人は言葉を失った


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人は言葉を失った

1: kaminatu02:11/02/26 05:46 ID:1k
今回の地震はなんということか。
集まっていたのは 天使のように 世界に羽ばたく意思と
希望を背負っていた 若者達で 各国ともに 未来のリーダー
足らんとする者ばかりでは無いか。 なんと痛ましい事か
なんと 神の無慈悲な事か。


1009: 名無しさんAA:19/02/04 03:30
 柳川 銭紋  06

 実は柳川の立花藩は過去の歴史からも徳川氏とは奇妙な反目藩だった。この歴史的な
禍根を捨て去ったのがこの壱岐の守であったと言える。その後、藩兵を率いて江戸に上
り警護を固める工事にかかるが、蒸気船の発達により鎖国体制を維持することは困難だ
といち早く見抜き、最初の開国の具足論者となった。やがて柳川に戻った立花壱岐は、
26歳で家老に抜擢されたが、任命を受けるに当たり、藩公に藩政改革に関する23か
条の条件を提示したが、そのうち3か条について藩公の同意が得られなかったため、1
年限りという約束で家老に就任した。家老に就任するや、50年来解決できなかった懸
案30余件を半年で裁くなど、大いに手腕を発揮したと言われる。翌年、1年という約
束の期限が到来したので家老を辞職したいと申し出たが、藩公から「約束は藩内のこと
であり、藩外には及ばぬ。参勤交代で江戸に上るから、その間江戸屋敷で勤務いたせ」
といわれたため、これを受諾して6月に江戸に上った。元々壱岐は十時三弥助の三男で
、立花大蔵親理の養子となった者だ。天保12年に家督を継ぎ、禄千五百石の大組頭と
なった。15歳の時に立花農園で蜜柑のおいしさに触れたのち、奮然と学に志し「立志
の文」と「八か条の誓文」を三柱神社の神前で読み上げ奉納した。と言われる。15歳
から18歳までの3年余、布団にも寝ないで猛勉強を行い、熊本藩の横井小楠の実学に
傾倒し、その間、藩主立花鑑寛公に詩経の「五子之歌」を堂々と講述したり、役人たち
の不正を糾弾するなど行い、次第にその才覚を現し、17歳で藩校伝習館の学校奉行に
抜擢され、また現場奉行の発令を受けて、学校改革と兵制改革に取り組んだ。この兵制
改革において魅了されていたのが黒田清隆であったとされる。黒田は薩摩藩士として、
幕末に薩長同盟に奔走し、明治元年〜2年(1869年)の戊辰戦争に際しては、北越から
庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。この時援軍を
頼んだのが柳川の立花藩だった。理由は簡単だった。かつて蟄居した立花氏は、慶長8
(1603) 年以来陸奥棚倉 (福島県) に封を受けて知行を行った事に伝説があったからだ。
立花氏が大坂の陣の功により,元和6(20) 年 10万 9600石で再び柳川に入封するまで
そのまま廃藩置県にいたった。立花氏は外様,江戸城大広間詰だったがその知行には多
くの信者がいたのである。幕末には長州征伐で幕府軍側について参戦し、戊辰(ぼしん)
戦争では新政府の要請に応じて会津若松に出兵した。その戦いぶりは勇猛で斬新であっ
た。戦略も長けていて彼らなしには明治維新は無かったと言われる程だったが、立花氏
は全く新政府にひけらかす事は無かった。



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