である
。その後、刀伊勢は筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、さらに博多を攻撃しようと
したが、最初の襲撃の後を襲った荒天の間に形勢を立て直した大宰権帥藤原隆家により
撃退された。博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日(5月20日)に肥前国松浦郡を襲ったが
、源知(松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した。その後
藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行っている。『小
右記』には、長嶺諸近と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女と多治比阿古見などが
大宰府に提出した報告書が記されて、高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女
を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じた。

1724: 名無しさんAA:18/11/29 10:55
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   755  > 

 しかし高句麗略奪では、賊は高麗の水軍に撃退され逃げるが、この時拉致された日本
人約 300人が高麗に保護され、日本に送還された。虜囚になった内蔵石女と多治比阿古
見は、高麗軍が賊船を撃した時、賊に海に放り込まれ高麗軍に救助される事になった。
金海府で衣服を支給され、銀器で食事を給され、手厚くもてなされて高麗人の厚意で、
帰国した事を述べている。この「刀伊の入寇」は長年続いておりイタチごっこだった。
その為小右記には、「刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと判ったとしても、新羅は元
敵国であり、国号を改めたと雖もなお野心の残っている疑いは残る。たとえ捕虜を送っ
て来てくれたとしても、悦びと為(な)すべきではない。勝戦の勢いを、便を通ずる好
機と偽り(いつわり)、渡航禁止の制が崩れるかも知れない」と、無書無牒による渡航
を戒める大宰府の報告書を引用している。日本は宋との関係を重んじて、日本と契丹(
遼)とはのちのちまでほとんど交流がなくなったし、密航者は厳しく罰せられる事にな
った。壱岐では壱岐守藤原理忠も殺害され、島民の男44人、僧侶16人、子供29人、女59
人の、合計148人が虐殺された。さらに、女性は239人が連行された。壱岐に残った民は
、諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人であった。と記される。この被害は壱岐全体で
なく、壱岐国衙付近の被害とみられる。こうして記録されただけで 殺害された者365名
、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島で
は残りとどまった住民が35名に過ぎなかった。有名な対馬銀山もほとんど焼損し、被害
は対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人(うち男102人、女 子供244人)
であった。また この時連行された人の内、270人ほどは高麗に救助され、対馬に帰還し
た。この非常事態を朝廷が知ったのは藤原隆家らが刀伊を撃退し、事態が落着した後で
あった。朝廷は何ら具体的な対応を行わず、防人や弩を復活して大規模に警護を固めた
弘仁、貞観、寛平の韓寇の時に比べ、ほとんど再発防止に努めた様子もない。しかも当
初、日本側は何者が攻めてきたのか分からず、賊虜3人がみな高麗人であって、彼らは
「高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てたが、新羅や高麗からの海賊
が頻繁に九州を襲っていること(新羅の入寇、高麗の入寇)もあってか、大宰府や朝廷は
半信半疑であった。 結局、賊の主体が高麗人でないと判明したのは、7月7日(8月10日)
、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使
の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。


1725: 名無しさんAA:18/11/29 10:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   756  > 

 高麗使は翌年2月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持
ち、帰国した。藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金三百両を贈ったという。その
上、撃退した藤原隆家らに恩賞を与えようとしなかった。これは平将門の乱、藤原純友
の乱(承平天慶の乱)に続き、朝廷の無策と武士の影響力の増長を示すこととなる。た
だし、追討の勅符の到着前に撃退していたため、勅符の重要性を強調して藤原行成・藤
原公任が恩賞不要の意見を述べたが、藤原実資が反論して恩賞を与えるべきとの結論に
達したとされている。また、後に引退していた藤原道長の口添えによって恩賞が出され
たともされている。もともと藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、眼病治療のために
大宰権帥を拝命して大宰府に出向して二日市温泉での治療をしていた。専門の武官では
なく例の役職仕官であった。こうして撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げ
ることとなった。この時の九州武士団および、東国から派遣された武士団のうち、討伐
に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致
孝、平致行(致光)、平為賢(為方・大掾為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀
重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いもので
あった。しかし僧の源知は松浦党の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡さ
せる活躍をし、他も平氏や財部氏大蔵氏などは、都落ちはしてるものの強く大きい九州
武士団として集団になりつつあった頃だ。なお、中世の大豪族・菊池氏は藤原隆家の子
孫と伝えていて、在地官人の大宰少弐藤原蔵規という人物が実は先祖となったのだった
ろうとの見解もある。又、有名な対馬銀山は、『日本書紀』によると、天武天皇二年
(674年)に対馬島司忍海造大国(おしみのみやつこのおおくに)が同国で産出した銀
(しろがね)を朝廷に献上したとされる。さらに朝廷は対馬島司に命じ金鉱を開発させ
、文武天皇五年(701年)に対馬から金が献上された。この結果、朝廷は元号「大宝」を
定めた。つまり、大宝律令の頃にはこの九州の金銀が、大和朝廷に運ばれていた事にな
る。実は嶋分寺はこの対馬銀の配送や管理官使としての出張所的役割で、その交通路の
為に国分寺を置いたとも考えられる。しかしこの金の献上については『続日本紀』で、
対馬現地の開発者が捏造をおこなったもので、実際には対馬から金は出なかった。とし
ている。つまり銀を金と見立てたのだ。平安時代になると『延喜式』で対馬の調は銀と
定められ、大宰府に毎年調銀890両を納めるよう命じられた。


1726: 名無しさんAA:18/11/29 10:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   757  > 

 対馬銀山の精錬法は、広義の灰吹法とよばれるもので、唯一のまとまった記録である
大江匡房の『対馬貢銀記』によれば、「高山四面に風を受くるの処に置き、松の樹を以
ってこれを焼くこと数十日、水を以ってこれを洗い、解別してその率法(純度)を定め
、その灰を鉛錫と為す。」と書いている。対馬銀山はいまだ詳しい調査がなされていな
いが、黒鉱系で方鉛鉱鉱床に銀が濃厚にふくまれるタイプのものであったらしい。発見
当初は視認しやすい希少な自然銀のつぶが混在していて、これを溶出しようと工夫する
うち、大量の鉛を松樹灰にじっくりと酸化吸着させることで純度の高い銀の分離が可能
になっていったのであろう。このころの坑道は二、三里(約1,500m)ほどで、採掘役、
照明役、運搬役の3人がチームを組み、また排水も3-400人がいっせいに手作業で行なっ
た。官営のため、銀は全量が国税として都に送られ、給与の米は大宰府が支弁した。と
される。運搬中万が一の沈没を避けるため、船には長大な綱(150m余)を備えて引き上
げられるようにしていたという。また、中国の史書『宋史』(1345年成立)では、永観
元年 (983年)に宋へ渡った日本僧「然が皇帝太宗へ日本の国情を説明した上奏文に、
「東奥州産黄金 西別島出白銀 以為貢賦(東の奥州は黄金を産出し、西の対馬は白銀を
産出して租税とする)」とあることが知られる。寛仁三年(1019年)の刀伊の入寇では
、刀伊勢により銀鉱が焼き払われる被害にあってその後は復活するも小さくなった。銀
山は13世紀以降、しだいに記録から姿を消してしまったが、江戸時代になると対馬藩に
より銀山経営が復活し、享保年間以降は藩営から次第に町人主体の経営へと移行した。
幕末期になると再び衰退へと向かい、明治時代には見るべきものがなくなってしまった
。付近では近年まで鉛、亜鉛などの採掘はおこなわれていたが、経年のカドミウム汚染
や採算面などからすべて閉山されている。この日本僧「然が、わざわざ中国の晋の皇帝
太宗へこうした日本の国情を説明した上奏文を送った事で、噂が噂を呼んで色々な忌む
べき攻撃が起こったとも言える。得てして、日本人は海を壁として広大な海や遠い異国
を外に於くが、中国人は大陸の一部言うなれば湖程度の認識しかない。日本の川と違い
、どこかの海や湾に近い川や大きな湖は多々あって、回ればどこかの誰かと陸が続いて
居る筈だと言う認識の違いがある。特に明確に「東奥州産黄金 西別島出白銀 以為貢賦
(東の奥州は黄金を産出し、西の対馬は白銀を産出して租税とする)」とあることが知
ら閉めた事は、後のジパング伝説や元寇の元になったのであろう。と思われる。


1727: 名無しさんAA:18/11/29 13:16
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   758  > 

 高麗使は翌年2月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持
ち、帰国した。と言う。しかし、刀伊の入寇は、寛仁3年(1019年)である。安東都護
府(あんとうとごふ)は、唐朝が高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵)後、現在の朝鮮
半島北中部から満洲南部に相当する高句麗旧域の管理を目的に設置した統治機構で、唐
が高句麗と百済を滅ぼした後、旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅
を鶏林州都督府として、半島全域を藩属国に変えて羈縻(きび)州とした為朝鮮半島に
国家がなくなった事で、出来た自治政府である。668年(総章元年)9月、に唐(新羅軍
も参加)軍が高句麗を滅ぼすと平壌に設置され、鴨緑江下流域及び遼東地区を管轄した
。その後、新羅の反乱が発生し新羅が唐の行政地区を侵略した結果、安東都護府は旧高
句麗遺領の約3割を放棄し、676年(上元元年)に遼東城に移転した。697年(神功元年
)。安東都護府の下部に所属する安東都督府の長として、滅亡した高句麗宝蔵王の三子
である高徳武が安東都督に任じられた事もある。 705年(神龍元年)、大祚栄が唐朝の
招安を受けたことにより範囲は拡大したが、安史の乱の混乱により773年(大暦8年)頃
に廃止されているのである。 唐は帰属した異民族の地域に、六つの都護府を置き、都
護には中央から派遣し、その下の都督、州の刺史には現地の族長を任命した。このよう
な現地の異民族に一定の地位を与えて支配する政策を羈縻政策(きびせいさく)という
。唐の六都護府は、太宗の時に安東、安西、安南、安北、単于、北庭の六ヶ所に置かれ
、その下に鎭戎(ちんび)が置かれて辺境防備に当たった。唐中期以降は、府兵制の崩
壊に伴い、辺境の防備は都護府に代わり節度使(藩鎮)が管轄するようになる。なお、
都護府の名称は変更されたことも多く一定ではない。安東都護府は唐の六都護府の一つ
で、朝鮮および東北地方の統治に高句麗を滅ぼした後、平壌に設置された。後に新羅が
自立すると、遼陽に移ったが安史の乱で廃止された。安史の乱(あんしのらん)は安禄
山の乱とも呼ばれ、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山と史思明およびその
子供達によって引き起こされた大規模な反乱。と説明される。他の唐の六都護府は西域
経営に高昌に置かれ吐蕃に占領された安西都護府、北ベトナムのハノイに置かれ南詔の
占領され大越国で滅んだ安南都護府、外モンゴルの統治の為置かれたがトルコ系の東突
厥がその支配した安北都護府、内モンゴルの統治東突厥に押された実態がなくなった単
于都護府。中国西北部、現在の新疆ウイグルで吐蕃に占領された北庭都護府で、いずれ
も一時は唐に服属したが、唐の皇帝内の内部紛争でそのまま維持できてはいない。ただ
その後も有名無実の地方の中央集権制ができていたとも取れる。

