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指導改善研修の実態 横浜市
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 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 36

 その後、72年に自動車メーカーの主要労組を統合した自動車総連を結成し、86年まで
会長を務めた。つまりアメリカ留学は藪蛇だったのである。その為直ぐに経営が行き詰
ったのだ。日産自動車には、かつて3人の「天皇」がいた。日本興業銀行(現・みずほ
コーポレート銀行)出身の川又克二社長(86年、81歳で死去)、生え抜きの石原俊社長
(03年、91歳で死去)、自動車労連(現・日産労連)の塩路一郎会長(13年、86歳で死
去)である。70年代後半からの日産は「三頭政治」と呼ばれた。川又と蜜月関係を結ん
だ塩路が、石原と激しく対立した。日産の凋落を招き、仏ルノーに身売りしなければな
らなくなった最大の原因は、3人の天皇による社内抗争にあった。労働争議を終息させ
た川又は57年、日産の社長に就任。58年に日産労組書記長に就いた塩路は第1組合潰し
の論功行賞としてハーバード大学ビジネス・スクールへ留学(59〜60年)させてもらい
、帰国後の61年日産労組組合長、62年に日産グループの労組でつくる自動車労連の会長
に就任。72年に自動車メーカーの主要労組を統合した自動車総連を結成し、86年まで会
長を務めた。川又克二は73年に岩越忠恕にバトンタッチするまで16年間、日産のトップ
として君臨した。岩越社長の時代の4年間も、川又は会長として院政を敷いた。塩路は
権力志向の強い男だった。労使一体化路線を進め、人事権を握った。人事・労務部門は
塩路派の巣窟といわれた。日産社内では、労組(=塩路)の同意がなければ人事や経営
方針が決められないほどの影響力を行使し、「塩路天皇」と呼ばれた。日産社内で「あ
のフォーカス事件」として語り継がれる写真爆弾で、石原は塩路にトドメを刺したとい
う。4000万円はするといわれた、美しいヨットを3隻所有していただけではない。品川
には7LDKの高級マンションを持ち、日産プレジデントとフェアレディ240Zを乗り回
し銀座には多くの婦人を持っていた。「(労組の指導者が)銀座で飲み、ヨットで遊ん
で何が悪い。」と公言してはばからない人物と「フォーカス」誌上では紹介されていた
。長年に及ぶ組合内の独裁や、「労働貴族」と呼ばれる豪華な生活に不満を募らせてい
た工場勤務の組合員から厳しい批判を浴びて、事実上、解任される形で、86年に自動車
労連と自動車総連の会長を辞任し、石原は塩路の追い落としに成功した。後年、石原は
「社長任期中の大半は、塩路氏との対決に時間を費やした」と語った。塩路は12年に、
回顧録『日産自動車の盛衰 自動車労連会長の証言』(緑風出版)を書いている。「日
産のマスコミへの出稿費用(=広告宣伝費のこと)は分不相応に 年700億円を超えてい
て、トヨタを大きく上回っていた。

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