何でも書こう


@3ch掲示板 > 何でも書こう
全部1- 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 901- 1001- 1101- 1201- 1301- 1401- 1501- 1601- 1701- 最新50

何でも書こう

1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

1741: 名無しさんAA:18/11/30 19:41
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   772  > 

 神社と江島氏の関係を書きたくない久留米藩の意向が見てとれるが、これは単に徳川
草創期に久留米藩には宗教騒動が起こっていたからであろう。実は江上氏や江島氏成富
氏も、本来柳川の、蒲池氏の配下であった。しかし、家老の鍋島氏に水ケ江城などが盗
られた事で龍造寺氏に兵をつけて3回も戦いに送り出す事を、人の好い蒲池氏は行った
のである。この時送った兵が馬場氏や江上氏江島氏などの元少弐氏側の重臣で肥前の近
くの者達である百武氏も又本来久留米近くの侍だった。その後天正13年「立花左近」
様の家臣「十時摂津守」殿が再興した。という。筑後戦国史には欠かせないこの人物が
立花左近である。立花左近とは柳川藩初代藩主「立花宗茂」の直臣十時摂津守であり、
柳川藩重臣で家老の「十時摂津守連貞(とときつれさだ)」だとされる。隣藩の領主と
家老の名前を公式文書に乗せるのですから、久留米藩としても、如何に言い伝えと逃げ
を打っていても、事実と認めなければできないこと。しかし 天正13年(1585)はまだ
蒲池氏の時代で、立花宗茂はまだ柳川の領主になっておらず、十時連貞と江島氏や江島
村との接点があった可能性は少なく、京でもやっと豊臣秀吉が関白に下賜され秀吉が宣
下を下した頃だ。まず年号からして怪しい訳で謎が残る。羽柴秀吉は、天正13年(1585
年)7月に「関白」へ就任し、続いて翌天正14年(1586年)12月に太政大臣となり、こ
のときに「豊臣」の姓を受けて豊臣秀吉を名乗ることになりました。この3年前、天正
10年(1582年)に織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が発生し、秀吉が光秀を
討つことで、まず織田家家臣としての自らの地位を引き上げ、以後対立した柴田勝家ら
を破って天下人となった。本能寺の変から「関白」に秀吉が就任までの期間はわずかに
3年程でした。しかも秀吉が官位を初めて得たのは、天正12年(1584年)10月に従五位
下左近衛権少将に叙位任官された時であるから、官位もなかった者が強さのみで天皇が
承認をした事になる。天正二年の正月には信長の残虐性が新たになった年だった。恒例
の祝賀に清州城で、三杯の大きな盃・外側には梅の模様が描かれ、内側に銀色の漆が施
されていた杯が出された。三杯の盃は柴田勝家・丹羽長秀・明智光秀の所に差し出され
、触れてみて何となく手触りが柔らかく、わずかながら生臭い臭いがした。最初に飲ん
だ勝家が、首をかしげながら訪ねると「これは奴らの髑髏で作らせた盃である。遠慮は
いらぬ、もっと飲め」といかにも楽し気に髑髏の盃を回させた。先の「越前一向宗掃討
」で、門徒衆の降伏を許さず「皆殺し」を実施し、この月半ばのわずか五日間だけで1
万2千余人を殺しし、他に降伏して捕らえた者、3〜4万人いたが彼らも手足を縛った
うえで、生きたまま焼き殺し、その中から高僧の骸の頭を盃に作ったものだった。


続きを読む
掲示板に戻る 全部次100 最新50
名前: E-mail(省略可): ID非表示