関西人のクズっぷりは異常


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関西人のクズっぷりは異常

1: 名無しさんAA:11/02/15 13:56 ID:6Q
101号室の
クズ原よういちだかなんだか漢字は知らんが下の部屋のキチガイ引き篭りうるさすぎるわ
下が大暴れしてるから半袖作業服で注意しに行ったら俺が異様に怖いらしくて警察呼ばれた
んでやっと出てきたから話してみたら、なんか精神的な病気で振動とか音に反応するとおかしくなるんだと
警察いたからこの家の管理者警察に呼んで貰って話してきた

33歳で関西人
4人姉妹の一番下で親が嫌い
免許無し
歯がボロボロ
今は成東で週にちょこっと工場に行ってバイトだと
言いたいことは無意識に口から出る人間で
管理者から悪質クレーマー扱い
ガンダムseedのキラが好きでGガンが嫌い
料理は冷凍食品とカップ麺、友達はいない
家でひとりでゲームするのが趣味だと

俺とは丸っきし性質から違う人間、気持ち悪い
あと自分で成長しようとしないタイプだな、悪い意味で頑固
コンプレックスの裏返しみたいな感じか
あと競馬以外のギャンブルとプロアクでゲーム改造するのが好きだとさ
昔は新聞のバイト長くやってて、そのあと弁当作る会社とかてんてんとバイトで回って
今の工場にきたとか
思考停止型後ずさりタイプで逃げ道確保してるけど自滅する人間って感じだ
33でこういう人間はこのまま同じまま直行するだろうな
関西人は本当に気持ちが悪い屑しかいない

244: 名無しさんAA:19/08/26 13:12
   朝鮮人に 喝!  297

 一方の日本では、ハリマンの恨みを買ってのち、アメリカ国内では、ことごとく国の
信用を落として行く、かえって台頭したのがドイツ系アメリカ人のロシアスパイである
。この頃アメリカ国内の共産党は勢い支持率を伸ばしていく。そして世界の国際旅団を
動かし、KKKなどの白人優位主義者からの共産党募金で、中南米やフィリピン紛争や
スペイン内戦とすべてに兵士を送り込んで指導していた。ソ連国際コミンテルン本部は
米国で指導セミナーして、活況で年間一千万人規模の生徒を指導していたのだったのだ
。新手の宗教団体と全く同じだった。ソ連工作指導の下で至る所で紛争の種を撒くよう
指導して人員や兵器を供給し続けていた。そして日本攻撃に朝鮮人中国人のみならずに
ドイツ人米国人英国人が加わって、輸入禁止措置を講じていた。松岡洋右は力量なく年
を重ねた老いぼれ官使だった。帰国後に苦労人松岡として領事官補で中華民国上海に渡
り、関東都督府に赴任する。満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇で
中国大陸での勤務となり実力者となった。松岡は世界を「指導国家」が指導する4ブロ
ック構造(西欧、東亜、アメリカ、ロシア)に分かれる。と踏んで、日本・中国・満州
国を中核とする東亜ブロックを「大東亜共栄圏の完成」と唱えていた。この語句自体が
松岡の考案だった。世界各国がブロックごとに分けられナショナリズムを超越し、世界
国家に至ると考えていたのだ。夢想家のこの説は、満鉄時代からの彼の持論だったが、
この影響は中国も米国も大きな反対対日抗日を生んでいた。しかし、1931年(昭和6年)
柳条湖事件に松岡は、「砲火剣光の下に外交はない、東亜の大局を繋ぐ力もない。休ぬ
るかな」と自らの対中外交方針が破綻したことに落胆している。つまり当事者意識も、
実力もないまま、日本中から希望の星に見られ、海外の反発を生んでる事を知らないで
いた。しかし、米英ソさらに中国朝鮮の共同謀議の諜報戦の前にこれ以降日中は泥沼に
はまりソ連の思う壺の策にかかり国際的信用も無くしていった。1932年(昭和7年)に
、国際連盟はリットン調査団を派遣したが報告書(対日勧告案)が提出されジュネーブ
特別総会での採択を待つ状況に、松岡が手を打つ事や旧知の外人に情報を聞く事もなか
った。又1933年(昭和8年)2月21日、日本政府はリットン報告書が連盟総会に全権大使
で出席し、松岡の反対演説は人情論を流暢にキリスト教で話好評であった。だがその前
にあった嘘の中国制作映画の方が勝り、満州をめぐる日本の立場を有利にするためには
なんの役にも立たなかった。又馬鹿な事に、採択された場合は代表を引き揚げることを
決定していた為。2月24日、連盟総会で報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、
棄権1票(シャム)の圧倒的多数で可決・採択され、日本は国連離脱を決めた。と思わ
れた。既に、1922年(大正11年)アメリカのワシントンD.C.で開催された軍縮会議で、
英:米:日:仏:伊がそれぞれ、5:5:3:1.67 の批准が国内では反発されて、1935年
12月のイギリスのロンドンで開かれた国際会議の離脱があって、非常に天皇は憂慮して
いる中にあった。このイギリスの軍事費調達の難しさで呼びかけ、ドイツ・日本のみが
離脱していた中だったのである。



