関西人のクズっぷりは異常


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関西人のクズっぷりは異常

1: 名無しさんAA:11/02/15 13:56 ID:6Q
101号室の
クズ原よういちだかなんだか漢字は知らんが下の部屋のキチガイ引き篭りうるさすぎるわ
下が大暴れしてるから半袖作業服で注意しに行ったら俺が異様に怖いらしくて警察呼ばれた
んでやっと出てきたから話してみたら、なんか精神的な病気で振動とか音に反応するとおかしくなるんだと
警察いたからこの家の管理者警察に呼んで貰って話してきた

33歳で関西人
4人姉妹の一番下で親が嫌い
免許無し
歯がボロボロ
今は成東で週にちょこっと工場に行ってバイトだと
言いたいことは無意識に口から出る人間で
管理者から悪質クレーマー扱い
ガンダムseedのキラが好きでGガンが嫌い
料理は冷凍食品とカップ麺、友達はいない
家でひとりでゲームするのが趣味だと

俺とは丸っきし性質から違う人間、気持ち悪い
あと自分で成長しようとしないタイプだな、悪い意味で頑固
コンプレックスの裏返しみたいな感じか
あと競馬以外のギャンブルとプロアクでゲーム改造するのが好きだとさ
昔は新聞のバイト長くやってて、そのあと弁当作る会社とかてんてんとバイトで回って
今の工場にきたとか
思考停止型後ずさりタイプで逃げ道確保してるけど自滅する人間って感じだ
33でこういう人間はこのまま同じまま直行するだろうな
関西人は本当に気持ちが悪い屑しかいない

201: 名無しさんAA:19/04/20 17:15 ID:Io
 朝鮮人に 喝!  239

 民間の日本の半導体メーカーであるフェローテックが、韓国子会社での事業から撤退
すると発表しました。この子会社では元従業員が「営業機密侵害」などの罪で韓国検察
当局に起訴されているのですが、同社としては徴用工問題の判決などを考慮したうえで
、昨今の韓国において日系企業に対する司法の独立性が完全に担保されないという判断
があったようです。つまり、韓国内で事業を続けることに対するリスクを鑑みての「事
業撤退」ということでしょうか。懸命な判断だろう。徴用工問題もそうだけど、そもそ
も韓国においては司法の独立がまったく成立していない。法律よりも国民感情が優先さ
れるというんだから、そういった国で商売するのはちょっと危険すぎるだろう。今後、
フェローテックのように、韓国から撤退する企業はどんどん増えていくと思う。でも、
これで徴用工問題の裁判が、韓国にとっても大きな間違いだったことが証明されると思
う。あの裁判は韓国民としては反日感情をぶつけた形で、日本に対するダメージを与え
たいということだったのかもしれないけど、こうやって在韓企業が撤退していったら、
むしろダメージを受けるのは韓国の方だろう。韓国の司法が未熟すぎることが明らかに
なって、それをリスクだと考える日本の企業は勿論他の国も企業はどんどん撤退するは
ず。つまり日本以外の企業も追随する可能性も高い。そうなったら、結局のところ韓国
経済が自らに大打撃を食らうことになる。韓国は国民感情優先の司法によって、自国の
首を絞めている。完全な自爆行為といえる。文大統領夫人が日本の茶道にハマり、娘が
国士舘大学に留学していたといった情報も出ている。反日である文大統領の家族が本当
に親日家だとしたら、韓国内でとんでもない問題になってしまうだろうね。文大統領は
、アメリカを裏切っていただけでなく、韓国民も裏切っていたことになりかねない。こ
こまでくるとさすがにまったく理解できない。あの国には嘘しかない。トランプさんに
とって、韓国は裏切り者だ。米朝の間を取り持つといって近寄ってきているけど、実際
には北朝鮮を支援している。そしてトランプ大統領の、北朝鮮も完全非核化を拒否した
し、双方にメンツを潰されたわけだし、怒り心頭だろう。米軍は、韓国による北朝鮮へ
の「瀬取り」の監視を強化している。その一環としての日本のP3Cにレーダー照射し
船員や船長は米軍との合意も反故にして帰国させた。これでは、国際社会から、韓国が
見放される時が来ても仕方ないし、日本が助ける必要性も義理もない。西側の一員、あ
るいは法治国家として付き合っていたのだからこうした、法律よりも感情が優先される
国で、やっぱり矛盾しかない国は超えちゃいけないラインを越えるのも解らないらしい
可哀そうな国だが、自ら招いた種だどうしようもない。



202: 名無しさんAA:19/04/23 18:07
 朝鮮人に 喝!  240

 こうした嘘つき韓国で行われているのが、なり済まし証人の声である。「強制連行さ
れた軍艦島で過酷な生活を送ったお父様と、同じく過酷な暮らしをされた方がこの場に
おられます。」そぼ降る雨の中、水色のレインコートを着た老人が登壇した。埋め尽く
す観衆は一千人はいるだろうか、熱気が溢れている。老人は、大きな声でゆっくりと語
りかけた。「ご紹介にあずかりました具然竿(グ・ヨンチョル)です。軍艦島で六年暮
らし、わたしが体験した事実を証言するために朝早く釜山を発ち、87歳の老骨に鞭打ち
やってきました」降り注ぐ雨をものともせずに、老人は訴えた。「わたしが見た軍艦島
は、わが民族の最も痛々しい記憶の場所だと思います」演説は次第に熱を帯びてきた。
ピンク色のカッパを着て傘をさしかけた女性は、心なしか目を潤ませている。端島(は
しま)通称軍艦島は、長崎港の沖合約 17・5qにある西彼杵(そのぎ)海洋炭田を鉱床
とする炭鉱の島で、そのシルエットが戦艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼
ばれている。1890年以降、端島を経営した三菱は、ボタ(捨石)で周囲を埋め立てて島
を拡張し、日本で最初の鉄筋コンクリートの高層住宅群を建設した。戦後、端島はわが
国の経済復興を支え、最盛期には世界で最も人口過密な炭鉱コミュニティーだった。そ
の後、石炭から石油にエネルギー転換が進んだことにより、1974年に閉山に追い込まれ
て、廃墟となったが、それまでは、日本の最先端の高密都市として栄え、各企業の家電
産業は、この町にいの一番に高い新型電気製品を送り届けるのは習わしだった。その為
ここに残る家電品は冷蔵庫でも洗濯機もTVも比較的初期型が多くあり、パチンコ遊技
場も映画館も呑み屋も小料理屋スタンドバーも東京の次に流行ったとされている。嘘つ
き韓国人は当然のごとく「民族の痛々しい記憶の場所」として脚光を浴びせても、街の
写真は使わず鉱山内の写真を使い、更には実際には昭和30年代の後半に日本人カメラマ
ンにより筑豊で撮影された写真を、朝鮮人徴用工の写真として世界に拡散させた。この
写真が端島のイメージは世界に飲み込まれ映画の封切りを前にして、誠信女子大学校の
徐敬徳(ソ・ギョンドク)客員教授は、ニューヨークのタイムズスクエアで端島の非道
ぶりを訴える全く作り話の広告映像を発信した。2017年10月に釜山にある国立日帝強制
動員歴史館で開催された「軍艦島証言及び懇談会」、2018年の、釜山総領事館前の強制
徴用労働者像建立記者会見などに次々と出席、2017年9月20日に放送された「Hello tv
NEWS」では、民主労総などが推進する「徴用工像」の横で拳をあげるかの偽装さくらの
具然竿(グ・ヨンチョル)氏の姿が華々しく紹介される。





203: 名無しさんAA:19/04/23 18:07
 朝鮮人に 喝!  241

 そしてでっち上げを誠のように言う「軍艦島で6年生活した。強制徴用で連行された
人達は、日本の無慈悲によって、その苦痛を口では言い表せない。凄絶な人生、足枷が
なかっただけで奴隷だよ、完全に」「中ノ島という小さな島があって、そこで死体を焼
く煙が日に1、2回必ず立ち上り、火葬されるひとたちはみんな朝鮮人だった」「ユネス
コに登録するならば、軍艦島の歴史的な事実を全部登録しなければならないのに、それ
を隠して、これは『国際的詐欺』じゃないか」とところが、現在は長崎市が管理してい
るが、この軍艦島は特定の軍需用地であり満州国と同じく軍も政府も三菱すらも管理し
ない三菱炭鉱の鉱山派出所として独立自治の運営所であった。従って日本の中で空爆も
受けないで全ての資料が揃い、住民台帳も出入り物資も航海搬入搬出記録も当時の三菱
鉱山が欠ける事無く残している。その中にや元島民の思い出の端島には、グ老人の語る
6年間の記憶に刻まれたと言う「民族の最も痛々しい記憶の場所」や、「人間として生
きられない地獄」とは全く違う生活が映し出される。そして中之島もなく住民名簿にも
ない。1945年の終戦前後に、端島において、千人の人間が虐殺されたなどという事実は
全くない。外務省が終戦の翌年に作成した華人労務者調査報告書(三菱高島礦業所端島
坑)には、島内で就労していた華人労務者全員(183名)を社船にて、佐世保において、
米軍に引渡した記録が遺っている。終戦を端島で迎えた元島民たちに読んでもらっても
、全員が千人虐殺説に「絶対にあり得ない」と口を揃えて反論する。そもそも火は危険
であり共同風呂の施設はこの島では海外の白人黒人専用など分けてもいない。また、終
戦前後、端島での騒動や混乱の記録は全くない。その上戦後も日本の産業育成にこの鉱
山産業はより産出を迫られ、人手は足りなかったのだ。同じ島出身者なのに、なぜこの
ような荒唐無稽なエピソードがでてくるのだろうか。「(朝鮮人たちは)動物の檻と変
わりがない合宿所に集団で起居しながら、毎日迫りくる死の脅威にさらされていた。」
「(終戦後)朝鮮人は、彼らが連絡船で夜逃げしたことを知った。(略)島に残ったの
は朝鮮人と沖縄人だけだった。実に奇怪な状況であった。大人は皆、日本人が去ったそ
の夜にとんでもないことがあったのだと疑ったが、よもや千人をも虐殺するなど、純朴
な朝鮮人の想像をはるかに超えることだった。日本人が中国人だけを坑内に閉じ込めて
入り口を爆破して皆殺しにしたのではないかと疑うようになった。」と言うのだ。



204: 名無しさんAA:19/04/23 18:07
 朝鮮人に 喝!  242

 嘘もこれだけ真顔で言うとは、たいがいにしなさい。と言う話である。それ以外にも
グ氏の演説や証言は、元島民にとって、首をかしげざるを得ないものばかりであった。
「朝、登校中に見た光景といえば、食料を得るために皿をひとつ持って列をなしていま
した。(略)その横には日本の軍人が棒を持って立っています。その前を頭も首もあげ
ることもできず、皿だけを持ってわずかな食料を得ようと列をなしている様子を見て、
あまりに凄惨だと思いました」この証言に、元島民の松本栄氏は、「皿を持って、道路
端で、お涙ちょうだい、おかずちょうだいって、こういうバカを言いなさんな。さすが
に三菱たるとこは、そういうことは許可せんですよ。見たことない。日本軍の兵士が、
労務者の食事の監視をした事実もなく軍が立ち入れないから、直接長崎のGHQまで、
彼らを連れて行ったのです。まず、ありません」と反論する。既に端島に独身労務者の
為に、食事は寮の食堂で提供されており、道端で配膳することはなかったし、各家庭で
も戦中の長崎原爆投下でも、他の九州の徴用工には、その被害遺体の収容任務が下され
たが、ここの端島や池島や杵島炭鉱や筑豊炭鉱は、別格で農業生産品供給のルートは、
確保され、都市部が闇市に買出しに行きなどと言う事はなかった。食糧供給やそうした
特別配員など行われていない。というのも日本で数少ないエネルギー産業で、当時電気
は、石炭か水力だったから政府はその維持には力を入れていたからだ。つまり夕張炭鉱
と同じに採掘してる以上採掘した石炭は文字通り黒いダイヤとして流通していたのだ。
「登校途中の道端に労務者事務室があります。そこから来る日も来る日も悲鳴と叫び声
が聞こえます。つま先立ちで窓から覗くと、(朝鮮の)青年たちを2〜3名コンクリート
塀の前にひざまずかせ棒で叩いているのです。『助けてくれ!』と叫んでいます」(民
主労総での演説)これに対しても、「端島のどこで、そういうふうな状況、状態が発生
しておったのかその場所を証明せよ。逆にわしは端島で見たことないから」と松本氏は
反論している。「Hello tv NEWS 」での「中ノ島で朝鮮人の死体を焼く煙が日に1、2回
必ず立ち上った」という発言には、終戦の年の4月まで端島炭鉱の測量部署に勤めてい
た松本氏は、「それこそ小さな事故でも、発生した事故の現場監督あたりが会議室に呼
ばれて、事故の状況を報告せにゃいかん。それに基づいて、測量は、現場検証に行く。
こういうふうな状況でこの作業員が亡くなったということを、図面に描いて、しかも、
それを文章化して、当時の鉱山監督局に変災(報告)書を書かにゃいかんのです。1日
に一人も二人も死んだとなったら、私ども、それにかかっておらんばいかん。そういう
ことはまずありえんしなかったのだから。」と否定する。「真実は一つしかないんです
よ。なぜこんないい加減な証言につきあわなければならないのか」グ氏の経歴に関して
、公開情報では、1931年、慶尚南道梁山郡下北面草山里に生まれ、1939年に端島へ移住
。端島高等国民学校二年に編入、端島で終戦を迎える。としている。しかし島に学校は
一つで名簿にもなく、元島民の誰もが、彼を知らない。証言も元島民と全く食い違うグ
・ヨンチョル氏。彼は一体何者なのだろうか。朝鮮戦争でパルチザン活動を行った筋金
入りの活動家で、アメリカの兵站分断作戦で、帰れなかった嘘つき北朝諜報員とされる。

205: 名無しさんAA:19/05/01 22:35

 令和はきっといい時代にはなるだろう。それは無理と見られた日の出が見られたから
である。しかし、こんどの小野田侍従長は辞めさせるべきだろう。こんな雅の風靡のな
い様な、恐れもない歩きのある認証式展があろうか。まったく宮中を軽んじている。又
陛下も何かの表明と間違えている。憲法などどうでもいいのだ。問題は憲法発布を行っ
た明治天皇の直系子孫であり、その大きな市民からの寵愛を存続させる、敬意を温める
力や器量をみせる事だ。国民の信望なくして存続はない。その為に全力を出すことは、
こうした文や宣言も、もっとゆっくり、頭の悪い私でも飲み込める韻用と御言葉を言う
ことだ。それはそれなりに日本のメロディとなるべきである。が未だ整ってない。全く
なんで日本の古来からの儀礼服でないのだ。神に不遜この上ない式典で、もう一度やり
直せ。政府は馬鹿か。侍従長失格も甚だしい。




206: 名無しさんAA:19/05/03 05:27 ID:IE
令和初日だったからか、あきれる程愛知警察は、高速道路のあおり運転に寛容だった。
 まったくバカ警察だ。日本の高速道路は2車線しかなく、アウトバーンの様な無制限
道路は無い。つまり渋滞や過重事故が起こりやすい道路でもある。また厳重な入場規制
も少なく、逆走車が無事である事すら多い。これは警察の怠慢である。その一つがまっ
た取り調べのいい加減で、ドライブレコーダーにあからさまに態度の悪い凶悪状態がこ
こに記録しているにも関わらず逮捕拘留もしていない。この厳重注意で終わりはアウト
であろう。氏名と顔の公表と、さらに一週間以下の留置であり、同乗者と共に公共物の
毀損準備罪もしくは殺人示唆であろう。この愛知県警には都市部の人間の偏見がある。
田舎に行って悪い事をする人間を助長しようが我々は関係ない。という態度である。こ
の馬鹿さが犯罪を大きくし隠し、未開件の白骨死体の山を築いている。今も多くの犯罪
と認定されない犯罪は多く、未解決事件にも認定されていない。つまり、ニュースの中
で公表される犯罪率にまったく加算しようとしない警察の「不埒な人間統計」に現せな
い官僚としての忖度がそこにあるのである。だから政治家も全く事件を起こしても事件
にならず、その証明する証左の事実に無頓着なのである。さらに、一定の速度と一定の
車間距離での運行がこの渋滞の緩和に役立ち、あおり運転による強弱で起こる、大きな
車間距離の変化には、大きな渋滞の元となり、事故でも起こればそこは閉鎖空間に代わ
るこの意味の重大さに警察は疎いとしか思われない処置である。再教育はあろうが、こ
の凶悪化人間は不良化青年や隠れた暴力団に繋がっている。つまり交通課から対暴課に
引き渡し情報を得る必要すらあるのである。




207: 名無しさんAA:19/05/03 18:55
 朝鮮人に 喝!  243

 韓国人がみずから誇り、その自尊心を大いに高める言葉があった。「漢江の奇跡」だ
。朝鮮戦争で焼け野原となった後の1960年代〜1980年代にかけて、韓国が著しい発展を
遂げ、先進国並みの水準に追いつくまでの経済成長を表した言葉である。日本で言うと
ころの「戦後の高度経済成長」とよく似ている。ところが、「朝鮮日報」の記事では、
今回そっくり韓国小学校教科書から「漢江の奇跡」の文字は消えた。今年3月に小学校
で使用され始めた社会科教科書から、削除されたのだ。改訂前には、「この期間に経済
が急速に成長した韓国は、世界から『漢江の奇跡を成し遂げた国』と言われた」と書か
れていたが、そっくり消えた。歴代大統領のなかで、もっとも韓国国民に慕われている
大統領は、朴槿恵前大統領の父・朴正煕はと言える。韓国ギャラップが成人約2000人を
対象に行なった2015年の調査では、「国をもっともうまく率いた大統領は誰か」との問
いに、44%が朴正熙と回答し、ダントツのトップだ。さまざまな韓国メディアが似たよ
うな調査のその多くで1位は朴正熙である。しかし、文在寅大統領が掲げる「積弊清算
(保守政権の下で定着した制度や政策、慣習などを見直し修正すること)」では、この
朴氏の保守政権そのものを否定する事を掲げて止まない。今やその功績までもが消され
ようとしている。この問題、日本にとっても無関係では済まない。韓国は1965年の日韓
基本条約や日韓請求権協定によって。日本から5億ドルに及ぶ経済援助を受けた。にも
関わらず、元軍人や元徴用工、元慰安婦などへの補償には回らず、高速道路建設やダム
、発電所などのインフラ投資に集中投下した。これにより漢江の奇跡は始まった。原資
は当然のように日本の経済支援が使われた。誰に聞いても現政権が「(漢江の奇跡が)
日本からの経済支援のおかげだったという事実や記憶を消し去りたいのだと思います」
つまり、「元慰安婦」や「元徴用工」への賠償請求を今後も続ける上では“都合の悪い
事実”は、全部なかったことにする意図がアリアリと見える。前述の「朝鮮日報」記事
では、「1948年国連総会で大韓民国政府は韓半島(朝鮮半島)における唯一の合法政府
として承認された。」という記述も同じく削除されたという。当時は北朝鮮ではなく、
韓国だけが国連に認められていたという事実も、小学生に教えないようだ。その後の両
国の国連加盟は1991年に成し遂げられた。「昨年は中学校社会科の教科書の改訂での、
『朝鮮戦争は北朝鮮が南進して始まった。』という朝鮮半島の記述が消されているが。
それと同じ流れ。」といわれる。北朝鮮に対する忖度だろうが、これだけ国内経済事情
や国際情勢に批判されても、文在寅政権の“北朝鮮ファースト”は相変わらずで、この
姿は北朝鮮の金氏の狂犬政治よりも狂っているといわれている。はたして韓国民はこの
ままで西側から外れたような先軍政治思想のままでいいのだろうか。


208: 名無しさんAA:19/05/03 18:56

 朝鮮人に 喝!  244

 韓国の嘘つき文は、誰が見ても韓国の独裁化と逐一に政治問題化させていることは明
らかなのに、ぬけぬけと自分たちは政治問題化させてないと言いまわす。全くレーダー
照射と同じに何でもかんでも政府筋が出てきてはこねくり回して政治問題化させてない
などと言う。もうそろそろ韓国を突き放していいではないか。韓国の文在寅大統領は2
日、大統領府で元政府高官ら有識者と会合を開き、日韓関係改善に意欲を示す一方で、
日本が歴史問題を国内政治に利用しているとして「とても残念だ」と述べた。とニュー
スは嘘を伝える。まったく関係改善などこの2年間一つも起こっていない。自分たちの
求と言い訳のみで乞食より悪いまとわりつきだ。今の元徴用工訴訟で原告側が日本企業
の資産売却申請に踏み切ったことを受け、韓国では対立激化を回避すべきだとの声もあ
るが、両国間の隔たりは依然大きい。と言うよりこうした国際法違反や条約違反は宣戦
布告と日本がみなす事が正しいし、国際社会はここで韓国か日本かを選ぶ必要があり、
それを日本政府は声明を発布しなければならないが、安倍内閣は一つもやっていない。
よく評論家の類は日本の国益とか経済損失とかを言う。だが戦争や条約破棄などはそう
した事では起こらない。そもそも小国は平和と戦争の対比で明らかに戦争の方が損失す
るのは当然である。こうした訴訟を巡り、文氏は韓国政府が、具体的にどのように対応
すべきかについては言及しなかったが、もしアメリカであったら密かに軍隊を送り、こ
の代表団の20人ぐらいを母国に送り、母国で裁判し死刑にするのが常套手段である。
つまりそれを行えない自衛隊は、日本と共に韓国に舐められ続けているのだ。韓国の無
能な追将の康京和外相は3日、ソウルの外信記者クラブで会見して「韓国が歴史問題を
国内政治に利用している」という日本での批判に対して、「そのような見方こそ、この
事案(歴史問題)をむしろ政治的にみているのではないか」と反論した。元徴用工らの
訴訟で日本企業に賠償を命じた韓国最高裁判決に関し「多くの国民の念願が込められて
いる」と主張。「国民の状況や司法府の判断を尊重していかなければならない」と説明
した。1919年の「三・一独立運動」や「大韓民国臨時政府」樹立から100年を迎
え「政府ができる限りの支援をして祝うのは、極めて当然だ」と強調した。韓国メディ
アと記者会見し、対日関係への配慮をにじませたが、訴訟については従来の見解を繰り
返すにとどめた。日本の報道も日本人も やさしく甘い限りで、政府その寛容さに甘え
切っている。これが腐敗政治と言わずして何を腐敗政治と言おうや。さっさと外交処断
や交流規制を敷いて国交を塞いでアメリカと共に戦争すべし、それが独立国だ。


