1つめの記念スレ


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1つめの記念スレ

1: 騎士剣:05/11/09 17:24 ID:A/yxhPTA
勝手にスレを書き込んで勝手にレスをつけてくれぃ

1709: 名無しさんAA:18/11/09 01:31
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 135 

 1223年、ロシアの地にモンゴル軍が出現した。この時のモンゴル軍はチンギス・
ハンの大遠征の別働隊で、カスピ海の南回りでカフカーズを通り、南ロシアを荒らした
。そして1236年、チンギス・ハンの遺命によって、チンギス・ハンの孫のバトゥ・
ハンもヨーロッパ遠征に出発した。ボルガ河畔から、ロシアに侵入したバトゥ・ハンの
遠征軍は、キエフ・ロシア国を壊滅させ(キエフ占領)、ロシアの主要都市を 次々と
攻略した。さらにその一隊は、ポーランド、ハンガリーまで攻め込んだ。こうしてバト
ゥ・ハンの遠征軍はヨーロッパ世界に脅威を与えたが、オゴタイ・ハンが没すると、バ
トゥ・ハンの遠征軍はボルガ川畔まで後退し、カスピ海に注ぐボルガ川下流のサライを
首都として1243年「キプチャク汗国」を建てたとされる。こうして、キプチャク汗
国はロシアの大部分を支配することになり、その領土の外にあった諸公国も従属関係に
入り、ここに歴史家の言う「タタールのくびき」が始まった。ちなみに、この「キプチ
ャク汗国」が首都にした都市サライは、またの名をイティルといった。すなわちハザー
ル王国の首都だった都市である。このことで謎が多く、ハザール王国がいつ滅亡したの
か具体的な記録は残されていないが、この時期1243年、ハザールの中心部はバトゥ
・ハンの権力下に吸収され、ハザール王国は「完全に崩壊」した。とされる。尚、丁度
この時期に、バチカンの情報網は、離散したハザール人についての記録を残している。
1245年、ローマ教皇イノセント4世は、「キプチャク汗国」のバトゥ・ハンに使節
団を送っている。新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探るのが主な目的であった
。使節団はドイツのコローニュを出発し、ドニエプル川とドン川を通って1年後にボル
ガ川流域の下流にある「キプチャク汗国」の首都に無事到着した。この使節団の長だっ
た修道士カルピニは、帰国したあと、有名な『モンゴル人の歴史』を書いた。その歴史
的、人類学的、軍事的資料の宝庫の中には、彼が訪れた地域に住む人々のリストもある
。そのリストの中で北部コーカサスの人々を列記した中に、アラン人やチュルケス人と
並んで「ユダヤ教を信じるハザール人」の名がある。今のところ、この記録が民族とし
てのハザール人についての最後の「公式記録」とされている。ところで、ハンガリーの
歴史学者アンタル・バルタ博士は、著書『8〜9世紀のマジャール社会』でハザール人
に数章をあてている。8〜9世紀のほとんどの期間、マジャール人(ハンガリー人の祖
)はハザール人に支配されていたからである。しかし、ユダヤ教への改宗には、一節を
あてているのみで、しかも困惑もあらわである。


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