1728: 名無しさんAA:18/11/29 13:16
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   759  > 

 渋江は肥前長島荘の橘一族の惣領家(そうりょうけ)であり、渋江を名乗るのは、橘
公業の孫、即ち、長島橘氏の第3代、「公村(キミムラ)」からで、二代あとの公経が
足利尊氏に属していることからみれば鎌倉後期のことと考えられる。一方、河内の牛島
で年代が明らかなのは嫡家の俊正(俊政)が天文十九年(1550)、「嶽村に於て」菊池
義武を擁して大友勢と戦い討ち死にしている。そのことから、肥前渋江家で言えば、永
禄六年(1563)、有馬勢から塩見城を陥落されて、肥後山鹿へ落ちていく渋江公師と同
世代ということになる。渋江公村(キミムラ)から渋江公師(キミモロ)までは十二代
である。河内牛島では最も古いのは俊正より四代前の公友であるから、渋江と比較する
ために単純に差引けば差は8代もある。ということになる。また、河内の公友の時期は
、肥前の渋江公師(キミモロ)より四代の祖渋江公代(キミシロ)の時期にほぼ近いと
考えられる。牛島房童丸(ボウドウマル)が探題渋川満頼(ミツヨリ)を頼んで本家の
渋江氏と所領について争論しているのが応永十ニ年(1406)で、「小鹿島(オガシマ)
文書」に、その争いについて和解ができたのが書かれ、牛島公代(キミシロ)のころの
、「亨徳(キョウトク)四年(1455)」である事になる。(中村文書)・・・・これは町史
編纂の間違いで、渋江公代(キミシロ)の誤りとされる。牛島氏の分布を調べてみると
、福岡県、佐賀県、熊本県の順であった。この本では、渋江氏は肥前長島荘から肥後に
来たことは記してあるが、牛島氏がどうなったかは書いてない。八女牛嶋家が移って来
たのは田尻氏が、熊本玉名の山から下りて来て、鷹尾に住み着いた時だろう。橘氏の連
れて来た神官渋江氏の或いは子孫で、田尻氏・内田氏・牛嶋氏になった。と言う話であ
る。九ケ村の地は三名字居屋敷分として菊池氏以来佐々の時に至るまで検地せざるを以
て清正時代に至り、「三家(サンケ)共浪人となりて」、初めて検地せしに四千余石あ
りたりと実は隈部討伐はここに意味がある。肥前長島荘は武雄神社を中心として広がっ
た荘園であり、元は武雄神社によって開発されたとみられている。成立時期は不明であ
るものの、承安2年(1172年)には既に成立していたことを示す文献が確認できること
、中世を通じて同荘の荘園領主であった蓮華王院が長寛2年(1164年)創建であること
から、12世紀後半には既に成立したと推定されている。正応5年(1292年)の「河上宮
造営用途支配惣田数注文」によれば、1517丁の田地を有して肥前国内では神埼荘に次ぐ
数を示す大規模な荘園であった。ところが数年しか経ていない正安元年(1299年)には
蓮華王院と地頭橘薩摩氏との間で一部地域の下地中分が実施され、南北朝時代には不知
行の状態となった。それでも戦国時代末期まで長嶋は武雄の地名を果たしていた。

1729: 名無しさんAA:18/11/29 13:17
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   760  > 

 この蓮華王院(れんげおういん)は、蓮華王院本堂が「三十三間堂」と通称されてい
る。この三十三間堂は古代建築物の中で特殊なものである。天台宗妙法院の境外仏堂で
あり、同院が所有・管理している寺院の仏堂である事が一つだ。当時の白河上皇が自身
の離宮内に創建した仏堂で、本尊は千手観音で、蓮華王院は千手観音の別称「蓮華王」
に由来する。かつてこの時代には弘法大師の開いた高野山の真言宗が幅を利かした頃に
改宗が多く起きたが、この仏堂は変わらなかったのである。その分古代からのしきたり
や造りが残っている。この御堂が、東面に建てられ、南北にお堂内陣の柱間が33もあ
るという建築的な特徴により三十三間堂と呼称される。「三十三」という数は観音菩薩
の変化身三十三身にもとづく数を表していると言う。つまり人の性格を33に分けたの
が、経文に残るのである。平安後期に、約30年間、院政を行った後白河上皇が、自身の
職住兼備の「法住寺殿・ほうじゅうじどの」と呼ぶ院御所内に、権勢を誇った平清盛の
資財協力によって創建した。と言われる。ところが、そのお堂自体は建長元年(1249)
、市中火災の大火によって焼失し、鎌倉期・文永3年(1266)に又再建されたのが現存
のものとされる。朱塗りの外装で、堂内は、花や雲文様の極彩色で飾られたといい、今
もわずかにその名残を停めています。地上16m、奥行き22m、南北120mの当時
では巨大で、長大なお堂は、和様、入母屋造り本瓦葺きで、手前からはるか彼方へ一点
透視的に漸減する眺めは、胸のすく壮快さを持つものだ。このお堂の建てられた平安期
には、都には見上げるような大建築が数多くあった。しかしその多くは、地震や火災の
ために、短期間で姿を消している。この反省から、この造営の工人たちは様々な工夫を
凝らし知恵を絞った。まず基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動
を吸収する「版築(はんちく)」の技法を用い、堂内の屋台骨は、柱間を、2本の梁で
つなぐ「二重虹梁(にじゅうこうりょう)」を用いた。外屋の上部も内・外柱に二重の
梁をかけて堅固さを増加し、加えて、構架材の柱や長押、梁は「揺れ」を予測した組み
方を編み出した。土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落
し込む「羽目板(はめいた)造り」とするなど、お堂は、波に揺れて、浮ぶ筏のように
「揺れ動く」建築としての、今の流行りの免震工法が日本で最初に施こされたのです。
この工法はなかなか気づかないが、秀吉の頃の伏見大地震でもこの家屋のみが無傷であ
ったとされ、その後に石垣や城造りに繁栄されている。つまり石垣下にも3m程の積層
がありずれを吸収する地盤を作ったのである。又堅い物は嵌め殺しで枠に入れて強度を
もち決して一緒にしなかったこれが泥壁竹組を溝内工法に変えた。

1730: 名無しさんAA:18/11/29 13:17
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   761  > 

 三十三間堂の軒の中ほどに、矢を射る競技大会が行われていた。毎年1月に、的矢(
まとや)の弓道の全国大会が行われていますが、この競技の元になっているのが「通し
矢」である。「通し矢」とは、本堂西側の軒下、幅2.5m、高さ5.5m、の中長さ120m
の空間を矢を射通す競技で、種目としては4種類あった。その中でも「大矢数(おおや
かず)」と呼ばれた種目では、なんと暮六つ(午後6時)から一昼夜(24時間)に凡そ
、1万本もの矢を射続け、的に当てた数を競うという、豪快かつ壮絶な競技があった。
「通し矢」は江戸期には盛んに行われ、諸藩が相撲以上に名誉をかけて競い合った。特
に弓矢を得意とした紀州藩と尾州藩は名勝負を繰り広げた。藩の威信を賭けた対決だっ
た為、勝負に切腹を掛けて挑んだ藩もあった。当時、まさに命を賭けた壮絶な競技だっ
たのです。一人が一日中立ち、壮絶な通し矢には記録が残されている。三十三間堂に残
る「矢数帳(やかずちょう)」には、行われた競技の記録(総矢数や命中の数)が記さ
れている。それによると、紀州藩士の和佐範遠(わさのりとお)という人物が、総矢数
13,053本、通し矢(命中)8,133本という大記録を打ち立てています。この矢数を時間
で考えると、1時間に544本、1分間に約9本、6秒に1本の間隔で弓を射っていたこと
になる程の体力だ。1日中ぶっ通しで、120メートルも離れた直径1メートルほどの小さ
な的に、6割以上の確率で矢を命中させたわけですから、和佐範遠の技術と体力、精神
力はまさに超人的である。因みに、この記録が作られたのは、範遠が18歳の頃だった
そうだ。恐るべし古代の武士道といったところか。実は千手観音像たちの前には、横に
ずらりと二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)と呼ばれる仏像が並んでいる。この前部
にいる二十八部衆は千手観音の眷属(けんぞく:使者)であり武士を示している。その
中には、仏法を守る「阿修羅王(あしゅらおう)」や「帝釈天(たいしゃくてん)」、
七福神で知られる「毘沙門天(びしゃもんてん)」など、よく知られている有名な神様
もいる。そして、その左右両端には、国宝の風神像と雷神像が安置されています。風神
、雷神と言えば、俵屋宗達が描いた『風神雷神図屏風』が有名ですが、そのモデルとさ
れるのが、この風神像と雷神像なのである。風袋を持った風神像、太鼓を持った雷神像
の姿を間近で見ると、迫力がありますが、それがこの像が作った創作者の意思だったの
だろう。古代人の意識の一種の大らかな自然を見るユーモラスさが感じられる。古代の
人も袋から風が出て稲光(いなびかり)の音が太鼓とは心から思っては居なかったろう
にそう表現したのだ。さすがに現代の様な光の工夫は出来ないので衣を見立てたのだろ
う。

