ちょっくらごめんよ


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ちょっくらごめんよ

1: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:47
ここ借りるわ。
誰もいない(ことになってる)みたいだし。

2: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:48
本文は以下。

3: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:48
 これは現代の精神医学において、信用するにあたらない精神科医に不幸にも統合失調症と診断されてしまった犠牲者達、そして何らかの原因で自分の自明性を疑い精神

科へ掛かろうかと考えている人々、そしてまた盲目としか言い様の無い人々への助言である。

4: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:49
 私が以下で使用するパラノイアという言葉はフロイトが定義したそれに近いものと思ってくれればよい。念の為に断っておくが私はジークムント・フロイトの信者では

ない、私はこの男が大変に嫌いである。
 ところで、まず明言しておく。パラノイアになるということは地獄の苦しみを味わうということである。それは健常人各々方の想像の斜め上辺りをいくものだと思って

覚悟しておいてもらった方がよい。まず自己の自明性が大きく失われる。平明な言い方をすれば、自分に自身がなくなるということである。そこから女性的な他者への依

存心というものが生まれる。そしてパラノイアとは他者への害意性に凝り固まった人間とほぼ見なしてよい(そもそもparanoiaの接頭辞para-というものが「以上」「以

外」「不正」「不規則」という意味合いを表すものでありつまりparanoiaとは直訳するならば「人外」という意味である)。
 精神科医はおそらく、時代時代に合わせて発案者・考案者が定義した言葉の意味を都合のいい様に歪めて使用している。つまり、省察を省いて結果論だけで言うならば

、今やパラノイアが正常な人間であると見なされうるような風潮を作っている連中が社会の上層に存在する。薬理学にのみ頼る精神科医はその手先の一つであり、おそら

くマスコミ・有名人(芸能人)の一部もその手先の一つに過ぎない。
 ちなみに現代の精神医学が定義するスキゾフレニーなるものは、フロイトの定義したパラノイアを都合よく歪めたものであって、その定義が全くもって曖昧であり思慮

に値しない。まず精神科の診療室へ入る。精神科医がクランケを見る。「はい、あなたは統合失調症ですね」。おわり。これは患者をナメているとかそういった次元の話

ではなく、上述のパラノイアが正常な人間であると見なされうるような風潮を作っている連中にとって都合のいい行いを、その手先である精神科医が行っているだけであ

る。

5: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:49
 精神分裂病(Schizophrenie:独)という名称が「まるで理性が崩壊してゆく病気であるかのような印象を与える誤解を招く」として7、8年前に統合失調症という名称

に改められたそうだが、とんでもない、この病気の対策として行われる抗精神病薬の投薬によって理性が崩壊してゆくのだ。これは何種類もの薬物を自身に投与して実験

した私の経験に基づいている。もし試したければ何らかの手段で統合失調症用の抗精神病薬(メジャートランキライザー)を入手して飲んでみればいい。しばらく時間を

置いて、後頭部右斜め後ろの頭表筋やもしくは脳そのものの右斜め後ろ部分(?、定かではない)、ともかくその部位に異様とも言える感覚で意識が集中し、グルグルと

被害妄想や忘れたはずの過去自分に害を与えた人間の思い出がまわりだし、非常に苦しい状態へと陥ることが理解できるだろう。投薬を繰り返し、この認識を繰り返して

いると接する人間皆敵としか考えられないという状態へと陥る。発狂である。そしてこの状態で眠ると必ず悪夢を見る。もはや覚せい剤等違法薬物と何ら違いは無いと考

えて差し支え無い。

 具体的に説明するならば、商品名リスパダール(特に液状)は最も飲んではいけない薬であり、極限の地獄を味わうことになる(予想通り大多数の精神科医はこのリス

パダールを第一に処方したがる。製薬会社との利権の絡み合い等もあるのであろうが)。その他の非定型抗精神病薬はリスパダールよりは苦痛の程度はマシだが主に肝臓

を重度に痛める(よって肥満の原因にもなる、エビリファイ、ルーラン、ロナセン等)。例外はジプレキサ、ひたすら思考能力も何も奪われて眠りにつきたいのならばこ

れを飲めばよい。これだけは唯一、悪い薬ではない、しかし、異様なまでの体重増加という致命的な副作用がある。

6: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:50
 抗精神病薬の効能と精神科医が行っている事の正体。私の二の舞になりたくなければ、精神科医の言うことを丸のみにして統合失調症用の抗精神病薬、特に新世代の非

定型抗精神病薬は飲んではいけない。間違いなく脳がパラノイア化することになる。
 あれは「抗(うための)精神病(に)薬」ではなく、「抗(あらがうという名の(つまりパラノイア、これに関しては後述))精神病(をもたらす)薬」であると考え

た方がよい。関係ないが漢文の知識・技能の運用法がこんなところで役立つこともあるので学校の国語の勉強もそうバカにしたものでもない(笑)


7: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:50
 とある整形外科医の先生が、私が統合失調症用の抗精神病薬の投薬を行っていると彼に告げたところ、彼は困ったような、哀れむような顔をした。「『我々』はそうい

ったクスリは使わないんでね……」と。
 彼が言うところの「我々」とは何であろうか。一体医学生の中でどういった人種が精神科医になる、又はなろうとするのであろうか……

 しかしただ……これは私の個人的な予測だが、むしろ統合失調症用の抗精神病薬でパラノイアックな感覚を喚起し、それを嫌悪させ、それから逃れる為の様々な努力を

させ学習を促していくということが精神科医の狙いの第一義ではないかとも考えられることもなくはないのだが……

 そして、精神科医の中にはスキゾフレニー(事実関係がどうであれスキゾフレニーと診断された者)への抗精神病薬の投薬を否とする者も居るようだが……はてさて……



8: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:50
 ところで、最近のサブカルチャーや一昔前のJ-POPなどにおいて、「全裸」「自分(魂?)を開放する」といったキーワードで象徴されるような作品が展開されている

(た)ようだ。人と人が裸で溶け合ったらそれは最悪終着点に達したパラノイアの極地であり、そうなったら人類の破滅だろう。これはあのパラノイアとしか言い様のな

い気狂い哲学者ヘーゲルがしきりに人々に薦めていたところでもある(ヘーゲルのような強靭な精神を持ち合わせた人間ならばともかく、一般の人々が一度自我崩壊を起

こそうものなら、一見xy平面に円を描くかの様にスパイラルを描いて元のz軸上へ戻ってくることなどできはしないのだから)。イマヌエル・カントの言う「ア・プリオ

リな総合的判断」についても、健常人・所謂普通の人々にはそのようなもの必要なく(これは新しい知識を得るとかそういった低次元の行いのことではない)、自己の中

に取り入れたが最後彼らの精神は崩壊する。フィヒテは少しだけ、シェリングは全く読んだことがないが、基本的にドイツ観念論(deutscher Idealismus)というのは気

狂いの世界である。やや話がメタ過ぎて分かりづらいかもしれないが。
 エヴァンゲリオンなどはそれを示唆的に、当時一番犠牲となりうるであろうと予測され得たオタクという人種にそのことを知らせようとしてくれた作品であり、私見で

はそのあたりに庵野秀明監督のやさしさを感じないでもない。

9: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:51
 私もまだギリギリで若者の範疇なので言わせてもらうが、私より若い人間は私の行為によって得られた結果を利用できるものなら利用した方がよい。というか反面教師

