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指導改善研修の実態 横浜市
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 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 41

 川又は、プリンスとの合併を断ったトヨタや東洋工業と異なり、合併によるデメリッ
トより、メリットの光が輝き、飛びついたといえる。しかし、そのデメリットは、川又
の予想以上に大きく、自動車労連(日産労連)の塩路一郎会長の台頭を許した原因とな
ったのである。日産の川又社長が社長になったのは理由があった。1947年7月といえば
、まさに敗戦後2年目の混乱期である。当時、日産自動車は日産重工業と称していたが
、現在と比べれば、その地位は問題にならないほど小さかった。川又自身も、広島支店
で興銀本店から日産入りの電話による辞令を受けたとき、日産重工業とはどんな会社か
、すぐには思い出せなかったほどだ。帰宅後「たしか、クルマを造っていた会社だよ。
昔、鮎川義介さんが、やっていた会社で、ダットサンを造っていたそうだ。いまでも、
そういうものを造っているんだろう。」と答えたと言う。その日産常務に就任したが、
前歴に照らし合わせ、担当は経理となった。当時の日産は、経理担当の役員が欠けてい
た。戦時中は親会社の日本産業から、万事支持を仰ぎ、直接指揮する必要がなかった上
に労働争議があっちこっちで紛糾した年であったからだ。川又が初めて出社すると、会
社側は、労組と賃金交渉の最中で川又は否応なく、その席上に出されたのだ。時の社長
の箕浦多一は、いわゆる2代目だったが、財閥解体で首脳部の追放という中、取締役の
総務部長から、一躍社長に抜擢されたばかりで経験も、経営の才能も疑問が多い人物で
あった。これに対し川又は、箕浦に比較され、風采からして貫禄があり、社長のように
見え風貌があった。しかも、資金繰りしてくれる天下の興銀から送り込まれた者なので
、翌日から組合幹部は、社長を無視して、新任の経理担当常務と交渉するようになった
のである。社長の箕浦は、問題局面収拾の能力に欠いていた。そこで川又は、箕浦に対
し、重役の改造、充実の人事を進言、結局川又が専務となり、実権を掌握したのだが、
当初から社長代理の様な役目であったのだろう。ところが、争議は拡大した。箕浦は、
川又から重役の改造人事を進言されるや、直ちに辞意を漏らすぐらいに臆病な男であっ
たから、1949年9月、会社側が1760人のリストラを発表、組合側の行動が一段と先鋭化
してきたと知るや、高血圧で倒れてしまった。それで川又が社長代理となり、事実上の
総指揮官として、陣頭指揮にあたったのだ。この時のリストラこそ日産のゴーンのやっ
た事に近かった。川又は、1947年7月に、興銀の広島支店長から、日産自動車の常務と
して送り込まれ、赴任早々、日産の歴史的なストライキに直面、否応なくその対策に乗
り出さねばならなかったのだ。
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