人は言葉を失った


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人は言葉を失った

1: kaminatu02:11/02/26 05:46 ID:1k
今回の地震はなんということか。
集まっていたのは 天使のように 世界に羽ばたく意思と
希望を背負っていた 若者達で 各国ともに 未来のリーダー
足らんとする者ばかりでは無いか。 なんと痛ましい事か
なんと 神の無慈悲な事か。


1004: 名無しさんAA:19/02/04 03:28 ID:jA
 柳川 銭紋  01

 福岡市の渡辺通りを作ったのは、西日本新聞社の協賛者達である。渡辺通りの名は、
博多の呉服商「紙與(紙与)」の渡辺與八郎の名に由来する。今や西日本鉄道(西鉄)
のと軍部の意向で一緒になったが、かつては博多電気軌道株式会社(はかたでんききど
うかぶしきがいしゃ)があって、福岡県福岡市において路面電車を運営しようと小さな
路地の開発事業に手を出した事がきっかけである。1910年(明治43年)から1912年(明
治45年)にかけて存在した初代法人と、同社が電力会社の九州水力電気に合併された後
、再独立する形で1929年(昭和4年)に設立され1934年(昭和9年)まで存在した同名の
2代目法人がある。1900年(明治33年)には、大分で豊州電気鉄道が開業し、九州地方
にも電気鉄道が出現した。福岡市でも電気鉄道建設を目指す機運に、当時博多電灯とい
う福岡市の電灯会社で取締役を務めていた太田清蔵らが立案した計画で、この鉄道事業
の会社設立認可を得た。しかし具体化したものの巨額の試案で、会社設立には至らず立
ち消えとなってしまった。つまり家屋や土地の権利がかなりあったのだ。この電気軌道
の動きとは別個に、「博多馬車軌道」の起業を計画する嘉穂郡の炭鉱事業者ら坂口栄に
1909年07月30日付で筑紫郡堅粕村(吉塚駅前)から福岡市橋口町に至る申請が降りた。
総延長たった3.9キロメートルの軌道敷設特許だった。この4qの計画は許可後に電気
鉄道に改められ、翌1910年3月31日、資本金150万円で博多電気軌道株式会社として会社
設立に至っていた。発起人には太田清蔵・渡辺与八郎(渡邉與八郎)・麻生太吉ら地元
実業家や、北九州の九州電気軌道設立に関与した神戸財界の川崎芳太郎・小曽根喜一郎
らも参加して、社長には平岡良助(平岡浩太郎長男、鉱山経営者)が就いた。この時に
資金を投資したのが渡辺銀行と高椋銀行であった。そこで取締役には渡辺与八郎や富安
保太郎らが名を連ねた。冨安保太郎は、筑後国山門郡吉開村(現福岡県柳川市三橋町吉
開)で、柳河藩士・富安昌太郎の長男として生まれ、東京法学院を卒業した逸物だった
。豊富な柳川予算で、福岡の大胆な投資を政治力で成功させていた。博多商業会議所の
特別議員、福岡県教育会副会長、瀬高銀行頭取、九州製油社長、博多築港社長、博多電
気軌道取締役、九州電気軌道取締役、日本毛織取締役、九州土地信託取締役、九州林業
取締役、日本電報通信社取締役、福岡日日新聞社長などを務めた。博多電気軌道は電源
確保のために、未開業であった電力会社の筑紫水力電気(1910年設立、資本金50万円)
から事業を買収し、電気供給事業を兼営とした。次いで同年10月には福岡市の西方の、
糸島郡で非電化の軌道線を運営していた北筑軌道を合併した。これは平岡良助の悲願で
もあった。平岡良助の父の 平岡 浩太郎(ひらおか こうたろう) は、日本の政治団体
玄洋社初代社長で、自由民権運動家をしていた大物だった。



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