1731: 名無しさんAA:18/11/29 13:18
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   762  > 
 千葉氏は平良文の後裔で、いわゆる桓武平氏である。良文の曾孫常将がはじめて千葉
介を称し、以後、代々の惣領は千葉介を称することが慣習となった。鎌倉中期の千葉介
頼胤のとき蒙古と日本との間で緊張関係が生じ、幕府は蒙古の来襲に備えるため、九州
に領地を持つ御家人の九州下向を命じた。千葉頼胤も肥前国小城郡周辺に所領を持って
いた形だった為九州に下向した。その後「文永の役」に出陣し、蒙古軍の毒矢をうけて
九州で戦死してしまった。父の死後、子の宗胤は氏神である千葉妙見社において家督を
継承するが間もなく、千葉新介のまま九州へ下向し、肥前国小城郡晴気城に駐屯した。
弘安四年(1281)六月、再び蒙古は大軍をもって博多湾岸に来襲し、文永の役のときと
同じく、時ならぬ台風によって蒙古軍は壊滅した。その後、幕府は博多湾の警備の為に
関東御家人達の帰郷を認めず、宗胤は大隅守護職に任じられ、下総国に帰る事ができな
くなってしまった。一方、下総では宗胤の弟胤宗が、一族・家臣たちから擁立される形
で千葉介に就任した。こうして、千葉氏は下総と九州とに二分され、胤宗の後下総千葉
氏となり、宗胤の子孫は肥前国小城郡晴気庄に定住して九州千葉氏の祖となった。以後
、九州千葉氏は肥前の豪族たちを被官化し勢力を伸ばし、室町期には少弐氏と並ぶ肥前
最大の豪族に成長した。建武二年(1335)、鎌倉にあった足利尊氏が新政に反旗を翻し
て、京都に攻め上った。しかし、翌年一月、北畠顕家・楠木正成らとの戦いに敗れた為
尊氏は京都を放棄、翌二月には追撃してきた楠木正成・新田義貞の軍と摂津打出、豊島
河原で戦って再び敗れ、九州へと落ちていった。この軍中に、千葉胤貞、相馬親胤らが
従軍している。九州に下った尊氏のもとには大友・少弐氏らが参陣し、九州宮方のほう
に菊池武敏・阿蘇惟直らが多々良浜において戦った。このとき、菊池氏ら九州宮方は、
圧倒的な人数を揃え、尊氏はとても勝ち目がないと自刃しようとした。しかし、少弐氏
らの騙し打ちで、結果は尊氏方の勝利に帰し、軍を立て直した足利尊氏はふたたび京都
をめざして西上した。そして、楠木正成を湊川に破り、新田義貞を打ち破って、京都を
制圧すると足利幕府を樹立したのである。尊氏軍に敗れた後醍醐天皇は吉野に走られ、
以後、半世紀にわたる南北朝の動乱が続くことになった。この時少弐が用いた、偽計の
奸計は余りにも国体を無視した謀であった為に、九州は2分した騒乱時代を迎えたので
ある。それには太宰部内の官使の中にも下剋上が起きた事であった。これには日宋貿易
が出来なかった大友氏の策略があった。この頃はまだまだ大内氏が関門海峡を支配して
門司や下関で船便の税収の権限を持っていたのである。少弐氏はその太宰大内氏の排除
をそそのかされたのであった。つまり大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に
宛てた返書は欺く贋物であり、こうした偽の文書が大宰府で横行していた。と言える。

1732: 名無しさんAA:18/11/29 13:39 ID:AHg
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   763  > 
 実は馬鹿げた事に、福岡の出先の文部省は、酒見城遺跡であった風浪宮社の社殿を、
昭和の時代に簡単に壊してしまい、文化遺産を残していない。全く良く調べもせずに壊
してしまっている。京都の仏閣よりは貴重な特殊な「アジモ組み」の3層天井を簡単に
重機で壊して、全くこの建設会社も平然としているのである。日本政府は文化遺跡にも
う少し考えるべきである。無駄な金や悪になる開発が多すぎるのだ。何故この大川にこ
の千葉宗胤の子孫の名があったのかは今だ不明だが、この三十三間堂の軒の進化した造
りからは、船大工集団がここに技を寄せたとしか思えない程だった。特に屋根には通常
とは違って竹組に泥を載せ石灰で表装し更に竹組をして3層を施すのは全国的に珍しい
し、今の塀にしている屋根の下地も板の縦置き2段と言う奇妙な組み方であり、耐震の
強化としか言えない。このやり方が九州では全く地震が少なく作る必要のない工法であ
る。中世の動乱は九州でいち早く起こっていて、九州千葉氏は胤貞のあと、胤泰、胤基
と続いて、胤鎮時代に、小城・佐賀・杵島の三郡を領する肥前の覇者として有力者とな
った。ところが永享九年(1437)、重臣の中村胤宣(公廉)が大内氏に通じ、胤鎮の弟
胤紹を奉じて謀叛を起こし、窮した胤鎮は出奔して没落した。この事件は『鎮西要略』
に「千葉家の家宰中村左衛門五郎、逆心を発し中国の大内氏と通じて千葉胤鎮を廃し云
々」と記されている。胤紹が大内氏の庇護のもとで千葉氏の当主となり、胤紹は胤宣を
小城・佐賀・杵島三郡の郡代に任じた。一躍、千葉家中の実力者となった胤宣は、藤津
の大村氏を籠絡して、大村氏領の大草野村北方の地を搾取するなど、権勢をほしいまま
にした。『九州治乱記』では、幕府は胤紹を千葉氏の嫡流として小城郡を賜い、胤宣も
御家人に列したとある。又、親の胤宣に大内持世と談合して忠節を致すべきを命じて、
出奔した胤鎮を捜索して沙汰すべきを命じている。この胤宣の専横を快く思わない胤鎮
の旧臣らは、文安二年(1445)、兄の胤鎮を擁して胤紹・胤宣追放の兵を挙げた。両軍
は各地で戦いを繰り返したが、胤鎮方の勝利となり、敗れた胤紹・胤宣は国府に退却し
、ともに戦死を遂げる。かくして千葉氏の家督に復活した胤鎮は、小城牛頭山に城を築
いて本拠とし、享徳のころ(1452〜54)には、肥前国主と呼ばれる存在となった。そし
て、小城を国府といい、これまでの国府は府中と称して区別させた。胤鎮は康正元年(
1455)に死去し、嫡子の元胤が家督を継承した。元胤の家宰は中村播磨守であったと『
鎮西要略』にみえ、播磨守はさきに戦死した胤宣の子播磨守公頼に比定されている。中
村氏の復活としては早すぎるようだが、何か千葉氏と中村氏との間には伺い知れない紐
帯があったのかも知れない。千葉氏は元胤の時代が全盛期で、杵島郡、小城郡、佐賀郡
を支配して小城城下はおおいに賑わったと伝えられている。

1733: 名無しさんAA:18/11/30 16:58
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   764  > 

 寛正五年(1464)元胤が早世すると、千葉氏にも暗い蔭が生じ、抗争につぐ抗争が起
こる。元胤のあとは教胤(弟ともいう)が継いだが、十四歳の少年であり、中村越前守
が教胤を補弼した。他方、胤鎮に討たれた胤紹の子胤朝は、若い教胤が千葉氏を継いだ
のをみると、これにとって代わらんとして大内政弘を恃んで九州探題渋川教直に通じた
。これに、与賀・川副を領する今川胤秋が加担した。翌六年教胤の家宰中村胤頼が佐嘉
郡新庄にあった今川館を攻撃、胤秋らはこれを迎え撃ち、激戦の末に双方とも兵を引い
た。翌文正元年(1466)、千葉教胤はふたたび胤秋を攻撃、対する今川勢は探題渋川氏
と結んで、応仁元年(1467)小城に進攻した。これを迎え撃った教胤は探題・今川連合
軍を撃破、今川胤秋、胤弘の兄弟は戦死し、与賀・川副は千葉氏が収めた。その後文明
二年(1470)、胤秋の子義秋が勢力回復を狙って挙兵したが、千葉勢の前に敗れて以来
九州今川氏の嫡流は断絶した。今川氏の手勢は以降深川と名乗った。千葉氏と今川氏が
戦った応仁元年、京都では「応仁の乱」が勃発し、世の中は戦国乱世へと推移していく
。乱の余波は九州全域におよび、大内氏と少弐氏とが筑前で戦いを展開し、少弐氏の当
主教頼が討死した。文明元年、千葉教胤は西郷氏や大村家親を討たんとして藤津郡に出
陣したが、おりからの悪天候によって乗船が転覆して水死を遂げてしまった。その結果
、胤朝が迎えられて千葉氏の家督を取った。ところが、重臣の中村胤明と岩部常楽とが
反目するようになって治められず、ついに胤明は常楽のことを胤朝に讒言、これを信じ
た胤朝は常楽を討とうとしたが、この事態を察した常楽は、僧籍にあった胤朝の弟胤将
を擁立し、少弐教尚を恃み一揆を起こしたのである。一揆は中村胤明を討って出て、小
城城下に入り放火した。このため在家寺院ことごとく焼亡した。しかし、胤朝を屈服さ
せることはできず、ついに将軍の旨が下り、胤朝と胤将兄弟の間に和議が成ったのだ。
ところが、それから十六年後の文明十八年(1486)、胤将が胤朝を襲って殺害した。こ
れをきいた少弐政資は、胤将を討ち取ろうとしたが、将胤は出奔し千葉氏は断絶に直面
した。そこで、政資は胤朝の女に弟を配して千葉氏を相続させ、胤資と名乗らせて晴気
城主とした。ここに、胤朝の弟胤盛の子胤棟(興常)がいた。胤棟は大内氏を頼って育
ち本家に敵対心をいだき、延徳三年(1491)、大内政弘の支援をえて胤資と戦った。そ
して、牛頭山城に拠って東千葉(祗園千葉とも)を称した。こうして、以後、晴気の本
家を西千葉とよび、千葉氏は東西の両千葉家に分かれたのである。


1734: 名無しさんAA:18/11/30 16:59
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   765  > 

