マレーシアの歴史


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マレーシアの歴史

1: 名無しさん@ヒッキー:06/12/22 02:05 ID:82ssJivM
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7: 名無しさん@ヒッキー:06/12/22 02:17 ID:???
 戦時中、日本軍政下でマレー人は親日であり、華人は抗日であ
った。この時点で、双方の対立はすでに始まっていたが、独立後、
マラヤの商工業は華人と欧米人に自由に任され、華人が富を築い
ていくのに対し、マレー人農民の生活水準は極めて低かった。ま
た、華人は、国語、国教、マレー人の特権などマレー人優先政策
を続ける政府に反発していた。ラーマン首相の政策は、マレー人
の経済的不利と、華人の民族的不平等を生みだし、結果的には互
いが不満をもつことになった。
 1969年5月10日に連邦下院議員の選挙が行われた。選挙前の5
月4日にはマラヤ労働党を支持する華人青年がクアラルンプール
で選挙ボイコット運動を行った際に、その一人が警官に抵抗して
殺害された。5月9日のこの青年の争議には5000人もの華人が詰
めかけ、ラーマン首相を批判、マレー人と華人との緊張が膨れ上
がった。選挙では、マラヤ労働党は全体で89議席から66議席へと
減り、野党が計37議席を勝ち取り、勢いづいた。
 5月13日、民政運動党のタン・チークン書記長がクアラルン
プールで「勝利の行進」を決行、マレー人の居住区カンポン・バ
ルを通過した際に「マレー人は死んだ」などと叫んだらしい。こ
のため、セランゴール州首相ハルンの自宅に集まったUMNO青年部
のマレー人らが対抗してUMNOの勝利行進を行い、同夜両者が衝突
、流血事件に発展した。この事件で、支社196人、うち華人143人
、マレー人25人、インド人13人、その他15人。負傷者は439人、う
ち華人270人、マレー人127人、インド人26人、その他16人となっ
ている。よく14日ラーマン首相は非常事態宣言を宣言し、議会を
停止した。ラーマン首相は、緊張状態が治まるまで、首相の地位
にとどまる決意をしたが、次々とラーマンの退陣を要求するデモ
が全国各地で、行われるようになった。副首相のラザクは同年10
月9日「5月13日の悲劇」と題した、レポートを出版。ラザクは、
その中で、率直かつシンプルな表現で、事件を過大情緒的に扱わ
ず、”このレポートは、あの事件に関するもはや隠しておけない
事実を皆に知ってもらうためのものである”と言った。



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