209: 名無しさんAA:19/05/08 10:42 ID:OU
 朝鮮人に 喝!  245

 まるで江戸時代のようだ。かつて日本に艦船がなかった頃、中国は大手を振って国際
儀礼や取決めや手続きを取らず、壱岐対馬や長崎に降り立ち、乱暴狼藉を働いた。特に
ロシアで大砲を撃って襲った帰りには、幾人の殺傷事件があって警察の死亡者もでた。
この頃の日本は賢く外交でしか対応していない。ところがである。この属国の朝鮮国も
又、横暴を働いていた。これを憂いた者の一人が福沢諭吉である。今回韓国の文喜相(
ムン・ヒサン)国会議長の特使が13日に訪日する方向で調整が進んでいる、という。
日韓議員連盟(額賀福志郎会長)幹部によると、文氏は、今年2月に米メディアのイン
タビューで慰安婦問題をめぐり譲位前の上皇さまに謝罪を求める発言を繰り返し、日韓
関係を悪化させた責任をとり、特使の訪日は、発言の釈明が目的だろう。という。自民
党幹部らとの面会を目指しているが、安倍晋三首相や政府高官との面会は不明。と言う
が、とてもこの文氏が改心したとは思えないし、韓国国民が朴氏のような未来志向に変
化したとは思えない。福沢諭吉の「文明論之概略」では文明開化とは、日本中国朝鮮の
それぞれが、西洋列強に対峙できる独立国として、植民地にならないことが必要だと、
諭す講話を国内に広めること。としている。「脱亜論」の頃、明治15年に、「東洋の
政略果して如何(いかん)せん」という時事新報は述べている。「三国(日本、中国、
朝鮮)の文明を謀(はか)り、共に自国の独立を固く」する。そして訴える。「東方復
(ま)た西人の鼾睡(かんすい=いびきやよだれをなす姿=西洋による東洋支配)を容
(い)るゝなきこと、我責任の終局なり。」と。つまり動乱の内に抑えられたインドや
南宋(ベトナム)インドネシアなどの風評は伝え来ていたのである。しかし「朝鮮には
、中国という大国に事(つか)える事大主義をよしとする勢力」も、ぬぐいさりがたく
あり、近代文明の精神にはほど遠い世界だった。朝鮮半島で明治17年に開化派は甲申
事変と呼ばれるクーデターが起り、事大党が清に援軍を求めたが失敗した。この時福沢
の失望はさぞ大きかったことだろう。「脱亜論」はそこで書かれた。「今日の謀(はか
りごと)を為すに(アジアの独立を保つためには、)」と「脱亜論」は結論部分を書き
起こす。「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予(ゆうよ)ある可(べか)
らず、寧(むし)ろ其(その)伍(ご)を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那
朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接す
るの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は、共に悪名を免かる可らず。我れは心
に於(おい)て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。」と「亜細亜東方の悪友を謝絶
す」と書き記す。つまり、西洋との付き合い方も考えず闘争を図る様な隣人には、隣人
と共にあるより、あえて自国独自の西洋との付き合いを考えるべきである。でなければ
支那や朝鮮とともに進退(運命)が沈んで行く話になる。と警告したのだ。まったく今
の中国・韓国と同じである。財産問題の解決法を定めた1965年の日韓請求権協定が
あるにもかかわらず、徴用工訴訟で日本企業に賠償命令を出す。あるいは2015年の
日韓合意を反故にして、慰安婦問題を蒸し返す。国と国の約束を守らないで、近代国家
とはいえない。核ミサイルを持っていながら核合意や核削減協定を行わない。これでは
大国としての責任も守らない。と宣言しているようなものである。ロシアが与えた軍事
技術、米国が与えた国際地位、日本が与えた経済活性、中国は他の国の支援で今を持っ
た。しかしこれらは一体人類の為になったのか。この問いは韓国にもおなじである。


210: 名無しさんAA:19/05/09 14:22
国土交通省はいったい何やってんだ。中国・台湾・韓国等の外国人
土地習得には日本国籍人を共同権利者として常駐させること。と
通達例規を出せ。こんなの20年前にやるべきことだろう。


211: 名無しさんAA:19/05/09 21:15

「2018年のノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑京都大特別教授の研究をもと
に小野薬品工業が開発したがん免疫治療薬「オプジーボ」をめぐり、本庶氏が特許契約
に納得できない点があると主張しているのに対し、小野薬品は9日、今月中にコメント
を表明する考えを示した。本庶氏に支払う対価の上乗せに関する交渉の経緯などについ
て触れる見通し。同社が同日発表した平成31年3月期連結決算によると、支払いなど
に備えて積み立てている引当金は約172億円に上った。」なるほど、発見し開発した
苦労にあう金額じゃない。ノーベル賞ももらうほどのものだ。といいたげである。が、
本庶氏はそれは大きな間違いだ。未だオプシーボは万人に効く薬ではなく、単に学会で
認められてなかった免疫促進効果の薬理的効能が認められたに過ぎない。この小野薬品
の結果的には成功した博打的な投資に合意を付けた見返りは、相当に支払うべき単価で
あろう。つまり欲を出して、本庶氏にとっては確定的ものでも、海とも山とも掴めない
物を拾って共に研究費を払った小野薬品には感謝すべきで、これが政府相手なら訴訟や
その対価の疑義はわかるが、対等の権利の協定の契約なら、不服でもこれは認めるべき
であろう。問題は第二の成果の結論である。つまり、今のオプチーボが未完成品と仮定
して、その成果が百%効能もしくは、完成された病理改善がなされる次の薬がなされる
かが問題だ。要は、金は小野薬品は今の薬の製品製造にも投資して利益は薄いなかで、
なぜそうにも早急に金品を欲して動くのか。守銭奴でも商人でもあるまいし、もっと、
多くの人を助ける様に薬の完成を目指すのが本筋ではないか。という事だその意味では
政府の手当ても少ない。



212: 名無しさんAA:19/05/10 08:15

 京都府津市のこの児童が沢山死んだ事故は、事故を起こした車に責任をなすりつけて
いるが、実はこれは京都府や国などの 道路の作り方が悪い。つまり人間の盲点がある
ことを全く認識していない。近頃はなぜか簡単に解放された様なただただ土地を広げた
ように錯覚する道路の作り方が蔓延している。もちろん視界が広げることは悪い事では
ない。だがその広げ方に問題がある。ここの交差点も障害物をわざわざ無くして、ゴチ
ャゴチャしたもの無くした変なつくりで車のスムーズな運行を目指した様に見える。が
これは全く偽物で、スムーズな運航は、車の移動時間すなわちスピードを上げさせて、
運転手の慢心を増やし、歩行者を保護しない事を意味している。すなわち、これまでの
交通の弱者保護の精神を無くした事を意味している。こうした自治体の横暴を誰が止め
れるのか。本来議員がその審査要因なのだが、いまやヤクザつながりばかりで、小沢氏
のような、ただただ地位のみもって国の為にも人の為にもならない愚者悪衆ばかりだ。
まったく頭の悪いのか賢いのか役立たずの選挙にもならないものばかりだ。自民党の恥
知らず文化の延長である。



213: 名無しさんAA:19/05/20 01:12
 朝鮮人に 喝!  246

 ニュースによると、とうとう御馬鹿の無法者集団、総合人材サービス「パソナグルー
プ」(東京)は、田舎の兵庫県の淡路島で、韓国の若年層を対象にした就労支援事業を
スタートさせたそうだ。隠れてこそこそ外国人を雇用し、下手な日本人を教育できない
為、手っ取り早い安い人材を引き寄せる。竹中平蔵流の経済論だろう。しかし、どこの
国でもそうして起こる異邦人の国籍なき群れで大いに犯罪増加や様々なインフラの無料
使用が大きな社会問題になっている。今日本でも警察の査察の入らない犯罪はおおく、
山や街のスラム的人買い集落を作り不法滞在者は更に無国籍子供を育てている。パソナ
自体はまじめな会社と思われる活動だろうが、現実には日本語学校でも大勢の留学生が
行方知れずなのである。ある者は神社や廃屋に隠れ住み更に土地の者と共に集団化し、
犯罪集団になり喧嘩でも起これば放火したりして、集団は雲散霧消(うんさんむしょう)
で解らなくなる。パソナ自体は、田舎の島内では飲食店や娯楽施設などを運営している
が、パソナの事業の大きな柱である人材育成にも力を入れる方針なら何故広く日本人を
高給で呼ぶ努力をしないのか。今や韓国は就職難のために外国での就労を目指す若者が
いる。一方で日本では人材不足の業界ばかりで「国境を越えて社会の問題点を解決して
いきたい」というのは呈のいい言い訳で買い手市場の買い叩きのである。その健全広告
でパソナは、韓国のメガバンクや大学などが共同で実施している人材育成事業について
、日本での運営を受託したという。5〜6月、情報技術(IT)に関するスキルや日本
語能力を身につける「韓国IT人材就労支援プロジェクト〜職は日本にあり」と題した
研修プログラムまで行っている。一体誰が日本を守るのか。土地は買い叩かれ、日本人
の若者は馬鹿者に育て、まともな法律は出来ず、昔の偉業や遺産に寄りかかって経済は
ずたずたにして、何が政府や公共団体や自治体などと胸を張れるだろうか。その最先端
が韓国の有様だろう。TV朝鮮は、「ニュース9」などの報道番組で、ソウル・江南(
カンナムクラブ)などで密売されている違法薬物の中で「最高級」とされて北朝鮮製の
薬物に韓流タレントを巻き込んで薬物乱用のパーティが盛んである。と伝え「北朝鮮製
は製薬会社で作られ、純度が高く、最高級で高値で取引されている。」と伝える。そし
てこれまで安値で不純品の中国製が売れないと苦情まで写しだす。そうした北朝鮮は今
、アメリカ司法省から今月9日に、国連の制裁に違反して石炭を輸出していたとして、
北朝鮮の貨物船を差し押さえられた。これに関して北朝鮮の国連大使から国連のグテー
レス事務総長に宛てに、「アメリカは強盗国家で、国際法を完全に無視している」と指
摘、自由な「主権の侵害だ」と強く非難している。その上で、事務総長に対し「緊急の
措置」をとるよう促し、「我々は国連の行動を注視している」として対応を求めている
。戦前の日本の様に可哀想にも見えるが、5月に4日・9日と北朝鮮が弾道ミサイル試射
を実施した。トランプ大統領は懸念を表明したものの、トランプ大統領は「NO(怒っ
てもないし)、NO(失望してもない)、全然それらは短距離(弾道ミサイル)だった
。それらは短距離だったから、私は信頼が崩れたとは思っていない。」と答えたが、こ
れも馬鹿である。1〜2年もすれば核兵器を載せた遠距離用潜水艦発射型を作り米国を
脅かす。今回の試射はかなり成功した誘導付弾道弾である上に、かなりの改良された車
や飛行経路を持ったものだった。今は原爆落としても叩かねば、恐らくはイランやパキ
スタンに売られてロシアを利するだろう。米国はこれで手も足も出なくなる。更にその
隙をぬって中国が世界を席巻する。ロシアはエネルギー支配で中国と手を握る。西側の
人道的見地や考えは駆逐され、第三次世界大戦の引き金になり兼ねない。

214: 名無しさんAA:19/05/22 18:55
 戦禍 の欲望        1−02

 ルクセンブルクは20年以上連続で一人あたりGDP(国内総生産)が世界一を叩きだ
す有数の国だ。世界屈指の富裕国としてその名をとどろかせ、日本の一人あたりGDP
は世界22位と大きく引き離す。ルクセンブルクは少ない人口の為、GDP総量こそは
大きな数字にはならない。しかし居住者一人あたりが稼ぎ出す富は世界一の富豪の国な
のである。街も又ロンドンに次ぐヨーロッパ第二の経済の中心地で常に首位争いをして
いる。最初はチューリップ・バブルのピーク時であった1637年には、1個当たりの球根
が、熟練した職人の年収の10倍以上の価格で販売されるチューリップ球根も複数存在す
る程金持ちが寄ってきた。1619年から1622年にかけて、三十年戦争の戦費調達のために
ヨーロッパ全体で行われた貨幣の変造期に、バブル経済類似の熱狂が存在したと指摘す
る研究者もいるものの、チューリップ・バブルは、記録に残された最初の投機バブル(
またはバブル経済)であると一般に考えられている。ヨーロッパの歴史はすべてここに
積まれている。つまり今の考え方や文化の素がここから発生していると言っていいだろ
う。1568年、後にユトレヒト同盟に加盟することとなった7つの州は、対スペイン同盟
を大同団結して八十年戦争を終えて独立した。当時アフリカ〜スペインルートでやって
来たイスラム主義に抵抗したのである。こうしてネーデルラント地域はハプスブルク家
の所領となったカール5世の統治時代に、徐々に経済的自由を失い独裁国から呪縛を解
き放った。17州にはプロテスタントが伝わり普及して行く中、異端審問が行われてい
たからだ。スペイン国王の使者による暴力と権力の乱用は、迫害されたプロテスタント
教徒だけでなく、既存のカトリック教徒との間にも「緊張状態」を生み出していたのだ
。その後も1600年頃までには北部7州はネーデルラント連邦共和国として実質的に独立
を果たし共和国が成立しても、スペインとの戦争は終わらなかったのである。ネーデル
ラント連邦共和国は1602年、連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立して、
アジアに進出しポルトガルの1580年からスペインと同君連合と戦った。このオランダ・
ポルトガル戦争(1602年〜1663年)で勝って、香辛料貿易を奪取し、世界の海に覇を唱
える。こうして貿易の富がアムステルダムに流入して、17世紀の共和国は黄金時代を迎
える。1609年にはスペインとの12年停戦協定が結ばれたが、この時この富に管理地とし
て選ばれたのが屈強な兵士の要塞の様な都市としてルクセンブルクが選ばれたのである
。したがってアムステルダムを商業の地として、その資本を牛耳る金融の地がルクセン
ブルクであったのだ。しかし大航海時代には、ここに大きく関与したのがロシア皇帝で
ある。ハプスブルク家やバチカンの独裁に対抗しての独立戦争だった八十年戦争には、
大きな後ろ盾となり、その後の独立保持の覇権戦争には資金投機を果たしていたのだ。
ここにユダヤの金融家とロシアとのつながりがある。この繋がりにおいて明治期には、
アメリカのスペイン領をメキシコまで追い出し、更にメキシコとアラスカとフィリピン
を購入するまでに至ったのである。

215: 名無しさんAA:19/05/22 18:56
 戦禍 の欲望        1−03

 こうした白人社会の更に上層部の勝手な現地支配の取引は、アジアの不運であったが
、日本は鎖国する事によって逃れようとしたが、黒船到来で無理にこじ開けられている
。しかし、それでもリーマンブラザーズの坂本龍馬やら薩摩やらへの投資に、グラバー
商会が設けられ、他の侵略地と同じ様に西洋社会は先にキリスト教布教と武器の供与で
占領を目論んでいたが、カトリックからプロテスタントに代わりその後ポルトガルから
オランダに変化した国際情勢は、日本に幸運であったと言える。さらに日本のあまりに
整った質素でありながら華やかな江戸文化の素晴らしさに多くの居ついた西洋人らが、
日本を育て応援してくれたのも又守りになった。それは同時に惨たらしい悲惨な貧民の
華族中国、広大で多民族国家群として存在する中国大陸と、比較するに似て非なる国家
だったのだ。実はアメリカを牛耳っていたドイツ系ユダヤ人は歴史的に存在しても人種
的にユダヤ人と言うものは存在しない。するのはロシア系亡命金融家である。もともと
共産主義や社会主義は今では確定された言葉だが、かの昔から民衆の四民平等の共同の
共生国家を欲望する民衆の声は紀元前からあった。さらにシャーマンの声に権力を重ね
た家系の独裁政治の王や皇帝も同じ様にあった。この二つの流れは欧州社会には大きく
影を落として領地や権益争いを繰り返していたのである。アメリカでも民主主義でも、
同様の戦いは続く。アメリカ大統領の半数が、4つの州の出身だが、もともとが合衆国
であり各州を加入させる事で国家を大きくした。つまり民主主義自由主義と言う言葉も
開国時の日本人ですら憧れるほどの魅力ある言葉で、その為に曲りなりにも選挙という
手段を考えている。不思議な事だ共産主義に選挙がない訳ではない。ロシアにとっては
今も昔も不凍港への南下は不文律の法律として存在し国家批判は中国でさえ秘密警察が
取り締まる。つまり意見が話されるが権力者に取締りされると言う痛ましさで、226
事件を利用した軍部より忌まわしいのである。これは当時ドイツからアメリカに渡った
ドイツ系在米ロシア人も同じに共産党員として活動し国際旅団を動かしていた。これは
戦うコックで有名なジャック白井の経歴でも知れる。孤児院で育ったとされる彼は当時
の函館市にいたロシア系朝鮮人とされる。彼は15歳の時に孤児院を飛び出し、年齢を
偽ってカムチャツカ航路の貨物船に雇い貰い船員となった。1929年にアメリカ合衆国に
密入国し、ニューヨーク市でパン職人や料理人として働き、アメリカ共産党系の日本人
労働者団体とされた「日本人労働者クラブ」に属し、労働運動に身を投じた。実はここ
こそが朝鮮人が作った贋の日本人クラブだった。当時ニューヨークには、ビジネスマン
や外交官などのエリートが集まる「日本人会」、日本の中国政策を支持する国粋主義的
団体「報国団」、労働者階級が集まる日本人労働者クラブ、更に宗教法人界の邦人仏教
会などの日本人の団体が多数あった。報国団が労働者クラブを襲撃した際、白井は果敢
に防戦した。また、アメリカ人の女性と同棲あるいは結婚していたらしく、生活は豊か
なほうだったという。1936年、スペイン内戦が始まり、アメリカ共産党の義勇兵募集に
志願し、95人のアメリカ人と共にスペインへ旅立った。そして第15国際旅団第17大隊
「エイブラハム・リンカーン大隊」に配属され、マドリード防衛戦、ハラマ河の戦いな
どの激戦を経験したが、白井は職業経験を買われ炊事兵とされたが、本人は不満であり
、いつも前線に出たいと不平を漏らしていた。その後希望が容れられ、普段は炊事兵と
して、戦闘時は銃を取って前線に出る。この理由は簡単だった。当時満州や朝鮮は富ん
でいたが、日本は大都市以外は貧困であったのだ。

216: 名無しさんAA:19/05/22 18:56
 戦禍 の欲望        1−04 

 第一次大戦後は、戦時不況と言われる戦火の巨費負担が確実に起こる。それが戦前の
昭和恐慌である。この世界大恐慌は1929年(昭和4年)にアメリカ合衆国で起こした大
きな事件だった。投機金融で成り立っていたユダヤ資本のニューヨーク金融が株価暴落
と共に世界中を巻き込んで、世界大恐慌を起こしたのだ。この影響が日本にもおよび、
翌1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた
。これは、戦前の日本における最も深刻な恐慌だった。しかし実は欧州経済では、度々
起こった当然の事だった。世界初の例は、クリミア戦争が終結した時に穀物価格が急落
したことにより1857年に起こった1857年恐慌である。思えば大正天皇も昭和天皇も不幸
な時代を担った天皇であった。江戸期の将軍を諌めて、開国し尊王攘夷に明け暮れたと
される勤王の志士達もこうした世界大戦の機運を知る由もなかったろうが、世界経済の
動きも又知る由も無かったのだろう。明治天皇はこの国際的動きに激務を司った。病身
に倒れて大正天皇に継いだが、あまりにも日本は律儀で優れた民族である為米国からは
冷ややかな視線が浴びせられる中で、大正・昭和を担った。日清・日露戦争で、日本は
台湾と朝鮮半島を植民地にする権利を白人社会から奪い取った。この時既に、オレンジ
計画なるものが策定されていた。米国は1920年代にアメリカ合衆国陸軍において、日本
やイギリス、ドイツなどの国を仮想敵国として検討されたシミュレーションを持ち、そ
れぞれの国に色分けし当時高まっていた仮想敵国と正面戦争に備えて5色のレインボー
・プランが発展的に策定されている。これらのプロジェクトは1939年に凍結されたが、
世界の主要国との戦争が発生した場合を想定した戦争計画であり、その時の有効的手段
を既に定めていたのだ。つまり世界恐慌以前から仮想敵国として日本は存在していたの
である。第一次世界大戦後1920年代のアメリカは、本来はキリスト教国家として抵当権
貸付は禁止していた国だった。しかし、独立戦争で自由を標榜し、ドイツ系ユダヤ金融
の移民を取り込み金融大国となるには、欧州における二面性の理論をそのまま採用した
。それがキリスト教徒からは利子を取ってはいけないが、異教徒であれば良いという、
手前勝手な理論だ。ユダヤはそれが受け入れられるとこぞって海を渡って保険・銀行業
が起こった。その後幾つか法律が作られ改正され次第に公的に利子も保険も抵当権も共
に認められた。こうして合衆国では農地モーゲージ(抵当貸付)負債が増加して、不作
の度に農業恐慌が深刻化した。1864年国内銀行法は不動産抵当貸付をまだ禁じていたが
、連邦準備法は条件付で認めていた。その内容が改定され5年を超えない期間で、改良
されかつ抵当に入っていない農地は、抵当にその担保評価額の半分を融資の上限とし、
貸手の貸付総額が資本金および剰余金の1/4あるいは定期預金の1/3を超えないとするも
のには認められる事になっていた。1913年〜1923年の間に国法銀行の不動産抵当貸付は
この事で7700万ドルから4億6300万ドルに一挙に増加した。州法銀行の場合は元々16億
ドル超えであったのが18億ドル以上に増えた。従って恐慌時には、農地モーゲージ負債
の6割が北東中央部と北西中央部に集中したのである。こうして1916年〜1920年に農地
評価額がモーゲージ負債と共に上昇した。つまり本来25%の抵当が、方々で6割以上の
銀行貸し付けがあったのだ。