 この東与賀の乱は「九州治乱記」によれば、千葉胤紹は中国地方から北九州を勢力下
におさめる太守・大内教弘に属して惣領・千葉介胤鎮と戦い、12月27日、小城郡下
隈の戦いで胤鎮を破って幕府から千葉家惣領と正式に認められ、小城郡が安堵されたも
のの、文安2(1445)年、胤鎮の旧臣の岩部氏・仁戸田氏と挙兵したが、川上村西
山田(佐賀市大和町)の戦いで胤紹に大敗し、8月長男の政胤とともに国府城(佐賀市
大和町尼寺)で殺害された事による。こうして胤鎮が再度惣領となり、小城の北・牛頭
山(祇園山)に新城を築いて本城としたがしこりが残ったままだった。佐嘉郡新庄の今
川伊予守胤秋が探題・渋川教直と組んで小城郡侵攻を企てているとの流言が流れ、寛正
6(1465)年5月、教胤家宰・中村胤頼は千葉家由縁の諸氏に触れ回って、「小城
には岩部播磨守常楽、岩部備中守、中村弾正少弼胤明、仁戸田阿波守胤範、同左馬助、
中村伯耆守、平田将監、山鹿主税助、堀江和泉守、同助三郎、同伊豆守、同常陸介を初
めとして、南里、古川、江口、東郷、粟飯原以下、佐嘉には高木、渋谷、神代等」が、
参戦し、都合二千騎あまりで新庄の今川館を攻撃した。としている。胤秋は、中村弾正
少弼胤明を離反させ、千葉勢を河上まで押し戻しす事に成功したが。翌24日には逆に
中村勢へ攻めかかり、千葉勢の大将の一人、中村越前守を討ち取ると、「子息中村弥六
郎妙胤を初め、同名伯耆守、武雄加賀守、同大蔵丞、堀江伊豆守、同名常陸介、同彦太
郎、同三郎、同三郎、同森太郎、馬郡対馬守、同大膳亮以下」を討ち取った。とされる
しかし近習の味方である今川家側も「今河摂津守、同相模守、同近江守、其外究竟の輩
十四人」が討たれてしまい、日暮れと同時に両軍は陣に戻った。その後、千葉方では、
中村胤頼弟・仁戸田中務少輔と、円城寺淡路守、山口肥前守、石井越後守らが相談して
今川方と和平を整えることとし、互いに兵を引くこととなる。と書いている。しかし、
両者の遺恨は晴れず、早くも翌正元(1466)年には河上で千葉・今川勢が合戦を始
める。さらに翌応仁元(1467)年6月20日、胤秋は探題・渋川教直と結んで小城
郡に攻め込み各地に放火した。しかし、教胤はすぐさま反撃に転じ、翌21日には今川
勢を追い詰め、胤秋を初めとして弟・今川右衛門大夫、今川次郎大夫、江頭摂津守、江
頭又太郎、楢富筑前守、高柳周防守以下の諸将が乱戦の中で討死を遂げた。探題・渋川
教直の加勢も散々に打ち破られ、小城郡から撤退。教胤は今川領(かつて千葉家の依頼
により探題領から今川家に宛がわれた知行)の佐嘉郡与賀庄・川副庄を併合した。こう
して教胤の勢力はますます強大になり、頼みの探題も小城から撤退してしまった。その
為胤朝が兵を挙げる隙はなくなってしまう。

1735: 名無しさんAA:18/11/30 16:59
 こうして朝廷からの千葉勢を敗退させたものの、ところが、文明元(1469)年6
月、教胤が大村日向守家親との戦いで討死を遂げると、執権の中村胤明・岩部常楽の要
請を受けて胤朝は念願の千葉惣領家の座につき「国府」小城に入ったのだった。なお、
この「国府」とは千葉家の本拠地・小城のこととある。つまりここで武雄は旧国府とし
て残っていたが力が無かったのだ。7月なってから、岩部常楽は佐嘉郡統治のため、本
当の「国府」のあった府中尼寺館の武雄方面へやっと移っている。そんなころに、大内
政弘が上洛して留守の間に、大内勢によって対馬へ放逐されていた少弐頼忠(のち政尚
、政資)が旧領奪還の活動をはじめたのである。文明元(1469)年正月、対馬島主
・宗刑部大輔貞国は将軍義政に様々に請いて賄賂が効いて、少弐頼忠に「本府へ帰り入
るべき旨、安堵の御教書」を手に入る事になった。そして7月、「対馬島主宗貞国挙兵
、奉教頼之子頼忠而往、沿路諸酋護送助之、遂至宰府悉復旧境」(『海東諸国記』)と
あるように、少弐頼忠は宗貞国の支援のもと、渡海して筑前国に入り、大内勢を追い払
って太宰府を奪還した。その後に「頼忠既至宰府、令貞国守博多、貞国身留愁未要時、
遣麾下守博多」と、交易の中心であった博多防衛のためと貞国の麾下を派遣させる事を
宣言し触れ回って占領している。一方、千葉家では岩部常楽を妬んで、中村胤明が常楽
を讒言し、胤朝はこれを信じて、常楽の追討を計画する。しかし身に覚えのない常楽は
起請文を出して謝罪し、無実を訴えるが胤朝は信じず、常楽はやむなくこの太宰府の、
少弐頼忠に仲介を頼んだ。これを承諾した頼忠は胤朝を取りなしたため、その場は収ま
った。ところが、胤朝は9月9日、岩部常楽の誅殺を図り、密かに仁戸田近江守の手勢
を府中尼寺館に向かわせた。尼寺館に着いた仁戸田近江守は兵士に鬨の声を揚げさせた
が、ちょうどこのとき日ごろから常楽の善政を慕っていた領民たちが重陽を祝って盛大
な酒盛りを行っており、仁戸田勢の鬨の声を聞いた領民たちは「爰こそ岩部殿の厚恩を
報ずる所よ」と、一万余人がいっせいに咆哮。山河にこだました。これに仁戸田近江守
は大軍勢が集結していると勘違いし、「思ひしに相違」して驚き慌て、一戦もすること
なく小城へと逃げ落ちた。と言う。これに怒った常楽は少弐政尚に胤朝追討を要請する
が、政尚は許さず、常楽はやむなく尼寺館から逐電した。となっている。文明2(14
70)年当時の九州北部は、大内政弘が西軍の主力として上洛中であり、東軍に属する
大友親繁や少弐政尚の勢力が優勢であった。そこへ大内政弘の叔父・大内南栄道頓が、
にわかに東軍に属して挙兵した。2月4日、将軍義政は大友親繁らに対して道頓と協力
して大内政弘を追討するよう命じている(『将軍家御教書』)。明らかな無理強いに、
一応は中村少弐氏側も岩部常楽に対して兵を上げた振りをして大内氏の少弐頼忠をなだ
めたのではなかったのか。と推測する。

1736: 名無しさんAA:18/11/30 17:00
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   767  > 

 江頭氏はもともと滋賀県の近江の士族の一族でつまり農民や商人じゃなく、りっぱな
武士の一族だった。もともと室町時代に時の大名である今川氏に仕えていたが、今川氏
が佐賀県(肥前)に移住したことにより、江頭氏一族も一緒に佐賀県に移住した。佐賀
市鍋島町には「江頭城跡」という場所がある。この城は戦国時代に今川伊予守胤秋に仕
えた家臣「江頭摂津守」という武将が建築したもの。実は、この江頭氏が牛頭観音を、
祀っていた事から牛津の名が生まれた程だ。大川に多い江頭氏は江頭摂津守の一族が先
祖様であることは多い。又、応仁元年(1467)に千葉教胤との戦で、大将今川胤秋と共
に家人江頭摂津守も討ち死にした為、大川まで逃れて来たと言われる。現在には鍋島に
江頭城は跡かたもなくなっていて、一部は住宅地になっている。大将とともに討ち死に
した武将である。実は江頭と言う姓は、エタ頭→えがしら→穢太・卑民の頭、つまり民
衆のリーダー的存在が「江頭」になった、という説も存在する。が、「江頭」姓の発祥
は近江(滋賀県)の野洲郡北里村(現・近江八幡市)で、現在も近江八幡市内に江頭町
がある、古代は「ゑかしら」と平仮名で書かれていた。現在の江頭町は琵琶湖畔から約
3キロほど離れていますが、古くはこの辺りまで入り江があり、その先(頭)にあった
ことから「江(ゑ:入り江)の頭(かしら:先。突き出たところ)」を指し、そういう
ことで「ゑかしら(→江頭)」という地名になって、そこに住んでいた住民と言う事に
なる。いずれにしろ古い姓だ。ここを出発した江頭氏が、おそらく室町時代頃、今川氏
の家臣となり、今川氏の肥前(佐賀県)への移動に従って肥前に来て佐嘉郡新庄郷に定
住し、土着した今川胤秋の家臣である江頭摂津守が八戸溝村(佐賀市鍋島町大字八戸溝
、江頭公民館裏手)に江頭城を築いた。そうして佐賀郡に於ける江頭氏繁栄の基礎を確
立した。その後、江頭氏の一部は戦国期には竜造寺氏、江戸期には鍋島氏の家臣を務め
ている。佐賀江頭村は、江戸期の村名佐賀郡のうち佐賀平野中央部,多布施【たふせ】
川と天祐川の分流点西岸に位置する佐賀本藩領新庄郷に属す村だ。「宝暦郷村帳」では
小村に西八田村・巫【なぎ】町村があり、「天明郷村帳」では小村に西八田・薙町・大
渡・荒巻がある当村西部には今川胤秋の家臣江頭摂津守の居城跡がある江頭城は応仁元
年胤秋と摂津守江頭又太郎が小城【おぎ】境において千葉教胤との戦いで戦死したのち
、竜造寺氏の手に帰したという(鍋島村誌)江頭水天宮には天文4年作の地蔵がある「
明治7年取調帳」「郷村区別帳」ではともに八戸溝(やえみぞ)村の枝村に見える。


