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ちょっくらごめんよ
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21: 09/12 13:19 [sage]
余談3
 
 「男性的な人間(非パラノイア)より女性的な人間(パラノイア)の方が客観的である」、という俗説がある。これは、基本的には正しい。(ちなみに「パラノイアとドイツ語の音韻・文法形態と客観性の認識についての考察」などというタイトルで一つ論文が書けそうだ(笑))
 しかし、そこに人間関係が入ってくると事態は逆転する。「男性的な人間(非パラノイア)より女性的な人間(パラノイア)の方が客観的に物事を見ることはできるが、女性的な人間(パラノイア)はその得られた具体的内容の中から都合のいいものだけを取り出して伝達し、認知した情報を正確に相手に伝えようとしない」。つまり、いくらパラノイアが客観的であっても、客観的であるはずのパラノイアの言い分を真に受けることはナンセンス、ということである。
 つまり、パラノイアの物事の認知形態は非パラノイアよりは客観的であるということはできても、パラノイアの発言に客観性は全くと言っていい程無い、ということであり、パラノイアの発言内容は極度に(その当人の都合に合わせて)主観的になってしまうということである。
 これは女性的な人間、特に女々しい男(パラノイア、肛門性格者)によく見られる、自分の要求が受け入れられないと直にイライラし(自分より弱い相手に自分の要求を押し付けたがる)、ということにもよく見られる。認識した客観的事実の内、相手をやりこめるのに都合のいい要素要素だけを小出しにして、「ホラ私は俺はこんなに客観的なことを言っているのにオマエは納得しないのか?」、と。自分にしか通用しない「普通」や、自分にしか通用しない「常識」を他者に押し付けようとすると言ってもよい。受動的峻厳というのは基本的に他、他者を認めようとしない。その内面を敢えて言葉にするならば、「自分はこんなにすごい!自分はこんなに苦労した!だから自分が!自分だけが〜!」といったところか。だから膣(肛門)を意識するパラノイアックな感覚の持ち主というのは、仮に上辺だけは合わせても、互いに憎み合い引き摺り下ろしあい犯し合い殺し合う訳であって(まさに女という生き物のそのものであるかのようである)、基本的に他者と協力して社会でも何でもよいが何かを建設的に創り上げていくという発想が無い。
 もう一つ、女性的な人間(パラノイア)には「大局的に見てどうでもよい細かな下らないことにこだわる」ということがある。これは、上述のゴマカシにおいて話の本筋とは関係のない細かいことを小出しにして話を逸らして逃げていくという手段に用いられる。しかし、これに関してはプラスに働く場合も無きにしも非ず。何か創作物、絵画でも彫刻でも文学作品でもよい、このようなものを創り上げるにおいてこの認識は作品を仕上げる上でおおいに役立つと言えるだろう。アニメや映画等チームワークでやるものについてはどうだか詳しく知らないが。
 その他、女性的な人間、特に女々しい男(パラノイア、肛門性格)に多く見られるの特徴としては、「自分にとって都合の悪い人間は何でもキチガイ扱い」「自分に(自分の足りない頭で)理解できないものは何でも否定する」、これにおける後者などはまさに「抗う病気・パラノイア」と言うことができるだろう。上にヘーゲルやカントの例を挙げたが、彼らのような認識に耐えることはパラノイアと言えども(カントは健康だったそうだが)彼らのような強靭な精神の持ち主だからできることであって、(さすが歴史に名を残すくらいのことはあって)彼らは特別である。
22: 09/12 13:19 [sage]
余談4

