嘘つきの奴ちょっとこい


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嘘つきの奴ちょっとこい

1: 名無しの嘘つき:12/07/07 23:09
虚言癖あるやつ

187: 名無しさんAA:19/10/19 21:27
メイ首相はまたも間違えた演説を行った。こんな一応合意したとして
残りの合意は話し合おう。などという合意が何故有権者の為になるのだろうか



188: 名無しさんAA:19/10/19 21:42
 AFPは、親北朝鮮派の韓国人学生ら20人近くが駐韓米大使公邸の敷地内に侵入した
ようだと報道。警察は「大使公邸に侵入した後、捜査のため学生17人の身柄を拘束し、
警察署に連行した。」と説明したという。韓国外務省は、「外交官らに対していかなる
危害や攻撃を加えることも、どんな状況下であっても正当化され得ない」として学生ら
を非難するとともに、米大使館と公邸周辺の警備を強化するよう求めたようだが。笑わ
せてはいけない。公邸を守るのは韓国警察の役目であり、この学生には、死刑相当の刑
で処罰すべき事案だ。外交官は大統領同等の地位である。これらが不法侵入して威圧し
意見したのだ。文がよこした徒党であろうと国際法上許されない事だし国際協定を軽ん
じてはいけない。まあそんな国かもしれないが。




189: 名無しさんAA:19/10/20 06:39
 世界は動いている、経済は回っている。なのにNHKはバカみたいにワールド放送の
ニュース枠を無くしている。なぜエアレースが大事なのだ。なぜ大河ドラマが偉大なの
だ。違うだろう。これらの番組順序は、正に日本にバカ議員が多くて NHKに本当の
公共放送の地位を持たせない雑音を意見して止まないからだ。何が公共放送審議会だ。
ものわかりの悪い、世間知らずの日本つぶしの、もの笑い者ばかり集めやがって。

190: 名無しさんAA:19/10/22 17:27 ID:jI
 地方自治のデタラメが止まらない。倫理にも劣る獣医大学のバカ事務長を逮捕もしな
い事もそうだが、沖縄の自分たちが決めた移転先に反対運動を長々とやっている県民も
おかしな事だ。今まで投資のごとく自民党政権は約束に応じて地方交付税交付金を3倍
も他の府県より与えて施設拡充を長年やってきた。本来こうした交付金は平成年度には
ゼロとするべきほど地方は金余りを象徴する出来事が数多く出ていた。今の河川整備の
遅れもちょっとおかしな贅沢なそして間違った河川工学のおかげの災害だ。地方でも、
町の議員が強く高給取りで、町のインフラに捧げた工事が数多く博多の地盤沈下よろし
く地下街が田舎の山の中につくればいいものをわざわざ町の人口密集地に行うアホさだ
その中に静岡のゴネ男が今や日本を崩してやまない。すでに環境影響調査にOKを出し
建設予算がありながらもリニア工事は全くイチャモンがついて始めていない。川勝知事
は19年の定例会見でリニアの駅が県内に建設されないことを指摘し「(JR東海は)、
代償を積まないといけない」と発言。リニア駅の建設費用は平均すると一駅あたりに、
約800億円だという。約800億円の代償とは一体何のことなのか。この馬鹿男は静岡の地
は自分の個人の持ち物と勘違いし、さらに公務員が公務に職する事をほったらかしにし
静岡という個々の欲望と権益に終始している。まったくこうした国家とか国土とか公民
とかの意識のかけらもない政策論争がかなりに多い。まったくもって嘆かわしいものだ
。県としては新駅で空港へのアクセスを改善し、利用を促したい考えだ。14〜18年度に
計4900万円の関連予算を投じているがJR東海は「新駅構想はない」としている。こうし
たデタラメ行政の終着駅はどこにいきつくのか。通常は止まらない緊急停車駅を作って
やればいいではないか。どうせ今からは速さは意味のない時代になる。確かな充実環境
がキーワード時代にこの時代遅れのリニア列車は今の東北新幹線のような馬鹿げた停車
場を作らない事が肝心だ。


191: 名無しさんAA:19/10/22 18:11
  歴史の群像     131

 オスマントルコは、1853年にロシアとの間でクリミア戦争が起こる。が、イギリスな
どの加担によってきわどく勝利を収める。このとき、イギリスなどに改革目標を示して
支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は、1856年に改革勅令を発布して非ムスリ
ム主義の権利を認める改革をさらにすすめることを約束した。こうして赤字財政からの
欧州化の波のあったチューリップ時代から、タンジマートは第二段階に入った。宗教法
(シャリーア)と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代教育を行う学校の開
設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改
革が進められてそして、カモンド家の支配するオスマン銀行が設立された。かつて中世
執政時代には慢性気分から、対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中
で西方の文物が取り入れられた。文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入さ
れたチューリップが装飾として流行し欧州にバブルを中東に巨大モスクを作る文化とな
た。チューリップ時代と呼ばれてタンジマート諸改革が行われた。タンジマートはトル
コが神権的なイスラーム国家から近代的法治国家、西ヨーロッパをモデルとした多民族
国家へと変貌した。フランス革命から波及した民族独立と解放は、バルカンキリスト教
を変質させたし諸民族のナショナリズムを呼び覚ました。ギリシャ独立戦争のギリシャ
王国独立や第一次エジプト・トルコ戦争と第二次エジプト・トルコ戦争などを起こし、
さらに民衆を疲弊させ、国を窮地に追い込みエジプトの世襲支配権を中央政府に認めさ
せて、事実上のエジプト独立までしたのだ。バルカンの火薬庫と言われる所以は、勢力
拡大を目指す北方民族ロシアの共棲主義とオーストリアの貿易重商主義との、勢力均衡
を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり、従来の陸路の行商国家オスマン帝国衰亡を
巡る関係で起こった。このオスマンをめぐる国際問題は東方問題として第二世界大戦ま
で消えなかった。バルカン民族は次々と帝国から自治、独立を獲得し独立し、20世紀
初頭にオスマン帝国の勢力範囲は小さなごく一部のアナトリア、アラブ地域だけの国に
なって内外の挑戦に対して防戦にまわるしかなかった。「瀕死の病人」と呼ばれる惨状
を露呈しながら小国家成立が頻発し、最後はトルコになった。オスマン帝国側も1808年
に即位したマフムト2世など既存体制を廃止して軍の西欧化をし、外務・内務・財務3
省新設し中央政府の近代化を模索する、翻訳局を設置し留学生を派遣して、アーヤーン
と呼ばれた地方豪族を討伐して中央政府の支配強化を目指し、1839年、アブデュルメジ
ト1世は、改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャの起草したギュルハネ勅令を発布し
て全面的な改革政治や改革政権を開始した。行政、軍事、文化に至る西欧的体制へ転向
を図り異教徒文化の取り入れで欧州との文化の近づき貢献し、イギリスフランスを取り
込んだオスマントルコには、技術力がなく軍費の捻出に困窮して1854年にイギリスに対
して初めて借款をしさらに疲弊困窮したのであった。しかし、イギリスなど支持を獲得
する必要に迫られ、改革断行し非ムスリムの権利を認めすすめることで、列強に対して
約束し信用を得た。1856年に発布された改革勅令で、自由・平等・博愛を謳ったのだが
シャリーアとヨーロッパ近代法を均衡させるための努力は大きく、1870年〜1876年まで
かかり『メジェッレ(民法典)』の完成で結実した。近代法の一部としてのシャリーア
の成文化の端緒で、その編纂の司法相アフメト・ジェヴデト・パシャらがたずさわって
イスラム近代化の最初の一大成果とされる。しかし時代は戦争の遂行と「上からの改革
」で列強から借款を必要とし、貿易拡大はオスマン経済そのものが西欧諸国への原材料
供給源として変質し、国力低下を招いていた。定住農業化が進行し、オスマン帝国の半
植民地化を促し、遊牧民を更に虐げる結果を生み反発を招き。西洋社会が欲を出さねば
よりよい地球社会があったろうが、奴隷・宗教・油・アヘンという財宝に目が眩み奴隷
商売に列強社会が踏襲する。


192: 名無しさんAA:19/10/22 18:35
  歴史の群像     132

 この半植民地化。これが日本のもっともな試練である。日本は幸いにして領土や領域
は海に囲まれていて、水も島国の中では高温多雨の温帯で災害はあれども国家間争いの
様な事は戦国時代までだった。ところが中央アジアや欧州では「水の力」は国家の権勢
の象徴だった。ローマ帝国は公衆浴場を作り解放したが、それに付随する水道橋の建設
などは、国家事業で巨大労働を強いて3つもの水路を引いている程に欧米社会や中央ア
ジアは、防衛と権力の戦いが常にあった。領土の防衛、水・食糧の確保、文化・人権の
確保、更には国として税収権力が軍事力確保する事。これが、反植民地化の最大の悩み
で、大国の持つ、金銀の通貨に依存する理由だった。貿易外交は、鎖国政策でない限り
国外交渉は、最大の権力の国威の発揚場所で広報場所だった。デモクラックは通常資本
主義とされ、クー・クラクック・クランはKKKとされ白人優位主義者とされる。しか
し、大正デモクラシーであは、普通選挙制度の普選運動や言論・集会・結社の自由に関
しての運動、外交面においては海外派兵の停止運動、社会面において男女平等、部落差
別や解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動で、資本主義より権利守護の文化
保護や自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配から独立などで
、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開であった。かつての、封建制・絶
対主義の恣意的な支配から脱却し、意志を持った個人の自由なまとまり社会を目指す為
の市民社会の成長が必須の要件となっていた。個人の社会的・経済的自由に啓蒙思想が
寄与し、各地で出版などメディアの成長し自由批判が頻発した。海外では、宗教文化の
中から革命の結果、権利章典・アメリカ独立宣言・フランス人権宣言などが実現される
に至るが、それはイスラムのこのトルコの異質文化の影響があったからでトルコには、
また違ったものだった。KKKとされる白人優位主義者団体は、秘密結社が流行して他
と同じく神秘的な儀礼や、独特な呼称を持つ位階が定めた遊び団体が出現した。米国で
は、異民族の中で結社の噂が周辺地域に広がり、1867年からメンバーが急速に増えて、
徐々に優位主義思想が政治活動を開始した。しかし、主要な目標は旧連合国(南部)に
対して、合衆国政府が行っていた事実上の占領統治(レコンストラクション)への反対
運動が中心であった。レコンストラクションとは、アメリカ南北戦争によってアメリカ
連合国と黒人奴隷制のシステムが崩壊した後の、それでも解放後生活のできない黒人と
奴隷がいなくては生産できない農場の模索する1863年〜1877年までの過程を意味する。
こうした再建・再構築時代を意味し、問題を解決しようとする運動だった。国家社会主
義(ナチズム)や結束主義(ファシズム)や第三共和共闘主義(インターナショナルコ
ミンテルン)、第三の位置(国際旅団)等があったがいずれもこの模索の中の動きだっ
た。自由競争を更に推進する概念や、立場よって新自由主義、リバタリアニズム等など
が流行って行き、この中でKKKは北方人種至上主義(ノルディック・イデオロギー)
という)とつながり、主に黒人、アジア人、近年においてヒスパニックなどの他の人種
の市民権に対し異を唱えて活動し同志を広げた。同様にカトリックは、同性愛者の権利
運動やフェミニズムなど批判し反対する立場をとり、海賊主義バイキング主義との交差
を図っている。資本主義とは、生産の私的所有権行使の経済的な利潤追求した経済体系
と言われ、歴史的にも、資本主義の初期は自由資本主義(リベラルキャピタリズム)と
される。私的所有が特徴づけられ人権の中で経済的自由権を含んでいる、財産の私有の
自由権、職業選択の自由、居住移転の自由、営業の自由(私的利潤追求・取引の自由)
等々あるとされる社会だが、問題はそこで人が人を所有出来るのか。と言う事だった。


193: 名無しさんAA:19/10/22 18:35
 その、経済的自由主義の資本主義は、主な阻害要因(絶対主義や君主権)を市民革命
が取り除くことで成立してたが、それはあくまで白人社会内のもの。とした認識上で、
いい加減な人権主義だった。資本主義を確立した革命として産業革命・資本主義革命(
市民革命・ブルジョア革命)アメリカ革命(アメリカ独立革命)フランス革命イギリス
革命(清教徒革命)(名誉革命)があげられるが、いずれも白人社会内でキリスト教徒
内の小さな物を人権論争で、1990年代までKKKの主張は黒人の殺人すらも起こし
て正当だった。日本でも三鷹事件など駐留米兵の婦女暴行事件では、度々この白人編重
主義の理論が持ち込まれていたし、今のフィリピンの米軍駐留を廃止して、マニラ湾の
スービック基地反対運動で手放したのも、この意識の問題が色濃くあったからだ。西洋
白人社会の傲慢さは、いまだ伝統的に受け継がれ消えてはいない。


194: 名無しさんAA:19/10/22 18:36
  歴史の群像     133

 このごろ正統中国政府の中華民国すなわち、台湾に対する締め付けが厳しいようだ。
しかし、共産党中国すなわち大陸中共政府は、一貫して一つの中国を呼び掛けている為
ほんらい共産党消滅に行かなければおかしい事になるが、一向に共産党中国は身を沈め
る気配もなくますます意気揚々としている。代わって台湾国民党政府は今や自由主義の
末座に座る資本主義自由経済の陣営の一員である。大陸共産党中国の経済は9月も減速
した。製造業や小売りの低調、米国との貿易戦争が景気の足を引っ張っている。との見
方もあるが暴力経済では例え大きくとも小さくとも破滅は当然で、これまで四千年なり
三千年なりの中国の歴史を見ても覇権争いしかしていなく周辺国を荒らし回ってできた
歴史でしかなく、何ら独自の文化の醸成はない。紙や火薬や磁石の三大発明は中国では
あるが紐解けば、チベット仏教を受け入れた胡人やウイグルの民である。中国漢文に、
甲骨文字と言う古い世界でも、先に進んでいたのは、魏・呉・蜀の三国時代でも呉の人
々で長江文明という黄河文明と別世界の民だった事が解っている。近年、ブルームバー
グ・エコノミクスは金融市場や企業に関する先行指標をまとめ、独自に指標を作成して
、中国経済は5カ月連続で減速し、貿易や生産者物価、中小企業の景況感が軒並み悪化
し、一方で株価上昇と鉄鉱石価格は関連する指数を押し上げた。と発表した。上海香港
は中国漢民族とは別の中華民とでも言える魚を食べる民衆である。中国は昔から賊政府
でありつづけ世界大戦のころは汗民族が牛耳ってたという盗賊、強奪王朝の皇帝だった
のである。そうした歴史を持つ中国には積み上げる文化はない。つまり日本の様な継続
文化や習慣や文明は育つことなく、アメリカ型の拡大経済社会、消費意識しか育たない
。今月になって米国との通商対立は前月から幾分和らいだが、外需は持ち直しておらず
、製造業と輸出業者にとって中国国内には厳しい局面が続いている。小売売上高と投資
の伸びも鈍っており、国内に外需低迷を補う明確なけん引役は見当たらない。と世界は
危惧するが、当然の共産党社会の成り行きであろう 国家統計局は9月の製造業購買担
当者指数(PMI)を30日に発表する。エコノミストは若干の改善を予想しているが、
引き続き節目の50割れとなる見通し。しかし、国家統計局は1952年(679億元)から
2018年には175倍の(90兆300億)元である。一人当たりGDP比179元から
6万4700元に拡大したと発表した。建国70周年にして70倍になったという。し
かし資産価格にして0.1円/元から今や120円/元で、財政収入も62億元→18兆
3352億元と年12%の伸びで三千倍の財政収入になったと発表した。4500銀行
の金融業の総資産は300兆元、外貨準備高も3兆1千億$の世界第二の規模である。
と発表した。これは何を意味するか。つまり3兆ドルが300兆元の資産を支えている
。つまり1%の預金で借金財政で暮らしている。というのだが、果たしてそれでいいの
だろうか。この建国70周年、つまり日本は全く無駄なことに70年間も中国の国力を
3千倍にする下支えをやってきたのである。結果は、より強力に台湾という正統政府を
虐め、より嘘つきになって一国二制度などというペテンを言い、世界を詐欺て一帯一路
などという国力保全策で他の国を恫喝するだけの巨大国家を産んだだけであり、日本人
が思っていた世界正義の夢や各国協調の共済平和は、同じ東洋人として判って貰える。
と信じていたがものの見事に外れたのである。先に言ったように西洋の白人非情の社会
をもう一度脱科学機械化の自然の中で人々の幸せを求めた五国調和のアジア社会建設は
今や夢物語に化してしまったのであった。しかし一方で米国国内にも変化がみられる。
意識はまだのようだが、現実に911以降は国民は常に危険にさらされる。銃砲規制も
ままならぬ中で、麻薬や地球温暖化論議すら捨てる欺瞞政府に、国民が怒りだしたので
ある。

195: 名無しさんAA:19/10/22 18:38
  歴史の群像     134

 この近代科学近代技術や近代産業の国力差は、日本の開国時代、中東のクリミア半島
の戦争、シベリア鉄道建設・大津事件時代からその後の第一次大戦や第二次大戦まで続
く。真珠湾攻撃の1時間前に、日本軍が攻めたマレーシアで、「マレー作戦」が起きて
いた。「パールハーバー」に比べれば知られていないが「マレー作戦」の歴史で、戦闘
のあったコタバルの砂浜近くには伝え続けるマレーシア人がいる。「教科書を読んだだ
けで、戦争なんてしちゃいけない。」と本心本当に言えますか。と、問いかけをする。
この地に二万人が押し寄せたマレーの浜辺には有刺鉄線が張られていて、船から5千人
程が一部隊として上陸している。日本軍が最初に上陸したのは、マレー半島東北海岸の
コタバル。現地の時間で1941年12月8日午前1時過ぎの事だ。当時、アメリカやイギリス
などによる「ABCD包囲網」によって、鉄や石油などの物資が入らなくなっていた。
日本は、東南アジアを制圧することで資源確保をしようとしてイギリスの植民地だった
マレーシアの制圧にかかった、日本軍は50日あまりでマレーシアを占領する。1942年
2月にhシンガポールも占領。「地元の人も、パールハーバーは知っていても自分達の
故郷で何があったか、全く知らないんだ。」「『歴史上の出来事』として教師から語ら
れただけで、何があったのか、地元の人が何を思ったのか、説明してもらえなかった」
という。砂浜には上陸した日本軍は次々と火花を上げた。その地面には地雷が多く埋め
られていたのだ。トーチカどうしの距離はかなり近く有刺鉄線を超えるのは無理かとも
思われたが、しばらくすると弾が切れ、日本軍はトーチカに手りゅう弾を投げ入れてい
く。トーチカ内では、ほとんどインド人兵士が鎖につながれて死んでいた。」当時は、
イギリスの植民地下だったインドの人たちも、イギリス軍と協力し、日本軍と戦ってい
たが、イギリスからの独立を目指していたインドの兵士たちは、イギリスに強い反抗心
を持つ人もいた。イギリス軍はそれを押さえ込んで家畜のよう扱っていたのだった。お
そらく、逃げたり裏切ったりすることを恐れたイギリス軍がインド兵を拘束していたの
だろう。 トーチカ(ピルボックス)とは、中から銃撃するためにつくられたコンクリ
ート製の小さな建物で、敵の急襲に備え、イギリス軍が海岸沿いにたくさん準備してい
ました。このトーチカ内を見た原住民は、その後日本軍も敗戦し決して話す事はなかっ
た。「深夜のコタバル海岸には、日本軍の船で3隊に分かれ、一隊5千人を超える兵士
たちが一気に上陸しようとしました。海岸にはイギリス軍が鉄条網のフェンスをつくっ
ていましたが、日本軍の兵士たちは砂を掘って潜り込もうとした。しかし、砂の中には
地雷が埋められており、あちこちで爆発が起き、多くの兵士が犠牲になりました。」と
話す。しかし、辛うじて前進した日本人は次々と突破して、コタバル上陸作戦は成功し
た。その理由は湿地帯を貧弱な日本製戦車はすいすいと軽量で薄い板金と木製だったか
らだ。と言われる。しかし、大きな原因は英国軍の司令官は、食糧調達が不能になって
、寄せ集めの植民地からの雇い兵や若い戦争を知らない新人兵などの反乱を恐れたから
だ。とされる。彼らは話し合いに出かけて、白旗を揚げ、戦争捕虜として「泰緬鉄道」
敷設に駆り出されることを選んでしまう。





