熱血高話


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熱血高話

1: 名無しさんAA:10/11/25 19:06 ID:s6
私は書くぞ どんどん書くぞ ひるまないぞ!!!
老人のくそ力を見せてやる。


2: 名無しさんAA:10/11/25 19:15
やばいぞ日本


先月の「日本の、これから」で、韓国人の若者の意見が盛んに述べられて、日本人の
若者は殆ど反論が出来ませんでした。NHKがアンケートで審査していたことが明らかに
なっていますが、それでも、日本の若者は日韓併合の裏について、知らなさすぎる
と思います。ハングルが日韓併合後に広まったことや、従軍慰安婦の証拠が出ていない
ことすら、知らないのです。韓国の日韓併合以前の公文書なんて、殆ど漢文ではない
ですか。創氏改名強制もでっち上げです。日本が韓国でインフラ整備に腐心したこと
すら、知らない。ただ、「日韓併合で韓国は苦しい思いをしたらしい」くらいにしか
思ってない。私は韓国に対して、酷いことをしたとは思っていません。何故かと言う
と、植民地支配はヨーロッパによる大航海時代から当然の様に行われていたことで
あり、誰も悪いとは思ってなかった。韓国にも言い分はあるだろうが、日韓併合条約
も国際的に認知された条約なのです。だから、日韓併合は私は悪だとは全然思いませ
ん。何故日本人が歴史に疎いかというと、理由の一つに教科書がおかしいことですね。
これについては論をまたないと思います。二つ目に、教師がおかしいことですね。
教師も近代の歴史をあまり、学んでないようです。従軍慰安婦の証拠が無いことも
知らないのですから。私の大学の教員も「日本の戦争は全て悪」「南京事件はラーベ
日記で証明されている。」「日韓併合で韓国の近代化が進んだなんてウソ」等々、
若者なら騙せると思っているのか、本当に知らないのかはわかりませんが、教師が
これではどうしようもない。中には良い先生もいましたけど。とにかく、日本の歴史
教科書には近代の歴史の増量が急務です。教師が歴史は答えは一つではないことを教
えるのも、大切です。日本の歴史教育は全面的に見直されなければなりません。


と 誰かが書き込んでいた。私もそう思う 君は思わないかい。


3: 名無しさんAA:10/11/25 21:52
自民党批判35

 みんなの党も自民党も馬鹿ではなかろうか。この北朝鮮の襲撃事件は異様な事で
北朝鮮は表向きは韓国を向いているが 本心は打倒日本に他ならない。それは中国
も同じで中国のミサイルも北朝鮮のウラン濃縮も結局は形の上も実質も日本に向いて
ある。これを止める術はない。そもそも自民党時代にそれを膨らましたのではないか
今 中国首脳部は日中友好に頭を抱えていたとしてしても そうした嘘の歴史を教え
てまでも日本を恨ませて 国を一つにしてきた事は 今日本が衝突映像を出さないで
いようと画策した事と同じで 国民を信じていない事の表れであり 共産国が多かれ
少なかれ そうした鬱積した不満を 国外に逸らそうという行為はある。日本の多く
の馬鹿経営者は その行為が共産国で突出してあって国内法や常識が日本と全く違っ
ているのも知らず 間違えた経営判断をしている。とはいえ 今だ北やロシアがたき
つける日本占領政策に躊躇してるのは 日本企業の下請けや従業員などがいて 経済
損失と北の難民が溢れ 国内事情が悪化して自らの政権の足元が掬われる可能性が大
である事である。かつての戦争の歴史からみて 大国はすでに勝った時の領土支配ま
で結んで事を起こしている。こうした共産国の不穏な動きを招いているのは 他なら
ぬアメリカの理由なき アフガンとイラク戦争に他ならない。アメリカはすぐさまで
もブッシュを法廷に招いて何らかの謝罪や責任やあるいは釈明がなければ 国際的な
この動きは止まらないのではないだろうか。

4: 名無しさんAA:10/11/25 23:54
 今流33

 小沢氏裁判で裁判所は 裁判停止の要望に対して 却下しその判断を刑事裁判に
向けた これまでも自衛隊違憲裁判で 高度に政治判断を要する裁判では判断を示
す事無く終わり 田中角栄の外為法違反では 事後にできた法令を下に裁判した。
こうした裁判所の 正義なき方針は 公務員の事なかれ主義とともに大きく批判さ
れるべきであろう。裁判所が独自の倫理感をもって判断することは決して違法では
ない。いや違法というよりは それこそが正しい判断のはずだ。そもそも政府でも
議会でも民衆の心理や流行でも 決して正しく動いてはいない。今回の韓国砲撃も
撃った兵士はおろか 北朝鮮自身すらも 大きな時流や枠組みの中で仕方なしに行
った行為であるのかも知れない。だがそれを止め時流を正義に戻すことが裁判や人
の道徳心である。徳川時代 子供には悪いものを 見せない聞かせない言わせない
として育てる事を 未来への方針として真実を築いて生きた。言わば日本は水槽の
金魚のごとく 醜悪な国際事情と離れて 獲物を狙うかのごとき動きと離れていた。
が 中国ではそうした中で日本への敵愾心を植えつける事に成功した。だがそれだけ
中国に裁判所という権威ある公平組織がなかったから出来たと言える。もし裁判所
がその権威と誇りを持ったものであれば この停止の要望は受け付けるべきであろう
。限りなく黒に近い白を判断した事を考えれば それが時流に流されず国民の良心
を指導する道ではあるまいか。

5: 名無しさんAA:10/11/27 01:55
 日本のこれから 109


 実は、既に米国の産業界では既に中国抜きの戦略が始まっているとも話す。例えば
次のような具合だ。
 「米国はもはや中国を世界の工場とは認識していない。賃金が急速に上昇し始めた
中国で物を作っても国際競争力はない。しかも中国で作る製品は欠陥だらけで、中国
以外の市場では通用しない。米企業は中国での生産は中国市場向けと割り切り始めた」
米国の経営者も消費者は中国産の製品や食品には手を出さない
 「中国に最先端の設備を導入すれば必ずと言っていいほどコピーされ、すぐにライバ
ルとなって米企業に立ち向かってくる企業が誕生する。とりわけ先端的な製薬メーカー
などでその危機意識が高く、技術移転も工場の建設にも二の足を踏んでいる」
 「一方、米国の消費者はスーパーで手に取った食品に中国産のラベルがついているの
を確認すると、ほとんどの人がそれを棚に返す。安全性に問題があると信じているから
だ」 そしてマルムグレン氏が言うには、「賢明な米国の経営者は、中国があと10〜15
年で中国の人口は減少に転じ、その前から急激な少子高齢化が始まっているのを知って
いる。50年後を見て投資できる国ではないことも」。
 そんな米国の経営者は中国を通り越してインドに目を向けているという。

 中国はガラパゴスで、日本がイースター島
世界第2位、3位の経済大国が向かう哀れな結末2010.11.27(Sat) 川嶋 諭 から

6: 名無しさんAA:10/11/29 02:45
民主党批判 53

 鳩山氏は かつての叔父がした過ちを あまり理解していない。シベリア抑留者の
多くの人たちを救った功績は多大なる事はあるが だがソ連での労働者であった証明
の発行をしなかったのである。鈴木宗雄はこの事を知っていたし 前橋本首相時代に
この証明を話し合われて合意に至った経過があるはずなのだが履行されてない。
 旧ソ連が行った惨劇は 全くあのヨーロッパにおけるユダヤ収容所やカチンの森で
の事件よりすさまじかったと言われている。というのも ドイツが行ったものや同じ
白人としての扱いは 同じ悲惨であってもレンガ作りの家で充分な食料を受給されて
いたが 捕虜や拉致された日本人の悲劇は 穴のある木造の掘っ立て小屋での一切れ
のパンの支給による過酷な労働であったからだ。今のシベリア第二鉄道通称バム鉄道
の大部分は 日本人で切られた木と日本人が掘った土によって出来上がったと言われ
る。
 その間逃げ出して来たシベリアからの帰還民は50〜100万人はいただろうと言わ
れていて実際の数字はわからないままである。その中で知られているだけで40万人が
既に高齢で死んでしまい今や一割程度の4万人程度がその全貌と謝罪を求めている。
自民党時代に パンドラの箱を開けて藪をつついて蛇が出る事を恐れて蓋をした結果
 そうした正確な実態と数字がないのである。がそうした生存者の多くは 捕虜とし
て一年目に6割が死に二年目には八割りが死んでいった為にその場を逃げたと証言する
。つまりは少なくみても250万人程度が 終戦となって部隊ごとあるいは部落ごと
連行されていった事になるのだ。


7: 名無しさんAA:10/11/29 03:04
民主党批判 54

 もちろん この数字は多いか少ないかはわからないし 又 女真族といわれた一緒
に住んでいた満州族つまり北方朝鮮族の人たちもいるのかも知れない。がそれでも
今回やっとやってきた メドベージェフ首相に管氏は会談をしたのだが こうした
事に全く 官邸や政府特に外交を司どる外務省が言及していない事は かつての関東
軍だと威張りながら 良いように人を配置して内乱と敗戦とを起こした軍部に似ていて
悲しいものだ。もし本当に国民を守る気概があるなら あるいは国土を愛して亡国の
民となることを危惧するのであれば もう少しやり方があったのではないか。ロシア
との問題は何も北方4島に限った話ではない。経済協力しようにも途中で難癖つけさせ
られたり 中古市場では違法積み込みの上で出航したり共産主義をすてなかったり
終戦日を変えてまで正当化を計ったり かつての拿捕やそうした終戦後の混乱時の
ドサクサにまぎれた火事場泥棒を働いた過去を 謝罪しなかったりである。われわれ
日本人はそうした違法行為に保障しろとは言わない。だが歴史認識はひとつにして
今後の過ちのない世界構築を考える手立てには 手を打たなくてはならない。


8: 名無しさんAA:10/12/05 10:07
民主主義が立ち往生している。それはブッシュのアフガンやイラクたたきやったから
ではあるが それは個人まで影響している。つまりは情報の精査をだれがどうやるのか
が問われている。個人も国家もすべてが 足かせとなった道義的責任が 国際社会で
はもとより こんな律儀な日本でも起こっている。
 今回の国会論議でも 野党は国家公安員はどうしてたどうすべきだったという過去
の話で諌めるが 将来どうあるべきだどうすべきだという建設的意見はない。また
諌められる政府も これでは日本が立ち行かないほど 貧弱な議論の元にいて 本人
である 政府要人も国会改革して 幅広い意見のもとに集約を図るという作業をして
いない。小沢喚問にしても 彼は法律の抜け穴はくぐっても違反はしていなだろう。
と思われる。だがこれが悩ましい問題でもある。
 海老蔵事件にみるように 本人は痛ましいほど傷つけられていても この喧嘩を
誰も 当たり前の話とは思わない。酒に酔うことは人間である。だがその酔い方に
極めて異常があったとしても それは本人の自覚でしか補正はできない。北朝鮮が
乱暴で中国が横暴でも 人は諌めるだけで実力行使はできないのが実情だが だが
それは皆でわたれば怖くない赤信号も 将来がなくなる話で地球が悲鳴をあげるだけ
の話で 海老蔵が酒を飲んで悪酔いしても 禁酒法を作れとは言えない。本来なら
破門されて当たり前のこの事件でも 異様な歌舞伎界はたぶん処分はしない。あの
市川氏が忙しさにかまかけて自らの躾や教育しなかった事を露呈する事になるからだが
 が これは市川宗家のみならずこの悪循環は 日本社会いや世界中で起こっている
それだけ 指導者が力量不足というよりは個人の人間のいわれなき批判性弱肉強食と
いう本能が 人間同士の戦いをするよう神が仕組んだ罠にかかろうとしているように
みえる。


9: 名無しさんAA:10/12/05 10:13
つまりは 今世界中で再構築されるべき 道義的責任や
道徳や倫理観が必要視されているのであるが ここに又
共産党やら創価学会やらオウムのようなものの付け込む
手段があるので 厄介だが自らで自らの頭の中でこの道徳
を考え実行しなければなないし そうした人を選別して
付き合わなければならないのである。


10: 名無しさんAA:10/12/05 10:19
この電算化社会で一番の厄介な問題は この自分の足で考え自分の手で作り自分の頭を働かせ自分の言葉でしゃべる事がなくなりつつあることだ。昔まだ電話に記憶機能がなかった頃は人は間違いを繰り返してでも相手の番号を覚えてきていた。89のタバコ
屋のおばあちゃんはつり銭を間違わず計算していた。いまやボケ
対策は生活から医療の世界に移ったようである。ボケた脳は個人
から国会や世界の若者にまで移っているように。

11: 名無しさんAA:10/12/05 16:12
ウィキリークスの抱える最大の矛盾

ウィキリークスが公開したイラクのバグダッドで2007年7月に米軍の攻撃ヘリコプタ
ーが路上の人びとを銃撃する様子を空撮した映像〔AFPBB News〕
 超大権力の重大犯罪を言うから、主敵は一にも二にもワシントンである。アサーンジ
に従う限り米国は犯罪者集団であり、裏で何をしでかすか知れたものではない国だ。
 ウィキリークスが抱える最大の矛盾を、ここに感じる。

 ばらしても撃ち殺されない自信が持てる体制にぬくぬく生きている告発者から
さんざんリークを頂戴する代わり、すぐさま投獄される中国、一族郎党露頭に迷う
だろう北朝鮮、ネット接続環境自体なきに等しい国、しかも悪政はびこる国だとかから
は、滅多なことでネタをもらえない一事にある。
 民主主義の国、言論の自由が手厚く守られた国ほど、ウィキリークスに狙われやすい
。そのウィキリークスはサーバーをこれまた自由と民主主義の国に置く。よもやロシア
や中国に置こうとは思うまい。
 しかも彼が信奉する正義とは俗情との結託である。公電暴露が窮地に追いやるのは
外交というプロフェッションであって、この先外交官は電報に重大事項は書けなくなる
恐れすらあるけれど、ウィキリークスが今後続々明らかにしていく米国の公電を誰より
熱心に読むであろう集団も、ほかならぬ外交官たちであるに違いない。

アンチ権威主義者の真の姿は、至高のエリート主義者
 覗き趣味の奨励でなくて、何であろう。

12: 名無しさんAA:10/12/08 06:03
いま 日本において国民を不幸にしているのは 国・地方を問わず公務員の違法な
振る舞いであろう。もちろんこの公務員というのは議員や独立法人も含めての話で
ある。そしてその最もたるものはその資料の廃棄である。建築や都市計画はいうに
及ばず配布される国民向けのパンフレットとも全くその時には説明をしながら今や
 何ら資料となっていない現実に唖然とすることは多い。それは各小中学校や高校
の図書館の本や目録さえ汚いと理由だけで簡単に廃棄し処分されている。
 こうした現状を踏まえると 公文書の100年保管とすべての発行ないし届出される
全てを公文書として決め その上にその保管処理を行うことが必要である。つまり
そうした法律処理や運用こそ大事で 議員がちまちま小さな法律論や行動批判を
やっている場合ではない。
 更に今盛んに新耐震をやっているが実は新耐震以上に新たな用地確保や石綿被害
などの調査がまだ未完成にある。つまり建物の補強よりは より詳しい現状把握と
その解析が必要である。更に国会答弁にいまだ次官クラスの本来の国の姿勢や方針
やらの答弁がなされていないのは 極めて違憲であり 政治は議員の為の議会では
ない。政治とは官僚の行う公務事務に 市民の送る監視の為の代理者である議員が
 議会という開かれた公的な国民の見える形での会議で意思決定を図る事なのだ。
国会対策会議やら何がしかの与野党協議やら執務自治体やらが報道機関を締め出し
て 決定や会議していることは ほとんど異常であり違法なのであるのだ。



13: 名無しさんAA:10/12/10 07:11
[ソウル/東京 9日 ロイター]

 新華社によると、中国の戴秉国・国務委員(外交担当)は9日、北朝鮮の金正日
総書記と平壌で会談した。新華社は戴国務委員と金総書記が「率直な」話し合いを
行い、朝鮮半島の危機について見解が一致したと伝えている。
 「両者は率直かつ掘り下げた話し合いの後、二国間関係と朝鮮半島情勢に関して
見解が一致した」という。 
 また、北朝鮮国営の朝鮮中央通信社(KCNA)は「(北朝鮮と中国)両国間の
友好的で協力的な関係を発展させることと、一連の共通の関心事項について協議が
行われた」と報じた。

 どちらの通信社もこれ以上の詳細は伝えていない。


14: 名無しさんAA:10/12/19 11:59
管政権は 今や風前の灯状態であるかのようだ。マスコミは色々言ってはいるがこの
マスコミの暴挙も 今回の市川家事件の発表のように 憶測で発表し物事を動かして
やまない。その抽著たる例が ニュースバラエティでの若手議員のコメントであろう
勉強不足と議員権力の中に言いたい放題で批判している。いわゆる小沢派議員の中に
は 今回の小沢事件をまるで他人事のように庇護し 違法性がないと言い切る議員が
いる。はたして政治とはそんなに軽いものなのだろうか。名古屋の議会解散要求でも
選挙管理委員会は 政治的中立を記した法文を読み上げる。一体どうした事か。法は
あくまでも 中立性と厳格な運用の手順を記したに過ぎない。小沢氏問題も大本の内
容すなわち 金と政治の有り様を規定したに過ぎない。日本国憲法もすべていわゆる
法律とは あくまでも言葉にした共通認識であり 本文はその運用精神にあると言え
る。一般の臓器提供カードが否定カードを持たなければ 移植可能とする法案を国会
議員が党派を超えて賛同した。PS細胞を発見してるにも関わらず こんな馬鹿げた
臓器移植法案を可決する事ができるのなら 今の北朝鮮対策に力を注ぐべきであろう
。管内閣も沖縄問題担当大臣には鳩山氏官房長官に小沢氏法務大臣に仙石氏霞ヶ関の
改革に河野氏さら行政改革にみんなの党から北朝鮮問題に阿部氏といった 全く新し
い内閣の姿が 必要であろう。日本の為に党派を超えてという名目の元で


15: 名無しさんAA:10/12/20 02:18
 歴史にもしも というのは禁句とされている。だがそれを押して尚もしもと言わせて
いただくなら 中曽根以降の進めて来た制度改革や社会観念が放置され国会論争がから
回りしていたなら 日本はもっと素敵なままの国であったろう。と思われる。われわれ
がともすれば 江戸時代あるいは明治時代や大正時代といったとき そこでぷっつり切
られた新時代が幕あけたように思いがちだが 人々の生活というのはそうそう簡単には
変わらないし 考え方や価値観がかわるのは そうした天皇や国家像よりは革新的技術
や戦争などの世情的な流動によることが多い。というよりはそれこそが歴史を変える。
 おそらくは戦後世代とはいうものの 明治政府が打ち立てた日本像という言葉や文化
やイデオロギーは昭和の時代まで裏では脈々と受け継がれてきていたものであろう。
 かつて 暴走族やらヒッピーやら竹の子族やらと言われていた時代は そうした過去
の遺産である家やつながりや文化や生活態度や習慣やらが忌み嫌われて政治家が時代に
呼応して あたらしい方針を官僚と共に打ち立てた時代であったのであろう。仮に動か
ずそのままでいたら 無駄な瀬戸大橋やら大店法改正やらあるいは金融ビックバンなど
の行財政改革は全く進まなかったろうし 日本の財政規律は守られても おそらくは
最貧国のままの世界に陽の目を見られる事も羨望される事も 袋叩きのような金蔓国家
にもならなかったであろう。しかし かつての住み着いた西洋人が言うように賞賛と賛
美の嵐の中で 住む環境もまた過酷ながらも平和で律儀な国民性を携え中国が台頭して
くる事もなかったと思える。が 既にここまで来て日本こそが人類の進歩のさきがけと
ならんこと という気概をもって進む事を ためらっては 平和が止まるであろう。つ
まり国際的にも この進んできた道を悔やんではならない と言うことに他ならない。
以外にも日本人は悲観的になりがちであるが 子供手当てよりは 将来を担う青年や若
人をしっかり育てる事に金をつぎ込むべきで そうすればまだまだ楽観できるのでは
ないか と思う今日この頃である

16: 名無しさんAA:10/12/22 01:40
運輸省は20日、トヨタ自動車(Toyota Motor)が実施した2件のリコールについて、
合わせて3242万5000ドル(約27億円)の制裁金を支払うことで合意した。トヨタが
ことし支払った制裁金の総額は約4880万ドル(約41億円)に上った

これは 豊田の馬鹿社長という役を中国人 張さんに預けた為である。日本人なら
誇りをもって 自社の車が安全であったと言え そして裁判で戦うべきだ。
いわれの無い因縁に脅かされるな。良いじゃないかアメリカで売れなくったて
性能の悪いアメ車に市場を譲ってやって 資源の浪費をさせても。


17: 名無しさんAA:10/12/26 07:56 ID:v.
かつて ソニーは 家庭用ビデオについて 個人的主権の侵害あるいは著作権侵害
などとと いわれの無い非難と裁判を受けた。それでも かの企業家精神はひるむ
事はなかった。音楽にテープがありダビングして聞くことが出来るように 映像で
出来てもおかしくは無い。と更に8ミリフィルムも 大掛かりではあるがダビング
が出来ないわけではなく 単に手軽になっただけだ。とアメリカ政府や公的機関を
相手に 単独でこれに違法性がない事を堂々と戦ったのである。これに比べVHS
の後発メーカーは それを支援しなかったどころか 新たな規格としてソニーに対
し対坑した機器を発売しだしたのである。もちろんビクターが映像の先駆者として
のそのプライドを捨てて 多くのパテントのある心臓部を公表し公開したことには
賞賛されることではある。しかしである これは経団連あるいは経済同友会の様な
クラブの本心が試されたものである。そして残念ながら 日本の経営者連中はその
行為に無頓着で正義を広める行為を行わなかったのである。今回のトヨタの事件も
日本人としての誇りがあるなら その車は欠陥車でない事を証明し 裁判すべきで
あるしまた 欠陥車を売らない事へのこだわりはあるはずであろうし まさしく正々
堂々と大手をふって戦うべきである。妙に経済やら将来の利益にこだわっていては
まったく日本人の恥さらしである。アメリカには 車に積んだ日本製のOSに非常
に関心がありその公開を求めているだけで シート下のマットがアクセルに当たる
事などで 事故が多発したとするのは大きな誤解と非道である。
 

18: 名無しさんAA:10/12/31 01:35
 NHK 僕はロックで大人になった。を見た なんとひねくれた題名だろうか。
が 内容は忌野清志郎の物語であった。が 魅入ってしまうほどの出来だった。
なぜ 素直に忌野清志郎に捧ぐとかそのロック人生とか。新たなるロック歌手とか
しなかったのだろうか。結構堂々の映像が多く 魅了する番組であったが その感傷
もつかの間 すぐさま忌野清志郎ゴッホに会う などと忌野氏の特集らしいが
これがいけない。このHNKのやり方が全く気に食わない。ファンの為なのか視聴者
の為なのか ついていけない。が そこまで立て続けに年末に見る気はしない。
そんな愚痴はさておいて この本名栗野氏という人は 何とも奇才であり達観者でも
ある。誰もが持つ少年の青春の迷いの中でレコードを出すという快挙を行い 恵まれた
偉業の中にありながらも その清純さゆえに純粋に押し通して なかなかの苦労をし
その後やっと成功を掴んだという 何とも奇妙な人生の人であった。
 彼の「僕の先生〜〜」って歌を知ったのが高校生の頃だったから きっと同じぐらい
の年齢だったのだろう。あの頃のロックと言えば 宇崎竜堂とか矢沢栄吉などがファン
を掴んでいたし フォークの世界では 「バラが咲いた〜」以来GSバンドからの
独立した個人だったり 盛んなフォークの目白押し状態で団塊の世代の有名な人達の
中にあって 彼の新しいジャンルだろう「新和製ロック」とも言えるものは陽の目を
見ることは あまりなく 井上陽水や吉田拓郎などの前座さえやっていたという。
しかしながら ある時 不調のまま舞台にあがり歌ったのだが 聴衆はのりに乗って
いた。そこで彼は悟ったらしい。この人達は詩や曲を聴き来てはいない。俺らの
エンターティナーとしての歌を見に来ているのだ。と それから金髪に腕輪をはめて
派手な服 そして凝った演出を行った。そうしたまるでアメリカ映画を彷彿させる
ような筋書きで そうした彼のを自分史を写していた。彼は惜しい逸材であったろう
が 一つだけこうした成功した人達の失敗がある。近年の多くのそうした偉人にある
ようにそれは次の人達を育てていない事である。つまりは かれの哲学と詩のつくり
と音楽感覚さらには その努力の光景などが 後世に伝えれない残せないのである。



19: 名無しさんAA:10/12/31 18:48
もし 管総理が政権浮上を目指すなら 秘密裏に韓国とホットラインで対北朝鮮問題
を話あうべきであろう。今年の冬将軍は かなりの猛威を振るう可能性があり 死者
の数は おそらくは餓死者や凍死者・自殺者とうなぎのぼりに増えて 人の生活は
出来ない様がおきるであろう。そして今回の砲撃問題は その予想を見越しての行為
と見ることができる。問題はこうした中で体の弱者に病気が多く出るだろうと思われ
ることである。川が凍りつけば 中国への避難民は劇的に増えるかもしれない。そし
て まともな国民が次々と離れ 更に悪化した経済を持ち悲惨な現状に冷酷な意識を
もった 狂気国家が強く結束するかもしれない。だが 日本や韓国は恐れてはいけな
い。問題は中国の出方である。中国に 北朝鮮の現政権の降伏と韓国への編入を促す
決意があれば 事は平和裏に 彼らを国賓クラスの重臣として 韓国で保護出来るだ
ろうが 中国やロシアがその領土を虎視眈々と狙っているとしたら 姑息な大統領 
メドベージェフに かき回される恐れがある。 が米国は 恐らくはこの核戦争前の
ここ1・2年が この朝鮮半島から起こるであろう 世界大戦の前触れを防ぐ手立て
がない事を肝に銘じるべきである。限定的にでも ウラン濃縮ができ核実験の体制が
出来上がれば それはイランをはじめパキスタン・イエメン・南米・アフリカなどに
急速に 広がりイスラム原理主義教徒の 思う壺となるであろう。こうなっては
もはやアメリカの権威やヨーロッパの知恵あるいはアジアの経済力を全て合わせても
戦争の機運に立ち向かうことはできない。
 



