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116:、 11/03 23:05 ID:i2
苦悩と困難
特に霊的な世界で仕事をする人の場合、「命の取り合い」になることは決して珍しくない。
奇麗事を言っていては、悟りを得る前に、この世から抹殺されかねないほど熾烈な世界だ
とを忘れてはならない。いずれにしても、霊的修行は想像を絶するような「苦行」の連続
である。苦行といっても、断食や水行といった儀礼的なものをさしているのではなく、人
生における出来事そのものが苦難との連続なのである。
一般に宗教的な世界へ入るようになる動機として、貧・病・争の3大要素が挙げられる。
霊的修行に入る人も、否応なく「神霊の世界」からこれらをもたらされることになる。否、
気づいたら、その道に引き込まれてしまっていた、といったほうが適切であろう。
私が知る限り、大病を病んで大手術を受けた、生死の境をさまよう事故にあった、自殺を
企てた、という経験を持っていない霊能者はいない。また、億単位の借金を背負った、財
産を手放した、というれいも珍しくない。さらに一家離散した、複雑な家庭環境に生まれ
育った、家族に殺されかかった、実の親に身売りに出された、こちらに原因はないのにい
つもトラブルを持ち込まれる、いつも同じパターンの敵が現れる、などという悲観的な出
来事も共通している。
つまり、この世で不幸であると考えられる、ありとあらゆる経験を、彼らは生まれた瞬間
からしているのである。最初は「これはうそだろう」と彼らの人生の出来事にはあまり注
目していなかったのだが、この世界に深く首を突っ込むようになってから人生観が変わっ
た。人によって経験の種類はもちろん異なるが、共通したパターンがある。彼らが極端な
貧・病・争体験をもっているとである。それは、普通の人ならまず耐え切れない出来事の
連続である。
最終的に、彼らは生きるべきか死ぬべきかを思いつめて、たいてい一度は自殺を企てる。
ところが死に切れなかったり、目には見えない「救いの手」が差し伸べられて助かってし
まう。ある拝み屋などは、癌が再発して未来を悲観し、どうせ死ぬ運命なら自分でけじめ
をつけようと、石鎚山の中腹のがけから身を投げた。ところが、木の枝がクッションの役
割を果たして、軽い怪我だけで一命を取り留めている。しかも、その事件の後、癌の進行
が止まり、やがて寛解してしまった。
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