245: 名無しさんAA:19/08/26 13:28
   朝鮮人に 喝!  298

 又大きくバカだったのは、この松岡を外相就任に担ぎだした事だった。1939年9月、
ナチス・ドイツの突然のポーランド侵攻以来、ドイツの勢力拡大に1939年の9月には、
イギリスは対独宣戦布告し、アメリカ議会は11月に中立法(米国内法1935年成立)を、
改正して、ルーズベルト大統領は戦争状態にある国(英国とフランス)への武器の輸出
を、政府の認可制度によって可能にしていた。こうして軍拡と戦争拡大が予見される中
で1940年(昭和15年)、近衛文麿内閣は、又も松岡を担ぎ出し大命降下をし、外務大臣
に指名したのである。松岡の指摘するように世界の各国がブッロク化していて、天皇は
英国との離脱には非常に不満があった。にも関わらず、伊藤博文の門下で親ロシアを唱
えており親露派の首領を自ら任じるこの男が、陸海軍の三国同盟推進の動きの中で指名
を獲得した。米国は、1940年7月には英国への無制限の援助を行うことを 表明している
。さらに1941年にはヨーロッパで1400キロの西経26度線まで拡張し、ドイツ商船の位置
を通報を行うなど英国支援で国内法の中立違反を冒してでも、ドイツに対して敵対的な
行動を増大させていた。このアメリカ議会では1941年3月に武器貸与法を成立させた。
松岡は外相就任するや否や赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の
主要な在外外交官40数名を更迭し親米親英路線を断った。その為、これでスパイ疑惑の
代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命し日本は危機的に三国同盟に傾いていっ
た。又、満州事変に「いかなる国際連盟の調停も拒否する」姿勢を表明し軍部の脚光を
浴び「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命する。彼は米国
に「最高の悪玉」と嫌われていて、親米・親英路線に戻り様がない人材だった。更には
有力な外交官たちには辞表を出させ外務省から退職させようとした。駐ソ連大使を更迭
された東郷茂徳らは辞表提出を拒否し抵抗したが最低最悪の松岡人事は止まらなかった
。松岡は以前から外交官批判を繰り広げて、就任直後に公の場で外交官を罵倒していた
。日独伊三国軍事同盟は1940年(昭和15年)9月に成立するが、直ぐに独ソ関係は悪化
し、情報は日本に伝えらた。四ヶ国連合はおろか、日ソ関係の改善の橋渡しをドイツに
期待できなくなった。ソビエトは四国連合参加の条件を、多くの領土要求をドイツに出
してドイツの怒りを買っていた。往路と帰路の2度モスクワに立ち寄り、帰路の4月の
13日にソ中立条約を電撃的に調印し、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する
外交的成果だったが、これが日米開戦の決定打となってしまっていた。つまり日本の為
ではなく、日本を売る為の仕事を汗水垂らしてやっていったのである。日ソ中立条約締
結前には、わざわざイギリスのチャーチルは松岡宛に「ヒトラー(ドイツ)は近いうち
には必ずソ連と戦争状態へ突入する。」とMI6から仕入れた情報を、手紙として送っ
ていたにも関らずにである。松岡はこれを無視していた屑人間で内閣にも黙っていたの
だ。こうして日ソ中立条約を、勝手に締結した外交に天皇は戦後も憤慨していた。靖国
神社に後年になって松岡が祀られて以来「あんな所は参拝しない。」とこれまでの参拝
を無くした。これは天皇が正確に事態の推移を分析掴んでいた事を示している。後年、
極東国際軍事裁判の公判でのイギリス側の証拠としても、この手紙が提示され明らかに
された。1941年(昭和16年)3月、同盟成立慶祝を名代として、のうのうと独伊を歴訪
し、ヒトラーとムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受け、両国との親睦を
深めたが、それだけ日本は悲惨な環境となっていた。



