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指導改善研修の実態 横浜市
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 正統王朝のヨルダン国王であるアブドゥッラー2世・ビン・アル=フセインの名が示
す様に、中東はオアシス国家の首族長の集まりで、ヨルダンは最古国王ヒジャーズ国王
フサイン・イブン・アリーから近代の国家となったが、イスラムの家系のハシーム王朝
は紀元前からの王朝の流れである。イランのパーレビ国王は、民主化と経済活性化を行
ったのに革命で失脚してしまいましたが、モハンマド・レザー・シャー・パラビィは、
イスラム教パラビィ派の宗教上の指導者の家系だった。パフラヴィー2世や日本報道で
パーレビ国王と呼ばれることが多かった国王だが、父である先代の皇帝レザー・シャー
の退位により即位し、「白色革命」を推進してイランの近代化を進めたが挫折し、イラ
ン革命により失脚した。モハンマドは改革の一環として、女性解放をかかげてヒジャブ
の着用を禁止するなどイランの世俗化を進めたが、これらの政策はホメイニーらイスラ
ム法学者の反発を招いたという。例えば1962年に、地方選挙において選挙権と被選挙権
をムスリムのみに限った条項を撤廃し、バハーイー教徒などにも市民権への道を開こう
とした時には、異教徒、とりわけシーア派保守派からは「邪教徒」「カーフィル」とさ
れるバハーイー教徒がムスリムと対等になることを嫌ったホメイニーらの抵抗にあった
。つまりここでも、異教徒の奴隷階層が慣習化していたのである。首都テヘランに「シ
ャーの栄光」を意味するシャーヤード・タワーを作ったり、父親レザー・シャーの霊廟
を建設したり、従来のジャラーリー暦に代わって帝国暦を採用、キュロス2世がメディ
アを滅ぼしてアケメネス朝を起こした紀元前 550年をキュロス紀元としたり、国威発揚
を促して自由化を進めたがそれが返って自由化を阻害した。モハンマドは自らの称号を
「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」と定めて、日本の大阪万博の
翌年、1971年には古代のアケメネス朝ペルシア帝国の遺跡ペルセポリスで、イラン建国
二千五百年祭典を開催した。イラン人の民族意識を鼓舞する「イラン・ナショナリズム
」をイランの新たなイデオロギーに据えることを目標にし、行事には多数の国賓が出席
し、エチオピア帝国のハイレ・セラシエ皇帝や、日本の皇族で古代オリエント史学者の
三笠宮崇仁親王等といった世界各国の王族だけでなく、西側諸国・東側諸国・非同盟諸
国の首脳なども招いた盛大な式典を催しした。冷戦下において欧米や日本などの先進国
との石油外交を基礎にした深い経済関係を元に進めてきた近代化政策は、1970年代中盤
に起きたオイルショック後の急速な原油価格の安定化もあり、1970年代後半に入ると、
裏からのソ連の介入したホメイニなどの反乱で破綻した。パフラヴィー朝は国号をペル
シアからイランに改称したが、そもそもロシアからのタタール人対策でペルシア・コサ
ック旅団を作ってルーシー対策したのが発端である
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