反小沢一郎・反菅直人・親鳩山由紀夫・親鳩山邦夫


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反小沢一郎・反菅直人・親鳩山由紀夫・親鳩山邦夫

1: 加藤弘の上(全人類の上):11/08/07 11:59 ID:xdQ
本当に政権を与えてはいけない香具師は「小沢一郎・菅直人」の2人のみ。
多分、ポッポ兄は大丈夫じゃないかな。
この2人、「2大政党制」と言う概念を捨てる可能性はゼロに近いし、下手したら「小沢一郎・菅直人」の2大政党制を構想してるかもしれない。
※なぜ「2大政党制」を捨てる必要性があるかは>>2に記述する。

258: 名無しさんAA:19/01/10 11:03
 イミテーション・ゲームは続く 34

 「サイレントナイト。ホーリーナイト」、静かな夜、聖なる夜のクリスマスである。
正月も昔の日本人は祇園精舎の除夜の鐘であったし、初詣と言うのは2月の節句までで
お里の無い人は少なくとも「20日正月(はつかしょうがつ)」までは休みであった。
欧州における「クリスマス」の時期とは、12月25日を指すのではなく、それに至る1か
月間や、4週間ほどの期間を指し、これを待降節「アドベント」と呼んでいる。日本も
「師走(しわす)の賑わい」とされ、正月からの1ヵ月程を冬眠の様に過ごす為の用意
であった。「お節料理」とは神道ではあっても、所謂精進料理と同じく祝い料理である
。昨今は「カウントダウン」イベントなども増えて初詣を元旦に行く行為としている。
だが、本来の日本の風習は、全く違っていて食べられない貧民を「うじこやうぶこ(氏
子や産子)」を客としてもてなす事だった。他人から食べれる事、物乞いの人が堂々と
出来る日、としての祭りにしたのであり、初詣で初日に神に祈るのは乞食や貧乏人や旅
人に決まっていたのである。一般人はその頃は、百姓や武家以外は出稼ぎや奉公人であ
り、旅人となって郷里に帰る行事なのだ。さまよう浮浪者を助ける行為と同じであった
のだ。にわかに、こうした厳かで深々とした元旦を宗教行事のイベントとしたのは明治
天皇の崩御からだ。西洋思想が入り洋風の威厳である催し物が必要と考えた軍部は、か
つて宮中の秘儀であった同時に即位する天皇に、「大嘗祭」や「新嘗祭」あるいは、そ
こらの宮中行事を片っ端から、西洋の戴冠式になぞらえて国家行事にした。これに合わ
せて商用文化は、トルコ人のごとくに祭りの店を出し的屋(てきや)などを夏の夜店の
ごとく並べ出したのは、ごく最近の100年程の話である。というのも、実は御正月と
いうのは神社を参拝する祭りではなく、歳神様(さいじんさま)に来てもらう祭りであ
ったのが古来からのものだったからだ。お正月は家に歳神様をお迎えする為に時を待つ
、そうして家で祝う行事で、この時来た者をもてなす行事だったのだ。歳神とは1年の
初めにやってきて、その年の作物が豊かに実るように、また家族全員が元気で暮らせる
約束をしてくれる神様の事だ。この歳神祭がほぼほぼの縁故や日取りを決めていたのだ
。その後、戦国時代になって、敵か味方かと色分けする危険な踏み絵に変わった。平安
貴族の色分けに習ったものになったのだ。その為、その土地のお殿様に挨拶し、お土産
を用意し食事を貰う為には、早くから支度して行う大事な事業になった。ある配下の城
主は近くの有力武将の殿の為に一ヶ月掛けて貢物を用意し、一ヶ月かけて少数の家来の
お供を従って山の上の城まで会いに行っている。それが正月であったのだ。つまり歳神
様(としがみさま・さいじんさま)は一つであり俗にいう三社参りなどありえない話で
、商魂たくましく今の者が広く宣伝しみんなつられてしまっている。その意味では、当
日に はしゃいでいるという、全く不謹慎な態度は許されない。出歩く事は死さえ意味
した祭りであったのである。


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