 ここへ来て、父親に性的虐待を受け続けた女の子の告白のような雑誌の記事が某所でupされているのをチラ見したわけだが、そこには彼女の受けた被害の必死の訴えを、「それをお前は免罪符としていて、結局はキサマが悪い(なんか少女がやったということなのか?)」「そもそも手紙の書き方が悪くだらしがない」みたいに返すおそらく中年男性の返信が同時に載っていたのだが、これは明らかに対応の仕方が愚かしいだろう。
 彼女の記事もヒステリックで気狂いじみていたが、それに対して「それ(非虐待)をお前は免罪符としていて、結局はキサマが悪い」「手紙の書き方がどうたらこうたらだらしない」などと言うこの中年男もまた女々しい。理解できないか?基本的に、上で説明しているが、女性がパラノイアックな感覚に取り付かれ易いのはもう身体的特質から言って仕方の無いことであって、それは誰もが否定できるものではない。それを否定したら人類は滅びるしかないのだから。それを理解せず叩き返すというのは、互いを疑い合い憎み合う女性的な世界であり、肛門を力んでいるパラノイアックな女々しい男としか言い様がなく、まさに受動的峻厳の世界である。
 男性的というのは、こういった場合には「君は充分苦しんだ(相手が苦しんだことをきちんと受け入れる)。だが、これ以上自分に害を与えた相手を憎んでいると、君は余計にパラノイアックになってさらに苦しむことになる。だからこれからのことを具体的に考えよう」ときちんと説明し、あわよくば女性を見守り・癒し、具体的相談に乗り始めるくらいの能動的慈悲の世界の人間のことである。手紙の書き方がどうとかテーマの本筋からズレたどうでもいいことはどうでもいいのだ。上述してあることを鑑みれば分かることだと思うが、明らかに男性より女性の方がただ存在するだけで苦しみに耐えている。それを癒して少しでも社会を建設的方向へ持っていくのが男性的人間の役割だろう。
 苦しんでいる人間をさらに苦しめようとするような所謂女の腐ったような性根の持ち主はまたその苦しんでいる人間と同類であるとしか言い様が無い。パラノイアとパラノイアで引き摺り下ろしあって犯しあって殺しあえば?と言いたくなるのも無理は無い。この中年男性は「犯罪被害者に相談を持ち掛けられるという被害」にあっている(と思い込んでいるパラノイアックな)女性的人間である。……ちなみにパラノイアというのは思い込みがその程度が深刻になる程に激しくなっていく。女性の依存性や思い込みの激しさというのは見ればわかるだろう。
23: 09/12 13:21 [sage]
test
24: 09/12 13:22 [sage]
余談6

 もちろんこれは、薬物に関する私の実体験の話以外は、何かを実証している訳でもなく論証している訳でもなく、感想文とまでは言わないがカントの言うところの単なる弁証の類である(まあ昨今のマスコミ様の「素晴らしい」新聞記事よりは数段マシだとは思うが)。よって、このような場所に書いているわけであるから、信に足らずと思えば無視してもらえばいいし、罵倒など別の場所でいくらでもやってもらってかまわない。
25: 09/13 17:02 [sage]
余談7

 頭髪。
 基本的に短髪というものは精神を落ち着かせるであろう。まあいわば男の場合だと髪を切るとスッキリするというやつである。アメリカの女優さんで役柄上か何かで丸坊主にした人が居たと思うが、女性についてもこれは同じである。むしろパラノイアックな感覚に陥り易い女性だからこそ短髪をお勧めする。とは言っても誰もやらないだろうが。たしかに美形好みで審美的な女性としては長髪の方が美しいに決まっているからである(何度も言うが、美形好みで審美的というのはパラノイアを喚起する膣・肛門感覚に由来する)。そういえば日本の女性ミュージシャンで丸坊主にした人がいたような気もするが。長髪ならば長髪で後ろに一束ねにするというのも手ではあるかもしれないが、おでこを出してオールバックにすると逆にパラノイアックな感覚が喚起されるということもあるので(実際におでこを出してオールバックにしてみれば「頭蓋の右斜め後ろ辺りに意識が集まり苦痛を感じイライラしてくる」ことが理解できるだろう)、何とも言い難い。ともかく、男性が男性性を得る為には短髪が好ましく、女性が女性性を得る為には長髪が好ましいということである、がやはり女性も短髪の方が精神を落ち着けるにはいいのではないか、とは思う次第である。ヒトラーがアウシュビッツを初めとする強制収容所に収監したユダヤ人の中、写真に残っているが、少女たちは皆頭髪を坊主頭にされている。これはやはりヒトラーがユダヤ人を女性的な(差別的であまり言いたくないが、劣等な)民族と見なしていたからであり、彼女らに男性性を強制しようとしていたのであろう。これは女性的なヒトラーによる同族嫌悪以外の何ものでもない。このことは、やはりユダヤ人の選民思想と同じく、女性性の極度に強かったヒトラーも自分を過度に特別に選ばれた人間と見なしていたということの証の一つとなろう。
 ところで私は長髪である。抗精神病薬の投薬のせいで体重は激増し、肝臓をやられ体と首と顔はむくみあがり、もはや私の見た目は妖怪の様相を呈しており、不細工な顔と相俟って所謂キモオタそのものである。それで背が高く手足が長いので尚気味が悪い。にも拘らずそれを自覚しながら何故髪を切らないか?「髪を切ると自分の女性性が失われるようで恐ろしい」のである。男性にも拘らず女性性が失われるのが恐ろしい、これは間違いなく抗精神病薬の投薬によるパラノイア化・肛門性格化・女性化によるものである。10代の頃の私は今より遥かに痩せて普通に髪を切っていたどころか丸坊主にもしていたぐらいである。
 先にパラノイアの代名詞といって例に挙げたかの三島由紀夫も、ほとんど坊主頭であったが、その作品中には髪を伸ばすことについては憧れであると語っている部分があるし、東大生時代には普通程度には髪を伸ばしている写真を我々は見ることができる。というか、大学を卒業し彼が坊主頭を採用したのは、ヒトラーの菜食主義と同じく自己防衛であった気配が強い(というかヒトラーも坊主頭にすべきであった)。ボディビルについても同じく。身体に関する科学的な知識を得て、要所要所に筋肉をつけ、パラノイアックな感覚から逃れようとしていたのかもしれない。
 しかしあまりに男性性の強い男性というのは、逆に女性的意識(パラノイアックな感覚)を求めて髪を伸ばすということがあるだろう。男性性の強いコーカソイドの男性に、女性性の強いモンゴロイドの男性と比べて、遡るは中世から長髪が多いのはその為だろう。比べて女性性の強いモンゴロイドの男性は、男性的意識を求めて剃髪するくらいである。ネグロイドの男性は短髪長髪色々居るようだが。
 ちなみに男性が女性化(パラノイア化)すると間違いなくハゲる。少なくとも我々に、短髪の禿げのよりも長髪の禿げが多いのはそのせいである。上にも挙げた最悪の抗精神病薬リスパダールを投薬し続けていた間、私はパラノイア化のストレスで髪がボロボロボロボロ抜け洗髪時は言葉にできない程悲惨なものであった。今や20代にして私の頭髪は禿げ二歩手前といったところである。
26: 09/13 17:03 [sage]
余談8

