私の哲学


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私の哲学

1: :04/09/22 01:20
 哲学とは、無知自覚上の知恵愛求です。
私はココで、知恵を得たいと思っています。

私は浪人生です。年齢は20です。男性です。
私の毎日の学問勉強における思索を綴るthreadです。

2: :04/09/23 11:25
一般性は個性よりも重要だ。

もし一般性が無ければ、人は個性を最善に発揮し得ないだろう。

3: :04/09/24 01:38
 「思学」つまり思索し学習する。

学問の基本方法が思索+学習の対立によるのは経験論的に論理的だ。
[学習無き思索は空虚であり、思索無き学習は受動的機械的へと堕落しがちだ]。


しかし思学における優先順位は1.学2.思だ。
それは、孔子が言う様に、「学ばずに思い続けても無益」だからだ。
反対に『思わずとも学び続ければ多少なりとも有益』と言える。
機械的作業を資本主義労働力は要求するのである。


 思学は共に行われるべきだ。

4: :04/09/26 18:44
 私たちが人生について迷い悩むのは大抵、前進を止めたことによる。
言い換えると、絶え間無く進歩を続ける限りにおいて私たちは安心している。

これは永遠の成長こそが人生の真理であることを示す。


 こうした新しい私たちが迷い悩むのは唯一、自由を奪われた時だけである。
自由は成長の可能性だ。
自由こそ、成長を生む源泉なのだ。
 とは言え、自由は責任を伴う、つまり、
成長の方向性を善良に向けて行かねばならない[それが自由の責任なのだ]。
もし私たちが自由の権利のみを主張して自由の義務を遂行しなければ自由は可能性を失うだろう。
民主主義における束縛は義務を怠る結果だ。


 私たちが『善良に向けた永遠の成長としての進歩を続ける』限り、私たちは思い悩むことが無い。
仮に多少の問題があったとしても、それは前進を妨げる程の迷いではあり得ないだろう。

5: :04/09/26 18:54
 人間には生まれつき知能や才能、肉体的・精神的能力の差がある。
天分である。
しかし、「地分」つまり生後身につけた力は天分よりはるかに大事だ。
というのは、天分は地分によって磨かねば決して完全には光らず、反対に
地分を徹底的に根気強く鍛錬すれば自分の天分は[何かしら]必ず発見されて来るからだ。

 天分と地分の均衡を取るのが重要だ。
しかし、地分は天分よりはるかに大事であるのは確かだ。

6: :04/09/26 19:34
 私たち人間が思索するのは、自分の中の疑問に解答する為だ。
[もし解答を目的としない思考があれば、それは《思考の為の思考》であり、
個人の趣味に過ぎない。他人にとって実用的意味価値があるものでは無い]。

 私たちが自分の中の疑問に解答する過程は「哲学」と言われる、結果を「思想」と呼ぶ。

7: :04/09/26 22:59
 私はあっと言う間に死んでしまう。
わずか100年生きるのも難しい、ちっぽけな生命体。

私が何かを記す事に希望を託すならば、そこへ私の「最善の生」を結晶させねばならない。
人生は当然では無い。希有の極限だ。

 具体的に「最善の生」とは何か?
どんなに些細な物も見逃さず、しっかり、生きている証を言語構成に打ちつける事。
私が「思考+構想」可能な全energyを全身を用いて統一させる事。
私という生命の最高の善を全力で実現する事。
そして一歩一歩この道を前進する事。

8: :04/09/26 23:18
 人類に産まれた以上、偉大な人物になりたいと願う。
 大成するのは必須だ。

9: :04/09/26 23:33
 人生において見出せる至高は幸福すなわち最高善であるだろうか。
私は長く、人生の目的を探求し続けてきた。
[それは死の理解と死への思索であり、また生への肉薄、生の実現であった]。
私は人生の最低悪は悲劇であると感じた。
そして悲劇の対立として幸福を見出した。