、こうなってはいけないよという像として利用するべき。もちろんこれらの経験によって得られる能力が無いではない。しかしそんなもの生きるにあたって、すくなくと

も普通に楽に生きるにあたって何の必要もないどころか有害ですらある。……如何なる手段であれ苦を必要以上に味わった人間は概して自分が特別な人間であるとみなす

ようになる。しかしそんな認識はその当人を破滅へと追いやるどころか周りの人間に迷惑を掛け被害を及ぼす要因以外の何者でもないということだ。


 老人達がどのような権力を操りどのような手段をもって社会を操作しようとしているがぼんやりと全体像は見えるがそんなことはこのようなところで語らない。しかし

次の時代をつくっていくのは我々若い人間だということである。堀江貴文氏ではないが一部の老人連に利用されるだけ利用されて、あげくの果てに我々が老人になった時

に責任を問われるのは我々だ。

10: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:51
 書籍。
 過去の人間云々はともかく、現代に生きる人間の中でのパラノイアの偶像が存在するならば、それは我々のパラノイアに対する理解を助けることになるだろう。
 フロイトは「パラノイアについて知りたかったらシュレーバーの『回想録』を読め」、と言ったそうだが、我々が生きる現代にあたって、私は「パラノイアについて知

りたかったら中島義道を読め」と言いたい。この中島義道という男はまさに女性化した男性、女々しいパラノイアの典型である。書いてある内容書いてある内容、確かに

種々の考察はされており(ここ1〜2年で出版された本は全くダメ。単なる機会主義の俗物本になっているので)読者の興味を引くものではあるのだが、どれも読者の被

害妄想と不安を煽るものがほとんどであり、この男は自らの偏執的なものの見方を伝染させたがっているとしか思えない。まあ興味のある方はご一読あれ。

11: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:52

 身体論的省察1。(身体論という学問があるので、興味のある方は大学その他高等教育機関の図書館にでも行って専門書を読み漁られたい。即書店の店頭から消えてい

く様な機会主義的な俗物本は読まない方がよい。内容がスカスカであるどころか有害ですらあることも多々あるので)
 女性の肉体における膣感覚とクリトリス感覚。男性の肉体におけるペニス(クリトリス)の感覚。男性の肉体に膣は無い、女性の肉体において膣と肛門は八の字の形態

の筋肉でつながっているそうだが、男でも肛門の感覚を知ることはできる。
 結論から言うと、膣・肛門を意識する感覚というのはパラノイアのそれである。フロイト的に言えば肛門性格がほぼそれに該当する。私は男性ゆえ膣を持たないから分

からないが、女性には是非実験していただきたい。膣を意識すると脳がパラノイアックな感覚、つまり「頭蓋の右斜め後ろ辺りに意識が集まり苦痛を感じイライラしてく

る」のが分かるだろう。逆にクリトリスを意識すると前頭部が意識され心が落ち着いてくるはずである。男性は膣を持たないのでそれと連動する肛門を意識することもな

く、基本的にペニス(クリトリス)を意識しているので、女性に比べて心は落ち着いており、精神的に安定していると言うことができるだろう。下品な話だが男性でどう

しても女性のパラノイアックな膣感覚を知りたいというのであればその手のお店にでも行ってホモセクシャルの相手とアナルセックスでも行えばよい、というのは冗談だ

としても、肛門を意識してみる、肛門括約筋を意図的に収縮させてみる、これを行ってみれば「頭蓋の右斜め後ろ辺りに意識が集まり苦痛を感じイライラしてくる」こと

が意識できるであろう。所謂「(男のくせに)ケツの穴の小さい野郎だ」という言い回しは、ケチくさい人間、肛門を意識して肛門括約筋を締めているパラノイアックな

肛門性格の男を揶揄したものであり、このような男は女々しいパラノイアだということである。また男性におけるインポテンツとはペニス(クリトリス)の感覚の喪失で

あり、これは精神の安定感を失うパラノイア化の第一歩と言われるべきであろう(だから「男としての自身を失う云々」などと言われるのだろう)。男性にとってペニス

が勃起するということはとても大切なことであるということだ。女性にはあまりマスターベーションやセックスはお勧めしないが、男性は少なくとも3日に一回程度はセ

ックスなりマスターベーションなりで射精した方が肉体的にも精神的にも健康を保つことができ健全でいられるということである。賢い人々にはもうお分かりだと思うが

、当然抗精神病薬を投薬するとペニスがほとんど勃起しなくなる(パラノイア、肛門性格化)。私などはもうこの年でほぼ完璧なインポテンツである。
 ともかく、女性イコールパラノイアとは言わないが、女性はパラノイアックな感覚に支配されやすく、ここから「女のヒステリー」「女の(女が大好きな)イジメ」な

どというものが言われ始めるのだろう。下品な話で申し訳ないが、細い体のヒステリックな女は膣の締め付けがよいだろう(やはり女性的な(パラノイアックな)女性に

男は(SEXの相手として)惹かれるのだろう)。このようなところで引き合いに出して本人には大変申し訳がないが、モデルの蛯原友里さんなどはまさに女性的な女性の

典型である。だからあれだけ男女問わず(芸能人としては)人気が出るのであろう。

12: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:52
 昔言われていた良妻賢母というのは男性的な女性のことである。落ち着いていて、精神がぶれることなく、慎み深く、自分の役割をしっかり自覚し、賢く子供を育てら

れる母親、ということである。蛯原友里さんを見れば良妻賢母などというものとは対極にあるキャラクターであることが一目瞭然だろう。男性からみて、カワイイ女、付

き合いたいなどと思っても、彼女の旦那さんには申し訳ないが、そこらへんの見た目のみで決めるような低脳なチンピラはどうか知らんが、彼女と結婚したいと思う男は

そうはいないだろう。良妻賢母と呼ばれるような女性は男性にとって妻としては理想的だろう。男性的であって非パラノイア的であり、膣の締め付けは緩く、夜の生活に

おいて夫を拒むことはなく子宝に多く恵まれるということになるかもしれない。逆に良妻賢母とは対極の女性的な女性というのは、言うまでも無くパラノイアックであり

、膣の締め付けはきつく、心配性で不安に駆られ易く、男性よりも必要以上に死を恐れ、しつこく、恨みを根に持ち、男性に犯されることを恐怖し、妻にしてもなかなか

子供はできないということが多いだろう。ちなみに、女性には反感を買いそうな言い方だが、男を拒んだり逃げたりする女性的なカワイイ女というのは男性から見て犯か

しがいがある、(単に快楽としての)SEXの相手として理想的ということである(女性には分からないかもしれないが男性とはそういった性なのだ)。
 つまるところ、男性におけるパラノイア化とは、謂わば男性の女性化だということである。女になって犯されたいという願望を持ったシュレーバーは、フロイトの言う

通り肛門性格の持ち主であり、女性化(パラノイア化)した男性の一例である。
 というか、この辺りの事を中学校の保健体育の授業あたりできちんと子供たちに教えてほしいものである。(関係ないが、私の高校の時の保健体育の先生は若い女性の

先生だったが、彼女はこのあたりのこと、確か男性と男性のアナルセックス云々について真剣に講義してくれた覚えがある。彼女は優れた教師であった。)
 昨今、都会における女性の男性化、男性の女性化などということが一部で言われているが、この社会の混乱ぶりは、女性の男性化はいいとして、どうみても男性の女性

化(パラノイア化)が原因であろう。小沢一郎氏の「古来より日本は国が乱れた時には女性がリーダーになると治まる。実際、最近は日本の男はだらしなくてダメだ」と

いう言は実に的を得たものだと思われる。ヒステリックに女性化(パラノイア化)した男が増えて国が乱れた時、男性的でおおらかな女性指導者が現れ国を平和に治める

、このようなニュアンスだろう。要するに男達がその脳をパラノイアックな感覚に支配され我慢というものができなくなっている状態に置かれているのである(我慢でき

ないのではなくて、我慢というものができない脳の状態に置かれている、ここポイント)。これでは社会は乱れ混乱の一途をたどるわけであり、中国の広報に「(ここ数

年の首相の交代劇を見て)国民に忍耐力が足りない」といってバカにされるのも無理からぬ話である。これだけならばまだよいものの、「国民性として忍耐力が足りない

民族日本人」などと言われ始めたらもはや末期である。

13: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:52
 身体論的省察2。パラノイアと受動性(依存性)と言語能力と快楽主義的傾向。
 言うまでもなく女性は男性に比べて受動的(依存的)である。これは当然性(SEX)由来のものであろう。受動的な人間というものは概して能動的に自分に接してこよ

