指導改善研修の実態 横浜市


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指導改善研修の実態 横浜市

1: 横浜人権侵害都市:13/12/16 16:56
年明けの2013年1月24日 分会長のU教諭と共にいる前で。NH校長の不適切且つ違法な言動について。
○文部科学省、横浜市の指導改善研修の規定によると、元来指導力不足教員に該当しないにもかかわらず私を「指導力不足教員として申請書をすでに出すことにした」と暴言を吐いた。  
療休の診断書を2月の半ばに出しますから異動対象者名簿から私の名前を取り下げてくださいとお願いすると。校長はこれを2度拒否。東部学校事務所のOさんの指示に従って校長に事前にお願いしようとしたが拒否をする。校長としては本来診断書を受理する義務がある。「異動対象者名簿から取り下げない」などと無謀で一方的な発言を繰り返した。
仮に、「指導力不足教員として認定されなくとも、私はあなたを、教育委員会預かりにしてやるつもりだ」などと暴言を繰り返したものである。これらの発言は全て裁判上の証拠となる音声記録にも保存されているもので、事実である。NH校長が私を何としても異動させてK校から追い出そうとしていた、つまりパワーハラスメントを繰り返していたことは事実である。
○以降私は、疲弊しきっていたため、精神科で受診し、適応障害との診断を下された。寝付けない日々の中、なんとか学年末までやり終えることができた。午前中2時間年休を取得したり、休んだりすることが多い中での勤務で相当大変な思いをしたが、指導力不足教員の認定審査会では、H課長から、「すぐに休む」という点を指摘された。NH校長は心配するどころか、私に不利になり得るものは、療休であろうが構わず、悪いニュアンスで「すぐに休んでしまう職員」という言い方をしていたのである。前日に断裂症で休んだり、適応障害のために精神的に疲弊して午後から病院に行ったり休んだりした職員を捕まえて「すぐに休むダメな職員」という評価をして、教育委員会育成課に書類を提出し、強制的に指導改善研修に送り込んだのである。
当該NH小学校校長は、公務員に関わる諸規則、倫理規定、職務規定に該当し、自治会長から金銭を授受し、飲み食い等に充てるなど不適切に浪費した件に関して教育委員会から指導を受けている。2013年4月1日以降、強制的に指導改善研修に行かされている。

2013年9月18日(水)下校時の児童指導に立って児童に挨拶等をしていたが、不当にも、明日からは立たなくていいと発言。職員である者にこうした制限を設けるのは合理的理由がなく、パワーハラスメントである。

2013年9月、所属校研修ということでK小学校で勤務していたが、該当する場面がなく、学校長からの具体的な指摘もない事項について、不当に評価を低くつけられた。例えば、「採点ミスが多い」「市販テストで安易な評価をする」という場面そのものがなかったにもかかわらず、評価は「時々見られる」となっているのである。該当しない事柄までも、評価されているのであり、不実記載である。18項目中7項目(全体の38%)も本来該当することがないにもかかわらず、時々あるとされたのである。パワーハラスメントである。
 11月7日(木)に、学校長によるパワハラに関する訴えを労災として申請。本日付にて学校のメール便で送付。翌週11日(月)には届いているはずである。


1357: 名無しさんAA:18/12/28 23:32
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 41

 川又は、プリンスとの合併を断ったトヨタや東洋工業と異なり、合併によるデメリッ
トより、メリットの光が輝き、飛びついたといえる。しかし、そのデメリットは、川又
の予想以上に大きく、自動車労連(日産労連)の塩路一郎会長の台頭を許した原因とな
ったのである。日産の川又社長が社長になったのは理由があった。1947年7月といえば
、まさに敗戦後2年目の混乱期である。当時、日産自動車は日産重工業と称していたが
、現在と比べれば、その地位は問題にならないほど小さかった。川又自身も、広島支店
で興銀本店から日産入りの電話による辞令を受けたとき、日産重工業とはどんな会社か
、すぐには思い出せなかったほどだ。帰宅後「たしか、クルマを造っていた会社だよ。
昔、鮎川義介さんが、やっていた会社で、ダットサンを造っていたそうだ。いまでも、
そういうものを造っているんだろう。」と答えたと言う。その日産常務に就任したが、
前歴に照らし合わせ、担当は経理となった。当時の日産は、経理担当の役員が欠けてい
た。戦時中は親会社の日本産業から、万事支持を仰ぎ、直接指揮する必要がなかった上
に労働争議があっちこっちで紛糾した年であったからだ。川又が初めて出社すると、会
社側は、労組と賃金交渉の最中で川又は否応なく、その席上に出されたのだ。時の社長
の箕浦多一は、いわゆる2代目だったが、財閥解体で首脳部の追放という中、取締役の
総務部長から、一躍社長に抜擢されたばかりで経験も、経営の才能も疑問が多い人物で
あった。これに対し川又は、箕浦に比較され、風采からして貫禄があり、社長のように
見え風貌があった。しかも、資金繰りしてくれる天下の興銀から送り込まれた者なので
、翌日から組合幹部は、社長を無視して、新任の経理担当常務と交渉するようになった
のである。社長の箕浦は、問題局面収拾の能力に欠いていた。そこで川又は、箕浦に対
し、重役の改造、充実の人事を進言、結局川又が専務となり、実権を掌握したのだが、
当初から社長代理の様な役目であったのだろう。ところが、争議は拡大した。箕浦は、
川又から重役の改造人事を進言されるや、直ちに辞意を漏らすぐらいに臆病な男であっ
たから、1949年9月、会社側が1760人のリストラを発表、組合側の行動が一段と先鋭化
してきたと知るや、高血圧で倒れてしまった。それで川又が社長代理となり、事実上の
総指揮官として、陣頭指揮にあたったのだ。この時のリストラこそ日産のゴーンのやっ
た事に近かった。川又は、1947年7月に、興銀の広島支店長から、日産自動車の常務と
して送り込まれ、赴任早々、日産の歴史的なストライキに直面、否応なくその対策に乗
り出さねばならなかったのだ。


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