何でも書こう


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1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

1746: 名無しさんAA:18/11/30 19:52
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   778  > 
 立花氏が奇跡の復活をして、徳川政権下で再び柳川領主となった時は、江島も四郎丸
も久留米藩の領地となっていた。隣の藩領に神社を建てるなど、普通はできません。実
は神社再興の時代は江戸期に津村判定で宗茂は柳川領主ながら久留米に仲が良かった。
調べた限りは、江島、四郎丸は十時連貞の知行地ではなかった。では何故連貞は神社を
復興したのか。傍証資料から、江島氏は立花家の家老クラスの重臣の与力として参戦し
ていた。おそらく、秀吉の朝鮮出兵の際に、宗茂と共に朝鮮に渡った連貞の与力として
、江島氏に何らかの功績があり、神社再建はその返礼ではないかと推測できる。連貞は
前述の江島美濃守麟圭とは同時代の人ですから、両者には深い関係があったのかもしれ
ません。ひょっとしたら共に戦った事もあるかも。江島氏が戦禍で失った四郎丸の神社
を再興するにあたり、十時連貞が神社をプレゼントしてくれたか、あるいは立花家内の
根回しと資金的援助を行ってくれたのかもしれません。実は朝鮮征伐はかなりの問題を
含んでいた。朝鮮は1400年頃の壱岐・対馬征伐を行い日本側に大きな負担をした。此の
頃丁度応永の乱が始まり大内義弘が足利義満に叛し堺で挙兵して九州の守りが統率のな
い時代で九州騒乱時代だっただが(1401年)足利義満は馬鹿げた事に遣明使を派遣。日
明貿易への第一歩を踏んでいた。その後後小松天皇が称光天皇に譲位。称光天皇践祚(
せんそ:禅譲)して称光天皇即位したが、天皇の勝手な宣下で日本国中争乱の中だった
。(1416年)上杉禅秀の乱が始まる。(1419年)応永の外寇(李氏朝鮮の対馬侵攻)が
起こったが(1421年)には伊豆大島が噴火した。日朝の取締強化によって前期倭寇は減
退の傾向を見せていたがしかし1419年、太宗上王と世宗が応永の外寇(己亥東征)を、
実施して227隻 1万7千余の大軍勢で、壱岐・対馬を侵攻し、応永の外寇は九州に深刻な
事態に陥っていた。将軍足利義持は明が朝鮮と連合して攻めてきたのかと驚き、京都で
は三度目の蒙古襲来という噂が広がり衝撃が広がっていたものの何も出来ないでいた。
幸い、この外寇はいち早い宗貞盛の機転で、僅かな手勢によって撃退され、台風を恐れ
て撤退させた。結局、これが朝鮮側からの最後の日本侵攻となったと言う。前期倭寇は
、明の海禁、勘合貿易が始まるなどしたことで1444年頃にほぼ終息した。宗貞盛は幼名
都都熊丸。通称は彦六・右馬と言われた。1418年、父の死により、後を継いで当主とな
り少弐氏と一緒に撃退し、翌年、李氏朝鮮の軍勢に対馬を攻められた(応永の外寇)が、
奮戦し、両軍膠着状態になった際にも、貞盛は朝鮮軍の要求を拒絶したうえで朝鮮の使
者に対して暴風雨が近づいている事警告し、停戦修好を求めた。戦後、貞盛は李氏朝鮮
との関係修復・強化に努め1441年には日本人が朝鮮近海で漁ができる権利を獲得(孤革
島釣禁約)した。


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