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指導改善研修の実態 横浜市
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 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 33

 日産は、元々戦前にフォード日本工場を買い取った日産コンツェルン(にっさんコン
ツェルン)がその組織の源流である。今でこそ知られないが、戦前戦中は、軍部さえも
動かす日本の財閥の5本の指に数えられるものだった。1920年代第一次世界大戦の
特需にアメリカは大いに沸いた。アメリカ経済は空前の大繁栄をとげ、戦前の債務国か
ら世界最大の債権国に発展した。日本も又、第一次世界大戦の特需景気(大戦景気)で
沸いて、繊維・造船・製鉄などの製造業や、海運業が大いに発展した。戦争に乗じ欧州
諸国の市場であったアジアに商品の販路を広げた。これらの理由により輸出が大幅に伸
びて、日本は米国同様に債務国から債権国に転じた。この好景気を背景に東京や大阪な
どの大都市で百貨店が営業をはじめ、ラジオ放送や雑誌の創刊が行われた。しかし1919
年までの話で、1920年代に入ると大戦景気の反動による不況(戦後恐慌)をはじめとし
て、震災恐慌、金融恐慌など経済的な苦境がつづいた。都市の中間層の増大は大正デモ
クラシーといわれる政治上の主張としてあらわれて、一般大衆の、選挙権を求めた運動
(普通選挙法)がさかんとなった。本格的な政党政治がおこなわれ、一方では社会主義
思想が広まって労働争議や小作争議が相次いだ。この時需要に押されて手一杯の軍需の
生産を担っていたのが久原鉱業を中心とした久原財閥グループだった。一気に経営危機
になった久原財閥を引き継ぎ、久原鉱業を中心とした事業再編を軍部の懇願により鮎川
義介が断行して切り抜けた。1928年にこのグループを日本産業株式会社に改組し、この
会社は株式公開企業とした。公開にあたって得た資金を元に事業拡大を進め大陸進出を
果たした。当時三井三菱住友の大店も殆どが、どこかの藩の後ろ盾で商売をして生業と
していた。久原は藤田財閥の藤田伝三郎の実兄にして共同経営者であった久原庄三郎が
離れて起こした鉱山会社でしかなかった。井上馨の助けを借り、三井銀行常務取締役の
筆頭・池田成彬や大阪鴻池銀行からの融資をとりつけ、久原は赤沢銅山を所在地日立村
の地名をそのままとって、「日立鉱山」を開始した。そして明治政府が連れてきた御雇
外国人技術者の力を借り、従来の操業方法の近代化、機械化につとめ掘削方式を一新、
科学的近代技術と機械の導入で能率の向上をはかった。この明治から大正にかけては、
日本では大きな技術発展の期間だった。野口 遵(のぐち したがう、したごう)も、こ
の頃日本の実業家として立ち。日本窒素肥料を中核とする日窒コンツェルンを一代で築
いている。

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sage
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