[*]前 次[#] [0]戻 [4]履歴
[1]最新 [2]最初 ▼[3]コメント欄
114:、 11/03 22:58 ID:i2
決して楽な生活ができるなどということはない。このあたりはしばしば誤解されていると
ころである。世間から見れば、多額のお布施を信者から集めて贅沢三昧できるのではない
かと、いぶかしげに思われるかもしれない。しかし、そういうやからはほんの一部であり、
霊的な成長がほとんど見込めない詐欺師まがいの半端物に過ぎない。いわば、札付きの無
法者である。あるいは、長い年月をかけて大勢の弟子を持つようになり、悠々自適の老後
を送る人もいる。しかし、多くの拝み屋は、生涯現役を貫く。金や財産とは無縁な人々も
多い。
実際、修行中は不思議なほどお金が入ってこなくなる。他人には決してそういうそぶりを
見せることは決してないけれども、お金の苦労、経済的困窮も、修行のメニューの一つである
と、彼らは自覚している。ぼろをまとい、あばら家に住んで、その日暮をしているのが普
通である。
では、そうまでして、なぜ彼らは修行に打ち込めるのだろうか?それは一つには神霊(神
仏意識、精霊)と交信し、自らのレベルを向上させ、そうして得た霊的智慧を愛他的な方向、
つまり人助けのために使うことが自分の使命だと自覚しているのである。ただし、そうい
う自覚にいたるまでにはいろいろな紆余曲折があって、達観するのは並大抵のことではな
い。
なお、霊的智慧には、光の要素と闇の要素両面が含まれている。そして、そもそも両者は
同一の神仏意識の表裏でもある。
よく「魔」が来る、「魔」にやられるという表現を彼らは使う。「魔」は多くの場合、象徴
的な形で彼らの前に現れる。日本では、キツネ、ヘビ、犬神などの憑き物信仰が昔からあった。
都市化したコミュニティからはそうした進行は消えても、霊能者の世界では依然としてこれらの
「動物霊」は生き続けているのである。私の印象では、これは実体としての動物の「霊」
が見えるのではなく、人の邪心、邪念といった想念が動物の姿に象徴化されて、超感覚的
に感知されるようになるようだ。邪念の種類や程度によって感知される象徴の風貌や色彩
も異なり、メッセージの入り方(口調)も違ってくる。高次の神霊、清浄なるものはまばゆい
光を放ったり、見るものに畏敬の念を起こさせたりする形で出現する。
[*]前 次[#]
▲[6]上に [8]最新レス [7]ピク一覧