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88:、 11/03 21:59 ID:i2
それはなぜかと言うと、意識の共有がまだ十分にできていない間に、外に向かって何かを
すると、いろいろな種類の別の関心がそこに結びつきます。そこで自分の名前を表に出そ
うとか、それによってある種の社会的な功名心を満足させようとかいうような関心です。
ですから事柄が大事なものであればあるほど、外に向かっての行為は「意志の共同体」へ
の成熟を待って始めて可能になるのです。
そして、ここが大事なのですが、「意志の共同体」が生き生きと機能するためには、必ずヒ
エラルキアが必要になるのです。ところが意識の共同体の段階では、民主的でありえます。
オカルト結社は「意志の共同体」ですが、神秘学を共同で学習するには「意志の共同体」で十
分なのです。神秘学をともに学んでいるうちに、ある種の共同勘定が芽生え、それから共
通の意志、同一の行動目的が共有でき、それぞれのメンバーがその行動に自分で責任が持てる、
と覚悟できたときに始めて、それぞれのメンバーの内部で「意志の共同体」が作り出され
るのです。ですから自分で行動しようと呼びかけはしても、責任を負うのはいやだとか、
赤字になるのはこまるとかと考えている状態はまだ民主的な発想であって、「意志の共同
体」の一員でしかない、と考えざるを得ません。以上の点ではどんな形のグループを作る
際にも言えることです。
オカルト結社を考える場合、当然、その内部の人たちは結社の存在目的に対して各人がそれぞ
れの位置に応じた責任を負うことになります。そして事柄の本質の認識ができていない人
は、意見を主張することが許されません。そこでは、民主的な場合のように、自分はこう
思うが、と言いながらディスカッションを通して結論を得る、というようなプロセスはありえず、あ
る事柄に関して、知っている人なのか知らない人なのかのどちらかになります。知らない
人は沈黙していなければならないし、知っている人はそれを告げる必要があるのです。で
すから当然、知っている人の位階と知らない人の位階とは上下の関係になってしまいます。
多数決ということはありえません。霊的な世界と関わるだけでなく、生命を預かる医術や
感性で勝負する芸術の世界でも、多数決の原理は通用しません。そこでは知っているか、
知らないか、能力があるか、ないか、深く体験しているか、いないかが決定的に問われま
す。多数決というのはそのような精神の問題ではなく、法、つまり、手段の問題なのです。
みんなが同じ権利を有するので、さまざまな利害関係を調整する妥協の権利として全員の
歩調を合わせようというのです。
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