人は言葉を失った


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人は言葉を失った

1: kaminatu02:11/02/26 05:46 ID:1k
今回の地震はなんということか。
集まっていたのは 天使のように 世界に羽ばたく意思と
希望を背負っていた 若者達で 各国ともに 未来のリーダー
足らんとする者ばかりでは無いか。 なんと痛ましい事か
なんと 神の無慈悲な事か。


1013: 名無しさんAA:19/02/06 15:11 ID:EM
 柳川 銭紋  10

 内山田氏の河童妖怪の手は、今やこの田尻宗家の松浦酒造が 大和町の祭りに高値で
高値で買い取ったとされる。当初、どの藩でも、藩財政には農民による年貢米で賄(ま
かな)っていた。武士の給料が米で貰もらい、日々の食い扶持を米だけで生活していた
勘定である。その内野菜などを作る下働きの者を用いて、武家屋敷を保った。しかし、
その為に余分な米を売って着物や野菜・日用品を買う必要も出てきた。その日用品を売
っていたのが、諏訪神社や三島神社などだった。柳川の三島神社は肥前鳥居が町の文化
財として指定している。元和元年(1615)に田中忠政が献納したものとして確実だからだ
。だが市内のもっとも古い水門前の水天宮小瓦も細工町の「艮の金神」(うしとらのこ
んじん)丑寅宮も今や壊されている。福厳寺の住職などは、かつて国宝に願い出たが、
断ったその古い門前大仏を足蹴にして、今や燃やしているぐらい文化を粗雑にしている
。柳川もすたれたものだ。その市を開いた社寺は、そこに札入れが必要だった。つまり
それが人のお布施であったのだ。米を売って着物や野菜・日用品を買う必要でこの物々
交換に必要な物が藩札だった。従って米を買いとる人や着物・魚・野菜を売る人や鍋釜
などを作る人が必要となり、寺の前の門前町の付近には商人や道具などを作る職人が集
まって街を築いていた。筑後小学校付近は、水田水天宮の裏に当たるが、九州征伐で秀
吉の来る前までは有数の鍛冶屋の街だったとされる。羽犬塚の名は羽柴秀吉から犬塚氏
に与えられて羽をつけて呼ぶ様にされたからだ。なぜ此処が鍛冶屋として優れていたか
。それは八女や浮羽から原料土が運ばれて来たからだ。実は筑後には長浜と言う地名が
ある。この長浜は字のごとく浜であったのだ。そこには天照大神と素戔嗚尊が契約を交
わしたとされるスサノオ神社がある。基本的に神話の構造として、天照大神と素戔嗚尊
は兄弟であり最初の方の神だが原始神は、伊奘諾尊( いざなぎのみこと)・伊奘冉尊(い
ざなみのみこと)の子である。弟とされる素戔嗚尊は、多くの乱暴を行ったため、天照
大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放される。その後、出雲に降り、八岐大
蛇(やまたのおろち)を退治し、奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、大蛇の尾から得た天叢
雲剣(あまのむらくものつるぎ)を天照大神に献じた。とされている。これは多くの史実
と合致する。一つは日本は青銅文化が少なく直ぐに鉄剣文化が来ていた事だ。更にこの
中にある「すさ」「のう」と言う言葉は藁の文化を意味している事だ。「すさ=わら」
であり「のう=能力」である。実は筑後には不思議にも大人形祭、更に大蛇祭りと言う
こうした「ねぶた」や「祇園ヤマかさ」の素の様な祭りに伝説がくっついていている。



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