246: 名無しさんAA:19/08/26 13:29
   朝鮮人に 喝!  299

 戦争に入る頃、一般に大西洋憲章と呼ばれているものが出された。憲章は、ニューフ
ァンドランド島沖の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上で調印された。会談にはチャー
チルの戦時内閣で軍需大臣となっていたマックスウェル・エイトケンも参加していた。
1941年8月の大西洋上で行われた。アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルト
とイギリス首相チャーチルの会談で合意された項目で、第二次世界大戦後の連合国の、
戦後処理構想、国際協調のあり方についての宣言であった。41年12月の日本軍から
の真珠湾攻撃、アメリカの参戦よりも以前に行われている。Uボートによる攻撃の恐れ
から、極秘のうちに計画され、8月9日カナダのニューファウンドランド、プラセンシ
ア湾上で、イギリスの最新鋭戦艦プリンス=オブ=ウェールズ、アメリカの巡洋艦オー
ガスタを両者が相互に訪問し、会談を重ねていた。その結果合意に達したものである。
「大西洋憲章」とよばれ。憲章は8ヶ条からなる。アメリカ合衆国はまだ枢軸国に対し
て宣戦布告をしていなかったが、この憲章は戦後の世界構想を述べたものであった。こ
の時 1941年9月24日には、ソビエト連邦など15ヵ国が参加を表明したのである。ここに
松岡は入ることを、なぜか進めていない。これは最後のチャンスだったのである。それ
らの8項目の内容は要約すると次の様になる。
 (1).合衆国と英国の領土拡大意図の否定
 (2).領土変更における関係国の人民の意思の尊重
 (3).政府形態を選択できる人民の権利
 (4).自由貿易の拡大
 (5).経済協力の発展
 (6).恐怖と欠乏からの自由の必要性(労働基準、経済的向上及び社会保障の確保)
 (7).航海の自由の必要性
 (8).一般的安全保障のための仕組みの必要性
憲章の第3条については、ルーズベルトとチャーチルは若干の見解の相違があったが、
じつはこの合意は、次に戦後の領土問題や国際連合再開の基礎的条約の基になっている
すなわち、戦後世界を形成する為の合意文書ともいえる重要な意義を持つものだった。
こうして、ほとんどの戦勝国は参加した。これがその後のカイロ会談と繋がったのであ
る。その後日本が、米国に宣戦布告して日米合戦となって、対日方針を協議する会談が
1943年(昭和18年)11月22日にエジプトのカイロで開催された。フランクリン・ルーズ
ベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石国民政府主席による首脳会
談だったが、ソ連もその後密か2日後英米とテヘラン会談をしている。ソ連の指導者の
ヨシフ・スターリンは日本にまだ宣戦布告していなく条約関係を配慮して、蒋介石との
面会を回避した。とされる。12月に発表された「カイロ宣言」は、何ら規約はないもの
でメモ程度の合意であった。但し、無条件降伏するまで戦争するという合意で蒋は会談
で、天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。米国が起草
した宣言案を英国が修正し、日本の降伏と、満州・台湾・澎湖諸島の中華民国への返還
、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。カイロ宣言の対日方針は、その後
連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。実はこの3つの会談で、日本は
北方領土や樺太あるいは尖閣は日本の固有の領土となる。又中国ソ連米国英国の宣言は
自身は利益を受けず戦後に領土拡張に加わることもないと宣言し、第1次世界大戦以降
の土地の中国への返還を降伏受諾の条件としていたのである。又日ソ中立条約で5年間
の相互不可侵が定められており、勝手な条約破棄は国際法違反だったのである。


247: 名無しさんAA:19/08/26 13:39
   朝鮮人に 喝!  300

 ところが、このカイロ宣言は、大きな間違いも犯していたのである。連合国が「日本
の無条件降伏まで軍の配備を続け軍事行動を継続する。」と宣言したが、カイロ宣言で
三大国(米英中)は、「戦争を通じて日本の野心を挫け、懲罰しようとし、自身は利益
を受けず戦後に領土拡張に加わることもない」と強く宣言したのにはわけがあった。つ
まり独立戦争と同じ感覚で「日本は1914年の第一次世界大戦開戦以来太平洋で奪取した
、占領した全ての島嶼を没収される」「占領地で日本で奴隷化された原住民は連合国に
よって解放される。」「日本が中国人から盗んだ、満州、台湾、澎湖を含む領土は中華
民国に返還される。」と述べ「日本は暴力と貪欲で奪取した全ての領土から排除され、
「朝鮮は適当な時に自由と独立を得る」とも述べたのだ。これはアメリカの策略と朝鮮
人の犯罪行為を助長した。更に戦後は日本占領の地に数々と米兵を派遣して日本のアラ
探しをさせ裁判に備えた。だが、一向に日本の批判は出なく、アジアを解放した。島を
豊かにした。インフラが整った。と称賛ばかりしか出なかった。しかしGHQには上層
部からの「日本は悪人だ証拠をさがせ」の指令は強かった。というのはアメリカには、
4つの大きな国際法違反の批判があって米国はおろか、世界の多くの知識人の非難が上
がっていたのだ。その一つは潜水艦攻撃である。すでに米国は第一次大戦でUボートの
仕組みを全て解明し、潜水艦「ノーチラス」「ノーワール」「アルゴノート」の保有を
維持試験して、第二回ロンドン軍縮会議では、日本が潜水艦を増勢せば米国も増勢する
とお茶を濁してより強固で大型を就航させようと作っていたのだ。その為開戦時には、
大型潜水艦はすでに30以上が日本への航路の物資輸送や客船輸送に魚雷攻撃していた
のである。つまり戦争前に民間輸送船攻撃を行って救助もしない状態にあったのだった
。二つ目は日本乗り込みに無差別焼夷弾投下で東京他の都市攻撃をB−29で行った事
だ。これは特に民間人を狙った無差別都市攻撃でありまったくの条約違反だった。更に
極め付けが広島・長崎への原爆投下であり人類史上許されない行為とされていたのだ。
この本土空爆は、パラオや沖縄或は硫黄島など島嶼占領に、余りにも米兵被害が大きか
ったからだ。とされるが、まったくの国際法違反で人道上も許される行為ではなかった
。それは東京裁判でも判事を交代させてでも有罪判決を行え、と言う指令からも、誰も
米国の非情をつけば戦争犯罪人に出来ない程だったことからもわかりえる。それでも、
国の指導者はこうした悪魔的所業の後ろめたさから、アメリカは国内外に向かっては、
『日本は侵略国家だ!残虐な国だ!東南アジアで残虐行為を繰り返した!我々はアジア
を解放する自由主義の国だ。』と言い続けるしかなかったのだ。この間違えた洗脳の、
根源にあるのがルーズベルトのこの「カイロ会談」がきっかけだった。ルーズベルトは
中国戦線の実態を全く知らないままに共産党の諜報戦に乗っていた。そもそも中華民国
は、勝手に中共合作し開戦し対日戦の理由もなく、自身の命ごいに共産党軍との連携を
して毛沢東の傀儡政府として成り立って戦争や紛争になっていたのだ。日本軍がいなけ
れば正当政府に力はなく国民党軍も共産党軍と内戦するのが当然だった。



