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指導改善研修の実態 横浜市
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 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 37
塩路を潰すためなら金に糸目を付けないという石原氏の姿勢がそうさせた」と綴って
いる。塩路一郎が経営に不当に介入するまでに権力を肥大化させたのには、塩路に取り
入ってライバルを蹴落とそうとした経営側の人間にも責任の一端がある。日産の経営は
迷走を続け、99年にフランスのルノーの傘下に入った。日産自動車没落のA級戦犯。そ
れは川又克二、石原俊、塩路一郎という名前の3人の天皇だった。とされる。だが果た
してそうだろうか。実は川又は、戦後の過度期には随分と苦労している。川又と中山は
旧制東京商科大学(現一橋大)を卒業、興銀に入行した仲間で、中山が若くして才能開花
し、人事、調査部長を歴任、理事に就任した。それには軍の背景がある。ブリジストン
を育て、プリンス自動車を立ち上げた石橋正二郎も、又同じ運命にいた。大正元年石橋
が九州から上京しゴム底の足袋をつくり、ゴムというものを、将来どのように発展させ
るか考えていた石橋青年は、T型フォードをみると、たちまち魅了された。それで大枚
はたいて1台を買い求め、九州の久留米に持ち帰った。これが石橋が初めて自動車に目
をつけた最初であった。それほど当時は東京でも自動車は珍しかったのである。石橋は
戦後に1949年にプリンスの前身である東京電気自動車の会長に就任しフォードの跡地で
、大株主会長として君臨したが、あくまで本業はブリヂストンタイヤである。輸入自由
化の波に直面し、世界的な経済競争に突入した自動車会社をタイヤメーカーが支配する
時代ではない。と、判断したのであった。横浜ゴムは今こそ、ブリヂストンに大きく水
をあけられてはいる。しかしかつては、ブリヂストンなど足元にも及ばない優秀企業で
あった。1917年にBFグッドリッチとの合弁でできた会社で、グッドリッチの技術
を背景に飛ぶ鳥を落とす勢いで成長した企業だった。それが、経営者が政治に足を入れ
、学閥偏重で、人気が下がり業績が急降下で悪化し今に至っている。つまりブリジスト
ンも又自動車会社一社を持って販売出来るのでなく、自動車全社にタイヤを売り込む時
代が来ているのだ。と痛感し折しも「2、3年前から、通産省は自動車産業の集約化を
提唱して、我々のところにも、重工業局長あたりが、何度も合併談をすすめにきた。」
と書いている。「しかし、その都度、断った。ところが今度は、桜内通産大臣が突然や
ってきて、膝詰め談判である。当面は無事だが、自由化が行われたあとの業界は大変で
、プリンスは外車攻勢で危ない。だから、このさい大衆的見地に立って、率先して合併
を考えてくれと。説得された。歴代の通産大臣で、自ら乗り込んできたことはなかった
。それだけに、桜内大臣の国を憂う真情に動かされた。」と懐想している。いかに弱体
とはいえ、長年育て上げたプリンスである。従業員にたいする情もからんでいる。それ
を敢えて合併に踏み込んだのだ。
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