うとする者に対して抗う(パラノイアックだということ)。ところで「頭蓋の右斜め後ろ辺りに意識が集まり苦痛を感じイライラしてくる」ということ、これは読み書き

オーラル問わず言語を使用する時(特にモンゴロイドがコーカソイドの言語、その中でも特にドイツ語、を使用する時)や、快楽(享楽)に興ずる時に訪れる感覚でもあ

る。実際に自分の内面(脳)の感覚を別の研ぎ澄まされた感覚で感知するべく実験してみればよい。
 SEXの時、特に女性は、「頭蓋の右斜め後ろ辺りに意識が集まり苦痛を感じイライラしてくる」が、それを感じながらも癒されていくということが感じられるだろう。

また男性は射精の後(マスターベーションでもよい、ちなみに私は童貞である)一種のリラックス感に見舞われる。つまりパラノイアがパラノイアックな感覚から癒され

るには快楽が必要であり、パラノイアは快楽主義に走る傾向がある、というか間違いなく走る。女性と男性を観察していれば理解できるだろう、女性は男性に比べて明ら

かに快楽主義者である傾向がある。嗜奢品が好き、新し物好き、有名なものや場所が好き(好き嫌いは別にして一種崇拝の念を抱く、意識していると言ってもよい)、旅

行が好き、おいしい食べ物が好き、流行のものが好き、等。かつて豊臣秀吉は「物見遊山の好きな女房などは殺してしまえ」と言ったそうだが、これは人々に害を及ぼす

人間がどのようなものであるかをきちんと理解していた秀吉の先見性を物語るものである。
 また、「男は女には口(口論)では勝てない」といったことが言われたり、文学部志望の人間に女性が多いのもこのあたりの要因に基づくものだろう。

 昨今のあらゆるメディアによる快楽主義の煽り方を見ると、おそらくパラノイア化を通した民衆の快楽主義化を煽って社会を混乱させようとするテロリストのような一

部の(おそらく)老人連が存在する。
 女性だけでなく男性までもが互いに犯されることを恐怖しだし、他人を互いに恐怖させ人間同士を互いのゲシュタポにしようとしているということだ。ネットはそれに

大きく役割を買っている、というかそういったことを画策する連中がネットをおおいに利用している。この時代を乗り切る為には、非ネット世界での信頼できる知人は多

い方がいいに決まっている。

14: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:53
 身体論的省察3。体型と精神にかんする省察。コーカソイドとネグロイドとモンゴロイドの体型について。
 もう面倒なので結果論だけ述べる。興味のある方は専門書でも熟読されたい。
 身長の低い人間、手足の短い人間は、身長が高く、手足の長い人間に比べてパラノイアックである。女性の肉体が男性の肉体に比べて小さいことを鑑みてもこのことは

理解できるだろう。肉体が物理的な運動をしない分には両者とも精神の持ち様は同じであろう。しかし、人間は物理的に肉体を動作させることなしには何の行動もとれな

い。一例を挙げれば、足の短い人間は足の長い人間に比べて同じ距離を歩くのに多くの回転数(歩数)を要する。このあたりのことからご推察されたい。また、自分の手

足が短くなったことをイメージすれば、元の自分に比べて、同じ行動をとるとき大きなエネルギーが必要になり精神に負担がかかるということが理解できるだろう。私は

モンゴロイドの中では背が高く手足も長い方なので、外を歩くとき所謂小さい人達がイライラしながら歩行しているのが実によく目に付く。(関係ないが、私の出身学科

の労働経済学の助教授(今は教授になられたかな?)が、自身のハゲた頭と手足の短い小さな体に対するコンプレックスからか知らんが、しきりに「手足の長いスタイル

のいい男性の方が収入が高い傾向がある」とおっしゃっていたのが鮮明に思い出される。この人、労働・計量経済学や統計学を教えている論理実証主義者の身分なのにや

たらと俗説を真に受けて授業中にしゃべりだす、ってか俗物だったのが笑えたが、どうやら「スタイルのいい男性の方が高収入云々」はもう統計がしっかり取られて実証

されていることなのだそうな。)

15: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:53
 我々モンゴロイドはコーカソイドやネグロイドに比べて明らかに、体も小さく手足も短い。
 結論から言うと我々モンゴロイド、特に中国人や韓国人、日本人はまだいいとして、その少なくとも現代の社会においては、非寛容・互いにイジメあうことを好む・残

虐犯罪等が、コーカソイドの社会に比べて非常に多くみられるだろう。中国の都会は犯罪の巣窟、潤っているのはほんのごく一握りのエリート、蛇頭のようなとんでもな

い犯罪組織も存在する。また、韓国人の強姦件数対人口比は世界一だそうである。その点においてのみ言うならば日本はまだいい方なのかもしれない。まあしかし、犯罪

は何処の国でもあるとして、モンゴロイドの非寛容、特に社会的低層へ行けば行くほどそれは誰の目にも明らかであろう。
 平明に言えば、アジア人(特に東アジア人)は白人に比べて女々しいのである。コーカソイドの社会に比べてモンゴロイドの社会で、仏像にはじまる偶像(アイドル)

がやたらもてはやされ、芸能界などというものがやたらお盛んなのも納得できるだろう。アイドル・俳優・芸能人好き、それらの追っかけなどというものは明らかに男性

より女性の方に多い。
 ネグロイドはアフリカ等で生活している未開部族の人たちがいるので詳細は不明だが、その社会を総体的に見たとき、モンゴロイドが構成する社会よりもコーカソイド

が構成する社会の方が明らかに安定して、現代において少なくとも凶悪な犯罪等が少ないことが分かるだろう(アメリカの都市部などはまた別の要因がある、今は種族性

・民族性の話)。だいだいが、我々が現代においてその恩恵に与っている近代の文明社会をつくり出し、つくり上げてきたのはコーカソイドである。我々もここへきて、

犯罪天国の野蛮人社会に近づきたいのか、文明の先駆者達に近づいていくのか、まあこのような話はここではしても仕方が無い。
 現行人類の祖は数百万年前のアフリカの一女性であるそうだが、ところで、身長・手足の長さで言うならば、生物学的に見て遺伝的に高身長・長手長足が優勢形質であ

る。一つがいの男性と女性、片方は高身長・長手長足でもう片方は低身長・短手短足であっても、その間に生まれる子供は高身長・長手長足である可能性が高いというこ

とだ。また、男女問わず背の高い・手足の長い人間に対してそうでない人間よりより性的魅力を感じるということが万人に共通のことであるのも、人類が本能的に女性性

から男性性への、つまり非パラノイア化を志向しているのであることが理解できるだろう。
 つまるところ、世界は科学的に見てもその必然としてどんどん非パラノイア化しているのに(これは人類の歴史を俯瞰的にみれば一目瞭然だろう)、それに逆らって(

少なくともこの国において)パラノイア化を押し進めようとするテロリストとしか言い様のない(おそらく)老人連が必死にここのところ頑張っている、当然ネットも利

用して。

16: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:54
 つまるところ、「男性(的人間、非パラノイア)は互いを認め合い、協力できるところは協力して社会を発展させていく。女性(的人間、パラノイア)は互いを憎み合

い、犯し合い、引き摺り下ろし合い、殺し合う。」
 ややオカルト染みていて嫌だが、カバリストの表現を持ってくるならば、男性とは能動的慈悲の生き物であり、女性とは受動的峻厳の生き物である。

17: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:54
 余談。食べ物について。
 結論だけ。パラノイアは肉を食うな。人類史上パラノイアの象徴であるとも言える、女性的傾向の顕著であったヒトラーが極度の菜食主義であったのは彼自身の自己防

衛本能だろう。あれでヒトラーが肉食を好んでいたらナチスは彼の発狂によりもっと早く崩壊していたに違いない。

18: 名無しぷいぷい:10/09/10 16:54
 物事の一面や一点に囚われていては、自分を取り巻く状況を俯瞰的に見ることはできない。その結果はパラノイア化による破滅である。
 姿勢、身に付けるもの、食物として摂取するもの。視覚(見るもの)、聴覚(聞くもの)、味覚(摂取する栄養素、舌のどの部分が反応するか)、嗅覚(色々な臭いの