 幸福の定義が問題なのである。
幸福の定義は個別的には異なる。
私にはそれを可能なだけ普遍的に定義する事が必要なのだ
[何故なら私は私である以上にもっと人類であるから]。

 『幸福は進歩である』。
その結果は成功であり、永遠の成長であり、理性の完遂である。

10: :04/09/26 23:40
 死の自覚が生を明晰にする。
不断の進歩が生を死に対する勝利として打ちつけていく時空に私たちは純粋なのである。
その経験は宇宙的である。

11: :04/09/26 23:43
 私たちが科学で明らかにする事は自然の真理である。
私たちが哲学で明らかにする事は人間の真理である。

12: :04/09/26 23:47
 人類が他分の為に献身する時空で人は偉大と成る。
それが継続的で、量が大で質が高なほど、偉大さは増す。

13: :04/09/27 00:02
 真理と善は異なるだろうか?また美はそれらと?

善理、美理と命名する事で真善美は同じ理から流れ出すと言える。
哲学は静=思想として倫理学と言えると思われる[倫理学の動=思索が哲学なのだ]。
──すなわち
科学は真を、哲学は善を、芸術は美を、理を通して探求実現する。
それら三体が統一された個体において人間は完全なのである。
それら三体を均衡により限り無く高ていく──のが私たちの理性なのだ。

 私たちの理性の進歩はこの三体の道と考える。

14: :04/09/27 00:05
 [偽⇔]真、[悪⇔]善、[醜⇔]美、は「理」において一致している。
三体は根本の理において同一なのだ。

15: :04/09/27 00:13
 徳とは理の善的あらわれである。
知とは理の真的あらわれである。
愛とは理の美的あらわれである。

16: :04/09/27 23:42
 私の哲学は、思考によって自分を鍛える為の行動である。
緻密で深遠な論理展開によって、抽象的直観を悟性で理解可能な形式内容へ変換する行為である。

 私の哲学の目的は善の実現である。

17: :04/09/27 23:53
 私の哲学が実現したい善は、私個人だけの為のものでは無い。
何故ならば私個人だけの為の哲学は私個人だけの為に成されるべきであるから。
哲学が発表される時、必要なのは哲学が解決する疑問が普遍的であることだ。
つまり個人的疑問の解決は哲学として発表されなくて構わないのである。

 さて、「完全に普遍的な疑問があるかどうか」という問題がある。
私は『可能な限り普遍的な疑問について思考することを目指せる』と解答するのである。

18: :04/09/28 00:13
 『相互尊譲』は不可欠な倫理である。
つまり、互いに尊重し合い、互いに謙譲し合うということだ。
この語が現す概念は、常なる具体的生活の場面で、私たちが如何に振る舞わなくてはならないかを示す。
この語が現す概念が私たちの具体的生活の行動で必要不可欠な理由は、
私たちは同じ人間であり、人間としては価値を持つ以上、
互いを人間としては等しい存在と見なさなくてはならないので、
幾多の進化を経た万物の霊長として貴重な生物である人間を軽蔑してはならず、
理性ある生命体として互いの実存を理解できる者同士が傲慢に邪魔し合うのは不合理だからだ。

相互尊譲は私たちの第一倫理であると考えられるのだ。

19: :04/09/28 00:51
 まず真理を普遍性と定義する。
哲学が実現すべきは『善理』すなわち『人間の間柄における真理』=『徳』に他ならない。
何故なら、真理は実証「科学」によって最も純粋に明らかにされるのであり、
厳密性という点で各言語固有の個別的な語彙に依存せざるを得ない「哲学」は、
真理の実現において後手を取る他無いからだ。
また何故なら、美における真理は「芸術」において美の術としてより自由に、
思考から解放され完全に実現可能だからだ。
人間が実証的結果に立った正確な知識を獲得するのは「科学」においてであり、
『徳』を獲得するのは生活における知恵愛求つまり「哲学」においてである。
ここで、知恵とは、徳と知識の結合だと考えられるから、知恵を知徳と名付けることはできる。つまり
「科学」と「哲学」の均衡した結果が知徳なのである。
美における真理つまり美理は、知徳ある行動に優雅を加えるものだ。
真善美は根本の理において一致する。
よって、
1.「芸術」に比べ純粋に美の追求に特化していない。
かつ
2.知識の完全な正確さにおいて「科学」に勝ることは無い。
と考えられるから、
真善美の三大理性においては──哲学が実現すべきは特に『善理』であると言える。
『徳』とは善理の別表現であると思われる。
 自然法則は事物または理性を持たない生物の間柄における真理であるから、
自然法則と対立する道徳法則つまり善理法則は、『人間の間柄における真理』なのだと言える。