248: 名無しさんAA:19/08/26 13:56
   朝鮮人に 喝!  301

 白人社会の日本非難の「人の残虐さ」というのは、元々アメリカ感覚のもので、嘘に
満ち中国人や朝鮮人と一緒になって、南京大虐殺のようにでっち上げればいい、として
いたぐらいのものだった。こうして、どうしてもアメリカ人が日本人に敵わないもの。
が人権問題であり、人情性だった。そこには今でも問題のある「人種差別観」や「優位
主義観」で、これが『奴隷』と『差別』を作っている。日本では 奴隷が制度になった
ことは近現代史では一度もない。これがアメリカにとってはウィークポイントで日本を
倫理的に非難する時には乏しく弱く、悪者に仕立てる「工夫」を考える事になる。それ
で、ルーズベルト以下の高官達は、このカイロ宣言で『日本は朝鮮半島を奴隷化してい
た。』『朝鮮人を奴隷化して搾取していた。』と言ったのである。全く根拠も証拠もな
い、根も葉もない批判だったがルーズベルトは何故かそういう発言をカイロでやった。
ルーズベルトの記録を見ると繰り返しそれをやっていて、終戦の前の年の44年、カイロ
会談の翌年も、日本は悪者だ戦え!戦いに勝て!と叱咤している。『アジア国民は日本
の奴隷のままになりたくない。云々、』と公式発言する。これを踏まえて、日本統治の
政策が決まり、その時に、日本にいる在日朝鮮人に対して『今日は奴隷解放の日だ』と
『朝鮮人が解放された日だ』と言って、マッカーサーが厚木に降り立った。そして1ヶ
月後に、この在日朝鮮人連盟で今の民団や総連の母体をGHQの指導下で結成された。
この船頭になっていたのが李承晩の進言や、蒋介石の国連むけ映画だったのだ。しかし
蒋介石は、中国大陸から日本兵がさっさと引き上げてしまい、これまでに共闘してきた
共産党と戦わざるを得なくなった。散々日本を敵対して日本暴政のせいにしていたから
米国に支援を求められなくなった。李承晩も同じで、米軍が朝鮮半島に来た時、堂々と
韓国旗が掲げられ、治安や行政は至って良好で、日本兵の攻撃もなかった。広報隊員は
わざわざそれを降ろして日章旗に変えてから、大極旗に変える情景をとる始末だった。
兵員を、朝鮮半島には多々を入れていたが、すぐさま李承晩のウソが見抜かれ日本占領
に人を回す羽目になり、以降マッカサーの持つ軍隊も資金も権限も日本の方が主になっ
た。ここで事件が起こった。米国のそういう間違った前提があって在日朝鮮人連盟結成
主旨が『朝鮮人は奴隷から解放された。今や我々は連合国軍、戦勝国民だ。』としてい
たので『奴隷扱いした日本人にそれを理解させるのが我々の義務だ』という主張に、マ
ッカーサーは日本の新聞に連合国人について、逮捕権も裁判権も日本人は持てない。と
追認したのである。そこで新聞は『連合国人を批判することは書いちゃいかん!』と9
月の段階で報道や裁判権の放棄に日本は簡単に飲んた。しかし、朝鮮人を戦勝国民とし
て扱えとした朝鮮人が、増長し、犯罪集団として跋扈し出し大きな事件があっちこっち
で起こって治安がくずれ始めた。慌てたMPたちが騒動する事になったがこの朝鮮人の
集団は収拾がつかなかった。ここでGHQにやっと連絡がくる。満員電車で窓を割って
入ろうとした朝鮮人を、日本人が注意し直江津駅に着いたら朝鮮人が注意した日本人を
スコップで殴り殺す直江津事件、浜松で朝鮮人が闇マーケットで商品盗んで警察が介入
したら、逆に警官を人質にとって警官を殴り殺したりし始めたという浜松事件。駅前食
堂で無銭飲食して咎めたら主人を殺し、娘を人質に立てこもった名古屋事件、他にも、
大阪・広島・博多・熊本と数々の朝鮮人事件が頻発した。そこの取り調べ書はいづれも
「我々は戦勝国民で何か文句あるか。」という朝鮮語だった。そこで立ち上がったのが
任侠人である。この時から岸島小野組やら、関西山口組、・・・・など任侠で暴漢から
守る防犯やくざが形成されていったのだった。そしてGHQは朝鮮戦争前に治安維持に
警察予備隊を作る羽目になったのだった。