196: 名無しさんAA:19/10/22 18:38
  歴史の群像     135

「泰緬鉄道」は、ミャンマーのインパール作戦での必要物資を運ぶ後方兵站の為のもの
だった。タイは当時には、日本の兵力に、フランスの植民地でありながら日本の「同盟
国」として参加した。タイ国王は日本軍の通過を許し、泰緬鉄道建設に協力した。全長
約400キロの長いもので、支線まで合わせ500k日本で言えば、東京〜下関である。
実は、イギリス軍内でも以前に計画ができていて行おうとした経緯があった。しかし、
「建設に何年もかかる」として見送った事もあり、代用として細々とした牛馬の道路で
終わっていた。日本軍はイギリス、オーストラリア、オランダなど連合国軍の捕虜が、
約6万人、現地労働者約20万人を動員し建設にかかった。募集や強制連行による「ロ
ウムシャ」と呼ばれた労働者がタイ人数万人、ミャンマー人18万人(4万人が死亡)
、マレーシア人(華人・印僑含む)8万人(うち4万2000人が死亡)、インドネシア人
(華僑含む4万5000人)が使役された。という。建設現場の環境は劣悪でいわゆるタコ
部屋労働であり、ほとんどが食糧難の為の病死であった。しかし、1942年9月から建設
を開始し。なんと1年4カ月ほどの脅威のスピードで完成させた。「日本にはもともと
、中国や朝鮮半島で鉄道敷設経験があり、技術もあった。その為、人海戦術での大量の
労働力を投入した短期間の完成のノウハウ、というものを持っていたのだろう。」と、
理由づけあれている。イギリスやオランダ、オーストラリア、日本から集めた資料を元
に、泰緬鉄道建設にたずさわった捕虜一人一人の記録を記録している人がいる。パソコ
ンに入力しているロッド・ビーティーさん(71)は、人生をかけて、この「泰緬鉄道」
の歴史の記録をつづっている。記録には生年月日、出生地からどこで捕虜になり、どう
移動し、亡くなった日や死因、埋葬された場所まで全て入っている。「25年で記録は
十万六千人分を超えました。最近は目が疲れてしょうがない。」と笑う。「政府が発表
する『歴史』に疑問を感じていた。」と話し、調査をする中で、それまで「定説」とさ
れていたことが幾つか覆ることも多い。例えば最大難所だったヘルファイア・パスでは
、オーストラリア政府は当初、日本軍の暴行でオーストラリア人捕虜60人ほどが死亡
したと説明、発表していた。しかし、その全ての人について記録をたどったところでは
、実は死因は病死などで、「暴行死」は一人もいませんでした。「私がするのは、日本
人の悪事を証明するのではなく、証拠に基づく事実を見つけること。真実は、勝者に都
合の良いものばかりではない。」と、ビーティーさんはいう。当初の予定では、貨物は
一日の輸送量3,000tの予定であったが工期短縮のため1,000tになり、雨季の豪雨や空襲
によりそれさえ達成できなくなった。突貫工事における欠陥により脱線事故が多発して
沿線のあちこちに機関車や貨車の残骸が放置されて終戦を迎えた。日本軍の降伏後には
、1946年1月、イギリス軍司令部は、ニーケ〜ソンクライ間4kmのレールの撤去を地区
担当の日本軍鉄道隊に命じたという。以後、ビルマ側の泰緬鉄道は順次取り外されて、
レールはモーラミャインに集められ、路盤は元のジャングルに返された。イギリスでは
この鉄道がシンガポール港の地位を下げる要因になると考えた。又イギリス政府はタイ
政府に対し、この撤去分断された泰緬鉄道を5千万バーツで売りつけてもいる。こうし
てミャンマー側の全線とタイ側の国境から3分の2にあたる区間が廃止となり、タイ側の
一部はダムに沈んでいる。つまり戦後も列車によるこの地の発展を、ヨーロッパ社会は
望まなかったのである。



197: 名無しさんAA:19/10/22 18:39
  歴史の群像     136

、中国の国家統計局は1952年(679億元)から2018年には175倍の(90兆300
億)元である。一人当たりGDP比179元から6万4700元に拡大したと発表した
。建国70周年にして国民一人当たり70倍の所得になったという。しかし資産価格に
して0.1円/元から今や120円/元で、財政収入も62億元→18兆3352億元と
年12%の伸びで、国家そのものは三千倍の国力をもつ財政収入になったと発表した。
4500銀行の金融業の総資産は300兆元、外貨準備高も3兆1千億$の世界第二の
規模である。と発表した。これは何を意味するか。これまで僅か100年でも三千倍も
なった国家や企業はない。共産党国家にはイノベーションアワードというのはない。逆
に、ノーメンクラツーラの様に幹部ポストのリストという権力や権力象徴ポストの抗争
には血みどろの戦いがある。。旧ソ連では2度目の赤色革命で職業的革命家集団にかわ
ってスターリン以後の体制を支える特権的支配層が出来上がり、70万人ほど(1700万
党員の約4%)が、それらの幹部によって指導的党機関が固められ、推薦・任命されて
次の革命を止めるべく、現状維持を志向する保守的体質を作る。こうして今の権力保持
と立身出世をもつ職業的管理層・体制派エリートが出来上がっている。ノーメンクラツ
ーラは非常に強く、 社会主義体制崩壊後も壊滅することなく温存された。旧ソ連時代
より、むしろ強化されたと言われ、旧ソ連時代からのメンバーが引き続き現在のロシア
の新支配層を占めていて、国際マフィアと手を組んで地下経済の担い手として暗躍して
いる。と言われる。こうした事はランドパワー国家の特徴なのかもしれない。国民的に
日本での世界標準化や国際化とされる時は先行標準の改良社会を意味するが、共産主義
では改善という内部指向は見られず、オオカミの群れと同じに拡張主義しか走らない。
中国もロシアも同じに、常に門戸を閉ざしアメリカの脅威を扇動し国内をまとめる。そ
うした手法しかとらない。これらが1970から60倍の国民所得 外貨収入三千倍を
支えている。米国がファーウェイ叩きで締め出した時に中国政府は「そうした事は自由
主義に反し、米国の連邦法に違反している。」と批判し世界中から「共産党独裁国家」
が批判したと世界の物笑いの種になったが、この幹部連中は、米国にも資産を形成して
身の半分は国外に置く。家族は子供を米国で産んで国籍取得し、米国大学で卒業させ至
って自由を満喫した生活をしている。この矛盾ばかりの普通の国家でない姿に人民解放
軍がある。通常の国家は国軍を置き法も整う事で文民統制を重んじる。武力に制限を用
いるのは、それはリーダーとなる総統や主席の地位が危なくなるからだが、中国は正統
政府ではなくソ連の傀儡であり革命部隊である。つまり中国共産党の私軍である。中国
政府の軍事費はGDP2%とアメリカ4%より低い。だが革命に起こった私軍では当然
各個の大きな要望や渇望も高く、共産党が牛耳れるほど小さな存在ではない。これまで
のケ小平は、韜光養晦(とうこうようかい)と隠れて目立たず国力をつけよと指令したが
、習近平は「中国製造2025」をぶちあげて人心を引いた。革命家でもないカリスマ
性もない今の主席では当然仕方無いことだがデカップリング問題の中小企業と退役軍人
と離農農民これらをまとめ上げる為に打ち出した政策である。デカップリングとは欧州
や米国で、生産刺激的な農業政策と市場歪曲的・貿易歪曲的な手段による農業所得政策
とのつながりを、切り離す事為に補助を行った事業だったが、共産党中国の国家支援は
ほとんどの戦略的行為として、ハッカー集団すら抱え込んでいる。



198: 名無しさんAA:19/10/22 18:40
  歴史の群像     137

 この3兆ドルの預金で300兆元の資産を支えている姿は、日本から見ても異常だが
、1%の預金で借金財政で暮らしている。というのは現実的姿だ。果たしてそれで国際
社会はいいのだろうか。中国は建国70周年になった、つまり日本は全く無駄なことに
70年間も中国の国力を3千倍にする下支えをやってきたのであるが、結果はより強力
に覇権国家像を大きくしたしただけで、共済社会や共有文化の意識は持たない。いまで
も台湾という正統政府を虐め、より嘘つきになって一国二制度などというペテンを言い
、世界を詐欺たまま、一帯一路などという国力保全で他の国を恫喝するだけの巨大国家
行為を産んだだけであり、日本人が思っていた世界正義の夢や各国協調の共済平和は、
微塵もなく、同じ東洋人として判って貰えるとした希望や意志は無残にもなくなった。
国の国力というものは、領土と国民である。領土は軍事力によって守られ、国民は経済
によって守られる。そのうち、経済は貿易・先端技術・知的財産の三つによって示され
今や完全に日本はおろか米国も出し抜いた形で中国はのし上がった。その理由は盗賊の
様に資料を盗んで技術を高めたからだ。、ソ連で設計されたアドミラル・クズネツォフ
級航空母艦「ヴァリャーグ」は、未完成の艦体をスクラップ扱いとしてウクライナから
購入し、中国にて航空母艦として完成させて、2012年遼寧省大連市にて引渡しセレモニ
ーが行われて正式に就役し艦名は「遼寧(りょうねい)」と発表されて、中国の空母第
一号となった。1993年に、ロシアは「ヴァリャーグ」の所有権を諦めた、同艦はウクラ
イナの管轄となり、中国人民解放軍海軍の退役軍人の徐増平を創律集団旅遊娯楽公司の
社長という肩書つけて送りだした。ウクライナは本艦をスクラップとして 2,000万ドル
で売却する意向を示し、マカオの「中国系民間会社」である創律集団旅遊娯楽公司に、
「中国本国で海上カジノ船」として売り渡した。1998年に購入した創律集団旅遊娯楽公
司は、事務所も電話もないというペーパーカンパニーどころではない架空の会社であり
、カジノの営業資格もなかったし、そもそもマカオの港は水深10メートル程しかなく、
6万トン級の大型艦は入港できない処だった。ところが曳航には空母の海峡通過を禁じ
た国際条約のモントルー条約に抵触するハズだった。しかし、トルコ政府は海峡通過に
難色を示したが、中国政府が仲介に乗り出し中国側はトルコへ観光客(年間 200万人)
増加を約束し、政治的折衝で妥協をして2001年、ようやく中国本国に回航され2002年3
月、マカオではなく大連港に入港し、西区4号埠頭に係留された。 この間台湾政府は、
大きく空母に転用される危険を呼びかけたが、米国・英国・トルコともども聞く耳を持
たなかった。というのもこの時期、中国ではヴァリャーグのほか、キエフ級航空母艦の
「キエフ」と「ミンスク」も購入しており、空母建造の参考にするといわれて入港して
いたからだ。後者2隻は天津と深センで博物館船として一般公開されたが「ヴァリャー
グ」だけは係留されたままだった。2005年4月26日から8月までに、大連船舶重工集団に
所属する大連造船所の乾ドックに搬入され、錆落しや解体改造に転じ、人民解放軍海軍
仕様の塗装を施され、修理も進んだ。「中国が大連において空母の建造を計画」などと
伝えられ、台湾国防部(国防省)も本艦の写真を公開し「空母保有に向けた航空機発着
などの実験艦か、あるいは本格的に空母として就航させるのではないか」との発表した
。この頃は中国も北朝鮮も西側技術やウクライナの軍事技術を片っ端から集めていた。
日本の作った製鉄所の精錬工場が本格稼働し、セメント工場や石油精製などインフラ資
本が整ったからである。北朝鮮は韓国の30分の1のGDPだが、事軍事力強化に限っ
てはリアリスト北朝鮮のほうが上回って、今や核弾頭ミサイルの大陸弾道弾すら持った

199: 名無しさんAA:19/10/22 18:45
  歴史の群像     138

 私が若者や政府に言いたいのは、今でこそ日本はまともに信じられて国際的地位もあ
る。さらに日本に上陸した機械化文明やIT化した社会は、こんなに豊かで便利な社会
を作っているが、常に砂上の楼閣であって、人々の教育それも学力や知識ではなく、最
も大事な人の人格や品格あるいは徳を積むと言う人間性、つまり宗教的な教養を育て上
げなければ人は成長しないし、社会の維持もできないということである。今の日本にお
ける経営者群はまったく不勉強で、共産党中国が国家組織ではない事を理解してない。
欧州や南米のような、ともすれば東南アジアのいくらかの国のように、ちゃんとした国
と思っているが、とんでもない誤解である。よく政冷経熱などと揶揄されたが、ロシア
同様に、国会の議論や民衆の声がなく中東の独裁者よりもたちが悪く、方針の芯がない
国である。その点日本では、戦後でも色々な苦難を乗り越えて行った経緯がある。戦後
飢饉とされた闇米時代、高度成長期とされたオイルショック時代、米国追従や米国51
州と揶揄された金融ショック時代、ゼロサム社会や、日本礼賛が言われ、すぐに米国の
牙にかかり金融ビックバンや日本化とされる就職氷河期時代がやってきた。金融ビック
バン政策や大店法廃止や国鉄解体を経て、日本は確実に切り捨て御免の非情時代に入っ
ていたが、その頃まで日本が作った江戸時代の文化や精神は息づいていたのである。こ
のことからも2000年以降と、その前の苦難には大きな違いがある。20世紀の日本は、
ほとんど日本の意気や覇気で武士としての気概で戦っていた。海外の世界との戦いであ
りつづけ、外圧に対抗する事の苦悩であった。しかし、二千年の内政干渉以降、21世
紀は既に世界がグローバル化、すなわち拡大国際分業化に飛び出し、尚も理不尽な外圧
や要求を受け入れる国内疲弊の度合いを増しつつある。つまり、第一次オイルショック
時代の戦前戦後の人々が社員を守る、給与を上げて生活を保障する、家や土地や会社の
資産を担保にしてでも、社員福祉の生活保障や、生活確保を企業主は宣言し資本家の誇
りを守ってきた。その為に物価高を通じてもそれを解消する仕組みを持っていた。しか
し、スト権ストなどを日教組が起こし、株式資産の現下記帳を決めた後は、教師は守銭
奴教育し、赤軍派まで創り出し、会社の保有株には税がかけられ、税による一層の補助
金や援助に税金を使い、まったく巨大国家予算のみの社会化やら共産化が進み、経済を
握っている経団連や日経連や日本商工会議所、経済同友会などは、まったく日本の誇り
を叩売りするしか無くなったのだ。二束三文の未来を創るために中国に出ていき身ぐる
みはがされ、その損失を消費者や国民に背負わせた。戦前人の戦争の償い思想で、無駄
な情けを持ったのではあろうが、全くキチガイ沙汰の大陸進出であり、この時の無償援
助や技術援助は、日本をアリ地獄に引き込んだ上に、米国とも戦わなかった。国を売っ
た自民党や経済界は、それ以降も国民に負担を強いて「年越し派遣村」を作るような全
く情けない仁義に劣る非人道な派遣社員を多用した法律を作り、その為の改正を政治に
求めた。まったくの鬼より悪い地獄の鎌の薪を焚いたのだった。そしてまた日本では、
勝手な防衛費増額と、税率書き換えの国民負担をさせようと試みている。自らの政治的
経済失政をまったく改善しないで、野党に国際協調の姿さえ隠しながら盲目的航海する
日本丸は嵐からは抜け出せないままだ。今後社会主義国は、高齢化や晩婚化で年金経済
が破たんし三農問題の食糧安全保障の問題が噴き出す。既に日本より早い少子高齢化は
2030年の社会保障問題として提議されている。アメリカは移民問題を大きく取り上
げるが移民によって若年層の活気ある世界が開けている。しかし閉鎖社会主義中国では
高齢化はそのまま年金受領者の拡大を示し、資本主義自由主義の中途半端な導入は少子
高齢化負担の倍増を示している。共産党政権の国家の長期戦略視点はいいが、足元の国
民にとっては砂上の楼閣である。このロシア化する中国沈没の近視眼が米国はまねよう
としてるが、実は違っていて、移民解放して幼児受け入れ教育こそが未来的なのだ。


200: 名無しさんAA:19/10/22 19:02
  歴史の群像     140

 国連の壇上でグレタ・トゥンベリさんは地球温暖化の危機意識について語っている。
グレタさんは、国連本部で23日開かれた気候行動サミットで演説するなど大きな注目
を集め、米国の右派メディアやインターネット上で「彼女は病気だ」「両親に洗脳され
た」などと中傷されている。 右派メディアなどで批判や中傷が相次いでいる事態を受
けて、グレタさんは「ほら、また始まった…。ヘイト(憎悪)をあおる者たちが私の見
た目や服、振る舞い、人と違うことを攻撃している。彼らは思いつく限りのうそや陰謀
論をつくり出す。」と指摘。「気候問題や生態系の危機について話さないことに死にも
のぐるいになっている。あらゆる手を使って、話の焦点をそらそうとしているようだ。
」と訴え「なぜ大人たちは、子供が科学を奨励するのをあざ笑ったり脅したりすること
に時間を費やそうとするのか、正直言って理解できない」と、ツイッターで反論した。
これまでも温暖化は幾つか話し合われた。しかし、デール(取引)が上手いと自意識過
剰のトランプはそれを蹴った。しかし、彼は何も取引を成功させたものがない。そも、
トランプ資産さえもアメリカの救済法案によるもので商取引の持つ生産性すら持たない
。イランの核合意を蹴って喧嘩を吹っ掛け、北朝鮮への攻撃も躊躇して韓国にもバカに
され、中国には関税化でロシア寄りにさせ、同盟国には金貸しの集金みたいに悪を広げ
TPPすら入らず、仲間を捨てたことで中国にも立ち向かえずファーウェイでは一人転
びして怪我し、カナダ・メキシコ・オーストラリアなどとも上手く行かずブラジルの山
火事まで誘発させている。中東でもイスラエルの暴虐性を認め広げ、サウジに仲裁もで
きない。アフガンは撤退などできずパキスタンすら自爆テロを拡大させた。つまりこれ
ほど無能なアメリカ大統領も居なかっただろうというくらい世界を悪くしたといえる。
更に負けないくらいの首相がイギリスに出た。ジョンソン首相だがさすが英国は議会が
機能して今やレイムダック状態である。こうした世界の政治の祭りの遊びに、真っ向か
ら批判の声がでた。国連の壇上でグレタ・トゥンベリさんは言う。「そもそも、全てが
間違っている。私はここにいるべきではありません。私は海の反対側で、学校に通って
いるべきなのです。貴方々は、私たち若者に希望を托そうと集まっていますが、よく、
そんなことが言えますね。貴方々は、その空虚な言葉で私の子供時代の夢を奪いました
。それでも、私は、とても幸運な1人です。人々は苦しんでいます。人々は死んでいま
す。生態系は崩壊しつつあります。私たちは、大量絶滅の始まりの淵にいるのです。な
のに貴方々が話すことは、お金の事や、永遠に続く経済成長、などというおとぎ話ばか
り。よくもそんなことが言えますね。三十年以上にわたって科学が示した事実は極めて
明確なのに。貴方々は、事実から目を背け続け、必要な政策や解決策が見えてすらいな
い。この場所に来て「十分にやってきた。」と言えるのでしょうか。貴方々は、私達の
声を聞いている、緊急性は理解している、と言います。それが、どんなに悲しく、怒り
を感じる。としても、私はそれを信じたくない。もし、この状況を本当に理解している
のに、行動を起こしていないのならば、今の貴方々は、邪悪そのものです。だから私は
、信じることを拒む。今後10年間で(温室効果ガスの)排出量を半分にしようという
一般的な考え方があります。しかし、それによって世界の気温上昇を1.5度以内に抑え
られる可能性は、半分しかないのです。人間のコントロールを超えた、決して後戻りの
できない連鎖反応が始まるリスクの数値があります。半分という数字は、貴方々にとっ
ては、やっと受け入れられるものなのかもしれない。しかし数字は、(気候変動転換点
)「ティッピング・ポイント」や、変化が変化を呼ぶ相乗効果、有毒な大気汚染に隠さ
れたさらなる温暖化などや、そして公平性や「気候の正義」という側面が、全く含まれ
ていません。この数字には、私たちの世代が、何千億トンもの二酸化炭素を今は存在す
らしない技術で吸収することを、あてにしている数値になる。私たちにとって、50%の
リスクというのは決して受け入れられません。その結果と生きていかなくてはいけない
のは私たちなのです。」と反論している。この二酸化炭素の3割をアメリカがそして3
割を中国が1割をロシアが発生させている。