1737: 名無しさんAA:18/11/30 17:01
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   768  > 
 ここの佐賀平野は、海の水も川の水も入り込んだ一大穀倉地帯だったのだろう。つま
り大平原の中国の華中に似ていたと言える。華中ではこんな詩(うた)も読んでいる。
「江湖間唯畏大風度。冬月風作有漸、船行可以為備;唯盛夏風起於顧盻間、往往罹難。
曾聞江國賈人有一術、可免此患。大凡夏月風景、須作於午後。欲行船者、五鼓初起、視
星月明潔、四際至地、皆無雲氣、便可行;至於巳時即止。如此、無復與暴風遇矣。國子
博士李元規雲:「平生遊江湖、未嘗遇風、用此術。」と中国ジャンク船を詩っている。
〔訳〕 江湖の間〔華中の水郷地帯〕では大風を専らおそれる。冬の風は前触れがある
ので、船で行く際にも、用意をする間もあるが、盛夏の風はあっという間に起こるので
、遭難することが多い。しかし水郷付近の商人は、うまい方法を心得ていて、この災難
を免れることができるという。それは、だいたい夏の風というものは午後に起こるもの
だから、船旅をする者は、五鼓〔午前4時〕に、起きて、星や月がすっきりと四方の地
平線まで見えて一点の雲も無いとなると、その頃に出発することにし、巳の刻〔午前十
時前後〕には船をとめる。このようにすれば暴風に遭遇することは無いのである。国子
博士の李元規も、「平生江湖に遊んでおるが、いまだかつて風に遇ったことはない。こ
の方法を用いているから」といっている。これは揚子江流域の中国人の旅の心得であっ
たようで、いまでも四川の村々の小さな宿屋の紙燈篭には、「未晩先投宿(日のくれぬ
うちにとまり)、鶏鳴早看天(とりなくこえにそらをみよ)」という追聯が書いてある
という。実はこの詩は末吉船にも書いてあった様で、佐賀や筑後の川も有明海も同じに
航行した様である。つまり航行の掟でもあったようだ。又 こういう事も書いている。
「關中無蟹。元豐中、余在陜西、聞秦州人家收得一乾蟹。土人怖其形、以為怪物。人家
有病虐者、則借去掛門上、往往遂差。不但人不識、鬼亦不識也。」と不思議な事を書く
〔訳〕関中〔陝西省〕にはカニがいない。元豊年間〔宋、神宗の年号。1078〜85年〕に
、わたしは陝西にいたが、こういうことを聞いた。秦州〔甘粛省天水県〕の民家では乾
したカニを手に入れると、土地の者たちがその形をおそれて怪物だと思い込み、瘧(お
こり)を病む者が出たいえではみなこれを借りていって門のとの上に掛けて厄払いをす
る者が多いと。人が知らないだけでなく、病鬼もまたこれを知らないというわけだ。と
書いている。おそらくこれは、蟹は蟹でもカブトガニの事であろう。通常の蟹に比べて
大きく恐ろしく、そして黒ずんでいただろう。最近はめっきり少なくなったが、この異
様な蟹を食べる事は人は最初はしなかった。名前の通りに戦いの時の甲冑として弓をは
じく為に乾燥させ着用したと言われている。このカブトガニの取れる所は限られていて
そうしたところは、以外にも山が豊かで湧き水がきれいな所とされる。

1738: 名無しさんAA:18/11/30 19:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   769  > 

 「寛文十年久留米藩社方開基」の四郎村、「坂本大明神、再興」の記事(現代語訳)
で、永禄6年(1563)に氏子百姓「鷲頭大和」が再興した。永禄6年は宣教師ルイス・
フロイスが来日し、織田信長が京都御所で天覧相撲を企画した年だ。この年から葛山氏
元(かつらやまうじもと)が海に出る事を勧め、獅子浜でイルカ漁を奨励し、イルカ漁や
鯨漁をすることを言って、外国船や黒船の見張りを説いた。その後天正13年「立花左
近」様の家臣「十時摂津守」殿が再興したと言い伝えられている。鷲頭(わしがしら)
氏「鷲頭大和(わしがしらやまと)」は何者か。百姓と書いてありますが、永禄6年に
、このような名前を持った百姓などいた筈はない。国侍であることは容易に察せられる
。当時は「鷲頭大和守」と名乗っていた。江戸期に開発された「青木島村」の開村記録
には開発住民として四郎丸村住人、「江島四郎左衛門(藤原正喜)」と共に四郎丸村の
百姓「鷲頭右京」という人物が出てくる。おそらく鷲頭大和守の数代後の子孫かと思わ
れる。鷲頭氏は大内盛房の三男である盛保が周防国都濃郡鷲頭庄(現・山口県下松市の
切戸川流域)を領地として鷲頭氏を称したことから始まる氏族だ。鎌倉期には周防守護
を務めた名門で、かつては大内宗家としばしば勢力争いをするほどの権勢を持った事も
あった。後に大内宗家に従い、室町期には長門国深川(ふかわ:山口県長門市)に代官
として派遣されますが、大内宗家との戦に敗れ衰退していきました。鷲頭庄は瀬戸内海
(周防灘)に近く、また長門国深川は日本海に面した土地で、周防守護を務めたほどだ
つまり、水軍の指揮や船戦(ふないくさ)に長けた氏族で、土木の才もあったと推察さ
れるこの鷲頭氏や江島氏が、何故か海を捨てて、陸に上がったのである。多分に賊船で
あった一般の漁師や交易船などの通行料金の取りたてをやっていたであろうこの人々が
急に陸に上がったのには、この持ち場の特性に何か関係があるように思われます。鷲頭
氏は大内宗家との戦いに敗れてからは各地へ分散しますが、そのうちの一派が筑後江島
氏に仕えたと推察できる。江島氏も一時期龍造寺氏配下で成富茂安について出陣し柳川
を攻めている。この頃には、島原や五島列島或いは天草や長崎の者も大勢一挙に 陸に
上がって来た。この頃あったのが毛利と大友の海峡戦争であった。毛利の水軍は、大内
氏を下関に攻め立てたが、関門海峡を取った後は大友氏から依頼されたスペイン船が、
大砲を3発撃って門司城下航行している。又毛利が大友氏を攻めた時に、大友の城から
は何発もの国崩しと言う大砲が撃たれて毛利氏の水軍は引っ込んでしまった。

1739: 名無しさんAA:18/11/30 19:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   770  > 

1559年。北九州勢力の独立支援を大義名分に抱えた毛利家と、北九州の統治を狙う大友
家の戦いが開幕します。毛利家は先手必勝とばかりに最前線・関門海峡に築かれた城で
ある門司城を占拠。毛利元就との密約により毛利家は九州には攻めてこないだろうと思
っていた大友宗麟は完全に出鼻をくじかれている。大内氏からの連絡が遅かったのであ
る。すぐさま大友宗麟も大軍を率いて自ら軍を指揮し、門司城奪還へと向かいます。が
したたかな毛利は罠をはり周防灘で待っていたのは毛利の勇将達を率いる毛利家三本の
矢の一矢、小早川隆景。皿に毛利家自慢の村上水軍とその呼びかけに応じた各地の水軍
であった。これらの攻勢により敗退。門司城の奪還は失敗に終わり、大友軍は退却に追
い込まれる。その上追いうちをかけるように小早川隆景は水軍を率いて大友家の退却路
に先回りして襲撃し、この戦いで大友軍は思わぬ大被害を受ける羽目になりました。こ
の「門司合戦」では、毛利はゆうゆうと軍を進め各地の城を落として行った。と言われ
ている。しかし水軍船との両面作戦で沿岸の城を落とすのが関の山と見られていた。が
日を追う毎に、それは内陸に押し寄せた。毛利が文を送ったのは残った菊池や新参の龍
造寺や島津、更にキリスタンを嫌う長崎の諸将と四国の将である。こうして囲まれてし
まったが、ここに豊後の虎がいた。猛者の三将と言われた、高橋紹運や戸次道雪更に、
蒲池治久である。蒲池氏はあまり知られていないが、広く縁戚を持った坂東武者の九州
下向でいち早く菊池氏と共に生きた士族である。嵯峨源氏の源久直(蒲池久直)を直系
とし、久直は、平安時代後期の平清盛の全盛時代の仁安3年(1168年)には九州の肥前
国の天皇家直轄荘園の神埼荘(鳥羽院領神埼荘)に荘官(荘司)として下向している。
つまり諸将の頭として従五位下の貴族の位を保持した嵯峨源氏の源満末の孫として信望
が厚かったのだ。だから彼の動向には大友と言えども気を使った。当時の陣容も、蒲池
義久嫡子は繁久時代には、次男の大隈は今村氏(今村大隅の子孫は江崎家、内田家が残
る)を、三男の家久(鎮貞)は犬塚氏、四男の泰秀(久種)は酒見氏、五男の親房は城島氏
を名乗ってそれぞれ在地豪族の名跡を継いでいた。更に遠祖の蒲池氏の信任を受け、蒲
池繁久自身は大友氏の意向で、蒲池治久の時代の時に蒲池氏を兄・蒲池鑑久と弟・蒲池
親広の二家に分割し、同格大名分と分け、蒲池氏は柳川の蒲池鑑久の嫡流(下蒲池・家
紋:左三巴)と山下の蒲池親広の分流(上蒲池・家紋:下り藤)に競わせたが、失敗し
逆に家臣が大内氏になびき大友氏勢同志で戦う羽目になる。


1740: 名無しさんAA:18/11/30 19:39
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   771  > 

 もともと周防国を中心に大内氏は筑前守護も兼ねていた。その為筑後国の溝口氏、川
崎氏、星野氏などが大内氏になびいたため大友義鑑は重臣の田北親貞を総大将とする軍
を派遣。筑後からは蒲池鑑久が大友軍の一翼として出陣し、大内氏の影響を一掃する。
しかし大内氏は重臣の陶興房を使って筑後への浸透を諦めず、西牟田氏、溝口氏、三池
氏、大津山氏が大内氏に呼応し、筑後の諸将は反大友方になるが、蒲池鑑久は田尻親種
、草野鑑安と共に少数派ながら大友方につき、蒲池城は反大友方により包囲された。筑
後の黒木氏や三池氏、肥後国の小代氏と連合し大友氏に反旗を翻した時、五条氏、星野
氏、草野氏、問註所氏と共に大友氏側として出陣し、久憲以来の勲功を立てるほどの力
があった。この蒲池城には、池末、成清、山口、富安、矢壁、大木、田尻、中山、本郷
、原、丸野、大谷、池上、高松、藤末、中村などの蒲池累代の家臣たちが守り抜き、反
大友勢を筑後から撃退した。こうして、大友氏が評価するようになり、繁久は、豊後・
筑後の守護の大友親繁から「繁」の字を、その嫡男蒲池親久は、親繁の子・大友政親か
ら「親」の字をそれぞれ下賜され程だ。その後大友氏歴代当主は、蒲池氏の当主に対し
て名前の一字を与えることを通例とするようになり、蒲池氏も大友氏幕下の筑後国領主
として存続して、信任も厚かったのでる。ところが彼は情にも熱かった為の龍造寺氏の
寄客をした田尻氏を諫める事はなく原・成清氏の伴天連の宗教も又認めている。つまり
かの氏はこの200年続く九州治乱時代をバカバカしく思っていたが、「武士は相身互
い。」の精神そのままに生きていたのである。志岐氏はこの時やって来た天草五人衆の
一人であった。坂本大明神がその後再興させた位ですから鷲頭大和は江島氏の重臣であ
り、姻戚関係もあって、名字は違っても親族の一人であったのかもしれません。原文で
「再興仕候」(さいこうしそうろう)「再興した」と言いきっており、伝聞した模様で
はない。伝聞の場合は「申伝候」(申し伝えそうろう)とはっきり言葉を使い分けてい
ます。この表現の違いは、再興した人物が江島姓の者でなかったからでしょう。柳川で
「柳川3年肥後3月肥前筑前お茶の子細々」と言われてほど鉄壁の城だったが、それで
も、毛利氏と龍造寺氏に攻めれた時の大内陶軍の決死の戦いには、花園城、白鳥城、吉
富城、木崎城などの支城は廃城に追い込まれた程のもので、大木氏西牟田氏などは八女
に逃げ込む程だった。と言われる。

