馬鹿屋朗の頭


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馬鹿屋朗の頭

1: しってらい:11/04/19 22:19 ID:Hs
西から昇ったお日様が 東〜〜〜へ沈む。
それでいいのだ〜〜〜
それでいいのだ   ♪♪♪♪♪♪♪


1995: 名無しさんAA:18/07/14 11:59 ID:LEM
 哲学の先にある文明        1

 マイケル サンディルは白熱教室でアイデンティティを問題にした移民問題を議論し
ている。しかし、ちょっとこれは間違えている。つまり移民問題は1つは経済的負担の
問題で、大人数では経済破綻が起きると言う可能性である。2つ目は文化や様式の破壊
ある種のコミュニュティ文化の破損である。この二つをあげている。しかしそれはちょ
っと間違っている。人が移民を受け入れられないのは、相対的な安全や治安の確保であ
る。この話をしてる間日本人にはおなじみの徳川幕府の話を思い出した。マイケルの話
の様に、当初は徳川氏も江戸初期までは、自由な往来があった。しかし、これによって
江戸や大阪と言う大都市の便利さに、平和になると人が殺到した。つまり田舎は寒村に
なる様相を呈した。おまけに江戸幕府には参勤交代と築城や普請の荷役を諸大名に次々
に司令した。家康が考えていた事は庶民の幸せだった。それが徳川幕府の究極の治世で
あり権力となる事をしっていたからだ。そこで行われたのは関所だった。つまり村から
の農民が逃げる事を止めたのだ。自由に武士に変わってもほとんどは喰い詰め浪人なの
だったのだ。刀さえ腰にさせば武士となり浪人となれたのである。これらに喧嘩はつき
ものだった。コミュニュケ―ション不足は色んな諍いは起こった「火事と喧嘩は江戸の
華」とまで言われる程だった。それだけ喰い詰めの浮浪者を集めて簡単に集団化できた
のである。その金額が高いのが大阪だった。何回も大阪城を攻めてついには大阪落城を
果たしたのは、結局は戦争を止めさせたかったからだ。人が徒党を組む事を「朱に交わ
れば紅くなる。」とされ、いわゆる反抗する幕府転覆や藩政改革の熱意を疎んじたのだ
。これを徹底的に取り締まる事など不可能だった。そこに人の平和の希求を求めたのだ
。これが綱吉のお犬様を作った「生類憐みの令」である。この頃にも在日である中国人
や韓国人はこっそり日本にやって来ていた。日本語を話すから日本人とするのは簡単だ
が、あらゆる事に勝手に言い訳や言葉や文字の隅をつついて役逃れをする住民が増えた
のである。つまり議員の様な只では転ばないしたたかな人間や、凶暴で粗野な人間を、
どうにか教育すべき必要性が多々現れたのである。勿論既に武家諸法度、公家諸法度、
更に士農工商の身分制度も改められた。ただこの時のの士は仕つまりどこかのだれかに
仕えた者を指し農とは田舎に土地を持つ者だった。更に工商は工業と商業ではない。単
純に、兵農分離政策を進めた江戸時代に、職業を世襲制とした為に、造る者と売る者に
分けてしまったのである。士農工商は中国から来た観念でありそれをそのまま入れたの
だ。つまり工とは一部農業や漁業や兼業している者で商業とはそれが無い人であった。



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