201: 名無しさんAA:19/10/22 20:12
  歴史の群像     141

 我々が知る歴史は、全人類の歴史の一部でしかない。今だにKKKなどは差別主義を
高らかに呼びかけ、白人優位主義者は、善良なイスラム教徒を撃ち殺してもホームアロ
ーンのテロリストではない。と主張する。ただの殺戮を遣りたいだけの 兵士オタクの
戦争好きの者がインターネットで映像まで流して殺しているキチガイを作ったのである
。正にITに洗脳された機械の奴隷になった人間の姿であろう。更にフェイクニュース
を本物にしたいと躍起になるトランプやネタニヤフなどのユダヤ教徒国家と、頑なにイ
スラムなどを捨てないイランなどの宗教国家は、中国のように国家でない国家つくりに
石油資源をあてに莫大な富を兵器買い付けに変えて紛争する。中国やロシアが国家と思
えば大きな間違いが生じる。アメリカが三百年経て、やっとこの頃国家らしくぐらいで
人を育てる機関と機能を継続して福祉存続を有する資格を持たないままだ。日本でも、
安倍晋三首相は日銀黒田総裁の「無制限の金融緩和」を掲げ、これを実行するために、
ETF(上場投資信託)や国債を大量に買い入れる。私からすれば狂気の沙汰としか言
いようがない。このことが続く限り、日本に投資する投資家は育たないこ。なぜなら、
この日本の株式市場は、人工的につくられた架空のものである認識は強い。これらは、
紙幣を大量に刷って物価を上げ、金利水準がこれだけ低かったりさせて人工的で現実離
れの政策に走るしかない。そうした非現実的なものに外国人投資家は投資をしないだろ
う。しかし、その投資しない株式に埋もれながらも日本人は実業で海外シャアをもつに
至った。今後、消費税廃止などのドラスティックな減税が行われる。そして日銀が量的
緩和をやめる。と言わない限り、そうした環境が整わない限り日本は浮上しない。歴史
を振り返れば、ベアマーケット(下落相場)は誰も気付かないところから始まっている
。フェイスブック、アマゾン・ドット・コム、ネットフリックス、グーグルの頭文字を
並べたFANGが栄えるが、何故米国がIT大手なのか、また米国株高を牽引している
かの理由がここにある。米国株が割高であるのは、論を待たない国民性が投資投機の好
きな人種国だからだ。中国株は最高値から約6割も下りお得感がある。しかし今や米中
貿易戦争によって、中国だけでなく韓国などアジア経済は深刻な影響を被っている状態
にはまった。要するに貿易戦争で得をする者は誰もいない。ということだが得するのが
ファーウェイなどの、プログラム納入企業のバイドゥだ。共産党ハッカー室や北朝鮮で
は国家詐欺群である。既に彼らはかつての帝国陸軍同様、中国元に頼らない多国籍企業
と繋がっているからだ。北朝鮮が作ったスパイプログラムは50種以上あって、中でも
マルウェアはヒット作品だ。これらの基本ITプログラムはロシアの機械語を元に作ら
れたのだが、なぜだかマイクロソフトOSがDOSからWindowsに移行して格段に増え
た。実は互換チップのプログム研究費が、OS開発に使われだしたからだ。こうした、
最新鋭機器や最新鋭プログラム。あるいは最新鋭経済思考では多くの場合膠着した経済
や世論が戦場や戦線となる。それは世界大戦の最新鋭兵器でも同じだ。世界で戦争を変
えた一つに重機関銃がある。ナポレオン戦のそれまでは、兵士が持つマスケット銃は、
2〜5発/分だったがマキシム連装式機関銃で400発/分に変わった。騎兵隊主流の
形がこれによって意味がなくなり、ドイツ歩兵戦の持つこの銃がフランスの前哨を破り
快進撃を起こした。マルヌ川戦線である。こうした風にいつでもどこでも変化や革命は
日々起こる。マルヌ川戦線ではこの連装式機関銃で思いあがったドイツに向かい合った
救援イギリス軍は、これまた戦争を変えた8ポンド野砲を並べ対応した。この野戦砲も
画期的な手間を取り去った野砲で、この野砲によって塹壕戦となり膠着状態に陥った。
つまり第一次大戦は新しい兵器を作ったのではなく、新しい兵器によって起こった戦争
であったのだ。既にこの時から人は機械に翻弄され始めて踊らされ生きていく宿命を持
った。こうした膠着状態を探るものとして偵察飛行機が使用された。飛行機も又革新的
乗り物だった。そしてソンムの戦いに49両のマーク1と言う最初の戦車が登場した。
こうした驚きの兵器の開発力や、膨大な経済産業力という国力差が、その後の戦争の戦
場を支配する力に変わって行った。その意味で第一次世界大戦での日本は、戦勝国とは
いえ、諸外国の西洋列強の米英の「金魚の糞でしかない」と軽く思われていた。


202: 名無しさんAA:19/10/22 20:37
  歴史の群像     142

 戦場に出た戦車はマーク1が最初だが、実は塹壕戦の前にどこの国でも車に兵器を乗
せる事は考えていた。ドイツのマキシム機関銃が出るまで、多くの銃はアメリカに売ら
れていた。1913年まで鉄砲でもそんなに威力はなかった。しかし1914年の侵攻
作戦も、破壊力抜群の陸戦砲いわゆるイギリス18ポンド野戦砲が絶大な力をもった。
射撃反動を抑え、照準を備え、後部押入れの榴散弾砲だった。先込め法では、15人の
兵士達がそれぞれ仕事して弾込め、を一分一発ぐらいだった。この野砲によって5〜10
発撃てて5人いれば充分こなせた。その上この玉は炸裂し破片で多くが死んだ。シェリ
ーフェンプランとされたドイツの侵攻計画はここで頓挫したのである。世界一の陸軍国
ロシアを背に、ナポレオン以来の大陸軍(グラン・ダルメ)を受け継ぐフランスが横た
わる。この2大大国に挟まれた小国国家群が集まってドイツ帝国を作った。ベルギー・
から始まりルクセンブルク・スイス・オーストラリア・オランダ・バタビア王国・公国
などは、もともとネーデル共和国だった。ブルゴーニュ領ネーデルラントは、フランド
ルを中心にハンザ同盟をして西ヨーロッパの最も栄えた中心地であった。ブルゴーニュ
公国領としてのこの地域は政治的には、15世紀後半ハプスブルク家が継承した。この
ハプスブルク家の絢爛豪華な財宝は、この地の貿易から生まれたものだった。しかし、
ハプスブルク家も継承においてオーストリア系・スペイン系に分かれ、プロテスタント
とカトリックに分かれた。南部のネーデルラントは今のフランス領である、スペイン・
ハプスブルク家は支配下に留まりスペイン領ネーデルラントとなったが、当然フランス
王国との係争地となった。本家筋オランダのネーデルラント連邦共和国を巻き込んでの
ネーデルラントスペイン継承戦争が起こされた。その後はオーストリア・ハプスブルク
家領(1713年〜1793年)となり、フランス革命戦争後にフランスが併合した。ここでや
っと今のフランスの形となった。この時の民衆の契約が「自由・平等・博愛」だった。
西はルクセンブルク、ザールラント、バーデン、ラインラルト沿いのヘッセン、ノルト
ライン沿いヴェストファーレン、バイエルンのプファルツ地方、オルデンブルクのビル
ケンフェルト、プロイセンのライン県やナッサウ県、ヘッセン=ダルムシュタット、ラ
イン川沿いラインヘッセンなどから構成されるかなり広い地域で、今のフランスの半分
とスイスなど小国全部といった所が集まった。1815年のウィーン会議のウィーン条約で
、ネーデルラント連合王国に編入されたがオランダ人の支配を嫌い、1830年に革命が起
こる。翌年、イギリスなどの承認で、ドイツ貴族ザクセンゴータ家のレオポルド1世を
国王とする立憲君主国・ベルギー王国が成立した。ネーデルラント国王は、ベルギーの
独立を承認し、1890年にルクセンブルク大公国がネーデルラント王国との同君連合を解
消して独立した。この形を真似て、日本の日英同盟の解消をアメリカが英国に迫った。
しかし、古くから衆議会を持っていたラインラント・ギルドで弟子を持つ親方集団での
国の集団と国際連合の集団とでは正に意味は違っていた。このザクセン・プロイセン・
ゴーダ・パイエルンと陶器やワイン・チーズやお菓子やハムといった有名な物産製造所
が多く伝統的にある場所で豊かなところだった為「大モルトケ将軍」はこれを守りたい
とし戦争したのは当然だった。ドイツ陸軍参謀大モルトケのプランでは、まず戦力を東
に差し向けてロシアと戦い、西のフランスに対しては堅く守ることをプランとして採用
した。その後1890年にビスマルクが失脚、露仏同盟によって、ドイツが、対フランス・
ロシアの二正面作戦に直面する危機に至った。ドイツの外交政策は、フランスの孤立を
維持する事を大原則で、しかしここに至って、ドイツ陸軍総長のアルフレート・フォン
・シュリーフェンは、モルトケの真逆の作戦でシュリーフェン・プランを作るしかなか
った。背後と正面の戦争の解決の手段として、フランスを全力攻撃し対仏戦争を早期に
終結させ、一挙に反転してロシアを全力で叩こう。と考える。つまり、もともと、ヒッ
トラーの様な電撃作戦で、攻撃ではなく、守備防衛作戦であり、攻撃は最大の守りとな
らないものだった。この敗戦で攻撃に向かないと証明されたプランだった。これで攻撃
した事がドイツ帝国敗北であり軍の崩壊であった。しかし、ドイツ国民は皇帝の亡命で
負けたとしてその事実を信じなかった。

203: 名無しさんAA:19/10/22 21:22
  歴史の群像     143

 「攻撃は帝国の敗北であり軍の崩壊である。」との鉄則は、日本の日中戦争でも起こ
っている。日露戦争も日清戦争もアロー戦争も麻薬戦争もこの鉄則は裏切らない。その
後の太平洋戦争も、ベトナム戦争でも、アフガン戦争でもそれらは証明されている。否
湾岸戦争やイラク戦争も攻撃したイラク軍は全く国は敗北し、既存の軍・警察は崩壊し
た。第二次世界大戦の日本やドイツも正にこの宣戦布告した意気込みがそのまま負けに
つながったようである。何故だろうか。そもそも戦争は外交の延長上にある。つまりは
高慢ちきにも我々が強い。と思っているから砲艦外交ならず宣戦布告をした攻撃をする
。ところが一方の相手は、クエートでも、ベトナムでもアフガンでもそこにいるのは、
よそから来た兵士ではない。生活者であり住民なのである。ここにテロ戦争経済戦争の
実態がある。つまり、海中・海上・地中・地上・空中・宇宙の6つの外に、いわば仮想
空間の戦いがある。我々は仮想空間とは、兎角に、ゲームや通信、あるいはアニメの類
を空想する。が、実は究極の仮想空間は太古の昔からあって、今後の予想をつけ行動す
るのは人間の本質だ。既に株式市場や銀行の金融数値もこの予想世界にある架空帳簿だ
。つまり全く現実世界の中の様態は、現状把握の調査すらも、実際の不明な未来を予測
して起きる。株購入保有、人気や評価、思考や行動は、推定で決まる。だが、地球資源
の大自然は、この人の行いに忠実に反映する。アメリカが独立戦争や南北戦争に明け暮
れて生産活動に従事しなかった為に、野生のバッファローやリョコウバトなどは、食べ
られてしまって絶滅した。食料さえおぼつかない中の米国戦争はその後のアメリカには
大干ばつをもたらせた。シュリーフェン・プランを作り戦争した欧州でもそれは同じだ
。ドイツの食糧生産が通常の2割に迫る貧困に飢えて、ドイツに食糧要求革命がおこる
。第一次世界大戦は終結したが、ボヘミアン農奴やルーシコサックやバルカンスラブ人
の生産した食糧は取り上げられ不満がおきる。それぞれ、フランス地方、ロシア地方、
トルコ地方に送られたからだ。オランダやベルギーにいてフランス側に売ったユダヤの
商人は手痛いしっぺ返しを食う。ロシア皇帝は国内で食糧要求の庶民革命で退位させら
れてしまう。欧州戦争は中世からの怨み恨みで埋没する。ウクライナのクリミア戦争、
第一次世界大戦、第二次世界大戦も、農地はバルバロッサ作戦に見るように常に蹂躙さ
れ、その損害の量と質は、格段に進化し拡大し巨大になり 人を苦しめた。こうして、
16世紀以来「ヨーロッパの穀倉地帯」として知られ、19世紀の産業の中心地帯で大
きく発展したウクライナでも、食糧基地で天然資源に恵まれた交通の要所でありながら
今もくすぶる民族紛争で立ち上がれない。ソ連時代は鉄鉱石など天然資源の中心として
重化学工業の最先端の科学技術都市だったが、今ではロシア離脱で内紛状態が収まらな
い。大戦後から、食糧危機や自然破壊は、戦後恐慌となって更なる戦争を引き起こして
第二次を起こしているにも関わらず米国やロシア・中国はその本質を解っていない。こ
うした小国の疲弊をわかっていない。大国は自ら鎖国しても生き残れる。指導者達に取
り付いた軍産複合体の黒い商人であるユダヤ金融家群は、大戦終了に原爆投下に難色を
示したトルーマンさえも説得した。連中はいち早く1954年 第一回ビルダーバーグ
会議が開催され、戦後の世界を企画している。初代会長は後にNATO事務総長になる英国
のピーター・キャリントン卿。キャリントン卿は、チャタムハウスの所長であり、ロス
チャイルド系企業リオ・チントとバークレー銀行の重役を務めた人物である。通称CH
会議チャタムハウス会議を知るものは、よっぽどの世界通史マニアであろう。しかし、
この最初に中央銀行会議を開いて戦後を論じ、その社会を築いた基礎の役割は大きく、
これまでの政治が王政による独裁政治だったが、経済市場原理の市民政府として開放し
た意味は大きい。そんな中日本人は歯ぎしりしながら中国を去り国内平和を守って進展
した。

204: 名無しさんAA:19/10/22 21:26
  歴史の群像     144

 チャタム・ハウスの起源は、第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)まで遡る。
講和会議の為に、イギリス代表団とアメリカ代表団が、将来の戦争回避のため国際問題
を研究する英米国際問題研究所の構想が生まれ、英米両国が研究所を設立構想が、その
まま具体化せず、翌1920年に持ち越されて、イギリス国際問題研究所がロンドンに創設
、1926年に勅許状を授与、現在の王立国際問題研究所を作った。アメリカの方では、そ
の姉妹機関としてニューヨークに外交問題評議会を設置した。チャタム・ハウスでは、
@ 国際問題の分析。A 国際問題に関する書籍(報告書・白書)の発行、B“Intern
ational Affairs”, ”The World Today”等々の定期物の刊行、C世界の政治家や識者
を招聘し、開催される会議の主催や世界各国での会議の運営と参加、Dマスメディア向
けの時事問題の解説や議会の委員会での証言の引き出し、E 世界各国政府の高官やら
議員を対象にして、行われる将来の政策立案に向けた指針の提示、F 学者、経営者、
外交官、マスコミ関係者、NGO、政治家、官僚を、公開の場で意見交換を行なうフォ
ーラムの設置や主催など、非常に幅広い活動をおこなう民間機関を設立した。チャタム
・ハウスは、「会議の出席者は会議で得た情報を自由に使用することができるが、会議
での発言者とその所属機関を含む情報の出所を明らかにしてはならない。」というチャ
タム・ルールが暗黙の了解として発祥した。チャタム・ハウス・ルールと呼ばれるこの
ルールは、現在では国際会議などで幅広く採用されている。匿名の正確な情報を流通さ
せる。という目的の為だが、こうして創立以来90年以上に亘り、国際問題の分析で世界
をリードしてきた。チャタム・ハウスは政府から独立した研究所で、国際問題に関する
研究所としての見解や政策を表明することは勅許により禁じられている。またその為に
政府から補助金を受けることもない。それは研究所の目的が、@国際政治学、国際経済
学、国際法の発展に資すること、A国際問題に関する情報を提供し、講義、討論、書籍
や報告書の刊行を通じて国際問題の研究を深めること、B国際問題の研究を促進して、
国家や民族に関する情報や知識を共有し、上記の目的を効果的に実現するために必要な
あらゆることを行なうこと、Cイギリス帝国自治領における支部や委員会の設立を促進
すること、と定められているからだ。つまり、学問の発展、情報提供や情報の共有など
、現実の政策の場面や政治からは、一歩も二歩も身を引いたところで活動を行なうこと
が目指されている姿勢だった。かつてチャタム・ハウスの資料は門外不出とされたが、
最近のものはウェブサイトから入手できる。また書籍や雑誌なども比較的容易に入手で
き、録音資料を含む過去の資料はこれまで利用がチャタム・ハウスの資料室に保存され
たまま、利用が閉ざされていました。しかしハウスのオンラインアクテヴの方針で、こ
れまでの門外不出の資料が日の目を見ることになり、世界トップクラスのシンクタンク
の全貌が明らかになる。米国のビルダーバーグ会議の方はは、毎年一回は、アメリカ、
カナダ、ヨーロッパ諸国で影響力をもつ100〜150人が集まり討議している。政治
経済や環境問題なども含む多様な国際問題について討議する完全非公開の会議である。
オランダ女王の夫君のベルンハルト公によって創設されたが、発足10年後の1929年
には、世界恐慌が資本主義諸国を襲って戦争を起こした。それぞれ多様な対応で国が分
かれ、イギリスのスターリング=ブロック経済圏やアメリカのニュー=ディールに伴う
南北アメリカ経済圏の成立、ドイツの東方生存権の構想、日本の大東亜共栄圏などが出
現して混乱を極めたのである。こうした閉鎖的・孤立的ブロック経済利害が、その後に
互いに対立して、独善的な保護貿易に陥り国際金融・経済協力の基盤は破壊されて、第
二次世界大戦につながった。この教訓がブレトン=ウッズ会議を開かせ、連合国の44
ヵ国の加盟する通貨のドル統一基軸通貨体制を取らせた。こうした民間の賢人会議が、
戦後世界を創成した。もちろん政府も同じにあったろうが米国を見れば連れられて来た
もので、率先してやったのは戦争と兵器作りでしかない。


205: 名無しさんAA:19/10/22 21:28
  歴史の群像     145

 戦前において、アメリカのFRBが発行する米ドルには、アメリカ国内すら統一性が
なかった。戦後の世界を米ドルを世界の基軸通貨にすると決めたブレデドンウッズ会議
には、ヒロシマ、ナガサキに原爆が落とされる1年以上前に、44ヶ国の通貨担当者を
集めて連合国通貨金融会議という国際会議が開催されている。だが本当のブレデドンウ
ッズ会議はもっと前に協定の原案作りが行われ、今のJ・Pモルガンやゴールドマンや
シティ銀行で考察された事である。第二次大戦中の1944年7月に開かれた会議は決定事
項の通達でしかなかった。実はその裏にFRBがいたことを我々は大きく考えねばなら
ない。そもそも米国以外は、ほとんどが王侯や政府が紙幣を発行し流通紙幣の保証をし
てその価値を持っていた中で、米国のみがドイツやロシアあるいはイギリスやフランス
からやって来て勝手に方々で銀行家が私設銀行として自分達が発行した銀行券(保証書
)が流通して町が出来ていた。それらは独立戦争前に軍に貸し付けた物品証書によって
信用貸しの形のものが小分けされたものだった。しかしゴールドラッシュと合衆国成立
によって、次第に統一化されて大きな銀行の下にマネートラストが組まれクレジットモ
デルが作られて行った。第一次世界大戦で大儲けした銀行家達は、米国国内とは限らな
かった。当然銀行家同志のトラストの衝突が生まれた。こうして米国の中央銀行が必要
となった。統一されたドル紙幣や流通量操作や株価や物価の統制である。しかし米国内
では、こうした政府の行う大きな金融や中央銀行に批判的な意見が多くあって、およそ
1千以上の銀行資本が統一した意見や紙幣ができることは不可能だったのである。この
機運の中で、ポール・ウォーバーグは中央銀行という名称を避けるように提言し、政府
指導の連邦準備制度という名称で統一規格を行うことをユダヤ人会の大富豪組合で企画
する。こうして連邦準備制度をつくる法案は、共和党のネルソン・オルドリッチが議会
に提出した。がしかし、オルドリッチ法案は、当然与党の民主党から激しい反対を受け
た。そしてその議論を続けている間に、なんと共和党は野党に転落してしまったのであ
る。こうして、民主党の中の大統領候補者ウッドロー・ウィルソンに白羽の矢が立った
。1912年の大統領選挙で、現職で人気者のウィリアム・タフト(共和党)は、殆ど
再選確実とされていた。日本のタフト会談があったのはその実力故だった。しかしそこ
へ大富豪会の人気者の大統領セオドア・ルーズベルトが、共和党を離れ、革新党を結成
して立候補したのだ。その結果、共和党内で票が割れて、ウィルソンが地滑り的勝利を
収めた。元大統領のセオドア・ルーズベルトは、1900年大統領選の副大統領候補として
当選し大統領マッキンリーの死去(暗殺)に伴い、大統領に昇格して国を治め就任時の
42歳と10ヶ月は史上最年少であった。南北戦争以後、財界の自由放任主義がはびこり、
産業組織は巨大化し、格差や労働問題など従来法規で統制が取れなくなっていた中、ル
ーズベルトは、それまで使われることのなかったシャーマン反トラスト法を発動して、
巨大企業の集中化を牽制し、純正食品・薬事法を成立させ消費者の健康保護を図った。
こうした事で高い人気を持っていた。日本では、1905年には日露戦争で日本・ロシア間
の調停をつとめ、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力したとしている。しかし
カリフォルニア州での反日運動を危惧し「カリフォルニア州の政治家は対日戦争に不安
材料を持っている。ただちにそうした事態になるとは思わないが、将来については不安
である。日本人は誇り高く、感受性も強い。戦争を恐れない性格で、日露戦争の勝利の
栄光に酔っている。彼らは太平洋のパワーゲームに参加しようとしている。日本の危険
性…………仮に戦争となり、我々の艦隊が旅順港のロシア艦隊のような運命をたどるこ
とになれば、日本は簡単に25万人規模の兵力を太平洋岸に上陸させることができる。そ
うなれば、それを駆逐するのに数年の歳月がかかり、それに加えて、とんでもないコス
トがかかるだろう。ジャップはロシアに勝ってから実に生意気だ。しかし、こちらが大
艦隊を持ってさえいれば、奴らだってそう簡単には手出しはできない。」と書いている