 男性的な女性2。
 内田春菊の漫画に「こんな女じゃ勃たねえよ」という作品があるが、あそこで登場する主人公はまさに女々しいパラノイアックな肛門性格の性悪男である。(2ch語はあまり使いたくないが)所謂典型的なDQNである。ノンフィクション的(科学的?)に言えば、まさに肛門性格であり肛門を意識し肛門括約筋とその周辺の筋肉を締めているので文字通り簡単には勃起しないのである。余程美形の女でないと勃起しないという女々しい男である。男性的な男性というのはどんな女性が相手であってもいとも簡単に勃起してしまう程である(生物学的に言ってより多くの女性を妊娠させた方が自分の遺伝子が後世に残る可能性が高くなる為。男性とはそのような性である)。
 内田春菊氏は男性性が強い為、このような女々しい男に惹かれてしまう、というかそれまでの人生でこのような男ばかり相手にしてきて、よってそれを描くのが上手いのかもしれない。もしそうならば本人には失礼だが男運が無いとしか言い様が無い。やられ女の言い分なんてのも出してるくらいだし。しかしこのような男を描く天才ではある。
 このような男は外見だけで見ると一見キムタクっぽさを感じはするが、中身は正反対であろう。このような女々しい性悪男は普通は女にはモテない。というか男から見ても不快である。木村拓哉氏はその美しい外見とは裏腹に、中身はかなり男性的であるように思われる。どっしりとして落ち着いており、ガツガツした下品さが無く、自分の意見は相手の意見を聞いた上ではっきりと言う、といったような印象を(少なくとも画面の向こうからは)受ける。だからいい男の代名詞の扱いを彼は受けるのであろう。またAV男優の加藤鷹氏などは「SEXの前にきちんと爪の手入れをしておくのは女性に対する礼儀だ」とおっしゃっているようで、非常に女性を大切に思っているとても男性的な男性である(女性ファンも多い)。ちなみに爪を伸ばすと髪のそれと同じく「頭蓋の右斜め後ろ辺りに意識が集まり苦痛を感じイライラしてくる」のが理解できるだろう。爪を短く切るということは頭髪を坊主頭にするということと似た意味合いを持っている。

