私の番組評


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私の番組評

1: 名無しさんAA:11/01/20 01:13 ID:ks
 相棒  


 昔も見ていたのだが 時間帯の問題で少し見れなくなり やっと見れるように
なった。というか今回魅入ってしまった。というべきだった。ますます好調の杉下
右京刑事役の水谷 豊氏ではあったが 番組構成がこんなにも洋風化していたかと
少し感じたぐらい 初回頃の相棒とは少しずつ変化していて 今では全てにうまく
映写化しているといえるだろう。
 かつてから サスペンス物は数多くの探偵やら刑事やらを生み出してきた。その
都度に トリックやらその紐解きやらあるいはその事件性の特異さを 演出しては
ドラマじたてで映像化してきていた。だが如何せん 日本特有のシステムあるいは
その気候風土では アメリカやらイギリスやらのようには ハードボイルド風にも
見事な発見解決も 奇想天外なアイデアでしか出来なかった。が 今やそうした物
が出来つくした観があった中で 西部警察よりのアクションを捨てはぐれ刑事より
の世情物でコロンボ刑事並みの 真実に迫る手法は やっと日本のものに消化させ
られたような感をみせるのが この番組であった。
 このハイカラな刑事番組は かつての松田優作とのコンビでみせた 傷だらけの
天使のような コミカルなテンポとシニカルな叙事詩的な映像で 主人公杉下刑事
を際立たせる。そこで現れる風景は なんとなく一流的なバックに見せる。したが
って 脇役や登場人物が なかなかの人達に見える。これがシリーズで一時間しか
ない。随分と大変な作業であろうかとは思われるが 同じような事件ものや物語が
紛れ込んではいたとしても この手法と構成更に演技と視点や結果を変えていて 
これだけ人気になったのである。ネタが切れることはないだろうとも思われる。
今後は 作品完成度が気になって おそらく見られるファンが増えると予測される。


1月20日放映分



1012: 名無しさんAA:19/02/09 09:37
 柳川 銭紋  23

こうして長州が作った禍いは佐賀・柳川に降り注いで、高椋銀行は渡辺氏の応援を受る
。東京渡辺銀行(とうきょうわたなべぎんこう)は、かつて日本に存在した銀行である
。昭和金融恐慌により経営が破綻した。1877年(明治10年)に第二十七国立銀行として
設立され、1904年(明治37年)に二十七銀行と改称していた。この時、資本金額を30万
円から100万円に増資しなんとかやりくりしていた。1920年(大正0年)2月の好況期に
行名を東京渡辺銀行と改称し、500万円に増資していた。だが内容は 審査が甘い放漫経
営と政府から叩かれ、関東大震災後に極端に経営が悪化していた。辛くも、資金繰りに
成功したが、1927年(昭和02年03月14日に第52回帝國議会で大蔵大臣片岡直温が「東京
渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言に至った。これを口実に、預金者は殺到
銀行は休業を決断する。又 姉妹行の「あかぢ貯蓄銀行」(1913年(大正2年)に福岡か
ら移転、改称した元 豊岡貯蓄銀行)も、順調だったが急遽 同時に閉鎖し、経営破綻し
た。大正15年(1926)12月25日、大正天皇が崩御され、摂政宮裕仁親王が践祚された。
昭和の幕開けであった。昭和元年(1926)はわずか1週間で暦が変わり、直ぐに昭和2
年になる。人々が天皇の践祚を祝うのもつかの間、経済界に激震が走った。事の発端は
、大臣の失言だった。03月14日、衆議院予算総会でのことだった。この時の国会では、
関東大震災後の経済対策として打ち出した震災手形問題を審議していた。この時の震災
手形の決済は2度にわたる期限延長にもかかわらず一向に進まず、2年9月の法定期限を
目前にして、到底完了しないことが明らかとなった。そこで野党が追及していた矢先の
ことだった。その場で蔵相片岡直温が「本日、東京渡辺銀行が破綻した」と口を滑らせ
たがそれは誤報であった。しかしこの失言がきっかけで翌日には、東京渡辺銀行が休業
し、動揺した預金者は他の諸銀行にも取り付けに殺到した。これは狡猾な明治政府長州
閥の反抗志士に融資する九州の銀行への懲罰のつもりだった。しかしこれで他にも休業
に追い込まれる銀行が続出して、日本銀行は、非常貸し出しで混乱の収拾に当たる事に
なった。これが日本における昭和金融恐慌の始まりだった。これは柳川の悲劇だった。
国立銀行設置の阻止から、日露戦争の缶詰競争まであった長州閥の日本阻害事件は、つ
いに全国を巻き込んだ形の日本恐慌までも陥れ(おとしいれ)ていたのだ。この誤報、
これが何故起こったのか、わざわざ国会答弁のこの中で、それが麻生氏系の裏切りと、
電気を必要とした缶詰工場が日本では柳川に最初に来たと言う恨みだった。こうした謎
の答えが歴史に埋もれている。それは、西日本新聞の元であるフクニチ新聞が、実はこ
の革命の志士の多くを擁した 玄洋社の機関新聞として発足している理由でもあった。
福澤桃介(ふくざわ ももすけ)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の実業家の
一人だ。旧姓は岩崎で岩崎家の端に産まれている。福澤諭吉の婿養子となり福澤姓を名
乗り相場師として躍り出て、一躍日露戦争後の株式投機で財を成し、その後実業界に転
じた。電気事業に関与し、名古屋電灯を買収して社長となり木曽川などで水力開発を手
がけ、後に大手電力会社大同電力の初代社長となってこの活動により「電気王」「電力
王」と呼ばれるに至っていた。この時大物政治家として富安保太郎(やすたろう)がい
たのである。そして資金源は三橋の橋本製蝋社が立花氏の支持で行い、木下氏の潟地に
八幡製鉄を置いたり三池港を開発したり柳川軌道を走らせたりしていたのである。




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