206: 名無しさんAA:19/10/22 21:28
  歴史の群像     146

 このノックスへの手紙(1909年2月8日付)の中でルーズベルトは、移民問題の重要性
を強調し、日本人労働者は排除されなければならないが、巧妙に、かつ戦争のリスクを
避けられそうな方法で行う事だと言った。「それゆえに、われわれの任務は、永久には
我慢することができない自国民の要求に応える一方で、必要以上に怒らせないように、
日本を丁重に扱うことであり、同時に、日本がわれわれを攻撃しないよう非常に用心す
るような状態に、わが艦隊を準備することである。」と太平洋艦隊の編成と強化を唱え
ている。史実として、ルーズベルトはハワイの日系人の本土移住を禁止したほか、ハー
ストをして反日キャンペーンを展開させた。また、日系人の子弟を学校から締め出し、
土地所有を禁止し、市民権の取得も拒否した法案を通して日本人の強制収容所生活を先
導している。こうした人物を相手に今だ人種差別がある中で日本の小村寿太郎外務大臣
はよくロシア帝国全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印出来たものだと感心する。こ
の和平交渉の斡旋によってルーズベルトは1906年ノーベル平和賞を受賞したが、彼の思
いは多分にロシア崩壊の危惧であり、アメリカが調停したのはこのままロシア投資が元
さえとれない状態に危惧したことに他ならない。つまりロシアを日本が取れば、さらに
巨大になる。という思いである。こうした偏見や人種差別観の米国の姿を日本人は無知
同然であった。ともかく、こうして第32代の前大統領フランクリン・ルーズベルトが、
恐らくはユダヤ人からだろうがそそのかされて共和党を離れ、革新党を結成したので、
地滑り的にウッドロー・ウィルソンが大統領になったのである。この時彼を支援してい
たのが、ポール・ウォーバーグとジェイコブ・シフである。そしてウィリアム・タフト
を支援していたのが、従兄弟のフェリックス・ウォーバーグ。そして、ルーズベルトを
支援していたのが、オットー・カーンだった。ポール・ウォーバーグ、ジェイコブ・シ
フ、フェリックス・ウォーバーグ、オットー・カーン、実はこの4人、全員がクーン・
ローブ商会の共同経営者であったのだ。なんと初代ロスチャイルドの世界革命行動計画
に沿って「財を活用して、我々の要求に素直に従い、ゲームの駒となって、政府を陰で
操ることを我々から任じられた人物をえらば無ければならない。」を実行し次の駒に選
ばれた人物がウィルソンであったわけである。ウッドロー・ウィルソンは、晩年になっ
て連邦準備制度設立に加担したことを後悔して、こう言い残した。「私はうっかりして
、自分の国を滅亡させてしまいました。この大きな産業国家は、その国自身の作った、
クレジットシステムによって管理されています。私たちのクレジットシステムは一点に
集結しました。したがって国家の成長と私たちのすべての活動は、ほんのわずかな人達
の手の中に有ります。私たちは文明開化した世界においての支配された政治、ほとんど
完全に管理された最悪の統治の国に陥ったのです。」と。彼の予想通り、1913年に
アメリカで連邦準備制度(FRB)が設立されたが、1929年には彼らがウォール街
の大暴落を起こさせ、これがきっかけに世界恐慌が始まった。1920年代にFRBの
指示で銀行が信用創造量を増やした事による。竹中平蔵が日本を不況に陥れた手法であ
る。融資の担保は株券であり、その結果、株価は高騰、バブルが発生した。株価が上が
りFRBは一転して銀行の信用創造を厳しく抑制。お金の流通量をわざと減らした。こ
れはライバル落としの為だった。結果、大恐慌を引き起こす。ミルトン・フリードマン
はじめ多くの経済学者が指摘しているように、いわば公的金融資本を私物化した為だ。
この恐慌により1万6000もの銀行が倒産し、ほとんどがモルガンとロックフェラー
が吸収・合併して買占めていった。紙切れ同然になった企業や株券も買い占め、両者の
独占状態になった。銀行や企業の他、融資返済が出来なくなった農家も土地を没収され
た。その為飢饉が発生する。こうして地獄の鬼のように土地がウォール街の金融財閥の
下に置かれ放置された。これが大戦前のアメリカの実体だったのである。FRBはこう
して役に立たないどころか恐慌の元となったのである。

207: 名無しさんAA:19/10/22 21:33
  歴史の群像     147

1931年になってから、景気回復という名目のもと政府は金の回収が行われた。懲役
10年という罰則のもと、米国民全てが金貨や金塊を財務省で紙幣と交換する事を義務
づけられた。そして、1939年末には兌換紙幣が廃止され、紙幣と金はもう交換出来
なくなった。つまり、合法的に金の強奪が行われた。金融危機を防ぐ目的で設置された
FRBだったが、連邦準備制度が成立してから、1921年、1929年の株価暴落、
そして1929年〜1939年の大恐慌、1953年、57年、69年、75年、81
年の景気後退後、89年のブラックマンデーを経験し、1000%のインフレでドルの
購買力の90%が破壊されている。つまりこの間、FRBは何の役にもたっていない。
ロスチャイルドの世界革命行動計画の「我々の力を行使すれば、失業と飢えがつくり出
され、大衆にのしかかる。そうすれば、確実な資本の支配力が生じる」が実行された。
 その後に、ブレトンウッズ会議が開かれたのは、第二次大戦中の1944年7月である。
44カ国の代表がアメリカ・ニューハンプシャー州のブレトンウッズに集まって、戦後の
通貨・金融体制について話し合ったとされる。主役はアメリカとイギリスで、アメリカ
代表のホワイトと、イギリス代表のケインズが国際通貨体制のあり方をめぐって、激し
いバトルを繰り広げた。交戦中だったドイツと日本も他のホテルに代理大使を送ってい
る。というのも当然ながらこの会議に参加していないものの、これは政府会議ではなく
民間会議だったからだ。日本は天皇の代理として三井の会長秘書、ドイツは優勢遺伝子
病院の委員長である。バトルといっても、実質的な主導者はアメリカであった。第二次
大戦では、イギリスはアメリカに膨大な借金を負っており、アメリカの援助なしには、
戦争の継続もままならない状態にあった。つまりイギリスの金融は底をついていた。更
にドイツはフランス資金である絵画や宝飾品を奪ってしまい、これを取り戻さない限り
保険請求に応じられなかったのだ。イギリス代表団は、アメリカに援助をお願いしつつ
、来る通貨体制においてイギリスの指導的地位を守る事を願った。この交渉にあたって
ケインズが編み出したのが、「清算同盟案」です。これは、新たな人工通貨バンコール
を創設して、国際決済を超中央銀行が一元的に管理するという提案だった。つまり世界
通貨の流通である。しかし、圧倒的な金保有を背景に、いまや世界の経済秩序を差配が
できる立場となったアメリカが、そんな提案においそれと乗るはずもありません。この
時まで英国ポンドは世界通貨の要ではあった。しかし、アメリカ・ドルの支配が重きを
成してしまいポンドが負けるという絶望的な闘いを強いられた。この第二次世界大戦は
一面では、米英仏の金融覇権を巡る水面下の闘いでもあった。こうしてブレトンウッズ
会議は、外交的に見れば当然アメリカの圧勝でした。今日につながるドル支配の構図を
作りその後の欧州貸付の回収を容易にさせた。この会議によって植民地通貨は決定的な
ものとなったわけで、日本も360円=1$の固定相場の中で敗戦を迎える事になった
。しかしこの時の進駐軍の目的は、支配でも飢餓の救援でもない。日本の財閥の解体で
あった。言わば今後日本が世界の中で台頭しない様な措置だった。その為に東京裁判を
企画しドイツと同じに各所の植民地の奪還だった。ところが、東南アジアや中国は全く
欧州の持つアフリカと違い日本は植民地化政策を行っていなかったのだ。ここに植民地
の解放や原住民の自由を掲げて戦った戦勝国批判が国際的に起こった。そしてそれは、
本当の植民地解放運動や独立運動につながっていく。これは全くドイツ恐慌と同じに、
世界の筋書きを変えた。そしてその事は中国大陸と朝鮮半島に大きく問題を起こした。


208: 名無しさんAA:19/10/22 21:47
  歴史の群像     148

 バーナード・バルークは、ウォール街伝説の相場師と呼ばれた。バーナード・バルー
クは、ウィルソン、ハーディング、クーリッジ、フーバー、ルーズベルト、トールマン
と6人の大統領顧問として活躍した人物だ。第一次大戦時には戦時生産局長官となり、
軍備工場の全てを掌握し、軍事予算から膨大な利益を得ていた。しかしそれは、モルガ
ンの成功報酬の給与に過ぎない。第一次大戦前、バルークは100万ドルの資産を持っ
ていた。しかし、戦争が終わった時には、その資産は2億ドルにもなっていた。ドイツ
に法外な賠償金を支払うように決めた賠償委員会の委員長でもあり、第二次世界大戦を
喜んでいたともいわれる。第二次大戦後は国連の原子力委員会の米国首席代表を務めた
。彼の親友エドワード・マンデル・ハウスはテキサス州の歴代州知事の選挙事務長だっ
た。選挙戦のきわどさから、軍隊経験は無いのに何故か、「ハウス大佐」と呼ばれてい
た。エドワード・マンデル・ハウスは、ウィルソンが「もう一人の私」と呼んだほどに
親密な間柄であった。ハウス大佐は、リンカーン暗殺の主犯格トーマス・W・ハウスの
甥で、ロスチャイルドの代理人として、欧州の金融資本とテキサスの石油業者をつなぐ
役割を担っていた暗殺部隊の筆頭人物である。かつて昔トルコ出身のユダヤ人サバタイ
・ツヴィは、激しい躁鬱病患者であった。自分がメシアであるとの自覚を持っていたが
、彼をメシアと認める人はいなかった。だが、カバラ学者の賢者ナタンはサバタイを、
「メシアだ」と宣言した為、信用あるナタンの宣言で人々はサバタイをメシアとして受
け入れられた。サバタイは、トルコ戦争後屈辱的に改宗せざるをえなかったマラーノ達
に、内部から腐らせ、無力化させて最終的には崩壊にいたらせる。という神聖な戦士で
ある人々。と説いた。このサバタイ思想は、多くの熱狂的な信者を獲得し、ユダヤ人の
間に大ムーブメントを起した。その後、ヤコブ・フランクとその信者はフランキストと
呼ばれる異端信者が現れた。正統派ユダヤ教のラビから破門され、フランキスト達は、
「改革派ユダヤ教」と名称を変え、ユダヤ教の中で一大勢力となった。そしてこのフラ
ンキスト思想はサバタイ派と結びつき、キリスト教徒・イスラム教徒・仏教徒たちの中
に紛れ込んで、危険な終末思想を実現しようとする運動を起こす。自称メシアの宗教で
、ユダヤ教の救世主思想を「この世の悪や不幸を人為的に頂点にまで満たして、この世
を破壊し尽し、メシアを到来を促す。」という危険な思想を持ち込んだ。世界を支配す
る初代ユダヤ王ロスチャイルドが、ただの大富豪ではなく、タルムードを信奉していて
、しかもサバタイ派=フランキストに属していた事は有名である。世界中で起こってい
る、まるで地球を滅ぼそうとしているかのような数々の破滅的な出来事の裏には、政治
・経済・軍事・宗教・メディア・教育等を支配する一族の意向があるが、それが過去の
遺物の宗教観だったというのでは、もの悲しい。ユージン・アイザック・マイヤーは、
このタルムードの信奉者だった。戦時軍需品・財政委員会や戦争産業委員会のポストに
起用され、1930年には連邦準備制度理事会の理事に就任する。1931年に、再建
金融公社の会長に就き、さらに1946年には初代世界銀行総裁にも就任している。マ
イヤーの父親はロスチャイルド系投資銀行ラザード・ブラザーズの共同経営者で、娘の
キャサリン・グラハムはワシントン・ポストの社主だった。キャサリン・グラハムには
「日本の首相はキャサリン・グラハムの許可がないと成れない」と言われたほどの影響
力を持っていた人物だった。ちなみに、このマイヤー家はオットーカーンの一族である



209: 名無しさんAA:19/10/22 21:47
  歴史の群像     149

最もフランキストであるポール・ウォーバーグはFRBの設立の立役者だった。ポール
は金融改革はユダヤ教徒のイギリスにいたロスチャイルドの代理人として渡米していた
。ポールは、クーン・ローブ商会の創業者ソロモン・ローブの娘ニーナと結婚し、ジェ
イコブ・シフ同様、クーン・ローブ商会の共同経営者となった。ポールの兄マックス・
ウォーバーグは、ドイツ諜報機関のリーダーであり、ナチスへ活動資金を提供していた
人物だった。従兄弟のフェリックス・ウォーバーグは、オーストリアの密命でレーニン
を封印列車に乗せてロシアに送った。つまり革命を支援した従兄弟のフェリックスは、
ドイツ国防軍の情報部長官で文字通りのサバタイ思想の中で生きた。ジェイコブ・シフ
の娘フリーダと結婚して日本にも来た。また、ポールの娘フェリシア・シフ・ウォーバ
ーグは、フランクリン・D・ルーズベルトの息子ルーズベルト・ジュニアと結婚してい
る。ドイツのフランクフルトのゲットーの中では、狭いユダヤ人居住区の中に、シフ家
、ウォーバーグ家、バルーク家、カーン家、そしてロスチャイルド家が住んでいたのだ
。シフ家はロスチャイルドと同じ屋敷を半分ずつにして住んでいて、カーン家はその4
軒隣に住んでいた。ウッドロー・ウィルソンは、就任式の直後に特別会期を招集して、
クリスマス休暇でほとんどの議員たちが帰省中に、民主党が提出したオーウェン・グラ
ス法という連邦準備法を可決させ署名した。そのオーウェン・グラス法案とは、以前、
民主党が反対していた共和党のオルドリッチ法案とほとんど同じという、名前替え法案
だった。しかも、このオーウェン・グラス法案に対し共和党のオルドリッチとヴァンダ
ーリップが激しい非難の声をあげるという茶番劇付きだった。ネルソン・オルドリッチ
は共和党上院議員で院内幹事で全国通貨委員会委員長だった。J・P・モルガンの投資
パートナーでジョン・D・ロックフェラー・Jr.の義父だ。又、フランク・ヴァンダ
ーリップはナショナル・シティー・バンク・オブ・ニューヨーク頭取でロックフェラー
とクーン・ローブ商会を代表していた。エイブラハム・アンドリュー連邦財務次官が、
通貨委員会特別補佐官として割ってはいり、ヘンリー・デイヴィソン(J・P・モルガ
ン商会の共同経営者や、チャールズ・ノートン(J・P・モルガンのファースト・ナシ
ョナル・バンク・オブ・ニューヨークの頭取)がなだめ、J・P・モルガンのバンカー
ズ・トラスト・カンパニー社長のベンジャミン・ストロングがニューヨーク連邦宇準備
銀行の初代総裁になった。1910年にJ・P・モルガンが所有するジョージア州のジキ
ル島で全国通貨委員会の会員による秘密会議が開かれた。この密室会議の出席者の話で
、彼らがメンバーであったのだロスチャイルド代理人ポール・ウォーバーグはメンバー
の中で、中央銀行の設立に関与したことがあったのは、彼だけだったので、実務には、
ほとんど彼一人で受け持ったというクーンローブ商会の共同経営者であった。こうして
操られたウィルソン大統領は米国を操り、操られる米国は世界大戦を目指したのである
日本にとっては忌まわしきウィルソンを操った代表的な4人であった。この後を継いで
1930年代にアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが「三つのR 救済 回復
および改革」を掲げニューディール(新規まき直しの意味)のスピーチをしてフーバー
大統領の財政政策を「究極の無駄使いの権化」と徹底的に批判し、緊縮財政を主張して
政権を奪取した。概して言えば第二次世界大戦前は一次大戦のドイツの賠償金で世界は
動いていたのだ。これを仕切ったのがこのユダヤ系金融資本家たちであった。第二次世
界大戦の失敗は米国景気に投資しようと、ドイツ資金を移転したことが問題でドイツが
大恐慌に見舞われた事だった。ドイツは容赦ない資本家の動きや国際金融に銀行を襲う
水晶の夜の事件が起こる。この時からヒットラーは祭り上げられ、軍事産業育成での、
産業復興をはかる。当然貸し付けにユダヤ金融が欠かせなく、銀行強盗の戦争を企画し
た。しかし、チェコの銀行はいち早く金塊を移動させていた。第二のロマネフ財宝列車
がドイツの黄金列車として語り継がれ伝説になった。つまりドイツの貧困・国際格差が
世界戦争を起こした。理由は人の欲望による株価の暴走、恐慌からだった。



210: 名無しさんAA:19/10/22 22:30
  歴史の群像     150

アメリカで、大統領になってもフーバーダムは続行され、それどころかニューディール
政策と称して公的資金の投下を増やした。世界恐慌に対策を取れないまま大統領職を退
いた前任のハーバート・フーヴァーに対し、「ニューディール政策」と呼ばれる、政府
の経済への介入(積極的な経済政策)を行なう。テネシー渓谷開発公社、民間植林治水
隊、公共工事局、公共事業促進局、社会保障局、連邦住宅局など多くの政府機関を設立
し公務員を増やし、大規模公共事業による失業者対策を行うなど、ケインジアン政策で
時代を築いた。ほかにも団体交渉権保障などによる労働者の地位向上・社会保障の充実
などの政策を行った。ルーズベルトが就任した1933年以降、景気は回復過程に入り実質
GDPが1929年を上回った。1936年の大統領選挙では、当時の一般投票歴代最多得票率
(60.80%)で再選を果たした。アメリカ合衆国連邦政府が公開している経済統計による
と、アメリカ合衆国の実質GDPが1929年を上回った年度は1936年、名目GDP1929年
を上回った年度は1941年、失業率が1929年を下回った年度は1943年である。しかし当然
雇用の名目での出費でも浪費でも財政は上向かない。前政権に増しての財政緩和政策と
、大統領令によっての市民に金貨、金塊の保有を禁止しての取り上げをして、管理通貨
制度の確立を行った。ケインジアン(ケインズ信奉学派)の立場からは有効な政策であ
ったとされているが、この金を強制取り上げの上兌換紙幣と交換というのは日本の江戸
期でも行わなかった話である。他にも1939年9月に欧州で始まった第二次世界大戦
にドイツに追い詰められていた英国を助ける為、参戦したいと考えていた。しかしなが
ら米国民の圧倒的多数は第一次大戦に懲りて戦争を望んでいなかった。ルーズベルトは
1940年11月に3選を果たした際には「あなた方の子供はいかなる外国の戦争にも
送られることはない。」と、戦争しないことを公約で確約して当選していた。ずる賢く
狡猾に嘘をつく大統領だったのだ。参戦するにはよほどの口実が必要です。米軍では、
ドイツの潜水艦を挑発して、ドイツ側から攻撃させようといくつもの作戦を行ったが、
ドイツは引っ掛かりません。そのためとうとう、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んだ
日本の国を挑発するという「裏口」からの参戦をたくらんだのだった。「戦争しない」
と言って選挙に勝ったわずか半年後の12月、米国議会には中国国民政府への1億ドル
の借款供与案を可決させた。ルーズベルトは「われわれは民主主義の兵器廠とならなけ
ればならない」との談話を発表し、翌1941年3月に、大統領の権限で他国に武器や
軍需品を売却、譲渡、貸与することができる武器貸与法を成立させた。こうしたことで
これまで違法で隠れてやっていた英国や中国国民政府、ソ連に対しての軍事援助が公け
にできた。しかしそれは国連法やその他の国際条約違反であって、米国特有の大統領の
犯罪でもあった。もともとルーズベルトは米国大統領だったが周りは、ドイツ系ロシア
人で占められていた。側近中の側近である財務長官ヘンリー・モーゲンソーは1940年、
宣戦布告せずに国民政府軍を装って日本を先制爆撃しようと政権内に計画提案までして
いる。「日本の家屋は木と紙でできているのだから焼夷(しょうい)弾で焼き払うのが
一番早い。」と目を輝かせて言った。ここには米国の権利よりは白人優位主義の権利が
渦巻いて人種差別的意見は当然の様に認められた。米国は早くから関東大震災の被害を
分析していて、焼夷弾空襲が日本に最も効果的だと認識していたのだ。米国はフライン
グタイガース部隊を民間団体として戦闘機100機と空軍兵士200人を中国に派遣し
た。退役軍人クレア・シェンノートを指揮官として政府が金をだした。戦闘機には国民
政府軍のマークを付けていましたが、米国は実質的に支那事変に参加していた。中国の
飛行機乗りはいなったからだ。日米戦争は始まる前に、既にルーズベルトは有権者への
公約を破り、国際条約も破っていた。それは日本が有色人種で奴隷と同じ家畜だ。と、
見下げた差別思想があったからだ。これは日本人にはもっともつらいものだった。

211: 名無しさんAA:19/10/23 13:11
 とうとうロシアとトルコは合同パトロールによってクルド人自治区を掃除すると発言
した。そもそもがシリアートルコ境界はクルドの遊牧時代の居留区であったがそれはね
のけてオスマントルコから抜け出したシリアが境界としたまでだ。それを今度は米軍を
抜けた事でロシア軍が和平の為にトルコと共に合同軍で追い出すという。こんなデタラ
メな合意はクルミア半島で従来のウクライナ人を親ロシア派以外は認めないとした政策
が逆にウクライナ政府支持でなければロシアに帰れ。という運動に繋がった事と同じだ
。このクルド居住区言うなれば国を持たないクルド人が国境沿いに住み着いた地区から
クルド人を追い出そうとしている。木村氏は「悲しいけど何十年何百年と、そうやって
生きてきたの。仕方のない民族なの。」と言ったが果たしてそうか。場合によっては、
これはクルド人によるトルコに対するテロである。などと表現されるクルドだが、根底
のトルコ人に対するマイノリティであるクルド人のナショナリズムがあり、すなわち、
トルコ人が約束したクルド人の国の破棄がある。それはオスマン帝国から現代のトルコ
への縮小したオスマン改革の過渡期に始まり今日まで続いている。とされている。つま
り全く木村太郎氏がこれまで国なしで武装闘争してきた。というのは違っていてトルコ
が利用した先発部隊として庇護してきた自治区だったのだ。ところがその時々で 今の
エルドワンの様にバカ大統領がでたり、皇太子が亡命したりしてイラクやイランの領地
として虫がよく分割供与して革命トルコが国内維持を果たしてきたのである。第一次世
界大戦後に 1918年10月30日に結ばれたムドロス休戦協定を受けて講和条約を行った。
1920年 8月10日に連合国とオスマン帝国との間に締結されたセーヴル講和条約である。
フランス・パリ郊外のセーヴルで締結された事からこの名が付く。アンカラに組織され
たトルコ大国民議会(アンカラ政府)は条約に大反対したが、更なる領土の拡大を図る
ギリシャがおこした希土戦争に、勝利した為アンカラ政府は、ソ連と単独条約を結び、
旧連合国と再び交渉の席につきローザンヌ条約を締結、現在のトルコ領が確定させた。
セーヴル条約では、クルド人自治区の設置は謳われていた。しかし、あらたに結ばれた
トルコ領地を決めたローザンヌ条約では無効となり、この時居住の領域を、イラク、ト
ルコ、イラン、シリアの国境で分断され、クルド国が出来なくなってクルド人の問題が
引き起こされることとなったのだ。じつは一度クルド国建国に条約がなされ代表団が、
クルドの地に引き上げて後に再度の協定に呼ばれなかっただけの話で、本来の 休戦の
協定のムドロス休戦協定の講和条約には主要な位置の民族だったはずなのだ。


