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スマナサーラの上座仏教入門
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3:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:20 ID:cs
知識は、なくては困ります。しかし、ありすぎても困るのです。知識は増えれば増えるほど、人生は重くなります。そして、その知識はいつか消えてしまいます。欠かせないものは、知識ではなく、智慧なのです。智慧とは、その瞬間その瞬間に、正確に何をなすべきか、ひらめくことです。

自信がないと、神の力とか、宇宙の力というようなものに頼ろうとします。客観的な証拠がないにもかかわらず、いきなり結論に立って「まず信じよう」となってしまいます。「信仰」に沿って生きていこうとします。しかし、世の中にあるのは、神の力ではなく、「変化」するという法則です。リンゴの実が台風で落ちてだめになったのは、物理法則です。それは神の意志によるものではありません。自我を捨ててみれば、神秘や迷信はないことがわかるのです。

そもそも、生きること自体が依存なのです。だから、依存からはけっして逃れられません。食べ物に依存すると、健康を壊します。心の刺激に依存すると、自己破壊に陥ります。生きている間、完全に依存から脱することはできませんが、依存していることに気づくことが大切です。


4:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:20 ID:cs
教えが正しいものであれば、その教えはだれからも守ってもらう必要なないのです。だれがどう反論しようが、真理そのものは崩れることがありません。批判しようという人がいたら、かえってそれを学んで納得してしまうのです。「批判は禁止する」「疑問を抱くな」という宗教があれば、その一点だけをとっても、真理ではない。教えがまちがっていることがわかるでしょう。

私たちの行動は、瞬間瞬間の小さな単位の連続です。失敗も成功も、小さな単位のところで、起きるのです。だから、瞬間瞬間の小さな単位で気をつけていれば、失敗を避けられます。やがて成功することもできるのです。人は瞬間の小さな行為を大事にせず、無視してしまいます。それが大失敗のもとになるのです。

自分の人生でいちばん幸福だったのはいつでしょう。逆に、いちばん不幸だったのはいつでしょう。けれども人生には、大切な時間も、取るに足らない時間も、どちらもありえない、成り立たないのです。人生をひとつの時間の流れでみれば、いまの一秒と過去の一秒は同格です。同じ価値です。生きている瞬間瞬間が大切なのです。


5:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:21 ID:cs
生きるとは、複雑なようであって、じつはとても単純です。歩いたり座ったり喋ったり、寝たり起きたり。それ以外、特別なことは何もありません。この単純さ以外に、何か人間の背後から支配している「宇宙の神秘」のようなものがあると思うのは、妄想です。人生とはいともかんたんなものなのです。それを複雑で分かりにくくしているのは人間の思考であり妄想なのです。

仏道とは、「何かを得る道」ではありません。「ものから離れていく道」なのです。離欲の道には完成があるのです。本当に充実するためには、ものはいらないのです。足りないから満たそうとするのではなく、ものがいらないということで、心を満たす道があるのです。ものから離れる、離欲というところから、安らぎが生まれるのです。離欲にチャレンジすることが、最高のチャレンジなのです。 結果はもはや変えられません。しかし、原因は変えることができます。 原因が変われば、結果は変わります。結果に足を引っ張られて悩むことはやめましょう。 よい結果になるように原因をしっかりと調整することが、理性的な生き方なのです。

「うまくいく・いかない」「成功・失敗」というのは、客観的なことではなく、自分の主観です。ものごとは因果の法則で動いているのですから、よい結果を期待するならば、その原因を調整することです。原因に適した結果があらわれるのであって、期待した結果にはなりません。リンゴの種を蒔いてモモが食べたいと思っても、かなわない希望です。原因を無視して、よい結果だけを期待するのは間違いです。 いま苦労すれば将来、幸福になるだろう」という考えには、幸福になる保証はありません。「いま」幸福になるしか道はないのです。幸福というものは、いまの瞬間に得るべきものです。「明日、幸福になろう」とか「将来、幸福をつかもう」という人は、ずっと幸福になれません。「明日」とか「いつか」というものは、どうなるかわからないのです。


6:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:21 ID:cs
妄想は猛毒です。 妄想があるゆえに、ストレスが起きます。 妄想があるゆえに、人生なにをしても苦しみと失敗で終わるのです。 だから、まずやるべきことは妄想を停止させることです。混乱しているのは、じつは頭の中で妄想がぐるぐる回っているのです。妄想をやめること。 つまり「過去」と「将来」に心をさまよわせず いまに気付いて生きること。 妄想を止めるために、気づきを精進するのです。 心を暴走させることなく いまの瞬間につけておく訓練をするのです。

役にたつ知識は宝になりますが 何の役にも立たない知識はゴミです。 世の中では、テレビや週刊誌などから 興味本位に情報が垂れ流されます。 それらは、欲望をあおって不安をかき立てているだけの 無用な残飯のようなものです。 無駄な知識は不要なだけでなく かえって命取りにもなります。 あまりによけいなことを考えすぎて妄想が膨らんでしまいます。そのため、いつも不安と焦りで追い立てられるような生き方になってしまうのです。

智慧には主観がありません。 主観のないとき、智慧が表れるのです。 主観がないと、あるのは出来事だけ。 そのときには、唯一の答えがあります。 そこに選択肢はないのです。だから、智慧のない人は、何かあったら 「どうしよう どうしよう」と悩むのです。知識はやがて消えますが、智慧は消えません。 智慧は、主観を破った状態であらわれます。 それは特別な「何かを得た」ことではないのです。 「なった」世界です。


7:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:21 ID:cs
あれもこれも、とりとめもなく考えるのは 実は考えていないということなのです。 深く考えているようでも それは智慧のある人とは言えません。 智慧のある人はすぐに答えがみえるので 考える必要がないのです。 智慧とは水のようなものです。 形はありませんが、その都度その都度、何の抵抗もなく 容れ物のかたちをとります。 過去のことや将来のことで 頭を混乱させないでください。

『無常の見方』
一切は変化する それが事実です。無常に例外はありません。事実を受け入れると、人生は明るく変化します。

幸福」「不幸」をつかさどるのは誰? 「幸福は神、不幸は悪魔によるものだ」というのは、「私は悪くないのだ」という考え方です。自分の幸・不幸を決めるのは自分なのです。 優れた禅友も、一番恐ろしいのも「「自分の心」。

人類はみな、人に、社会に、地球に依存するパラサイトです。俗世間が求める自由も「依存」にほかなりません。現代の社会は、一方的に依存する個人や組織をつくり出し、みずからの拠って立つ基盤をつき崩しています。いま求められるのは、依存症を克服し、完全な自由を得た「孤独」の人です。破るべきは人間の心の潜む「エゴ」であり、孤独の達成こそが、人生の到達点なのです。


8:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:22 ID:cs
人はなぜ物質を切望するのか、物質主義の危険性それでも欲しいものがあると楽しい?

世界は肉体のみを考える肉体のためにのみ生きるとは切り離せない心と体、体と心の醜い争い

仮想の世界に浸っていませんか、幻想世界の果てにそれでも仮想世界に生きたい仮想の世界から現実の世界へ

精神と物質すべての物事の先頭に心がある。すべては自分の心次第心を砦に


9:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:22 ID:cs
自立への道人間は依存せずには生きられません。しかし、「一方的に依存するパラサイト」は、様々な社会問題を引き起こします。人間は社会に貢献し、「正しい相互依存」を築く必要があります。さらにお釈迦さまは、心を清らかにすることで得られる「何にも依存しない自立した人生」を説かれました。

闇雲に充実感を求めても、一時的な満足に浸るのが関の山。すぐに不安・不満・退屈に苛まれます。世間の価値観に流され、刺激に翻弄される私たちの生き方は、およそ「有意義」からほど遠いものなのです。だからこそ、私たちが耳を傾けるべきは、智慧ある賢者の言葉です。

すべての生命は「死にたくない」と望みながら、殺して食べて、生きています。「生きる」ということ事態に、根源的な矛盾があるのです。世間の平和論は、こうした「生存の矛盾」を棚上げしています。これでは平和が続くはずもなく、やがて戦争が訪れるのです。

私たちは「もう怒りたくない」と思っても、怒ってしまいます。自分の意思ではどうにもならないものが、怒りです。仏教では嫉妬、物惜しみ、後悔、軽視など、十種類の感情も、怒りの姿を変えたものだといいます。生命の根源にあるもの、それは怒り、生きることの矛盾に真正面から答えを出します。


10:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:23 ID:cs
私は正しいと思うから怒る
省11
11:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:23 ID:cs
たとえば怒りが沸き上がってきて、ぐぐぐっと抑える方法のようなのを私たちは「怒らない方法」と聞くと想像してしまうのですけれども、そうやって抑え込もうとする力もまた、「怒りである」というんです。今更怒りの定義のような話をすると、「いま楽しい?」と自問して、「楽しくない」と思ったらその時その人は怒っているのです。だから少しでも人生が楽しくなくなったら、その人はその時怒っているのです。

怒りを抑えることが楽しいはずありませんから当然その人はその時怒っているのです。なので怒らない最大の方法は、そもそも「怒り」を発生させないことなんですよね。そしてその為の方法として、「私は間違いだらけ」だと知れ、というのです。まあ「私が正しい」と思うから怒るんですから、当然ともいえます。腕を切り落とされようが、頑張っても報われなかろうが業績を横取りされようが、決して否定しない。

その究極の形が、たぶんお釈迦様のいう「わたし」を消すことなんでしょうね。他者から害される「わたし」が消えてしまえば、どんなにひどいことされようが怒りようがありません。まあそんなん現実的に考えて無理なんですけど、「わたしは間違っている」し、「相手も間違う事がある」という前提にたって物事を考えると、あまり怒ることもなくなるのです。


12:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:23 ID:cs
だからといって、相手が何をしようが「おーけーおーけー」と許容の態度を示すのも、また間違いであると言うのですね。子供が目の前で悪い事をしていたら、ちゃんと叱らないといけないと。ただ怒らないで、「それは間違いである」ときっぱりと言うだけ。その答えに愛情と自信さえあれば相手はちゃんと聞くと言っています。

お釈迦さまが言うには、たとえば恐ろしい泥棒が来て、何も悪い事をしていない自分をつかまえてこいつを切ってみよう、面白いよ、というだけの理由でこっちを切ろうとしてきても、『嫌だ』と怒ってはいけないのだそうです。「そんなバカな」と僕などは思ってしまうのですけれども、どうもお釈迦様的に言えば「わたし」というエゴ的な部分を、完全に捨て去ることから幸福が生まれる、とそういう意図らしいんです。「わたし」なんかないんだから、切られたって別に嫌じゃないというのです。

まあ何はともあれ幸福に生きる為には、「怒らないこと」であり、怒らないためには「怒らないこと」であり、「わたし」を消していき、理性でもって正しい事と間違っている事を判断していくことが必要である。そういうことです。


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