249: 名無しさんAA:19/08/26 13:59
   朝鮮人に 喝!  302

こうして日本のジャーナリストは日本国内の事情を書くことが出来なくなり海外に行く
 戦後にひそかに大陸に渡って、中国残留孤児を取材しに行った人が幾人かいる。彼ら
は取材というよりは知人に頼まれて孤児を見つけに行った。といったほうが正しいかも
しれない。この時ほとんどの中国の老人達は、「なぜ日本軍は、中国を見捨てたのか」
という涙だった。そして、「私も日本に連れて行ってくれ。」だった。酒でも酌み交わ
せば、「日本人の暖かさやさしさが身に染みてかなしいばかりだ。」と言った。日本人
の渡航は幾年か台湾から南や西には行けなかった。台中海峡では国民党軍と共産党軍が
入り乱れて対峙していたからだ。中国人民からは乞食軍と夜盗軍で八路軍などは追剥ぎ
盗み放火の進軍と揶揄していた。それが実体だったのである。そうした人民のうらみ節
は朝鮮半島も同じだった。日本がまだ闇市で乞食ばかりだった頃駐留米軍相手の仕事し
かなかった。そうこうして食いつないでいる中で北朝鮮は夢の国という広告が流れて、
朝鮮人が一掃されると、私の親は思ったそうだ。そして、親戚には騙されるんじゃない
と叱っていた。ブラジル開拓団の話も「騙されるんじゃない」であった。誰もが、そう
知っていたが背に腹は代えられない。と腹をくくって飛び込んでいった人もいた。そう
誰もが身内が死んだり、兄弟家族に負担にならない様気にしている民族柄だったのだ。
悲しい事に予想は的中し朝鮮戦争は勃発した。行政を預けて帰還した人は、あんなに、
何でも残して来たのにと悔しがっていた。敗戦時の大陸の悲惨さは相当なものだったら
しい。既に本土玉砕という備えに、兵隊さんは日本に数多く帰っていたらしく少数が残
っていた中に、新型爆弾のピカドンが落ちた情報で殆どがいなくなった。玉音放送前に
大陸鉄道は止まっていて、ソ連軍の急襲もあった。とある人は話す。1945年8月9日、
にソ連は突然ソ満国境線を破り、怒涛の勢いで日本軍への攻撃を開始した。と言われる
しかし、現実には日本軍という軍はいなく治安部隊と満蒙開拓団の自警団でしかなかっ
た。同年4月5日、ソ連は日本側に対し、日ソ中立条約の不延長を通告していたのだが
、同条約は翌年4月まで有効期間が残っており、この対日参戦は条約違反であった。ま
た大きな問題は、この攻撃の過程で、ソ連軍は虐殺・強姦・掠奪等、様々な非人道的な
行為の戦争犯罪を行った事だ。日ソ中立条約は1941年4月13日、松岡の号令一下、天皇
の意向や英国の忠告にも耳を貸さずモスクワで締結された。(条約発効は4月25日)。
 第一条 両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ
     保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス(不可侵の尊重行為の確認)
 第二条 締約国ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ
     他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ(中立の厳守)
 第三条 本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ
     期間効力ヲ有スヘシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ
     廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト
     認メラルヘシ(契約事項の有効期間)
ところが本条約の締結後間もない6月22日、ナチスドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ
連への侵攻を開始し、膨大な機甲部隊を投入したドイツ軍の電撃作戦によりソ連は大敗
を喫し、たちまち国家存亡の危機に追い込まれた。のである。