1741: 名無しさんAA:18/11/30 19:41
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   772  > 

 神社と江島氏の関係を書きたくない久留米藩の意向が見てとれるが、これは単に徳川
草創期に久留米藩には宗教騒動が起こっていたからであろう。実は江上氏や江島氏成富
氏も、本来柳川の、蒲池氏の配下であった。しかし、家老の鍋島氏に水ケ江城などが盗
られた事で龍造寺氏に兵をつけて3回も戦いに送り出す事を、人の好い蒲池氏は行った
のである。この時送った兵が馬場氏や江上氏江島氏などの元少弐氏側の重臣で肥前の近
くの者達である百武氏も又本来久留米近くの侍だった。その後天正13年「立花左近」
様の家臣「十時摂津守」殿が再興した。という。筑後戦国史には欠かせないこの人物が
立花左近である。立花左近とは柳川藩初代藩主「立花宗茂」の直臣十時摂津守であり、
柳川藩重臣で家老の「十時摂津守連貞(とときつれさだ)」だとされる。隣藩の領主と
家老の名前を公式文書に乗せるのですから、久留米藩としても、如何に言い伝えと逃げ
を打っていても、事実と認めなければできないこと。しかし 天正13年(1585)はまだ
蒲池氏の時代で、立花宗茂はまだ柳川の領主になっておらず、十時連貞と江島氏や江島
村との接点があった可能性は少なく、京でもやっと豊臣秀吉が関白に下賜され秀吉が宣
下を下した頃だ。まず年号からして怪しい訳で謎が残る。羽柴秀吉は、天正13年(1585
年)7月に「関白」へ就任し、続いて翌天正14年(1586年)12月に太政大臣となり、こ
のときに「豊臣」の姓を受けて豊臣秀吉を名乗ることになりました。この3年前、天正
10年(1582年)に織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が発生し、秀吉が光秀を
討つことで、まず織田家家臣としての自らの地位を引き上げ、以後対立した柴田勝家ら
を破って天下人となった。本能寺の変から「関白」に秀吉が就任までの期間はわずかに
3年程でした。しかも秀吉が官位を初めて得たのは、天正12年(1584年)10月に従五位
下左近衛権少将に叙位任官された時であるから、官位もなかった者が強さのみで天皇が
承認をした事になる。天正二年の正月には信長の残虐性が新たになった年だった。恒例
の祝賀に清州城で、三杯の大きな盃・外側には梅の模様が描かれ、内側に銀色の漆が施
されていた杯が出された。三杯の盃は柴田勝家・丹羽長秀・明智光秀の所に差し出され
、触れてみて何となく手触りが柔らかく、わずかながら生臭い臭いがした。最初に飲ん
だ勝家が、首をかしげながら訪ねると「これは奴らの髑髏で作らせた盃である。遠慮は
いらぬ、もっと飲め」といかにも楽し気に髑髏の盃を回させた。先の「越前一向宗掃討
」で、門徒衆の降伏を許さず「皆殺し」を実施し、この月半ばのわずか五日間だけで1
万2千余人を殺しし、他に降伏して捕らえた者、3〜4万人いたが彼らも手足を縛った
うえで、生きたまま焼き殺し、その中から高僧の骸の頭を盃に作ったものだった。

1742: 名無しさんAA:18/11/30 19:41
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   773  > 

 つまりこれは、そうした過酷な下剋上の時代の一場面に過ぎない事を物語っていた。
このことが後の、秀吉や家康の伴天連追放令、いわゆるキリスト教の禁教令に繋がった
ものだ。信長は宗教は別にキリスト教でも仏教でも構わなかった。彼の目的は天下布武
つまりこの織田信長以外の君臨者つまり治める国の他の王を許さない事にあった。それ
が領民の信仰でも税の帰依でも何でも構わない。兎も角は織田信長と言う新王をあがめ
奉り、いう事を聞け。というものだったのだ。従って家臣にも横柄であった。天正四年
、一月半ばに「安土城築城」の為に現場にきて満足そうに見上げる信長に、光秀の敗報
の知らせが入る。それを聞き「直ちに安土へくる様に伝えよ」と言ったと言われこの頃
から、横暴さは家康さえ目を背ける物があったと言う。信長は柴田勝家に対して「ひげ
くじら」羽柴秀吉の事を「はげざる」光秀の事を「きんかん頭」と言い出した。勝家や
秀吉は「信頼の証」と受け取っていたものの、光秀始め、多分に侮辱的な呼び名には、
常に不快感が漂っていた。「そうか、信長殿にとって、それがしはキンカン頭であるか
」光秀は、重臣達の前でそう呟いたと言われる。1576年、「石山本願寺攻めの為、兵の
過半を割って与力せよ」との信長の命が下る。丹波平定の最中に、一年半も天王寺砦へ
の攻撃をせざるを得なかった。この時黒井城攻略に失敗した光秀は悩み、主君・信長が
耳にすれば激怒し、もしかしたら丹波平定の任務を解かれるばかりか、近江・坂本の城
と領地も召し上げられてしまう。「惟任日向守」は滅びた九州の名族の事をさしていた
為、光秀は自分がいずれ、九州の果てにまで行かせて働かされる。という不安の中での
、光秀は京に呼び寄せられた。そして信長は「大和一国を采配せよ」と言うのである。
固辞した光秀は「筒井順慶」を勧めると、信長はその伝達と仕切りを命じ、光秀は直ち
に兵を率いて奈良に赴き、数日かけて大和の仕置きを終えると、その足で「天王寺砦」
へ帰るという過密なスケジュールをこなした。光秀49歳の時である。光秀の「天王寺砦
」では突如目眩と肩が抜ける様な疲れを感じ激しく倒れた。「先がよく見えない、手足
も言う事をきかぬ」と意識が朦朧となり、胸から腹にかけて絞る様な痛みが奔る。微熱
・悪寒・嘔吐が治まらず、行く先を当初の坂本城から京へ変え、曲直瀬道三の診断を受
ける。「明智殿のお体は凝り固まり、まるで石の様で御座います。このまま働き続けれ
ば、命を捨てる事になる、積年の疲労による全身的な虚脱、長期の安静が必要。」とい
う診断で京の吉田兼見邸で療養することになる。現代医学であれば「神経症」と診断で
きる。


1743: 名無しさんAA:18/11/30 19:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   774  > 

 織田軍団の強さは、抜きんでた日産のゴーンの様な非情な首切りの仕上がりにある。
「実力主義に徹し、適材適所の人事抜擢」を成形していた点で抜きんでていた。その反
面、無能と判断した家臣は容赦なく切り捨てていった。「本願寺攻略」を果さなかった
佐久間信盛親子などの、長年仕えた長老クラスでさえ、追放されたのである。10年以上
にも渡り、精一杯尽くしてきた光秀にとっては、自分のプライドを傷つけられた挙句、
領地召し上げなどと考えただけでも「お先真っ暗」になっていく想像が常に頭から離れ
ない状況にあればこそ「不安神経症」の進行=「本能寺の変」と突き進んでいった。「
仕事熱心・凝り性・徹底主義・几帳面・強い義務責任感・対人関係の悩み・居住環境の
変化・地位的状況の変化に競争。」全て明智光秀に当てはまるものと言えるのである。
不安神経症発病の症状が出ない筈はない。しかし「長期の安静」など、信長が認める訳
がない。信長は驚嘆すべきサゾでパワハラリスターだった。信濃国の反武田氏勢力が信
長のもとに集結した際、光秀は「骨を折った甲斐があった」と口に漏らした。しかし、
光秀は実際に戦った訳でも勢力結集の為に働いた訳でもなく、たんに信長のお共として
来て兵站を整えたに過ぎなかった。それをたまたま通りかかった信長が耳にしてしまっ
たのである。「このキンカン頭!お前が、いつどこで骨を折ったというか!」家康始め
諸将の面前で怒鳴りつけ、光秀の襟首を掴んで、今にも素手で殴りつけようとしたのだ
。家康らが慌てて止めに入った為、信長も掴んだ手を離したが何やらブツブツと言いな
がら立ち去ったという逸話がある。『祖父物語』に書き記されたものである。那波直治
は稲葉家を離れて光秀に士官した地侍いだった。怒った一鉄は信長にこの件を訴えた。
光秀は以前にも稲葉家から斎藤利三を士官させており、これで二人目だったがこの一鉄
の訴えを聞いた信長は、光秀に命じ直治を稲葉家に返還させ、斎藤利三には「自害」を
命じていた。しかしこの時は信長配下の猪子高就のとりなしで利三は助命され、光秀に
仕えていた。こうした事で信長は光秀に怒り、頭を二・三度叩いたとある。その時に頭
の薄い光秀は「付け髪」が落ちたという伝説すらある。フロイスに書かれている内容で
は、催し事(家康の饗応)の準備に、信長は密室において明智と語っていたが、元来、
逆上しやすく、自らの命令に対して反対(の意見)を言われる事に堪えられない性質で
あったので、人々が語るところ、彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返す
と、信長は立ち上がり、怒りを込め1度も2度も、明智を足蹴にしたという事である。


1744: 名無しさんAA:18/11/30 19:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   775  > 