217: 名無しさんAA:19/05/22 18:57
 戦禍 の欲望        1−05

 これは、大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張拡大
、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパ地域の疲弊に伴
う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ば
れる程の大きな経済的好況を手に入れた結果だった。当然合衆国内では鉄道や石炭産業
部門をはじめ過当競争が起こり、自然過程で企業の独占欲が支配し特大企業の寡占が進
もうとしていた。もっとも資源発掘にはゴールドラッシュや原油生産量にかぎっては、
恐慌の前後ともにメキシコを除いた全世界でおおむね単調増加したし、南米油田で1921
〜1929年にわたるベネズエラ石油の増産でロシアとペルシャを終盤で追い抜く程だった
。つまり国としては疲弊する事無く国民を救わなかっただけだったのである。しかし、
日本の昭和恐慌(しょうわきょうこう)は、第一次世界大戦による大戦景気(=日本の
戦時バブル)の崩壊によって、銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化を招いて、
一時は収束するものの、その後の金本位制を目的とした緊縮的な金融政策を取り、日本
経済に深刻なデフレ不況に陥らせた。民衆から人気取りの賛意あれば、或は金があれば
何でも出来ると、西洋は勘違いされた世界を醸し出していた。しかし東洋日本では、未
だ徳川の江戸時代の、徳あるものが治める。すなわちお上が世界を決めると言う妄想の
中にいた。からだった。アメリカ国内の株式は1924年中頃から投機を中心とした資金の
流入があって長期上昇トレンドに入った。ここがロシア系ドイツ人のユダヤの個人投資
家であって、ここで土地や家や株式や保険等を担保とする、権利権の信用取引により、
容易に金銭を借金することができた理由による。株式分割だけでなく投資信託の普及も
大衆の市場参加を加速させ、投信会社等は持株会社を同一のグループに複数設けての、
レバレッジをかけるようなこともして彼らの財布の中身を膨れあがらせた。これが日本
の日米開戦の引き金になった。日本人からすれば何故?と疑問に思うかもしれない。が
同族故の愛憎離反は歴史の常である。実はドイツというのは、日本の航海術が朝鮮半島
を経由するように、地理的にユダヤの安住したポーランドやイタリアからロシアからの
東欧州から押し寄せる中東文化の行く行呈の宿命の地でネーデルランドであるオランダ
も全く同じだ。対してスペインやイタリアも又アフリカからのイスラム文化が押し寄せ
る中で同じ位置にあった。イタリアにあるいはスペインに今の中東の避難民が押し寄せ
ている事からもその昔の姿が窺い知れる。第一次世界大戦は、それまでの中東に向かっ
た十字軍の遊軍遠征からチェコなどのボヘミアンのスラブのポグラムからアフリカの、
黒人奴隷制度に変化していたのである。第二次世界大戦前に、自由・平等・博愛の精神
は打ち出されていたが、それはアメリカ国民を含め万人の主張ではなかった。現に日本
が執拗に迫った、ベルサユ条約での植民地解放はアメリカは勿論フランスやドイツすら
も賛同しなかったどころか、イギリスが仕切る中で公然と冷やかに除外されたのだった



218: 名無しさんAA:19/05/22 18:58
 戦禍 の欲望        1−06

 そんな時代の入り口で日本は画期的に恐慌を克服した。確かにこの時石原莞爾などの
満州国建国の用地を暴力的武力制圧したからではあったが、満州国を建立する前から、
日本は、台湾統治にやっと成功し、満州鉄道の権益で資本増強を果たし、南洋のインフ
ラ整備が功を奏して日本経済は浮上しつつあったのだ。ユダヤ人ハリマンは日本の満鉄
の権益に再三アタックし、一時期日本首脳にまで承諾を取り付けていたが、日露戦争で
の妥協にアメリカ政府は日本の主張は何一つ取り入れなかった。この交渉から帰ってき
た小村寿太郎大変苦労人で勉学に励んだ世界の見識を持った人だった。そもそも1901年
(明治34年)、第1次桂内閣の外務大臣に就任してすぐに、1902年(明治35年)、日英
同盟を積極的に主張して締結に持ち込み、その功により男爵を授けられる程の者であり
これによって日本は国際社会に打って出る事が出来た。日清戦争で朝鮮半島は領土とな
ったにも関わらず、先進国の三国干渉で手放し、今回の日露戦争が起こった事を知って
いたのだ。日露戦争後の1905年(明治38年)に行われたポーツマス会議の日本全権とし
てロシアの全権ウィッテと交渉したが、日本で大津事件で襲われた皇太子は1o足りと
も日本に譲歩しない姿勢に全権ウィッテも米国も手を焼いていた中で日露講和条約の(
ポーツマス条約)を調印にこぎつけている。その為この後にアメリカの鉄道王ハリマン
が満洲における鉄道の共同経営を提案したのを桂太郎総理や元老たちの反対を押し切っ
て拒否しているのは当然であった。このポーツマス条約締結を反故にした行為は昭和の
第二次世界大戦の終戦まで続いた。1908年(明治41年)第2次桂内閣で再び外務大臣に
就任すると、小村は宮崎人の見識家として本領を発揮した。幕末以来の不平等条約を撤
廃するための条約改正の交渉を行い、1911年(明治44年)に日米通商航海条約を調印し
て関税自主権の回復を果たした。日露協約の締結や韓国併合にも関わり、一貫して日本
の大陸政策を進めた。更に伊藤博文が暗殺されても韓国併合は進めるべきと意見しその
功により侯爵に陞爵された。1932年 12月8日に松岡洋右が国連に臨んで言った演説は、
「十字架演説」と言われた。1932年11月から、世界の首脳は満州国建国を認めるか否か
をめぐりって国連総会を開く事に同意した。このとき松岡洋右がもっとフリーメイソン
などの会員だったなら少しは違っただろう。政府は満鉄総裁として敢えて米国金融家と
繋がりのない松岡を据えた。そして軍部は陸海軍の軍部闘争の末、松岡を日本代表団の
主席全権大使とした。本会議で日本は非難を浴び「満州国建国は認められない」と仕組
まれた会議は進み意見が相次いでいた。これに対して松岡全権は、非難にさらされる中
の日本を、磔に処せられるイエス・キリストになぞらえ、正当性を主張した。「日本は
満州国を作ったが、東洋平和のためになんとしても必要なものであった。今は理解され
なくとも30年後や、50年後の世界には、必ず日本の行動が正しかったと評価される
であろう。今の日本はあたかもキリストと同じように十字架に架けられようとしている
。しかし、キリストがその後、ヨーロッパ社会から認められたように、いつかは日本も
認められるであろう。我ら日本に全く罪なし、されど甘んじて十字架に架けられん。」
と国際連盟臨時総会で説いた。


219: 名無しさんAA:19/05/22 18:58
 戦禍 の欲望        1−07

 しかし、この国連総会を仕組んだ人に届かなかった。それは当然であった。彼らの宗
教はキリストを批判する原理主義教団であるユダヤ教徒の集団であったからだ。この時
の会議が満州国建国を認めるか否かをめぐった事もユダヤの仕組んだ罠だった。スイス
・ジュネーブでの国際連盟の会議は、わざわざ日本叩きに臨時総会として開かれたもの
だったのだ。このときの松岡は、日本代表団の主席全権に任命されたが、既に遅きに失
していた。本会議で日本は非難を浴びたのだが、同時にイエローメディアとして新聞社
も又偽情報に溢れていたのだ。議場で、満州国建国は認められないという意見が相次ぐ
が、これに対し松岡は得意の英語で反論している。そしえこれは、「日露戦争での10万
の英霊の犠牲と、満州事変で確保したものである。」との日本の立場を訴えていた。そ
んなある日日本政府からの指示が届いたとされる。「もしも、満州国建国が認められな
ければ、国際連盟からの脱退もやむなし。」と言う電信だ。松岡は電報を送り返した。
「脱退のやむなきにいたるが如きは、遺憾ながら、あえてこれをとらず。」と返してい
る。松岡自身は、あくまで、国際連盟に残るべきだと考えていた事がここに現れている。
こうして、2月24日には、決議が行われた。「満州における中国の主権を認め、日本
の占領を不当」とする決議案は、賛成42の圧倒的多数で可決される。反対は日本の投
じた1票のみだったと言われる。実はこの国連協議は、今までの国連と違い著しく力の
ない会議で、どこの国もアメリカ主導で行われた勝手な言い分に、ただただついて行く
のみのもので既にドイツなどは脱退して意味のないものだったのだ。従って何も知らな
い外遊する代表者達の群れに過ぎなかった。可決直後に松岡は演壇に登って次のように
発言した。「この会議で採択された勧告を、日本が受け入れることは到底不可能である
。」とそう言って松岡は席を立って退場している。松岡は一言も脱退を示唆していない
。これに対して欧米の通信記者は脱退を示唆したかの様に書いて、部数を伸ばし、日本
も庶民を煽って記事を書いた。当時電信は軍部と米国の新聞社しか持たず、その通信に
頼っていたからでもあったが、それでも日本の新聞社もいい加減な報道で、1933年4月、
松岡は失意の中に帰国したが、しかし、そこで思いもよらぬ光景を目にする。交渉失敗
に、松岡を待っていたのは国民の大歓声だったのだ。新聞はその光景に次のように報じ
た。「松岡の姿は、凱旋将軍のようだった。わが国は始めて、[我は我なり]という独自
の外交を打ち立てるに至ったのだ。」と、こうして松岡は一躍、国民的英雄となってい
た。アメリカに大いに反論し決裂したと、万歳三唱まで起こっていた。これに当惑した
と言われる。実は先に言うように、各国ともいい加減な人の集まりでその後その受諾や
脱退通告などは本国からの政府の正式通知でなされるものだったが、日本の軍部も操ら
れていたのか、電波ジャックがあったのか、その一月後に日本は、国際連盟脱退を通告
している。


220: 名無しさんAA:19/05/22 18:58
 戦禍 の欲望        1−08

 1880年、松岡洋右は山口県の廻船問屋に生まれ、11歳のとき家は倒産している中で育
った、このとき松岡は、アメリカに渡って、働きながら勉強する決心をする事になった
。13歳の1893年の春に松岡はアメリカ西海岸に渡った。ここで待っていたのは、最初の
寄宿先で、いきなり薪割りを命じられるという体験だったとされた。鎖のない奴隷暮ら
しだったのだ。この家で松岡は留学生ではなかった。使用人の一人として雇われた形で
あった。皿洗い、農作業、馬使いなど下僕の重労働をして学費を稼いだ。時には、人種
差別の体験をしながらの人生だった。松岡の心の支えとなったのは、次の寄宿先になっ
たベバリッジ夫人の確かな目と温かい支援だった。最初の家は働きが悪い使用人として
外に売られ、その相手先として、ベバリッジ婦人は松岡を自分の息子の相手にと引き取
ったのである。しかし幸運にもその家では分け隔てなく接して励ましてくれたのである
。その後1898年に松岡はオレゴン大学に入学しクラスで2位という優秀な成績を収めて
いる。クラスメートは松岡をこう評した。「駆け引きに長けたポーカーの名手。」と。
松岡は後でこう語っている。「アメリカ人にはたとえ脅かされても、自分の立場が正し
い場合は道を譲ったりしてはならない。ちゃんと主張し、対等な立場を欲するものは、
対等な立場で望まなければならない。」と。これが松岡がアメリカで学んだ処世術だっ
た。その後1901年アメリカの大学を卒業して、ベバリッジ家に別れをつげ、無事日本に
帰国した。日本では英語の出来る官史は不足していた。というより軍はドイツ留学が主
であり英語特に米国の英語は特に気にしていなく、山本五十六などの海軍が少しいたぐ
らいだった。そして外務省に入省し、外交官として中国やアメリカなどに勤務する事で
地位を得た。戦時中の国のカラーコードで日本はオレンジとされ英国やカナダに次ぐ様
な友好国とされていた。しかし、第一次大戦はそれを変えた。ベルサユ条約で植民地や
奴隷の解放を謳い上げた事がきっかけだった。ドイツが作ったUボート作戦は衝撃的だ
った。英国が国家経営に使っていた貨物船団が襲われたからだ。各地の植民地から送っ
ていた物資輸送が止まって、経済が大混乱を果たしたからだ。長年睨み合いを続けて、
塹壕堀りに明け暮れていたフランスドイツの戦いも、ここで一気に蹴りがついた。それ
までは、こうした戦争と共に諸侯は賭けをして戦っていた。つまり国が負けようと勝と
うと、裏では配当があったのだ。この配当の元は当然相手のディラーと呼ばれる権利や
金を積み上げる貴族達である。そして胴元の主催者は、保険を作ったイギリス系ユダヤ
であったのだ。ナポレオン戦争時でも今の元締め的存在の銀行家ロスチャイルド家や、
投資家のロックフェラーなどが、いち早く情報を持ってそうした保証債権を売り抜けた
り、他の株屋とつるんで密かに儲けたりの話は、話が尽きない程ある。当の兵士として
行った志願兵などは、雨や冬の寒さで足には凍傷を負い、華々しい戦いは無かったが、
負傷兵として心身は多くは病んで帰って来ているのである。


221: 名無しさんAA:19/05/22 18:59
 戦禍 の欲望        1−09

 それでも英国はその賭け事の債権市場を閉めなかったし、米国の軍国主義化を後押し
して新天地を設けている。国連の経済制裁決議は、北朝鮮やイランなどで大きく有名に
なったが、実はこの頃の日本人の多くは知らなかった。例えばシベリア出兵を見てみる
と、日本はしぶしぶ多大な出費を嵩んでも、国際要請に答える形でロシア包囲に参加さ
せられてチェコ人救出を行ったりしているが、遠くはキリストの十字軍の義勇兵の時代
から、オスマントルコのイスラム侵略に中央アジアと交易していた東欧の小さな諸国を
封じ込める事は習わしだった様だ。それを知らない日本軍部は戦いとなれば関ヶ原合戦
の様に、負けない装備や軍隊で押し寄せ、来いと言った米国が引き上げても尚残留して
戦争の尻拭いをしていたのである。当の国際金融は、言うことを聞かないロシア皇帝が
退位し、ロマノフの財宝を分捕り、石油のバクーの地の権益確保ができればそれで良く
体よく数個師団しか送らない身軽な戦争で、見切りをすればさっさと引き上げて、日本
がまだ残留していると国際批判を浴びせていたのだ。学校の悪ガキの悪戯同様の有様に
日本人は戸惑うばかりであった歴史である。昭和天皇が在位した時台湾の統治が認めら
れた。この事で日本は決定的にアメリカ金融界から目をつけられる。当時中国には租界
という外国人専用の権利地が始まっていて、アヘン取引にしろお茶生糸その他諸々の、
中国役人を通さない貿易慣行が起こっていた。当然日本はそこに食い込んでいたのだが
香港が英国統治領として繁栄させていたのに見習い、台湾を独立統治領にして国にした
。これでは海外の国は租界地を作れなかった。本来は朝鮮半島もそうしたかったのだが
、朝鮮半島には今の北朝鮮づたいに、既に租界地が氾濫していたのである。米国のレイ
ンボープラン。つまりカラーコードプラン(虹色策定)によるオレンジ作戦は、国防上
の隠れた認識であった。カラープランでは、アメリカの交戦可能国を「仮想敵国」とし
て立案した戦争計画で、それぞれの国に対して色別の符号を用いていただけだが、それ
でも、他にもブラック=ドイツ、レッド=イギリス、クリムゾン=カナダ、グリーン=
メキシコ、イエロー=中国、ゴールド=フランス等々、それ相応に決めていた事は確か
な事で、オレンジが日本を「仮想敵」として立案された作戦は当然あったもので、対戦
指標が無いとする日本の方が変わっていた。多数の国を対象としており、日本だけ特別
に敵視していたわけではないものの、ウィルソン時代に既にドイツは敗戦して米国は安
泰をしていたが、フランクリン・デラノ・ルーズベルトはデラノ家を受け継ぐものとし
てこのカラーコードプランを重視していた。フランクリンの母親である、サラ・デラノ
が、政治闘争に明け暮れた生粋のユグノー教徒でありつづけたからだ。デラノ一族は、
かつて阿片戦争の頃に英国貴族とともに、中国とアヘンを含む貿易を手広く行って財を
為していた為、広東茶葉事件や辛亥革命などは、筆頭のティ・パーティ主催者であった



222: 名無しさんAA:19/05/22 18:59
 戦禍 の欲望        1−10 

 かつてのフランクリン・ルーズベルトは、共和党である。18世紀にルーズベルト家は
、「ハイドパーク家」が19世紀には民主党支持となってと「オイスター家」の共和党支
持と袂を分けた。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領のセオドア・ルー
ズベルトはフランクリンの遠縁の従兄であったが、両家は政治的な違いにもかかわらず
、親交が続いていた。その環境の中でサラが大変な難産で生んだ一人っ子であった為、
溺愛し方々の政治談議の中にも連れていった。再婚したジェームズはフランクリンが生
まれたときは54歳と高齢で長男のジェームズには息子、つまり孫がいた程で、サラは、
フランクリンの幼少時のみならず、生涯において、支配的な影響を与えている。ここに
戦争好きの顔が垣間見える。ルーズベルト評価はリベラル派(自由主義)から見ると、
ニューディール政策をはじめケインズ福祉国家的政策の開始に「恐慌への対策を具体化
した者」として評価される。共産党的と批判されるからだ。だが彼自身は自由主義に行
きたかったが、日本がそうした政策で、どこの国より早く、この恐慌を乗り切って国家
経済を立て直しに向かっていたのである。関東大震災と言う憂き目にあっているにも関
わらず驚異の成長で目を見張る者だったので、ここに促されやらぬ訳には行かなかった
のだ。しかしやってみると「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ大統領」として
評価され、それまで南部の地域政党的色彩が強かった民主党には「世界恐慌の結果発生
した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出した大統領として支持基盤を広げた。こ
うして共和党民主党問わず「ニューディール連合」と呼ばれる大きな支持基盤を形成し
てその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。この事でルーズベルト
はアメリカ政治史上で唯一四選された大統領となった。初代のジョージ・ワシントンは
三選を固辞した故事から、大統領は2選までという慣例があった。しかし戦時・有事を
理由に1940年・1944年の大統領選に立候補して当選する事になった。後に憲法が改正さ
れ正式に大統領は2期までと定められたが、これほど戦争好きが支持された事は日本に
とっての悪夢であったのだろう。このレインボープランに添って、オレンジ作戦が陰謀
の一部として行われた。という事を、「日本はアメリカの戦争プログラムにはめられて
戦争に引きずり込まれた、そのプログラムをオレンジプランという。」発言を虚実妄言
を吐いていると言う向きがあるが、「オレンジ計画」の著者、エドワード・ミラーすら
、オレンジプランが最初に作成されたのは1904年だが、オレンジプランも、この当時は
裏付けに乏しい紙上計画に過ぎなかった。として書いているほどボヤッとしたものだっ
た。しかしながら、日露戦争(1904〜1905年)後の日米間の緊張の高まりによって、海
軍将校だったルーズベルトは1913年、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって海軍次官
に任命されて、オレンジプランの重要性から実行性を練り直しさせている。そのため、
陸海軍の将校たちは、本腰をいれてオレンジプランの立案に取り組むこととなった。こ
れまでカラープランで他に本格的な計画立案が行なわれていたのは、レッド(イギリス
)、ブラック(ドイツ)くらいだったが。ここで日本と中国が入れられ、イギリスや
ドイツと並んで、本格的な戦争計画が練られたのである。