種類)、感覚(主に肌や衣服の上から身に付けるもの、アクセサリー、眼鏡等)、これらについて、これはヤバい、これは不快だリラックスできない、もしくは「頭蓋の

右斜め後ろ辺りに意識が集まり苦痛を感じイライラしてくる」と感じたら即止めるべき。
 これに関して詳しくは説明しない。商品の安価な値段に騙されるな。恣意的にアピールされた機能性に騙されるな。見た目の美しさに騙されるな。ケチくさい人間や審

美的な人間というのはこのようにして騙されてゆき、パラノイア化してゆき概して自らを特別な人間だとみなすようになり一種の芸術家志向へと堕ちてゆく、そして昔の

言い方で言えば「芸術家はその中に一匹のサタンを飼っている」、と。後は破滅である。三島由紀夫とその最後を見よ。彼はパラノイアックな作家の代名詞である(作品

を読めば分かる通りもちろんその分天才性を備えてはいたが……)。ああ、当然覚せい剤やって歌詞書いて曲作って演奏するミュージシャンは論外。あれはただのカス。

中にはクスリなんかやらず素の才能でやってる人達もいるだろうけど。

 
 社会的低層化による不満を煽るその他あらゆる手段で人間(少なくとも日本人)のパラノイア化を画策する一部の老人連(テロリスト?)は攻めてくる。五感を研ぎ澄

まして自己防衛しろ。地獄へ堕とされて犯される前に。

……パラノイア化して地獄の苦しみを味わいたければ好きにするがいい。ただ大多数の普通の人々はそうではないだろう。


3:33 2010/09/08

19: 名無しぷいぷい:10/09/11 13:05
余談。

 男性的な女性の例を挙げてみるならば、長谷川京子、今井美樹、持田香織、深田恭子と言ったところか。ご本人たちには失礼だが、どっしりしているというか、落ち着きのある女性たちである。個人的にはこのような女性たちに非常に惹かれる。作家で言うと、小川洋子や内田春菊あたりか。もちろん個体差はあるだろうが基本的に男性的な人間よりも女性的な人間の方が(言語能力全般とは言えないが)ものを書く能力は高い。作品を読んでみれば分かる話だが、内田春菊はほとんど漫画しか読んだことがないのでどうか知らんが、小川洋子にはほとんど文才は無い。にもかかわらず彼女の作品が魅力的なのは、彼女が全体として落ち着いた雰囲気を醸しだす能力を持っているからである。男性性の強い彼女の書いた小説は、読んでいると心が落ち着いてくる。ストーリー構成などはっきり言ってほとんど気にならないほどである。言っては悪いが、そこらへんの無能なオバサン小説家が書いた中年のジジイやババア(言葉が悪くて失礼)がくっついただのはなれただのという気色の悪いものよりは余程読みたくはなる。
 男性性の強い女性というのは基本的に落ち着いており、派手なものもあまり好まないだろう。

20: 名無しぷいぷい:10/09/12 13:19
余談2

 ところで何故私がフロイトの理屈を持ち出しながら、フロイトを嫌うのか?それはフロイト本人こそがエディプスコンプレックスにまみれた肛門性格の女性的人間だからである。彼は自分の診断(判断)を受け入れなかったクランケに対して、ヒステリックに「私の診断を受け入れない生意気な小娘め!(?とかなんとか」言ったとかカルテに書いたとかいう逸話が残っている。というかそもそもがエディプスコンプレックスという発想そのものが、肛門のよく締まったパラノイアのそれである。非パラノイアックな男性的人間にはそもそもエディプスコンプレックスという発想そのものが浮かび得ない。
 ところでジークムント・フロイトとよく引き合いに出されることの多いカール・グスタフ・ユングであるが、何でもとSEXと結びつける(本人曰くそれはプラトン的なエロス(?)とのことだそうだが)フロイトとは違って、ユングは例えば「元型」に関する考察に鑑みられるように非常に総体的な鳥瞰図的とでも言おうか俯瞰的と言おうか総合的なものの見方のできる人であり、非常に男性的な男性である。
 ……女性は男性よりも性欲が強いなどと言われるが、SEXのことばかり考えている女性的でパラノイアックなフロイト先生にできることならお伝えしたいが、それはやはりこのようなところからも理解できるものだろう。

21: 名無しぷいぷい:10/09/12 13:19
余談3
 
 「男性的な人間(非パラノイア)より女性的な人間(パラノイア)の方が客観的である」、という俗説がある。これは、基本的には正しい。(ちなみに「パラノイアとドイツ語の音韻・文法形態と客観性の認識についての考察」などというタイトルで一つ論文が書けそうだ(笑))
 しかし、そこに人間関係が入ってくると事態は逆転する。「男性的な人間(非パラノイア)より女性的な人間(パラノイア)の方が客観的に物事を見ることはできるが、女性的な人間(パラノイア)はその得られた具体的内容の中から都合のいいものだけを取り出して伝達し、認知した情報を正確に相手に伝えようとしない」。つまり、いくらパラノイアが客観的であっても、客観的であるはずのパラノイアの言い分を真に受けることはナンセンス、ということである。
 つまり、パラノイアの物事の認知形態は非パラノイアよりは客観的であるということはできても、パラノイアの発言に客観性は全くと言っていい程無い、ということであり、パラノイアの発言内容は極度に(その当人の都合に合わせて)主観的になってしまうということである。
 これは女性的な人間、特に女々しい男(パラノイア、肛門性格者)によく見られる、自分の要求が受け入れられないと直にイライラし(自分より弱い相手に自分の要求を押し付けたがる)、ということにもよく見られる。認識した客観的事実の内、相手をやりこめるのに都合のいい要素要素だけを小出しにして、「ホラ私は俺はこんなに客観的なことを言っているのにオマエは納得しないのか?」、と。自分にしか通用しない「普通」や、自分にしか通用しない「常識」を他者に押し付けようとすると言ってもよい。受動的峻厳というのは基本的に他、他者を認めようとしない。その内面を敢えて言葉にするならば、「自分はこんなにすごい!自分はこんなに苦労した!だから自分が!自分だけが〜!」といったところか。だから膣(肛門)を意識するパラノイアックな感覚の持ち主というのは、仮に上辺だけは合わせても、互いに憎み合い引き摺り下ろしあい犯し合い殺し合う訳であって(まさに女という生き物のそのものであるかのようである)、基本的に他者と協力して社会でも何でもよいが何かを建設的に創り上げていくという発想が無い。
 もう一つ、女性的な人間(パラノイア)には「大局的に見てどうでもよい細かな下らないことにこだわる」ということがある。これは、上述のゴマカシにおいて話の本筋とは関係のない細かいことを小出しにして話を逸らして逃げていくという手段に用いられる。しかし、これに関してはプラスに働く場合も無きにしも非ず。何か創作物、絵画でも彫刻でも文学作品でもよい、このようなものを創り上げるにおいてこの認識は作品を仕上げる上でおおいに役立つと言えるだろう。アニメや映画等チームワークでやるものについてはどうだか詳しく知らないが。
 その他、女性的な人間、特に女々しい男(パラノイア、肛門性格)に多く見られるの特徴としては、「自分にとって都合の悪い人間は何でもキチガイ扱い」「自分に(自分の足りない頭で)理解できないものは何でも否定する」、これにおける後者などはまさに「抗う病気・パラノイア」と言うことができるだろう。上にヘーゲルやカントの例を挙げたが、彼らのような認識に耐えることはパラノイアと言えども(カントは健康だったそうだが)彼らのような強靭な精神の持ち主だからできることであって、(さすが歴史に名を残すくらいのことはあって)彼らは特別である。