212: 名無しさんAA:19/10/23 13:11
そもそも第一次世界大戦でコテンパに負けてしまい、イスタンブール近辺のトラキアは
ギリシャに割譲しスミルナ地方までギリシアの行政権下に入ったし。マラシュ・ウルフ
ァ・アンテプなどはフランス勢力圏に、コンヤ以南のアナトリア南西部はイタリア勢力
圏にして、アルメニアの独立を容認したのだ。アルメニアやギリシャが容認されるなら
同時に定められたクルディスタン建国のための地域を制定は有効のはずだ。ボスポラス
海峡とその一帯は国際機関「海峡委員会」(International Hydrographic Bureau : I
HB)の管理下におかれオスマン帝国軍は5万700人以下まで軍備縮小し、帝国の財政す
らも、イギリス・イタリア・フランスが決定権を持つ「オスマン債務管理局」が指導を
した。カピチュレーションの継続や外国人特権の復活も規定されほぼフランス属国状態
であった。この時欧州勢力が頂点を極め、アラビア半島におけるヒジャーズ王国の独立
を容認したし、イラク・パレスチナはイギリスの大英帝国が、レバノン・シリアには、
フランス独立軍の委任統治下におかれ、エジプトはイギリス、モロッコ・チュニジアは
フランスの保護下に入ったのだ。イギリスは中東のアラブ国家独立を約束したフサイン
・マクマホン協定やイギリスがパレスチナにおけるユダヤ人居住地を明記したバルフォ
ア宣言(1917年)などイギリスが相矛盾する三枚舌外交をしたとして批判されたが、そ
れでもシリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする。
シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。
黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲と
する。などとした、サイクス・ピコ条約が基本になっている。(イギリスのマーク・サ
イクスとフランスのジョルジュ=ピコによって案の作成が進められた。その後、ロシア
帝国外相サゾノフも加わってペトログラードで秘密協定が結ばれた。)つまり当時は、
こうした国境は北ー南には領土国境はなく東ー西に領土は伸びていたのであっていまの
様な状態ではなかったのだ。つまり第一次大戦まで自然発生的にクルド国はあったし、
トルコもイラクもシリアも地図上では横に細長くあったのをヨーロッパ諸国が縦に横断
して国家建設を行った。イスラエルなどは特に海岸沿いを縦に楯のように横たわったの
である。これこそが今の中東の混乱やユダヤの石油搬出の壁をつくるもとになったので
ある。


213: 名無しさんAA:19/10/23 13:12
 確かにトルコとクルドは数十年に渡り、第一次大戦後のイスラエル建国と同じ月日に
なる。すなわちもう一つの土地を追われたPLOと同じ歴史の上にいる。ソンム100
年とすれば同じ100年間もこうした戦いをしているのである。米国エスパー国防長官
は極悪人だろう。こんどのクルド人殺害にはアメリカには責任がないと逃げている。が
今までの例えばマティス国防長官では行われなかった。IS囚人の100人の脱走事件
やトルコ軍の侵攻に応じたサウジ軍のクルド人の虐待と殺害の50〜80人は、これま
で守られてきたこの中東の平和が大きく削がれた事を示し、更に削がれる事がわかって
いながら米軍撤退を決めたのである。さらにこの50〜200人を撤退させたのに関わ
らずサウジアラビアにはイランからの攻撃に備えて五千人規模の増派している。つまり
ISの再度の結成をさせないとは言いながら、実はイラン核合意を切ったのみても裏に
ユダヤの戦争したい欲望が見て取れる。つまり今やアメリカもトルコも国際ユダヤ資本
に動かされているのだ。踊らされる米政府がそこにあるのだ。カリペイドはクルド人の
正義によってなされている。8人と1万1千人が死んだのだが、アメリカはクルド自治
の為に戦った訳でないと嘘をつく。事実利害が一致した。というのは何を指すのか。当
然アメリカのIS討伐とクルドの自治は同じ方向ではあったろうが、クルドが米国の下
で共同の戦線を張ったのは、当然その時の米国が自治を約束したからであって匂いもな
かったなどとは全く嘘になる。その為に、イラクからの放逐が終わったとき自治の国民
投票を行ったのだ。トルコが侵攻を決めた事を米国が関知するところではないなど言う
ならISの国家作りも関知する事ではない事になる。これはおかしな理論だ。IS国家
をまるで米国は一人で掃討し連合国軍として動いていないような話である。IS復活の
阻止に国連で討議しアメリカ進撃の許可と国連軍として派兵し、勝手に他の国の同意も
なく撤退する。こんなおかしい国際国家はいない。たしかにアメリカは中枢として軍隊
の派兵をしてはいる。しかし連合国軍や同盟国軍あるいは国連軍との名称で派兵してい
るのである。こんな自作自演のようなアラブの石油施設の爆破でアメリカが数千人規模
の増派などは考えられない。さらに日本もこれとは別に派遣するという。これは一体、
何が行われて行こうとしてるのか不明だ。さらに何十件かのクルド人の拷問殺害に犯人
がアラブ人つまりサウジアラビアというのはきな臭い。少なくともトルコの強気に米国
もロシアもサウジもイスラエルも乗りかかり、完全に米国の対イラン政策で動いていて
さらにクルド人は悲惨な新戦略の夜明けのような状態のようだ。何を考えているのか、
米国は?ともかくトランプとエスパーが現代の不埒な非道者であるのは確かのようだ。
同じ非道者のプーチンやエルドワンの方が解りやすい。しかしこうした戦争称賛者を、
増やし続けて一体国連は機能するのか。戦争犯罪人そのものの責任者だエスパー自覚し
ろ。

214: 名無しさんAA:19/10/23 14:36
  歴史の群像     151

 国民政府軍を装ったわが国への先制爆撃計画は翌1941年、息を吹き返していく。
7月23日、ルーズベルトはJB355と呼ばれる文書に署名した。その文書は150
機の長距離爆撃機を国民政府軍に供与して、東京、横浜、京都、大阪、神戸を焼夷弾で
空襲するという計画書である。真珠湾攻撃の5カ月前にルーズベルトはわが国への攻撃
を命令していた。しかも、この計画を推進したのは大統領補佐官ロークリン・カリーで
後に赤狩りで、ソ連のスパイだったことが明らかになり 原爆資料を持ち出している。
その後も、JB355への署名から2日後の7月25日に米国は国内の日本資産を凍結
させた。経済包囲網が進言されたからだ。28日にわが国が南部仏印進駐に踏み切ると
、米国は8月1日、わが国への石油輸出を全面的に禁止した。英国、中国、オランダを
も抱き込んで封じ込めを強めた。理由は簡単だった。「英国支援にはもう日米戦争する
しかない。」チャーチルとの会談での合意だ。ABCD包囲網は、石油がなければ日本
の国は成り立たない。つまり「死ね」と言っているのと同じである。と一緒に笑ってい
る。第一次世界大戦の後、侵略戦争を放棄しようと「パリ不戦条約」がわが国や米国、
英国、フランスなどの間で結ばれている。米国務長官フランク・ケロッグや、フランス
外相アリスティード・ブリアンなどの協議から始まったことで、ケロッグ・ブリアン条
約などとも呼ばれています。ケロッグは条約批准を審議する議会での問答に、経済封鎖
は戦争行為ではないか。と質問されて「断然戦争行為です」と答弁して米国の認識が、
日本の経済封鎖が既に戦争行為という違反行為を行っている事を明らかにしている。つ
まり米国は当初からわが国に戦争を仕掛けていたし、その認識をもって行っていたのだ
。だが世間ずれしたわが国は、天皇以下米国との対立を平和的に解決しようと交渉して
いた(日米交渉)。石油全面禁輸から1週間後の8日でも、首相の近衛文麿はハワイで
日米首脳会談を駐米大使の野村吉三郎を通じて米国務長官コーデル・ハルに提案してい
る。ルーズベルトはその頃既に、大西洋上の軍艦で英国首相ウィンストン・チャーチル
と謀議を行っていたというのに。である(大西洋会談)。だが驚くことにこうした国際
条約を違反しながら、ここで発表されたのは、有名な大西洋憲章である。イエロージャ
ーナルの米国新聞社は、「領土不拡大」「国民の政体選択権の尊重」「強奪された主権
・自治の返還」が唱えられ称賛の社説があふれる。さんざん植民地を増やしてきた米国
と英国に、自主独立や植民地放棄を迫った日本に敵視し、宣戦布告もせず経済封鎖して
いる国が、恥も外聞もなく主権返還を言われても説得力はありませんが、欧州からの植
民地政策で今だ植民地の国が、それに連なったのは当然の結果ではあった。実際には、
「政体選択権の尊重」はドイツ占領下の東欧のことを言っていて、アジアの有色人種に
適用するつもりは全くなかったようだ。ウィルソンの「民族自決」ヘイの「門戸開放」
などと同様、美辞麗句と行動は一致しない。あくまで白人社会の中の話とする米国でし
た。それは当然で、欧州人の殆どが十字軍遠征時のバチカンの起こした白人優位主義論
の革命の下で洗脳されて第二次世界大戦にまで来ていたからだ。今では少なくなったが
人種差別は、人類の数多い他民族排除による平穏生活の嘘の未来の確約書だった。結束
と同意を簡単に得られ、さらに拘束と軍事指令の手立てとなり、愛国主義の常番だった
為、広範囲にこの信奉者は広がって人々を思想で拘束させた。


215: 名無しさんAA:19/10/23 14:37
  歴史の群像     152

 大西洋会談では、ルーズベルトは、早く参戦を求めるチャーチルに対して3ヶ月は待
ってくれと言っている。「3ヶ月はやつら(日本)を子供のようにあやすつもりだ。」
と述べ、戦争準備のため時間稼ぎをするのでしばらく待ってくれ。という意味を言った
。国内の世論の準備と対日工作で御前会議の模様が筒抜けだったからだ。それでもルー
ズベルトは日本に対しては、「ハワイ会談は無理だが、アラスカのジュノーでなら会談
してもいい。」などと曖昧な回答して日本に気を持たせました。初めから首脳会談を行
うつもりなどなく最後の26日までも、米国はわが国に中国大陸からの撤退などを求め
るとしたハル・ノートと呼ばれる最後通告を突き付けている。このハルノートもいくつ
も書き換えられ日本が飲む文章は次々と削られて提示されている。既に前年の1940
年10月には、米海軍情報部極東課長アーサー・マッカラムは、日本を追い詰めて先制
攻撃させる方法として8項目の覚書を書いている。マッカラム覚書文書である。通称「
マッカラム報告書」はどうしたら参戦できるか検討せよ。との命令で書いている。そこ
には「在米日本資産の凍結」や「オランダとともに日本への石油輸出を禁止する」と、
その後行われた内容が忠実に書いてある。それがほぼ実行に移された形だったのです。
マーシャルプランで有名な米陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルも、1941年11月
15日非公式の記者会見で、「紙でできた日本の都市を燃やす」「市民を爆撃すること
に何の躊躇も感じない」と言い放っている。もともとルーズベルトやその周辺は、極端
な人種差別主義者でロシア系ドイツ人で、黄禍論から日本人を病的に蔑視していた傾向
があった。「日本人は頭蓋骨の発達が白人より2000年遅れているから凶悪なのだ」
と大真面目に信じていた。駐米英公使ロバート・キャンベルはルーズベルトの会談内容
を本国に報告した手紙で、ルーズベルトなどは、本気でアジアで白人との人種交配を進
めることが重要と考えていて、「インド−アジア系、あるいはユーラシア系、さらに言
えばヨーロッパ−インド−アジア系人種なるものを作り出し、それによって立派な文明
と極東『社会』を生み出していく。」と言っていたように書いている。ただし「日本人
は除外し、元の島々に隔離してしだいに衰えさせる」と語ったと書いています。この「
元の島々に隔離してしだいに衰えさせる」という妄想を言葉に出して、わが国に通告し
たのがソ連のスパイだったハル・ノートである。戦後に行われた東京裁判でインド代表
判事のラダビノード・パールは、「もし米国が他国から建国当初の東部13州に戻れ。
と言われたらどう思うでしょうか。」「同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国
やルクセンブルク大公国でさえも合衆国に対して戈(ほこ)を取って起ち上がったであ
ろう。」という歴史家の言葉を引用している。ハル・ノートは国務長官のハルが手渡し
たためそう呼ばれていますが、原案を書いたのは財務次官補ハリー・ホワイトである。
ホワイトはJB355を推進したカリーと同様、ソ連のスパイでした。米国とわが国を
戦わせるため、とても受け入れられない強硬な内容にした。ホワイトがソ連のスパイだ
ったことは戦後になって明らかになり、下院に喚問された3日後に自殺している。当時
には公然と米国共産党がいた時代で、ソ連支配のコミンテルン指導の下「国際旅団」の
人材も資金もアメリカから行われていた。戦場のコック白井もアメリカで入隊している
。そんな時代だった。



216: 名無しさんAA:19/10/23 17:02
 かつて小田幸子さんだったかが台湾模様を描いた記事を見た経験がある。国民党軍の
何とか言う将軍だったが、仮に馬将軍ともいう人が、中国の共産党に追われて台湾に引
いて来た。その中に猛攻の軍曹と大将がいたが、その身なりはぼろ布で汚れてずたずた
だった。と言う彼女は子供ながらにこの兵隊さんたちは大変だったんだと、水道の通る
蛇口に通して水を飲ませてやったと言う。その後起こったのが、軍曹達の蛇口を取って
近くのこの水を守っていた地主を殺し持ち去って行った事件が起こった。その後彼は、
この大将の家に行き献上してそこらの土の壁に蛇口を取り付けてお褒めの言葉をもらっ
た。しかしその後すぐに切り殺されてしまう。当然蛇口には水道管は繋がれておらず、
水が流れ出るはずもなかった。それだけの頭脳や意識しかない兵隊達だったのである。
そういう作文いわゆる観察日記を新聞で読んだ事を覚えている。そして数日後に幾人か
が路傍に首を切られて死体となって放り出されその場所はその大将の家の前だったとさ
れていた。これと似た事件が今中国国内に起こっている。今やハイテク企業の興行を扱
う中国の最新の証券取引所は上海株式上の「科創板」であろう。その英語名称が「スタ
ーマーケット」と聞けば、輝かしい上昇を連想するほどである。だが取引が始まって、
3ヶ月が経過してその実態が明るみにでた。同取引所は投機資本を吸い込みながらも、
ほとんどリターンどころか原資すらを吐き出さないブラックホールとの呼び名が愛称と
なった。「科創板」は上海証券取引所内に新設されたものだが、7月22日の取引当初日
以来ここまで出来高の急減は避けられなかった。取引が細っている背景は、中国の最も
有望な企業は、共産党社会をよく知り決して信じていない事からだ。米国の資本市場に
目を向けて、上海市場で上場しようとは思っていない。そのまま信用を持てば米国市場
にいることが安心だからだ。こうした事が読み取れる。取引初日に、科創板の中に最初
に上場した蘇州華興源創科技は2900万株の取引があった。しかし1週間後の出来高では
1360万株だった。10月18日までには200万株を 割り込んでいった。こうした科創板の中
に上場する他企業も、この出来高の傾向は似たり寄ったりだ。確実に下がっていき発行
時より下がっていく。こうして科創板世界の株式市場のブラックホールの地位を得た。
実は、米ナスダックに匹敵する中国資本市場の創設を目指す試みで作られ、おなじみの
パターンをたどって第4の鬼城経営だろう。と言われる。建設のコンクリートや鉄鋼組
合、そして農場と食品工場、今度は株式取扱市場である。深セン株式市場の「中小企業
版」(SME)や「創業板」(チャイネクスト)と同様に、科創板は、もともと鳴り物
入りで登場し、出来高は膨らみ、中国資本市場の発展に貢献すると期待された。だが今
のところ、いずれも成果を出していない。こうした風船組合と赤字存続はいつはじける
か判らないまま中国経済に浮遊する。これまで中国株式市場は、個人投資家取引が主体
で、長期投資よりも投機的な取引で富籤幻想で投資家を集めてきた。科創板はそれが最
も明確な例だ。例えば「中国鉄路通信信号」の上海上場株と香港上場株の大きなバリュ
エーションギャップに本土の投資家は79%割高な株価を払っている。香港上場H株(一
般株)に対する上海上場A株(本土株の海外向け価格)上乗せ幅は平均約29%。つまり
三割も高値を装って取引されても売れないのだ。そこで8割も高い株を買う中国人投資
家を募ることになる。それなら安い上場でもアメリカに魅力がある。自由だからだ。し
かし奇しくもこの実態は、そのまま中国元と米国ドルレートが全く8割も実態に即さな
い大きな価値を生んでいることを証明している。つまり元の支払は各国銀行の取扱原価
よりも10分1ぐらいの価値しかない数字なのである。騙される世界がここにある。ま
ず自由社会でもない処の株式は、そもそも水道管の水が通らない蛇口と同じなのである




217: 名無しさんAA:19/10/23 19:17
  歴史の群像     157

「48年ぶりに日本でIMF総会が10月9日〜14日まで有楽町の国際フォーラムで
開かれた」と報道が出た。ブレトンウッズ会議で体制が整えられていく背景に、ロスチ
ャイルドなどの巨大ユダヤ資本の平和以上に「ポグラムやユダヤ虐待」の廃止の悲願が
あったと伝えられる。この影響からも安定した為替レート、法理にに基づいた自由貿易
の発展を願ったようだ。そうさせるための機関として、IBRDが設立され、国際通貨
体制を支える機関としてIMFが設立された。戦後日本はIBRDから戦後復興費用と
して1953年から66年の間に合計31件、8億6290万ドルの融資を受け、電力
・鉄鋼などの重工業の復興に充てて、60年代には高速道路や新幹線の建設に充てた。
1990年代には世銀借款を完済した後、現在では、日本は世銀に対しアメリカに次ぐ
出資国となっている。さて、1930年から1940年代には、世界の金が米国に集中
しており、アメリカは圧倒的な経済力を誇っていました。当時はアメリカの豊富な金を
もとに発行されたドルは、金と同様の価値があったのである。そこでIMFは、金だけ
を国際通貨とする金本位制ではなくて、ドルを金とならぶ国際通貨と決定したのです。
これがアメリカが世界を牛耳る発端となった。だがそれは国内に戦争による破壊のある
国ではソ連すら不可能だったといえる。しかし、1971年ニクソン大統領の時には国家の
財政破綻で双子の赤字はみるみる広がっていった。中でもベトナム戦争に向けた兵器の
開発はとんでもない出費を誘った。こうしてニクソンはブレトンウッズ体制が崩壊した
事を宣言した。ニクソンショックである。その背景は、1960年代のベトナム戦争へ
の大量支出・対外的な過度な軍事力増強の結果、大幅な財政赤字を抱え、国際収支悪化
で、大量のドルが海外に流出してしまった。この頃たとえば軍事用ロケットのベアリグ
と日本の一般の掃除機モーターのベアリングを調査していて、そこでは格段に日本の一
般製品の精度が高い上に、輸入品でありながら10分の1という低価格でアメリカ軍部
に恨まれ睨まれたと言う映像やニュースがある。またボールペンのベアリング、東芝の
CPU、日立のコンプレッサー、三菱の油圧モーターなど色んなものが対象になって、
米国が負けていると取沙汰され、日産の自動車工場の進出に労働者見学では、「日本は
何故あんなに奴隷のように働くのか。」と批判されている。兎も角アメリカは、この金
の準備量をはるかに超えた多額のドル紙幣の発行を余儀なくされ、金との交換を保証で
きなくないとニクソンは8月に、金とドルの交換停止を発表し、金1オンス=35ドル
の固定相場が崩れ、変動相場が始った。これによって直ちにスミソニアン体制に移行し
ましたが、スミソニアン体制でも、アメリカやイギリスの国際収支の悪化は止まらなか
った。円はそれまで1ドル=360円だったのが、308円に引き上げられたがしかし
、2年後には崩壊し、変動為替制度に変わって150円に移行した。これによって日本
には農協ツアーが花盛りになり、人は農地を捨て都会の生活者に変化した。完全な戦後
の核家族移行である。このバブル経済は日本人社会をひどく傷つけた。全国の駅舎は無
人となり車社会はスモッグをまき散らし最後には国鉄民営化、公害病の蔓延を生んだ。