20: 名無しさんAA:11/01/04 00:20
 P・P 2

 とりあえず アジア経済は今のところ落ち着いている。しかし日本浮上の切り札は
いかに中国と離れるかにかかっている。今までの歴史において 中国のような昔武芸
者つまるところ 地理に恵まれた大国がうぬぼれて強気しか言えない強情張りの強欲
国民と付き合って日本がいい事にあった試しはない。聖徳太子時代に隋に日の出ずる
国からと書いたとして生人を貢物として強要されたし 江戸幕府においても大陸の弱
さゆえに琉球王国は荒れに荒れて薩摩の庇護に陥り 日本は黒船来航で幕府は滅んだ
さらに明治政府に至っては イギリスに下手な外交をしてその政権が奪われた事から
日清・日露の戦争に陥ったのである。その後も日本が植民地解放を叫んでいたにも関
わらず 欧米についていきながらもあの手この手で八方美人外交を行い最後にはソ連
にアジアの実権を譲り共産化を許した。その為に自らの国が分割されていながらも 
その統一を話し合いで図ろうという気はいまだになく 戦後すらベトナム・朝鮮にと
出兵しては逃げ帰って 大国の後ろ盾がないとみるや どうゆうわけか敵対もしてい
ないウイグル・チベットを殺戮のうえ実権を奪った。国際的に許されない行為と台湾
などが叫んだが ベトナム戦争やアフガン戦争中東戦争にまぎれて 米ソ大国にはそ
の平和維持への体力がなかったのである。またそれを利用してきたのである。こんな
姑息な国と外交関係を田中元首相は国交回復をしたのだが 中曽根の馬鹿首相はそれ
に輪をかけてODAを奮発して軍事国家を応援したのである。当時の社会党が外交で
暖かく隣国と接すれば 日本の窮地に助けるはずだと なんの根拠もない平和主義を
受け入れて・・・である。結果自民党はそのまま 中国脅威論を取らないなどとボケ
た外交の中で 今では軍事どころか 政治・経済・領海・技術・パテントとあらゆる
分野で違法的盗みを助長し敵対日本心をあおりたてることに寄与しただけで なんら
日本にも世界にも 全人類の頭痛の種でしかない始末なのだ。それは国民が悪いから
国家が悪いという事を 全く無視した日本流の虫のいい言葉で対応して来た結果に他
ならない。


21: 名無しさんAA:11/01/04 00:56
P・P 3

だが ここで日本人ならめげてはいけない。世界は日本のもつ情愛の念を求めている。
それが証拠に 活花・柔道・茶道・すし・ラーメン・刺身・醤油・相撲・アニメ・
ファッション・モード・車・最先端技術・米・その他 色々の文化が今や世界中に
広がり 特別有色人種という地位は いまだもって衰えてはいないはずだ。下駄や
傘あるいは酢やわさびに至るまで まだまだ日本人から世界の人類に送るものはある。
 問題はその方式とその単価である。今経済状態が悪く世界に発信できないものが
数多くあるだろう。それでも 日本人の精神と教育さえしっかりあれば 日本人の
今まで行って来た努力は生活そのものであり なんら世界に劣るものではない。
 ここに来て今まで ゆとり教育など言ってはうぬぼれたあほな授業が省みられて
すこしまともな青年が育ってきているようで 今の若者の派遣村や路上生活者らが
少しは減るであろうと思われる。もちろん 中国やアフリカやその他の後進国の台頭
によって 地球規模の異変はかなりの大きな激震が起きるであろうが すでに日本
の技術はそれに対応すべきものを持っている事は 間違いない。問題は政治の力が
それを掘り起こし 正確に間違いのない進展をさせることだが 現政権の悩みの種
は 多分にそうしたもの発達発展と同時に 強権的にもより的確な弱者救済を行う
事にあるだろう。その為にには 国民が今考えている今のねじれ国会という現実が
実は一番まともな二分国会である事を国民に知らせる事であろう。今は遅きに失し
たような感があるものの それでも その国会改革なしには公務員改革はない。
つまり 国策が政権交代で揺らいでもそれでも他国からは 一本芯が通った流れの
中に国が進んでいる事であることが大事なのだ。その為には出来るだけ早く民主党
の出したマニフェストの撤回を民主党全員が決定し更に新しいマニフェストを作る
事が大事となるであろう


22: 名無しさんAA:11/01/04 12:00 ID:g.
P・P 4

 あいも変わらず 年頭から小沢氏の政治資金問題の応答である。首相は少し身を引き
発言したが良いし 記者も記者である。総理といえども神でもなければスーパーマン
でもない。と言うことは 今後の行方は 総理の意向いかんに関わらず 小沢氏の動向
と世論を動かす世人や記者の言動にあり そうした他人事では総裁としてもどうしよう
もないのが現実であるはずだ。もちろん与野党の攻防や国会運営においてはその意思が
大きく左右はされるものの 検察やらの団体としての小沢派への意見ならまだしも小沢
氏という個人の問題にある中では あまり個人主観は聞くべきものでもないだろうし 
新年から発言すべきものとは思わないのが 一般人の意見ではないだろうか。
 今年はウサギ年である。北朝鮮問題は慎重に動かなければ日本の世論が沸騰しかねな
いかも知れない。その意味では 北朝鮮には対話と圧力といわれる政策の的確な対応が
求められ、対処を間違えれば 核兵器や自衛隊増強などの禍根を残す結果になりかねな
い様相を呈している。経済的にには 中国も大事だろうがアメリカの景気低迷は日本が
取り除いてやらなければならないだろう。その意味では 西海岸からの鉄道建設の交渉
が成功させれるかが鍵となるであろう。国内的には事業仕分けを一省庁2箇月制を設け
て一つ一つを丹念に精査し独立行政法人を交えて 経済問題のみならず 国策としての
あり方や有様のまとめと発表が必要で かつての道路公団整理すら三年ぐらいかけ議論
したものを たかだか数人の大して知識や思慮分別のない未来の設計図を持たない意見
で 一刀両断に廃止や検討を叫んでも 国民も官僚も全く合点はいかないであろう。


23: 名無しさんAA:11/01/09 19:05
 それはそれは弱い足取りだが アメリカ経済も日本経済も回復の兆しが現れた。
リーマンショックの立ち直りがやっと来たかと思える。ユーロも各国が色々と思い
悩んでいる中安定してきている。通貨のディラーやオピニオン達はほっと胸をなで
降ろした事であろう。今後中東情勢が イスラエルが強気な事を言わなくなって
イランの核開発が無くなれば 後はアフガン問題と北朝鮮問題のみが紛争の兆しが
見える土地となる。悪魔の死の商人の兵器販売が 今後落ち着く事はないだろうが
ロシアや中国では 今後紛争の後ろ盾となれば やっとヒノキ舞台から降りて隠居
し自分の老後を見ようと言う時期に 早々国民に批判され政治で蹴落とされかねな
いような政策は取らないと思える。つまりは三代目の北朝鮮の世襲政治を除いては
他に問題は起きないだろうと思える。中国にしても王氏と近氏がリーダーとされた
が他6人のテーブル指名が残っていてどうにも動けないだろうと予測される。
友人の言葉を借りれば ここ二、三年で世界は劇的に変わるであろうという。つまり
一つの事が瞬時に駆け巡り それは情報も金も資源の流通も今や中国の台頭により
今やうかうか見逃せない中に世界が陥っているのだという。つまりその変化の兆し
が今年は現れ 日本やアメリカは明るい光が差し込むだろうというのだ。
 又今や中国の軍拡は既に世界の批判の渦中にあるのだが それがやっと首脳部が
統制できるぎりぎりまで軍が巨大に隠れて育っているというのだ。それは更に今ま
では最先端技術に程遠く その量が多少多くても質が劣っていて安心出来たらしい
が 今や中国は糞詰まり状態は避けられそうに無いという。しかし 中国首脳部も
馬鹿ではないだろうから 文民統制がある今の状態で何とか小さくするかも知れな
いとの世界の期待も裏腹にあるというのだ。
  中東諸国も今や石油・ガスに依存した社会からの脱皮を模索しだしてきて 今
まで国王や皇太子の資産の為の海外発注から 国の発展の為に 自由主義的要素を
取り入れ半ば共産思想を取り入れた体制から 議会制民主主義に近づけ より一層
の国体維持を図ろうとしているみたいだ。


24: 名無しさんAA:11/01/10 19:02
P・P 9

 この日本の刺身という行為は他のどの国も味わえなかった行為であろう。野菜の刺身
も魚の刺身も鳥の刺身も 本来の狩猟民族しか行えない行為ではないだろうか。そして
それは 高温多湿のすぐに食材が腐れ 腹を下して 或いは生命さえも危険な地域の
日本でのみ進化したものと言える。捌くという行為はどこの国でも狩猟民ならある。
鹿や牛や多くの食肉を食らう国なら 生の肉を分け食べるし残りはぶら下げて干し肉
となり 生き血はスープの足しになる。が 野菜を漬物とする 生き血を捨てて寿司
などのように野菜と共に盛り付けて生を食べる という食べ方は独特である。それは
麺でも乾燥させ素麺にしラーメンし食べるという流通できる乾燥品を作る行為は本家
中国にもあまりなかった行為である。この違いが中華料理と日本料理の違いを産んだ
。中華は旬のものでも 味付けし火を通し食べる 西洋ではそれをタレやスープとし
干したものを切って食べる。日本は旬は旬なものとして野菜も盛り付けなべ料理でも
活け造りも寿司も食べる。そしてそうした貯蔵食は貯蔵食として 沢庵でも梅干でも
或いは味噌や素麺でも それなりの別の料理として分けて食べる。そして生にこだわ
るのである。今のカップ麺やソーセイジや色んな食材の基本は 日本流にアレンジし
その気質に合わせて販売している事に 世界的成功の秘訣がある。逆に言えば日本で
成功したもの 車でも食材でも農業でも漁業でもありとあらゆるものが成功する。
 中でも郵便制度・保険制度・国鉄 護送船団方式 豊田の看板方式 入札制度など
は あの中古車同様今や 世界的に0サム・系列・寿司・etcと各地で流行っていて
日本そのものが捨てているのが 現実なのだ。



25: 名無しさんAA:11/01/10 19:02
P・P 10

 が この特異な 高温多湿で 豪雪の上台風が来る国というのは 案外他にはない。
この自然現象と戦いながら暮らしてきた文化は そうそう他国にはわからないだろう。
と同時に 今の日本の若者にも解らないと思える。新成人は何の根拠もなしに未来は
今よりも明るいと答え 自らが学もなく経験もなく年取ってしまって社会人となった
事を悔いる事も恥じる事も或いはおごる事も憂う事もないらしい。只はしゃぎまわり
或いは自覚するのみで 毎年のごとく行われる晴れやかな式典は変わらぬままである
 これは逆に平和を象徴する事でもあるのだろう。が意味深な事をいえば それが今
の平和を持続させる力や礎とはならない。今の若者が昔と違うとは思わないが 大半
はそうでも あれほどゆとり教育といい長所を伸ばすと言っていた教育が実は 逆に
平和にのぼせたありきたりの人間を増やし 特異な特徴のある人よりは秀でた人材が
極端に少なくなった事に驚く。そして平均平凡の特徴である 仲良し倶楽部の多さは
かつてのフリーターやら寄生虫呼ばわりされ 販売員やサービス業や飲食店等に甘ん
じて就業した先輩を当然と認めている様は異様でもある。日本に起業家がいないので
就職先がなく氷河期に突入したというのは 私は信じない。逆に多すぎて失敗だらけ
で萎縮している。というならそうだと相槌を打つだろう。いまTPPやら 法人税で
多くの経営者が 税が高くなれば企業が逃げて更に就職先が無くなると危惧する。又
政府もそう言う。が逆で 税を高くして企業を逃がし国民福祉の充実を図り 新たな
産業なり企業なりを育成したほうが 日本は良くなる。日産やトヨタや色々あるが彼
らは かろうじて円高により海外資本家の餌になってないだけで もし三百六十円の
レートなら 輸出は好調でもすぐに乗っ取られる運命にある。逆に明治政府のように
10円のレートでは 全く海外への輸出が出来ない事になる。つまり安売りしすぎて
国を滅ぼしている様が見てとれるのだ。

26: 名無しさんAA:11/01/10 19:03
P・P 11

 つまり 日本はどうあがいても 小さな国家であり 大きな資本競争には勝てない
という事になる。それはアメリカの 連邦通貨準備中央銀行 通常の連銀だがその量
はどんなにあがいても 欧州通貨ユーロや日本円ではたちうち出来ない流通量である
これに 中国は挑もうとしているが 日本は基本的に元と円を交換しない事をすべき
である。そして元を買いつくす事が大事だ。が中国政府は今や独自レートで独自の資
金としている。これに対して中国元にドルも円も対応しないとすれば 元の暴落は避
けられない。更に世界中に買いあさっている資源は 中国元では届かない場所になる
これは中国にとっては極めて深刻な問題となる。したがって今のうちに通貨バスケッ
トによる各国通貨の買い入れと 国力である軍事力をつけるというしたたかな外交を
展開しているわけだが これは国内外の供給バランスを市場でなく国が舵をとってい
るという話で そのしわ寄せが今 アメリカと日本にやってきている。つまり今後は
ユダヤ資本が牛耳る米国やイギリスなどの中央銀行や連銀の意思次第というわけなの
だ。多くの資本家特に名だたる金持ちは かなりの資産家で彼らの金は世界を覆い尽
くしてありあまるのだが 中でも共産圏においては その価格差において かなりの
貸付金の派生があるのだが が軍事国家にそうそう取立て出来ないでいるのが現実だ
。かつて南米危機と呼ばれた ブラジルなどのハイパーインフレにも国連や世界銀行
などでの多くの支援を行い 利払いや元利返済などの帳消しをした過去がある。これ
にも日本などはかなりの税金がつぎ込まれたのだが かの国は韓国や中国のような背
信行為はしなかった。北朝鮮のように窮々としてはいても 返せる分は返し 返せな
い分は返せないと明確に対応したのだ。




27: 名無しさんAA:11/01/10 19:04
P・P 12

 だが此のとき怒った軍が イギリス領とする南米のある島を領有した。フォーク島
であったか 一夜戦とも言われたその戦闘は数時間で終わったとされる。大体日本も
千島列島および隠岐の島沖 あるいは東シナ海ガス田もすべて自衛隊の演習場として
指定すればいいではないか。つき一回ずつ爆撃なり戦闘用の機関銃なり発射して今の
隣国の実効支配は解くべきである。人のいないガス田などは 核実験場としての試験
を発表すれば事足りる話である。ちゃんと公式外交をして余裕日程を組み世界的発表
の上事を一つづつ行えば済む話で 日本人として帰化するか 本国に戻り生活するの
か迫ればいい話で 誰も戦争にはしないだろう。韓国などは裏に北朝鮮表に日本と双
方と喧嘩し戦争する馬鹿げた事はしないだろう。もちろんアメリカと共に手を組んで
の話ではあろうが 今解決しなければ解決のめどは立たない。今まで社会党の言うよ
うに平和理におんびんに話し合って来たから足元を掬われたのであって 武力や権力
無しには 相手国も温情だけでは反対する国民に説明や理屈をつけられない手前引き
さがれないのである。それだけ他の国特に隣接する国には正義感がないのであり正義
を貫く為の仕組みが備わっていないのである。個々の国民にはそれが 無いわけでは
ない。が一度集団が相手であればそれはかなわない事は多い。今回のアメリカの事件
でうら若き女性民主党議員が打たれたのも そうした背景のなせるものだ。日本の数
多くの経営者達ものさばっていないで堂々と法人税が高いとして外国に行けばいいで
はないか。個人個人がどんなに優秀で安い人材があり働きものであったとしても国家
としての仕組みや国家としての技術や財産が今の大きな経営を育ててくれたのであっ
て日本で言う御陰様を忘れているならそれはそれで 他国で野垂れ死にさせればいい
のである。事実他国と違い日本は税金は納めるものであり取られるものではない。


28: 名無しさんAA:19/02/05 18:49 ID:UE
 てんでコケにされている福岡県警の話は多い。何故にこうも事件解決出来ないのか。
福岡県警八幡西署は5日、北九州市小倉南区の暴力団組長(62)と、岡山市北区に住
む会社役員の男(50)を暴力行為等処罰法違反の疑いで逮捕した。逮捕容疑は昨年4
月10日ごろ、北九州市八幡西区の会社事務所で、暴力団幹部を同席させて会社役員が
当時44歳の男性に対し「法律なんて超越してますよ」などと脅した疑いで捕まってい
る。更に02/05 13:22 不審な事故が起こっている。ニュースによると、警察発表では、
「4日午後10時すぎ、福岡市中央区赤坂で18歳の女性が運転する普通乗用車とタク
シーが正面衝突した。タクシーの乗客で福岡高検の総務課長・井下雅博さん(56)が
頭を強く打ち死亡しました。井下さんは帰宅途中だったとみられ、シートベルトをして
いたかどうかは分かっていません。女性(18)とタクシー運転手の男性(51)も軽
いけがをして病院に運ばれています。現場は緩やかなカーブで乗用車の女性が「カーナ
ビに気を取られた」と話していることから、警察は乗用車が中央線をはみ出した可能性
があるとみて調べている。」
 つまり、タクシーで帰宅途中の福岡高検の総務課長・井下さんが、交通事故で殺され
た。と言う話である。こんな不審死はない。様態は交通事故だが、まずタクシーであり
カーブする一般道で、例えシートベルトであっても、投げ出されて死ぬなんて事は滅多
な事ではない。タクシーの運転手が軽いけがであり、女性も又カーナビに気を取られて
いたとはいえ 奇妙なぶつかり方を恣意的にやったとしか考えられない。つまりここに
福岡高検の総務課長と知って起こした事故ではなかったかと言う どろどろとした予想
まで付くのである。事実は不明で 実態も不明だ。あえての予想だが現実なら、かなり
福岡県も市も 完全に暴力団に舐められている。


29: 名無しさんAA:19/02/07 22:13 ID:Hw
バカシンゾーは とうとう 北方4島に 不法占拠の言葉を消した。
 いみじくも自ら 住民の帰属変更の言葉で反発を招き 挙句に 日本で正当な言葉を
  消しても尚 前進した。などとしゃべる とんだ茶番だ。さっさとひっこめこのボケナス


30: 名無しさんAA:19/02/07 22:28 ID:Hw
 ロシアが、不法占拠に第二次世界大戦の戦歴とするなら 日本は核ミサイル開発の、
実験場とする。ぐらいの声明を発して、ロシアの不法航行に強制拿捕を行えよ。弱虫が
。江戸以前からロシアは対馬占領や、佐渡ヶ島上陸や アイヌ惨殺 など在ったのだか
らちゃんと言えよ。全く戦略も無しに近寄るから経済発展して、より帰還しえなくなっ
たのだ。馬鹿げている。まずシベリア開発して、食糧供給施設を作って、返還反対なら
供給ストップなど 戦略を練れよ馬鹿内閣は。なにが国家戦略室だ。こんなに前準備し
て御破算とは なさけない政権だ。



31: 名無しさんAA:19/02/09 10:46 ID:Ms
 柳川 銭紋  26

 福博電気軌道に対する軌道敷設特許から半年経った1909年夏、嘉穂郡の坂口栄らに対
して福岡市とその周辺における軌道敷設特許が下りた。翌1910年03月、太田清蔵や渡辺
与八郎、麻生太吉といった有力実業家を発起人に加えて、博多電気軌道(初代)が発足
し、福岡市の市街地外縁を循環する環状線と吉塚駅への連絡線の建設を計画し、1911年
10月から順次路線を建設していった。この博多電気軌道は電気供給事業の兼営を試み、
福岡市とその周辺町村に対する供給権を取得していた。このため福岡市を地盤としてい
た博多電灯改め九州電灯鉄道では供給事業での競争を防ぐべく博多電気軌道の合併を目
指すに至っている。しかし関西資本と東京資本のぶつかり合いは福岡の迷惑であった。
電気の売電合戦は火花を散らし収まる事はなかった。というのも筑豊炭鉱があって水力
発電と共に北九州の火力発電も又旺盛な勢いだったからだ。博多電気軌道と九州電灯鉄
道は様々形で影響があった。その煽りを食って富安保太郎にも汚職疑惑が起こったし、
かつて橋本氏が一緒にした川北村は三橋町となり他の市町村を巻き込んで三ヶ町村土木
組合と大田花宗土木組合が火花を散らしたのである。そもそも太田地区は八女郡司(ぐ
んかつ)の支配下でありかつての田中吉政の配下の地域で矢部川と同じ水源でありなが
ら筑後川管轄だった。対して三ヶ町村土木組合は矢部川流域の水問題だったのである。
 膠着状態を見て新たに、九州水力電気が博多電気軌道の合併に動き出した。1911年4
月に同社は設立された電力会社で、当時には筑後川水系にて大規模水力発電所を建設中
であった。博多電気軌道に対し、九州電灯鉄道が提示するより有利な条件を示して合併
を勧誘し契約にこぎつけていた。ところが水力に取られる事を察知して、炭鉱成金だっ
た麻生太吉の調停により翻意し、同社は九州電灯鉄道と合併仮契約を締結するが、これ
が又株主総意で改めて九州水力電気と契約されると言う騒ぎになった。その後九州電灯
鉄道による合併決議無効訴訟などの妨害があったものの、九州水力電気と博多電気軌道
の合併は完了した。その後1913年(大正2年)になって、九州電灯鉄道と九州水力電気
の合併話が具体化するもののしこりは消えず破談になった。こうして旧福博電気軌道線
は九州電灯鉄道、旧博多電気軌道線は九州水力電気と分立した状態が長く続いた。1921
年(大正10年)12月に、渡辺氏は、電気事業再編の動きに合わせ九州電灯鉄道の経営陣
が愛知県の電力会社関西電気(旧・名古屋電灯)に乗り込み、翌1922年(大正11年)5
月には九州電灯鉄道を関西電気に合併させた。同年6月関西電気が社名を変更し、東海
地方と九州地方を供給区域とする資本金1億円超の電力会社、東邦電力株式会社が発足
した。しかし東邦電気時代に客足の伸びが止まり、1927年(昭和2年)、九州水力電気
では福岡市渡辺通一丁目から西新町に至る新線(城南線)を建設を行う。第十七国立銀
行は直ぐに安田銀行の救済にて筑邦銀行や高椋銀行や嘉穂銀行や福岡貯蓄銀行と合併し
福岡銀行となっていたが、安田家の信用と暖簾ははずせなかった。ここで松本氏に製材
所を汚職疑惑払拭に富安製材所は売却するのだった。かつて枕木で財をなし植樹した楠
の間引きで旨味をもっていたが、立花農園の十時氏の指導と許可を得た為だった。

32: 名無しさんAA:19/02/09 10:53 ID:Ms
 柳川 銭紋  27

 明治9年(1876)に国立銀行条例が改正されると、全国各地で国立銀行設立の機
運が高まった。佐賀県下では、旧佐賀藩主鍋島家と小城鍋島家の主唱のもと、12年に
それぞれ佐賀第百六国立銀行と小城第九十七国立銀行の2行が設立され、これまで行わ
れてきた士族授産や農民救済のための銀行類似業務が継承された。なお、前者は国立銀
行営業満期前特別処分法に基づき31年に普通銀行に転換し、後者は32年に解散し、
新設の小城銀行に営業譲渡した。明治12年中には国立銀行の新設が禁止されることで
各地に私立銀行の設立をみるが、佐賀県下ではじめて設立されたのは15年の伊万里銀
行であり、また同年には栄銀行も設立された。さらに15年には、深川栄左衛門により
有田貯蔵会社が設立され、この会社は有田貯蔵銀行(21年)を経て有田銀行(26年
)となった。そして16年には三省銀行、18年には古賀銀行、さらに大島小太郎頭取
のもと特に石炭商との関係を深めて発展した唐津銀行などが、あいついで設立されてい
る。栄銀行は旧佐賀藩御用商人の伊丹文右衛門により設立され、彼の長男であり「佐賀
財閥」の一翼を担った伊丹弥太郎の時代に発展をみるともに、弥太郎は佐賀貯蓄銀行(
明治29年)、佐賀セメント(30年)、そして佐賀県農工銀行(31年、大正10年
[1921]に日本勧業銀行に合併)の設立、そして広滝水力電気(明治39年)から
東邦電力に至る電力事業などにも深く関与した。福岡・筑豊では、貝島太助(1845
〜1916)、麻生太吉(1857〜1933)、安川敬一郎(1849〜1934)
らが「炭鉱王」として名を馳せていた。各社がヤマの獲得競争を繰り広げる中、三菱が
1885年、松島の地質調査に乗り出した。三菱は土佐藩出身の岩崎弥(彌)太郎(1
835〜1885)の下で、巨大財閥として急速に発展していた。三菱は翌86年、採
炭に着手した。しかし、深さ74メートルに達したとき、多量の海水が湧出した。掘り
進めることができず、わずか3年で撤退した。その鉱区を佐賀の銀行家、古賀善兵衛が
買った。呉服商だった古賀家は維新後、銀行業を始めた。善兵衛は古賀銀行を九州五大
銀行の一つにまで成長させた。北方村(現佐賀県武雄市)で経営した炭鉱の利益も又、
銀行の成長に大きく寄与した。春一は、その善兵衛の養子だった。彼が作った会社が、
三井松島産業で、長崎松島炭鉱を成功させた。彼は不運の快男児の初代代表取締役古賀
春一。とされる。弱冠22歳で「あの三菱が採炭を断念した難しい島だ。しかし、よい
石炭が出る。古賀家を立て直すために、必ず事業を成功させる。」と海辺に立ったのだ
九州では、長崎の電力会社「長崎電灯」の経営権を取得した。さらに福岡の九州電灯鉄
道にも出資した。後の九州電力、西日本鉄道などの源流となる会社だ。この出資を通じ
て、福沢諭吉の養子で「日本の電力王」と称された福沢桃介(ももすけ)や長崎・壱岐
出身の松永安左ヱ門(1875〜1971)の知遇を得たのである。柳川古賀新はその
古賀家の縁戚の丁稚が暖簾分けされた店であった。つまりこの時店を購入したのである



