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Jリーグ
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1937: 12/11 07:23
また、代表取締役社長を務める西川善久氏も「今シーズンのトップチームは、明治安田生命J1リーグを11位で終えましたが、終盤までトップ5を目標に上位で戦い続け、また天皇杯ではクラブ史上初の準優勝を果たすなど、チームは着実に進化を遂げました。
クラブは、渡邉監督のこうした手腕を高く評価、創立25周年を迎える来シーズンも引き続きチームを託し、さらなる高みを目指すことといたしました」と期待をあらわにしている。
1938: 12/11 07:24
【ライターコラムfrom広島】指揮官の涙の真意とは…“紫の塊”への想い抱えて真価問われる来季へ
省11
1939: 12/11 07:25
「……(スタンドのサポーターの)紫の塊ところに行くと……(15秒間の絶句)……ありがたかった。知らない間に胸に手を当てている自分がいたんです。彼らともっと、喜び合いたかった。それほど心強い(サポーターの)塊でした」 記者会見後、「どうして監督は涙をこぼしたのか」と、ずっと考えていた。

 ある記者は「一部のサポーターが批判的な横断幕を出したことが悔しかったのでは」と語った。確かにホームでの柏レイソル戦では試合前に、札幌戦では試合後に、そういった類いの横断幕が掲出された。北海道コンサドーレ札幌戦ではその横断幕に対して怒った他のサポーターが取り下げさせるという状況もあったと聞く。

 だが、城福監督や森保一監督のような昭和の男が人前で感情を堪えきれなくなる時は、もっと違う力学によるものだ。少なくとも「泣き虫」の筆者はそう考える。

1940: 12/11 07:27
そもそも、リーグ15位から2位に躍進させた実績に対し、本来であれば反省もいらなければ批判も不自然だ。だが、あまりにも凄いスタートダッシュと、あまりにも対象的な失速に周囲は戸惑い、その失速が歴史的だったからこそ、批判の声が強まる。来季は大丈夫か、と。未来をこのチームに託せるのか、と。

そこを考えるには、まず、今季のストーリーをしっかりと検証する必要があるだろう。

 昨年の広島を徹底的な分析し、まずは残留のために勝利にこだわった戦いをブランする。そこの目処がついた段階でサッカーの方向性を変化させ、広島らしいボールを動かすサッカーにシフトする。それが、シーズン前に城福監督が描いたプランだった。
1941: 12/11 07:27
ただ、最初の「勝点をとりにいく」プランが、予想外の成果をあげる。
省12
1942: 12/11 07:28
さらに衝撃的だったのは守備だろう。「靴1足分の寄せ」という城福監督の指導のもと、より激しくより強く、相手に身体を当てた広島の守備は、そのインテンシティの高さが注目を集めたが、組織が美しく機能していたからこそ、15試合中10試合の完封という快挙が実現できた。
先制逃げ切りだけでなく、逆転劇が3度も。ほぼ完璧な15試合を表現した。

だが、この試合内容がずっと続くと、城福監督は思っていなかった。

必ず、研究される。ターゲットにされる。勝てなくなる。
1943: 12/11 07:28
だからこそ、中断期の韓国キャンプでは「繋ぐ」意識を高めるトレーニングを繰り返した。

だがそれは、中断明けから内容の変化を決断するのではなく、もう少し未来を目指すためのモノではあったのだが、一方で次のステップに行くために必要な人材が不足していたという現実もある。
たとえば、森ア和幸の慢性疲労症候群による長期離脱からの復活があれば、まったく違った様相になっただろう。
それは彼がピッチに戻ってきた後、指揮官が見せた森アへのリスペクト、高い評価をみれば一目瞭然だ。
当初、城福監督がプランしたタクティクスの一つに、森アをアンカーにして川辺駿・青山敏弘の3人のトライアングルで中盤を構成するプランがあった。
もし、森アが中断明けからプレーできる状況にあれば、もしかしたら第16節の対名古屋グランパス戦から舵を切ったのかもしれない。
1944: 12/11 07:29
結果を出している戦い方をあえて切り替えるためには、理由がいる。

最大の理由になりえるのは、「違う戦いに適した人材がいて、彼らを起用した方がもっと結果が出せる」という論理的な思考しかない。

だが、あまりに圧倒的な結果が、変化を拒んだ。

つなぐサッカーを表現するための若者は決して少なくなかったが、「15試合の快進撃」を支えたインテンシティの部分と守備意識・スキルでどうしても主力に及ばない。

一方で、その不足を補い、上回るほどの攻撃ができるかといえば、そこもまだ発展途上だった。
1945: 12/11 07:30
後半戦、さすがに快進撃は落ち着いたが、それでも決して悪くなかった。

9月1日、鹿島アントラーズを相手に3−1と逆転勝ち。残り9試合で勝点55。2位の川崎フロンターレとの勝点差は9ポイント。

多くの人々が「優勝」を確信した。川崎が全勝しても勝点は73どまり。広島は6勝3敗でそのラインに到達できる。

そこまでわずか4敗、得失点差でも10ポイントも上回っていた状況を考えれば、3年ぶりのタイトルは手中にあったといえた。
1946: 12/11 07:30
 そこからの急降下もまた、誰も予想できないレベル。
サガン鳥栖戦で今季初めてセットプレーから失点(PKを除く)で敗れると、ガンバ大阪、柏、清水エスパルス、ジュビロ磐田と4試合連続してセットプレーからの失点。
柏戦から磐田戦まで3試合連続の複数失点。
一方でエースのパトリックがチャンスをモノにできなくなり、第28節の対G大阪戦から最後まで1点もとれなかった(第33節名古屋戦は出場停止)。
パトリック不調をカバーする選手も台頭せず、「守れない・攻めきれない」という絶不調の状態に陥ってしまった。

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