 ところで、男性性の強い女性を良妻賢母と言ったが、内田春菊氏の漫画を読む限り、良妻かどうかは分からないが、彼女は賢母であるようには思える。

 後は男性性を感じる女性と言えば内館牧子さんとかであろうか。作品を読んだことがないので分からないが。
27: 09/13 17:03 [sage]
余談9

 色。
 色と脳の認識について。これは色で人格を決めるとかそういったオカルトの類ではない。
 まず赤。これはパラノイアの色、女性の色である。別の言い方で言うとパラノイアや女性がその肉体や精神から発している色であると言ってもよい。理由は簡単、我々によって「赤」「red」「rot」と言った言葉で表される所の色が我々の視覚を通して脳に認知されると、肉体内で男性ホルモンの分泌が促されるからである。男性ホルモンが分泌されると精神は落ち着いてくる。実験としてしばらくの時間赤い色を眺めていて欲しい。肉体も精神もリラックスしてくるのが理解できるはずである。赤い色を見つめているのに抵抗があるというのであれば、オレンジやピンクや茶色でもおそらく大丈夫なはずである。逆に、緑色をじっと見続けているとイライラしてくるのが理解できるはずである。緑色は目によいなどと言われるが、それは眼球やその周辺に存在する視力を司る筋肉にとって好影響であるという話であって、精神的にはイライラしてくるはずである。しかし、緑色はさわやかさをもたらすという言い方もできる訳であって、男性(的人間)から見て緑は精神を爽快にしてくれる色などという解釈も成り立つかもしれない。逆に赤は女性(的人間)にとって心に落ち着きを与えてくれる色という解釈が成り立つだろう。
 だから、我々が子供の頃女子のランドセルは赤だったのであり、「赤い靴をはいた女の子〜♪」という童謡が歌われたり、上で挙げたエビちゃんには赤い服が異様なまでに似合うのである。
 
 エヴァンゲリオンは非常にその辺りのことがよく表現されているアニメであり、庵野秀明監督個人がお決めになったのかどうかは知らんが、登場人物のアスカのシンボルカラーが赤であるのは的を得ているとしか言い様が無い。アスカはこれ以上は無いというくらいの女性的な女性の象徴であり、一目瞭然でヒステリックでパラノイアックである。不謹慎な言い方だが、犯したくなる女である(だからヒロインでありさんざんエロのネタにされるのであろう)。おそらく正常な男性は赤いものを身に付けた女性を見ると性的欲望を掻き立てられるだろう。
 逆にガンダムではシャアが赤い彗星と呼ばれているが、富野由悠季監督がお決めになったのかは分からないが、これはミスマッチとしか言い様がない。シャアには確かに赤い色がよく似合う、しかし、それはシャアがヒーローで金髪で男前で池田秀一氏のカッコイイ声だからである。要するに見た目の問題だ。そんなことを言い出したらキムタクにだってあのキャラで赤が似合ってしまうとも言い切れる。シャアのキャラクター、人柄は赤とは正反対の落ち着いた男性的な男性であり大人である。女性的な子供っぽさはカケラも無い。だいたいが10歳も年下の子供に修正だとかいって拳で殴られたにも拘らず、「これが若さか……」などと言って受け入れてやれる程に大人で男性的な人間である。また、逆襲のシャアでアムロと格闘した挙句に自分の方へ転がり込んできたクェスに手を差し伸べて、絶妙のタイミングで「行くかい?」などと言ってしまえる程に大人で男性的である。もはや大人の男過ぎて笑えるくらいである。むしろ松本人志的な笑いをすら喚起せしめる程である。よってむしろ、シャアはその肉体や精神から緑を発しているような人間であると言うことができる、と私は言いたい。シャアの場合と同じく見た目の問題だけで言うならば違うということになるだろうが、赤が似合うのはむしろカミーユであって、彼は一部で萌え美少女とか揶揄される程に女性的でヒステリックでパラノイアックであって少々いき過ぎていて気狂い滲みている程である。少し前に「赤の肖像」という池田秀一氏の朗読イベントがあったようだが、シャアは「赤の肖像」ではなく、「緑の肖像」である、と私は言いたい。 まあ、つまり何が言いたいかと言うと、赤い色を見るとパラノイアックな苦しい感覚からは少しでも癒されますよ、と言いたい。
28: 09/16 07:51 [age]
余談10
省11
29: 09/16 07:51 [sage]
 ここでヤザン・バスク・ジャマイカンの三者を貫く共通性について考察してみよう。それは恐怖心と恥の意識である(恥意識については後述)。これら三者女性的な人間に共通するものは、他者(男)に犯されるかもしれないという恐怖心である。
 ここでまた身体論的な話になるのだが、小さな子供を持つ親御さんはよく分かっていると思うが、私が書籍で読んだ所に因ると、小さな子供の体を抱き上げたり撫でたりした場合、男の子は平気だが、女の子は男の子に比べてくすぐったがり、その子供によっては非常に恥ずかしがって嫌がるそうである。女性は男性に比べて感度が高いのである。だいだいが大人の男性と女性を見比べても、明らかに男性より女性の方が恥ずかしがりやで体に触れられることを嫌がることを我々は理解できるであろう。
 ヤザン・バスク・ジャマイカンの肉体に服ごしにでも不意に触ってみることを想像してみるがよい。ヤザン・ジャマイカン
ならまだ罵倒されるか気持ち悪がられる程度で済むだろうからマシであろうが、バスクの体に不意に触れようものなら即刻顔面を拳で殴られそうである。これは皆この三者の恐怖心の現れである。
 逆に男性性の権化であるシロッコやシャア(ジャミトフは老齢故別だとしても)の肉体に服ごしにでも不意に触ってみることを想像してみるがよい。「なんだね?」と言ってただ単に疑問符を浮かべられる程度のことであろう。それどころかシロッコにいたっては、「ん、どうしたのだね?」などと言って喜ばれ笑顔を浮かべられそうなぐらいの勢いである。男性(的人間)には他者(男)に犯されるなどという恐怖はほとんど無いのである。