22: 名無しぷいぷい:10/09/12 13:19
余談4

 ここへ来て、父親に性的虐待を受け続けた女の子の告白のような雑誌の記事が某所でupされているのをチラ見したわけだが、そこには彼女の受けた被害の必死の訴えを、「それをお前は免罪符としていて、結局はキサマが悪い(なんか少女がやったということなのか?)」「そもそも手紙の書き方が悪くだらしがない」みたいに返すおそらく中年男性の返信が同時に載っていたのだが、これは明らかに対応の仕方が愚かしいだろう。
 彼女の記事もヒステリックで気狂いじみていたが、それに対して「それ(非虐待)をお前は免罪符としていて、結局はキサマが悪い」「手紙の書き方がどうたらこうたらだらしない」などと言うこの中年男もまた女々しい。理解できないか?基本的に、上で説明しているが、女性がパラノイアックな感覚に取り付かれ易いのはもう身体的特質から言って仕方の無いことであって、それは誰もが否定できるものではない。それを否定したら人類は滅びるしかないのだから。それを理解せず叩き返すというのは、互いを疑い合い憎み合う女性的な世界であり、肛門を力んでいるパラノイアックな女々しい男としか言い様がなく、まさに受動的峻厳の世界である。
 男性的というのは、こういった場合には「君は充分苦しんだ(相手が苦しんだことをきちんと受け入れる)。だが、これ以上自分に害を与えた相手を憎んでいると、君は余計にパラノイアックになってさらに苦しむことになる。だからこれからのことを具体的に考えよう」ときちんと説明し、あわよくば女性を見守り・癒し、具体的相談に乗り始めるくらいの能動的慈悲の世界の人間のことである。手紙の書き方がどうとかテーマの本筋からズレたどうでもいいことはどうでもいいのだ。上述してあることを鑑みれば分かることだと思うが、明らかに男性より女性の方がただ存在するだけで苦しみに耐えている。それを癒して少しでも社会を建設的方向へ持っていくのが男性的人間の役割だろう。
 苦しんでいる人間をさらに苦しめようとするような所謂女の腐ったような性根の持ち主はまたその苦しんでいる人間と同類であるとしか言い様が無い。パラノイアとパラノイアで引き摺り下ろしあって犯しあって殺しあえば?と言いたくなるのも無理は無い。この中年男性は「犯罪被害者に相談を持ち掛けられるという被害」にあっている(と思い込んでいるパラノイアックな)女性的人間である。……ちなみにパラノイアというのは思い込みがその程度が深刻になる程に激しくなっていく。女性の依存性や思い込みの激しさというのは見ればわかるだろう。

23: 名無しぷいぷい:10/09/12 13:21
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24: 名無しぷいぷい:10/09/12 13:22
余談6

 もちろんこれは、薬物に関する私の実体験の話以外は、何かを実証している訳でもなく論証している訳でもなく、感想文とまでは言わないがカントの言うところの単なる弁証の類である(まあ昨今のマスコミ様の「素晴らしい」新聞記事よりは数段マシだとは思うが)。よって、このような場所に書いているわけであるから、信に足らずと思えば無視してもらえばいいし、罵倒など別の場所でいくらでもやってもらってかまわない。

25: 名無しぷいぷい:10/09/13 17:02
余談7

 頭髪。
 基本的に短髪というものは精神を落ち着かせるであろう。まあいわば男の場合だと髪を切るとスッキリするというやつである。アメリカの女優さんで役柄上か何かで丸坊主にした人が居たと思うが、女性についてもこれは同じである。むしろパラノイアックな感覚に陥り易い女性だからこそ短髪をお勧めする。とは言っても誰もやらないだろうが。たしかに美形好みで審美的な女性としては長髪の方が美しいに決まっているからである(何度も言うが、美形好みで審美的というのはパラノイアを喚起する膣・肛門感覚に由来する)。そういえば日本の女性ミュージシャンで丸坊主にした人がいたような気もするが。長髪ならば長髪で後ろに一束ねにするというのも手ではあるかもしれないが、おでこを出してオールバックにすると逆にパラノイアックな感覚が喚起されるということもあるので(実際におでこを出してオールバックにしてみれば「頭蓋の右斜め後ろ辺りに意識が集まり苦痛を感じイライラしてくる」ことが理解できるだろう)、何とも言い難い。ともかく、男性が男性性を得る為には短髪が好ましく、女性が女性性を得る為には長髪が好ましいということである、がやはり女性も短髪の方が精神を落ち着けるにはいいのではないか、とは思う次第である。ヒトラーがアウシュビッツを初めとする強制収容所に収監したユダヤ人の中、写真に残っているが、少女たちは皆頭髪を坊主頭にされている。これはやはりヒトラーがユダヤ人を女性的な(差別的であまり言いたくないが、劣等な)民族と見なしていたからであり、彼女らに男性性を強制しようとしていたのであろう。これは女性的なヒトラーによる同族嫌悪以外の何ものでもない。このことは、やはりユダヤ人の選民思想と同じく、女性性の極度に強かったヒトラーも自分を過度に特別に選ばれた人間と見なしていたということの証の一つとなろう。
 ところで私は長髪である。抗精神病薬の投薬のせいで体重は激増し、肝臓をやられ体と首と顔はむくみあがり、もはや私の見た目は妖怪の様相を呈しており、不細工な顔と相俟って所謂キモオタそのものである。それで背が高く手足が長いので尚気味が悪い。にも拘らずそれを自覚しながら何故髪を切らないか?「髪を切ると自分の女性性が失われるようで恐ろしい」のである。男性にも拘らず女性性が失われるのが恐ろしい、これは間違いなく抗精神病薬の投薬によるパラノイア化・肛門性格化・女性化によるものである。10代の頃の私は今より遥かに痩せて普通に髪を切っていたどころか丸坊主にもしていたぐらいである。
 先にパラノイアの代名詞といって例に挙げたかの三島由紀夫も、ほとんど坊主頭であったが、その作品中には髪を伸ばすことについては憧れであると語っている部分があるし、東大生時代には普通程度には髪を伸ばしている写真を我々は見ることができる。というか、大学を卒業し彼が坊主頭を採用したのは、ヒトラーの菜食主義と同じく自己防衛であった気配が強い(というかヒトラーも坊主頭にすべきであった)。ボディビルについても同じく。身体に関する科学的な知識を得て、要所要所に筋肉をつけ、パラノイアックな感覚から逃れようとしていたのかもしれない。
 しかしあまりに男性性の強い男性というのは、逆に女性的意識(パラノイアックな感覚)を求めて髪を伸ばすということがあるだろう。男性性の強いコーカソイドの男性に、女性性の強いモンゴロイドの男性と比べて、遡るは中世から長髪が多いのはその為だろう。比べて女性性の強いモンゴロイドの男性は、男性的意識を求めて剃髪するくらいである。ネグロイドの男性は短髪長髪色々居るようだが。
 ちなみに男性が女性化(パラノイア化)すると間違いなくハゲる。少なくとも我々に、短髪の禿げのよりも長髪の禿げが多いのはそのせいである。上にも挙げた最悪の抗精神病薬リスパダールを投薬し続けていた間、私はパラノイア化のストレスで髪がボロボロボロボロ抜け洗髪時は言葉にできない程悲惨なものであった。今や20代にして私の頭髪は禿げ二歩手前といったところである。

