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Jリーグ
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1906: 12/06 06:41
J1残留の名古屋、風間監督の続投を発表!「来季も共に一体となり楽しみましょう」

名古屋グランパスは5日、風間八宏監督と契約を更新し、来季も続投すると発表した。

現在57歳の風間監督は、2016年に川崎フロンターレの指揮官を退任後、17年よりJ2に降格した名古屋の監督に就任。J2・3位でJ1昇格プレーオフを勝ち抜き、1年でのJ1復帰に導いた。

そして今季は前半戦に8連敗を喫するなど、一時は厳しい戦いを強いられたが、W杯中断後の後半戦に7連勝を収め、最下位を脱出。最終節に残留を決めていた。

契約更新にあたり風間監督は「今シーズンもたくさんのご声援ありがとうございました。本当に皆さんのおかげで、圧倒的なスタジアムを創っていただきました。また来シーズンも、共に、一体となり楽しみましょう。応援よろしくお願いします」とクラブ公式サイトを通じてコメントしている。

1907: 12/07 05:38
名古屋退団決定の玉田圭司、SNSでの挨拶がつらい…「がっかりした」

名古屋グランパスは6日、「元日本代表FW玉田圭司との契約が満了になった」と公式発表した。

2006年に柏レイソルから名古屋グランパスに加入した玉田。2015年にはセレッソ大阪に移籍するも、昨年復帰を決断してJ1昇格に貢献した。今季も24試合に出場して3ゴールを決めており、38歳ながら中心的な役割を果たしている。
クラブ公式サイトではサポーターに向けたインタビューが掲載されており、そこでは「ショックというのはそこまでなかったですね。これも人生だと思う。自分が思ったようにいかないものだし、俺はそういう人生が好きっていうのもあります」とも書かれている。

しかし、玉田のInstagramではそれとは少し異なった告白が掲載されていた。
1908: 12/07 05:38
玉田圭司

「あまりにも突然だったので正直、頭を整理するのに少し時間がかかりました…。

名古屋グランパスに誠心誠意を持ってやってきましたが、契約しないと伝えられたときにはねぎらいの言葉の一つもなかったことにはがっかりしました」

プロスポーツは厳しいもので、生き馬の目を抜くような世界だ。
お金がものをいう場所だ。
しかし同時に、だからこそ言葉で気持ちを伝えることも重要なのだと感じさせられる。

1909: 12/08 09:24
知られざるダビド・ビジャ――何度でも繰り返そう。この男は“見事なグアヘ”だ…Jリーグ最高の点取り屋へ
省12
1910: 12/08 09:25
メルに精神を鍛え上げられたダビドは、決して屈することのない、逞しい人間だ。彼を見知った日のことは、まるで昨日のように思い出せる。あれはバレンシアの入団発表に臨む前日、バレンシア州都にほど近いアルボラジャのホテルでの出来事である。私は彼の代理人ホセ・ルイス・タマルゴから連絡を受け、『マルカ』のレポートを記すためにカメラマンとそのホテルを訪れた。

移籍金1200万ユーロで、サラゴサからバレンシアに鳴り物入りで加入したダビドだが、ホテルで対面したばかりの彼は、何か怯えているようにも映った。しかし実際に話し込んでみると、自分の歩む道程に対して、揺るがぬ確信を持っているのだなと感じさせた。そしてダビドとの会話を終えて、彼が部屋へと戻った後、代理人は私たちに対して一つの予言を述べたのである。

「彼はスペイン・フットボールにおいて、歴代最高のストライカーになる」

私は、一気呵成にレポートを書き上げた。ダビドの確信と、タマルゴの予言に後押しされて。そして後にダビドの悩みの種にもなる代理人の予言(または謳い文句)は、見事的中するのだった。
1911: 12/08 09:26
■ゴールの中毒者

グアヘがバレンシアでレギュラーとなるまでには、3試合しかかからなかった。そこから急激な成長曲線を描いていき、何よりも勝利を求めて、ゴールをがつがつと貪っていった。彼は、まさしくゴールの中毒者だった。それを手にするルート、手段、技術は無数に及んだが、いつもまるで当たり前のようにフィニッシュまでたどり着いて、ゴールネットを揺らした。バレンシアには2005-06シーズンから2009−10シーズンまで在籍し、公式戦225試合で129得点を記録している。
ダビドのバレンシア時代を象徴するプレーの一つとしては、バルセロナ戦で披露したグアヒーニャが挙げられるだろう。それは右足でボールを引き、軸となっていた左足のかかとに当てて、一瞬の内にダニ・アウベスの股を抜いた今なお語り注がれる伝説的なプレーだ。その試合の直後、私はグアヒーニャについて話してもらおうとダビドに声をかけた。すると彼は、さも当たり前のようにこう答えたのだった。

「ディエゴ、あれは自然と出たものなんだ。練習してできるものでもない」

1912: 12/08 09:27
ダビドは、やはり当たり前のようにスペインのフル代表にまでたどり着き、こちらでもゴールを積み重ねていく。
クルーザーの速度を獲得した彼は、もう誰にも止められなかった。
ラウール・ゴンサレスの代表引退を早めて、彼の背番号7を受け継ぐと、EURO2008、南アフリカ・ワールドカップ(W杯)優勝を達成。
EUROでは4得点で得点王となり、W杯では5得点で最多得点タイ(得点王はアシスト数で勝ったトーマス・ミュラーのものに)の活躍を披露した。
1913: 12/08 09:30
■バルサでは苦悩も

バレンシアでもスペイン代表でも活躍するダビドを、ビッグクラブが放っておくことなどあり得ず、激しい争奪戦が繰り広げられている。この時期に私は、彼にはバレンシアに残る意思があるという声明の作成を手伝ってくれと、代理人タマルゴから依頼を受けた。けれども、レアル・マドリーとはあとコーヒーを一杯ともにすれば移籍成立というところまで行くなど、本人は実際的にバレンシア退団、もっと言えば新たな挑戦へと傾いていたのだった。そうして南アフリカW杯開幕直前の2010年5月末、ダビドは4400万ユーロという移籍金でバルセロナに加わった。
カタルーニャのクラブで、グアヘは獲得タイトルを増やしていったが、それとは反比例する形でプレーする喜びを失っていく。カンプ・ノウでは自分の居場所を見つけられなかったのだ。レギュラーではあったしゴールだって決めていた。が、彼とバルセロナのドンであるリオネル・メッシの関係は、少なくとも快くプレーするために問題が何もなかったというわけではなかった。
1914: 12/08 09:30
かてて加えて、この頃のグアヘは彼のことを裏切り、“元”代理人となっていたタマルゴと裁判で争ってもいた。
タマルゴ側が実際に関わっていなかったバルセロナ移籍の手数料として、600万ユーロを彼に求めたことで――。結局、その訴えは退けられたものの、裁判所で目にした引きつった表情を浮かべるダビドを、私は決して忘れることができない。
彼はバルセロナでのプレーに、信頼していた人物の背信に深い、とても深い苦味を感じていたのだった。
1915: 12/08 09:32
■アトレティコ、そしてアメリカへ

3シーズンで119試合48得点という記録を残し、ダビドはバルセロナを離れてディエゴ・シメオネ率いるアトレティコ・デ・マドリーへと移籍する。
アトレティコに在籍したのは1シーズンのみだったが、彼はスペイン首都での暮らしに求めていたものを見つけた。
事実、アトレティコやレアル・マドリーの選手たちが住む高級住宅街のフィンカでは、彼の家が現在進行形で建設されている。

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