250: 名無しさんAA:19/08/26 14:09
  朝鮮人に 喝!  303

 この時、条約の一方の当事者である日本はどうしたか。独ソ開戦10日後の7月2日、
御前会議で次の『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を決定している。
 第二 要綱
 1.蒋政権屈服促進の為更に南方諸地域よりの圧力を強化す 情勢の推移に対し適時
  重慶政権に対する交戦権を行使し且支那に於ける敵性租界を接収す
 2.帝国は其の自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し其の他各般の
  施策を促進す 之か為対英米戦準備を整え先つ「対仏印泰施策要綱」及「南方施策
  促進に関する件」に拠り仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の態勢を
  強化す 帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす
 3.独「ソ」戦に対しては三国極軸の精神を基体とするも暫く之に介入することなく
  密かに対「ソ」武力的準備を整え自主的に対処す 此の間固より周密なる用意を
  以て外交交渉を行う 独「ソ」戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して
  北方問題を解決し北辺の安定を確保す 
 4.前号遂行に当たり各種の施策就中武力行使の決定に際しては対英米戦争の基本態勢
  の保持に大なる支障なからしむ
   (以下略)
つまり、中国の新政権の重慶政府の支援をそのままに蒋介石と叩く事は止めないで、南
方侵攻もやめない。日独ソの三国基軸も方針もそのままで、取り合えず模様眺めをして
情勢を判断しよう。----と決めて対米英戦争の、その保持は変わらない。と決めたのだ
そしてその3ではドイツの勝利が間違いないと思える状況になれば、日本も独自に参戦
し北方の安定を計ると言っているのだ。この国策のどこにも日ソ中立条約を遵守しよう
とする意志は見られない。御前会議の席上、原枢密院議長は次のような発言を行ってい
る。そして国策として南方戦線を重んじて手薄な対ソ国境線は強化する。としている。
この「国策要綱」は、天皇臨席の御前会議で決定された正式な国策である。その国策で
あり、密かに対ソ戦の準備をし、守りも固めるがソ連の南下政策打ち止めに攻撃できる
ところは攻撃するとの意思をもっていたのである。よく日本では、このソ連の対日参戦
はソ連側が一方的に条約を破った卑劣な背信行為である。との批判がある。しかしこの
頃既に戦争モードであり、どこの国も侵略できる所は侵略し攻めるという姿勢だったの
で日本もまごうことなく、戦争当事国としての欲深い国として存在していたのである。
自虐史観でありながらも、ソ連の非人道性から、あらゆる非難を浴びせてきた。だが、
ソ連軍が行った侵略時の戦争犯罪行為や収容所送りは別として、ソ連という国によって
条約違反自体を非難する資格が、日本にあるかといえば、そんなものはない、と言わざ
るを得ない世界だった。敢えて言えば、そうした疑心暗鬼の国に停戦の仲裁仲介義務は
歴史的にも道義的にも環境的も時代的にもなく、ソ連に停戦打診したというのは、日米
開戦をはたした事と同じに馬鹿げた行為だったのである。こうした人物をあえて登用し
外務大臣に据える愚かな挙動を、国民も軍部も天皇もまったく止められほど腐っていた
のである。