 当時の文献では、天正十年の信長の振る舞いは病的な程にヒステリックである。物事
を裁量する際の独断と専攻、家臣達に対する短気とわがまま、光秀が「不安神経症」と
診断するならば、信長は「ヒステリー神経症」だったのだろう。これらには西洋丸薬な
どが体を蝕んでいたのかもしれない。ヒステリーは、症状が現れても苦しんでいる様子
がなく、むしろ病気になる事に無意識の満足を感じている様に見える面がある。とされ
る。特にヒステリーになりやすい性格は、虚栄心が強く、自己顕示的で他人の注意を引
きたがり、暗示性に富み、自己中心的・未熟・依存的で感情浅薄で気が変わりやすいと
いった症状が見られる。文献として、フロイスの『日本史』が当時の信長と光秀の関係
を、一番正確に記した物だと思われる。現代医学的説を考慮するとすれば、「不安神経
症」になった明智光秀の耳元で悪魔の様なささやきをしている斎藤利三の影がうっすら
と見えてくるの程である。「手柄の割りには、禄高がすくない」と稲葉家から出奔した
斎藤利三の弁である。ここに明智光秀の人柄と真面目さと信望を巧に操っていた感がぬ
ぐえない何かを見せる。「本能寺の変」とは「不安神経症とヒステリー神経症」を患っ
た二人の患者の争いだったのは事実だろう。問題はその裏に操っていた者らの姿である
。光秀は信長から「近江・丹波」を取り上げられ「岩見・出雲」に移される予定であっ
たという説がある。「岩見・出雲」は中央から遠く離れており、しかも半ば実力で支配
を命じられる有様であったという。この様な仕打ちを『左遷された』と光秀は思い込ん
だのは当然だろう。更に秀吉の時代になっても信長の野望であった九州平定・朝鮮征伐
を行っている。此の事には九州の武将や大名達は、大友氏以外は大反対であったはずだ
が最終的にはそれを行っている。つまり天下布武の武断政治をそのまま行われているの
だ。ここに宣教師たちの働きを見る事が出来る。アルメイダ街道では、その頃流行り病
であった天然痘を受けて命を長らえた子供が2千人ほどいたであろうと推定される。天
然痘ウイルスは病原体感染症の一つで日本では度々発生したが押さえられ撲滅した物だ
。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)といい、一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の
語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出
である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%
と高く。仮に治癒しても瘢痕(あばた)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した
感染症であるが、日本では、恐らく古代から外国人が来訪し持って来るものだったろう



1745: 名無しさんAA:18/11/30 19:46
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   777  > 
 ヨーロッパからアメリカに入ったが、ことに天然痘の被害は最大のものでありアメリ
カ・インディアンは天然痘の免疫を持たなかったため全く抵抗力がなく、所によっては
死亡率が9割にも及び、全滅した部族もあった。天然痘は猛威を振るい、圧政や強制労
働、麻疹やチフスなど他の疫病も相まって、征服前の人口が推定2500万人だったのに対
し、16世紀末の人口はおよそ 100万人にまで減少し、中央アメリカの先住民社会は壊
滅的な打撃を受け一割以下の人口になっている。またインカ帝国においては侵攻を受け
る前に、すでにスペイン人の到達していたカリブ海沿岸地域から天然痘が侵入し、現在
のコロンビア南部において1527年ごろに大流行を起こした。この大流行によって当時の
インカでは、皇帝と皇太子がともに死去し、空位となった王位をめぐって二人の王子が
帝国を二分する内戦を起こした。この内戦はアタワルパの勝利に終わったもののインカ
の国力は疲弊し、スペインのピサロによる征服を許す結果となる。さらにインカ帝国お
いて征服後は天然痘をはじめとする疫病が大流行し、先住民人口の激減を招いた。北ア
メリカでは白人によって故意に天然痘がインディアンに広められた例もあると言われる
。フレンチ・インディアン戦争やポンティアック戦争で、イギリス軍が天然痘患者汚染
された、毛布等の物品をインディアンに贈って発病を誘発・殲滅し、19世紀に入っても
なおこの民族浄化の手法は続けられた。との説がある。モンタナ州のブラックフット族
などは、部族のウェブサイトでこの歴史を伝える。しかし、肝心の英国側は作戦を行っ
た証拠の記録は無い。という。天然痘は、日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島から
の渡来人の移動が活発になった頃、6世紀半ばに最初の流行が見られる。折しも新羅か
ら弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なった。日本古来の神
をないがしろにした神罰という見方があり、仏教を支持していた蘇我氏の力が低下する
など影響がでたのだ。それ以降度々流行したが、奈良の大仏造営のきっかけの一つが、
この天然痘流行である。ヨーロッパや中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて
江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。天皇さえも例外ではなく、東山天皇
は天然痘によって崩御している他、孝明天皇の死因も天然痘との記録が残る。ところが
この三橋の島田天満宮社には、この天然痘から救った牛の記録が残る。昔から子供達の
驚風8きょうふう:ひきつけ)・高熱・安全の神様として古くから信仰されている神社
で、1719(享保4)年に創建されたと言われる。島田天満宮は菅原道真公が祭られてい
ます。、健康祈願に訪れる。祭神には、平安時代に多方面で活躍した菅原道真公が祀ら
れていて、学業成就なども祈願することもある。風疹の神とされ、かつてここで紅毛人
が施しを行って八女と同じに何人もの人が助かったとされる。その為三橋薬品は出来た

1746: 名無しさんAA:18/11/30 19:52
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   778  > 
 立花氏が奇跡の復活をして、徳川政権下で再び柳川領主となった時は、江島も四郎丸
も久留米藩の領地となっていた。隣の藩領に神社を建てるなど、普通はできません。実
は神社再興の時代は江戸期に津村判定で宗茂は柳川領主ながら久留米に仲が良かった。
調べた限りは、江島、四郎丸は十時連貞の知行地ではなかった。では何故連貞は神社を
復興したのか。傍証資料から、江島氏は立花家の家老クラスの重臣の与力として参戦し
ていた。おそらく、秀吉の朝鮮出兵の際に、宗茂と共に朝鮮に渡った連貞の与力として
、江島氏に何らかの功績があり、神社再建はその返礼ではないかと推測できる。連貞は
前述の江島美濃守麟圭とは同時代の人ですから、両者には深い関係があったのかもしれ
ません。ひょっとしたら共に戦った事もあるかも。江島氏が戦禍で失った四郎丸の神社
を再興するにあたり、十時連貞が神社をプレゼントしてくれたか、あるいは立花家内の
根回しと資金的援助を行ってくれたのかもしれません。実は朝鮮征伐はかなりの問題を
含んでいた。朝鮮は1400年頃の壱岐・対馬征伐を行い日本側に大きな負担をした。此の
頃丁度応永の乱が始まり大内義弘が足利義満に叛し堺で挙兵して九州の守りが統率のな
い時代で九州騒乱時代だっただが(1401年)足利義満は馬鹿げた事に遣明使を派遣。日
明貿易への第一歩を踏んでいた。その後後小松天皇が称光天皇に譲位。称光天皇践祚(
せんそ:禅譲)して称光天皇即位したが、天皇の勝手な宣下で日本国中争乱の中だった
。(1416年)上杉禅秀の乱が始まる。(1419年)応永の外寇(李氏朝鮮の対馬侵攻)が
起こったが(1421年)には伊豆大島が噴火した。日朝の取締強化によって前期倭寇は減
退の傾向を見せていたがしかし1419年、太宗上王と世宗が応永の外寇(己亥東征)を、
実施して227隻 1万7千余の大軍勢で、壱岐・対馬を侵攻し、応永の外寇は九州に深刻な
事態に陥っていた。将軍足利義持は明が朝鮮と連合して攻めてきたのかと驚き、京都で
は三度目の蒙古襲来という噂が広がり衝撃が広がっていたものの何も出来ないでいた。
幸い、この外寇はいち早い宗貞盛の機転で、僅かな手勢によって撃退され、台風を恐れ
て撤退させた。結局、これが朝鮮側からの最後の日本侵攻となったと言う。前期倭寇は
、明の海禁、勘合貿易が始まるなどしたことで1444年頃にほぼ終息した。宗貞盛は幼名
都都熊丸。通称は彦六・右馬と言われた。1418年、父の死により、後を継いで当主とな
り少弐氏と一緒に撃退し、翌年、李氏朝鮮の軍勢に対馬を攻められた(応永の外寇)が、
奮戦し、両軍膠着状態になった際にも、貞盛は朝鮮軍の要求を拒絶したうえで朝鮮の使
者に対して暴風雨が近づいている事警告し、停戦修好を求めた。戦後、貞盛は李氏朝鮮
との関係修復・強化に努め1441年には日本人が朝鮮近海で漁ができる権利を獲得(孤革
島釣禁約)した。

1747: 名無しさんAA:18/11/30 19:53
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   779  > 

 その後も宗貞盛は、朝鮮と嘉吉条約を結んで、対馬における所領を安堵されて、交易
による利益を独占していた。ところが同じく朝鮮との交易に目をつけていた大内氏と敵
対し、宗氏の主筋であった少弐氏と共に大内軍と戦ったが敗れて多くの領土を奪われて
しまったのである。また、大内氏によって所領を追われた少弐嘉頼を庇護している。し
かし他方、朝鮮は国内の居留日本人に高い規制を掛けた。その為日朝貿易の増加は規制
が増え、通交統制となって、1510年に恒居倭人(朝鮮居留日本人)の反乱である三浦の
乱を生んだ。これより前,朝鮮王朝 (李朝) は海防を強化して倭寇にそなえ,懐柔や武
力討伐などの倭寇壊滅策をとる一方で、日本には使臣を送り倭寇禁圧を要請した。日本
でも室町幕府の統制が強まって西国の有力守護や豪族などが倭寇禁圧と倭寇に拉致され
た朝鮮人捕虜の送還に努力した。こうして朝鮮王朝と鎌倉幕府、西国領主の封建領主間
に交易関係が結ばれ、使節の相互往来が盛んになった。朝鮮の三浦「薺浦(せいほ)富
山浦(ふざんぽ)塩浦(えんぽ)」に限って交易を認めた。日本側も倭館を設け、三浦
に住む日本人は恒居倭 (こうきょわ) と呼ばれた、世宗18(1436) 年には 60戸の居住
が許されたが、15世紀末には薺浦 347戸,2500名,富山浦 147戸,453名,塩浦 51戸,
152名 の多数に達した。数が次第に増加するにつれ、密貿易など違反者、非行者が続出
した。片貿易や国庫の欠亡に苦しむ朝鮮王朝は、中宗が即位すると改革の一環として、
日本貿易にも厳重統制を加えて、大幅な恒居倭の居住権も制限した。当時自治を持って
いた恒居倭は、当然大反対し対馬からの兵船数百隻の応援を得て反乱を起した。しかし
朝鮮の圧倒的な軍事力の前に敗退しその結果,日朝間の通交貿易関係は断絶したのであ
る。2年後に壬申条約が結ばれ修交関係の復活をみたものの、薺浦1港に限られ歳遣船
歳賜米も減少し、恒居倭は全く認められなかった。これまでは、1443年の正統癸亥約条
嘉吉条約が存在していたが、この1510年の乱で、対馬の宗氏と朝鮮との関係が断絶した
。困った宗氏は有力者の大内氏や室町幕府に援助を求めた。日本から幕府の使節が再度
渡航して懇請し、1512年 (朝鮮,中宗7年。日本,永正9年) に在来の「正統癸亥約定」
を大幅に修正した新約定が成立した。これがすなわち「壬申条約」である。主要内容は
(1) 三浦の居留民を承認しない。(2) 宗氏の渡航する使船の半減。(3)在来朝鮮での特
権の廃止。(4)往来の港を斉浦「乃而浦(ないじほ)」のみに限る。などだ。こうして、
日本の対朝鮮貿易はきびしい制限を受けることになった。