33: 名無しさんAA:19/02/09 11:13
 柳川 銭紋  28

 実は古賀家と言うのは、もともとは今の久賀家として、今の祐徳稲荷神社付近に住ん
でいた。と言われる。キリシタン武将と西郷族が暴れた頃方々に散らばったのである。
西郷氏はもともとは竹崎の住民で諫早氏の下にいた武将だった。しかし蒙古襲来の恩賞
により竹崎氏の領分となり付近から追い出され、そうして鹿児島の住民となったとされ
る。久賀氏も柳川に来て古賀氏と名乗り、佐賀では久閑氏と名乗ったりしたというのが
通説である。かつて立花宗茂は関ヶ原で西軍に与して大津城攻撃などで活躍したが、09
月15日の関ヶ原本戦に間に合わず、大坂城に撤退、徳川家康との徹底抗戦を主張したが
、西軍総大将の毛利輝元に聞き入られず、本国である筑後国柳河に戻っては、なおも黒
田と戦い、抵抗姿勢を示した。立花宗茂は、関ヶ原合戦において豊臣恩顧の臣として、
二臣に仕えずを通し、徳川方には、入る事はなかっただ。その為、関ヶ原からの帰途で
は黒田勢に囲まれ鍋島勢が攻め入る事になった。しかし、それを守り助けたのが肥後の
加藤清正の大軍だったとされる。およそ八女から久留米城島大川と蟻の隙間もない程の
囲まれぶりで、さしもの黒田も加藤氏を差し置いての戦さは出来なかった。大川から、
銀千代君が守る江の浦城に入って、それから入城を果たして、最終的には久末神社での
綿貫邸で無血開城の会談を果たし、立花山に蟄居した。1603年の(慶長8年)立花宗茂
が家光に気にいられ棚倉1万石で入部し、棚倉藩が立藩したのである。東軍の黒田孝高
(如水)、加藤清正、鍋島直茂に攻められ降伏したあとは、所領を没収され、浪人の身
となっていたが宗茂には、その人となりから、その武勇伝も多く、本多忠勝に劣らぬと
言われ、文禄・慶長の役での碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)では、加藤清正
が、朝鮮軍と明・李如松軍に囲まれたのを他の者が捨て去るを、一人引き返すを進言し
救出に向かった武将で、虎を素手で倒した加藤清正と共に天下一双と秀吉が喜んだ程だ
。浪人となったあとも清正や前田利長をはじめ、多くの大名から仕官に誘われている。
その中で家康もそのうちの一人で、宗茂を再び大名として取り立てたといわれる。宗茂
は江戸で将軍に近侍したため、家臣の由布惟信が代わって藩内の行政を担当した。この
福井の棚倉藩で、知り得たのが佐竹新之助であった。元々伊達家の家臣で御取潰しにあ
った家系で、一人の浪人家臣として多くの事に手伝っている。伊達家への果たし討ちに
浪人であった所に意気投合し船頭として雇っていたのだ。柳川に帰郷出来る折に声をか
け佐竹では都合が悪いとして、出会いの地の高椋に名を改めさせ 柳川連れて帰り住ま
いを与えた。その子が高椋新太郎であった。又その時藩内の行政を取り仕切った家臣の
由布惟信の孫こそが 立花氏に養子に行った最後の家老立花壱岐守その人なのである。
こうして陸奥棚倉(福島県)の魚商であった島田氏と一緒に移り住んだ高椋家も、その
子新太郎は、そうした縁で20歳で父の許可をうけ、豪家から30両を借り受け八百屋
町に魚問屋を開き、商才に優れ藩内で評判となった。彼を影から支えたのが後の和尚に
なった小野氏で、天下無双の旗で、江戸城下で真剣試合で金を稼いでいた。これに困っ
た家康が送り込んだのが柳生一刀斉の配下だった。しかし柳生が倒れる程負けていった
。そこで江戸城下に立花氏を直参旗本で住まわせる事は不可能だった。と言われる。

34: 名無しさんAA:19/02/09 12:26 ID:Ms
 柳川 銭紋  29

 高椋銀行の新太郎の父高椋新ノ介は、もともとは信長を撃った明智氏の家臣であった
と言われる。立花氏と出会ったのが高椋の地であった事から高椋と名を変えたのである
。家康を狙い、彼は北回り船の船頭になって再興や信長配下で家を潰した恨みを果たそ
うとしたらしく、その為に立花氏に仕えていたと言われる。つまり遠洋の魚市場や漁師
を知っていたのだろう。直ぐに栄えて、当時の「魚百五十目也預かり」の魚問屋の私札
を発行するまでになっている。そうした才能を買われて、天保7年(1836)天草の
幕府御用達の松坂屋の石本平兵衛の愛顧となり、藩主に会う時には、高椋新太郎は随伴
して藩主に謁見し、大いに藩財政の手腕を発揮したと言う。つまり天草からの買い付け
を成功させたのだった。石本平兵衛の失脚後は新太郎が藩命を受けて日田、天草、長崎
などに往来して、柳川藩の藩財政の建て直しを委ねられる。屋号の「松坂屋」は初代の
治兵衛時代に、寛永年間(1624〜1644)長崎より御領へ移り住み、農業を営みながら御
領村旧家となった。五代目勝之丞(平兵衛と称す)の時代に幕府の御用商人となった。
敷地は、江戸時代百姓として許された最大限のもので、広さ約1,200坪(3,900u)ある
。住居(一部3階建て)は、正連寺(御領)に庫裡として移され、当時の建物は蔵1棟
が残されており、石垣が往時の面影を偲ばせている。平兵衛は、特に難民救済に力を尽
くし、文化・天保時代の大飢饉には、天草をはじめ、長崎・宇佐・江戸等の各被災地に
多くの救援米や巨額の私財を送って救世済民に精根を注いでいる。少年時代に、長崎に
出て、語学・経済・貿易等の学問を修めて才覚を現したという。後に海外貿易業界の雄
となって、三井・住友・鴻池等の財閥と比肩されるまでに至る財閥だ。天保5年(1834
)、幕府は平兵衛のこの卓越した財政手腕を認め、勘定所御用達を命じ、大名並の待遇
を与えた。が、天保13年(1842)4月、高島秋帆事件に連座、無実の罪に問われ、江戸
送りとなり、天保14年(1843)、獄中で病没した。57歳。石本家は、代々貧民救済にも
力を注ぎ、天草全土を揺るがせた弘化4年(1847)の大規模な百姓一揆の際にも打ち壊
しを免れている。高島秋帆事件は、老中水野忠邦の支持をうけて天保改革期に活躍した
が江戸町人からは甲斐守忠耀をもじって妖怪(耀甲斐)と恐れられた時代に起こった事件
だ。洋学断罪事件で、1840年の蛮社の獄での洋学者を弾圧連座した。高島秋帆は幕府も
公認した西洋砲術家だったが、老中阿部正弘らが採用した事で、オランダ国書問題対立
で、起こった事件だった。頻発する沿岸襲撃事件に、異国船打ち払い令を出すものの、
フェートン号事件など、外国船の威力を考えると何が起こるか分からないので、「薪水
給与令」として異国船打払令は数年で廃止され又復活する。と揺れ動いた幕府方策の中
で起こった。実は、産業革命のため欧米の国々活発に海に出て、日本近海でも捕鯨が盛
んなり、しばしば沿岸に出て乱暴狼藉を働いていたのである。1824年には水戸藩大津浜
事件で野菜や水の補給に上陸し役人に捕縛されたり、宝島事件では薩摩沖の宝島英国の
に捕鯨船員上陸で牛を強奪しようとし交戦するに及んで、国内には白顔悪鬼として恐怖
が広がっていたのである。その後もロシアの対馬占領やアイヌ虐殺と多かった。


35: 名無しさんAA:19/02/09 12:29
 柳川 銭紋  30

 こうした西洋人の横暴に乗った形で西洋学排斥運動となり、国民や藩主の人気取りに
、甲斐守忠耀が、老中水野忠邦の支持をうけて天保改革の一端として行った事件だった
のである。40年の蛮社の獄での洋学者の弾圧の中に、幕府砲術指南の高島秋帆まで獄中
に及んだ事は、老中阿部正弘らとオランダ国書問題の対立でのまざまざと上位権力者を
見せつけるものだった。ペリー来航時に幕府老中だった阿部は、かなりの切れ者であり
先見の明がある人物だった。とされる。彼は譜代大名から20代半ばで日本のトップに君
臨し、水野忠邦が復帰した時期をのぞいて亡くなるまで、彼は老中として尽くした。寛
大な人物で、よく人の意見を聞き、たとえ相手が違う意見を持っていても、おおっぴら
に反対するようなことはなく、長所や使えそうなところを判断し、採用していた。幕政
参与の水戸藩の徳川 斉昭(とくがわ なりあき)のような相手がいたから特にそうした
公明正大に働いたのだろう。ただし、そうした部分が「八方美人」的性格に映り多くの
怪訝な評価を受けてもいたようだ。高島流砲術の創始者(流祖)として「火技之中興洋
兵之開祖」と号すことを認められる程 高島秋帆(たかしましゅうはん)は、高い地位
にいた。江戸時代後期か末期の第一の砲術家で通っていた。清がアヘン戦争でイギリス
に敗れたことが伝わると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』という意見
書を提出し、天保12年5月9日武蔵国徳丸ヶ原で日本初との洋式砲術と、洋式銃陣の公開
演習を行なう事になった。この時の兵装束は筒袖上衣に裁着袴(たっつけばかま)、頭
に黒塗円錐形の銃陣笠で、特に銃陣笠は見分に来ていた幕府役人が「異様之冠物」と称
するような斬新なものであった。家系は佐々木氏系であり、近江の高島出で、長崎高島
炭鉱がどうも近江差配分だった為、父親が長崎会所調役頭取となったらしい。高島炭鉱
の高島はこの高島家から来ている様だ。当時日本で唯一の海外貿易都市で育った秋帆は
、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ
語や洋式砲術を学んだ。私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術学を完成
させ本にして披露した。この年に肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門すると、翌天保
6年(1835年)に免許皆伝を与えて、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上
している。武雄の大砲の歴史はこの武雄領主の鍋島茂義の家臣平山醇左衛門が、天保3
年(1832)に長崎の西洋砲術家高島秋帆の門下生になったことに始まる。この2年遅れ
で爵位になった茂義自身も入門し、武雄ではこうして全国に先駆けて大砲製造に努力し
成功し。こうして試射を行う至った。しかし、このモルチール砲は、既に立花藩には、
受け継がれて在ったのである。それは戦国時代にも使っているし、関ヶ原でも使ってい
たのである。それを十時家は受け継いでいたし、小野氏はこの鉄砲紋とされる紋をつけ
ていたという。


36: 名無しさんAA:19/02/09 16:16 ID:Ms
 柳川 銭紋  31

 この時既に、上野戦争で使われたような青銅製のアームストロング砲は出来ていた。
しかし、佐賀藩の大砲として伝えられるモルチール砲は大きく飛躍して臼砲弾であった
。臼砲(きゅうほう)は字のごとく臼(うす)の様な砲身の小さい物で持ち運び可能な
ものであった。モルチール砲は、高島流と呼ばれる西洋砲術の開祖高島秋帆によって、
当時の幕末於いてに日本で初めて作られた最も危険な洋式砲であった。砲身が短く少量
の火薬で発射できることが特徴の大砲で、重いアームストロング砲よりは簡単に使用が
可能であった。佐賀のアームストロング砲は実際には1〜3台しか出来ていない。江島
密偵誌によれば、散々苦労して長年かけて作った鋳造鉄も結局は青銅に及ばず合金比率
の究極が武雄に先を越され、更に完成したストロング砲がグラバーが輸入して見せた、
海外のストロング砲の方が遥かに性能や使い良さがあったから断念したのだ。がその前
に鍋島藩は砲身内の螺旋に問題がある事は知っていたようだ。と言うのも財政難でこの
反射炉の技術は、妻の仲介で薩摩の島津斉彬に売られた。この後この技術は鹿児島での
開発になった。と言うのもそもそもこの大砲の開発は長崎警護の必要性から始まってい
たからだ。つまり大砲を売る為でも薩摩の様な海外との戦争の為のものでは無かった。
つまり遠くに飛ばして船と戦う事では無く、船を沈める威力があれば良かったからだ。
この螺旋の砲身作りに薩摩は画期的に最初から水車の動力利用と、超硬刃の使用があっ
た。それも又佐賀の反射炉の失敗の炭素鉄の塊から導きだされていた物だった。東京で
の砲撃の時に、幾つかの砲身は破裂した。それは佐賀からの買い付けのものだった。と
される。つまり早くに出来た砲は数多くの連射が出来なかったのだ。その後、島津砲と
される下関の砲は取り去られて今もフランスに残っている。これは完成されたもので、
またこの武雄以降のモルチ―ル砲は上野の攻撃や会津攻撃にも威力を発し、その後展示
される様に完成している。こうした試射の成功の成果は、直ぐに茂義の実弟の佐賀藩士
坂部三十郎によって佐賀本藩にも伝えられた。そして改めて天保11年(1840)に神埼の
岩田で大砲の試射に成功した。以来、西洋砲術は「佐賀藩の大砲」として全国に知られ
るようになった。このモルチール砲は、通称20ドイムモルチールと呼ばれるものである
。把っ手のある上面には銀製の武雄鍋島家の家紋がはめ込まれ、蘭文の銘がある。下面
には漢文の銘があって、高島秋帆が天保6年(1835)に日本で最初に製造した洋式大砲
であることがわかる。実はこの持ち運び可能の砲を柳川も秘かに投資し買い付けていた
のである。この砲が武雄にあることの意義は大変大きく、当時の武雄が近代科学の進取
の都市であった事が読み取れる。そしてこの九州の鍛冶師は明治期は函館に引っ越しを
余儀なくされる。室蘭には鉄鉱石と石炭があつまり、特殊鋼のクルップ砲が出来たから
だ。これが室蘭製鉄所の流れである。

37: 名無しさんAA:19/02/09 16:17
 柳川 銭紋  32

 日本においては、島原の乱で榴弾の必要性を認識した幕府がオランダ商館長に臼砲の
製造を依頼しており、1639年に鋳物師ハンス・ヴォルフガング・ブラウンがこれを製造
し、麻布の射場で試射を行っている。1649年には東インド会社の砲術士官ユリアン・ス
ヘーデルが来日し、翌年40ポンド臼砲の砲撃演習を披露し、これを北条氏長が「攻城 
阿蘭陀由里安牟相伝」にまとめている。すなわち1649年には既に江戸幕府はこの手軽な
臼砲を知っていて、ひたすら隠していて、それを日本側は、天保3年(1832)にやっと
自力で隠れながら開発に成功したと言う訳である。これは当然幕府の隠密に知れたのだ
。これが明治期に柳川城に政府軍と西郷軍の駆け引きに大いに関係していると言われる
。つまり当時武雄藩と立花藩は、佐賀の鍋島藩以上に近かった。もともと祐徳稲荷や、
伏見稲荷などは柳川太郎稲荷の分社であり、更に日露大戦に缶詰の縁で乃木将軍はしょ
っちゅう立花氏とお花で逢っていたと言われる。産後の肥立ちの飴屋に軍刀を寄付した
りしている。初期の臼砲は欧州では元寇の頃の14世紀後半に出現している。石弾を発射
して敵の城郭を攻撃した射石砲で、当時の臼砲は投石機の代用であった。16世紀になっ
て火薬の製法が知られ始め、導火線式時限信管を利用した榴弾が使用されるようになっ
た。この頃までの臼砲は大型で迅速な移動を考慮したものはなかったのだ。日本の大坂
万博の三百年前1670年にはこの持ち運び簡単な臼砲は大きなヒット商品になって、
欧州でもてはやされた。アメリカの南北戦争まで使用されていて、仰角は45度に固定さ
れており、火薬の量で何段階かに射程を調節する方式だったので方角と高さが一定での
中で距離を威力で変えると言う手法は、案外受け入れらる技能だった。また小さいので
臼砲は艦砲としても用いられた。木造小型帆船に少数の臼砲をのせた艦はボムケッチと
呼ばれ、対地砲撃に用いられた。のちに大型船の砲艦が出現すると姿を消したが、第二
次世界大戦ではモニター艦として復活した。隠した小型砲台として威力があったのだ。
幕末の日本に、オランダ製の12ドイム臼砲と20ドイム臼砲が持ち込まれコピーが日本初
の反射炉を持つ佐賀藩で初めての国産近代火砲として製造された。戊辰戦争で鶴ヶ城攻
略で使用されたと言われる。大山巌が12ドイム臼砲を元に日本初の国産火砲である弥助
砲(十二斤綫臼砲)を作った。明治時代になると明治政府に引き継がれ日本陸軍の装備と
なった。ドイム臼砲は明治23年には正式装備から外され、武器庫にしまわれていたが、
日露戦争で12ドイム臼砲の榴弾が12センチ迫撃砲の砲弾として再利用されたという。恐
らくこれは破裂型砲弾の臼砲弾の間違いであろう。西洋では既に改良され只の金属の塊
や石の塊ではなく火薬を詰めて自爆型砲弾が出回っていたからだ。大山巌は西南戦争を
はじめ、相次ぐ士族反乱を鎮圧しに出ている。西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊
司令官)として、城山に立て籠もった親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこの
ことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかった。と言われる


38: 名無しさんAA:19/02/09 16:59 ID:Ms
 柳川 銭紋  33

 実は柳川城炎上や三潴県令からの城明け渡しには、そこにミソがある。徳川幕府が、
必死に隠して、佐賀藩が秘密裏に苦労して開発したこの大砲は、実は戦国時代から既に
柳川にあったのである。と言うのも大友氏が蒲池氏を重要視し、佐賀の龍造寺氏を匿い
育てる事に激怒しながら襲う事にならなかったか。と言う事である。当時にハゼの実か
らの蝋燭などはどこにも作っていなく、この筑後だけだった。蒲池氏すらも私領を持た
ぬ頃は、只の住みつついた関東武者で終わっていて、何代かを過ごしている。記録によ
れば、諏訪神社を寄進し、三嶋神社に参拝し、高良玉垂れ宮に祈り、伊豆大島に知遇を
得たから、としている。ここに柳川の現実がある。この時には蒲池氏は北朝方に属した
、しかし直ぐに南朝方として筑後宇都宮氏と縁戚を結び、宇都宮久憲が蒲池武久の娘を
妻とした、これで海外貿易との関係を得たのである。歴史書は「粟田関白道兼の末葉、
宇都宮左衛門尉朝綱の 後胤なり。久憲三代の祖宇都宮藤原貞久、正中年間(1324年〜
1226年)」とも書かれる、「征西将軍営に供奉して肥後国に下って後、久憲が時に当た
りて渡辺党蒲池氏が婿となりその遺跡を領す。」と『筑後志談』が伝えているように、
蒲池は明らかに、南朝方に属し、筑後宇都宮氏の宇都宮久憲が蒲池武久の娘を妻とした
。これは当然である。三橋町木之元(現、二ッ河小学校付近一帯)はかつて戦前には、
嶋町と言われ、磯辺宮たからべとされた。かつては南方の大塔の宮の皇太子の在所とさ
れたからだ。我が富安家の伝説では「たからべ」とは「他からの邊(べ)」という別の
所から来た人の部落だったのだ。目野(めの)氏は、愛農氏であり紀伊の宮中を示した
。つまり南北朝時代まで、この地は既に米を送る先を紀伊の半島の人である事で「めの
氏」としていたのだ、「起こし田」を意味する起田には、木下や野田が多い。これは、
いずれも「紀伊の国の人の田」と言う意味だ。又その周りに御供田の地名はその奉納が
約束される天皇陛下の田んぼだった事による。吉開とは葦を開いた人と意味があるが、
それは同時にこの天皇を迎えに行き戦い、南北朝の初戦で勝って吉の道を開いたという
事で授かった名だとも伝えられている。実は水田の水天宮の伝承史では、その地から、
鷹尾神社まで全てが水田で瀬高の清水寺の御神領であり、柳川の中の細工町などが瀬高
すなわち波の背が来る所として瀬高と呼ばれていた。田尻氏はこうした頃にこの田の尻
に住みついた豪族だった。実は蒲池氏(かまちし)は、鎌倉時代以来の筑後国の一族だ
がこの田尻氏の分家であった。とされる。鎌倉時代は地頭職、室町時代には大身の国人
領主になり、戦国時代は筑後十五城の旗頭の大名分で柳川城主であった。そもそもが、
北朝も南朝もなく足利将軍の再起の場所が九州である。しかし、九州の長はこの時菊池
氏であり日足の流水紋でも解る様に南朝方朝廷重視の氏族だったのである。この菊池氏
の支族が大神氏であり土蜘蛛田油津媛の一族とされる。「山門五郷、大江、鷹尾、山門
、草壁、大神」とされる。草壁=日下部で久留米地方であり大江=大莞であり瀬高大木
の葦の歯の一帯であり、鷹尾は荒尾〜大和町沿岸で山門が八女〜清水の山間といえる。
「山門郷 夜万止(やまと)と訓むとされ、かつて山上から民をみて光が少なく、今だ
民の暮らしは豊かならざる。と天皇が夜に足を止め見下ろしたことから付いた名だと伝
わる言葉である。


39: 名無しさんAA:19/02/09 17:24
 柳川 銭紋  34

 田尻家文書の(田尻系図)には、大蔵春実より8代目の種成に5人の子があり、長男
種直が原田氏を継ぎ、次男種雄が秋月氏、三男実種が田尻氏を、四男種良が江上氏を五
男五郎が高橋氏の祖となった。とされている。戦国時代の九州の武将、大蔵党一族と呼
ばれ活躍した。田尻初代の実種の頃は、平安時代末期で筑前国から筑後国三池庄田尻邑
(高田町田尻)に移り住み田尻三郎と称したのが始まりとされ、森山宮を勧請し、代々
田尻家の氏神と尊崇ししたとある。しかし、この祀った神社が森山となると御祭神は、
秦氏の海神を祀ったという事になる。多く森山八幡の祭神は、南朝の忠臣、日野資朝と
その子朝保の二柱を祀る。ここで日野資朝の物語を少し振り返ると、今から七百年近前
後醍醐天皇の正中年間の事だ。資朝は政権奪還を計って露見、捕えられて佐渡に流され
た。正中の変と言われる。佐渡の守護職であった本間山城入道は、北条高時の命により
資朝殺害を図る事になる。その頃京都にいた資朝の第二子阿新丸は風のたよりにこの事
を知り得て、父の死ぬ前に一目会いたい。とはるばる佐渡にやって来た。しかし守りが
厳しく父に近づくことが出来ない。そればかりか、資朝の子が来ていることが知れて、
山城入道は急ぎ一族の本間三郎に言い付けて、資朝を殺害を早めて行った。これを聞き
阿新丸は、情けある僧の手引きで父の遺骨を貰い受け、これを兄朝保のところへ送り、
自らは、せめて仇に一太刀報いる誓いを立てた。こうして機会をうかがっていた大雨の
夜、漸(ようや)く仇の館に潜入することが出来た。こうして本間三郎の寝所に忍びこ
んだ阿新丸は、枕をけって三郎を起こし、起き上がるところを一刺し刺し通し、急ぎ外
に出た、がしかし、変事を知った家来が大騒ぎし、あちらこちらと探している間に、竹
のしなう力を使って堀を越え、無事に敵地を脱出しました。海岸に逃れたところへ折り
よく西へ行くという船が一艘あって、危ういところを 逃れて京都へ帰り着きました。
阿新丸はこの時十三歳。資朝の長子朝保は、洛西葛野に父の遺骨を葬り、廟を建て祀っ
た。北条方の目をはばかって八幡宮と称していたのが森山宮である。程なく後醍醐天皇
は吉野の行宮で崩御せられ、南朝の勢いは年を追うて弱まった。後村上天皇崩御の後は
、資朝の子や孫たちは、身の置きどころにも困るようになりました。朝保の子勝朝は、
八幡の璽と重器を背負い、海を渡り阿波を経て吾川郡森山村に、着いた。と伝えている
。八幡の璽というのは、資朝の魂代のことです。ここにおいて森山の領主徳弘安宗は、
勝朝を迎え厚く待遇していましたが、勝朝の滞在が或は面倒な問題を起こすことになる
かも知れないと心配し、「私が一つの社殿を建てますから、貴殿は神璽をお祀りになっ
て下さい。そして貴殿が神主としてそこでお住まいになれば文句を言う者はないでしょ
う。」と言い、社殿を狩谷口(現在地)に建立した。勝朝はこの社に資朝と父朝保を祀
りましたが、これが正平二十四年といいますから凡そ六百年の昔のことになります。も
とも八幡宮は、神宮皇后時代、息長帯比売命が紅白の帯によって合図をだして海賊に勝
った事で、博多の志賀島で祀ったことから軍神とされ、その後足利氏が祀り志賀島の名
がついた。と言われている。


40: 名無しさんAA:19/02/09 17:44
 柳川 銭紋  35

 この二ッ河までやって来た大塔の宮家は、多くに守られた護良親王(もりながしんの
う)とされている。延慶元年(1308年)建武期は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人
物である。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘で藤原保藤の娘
である南方(みなみのかた)の盟主だった。興良親王の父で、若い頃から仏法院の修行
積んで大塔宮(だいとうのみや)と呼ばれ、既に天台座主となり征夷大将軍の座にあっ
た。六歳の頃から、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入
院している。大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置
いたと見られることからである。正中2年(1325年)には門跡を継承し、門主となって
皇位の高僧にある。後醍醐天皇の画策で、嘉暦2年(1327年)12月から元徳元年(1329
年)2月までと、同年12月から元徳2年(1330年)4月までの2度に渡り、天台座主となる
。『太平記』によると、武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む極めて例がない座主であ
ったという。御座主は天台宗門に限らず、飛鳥時代に宗教内の最高地位を示すもので、
字のごとく天皇との協議や他宗と折衝の代表者となれる地位を言った。田尻氏の居城と
した田尻山の飛塚城(ひずかじょう)跡は昭和8年に開墾されみかん畑となっている。
森山宮は城跡の下の北西の中腹に鎮座し桜咲く春に例祭が行われている。護良親王は、
1308年、後醍醐天皇の息子として生まれました。そして父の後醍醐天皇は、邦良親王が
成長するまでのつなぎ役として1318年に天皇即位している。ここで交互に後深草天
皇の子孫の持明院統と亀山天皇の子孫の大覚寺統とが天皇に即位して治めていたものが
瓦解し戦いになった。これが南北朝で鎌倉時代から室町時代に移った理由だが、実は、
鎌倉時代そのものがそうした後継ぎ争いの中で生まれた時代だった。一般的には「源平
合戦(げんぺいかっせん)」と言われる治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)
は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわた
る大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇
子であった以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する不満で、
反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊に源頼朝
を中心とした、主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に
至る合戦で、奥州合戦終結まで治承寿永の乱が続いた。京都において朝家・貴族内部の
権力闘争が起こり、保元の乱・平治の乱の軍事衝突が起こった。この内乱で平清盛は、
対立を深める後白河上皇と二条天皇の間をうまく渡り歩き、摂政近衛基実と姻戚関係を
結ぶなど、政界の地位を上昇させて、実権を握った。仁安2年(1167年)には太政大臣
に就任したが、反発は多かった。そうした中で 後醍醐天皇の第1皇子として護良親王
(もりながしんのう)が産まれていた。しかし皇位継承をめぐって既に持明院統と称し
た持明院家と亀山上皇の皇統の大覚寺統と対立していて、皇位の行方は火花の中にあっ
た。