223: 名無しさんAA:19/05/22 19:00
 戦禍 の欲望        1−11    

 この色分けのレインボープランに添って行われたのは、第一次世界大戦(だいいちじ
せかいたいせん)で、1914年 7月28日〜1918年11月11日にかけて、連合国対中央同盟の
国の戦闘であったが、ドイツもまた、シュリーフェン・プランの焼き直しで戦争を行っ
ていたのである。シュリーフェン・プラン(独: Schlieffen-Plan )は、19世紀後期の
ドイツ帝国の軍人アルフレート・フォン・シュリーフェンによって1905年に立案された
物だが、この計画は1800年にプロイセン王国軍人の息子として生まれたモルトケ将軍ま
で遡るものだ。言うなれば元寇時に「神風が吹いた」と日本陸軍が言い、「皇軍行程に
敵は無し」と言う話である。まあ日本の観念論より計画立案論なので割に現実的ではあ
るものの、騎士の世界の話が機械兵団の時代まで使われているのである。修正された形
で第一次世界大戦の始めにドイツ軍によって適用され、更に第二次世界大戦の西部戦線
における防衛調略にも使われている。この繰り広げられた世界大戦に、米国は20世紀の
初頭から、最も重要視されていたのはブラック(ドイツ)作戦を打ち立てていた。この
時も海洋覇権の戦略であり、ドイツでは当時、英海軍に次ぐ世界第2位の戦艦19隻を
保有し、第5位の日本(7隻)を大きく引き離していた。その為、20世紀初頭において
の米海軍の主力は大西洋上に常駐して配置し、フィリピンに配備されていた太平洋には
旧式装甲巡洋艦数隻からなるアジア艦隊だけだった。オレンジプランの内容はその時々
で多少は変わるが、想定された戦争推移については初期計画から変わっていない。戦争
推移での大きな事は資源の乏しい日本の「日本軍の奇襲と攻勢」「消耗戦追い込みと、
アメリカ軍の報復反攻」「日本封鎖と海上攻撃」である。この項を見ればわかる通りに
最初から、オレンジプランは日本の奇襲や先制攻撃が大前提としていたのだ。第一段階
で、日本軍によるフィリピン・グアムへの先制攻撃が想定され、この先制攻撃に対する
フィリピン・グアムの防衛については、時の情勢に合わせるとしている。ここには、フ
ィリピン・グアムが失陥しないように、一定規模の陸海軍を平時より配備して防衛する
案や、日本の先制攻撃に対し間髪入れず全艦隊をもって即時反攻を行うなどの案が、政
府のコストやリスクを考慮されて決定できなかった。結局のところフィリピン・グアム
は一旦放棄される。というのが現実的だと暗黙的な了承事項だった。これを知っていた
中国が今南沙諸島の海域防備に島の建設をしているのである。第二段階で、大西洋艦隊
の航海反撃となっていて、太平洋という広大な戦域における補給(兵站)線が課題とな
っており、これについて艦隊に随伴兵站支援を行う「役務部隊」が発案された。1922年
に実現することと共にここで、オレンジプランの研究初期から、広大な太平洋を戦域と
する対日戦が長期的かつ無制限の総力戦になり得ると予測されて潜水艦防備に力を注い
でいる。第三段階にフィリピン・グアムを奪回しアメリカ艦隊が、これらを前進根拠地
として沖縄経由で日本本土に侵攻することとしている。この際に日本海軍との艦隊決戦
も予期され、日本海軍撃滅は必須とはしていない。アメリカ海軍の目標はあくまでも、
海上制海権の獲得であり、海上封鎖を行い、物資の輸入遮断をもって経済産業を崩壊さ
せ降伏に追い込むことだったのである。


224: 名無しさんAA:19/05/22 19:00
 戦禍 の欲望        1−12   

 実際にも、太平洋戦争の推移では、真珠湾攻撃や、アメリカの南西太平洋での攻勢と
いった相違はあったものの、ほぼオレンジプランの想定通りに移行した。オレンジプラ
ン立案の見識も伺わせるが、この正確さは山本五十六がハワイの石油を爆破させなかっ
た事で成功している。これがオレンジプラン陰謀論の一因でもある。朝日新聞社の「メ
ディアは戦争にどうかかわってきたか」と言う本の中では、木下和寛はこう述べている
。「日露戦争で日本が勝ったのは英米メディアの恩恵によるものであり、日本はそのこ
とに最後まで無頓着だったから十五年戦争に敗北する。そして日露戦争の講和条約締結
時にはロシアが欧米メディアを味方にすることに成功したから、日本はロシアに譲歩せ
ざるを得なかった。」といった事例がさまざま書いてある。日中戦争の事例でも日本の
真の姿が浮きぼりにされる。「『田中上奏文』に関しては戦前から多くの研究が行なわ
れ、国内ではほぼ偽書と断定されていた。だが日本、ことに外務省は、『プロパガンダ
』の恐ろしさにかなり鈍感だったようである。松岡洋右は『上奏文の用語に熟して』い
れば誰でも偽物と見抜くだろうと言った。だが、『熟して』いたのは日本人でも一部で
あり、ましてや一般の欧米人が「容易に」偽物と見抜けたとは到底思えない。」と書く
「プロパガンダに対抗する最も有効な武器はメディアを活用しての応戦、場合によって
は別のテーマを取り上げての攻撃である。しかし、この問題で欧米や中国メディアを使
って必要十分な対抗作戦を展開した形跡は見つからない。」「大日本帝国は中国戦線の
泥沼に踏み込んだことで破滅への道を進むが、中国側で日本の運命を決定づけたとも言
える女性がいる。宋美齢である。日中戦争を通じ、日本軍は戦闘では中国国民党を圧倒
し続けるが、宣伝戦では終始中国側の優勢が目立った。その立役者が宋美齢だったのだ
。一八九七年、キリスト教のバイブルを印刷して富豪となった宋嘉樹の三女として上海
に生まれた。長姉アイ齢は大富豪孔祥熙と結婚。次姉慶齢は辛亥革命で清王朝を倒した
革命家孫文に嫁いだ。美齢は十一歳で米国に留学、ジョージア州の名門ウェイズリイア
ン女学校に学び、マサチューセッツ州ウェルズリー大学に転じて二十歳まで米国で過ご
した。一九二七年、国民党南京政府の実権を握った蒋介石と結婚。この結び付きは国際
的な脚光を浴びた。」だが日本陸軍は無頓着にも夫人の行動には注視していない。「宋
美齢が留学中に築いた人脈と、米国人の宋美齢に対する親愛感は、中国の立場を世界に
主張する大きな力となった。彼女はいきいきとメディア戦に立ち向かう。『蒋夫人のデ
マ放送』が、ホノルル特電十一日発十一日午前十一時半、南京から蒋介石夫人の英語の
宣伝がNBCの中継で当地でも明瞭にこれを聴取することが出来た。夫人は「日本軍が
無辜の婦女子を虐殺している。」と日本誹謗に重点を置き、米国一般民衆の同情を惹く
ことにこれ努めその宣伝効果は相当大きいものと思われた。」米国仕込みの英語を駆使
し、米国人の心理を知り尽くして訴える宋美齢の「中国の声」は、嘘でも日本政府には
ボディーブローのように効いた。「中国大陸における権益の競争者である日本に対し、
英米仏等は完全に支那側に立ち、蒋介石政権もそれを徹底的に利用して国際世論を引き
つけたのである。」と書いている。英米仏が権益の競争者であったことは間違いない。
だが、国際世論を引きつけたのは権益をにらんだ各国の政治的駆け引きの立場よりも、
むしろ宋美齢を中心とした懸命の宣伝戦の成果で出来た世論あったと考えられる。事実
この松岡洋右の脱退前の演説の少し前に各国首脳はこの宋美齢が指示して創った「日本
非道の真実」みたいな映画が映し出され、如何にも日本政府は悪だと言う認識を持たさ
れて多数決に向かっているのである。

225: 名無しさんAA:19/05/23 21:07
危険な玩具と、大きな赤ちゃん  91

 中国の青島では23日、海軍創設70周年を記念する国際観艦式典が行われた。オー
ストラリア、日本、韓国などは艦船を派遣したが、米国は艦船や高レベル代表団の派遣
を見送った。一方で、中国海軍の沈金龍司令官は24日、米国の「航行の自由」作戦に
ついて、他国の主権を侵害するために利用すべきではないとの見解を示した。米国は、
中国が領有権を主張する南シナ海で艦船を航行させる「航行の自由」作戦を頻繁に実施
し、同盟国である英国なども同様の活動を行っている。しかし既にこうした徒労は無駄
に終わったようだ。かつての指導者、ケ小平首席は「韜光養晦(とうこうようかい)」
(才能を隠し、力を蓄える)を説き、それを施政の基本とし、国際社会での突出を避け
ながら経済力の拡大に注力した。「黒きも白きも鼠を取る猫が良い猫だ。」と説いた。
つまり、「家」(中国又は国家)を齧るネズミ(欧米日本などの侵略者)を取ってくれ
れば、黒い猫(腐敗官僚や闇組織)でも白い猫(中央政府や共産党)でもいいではない
か。と言う訳である。こうして近代化へ改革・開放政策を一途に中国は推し進めた。そ
の基盤の上に、今や新たな国家主席に上り詰めた習近平は、近代化の成果を足場にしな
がら、大きく異なる強硬戦略で自らが描く「中国の夢」に邁進しているのだが、これま
でのこの工程が如何に愚鈍の道だったかが今試されている。つまり今や米国もロシアも
日本も誰もこの不合理な国際的破壊活動を止められないのである。中国に「愛国無罪」
なる言葉がある。つまりどんな非道でも国を愛して行った行為であれば無罪であろう。
と言ういい訳である。習近平は、トウ氏の基本方針を根本から崩して攻めに転じ、現代
版シルクロードといわれる「一帯一路」構想やハイテク産業育成政策「中国製造202
5」など、大胆な国家戦略を次々と打ち出し、野心的な構想の、200万人の兵を擁す
る最新で、世界最大の戦闘組織、人民解放軍の大改造による中国の軍事力強化を進めた
。「陸・海・空仮想空間・宇宙空間・電脳空間」全てで負けてはならない。軍部に鼓舞
していた。この時同時に起こっていたのが、米艦船の「航行の自由作戦」である。 米
海軍のミサイル駆逐艦が南シナ海の南沙(スプラトリー)諸島周辺で自由に航行し、新
らたな中国の作った軍事人工島を横切るというものだ。米海軍第7艦隊(横須賀)は、
ミサイル駆逐艦プレブルとチャン・フーンの2隻が南シナ海の南沙(スプラトリー)諸
島周辺で「航行の自由作戦」を行ったことを明らかにしている。第7艦隊のクレイトン
・ドス報道官によると、2隻はジョンソン南(中国名・赤瓜)礁とガベン(南薫)礁の
12カイリ(約22キロ)以内を航行した。ドス報道官は声明で「米軍は日常的に、南
シナ海を含むインド太平洋地域で作戦を展開している。米国は国際法が許せばどこでも
飛行、航行し、作戦を展開する。我々は過去に行ってきたように、日常的で通常通りの
『航行の自由作戦』を今後も続ける。これは、どこか特定の国に対するものでも、政治
的な声明を出すようなものでもない。」と声明を出している。まあ日本の八重島諸島を
無断で中国艦船が航行するようなものである。まあ自分達が尖閣諸島近辺を勝手に漁場
として使い武装公船まで出しているのだから、中国共産党には言う資格は全くない。

226: 名無しさんAA:19/05/23 21:08
 戦禍 の欲望        1−13   

 この資金もアメリカが出している。それはアメリカの日本の権益潰しと、中国の救済
要望とに合致した行動だったからだ。当初「米国国防論」とも言えるレインボープラン
のNo1は対ドイツ戦略だった。当時の外交・同盟関係を前提としたレインボーシリー
ズの番号を付されたいくつかの構成された計画では、ドイツの南米大陸への侵攻への防
衛計画で埋まった。時の陸軍の要求を反映したものだったのだ。この時作られたのが、
対ドイツ戦略として闇の侵入者の潜水艦が作られているのだった。兵器としての潜水艇
が最初に開発されたのは1620年に、オランダ人のコルネリウス・ドレベルが、イギリス
海軍向けに発明した。これが潜水艦の始まりとされる。実戦には使われなかったが発想
そのものはレオナルドダヴィンチの時代から海中散歩の構想は書かれている。それが、
現実に実用化出来たのは、産業革命で製鉄技術が確立し、船のプロペラ運行が可能とな
ったからだ。石油の内燃機関(つまりエンジン)や電気の動力機関(つまりモーター)
が発明されると急速に軍事導入が図られた。初めて潜水艦が実戦投入されたのは1776年
とされデヴィッド・ブッシュネルが開発したタートル潜水艇が作られた。アメリカ独立
戦争時代に、隠れた物資輸送に使用された。その後も1864年にアメリカ南北戦争で南軍
が、1888年にオスマン帝国海軍が実戦投入され戦果をあげている。つまりドイツよりも
英国が早くから作り、その技術は明治開国の頃すでにアメリカに上陸を果たしていたの
である。現在運用されているガソリンエンジンなどの内燃機関によって推進した潜水艦
が開発されたのは1900年代になってからだ。近代潜水艦の父ジョン・フィリップ・ホラ
ンドが設計した「潜水艦ホーランド号」は、公式では初めての潜水艦であった。近代的
動力型の潜水艦が初めて本格投入されたのは第一次世界大戦からだ。日本でも爆雷用の
潜水艇は日露戦争時にも使われたが、動力潜水艦の有用性にいち早く目をつけたドイツ
はこの潜水艦を効率的に運用し英国経済に大打撃を与える事を思いつきUボート作戦を
行った。第一次世界大戦期の潜水艦の活躍では、大戦末期では英国が護送船団を組織し
、対策を講じたため戦果は減りましたが、結果的に終戦までに約5,300隻・1,300万トン
もの艦船を撃沈させた。ただその分潜水艦損害も激しく381隻の就役艦のうち178隻を失
っている。こうして第一次世界大戦において、潜水艦の有用性が立証され、各国は本格
的な潜水艦運用に乗り出した。ただ、戦争が進行するにつれ対潜戦略も考えだされてい
き、撃沈される潜水艦も増えた。第一次世界大戦時猛威をふるったドイツのUボートも
大戦末期には完全に狩られる側になってしまった。又第二次世界大戦期における潜水艦
の捕獲や鹵獲によって、逆に他の部署の活躍となった。というのも、潜水艦の行動が、
味方の艦船にも不明であるから、常に報告と無線連絡が必要になっていたからだ。一番
有能な魚雷も、船底の下を行くことは多々あって、見つかれば逆に致命傷を受けた。


227: 名無しさんAA:19/05/23 21:09
 戦禍 の欲望        1−14   

 しかし、第二次世界大戦では、先の大戦である第一次世界大戦において潜水艦の有効
性が立証されたことから、第二次世界大戦では各国がこぞって潜水艦の運用に乗り出す
ことになった。ドイツでは潜水艦Uボートは、第二次世界大戦でもドイツの主戦力であ
り続けた。大戦初期には連合国にとっては大きな脅威であった。実を言うと、ドイツは
第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約で潜水艦保有が禁止されていた。しかし1935年の
再軍備後は、再び建造を再開し、急速に大量に造船している。ただ第一次世界大戦同様
に英国貨客船を多数撃沈したものの、連合国が投入した新型対潜兵器や護衛艦・対潜哨
戒機・対潜水大型潜水艦などの投入によって今度はUボードが撃沈される側になってい
った。これを重く見たドイツ側がシュノーケの開発などでUボートの隠密性の向上をは
かりましたが、イギリスで開発された波長の短いレーダーによって補足されるようにな
り結局根本的解決にはならなかった。シュノーケル型が開発される前は、浮上している
時にしかエンジンでの推進はできず、浮上した時にディーゼルエンジンで発電して二次
電池に充電して潜れば蓄えた電気でモーター推進するのが一般的だったん。シュノーケ
ル型は浮上せずとも艦内から海面につきだした吸気管により、ディーゼルエンジンへの
吸排気を可能に海中推進をした。こうして連続潜航時間を大幅に伸ばすことを可能にし
たのだった。だがそれ以上に、この敵軍を発見をする為に、イギリスで開発された波長
の短いレーダーや感知レーダー発達によって補足されるというような事のほうが画期的
だった。日本の最新空母「大鳳」のN氏は語る。「太平洋戦争が始まった直後、海軍に
徴兵され、「手旗信号」を操る通信兵になり、戦争末期には日本海軍が誇る空母「大鳳
(たいほう)」に乗艦した。「大鳳」は日本の技術の粋を集めた空母の集大成だった。
そして日本での最後の正規空母だった。この時代、アメリカ空母の「エセックス級」を
別格とすれば、おそらく世界最強の空母であっただろう。日本の空母のほとんどは、巡
洋艦の改造型だったからだが、この大鳳によって初めから空母として設計された。つま
り、生まれながらの正規空母であった。しかし、大鳳が就航した1944年には、戦局は既
に絶望的で、日本の空母はアメリカの空母に太刀打ちできなかった。とくに、防御力に
おいては話にならなかった。そのキモとなったのが「VT信管」である。あの広い大空を
、高速で飛び回る航空機を、砲弾で直撃するなんて、どだい無理な話だった。そこで、
砲弾が一定高度に達した時点で、爆発させ、その飛び散った破片で飛行機を撃ち落とす
。と当時の軍は各国とも考えていた。破片で飛行機を撃ち落とすというのも、へんな話
だが、軽量化が重視される航空機は意外にもろかった。その為にアメリカは、高高度の
B29を製造したし、偵察機も戦闘機もこのB29も運転席の飛行士の命を守る工夫を
した。さて、問題は爆発させるタイミングの話だが、敵機の間近で爆発させないと、何
の意味もない。当時の日本の信管(起爆装置)は時限式、つまりタイマーで爆発のタイ
ミングを決めていた。敵機の高度の見当をつけ、砲弾の速度で割り算すれば、発射して
から爆発するまでの時間が分かる。これがタイマーの設定値であった。とはいえ、こん
なアバウトな方法では、命中率はたかが知れていた。結局、テキトーに撃ちまくるしか
なかった。ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たる。とばかりの海軍の高射砲だが、陸軍でもそう
かわらなかっただろう。ところが、アメリカのVT信管の精度は驚異的だったのである。

228: 名無しさんAA:19/05/23 21:09
 戦禍 の欲望        1−15   

 このVT型の信管は、それまでの起爆装置とは原理からして違う物だった。砲弾内に
超小型のレーダーを搭載し、近くに航空機が来たら感知させ爆発させるのである。時限
式よりはるかに精度が高く現代流である。ところが、原理はいいとして、実装には大き
な問題があった。砲弾は火薬の爆発エネルギーで瞬時に押し出される。その為、衝撃力
がすさまじい。超小型レーダーというガラス細工のような精密機械が、この衝撃に耐え
られるはずがなかった。ところが、アメリカはその問題を解決していた。この時代を考
えれば信じがたい大きな技術である。日本のベテランパイロットもやたら間近で爆発す
るようになった対空砲火に、驚くばかりであったろう。太平洋戦争中、艦船の天敵は、
この航空機だった。艦船の対空火砲は、一旦発射すれば、敵機の動きに合わせ、弾道を
修正できない。そのため、高速で飛び回る物体を撃ち落とすのは至難の技だった。一方
で航空機から見れば、艦船は巨大で、停止しているに等しい速さだ。格好の標的だった
。だから、航空機を艦載した空母は海軍最強の船だったのである。ところが、その空母
にも天敵がいた。それが敵空母から発進する航空機である。もし、有効な対空防衛シス
テムさえあれば、空母は無敵になった。早くからこの理論に徹した開発をアメリカは行
っていた。ハワイに英国で分解されたコンピューターを持ち込み、更に無線傍受やデー
ターサテライトを作り、レーダーの改正やミサイルや魚雷の命中率を高める開発のフィ
−ルドバックする大きな試射場を設けたりしていたのである。アメリカがこの実現不可
能に思えたVT信管に執着し、国内開発させたのは、この理由による。VT信管は砲弾の一
部品に過ぎず、ほとんど知られていないが、技術の高さと歴史に与えた影響を考えれば
、歴史的発明といっていいだろう。それは原爆や焼夷弾開発と同じ様に、大きく勝る国
力の戦時開発力の高さであったのだろう。空母に優秀な対空防衛システムが必要なこと
は、日本も同じ認識はあった。当然、日本の最新鋭空母「大鳳」にも最新の対空防衛シ
ステムが検討され装備された。ただし、行われたののは安価な方法であった。飛行甲板
を厚くしたのである。爆撃機が一番狙いやすいのは飛行甲板。というか、空からの攻撃
は飛行甲板しか見えない。というわけで「飛行甲板を厚くする事は防御力アップ」と、
改めて考えたのである。もちろん八木アンテナなどの開発部はVT信管やレーダーなどの
開発を望んだ。だが当初から軍部は精神論でこの戦争に挑んでいた。すなわち開発しな
ければならないものでも、開発出来るかどうか不明なものには予算がつかなかったのだ
。就航した空母「大鳳」の飛行甲板の主要部には、75ミリの装甲甲板が張られた。この
「75ミリ」には 500キロ爆弾に耐えるという根拠があった。先のミッドウェー海戦では
、日本の空母が 500キロ爆弾で沈められたからである。反面、甲板が重い分艦載機の数
は61機に減った。ちなみに、ミッドウェー海戦で沈んだ旗艦「赤城」は、91機を艦載で
きていた。

