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指導改善研修の実態 横浜市
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 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 39

 中山、川又とも1929年に旧制東京商科大学(現一橋大)を卒業、興銀に入行した仲間で
、中山が若くして才能開花し、人事、調査部長を歴任、理事に就任したのに対し、川又
は、地方に回され、しかも途中、陸軍主計幹部候補生として徴用され、戦後興銀に出社
すると、与えられた辞令は融資部次長で、同期の中山が理事に抜擢され、輝かしい未来
が約束されていたのとは対照的な人生を送っていた。まさに天国と地獄であった。川又
にしてみれば敵愾心あった事を語っている。「戦争末期における4年間の軍隊生活で、
世の中の悲惨な面には飽き飽きした。これからは金でもあれば牛か馬を相手に牧場でも
やって、のんきに暮らしたいと、そんな気でいたのだから、事務処理などまっぴらだっ
た。なた豆のキセルで刻みを吸いながら、新聞、雑誌ばかり読む生活が3、4ヶ月も続
き銀行のほうでも、そんな私に愛想をつかしたのか、昭和21(1946)年3月、広島支店長
を命ずるという辞令をもらった。(中略)やっとの思いで、軍隊から解放され、家族と一
緒にやれやれと思っているやさきである。支店長はよいが、原爆で戦争の最大の被害地
になった広島へ行けというのだから、正直なところうんざりした。辞令を破って捨てて
しまおうかと思った。」と書いている。1947年、川又は、興銀融資の背景で日産自動車
の常務に就任する。本来の目標の興銀理事にはなれず、追い出された形だ。だから川又
の心の奥深くでは、必ずしも興銀は古巣ではなかったようである。目標を達しえず、追
い出された巣箱だった。「俺を見損なった興銀ではないか」と言う一種の敵愾心があっ
た。このような事情に、まず桜内通産大臣は、中山興銀頭取を訪れ、中山の意向を確か
めたのだった。訪れた興銀の中山素平は、「財界の鞍馬天狗」の異名も持つ男だった。
当時の合併は、海運、証券業界の再編に成功し、山一證券の経営危機に際しては、日銀
特融を主張し、田中角栄蔵相の決断を引き出すきっかけを作る程の辣腕をふるった中山
であった。こうして外圧に対して積極的に再編成を仕掛けていた中山が、桜内の合併話
に賛成するのは当然の事でもあった。川又は新聞記者に対し「桜内通産相に懇請されて
、日産とプリンスの合併交渉を進めていた。あくまでも対等の精神で合併することに決
めて、通産相に仲人役をつとめてもらった。このような形で、今後とも、自動車業界の
再編、強化が促進されることを望んでいる。」と言った。実はこの話は大変なデメリッ
トを持っていた。トヨタとの合併話では、このとき早くも察知していたといわれる。そ
れは、プリンス自動車販売の内部に隠された赤字であった。飛ばし負債である。

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