 私個人的にはこのヤザン・ゲーブルという男には非常に惹かれるものがある(大塚芳忠氏の声もカッコイイ)。自分には無いものを持っている感じがするからである。

 女性的なカミーユがあのヒステリックさで暴走して、最後まで死なずに済んだのは(最後壊れたが)、傍に男性性の強い(と言っても彼女も若干ヒス気味だが。これはガンダムキャラ全般に言えてしまうことではある)ファがいて彼をいちいち受け止めてくれていたからである。もし仮にファが居なければ、カミーユはあの勢いで暴走してヤザンかジェリドあたりに斬り殺されていただろう。
30: 09/16 07:52 [sage]
 カミーユはシロッコやヤザンに向かって戦争を遊びにしてどうたらと言っていたが、ここにシロッコとヤザンの対照性を見ることができる。つまり、シロッコの場合は特に遊びという形容は似つかわしくないように考えられるのだが、敢えて言うなら「遊びで戦争をやっている」のがシロッコで、「戦争を遊びにしている」のがヤザンということである。ちなみに、シャアとシロッコの違いもここで明らかとなる。シャアは絶対に遊びで戦争をやったりはしない。逆襲のシャアの第二次ネオジオン抗争(だっけ?)とて遊びでやっている訳ではないだろう。だからシャアは敵役でありながら正義のヒーロー滲みているのである。
 つまり、ヤザンのような人間が生を感じ生きる居場所を得るには、戦争という枠組みが与えられることが必要であって、女性的人間のヤザンには戦争を与えてくれる男性的人間のシロッコのような人間が絶対的に必要なのである。又、シロッコのような男性的人間には戦争において役に立つ駒(とは言うものの彼はきちんと個人個人の人間性を大切にする男、男性的人間であるが)としてのヤザンのような女性的人間が必要なのである。だからシロッコとヤザンは惹かれあうのであろう。
 ちなみに、女性的で殺し合い好きのヤザンは進んで戦場へ出たがるが、男性的なシロッコはその天才的能力でMSを扱っても鬼神の如き強さを発揮できるにも拘らず指揮官の立場でほとんど戦場に出ることは無い。
 関係ないが、もし仮にヤザンとシロッコが同じMSで一対一で戦ったとしたなら間違いなくシロッコが勝つであろう。しかし、この二人の能力はそのようにして比べられるべきではない。ヤザンの能力とシロッコの能力の属性の違いが最も顕著に表れ得るのは、例えばザコMS百体なり千体なりに囲まれた時である。ヤザンならば死を恐れ生き残る為にザコの間を上手く立ち回ってその戦場から脱出して逃げるなどという方法をとるかもしれないが、シロッコは脱出しようとするもヤザン程に上手く逃げられずザコ相手にエネルギー切れを起こしてやられてしまうかもしれない。まあこのような状況においてでも、ヤザンがギャプランなりハンブラビに乗っていて、シロッコがメッサーラなりthe-oに乗っているならばどちらも生き残るだろうが。それぞれのパイロットにはその能力に相応しいMSというものが在り、また必要である。 ちなみにこの作品に登場する女性キャラは基本的にどのキャラも同じように女性性の強い女性であって、あまり語る魅力がない。ファのような男性性の若干ありそうなキャラも居るが。ハマーンあたりも一見一勢力をまとめる男性的人間に見えなくもないのだが、彼女は放映当時に出版された本をみると「強い男性(おそらくシャアのことだろう)に憧れる女性」と書いてあるように、確かにあまり他人を尊重して受け入れるような器には見えない。つまりは、女性的である。カリスマはあるようだが。
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