41: 名無しさんAA:19/02/09 18:18 ID:Ms
 柳川 銭紋  36

 後白河法皇と清盛の政治提携は、二者を橋渡ししていた建春門院(清盛の義妹)が、
安元2年(1176年)に亡くなると途端に齟齬が生じた。安元3年(1177年)北陸の国衙
と比叡山の末社の対立をきっかけに比叡山と院近臣が対立し、院近臣を守る立場にある
後白河法皇は清盛に比叡山攻撃を指示したが、清盛はこれを拒否して逆に比叡山の要求
を通し、院近臣の身柄を拘束するという手段に出た。これによって後白河法皇は比叡山
の言い分を聞かざるを得なくなり、近臣の追放を許す結果となった。鹿ケ谷の陰謀と言
われる事案だ。院近臣は朝廷側の従者でありながら仏門の徒となり、その間を取り持つ
職業の者だ。応徳3年(1086年)の白河上皇の、堀河天皇に譲位して院政を開始するが
、結局は、堀河天皇が家臣や親戚縁者に対応し、権力的命令を白河上皇が吐くと言う、
上皇の都合のよい二重構造であった。当然上皇の意見が振舞いが重視され、仏門に入る
上皇の寺社や宗門への寄進が多く、寺領の荘園が力をつけそれを守るべく武士も多くな
った。こうして、朝廷の荘園宮家の荘園寺社の荘園がそれぞれ境界争いになった。とい
うのも本来は税金逃れに土地や農民を共に寄進されたものであったがしかし、一緒に配
下になった農民は当然ながら良い処遇の寺社や宮家に着いたのだ。この自由を奪うべく
管理した武士は当然嫌われて不満の対象だった。院近臣(いんのきんしん)院すなわち
朝廷側から仏門の方に送られた人達は、朝廷の縁戚であるものも多く、遠くは皇籍剥奪
の為に下向処分の者らである。平清盛の建春門院(けんしゅんもんいん)も院号であり
名を平滋子(たいらのしげこ)という、父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)いわゆる
堂上平氏の末端で、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子(すけこ)の二人の間に生まれて
いる。兄弟姉妹も多く、時忠・親宗、姉妹に、二位尼時子(平清盛継室)・冷泉局(建
春門院女房)・清子(宗盛の室)・坊門殿(重盛の室)・藤原親隆の室(権少僧都・全
真の母)・帥局(建礼門院女房)などがいる。父は鳥羽法皇の近臣で、滋子も法皇の娘
・上西門院(後白河上皇の同母姉)に女房で仕えている。早くからも、その美貌と聡明
さが後白河院の目に留まり、寵愛を受け、院御所の「法住寺殿」が完成後にと滋子は、
後白河院や皇后・忻子と共に入御して「東の御方」と呼ばれるようになる実力を持った
。しかし身分の低さのために、その取締まりの親分の女御にはなれなかった。後白河院
の寵愛は他の妃とは比較にならなかったとされるが此処に悲話がある。ここでの法住持
殿とは天皇の生活の部屋と言う事で、そして女房とは そこに身辺に直接関わる雑務を
果たす身分の高い使用人の事だ。天皇の大奥と言ったが早いかもしれない。乳母、幼児
や女子の主人の家庭教師、男子主人には内々の秘書、などの役割を果たした。男性主人
の場合には主人の妾(召人)となったり、女性の場合には主人の元に通う男と関係を持
つことも多く、結婚などによって退職するのが一般的習わしであった。所謂天皇の為の
内裏で大奥よりもっと規制がゆるい、みだらな寝所や奥園と言われた所の話である。こ
こで建春門院は情報を持ち、采配を果たして重要な役割を演じていた。


42: 名無しさんAA:19/02/09 18:19
 柳川 銭紋  37

 現代では想像を絶するが、近世になっても高貴な家は、特に世襲親王家の当主などが
正室以外の女性に手をつけて子を産ませ、その女性のことを家女房(いえにょうぼう)
と呼んで、事実上の正式な側室扱いとした。例えば久邇宮朝彦親王は正妃を置かず、5
人の家女房とのあいだに18人の王子女を儲けたが、そのうちの一人が今上天皇の外祖
父に当たる久邇宮邦彦王である。一夫多妻の代表的生活とも言える。大奥では正妻がい
たが、宮中では身分はあっても正妻も側室もなく全てが側室であった。そして男妾も又
可能だった。女房のこの語の意味するところは時代が下るにつれてさらに地位が向上す
る。女房(にょうぼう)は、今日の日本語では妻(すなわち正室)の意味で用いられて
いるし、さらに転じて、仕事上における不可分の存在を伴侶的な意味をこめて比喩的に
女房役(にょうぼうやく)と呼ぶこともある。例えば野球の投手に対する捕手、内閣の
総理大臣に対する官房長官などがこれにあたる。既にこの頃、政治の主導権を巡っては
、後白河院と二条天皇は激しく対立していたため、その出生には大きな運命が付きまと
う。兄弟の平時忠らが憲仁立太子の陰謀が発覚し、二条帝はただちに平時忠・平教盛・
藤原成親・坊門信隆らを解官して、後白河院の政治介入を停止する措置をとった。翌年
には、平時忠・源資賢を「二条帝を呪詛した罪」で配流する。この事件で、憲仁の立太
子のみならず親王宣下は絶望的なものとなる。しかし二条帝の乳母が滋子の姉・時子で
あったことが幸いして、滋子自身に直接の圧迫が加えられることはなかった。しかしそ
の後、二条帝が崩御したことで後白河院は政治活動を再開し、12月には念願だった憲仁
への親王宣下を行い六条天皇を後見していた摂政・近衛基実が死去すると平清盛を自派
に引き入れ、憲仁親王の立太子を実現させる。儀式は東三条院にて挙行されて、滋子は
生母として従三位に叙せられた。翌年正月には女御となって、晴れて家司と職事を教盛
・宗盛・知盛・信範ら平氏一門が任じられる。後白河院は、滋子を伴って熊野参詣を行
ったが、後白河院の母の待賢門院が、白河法皇・鳥羽上皇に従って参詣した先例になら
ったものだったが、これは御行幸であり、妻の権威の象徴として行われるものだった。
ある時、熊野本宮で滋子が「胡飲酒」を舞っていたところに突然大雨が降ったのだが、
いささかもたじろがず舞を続けたという逸話がある。滋子の信念の強さ、気丈な性格を
表したものといえる。実際に滋子は神仏に対する信仰が厚く、特に日吉神社と平野神社
には頻繁に参詣した。平野神社は平氏の祖・桓武天皇ゆかりの神社である。この記述は
現代人には、なんともない風景だろうが、当時は雷や雨と言うのは忌み嫌われて、恐れ
あるもので、天皇の前では恐れ多く取り止めやその相談でうろたえるのが常であったが
それを、そのまま挙行して無事終わったと言う話である。秋篠宮家の長女・眞子さまと
次女・佳子さまの結婚で今は色々あるが、かつては男尊女卑の中にあっても、皇位剥奪
があったので、容易にかけ落ち同然の事が行われていた。その分朝廷の支給米が少なく
済んだからだ。そもそも、清和源氏桓武平氏というのは、朝廷の皇子が多すぎたからだ
。桓武天皇の第三皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)が祖とし、数多く枝分かれし
、彼の子孫は公家として続いた家柄となった。この高棟の子孫たちを「堂上平氏」と呼
び、かれらは必死に公家の座にしがみついたのである。


43: 名無しさんAA:19/02/13 18:19 ID:BM
 柳川 銭紋  39

理由は簡単だ。公家となれば皇位であり、給付米は随分な不足でも生活の糧だったのだ
。この熊野古宮こそは現代語では「くまのこきゅう」とされるが、実は当時の日本言語
つまり「やまとことば」では、「くめのうこきゅう」となり言葉的には「久芽野故宮」
の意味となる。つまり、かつての大和朝廷の天皇の芽生えた場所。と言ういみである。
ここに日本神話と実在の王朝の繋がりがある。と言う事になる。かつて、まだ幼い頃の
小学校の運動会が雨で久末部落は「御幣歌」もしくは「御謳い・応対」なる言葉があっ
たようだ。そこの誰がしが、昼食前の興で謳ってくれ、昼食だったが久末神社の氏子会
の全員の祭り歌だった。しかし今やそれを聞く事はなく、友人が聞かせたが、内容も節
も昔と違う今の標準のものと変わったものだった。滋子の素顔は、藤原定家の同母姉・
健寿女が日記『たまきはる(建春門院中納言日記)』に書き記している。健寿女が滋子
の女房として仕えるようになったのは12歳の頃で、滋子は皇太后になったばかりだった
。『たまきはる』には「あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか(なん
と美しい、この世にはこのような人もいらしたのか)」と記されている。滋子の美貌は
『建礼門院右京大夫集』でも、「言ふ方なくめでたく、若くもおはします(言葉にでき
ぬほど美しく、若々しい)」と絶賛している。滋子はその美貌を頼むだけでなく「大方
の御心掟など、まことにたぐひ少なくやおはしましけん(心構えが実に比類なくていら
した)」(『たまきはる』)とあるように、万事につけてしっかりとして几帳面な性格
で、女房が退屈しないよう気配りを怠らず、いつ後白河や高倉が来ても良いように絶え
ず威儀を正し、後白河が御所にいる時は、いつも同殿して食事を共にとった。とされ、
その様子は「御所の御しつらひ、人々の姿まで、ことにかがやくばかり見えし(御所の
調度から女房の姿まで、輝くようだった)」(『建礼門院右京大夫集』)と記されてい
る。実はこの三橋町久末の綿貫邸は剣豪綿貫一刀斉の家屋だったが、実はこの地が、か
つては百丁や五十丁などの地名を持ち、この「建礼門院の荘園」だった頃の番地であっ
た事は知られていない。建礼門院徳子が余生を過ごしたのが「寂光院」で、寂光院は古
くは、かの有名な聖徳太子が594(推古2)年に父・用明天皇の菩提を弔うために創建さ
れた寺院である。初代住持は聖徳太子の乳母であった玉照姫(たまてるひめ)で、その
後も、代々高貴な家門の姫君が住持となって、法灯を守り続けましたが、その中で寂光
院を広く世に知らしめたのは、第3代住持の建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)
は話し相手もなく、滅びた平家一門と我が子である安徳天皇の冥福を祈るだけの毎日で
した。義理の父親の後白河法皇は失意の中で大原に住まう建礼門院を案じて、はるばる
都から訪ねてきた。法皇はその侘び住まいに暮らす建礼門院の姿を見て、涙を流し再会
を果たした。二人はいつまでも懐かしく語り合った。これが“祇園精舎の鐘の声 諸行
無常の響きあり…”で始まる『平家物語』に出てくる有名な「大原御幸(おおはらごこ
う)」のくだりである。その後、建礼門院は平家一門と安徳天皇の冥福を祈り続け、再
び、歴史の表舞台に登場することなく、1213(健保1)年にその波乱の生涯を閉じた。


44: 名無しさんAA:19/02/13 18:19
 柳川 銭紋  40

幕末の頃、綿貫吉直(わたぬきよしなお)は、天保2年(1831)孫として三橋町五
拾町に生まれた。藩士の子として幼い頃から、暑い日も寒い日も剣術道場に通った。と
され最終的には綿貫一刀術居合抜きの、免許皆伝(めんきょかいでん)まで行きついて
奥義を極め、最終的に一子相伝(いっしそうでん:一人にしか伝えない)の秘法まで流
派の大事なところまで学んだとされる。その後は蜷藩士として幕末、外国船に対応す
るため江戸の海岸防衛まで出向き、明治に入ると反政府軍を鎮圧するために明治政府軍
の一員として、函館戦争まで出向いている。明治2年(1869)の、函館では、土方
歳三ら新撰組の生き残りは五稜郭を中心に鉄壁な防戦ラインを引いていた。しかし、彼
が立花由布摂津守の呼びかけで、参謀として行ってやっと函館戦争を制し倒したのだ。
 柳川の主に伝習館生で作られた2つの兵組織の精鋭達の勇ましさぶりは、江戸期から
評判であった。その理由はいろいろあるが、立花氏の治世にもある。貧弱な小藩国が、
薩摩に劣らぬ大きな金を産み出していたから不思議だった事で、注目視されていたのだ
。例えば、今は焼失したが、三柱神社伝記では、全くこの地は三柱神社ではなかった。
だが、太閤秀吉が九州征伐して立花氏がはいると、すぐさま円満解決して、広大な秦家
(はたけ)の土地を三柱神社に変え、かつての三柱神社のあった山王宮を日吉神社に変
えた。その上今の矢部川の付近をすべてその立ちのいた者の開拓地として褒章にした。
その為、蛇行して氾濫に悩まされていた棚町地区より先の、芥地とされた壇氏族の土地
は開発され、板橋でしか行けなかった聖河の沼地も開墾された。こうしてこれまで戦時
の集合場所の厩屋としていた蒲池氏の頃の高畑は完全に寺社領地となったのだ。これま
での荷の積み上げをしていた蒲船津や高畑は完全に密貿易は阻止され、米の陸揚げ場と
して筑紫町の堤防整備し、お花の別邸の場所に石垣での良地にする計画にしたのである
。これは蒲池氏領より完全に小さくなった事や、柳川城築城による地権を綺麗に配置を
変えた功績でもあった。この時取った政策が、大友氏や竜造寺氏などによって陶氏の者
つまり毛利軍の打ち壊された白鳥城や花園城安富城或いは酒見城を修復しないで、逆に
町民や寺に売って金を取り、水の管理の為に石垣をかけた事だった。それが本郷の地の
分流調整である。千間土居を開発し、水を沖の端川に流し、大水は矢部川と共に不断川
に流して蒲池、大川に流した、大田堰で、水を調整し、今まで作付出来なかった大和町
までも稲作が可能になったのである。その頃まで大川より酷い「あお水取り」つまり、
海流の潮と混ざらず浮いた真水だけ取る手法が格段に少なくなって収量が一気に増えた
。ここで利用した寺社への金と旧支城の石垣などの利用は、その労賃に報われた形で収
まったのだ。そうした事で農民はとても豊かであった為次の田中吉正時代でも立花山の
蟄居ちまでも米を送り届けている。そして再入城に際しても、同じに三柱神社内には、
日本初の太郎稲荷神社を作った。地元柳川ではあまり有名にはならなかったが、江戸の
立花藩の太郎稲荷は大きくヒットした。つまり、再入城まで果たした殿様と言う事を、
大きく宣伝したし、御利益がある事でその仕組みに庶民や商店の商売繁盛に向いたのだ
。更にここに久留米の水天宮社の仕組みを取り入れたのである。つまり分社化である。


45: 名無しさんAA:19/02/13 18:23
 柳川 銭紋  41

実は柳川にはもともと水天宮社は無かった。佐賀鍋島藩との境界には多くの水争いがあ
り、これに津村氏の采配で、久留米藩に決めてもらう事をした。と、同時にその頃まだ
久留米の藩主すらもめていた時代だった中で水田水天宮は多くの崇拝者がいた。そこで
旧来の崇められた高良山水天宮を分社にして大川に第一神霊分社を作り、その後沖の端
に作った。水天宮信仰は江戸以前の事だ。津村氏の案はに芝を川にながしてそれを境界
とする行事を画策する事だった。しかし成功したのである。これにより酒見城や榎木城
が不要となる元となった。つまり一国一城制の中で、その采配から、柳川風浪宮社酒見
分社として売り払いが可能になったのだ。こうして次々と攻撃し壊された城は整理され
ていった。高畑などのこうしたこの秦氏の土地である「はたち」は起田や吉開も又そう
呼ばれていた土地がある。こうして密貿易の末次船の痕跡を、次々に消していったのだ
。末次船は朱印船貿易をしていたと言われ、南北朝時代や戦国時代には九州・瀬戸内海
方面の武士や海賊が中国、朝鮮沿岸を荒らしまわり、倭寇と恐れられた。とされるが、
実はもっと古いとみられる。というのも16世紀後半になるとポルトガル船が日本に来航
するようになって海外への関心が高まり、東南アジア方面にまで進出する日本人も現れ
て起こったの朱印船であるからだ。荒木宗太郎は、自ら、船に乗って、東南アジアでの
商売をした大商人で、当時の安南(現ベトナム)の王族の娘を嫁に娶ったというスケー
ルの大きな人物で、この彼が乗っていたのが、この荒木船ということになっている。船
の特徴は、中国のジャンク船の形式を基本に、ガレオンのような装飾をしていることが
特徴で、この形式が、日本前型と言われる朱印船の基本形とされる。この船の特徴の一
つに広い四角い船首にあり、この船首の部分の四角い立方体に櫓棚があり、そこから櫓
を出して、港湾内では漕いでいた考えられてます。しかし、後にも先にも前方に櫓棚が
あるのは、このタイプの船しかなく、ある意味奇妙な造りとも言える。特徴として白い
喫水線の上部に三角形の排水口があり、これが船体構造がジャンク式という証拠になっ
ていて、これは他の日本前型朱印船にも見られる。荒木船の船旗はオランダ東インド会
社のマークを逆さにしたものを使用していた。宗太郎の子孫は代々長崎西築町の町乙名
(町名主にあたる)を務め,同家には船旗や安南(アンナン)国書,同国製の鏡などを伝
えていた。記録上では1606年(慶長11)に暹羅(シヤム)に,10年には交趾(コーチ)に
、そして19年(元和5)から32年(寛永9)まで数回交趾にみずから渡航したが,交趾の高官
阮(グエン)氏に信頼され,貴族の待遇を受け,阮氏の娘を妻とするなど,当時の有力
な朱印船貿易家であったという。この荒木船や末吉船が 三橋町正行の名の元となって
居る事はあんまり知られていない。更に日本の船の発祥地として安曇磯良丸を崇拝し、
日本の船が------丸と言う名をつけられたと言う伝説も知られていない。何とも奥ゆか
しい柳川である。


46: 名無しさんAA:19/02/13 22:03 ID:BM
 柳川 銭紋  42

 天下統一による統一政権が日本に生まれると交易統制の必要性が発生し、近世で統一
政権を樹立した豊臣秀吉は、日本人の海外交易を統制し、倭寇(後期倭寇)を禁圧する
必要から、1592年に初めて朱印状を発行してマニラ、アユタヤ、パタニになどに派遣し
たとされる。がしかし、この時のことはあまり資料がない。江戸時代初め,大坂の豪商
末吉孫左衛門がルソン渡航などは、朱印状を受けて海外貿易に従事させた代表的な御朱
印船貿易の一つだろう。京都の清水寺には,寛永9 (1632) 年から同 11年にかけて3年
連続して奉納された絵馬があり、これによっての、末次船と同系の日本前型の大型商船
と推定される風景が解る。船上に西欧人が乗っているが、おそらく外人航海士を描いた
ものと思われる。江戸初期、末吉孫左衛門が徳川家康の朱印状を受けて、タイ・フィリ
ピン・安南などに貿易のために渡航した。その豪商の名を取って貿易船は、末次船・末
吉船などとと呼ばれていた。末吉孫左衛門は、しばしば朱印状を交付されていてルソン
やシャム,トンキン等との朱印船貿易に活躍し、跡を継いだ長男孫左衛門長方も,代官
を務めるとともに鎖国に至るまで朱印船貿易に従事した事が解っている。また、柏原船
(かしはらぶね)(平野川を利用して河内国柏原村と大坂を結んだ川船)を創始したこと
などで著名な山田船もある。荒木氏の資料では、外国との通商御朱印(許可証)の写し
から長崎西築町の乙名にて、荒木作三郎家に伝わる古文書によれば、文禄の初、日本国
から外国へ通商のための航海を許された者は、京都より三艘、堺の湊から一艘、長崎か
ら五艘の船主がいたようだ。東京(トンキン)、交址(コウチ)、東補塞(カンボジャ
)、太泥(マレー)、六昆(暹羅の一部)の国々へ航海した。この中の一艘の船主が、
末吉氏の先祖宗太郎と言うもので、元和八年(1622)台徳院様(秀忠)より御朱印を頂
き、広南国(ベトナム中南部交址国の一部))と往来している。この国の国王に面会し
、たいへん気にいられ、囲碁の賭けにかこつけ、国王の息女を妻に賜りました。その時
同地歴世の支配者である阮氏の親族に宗太郎を加えるという書状を賜りました。此書は
外縁に金泥の絵形があるの金札と唱え、その船を金札船と称していたと伝えている。そ
の後寛永十年(1633年)になると、幕府は、日本より外国に行く事が禁止され、交址と
の通商も途絶えました。 宗太郎は妻を日本に帯同し、こちらで女子一名を生み長崎で
一生を終えた。彼女が生前に使用していた交趾国製の手鏡をひとつ今も伝えています。
御朱印状については、渡航が禁止されているのに民間が持ち、伝える事は恐れ多い事で
すから、天和元年(1681)長崎奉行所に宮川監物様と川口攝津守様が御在勤の時に伊太
郎(初代を宗太郎、二代目宗右衛門、宗太郎の実子が無く京都の奥野山庄右衛門二男を
養子にして、外祖父は広南王娘に娶わせたのが宗右衛門で、三代目伊太郎(宗右衛門実
子)が奉行所に持参しました。ところがこれとそっくりな話が、島田天満宮や瀬高の、
広田八幡宮にあって、柳川藩も密貿易の巣窟だったらしい事が垣間見える。


47: 名無しさんAA:19/02/13 22:13
 柳川 銭紋  44

鎌倉初期の建久7年(1196)頃の「宇佐大鏡」にはその治領分として神領として「
国々散在常見名田」の項目に書かれている。筑後国常見名田、つまり毎年検査役を派遣
していく神領である。「北広田田数(州余丁勘文定)宮加地子起請定14丁5反州、加
地子稲291束2把(但米丸)国半不輸」として「かしきいね」つまりすごいた米のみ
を半分を収めていた。但し俵で、というものである。この広田八幡宮は、本来常見名田
北広田の地に勧請された社領鎮守社になっていて、その起源があると言われ宇佐八幡宮
領の広田庄として広大な耕作地を持った村とみれる。瀬高町誌には、「後年に廣田縣は
瀬高庄・樋口庄・小川庄・北広田庄(松田字北広田)・南広田庄(山川町清水)となっ
た。」と捉えていて瀬高町のほぼ全域のようだ。また大正時代の渡辺氏の「邪馬台国 
探検記」では、当宮の縁起によると、うさ速麿は三韓の軍の勲功で広田縣270町の封
戸を与えられ「広田縣は後年、樋口・広田・瀬高など5庄となる、今の本郷・芳司地方
を広田原と称するのは往時の広田庄たるを知るなり」と紹介している。芳司についても
、「芳司は元市街にして市を開きし地なり」として、市恵比須を紹介している。ちなみ
に宇佐宮領は九州一円に120か所余り分布していた。これらの社領は南北朝期以降、
武士の押領(おうりょう)により有名無実のものとなり、太閤検地による石高制の成立
によって最終的に消滅している。とされる。しかし廣田縣については更なる検証を要す
る程まだ解っていない。廣田八幡宮文書の社記編には鎌倉時代の寿永4年(1185)
に、源頼朝は梶原景時(かじわらかげとき)に命じて廣田縣あがたを没収し、廣田庄の
田村(船小屋の北、筑後市鶴田))に官府を建てた。号を七庄司とし住した。廣田・
水田・御牟田・川合(筑後市川犬)・樋口・竹井・瀬高(小川庄)としている。しかし
廣田大神の御戸代五百町余りを残すことが出来(文永・弘安の役の恩賞によるものか)
廣田庄内の芳司・吉岡・両坂田・三長田・今寺・久良原・古賀・志村・本郷・常用・両
折地となる。つまり鎌倉時代の文永11年(1274)に蒙古襲来で、文永の役に広田
宮の広田速澄は、菊池氏と共に博多に出陣し、弘安4年(1281)の、二度目の蒙古
襲来においても、菊池一族の第9代の菊池隆泰らと廣田宮の広田速澄・宮柱の壇速興な
どが博多に出陣しているが、その時に宇佐八幡にはやらなくていいから筑後の方は領分
としない。と半分にされてしまったようだが、瀬高分はやっと守れた。と言う風な話で
ある。ここに石橋氏伝説が出てくる。板橋氏はこの地を出自としているが石橋氏も同じ
にこの地を出自としている。と言うのである。これが磯宮社を作ったとされる。つまり
幸作橋と行基橋の伝説である。幸作橋は板橋氏が作ったが行基橋は石橋氏が作ったとい
う話である。

48: 名無しさんAA:19/02/13 22:14
 柳川 銭紋  45

この後、南北朝時代では広田家歴代記の文書には征西大将軍懐良親王(かいらしんのう
)を奉じて、二ッ河の柳の離宮まで守って連れて来ている。南朝の中心として戦ったの
は菊池一族でその軍功に従い活躍しており、58代の廣田速時から、67代の廣田速秋
に至る記録がある。天正8年(1580)には、騒乱時代となり3月7日に、肥前龍造
寺隆信の5千余の軍に襲撃され社殿を焼かれてしまう。廣田の兵は惨敗し社領も奪われ
ている。しかし、芳司・吉岡・本郷・今寺・久良原・古賀・折地など7村の郷里は守ら
れ、廣田大神を崇拝できたようだ。天正15年(1587)4月に豊臣秀吉が島津征伐
の為に高良山に陣を置いた時には、廣田宮の神戸代(社領)は没収され、5町余の社地
のみが還付された。同年6月25日に立花宗茂(宗虎)が柳川城に入った時に、宗茂か
ら3町8反余が寄付され、この時廣田大神の社殿も造営された。また宗茂は、秀吉より
従四位下に叙せられ羽柴の号を賜り、これを祝って廣田宮の広場にて流鏑馬奉納を行っ
ている。文禄元年(1592)4月、宗茂の朝鮮征伐の出兵の前に「適国降伏」の祈願
を此処で行って朝鮮に渡ったと言われる。文禄4年(1595)に宗茂は朝鮮より無事
帰朝し祈願成就として高8石3斗5升3合の御供田が寄付され奉納された。これにより
毎年、廣田宮祭礼には立花家より騎射奉納がある様になった。こうして時を重ねたが、
天明8年(1788)3月10日夜に盗難があり、天平勝宝2年(750)に孝謙天皇
より奉納の金幣(きんぺい)、さらに弘仁2年(811)に嵯峨天皇より奉納の御宸篳
(しんぴつ)蕃国御取の勅願などを失っている。文化5年(1808)石鳥居新規建立
の際、その額面に「八幡宮」と刻記されて、古来より「広田宮」と称していたが「八幡
宮」と改称された。こうして昭和27年12月に宗教法人「廣田八幡宮」となった。境
内には住吉宮と春日宮も祀られている。往時には旧暦11月19日の例大祭に、寒風の
矢部川清流に身を潔め、天をも焦ごがす篝火(かがりび)を焚き、火の映る的を射たと
いう流鏑馬(やぶさめ)行事は、近郷に希な一大圧巻であった。とされる。しかし明治
元年(1868)に、ここの広田氏が新政府寄りだった事で、騎廃止され、今は惜くも
見られない。古くは旧暦11月19日、これを新暦に移して12月21日が本来の祭典
日であった。現在は11月3日に御神幸祭 御神輿風流行列が行われている。神幸行列
の奉納が終わると、御迎えの神輿台と本郷の白衣姿になった本郷の氏子が、応仁天皇の
神輿を担ぎ再び大和堰を渡り聖母宮まで行幸する。聖母宮に着くと神功皇后と応仁天皇
の親子の対面の神事が行われる。帰りの神輿は芳司の氏子に担ぎ手を替え、芳司と作出
の氏子行列が笛、太鼓、鐘の音を響かせ暗くなった道を提灯の灯かりで幸作橋を渡り、
作出のお宮と新座で奉納したのちに芳司の広田八幡宮に還御する。この祭りは囃子の音
から「ドンキャンキャン」の愛称で本郷、芳司、作出の部落を中心に盛大に行われる。
がこれが柳川の「ドンキャンキャン」の素であったろうと思われる。祭の起源は定かで
ないが平安時代からの氏子が氏神を歓待する祭りとされる。