218: 名無しさんAA:19/10/23 19:17
  歴史の群像     158

 1945年7月26日にポツダム会議で合意されたポツダム宣言では、日本の無条件降伏
を勧告を宣言するが、これは大西洋会議やカイロ会談の再確認でしかなかった。ここで
1)日本国民を欺瞞して、世界征服の挙に出させた権力及び勢力の永久除去。
2)平和・安全・正義の新秩序ができて、戦争能力破砕を確認する間連合軍が占領する。
3)日本の主権は、本州・北海道・九州・四国と連合国の指定する小島に局限される。
4)大日本帝国の日本軍隊の完全な武装解除。
5)戦争犯罪人の処罰と民主主義的傾向の復活強化の障害の除去。
6)日本経済と産業の維持の保証、再軍備産業の禁止。
以上の大きな6つを唱えている。しかし、これらの目的が達成されて、責任ある政府が
樹立された時点で占領軍は撤退すると述べていて、「我らは日本国政府が、ただちに大
日本帝国の全日本の軍隊の無条件降伏を宣言し、無条件降伏以外の日本国の選択になれ
ば迅速かつ完全なる破壊あるのみ。」と迫っている。こうした会議を通して、大戦以降
の米ソ冷戦の構造を画策して作ろうとしていたのは明らかだった。米国参戦決定後には
、アメリカに対して欧州社会がまな板の鯉状態になっていた事は明らかで、D-day決定
以降は特に英政府のチャーチルをしても、この米国の意見のこれに対抗出来なかった。
アメリカで軍事的優位を求めて国家予算を借用した形で核兵器開発したのは、国の指導
でなく国の許可がおりた軍産複合体であったことは、大事な歴史の事実でもある。後に
マンハッタン計画と呼ばれたチューブ・アロイズ計画は、20億ドル以上の支出が米国
一国で議会承認が降りるはずもなく極秘に政府・軍・科学者をまとめたユダヤ金融で、
イギリス政府をして米国砂漠のネバダで行われていた秘密開発だったのである。つまり
米政府は目をつむって黙っていただけで開発されたのである。もともとは、第一次世界
大戦での大きな化学技術で、TNT火薬より大きく爆発するHBXが開発された事で、
より少量で大きな炸裂弾の研究からだ。1942年に作られたトーペックス(トルペックス
)はドイツかからイギリスに伝わり、その改良品として1940年代にアメリカで開発され
た。第二次世界大戦では欧米の魚雷や爆雷に搭載されて使用されたテイペックス火薬は
今やHBX爆薬からPBX爆薬に置き換えられている。アメリカ軍事規格 (MIL規格)
では、この種の爆裂は、魚雷、爆雷、機雷の炸薬として特に水中で威力を発揮するよう
に爆速よりも猛度が大きくなるように作られ、第二次世界大戦では盛んに用いられた。
日本でまだ高価でTNTしか作っていなかったが、ヘス猛度試験ではTNTの160%の値
が出ていて空中炸裂ではゼロ戦が全滅するほどの威力だった。これは、水中においては
爆発そのものの衝撃波によって破壊する従来のものより、バブルパルス(水中爆発生成
衝撃波)によって圧壊させる方が艦船などに対する破壊効果が高くなる効果を、弾丸に
置き換え小型化して接近感知器をも埋め込めた技術からだ。今やPBXのTNT火薬の
2倍以上のプラスチック爆弾がRDXやHMXを各種のバインダーでコーティングしミサイル
や爆弾などの爆薬花形となっている。こうした研究は1940年以上前からあったが、
1942年の成功で爆発試験を米国内で行い、原子間研究まで進み、英米の間で核兵器
開発の可能性を、高レベル秘密としてチューブ・アロイズ計画が出来上がった。最初か
ら核兵器開発プロジェクトとして発足し、その後アメリカのマンハッタン計画に引き継
がれた経緯をもつのである。


219: 名無しさんAA:19/10/23 19:19
  歴史の群像     159

 チューブ・アロイズ(Tube Alloys)は、1943年8月19日の秘密会談で、チャーチル卿と
フランクリン・ルーズベルトの間で「ケベック協定」が結ばれできた。イギリスは全て
の資料や資源をアメリカに提供して、アメリカからはその見返りに大統領へのアメリカ
の現物の原爆研究成果の報告のコピーを提供する。という約束で、イギリスの原爆研究
は、いつ中断されたりドイツの進駐で盗まれ持っていかれるかが不安だったからだ。残
りの戦争期間においては、米国のマンハッタン計画の資金に合流することになったが、
こうした枠組みも軍事予算からの支出だったが民間が行った。チューブ・アロイズは、
高レベルの秘密として管理していた際に使用された名前で多くは核に関しての問題提起
のものだった。こうしてチューブ・アロイズは最初の核兵器開発プロジェクトとなり、
その後アメリカのマンハッタン計画に引き継がれた。「ケベック協定」は、イギリスと
アメリカは、「チューブ・アロイ(原爆)を早期に実現するための計画」のためにリソー
ス共有する。ことを主眼として同意している。指導者たちは以下の内容に同意した。又
@、我々はこの兵器をお互いに対して決して使用しない。A、我々はこの兵器を、第三
の勢力に対して、お互いの同意なく使用しない。B、我々はチューブ・アロイズに関す
る情報を第三者に対して、お互いの同意なく公表することはない。と決めて双方に研究
があったことを示している。アメリカのHBX爆薬は、イギリスで開発されたトーペッ
クスのアメリカ版改良品であり、組成や使用目的も同じで、ほとんど同じ物であるとも
言えるが、実はドイツのスパイがイギリスに持ち込んだものだった。実はこのトーペッ
クス爆薬はヒットラーの前の第一次世界大戦時に終了際に開発され、次の第二次世界大
戦までの間に密かに森の中で研究と実験が繰り返されていた。魚雷試験と飛行機投下用
の爆弾として開発されたものだった。比較的高価であったが歴史的には、ドイツの進軍
でフランス要塞破壊やベルギー進軍に使われている。本来TNT火薬に対処していたこ
うした過去のコンクリート要塞もトーペックス爆薬の密閉破砕には強く効果をあげた。
シュリーフェン・プランは、19世紀後期の1905年に立案され、第一次世界大戦の始めに
ドイツ軍によって適用された西部戦線におけるドイツ軍の対フランス侵攻作戦計画であ
るがこれまで成功した試しのないこのプランをヒットラーが再度採用したのはそうした
科学技術の発展からだった。第二次世界大戦においても、シュリーフェン・プラン採用
はより強固になったマジノ線の建設によってフランス領内への直接侵攻が困難と考えら
れた。南部からルクセンブルクにかけてのアルデンヌ森林地帯を抜け、戦車や重砲など
の重装備の迅速大量な通過は不可能と考えられていた。森林地帯を抜ければ連合軍に対
して完全に奇襲となるがそこには巨大なフランスの要塞があったからだ。しかし1939年
のドイツ軍によるポーランド侵攻ですでにソ連の要塞がこの爆薬で破壊され続くソビエ
ト連邦によるポーランド侵攻に陥った程試験実証済みだった。こうして英仏からドイツ
への宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした戦いになった。第二次世界大戦開始の
1941年 6月22日に開始されたドイツ国によるソビエト連邦奇襲攻撃バルバロッサ作戦を
成功させたのは、正に隠れて開発したこうした徹甲弾や飛行機あるいは戦車などの機動
軍団の格段の進歩からだった。


220: 名無しさんAA:19/10/23 20:13
 歴史の群像     160

 第二次世界大戦は、第一次世界大戦と比較すると、ともに総力戦であったが大きな相
違もある。それは機械化広範囲化した非人道行為に各種の技術が進展していた事である
。第一次世界大戦は塹壕戦とケーブル切断を主体に展開され、病人がでたが、第二次世
界大戦では無線通信を用いた機動戦の結果、戦線が拡大し、多くの死者をだした。また
、無線は電信と違い敵に傍受されたため、暗号による作戦伝達や、その解読による戦果
がもたらされ、時間的制約で大きな勝敗も生まれた。使用された兵器も、航空機や戦車
などの著しい発達に加え、レーダーやジェット機、長距離ロケットなどの新兵器、さら
に原子爆弾つまり核兵器という大量殺戮兵器まで登場した。第一次に比べ第二次世界大
戦戦争は、これまでにない完全な総力戦となり、主要な参戦国では戦争遂行のため人的
・物的資源の全面的動員、投入が行われた。又、世界の61か国が参戦し、総計で約1
億一千万人が軍隊に動員されたが、主要参戦国の戦費は総額2兆ドルを超える膨大な額
に達していると思われる。各国の総力戦も第一次世界大戦より徹底していて、国民は、
ただ単に戦争に反対しないという態度では許されず、戦争遂行に献身的な協力を要求さ
れた時代に変わっていた。国の浮沈を賭けた戦いは捕虜を奴隷にされる危機感があり、
非協力者への国家による制裁は厳しかった。この戦争では戦場と銃後の区別が取り払わ
れ国民皆兵士の戦略が持たれた。逆にそうしたことの無かった国は戦後にも独立をかけ
て欧米列強とのゲリラ戦が尾を引いて行われた。人類史上初の原子爆弾投下を含めて、
民間人が住む都市への大規模な爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、多く
の民間人や捕虜が命を失ったとされる。欧州の白人諸国家の統治下に植民地であった、
アジア、アフリカの南アメリカなど国々では民族自決そして独立の機運が高まって多く
の国々が独立し、結果として欧州列強の地位は著しく低下した。その中で日本は、8月
6日と9日に広島、長崎に原爆が投下され、8月10日の御前会議では「国体護持」を
条件にポツダム宣言受諾を決定した。「国体護持」とは、天皇制を維持することとはな
っているが、天皇自体は死んでもよいとの意思を示されGHQ司令長官のマッカサーに
その意志を伝え当時皇太子であった平成天皇を引き合わせた。とされる。14日に最終
決定を陛下がされ、「国体護持だけを条件」にポツダム宣言受諾を決定し即日玉音放送
を2つ録音し、15日に無事放送局に運ばれてレコードの玉音放送され終戦となった。
こうして第二次世界大戦戦争終了時に、当然イギリス政府はアメリカが技術を共有する
事ができると信じていた。原爆技術は、イギリスも一緒に発明を行なったものだが、し
かし、1946年に新しく大統領になったトルーマン政権は簡単に却下した。英国はもはや
米国の原子力研究にタッチすることが許されないと明確になる中で、チャーチルは原爆
の必要を国民に説いた、「我々は原爆を持たねばならない。原爆の下で、血に染まった
ユニオンジャックを持たねばならない。」と。そして、その計画は「高性能爆薬研究」
(HER)のコードネームで、1947年5月に、ペニー博士が任命された。


221: 名無しさんAA:19/10/23 20:13

  歴史の群像     161

 しかし事は単純ではなかった。ソ連では、既に第二次世界大戦中に、既に秘密警察の
、スパイ活動で資料を取り付け、原爆の開発が始まっていたのだ。ソ連は米英の核開発
の状況を正確に把握し、1943年、スターリングラードの戦況が好転すると、スターリン
はすぐに核開発にゴーサインを出していて、クルチャトフが責任者となって突貫工事で
原爆の製造を急いでいる。この施設や核物質の採鉱には、数十万の囚人が動員され、中
には満蒙開拓団だった日本人をも収容所からも連れて行って行っている。こうして1949
年8月、セミパラチンスクで長崎型と同じプルトニウム爆弾の実験に成功を果たした。
この事で北朝鮮は成立したばかりの朝鮮民族の大韓民国を主権を巡る紛争として1950年
6月25日にソ連からの黙認をもらい、武器調達が整えて、中国の後押しをもらう。事実
上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けた南北戦争が起こった。
これには当然マッカサーは原爆使用をトルーマンに働きかけた。が、世界核戦争を危惧
し、逆に解任されてしまっている。アメリカに核が落ちることを恐れたのである。しか
し、この事実は、イギリスに資料を手渡すきっかけになった。1952年10月にハリケーン
作戦のコードネームの元、最初のイギリスの核兵器がオーストラリアの西海岸のモンテ
ベロ島で爆発に成功した。続いてフランスが砂漠で成功する。そして更に米国が太平洋
のマーシャル諸島のビキニ環礁で自国の核が優れている。との見せしめに核実験を繰り
返した。こうして「第五福竜丸事件」が起こる。この為、多数の日本の漁船が被曝(ひ
ばく)した。五輪景気で日本政府が抑える中通信長の久保山愛吉さんが亡くなった事で
一躍陽の目をさらし、一般に広報された。第五福竜丸という船が、1954年3月1日
の「ブラボー」水爆の実験で被曝した事件である。しかし「第五福竜丸事件」はビキニ
事件として五千人規模の被ばく者が伝えられた。アメリカの核兵器実験は1946年で
広島・長崎に原爆が落とされてわずか10カ月後から始められ、日本に送られた食糧は
日本の食糧事情に多く寄与したが、この時遠く太平洋にあるマグロ漁場や捕鯨船の行き
交う海のど真ん中で多く日本の方が無知のまま被爆し亡くなっていたのである。その後
南洋の島民や原住民なども被曝している現実が報道されはじめ、ビキニ事件として数万
人規模の被ばく者がいたことが判明した。こうした中で、米国裁判所にも直訴しない中
、おおくの日本の漁師が無知のまま被爆し静かに亡くなっていたのである。戦争が核を
産み、核が戦争を終わらせた。とされるが、そうではない現実がここに明らかに証明さ
れている。つまりトルーマンはこの核に恐怖があったかも知れないが、ユダヤ資本家は
巨大権力を欲していて、金融はおろか全人類の奴隷化した社会での強力な武器を常に欲
していたのである。ドイツの世界大戦前不況は、アメリカに資金投下するためだった。
それはヒットラーらの激怒を誘った。当初収容所はユダヤ人移住の為の一時施設だった
が、その後絶滅収容所に変わり果てた。ユダヤ人がユダヤ人蹴落としにかかったからだ
。当初チャーチルは世界に向けてユダヤ人の引き取りや居住する場所を国連で呼びかけ
ている。これにドイツも日本もカナダもブラジル、ペルーも秘密裡に答えている。ドイ
ツは北アフリカなどに、日本は中国大陸に、カナダやブラジルは森林地帯に開拓民とし
て呼びかけたのである。しかし彼らは贅沢にも首をふり各自にアメリカに移住した。彼
らには資本や財力があったのだ。それにより労働者がいなくなるのを避けたかったソ連
と財力をなくしたドイツには、水晶の夜のような夜盗や強盗が頻発したのだった。

222: 名無しさんAA:19/10/23 20:15
  歴史の群像     162

 広島、長崎に原爆が投下された事は、日本の戦後教育では、「世界大戦を早く終わら
せるために原爆投下はやむをえなかった。」と教育されてきた。殆どの人は今もそう思
い込んでいるし、天皇もそのような発言をされている。ところが、先ごろ発表されたと
されるアメリカ公文書館の戦史公開資料(米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン
』)によると、1943年5月5日原爆投下目標地点を決定した政府の暫定委員会は、
原爆が未完成にも関らず投下目標を「日本」と決めていた。とされている。おかしな話
ではある。この1943年5月の戦局は、ちょうど日本のガダルカナル決戦で負けてし
まい山本五十六長官ブーゲンビルで戦死したことになっている時期である。ガダルカナ
ル以降大東亜圏が連合軍の攻撃で縮小に向かう曲がり角の頃で、大本営はアメリカに一
撃出来た時点で停戦の申し入れを行い、連合国との戦いをより小さい傷口で停戦する。
とした約束に、もっと戦勝した時期に行う。と各国に停戦の介入を働きかけても拒否さ
れ続けた時期だ。この年には1月2日にニューギニアのブナで日本軍は全滅し、2月に、
ガダルカナル島から日本軍は撤退(以後4日および7日に実施)した。もともと日露戦争
以降には、アメリカは対日戦略を明確化し、1906年に対日戦争計画「オレンジ計画」を
作成している。この太平洋決戦は、軍部が中心となって作成し1941年11月15日に大本営
政府連絡会議が決定したので、およそ40年も前からアメリカは準備していたのである
。これに対して、日本の陸海軍は石油禁輸についてまったく想定しておらず、オランダ
領東インドとの日蘭会商も輸入再開の見通しが立たなくなって、初めて9月3日、日本は
大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議されたぐらいだ。9月6日御前会議
で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、
直ちに対米(英蘭)開戦を決意す。」と慌ただしく決定された。つまり強気の軍部も、
日米開戦は考えてはいたものの全く想定し用意はしていなかったのだ。11月大本営政府
連絡会議では「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完(まつと)うし大東亜新秩序
を建設するため、此の際、英米蘭戦を決意し、……武力発動の時期を12月初頭と定め、
陸海軍は作戦準備を完整す。」という内容の帝国国策遂行要領を改めて決定するほどに
いい加減な戦争だった。その後11月5日御前会議で承認されて以降、陸海軍は12月8日を
開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化させた。のだがこのギャップはそのまま
戦争の意気込みの違いにも及んだ。そもそも、この時決定された文書の、「太平洋戦争
全般にわたる基本方針となる日本の戦争計画書「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案
」では、「東南アジア南太平洋における米英蘭の根拠を覆滅し、戦略上優位の態勢を確
立すると共に、重要資源地域ならびに主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整
う。」を目的とし、戦争の終わらせ方については「独伊と提携して先ず英の屈服を図り
、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む」としていた。つまり、最初から終戦に「努力」
するのであって終わらせる具体的な方法ないし、仲介国は全くいなかったのである。こ
の米国と日本の平和意識や戦争意識の差は、実は今の中国と日本の差であり米国と英国
の差である。日英には王位や皇位といった頂点が存在しある一定の方向性は決められて
急激な国の方針変更はない。ところが中国や米国など急進派や改革派と対抗する穏健派
や保守派がいるところは、国が進む道が、政治勢力によって簡単に覆され、親日政権で
あっても、わざわざ抗日政権を狙い、裏で画策されていてもまったく見えなかったので
ある。

223: 名無しさんAA:19/10/23 21:19
  歴史の群像     163

 本格的抗日の準備は、1938年の「新オレンジ作戦」を策定した時で、それでも策定に
5年、発表後実行に5年、つまり10年も前に開戦予定し準備しているのだ。新オレン
ジ作戦では、開戦した場合日本はまずフィリピン攻撃を行うと予想し、対してアメリカ
海軍主力艦隊は太平洋を西進して同時に対日海上封鎖を実施する。と決めていた。日本
経済を枯渇させ、太平洋制海権を掌握した上での日本海軍と艦隊決戦する。という戦略
が構想されていたのだ。また1941年3月のレインボー5号作戦では欧州戦線の最優先、
太平洋戦線防御や日本の経済的弱体化の執行、太平洋海域の海上交通線の封鎖・破壊、
日本の南洋諸島占領が主軸となった時の通商破壊作戦を想定しその通りに行っている。
 日本側は、1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことにより、欧州では第二
次世界大戦が勃発したが、ドイツの快進撃で1940年(昭和15年)春にはフランスが短期間
で休戦に追い込まれ、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、日本陸軍はドイツ趨勢
に見えた報告をしている。国連脱退など兎角中国大陸進出の批判から、貿易縮小に日本
政府は関係改善を目指してワシントンD.C.で、アメリカと何度となく交渉を続けたが
米国の姿勢は既に決まっていた。合言葉の「ジャップを叩け。」は移民政策でも起こっ
ていたのである。仕方なしに石油資源を求め、日本軍は7月2日の御前会議においての「
情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱(対ソ戦準備・南部仏印進駐)を決定し、7月7日からは
満州での関東軍特種演習に向けて、徴兵令による内地から兵員動員が開始される。この
方向性にほそく微笑んだイギリスとアメリカは事前に南部仏印進駐反対の意志を強く表
明しており、両政府内の対日感情は一挙に悪化した形が整った。8月1日には「すべての
侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定した。日本に対しても石油輸出の全面禁止とい
う厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調したのである。こうし
た制裁は、日本が国連離脱決定で反論がない中決まっていくので日本は孤立していく。
1940年の日米通商航海条約の破棄から始まり、最初は航空用燃料の停止、北部仏印進駐
に伴う鉄類の停止、そして陸軍と外務省による三国同盟締結にともない、必要物資の3
割を占めていたオランダ領東インド(蘭印)との貿易交渉決裂、どんどんと国内物資の
困窮が強まっていって大本営の危機感はどうしようもなく高かったが政府の強気は緩む
事はなかった。日本での大本営政府連絡会議の帝国国策遂行要領、9月の御前会議での
「外交交渉決裂の10月上旬頃までに目途なき場合の対米(英蘭)開戦を決意」の決定
は、11月の大本営政府連絡会議で確認され、「危局打開・自存自衛を完遂・大東亜の新
秩序建設、英米蘭戦の決意」というのは既に米国は知っていた。従って、アメリカ側が
ハル・ノート受諾に関する問い合わせをすることもなく、日本は必死にその後にも交渉
継続を行う意志を見せて外交活動をしている。しかし努力の介もなく、12月御前会議前
に日米交渉決裂の結果に、東條内閣は戦争突入を奉上する。こうして12月1日の御前
会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。 つまり、ドイツが快進撃を行
う中でも、ユダヤ資本は冷ややかに日本の行先を、未来を決めていて事実そうなった。
のである。



