人は言葉を失った


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人は言葉を失った

1: kaminatu02:11/02/26 05:46 ID:1k
今回の地震はなんということか。
集まっていたのは 天使のように 世界に羽ばたく意思と
希望を背負っていた 若者達で 各国ともに 未来のリーダー
足らんとする者ばかりでは無いか。 なんと痛ましい事か
なんと 神の無慈悲な事か。


1007: 名無しさんAA:19/02/04 03:29
 柳川 銭紋  04

 その後立花壱岐の残した政治論文を読んだ岩倉具視は驚愕して、八方手を尽くして、
親書を出して立花壱岐を招こうとするが、立花壱岐は、身分制度の撤廃や版籍奉還を論
じた究極の論文である「第一等論」を送付して見送っていたのである。こうして大久保
利通が来るに及んで、病気を押して大阪に上った。立花壱岐は、明治2年3月23日に
「鮒卯(ふう)」という料亭で対面し、翌日以降数回会見して岩倉具視に対して、その
持論を激烈に述べた。しかし、岩倉具視から東京に上ることを命じられて上京した立花
壱岐は、岩倉具視に対して、最も急進的な版籍奉還論、人材による藩知事の任命や地方
財政を国家財政に貢献させるべきだとする貢献説などをしきりに説くが、やはり、した
たかな岩倉具視は時期早尚(じきそうしょう)と逡巡してそれを採用しようとしなかっ
た為、失望した立花壱岐は、版籍奉還が実施されるのを見届け、6月28日に、東京を
発って柳川に帰った。 柳川に帰った立花壱岐は、藩政改革を進め、大楽源太郎事件を
乗り切るなど、その手腕を遺憾なく発揮するが、明治5年1月に士族の反乱を防止する
ため、柳川藩のシンボルである柳川城を炎上させた。これにより、藩論は一変し、これ
以降各地で士族の反乱が頻発したが、柳川藩のみはそういった反乱を見ることなく、新
しい時代を迎えることができた。佐賀の乱や西南の役の際、藩内に全く動揺が生じなか
ったのも、立花壱岐が鎮静化につとめたためである。と言われる。だがこの政治論文に
痛く共感した人物がもう一人いた。西郷吉之助である。晩年は、本郷の岩神という地の
小さな家に、家族だけのささやかな生活を送り、貧乏であったものの、家庭的で幸せな
晩年を送ることができたといわれる。自叙伝を書き、小説などを作り、たまには、幼い
子供たちの手を引いて川の土手を散歩したり、釣りをしたり、夕食の時には幼い娘を膝
に乗せて、箸で茶碗や皿などを叩いて、自作の歌を歌って楽しんだりした。明治14年
7月24日、51歳で亡くなった。墓は福厳寺にあり、墓碑も立てられている。西郷吉
之助は西郷隆盛とされている。彼の写真は柳川の高椋写真館にあったが、それこそ先の
「天璋院(てんしょういん)院篤姫(あつひめ)」にそっくりな顔つきであった。三条
実美は慶応3年(1867年)の王政復古令で宮中の表舞台に復帰した。大政奉還で成立し
た明治新政府では議定となり、明治元年(1869年)に太政官制を公布され明治2年導入
されて以来、実権はさておき、名目上は常に明治政府の首班として、諸事万端を整える
ことに努めて言わば内閣の座に着いた。議定は、議政官上局に移されて、法律の制定、
条約の締結、和戦の宣告、三等官以上の人事を司った。また、議定であった三条実美と
岩倉具視が行政官の長である輔相(定員2名)を兼務した。9月に一旦議定は行政官に
属するものとされたが上手く行かず、翌明治2年(1869年)4月に上局に戻されるなど
複雑な変遷を遂げる。



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