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指導改善研修の実態 横浜市
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 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 42

 川又克二が日産社長の椅子に座ることとなった決定打に、歴史的な日産大争議の解決
者になった事がある。川又は日産に乗り込むや、「会社再建のためには人的整理の蛮勇
をふるう以外に道はない。」と決意し、組合との全面衝突が進んだ。1949(昭和24)年9
月、事態は悪化するばかりだった。翌年6月に、朝鮮戦争が起こり、車両関係の特需が
増大、経営が少しばかり楽になったが、前にも増して組合側は団結を強化、賃上げ要求
の幅は大きく、ことに人員配備に対する要求が増大した。残業も組合の承諾なしでは、
簡単にできないようになった。普段マジメでよく働く従業員が、組合から指令が出ると
、就業時間中でも職場集会に出席し、仕事を中断する。しかも、会社側は誰が参加し、
誰が参加しなかったか、掌握できず欠勤時間分の給料を差し引くことはできない状態が
約3年も続いていた。1953年盲腸炎の手術を受け、静養のため湯河原温泉に出かけた。
そこで組合側からバスケット方式の一律のベースアップ要求が出た。経験15年で3万円
が最低で、全要求をまとめると、税込賃金の平均が約23,300円という、当時としては桁
はずれの常識を超えた高賃金で、炭鉱労働者以上であった。川又は、「いま組合を徹底
的に叩かなければ、会社の前途は危険だ。」と思った。そこで最後の手段、ロックアウ
ト、つまり工場閉鎖を決意したのである。ロックアウトによって、組合の要求と徹底的
に戦い、これに敗れたら、経営陣の総退陣までも覚悟したのだった。川又は言う。「解
決のため、中労委の仲裁の話もあったが、争議の性格から、中労委の斡旋程度で解決で
きる生易しいものではなかった。」と語っている。石原俊が居なかったら、そこで争議
は終わっていたかも知れない。しかしこの後にジェネレーションギャップのある第2の
労働組合が組織された事で石原の労働闘争に火が付いていた。そして幻のクーデターの
黒い歴史が残る。こうした大争議疲弊と、その直後の不況を朝鮮特需で克服した日産。
ようやく経営に見通しがついてきた1955年の春に、経営内部では株主総会に向けて陰謀
が企てられた。後で社長となった石原俊の企みによる川又・塩路の追放工作である。赤
坂の料亭「清水」や「中川」等を使い、浅原社長を擁して役員と部長クラスの秘密会議
が行われた。彼らは、「川又は労働争議を解決したことで、いい気になり、赤坂で遊び
呆けている」とのデマを流し、それを真に受けて興銀は、川又専務を日産から出すこと
に了解したのである。1955(昭和30)年5月1日メーデーの日の午後に、川又の甥である
田辺邦行(設計部長、後に日産車体常務)が塩路の家を訪問してきて、「大変だ、川又さ
んが飛ばされると」いう話だった。

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