何でも書こう


@3ch掲示板 > 何でも書こう
全部1- 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 901- 1001- 1101- 1201- 1301- 1401- 1501- 1601- 1701- 最新50

何でも書こう

1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

1744: 名無しさんAA:18/11/30 19:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   775  > 

 当時の文献では、天正十年の信長の振る舞いは病的な程にヒステリックである。物事
を裁量する際の独断と専攻、家臣達に対する短気とわがまま、光秀が「不安神経症」と
診断するならば、信長は「ヒステリー神経症」だったのだろう。これらには西洋丸薬な
どが体を蝕んでいたのかもしれない。ヒステリーは、症状が現れても苦しんでいる様子
がなく、むしろ病気になる事に無意識の満足を感じている様に見える面がある。とされ
る。特にヒステリーになりやすい性格は、虚栄心が強く、自己顕示的で他人の注意を引
きたがり、暗示性に富み、自己中心的・未熟・依存的で感情浅薄で気が変わりやすいと
いった症状が見られる。文献として、フロイスの『日本史』が当時の信長と光秀の関係
を、一番正確に記した物だと思われる。現代医学的説を考慮するとすれば、「不安神経
症」になった明智光秀の耳元で悪魔の様なささやきをしている斎藤利三の影がうっすら
と見えてくるの程である。「手柄の割りには、禄高がすくない」と稲葉家から出奔した
斎藤利三の弁である。ここに明智光秀の人柄と真面目さと信望を巧に操っていた感がぬ
ぐえない何かを見せる。「本能寺の変」とは「不安神経症とヒステリー神経症」を患っ
た二人の患者の争いだったのは事実だろう。問題はその裏に操っていた者らの姿である
。光秀は信長から「近江・丹波」を取り上げられ「岩見・出雲」に移される予定であっ
たという説がある。「岩見・出雲」は中央から遠く離れており、しかも半ば実力で支配
を命じられる有様であったという。この様な仕打ちを『左遷された』と光秀は思い込ん
だのは当然だろう。更に秀吉の時代になっても信長の野望であった九州平定・朝鮮征伐
を行っている。此の事には九州の武将や大名達は、大友氏以外は大反対であったはずだ
が最終的にはそれを行っている。つまり天下布武の武断政治をそのまま行われているの
だ。ここに宣教師たちの働きを見る事が出来る。アルメイダ街道では、その頃流行り病
であった天然痘を受けて命を長らえた子供が2千人ほどいたであろうと推定される。天
然痘ウイルスは病原体感染症の一つで日本では度々発生したが押さえられ撲滅した物だ
。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)といい、一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の
語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出
である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%
と高く。仮に治癒しても瘢痕(あばた)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した
感染症であるが、日本では、恐らく古代から外国人が来訪し持って来るものだったろう




続きを読む
掲示板に戻る 全部次100 最新50
名前: E-mail(省略可): ID非表示