49: 名無しさんAA:19/02/13 22:18 ID:BM
 柳川 銭紋  46

 立花家臣、城戸豊前が書いた『豊前覚書』によると、六月十一日に、老臣小野和泉を
正使として、城戸豊前、八尋民部、扇掃部嘉門が付き添って、柳川城受け取りに立ち会
った。前城主であった龍造寺家晴が在城中に植えた竹が青々と見事に成長していて一段
の風情を添えていた、と記されている。恐らく木下家の前の孟宗竹の様な感じで茂って
いたのだろう。宗茂の入封は季節が夏に向かう六月一五日であった。夫人のァの千代(
ぎんちよ)をはじめ立花家中の者たちは、住みなれた粕屋郡の立花山麓を離れて十七日
に柳川へ入ったようだ。ァ千代は立花から離れたくないと、周囲の者を困らせた。とい
うが、住みなれた実父の道雪が眠る立花の地を去ることは耐えられなかったのである。
 宗茂は入封するとすぐに、家臣たちの配置と知行割に着手している。戦国時代に荒れ
たこの地に、始めて入り土地で在地の情勢を見極めて、領内の数カ所に配置していた領
内の支城に城主として入封させて、地域の支配に当らせたのである。以前に在地の土豪
たちが城館としていた処も順次修復整備して支城とし城番に任じさせた。それには筑前
以来の有力家臣達に、地元の家臣を作る事も許した。城内には「城料百十三町」ずつを
与えている。この時支城の城番に配した家臣は「柳川年表」によると、次の六城である
。家老の小野和泉に蒲池城を当たらせ、当面の筑後蒲池地区を受け持たせた。由布美作
を酒見城主にして大川地区を、薦野玄賀に城島城主に、立花三郎右衛門を八女黒木を当
たらせ松延(黒木町)城主とし、米多比丹波に鷹尾城(大和町)立花了均に 今古賀城
(三橋町)をそれぞれ城主としている。この時ほかの榎木城や花園城白鳥城富安城など
壊されていた城は打ち捨てられた。しかしそれらの城は水郷回りの要所にあった為に、
十時氏にその内容を調べさせている。又、家臣の知行は、すべて恩給として与えられて
土地からの収穫は全て城中国高としている。、中世のような土着性や、在地との伝統的
な地権の結びつきを否定した措置がとられた。天正十五年の宗茂入封後の知行割の特色
として、一村支配をさせず一村を数人に分けて知行させる分給方式がとられた。これに
よって付け届けの違いは、是正され産業振興がはかられる事になる。それともう一つ、
知行割が町・反・丈という古い面積の呼称で表示され、石高制の採用は太閤検地が行な
われたのが文禄四年以後のこととなる事がある。筑後地方の天正検地の施行は『筑後国
史』に「天正十七年、公義により筑後国田畑検地これ有り、上使山口玄蕃頭を下向せし
め、上妻郡に長崎伊豆守竿頭による田畠方分に成りて、」とあり、天正十七年におもし
ろい事に山口玄蕃、長崎伊豆守による検地が行なわれたことを記している。筑後におけ
る秀吉の「知行宛行状」などは、天正十五年時点で、すべて面積で知行地を宛行ってお
り、秀吉の九州平定後のころではまだ石高の表示はつかわれていないのである。



50: 名無しさんAA:19/03/09 05:53 ID:Ms
 柳川 銭紋  47

 立花氏が本格的に藩体制の確立のための、収穫米の石高政策を実施するのは、文禄三
年朝鮮出兵から帰国した後であると言う。第一に、文禄四年、文禄検地(太閤検地)を
実施し、このことについては、次のような文禄四年十二月朔日付の立花宗茂宛の秀吉の
「知行付」がある。『福岡県史史料』第四輯で、筑後国山門郡四万五千弐拾参石、下妻
郡壱万七千八百四拾五石、三瀦郡内五万八千六百弐拾石、三池郡内壱万七百石、合計拾
参万弐千弐百石事目録別紙これ有り此度検地の上を以て、これを扶助せしめ訖り、全て
領地すべく候也。 文禄四一二月朔日  朱印(秀吉) 羽柴柳川侍従とのへ 」と言
う書状がある。つまり下妻45、023石 三潴58、620石と此処で決められた。
 この検地により、面積表示に代わる石高表示の石高制に全面的に変更され、この制度
に基づく領内四郡二〇六か村の村高が打ち出された。この文禄検地については、この文
章中に「目録別紙これ有り」とあるように、文禄四年一二月朔日の「筑後石知行目録」
がある。
大木町関係分の村の石高を次に表記する。現大木町域内の文禄三年検地村高
 七一二・二四  篠渕村  二一七・三五  高橋村  一一〇四・九二  蛭池牟田村
 四六三・四五  筏溝村  一八八・六〇  中村  一六一一・〇二  木崎村  
 四六三・一三  侍島村  二〇七・三七  吉祥村  八九四・六三  八町牟田村
 二〇九・八六  小入村  三五三・二八  荒牟田村  七二一・一〇  大角村
 一四八・二八 野口村  三九六・六四  福間村  六二八・五二  奥牟田村
 二一四・二四  中野村  三九五・五六 大薮村 となっている。ところがこの
検地については、瀬高山川や南関などで、佐々成正に熊襲とされる隈部一党が反旗に及
んだとされる。実は瀬高や南関などは 朝廷の荘園であったのである。寺領や神領・宮
中領がひしめいており、これらを整理する事が必要であった。しかし佐々氏は真面目で
生粋の秀吉の臣下であった。太閤検地以前に、この地の元図すらなかったのである。一
度は話し合いが出来た検地も、強行に測量を始めた事で諍いが起こり、切腹の憂き目に
合う事件に発展した。秀吉にすれば、今だ九州のつわものの息の根を荒々しくさせる事
はあまり良い事では無かった。それに京都の宮家の米も取り上げて行くには、少し難が
あった。博多ではキリスタンの豪商が大砲を載せた船まで建造していたからだ。ここで
もし九州が一丸となってこの新しき秀吉政権に攻めのぼる事があれば ひとたまりも無
く瓦解し、これまでの苦労は水の泡になる。更にあの一向一揆のような辛酸を嘗める様
な事にも為りかねなかったのだ。ここに神領であった事の危うさがあった。秀吉は加藤
清正など八女から本郷を得て久末を通り棚町(田野街)を柳川まで行ったが、本郷から
別れた徳川氏は実は筑後の方から蒲池の方へ戦いながら侍島を経て水田を抜け吉開から
磯鳥に行き蒲船津に行っている。これが九州征伐時の軍の進軍だった。それは他ならぬ
キリスタンの力を借りたからだ。そこで島津氏は直ぐに長崎雲仙方面の手勢は薩摩に帰
っている。この時立花氏は妻や子が城島八院でで捕虜の様に捕まっていた。という。



51: 名無しさんAA:19/03/09 05:54
 柳川 銭紋  48

 その八院では、関ヶ原から帰ってきてから、鍋島との戦いが起こった所だ。つまり、
軍師として老練な黒田は、戦えばぼろが出る寄り集めの大軍で、鍋島と加藤をせっつい
て先陣を果たすよう書状を送っていた。鍋島はその頃竜造寺氏の子孫がいた。にも関わ
らず彼は幼く政治的実権からは遠ざけられ蚊帳の外であった。したがって関ヶ原の窮地
に独断で自分は東軍に息子は西軍につかせているこれは苦肉の策で、前田家、真田家な
ども同じに家系存続の為にそうしていた。そもそもこの関ヶ原の戦いは、豊臣体制での
突然起こった徳川家のクーデターであって、気配はあったものの突然の事だった。特に
佐賀藩にはラッパや忍者或いは諜報の草の者と言われる者が機能していなかったのだ。
その為西軍についていた多くの者は親父や勢力のある家康と繋がってはいない中にあっ
た。しかし、立花氏には加藤氏から、「進軍の折には是非内府様のお味方となられて、
我々と共に友軍して貰いたい。」と何回も申し出があっていた。しかしその度に「わざ
わざの申し入れ痛み炒る。されど当方には太閤様の御恩義にて治領を御仰せ付け給う所
に、我が家に二君交えずの家訓ありて、御執り引き願いたい。」と答えていて決して迷
う事など無かったと言う。又小野氏十時氏問注所氏など数々の京都の情勢が伝えられて
家臣団が紛糾して、徳川方に付くべきと言う意見にも、一笑に付した。つまり、武士の
武士たる面目は君臣一途の事たる事なり。とし、負けて命絶っても武士の本懐を遂げよ
うというものだ。と謳っている。部下も殆どがその気心について来た者達だったので、
何も反論は無かったと言われる。大坂から帰途に着いた時、慶長五年一〇月一九日には
、城島方面に、鍋島軍は三万(太宰管内誌は二万余としている)の軍勢を一三手に編成
し、直茂本陣を城島に進め諸軍も城島を中心に広がり先鋒を横溝村の五反田に置いてい
た。その北方の江上方面にかけて陣営を構えていた。一方、宗茂の胸中には実父紹運・
養父道雪このかたの「武名」と自分が得た国内・朝鮮にかけての「武勇」があり、江上
村あたりで二つとない一戦をしようという気持で城に入っていた。城中の老臣みんなの
自重の意見が城主の出陣には猛反対であった。とはいっても敵兵が領内を侵す以上は、
武将の面目にかけても見過ごすことは出来ない。つまり小勢をだして、これを押えよう
との意見にきまり、次のように軍を編成し視察がてらの兵を出すに及んだ。先鋒に立花
三太夫・足軽頭安東五郎衛門、同石松安兵ヱ、同千手六之允(ろくのすけ)中軍の大将
に猛将小野和泉鎮幸を置き、後軍には若い立花右衛門太夫鎮実、次男善次郎親雄、新田
兵右衛門、矢島左助などを置いた。


52: 名無しさんAA:19/03/09 05:55
 柳川 銭紋  49

「安東五郎右衛門尉合戦注文写」と「小野和泉守合戦注文写」の掲載資料では、この戦
いに江島氏一家が参戦し戦死している。江嶋市郎と江嶋又太郎が戦死し、江嶋善兵衛・
江嶋孫六・江嶋善九郎・江嶋彦右衛門尉らが刀傷や鉄砲傷で重症を負っている。この時
の江上合戦において、江島氏は一族を二つに分け、江島宗家当主、江島彦右衛門一族は
従来通り小野和泉守の与力として参戦。もう一方の一族は江島村の知行主である安東五
郎右衛門と安東摂津之介親子の与力として参戦したようだ。江嶋彦右衛門の小野和泉守
との関係は、記録で見る限り、文禄・慶長の役から関ケ原の大津城攻め、江上合戦に至
る迄終始一貫して、与力として行動を共にして来た。一方、安東五郎右衛門の与力とし
て参戦した江島氏の主体は、主家を失った元蒲池家家臣の江島氏ではなく、江島村の中
の江島宗家であった。江島氏は立花和泉守が蒲池城主となった事でいち早く臣下となっ
た一人だ。また小野和泉守は立花道雪に仕える前は大友氏の直参で、同様に江島氏も同
格の大友氏の直参で、古くから見知った関係でもあった。しかし、江島宗家は面子もあ
りそうはいかなかった。江島宗家は、安東五郎右衛門と安東摂津之介親子の与力として
古くから、廻船業問屋的な働きで活動で収入を得て、蓄財があった、知行は無く、家臣
や郎党をかなり抱えていた。蒲池家や龍造寺配下であった江島庶流が主家を無くして、
江島村の江島宗家を頼っていた事は十分考えられる。「立花親成(宗茂)知行宛行状写
」の文禄5年の書物では、三潴郡内、江嶋村501石余、高津村180石余、山門郡塩塚村17
石余、合計七百石を、「安東摂津介」が持っている。「安東摂津介」の他の知行記録で
調べても、天正15年、三潴郡8ヶ所、山門郡3ヶ所 合計19町4反とあり、その中に
は、当然三潴郡の知行地の江島村は含まれてはいない。その後文禄2年朝鮮役の功で、
13町を加増されていて、計50町3反28歩とあります。宛名は「安東津介」とあり
津介は摂津介とは、同一若しくは親子の人物と見られている。またこれには知行地名の
記載がない。文禄4年の太閤検地では、江島村の総石高は819石6斗6升とされており
、翌5年には安東摂津介は江嶋村に501石余の知行していたとされる。つまり江島村
に500石その他に300石を知行していたのだ。このように主家を失った者を家臣に
加えて、戦乱期に一族郎党を二手にわけることは容易であったと考えられます。では、
この安東五郎右衛門尉とは何者か。安東五郎右衛門こと「安東範久」は安東家栄の弟に
なります。安東摂津介(津介)こと「安東幸貞」は安東家栄の四弟で、二人は兄弟だ。
しかも五郎右衛門に男子がなかったのか、摂津之介は五郎右衛門の養子になっている。



53: 名無しさんAA:19/03/09 06:12
 柳川 銭紋  50

 二人は実の兄弟であり、義理の親子という関係なのです。安東摂津介(津介)こと「
安東幸貞」は安東家栄の四弟で、二人は兄弟です。しかも五郎右衛門に男子がなかった
のか、摂津之介は五郎右衛門の養子になっています。二人は実の兄弟であり、義理の親
子という関係なのです。安東五郎右衛門は道雪、宗茂と仕えた譜代の家臣であり、家中
でも指折りの豪の者として知られる武将でした。当然ながら摂津之介は五郎衛門と良く
行動を共にしていた。坂本神社が再建されたのは、立花氏が最初に筑後の領主であった
時代と見ておりますが、現在の時点で再興した人物は「十時摂津守連貞」ではなく、「
安東摂津介幸貞」であったと思われる。「久留米藩寛文十年社方開基」では天正13年
「立花左近」様の家臣「十時摂津守」殿が再興したとありますが、この再興の年には、
大いに問題が残り、再興した人物は「十時摂津守連貞」ではなく、「安東摂津介幸貞」
であったのだろうと推測される。「現江島氏には、家譜が存在しない為「諱」を確認す
ることが困難ですが、江戸期に柳川藩士として江島家再興を果たした一族(彦右衛門と
の血縁も濃いと考えられる)」とされ四代の「諱」の通字は「幸」だった。という。摂
津介と和泉守、彦右衛門と和泉守、共に両者の関係は主従関係ではありませんが、尊敬
する者から「偏諱」を貰うという事はあったのかもしれません。南関には十時氏跡があ
る。平家狩時代に田尻氏や大津山氏が攻められた時、地元の者が夜明けと共に敵を蹴散
らして大勝を得たと言う話でその時鬨の声をあげて勝ちに導いた者に十時の姓をあげ、
更に冬の椿の花から妻夫木の姓を与えたというものである。これは炭鉱節の「山越えて
何ぼ綺麗に咲いたとて寒椿は見る者が居なくては寂しかろう。」の歌の元になったと言
われる。この十時氏が旧姓小野家の者だったのはあった事は当然だろう。安東摂津介は
小野和泉守鎮幸との関係が深かったのかもしれません。そして江島氏が安東氏の与力と
なったのは、案外小野和泉守の働きかけがあったのかもしれない。安東摂津介の諱は、
「幸貞」で、資料で見る限り安東一族で「諱」に「幸」の文字を使用していたのは摂津
介だけという。しかし、宗氏の替紋「丸に平四ツ目」が筑後江島氏の定紋と同じであり
、対馬・江島氏が古(いにしえ)60人と呼ばれる、宗氏の御用商人であった事が解っ
ている。朝鮮語に堪能な事から朝鮮の役では従軍通詞として活躍した事も確かである。
この江島氏と共に内山田氏がいたようだ。内山田氏は日本初の活版印刷の印刷所を長崎
で開業していた。と伝えられる。戦国時代からキリスタンと仲がよかったのだ。さらに
「丸に平四ツ目」は、伝統的な十字架の紋であるのは確かだろう。室町時代の『見聞諸
家紋』によれば、9家が目結紋で載り、飯田氏、二松氏が「三つ目」、佐々木氏、椎屋
氏が「四つ目」、斉藤氏、本庄氏が「九つ目」、ほかに、能勢氏「十二目結」、本間氏
「十六目結」、武藤氏は「寄懸目結(よせかけめゆい)」という。佐々木氏族では、六
角氏が「隅立て四つ目」、京極氏は「平四つ目」、近江寺村氏は「丸に隅立て四つ目」
を使用した。しかし「平」と「四つ目」は京極氏か六角氏かとなる。


54: 名無しさんAA:19/03/09 06:26
 柳川 銭紋  52

 こうした文禄の役(1592)よりも20年遡って元亀3年(1572)の対馬・江島氏が活
躍した史料はかなり貴重である。江島彦右衛門が和泉守の手の者となった経緯は不明で
すが、江島氏が立花宗茂の家臣に正式に取り立てられる為には、武功をあげる事が必要
条件で、立花氏の家臣団の中でも勇猛随一の人物として、数々の戦功をもつ小野和泉守
の下について行動することは、最も早道であったと推察できる。彦右衛門が江島氏存続
のキーパーソンとして小野和泉守を選んだとしても何の不思議もない。江島吉左衛門が
筑後江島氏の本家筋の人物であることを証明する史料が、「柳河藩享保八年藩士系図」
である。この資料によって江島吉左衛門の人物像と足跡がかなり判明出来たのである。
この系図によれば、享保八年藩士であった江島繁之丞幸繁の曾祖父 江島幸利の名乗り
(通称)が当初は四郎左衛門で次が吉左衛門です。幸利の次男幸親(幸繁の祖父)の名
乗りも吉左衛門です。この藩士系図に書かれた年代から推測していくと幸利が慶長15年
(1611)に朱印船貿易を行った江島吉左衛門では年齢的に無理がある。つまりそれは、初
代吉左衛門の子で二代目が同じ「吉左衛門」を名乗ったのであれば、辻褄があう。何故
、幸利が当初「四郎左衛門」を名乗っていたか、それは初代吉左衛門がまだ存命であっ
たからだと推測される。こに青木島周辺の開発で記録に残る四郎丸村の住人、江島四郎
左衛門が開発に着手するのが慶長6年(1605)頃で、開発終了後藤原正喜と改名している
。江島四郎左衛門は本家筋の人物であり、先祖代々由緒あるその名を貰って四郎左衛門
と名乗り、初代吉左衛門が引退するか、亡くなった後、二代目吉左衛門を襲名した。と
考えられる。もともと肥前後藤氏は藤原利仁の末裔を称する。東北平泉における前九年
の役の戦功により武雄の地を与えられたといわれ、平安時代末期以降、代々武雄の地を
領してきた部族であった。後藤 貴明(ごとう たかあきら)は、戦国時代から安土桃山
時代にかけての武将だが、肥前後藤氏第19代当主(武雄領主)となっている。彼は、
大村純前の庶子とされ、この頃色々な名字や姓が当たり前だったようだ。庶子とは妾の
子で外子である。当時相続が大きく意味をなす社会においては、跡継ぎの確保が必要で
あった、一門の繁栄という観点から。相手は側室等の、多くの政略結婚が影響力や財産
の確保を目的として行われた。ただ家同士のつながりにより行われても、正室の子のみ
が嫡子であり、相続を受け継ぐまで側室の子は只の兄弟であり、用が無いと庶子として
外に出され家老の養子となって育つ。又身分差などで結婚できないとき相手は愛人で妾
等などであり、そうした家の外の子は非公認であり庶子である。又聖職者等、父親が妻
帯できない職業の場合も庶子だった。


55: 名無しさんAA:19/03/09 06:27
 柳川 銭紋  51


朝鮮送使国次之書覚(ちょうせんそうしくになみのしょおぼえ)は元亀3年(1572)か
ら天正3年(1575)三月迄の、朝鮮渡航の船隻を記録したもので、朝鮮通交の名義人や
実際の行使者名が記されています。「同月二十四日に以上船数七隻渡海候、両御奉行よ
り召され候て、船の見様、御指南を得候。船数の事。」と朝鮮に来た船の数を出せとい
う中には、一、 古屋惣左衛門、一、 江嶋善左衛門、一、 阿比留三郎右衛門一、 三川
藤神助、一、 長富玄播助、一、 財部木工助、一、神埼善右衛門の7人を貿易する豪商
として上げている。この時の七隻の船主の一人に江嶋善左衛門の名があり、他二隻にも
それぞれ江島氏の名があります。おそらく助左衛門は善左衛門の代行として船に乗り込
んだのでしょう。この時又右衛門は上官人とありますので、役人として乗り込んでいま
す。有力商人が代官となる事もありました。この二人が荒波の玄界灘を颯爽と乗り渡る
様が眼に浮かぶようだ。こうした貿易船で御用商人達に与えられた特権には、送使船一
隻につき、宗氏が行う公的取引から最大800両(現在の金額換算で約1億円)の利益
が自動的に得られたと言われている。通行税や取引税である。しかし同時に私的貿易を
行う事が許されていますから、一航海で、さらにその数倍もの利益があったと言われて
いる。ちなみに江戸初期には対馬藩は公的取引で年間15万両の利益を挙げて藩財政を
賄っている。こうして朝鮮との貿易は宗氏と商人達に巨額の利益をもたらしていたのだ
。朝鮮送使国次之書覚が書かれた元亀3年は、織田信長が浅井長政を攻め滅ぼし、武田
信玄が遠江、三河を攻撃し徳川家康を攻めた年です。まさに戦国時代真っ只中で、この
城島地方の武士は、織田信長、武田信玄、上杉謙信が活躍していた時代を尻目に、貿易
船を出していた。九州では大友宗麟、島津義久の時代である。永禄七年(1564)の下田
城攻めの記録に筑後江島氏の名前が登場し、元亀3年(1572)から6年後の天正6年に
(1578)春に、天下布武を目指す織田信長が九州攻略の為、九州の諸大名や城主を調べ
させた時の文書に、大名格の国人領主等と共に筑後国三潴郡江島城主「江嶋修理亮鎮村
(しゅりのすけしげむら)の名が登場するなど、この頃から江島氏の記録が増えている
。これらの事象はこの時期、筑後江島氏が力を蓄えて、それなりの勢力を持ち始めたと
いう証でもあります。その背景には対馬・江島氏との商業ネットワークによる輸出入品
の売買、貿易事業への投資による利益の蓄積が潤沢な軍資金となって、武具や馬、船を
揃え、多くの将兵を養う事が出来るようになったのではないかと推測されている。江嶋
善左衛門が、久留米商人の代表だったのは当然で江島家は高良大社のバックアップを得
て、城島の織物・柳川の密蝋・熊本の鉱物を扱った。阿比留三郎右衛門の阿比留氏は壱
岐対馬の通訳の代表として名が残る。安永5年(1776)旧松屋呉服店創業、松屋は文政9
年(1826 )古屋長吉が、甲斐国巨摩郡上教来石村(現在の山梨県北巨摩郡白州町上教来
石)農業古屋九左衛門の二男として出生し松屋を操業した。


56: 名無しさんAA:19/03/09 11:14
 柳川 銭紋  52

 こうした文禄の役(1592)よりも20年遡って元亀3年(1572)の対馬・江島氏が活
躍した史料はかなり貴重である。江島彦右衛門が和泉守の手の者となった経緯は不明で
すが、江島氏が立花宗茂の家臣に正式に取り立てられる為には、武功をあげる事が必要
条件で、立花氏の家臣団の中でも勇猛随一の人物として、数々の戦功をもつ小野和泉守
の下について行動することは、最も早道であったと推察できる。彦右衛門が江島氏存続
のキーパーソンとして小野和泉守を選んだとしても何の不思議もない。江島吉左衛門が
筑後江島氏の本家筋の人物であることを証明する史料が、「柳河藩享保八年藩士系図」
である。この資料によって江島吉左衛門の人物像と足跡がかなり判明出来たのである。
この系図によれば、享保八年藩士であった江島繁之丞幸繁の曾祖父 江島幸利の名乗り
(通称)が当初は四郎左衛門で次が吉左衛門です。幸利の次男幸親(幸繁の祖父)の名
乗りも吉左衛門です。この藩士系図に書かれた年代から推測していくと幸利が慶長15年
(1611)に朱印船貿易を行った江島吉左衛門では年齢的に無理がある。つまりそれは、初
代吉左衛門の子で二代目が同じ「吉左衛門」を名乗ったのであれば、辻褄があう。何故
、幸利が当初「四郎左衛門」を名乗っていたか、それは初代吉左衛門がまだ存命であっ
たからだと推測される。こに青木島周辺の開発で記録に残る四郎丸村の住人、江島四郎
左衛門が開発に着手するのが慶長6年(1605)頃で、開発終了後藤原正喜と改名している
。江島四郎左衛門は本家筋の人物であり、先祖代々由緒あるその名を貰って四郎左衛門
と名乗り、初代吉左衛門が引退するか、亡くなった後、二代目吉左衛門を襲名した。と
考えられる。もともと肥前後藤氏は藤原利仁の末裔を称する。東北平泉における前九年
の役の戦功により武雄の地を与えられたといわれ、平安時代末期以降、代々武雄の地を
領してきた部族であった。後藤 貴明(ごとう たかあきら)は、戦国時代から安土桃山
時代にかけての武将だが、肥前後藤氏第19代当主(武雄領主)となっている。彼は、
大村純前の庶子とされ、この頃色々な名字や姓が当たり前だったようだ。庶子とは妾の
子で外子である。当時相続が大きく意味をなす社会においては、跡継ぎの確保が必要で
あった、一門の繁栄という観点から。相手は側室等の、多くの政略結婚が影響力や財産
の確保を目的として行われた。ただ家同士のつながりにより行われても、正室の子のみ
が嫡子であり、相続を受け継ぐまで側室の子は只の兄弟であり、用が無いと庶子として
外に出され家老の養子となって育つ。又身分差などで結婚できないとき相手は愛人で妾
等などであり、そうした家の外の子は非公認であり庶子である。又聖職者等、父親が妻
帯できない職業の場合も庶子だった。つまり子供でも嫡男嫡子と庶家庶子では、例え我
が子でも、殿様が如何にしようとも、大きな違いがあったのである。