229: 名無しさんAA:19/05/23 21:10
 戦禍 の欲望        1−16   

 1944年3月7日、日本の造船技術の粋を集めた「大鳳」がついに就航する。生まれなが
らのエリート空母「大鳳」は、早々に、第1機動部隊の旗艦に抜擢された。そしてその
直後、歴史上最大の空母決戦「マリアナ沖海戦」に出撃する事になった。この作戦の目
的は、パラオ方面に進出するアメリカ空母部隊に打撃を与えることにあった。日本艦隊
は、小沢治三郎中将率いる第1機動部隊を中心に空母9隻で編成されたが、これまでの
最大戦力であった。マリアナ沖海戦は歴史上最大の空母決戦となるはずだったが、現実
はそうでもなかった。この最新鋭の最大規模の日本艦隊は数だけで、質がともなってい
なかったのである。戦況の悪化で、日本軍のパイロットの消耗は多く、供給をはるかに
超えて新人のみしかいなかったのだ。ベテランパイロットが激減し、空母の発艦、着艦
がやっとの飛行兵までも実戦に投入された。日本の航空部隊にはかつて大空を支配した
「神の子」ではなく遠く昔の話であったのだ。一方、アメリカの空母部隊は無敵だった
。日々進化させた兵器や空母が数の上でも15隻で日本艦隊を圧倒してた。質においても
、VT信管、高性能レーダー、高速で堅牢な戦闘機、鋼鉄甲板と、すべてにおいて日本軍
を圧倒した技術だったのである。1944年 6月19日〜20日にかけ、マリアナ沖では日米の
空母部隊が激突した。結果は、日本艦隊の完敗は目に見えていたのだが日本人には負け
るとは思わなかったらしい。この敗戦の後、サイパン島、テニアン島、グアム島の日本
軍基地が次々と陥落していく。この悲惨さは玉砕・特攻・万歳攻撃などで伝わる物では
ないほど過酷で悲惨だった。その後、テニアン島から出撃したB29は、広島に原子爆
弾を投下し、日本の敗戦は決定的となった。空母「大鳳」は、この歴史的な海戦では、
あっけない最期をとげた。1944年6月19日午前8時10分、アメリカの潜水艦アルバコアは
、日本艦隊を発見し、船影に向け6本の魚雷を発射した。そのうち、1本が大鳳に命中
したからだ。ただ、その時点では大事にはいたらなかった。ところが、午後2時、タン
クから漏れたガソリンに引火し、大爆発を起こした。艦内は大火災となり、手のつけら
れない状態になる。そして、午後 2時28分、沈没。もって生まれた不運としか言いよう
のない最期だった。この「大鳳」に乗艦していたN氏はどうやって生還したのか。おそ
らく、海に投げ出され、何かにしがみつき、沈む前に、敵や味方の船に救助されたのだ
ろう。その時、N氏がみた光景は相当な地獄だったに違いない。海面に漂う戦友の屍、
無数の船の残骸。N氏は帰還した後も、戦争のことは一切口にしなかった。太平洋戦争
の体験談を好んで話した陸軍とは対照的だった。N氏は、無口というわけではなかった
。むしろ、多弁で明るかった。帰還後は、農協に入り、若くして組合長にまでのぼりつ
めた。親分肌で、豪快な笑いを絶さない人だったが、戦争の話だけはしなかった。あの
終戦の日に、N氏はマリアナ沖の地獄絵図を記憶から消しさったに違いない。


230: 名無しさんAA:19/05/23 21:10
 戦禍 の欲望        1−17  

 山本五十六は、早くからその違いを知っていたようだ。資源に乏しい日本の様な島国
が、例え巨大な帝国共栄圏を持っていたとしても、輸送や貿易に頼って原料を運びこみ
、進んだ西洋技術を取り入れた軍備を整えて肩を並べても、それは結局その時の情勢で
あるに外ならず、戦争に伴って物資枯渇する国と、広い国土と多様な人種でもっている
国が、戦争と共に一致団結しては高いレベルの開発や大きく多様な生産活動が開始され
、より高く国力を伸ばしていく姿には、到底日本ごときが追いつけるものではない。と
当初から悟っていた。石原莞爾が言うように、日本がもっと良くやれば、もっと戦局が
優位にたてただろう。更に山本五十六や八雲中将などがハワイ攻撃で、製油タンクをも
空爆していたならもっとアメリカは苦難を強いられ、天皇が原爆使用の許可をしてたな
ら、米国に少々は対等にあっただろう。だがそれはそれで、それだけの話であり米国の
様に動けず開発できず生産もできず、結局は戦局を広げ戦火を大きくして敗戦になった
だけの話である。それが海軍には解っていたのだ。昭和天皇が在位した時、日本は台湾
の植民地統治と南洋の委託統治、更に朝鮮半島の韓民族統一と中国大陸の平和共存建設
にと、大きなリスクとリターンの国家プランが横たわっていた。幼かった昭和天皇には
知る由もない外国の猛威や嫉妬あるいは毒牙も又大きな嵐を呼ぶ時代でもあった。この
歴史的うねりは、敗戦という結果で終わり戦後復興に追われて昭和の時代は幕を閉じた
。しかし、敗戦からGHQに真向に向き合ったのは実は若き通訳だった平成天皇だった
事はあまり知られていない。というのも玉音放送に向けて画策し、御前会議を開いても
軍部は暴走を止めず、政府は無能だった。終戦にも御前会議に出席した陸軍大将は反対
の意を表した為二回も開く羽目になったのは、天皇の威厳はあっても満州国の愛新覚羅
と同じに象徴でしかなかったからだ。執権や実権を握っていた政府の外交官や通訳にも
生活があり全く信用におけない事が判っていて、昭和裕人は、若き皇太子である今退位
する平成天皇を読んで通訳とされた。これにより日本の平静は保たれ、秩序も大きくは
混乱しなかった。総じてこの平成天皇の大役は果たされた。それは今平成時代にあって
も、朝鮮戦争はもとよりベトナム戦争や湾岸戦争やアフガンなどに、下手な義侠心から
導かれなかった事で日本国内が安泰のまま過ぎた事である。確かに日本は普通の国が辿
った植民地経営には乗り損なった。しかしそれは元々が日本は今の中国ロシアあるいは
米国のような覇権を目指すことなく、奴隷解放とアジアの西洋列強の植民地主義の撤回
を求めての事だったからだ。たぶんに山本五十六はこの日本人が西洋人の代わりに中国
や東南アジア支配という物になり替わろうとする魂胆に大きな危機感があったのだろう
。つまり明治の正義感を持ちながらも世代交代して凶悪化する軍部の思想に違和感を覚
えていて、日本が勝っても負けても時の運だと悟ったに違いない。結果的に予想通りに
日本人は敗戦したからこそ大和魂は繁栄の帰路に就いた。さてさて今後令和を担う人々
は一体何をどう思ってどんな行動に移すのだろうか。我々の時代は終わったのであるが
願わくば昔の古き良き時代の明治の威風を知って貰いたいものだ。


231: 名無しさんAA:19/05/23 22:25
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん  92

 中国とは面白い国で、かつて80年代から2000年代まで、英才教育システムを設けてい
た。子供達に未来を託した先駆的ものだったが、中国国内ではその卒業生の半分は中国
を捨てたと言われる。7割が香港経由でアメリカやオーストラリアに移住したのである
。その後ウミガメ作戦で3割ほどは帰国させたが、この時の汚職の共産党高官の子女ま
で強制帰国させ秘密理の裁判で労働収容所や思想教育の刑務所にいれた。そのきっかけ
となったのが天安門事件と言われている。つまり優秀な人材のほとんどが、西側文化に
今の学術のその根源があると認めてしまったのである。その後紆余曲折はあるものの、
、人肉食観光や死体人形販売、臓器移植、ウイグル・チベット人収容・香港言論弾圧と
如何にも中国人らしい醜い政策が並び今や7〜600万人規模で強制収容所を運営する
。中でもその6割とされるウイグル・チベット人収容や香港言論弾圧の収容者は、時に
連絡会う事すらままならない。これを置いて近代の収容所弾圧を語るものではない。今
やユダヤの嘘の数字に満ちたヒットラーの収容所どころではない。町並み繋がれた監視
映像モニターのいわゆる防犯カメラは5Gと映像認識プログラムで、全く完全防備の中
にある。おそらく今回スパイ事件として裁判された日本人技術者は、こうした映像の中
に不審な行動と見えた素振りがあったのだろう。日本では何気ない覗きや土地探索でも
、中国共産党の組織運営では、中央共産党政府よりは、地方政府の共産党部隊のほうが
大きく強い。それは、今回の習主席と肩を並べた薄熙来の裁判でも見て取れる。本来な
ら中央政府が機能していたなら、薄熙来の地元重慶で行われるのが正常だが、重慶での
経済犯罪の取り締まりの中で、無実の財界人が犯罪者扱いされ拷問され度を超えたやり
方に薄熙来の側近として、取締まりの重慶市警察幹部から、王立軍が逮捕されたり暗殺
されるのを恐れ、成都の米国領事館に駆け込んで起こった事件だったからだ。中国内外
の分析者らの間ではこの死体の製造工場で人体標本が国際社会に流通するには中央政府
の大物も関わっている事は確かとしていた。薄熙来の失脚は、政治局常務委員会の中共
中枢の2大派閥である共青団(共産党青年団)派と上海派(太子党)との権力闘争の中
で利用され表れと言われる。今年まで中国の最高権力者である胡錦涛は、共青団の出身
だ。その下で首相をしている温家宝は、共青団出身でないものの、共青団派の親分であ
る胡耀邦につかえ、胡耀邦を深く信奉していた。胡錦涛も、胡耀邦に育てられた。その
他にも上海派であった江沢民もいて三つ巴の政争が起こっていたのである。薄熙来は、
父親の中国革命によって中共成立後に副総理などを歴任した薄家の流れで、太子党(二
世政治家)で確固たる基盤の上にあった。胡耀邦を悼む市民運動から始まった89年の
第二の天安門事件で、薄一派は反政府的な市民運動を武力で鎮圧することを主張した。
当時の最高指導者だったトウ小平の支持を得て胡錦濤は天安門事件を修め後、武力鎮圧
に反対した趙紫陽や胡耀邦系の人々は外され、トウ小平は江沢民ら上海派を出世させる
。こうして薄氏ら保守派も権力の座に残った経過がある。上海派は、二世政治家たちを
取り込んで権力を維持し、江沢民は天安門事件で薄に恩義があり、薄熙来は江沢民のも
とで出世したのだ。当然民主主義への流れには疎ましい存在だった。劉暁波がノーベル
授賞し中国も政治改革を進める頃、海外の批判に温家宝は行き詰っていた。天安門事件
で、胡耀邦や趙紫陽といった温家宝の共青団系の恩師が失脚し、上海派や太子党の台頭
を招いたことで、温家宝の思う改革も天安門再評価の提案も流れていた。この意見が、
上海派に対する挑戦状であると読み解け、温家宝は、これまでも何度も政治局の会議で
天安門再評価を熱弁しても、薄一派や薄熙来から提案に強く反対を受けていたという。


232: 名無しさんAA:19/05/29 20:50
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん  92

 中国とは面白い国で、かつて80年代から2000年代まで、英才教育システムを設けてい
た。子供達に未来を託した先駆的ものだったが、中国国内ではその卒業生の半分は中国
を捨てたと言われる。7割が香港経由でアメリカやオーストラリアに移住したのである
。その後ウミガメ作戦で3割ほどは帰国させたが、この時の汚職の共産党高官の子女ま
で強制帰国させ秘密理の裁判で労働収容所や思想教育の刑務所にいれた。そのきっかけ
となったのが天安門事件と言われている。つまり優秀な人材のほとんどが、西側文化に
今の学術のその根源があると認めてしまったのである。その後紆余曲折はあるものの、
、人肉食観光や死体人形販売、臓器移植、ウイグル・チベット人収容・香港言論弾圧と
如何にも中国人らしい醜い政策が並び今や7〜600万人規模で強制収容所を運営する
。中でもその6割とされるウイグル・チベット人収容や香港言論弾圧の収容者は、時に
連絡会う事すらままならない。これを置いて近代の収容所弾圧を語るものではない。今
やユダヤの嘘の数字に満ちたヒットラーの収容所どころではない。町並み繋がれた監視
映像モニターのいわゆる防犯カメラは5Gと映像認識プログラムで、全く完全防備の中
にある。おそらく今回スパイ事件として裁判された日本人技術者は、こうした映像の中
に不審な行動と見えた素振りがあったのだろう。日本では何気ない覗きや土地探索でも
、中国共産党の組織運営では、中央共産党政府よりは、地方政府の共産党部隊のほうが
大きく強い。それは、今回の習主席と肩を並べた薄熙来の裁判でも見て取れる。本来な
ら中央政府が機能していたなら、薄熙来の地元重慶で行われるのが正常だが、重慶での
経済犯罪の取り締まりの中で、無実の財界人が犯罪者扱いされ拷問され度を超えたやり
方に薄熙来の側近として、取締まりの重慶市警察幹部から、王立軍が逮捕されたり暗殺
されるのを恐れ、成都の米国領事館に駆け込んで起こった事件だったからだ。中国内外
の分析者らの間ではこの死体の製造工場で人体標本が国際社会に流通するには中央政府
の大物も関わっている事は確かとしていた。薄熙来の失脚は、政治局常務委員会の中共
中枢の2大派閥である共青団(共産党青年団)派と上海派(太子党)との権力闘争の中
で利用され表れと言われる。今年まで中国の最高権力者である胡錦涛は、共青団の出身
だ。その下で首相をしている温家宝は、共青団出身でないものの、共青団派の親分であ
る胡耀邦につかえ、胡耀邦を深く信奉していた。胡錦涛も、胡耀邦に育てられた。その
他にも上海派であった江沢民もいて三つ巴の政争が起こっていたのである。薄熙来は、
父親の中国革命によって中共成立後に副総理などを歴任した薄家の流れで、太子党(二
世政治家)で確固たる基盤の上にあった。胡耀邦を悼む市民運動から始まった89年の
第二の天安門事件で、薄一派は反政府的な市民運動を武力で鎮圧することを主張した。
当時の最高指導者だったトウ小平の支持を得て胡錦濤は天安門事件を修め後、武力鎮圧
に反対した趙紫陽や胡耀邦系の人々は外され、トウ小平は江沢民ら上海派を出世させる
。こうして薄氏ら保守派も権力の座に残った経過がある。上海派は、二世政治家たちを
取り込んで権力を維持し、江沢民は天安門事件で薄に恩義があり、薄熙来は江沢民のも
とで出世したのだ。当然民主主義への流れには疎ましい存在だった。劉暁波がノーベル
授賞し中国も政治改革を進める頃、海外の批判に温家宝は行き詰っていた。天安門事件
で、胡耀邦や趙紫陽といった温家宝の共青団系の恩師が失脚し、上海派や太子党の台頭
を招いたことで、温家宝の思う改革も天安門再評価の提案も流れていた。この意見が、
上海派に対する挑戦状であると読み解け、温家宝は、これまでも何度も政治局の会議で
天安門再評価を熱弁しても、薄一派や薄熙来から提案に強く反対を受けていたという。


233: 名無しさんAA:19/05/29 20:50
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん  93

 このほど、日本で、中国の習近平(シーチンピン)指導部に異論を唱えた中国の改革
派の学者が所属先の清華大学から停職処分を受け迫害が行われた。日本人の研究者や、
ジャーナリストら計70人が処分撤回を求める声明を連名で中国の大学側に書簡を送っ
た。呼びかけ人の鈴木賢・明大教授と阿古智子・東大准教授が21日、会見した。鈴木
氏は「放置すれば他大学にも広がる懸念がある。弾圧を止めるために日本からも声をあ
げることが重要だ。」と語った。今や日本の大学も半数以上が中国からの帰化日本人で
ある。そしてその中には孔子院出の体制派である中央共産党のスパイとして日本で活動
する人々も多い。しかしそうした中でも、今だまともな活動が行えるのはTV局や日本
の大学の中枢がそれを知っているからだだろう。処分を受けたのは、法学院の教授の許
章潤氏(56)。声明によると、許氏は今年3月、大学側から「問題の調査」を理由に
、授業や研究活動など「一切の職務」を禁じられた。 3月下旬に北京で許氏と面会し
た阿古氏によると、許氏は、大学側から過去の海外渡航の目的や誰と会ったかなどを聞
かれたと説明。政府機関の国家安全省からも聴取されたと話していたという。許氏は昨
年7月、ネット上に公開した論文で、習指導部が憲法改正で国家主席の任期制限を撤廃
したことを批判した。習氏を崇拝するような風潮についても「やめなければならない」
と指摘、1989年の天安門事件の再評価も求めた。しかしこうした中国共産党の対応
に日本政府は全く支援していない。中国の工作隊はすさまじく、量も質も過激さも日本
人が想像している以上である。韓国のKCIAが金大中氏を日本で拉致したが、こうし
た中国人が帰化中国人の民間人を、調査し拉致し本国に連れて帰り、思想教育所や労働
収容所に収監している。ウイグル人向けの収容所内にいる2割の中国人とされる人は、
そうした人だ。別に砂漠にあるわけではない。今回スパイ罪として無期懲役になったと
される日本人には過去に通訳に雇った「リョウ・チョウ」なる友人がいたが、すでに、
過去には、この地の地方共産党員の大物は、拉致し処刑し残虐な殺害にまで及んでいて
、隠し通すことは党の方針である。10年や20年も前の事をほじくり返して傷口を見られ
たくない。としているのだ。自由の航行作戦として南沙諸島を航行する艦隊は米国のみ
ならず英国も行う。この実施に対し、同諸島の領有を主張している中国の外務省は、「
米軍の行動は国際法に違反し、中国の主権を著しく害している」と反発するコメントを
出し、中国軍も艦船を派遣して、米艦船に同海域から出るよう警告し。米側に厳正な申
し入れをする。しかし、ファーウェイ問題同様に、裁判や主張には、欧米の自由主義の
基準を用いて広く公表し、国内の民衆や陰で行う他国工作には、戦争さながらに人権も
非道もない卑劣なハッカー集団であり、大掛かりな中央工作員の技術盗作部隊で、南沙
埋め立ても、批判を交わす為に業者に託した民兵組織の日本で言う武装船団方式のやり
方で、国でもない、民間でもない、と言う極めて単純なトカゲのしっぽを使った解放軍
なのである。つまり膨大な軍費の倍を民兵組織が企業として政府と共に行っている国。
これが中国なのだ。





234: 名無しさんAA:19/06/01 12:57 ID:b2
 朝鮮人に 喝!  247

 韓国は中国・成都で行われた『パンダ・カップ2019』の決勝で、地元の中国を3ー0で
下し、3戦全勝で優勝を決めた。セレモニーにおいて韓国選手団がトロフィーを踏みつ
けるパフォーマンスで記念撮影を行っていたことが明らかに。これを受けて大会組織委
員会は、 5月30日に韓国の優勝剥奪を決定。韓国チームやスタッフが謝罪する事態とな
っていた。しかし、韓国の“行き過ぎた行為”はこれにとどまっていなかったようだ。
中国メディア『新浪体育』は、一部の韓国選手がトロフィーに向かって小便をかけるフ
リをしていたことも指摘。「侮辱的な行為だ」と非難し、「成都サッカー協会の会長は
韓国が今回の問題に関与した選手を罰しない場合は、FIFA(国際サッカー連盟)に
も報告をする準備ができている。」とニュースは伝えている。そもそも韓国人には音楽
もスポーツもやる資格がない民族なのだろう。麻薬こいて歌手になった者は多くいるが
、事務所で公然と嘘の声明を出し、知っていながら庇う芸能プロダクションというのは
あまり例はない。捕まっても尚違うと言い張るのだから正に韓国人だ。今回もサッカー
と言うよりはスポーツをやる資格がないのだ。サッカーを本人だけがしていると勘違い
している。そのスタジアムには管理に多くの人員がいるし大会にも組織関係者が働く。
スポーツそのものにも審判団が常駐し観客を動員して成り立つ。その為にそうした裏方
に感謝して楽しませてもらった。と日本人は片づけし出来る限りは綺麗のまま帰る事を
心がける。それが日本代表サポーターが、応援席のゴミを拾っている理由だ。それが、
サッカー反対、『パンダ・カップ』反対、のような行動である。共に戦う敵を讃えると
言うのは将軍すら行う行為だが、韓国人には命を賭して戦う兵士にはなり得ないほどに
頭のイカレタ非人なのである。まるでかつてのコリアンカーストの世界を見るような物
だっただろう。そもそも国の最高裁判所と言う極めて知的所有の最高レベルが、国際法
を破るのだから、アマゾンのジャングルの住民やアフリカの未開地の土着民より性質が
悪い始末だ。そんな韓国に欧州のバカな国際裁判所は、生鮮食料品の規制をまともであ
るというのだから、如何に他人を惑わす嘘が上手いかが解る。「まるで息をするように
嘘をつく韓国人。」というのは国際的共通認識であろう。それはトランプの北朝鮮交渉
にも表れている。資格もない文政権が仲介人に躍り出てオリンピック憲章すらツバを吐
いたような行為をし、せっかく首脳会談に持ち込んだ時は米国を足蹴にするように回り
の堀を埋めていた。制空権も軍事演習も拡声器攻撃も何もかも交渉する前に引っ込めて
北の代表の一人として振舞った。これでは交渉できるはずはない。案の定北は核もミサ
イルも毛頭捨てる気はない。自分達も北朝鮮の醜い行為も考えも全く同じなのだ。拉致
の認識すら非道と思ってないらしく、過去の歴史上の非道者や独裁者やテロ犯人を崇め
て止まない。こんな事を続ける韓国民をだれが手をさし伸ばそうか。漢江の奇跡も日本
人からすれば、援助そのものが失敗した国策だったのだ。