251: 名無しさんAA:19/08/26 14:47
   朝鮮人に 喝!  304

 実際に満州の関東軍は対ソ戦の準備を推進したのだ。「関東軍特種演習」には公式に
書いている。対ソ武力行使は、ノモンハン事件の惨敗の経験からいっても、うかつには
できなかった。そこで極東ソ連軍が対独戦投入のためヨーロッパに西送され、極東ソ連
の兵力が手薄になるのをまって攻撃をしかけることとし、「関東軍特種演習(関特演)
」という秘匿名称のもとに、七月二日総兵力八五万人という空前の大動員が発動された
。これは、「関東軍特別演習」の七月に予定されていた「教育練成」のための演習であ
る「関特演」とはまったくべつのものである事を断っておく。しかし、この特別集合こ
そが更に軍部の暴走を招いていて、中国人の恐怖をあおり、上海や香港の共産党を増や
し毛沢東の支持を高めたのである。1941年(昭和16年) 6月22日に独ソ戦が開始されて
日本は、日ソ中立条約締結からわずか三ヶ月の時点で、明白な条約違反となることを承
知のうえで、7月2日の御前会議は『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を採択し、独ソ戦
が有利に進展したら武力を行使して北方問題を解決する。との方針を固め、対ソ戦準備
の兵の大陸渡航を進めた。この日本軍が実施した対ソビエト連邦作戦準備は略称関特演
と呼ばれた。実際には戦端を開くことなく終わったが、それは単にドイツの進撃が期待
したほどには有利に進展せず、極東ソ連軍の西進も予想したペースで進まなかったから
だった。レニングラードの攻防戦ではソ連は清野作戦に出て、野戦状況の中でドイツ軍
は冬将軍に足止めされて進まなかったのだ。その年は予想以上の寒冷年であり、日本軍
もシベリア駐留の経験からより多くの負担を避けたに過ぎない。近衛文麿はノモンハン
事件で関東軍の現有兵力(兵員約28万)では満州工業地帯の防衛が困難であると判断し
、関東軍首脳部の増強主張を支持し、これにより動員令が発令され、関東軍は戦時定員
の14個師団および多数の砲兵部隊・戦車部隊・航空部隊・支援部隊を有す74万以上の大
兵力を置いた。関東軍による対ソ連開戦を見据えた軍備増強政策だったが、この対ソ戦
準備は、外交辞令の日独伊三国同盟に基いてのドイツを支援するためでさえなかった。
ドイツが単独でソ連を打倒してしまった時には、日本は対ドイツと戦う事になるとの予
想で、ソ連領土の「分け前」を要求できなくなるからである。6月25日の連絡懇談会で
、松岡洋右外相が次のように述べている。と新聞は書く。「外相 独ガ勝チ、「ソ」ヲ
処分スルトキ、何モセズニ取ルト云う事ハ不可。血ヲ流スカ、外交ヲヤラネバナラヌ。
而シテ血ヲ流スノガー番宜シイ。「ソ」ヲ処分スルトキ日本ガ何ヲ望ムカカ問題ナリ。
------独モ日本ハ何ヲスルカドウカト考ヘテ居ルダラウ。」と。つまり松岡自身が血を
流してソ連がドイツに負けそうな時は取りに行こう。と呼びかけているのだ。米国との
戦争すら避けたい海軍大臣や天皇陛下が心配し不安している中に、能天気に陸軍に戦争
突入をけしけていたのである。全くこの男は長州閥特有の、とんだ食わせ者だったので
ある。既に1941年7月南部仏領インドシナ(ベトナム)進駐などを契機としアメリカや
イギリス、オランダとの緊張状態は加速していた時期だ、政府はソ連方面より東南アジ
ア方面へと政策の重点を置く方針に、海軍と陸軍の予算攻防や権利合戦があった。海軍
南進論と陸軍北進論である。関東軍は作戦部長と班長らがソ連との戦争を念頭とした案
を海軍側に提出、陸海軍間で話し合いが行われ、文書から「対ソ開戦」の文字を削除す
る様海軍側が迫り、5日に妥結した。そしてこの時の妥協が御前会議の石油確保の為に
引き続き南方戦線を重視しいく。という決定に落ち着き、陸軍の暴走とコヒマの惨劇の
白骨街道の道を開いたのである。つまり海軍増強を捨て陸軍南下の妥協案となったのだ


252: 名無しさんAA:19/08/26 15:11
   朝鮮人に 喝!  306

 大戦の当初は、ソ連とドイツはポーランドを共に占領していたので松岡は戦後の連合
国のように仲良しだろう。と思っていた。いずれ戦うとは思っていたとしても、松岡が
この友好条約の同盟祝賀に呼ばれて僅か3ヶ月後とは思っていなかったろう。が、1941
年 6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し、戦争状態となった。ドイツ軍の作戦名
「バルバロッサ作戦」である。いわゆるソビエト連邦奇襲攻撃作戦の秘匿名称である。
神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世のあだ名の「赤いあごひげ」にあやかったこの名
は眠り続けていた老人が戦いには目を覚まし帝国に光と栄光を与えたという神話に基づ
いている。今日では独ソ戦序盤の戦闘の総称とされるソ連奇襲攻撃は、兆候もなく行っ
た。ソ連と不可侵条約で後顧の憂いがなく西部戦線でフランスを陥落させた後は、ヨー
ロッパ各国のドイツ占領地からは反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発され
た人々がドイツ軍に加わって、ドイツ側ではめどがついた途端に東部戦線を行進した。
息つく暇もなくソ連におしいったのは、冬将軍到来前に落とせると踏んだからであった
。1939年、ドイツがポーランド侵攻の直前にソ連と独ソ不可侵条約を締結した時も、互
いを敵視していたはずの「独ソの条約」締結に世界は驚いた、がしかし、こうも早く崩
れ去るとも思わなかった。ヒトラーにとってこの条約は一時的な保険でフランス侵攻を
成功させて、軍に対してソ連への攻撃を命令したのは遅すぎるものだった。1940年に、
ドイツ軍は西方でフランス陥落以降、バトル・オブ・ブリテンを敗北しながらも、しつ
こくイギリスに航空戦で英仏海峡上空を戦っている最中だったからだ。ドイツ軍首脳部
はイギリスを背面にしてソ連を攻撃する二正面作戦に懸念を表明したが、ヒトラーは、
側近の助言をしりぞけ、「土台の腐った納屋は入り口を一蹴りするだけで倒壊する」と
豪語し、この東部戦線すらも二正面作戦に出てレニングラードと黒海バクー油田を目指
させたのだった。ドイツにとって運搬路であるバルト海は生命線であり、レニングラー
ドを電撃的に占領し、ソ連バルト艦隊を無力化する必要があった。また農産物鉱物資源
の宝庫であるウクライナは「東方生存圏構想」の実現のためには欠かせない地域だった
のだ。こうした経済的理由からヒトラーはレニングラードとウクライナの奪取にこだわ
り続けた。ソ連軍はキエフ包囲戦で60万のソ連兵が捕虜となり最大の野戦軍喪失した。
この時点で、ドイツ軍統帥部が立てたプランでは、赤軍は壊滅しモスクワへは楽に直進
できる見込みだったはずだが、赤軍は依然として強固な軍事防衛線を構築し維持して、
モスクワ前面にいた。日本は「関東軍特種演習」を行ったものの領土侵攻せずに防衛の
まま南進を決定したからだ。御前会議の決定はスパイ網で筒抜けだったが、陸軍の予算
獲得維持の為変な妥協をして南部進軍を始めた為にソ連は急速に軍隊移動を指令し兵器
人員の補充に努めたのだ。新型戦車が極東に運ばれず補充員をモスクワ防衛に充てて、
非情なゲオルギー・ジューコフを起用して連戦の将軍を置きスターリングラード攻防戦
にあてた。ジューコフは首都の守備体制を立て直し増援と補給を加えて、十分な戦力を
配置した。これによりドイツ中央軍集団の再攻勢は各所で赤軍に阻止された。冬場兵士
の疲弊は頂点を極めドイツ軍は容易に押し返され、モスクワ防衛は春にはフルシチョフ
に新たに立って直しを指導指揮させた。ここにバルバロッサ作戦は完全に失敗したので
ある。しかしそれでもヒットラーは兵士の後退を許さなかった。