57: 名無しさんAA:19/03/09 11:33
 柳川 銭紋  53

 大村氏家臣団の中には、もともと跡継ぎであった貴明を追い出す原因となった純忠に
反発する動きがあり、純忠がキリシタンに入信したことによって、貴明によしみを通じ
る者が続出し、貴明は純忠としばしばその西洋化の在り方で対立した。『フロイス日本
史』にも、大村氏と敵対する立場でしばしば「後藤殿」として登場する。永禄3年に、
(1560年)、貴明は当時実子がなかったことから、平戸城主の松浦隆信から惟明を養子
に迎えている。永禄3年9月、長島庄の旧主一族である渋江公師(貴明の従兄弟)に守ら
せていた潮見城(武雄市橘町永島)は、有馬晴純の軍勢に攻められ奪取され、貴明は直
ちに出陣しこれを奪い返す。しかしこの時、家臣渋江公師は貴明の怒りに触れることを
恐れて肥後国に逃亡した。その後兵を募って同年12月、今度は須古城(白石町堤)を攻
めるが落とせず敗退する。永禄4年(1561年)には、塩田(嬉野市塩田町)を攻めて、
領主・原直景を降伏させ、永禄5年(1562年)、貴明は大友宗麟に秘かに書簡を送り、
翌年、同盟を結ぶこととなった。永禄6年(1563年)7月、貴明は大村家臣団と呼応し
てクーデターを起こさせ、自らも出陣して大村氏の平定を試みる。しかし大筒により敗
退し(野岳の戦い)針尾島に兵を出して佐志方城を攻め落とし、かつ、佐世保、日宇、
早岐、針尾島の四ヶ村を自らの領土とした。なおこのとき、貴明に呼応した横瀬浦奉行
・針尾伊賀守とともに、大村純忠が前年ポルトガルに提供した横瀬浦港も焼討ちしてい
る。(『フロイス日本史』によれば8月15日の出来事とされてる)。龍造寺隆信が武雄
の北方に迫った時、貴明は隆信と和議を結び、和議に従って龍造寺氏の先鋒で須古城の
平井経治を攻めるが失敗している。柳川の城門見回りの平井氏の本家筋である。今度は
、平戸の松浦氏や諫早の西郷氏と呼応して大村方の彼杵城を攻め落とした。これに対し
、同年8月、有馬・大村の連合軍が彼杵城に奪還を迫るも撃退される。こうして有明海
側の鹿島方面からは有馬軍が塩田に迫ったが、これも撃退した。永禄9年(1566年)7月
、後藤貴明は大村純忠を攻めるが大村奪取は失敗する。元亀元年(1570年)4月には、
ついに大友宗麟による佐嘉城(別名、佐嘉龍造寺城・村中城)の龍造寺隆信攻めはいり、
協力して包囲網の西方向から参陣する。このときは大友氏に服属していた諸氏のほか、
有馬氏、大村氏、西郷氏、平井氏も包囲網に参加し、龍造寺方5千に対して、大友方は
8万が囲んだ。龍造寺の敗北は必至と思われたが、鍋島直茂(当時の名は鍋島信生)に
よる赤熊祭りの風体の奇襲により大友方は敗退してしまった(今山の戦い)。いまの面
浮流祭の起源である。田舎の農民にみたてて、祭りの風体で姉川城を叩いたのだ。難攻
不落とされたこの城も、この守りの兵の不備により、簡単にではないが落ちてしまった
のである。ここに不思議な後藤家の物語がある。つまり姉川城はこの戦国期に九州貿易
においての中心地であったのだ。後藤家は名の通り内藤の後にいた者だ。内藤家や武藤
家は朝廷から派遣された大宰府の次官で、大宰大弐に次ぐ官職として大宰少弐(だざい
のしょうに)と名乗った。鎌倉幕府では御家人の武藤資頼が任ぜられて以後に、武藤氏
の世襲となり、武藤氏は代々少弐氏を称するに至っていた。つまりこの武藤氏が「武」
の姓を貰った家人で後藤氏はその裏の商家としての名だったのだ。

58: 名無しさんAA:19/03/09 11:46
 柳川 銭紋  54

後藤 家信(ごとう いえのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将だが
永禄6年(1563年)、龍造寺隆信の子として誕生している実子である。しかし天正5年
(1577年)、後藤貴明の実子・晴明(後の龍造寺家均)を龍造寺氏へ養子に出す代わり
に、隆信の子・家信が貴明の娘・槌市と結婚して婿養子となった。つまり後藤家と更に
晴明と人身交換させられ兄弟婚を強いられた事になる。後藤家の晴明は後の龍造寺家と
して優遇されたが、本家家信は鍋島に押さえられた。肥前後藤氏20代当主(武雄領主
)となったが、天正12年(1584年)、島津氏・有馬氏連合軍との沖田畷の戦いにおいて
父・隆信が討ち取られ、出陣した家信も敗走したからだ。武雄の後藤山城(塚崎城)を
出て、要害の地である住吉城(武雄市山内町)に居を移した。なお『フロイス日本史』
によれば、隆信の死後、家信は何度もコエリュにキリスト教への入信を打診していた。
しかし、父・隆信や龍造寺家臣の戦死や兄弟からの家信への悪辣な仕打ちなどがあり、
気が狂って正常な判断ができなくなり、牢に入れられて監視を付される身となったてい
て自由な身ではなかった。と記されている。本来ならこの佐賀藩の藩主で佐賀城に入城
する身分だったが、武雄市山内町の住吉城に隔離された状態になって、幽閉された。こ
の住吉城(武雄市山内町宮野)は天然の要塞ではあるが川に挟まれた谷の窪地であり、
後藤山城(現武雄高校)の様な石垣のある丘陵地の城でない事からその事情が知れる。
瀬高清水山神籠石伝説では、昔「三井郡、高良山なるは、明治以前より、か(こ)うご
ういしと称せられ、此の遺跡、最も先ず学者に知られたるに因りて、後に處々ところど
ころに発見せられたるものにも、同名に称えらる。周防国、能毛郡、石城山にも類似の
ものあり」とある。として、この神域を兵と石で結界とした。と考えられている。事実
、神話でも「天照大神が天の岩戸に隠れた。天手力男命がそれを引き出した。その後大
神が二度と天の岩戸のもどれないよう、布刀玉命がしめ縄をその前に張った。」という
のが古事記である。この時兵を集めて壱万人に守らせた。と言う。この時守りに来た人
が西海人であった。とされる。この時守ったのが藤丸氏とされる。その後城に本丸二の
丸三の丸などと言う名に変わる前の丸が出来た理由だ。そしてその周りを後藤遠藤武藤
末藤が囲いその恩賞で名字を貰ったとされる。平安鎌倉期頃は佐賀大川の干拓地は連絡
取れる所までが末藤即ち後の松藤氏の所有だったそれより遠い所は遠藤氏とされた。で
は後藤とは最初から佐賀との境の江上や城島や神崎の周辺の者と言える。こうした後藤
家の本家が大和町鷹尾神社辺りに居を構えた貿易商であった事は良く知られていない。
鷹尾は、元々は古くからの商船運航の税の徴収や船の管理をした代官所の部落である。
船の荷物も町に高値で売らねば商売にならない。その為一時置き場として「瀬高」、つ
まり荷上げ所が必要だったのだ。大牟田に唐船の港ができた後でも その意味合いは強
く必要だった。山鹿灯篭で有名な山鹿でもそれは機能している。なぜ竜造寺氏を匿い、
鷹尾を守護武将で蒲池氏の家老の田尻氏が養育して縁を繋いだのか、それは後藤家の血
筋だったからだ。


59: 名無しさんAA:19/03/09 11:53
 柳川 銭紋  55

 かつて中臣鎌足は藤原氏を名乗った。彼が掴んだ天智天皇(中大兄皇子)からの信頼
はその後の藤原氏の繁栄の基礎となり、子孫である藤原氏の家系図を紐解くと藤原四家
(南家、北家、京家、式家)、そののちの五摂家(近衛家・鷹司家・九条家・二条家・
一条家)は公家社会では絶大な勢力を誇り、日本史上摂政の位に就いたのは藤原氏血族
だけで、関白も豊臣秀次以外は全て藤原氏血族で占められるほどだ。中臣鎌足は日本の
歴史上最初の女性天皇・推古天皇の時代(614年) 神祇官(朝廷の祭祀を行う官庁)の
長官・神祇伯(じんぎはく)中臣御食子(なかとみのみけこ)の嫡男として生まれた。
鎌足は幼少期から非凡な才能を開花させ「六韜(りくとう・中国の兵法書)」を暗唱し
、蘇我入鹿とともに、南淵請安(みなぶちのしょうあん)の塾の双璧と評されていた。
南淵請安とは、飛鳥時代の僧で、大和国高市郡南淵村(現明日香村)に住んだ南淵漢人
(みなみぶちのあやひと)と称される漢人系渡来族出身の知識人だったとされる。遣隋
使の小野妹子に従い高向玄理、僧旻ら8人の留学生、留学僧の一人として隋へ留学して
32年間もの間唐に住み、隋の滅亡(618年)から唐の建国の過程を見聞して、640年(舒
明天皇12年)に高向玄理とともに帰国し、隋・唐の進んだ学問知識を日本に伝える為に
、開塾したと言われる。中大兄皇子は中臣鎌子と請安の塾に通う道すがら蘇我氏打倒の
計画を練ったと伝えられる。権藤成卿によると、『南淵書』という本を著したとされる
が、現在では偽書と解釈されている。しかし、権藤成卿は『自治民政理』(昭和11年)
で、南淵書について次のように書いている。「予は先づ此に大化新政の本源を探求し、
南淵先生のことを略叙し、古今を一貫せる偉人の一班を、窺看することゝしよう。南淵
先生のことは、正史の表面には、中大兄皇子、中臣鎌足を従へさせられ、南淵先生の所
に至り、周孔の教を学ばんと請はせられた一節が見えて居る丈けである。併し、後世の
学者間に於て、古文献を渉猟せし林道春、貝原益軒等の時代に至り、先生を王仁の次に
置く様になつた。人名辞書に、推古朝隋に遊び、経術を以て称せられ、書百余巻を著は
せリ、其書今伝はらずとあるは、道春の考索を採録したものであらう。意ふに近江朝倒
覆の後、当時の事蹟が頻りに抹殺されたことは、疑ふべくもないことであつて、天智天
皇の御遺著百巻余、東寺に其目録を留めてある計りで、一冊も伝はつて居らぬ。南淵先
生の事歴及びその遺著の焚滅に帰したのも、此の時代に於ける、心なき官僚のなしたこ
とゝ考へらるゝ。但だ幸にも南淵書二巻が、制度家の秘籍として大中臣家に伝へられ、
元禄中同家の家難に依り、庶長子の友安と云ふ人が、筑後の蓮台僧正の下に隠れ、帰雲
翁と称し制度律令の学問を権藤宕山に伝へ、南淵書を授与したものである。」と書いて
いる。つまり『南淵書』を信じて居なかったが事情で全て焚書になったが筑後から出て
来て信じるに至ったが、なぜ中大兄皇子や中臣鎌子は詳しいのに南淵漢人は詳しくない
のであろうか。と問うのである。



60: 名無しさんAA:19/03/09 12:03
 柳川 銭紋  56

 また「予が家に南淵書を伝へたのは、宕山以後の事にして、宕山は柳川藩の安東省庵
に師事し、長崎に遊び明人鄭一元に就き漢音を学び朱舜水を引き、省庵との親交を結ば
しめ、後舜水は水戸侯に聴せられ、大いに修史上に貢献したことは、世間周知の事であ
る。それより宕山は、大中臣氏の伝を受け、制度律令の学を修め、漢唐三韓歴代の礼制
刑律の書を渉猟して一家の見を立て、処士を以て一世を終り、門人田中浩蔵に家塾を譲
りしが、浩蔵は宝暦中山県大弐事件の嫌疑を以て絶食して死し、幾もなく宕山の嫡孫寿
達も、高山彦九郎に親交ありし為め、幽閉中に死し、其子の延陵と云ふが家学を復興し
て、多数の子弟を養成し、養子松窗、遺子松門二人の代となつた。此時は安政慶應変革
の代に当り、学問を顧みるの遑もなく、明治維新を迎へたのである。松門は予が先考に
して、明治初年より文墨に隠れ、晩年に及び、予が支那朝鮮に来往せしため、特に南淵
書の校修を遺命して世を終りしが、千数百年間伝写を重ねたる本書は、誤謬錯訛甚しく
、其上蟲蝕敗爛の簡所多く、且つ支那朝鮮の史書に参較せねば、解釈されぬ処も尠くな
いので、纔に老学小沢打魚氏に依り、前後凡十年を費し、漸く読まるゝ迄に補修校訂し
た所、一条実輝公爵は、我家に於いても縁深き本書が卿等の努力に依り今日に至り世に
出(い)でしことは、彼のモーゼの書が石室を出でしよりも勝れる一大快事である。我
家の伝へに中興の祖と称する兼良公が本書を珍蔵せられしも 応仁の兵火に罹り焼失し
たので、之を終世の憾となし悲まれたと云ふことである。」と伝えている。つまり応仁
の乱で焼かれたとされた本書(南淵書)は千数百年間伝写を重ねて門人田中浩蔵に家塾
になった纔(わずか)に老子派の小沢打魚氏に依って、一条実輝公爵の後見で見つかり
発見をした。というのであるそれまでは、柳川藩の安東省庵にあって宕山によって守ら
れ舜水によって水戸藩にもたらされ田中浩蔵の家塾に来たと推測しているのである。と
なれば原本は柳川にあった。と言う事になる。それは何故かがここに又解かれている。
「権藤種盛は、文禄元年(一五九二)豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には見事に采配を振い、
手柄をたてるのであった。しかし、歴史は、秀吉のそれまでの恩に報いるために西軍に
かけた、種盛の子権藤伊右衛門種茂の前に、その流れを変えた。関ケ原の戦いである。
十八才で大阪方に参加した種茂は、戦い終って帰国の途中、東軍(徳川方)の黒田如水
が父と兄達を謀略をもって殺害した事を知り、しばらくは豊後中村に身をかくしていた
が、後に水田(現在の筑後市水田)に父と二人の兄を弔い、そのまま府中にきて住みつ
いた。と言う。ここに柳川が古代歴史書の宝庫として資料が山積みにあるのに、ことも
あろうことか、昭和や平成の時代になって、その多くが子孫を教育せずして無法の土地
政策にによって、墓も寺も、書物も遺物も、不幸にも福岡県は捨て去ったのだ。柳川の
誇りであったお堀でさえ埋めてしまい、鷹狩りの城主の地を勝手に売り買いし、城を燃
やし遺物の痕跡さえも辿られぬ様になった。要するに柳川人は今世紀最大の大馬鹿で、
福岡県人はそれに輪をかけた行政をする非人道ぶりなのである。


61: 名無しさんAA:19/03/09 22:52
 柳川 銭紋  57

 当時の三井の府中は、高良山蓮台院座主の(神領)であったので、諸侯が互いに管理
する安全地帯であった。種茂は、再三の立花氏(柳川城)の招きを断わり、武士を捨て
て医術を学んで、これより府中の「権藤氏」が末永く御井町にその吊を留めることにな
るのである。種茂の孫、栄政は祖父の親友柳川の碩学、安東省庵を師とし、明から長崎
に亡命して来ていた人について薬学を学び、さらに江戸に上って祖父の兄種賢について
診察術を学んだ後、帰郷するとたちまち、その医吊は広く四方にきこえ、諸候から招か
れたがすべて辞退した。その頃、高良山座主寂源を頼って京より逃れてきていた大中臣
友安が府中にいて、栄政は彼に「典制学」を学び、秘書、『南淵書』を授けられた。こ
の『南淵書』が後に昭和の初期の思想家に少なからず影響を与えた権藤家の末喬の一人
、成郷の『社稷国家論』へと発展していくのである。「社稷」とは、「社」は土の神、
「稷・稜」は五穀の神で、自然と共同社会(村落等の地域共同体)の恩恵に感謝する。
わかり易くいえば、昔の年寄りがよく口にした、「お天道さまにすまない」「世間様、
今日様に申し訳がたたない」などという、人間が日常正しくあらねばならない生き方、
姿勢を説いたのであった。栄政はその後、医業を長子の種栄(寿侃)に譲り、愛宕山の
南に、家塾を開き、「宕山」と号して幾つかの事業を成している。その一つには、当時
の座主寂源を説いて、高良山に大和杉六十余万本を植えさせた。また次男には、原野を
開墾させたのである。宕山の教える学問は、「我が道は、飲食、男女、衣服、住居にあ
り」として実用を旨としていた。それ以来、権藤家の塾は江戸時代初期から明治の終り
まで約三百年間、筑後地方における医学・経学(孔子の教えに基づいた学問)・史学等
の教育のかなめとして、人材育成に大きく貢献したのである。江戸時代において、人材
の多くは城下町や郷村の私塾出身者であった。私塾では、自分の力で生き抜く人物とな
ること、まさしく実地有用の人物を養成していた。宕山没後、塾はその高弟、田中宜卿
なる人物によって学統が継がれ守られていった。田中宜卿は医吊を玄白、夢庵と称して
、はじめは大阪で医者として開業していたが、府中に来て儒医学を宕山に学んだ。宝暦
八年(一七五八)徳川幕府は、尊皇首唱者の公卿十七人の官位を剥脱して、竹内式部他
二十人余を捕えて京都より追放したが、式部と親交の深かった宜卿にも、その事件の嫌
疑が及び、その後自ら十七年間居し、謹慎した。その間、宕山の孫、寿達に学問を伝え
、後食を断って没した。その墓は権藤家の墓地にあるが、墓石には 当時の幕府からの
追及を逃れるかのように、氏吊も記されておらず、享年も上詳のままである。宕山が秘
蔵していた『南淵書』は、宜卿の死後全国を転々としたが、大正初期になって宕山から
数えて五人目の子孫成卿の手に戻ることになるのである」と言っている


62: 名無しさんAA:19/03/09 22:52
 柳川 銭紋  58

『南淵書』の巻初にはこうある。「日本には古くから続く自然自治について明らかにす
る。古の民は自然に治まったのである。書籍が残っていないから詳しいことはわからな
い。しかし、飲食のこと、男女のことは人間共通の性質である。また死亡貧苦は人間が
つねに患うものである。その性質を生かし、患いをなくすことはみな自然に行なわれる
ことである。勧誘しなくても人が赴き、刑を与えなくても民が勤め励む。不思議で計り
知れない知恵が生まれ、家が海に近い者は漁をし、山に近い者は狩りをする。古語にあ
るとおり山に福あり、海に利あり。それぞれが天の分に従うとはこのことであるとして
、これが自治のもっとも大きな源とした。そして日本国の運営の方針としては、田と里
を整理して必ず約束を守り、民を治めること父母の子を愛するごとく、士を持つこと兄
の弟を愛するごとく、飢えたり寒がっている人を見たらその為に憂い、その労苦を見た
らそのために悲しみ、賞罰は身に加えるがごとく、税を取るのは己に取るがごとくせよ
」特に南淵先生は貧富の格差が外交の困難を招くことを例証されている。さらに南淵先
生は人類の祖はひとつだと説いている。それは中国北部の砂漠、北漠の地が起源であり
、どれほど時間が過ぎても人間としての性質に違いはない。」と書いている。少々、や
やこしいので話を変えよう、「元々は日本列島は、確乎たる支配体制、国家らしい国家
が存在しておらず、それを古(いにしえ)とし、統治機構らしい統治機構がなくとも、
自然に治まっていた事、自然自治≠ナあった。」「死亡と貧苦は人間が常に患うもの
である為自然発生的に祀りごとをして政治を行って来た。」「仏教的な解釈入れて「刑
を与えなくても、日本の場合は律令、「律」と「令」という基本法典を作れば、令(行
政令)が先に出来上がって、その後に律(刑法)が出来上がっても、東洋思想の道徳に
則って国を治める事が出来ると思う。と話している。この頃既に「万世一系」でその素
は中国大陸の中心の砂漠にある。と説いていたようである。小野妹子時代に渡って来た
渡来人とはその後、七姓漢人(しちしょうかんじん)とされた。応神天皇の時代に阿知
使主とともに日本に帰化した漢人は、朱・李・多・皀郭・皀・段・高の7つの姓があっ
た。単に七姓とも表記されるが、漢人族は大和国今来郡、のち高市郡檜前(ひのくま)
郷に住んだ。とされるがこれは嘘を取りつけたものだろう。漢人族は大和国今来郡と言
えば熊本の津に当たる。今の天草あたりから南になる。百済は『三国志』魏書東夷伝倭
人条の項目で狗邪韓国の後継にあたる金官国を中心とする地域は、三韓の弁辰、弁韓・
辰韓の一部、馬韓の一部に百済があったとしている。ここに大内氏が、わざわざ百済の
聖王の第3王子である琳聖太子の後裔と称した理由がある。


63: 名無しさんAA:19/03/09 22:56
 柳川 銭紋  59

 中臣鎌足は最初は皇極天皇(こうぎょくてんのう)の弟である軽皇子(かるおうじ)
に接近した。しかし、人物的にも能力的にも物足りず、次の人物を探したという。ある
日蹴鞠の会合で皇極天皇の息子である中大兄皇子と蹴鞠の会で面識を得て話が弾んだ。
蘇我氏に対して同じ志を持つ二人はすぐに打ち解けあい、密かに蘇我氏討伐の秘策を練
り上げていったとされる。中大兄皇子は舒明天皇(じょめいてんのう)と皇極天皇(こ
うぎょくてんのう)の間に生まれた舒明天皇の次男にして天皇家のサラブレッドだった
。兄は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)でこちらは母が蘇我馬子の娘であり、
蘇我氏が全面的にバックアップして天皇への階段を登っている。蘇我入鹿の方は古人大
兄皇子を天皇にするために、最大のライバルと見られていた聖徳太子の息子・山背大兄
王(やましろのおおえのおう)を謀殺し、政治を私物化したとされる。蘇我氏打倒の策
を練り、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏一族でありながら入鹿をよく思っていなかった
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)を味方に引き込んだ。反蘇我
氏の勢力を拡大して、645年7月に行われた三国の調の儀式(新羅、百済、高句麗か
らの貢ぎ物を受けとる儀式)の席上で蘇我入鹿を暗殺するに及んだ。翌日には、強力な
軍を持つ蘇我蝦夷を討伐のため法興寺に軍勢を集結させると、蝦夷は自邸に火を放って
自害、蘇我宗家は滅んだとされる。その後も蘇我入鹿に推されていた古人大兄皇子を、
謀反の疑いで討伐、朝廷の潜在的な対抗勢力を葬り、翌646年、天皇中心の律令国家
を目指す指針である改新の詔が出され、中大兄皇子と中臣鎌足は新政府の両輪となって
次々と政策を打ち出した。これが大化改新だった。その二卿制で政権を切り盛りしたが
、左大臣の阿倍内麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂と対立しますが、中大兄皇子は一
貫して中臣鎌足を支持し、蘇我倉山田石川麻呂と阿倍内麻呂は失脚し、また孝徳天皇と
中大兄皇子が対立した時でも、中臣鎌足は中大兄皇子の側近として事態を収拾している
。中大兄皇子と中臣鎌足は鎌足が死去するまで知り合ったときと変わらずお互いを支持
し続けました。こうして、中臣鎌足が病の床に臥せっているとき、見舞いに訪れた天智
天皇(中大兄皇子)は鎌足に対し、これまでの功績を称え官位の最高位である大織冠を
授け、内大臣に任じ、「藤原」の姓を贈り、この翌日に、中臣鎌足は55年の波乱の人生
の幕を閉じた。とされる。つまり藤原姓は、歴史上天智天皇がくれた物だったのである
。しかし、藤原鎌足亡き後、政権の中枢から退けられた。その後鎌足の次男藤原不比等
が藤原氏の権勢を盛り返し、再び表舞台に登場させ、平安時代には左大臣、摂政として
円融、花山、一条、三条、後一条の五人の天皇に使えた藤原道長が摂関政治を行った。
道長期に最大の寺院・法成寺を建立し、息子・藤原頼通は摂関政治の全盛期を作り出し
その象徴である平等院を建立している。華やかな皇族、貴族文化を後世に伝え、藤原氏
の家系図は隆盛を見せた。平安時代以降、摂関政治は衰退し院政や武士の台頭で藤原氏
の権勢は衰退しますが、公卿としての権威が衰えることはなく、公家社会で最高の家格
であり続けた。つまり藤の姓は鎌足にさえ死ぬ間際にまで貰えなかったし使えなかった
のである。


64: 名無しさんAA:19/03/09 23:01
 柳川 銭紋  60

その後天下の旺盛を極めたのは藤原道長である、彼の誤算は天皇家の誤算でもあった。
一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子の子として後一条天皇は産まれた。道長
にとって待望久しい外孫皇子出生はその後の一族の栄華の初花となった。三条天皇の崩
御によってそのまま践祚され、2月7日に数え8歳で即位した。幼帝のため道長が摂政と
なり権勢を振るい。道長の娘で叔母にあたる威子を中宮で、外戚の地位を藤原氏御堂流
以外に渡すまいという藤原頼通と母彰子の意向によりその中宮をそのままにした。この
時代には珍しく他の妃を持たず、皇子女は内親王二人のみで世継ぎの皇子には恵まれぬ
まま、数え29歳で崩御している。この頃治部省の次官である治部大輔制度があった。時
々治部大夫と書かれるが簡略誤記である。治部大輔の官位相当は正五位下として地方を
司る官位だった。治部大夫丞の略で治部大夫と表記だれた。治部省の判官(三等官)で
ある大丞(官位相当は正六位下)なり少丞(官位相当は従六位上)に任ぜられ、しかも
従五位下など五位に叙せられた場合、大夫といった言い方が可能となる。治部省は外事
・戸籍(姓名関係)・儀礼全般を管轄し姓氏に関する訴訟や、結婚、戸籍関係の管理や
訴訟、僧尼、仏事に対する監督、雅楽の監督、山陵の監督、外国からの使節の接待など
を職掌としていたと言われる。姓氏の訴訟に関しては解部が設置されて専任した。しか
し平安時代以降は姓氏に関する事項を扱うことは少なくなり、894年(寛平6年)になり
菅原道真の建白による遣唐使廃止以降、中国などとの正式な国交がなくなった。外国か
らの使節の接待もしなくなり更には、戸籍制度の解体で戸籍関係の職務も遂行不可能に
なって、もっぱら僧尼、仏事、雅楽及び山陵の監督を職務とすることとなったのである
。長官である治部卿は正四位下相当であるが、公卿が兼任する例が多かった。その一例
としては、藤原兼家が藤原兼通と関白の座を争った際に、負けた大納言兼家が右大将か
ら治部卿に降格されたという事件が挙げられる。つまり天皇の代理とされる関白の差配
で政治の実行部隊であった。道長がもっとも力を入れたのが、後宮政策で、次々と宮中
に娘を入れ、外孫が登位することで、不動の地位を得て、息子達の権力に及ぼしていた
。道長は、厚く仏教に帰依し、祖先を供養するために、宇治の木幡の墓地に浄妙寺を立
て、晩年には法成寺を建立した。宮中とは幕府の大奥の様な物でもっとも権勢を持って
いた。不比等の次男の藤原房前は参議となって、藤原北家の祖となったが、彼が九州を
支配しようと企て、天平勝宝2年(750年)第12次遣唐使の大使に藤原清河(ふじわらの
きよかわ)を任じた。なお、副使には大伴古麻呂と吉備真備が任じられた唐使にした。
奈良時代藤原北家の祖である参議・藤原房前の四男。唐名は河清(かせい)となり中国
の渡航で難破漂流し南方の驩州(現在のベトナム北部)に漂着し土人の襲撃を受けたり
、苦労している。遣唐大使として入唐し、阿倍仲麻呂と唐朝に仕えた。暴風や安史の乱
により日本への帰国は叶わず、在唐のまま死去したが、少し前に沖縄にも渡航している
。藤原氏と言う欲の強い人々が、こうして大和朝廷を蝕んでいった。