235: 名無しさんAA:19/06/26 06:11
 朝鮮人に 喝!  248

 安倍政権はどうやらG20でも韓国の文氏とは会談しないようだ。険悪な時期だから
こそ密に会談せよとの声はあろうが、全くやる理由がない。時間の無駄というものだ。
どうせやっても小憎たらしい韓国政府は外相会談同様に国内世論の人気取りに利用する
だけで何ら前進する事はない。そもそもロシアのクリミヤ奪還でもトランプのイランの
核合意廃棄でも中国の南シナ海占有でも、英国の香港返上でも、現状の枠組を壊す行為
は、現状の世界平和を壊す行為でもある。ということに認識がなさすぎである。その意
味でもその先駆者たる韓国は西側にとっては忌まわしい存在である。何ら力のない詐欺
師と同じに北朝鮮と米国の仲介役となる様な様相だったが、結局は漁夫の利を得た韓国
経済の立て直しであり、告げ口外交と言われた朴政権より性質が悪い。その性格そのま
まに八方美人外交で行き詰っている。日本に言いがかりをつけた大法院の違法性も問い
かけず成り行き任せで日本に近づこうとしている。自立心のない癌細胞のような寄生虫
政治のありのままに、それを恥としないようだが実利で大きな毀損を負う。又当面続く
だろう米中の貿易対立は、完全に米中それぞれの安全保障対立になった。こうした中で
韓国の文在寅大統領は、大阪で中国の習近平国家主席と、ソウルでトランプ米大統領と
相次いで会談するという。これは韓国のこれから50年を占うものだろう。当然ながら
“米中の板挟み”状態に直面し、西側同盟国の長とする米国の安全保障への寄与を深め
るか。その脅威となる中国の意向に沿うか。の踏み絵を踏まされる。5G整備を急ぐあ
まり国内行動が筒抜けとなるだろう大手華為技術(ファーウェイ)機器に、民間商取引
ではあるが、韓国のサムスン電子やSKハイニックスなど約106億ドル(約1兆1千
億円)相当の部品を販売し供給していた。このまま韓国が曖昧な態度を続けた揚げ句に
これまで通り取引すれば、中国は「不利な状況にはならない」と説明している。しかし
米国側は「信頼できない供給者の設備が含まれれば」、同盟国との安全保障の情報共有
を見直す可能性を韓国メディアに示している。米国からすれば当然であろうが、これが
韓国に決断の度合いを高めている。だが中国側も黙っていない。米メディアによると、
中国当局は、海外のIT企業関係者を呼び、米国の華為排除に協力すれば、「深刻な結
果に直面するだろう」と警告し、米軍の最新鋭迎撃システム「高高度防衛ミサイル(T
HAAD)配備」の時の様な、中国での韓国ドラマや韓国への団体旅行の制限を招き、
日本への官制デモ時のような“報復”の二の舞いの懸念を示唆している。韓国文政権は
「企業の自主性を尊重する」との立場で、判断を投げ出し、大法院判決の様に、企業に
丸投げしている。そして「米韓の軍事・安保分野への影響は全くない」とも強調してい
る。日本企業の賠償裁判でも、歴史問題と政治問題は切り離しているから問題ない。と
していたが、しかし言葉と裏腹に判事を取り換え、わざわざ全く逆に政治問題化にする
という遡り判決を起こさせている。韓国特有のブラックギャグ政治である。しかしこれ
を笑い話で笑えない韓国人のはずだ。そんな余裕のある世界情勢ではないし経済も悪い
。強いて言えば、アメリカのトランプさえも、デールと称した大口叩いて交渉できる程
共通認識はない。従ってイランの核も勝手なイスラエル拡大もあるいは日米安保や同盟
批判もそうそう米国を良くしないで悩ましい結果を生む。今やイスラエルも米国も原爆
が落とされても世界の人民は納得するほどキチガイ外交をしている。良心なき言動は、
それほど人々に怒りを植えさせている。


236: 名無しさんAA:19/08/26 12:30
a

237: 名無しさんAA:19/08/26 12:30
朝鮮人に 喝!  290

 中国人や朝鮮人達が、ソ連からの煽動に、革命を唱えて殺戮を繰り広げる中で、なん
とかアジアの文化文明の浮上をもたらしたい一心の行為であったろう。これだけ進歩し
た中では、文政権の様に過去を否定することは全く簡単な事だ。独島はわが土地と言う
嘘を唱える事も楽な事だ。ところが竹島が日本の持ち物だった。日本は苦労して植民地
経営をした。と正しい歴史や正義に基づく発言は本当に、苦労し政権すら対峙する危険
なことだ。しかし、台湾島民も香港もそうして今まで自治を完成させて来た。それは、
誇りであり称賛されるものであり、人類が犯してならない正義なのだ。日本が敗戦する
と解っていながら戦い、わざわざハワイのコンビナート残して爆撃し、原爆開発すらも
ひっこめた理由は、ただ一つそれは日本人だからだ。原爆を落とされても米国に裁判を
しないのもそうした正義や人間性や公平平等公明の原則こそが人類が求めるべきものと
認識しているからに他ならない。この公けを大事にする。これこそは日本人の宝だろう
。それらの希望が突然止まる事態が生じてくる。これがアメリカのナチスドイツ侵攻に
、モンロー主義での参戦拒否である。国内世論にかんがみ政権維持の為に不戦を宣言し
た。リンドバーグが掲げた「アメリカ第一主義委員会」の戦争反対に合わせたものだ。
この1941年の宣言は既にナチスがフランスを侵しイギリスが襲われた頃の話である
。これには日本が大陸建設したようにそれは地政学的問題からであった。日本が無償の
国家建設に勤しんだのにはそれは日本の隣国という抜きがたい運命があったからだが、
当時にアメリカが欧州に対してモンロー主義を掲げたのは2つ事からだ。一つはドイツ
諜報員やドイツシンパの人間が中流層の大半そ占めていたからだが、それ以上に問題だ
ったのは、同盟国とは言え仏国や英国のドイツ侵略は遠い海の向こうの出来事だったか
らだ。すでに1940フランスは陥落しルーズベルトはしつこくチャーチルから同盟国
としての支援要請を受けていた。チャーチルと仲良しのルーズベルトは二期で終わると
ヒットラーは見ていた。しかし彼の敵になる立候補はいなく、小粒なWウィルキーに、
「三期目の大統領は三流の人間に勝る」と言うフレーズで大勝した。既に日本には輸出
禁止し日本人の渡航禁止をして、戦争に備えていた。声明では「英国は米国に闘ってく
れとは言ってない。自由と平和を守るための兵器を送れと言っているのだ。」と説明し
て軍備増強を計り増産を進めていた。兵器工場に暴動が起こっても進められ、欧州イギ
リスに送られた。すでにB−24新型爆撃機の工場をフォードはつくり、全土で1万数
千機が生産され艦船も新たに毎年二百隻という増産体制を維持していた。この戦時需要
にアメリカの不況が吹き飛んだのである。戦争用意の正にこの罠にはまり、決定打を放
ったのが 1941年12月7日感謝祭の終わった頃の真珠湾攻撃だったのだ。特命の
全権大使として来栖三郎(くるすさぶろう)11月27日から訪米し会談を重ねていた




238: 名無しさんAA:19/08/26 12:30
朝鮮人に 喝!  291

 しかし、特命派遣の和解の為の全権大使の来栖三郎が来たときには、前日の11月26日
に、ルーズベルトとハルは「日本に奇襲攻撃をやらせた方が、アメリカ世論を燃え上が
らせるのに都合がよいではないか。」という意見で一致し他のユダヤ金融とも一致して
いた。そこで結局、「暫定協定案」を捨てて、「平和解決要綱」(ハルノート)を日本
側に手渡した。「ハルノート」のその内容は、要するに明治以降の日本の大陸における
一切の権益を全部放棄して、4つの島に引っ込めということだった。もしも、こんな言
い分が通るとすれば、アメリカもハワイやカリフォルニア・ニューメキシコ・テキサス
などを返して、東部13州に戻りなさいということになるはずだ。と来栖は激怒しての
反論を行った。大陸からの引き上げは、これは当時の日本の国家の解体を意味するもの
である。とアメリカも知っていた。日米共に外交交渉を続けていたのに、いきなり国家
を解体せよと言われて「はい、そうします」と返事する国があるとは思えない。と認識
していたのである。ハルノートに対して、回避派の東郷外相でさえも、「長年における
日本の犠牲を全然無視し、極東における大国の地位を捨てよ、と。これは国家的な自殺
に等しい。最早や立ち上がる外ない。」と判断した。その感想を手記にしている。曰く
「ハルの公文書はアメリカ当局の予想によれば、交渉が決裂して戦争になるとして万事
を準備したのち、日本側の受諾せざることを予期したものであって、日本に全面降伏か
戦争かを選択せしめんとしたものである。」と結んでいる。日本側も、このハルノート
が最後通牒だと確認し、12月1日御前会議にて誰からの異論もなく、天皇も異議を唱
えなかった。こうして聖断を下した事になったのである。この時天皇が戦争を抑えたら
、内乱になり、皇室の一大危機になっていただろう。それはよいとしても、結局は戦争
になっていただろう。しかし、その前にも既に、日本はアメリカに大統領との会談を強
く申し入れた。その時、ABCD包囲網さえ解いてくれれば、中国からの撤兵さえ考慮に入
れていた。(これはちゃんと記録に残されている)しかしルーズベルトは既に開戦を決
めていた為、話し合いの場に出てこず、ハルが代わりに出てきた。そしてのらりくらり
とするばかりであった。そして、日本に奇襲させる為にハルノートを突きつけたのだ。
日本にとっては寝耳に水で、予想もしていなかった。座して死を待つか、一戦を挑むか
二者択一を迫られたのだった。実は1941年9月6日に開かれた「御前会議」では、
昭和天皇は開戦か否かを話し合う重要な会議で、異例にも歌読みをして会議している。
「よもの海 みなはらからと思う世に など波風のたちさわぐらん」
(四方の海は みな兄弟だと思っているのに なぜ余計な波が騒がしくなるのだろう)
というものだが、これは日露戦争の開戦にあたり、明治天皇が戦争回避の願いを込めて
詠んだ歌であった。「戦争を避けたい」という希望を強く日本の指導者たちに暗に伝え
たのである。、しかし後に開戦に向かう現実があり300万もの死者を出すことになる
。そしてこの会議の内容は、各種各国の日本人諜報員でアメリカにも筒抜けだったので
ある。この意図について、昭和天皇は1985年(昭和60年)の記者会見で明確に次のよう
に語った。「会議の議題の第一議に戦争準備をすることが掲げられ、また、次に平和の
ための努力となっていましたが、私は平和努力と言うことが第一義になることを望んで
いたので、明治天皇の御歌を引用したのです。」と


239: 名無しさんAA:19/08/26 12:31
   朝鮮人に 喝!  292

 しかし、この和歌の成立時期で、和歌の解釈は大きく変わる。「よもの海」の詠まれ
た明治37年(1904)年2月10日は御前会議で日露戦争開戦が決まった日であった。
御前会議の直後に詠まれて心情としては「自分の本意ではないが、国策として大国ロシ
アと戦うことが決まってしまった。平和を愛好する明治天皇自身は、「やむをえず戦争
を容認する」のだ」という苦衷の歌だったのだ。明治天皇は日露宣戦布告の詔書で「豈
(あに)朕が志ならむや」の一文を書き加えた。これが「よもの海」の三十一文字に託
された「平和愛好」と「開戦容認」を集約した言葉で「豈朕が志ならむや」だった、の
である。つまり昭和天皇は、偉大なる祖父のその無念に重ね、自身も日米宣戦の詔書に
「豈朕が志ならむや」と加筆することになったのだ。こうして「よもの海」を素直に読
んだ場合と、詠歌時期を念頭に置いて読んだ場合で解釈が違ってくる。その“からくり
”によって、大きく開戦に動いたのだ。日米戦争後から三ケ月後、日本はまだ快進撃を
続けていた。この時期は山本五十六以下の海軍が主役となった戦争と一般的には受け取
られ、陸軍は「勝利の分け前を要求する権利は我々にこそあり」とアピールしたかった
昭和天皇は一大決意で臨んだ御前会議で、「平和」への意思を伝えようとした努力は、
立憲君主ゆえに抑制して、自分の意見を明治天皇の歌を借りて云った。「よもの海」の
「平和愛好の御精神」を強調したつもりが、それは、よりによって「開戦やむなし」の
和歌だった──のである。そうして陸軍記事の底流には、「よもの海」が日露開戦決定
の後に詠まれた。という事は「正当な解釈」では、戦争に反対されていた陛下にご納得
いただき、日米開戦やむなしと決断していただくのに力を尽くしたのは、わが陸軍であ
る、と。陸軍賛歌を記事にしていたのである。こうして「平和愛好の御精神」は実録か
ら消去しなければならなかった、と伝えている。そして各国のスパイも大きく日本人の
学者や指導者層の解説を聞いて「開戦やむなし」の声を本国に伝えて、ドイツは微笑み
アメリカは一層の準備にかかったのだった。従って来栖三郎大使は既に時遅しの話に、
アメリカは受け取っていた。フーバー大統領の『裏切られた自由』の中では、この開戦
の責任はルーズベルトらにあると結論に達している。書には生々しい会話が頻繁に登場
する。ハルノートを日本に手交する前日、11月25日に、ルーズベルトはハル国務長官、
スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官らを招集し、その会議では、ルーズベルは明快
に「問題は、いかにして彼ら(日本)を、最初の一発を撃つ立場に追い込むかである。
それによって我々が重大な危険に晒されることがあってはならないが」と語っている。
そして11月28日の作戦会議で、日本に突き付けた10項目の条件についてハル自身がこう
述べていた「日本との間で合意に達する可能性は現実的に見ればゼロである」。日本が
絶対にのめない条件を突きつけたと報告していたのだ。1941年11月26日にハル国務長官
が日本に首肯した10項目の要求「ハルノート」についてこう書いている。「1900年以来
、アメリカのとったいかなる対日外交手段に比べても先例をみない程強硬な要求であり
、どんなに極端な帝国主義者であろうと、こうした方針を日本との外交政策に採用しな
かった。」それほど悪趣味の上日本を翻弄させ世界を闇迷に落とし込んだ。東京裁判で
ただ一人、戦犯とされた日本人全員の無罪を主張したインドのラダ・ビノード・パール
博士は、ハルノートを「外交上の暴挙」と喝破し、それまでの8ヶ月にわたる交渉の中
で一度も話し合われたこともない過激な条項が、突拍子もなく突然に理解し難い形で、
日本に突きつけられていた。と話す。ビアードは「野村吉三郎駐米大使や来栖三郎特使
が日米戦争回避の道を探り、暫定措置を決めて、そこから本交渉に入ろうと懇願しても
、結局はハルは相手にしなかったのである。」と書く

240: 名無しさんAA:19/08/26 12:44
  朝鮮人に 喝!  293

1934年の7月に、中国国民党の大軍に、根拠地の江西省瑞金を包囲された。毛沢東他の
中国工農紅軍(後の共産党軍)は当地を放棄して「長征」を開始する。まず、四川省を
目指して華南を西へと横断し、国民党軍はこれを追撃した。その中で取り残された紅軍
の各部隊は華南各地に潜伏して抵抗を続ける事になったし、付近の村民達は、拉致され
るか集落ごと焼き払われるかの憂き目に会う。1936年10月、毛沢東の紅軍本隊は四川省
をさらに北上し、彼らを支援するソビエト連邦と直接連絡を取れる陝西省延安まで何と
か辿り着く事に成功して逃避行を終えた。しかしこの時スターリンの絶頂期で世界に向
け暴力革命を呼びかけて、国内的には反対者の粛清に成功していた。その煽りは日本で
でも天皇機関説を出した美濃部達吉が右翼に襲われ、2月には二・二六事件勃発翌日に
東京市に戒厳令敷かれるなど、策動作戦で各国政府は混迷に陥っていた。ドイツも市民
の不満をそらす為に独ソ不可侵条約を経て、再軍備宣言をしたアドルフ・ヒトラーは、
ラインラントに軍を進めた。フランス軍はドイツ軍と戦争できる状態に無いと信じてい
たので交渉での解決を信じていた。ルートヴィヒ・ベック陸軍参謀総長はヒトラーに、
ドイツ陸軍はフランス軍の反撃からドイツを防衛することはできないと警告し、ヒトラ
ーは、フランスが軍事介入を行うようであれば、ドイツ軍は即座に撤兵する。と笑った
フリッチュを安心させてこの年に進軍させた。その意味ではこの年の1月の独ソ不可侵
条約更新はソ連の諜報作戦の思うつぼでもあった。事実フランスは国際連盟に従うとし
て大人の対応をしている。ロンドンで国際連盟総会が開かれ、ドイツへの制裁に賛成す
るとした唯一の代表は、ソビエト連邦の代理のみだった。どの国も第一次大戦の痛手が
残っていて欧州の一員として丁重に扱ったのだ。総会はドイツ軍のラインラント進駐が
ヴェルサイユ条約とロカルノ条約に対する違反であるとの声明に終わった。ヒトラーは
「領有主張を行うつもりは無い」という返答を行ない、イギリスやフランスとの間での
25年の不可侵条約を結ぶことを要求した。しかし、イギリス政府は提案の条約に関し
て詳細を要求したが、それに対する回答は無かった。口から出まかせの言い逃れだった
のである。ポーランドはフランスが侵攻された場合にのみ、フランスを支援すると規定
した協定を結んでいたし、ベルギーはかつてフランスとの同盟を締結延長していたが、
ドイツ軍がラインラント進駐しても、中立性を維持するという選択の声明を行っている
。イギリスは様々の意見であったようだが、「ヴェルサイユ条約を守らそうとする手段
を欠いている」「大衆の意見は軍隊を全く支持していない」と一次大戦の戦争のトラウ
マのある民衆の思いがありありで、とりあえずラインラントの対峙するフランスへの物
量支援で落ち着いた。スペインでは7月17日にソ連の暴力革命にフランコが立ち内戦
勃発の憂き目にあった。国際旅団が駆け付ける糸口になった。あの戦場のコックの白井
や、ピカソのゲルニカの時代の紛争である。11月3日 アメリカ合衆国大統領選挙では、
フランクリン・ルーズベルトが三選を果たし、いよいよ日本は輸入が途絶えたのである
。国内的には粛清の結果反対者の居ないことで1936年憲法で制限選挙の撤廃、普通直接
選挙の採用、労働権、休息、余暇、医療保障、高齢者・病人看護、居住、教育、文化的
援助などを取り決め、日本は動揺の時期を迎えている。


241: 名無しさんAA:19/08/26 12:45
   朝鮮人に 喝!  294

 紅軍の「長征」が終わった毛沢東に、スターリンは更なる策謀指令を発している。蒋
介石と共同して日本軍に対抗する提案である。食糧と武器の支援と更に安全に防御の保
障を盾に同意させられ、コミンテルンの指導で蒋介石の居場所を探り監視・捕縛・監禁
に及び、蒋介石合同の抗日戦線の同意を求め、第二次国共合作への目処が付けられた。
こうして次の年1937年7月、盧溝橋事件が引き金となって日中戦争が勃発し、翌8月には
第二次国共合作が成立した。それに伴い陝西省の紅軍本隊は記念する第八路軍(八路軍
)となって、日本軍に隠れて国民党軍に組み込まれた。また、江西省・福建省・広東省
・湖南省・湖北省・河南省・浙江省・安徽省といった幅広い地域に残留していた紅軍の
各隊にも集合がかけられ、同年10月に中国共産党の指導で一軍として再編制された後に
、国民党軍の指揮下に入り新編第四軍と名付けられた。これが新四軍である。1936年は
7月31日 - 国際オリンピック委員会で第12回夏季オリンピック開催地を東京に決定
8月1日 第11回夏季オリンピックがベルリンで開幕(?8月16日)
8月24日 - 成都事件。四川省成都で日本人新聞記者2名が殺害される(他2名重傷)
9月3日 - 北海事件。広東省北海で日本人商人が殺害される
9月19日 - 漢口邦人巡査射殺事件
9月23日 - 上海日本人水兵狙撃事件
9月26日 - ソ連でスターリンの大粛清が本格的にはじまる。
11月30日 - 綏遠事件。関東軍が内蒙古軍を指揮して綏遠省に侵攻し中国軍に敗退
12月12日 - 西安事変。中華民国西安で張学良・楊虎城らが蒋介石を拉致監禁事件
12月31日 - ワシントン海軍軍縮条約失効
1938年、9月28日午前10時に戦争の仲介に、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相
が入り、イギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、イタリアのムッソ
リーニ、ドイツのヒトラーが集まり会談を行う提案を行った。ヒトラーは応諾し、開戦
の延期を声明した。報告を受けたイギリス議会では大歓声が起こり、戦争勃発の懸念か
ら低迷していたニューヨーク株式市場も一斉に反発値上がりした。こうして翌日29日、
ミュンヘンで4カ国の首脳による会談が行われた。チェコスロバキア代表のヤン・マサ
リク駐英大使とヴォイチェフ・マストニー駐独大使は会議には参加できず隣室で待たさ
れた。ダラディエは会議直前に「すべては英国人次第だ。我々彼らに従うほかない」と
発言している。実はズデーデン地方と呼ばれるチェコスロバキア政府は防衛にソ連とも
フランスとも条約を結んでいた。そうした中でチェコスロバキア政府はドイツ人の独立
運動を警戒し、ドイツ人の公務員へ登用禁止や大手企業がドイツ人無雇用する措置をと
っていた。その為ズデーテン地方のドイツ人政党はチェコスロバキアからの分離を訴え
ドイツへの併合を唱えていた。ヒトラーは、かねてからズデーテン地方のドイツ系住民
はチェコ政府に迫害されている。解放を唱えていた。この際に持ち出されたのが、ヴェ
ルサイユ条約の基本となった十四か条の平和原則にある民族自決の論理であった。