224: 名無しさんAA:19/10/23 21:19
  歴史の群像     164

1941年11月15日に軍部が中心となって作成した日本の戦争計画書が大本営政府連絡会議
で決定した。太平洋戦争の基本方針となった「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」
で、「東南アジア南太平洋における米英蘭の根拠を覆滅し、戦略上優位の態勢を、確立
すると共に、重要資源地域ならびに主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う
。」とし、戦争の終わらせ方については「独伊と提携して先ず英の屈服を図り、米国の
継戦意志を喪失せしむるに勉む。」として、既に12月1日の御前会議の意向は伝わり
日本では多くの海外特派員を招いた説明が行われ、東条英機以下多くの軍人が米国批判
を語っている。しかし、当時の新聞は、例えば「対日包囲陣、恐るに足らず」と勇まし
く書いていたり、「架空的原則を強ひ米新秩序を阻害」として、東郷外相の批判が2日
の新聞にに発表したりしている。そこにはこう書かれている。「日満華三国鼎盟一周年
の3日は、東条首相 張満洲国国務総理 汪主席の、交流迎送が行われ、又 東郷外相
招待の祝賀晩餐会が午後六時から帝国ホテルで盛大に催された。満・華を始め、独・伊
・スペイン、ルーマニア、ハンガリー、デンマーク等の各盟邦代表者、政府側から斎藤
蔵相、岩村法相、鈴木企画院総裁、星野書記官長原 相 杉山参謀長、財界より、結城
日銀総裁、大久保正金頭取、山下薫三郎氏及び阿部、西尾・及川各大将等各方面の関係
者 約百四十名出席、喜びと感慨の憚(うち)に会食を終わりデザートコースに入って
東郷外相は、われるような拍手に迎えられて起ち、祝賀挨拶を行い力強く 東亜共栄圏
の完遂を強調したが、東亜新秩序建設を阻害せんとする米国の動向については次の如く
述べた。「世界は動乱に直面しているが、大東亜においては飽くまでも日華基本条約、
皿に 日満華三国共同宣言の精神に基づいて 東亜新秩序の建設に邁進すべきは、言を
埃たない。現に対米交渉においても、帝国政府は一貫してこの趣旨を堅持している。然
し 米国はともすれば東亜現実の事態を俯瞰せざるのみならず 世界の現状に副わざる
申寡的な(そわざるちゅしょうてきな)諸原則を強いて東亜の諸国に適用し、新秩序建
設を阻害せんとするの傾向あるが如きは甚だ遺憾とするところである。東亜の新秩序を
確立し、以て世界恒久の平和樹立に貢献せんとの大使命を完遂するに当たっては 従前
に倍する難問題碍に逢着すべきことは 十二分に覚悟して置かねばならぬ。然しながら
私は日満華三国が鐵のごとき意志を以てその靭帯を強化し、協心体力以てこの大目的に
邁進する時は必ずやこれ等の難題を突破し得るべく、而して東亜緒民族の前途は極めて
洋々たるものであることを信じて疑わないのである。」敵怯(てきひるむ)陣を刺する
嵌石(しせき)の一語である。外相の挨拶に次ぎ挙満州国徐中国両大使の挨拶があり更
に席上東条首相から張国務総理及び中国外交部長あての祝電を披露し同八時三十分意義
深い晩餐を終わった。」と書いている。つまり、日本では1日に「日米開戦やむなし」
の御前会議を開いていて、それでも正義に基づいて日本は「東亜新秩序建設」を捨てな
いとの決意を散々声明し各国に平和を唱えていたのである。ここには悲痛な日本の叫び
が見える。外相の「唖然(あぜん)」とする。つまり茫然自失した日本政府を如実に、
物語るものだ。かつても四国干渉で朝鮮半島を手放しその後ロシアと戦って数千万の死
傷者を出して痛い日露戦争を起こしたのだ。同じ干渉に乗らない。植民地主義を捨てよ
といい、ここに「ジャップは生意気だ」という戦争好きの極悪人のルーズベルトがいた
のである。彼の心にはそうした恒久平和の悲願は届かなかった。戦後の教育ではあまり
にも欧米文化を美化しすぎた教育をしている。その為に、欧米流の秩序なき紛争社会の
今や屑溜め状態の国際社会が出来て物事が動かない。海洋自然のみならず、地球全体に
蔓延して、共産国や独裁国・覇権国をして地球温暖化など引き起こして止まない。


225: 名無しさんAA:19/10/24 04:03
  歴史の群像     165

 12月3日の大陸新聞には。「対日勧告の正体」というフレーズの社説が載っている
。「日米会談が 最後の段階に入ると共に、英米を中心とする妄想国家群は南太平洋に
おける対日制裁に狂奔して 対日一致戦も辞せずとの政治的ジェスチャーを試みる。と
共に、彼等の勢力下にある言論唾激を一斉に動員して、枢軸離脱と東亜共栄圏の建設を
断念することが終極において日本に有利である。との宣伝を展開しつつある。上海もこ
の点においては決して例外でなく、彼等は一方において、マリン(海兵隊)の撤退を始
めとして 英米の商用居留民の引き上げを断行することによって、対日戦闘の完成を、
設構する一面、日本に向かって現行政策破綻の不利と危険を強調し、繁栄妥協の勝利で
あることを主張する。最近のディリーニュース、チャイナプレス、イブニングポスト紙
等の論談ウッドヘッド氏の草稿等みな然りで、それらは、警告・説得・善誘・時に脅迫
の形式ををいとわず載っているのを目撃するが、これらはいづれも高慢なのである。二
日のディリーニュースが掲げた「最後の機会」なる壮説は、こうした癇癪の典型的なも
のである。「日本の指導者は日本が十字路に立っているというが、誰が致命的な処へ導
いたのか、それは軍閥である。」というアレキサンダー英海相の演説を冒頭に引用し、
満州事変以来の十年間、軍部が日本の政治を暴断したことが日本を危険なる戦争の深淵
へと駆り立てたと評し「これこそ太平洋の公海域を支配する悲劇的真実である。」と断
定する。ディリーニュースは、日本の内部に 軍部と民衆の対立するかの如き 外人に
共通な憶測を捲くことにおいて最も初歩的な過ちを犯している。現在の日本においては
軍人と文官の間にに何の相克もなく、政府と民衆の間に如何なる対立もそんざいしない
ことは 少し現実を観察できるものには明白な筈である。日本が現在の瞬間に於けるほ
ど強固な 軍国一致の態勢を採り得たことは過去の歴史を通じて 見得ないところで、
それは過日の戦時議会においても、最も明白に証明せられたのであった。またディリー
ニュースは、日本の軍部が 戦争の危険をを弄ぶかの如く言っているが、日米会談が、
最後の段階に至ってもなお 和平のへの希望を棄てず凡ゆる努力を傾蹂しつつあるもの
は他ならぬ軍部内閣ではなかったか。またディリーニュースは、また勝者の側に興する
ことの得策を、日本に向かって勧告する。但しそのためには枢軸の離脱と、東亜共栄圏
の放棄が条件なのである。そして勝者とは同紙に従えば 米英側に外ならないのである
。同紙はロストフの奪回、リビアの戦況等を引用して、終局勝利は我等にありと主張す
るのであるが、これは欺瞞と論理の飛躍以外の何ものでもない。彼等の推論に従えば、
近き将来モスクワが陥落し、北阿戦線(北アフリカ戦)が逆転した際 勝利の希望は、
再び独伊側に移らねばなるまい。独軍が英ソに向かって決定的な打撃を与え得ない事は
事実としても、それ以上に英ソが独軍に対して圧倒的な勝利を博した事を聞かないので
ある。いずれにしても、日本は欧州戦の一進一退によって自己の態度を決定するほど 
懐柔でも非自主的でもない。日本が独伊との提携を強化するのは 新秩序建設の理想に
おいての相通じるものを持ち、この理想が終極おいて達成さるべきを信じるためである
。ディリーニュースにしたがって、日本が枢軸離脱と東亜共栄圏を放棄すれば勿論平和
は招来されるであろう。然し、かかる平和は、日本の対英米屈服と極東における英米の
帝国主義的支配の容認に外ならないのではないか。日本はかゝる平和を受け容れるほど
寛容ではないのである。(つまりここでも、負けるだろうと世間や世論は想いそれでも
日米決戦に挑むことに躊躇せず臆せず正義を貫く事が潔く大事だと明言しているのであ
る。)


226: 名無しさんAA:19/10/24 04:04
  歴史の群像     166

 中国メディアの網易は4日、日本はこれまで「3回にわたって自らの力で欧米に自ら
を認めさせてきた」と論じる記事を掲載した。一国の「国力」は、時代によって変わる
ものだ。中国は古代から世界をリードする国であったのだが、清朝末期から近代にかけ
ては一時的に国力が低下した。現在の中国は再び国力が高まっており、かつての地位を
取り戻そうとする勢いだ。一方、明治維新までの日本は、世界に対する影響は小さい国
だったが、その後の急激な成長によって世界に大きな影響力を与える国になったと言え
るだろう。記事では、19世紀末から20世紀初頭にかけては、欧州こそが世界の中心
だったとし、列強と呼ばれた国のほとんどが欧州に存在したと紹介する。米国も欧州の
列強に続いて勃興したが、唯一の例外国がアジアに存在した日本であった。と伝える。
日本は明治維新を成功させると国力を急激に高めていったと論じ、続けて日本は日清戦
争に勝利したものの、欧州の列強が日本を認めることはなかった。と指摘する。一方、
四国干渉で自主独立を尊重し返還した朝鮮半島でロシア要塞が着々と進められ戦争に至
った。この1904年の日露戦争に勝利したことで、欧州の列強は日本を認めるように
なったと指摘する。なぜなら、当時のロシアは世界第4位の国力を持つとされていた国
であったためだ。と伝え、この勝利が「日本が自らの力で欧米に自らを認めさせてきた
」1回目の例であると伝えた。その後さらに、2回目の例は第2次世界大戦であった。
として、日本は最終的に敗戦したものの、一時期には東南アジア諸国を植民地化してい
た欧州の国々に対して、連戦連勝を収め、東南アジアから追い出していると指摘。これ
が欧州に日本を認めさせることになったと論じている。また、記事では、3回目の例は
、戦後の急激な復興と高度経済成長だったと指摘。日本は1945年の敗戦からわずか
23年で英国やフランスなどの経済を一気に追い抜いていき、世界第2位の経済大国に
なったと指摘し、一時は米国の国内総生産(GDP)の71%の水準にまで迫った。と
強調する。米国の経済規模に対して、ここまで迫ったのは第2次世界大戦後では日本だ
けだと伝え、現在の中国もここまで迫ることはできていない。ということを指摘した。
記事は、「前世紀の日本は欧米が恐怖を抱く存在であった。」とする一方、もし、日本
が存在しなかったら「アジアは干からびた魚のように、発展から取り残された地域であ
り続けたかもしれない。」と伝えている。確かに今でも銃規制や人種差別と移民問題を
克服できずに国内に様々な葛藤を見せる中で、果たして東南アジアや極東には植民地の
ままで、平和繁栄が訪れただろうか。と思う。アメリカに勝った唯一の国ベトナムでさ
えも、フランスの植民地であった時代の屈辱と辛酸を舐めて来ている。ホーチミンは、
日本・フランス・アメリカと三回もの戦争を強いられ、日本が負けた事でより大きな戦
いに挑む事になった。ここに朝鮮との違いが如実にある。もし日本が朝鮮を気にせずに
ベトナムとの併合であったら、恐らくは大きく違っていたろう。李承晩などという両班
の家系でありながら皇位を認めない。という支離滅裂な出来事はなかったろうからだ。
さらに良く朝鮮戦争で復興できたと勘違いする人がいる。実は違っていて朝鮮戦争での
弾薬その他は米国から送ってきたのでそう関係はない。しかし国内にいた在日は朝鮮に
渡り、逆に朝鮮に渡っていた人が帰ってきた。更に隠れた帰還日本兵が戦いに出て食糧
もベトナム・タイなどから輸入出来るようになったからだ。

227: 名無しさんAA:19/10/24 04:06
  歴史の群像     167

 この頃アメリカにあったのが、軍事的優位という考え方だ。西部劇で銃による決闘劇
があるが、フランスやイギリスではあっても、アメリカにそうした精神文化は流行って
いない。こうした銃砲文化で建国していくのに惨たらしい惨殺や集団自殺など数知れな
い攻防が国内にあったのは、誰もが知るところだ。昔は米国は「人種の坩堝の多文化の
集合実験国家」などと言われていた。ところが、近年歴史を紐解けば、どこの国も同じ
で、移民の群れはどこかに何かがおきれば直ぐに問題がおこって内紛に至るものだった
。そして食料やインフラあるいは生活インフラが追い付かず、奪い合いや殺し合いが生
じて、そうして秩序が無くなった状態に暴動・紛争・戦争が起こっている。多民族国家
は、欧州も日本もほとんどの国の話であり、隣の韓国・中国も同じだ。韓国においても
ハングルを話すから韓国人だといい、北朝鮮に同族だ同じ朝鮮人だと呼びかけているの
は大きく間違っている。朝鮮半島内にも10〜20種の民族がいて、それぞれ別の言語
を話していた。日韓併合は明治時代から昭和まで、次々に交渉と自治を重ねていって、
日本の民部省が文部省の呼びかけで教育改革して、やっと出来たのが日本のカタカナや
ひらがなに似たハングル文字で、これらをわざわざ日本人が朝鮮民族の日本語化してい
た教師達に教えて、学校の日本語化を進めて来た経緯がある。ところが韓国貴族両班の
暴動が激しく、ハングルカースト制の名残に宮廷すらも負けている状態だったと言うの
が歴史の事実で、中国語をあるいはロシア語をベースの言語とした地区ではハングル語
教育に大きく反対していた。というのが実情だった。日本の敗戦後には戦時中のような
秩序がなくなり役所に大きな穴ができ、そこに李承晩の暗殺部隊が詰めていったのだ。
このことが中国では大胆にも人民解放軍として、公に市民裁判し公開処刑を有識者連中
に行った。これが粛清であり紅軍だったのである。いづれも教育のなかった国に日本人
が国家建設を掲げ、国家インフラも社会インフラも教育インフラも行った為の改革開放
であったのだ。そうしたことは今も起こっている。例えばイエメンという国がある。こ
の国は石油の取れる前は、かなりに海洋国家として何もなく平和な砂漠国家だったとい
われている。中東のアラビア半島南端部に位置する共和制国家で、かつての海洋貿易の
名残にインド洋上の島々の一部も領有している。かつて古代ローマ人は「幸福のアラビ
ア」と呼んでいたほどサウジアラビア以上に交易の拠点として豊かな国だった。英国が
アデン湾を占拠するに皮切りに南イエメンを占領し、南イエメンはイギリスの植民地と
なり、その後オスマン帝国の影響下にあったのが1918年第一次世界大戦敗北でイエメン
王国が独立した。しかし北側は1934年サウジ侵攻で俗称アラブ戦争が起こる。このサウ
ジ・イエメン戦争で敗戦しがサウジアラビアに併合され、1962年軍事クーデターにより
イエメン王国が崩壊。イエメン・アラブ共和国が成立し北イエメン内戦が勃発した。こ
うして内戦のおこる北に対して、南はアデン湾保護を目的に南アラビア保護領に改称す
る。隣接するオマーンのドファール地方で、南イエメンが支援するドファールの反乱が
サウジの介入で激化すると、南と北の危機感が募った。1967年英領の南アラビア保護領
(南イエメン)が、南イエメン人民共和国として独立しイエメン人民民主共和国へ改称
した。1989年11月30日アデン合意により南北統一への途が開かれるが、これが内紛の元
になった。イエメン・アラブ共和国(北イエメン)の呼びかけで合併したは良かったが
、イエメン共和国が成立し初代の大統領が北イエメン大統領サーレハが務めることで、
インフラ投資は北に集中した。1994年旧南側勢力が再独立(イエメン民主共和国)を求
めイエメン内戦が勃発。しかし、南側勢力は国際的な支持を得られない米国がサウジの
支援をしていて約2ヶ月で鎮圧されたが、以降イランの支援を得て紛争は絶えない。


228: 名無しさんAA:19/10/24 04:07
  歴史の群像     168

こうした「軍事的優位」という考え方は軍拡競争の基本思想で冷戦構造の核でもあった
。しかし、米国を驚愕・驚嘆させたのは追随するソ連のその速さであった。核開発に3
年もかかりやっと広島や長崎に落として軍事的優位にたち今後50年ほど安泰と思われ
たのに僅か2年後にはソ連は屋外実験を成功させた。開発時から研究者にスパイが送り
込まれていた上に、研究者の共済共産思想は、アメリカ唯一の覇権主義を危険視してい
て、こぞってスパイやソ連の開発に協力的だったのである。原子爆弾が日本に落とされ
て僅か3年で追いついて実験を成功させ、その開発に封印しては、条約を破りイギリス
にさえも出さかった核技術が、ソ連に簡単に開発された事で、更に米国封印していたこ
の先の開発を進める決断をする。それはこれまでの核分裂の原子爆弾から、核融合によ
る水素爆弾の開発である。こうして、ビキニ環礁実験は成功するが、すぐにスプートニ
クショックがアメリカを震撼させる。つまり爆弾の性能には勝っているものの、送り出
すミサイルの性能には劣っているのではないか。と言う不安である。原爆はTNT火薬
の15倍程とされ、更に一定量以上は出来ないとされる。しかし水爆はTNTの150
0倍、核出力の計算値では、6000倍とされ。核出力の効率化は水爆1 tあたりTN
T換算6メガトン (Mt) が理論上の限界とされる。広島や長崎と投下された、原子爆弾
はTNT火薬換算で、20キロトンになる。この数値は2万トンのTNT爆薬を爆破した
ときの破壊力とされる。1メガトンは1000.キロトンですから、広島の50倍となる。ソ連
では20メガトンの核弾頭をつけた液体燃料式 SS-18サタンICBM核が地下サイロに配
備され、現在配備中の核弾頭では、ロシアの SS-24スカペル固体燃料の核ミサイルで、
10個の 500キロトンの核弾頭を個別に10箇所の目標に同時に打ち込める。核分裂は爆弾
の規模に限界があり、広島型の10倍が限界とされ、一定量超えると核爆発するから片方
をギリギリのサイズにしてもそれ以上は縮爆が出来ない。しかし、核融合では上限がな
く、太陽すら核融合であるとされる。人工的に小さな太陽を作れるとさえ考えられてい
る。重水素(水素だが別種)に核融合反応を起こすためには莫大なエネルギーが必要で
重水素を圧縮して核融合反応を起こさせる。この為核分裂で核融合を起こさせて行う。
つまり広島型の核は水素爆弾のいわば導火線に過ぎない技術だったのである。不思議な
事に、今岩国でトロッコ問題というのが教育問題として持ち上がっている。倫理学の思
考実験で大人の遊びの最悪状態に二者択一の問答させるという究極の法理問題である。
こうした物はアリストテレス倫理学の頃の話で紀元前からある。アルカイダの船の様に
究極の選択で、生死を彷徨う人間に、どこまで人間性が求められるか、どこで殺人が許
されるか市民裁判のリベート論である。しかしこれがドイツの東方生存圏の権利になり
第一次世界大戦、第二次世界大戦の基になった。ドイツに「東方への衝動」が存在し、
このスローガンでドイツ文化が優れているという考えと東方殖民業績を賛美するという
国家宣伝議論に利用された。今の韓国の言う朝鮮起源説のようなものだが、ドイツの国
家主義運動でナチス・ドイツはチェコスロバキアのズデーテン危機に「東方進出に対す
るスラブ人の砦」とチェコ人を利用した。流布していた主な地域のスラヴの世界で「ド
イツの学者たちの大部分はドイツに反対する運動、汎スラヴ主義(後にソビエト運動)
としてスローガンを拒絶した。」つまりドイツ人自体が戦略的に東側民地域の人々が、
東側起源としてドイツ西部工業化の進んだ地域に移動してくるのを拒み、反対の西側へ
の進出も発生した事で移民対抗をこの言葉で操ったのである。現代のトランプが南米の
移民を拒絶するようにドイツは拒絶したのである。その上で占領を正当化したのだ。


229: 名無しさんAA:19/10/24 04:07
  歴史の群像     145

 ここ韓国や米国あるいは北朝鮮の動きをみると、まず戦争に勝たない事が国家繁栄の
礎となっているのが分かる。「軍事的優位」を、がむしゃらに追求しても、そこの国民
の正常な幸福はやって来ないどころか彼らの求めた理想が遠のいた社会が現れるからだ
。「攻撃は帝国の敗北であり軍の崩壊である。」との鉄則は「逃げるが勝ち」「戦わず
して勝つ」の戦略に似ている。今韓国は「報復的輸出規制だ。」と日本に声を上げる。
これに色々な国際規約が絡んで国際調停裁判が行われるが、基本的に鎖国主義で国内の
平和を保てた国は最先端の技術を手に入れる。というのも、情報や思想はどこかで漏れ
出るもので、平和だからこそその研究を進められ、まともな議論や研究がなされるから
だ。今回トランプやジョンソンが国民から突き上げられているが、当然である。平和に
寄与した外交や内政を行っていないからだ。今のロシアも中国も同じである。中国に対
して日本は手を差し伸べたのは、米国国内にいまだ人種偏見や人権問題があって植民地
主義が台頭していたからだ。確かに戦後に多くの人は民族共和の精神はあって一部しか
その差別や偏見は無かったのかも知れない。しかし、厳然と黒人卑下思想は差別主義を
煽っていたし、教育の平等も守られず識字率すら違っていた。つまり、もし戦後に米国
がまともな国であったなら、本当に世界の覇権国となってロシアは分割され中国の発展
などはもっともっと遅かったであろう。それはそれで恐ろしいことかも知れないが事実
、その信頼と不信の社会構成が国の成り行きや行き先を決める。これが仮想空間の支配
である。この人類だけが持つ予測活動に、地球資源や大自然は、人の行いに忠実に反映
する。これが数字の世界である。そしてこの数字が最も意味するところに銀行の金額が
ある。ところが5G時代になって、今やこの数字のもつ国家保証が意味のないもので、
逆に地球上のあらゆるものの想定に重要な部分となっている。この数値は行動そのもの
は起こさない。しかし行動そのものに影響を与えている。この現実が人々を襲う。その
ITの計算値は日々大きく影響を拡大していく。例えばブラジルの伐採でも、地球温暖
化を信じようが信じまいが地球上の酸素を減らし、気候条件の塵の蔓延を拡大する。と
病原菌も降雨も灼熱の太陽光線も荒れ狂う事は当然であろう。これを嬉々と喜ぶのか、
地獄の様相と泣くのか人によって違うだろう。しかし少なくとも太陽光発電の進化やら
IT活用の自然エネルギーの活用やらは、平和でないと進展はしない。ソ連や中国など
社会主義国が暴力・略奪経済で成り立っているのはソ連崩壊でも歴史が証明しそれらは
略奪が止まった時に悲惨なのは当然である。日本のお馬鹿な経営者が中国進出に技術や
資本を供与したのは日本的には正義であろうが世界的には悪道でしかなかった。中国中
華民が、この覇権主義や中華暴力思想を止めない限り世界平和は訪れないし、止めれば
おのずとその技術は進展し台湾の様に自由化の道を開く。この自然の流れを断って日本
がわざわざ資本投下や大陸進出したのは大きな間違いであったろう。隣国とはそうした
もので、優位に立っていればいいというものではない。自民党の安全保障問題の失策は
戦前の軍本部の失政と全く同じである。南方進出に通行するだけの国、只々近いだけの
国などほったらかして同じ未来を創造できる国を育て守ることが、非常に大事である。