253: 名無しさんAA:19/08/26 16:28
   朝鮮人に 喝!  308

 前年の40年には日中紛争の終結に力を入れていたが、日本からの和平工作に応じた
汪兆銘の新政権、攻撃により重慶脱出をしている。これを受けて対中国和平における3
つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した第三次近衛声明(近衛三原則)を
発表したが、この時すでに、共産党との共闘の力は巨大で、汪に呼応する中国側の有力
政治家はいなくなっていた。その為重慶の国民党本部は汪の和平要請を拒否、逆に汪の
職務と党籍を剥奪し、近衞の狙った中国和平派による早期停戦は阻まれることになった
。1937年(昭和12年)の支那事変(日中戦争)開始時に参謀本部作戦部長であった石原
莞爾は、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な
姿勢を取る宇垣一成大将にも敵対していた。支那事変(日中戦争)に作戦課長の武藤な
どは強硬路線を主張し、石原は不拡大で参謀本部をまとめることができずにいた。石原
は無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相
に直談判して「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら
南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行す
る」と進言し約束をつけたものの、近衛の弱気と風見章内閣書記官長により拒絶された
。1939年5月、フルンボイル平原のノモンハン周辺でモンゴル軍と満州国軍の国境警備
隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、大規模な戦闘に発展
して。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢で地上戦闘は戦車火砲
の力の差が甚だしく敗戦に近い結果に終わったが、ソ連側とモンゴル共和国の主張する
国境線はほぼそのまま維持された。ソビエト連邦によるポーランド侵攻直前、ソ連政府
が所在する首都モスクワのクレムリンで「日ソ両軍の現在地を停戦ラインとし、国境線
の画定は後日設立の国境確定委員で交渉する」と、事件の停戦の合意が、9月15日の
深夜に成立して終わった。これがモノンハン事件である。ソ連側は戦車の修理部隊まで
揃え、日本は軽戦車しかなく貧装備で必死に戦った。しかしソ連の重戦車には外部吸気
取入れは極寒使用であった為、火炎瓶で戦車は爆発炎上し、更に督戦仕様の運転手は内
側からは開けて逃げれず、仲間が外からハッチを開けないと車体から脱出できなかった
。こうした欠点を突いて、かろうじて勝っていた。一方この紛争勃発には日本の国内の
不要兵員を一気に大陸に送り付けて 国内の515事件や226事件の不満分子や疑惑
の兵士を一掃した取り掛かりが秘密裡に行われた。この戦争で、ソ連軍は実践の模様が
つぶさに冷静に分析・研究され、改良された。兵員指揮や戦車の改造が直ぐになされ、
ドイツの開戦時において、結果に大きく勝利する要因を作ったと言われる。また、この
時の特別召集兵員に関東軍や日本陸軍は浮足立ち、予算と人員をそのままにしての南方
戦線の無意味な進軍に向けて大きく動き出したと考察されている。このノモンハン戦場
にはソ連・モンゴル側が「ハルハ河」という流れる河川が中央にある場所で丘陵だった
。モンゴル語で、「ノムンハン」といい、「法の王」を意味するチベット仏教の聖者の
塚の地でもあった。


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