242: 名無しさんAA:19/08/26 12:51
   朝鮮人に 喝!  295

 これを受けて、チャーチルはソ連会談を行っている。『英国公文書の世界史』による
と1939年9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻で勃発した第2次世界大戦はそのまま
5年後の1944年10月になっても各地で戦闘が続いていた。戦時中、チャーチル英首相は
ルーズベルト米大統領と歩調を合わせる外交方針を採ってきたが、1943年 7月、ロンド
ンで、アメリカの政府関係者がイギリスの動きに対する大きな誤解を払拭する為に、何
ヶ月かの交渉の後、ケベック協定(原爆の共同開発での防衛)が最終的に、チャーチル
とフランクリン・ルーズベルトの間で1943年 8月19日に結ばれた。これを受けてアメリ
カの参戦は確実だった、そしてその余裕でそろそろ「ナチス後の世界」について交渉を
始めるべく、チャーチルはソ連を訪問した。自著『第二次世界大戦』によると、チャー
チルはヒトラーが排除された後の東欧、中欧地域にソ連・スターリン書記長が共産主義
を広めることに危機感を抱いている。1944年10月9日午後、モスクワに到着したチャー
チル一行は、ロシアの外交官らに温かな歓迎を受けた。同行したイーデン外相と2人だ
けで夕食を取った後、午後10時からクレムリン宮殿で最初の会議が始まった。出席者は
チャーチルとイーデンのほかにはスターリン、ソ連の外相モロトフ、通訳として英ソか
ら1人ずつ。問題のバルカン半島問題で、ソ連軍がルーマニアとブルガリアに侵攻して
おり、ドイツ軍に占領されてきたギリシャには英軍が入っていた。英国はソ連がギリシ
ャ内の共産主義ゲリラを指導している。とみていた。ナチスードイツやイタリアなどの
枢軸諸国によって分割占領されていたユーゴスラビアでは、共産党書記長チトーの指導
の下に対独パルチザン戦争が拡大していた。「つまらない点で誤解するのは避けたい」
とチャーチルはスターリンに呼びかけ、ソ連がルーマニアで90%の支配権を持ち、英国
はギリシャについて90%の発言権を持つ、そしてユーゴスラビアとハンガリーは半々で
どうかと前触れなく持ちかけた。英語からロシア語への通訳が行われている間に、チャ
ーチルは小さなメモ用紙の一枚に手書きで以下のように書いた。
  ルーマニア   ロシア−−90%  他国−−10%
  ギリシャ    英国−−90%   他国−−10%
  ユーゴスラビア 50/50%     ハンガリー 50/50%
  ブルガリア   ロシア−−75%  他国−−25%
そして、ギリシャの「英国−−90%」には「米国とともに」と書き加えて、また同じく
ギリシャの部分で「他国−−10%」の表記では、「他国」を消して「ロシア」と変えた
。メモを書き終えると、通訳はすでに作業を終えていた。そこでチャーチルは紙切れを
スターリンのほうに押しやり、会話が途絶えた。スターリンは青鉛筆を取り出して、紙
に印をつけた。チャーチルのほうに戻ってきた紙を見ると、右上部に大きく印が付いて
いた。「合意する」という意味である。この瞬時に「すべてが決まった」とチャーチル
は『第二次世界大戦』の自己の回顧本に書いている。英公文書館では、この時の手書き
メモや関連の電報などの文書を手に取って見ることができる。たった1枚のこの紙きれ
で、バルカン半島や中欧諸国の運命が決められ、何万人、何百万人の将来がこれで左右
されたのかと思うと、誰もがしばし、紙きれを見つめたまま言葉が出ないであろう。

243: 名無しさんAA:19/08/26 13:02
   朝鮮人に 喝!  296

 チャーチルがスターリンに見せた勝手な欧州分割案 さらさらと書かれたメモ。1944
年ここに至るまでに「論点を長い間苦心して考えてきた」「差し迫った戦時の取決めを
扱うだけ」と、自己弁護する表現が多々『第二次世界大戦』の著書には書かれている。
スターリンがメモに大きな印をつけて、その場は長い沈黙となったという。紙は机の中
央に置かれたまま。最初に口を開けたのはチャーチルだった。何百万人もの人々の運命
に関わる問題を「こんな無造作なやり方で処理してしまったようにみえる」ことが気に
かかった。チャーチルは紙を焼いてしまおうかとスターリンに聞くが、スターリンは「
いいや、取っておくように」と述べたという。ここらは自己弁護であろう。こうして、
現在までこの時のメモが残っている。チャーチルは早速、ルーズベルト大統領に連絡を
取って、スターリンとの会談の内容を知らせる電報を送っている、米国を外して英ソ間
で取り決めをしない、と約束した。スターリンには、メモ書きの解釈を長い文章にした
報告書を書いた。がしかし、送らないことにした。そのほうが「賢明」と思ったのであ
る。一方で、英政府の同僚に対し、10月22日付の文書で、メモ内のパーセンテージは、
英ソ両政府によるバルカン諸国の問題にあたる際の「関心と感情を示し、それによって
互いに理解し得るなんらかの方法で心中を明かし合うためのもの。」と説明している。
「一つの指針以上のものを意図しておらず、もちろんいかなる点においても合衆国に累
を及ぼす」ものではない。あくまでも「一時的な指針」であり、戦後の欧州をどうする
かは「休戦会議ないし講和会議に集まる各大国によって検討されるものであることを…
…強調しておかねばならない。」と釈明し、いかに距離を置きたがっていたかが非常に
よく伝わってくる文章である。しかし、これがカイロ会談の前会談になっている。最終
的に、このメモの覚書はどこまで現実化したのか。「一時的な指針」としたチャーチル
だったが、ほぼこのパーセンテージは守られることになった解決が計られている。英国
はギリシャの内戦で政府軍を支援し、ソ連は共産主義ゲリラヘの援助を停止した。東欧
共産圏に組み込まれていくブルガリアヘの影響力は8割がソ連、2割が英国、ハンガリ
ーもソ連が8割、英国が2割となった。ソ連が9割の支配権を持つと決めたルーマニア
。戦後、ソ連が数万人規模のドイツ系ルーマニア人を強制労働に就かせた時チャーチル
は、当初これを強くは非難しなかったと言われている。チャーチルのソ連批判の著名な
演説は、1946年3月、米ミズーリ州ウェストミンスター大学で行われた。前年の終戦時
から首相の座を失っていたチャーチルは、トルーマン米大統領の招きで訪米し、「鉄の
カーテン」という言葉を初めて演説の中で使った。曰く「バルト海のシュチェチン(ポ
ーランド)からアドリア海のトリエステ(イタリア)まで、欧州大陸を横切る鉄のカー
テンが下ろされたようだ。中欧、東欧の歴史ある首都はすべてその向こうにある」と。
当時は、西欧では、ナチスや日本を敗退させた同志の国としてソ連に好意的だったので
チャーチルの演説はそれほど好評ではなかったが、しかし「鉄のカーテン」という表現
は、その後の冷戦を象徴する言葉として全世界に広まっていった。松岡がこうした交渉
が出来たなら大きく違ったろうに。


244: 名無しさんAA:19/08/26 13:12
   朝鮮人に 喝!  297

 一方の日本では、ハリマンの恨みを買ってのち、アメリカ国内では、ことごとく国の
信用を落として行く、かえって台頭したのがドイツ系アメリカ人のロシアスパイである
。この頃アメリカ国内の共産党は勢い支持率を伸ばしていく。そして世界の国際旅団を
動かし、KKKなどの白人優位主義者からの共産党募金で、中南米やフィリピン紛争や
スペイン内戦とすべてに兵士を送り込んで指導していた。ソ連国際コミンテルン本部は
米国で指導セミナーして、活況で年間一千万人規模の生徒を指導していたのだったのだ
。新手の宗教団体と全く同じだった。ソ連工作指導の下で至る所で紛争の種を撒くよう
指導して人員や兵器を供給し続けていた。そして日本攻撃に朝鮮人中国人のみならずに
ドイツ人米国人英国人が加わって、輸入禁止措置を講じていた。松岡洋右は力量なく年
を重ねた老いぼれ官使だった。帰国後に苦労人松岡として領事官補で中華民国上海に渡
り、関東都督府に赴任する。満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇で
中国大陸での勤務となり実力者となった。松岡は世界を「指導国家」が指導する4ブロ
ック構造(西欧、東亜、アメリカ、ロシア)に分かれる。と踏んで、日本・中国・満州
国を中核とする東亜ブロックを「大東亜共栄圏の完成」と唱えていた。この語句自体が
松岡の考案だった。世界各国がブロックごとに分けられナショナリズムを超越し、世界
国家に至ると考えていたのだ。夢想家のこの説は、満鉄時代からの彼の持論だったが、
この影響は中国も米国も大きな反対対日抗日を生んでいた。しかし、1931年(昭和6年)
柳条湖事件に松岡は、「砲火剣光の下に外交はない、東亜の大局を繋ぐ力もない。休ぬ
るかな」と自らの対中外交方針が破綻したことに落胆している。つまり当事者意識も、
実力もないまま、日本中から希望の星に見られ、海外の反発を生んでる事を知らないで
いた。しかし、米英ソさらに中国朝鮮の共同謀議の諜報戦の前にこれ以降日中は泥沼に
はまりソ連の思う壺の策にかかり国際的信用も無くしていった。1932年(昭和7年)に
、国際連盟はリットン調査団を派遣したが報告書(対日勧告案)が提出されジュネーブ
特別総会での採択を待つ状況に、松岡が手を打つ事や旧知の外人に情報を聞く事もなか
った。又1933年(昭和8年)2月21日、日本政府はリットン報告書が連盟総会に全権大使
で出席し、松岡の反対演説は人情論を流暢にキリスト教で話好評であった。だがその前
にあった嘘の中国制作映画の方が勝り、満州をめぐる日本の立場を有利にするためには
なんの役にも立たなかった。又馬鹿な事に、採択された場合は代表を引き揚げることを
決定していた為。2月24日、連盟総会で報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、
棄権1票(シャム)の圧倒的多数で可決・採択され、日本は国連離脱を決めた。と思わ
れた。既に、1922年(大正11年)アメリカのワシントンD.C.で開催された軍縮会議で、
英:米:日:仏:伊がそれぞれ、5:5:3:1.67 の批准が国内では反発されて、1935年
12月のイギリスのロンドンで開かれた国際会議の離脱があって、非常に天皇は憂慮して
いる中にあった。このイギリスの軍事費調達の難しさで呼びかけ、ドイツ・日本のみが
離脱していた中だったのである。



245: 名無しさんAA:19/08/26 13:28
   朝鮮人に 喝!  298

 又大きくバカだったのは、この松岡を外相就任に担ぎだした事だった。1939年9月、
ナチス・ドイツの突然のポーランド侵攻以来、ドイツの勢力拡大に1939年の9月には、
イギリスは対独宣戦布告し、アメリカ議会は11月に中立法(米国内法1935年成立)を、
改正して、ルーズベルト大統領は戦争状態にある国(英国とフランス)への武器の輸出
を、政府の認可制度によって可能にしていた。こうして軍拡と戦争拡大が予見される中
で1940年(昭和15年)、近衛文麿内閣は、又も松岡を担ぎ出し大命降下をし、外務大臣
に指名したのである。松岡の指摘するように世界の各国がブッロク化していて、天皇は
英国との離脱には非常に不満があった。にも関わらず、伊藤博文の門下で親ロシアを唱
えており親露派の首領を自ら任じるこの男が、陸海軍の三国同盟推進の動きの中で指名
を獲得した。米国は、1940年7月には英国への無制限の援助を行うことを 表明している
。さらに1941年にはヨーロッパで1400キロの西経26度線まで拡張し、ドイツ商船の位置
を通報を行うなど英国支援で国内法の中立違反を冒してでも、ドイツに対して敵対的な
行動を増大させていた。このアメリカ議会では1941年3月に武器貸与法を成立させた。
松岡は外相就任するや否や赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の
主要な在外外交官40数名を更迭し親米親英路線を断った。その為、これでスパイ疑惑の
代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命し日本は危機的に三国同盟に傾いていっ
た。又、満州事変に「いかなる国際連盟の調停も拒否する」姿勢を表明し軍部の脚光を
浴び「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命する。彼は米国
に「最高の悪玉」と嫌われていて、親米・親英路線に戻り様がない人材だった。更には
有力な外交官たちには辞表を出させ外務省から退職させようとした。駐ソ連大使を更迭
された東郷茂徳らは辞表提出を拒否し抵抗したが最低最悪の松岡人事は止まらなかった
。松岡は以前から外交官批判を繰り広げて、就任直後に公の場で外交官を罵倒していた
。日独伊三国軍事同盟は1940年(昭和15年)9月に成立するが、直ぐに独ソ関係は悪化
し、情報は日本に伝えらた。四ヶ国連合はおろか、日ソ関係の改善の橋渡しをドイツに
期待できなくなった。ソビエトは四国連合参加の条件を、多くの領土要求をドイツに出
してドイツの怒りを買っていた。往路と帰路の2度モスクワに立ち寄り、帰路の4月の
13日にソ中立条約を電撃的に調印し、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する
外交的成果だったが、これが日米開戦の決定打となってしまっていた。つまり日本の為
ではなく、日本を売る為の仕事を汗水垂らしてやっていったのである。日ソ中立条約締
結前には、わざわざイギリスのチャーチルは松岡宛に「ヒトラー(ドイツ)は近いうち
には必ずソ連と戦争状態へ突入する。」とMI6から仕入れた情報を、手紙として送っ
ていたにも関らずにである。松岡はこれを無視していた屑人間で内閣にも黙っていたの
だ。こうして日ソ中立条約を、勝手に締結した外交に天皇は戦後も憤慨していた。靖国
神社に後年になって松岡が祀られて以来「あんな所は参拝しない。」とこれまでの参拝
を無くした。これは天皇が正確に事態の推移を分析掴んでいた事を示している。後年、
極東国際軍事裁判の公判でのイギリス側の証拠としても、この手紙が提示され明らかに
された。1941年(昭和16年)3月、同盟成立慶祝を名代として、のうのうと独伊を歴訪
し、ヒトラーとムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受け、両国との親睦を
深めたが、それだけ日本は悲惨な環境となっていた。



246: 名無しさんAA:19/08/26 13:29
   朝鮮人に 喝!  299

 戦争に入る頃、一般に大西洋憲章と呼ばれているものが出された。憲章は、ニューフ
ァンドランド島沖の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上で調印された。会談にはチャー
チルの戦時内閣で軍需大臣となっていたマックスウェル・エイトケンも参加していた。
1941年8月の大西洋上で行われた。アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルト
とイギリス首相チャーチルの会談で合意された項目で、第二次世界大戦後の連合国の、
戦後処理構想、国際協調のあり方についての宣言であった。41年12月の日本軍から
の真珠湾攻撃、アメリカの参戦よりも以前に行われている。Uボートによる攻撃の恐れ
から、極秘のうちに計画され、8月9日カナダのニューファウンドランド、プラセンシ
ア湾上で、イギリスの最新鋭戦艦プリンス=オブ=ウェールズ、アメリカの巡洋艦オー
ガスタを両者が相互に訪問し、会談を重ねていた。その結果合意に達したものである。
「大西洋憲章」とよばれ。憲章は8ヶ条からなる。アメリカ合衆国はまだ枢軸国に対し
て宣戦布告をしていなかったが、この憲章は戦後の世界構想を述べたものであった。こ
の時 1941年9月24日には、ソビエト連邦など15ヵ国が参加を表明したのである。ここに
松岡は入ることを、なぜか進めていない。これは最後のチャンスだったのである。それ
らの8項目の内容は要約すると次の様になる。
 (1).合衆国と英国の領土拡大意図の否定
 (2).領土変更における関係国の人民の意思の尊重
 (3).政府形態を選択できる人民の権利
 (4).自由貿易の拡大
 (5).経済協力の発展
 (6).恐怖と欠乏からの自由の必要性(労働基準、経済的向上及び社会保障の確保)
 (7).航海の自由の必要性
 (8).一般的安全保障のための仕組みの必要性
憲章の第3条については、ルーズベルトとチャーチルは若干の見解の相違があったが、
じつはこの合意は、次に戦後の領土問題や国際連合再開の基礎的条約の基になっている
すなわち、戦後世界を形成する為の合意文書ともいえる重要な意義を持つものだった。
こうして、ほとんどの戦勝国は参加した。これがその後のカイロ会談と繋がったのであ
る。その後日本が、米国に宣戦布告して日米合戦となって、対日方針を協議する会談が
1943年(昭和18年)11月22日にエジプトのカイロで開催された。フランクリン・ルーズ
ベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石国民政府主席による首脳会
談だったが、ソ連もその後密か2日後英米とテヘラン会談をしている。ソ連の指導者の
ヨシフ・スターリンは日本にまだ宣戦布告していなく条約関係を配慮して、蒋介石との
面会を回避した。とされる。12月に発表された「カイロ宣言」は、何ら規約はないもの
でメモ程度の合意であった。但し、無条件降伏するまで戦争するという合意で蒋は会談
で、天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。米国が起草
した宣言案を英国が修正し、日本の降伏と、満州・台湾・澎湖諸島の中華民国への返還
、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。カイロ宣言の対日方針は、その後
連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。実はこの3つの会談で、日本は
北方領土や樺太あるいは尖閣は日本の固有の領土となる。又中国ソ連米国英国の宣言は
自身は利益を受けず戦後に領土拡張に加わることもないと宣言し、第1次世界大戦以降
の土地の中国への返還を降伏受諾の条件としていたのである。又日ソ中立条約で5年間
の相互不可侵が定められており、勝手な条約破棄は国際法違反だったのである。


247: 名無しさんAA:19/08/26 13:39
   朝鮮人に 喝!  300

 ところが、このカイロ宣言は、大きな間違いも犯していたのである。連合国が「日本
の無条件降伏まで軍の配備を続け軍事行動を継続する。」と宣言したが、カイロ宣言で
三大国(米英中)は、「戦争を通じて日本の野心を挫け、懲罰しようとし、自身は利益
を受けず戦後に領土拡張に加わることもない」と強く宣言したのにはわけがあった。つ
まり独立戦争と同じ感覚で「日本は1914年の第一次世界大戦開戦以来太平洋で奪取した
、占領した全ての島嶼を没収される」「占領地で日本で奴隷化された原住民は連合国に
よって解放される。」「日本が中国人から盗んだ、満州、台湾、澎湖を含む領土は中華
民国に返還される。」と述べ「日本は暴力と貪欲で奪取した全ての領土から排除され、
「朝鮮は適当な時に自由と独立を得る」とも述べたのだ。これはアメリカの策略と朝鮮
人の犯罪行為を助長した。更に戦後は日本占領の地に数々と米兵を派遣して日本のアラ
探しをさせ裁判に備えた。だが、一向に日本の批判は出なく、アジアを解放した。島を
豊かにした。インフラが整った。と称賛ばかりしか出なかった。しかしGHQには上層
部からの「日本は悪人だ証拠をさがせ」の指令は強かった。というのはアメリカには、
4つの大きな国際法違反の批判があって米国はおろか、世界の多くの知識人の非難が上
がっていたのだ。その一つは潜水艦攻撃である。すでに米国は第一次大戦でUボートの
仕組みを全て解明し、潜水艦「ノーチラス」「ノーワール」「アルゴノート」の保有を
維持試験して、第二回ロンドン軍縮会議では、日本が潜水艦を増勢せば米国も増勢する
とお茶を濁してより強固で大型を就航させようと作っていたのだ。その為開戦時には、
大型潜水艦はすでに30以上が日本への航路の物資輸送や客船輸送に魚雷攻撃していた
のである。つまり戦争前に民間輸送船攻撃を行って救助もしない状態にあったのだった
。二つ目は日本乗り込みに無差別焼夷弾投下で東京他の都市攻撃をB−29で行った事
だ。これは特に民間人を狙った無差別都市攻撃でありまったくの条約違反だった。更に
極め付けが広島・長崎への原爆投下であり人類史上許されない行為とされていたのだ。
この本土空爆は、パラオや沖縄或は硫黄島など島嶼占領に、余りにも米兵被害が大きか
ったからだ。とされるが、まったくの国際法違反で人道上も許される行為ではなかった
。それは東京裁判でも判事を交代させてでも有罪判決を行え、と言う指令からも、誰も
米国の非情をつけば戦争犯罪人に出来ない程だったことからもわかりえる。それでも、
国の指導者はこうした悪魔的所業の後ろめたさから、アメリカは国内外に向かっては、
『日本は侵略国家だ!残虐な国だ!東南アジアで残虐行為を繰り返した!我々はアジア
を解放する自由主義の国だ。』と言い続けるしかなかったのだ。この間違えた洗脳の、
根源にあるのがルーズベルトのこの「カイロ会談」がきっかけだった。ルーズベルトは
中国戦線の実態を全く知らないままに共産党の諜報戦に乗っていた。そもそも中華民国
は、勝手に中共合作し開戦し対日戦の理由もなく、自身の命ごいに共産党軍との連携を
して毛沢東の傀儡政府として成り立って戦争や紛争になっていたのだ。日本軍がいなけ
れば正当政府に力はなく国民党軍も共産党軍と内戦するのが当然だった。