20: :04/09/28 20:37
 私の哲学が実現したい『善』は、人生の勝利を企図する。
これは相対的な勝利であり、かつ絶対的な勝利である。
何故ならば、人生が善を実現する理由は本性にあり、
この善く生きたいという私たちの本性は、
人生を悲劇から救おうとする希望であるからだ。
もしこの本性が悪に敗退するならば私たちは善く生きたと言えない。つまり
私たちは勝利を通して善く生きるという本性を全うする。
相対的な勝利とは、人生における成功──金銭的、物質的、経済的、社会的、な成功──である。
勝ち組となる為の努力と言っても良い。
永続的な成功を得るならば私たちは相対的に勝利したと言うことができるはずだ。
また、絶対的な勝利とは人生における成熟──心的、精神的、人格的、人間的、な成熟──である。
人生における成熟は他者との比較では量れず、各人生の未熟さを永遠の成長へ転じて成る。つまり
ある者が如何なる困難に遭おうと向上を目指して努力し続ける人間へと成ったならば、私たちは
その者を成熟した実存と見なすだけの理由を得たと言えるのだ。

21: :04/10/04 13:33
 私という特別性に理由は無い。
しかし、私という特別性は現に存在し、それは
私たちに「言葉になり得ない最も大切な何か」を気づかせる。

 私が思考する──哲学する──事にはそれ自体目的が無い。
目的づける事はできるが、
[また如何に目的づけるかが重要視されて来るのだが、]
それ自体に目的という物は無い。
 思考は自由の宇宙である。

22: :04/10/04 13:44
 1.思考は目的である。
 2.私という特別性は至高の何かである。

 この二つを践んでさらに哲学ができるのは、「A.目的の改造」か「B.私という特別性の一般化」だ。
哲学史上で重大なのは、[重大だったのは]、A.B.の結果だった。
私はA.B.の外に出たので、これまでの哲学史上では重大では無い。

23: :04/10/04 13:55
 1.思考は目的である。
 2.私という特別性は至高の何かである。

1.2.が示唆するのは、「私」が「思考する」自体に『至高の目的』があるということだ。
哲学史から抜け出た私にとって、哲学は『私思考』であり、それが最大の価値を持つ最高善だ。
尤も、それは一般化に過ぎないので、私が脱構築する限りにおいて真なのだ。

 私思考が永遠に脱構築する限りにおいて、私は純粋に哲学している。

24: :04/10/04 14:07
 哲学の改造が有効に為された時、それは普遍的な価値を持ち始める。
思考は、哲学は、道具にされる。
絶対精神が自身を展開させる限りにおいて、哲学の道具化は認識されて行く。

 私思考はこれに荷担するだろうか?
脱構築とはこの道具化の自己言及に過ぎないのではないか。脱構築自体が思考の道具化なのでは?
 思考が目的だとすれば──脱構築が目的なのだ。
しかしこれは一般化つまり私思考性の放棄に他ならない。
思考が私によって為される限りにおいて、哲学は至高であり続ける。つまりはこういうことだ。
【『私思考』が目的なのだ。】そこから先にはもう何も無い。哲学はそこで終わる。

25: :04/10/04 14:18
 しかし、それは新たな初まりだ。
絶え間無く新たな開始。私思考が哲学する限りの永遠。
それは自由宇宙だし、自由である事が科学的には錯覚だとしても、哲学的には現実だ。

