何でも書こう


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何でも書こう

1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

1743: 名無しさんAA:18/11/30 19:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   774  > 

 織田軍団の強さは、抜きんでた日産のゴーンの様な非情な首切りの仕上がりにある。
「実力主義に徹し、適材適所の人事抜擢」を成形していた点で抜きんでていた。その反
面、無能と判断した家臣は容赦なく切り捨てていった。「本願寺攻略」を果さなかった
佐久間信盛親子などの、長年仕えた長老クラスでさえ、追放されたのである。10年以上
にも渡り、精一杯尽くしてきた光秀にとっては、自分のプライドを傷つけられた挙句、
領地召し上げなどと考えただけでも「お先真っ暗」になっていく想像が常に頭から離れ
ない状況にあればこそ「不安神経症」の進行=「本能寺の変」と突き進んでいった。「
仕事熱心・凝り性・徹底主義・几帳面・強い義務責任感・対人関係の悩み・居住環境の
変化・地位的状況の変化に競争。」全て明智光秀に当てはまるものと言えるのである。
不安神経症発病の症状が出ない筈はない。しかし「長期の安静」など、信長が認める訳
がない。信長は驚嘆すべきサゾでパワハラリスターだった。信濃国の反武田氏勢力が信
長のもとに集結した際、光秀は「骨を折った甲斐があった」と口に漏らした。しかし、
光秀は実際に戦った訳でも勢力結集の為に働いた訳でもなく、たんに信長のお共として
来て兵站を整えたに過ぎなかった。それをたまたま通りかかった信長が耳にしてしまっ
たのである。「このキンカン頭!お前が、いつどこで骨を折ったというか!」家康始め
諸将の面前で怒鳴りつけ、光秀の襟首を掴んで、今にも素手で殴りつけようとしたのだ
。家康らが慌てて止めに入った為、信長も掴んだ手を離したが何やらブツブツと言いな
がら立ち去ったという逸話がある。『祖父物語』に書き記されたものである。那波直治
は稲葉家を離れて光秀に士官した地侍いだった。怒った一鉄は信長にこの件を訴えた。
光秀は以前にも稲葉家から斎藤利三を士官させており、これで二人目だったがこの一鉄
の訴えを聞いた信長は、光秀に命じ直治を稲葉家に返還させ、斎藤利三には「自害」を
命じていた。しかしこの時は信長配下の猪子高就のとりなしで利三は助命され、光秀に
仕えていた。こうした事で信長は光秀に怒り、頭を二・三度叩いたとある。その時に頭
の薄い光秀は「付け髪」が落ちたという伝説すらある。フロイスに書かれている内容で
は、催し事(家康の饗応)の準備に、信長は密室において明智と語っていたが、元来、
逆上しやすく、自らの命令に対して反対(の意見)を言われる事に堪えられない性質で
あったので、人々が語るところ、彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返す
と、信長は立ち上がり、怒りを込め1度も2度も、明智を足蹴にしたという事である。



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