26: 名無しぷいぷい:10/09/13 17:03
余談8

 男性的な女性2。
 内田春菊の漫画に「こんな女じゃ勃たねえよ」という作品があるが、あそこで登場する主人公はまさに女々しいパラノイアックな肛門性格の性悪男である。(2ch語はあまり使いたくないが)所謂典型的なDQNである。ノンフィクション的(科学的?)に言えば、まさに肛門性格であり肛門を意識し肛門括約筋とその周辺の筋肉を締めているので文字通り簡単には勃起しないのである。余程美形の女でないと勃起しないという女々しい男である。男性的な男性というのはどんな女性が相手であってもいとも簡単に勃起してしまう程である(生物学的に言ってより多くの女性を妊娠させた方が自分の遺伝子が後世に残る可能性が高くなる為。男性とはそのような性である)。
 内田春菊氏は男性性が強い為、このような女々しい男に惹かれてしまう、というかそれまでの人生でこのような男ばかり相手にしてきて、よってそれを描くのが上手いのかもしれない。もしそうならば本人には失礼だが男運が無いとしか言い様が無い。やられ女の言い分なんてのも出してるくらいだし。しかしこのような男を描く天才ではある。
 このような男は外見だけで見ると一見キムタクっぽさを感じはするが、中身は正反対であろう。このような女々しい性悪男は普通は女にはモテない。というか男から見ても不快である。木村拓哉氏はその美しい外見とは裏腹に、中身はかなり男性的であるように思われる。どっしりとして落ち着いており、ガツガツした下品さが無く、自分の意見は相手の意見を聞いた上ではっきりと言う、といったような印象を(少なくとも画面の向こうからは)受ける。だからいい男の代名詞の扱いを彼は受けるのであろう。またAV男優の加藤鷹氏などは「SEXの前にきちんと爪の手入れをしておくのは女性に対する礼儀だ」とおっしゃっているようで、非常に女性を大切に思っているとても男性的な男性である(女性ファンも多い)。ちなみに爪を伸ばすと髪のそれと同じく「頭蓋の右斜め後ろ辺りに意識が集まり苦痛を感じイライラしてくる」のが理解できるだろう。爪を短く切るということは頭髪を坊主頭にするということと似た意味合いを持っている。

 ところで、男性性の強い女性を良妻賢母と言ったが、内田春菊氏の漫画を読む限り、良妻かどうかは分からないが、彼女は賢母であるようには思える。

 後は男性性を感じる女性と言えば内館牧子さんとかであろうか。作品を読んだことがないので分からないが。

27: 名無しぷいぷい:10/09/13 17:03
余談9

 色。
 色と脳の認識について。これは色で人格を決めるとかそういったオカルトの類ではない。
 まず赤。これはパラノイアの色、女性の色である。別の言い方で言うとパラノイアや女性がその肉体や精神から発している色であると言ってもよい。理由は簡単、我々によって「赤」「red」「rot」と言った言葉で表される所の色が我々の視覚を通して脳に認知されると、肉体内で男性ホルモンの分泌が促されるからである。男性ホルモンが分泌されると精神は落ち着いてくる。実験としてしばらくの時間赤い色を眺めていて欲しい。肉体も精神もリラックスしてくるのが理解できるはずである。赤い色を見つめているのに抵抗があるというのであれば、オレンジやピンクや茶色でもおそらく大丈夫なはずである。逆に、緑色をじっと見続けているとイライラしてくるのが理解できるはずである。緑色は目によいなどと言われるが、それは眼球やその周辺に存在する視力を司る筋肉にとって好影響であるという話であって、精神的にはイライラしてくるはずである。しかし、緑色はさわやかさをもたらすという言い方もできる訳であって、男性(的人間)から見て緑は精神を爽快にしてくれる色などという解釈も成り立つかもしれない。逆に赤は女性(的人間)にとって心に落ち着きを与えてくれる色という解釈が成り立つだろう。
 だから、我々が子供の頃女子のランドセルは赤だったのであり、「赤い靴をはいた女の子〜♪」という童謡が歌われたり、上で挙げたエビちゃんには赤い服が異様なまでに似合うのである。
 
 エヴァンゲリオンは非常にその辺りのことがよく表現されているアニメであり、庵野秀明監督個人がお決めになったのかどうかは知らんが、登場人物のアスカのシンボルカラーが赤であるのは的を得ているとしか言い様が無い。アスカはこれ以上は無いというくらいの女性的な女性の象徴であり、一目瞭然でヒステリックでパラノイアックである。不謹慎な言い方だが、犯したくなる女である(だからヒロインでありさんざんエロのネタにされるのであろう)。おそらく正常な男性は赤いものを身に付けた女性を見ると性的欲望を掻き立てられるだろう。
 逆にガンダムではシャアが赤い彗星と呼ばれているが、富野由悠季監督がお決めになったのかは分からないが、これはミスマッチとしか言い様がない。シャアには確かに赤い色がよく似合う、しかし、それはシャアがヒーローで金髪で男前で池田秀一氏のカッコイイ声だからである。要するに見た目の問題だ。そんなことを言い出したらキムタクにだってあのキャラで赤が似合ってしまうとも言い切れる。シャアのキャラクター、人柄は赤とは正反対の落ち着いた男性的な男性であり大人である。女性的な子供っぽさはカケラも無い。だいたいが10歳も年下の子供に修正だとかいって拳で殴られたにも拘らず、「これが若さか……」などと言って受け入れてやれる程に大人で男性的な人間である。また、逆襲のシャアでアムロと格闘した挙句に自分の方へ転がり込んできたクェスに手を差し伸べて、絶妙のタイミングで「行くかい?」などと言ってしまえる程に大人で男性的である。もはや大人の男過ぎて笑えるくらいである。むしろ松本人志的な笑いをすら喚起せしめる程である。よってむしろ、シャアはその肉体や精神から緑を発しているような人間であると言うことができる、と私は言いたい。シャアの場合と同じく見た目の問題だけで言うならば違うということになるだろうが、赤が似合うのはむしろカミーユであって、彼は一部で萌え美少女とか揶揄される程に女性的でヒステリックでパラノイアックであって少々いき過ぎていて気狂い滲みている程である。少し前に「赤の肖像」という池田秀一氏の朗読イベントがあったようだが、シャアは「赤の肖像」ではなく、「緑の肖像」である、と私は言いたい。


 まあ、つまり何が言いたいかと言うと、赤い色を見るとパラノイアックな苦しい感覚からは少しでも癒されますよ、と言いたい。

28: 名無しぷいぷい:10/09/16 07:51

余談10

 折角上でガンダムの話を出したので、ガンダム小噺を。

 先にも言った通り、(少なくとも今の)私の外見はオタクだが、ネットを見ている限りではどうやら自分の中身はあまりオタクではないようだ、ということに少し前から気付き始めた。少なくとも私はアニオタではないので、アニメと言えばガンダムとエヴァとジブリのアニメくらいしか知らない。そして私は言うまでもなく所謂ガノタではない。私如きがガノタを自称しようものなら本物のガノタの人々に怒られるだろう。


