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モラハラ相談
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359: 09/23 20:06
     世界閲覧 35      死者の魂と共に生きて  044     

 1844年、23歳のヘンリー・リーマンはバイエルン王国のリムパーという町からアメリ
カに移民し、南部アラバマ州のモンゴメリーで日用品店「H.リーマン商店」を開いた。
弟のエマニュエルとメイヤーが相次ぎ移民して来たために、1850年に店名を「リーマン
兄弟商会」(リーマン・ブラザーズ)に変更する。しかし5年後1855年に長兄ヘンリー
が死去。残ったエマニュエルとメイヤーが経営を引き継ぎ、南北戦争で南部連合が敗戦
した後は、アラバマ州の復興を資金面で支えた。間もなく本部をニューヨークに移す。
1870年にはニューヨーク綿花取引所が開設され、リーマンもこれに協力、エマニュエル
は同取引所の取締役を1884年まで務めた。この頃、リーマンは鉄道建設債券市場に参入
し、後に主力業務となった金融アドバイザリーを開始した。1887年に、ニューヨーク証
券取引所の会員になって金融機関への転換を果たした。1899年には、同社初となる社債
の引き受けを行った。創業者エマニュエルの息子で2代目社長のフィリップは、ゴール
ドマン・サックス(GS)との提携を進め、GSとともに、20年間で100社以上の
社債を引き受けた。フィリップは1925年に退任し、イェール大学卒の息子ロバートが跡
を継いだ。イェール大学は、ラッセル社が創った世界の秘密結社を集めた「スカルアン
ドボーンズ(しゃれこうべと骸骨の秘密結社)」の総本部で、世界征服の陰謀を画策し
たと言われている。世界恐慌を受けた時、一時期経営危機に陥ったものの、個人投資家
や合併を積極的に支援することでこれを乗り切った。リーマンのベンチャーキャピタル
業務の原点であった。又このリーマンがインドの綿花を探した時、更に安い中国綿花を
イギリスに送った。その後も長崎グラバー商会に投資し、その時日本のお茶をアメリカ
に送り、南北戦争後の鉄砲を安く仕入れて日本で売り捌いたのである。こうして英国の
国営軍産部門のラッセル社、金融部門のゴールドマン・サックス、販売部門リーマン・
ブラザース、販売代理店グラバー商会、がドイツからの兵器輸入の壁になっていたのだ
。こうして、南軍と、北軍は、資金源と兵器の供給源が「同一」であり、ゴールドマン
・サックスと、ギャンブル投機で戦争を行う「敵」であったはずのリーマン・ブラザー
スは、ゴールドマン・サックスと資金を融通していたのである。当時に南軍=敵軍に潜
入し、敵軍を買収し、物資を調達し、スパイ活動・諜報工作を専門とする軍事商社がな
い頃、その能力を買われたのがリーマン・ブラザースであった。そして、アメリカの内
乱である南北の対立・戦争に乗じ、「金儲け」しようとするヨーロッパの武器商人=戦
争商人のラッセル商会の先兵として、軍事商社リーマン・ブラザースは投資会社に変貌
した。そして日本の開国もこのリーマンの投資が支えていた。
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