248: 名無しさんAA:19/08/26 13:56
   朝鮮人に 喝!  301

 白人社会の日本非難の「人の残虐さ」というのは、元々アメリカ感覚のもので、嘘に
満ち中国人や朝鮮人と一緒になって、南京大虐殺のようにでっち上げればいい、として
いたぐらいのものだった。こうして、どうしてもアメリカ人が日本人に敵わないもの。
が人権問題であり、人情性だった。そこには今でも問題のある「人種差別観」や「優位
主義観」で、これが『奴隷』と『差別』を作っている。日本では 奴隷が制度になった
ことは近現代史では一度もない。これがアメリカにとってはウィークポイントで日本を
倫理的に非難する時には乏しく弱く、悪者に仕立てる「工夫」を考える事になる。それ
で、ルーズベルト以下の高官達は、このカイロ宣言で『日本は朝鮮半島を奴隷化してい
た。』『朝鮮人を奴隷化して搾取していた。』と言ったのである。全く根拠も証拠もな
い、根も葉もない批判だったがルーズベルトは何故かそういう発言をカイロでやった。
ルーズベルトの記録を見ると繰り返しそれをやっていて、終戦の前の年の44年、カイロ
会談の翌年も、日本は悪者だ戦え!戦いに勝て!と叱咤している。『アジア国民は日本
の奴隷のままになりたくない。云々、』と公式発言する。これを踏まえて、日本統治の
政策が決まり、その時に、日本にいる在日朝鮮人に対して『今日は奴隷解放の日だ』と
『朝鮮人が解放された日だ』と言って、マッカーサーが厚木に降り立った。そして1ヶ
月後に、この在日朝鮮人連盟で今の民団や総連の母体をGHQの指導下で結成された。
この船頭になっていたのが李承晩の進言や、蒋介石の国連むけ映画だったのだ。しかし
蒋介石は、中国大陸から日本兵がさっさと引き上げてしまい、これまでに共闘してきた
共産党と戦わざるを得なくなった。散々日本を敵対して日本暴政のせいにしていたから
米国に支援を求められなくなった。李承晩も同じで、米軍が朝鮮半島に来た時、堂々と
韓国旗が掲げられ、治安や行政は至って良好で、日本兵の攻撃もなかった。広報隊員は
わざわざそれを降ろして日章旗に変えてから、大極旗に変える情景をとる始末だった。
兵員を、朝鮮半島には多々を入れていたが、すぐさま李承晩のウソが見抜かれ日本占領
に人を回す羽目になり、以降マッカサーの持つ軍隊も資金も権限も日本の方が主になっ
た。ここで事件が起こった。米国のそういう間違った前提があって在日朝鮮人連盟結成
主旨が『朝鮮人は奴隷から解放された。今や我々は連合国軍、戦勝国民だ。』としてい
たので『奴隷扱いした日本人にそれを理解させるのが我々の義務だ』という主張に、マ
ッカーサーは日本の新聞に連合国人について、逮捕権も裁判権も日本人は持てない。と
追認したのである。そこで新聞は『連合国人を批判することは書いちゃいかん!』と9
月の段階で報道や裁判権の放棄に日本は簡単に飲んた。しかし、朝鮮人を戦勝国民とし
て扱えとした朝鮮人が、増長し、犯罪集団として跋扈し出し大きな事件があっちこっち
で起こって治安がくずれ始めた。慌てたMPたちが騒動する事になったがこの朝鮮人の
集団は収拾がつかなかった。ここでGHQにやっと連絡がくる。満員電車で窓を割って
入ろうとした朝鮮人を、日本人が注意し直江津駅に着いたら朝鮮人が注意した日本人を
スコップで殴り殺す直江津事件、浜松で朝鮮人が闇マーケットで商品盗んで警察が介入
したら、逆に警官を人質にとって警官を殴り殺したりし始めたという浜松事件。駅前食
堂で無銭飲食して咎めたら主人を殺し、娘を人質に立てこもった名古屋事件、他にも、
大阪・広島・博多・熊本と数々の朝鮮人事件が頻発した。そこの取り調べ書はいづれも
「我々は戦勝国民で何か文句あるか。」という朝鮮語だった。そこで立ち上がったのが
任侠人である。この時から岸島小野組やら、関西山口組、・・・・など任侠で暴漢から
守る防犯やくざが形成されていったのだった。そしてGHQは朝鮮戦争前に治安維持に
警察予備隊を作る羽目になったのだった。


249: 名無しさんAA:19/08/26 13:59
   朝鮮人に 喝!  302

こうして日本のジャーナリストは日本国内の事情を書くことが出来なくなり海外に行く
 戦後にひそかに大陸に渡って、中国残留孤児を取材しに行った人が幾人かいる。彼ら
は取材というよりは知人に頼まれて孤児を見つけに行った。といったほうが正しいかも
しれない。この時ほとんどの中国の老人達は、「なぜ日本軍は、中国を見捨てたのか」
という涙だった。そして、「私も日本に連れて行ってくれ。」だった。酒でも酌み交わ
せば、「日本人の暖かさやさしさが身に染みてかなしいばかりだ。」と言った。日本人
の渡航は幾年か台湾から南や西には行けなかった。台中海峡では国民党軍と共産党軍が
入り乱れて対峙していたからだ。中国人民からは乞食軍と夜盗軍で八路軍などは追剥ぎ
盗み放火の進軍と揶揄していた。それが実体だったのである。そうした人民のうらみ節
は朝鮮半島も同じだった。日本がまだ闇市で乞食ばかりだった頃駐留米軍相手の仕事し
かなかった。そうこうして食いつないでいる中で北朝鮮は夢の国という広告が流れて、
朝鮮人が一掃されると、私の親は思ったそうだ。そして、親戚には騙されるんじゃない
と叱っていた。ブラジル開拓団の話も「騙されるんじゃない」であった。誰もが、そう
知っていたが背に腹は代えられない。と腹をくくって飛び込んでいった人もいた。そう
誰もが身内が死んだり、兄弟家族に負担にならない様気にしている民族柄だったのだ。
悲しい事に予想は的中し朝鮮戦争は勃発した。行政を預けて帰還した人は、あんなに、
何でも残して来たのにと悔しがっていた。敗戦時の大陸の悲惨さは相当なものだったら
しい。既に本土玉砕という備えに、兵隊さんは日本に数多く帰っていたらしく少数が残
っていた中に、新型爆弾のピカドンが落ちた情報で殆どがいなくなった。玉音放送前に
大陸鉄道は止まっていて、ソ連軍の急襲もあった。とある人は話す。1945年8月9日、
にソ連は突然ソ満国境線を破り、怒涛の勢いで日本軍への攻撃を開始した。と言われる
しかし、現実には日本軍という軍はいなく治安部隊と満蒙開拓団の自警団でしかなかっ
た。同年4月5日、ソ連は日本側に対し、日ソ中立条約の不延長を通告していたのだが
、同条約は翌年4月まで有効期間が残っており、この対日参戦は条約違反であった。ま
た大きな問題は、この攻撃の過程で、ソ連軍は虐殺・強姦・掠奪等、様々な非人道的な
行為の戦争犯罪を行った事だ。日ソ中立条約は1941年4月13日、松岡の号令一下、天皇
の意向や英国の忠告にも耳を貸さずモスクワで締結された。(条約発効は4月25日)。
 第一条 両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ
     保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス(不可侵の尊重行為の確認)
 第二条 締約国ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ
     他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ(中立の厳守)
 第三条 本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ
     期間効力ヲ有スヘシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ
     廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト
     認メラルヘシ(契約事項の有効期間)
ところが本条約の締結後間もない6月22日、ナチスドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ
連への侵攻を開始し、膨大な機甲部隊を投入したドイツ軍の電撃作戦によりソ連は大敗
を喫し、たちまち国家存亡の危機に追い込まれた。のである。


250: 名無しさんAA:19/08/26 14:09
  朝鮮人に 喝!  303

 この時、条約の一方の当事者である日本はどうしたか。独ソ開戦10日後の7月2日、
御前会議で次の『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を決定している。
 第二 要綱
 1.蒋政権屈服促進の為更に南方諸地域よりの圧力を強化す 情勢の推移に対し適時
  重慶政権に対する交戦権を行使し且支那に於ける敵性租界を接収す
 2.帝国は其の自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し其の他各般の
  施策を促進す 之か為対英米戦準備を整え先つ「対仏印泰施策要綱」及「南方施策
  促進に関する件」に拠り仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の態勢を
  強化す 帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす
 3.独「ソ」戦に対しては三国極軸の精神を基体とするも暫く之に介入することなく
  密かに対「ソ」武力的準備を整え自主的に対処す 此の間固より周密なる用意を
  以て外交交渉を行う 独「ソ」戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して
  北方問題を解決し北辺の安定を確保す 
 4.前号遂行に当たり各種の施策就中武力行使の決定に際しては対英米戦争の基本態勢
  の保持に大なる支障なからしむ
   (以下略)
つまり、中国の新政権の重慶政府の支援をそのままに蒋介石と叩く事は止めないで、南
方侵攻もやめない。日独ソの三国基軸も方針もそのままで、取り合えず模様眺めをして
情勢を判断しよう。----と決めて対米英戦争の、その保持は変わらない。と決めたのだ
そしてその3ではドイツの勝利が間違いないと思える状況になれば、日本も独自に参戦
し北方の安定を計ると言っているのだ。この国策のどこにも日ソ中立条約を遵守しよう
とする意志は見られない。御前会議の席上、原枢密院議長は次のような発言を行ってい
る。そして国策として南方戦線を重んじて手薄な対ソ国境線は強化する。としている。
この「国策要綱」は、天皇臨席の御前会議で決定された正式な国策である。その国策で
あり、密かに対ソ戦の準備をし、守りも固めるがソ連の南下政策打ち止めに攻撃できる
ところは攻撃するとの意思をもっていたのである。よく日本では、このソ連の対日参戦
はソ連側が一方的に条約を破った卑劣な背信行為である。との批判がある。しかしこの
頃既に戦争モードであり、どこの国も侵略できる所は侵略し攻めるという姿勢だったの
で日本もまごうことなく、戦争当事国としての欲深い国として存在していたのである。
自虐史観でありながらも、ソ連の非人道性から、あらゆる非難を浴びせてきた。だが、
ソ連軍が行った侵略時の戦争犯罪行為や収容所送りは別として、ソ連という国によって
条約違反自体を非難する資格が、日本にあるかといえば、そんなものはない、と言わざ
るを得ない世界だった。敢えて言えば、そうした疑心暗鬼の国に停戦の仲裁仲介義務は
歴史的にも道義的にも環境的も時代的にもなく、ソ連に停戦打診したというのは、日米
開戦をはたした事と同じに馬鹿げた行為だったのである。こうした人物をあえて登用し
外務大臣に据える愚かな挙動を、国民も軍部も天皇もまったく止められほど腐っていた
のである。


251: 名無しさんAA:19/08/26 14:47
   朝鮮人に 喝!  304

 実際に満州の関東軍は対ソ戦の準備を推進したのだ。「関東軍特種演習」には公式に
書いている。対ソ武力行使は、ノモンハン事件の惨敗の経験からいっても、うかつには
できなかった。そこで極東ソ連軍が対独戦投入のためヨーロッパに西送され、極東ソ連
の兵力が手薄になるのをまって攻撃をしかけることとし、「関東軍特種演習(関特演)
」という秘匿名称のもとに、七月二日総兵力八五万人という空前の大動員が発動された
。これは、「関東軍特別演習」の七月に予定されていた「教育練成」のための演習であ
る「関特演」とはまったくべつのものである事を断っておく。しかし、この特別集合こ
そが更に軍部の暴走を招いていて、中国人の恐怖をあおり、上海や香港の共産党を増や
し毛沢東の支持を高めたのである。1941年(昭和16年) 6月22日に独ソ戦が開始されて
日本は、日ソ中立条約締結からわずか三ヶ月の時点で、明白な条約違反となることを承
知のうえで、7月2日の御前会議は『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を採択し、独ソ戦
が有利に進展したら武力を行使して北方問題を解決する。との方針を固め、対ソ戦準備
の兵の大陸渡航を進めた。この日本軍が実施した対ソビエト連邦作戦準備は略称関特演
と呼ばれた。実際には戦端を開くことなく終わったが、それは単にドイツの進撃が期待
したほどには有利に進展せず、極東ソ連軍の西進も予想したペースで進まなかったから
だった。レニングラードの攻防戦ではソ連は清野作戦に出て、野戦状況の中でドイツ軍
は冬将軍に足止めされて進まなかったのだ。その年は予想以上の寒冷年であり、日本軍
もシベリア駐留の経験からより多くの負担を避けたに過ぎない。近衛文麿はノモンハン
事件で関東軍の現有兵力(兵員約28万)では満州工業地帯の防衛が困難であると判断し
、関東軍首脳部の増強主張を支持し、これにより動員令が発令され、関東軍は戦時定員
の14個師団および多数の砲兵部隊・戦車部隊・航空部隊・支援部隊を有す74万以上の大
兵力を置いた。関東軍による対ソ連開戦を見据えた軍備増強政策だったが、この対ソ戦
準備は、外交辞令の日独伊三国同盟に基いてのドイツを支援するためでさえなかった。
ドイツが単独でソ連を打倒してしまった時には、日本は対ドイツと戦う事になるとの予
想で、ソ連領土の「分け前」を要求できなくなるからである。6月25日の連絡懇談会で
、松岡洋右外相が次のように述べている。と新聞は書く。「外相 独ガ勝チ、「ソ」ヲ
処分スルトキ、何モセズニ取ルト云う事ハ不可。血ヲ流スカ、外交ヲヤラネバナラヌ。
而シテ血ヲ流スノガー番宜シイ。「ソ」ヲ処分スルトキ日本ガ何ヲ望ムカカ問題ナリ。
------独モ日本ハ何ヲスルカドウカト考ヘテ居ルダラウ。」と。つまり松岡自身が血を
流してソ連がドイツに負けそうな時は取りに行こう。と呼びかけているのだ。米国との
戦争すら避けたい海軍大臣や天皇陛下が心配し不安している中に、能天気に陸軍に戦争
突入をけしけていたのである。全くこの男は長州閥特有の、とんだ食わせ者だったので
ある。既に1941年7月南部仏領インドシナ(ベトナム)進駐などを契機としアメリカや
イギリス、オランダとの緊張状態は加速していた時期だ、政府はソ連方面より東南アジ
ア方面へと政策の重点を置く方針に、海軍と陸軍の予算攻防や権利合戦があった。海軍
南進論と陸軍北進論である。関東軍は作戦部長と班長らがソ連との戦争を念頭とした案
を海軍側に提出、陸海軍間で話し合いが行われ、文書から「対ソ開戦」の文字を削除す
る様海軍側が迫り、5日に妥結した。そしてこの時の妥協が御前会議の石油確保の為に
引き続き南方戦線を重視しいく。という決定に落ち着き、陸軍の暴走とコヒマの惨劇の
白骨街道の道を開いたのである。つまり海軍増強を捨て陸軍南下の妥協案となったのだ


252: 名無しさんAA:19/08/26 15:11
   朝鮮人に 喝!  306

 大戦の当初は、ソ連とドイツはポーランドを共に占領していたので松岡は戦後の連合
国のように仲良しだろう。と思っていた。いずれ戦うとは思っていたとしても、松岡が
この友好条約の同盟祝賀に呼ばれて僅か3ヶ月後とは思っていなかったろう。が、1941
年 6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し、戦争状態となった。ドイツ軍の作戦名
「バルバロッサ作戦」である。いわゆるソビエト連邦奇襲攻撃作戦の秘匿名称である。
神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世のあだ名の「赤いあごひげ」にあやかったこの名
は眠り続けていた老人が戦いには目を覚まし帝国に光と栄光を与えたという神話に基づ
いている。今日では独ソ戦序盤の戦闘の総称とされるソ連奇襲攻撃は、兆候もなく行っ
た。ソ連と不可侵条約で後顧の憂いがなく西部戦線でフランスを陥落させた後は、ヨー
ロッパ各国のドイツ占領地からは反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発され
た人々がドイツ軍に加わって、ドイツ側ではめどがついた途端に東部戦線を行進した。
息つく暇もなくソ連におしいったのは、冬将軍到来前に落とせると踏んだからであった
。1939年、ドイツがポーランド侵攻の直前にソ連と独ソ不可侵条約を締結した時も、互
いを敵視していたはずの「独ソの条約」締結に世界は驚いた、がしかし、こうも早く崩
れ去るとも思わなかった。ヒトラーにとってこの条約は一時的な保険でフランス侵攻を
成功させて、軍に対してソ連への攻撃を命令したのは遅すぎるものだった。1940年に、
ドイツ軍は西方でフランス陥落以降、バトル・オブ・ブリテンを敗北しながらも、しつ
こくイギリスに航空戦で英仏海峡上空を戦っている最中だったからだ。ドイツ軍首脳部
はイギリスを背面にしてソ連を攻撃する二正面作戦に懸念を表明したが、ヒトラーは、
側近の助言をしりぞけ、「土台の腐った納屋は入り口を一蹴りするだけで倒壊する」と
豪語し、この東部戦線すらも二正面作戦に出てレニングラードと黒海バクー油田を目指
させたのだった。ドイツにとって運搬路であるバルト海は生命線であり、レニングラー
ドを電撃的に占領し、ソ連バルト艦隊を無力化する必要があった。また農産物鉱物資源
の宝庫であるウクライナは「東方生存圏構想」の実現のためには欠かせない地域だった
のだ。こうした経済的理由からヒトラーはレニングラードとウクライナの奪取にこだわ
り続けた。ソ連軍はキエフ包囲戦で60万のソ連兵が捕虜となり最大の野戦軍喪失した。
この時点で、ドイツ軍統帥部が立てたプランでは、赤軍は壊滅しモスクワへは楽に直進
できる見込みだったはずだが、赤軍は依然として強固な軍事防衛線を構築し維持して、
モスクワ前面にいた。日本は「関東軍特種演習」を行ったものの領土侵攻せずに防衛の
まま南進を決定したからだ。御前会議の決定はスパイ網で筒抜けだったが、陸軍の予算
獲得維持の為変な妥協をして南部進軍を始めた為にソ連は急速に軍隊移動を指令し兵器
人員の補充に努めたのだ。新型戦車が極東に運ばれず補充員をモスクワ防衛に充てて、
非情なゲオルギー・ジューコフを起用して連戦の将軍を置きスターリングラード攻防戦
にあてた。ジューコフは首都の守備体制を立て直し増援と補給を加えて、十分な戦力を
配置した。これによりドイツ中央軍集団の再攻勢は各所で赤軍に阻止された。冬場兵士
の疲弊は頂点を極めドイツ軍は容易に押し返され、モスクワ防衛は春にはフルシチョフ
に新たに立って直しを指導指揮させた。ここにバルバロッサ作戦は完全に失敗したので
ある。しかしそれでもヒットラーは兵士の後退を許さなかった。


253: 名無しさんAA:19/08/26 16:28
   朝鮮人に 喝!  308

 前年の40年には日中紛争の終結に力を入れていたが、日本からの和平工作に応じた
汪兆銘の新政権、攻撃により重慶脱出をしている。これを受けて対中国和平における3
つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した第三次近衛声明(近衛三原則)を
発表したが、この時すでに、共産党との共闘の力は巨大で、汪に呼応する中国側の有力
政治家はいなくなっていた。その為重慶の国民党本部は汪の和平要請を拒否、逆に汪の
職務と党籍を剥奪し、近衞の狙った中国和平派による早期停戦は阻まれることになった
。1937年(昭和12年)の支那事変(日中戦争)開始時に参謀本部作戦部長であった石原
莞爾は、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な
姿勢を取る宇垣一成大将にも敵対していた。支那事変(日中戦争)に作戦課長の武藤な
どは強硬路線を主張し、石原は不拡大で参謀本部をまとめることができずにいた。石原
は無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相
に直談判して「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら
南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行す
る」と進言し約束をつけたものの、近衛の弱気と風見章内閣書記官長により拒絶された
。1939年5月、フルンボイル平原のノモンハン周辺でモンゴル軍と満州国軍の国境警備
隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、大規模な戦闘に発展
して。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢で地上戦闘は戦車火砲
の力の差が甚だしく敗戦に近い結果に終わったが、ソ連側とモンゴル共和国の主張する
国境線はほぼそのまま維持された。ソビエト連邦によるポーランド侵攻直前、ソ連政府
が所在する首都モスクワのクレムリンで「日ソ両軍の現在地を停戦ラインとし、国境線
の画定は後日設立の国境確定委員で交渉する」と、事件の停戦の合意が、9月15日の
深夜に成立して終わった。これがモノンハン事件である。ソ連側は戦車の修理部隊まで
揃え、日本は軽戦車しかなく貧装備で必死に戦った。しかしソ連の重戦車には外部吸気
取入れは極寒使用であった為、火炎瓶で戦車は爆発炎上し、更に督戦仕様の運転手は内
側からは開けて逃げれず、仲間が外からハッチを開けないと車体から脱出できなかった
。こうした欠点を突いて、かろうじて勝っていた。一方この紛争勃発には日本の国内の
不要兵員を一気に大陸に送り付けて 国内の515事件や226事件の不満分子や疑惑
の兵士を一掃した取り掛かりが秘密裡に行われた。この戦争で、ソ連軍は実践の模様が
つぶさに冷静に分析・研究され、改良された。兵員指揮や戦車の改造が直ぐになされ、
ドイツの開戦時において、結果に大きく勝利する要因を作ったと言われる。また、この
時の特別召集兵員に関東軍や日本陸軍は浮足立ち、予算と人員をそのままにしての南方
戦線の無意味な進軍に向けて大きく動き出したと考察されている。このノモンハン戦場
にはソ連・モンゴル側が「ハルハ河」という流れる河川が中央にある場所で丘陵だった
。モンゴル語で、「ノムンハン」といい、「法の王」を意味するチベット仏教の聖者の
塚の地でもあった。


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