 私はZガンダムという作品が好きなので、それについて少々語らせていただきたい。

 Zガンダムにはシロッコとヤザンというとても魅力的な敵キャラが二人登場する。この二人はとても良い好対照を為している。
 先にも挙げた通り、パプテマス・シロッコはこれ以上は無いという程の男性性を強く持つ非パラノイアックな男性的人間で大人である。女性(サラ、レコア等)に対しても男性(ジェリド、ヤザン等)に対しても、まさに過度と言える程の能動的慈悲をもって接していることが見て理解できるであろう。一部でシロッコは「迷いを捨てたシャア」「上位シャア」などと言われているそうだが、このシロッコとシャアは非常に似ていることが分かる。
 対してヤザン・ゲーブルは、というか実はこのヤザンのような人間や後述するバスク・オムのような人間は男性性と女性性が入り混じっていてとても説明がしづらいのだが、結論から言ってしまうならばヤザンはヒステリックでパラノイアックな女性的人間であってどこか子供っぽい。まるで子供がゲームをする感覚で戦闘を楽しんでいる。ヤザンやバスクは男性性をその表面に持っているので(特にバスクはヤザンより表面的な男性性が強く即他人に対して暴力性を出す、女性であるレコアの顔面を拳で殴るくらいであるから。純粋に男性的な人間はこのような真似は決してしない)、一見男性的人間かと思えるのだが、その芯、人格の根幹を為す部分では他者との殺し合いを望んでおり、まさに受動的峻厳の人間であることが理解できるだろう。表面的な男性性と言ったが、ヤザンは自己中心的な戦闘狂の殺人者ではあるが実は部下に対する面倒見が良かったり、「女子供は戦場に出てくるな!」などと女性(や子供)をある意味大事に思っているところが窺える。実際敵であるノーマルスーツのレコアを捕らえても、「何でこんなまともそうな女が……」と言ってハンブラビのマニピュレータで握りつぶして殺すような真似をするどころか、救助している。根が女性的であるヤザンは一種の美学を持っており、無抵抗の相手を大量虐殺するようなコロニー落としやコロニーへの毒ガス注入作戦を嫌悪しており、それはある意味女性的な審美性ともつながると言える程である。バスクの場合は根が女性的と言っても、表面を覆う男性性が強いので審美性と言ったものはまるで見られなく、自己中心的な子供がお山の大将になって大量の人間を殺したいといった暴力的欲望が丸出しである。要するに、分かりづらいかもしれないが、一見男性的に女性性をやる、つまり男性的な強さをもってして女性的な殺し合いを行うのである(表面的な男性性が大きくなればなる程タチが悪いということ)。
 ちなみにジャマイカンはかなり女々しいというか恐怖心の強い女性的人間だが、まあ所謂神経質でややパラノイアックな特に有能というわけでも無能というわけでもない中間管理職の板挟みに苦しむ悲しいおっさんである。
 又、ジャミトフ・ハイマンは一見バスクと同じような権力志向でありながら、こちらは本物の男性である。バスクの様な単なる大量殺人鬼ではなく、何か世の中を俯瞰的に見て目的を持ってそれをどうにかしようとしている男性的な男性である。おそらくシロッコが年を取ったらジャミトフの様になりそうである。

29: 名無しぷいぷい:10/09/16 07:51
 ここでヤザン・バスク・ジャマイカンの三者を貫く共通性について考察してみよう。それは恐怖心と恥の意識である(恥意識については後述)。これら三者女性的な人間に共通するものは、他者(男)に犯されるかもしれないという恐怖心である。
 ここでまた身体論的な話になるのだが、小さな子供を持つ親御さんはよく分かっていると思うが、私が書籍で読んだ所に因ると、小さな子供の体を抱き上げたり撫でたりした場合、男の子は平気だが、女の子は男の子に比べてくすぐったがり、その子供によっては非常に恥ずかしがって嫌がるそうである。女性は男性に比べて感度が高いのである。だいだいが大人の男性と女性を見比べても、明らかに男性より女性の方が恥ずかしがりやで体に触れられることを嫌がることを我々は理解できるであろう。
 ヤザン・バスク・ジャマイカンの肉体に服ごしにでも不意に触ってみることを想像してみるがよい。ヤザン・ジャマイカン
ならまだ罵倒されるか気持ち悪がられる程度で済むだろうからマシであろうが、バスクの体に不意に触れようものなら即刻顔面を拳で殴られそうである。これは皆この三者の恐怖心の現れである。
 逆に男性性の権化であるシロッコやシャア(ジャミトフは老齢故別だとしても)の肉体に服ごしにでも不意に触ってみることを想像してみるがよい。「なんだね?」と言ってただ単に疑問符を浮かべられる程度のことであろう。それどころかシロッコにいたっては、「ん、どうしたのだね?」などと言って喜ばれ笑顔を浮かべられそうなぐらいの勢いである。男性(的人間)には他者(男)に犯されるなどという恐怖はほとんど無いのである。

 私個人的にはこのヤザン・ゲーブルという男には非常に惹かれるものがある(大塚芳忠氏の声もカッコイイ)。自分には無いものを持っている感じがするからである。

 女性的なカミーユがあのヒステリックさで暴走して、最後まで死なずに済んだのは(最後壊れたが)、傍に男性性の強い(と言っても彼女も若干ヒス気味だが。これはガンダムキャラ全般に言えてしまうことではある)ファがいて彼をいちいち受け止めてくれていたからである。もし仮にファが居なければ、カミーユはあの勢いで暴走してヤザンかジェリドあたりに斬り殺されていただろう。

30: 名無しぷいぷい:10/09/16 07:52
 カミーユはシロッコやヤザンに向かって戦争を遊びにしてどうたらと言っていたが、ここにシロッコとヤザンの対照性を見ることができる。つまり、シロッコの場合は特に遊びという形容は似つかわしくないように考えられるのだが、敢えて言うなら「遊びで戦争をやっている」のがシロッコで、「戦争を遊びにしている」のがヤザンということである。ちなみに、シャアとシロッコの違いもここで明らかとなる。シャアは絶対に遊びで戦争をやったりはしない。逆襲のシャアの第二次ネオジオン抗争(だっけ?)とて遊びでやっている訳ではないだろう。だからシャアは敵役でありながら正義のヒーロー滲みているのである。
 つまり、ヤザンのような人間が生を感じ生きる居場所を得るには、戦争という枠組みが与えられることが必要であって、女性的人間のヤザンには戦争を与えてくれる男性的人間のシロッコのような人間が絶対的に必要なのである。又、シロッコのような男性的人間には戦争において役に立つ駒(とは言うものの彼はきちんと個人個人の人間性を大切にする男、男性的人間であるが)としてのヤザンのような女性的人間が必要なのである。だからシロッコとヤザンは惹かれあうのであろう。
 ちなみに、女性的で殺し合い好きのヤザンは進んで戦場へ出たがるが、男性的なシロッコはその天才的能力でMSを扱っても鬼神の如き強さを発揮できるにも拘らず指揮官の立場でほとんど戦場に出ることは無い。
 関係ないが、もし仮にヤザンとシロッコが同じMSで一対一で戦ったとしたなら間違いなくシロッコが勝つであろう。しかし、この二人の能力はそのようにして比べられるべきではない。ヤザンの能力とシロッコの能力の属性の違いが最も顕著に表れ得るのは、例えばザコMS百体なり千体なりに囲まれた時である。ヤザンならば死を恐れ生き残る為にザコの間を上手く立ち回ってその戦場から脱出して逃げるなどという方法をとるかもしれないが、シロッコは脱出しようとするもヤザン程に上手く逃げられずザコ相手にエネルギー切れを起こしてやられてしまうかもしれない。まあこのような状況においてでも、ヤザンがギャプランなりハンブラビに乗っていて、シロッコがメッサーラなりthe-oに乗っているならばどちらも生き残るだろうが。それぞれのパイロットにはその能力に相応しいMSというものが在り、また必要である。


 ちなみにこの作品に登場する女性キャラは基本的にどのキャラも同じように女性性の強い女性であって、あまり語る魅力がない。ファのような男性性の若干ありそうなキャラも居るが。ハマーンあたりも一見一勢力をまとめる男性的人間に見えなくもないのだが、彼女は放映当時に出版された本をみると「強い男性(おそらくシャアのことだろう)に憧れる女性」と書いてあるように、確かにあまり他人を尊重して受け入れるような器には見えない。つまりは、女性的である。カリスマはあるようだが。

31: 名無しぷいぷい:10/09/16 07:52
 キャラクターの体型について。また身体論的な話だが、この作品に関して言うならば、専門的知識を得た上で当時の作画さんが設定したのか知らんが、これはもう見事と言うしかない。もし直観で描いたのならばもう天才以外の何者でもないだろう。
 男性性の強いシャアは胸板が厚く手足が長い。そしてさらに輪を掛けて男性性の強いシロッコは胸板が非常に厚く手足が非常に長く、痩せているにも拘らず体格が非常に良い。これは先に説明したコーカソイドの特徴である。男性性の強いコーカソイドの男性は高身長で長足長手である。この肉体と精神を司る特徴が、身体だけでなく顔の表情といい、この二人のキャラでは非常に見事に表現されている。ジャミトフは老齢なので考察の対象外。
 又、女性性の強いヤザンやカミーユはかなりの痩せ型で見事なまでに華奢である。この体型はモンゴロイドの男性に高頻度で見られる。ジャマイカンは中年にしては痩せている。バスクは表面的な男性性が強いせいか、高身長で強面の見た目で描かれている。

