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モラハラ相談
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348: 09/23 19:53
 テキサス周辺の石油開発すらままならなかったハークン石油という小さな会社が、合
併から4年後の90年1月にアメリカの大手石油会社が狙っていたペルシャ湾岸のバー
レーンの有望な油田開発をバーレーン政府から単独受注し、業界関係者を驚かせた事は
業界の謎であったが、又この7ヶ月後、イラクがクウェートに侵攻し、ペルシャ湾岸が
騒然となった事も謎だった。後で絞首台に上ったイラクのフセイン大統領は記者のイン
タービューに、米国の了承を得て兄弟の国に入った。と話している。当時はブッシュか
レーガンでありどういう外交ルートだったかは不明だがCIA関係では、逆にそそのか
した可能性は強い。と言うのもクェート侵攻となっているがフセインは駐留と言ってい
るからだ。イラン・イラク戦争では、クウェートはイラクを積極的に支援している。不
思議にも、イラク南部の港湾のバスラ戦闘により被害を受けたが、クウェート港を開放
し助け、また 約400億ドルの資金を提供している。終戦後もイラクはクウェート負債を
返済するために、石油の減産による石油価格の上昇を目的に、石油輸出国機構(OPEC)
を通じて石油の減産を求めている。しかし、OPECはイラクの求めに応じなかった。
そればかりかクウェートすら、サウジアラビアと共に石油の増産を行っていったのだ。
クウェート・サウジアラビアの石油増産政策に対して、イラクは増産中止と石油価格の
値上げを訴えるも拒否されたイラクは、クウェート国境付近に軍隊を動員して威嚇した
。アラブ諸国は単なる脅しと見て、懐柔案による解決を考えていた。欧米諸国も同様の
考えだった。又、最悪の場合であってもイラクが領有権を主張していたワルバ、ブービ
ヤーン両島に軍を進めるだけの局地的な紛争に留まる。と判断していた。実際、イラク
側の作戦計画でもクウェート北部への限定攻撃とされていた。しかしこの計画が、侵攻
前々日の7月31日に急遽計画が変更され、全面侵攻とされた。この為、イラク軍すらも
十分に準備して侵攻を行なうことができなかった。とくに兵站物資の配布には極めて、
不十分な状態であったのだ。誰がこの処置を命令したかは今だに謎である。又、湾岸の
油田開発に資金を貸していた金融機関はいっせいに金を引き上げたが、この時ハークン
石油は倒産の危機に瀕した。こうした動きが始まる直前の1990年6月には、何故か
ジョージ・Wはハークンの株を売却し終わっていた。その1週間後、ハークンは業績悪
化を発表し、株価は急落した。これに対してはインサイダー取引の疑いがあるとして、
証券取引監視委員会(SEC)が調査を開始したが、結局何のおとがめもなしだった。
後日、ジョージ・Wが政治の中枢に入る前ジャーナリストがこの株取引に関して調べよ
うとしたが、SECが保管していたはずのファイルは、行方不明になっていたのである

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