65: 名無しさんAA:19/03/09 23:15
 柳川 銭紋  61

天平時代には聖武朝前半の朝廷において圧倒的な権力を誇っていた藤原四兄弟が相次い
で亡くなった後、9月に従六位上から三階昇進して藤原広嗣が大宰少弐となって下向し
ている。藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)は、奈良時代に起きた内乱で、藤
原広嗣が政権への不満から九州の大宰府で挙兵したが、官軍によって鎮圧された乱とさ
れ、今一不明な内乱である。天平9年 (737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が
天然痘の流行によって相次いで死去し、代って政治を担ったのが橘諸兄だった。諸兄は
軍拡政策と天然痘による社会の疲弊を復興するため、新羅との緊張緩和と軍事力の縮小
政策を取った。また、唐から、帰国した吉備真備と玄ムが重用されるようになり、藤原
氏の勢力は大きく後退した。天平10年に (738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)
は大養徳(大和)守から、大宰少弐に任じられて、大宰府に赴任したと言う。この人事
は対新羅強硬論者だった広嗣を中央から遠ざけ、新羅使の迎接に当たらせる思惑が少々
はあったが、広嗣はこれを左遷と強く感じ、強い不満を抱いた。天平11年(740年)4月
に新羅に派遣した遣新羅使は、追い返される形で8月下旬に帰国したがこの内容が掴め
ず。憤った広嗣は天平12年(740年)8月29日、政治を批判し、吉備真備と玄ムの更迭を
求める上表を送った。この時、何故か同時に筑前国遠賀郡に本営を築き、烽火を発して
太宰府管内諸国の兵を徴集し闘う準備をした。軍縮によって官兵の動員には時間がかか
ると予測した広嗣は、関門海峡を臨む登美、板櫃(豊前国企救郡)、京都(豊前京都郡
)の三郡鎮に兵を増派を命令した。また、中央に広嗣の政治路線に同調する中臣名代、
大和長岡といった実務官人は少なくなく、挙兵に応じて在京の支持勢力がクーデターに
成功することに期待した。ともいわれる。9月、広嗣が挙兵したとの報が飛駅によって
都にもたらされると、聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍に紀飯
麻呂を任じて征伐を命じた。こうして、東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五
道の軍1万7000人を動員するよう命じた。翌日、朝廷に出仕していた隼人の24人に従軍
が命じられた。翌々日、佐伯常人、阿倍虫麻呂が、勅使に任じられ、朝廷は伊勢神宮へ
幣帛が奉納され、また、諸国に観世音菩薩像をつくり、観世音経10巻を写経して戦勝を
祈願するよう命じられた。こうして、朝廷では大野東人を将として1万7,000の兵で鎮圧
にあたることが整い、整い次第鎮圧に向かわせる。戦闘はほぼ7ヵ月に及んだが,広嗣
は捕えられて処刑され、鎮圧された。この結果、広嗣の出た藤原式家は一時衰えて南家
が台頭し、この後遷都が計画されて、玄ム、真備が左遷された。この時の藤原広嗣の子
孫とされるのが柳川の式家であるし大川の藤原家とされる。新しい政権は、知太政官事
鈴鹿王(長屋王の弟)、大納言橘諸兄(はじめ葛城王,母は橘三千代)、中納言多治比広成
らによって構成され、これに唐から帰国したばかりの玄ム(げんぼう)と下道真備(し
もつみちのまきび)(のち吉備真備)が参画し、その性格は反藤原氏的である事からある
意味、大きな政変劇だったのだろうとも言える。



66: 名無しさんAA:19/03/10 16:14

 大化の改新の功績によって天智天皇から「藤原」の姓を名乗ったのは、中臣鎌足が、
天智天皇から大和国高市郡藤原里を知行地と賜って、同時に藤原姓を賜わってからだ。
この後藤原氏は、奈良時代や平安時代(特に藤原道長の時)に栄華をきわめ、平安時代
の後期には朝廷の役職の大半を占めた。地方に下った藤原氏は、中央政界の藤原氏との
区別するため、「〜の藤原氏」と称した。佐藤、斎藤、加藤、伊藤など。その為「藤」
族の名字の後に付くのが「〜の藤原氏」の意味だとされる。つまり後藤氏は後(うしろ
)の藤原氏であり松藤は松(マツ)の藤原氏と言う事になる。だが藤丸氏は藤原氏から
子孫や家来ではなく、天皇から直接姓を貰った可能性が強い。実はこの丸の語尾は、こ
の地九州の最高神官の地位を意味する。つまり安曇の磯良丸の武神の子孫を意味してい
るのである。飛鳥時代の聖徳太子が生きていた時代に、聖徳太子は「天皇を中心にした
政治」を作り上げ冠位12階を作った。その聖徳太子が亡くって蘇我入鹿という人物が
天皇に代わって政治をし、この事態に危機感を覚えた中臣鎌足と、当時の天皇の御子息
であった中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害し、「天皇を中心にした政治」の完成となった。
この完成に「中臣鎌足」という人物が、中大兄皇子から「藤原」の姓を下賜され藤原氏
の祖となったのである。そして、中大兄皇子は皇太子の立場にありながら日本の政治に
深くかかわり、後に父の跡を継いで天皇となり、亡くなる前日に天智天皇を名乗った。
という。この天智天皇から授かったとされる藤とつく家名は朝廷内踏み絵として利用さ
れ、藤の家紋はその後の九州平定に大友氏が欲しかったものだとされる。中大兄皇子(
天智天皇)に接近し、まず蘇我倉山田石川麻呂の娘と中大兄皇子を結婚させて蘇我氏の
勢力分断をはかり、乙巳の変(大化の改新)後に軽皇子を孝徳天皇として即位させた。と
言う。こうして鎌足は内臣(最高顧問)になった。ただし内臣としての事績は、ほとんど
不明であり、正倉院に伝存する赤漆槻木厨子は百済の義慈王が鎌足に贈ったものである
。という記述などから外交面での交流が推定される程度だとされる。つまり天智天皇の
名も藤原の名もそもそもは死ぬ間際もしくは死んでからの名である。又その前の名中臣
の名も改革が成功し冠位を授かったからの名である。百済の義慈王(ぎじおう)は百済
の第31代最後の王(在位:641年〜660年)である。既に日本に逃れていたもので諱の
義慈からとられた。第30代の武王の嫡男である。『旧唐書』などには扶余義慈として現
れる。645年7月に行われた三国の調の儀式(新羅、百済、高句麗からの貢ぎ物を受
けとる儀式)の席上で蘇我入鹿を暗殺するに及んだ理由は、ここで新羅、高句麗の使い
に対して事件が起こった。とも取れる。百済滅亡は高句麗と共同し新羅を攻めていたが
、逆に唐・新羅同盟を成立させてしまい、660年に唐に滅ぼされた事による。

67: 名無しさんAA:19/03/10 16:14
 柳川 銭紋  63

 『北斉書』に真興として現れる新羅の24代真興王は、この時代に朝鮮半島を未曾有
の戦国時代としたと記している。彼の治績として特筆されるものは、積極的な対外戦争
と領土拡張を進めた事だ。541年より百済との同盟関係(羅済同盟)を保ち、548年に、
高句麗が百済に攻め込んだときには百済を助けた。がこれは日本との同盟によるものと
考えられる。645年 の蘇我入鹿の暗殺の後でも日本は朝鮮に進軍や援軍を送るものと思
っていたのだ。しかしもともと、皇極天皇は、中国の唐の長安に習ったような中央集権
国家を目指していた。そのためにも、飛鳥京の建設は不可欠と考えていた人物である。
ここに次期天皇の第一候補であった山背大兄王は慎重意見で立ちふさがっていた。既に
父の聖徳太子が同じ唐重視で、斑鳩に都を築きあげており、一族は、上宮王家と呼ばれ
、斑鳩を拠点としていた完成していたからだ。日本書記には、入鹿の父の、曽我蝦夷は
山背大兄王が襲撃された事を知って、「入鹿は実に愚かで横暴な悪事を行ったものだ。
」と、激怒したとされている。つまり誰も入鹿を止められなかったが、曽我氏も又この
行為を愚行に見えていたのである。これはまた入鹿も、皇極天皇の命に背けなかったの
だろうが本当に山背大兄王が襲撃を起したのかは疑問だ。その疑問は、皇極天皇が、山
背大兄王を討った入鹿になんのペナルティを与えていないばかりか、次の天皇として、
第2候補だった弟の軽皇子ではなく、第3候補で曽我の入鹿の従兄弟にある古人皇子を
後継者として指名している。当初は次期候補だった軽皇子は、入鹿のこの山背大兄王を
襲撃したことによって、年齢的にも、血筋的にも、最も近い皇極天皇の弟である軽皇子
は、完全に天皇からの朝廷から完全に脱落した。ここに「入鹿暗殺」の大きな動機が生
まれた。新宮であった中臣鎌足家は、代々、神道祭事を携わっていた。しかし、仏教を
報じた入鹿と対立し、中臣家にはないがしろにされ高い地位は与えられなくなっていた
。日本書記に鎌足が、「入鹿は、天皇と臣下の間の秩序を破り、国家を我がものとする
野望を抱いている。」と言った様に書かれるのはその為だ。しかし、皇極天皇は、飛鳥
京の建設に、労働力を集める必要があり「東は遠江国、西は安芸国に限って宮廷を造営
する丁を徴発せよ。」と命令したと日本書記に記述される。当時の日本において、豪族
が各地を支配して、天皇と言えども豪族の同意がなければ民の動員は難しいものだった
。思うように労働力の動員は難しい中で、入鹿は、天皇の宮廷を建設することには協力
せず、更に、自分の従兄弟の古人皇子が太子になったことで、「甘橿岡(あまがしのお
か)」に天皇の宮廷を見下ろすように、先に大邸宅を築いていた。この時、最も豪族の
中で力を持っていた入鹿が飛鳥京の建設に活躍したという記述は一切ない。つまり、こ
の時、皇極天皇は、その点当てにしていた入鹿に対して怒りがあったと言える。更に、
入鹿は、屋敷が完成すると、その大邸宅の門を「谷宮門(はざまのみかど)」と名付け
、自分の子供たちを「王子(みこ)」と呼んだといいます。「みかど」とは宮廷の門の
ことを意味し、「みこ」とは皇族の呼称です。こうした入鹿の振る舞いが、皇極天皇の
怒りを買い、皇極天皇の気持ちが軽皇子と中臣鎌足に優位に働いて行った。


68: 名無しさんAA:19/03/10 16:14
柳川 銭紋  64

 この皇極天皇が入鹿に怒りを持っている傍に、軽皇子は改革を実行するという手土産
を持って現れた。その当時、豪族が支配していた土地と民衆を、天皇が豪族を介さない
で直接支配できるという改革制度、いわゆる「公地公民」の提案である。つまり豪族の
持つ家賃や地賃収入に対して、関係なく朝廷が直接税を徴収する形だ。この制度によれ
ば希望する大規模な都の建設を行うことができる。これに大いに動かされた皇極天皇が
、軽皇子の提案に賛成したのは当然だった。朝鮮半島の3つの国からの貢ぎ物が届いて
、天皇に奉納される儀式の最中であったとされています。その場に立ち会ったのは、皇
極天皇、入鹿、古人皇子の3名と天皇の貢ぎ物を取扱う、石川麻呂と記述されている。
この石川麻呂は、中臣鎌足の仲介で軽皇子と組んだ人物で、こうして暗殺に及んだのだ
。日本書記には、最期に入鹿は、皇極天皇に「私に何の罪があるのでしょうか?」と聞
いたとされる。入鹿暗殺から2日後、皇極天皇は引退し、軽皇子が即位し、孝徳天皇と
なり中大兄皇子は、その後継者である太子となった。即位後、元号を大化に改め、日本
の律令体制の礎となった改新の理を発布します。その第1条には「大臣以下、豪族、村
長たちは民をすべて差し出すように」という公地公民を謳ったものでした。この孝徳天
皇(軽皇子)が、宣言した公地公民こそ、飛鳥京建設を目指す皇極天皇が待ち望んだも
のと言える。この入鹿暗殺の背景としては、入鹿が曽我家一門の繁栄だけを考慮してい
たという横暴さはあったと言えます。しかし「曽我」と言う名が現す様に木曽山麓での
地出で自分達のもの。と言う意味から原住民の豪族だったのだろう。しかし、以上のよ
うに飛鳥京建設ということを背景に、軽皇子の天皇への後継者争いの犠牲になった。と
いえる。入鹿暗殺をきっかけにして、公地公民の制度が出来上がり、天皇を中心とした
中央集権体制が出来上がっていくという意味で、日本の歴史上重要な位置付けだと言わ
れている。こうしてこれまで朝鮮応援が、豪族の合議制から簡単に朝廷のみの意向で出
来る様になった事で百済は安泰かに見えた。蘇我入鹿は、蘇我蝦夷(えみし)を父に持
ち、蘇我馬子(うまこ)を祖父に持つ飛鳥時代の権力者の家系に生まれた。暗殺後皇極
天皇は、真っ青になってその場から立ち去り、蘇我氏に味方しようとする人たちはいま
せんでした。翌日、もう終わりだと覚悟を決めた蘇我蝦夷は自邸に火を放って自害し、
蘇我氏の独裁は一気に崩れ去った。かつての蘇我馬子は、皇位継承と仏教保護の確執で
、当時の2大勢力の片方の物部氏と対立したが、蘇我氏VS物部氏の争いは、仏教を保護
したいと考えた聖徳太子とタッグを組んだ蘇我氏に軍配があがり、そして、蘇我馬子は
娘婿となる厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に据えて、ともに政治改革を推し進めていっ
た。こうして朝鮮半島と同じ思想的基盤を整えた形だったが、その後の歴史は違った。



69: 名無しさんAA:19/03/11 20:09
 柳川 銭紋  65

 かつて541年より百済との同盟関係(羅済同盟)を保ち、548年に、高句麗が百済に攻
め込んだときには百済を助けた新羅だったが、のちの24代真興王は、積極的な対外戦
争と領土拡張にでた。550年 の高句麗と百済との交戦の時には異斯夫を派遣し、両国間
の係争地である道薩城(忠清北道槐山郡)及び金幌城(忠清北道鎮川郡)を奪い取り、
次の 551年には居柴夫(金荒宗)らを派遣して高句麗領に侵入し、竹嶺付近を10郡の
都市を奪っている。(慶尚北道栄州市から忠清北道丹陽郡) 553年に、百済が高句麗から
取り戻したばかりの漢山城(京畿道広州市)を含む一帯を奪い、漢江流域に新州を設置
したのである。このことで百済との関係は悪化し、 554年には百済は、聖王が出て、伽
耶と連合して管山城(忠清北道沃川郡)に攻め入ったが、新羅は逆に聖王を戦死させた
。聖王は中国南朝と結び、また新羅・倭との連携を図って高句麗に対抗し百済の伝統的
な外交態勢を再び固めた。しかし、529年 には高句麗の安臧王の親征に勝てず、2000人
の死者を出した百済と伽耶の連合軍2万9千600を殲滅した。562年には異斯夫と斯多含と
を派遣して、伽耶を滅ぼし、洛東江下流域を制圧したのであるが、倭国の応援が無い為
といえる。541年 任那復興を名目とする新羅討伐を企図し、大和朝廷の介入を要請した
任那復興会議だが、時の舒明天皇は 641年崩御し、皇后であった宝皇女が即位した為に
(皇極天皇)却下され蘇我氏の専横は更に甚だしくなった。皇極天皇元年(642年)夏、
日照りが続いたため、蝦夷は百済大寺に菩薩像と四天王像をまつり衆僧に読経させ焼香
して雨を祈ったところ、翌日僅かに降った。しかしその翌日には降らなかった。が8月
皇極天皇が南淵の川辺で四方を拝して雨を祈り、たちまち雷雨となり、雨は5日間続い
たという。これにより人々は「至徳天皇」と呼んだ。蘇我氏が天皇家が古代君主の資格
である祈祷力比べで、天皇家が勝っていた。と後に書かれた史書の『日本書紀』が主張
している理由になった。百済の大和朝廷に対する要請は、百済主導の伽耶諸国連合体制
を承認することと、新羅に対抗する為の援軍の派遣であったが、天皇から武具や援軍が
送られたのは 547年以降のこととなる。ここで伽耶(大伽耶)の滅亡によって朝鮮半島
南東部が、すべて新羅の領域となったとする恨みが国内にあった。こうして三国時代と
なった後、新羅の武烈王は唐からの遠征を撃退した。勢いに乗った高句麗と伽耶地方を
80年ぶりに新羅から奪回し百済からの圧迫で疲弊し窮した新羅は隣国の支援を求めて、
王族の金春秋を高句麗や、日本に派遣したが、成果を挙げることはできなかったという
。ところが、突然に、648年になって、唐から派遣していた金春秋が、太宗の厚遇を
受けた。「特進」の正二品の地位が与えられ、新羅は支援を得ることに成功する。唐・
新羅の同盟の結成である。さっそく翌年、金春秋は息子の金文王を唐に残して帰国し、
唐の恭順を示すため、高宗の永黴元年(650年)からは、新羅独自の年号を廃止し、唐の
元号を使用し、日本の645年7月に行われた三国の調の儀式には、以降出席しなかっ
た。この朝鮮三国の朝貢外交の儀式でこの時に起こった政変が唐を動かしたのである。
新羅は隣国の支援を求め、日本に調停もしくは救援の兵を求めたにちがいないのは事実
であろう。この時の最高政治顧問の蘇我入鹿と軍の最高実力者の将軍蘇我蝦夷を倒した
のは、恐らくは派兵する答えをしたからであり、これに反対していた鎌足の謀反が唐に
伝え聞くに及んで唐・新羅の同盟の結成となったと言えるのだ。つまり日本が朝鮮に渡
らないのであれば、唐は進出しても良い。と言う考え方で役職を授けた。と推測される
。現にこの事件以降急速に百済は亡国となり滅ぼされるのである。正に兵力のない国が
無くなった理由は、他の国の外交使のいる目の前で混乱が起きて、拒否された事にある。

70: 名無しさんAA:19/03/11 20:12
 柳川 銭紋  66

 実は藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)はこの大化の改新によって百済から
亡命してきた者の混乱に抑えが効かなかった事象の事件なのである。大化の改新によっ
て課税が新たになった。その上朝鮮から貢物も無くなり、逃げてきた移民も多くなった
。こうした時に、藤原広嗣は大宰少弐となったが、日本の最初の怨霊の神官ともなった
。遣唐使達は、唐の最新文化を日本に輸入してくれた大変重要な遣使達ではあったが、
戦乱後に朝鮮で流行った天然痘という疫病も又、日本に持ち込んできていた。その為日
本においても流行り、737年、長屋王の変からわずか8年後、天然痘の大流行で不比
等の4人の息子は皆亡くなってしまう。まさに、栄華必衰。天然痘は、藤原4兄弟の他
、多くの官僚の命を奪って日本を混沌とさせていた。聖武天皇は、この緊急事態を受け
、天然痘により亡くなった幹部たちの欠員を補充する必要に強いられた。藤原不比等の
政権の末期から、日本は新羅に朝貢させることで安定した外交関係を築き、それを前提
とした軍事縮小を行って、経済的な余裕を持っていたのがひっくりかえっていた。続く
長屋王も軍縮路線を継承したが藤原四兄弟に討たれてしまい。藤原四兄弟は唐と対立す
る渤海と同盟し、唐を支援する新羅に軍事的圧力をかける外交方針を取って、軍事強大
路線に転じていた。それに伴い、西海道に節度使を置いて、大規模な演習を行うなど、
軍事拡張路線と兵の献上を協力に推し進めていた。代りに軍官を下向させた。これが、
天然痘の大流行を招いた。中臣 名代(なかとみの なしろ)はこの時代の貴族だった。
小錦上・中臣垂目の孫で、小山中・中臣島麻呂の子。官位は従四位下・神祇伯である。
水田水天宮伝説では、大和長岡(やまと の ながおか)は、大倭長脚足宿禰。(やまと
 ながあしのすくね)として奈良時代の下向貴族の明法家だった。初名は小東人。姓は
忌寸のち宿禰。刑部少輔・大倭五百足の子とされる。官位は正四位下・大和国造。若い
頃から刑名の学を好み、文章作成を得意としたという。既に、霊亀2年(716年)遣唐使
に請益生として随行し入唐している。それまで疑問とされていた中国事項について、在
唐中に多く解明したとされる頭脳明晰な能力者だったのだ。帰国後は法律を論じる者は
長岡に付き従い、教えを請うたという。養老6年(722年)『養老令』撰定の功労により
功田4町を与えられた。この時の位階は従六位上。天平9年(737年)神の宣託があった
と、一族の水守と共に宿禰姓を賜与され、他の同族は連姓に改姓した。また同時に正六
位上から外従五位下に昇叙の上、あしぎぬ20疋を与えされた。と言う。天平10年(738)
刑部少輔に任ぜられている。だが、しかし、天平13年(741年)藤原広嗣の乱において、
連座して流罪となったのだ。それでものちに赦免され、天平16年(744年)西海道巡察使
次官、天平18年(746年)摂津亮を経て、天平19年(747年)には従五位下に叙せられて
いる。孝謙朝から淳仁朝にかけて、 天平勝宝2年(750年)従五位上〜〜天平宝字7年(
763年 )従四位下と10年間に順調に昇進し、駿河守・紫微大忠・民部大輔・左京大夫
・河内守を務めている。


71: 名無しさんAA:19/03/11 20:12
 柳川 銭紋  67

 大和長岡(やまと の ながおか)は、大倭長脚足宿禰。(やまとながあしのすくね)
として、奈良時代の稀有の下向貴族の明法家である。しかし、彼の評価は、地方官とし
ては政治に仁恵がなく、部下の官人や人民はこれを患えたという。天平宝字8年(764年
)右京大夫に任ぜられるが、老齢のため致仕した。神護景雲2年(768年)賀正の宴にお
いて称徳天皇の詔で昇殿を許されるが、鬢髪は豊かで所作も作法を違わなかったことか
ら、天皇に年齢を問われ、80歳になったと答えている。これに天皇は久しく感嘆して自
ら位記を書き正四位下に昇叙した程だ。しかし、彼については多くの事象が不明である
。延暦10年(791年)施行された刪定律令24条の撰者の一人として、吉備真備と共にその
名が挙がっているほどの逸材なのだが不思議な事にない。見当たらないのだ。大倭長脚
足宿禰は、八女の土蜘蛛伝説の素になった人の名だった事が僅かに残る。藤原広嗣の乱
に連座して流罪となって、この地に来て稲作の増産に務め赦免となった。と考えられて
いる。長岡京市は、平安時代には、古典『伊勢物語』の主人公とされている在原業平が
晩年を過ごし、学問の神として知られる菅原道真が太宰府へ左遷される際、名残を惜し
んだ地と言われている。また、清少納言作の随筆『枕草子』等の古典にも登場する等、
深い歴史を持っている。 市名は長岡京にちなみ、長岡京の南部と一部市域が重なる。
隣接する向日市、大山崎町とともにタケノコの産地として著名な山間の地だ。光明寺を
始め、長岡天満宮やその境内にある料亭・錦水亭など、市内は風光明美な場所とされ、
しばしばロケも多い。海印寺(かいいんじ)は、京都府長岡京市にあった寺院。一説に
モウソウチクが初めて伝わった場所とも言われる。9世紀始めに平安時代前期の真言宗
の僧。空海の十大弟子の一人。道雄(どうゆう)によって創建された。とされる。かつ
ては朝廷や皇室の庇護を受けて栄え、周辺の村々を海印寺領とした時期もあった。10
の支院を持ち、年分度者2名が定められ、定額寺に認定された。平安時代後期には衰退
し、鎌倉時代には再興が図られるなどしたが、応仁の乱で罹災した。現在では、海印寺
十院と呼ばれたうち寂照院のみが残る。当時の海印寺は、現在の奥海印寺、下海印寺の
集落に跨っていたと伝えられている。だがこれも間違いであろう。もし孟宗竹(モウソ
ウチク)が最初に来た土地とすれば海印寺は再建された寺である。勿論真言宗など仏教
では無かった事だろう。事実在原業平が晩年を過ごし、菅原道真が太宰府へ左遷される
まで訪問したとするなら尚更である。ここが陰陽師氏の寺だったのであろう。そもそも
藤原広嗣は何故反乱を起こしたのか。天平9年(737年)朝廷において、圧倒的な権力を
誇っていた藤原四兄弟が天然痘(てんねんとう)の流行によって相次いで死んでいった