230: 名無しさんAA:19/10/24 04:08
例えていえば暖簾を守る店と同じに、自分の息子よりは、真に答える丁稚や弟子に預け
てこそが会社や社会は正常に正義を貫く事ができるのである。そこを戦後の日本人は、
忘れてしまっている。だから無駄な政治家や無能な2世3世が牛耳る日本になったのだ



231: 名無しさんAA:19/10/24 05:00
   歴史の群像     190

よく韓国併合と簡単に表記されるが、事実は大きく異なっていて、借款受諾権益の協定
で1910年(明治43年)8月29日に、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて 大日本帝国が
大韓帝国を併合し、借款を代替わりし支配下に置いた宣言した事実からそういわれる。
1902年以降大韓帝国(李氏朝鮮が1897年に改称)で第一銀行券を発行して、それを韓国
の公用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行となった。この事で大韓帝
国は関税収入が閔妃個人や宮廷費用で使われて、残るは農主や商人の税収しかなく、と
ても各国の要請の借款返済や公債償還には至らなく破綻した。ここで第一次日韓協約に
より目賀田氏が、韓国の財務顧問につく。民間銀行に過ぎない第一銀行を、外国が中央
銀行業務を行っている事を問題視して、韓国統監伊藤博文に相談。桂太郎ら日韓併合に
積極的な山県閥、第一銀行を経営する渋沢栄一と伊藤との調整の結果、併合直前の1909
年に大韓帝国政府、日本皇室、韓国皇室および個人から資本金によって韓国銀行を設立
し、条例に基づく中央銀行・韓国銀行として位置づけ、第一銀行からの中央銀行業務を
移管した。そうして韓国銀行は併合後の1911年にも朝鮮銀行法に基づく特殊銀行として
朝鮮銀行と改称し、こうしてやっと、個人支出が是正されまともな国家会計が出来上が
ったのである。日韓併合時に、日本銀行券を朝鮮で流通させればよい。という意見が多
数あった。しかし「朝鮮経済の不安定さがそのまま内地に影響するのはまずい」と意見
でて、統一された。第一次大戦は1914年とされるが、既にオーストリアが1878年に
オスマン帝国領だったボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領した時から世界は不穏な情勢
だったからだ。欧州でも1908年に正式に併合して、1908年から1909年にボスニア危機を
引き起こした。セルビア王国と援助国に「汎スラヴ主義」支持したロシア帝国を大きく
怒らせたからだ。バルカンでの平和合意は既に揺らいでいて、ロシアの政治弱体化の実
体に、ロシアの政治介入を強くして、バルカンは「ヨーロッパの火薬庫」状態だったの
である。1912〜1913年にかけて、バルカン同盟は徐々に解体していったが、オスマン帝
国との間で第一次バルカン戦争が勃発した。これが日本政府の朝鮮で危惧する状態であ
った。講和条約のロンドン条約ではアルバニア公国独立を果たしたが、ブルガリア王国
、セルビア王国、モンテネグロ王国、ギリシャ王国などは領土を拡大して、民衆の不満
や世界的不公平を大きくした。1913年に遂にブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃し
、第二次バルカン戦争が引き起こされる。この33日間の戦争でブルガリアは大敗し、正
にドイツの様な、四面楚歌の状態になったのである。マケドニアの大半が、セルビアと
ギリシャに割譲され、南ドブルジャを、ルーマニア王国に割譲せざるをえず、バルカン
半島は不安定から、更に不確実に移って大戦争の兆しを抱えていく。第一次バルカン戦
争は、単純にバルカン同盟(ブルガリア王国、セルビア王国、モンテネグロ王国、ギリ
シャ王国)のオスマン支配の国々を、ヨーロッパ諸州(アルバニア、マケドニア、サン
ジャク、トラキア)から追い出していく行動だったが、オスマン帝国にチャタルジャと
ガリポリ半島しか残されなかった事に不満が募る。1913年に締結されたロンドン条約で
は黒海海岸の、メデアからエーゲ海海岸のエノスまでがバルカン諸国とトルコの境界と
定められ、エノス=メデア線の西がバルカン諸国に割譲されると定めた。占有物保有の
原則に基づいており、ここにアルバニア独立国が建国する結果となった。この時切り取
られた部分の国に不満が残った。こうした事を明治政府は事細かに分析研究し、欧米の
考え方の研鑽を積んでいった結果に、日本に五属調和と大東亜共栄圏構想が生まれて、
第一次、第二次世界大戦に向かっていったのである。ところが、中国・朝鮮は、その頃
何もしなかったまま国内紛争に明け暮れていたのだ。


232: 名無しさんAA:19/10/24 05:23
   歴史の群像     191

 第一次バルカン戦争で勝ち、ブルガリアもセルビアも同じバルカン同盟(ブルガリア
王国、セルビア王国、モンテネグロ王国、ギリシャ王国)の国で戦った。しかし戦争前
の協定で決めていた セルビアのアドリア海での主張(アルバニア北部の領有)を支持
しないとブルガリア代表が述べて、セルビアに警告を発する。ロンドン講和会議は一転
暗転した。ブルガリアが覇権にかまかけ、セルビアの戦前の北マケドニアに関する協定
の破棄したのだ。セルビア人は強く履行を要求した。それを守るために闘ってきたから
だ。ブルガリアは他列強がアルバニアの北部での獲得領土の放棄を要求してきたことで
、立腹してこれ以上の獲得領土の放棄を拒否した。こうしてセルビアは孤立するの避け
てギリシャと秘密裏に防衛同盟を締結、両国間の占領区の境界をそのまま国境と定めた
上で、ブルガリアかオーストリア=ハンガリー帝国が、侵攻してきた場合の同盟を定め
た。これによって、ギリシャは同盟締結の時点のマケドニア占領区を保障することにな
って、セルビアの獲得した北マケドニア紛争に巻き込まれる形となったのである。この
形は紀元前の都市国家群の乱立したエーゲ文明から変わらず続けられてきた領土と民族
の紛争の姿であった。そして今も同じに、例えば米国がクルド人と同盟軍としてシリア
のIS排除に命を賭して戦ったが、いまや漁夫の利を得たトルコ軍がロシアと共に国境
封鎖して安全地帯などと称して勝手な軍事行動をしている。かつても、ブルガリアでも
ギリシャのセルビア接近に危惧し、ギリシャと協定を締結、両国の占領区の境界を定め
、南マケドニアの実質的支配を黙認し、一方でルーマニア問題も抱えてブルガリア領は
、混沌とした。マケドニアのラテン系のヴラフ人の権利が脅かされ、ルーマニアに割譲
を拒否していたまま過ぎた。ルーマニアは武力で侵攻すると脅されたが、ロシアが仲介
してそれを防いでいた。しかし、こうした事は1912年ブルガリアの民族主義が、ツァー
ルのフェルディナンド1世やブルガリア軍部が述べるように、非常に熱狂的民衆を産み
1878年過激主義的なサン・ステファノ条約の内容を、さらに越えた過激さを生んでしま
い、東トラキア、西トラキア、テッサロニキを含むマケドニア全体、エディルネ、コン
スタンティノープルまで含まれた大ブルガリア帝国の支配を可能にし、ブルガリアの中
で、指導部の早期から非現実的な思考に欠いた夢を引き起こし更なる紛争を起こしてい
る。マケドニアで主にセルビア軍とブルガリア軍の間の小競り合いが続く中、ロシアの
皇帝ニコライ2世はスラヴ人の同盟国を失いたくなかった。その為、紛争を阻止しよう
と大きな努力と奔走をしていたが、仲介するも双方のロシアへの返答は条件が多くあり
、焼け石に水状態だった。特にブルガリは国土の豊かさから最後通牒の様相を呈して、
怒ったロシア外交官はブルガリアが既にセルビアとの戦争を決めたと結論付けて、皇帝
に報告した。結局、ロシア皇帝は仲介を取りやめ、1902年のブルガリア同盟条約を取り
消して、これまで35年間もかけて、多くの人命、資金と外交資本を注いだバルカンの
同盟は瓦解したのである。こうしてブルガリアはロシアがオーストリア=ハンガリーの
拡張主義を防ぐために行った数々の努力は打ち壊された。ブルガリアの目的はセルビア
軍とギリシャ軍を撃破しつつ、列強が介入して停戦するまでにできるだけ占領地域を広
げることだった。こうして宣戦布告なき戦いを始め、物量の優勢を確保すべく、ブルガ
リア軍全軍が戦闘に参加した。しかし欲望のブルガリア計画は各地で頓挫する。今の中
東のトルコのように、漁夫の利のみや八方美人で内政に強硬な独裁を敷いた国の結果で
ある。しかし米国も欧州も日本も、それを放って置けないのが国際貿易や国際協業の仕
組みである。ここに戦争の苦難がある。このトルコとロシアの台頭はきっと良くない。



233: 名無しさんAA:19/10/24 20:17 ID:H.
   歴史の群像     192

 この第二のバルカン戦争は後のサラエボ事件と同じ構図だった。ブルガリアの指導部
の間違いは、何ら裏付けのない強気の進軍である。そもそも領土や領地は領民のもので
あって領主のものではない。その意識がこの時代になく、第一次バルカン戦争の開戦の
時点でブルガリア軍は59万人その内4万人弱が失われたが6万人を占領地から徴兵し
て補充してまでも国の威信で戦っている。しかし、かつても今回も、行動軍は35万人
しかいなく残り20万は兵站の義勇軍を足してももともと国民軍や国境警備隊だった。
その中の6万人は敵地の徴収兵であり新人で統率もなく数のみだった。更に軍隊にして
も、国境の方々で国境警備の必要があり、兵といえども動ける人数は限られた。新兵を
いれて57万人寄せても、戦争に必要な兵站物資も不足して、ライフル数も38万丁し
かなく、取り合えず3個大隊(11万人x3)を侵攻させた形だった。セルビア王国軍
は35万人・ギリシャ軍は8個師団と1個騎兵旅団(117,861人)と大砲176門もあって
、これだけでも全く勝つ見込みも進軍も不可能の中だった。更にこれを見越して動いて
いたのが裏側のルーマニア軍で南ドブルジャを奪取すべく1913年7月5日に軍を動員し、
10日にブルガリアに宣戦布告した。つまりブルガリアはこの3者に囲われて追われる中
で戦う事になったのだ。更に先の大戦で割譲を許したオスマン帝国が抵抗が薄いのを知
って乱戦に潜り込み、ブルガリアに割譲した領土の奪還をすべく侵攻を決定した。侵攻
の主な目標はエディルネの一限定地域と思った進軍であろうが、周囲の本格的介入戦争
では軍事大国をもつぶした。そこでこの窮地にロシアの介入を求めた。ルーマニア軍が
ソフィアに迫る中で、しかし、ロシアは行動を起こさなかった。ブルガリアでは首相の
ダネフが辞任し、フェルディナンド1世は、代ってラドスラホフを首相に任命し、親独
反露政権を決定した。この時の援軍のないしこりはこの後の第一次大戦まで続く。ここ
でセルビア首相ニコラ・パシッチはブルガリア代表をセルビア領ニシュで、同盟国との
直接交渉に招いた。しかし、セルビアもギリシャも攻勢であり講和を急がず、フェルデ
ィナンド1世はイタリア大使を通じて、カロル1世に親書を送り、ルーマニア軍がよう
やくソフィアを前にして停戦要請の為の進軍を停止した。ルーマニアではブカレストで
交渉を行うことを提案し、代表たちは鉄道で戦地ニシュから交渉地ブカレストに移動し
交渉に至った。しかしここで、ルーマニア側が先の敵国だったオスマン帝国んは参加を
拒否していたため、ブルガリアはオスマン帝国と別個に交渉しなければならなかった。
ブルガリアは、早々と南ドブルジャをルーマニアに割譲することに同意し、これによっ
て戦争停止の主目的を達成した。ルーマニアでは、この事でブカレストでの講和交渉に
積極的に仲介役を務めることとなる。この第二次バルカン戦争の結果は、セルビア国を
ドナウ川南側で軍事最強国に成長させた。ヴァルダル中部やノヴィ・パザルの東半分を
手に入れ、フランスから借款で賄われた軍事投資はここで結実した。領土面積は18,650
平方マイルから33,891平方マイルに拡大、人口は150万以上も増えた。しかしながら
、この新しい領土の住民は、逆に戦後には少数派として圧迫され、嫌がらせを受けた。
彼らは「文化レベルが低すぎる」として市民権がなく投票権を拒否され、実際にこの領
域での多数を占めたセルビア人以外の住民達を、国政から締め出す手だてがセルビアで
は行われた。新聞では大々的に「新セルビア人」がトルコ治下で、より多くの政治権利
を有していたと指摘し糾弾され、トルコ風の建物、学校、浴場、モスクが破壊され続け
た。1913年イギリスの副領事が、系統的な脅迫、恣意的な拘留、殴打、強姦、村への放
火、虐殺などがセルビア人併合地で行われた。と批判するが、セルビア政府はこれらの
問題の調査や阻止には一切興味を持たなかった。それだけ治世のない国だった。長い間
の戦争で貧困の中、領主の武力による取り立ての国で、教育の無さの結果その後も紛争
暴動が絶える事はなかった。


234: 名無しさんAA:19/10/24 20:48
 TV局は何を馬鹿な論議をしているのだ。韓国の李洛淵(イナギョン)首相と会談し
た。李氏は懸案の早期解決を呼びかける文在寅(ムンジェイン)大統領の親書を手渡し
たから一体何をそんなに論議するのか。韓国国会で、今まで韓国国会が、「われわれは
世界に開かれた道義的信義的に国際法を遵守する国である事を改めて宣言する。」とい
う国会決議を求め、この決議によって今の裁判官の判断を有罪とし国家反逆罪を適用す
る。と国会が決めればいい話で、民衆の声や官僚の声あるいは大統領の声が正しいとは
限らない。と声明を出すだけで良い。基本的には大統領は職責免除をつけて汚職や賄賂
や忖度がない限り無罪とする。と付帯をつけ反日的裁判官を不公平裁判官として禁固刑
100年ぐらいを量刑を国会尋問で行えば済む話である。つまり大統領の行き過ぎ権限と、
裁判所の断行裁判を無くせば好い話で、正しいこと良いこと国際条約を遵守することを
示せば良いだけの話である。何も日本は悪い事はやってはいないのだから降りることは
全くないしびくつくような意見は聞く必要がない。正義や公明正大公平が大事なだけだ
。アメリカのように黒人優遇策で白人が差別されている。というような形と同じで戦後
は充分日本は援助しているではないか。




235: 名無しさんAA:19/10/24 21:10
 立憲民主党の菅直人元首相は24日、関西電力労組出身の国民民主党議員が参院経済
産業委員会の野党筆頭理事に就任した人事を批判した自身のツイッター投稿について、
立憲の安住淳国対委員長を通じて国民の原口一博国対委員長に謝罪した。国民幹部が明
らかにした。菅氏は8日、国民の浜野喜史参院議員の筆頭理事就任に関し、ツイッター
で「関電(幹部の金品受領)問題を鋭く追及できるのか」と批判し、人事の撤回を要求
。これに対し国民の参院側が「謝罪、撤回しても許されない」と激怒していた。しかし
これは当然の話で、菅直人がいうように、労組としてパイプがあったにも関わらず今回
のような電気料金を原資とした賄賂や贈収賄が簡単に行っていたのはまず議員としても
失格だろう。議員はその立候補地域の議会や国会や町長に監査し精査し陳情や予算請求
する為にいるのであって、何も地元に国費を送り込む為の係員ではない。そうした異常
を国会や首相自ら汚職に手を染めた思考回路しかないから日本は景気浮上はしないのだ
。正義が盛り上がり、道理が常識となれば今のような、教職員のいじめや子供や親殺し
などの犯罪など起こらない。学校法人の異常や私立助成金の有り余る無駄使いは目にあ
まり、国民に寄与されるべき介護保険料も全く福祉施設のいい加減な肥しで、少しでも
赤字化すれば、入居者殺人までおこる始末だ。全く異常であろう。病院施設で預かるべ
き者を追い出して、更に入居者に手を焼いて縛る、痛める、殺すという非道、爪の皮を
引きはがした行為がなぜ介護なのだ。そうじゃないだろう今や瞬間接着剤も傷口貼膏薬
も何でもある。まるで歯医者の前近代的治療する詐欺と同じ治療を何故裁判所は無罪に
するのだ。おかしいだろう。無知の裁判官や検察官が多すぎる。もっと勉強しろ。


236: 名無しさんAA:19/10/25 22:11 ID:Fs
 不思議な話に「蛇頭(スネークヘッド)」の話が今般ニュースで聞かなくなった。と
思っていたら、やはりイギリスに活動拠点を移していたようだ。英南東部グレイズで、
トラックのコンテナから、今回39人の遺体が見つかった。人身売買の事件であろう。
と当局は見ているようだ。英警察当局は24日、「全員が中国人と考えている」と発表
している。39人は全員が大人で、31人が男性、8人が女性だった。トラックには、
冷凍設備があり、低体温症により死亡したとの報道が出ている。亡くなったのはいずれ
も中国人とみていることを明らかにしているだけで今のところ内容は不明の殺人事件の
ままだ。現地メディアでは、このコンテナはベルギーの港から船でイギリスのテムズ川
の河口付近に到着し、その後、北アイルランドから来たトレーラーに載せられて今回の
発見現場の工業団地に着いた。ということを報道している。また、別のメディアでは、
死因について凍死や窒息死の可能性を指摘しています。かつては、2000年に英国南
部のドーバーの港に着いたトラックから不法入国しようとした中国人58人が遺体で見
つかった事件があった。ほかにも、2015年にはオーストリアでは、乗り捨てられた
冷蔵トラックから71人の移民の遺体が見つかった事件があった。・・・しかし・・・
この身元は案外わからない。というのも、かつてIPOによってこうした調査にかかっ
ていた中に、IPO総監になった中国警視総監は突然中国当局に帰還を命じられたのか
行方不明になったが、その後一週間後に中国政府が拘束の上汚職に際して取調べ中であ
る回答を声明をだした。世界中でこんな人権侵害の野蛮な国はない。あのソ連すらも、
国際社会にはそれなりの詳細を公表するし、あるいはこうした拘束も拉致監禁の上銃殺
であっても、それなりの地位にある者には敬意を表した形を取っている。今回の異状な
集団死は中国政府はなんら釈明をしていない。この事件で、トラックを運転していたと
する北アイルランドのモー・ロビンソン容疑者(25)は、殺人容疑で逮捕されたが。
空の冷蔵車とでも思っていたのか、普通に車を乗り捨てているところから、保冷車を開
けて初めて死人の山を見て仰天して警察に密告でもしたのだろう。そのまま戸を閉めて
いて、誰にも気づかれない状態で発見されている。警察は24日、同容疑者の自宅があ
る北アイルランドのアーマーで、3カ所の家宅捜索を行ったことを明らかにしている。
一方中国外務省は、在英中国大使館の職員が現場へ向かっていると発表。在ベルギーの
中国大使館は、ベルギー警察に対して徹底捜査を要求した。警察では、遺体の入ったコ
ンテナが、23日未明にベルギーからイングランドに到着し、北アイルランドから来た
トラックで輸送されたと見ている。遺体は身元確認や検視を行うため、現地の病院に運
ばれている。ベルギーの連邦検察も24日、捜査に着手したことを確認、コンテナ輸送
に関与した組織に重点を置いて捜査を行うと発表した。これまでの調べでは、コンテナ
は現地時間の22日午後、ベルギーのゼーブルッヘ港に到着してその日のうちに出航。
23日未明にイングランドに到着していた。犠牲者がいつ、どこでコンテナに入れられ
たのかは分かっていない。死んだのをいれたのか、入っていて死んだのか。黒人移住が
多い中で中国人とは恐れ入った奇異な話である。日本人がいないとも限らないが顔写真
は出ていない。
警察は、ブルガリアとハンガリーの組織による人身取引の途中で発生したとの見方を示
した。BBCのマーク・イーストン内政担当編集長によると、近年、ドーヴァー海峡の
警備は厳しくなっており、イギリスへの密入国を請け負う業者は別のルートを使ってい
るという。また、密入国の方法もリスクの高いものに変わってきている。従来ではトラ
ックの中に隠れる方法が多かったが、最近では冷凍コンテナを使うケースも頻繁に出て
きている。移民はそうした危険な移動に1万ポンド(約140万円)以上を払っているとい
われる。



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