 Zガンダムというアニメに対する総括的な私見。結論から言うと、これはサタンによる神殺しの話であろう。このアニメを製作当時の富野由悠季監督はニーチェのような人だったのかもしれない。「神は死んだ」と主張した、その思想から言っても女性的傾向の顕著であったフリードリッヒ・ウィルヘルム・ニーチェはその生存時ほとんど著書が売れなかったそうだが、Zガンダムも放映当時は視聴率が甚だ低く一般受けはほとんどしなかったそうである。
 カミーユファンには申し訳ないが、サタンのようにヒステリックでパラノイアックな気狂い滲みた嫉妬心とも言える程の感情でシロッコを悪役に仕立て上げ殺したカミーユは、このアニメにおける女性性の象徴である。逆に、木星(ジュピター)、ひいてはジュピトリスというのは、古代ギリシア神話の主神ゼウスのことであり、だからこそ男性性の象徴であるシロッコはジュピトリスの艦長であり、MSthe-o(神の意思)のパイロットであり、カミーユの最後の敵なのである。ちなみにゼウスの父クロノスは富野由悠季監督自身かもしれない。

富野由悠季監督はZをキリスト教的受難劇と定義しているとかなんとか何所かで見たが、受難したのはカミーユではなくどう見てもシロッコの方である。


 このように、子供用のアニメーションと言えど、まあガンダムは非常な秀作だからかもしれないが、学ぶところは非常に多い。というかZガンダムは子供が見て楽しめるアニメではないだろう。どうみても大人向けである。この辺りが「アニメは子供が見るもの」と言っている宮崎駿監督と、自身のアニメを通して時代の流れや現実を取り巻く状況を感じて欲しいと言わんばかりの富野由悠季監督の違いであろう。宮崎駿監督は子供向けアニメを作る天才であり、富野由悠季監督は大人向けアニメを作る天才であろう。

32: 名無しぷいぷい:10/09/17 06:13
余談10修正1

 ちなみにこの作品に登場する女性キャラは基本的にどのキャラも同じように女性性の強い女性であって、あまり語る魅力がない。しかし逆にミライさんなどはあまりに包容力のある男性的すぎる女性でこれまた語る余地が無い(彼女は一目瞭然で良妻賢母である)。
 敢えて語る魅力のあるのはファであって、彼女のような男性性のあるキャラも居る。が、彼女はまだ年齢が若く特にカミーユに対するヒステリックさを抑えることができない。しかし年齢云々はどうでもいいとして、実は彼女はヤザンやバスクと同じように男性性と女性性が入り混じった人間なのである。彼女がヤザンやバスクと違う点は、ファは根が男性的でその表面に女性性が覆っているということである。ヤザンやバスクとは真逆なのである。だから女性的に男性性をやる、ヒステリックでパラノイアックに相手に対して建設的に働きかけようとする、つまりあのような少女の立場の状況で言えば相手におせっかいがましくやさしくしようとするのである。よって無理をして殺し合いの戦争に参加しても本来は殺し合いも殺しもしたくないのが丸見えである(ヤザンやバスクとは真逆)。つまり、一見ヒステリックで女性的なカミーユとケンカばかりしているように見えても、根が男性的なファは、カミーユが心配でたまらなくまるで彼の母親のような役割を担っていることが分かるだろう。



余談10修正2

 Zガンダムというアニメに対する総括的な私見。結論から言うと、これはサタンによる神殺しの話であろう。このアニメを製作当時の富野由悠季監督はニーチェのような人だったのかもしれない。「神は死んだ」と主張した、その思想から言っても女性的傾向の顕著であったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェはその生存時ほとんど著書が売れなかったそうだが、Zガンダムも放映当時は視聴率が甚だ低く一般受けはほとんどしなかったそうである。究極のNTとやらのツァラトゥストラのようなカミーユにゼウスを倒させて無神論滲みたものを主張したかったのかもしれない。
 カミーユファンは怒るかもしれないが、サタンのようにヒステリックでパラノイアックな気狂い滲みた嫉妬心とも言える程の感情でシロッコを悪役に仕立て上げ殺したカミーユは、このアニメにおける女性性の象徴である。逆に、木星(ジュピター)、ひいてはジュピトリスというのは、古代ギリシア神話の主神ゼウスのことである。このゼウスなる主神はインド=ヨーロッパ語族の神であることが確かな唯一の神であり、まさにコーカソイドの男性の象徴である。だからこそ男性性の象徴であるシロッコは、MSというガンダム世界を成立させる上で必要不可欠なモノを動かすのに必要なヘリウム3という物質を木星から運搬する役割を負った超巨大輸送艦ジュピトリスの艦長であり、MSthe-o(神の意思)のパイロットであり、カミーユの最後の敵なのである。イマヌエル・カントが言うところの「(おそらく神によって為される)最高善」、そしてそれが為される過程で犠牲になっていった(主に)女性達の魂(思念?)を自らの内に取り込んでサタンの汚名を被り神(the-o、シロッコ)に復讐を果たしたのがカミーユである。しかしタダで神を殺せる訳も無く、その代償として、パラノイアの象徴であるサタンの末路として、精神崩壊した。富野由悠季監督はZをキリスト教的受難劇と定義しているとかなんとか何所かで見たが、受難したのはカミーユではなくどう見てもシロッコの方である。
 ちなみにゼウスに王座を奪われたその父クロノスは富野由悠季監督自身であるかもしれない。シロッコというキャラに機動戦士Zガンダムという作品自体をのっとられたのである。まあ、それは冗談としても、おそらく監督を始めとして製作者サイドにはシロッコは扱いにくいキャラクターであったに違いない。

33: 名無しぷいぷい:10/09/19 05:42
余談11

 真面目。「真面目」とは一体何であろうか?私は、自分が「真面目である」と思ったことも、自分は「真面目ではない」と思ったことも、一度も無い。自分が「優等生である」と思ったことは幾度となくある。少なくとも中学までの私は、学校の勉強の成績はそれなりに良くゲーム好きの太ってメガネをかけた所謂どこにでもいるようなオタク少年であった。ネタキャラではあったが昼休みには校庭でサッカーの群れに交わり、帰ってからは友達とゲームをやるかゲーセンにでも行くか公園や放課後の小学校に忍び込んで玉ころ遊びに熱中するか、そうでなければ家で一人でピコピコRPGやるか、といったごく普通の生活をしていた。そのような私でも、自分が「真面目である」と思ったことも自分は「真面目ではない」と思ったことも一度も無いし、そして自分が「優等生である」とは頻繁に思い浮かべていたことではある。
 「真剣に」や「本気で」や「誠意をもって」といった表現ならば、それがどのような状態か、どのような感覚もってして物事に対しているのか、理解はできる。しかし、「真面目に」というのははっきり言って理解できない。
 私の通った中学校は公立だったが少々おハイソだったので不良少年少女というのは居なかったが(となりの普通中学校から原付に乗った不良少年が攻めてきた(笑)ことはあった)、不良少年達というのはどうやら「優等生」をさして「真面目である」と評するらしい。単純な彼らの頭の中では、優等生イコール真面目と見なしてしまうので、おそらく「ワル」に対する「真面目」という構図が出来上がってしまっているのだろう。まるで小学生用の漫画の世界である。真面目であっても優等生になれない頭を持った人間はいくらでも存在するし、真面目でなくとも優等生になってしまう頭の持ち主もいくらでも存在する。
 未だに私には「真面目」の定義も理解できないし(例え辞書を引いても)、感覚も理解できない。

34: 名無しぷいぷい:10/09/19 07:19
別箇所にblogの形で内容を修正してupしました。

いつまでも2ch2の管理人さんや住人に迷惑かけるのもアレなので。



(2ch2の管理人さんと板管理人さんへ)失礼しました。

このスレッドは削除していただいて結構です。

35: 名無しぷいぷい:10/11/05 05:15
野外八メ in 近所の公園
http://qawsed.info/cgl/2wz43dq/
7万もらってやってきたw


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