何でも書こう


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1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

1747: 名無しさんAA:18/11/30 19:53
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   779  > 

 その後も宗貞盛は、朝鮮と嘉吉条約を結んで、対馬における所領を安堵されて、交易
による利益を独占していた。ところが同じく朝鮮との交易に目をつけていた大内氏と敵
対し、宗氏の主筋であった少弐氏と共に大内軍と戦ったが敗れて多くの領土を奪われて
しまったのである。また、大内氏によって所領を追われた少弐嘉頼を庇護している。し
かし他方、朝鮮は国内の居留日本人に高い規制を掛けた。その為日朝貿易の増加は規制
が増え、通交統制となって、1510年に恒居倭人(朝鮮居留日本人)の反乱である三浦の
乱を生んだ。これより前,朝鮮王朝 (李朝) は海防を強化して倭寇にそなえ,懐柔や武
力討伐などの倭寇壊滅策をとる一方で、日本には使臣を送り倭寇禁圧を要請した。日本
でも室町幕府の統制が強まって西国の有力守護や豪族などが倭寇禁圧と倭寇に拉致され
た朝鮮人捕虜の送還に努力した。こうして朝鮮王朝と鎌倉幕府、西国領主の封建領主間
に交易関係が結ばれ、使節の相互往来が盛んになった。朝鮮の三浦「薺浦(せいほ)富
山浦(ふざんぽ)塩浦(えんぽ)」に限って交易を認めた。日本側も倭館を設け、三浦
に住む日本人は恒居倭 (こうきょわ) と呼ばれた、世宗18(1436) 年には 60戸の居住
が許されたが、15世紀末には薺浦 347戸,2500名,富山浦 147戸,453名,塩浦 51戸,
152名 の多数に達した。数が次第に増加するにつれ、密貿易など違反者、非行者が続出
した。片貿易や国庫の欠亡に苦しむ朝鮮王朝は、中宗が即位すると改革の一環として、
日本貿易にも厳重統制を加えて、大幅な恒居倭の居住権も制限した。当時自治を持って
いた恒居倭は、当然大反対し対馬からの兵船数百隻の応援を得て反乱を起した。しかし
朝鮮の圧倒的な軍事力の前に敗退しその結果,日朝間の通交貿易関係は断絶したのであ
る。2年後に壬申条約が結ばれ修交関係の復活をみたものの、薺浦1港に限られ歳遣船
歳賜米も減少し、恒居倭は全く認められなかった。これまでは、1443年の正統癸亥約条
嘉吉条約が存在していたが、この1510年の乱で、対馬の宗氏と朝鮮との関係が断絶した
。困った宗氏は有力者の大内氏や室町幕府に援助を求めた。日本から幕府の使節が再度
渡航して懇請し、1512年 (朝鮮,中宗7年。日本,永正9年) に在来の「正統癸亥約定」
を大幅に修正した新約定が成立した。これがすなわち「壬申条約」である。主要内容は
(1) 三浦の居留民を承認しない。(2) 宗氏の渡航する使船の半減。(3)在来朝鮮での特
権の廃止。(4)往来の港を斉浦「乃而浦(ないじほ)」のみに限る。などだ。こうして、
日本の対朝鮮貿易はきびしい制限を受けることになった。


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