1748: 名無しさんAA:18/11/30 19:53
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   780  > 

 実はこの中に興利倭船(こうりわせん)の廃止があった。興利倭船とは、室町時代、
日本から朝鮮へ交易のみを目的に訪れた商船で別名興利船と言われた。これは古くから
の私設の物々交換の漁民船だったが、朝鮮動乱で壱岐対馬に移民してきた事情か島に米
などの食糧が無く弁も通じた。しかし朝鮮王朝建国期に倭寇が猛威を奮っており、朝鮮
王朝は交易の利を持って倭寇の沈静化を図った。九州探題や守護・国人のような大勢力
に対し外交と公貿易を兼ねた通交が許可され、それら通交使節を派遣する船は使送船と
呼ばれた。一般庶民に対しても朝鮮に来港し自由に交易を行うことが許可され、こうし
て派遣された交易船が興利倭船だった。交易のみを目的として訪れる日本人は興利倭人
もしくは興利倭と呼ばれた。興利倭船の担い手は平常は漁を行なっているような庶民で
あり、使送船のように胡椒・丹木・銅のような高価な物資を取り扱うことは出来ず、塩
や魚をもって米穀に替えていた。興利倭は倭寇の転身したものであり、明で倭寇を働き
その略奪品を持って朝鮮へ交易に訪れる、あるいは船中に武器を携帯し防備の厚い所で
は交易を行う一方、防備の薄い所では倭寇と化す者もあり、朝鮮王朝にとって油断のな
らない相手であった。1400年、朝鮮王朝は興利倭船の入港場を釜山浦・薺浦(慶尚南道
昌原市)に限定するが徹底されず、1407年に居住地領主の行状(渡航証明書)の所持が
義務化されるなど規制を厳しくした。こうした入港場の制限は興利倭の生活を困窮させ
るものであり、1427年に倭寇出身の対馬の実力者早田左衛門太郎が慶尚道全域において
任意に交易出来るよう朝鮮王朝に請願するが拒絶され、代わりに塩浦(蔚山広域市)の
み入港場に追加された。その後も早田氏・宗氏などにより入港場の増設が請願されるが
許可されることはなかった。入港場の制限に伴い、取引相手が付かず長期滞在し、民家
に散入し押し売りを働く興利倭が出現したりする。朝鮮王朝はそうした買い手の付かな
い物については王朝が買い取ることで興利倭船の早期出港を図ったりした。こうした興
利倭船はみな対馬などの島を根拠地としていたと考えられている。朝鮮王朝建国当初に
おいては対馬以外の地域からも興利倭船が派遣されていたが、入港場の制限・行状所持
の義務化・文引制の施行等、通交統制が進み通交経費の増加に伴い、対馬以外の地域か
ら派遣される興利倭船は姿を消すことになる。1510年、三浦の乱において宗氏及び恒居
倭(三浦に定住していた日本人)の蜂起が失敗に終わると、壬申約条において興利倭船
は禁止され、以降姿を消した。47年に「丁未約定」が結ばれ,さらに57年の「嘉靖丁巳
約定」によって多少修正が行われ,豊臣秀吉の出兵まで継続された。

1749: 名無しさんAA:18/12/27 10:49 ID:YYM
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   781  > 

 よく坂東太郎筑紫次郎などと称されるが、これは江戸時代の単なる語呂合わせに過ぎ
ない。大川の風浪宮社伝では、もともとは柳川の安曇磯良丸が元祖であり本家であった
為に、この酒見城の風浪宮を次郎と称したようだ。又酒見城と風浪宮社は今では一帯が
一つとなっているが、まだ酒見城があった頃は小さな社が他にあった様だ。かつて次郎
丸とされたここらの人はこうした海の戦いに連れ出され戦士となった。埴安神社(はに
やすじんじゃ)は次郎丸の氏神様である。この地は南に背振山、東に油山、西に飯盛山
を望み、室見川に接し、早良平野のほぼ中央に位置しているとされる。埴安神社がいつ
ごろから祀られ、今日に至ったかについて、埴安神社明細書には「埴安神はかく鎮座、
年代は不明なれども最初次郎丸字庄ノ町参百九拾番地の一に鎮座したることは棟札によ
り明らか。」とある。この地は今も「古宮跡」といって石碑が残っている。(社より北
西に約三百米)現在のような神社になったのは、今から三百三十五年前、江戸時代寛文
年間に宝殿一宇を建立したことにはじまる。又、天明年間には「拾陸天神社」として祀
られたことは定か。この古額は今も神殿に祀られている。神紋が「梅鉢」であり「牛の
石像」があることからも、うかがい知ることができる。以下由緒について「棟札の写し
」より抜粋しここに記す。拾陸天神(じゅうろくてんじん)は、じつは33間堂と同じ
く16面の2面皮観音を示し、表の顔と裏の顔の世間が16X2=32相をもつ中で、
自分の本願の大日如来の1身を足して33とする世界を示した陰陽道に即した仏願御堂
である。関ケ原の戦いで負けた西軍に、江上八院の戦いが起こる迄は、江島氏は国人領
主として安堵されていた。江島、四郎丸は十時連貞の知行地ではなかったがそれまでは
支配地だったのである。社方開基にある二度目の四郎丸、坂本大明神の再興の時は江島
氏はまだ四郎丸の領主だったのです。十時摂津守と江島村との関係についても何の表記
がありません。江島、四郎丸が以前、立花家の支配下にあった事は、当時誰もが知って
いることだが、十時連貞は永禄12年(1569年)に父と兄・惟則が多々良浜の戦いにおい
て戦死すると家督を継ぎ、筑前国那珂郡板付村のうち30町歩の所領を相続した。その後
天正9年(1581年)、嗣子の無かった道雪が高橋紹運の長男・立花宗茂を養子に迎え、
道雪の命令で宗茂付の家臣となった。天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州征伐が始ま
ると、島津の人質となっていた宗茂の生母・宋雲院と弟の高橋統増を救出している。宗
茂が柳川に入ると筑後山門郡内で三潴分33町歩の所領を与えられ家老となった。


1750: 名無しさんAA:18/12/27 10:50
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   782  > 

 大正十四年発刊の「三潴郡誌」では四郎丸村の坂本神社の祭神が大山咋命だけになっ
ていました。「三潴郡誌」発刊当時の三潴郡に関する内容は驚くほど詳細に紹介されて
います。神社の内容について、取材漏れ、記載漏れがあったとは思えません。四郎丸の
坂本神社の祭神から高良玉垂命が外されたのは、江戸期以降高良山の権威と力が弱まっ
た事。住吉神が外されたのは江島氏が武家でなくなった事。また船や航海に関係のない
一族になった事に関係しているのではないかと思われている。住吉神は航海の神である
とともに戦いの神、軍神でもありました。前回も少し触れましたが、慶長(1596―1615
)年間に四郎丸江島氏の当主と思われる「江島四郎左衛門」が「青木鼻」と呼ばれてい
た湿地を開きます。続いて元和三年(1617)、家臣と思われる「鷲頭右京」と「江頭正
玄」が当地を青木島村と称して新開を計画しました。実はこの「江頭正玄」という人物
も「鷲頭右京」同様に、水軍に関わりの深い人物ではなかったかと思っています。江頭
と言えば佐嘉鍋島村江頭の「江頭摂津守」を思い浮かべられるでしょうが、私は「近江
江頭氏」の出自を持つ人物ではなかったかと考えています。太田亮(著)の「姓氏と家
系大辞典」によると、「元は江州、佐々木氏の臣。故ありて肥前に移り、大村純前公の
恩名を蒙りて臣となり川棚村に住むと云う。近江圀野洲郡江頭邑よりおこりしならむ」
。とあります。江頭村は現在の近江八幡市の江頭町でしょうか。今では琵琶湖から少し
離れていますが、昔は琵琶湖の入り江に位置し、江頭氏は水軍であったと言われていま
す。この後、江島四郎左衛門、鷲頭右京、江頭正玄は青木島村に移り住み、鷲頭、江頭
両名は帰農したようです。また四郎左衛門は藤原正喜と改名しましたが、江島姓を名乗
らない方が都合の良い状況があったのだろう。後に四郎左衛門の子孫は造り酒屋をして
いたとの記録があるようです。「青木鼻」とは筑後川に突き出た青木の岬という意味で
すが、岬の付け根辺りは入り江になっていて江島氏の軍船が何艘も泊まっていたのかも
しれません。四郎丸村から江島氏と家臣達が青木島村に移ってしまうと、四郎丸村は田
畑仕事にいそしむのどかな村へと変わり、江頭氏や江島氏の守護神、住吉神も徐々に忘
れ去られていったのだろう。柳川は浦島太郎伝説のふるさとではないだろうか。と時々
ふと思う事がある。ここ2〜3年で馬鹿げた都市開発で柳川の風情は消えてしまったの
だが、その理由はいまでも柳川の太郎信仰は消えない。つまりいつでも、「早稲物好(
わせもんずき)」のままであるからだ。



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