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指導改善研修の実態 横浜市
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 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 43
 「争議を解決して、新労使関係で日産の再建に協力し合ってきた。片方の旗頭がこん
どの株主総会で社外に出される。」というのだ。塩路は機転を利かせて、直接、宮家委
員長に伝えるよう頼みこんだ。翌日は組合首脳部緊急会合で、日産争議を乗り切った会
社側のリーダー川又が讒言で飛ばされることが報告された。しかも、川又の追放を企ん
だ連中は、争議中は渦中から逃げ傍観を装った。塩路の指示で横浜工場のラインは組合
員によりストップされその間、宮家委員長が興銀に乗りこみ、「川又専務を追い出すの
なら、我々が守った会社は我々が潰す、いまラインが止まっているが、いつまで止まる
かわからない。」と直談判した。その結果、興銀は組合側の要求を受け入れることとな
った。この時石原は、川又の家に訪問し、応接間にて「川又さん、あんたね、もうこう
なったら、日産車体でも貰って、おとなしく引き下がった方がいいよ。」と脅していた
。しかも、両足をテーブルにのっけながらの会話だ。石原は平取締役の経理部長で、そ
の彼を部長にしたのは川又である。まるで飼い犬に噛まれたようなものであった。この
組合側の行動により、石原による川又へのクーデター工作は失敗に終わった。石原は、
このとき43歳、この企てでは岩越忠恕常務も社外に出し、大館常務を社長にした後、40
代で自分が社長になることを目論んでいたが、それから22年もの長きの間、社長になる
65歳まで、クーデターを妨げた者への逆恨みを秘めて隠忍自重の日々を石原は過ごした
。しかしこうした状態で、日産側としては1対4という合併比率でも割に合わない内容
で合併時期を迎えたのだ。戦後の企業はどこの会社も経営者では無かった。富士重工も
そうだが、プリンス自動車工業も「技術あって経営なし」の企業であったことは事実だ
。モータリゼーションの波や近代化の息吹がこれから本格的に芽生えようとしていた頃
の60年代初頭の日本にあっては、人徳の奉仕活動として企業があった。小さな工場は
ラインナップに小型大衆車が無いというバランスを欠いて、常日頃「ピラミッド理論」
によって底辺から顧客をつかみ、その後に高価格車にステップアップしてもらおうとし
た東洋工業の2代目社長である松田恒次のような経営センスを持った者はプリンスには
いなかった。日本で多くが、元が飛行機屋であった自動車メーカーは、生産コストを度
外視した技術偏重に陥っていたようである。同じく飛行機屋であったBMWが、1950年
代末に深刻な経営危機にあったときに、小型大衆車の700を販売して業績挽回をした
のとは対照的であったが、それは日本の政界が造った仕組みの違いであった。つまり、
法や届け出や通達で、がんじがらめで自ら国鉄赤字を先導する行為を今でも行っている
それが補助金づけの地方自治や病院や福祉や教育であったり、子飼いの土建業だったり
する。日本がこんなに潰されていようとも与党は海外に頭を下げひれ伏し野党は見ない
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sage
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