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生涯

[編集] 織田家直参時代
佐々氏は尾張国春日井郡比良城に拠った土豪。宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではない。 兄に隼人正(政次)、孫介(成経)がいたが、相次いで戦死したため、永禄3年(1560年)に家督を継ぎ、比良城主となる。織田信長に仕え、馬廻りから戦功を重ねて頭角を表し、永禄10年(1567年)、黒母衣衆の筆頭に抜擢された。 天正3年(1575年)5月の長篠の合戦では前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政とともに鉄砲隊を率いた。[編集] 府中三人衆時代
天正3年(1575年)9月、織田信長は越前制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の軍団長とした。その与力として成政・前田利家・不破光治の3人に越前府中3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城とした(府中三人衆)。府中三人衆は柴田勝家の与力とはいえ、半ば独立した織田軍の遊撃軍的存在で、石山本願寺攻めや播磨平定、荒木村重征伐などに援軍として駆り出されることが多かった。[編集] 越中時代
天正8年(1580年)、神保長住の助勢として対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中国平定に関わる。同年秋には佐々堤を築いている。天正9年(1581年)2月、正式に越中半国を与えられ、翌年の神保長住失脚により一国守護となり、富山城に大規模な改修を加えて居城とした。

天正10年(1582年)本能寺の変が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点魚津城を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった。しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。上洛した柴田勝家も羽柴秀吉に先を越され、同じように対峙していた毛利氏と和睦して中国大返しを成し遂げた秀吉とは明暗が分かれた。

明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、成政は柴田方につくが、賤ヶ岳の戦いには上杉軍への備えのため越中を動けず、合戦に参加出来なかった。成政は勝家を滅ぼした秀吉に対して徹底抗戦の構えを見せていたが、越中一国を安堵され矛を収めた。翌天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると3月頃の書状では秀吉方につく素振りをみせていたものの、夏頃になって成政は徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った前田利家と敵対して末森城の合戦が起こった。また越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。ところが秀吉・家康らとの間で和議が成立し、進退が窮まると、成政は家康に再挙を促すため、厳冬の北アルプス・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げた。世に言う「さらさら越え」であった。しかし結局説得は功を奏せず、壮挙は空しく失敗した。

翌・天正13年(1585年)、秀吉自ら越中征伐に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中国東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた。[編集] 肥後時代
天正15年(1587年)の九州平定で功をあげたことを契機に、肥後国一国を与えられた。秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われるが、これが言葉通りの意味に取れるかは不明。病を得ていたとも言われる成政は、早速に太閤検地を行おうとするがそれに反発する国人が一揆(肥後国人一揆)を結び反抗した。このため、失政の責めを受け摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。享年53(諸説あり)。戒名は成政寺庭月道閑大居士。

辞世の句:「この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり」[編集] 人物
大の秀吉嫌い、猪突猛進型の猛将として描かれることが多いが、後世に作られた物語などで脚色された影響が大きい。中世の越中は河川の氾濫による水害に悩まされていたが、成政は僅か数年に過ぎない越中統治期間に堤防を築き水害を防いだため領民に慕われた。堤防は済民堤、佐々堤と名付けられ現在もその遺構が残る。

その腕を信長に高く買われたことから国持大名までに出世した。成政も信長の実力主義の恩恵を受けた一人である。秀吉嫌いは後世の創作もあろうが、織田信雄が降伏した後も家康と共謀して叛旗を翻そうとするなど、織田氏(信長)に対する忠誠心の厚さと秀吉嫌いは事実だった感も垣間見える。


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sage
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