思考に関係したあらゆる身体機関が連動し不断の現実を形成する。
そこには疑えない確かさがある。
哲学の終わりは私思考の自由の始まりだ。
そこに思想的な価値は一片もないとしても、掛け替えのない現実がある。

 私思考は永遠であり、一つである。

26: :04/10/04 15:20
 私思考に価値があるとすれば、
個別性・個人性・個性を、普遍性・社会性・一般性へ向けて行く事くらいだろう。
それが誰でもない私の思考である事は、一般的意味を持たず、個人にとっての個人的意味しか無い。故に
その全体を一般化するのは『価値』にとって基本なのだ。

これは「B.私という特別性の一般化」に他ならない。
私思考自体、哲学の枠組みに絶えず浸食される危機にさらされている。
脱構築するならば、それが特別であることは保存されるが、しかし
脱構築という行為自体はまた一般的なのである。

 こう言える。
【私思考が目的なのは普遍だ。】

27: :04/10/04 15:26
 私思考が人生に役立つとすれば、それが売り物になる時くらいだと思うが。
目的である思考が、その過程と結果が、高級快楽的であるなら、哲学は文学芸術的な価値を持つ。

28: :04/10/04 15:41
 【私思考は高級快楽という価値しか無い。】
理由=思考の普遍目的は言語構成しか無い。
根拠=哲学的私思考は知恵愛求なので、肉体的快楽では無い。


とすれば、最重要なのは私思考の改造なのだ。
高級快楽の善導、目的の最善の改造なのである。

29: :04/10/04 15:54
 哲学的私思考と単なる私思考は分類されねばならない。
哲学的私思考がつまり私哲が単なる私思考と異なるのは、目的が知恵愛求である事だ。
「知恵愛求の為の知恵愛求」が私哲なのである。
単なる私思考は目的無しの思考である。この両者──私哲と単なる私思考──は別なのだ。

30: :04/10/04 16:00
 『私哲』。
それは哲学の為の思考であり、知恵愛求自体であり、高級快楽である。

 私哲を如何に改造するか。
私哲を、「勝利」、「善」へ改造する事が至極大切な問題なのである。
それ以外は哲学にとって本来ではない。「目的の改造を如何に完全に行うか」が命題なのだ。
何故は問題では無い。私哲は目的だからである。それが理由なのである。

31: :04/10/04 16:23
 私哲が人生にとっての道具ならば、それは成功と成熟に導かれねばならないだろう。
勝利を目指す成長と向上しいては成功と成熟が、人生の幸福を意味する。
 私哲目的の改造は勝利へ向けられる。それは人生を幸福へ導く。

 『勝利の私哲』が私の哲学である。それは人生の為に最善の言語構成を行う志向である。

32: :04/10/04 16:30
 勝利の私哲が、人生に幸福をもたらす為、最善の働きを指向する。
それは成功と成熟ないしは成長と向上を目指して構成される。

私思考及び哲学の目的が改造されたのには、『全人間の幸福を実現する』為以外の理由は無い。
何故なら、「私」が言語構成する価値は全人間の幸福実現以外には無いからだ。

33: :04/10/04 16:43
 相互尊譲の社会を全世界に広げる事が私哲の公的目的に他ならない。
何故なら「勝利=成功と成熟=人生の幸福」は社会参加によってのみ可能だから。
相互尊譲が勝利を実現させる。


 私哲が目的化するのは二つである。
一.勝利の実現
二.相互尊譲の全世界化

34: :04/10/04 16:48
 具体的には、私哲において一.勝利は成長と向上に値する最善の言語構成によって可能だ。
二.相互尊譲は他の私を教化する事で可能である。

すなわち、私哲はこの両者の実現であり、
それが哲学的言語構成における高級快楽の最高の形なのである。

35: :05/09/04 11:26
キチガイ

36: :05/09/05 04:41
やあ大介

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