72: 名無しさんAA:19/03/11 20:13
 柳川 銭紋  68

ここに所謂神話の時代に、4代続いた架空の天皇と皇后の名前がある。
歴 代  漢風諡号  『古事記』の諡号    『日本書紀』の和風諡号
第12代「景行天皇」……大帯日子淤斯呂和氣天皇…大足彦忍代別天皇
第13代「成務天皇」……若帯日子天皇………………稚足彦天皇
第14代「仲哀天皇」……帯中日子天皇………………足仲彦天皇
応神の母「神功皇后」……息長帯日賣命………………気長足姫尊
宿禰(すくね)とは言えども、大倭長脚足宿禰。(やまとながあしのすくね)と言う名
は少なくとも簡単に付けられる名前ではない。そもそもが、宿禰(すくね)の呼称その
物が天皇からの爵位なのだ。皇極天皇は、重祚しており、斉明天皇(さいめいてんのう
)となって、 594年(推古天皇2年)には、既に寶女王(たからのおおきみ)として、
天皇になっている。はじめに、高向王(用明天皇の孫)と結婚し、漢皇子を産んだ。後
に(630年)に37歳で舒明天皇の皇后に取り立てられ、舒明天皇との間に、中大兄皇子
(のちの天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を
産んでのち (641年)に舒明天皇が崩御したが皇后はこの時48歳だったとされる。そ
の後に斎式を終えて2ヶ月経っても継嗣となる皇子が定まらなかった。そこで皇極天皇
元年 (642年)1月15日、 皇極天皇として即位した。とされる。『日本書紀』によれば
、天皇は古の道に従って政を行なった。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、
その子・入鹿が自ら国政を執った。と言う。つまり、聖徳太子が進めていた仏教布教の
奨励を、蕃神信仰(ばんしんしんこう)とまで批判して行かないものの旧来に戻して、
和の政治を求めたのである。しかし、此処に阿倍比羅夫が出てくる。『日本書紀』によ
れば、北方の蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送って「後方羊蹄
(シリベシ)」に至り、政所を置き郡領を任命して帰ったとある。さらに「幣賄弁島(
へろべのしま)」まで出兵し「粛慎(しゅくしん)」に勝利したと伝えている。現在、
樺太北部に住むニヴフがその末裔といわれる。中国文献中の粛慎には本来の満州東部に
住むツングース系民族を指すのだが、存在時期にかなりの開きがあることから日本書紀
に記されたこの「粛慎民族」とは異なるのではないか。とみられている。ニヴフは、樺
太北部及び対岸のアムール川下流域に住む少数民族。古くはギリヤークとも言われ、古
アジア諸語に分類される固有の言語ニヴフ語を持つ民族だ。アイヌやウィルタと隣り合
って居住していたが、ツングース・満州系諸族やモンゴル系民族などと全く別系統の中
の民族で、トナカイの放牧遊民である。有史時代は樺太の他の先住民ウィルタと同様、
古くは狩猟・漁猟をしていた。また近世には外満州の山丹人やウィルタとともに日本と
清の貿易の仲介(山丹交易)もしていた。とされ「ニヴフ」とはアムール川下流部では
「人」を意味する語であり、樺太東岸ではニグヴンというが、これも「人」を意味する
。アイヌでは樺太を「ニクブン」大陸を「スメレンクル」と呼んだ為、間宮林蔵は「ス
メレンクル夷」と記したが、これは樺太アイヌ語の「sumari(キツネ)」と、アイヌ語
で人をいう「クル」が合わさった「キツネびと」を意味する名称といわれる。ロシア革
命前はギリヤーク人とされ、「ギリヤーク」という名称はロシア語風に訛ったものであ
り、もともとは日本からは「ギリミ(吉里迷)」といったとされる。


73: 名無しさんAA:19/03/16 15:18
 柳川 銭紋  69

 実はこの北方狩猟民族は、日本の歴史上は度々大きな問題を引き起こす。元寇もそう
だが、この元朝にも厄介な存在だった。アムール川下流域から樺太にかけての地域に、
広く居住していた吉里迷(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)
の子孫であるシデ(碩徳)の遠征により1263年(中統4年)にモンゴルに服従したのだ
が、翌1264年(至元元年)に吉里迷の民は、骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が毎年の
ように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告している。ここで言う吉里迷は、
ギリヤーク(ニヴフ)、骨嵬(苦夷・蝦夷とも)はアイヌを指しているとする。しかし
現実には亦里于に関しては不明の為同じ森に小規模の単民族が複数いたと考えられる。
しかし、王朝が放って置けず、この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した。これがいわゆ
る「北からの蒙古襲来」(ニヴフや元朝の視点では「南からの骨嵬・亦里于襲来」)の
初めであり、西日本に対する侵攻(文永の役、1274年(至元11年))より10年早い襲
撃だった。日本でも刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に起こっ
た、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、
更に筑前に侵攻した事件だが、この「刀伊の来寇」とも称される海賊行為は度々あった
ものだった。「粛慎(しゅくしん)」という民族に関しては中国の史書にも同じ漢字で
記録されていますが、活動年代が違うため、その同一性については諸説あるが、兎も角
日本もその中国の用語を真似た。史実では中国の粛慎が紀元前まで存在していたとされ
粛慎の後も同じ地域に粛慎の末裔とされるユウ婁(ゆうろう。ユウは手偏に邑。〜5世
紀半ばごろ)や勿吉(もっきつ。〜6世紀末ごろ)、靺鞨(まっかつ。〜7世紀ごろ)
といった諸民族が入れ替わりに支配していた。中国側からは記録に残す名称が変わった
が、当の粛慎達は本質的にシベリアに住居していた。その為日本では、粛慎という古称
をそのまま使い続けていた。「粛慎(みしはせ:しゅくしん)」とその名の呼び名も今
や解っていない。『日本書紀』によると、日本人と粛慎の話は欽明天皇五544年にある。
『日本書紀』欽明天皇五年十二月条【原文】越國言。於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人
。乘一船舶而淹留。春夏捕魚充食。彼嶋之人言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。---
越国(こしのくに。現:北陸地方)の住民が言うには、粛慎の人々が船でやって来て、
御名部(みなべ。佐渡島北部)の海岸に停泊した。春や夏には魚を獲って暮らしていた
そうですが、佐渡島の住民たちは「あいつらは人間じゃない。鬼かも知れない」などと
恐れて、彼らに近づくことはなかった。『日本書紀』では、欽明天皇五年十二月条には
嶋東禹武邑人採拾椎子、爲欲熟喫。着灰裏炮。其皮甲化成二人、飛騰火上一尺餘許。經
時相鬪。邑人深以爲異、取置於庭。亦如前飛相鬪不已。有人占云 「是邑人必爲魃鬼所
迷惑。」不久如言被其抄掠。------と書かれる。


74: 名無しさんAA:19/03/16 15:18
 柳川 銭紋  70

ある時(粛慎の人々が滞在中)、佐渡島の東部にある禹武(うむ)村の住民がドングリ
(椎の実)を集め、煮て食べようと灰の中で炒って(灰汁抜きのため?)いたところ、
ドングリが二粒、それぞれ小人の形になって一尺(約30センチ)ほども飛び上がり、互
いに喧嘩を始める、という怪現象がありました。「これは何かの異変に違いない!」と
占ってもらったところ「この村の者はやがて鬼に惑わされるであろう」という結果が出
て、間もなく禹武村は略奪に遭ったということです。
『日本書紀』欽明天皇五年十二月条【原文】於是肅愼人移就P波河浦。浦神嚴忌。人敢
近。渇飮其水。死者且半。骨積於巖岫。俗呼肅愼隈也。------
 この禹武村での略奪が、御名部海岸にいた粛慎による犯行なのか、その因果関係は判
りません。前述で「春と夏は魚を獲って暮らしていた」ことが記されて、秋から冬にか
けて魚があまり獲れなくなり、飢えた粛慎の人々が禹武村まで遠征・略奪した可能性も
、両地の位置関係次第ではありえなくもなく、彼らが四季を理解していたとは思えない
。やがて粛慎の人々は舟で瀬波河浦(せなみかわのうら)という場所に移住するのです
が、恐らく村人たちが「あいつら(粛慎)の仕業に違いない!」と追い立てた結果であ
ろうともと考えられます。瀬波河浦は聖域だったようで、住民は神々を畏れてそれ以上
追って来なかったものの、孤立した粛慎の人々は食糧や水の確保もままならず、渇きの
あまり海水(浦の水)を飲んで次々と死亡。やがて死者は半分にも達し、その骨(亡骸
)は岩穴に溜まった(捨てられていった)ため、そこそ「粛慎隈(みしはせのくま)」
と呼ぶようになったそうだ。とこの物語は伝えている。ところがこの欽明天皇期は古墳
時代(6〜7世紀ごろ)、日本海を越えて交流していた北方異民族として「粛慎(みしは
せ)」についてであり、古墳時代の話がこの東北では死んで行ったが、他の沿岸部でも
起こった話なのかも知れないのである。「粛慎隈(みしはせのくま)」の話は『日本書
紀』から粛慎に関する記述がなくなりますが、次に粛慎の人々が登場するのが一世紀以
上が経過した 斉明天皇四658年。ここで猛将・阿倍比羅夫(あべのひらふ)が登場して
、三年間にまたがる粛慎討伐の始まるのである。阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ)は、7
世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将
軍・大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北は北海
道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。とされる。斉明天皇四には、 658
年、越国の国守である阿倍引田臣比羅夫が粛慎を征伐、戦利品としてヒグマ2頭、ヒグ
マの毛皮70枚を献上した。又、斉明天皇五では659年3月、阿倍引田臣比羅夫が粛慎を
征伐、捕虜39人を献上したとも言われる。随分と簡素な記録だが、翌斉明天皇六には
詳細な粛慎征伐の記録が残されている。660年の事だ。

75: 名無しさんAA:19/03/16 15:19
 柳川 銭紋  71

斉明天皇は阿倍臣(名前が明記されていない、恐らく比羅夫と思われる)に二百艘の船
団を率いさせて粛慎の討伐に派遣する。遠征の道中で蝦夷の軍勢を組み込みながらも、
阿倍臣らは大河(アムール河)のほとりに到着した。すると、渡島(北海道と推定)か
ら来ていた蝦夷が千人ばかり海岸にいて、その中から二人ばかりが阿倍臣の前に進み出
て「粛慎の大軍が私たちを殺そうとしています。お仕えしますので、どうか助けて頂け
ますようお願いします」と申し出てきた。話を聞いた阿倍臣は二人の蝦夷者に粛慎軍の
布陣や軍船の数を訊ねると、蝦夷らは粛慎軍の居場所を指して軍船は二十艘あまりであ
ると答えました。そこで阿倍臣は使者を出してアプローチを試みるも、粛慎からのリア
クションはありませんでした。もしかしたら、自分たちより十倍ほども多勢な阿倍臣の
軍勢に、恐れをなしたのかも知れません。そこで阿倍臣は次なるアプローチとして、色
鮮やかな絹や武器、鉄などを海岸に並べて置き、自分たちは少し離れ、粛慎に持って行
かせようとしました。暫く待っていると、粛慎の船から2人の老人が上陸し、並べ置か
れた絹などを観察すると、その一部を船に持って帰りました。「これでアプローチ成功
か」と思われましたが、再び老人がやって来て、持ち去った物品を元に戻して船に引き
上げていきました。随分とまどろっこしいやりとりですが「降伏すれば、これらの品々
をくれてやる」というメッセージだったのでしょうか。かくして交渉は決裂、その後も
阿倍臣は何度かアプローチを試みるも応じず、粛慎たちは渡島の一部といわれる弊賂弁
嶋(へろべのしま。渡島≒北海道の一部と言われるが、利尻島or奥尻島などと推定され
ている)まで退却し、砦(柵)に立て籠もったそうです。しかし、事ここに至っては、
阿倍臣は粛慎に対して宣戦布告、その立て籠もる砦を攻め立てたところ、やがて粛慎が
和睦を求めて来ましたが、阿倍臣はこれまでのアプローチに対する非礼に怒っていたの
か、これを拒絶し激戦の中で阿倍臣の部将である 能登臣馬身龍(のとのおみ まむたつ
)が戦死したものの、ついに粛慎の砦は陥落。粛慎たちは「最早これまで」と妻子を殺
し、(記述にないものの)自分たちも自決した。その後、粛慎はヤマト朝廷と和睦した
のか、粛慎征伐の動きは沈静化していきます。他にも『日本書紀』には阿倍臣が粛慎の
人々をもてなすエピソード(斉明天皇六 660年五月条)や、新羅国(しらぎ)からの使
者に粛慎人が随行していた記録(天武天皇五 676年十一月条)、持統天皇が粛慎人二人
に務広肆(むこうし。後の従七位下に相当)等の官位を与えたエピソード(持統天皇八
694年一月二十三日条)等が残されている。そして、持統天皇が粛慎人の志良守叡草(
しらすえそう)という者に錦の袍(ほう。上着)と袴、絹や斧などを下賜した持統天皇
十年(696年3月12日)を最後に、『日本書紀』からその姿を消したのである。



76: 名無しさんAA:19/03/16 15:28
 柳川 銭紋  72

 こうしたエピソードは、誰がどう捉えようが構わないが、問題はこの日本海が湖や池
の様に交易の道として運航していた現実である。近年日本海に北朝鮮の船が着いて問題
になっていたが、日本は四方を海に囲まれた島国で、その海を越えて多くの人やモノ、
そして文化が行き交ったことは、今も昔も同じである。斉明天皇在位5年(660年)に、
百済が唐と新羅によって滅ぼされた。この時百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質と
して日本に滞在していた百済王子豊璋を、百済に送っている。百済を援けるため、難波
に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に
備えた動きが起こった。しかし、遠征の軍が発する前に 661年に、当地にて崩御した。
この辺りの史実は詳しくは解らないが、斉明天皇崩御にあたっても、皇子は即位せずに
称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援、日本軍は
朝鮮半島南部に上陸し、白村江の戦いを戦った。しかし、白村江の戦い(はくすきのえ
のたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近
)で行われた、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との衝突だったが唐と新羅
の連合軍に完全敗北したのである。これまで6〜7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・
新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であったがこれを除去した
。この時倭国は任那、加羅と関係が深いことを示され。任那、加羅は、倭国から百済へ
の割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされた。475年に百済は
高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落し、その後、熊津への遷都によって復興したのだが
、538年 には泗批へ遷都した。当時の百済は倭国と関係が深く、倭国朝廷から派遣され
た重臣が駐在している。また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送り支援して
いる。しかし、日本から送られた人々は、背が低く足も短い倭人であり、朝鮮人からは
勇猛ではあったが頼りなかった様に見えたのかもしれない。続日本書記では、養老4年
(720年)正月23日 遣渡嶋津軽津司従七位上諸君鞍男等六人於靺鞨国、観其風俗。---
 渡島の津軽の津司(つのつかさ)である従七位上の諸君鞍男(もろきみのくらお)ら
6人を靺鞨国(粛慎)に遣わし、その風俗を視察させた。とある。 698年に高王により
建国された渤海である。武王の時代に唐や新羅と外交的に対立するようになり、これら
の勢力を牽制する目的で日本への遣使が計画されたようだ。武王時代、唐や新羅と外交
対立する。これらの勢力を牽制する目的で日本への遣使が計画された。これは軍事同盟
としての色彩が強い使節で、日本側も渤海が天皇の徳化により来朝したと捉え、渤海の
前身であるとされた高句麗の復興と理解し、使節を非常に厚遇した。この造船の責任者
の秦氏こそ、柳川の秦氏の起こりとされる。つまりこの辺も大川も三潴も大木が多くあ
って船大工が居たと言う事になる。白村江の戦いと柳川との関連は多くあろうが、今や
伝習館に残されていた遺物すら残っていない。



77: 名無しさんAA:19/03/17 15:22
 柳川 銭紋  73

 翌年早々に遣渤海使を派遣している。一般的には第1回の遣渤海使はこのときの遣使
を指す。新羅との関係が特に緊張していた期間(758年〜763年)に、ほぼ毎年、使者が
往来し、759年(天平宝字3年)には恵美押勝が渤海の要請によって、軍船394隻、兵士
4万700人を動員する本格的な新羅遠征計画を立てられた。この遠征は、後の孝謙上皇と
押勝との不和や渤海側の事情の変化等によって中止された。その後文王が唐との融和を
図る時代になると軍事的な意味合いは薄れ、専ら文化交流と経済活動を中心とした使節
へとその性格を変化していった。この交流は朝貢貿易の形態を取り、渤海からの貢物に
対して、日本側では数倍の回賜でもって応える義務が生じ、多大な利益を渤海にもたら
した。反面日本側の財政を圧迫し、使節供応と回賜のための経費が無視できない規模に
なった後は、使節来朝に制限を加え、日本側からの遣使は中断した。しかし渤海側から
の遣使は渤海滅亡まで継続した。『延喜式』大蔵省式によると、遣渤海使の一行は、大
使、判官、録事、訳語、主神、医師、陰陽師、史生、船師、射手、卜部、雑使、船工、
梶取師、{人、挟杪、水手から構成される。こうした天平の甍人の中で注目されるのが
行基和尚であろう。奈良時代の日本の僧として、寺と僧侶を広く仏法の教えを説き、多
くの人々より篤く崇敬された。そして結局は行基集団を形成し、道場や寺院を49院、
溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、と、判明しているだけで数多くの土木工事をして
その土地に生活基盤を創った。国家機関を朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の
布教活動を禁じた時代に、その禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問
わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げたと言う
。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して、
逆境を跳ね返した。その後に、大僧正と言う最高位である僧正の位を行基が日本で最初
に授かり、聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘され
たのである。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。この行基伝説
が一番多かったはずが本当は筑後平野なのである。知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗
混合の宗教集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活
動したとされるが、行基の行績は本当の所解っていない。少なくとも奈良の大和王朝と
九州王朝の隔壁時代に奈良では活躍していない事は九州で足場を得ている筈は当然であ
ろう。公式には天智天皇7年(668年)に、父・高志才智、母・蜂田古爾比売の長子とし
て生まれ、天武天皇11年 (682年)に15歳で大官大寺で得度を受け、出家し法行と称し
た。


78: 名無しさんAA:19/03/17 16:24

  柳川 銭紋  74

 この行基法師は持統天皇5年(691年)24歳で 戒師の高宮寺徳光禅師のもと受戒して
飛鳥寺、次に薬師寺で法相宗を主として教学を学び名を行基と改め、全国行脚に出かけ
ている。ここに、朝廷は天智天皇、天武天皇、持統天皇と代っている。ここに大きな問
題がある。この奈良の大仏がつくられた時代には、遣新羅使(けんしらぎし)や遣渤海
使(けんぼっかいし)は盛んに送られていたが、ここらでは大和朝廷と九州王朝とが、
あまり仲がよくなかった事や朝廷内抗争が起こっていた事があるだろう。遣渤海使につ
いては、728年(神亀5)から811(弘仁2)年にかけて日本から渤海に13回にわたって
も派遣された公式の使節だ。日本と渤海(698〜926)との交渉は727年 渤海使来日に始
まり、翌年初めて遣使が行われた。渤海の来日目的は、唐と対立し、唐・新羅(しらぎ)
から挟撃された形勢を打開することにあったと言われ、日本も、新羅を避けて渡唐する
経路として渤海を利用するために派遣を開始したとしている。やがて渤海と唐との関係
が修復されると、日渤国交の性格も政治的なものが除かれ、経済・文化的なものへ変質
した。日本は絹糸、織物、漆などをもたらし、渤海からは高級毛皮、蜂蜜(はちみつ)、
高麗ニンジン、などがもたらされ、渤海使の来日は、なんと、919年(延喜19)まで34回
に及ぶほど多く続いた。しかしあまり日本の歴史の中で国家の基礎になったとは出て来
ない。続日本紀には、唐の「安史の乱」の情報が、天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(
758)年、遣渤海使(けんぼっかいし)の小野(おのの)田守(たもり)に よってもたら
されられた事が書かれていたり、多くの外国情報や産物の知見を与えて、その頃の核の
情報ルートだった事が垣間見える。小野田守がわざわざ「安史の乱」の情報をもたらし
たのは、偶然ではなく必然だった。小野田守は「安史の乱」の情報を得るために、わざ
わざ渤海(ぼっかい)に渡ったのではないかと考えられている。藤原仲麻呂は、この時
橘奈良麻呂事件で得られた「安史の乱」の情報の真偽を確かめる為、大陸にまで人間を
送り込む必要があった。藤原仲麻呂にとっての小野田守は、その任務を果たす事には、
一番に相応しい人物だった筈だ。小野田守の家柄は祖先が日本書紀によれば最初の遣隋
使(けんずいし)として名高い小野妹子(おののいもこ)である。ただし、隋書には、小野
妹子の七年前、阿毎(あま)多利思比孤(たりしひこ)という大王(天皇)が使いを送ってき
たという記録である。これを思えば小野田守は、外交筋のエリートであり彼が、「安史
の乱」の情報をもたらす5年前の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)5年(753)、2
月9日に、小野田守は遣新羅大使(けんしらぎたいし)に任命されている。遣新羅大使に
任命される前の、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(749)5月の記事に、大宰
小弐に任命された事が書かれ、大宰小弐の任官には、遣新羅大使に任命される前の役職
に戻された格好であった。

79: 名無しさんAA:19/03/17 16:25
  柳川 銭紋  75

 この時、遣新羅大使としての貢献があったもかかわらず、大宰小弐に戻されるという
のは左遷でしか無い。吉備真備の大宰大弐の任命にも左遷の意味があったように、小野
田守の大宰小弐の任命も左遷の意味があったと思える。実は天平勝宝5年(753)、
小野田守が新羅に派遣された時、新羅の国王は、小野田守の面会は赦(ゆる)されず、
小野田守は使者の任務を果たせないままに帰国したからだ。実は裏に、小野田守には、
思いもかけない事件があったのだ。遣新羅大使の使節として旅立つ数ヶ月前に、753
年の正月の礼拝の儀式に、大伴古麻呂(おおとものこまろ)は、唐の国での新羅の使節と
席次問題(せきじもんだい)で新羅より大切にされてない。と訴えている。これにより
新羅側では、唐での雪辱のため小野田守を使節として扱わないという報復措置をとった
のである。後の天平宝字(てんぴょうほうじ)4年(760)9月16日の記事に明記し
ている。つまり小野田守の遣新羅使失敗の原因は大伴古麻呂にあり、小野田守の遣新羅
大使失敗としての、大宰小弐(だざいのしょうに)への左遷の遠因は、大伴古麻呂にあっ
たのである。後ででも知った小野田守は、大伴古麻呂に対して大きく恨みを持っていた
事であろう。と思われる。こうして小野田守は吉備真備の大宰大弐の任命と共に、大宰
小弐に赴任(ふにん)して来ている事から、大宰府の事情にも詳しくあって、吉備真備と
も繋がりを持っていた。小野田守が、もしそのまま、ずっと大宰小弐の任務(にんむ)に
ついていたなら、楊貴妃の大宰府到着と吉備真備との面会も知る事になったはずだった
だが残念ながら、小野田守は、楊貴妃の馬嵬事変(ばかいじへん)の起る1ヶ月ほど前、
天平勝宝8年(756)5月3日、山作司(やまつくりのつかさ:御陵造り)に任じら
れて、隠すかのごとく都に呼び戻されている。こうして楊貴妃来日の事情には情報を持
たず、関与していなかった。外交筋の中で、大伴古麻呂などは橘奈良麻呂事件の首謀者
達も反抗心を持ち、大宰府と吉備真備の情報にも詳しい上、同時に、遣新羅大使失敗の
汚名を晴らしたいと考えていた。小野田守は、藤原仲麻呂にとっては、とても都合のい
い配置の人物であったはずだ。藤原仲麻呂は、小野田守に目をかけ重用し、橘奈良麻呂
事件のあった直後の天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)年の7月12日には、
小野田守は、軍事を担当する刑部小輔(ぎょうぶしょうほ)に任じられて軍隊の長となっ
た。遣渤海使(けんぼっかいし)に任じられたのが、その影に藤原仲麻呂の推挙と、強い
意思があった事は間違いない。天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)2月10日
、藤原仲麻呂は、再度遣渤海使(けんぼっかいし)に任じられ外交使に返り咲く。小野田
守を自分の屋敷に招き、饗応 (きょうおう)した事が、万葉集にも載っている。

80: 名無しさんAA:19/03/17 16:25
 柳川 銭紋  76

 この頃朝鮮半島では、統一新羅による、国を大切にする政治により、朝鮮半島に住む
人々には、民族としての一体感を身につけて行った。新羅の都である慶州(キョンジュ
)は、瓦ぶきの家が立ち並び、道路は石や煉瓦で敷き詰められ、また東洋で、一番古い
天文台である瞻星台(チョムソンデ)や、新羅の仏教文化を代表する仏国寺(ブルグッ
サ)芬皇寺(ブンファンジ)皇龍寺(ファンニョンサ)などが、豪華さを競いあって建
てられたとしている。こうして、大和政権も競い、東大寺や大仏をつくった。このよう
な新羅への対抗心があったからだとも言えるのだろう。だが、新羅と唐の連合軍によっ
て滅ぼされた百済の人々の多くが、倭の国に逃げてきていた。そして、倭の国づくりに
大きな役割を果たした。浮浪者に仕事を与える大工事が必要だったのだ。こうして建設
され、仏教が広く伝わったものの病気も連れてきていた。同じように新羅と唐の連合軍
によって滅ぼされた高句麗の将軍で大祚栄の中も病気が蔓延していた筈だった。699
年頃、振(震)の国を建国した。大祚栄(テジョヨン)を初代王とする振(しん・震)
の国の名前は「東方の日の昇る国」という意味で、同じ頃の倭が「日の出る国」の意味
で日本という国名を使い出したのと、殆ど一緒だ。韓国ドラマの大祚栄と違って、史実
では、713年に なると、振と唐の関係がよくなり、大祚栄は渤海王(パルヘおう)と名
のり、国の名も渤海と呼ぶようになった。この国の宮殿の建て方は、高句麗風で、仏教
が広まり、唐からは「海東の盛国(海を渡った東にある発展した国)」と呼ばれていま
した。最初の遣隋使は、聖徳太子が渡来人蘇我氏の一員として、隋と高句麗との争いを
心配して派遣したと考えられている。中国に派遣した留学生や留学僧は、高向漢人玄理
(たかむくのあやひとげんり)や僧旻(みん)、南淵漢人請安(みなみぶちのあやひと
しょうあん)をはじめほとんどすべてが、朝鮮からの渡来人、またはその子孫達だ。そ
の後、中国への使節よりも、はるかに回数も多く大きな成果を日本に持ち帰ったのは、
朝鮮への使節で、その為平仮名(ひらがな)と片仮名(かたかな)と漢字が流通した。渤海
使節は15回が確認され、新羅への使節は31回派遣されたと書物に書かれている。さ
らに、中国から日本へは使節がほとんど送られては来ていない。対して、新羅や渤海か
ら送られてきた使節からは国際情勢だけではなく、多くの進んだ学問や文化を日本は学
んだようだ。こうして三国の動乱による渡来人が倭の文化・技術形成に大きな影響を与
えた時代であった。この時九州はこの大和の動きに関係なく戦乱が起こっていた。隼人
族の北進である。大分にはそうした事で祖母傾岳に大きな災いがあったようだ。又火山
噴火や地震なども起こっていた。


81: 名無しさんAA:19/03/17 16:26
 柳川 銭紋  77

 この後に、遣新羅使と遣渤海使等が花形であった8〜9世紀の時代がやって来たので
あるが、7世紀になって、朝鮮からの渡来人の力によって、倭は国としての形が整い始
め更に、朝鮮や中国の進んだ文化や学問を学ぶ為にも、また朝鮮との関係や国のつきあ
いのあり方を調整する為に、多くの使節が日本から派遣された。と考えられる。最初の
遣隋使の聖徳太子が、渡来人蘇我氏の一員として、隋と高句麗との争いを心配して派遣
されていた。中国に派遣された留学生や留学僧の殆どが、朝鮮からの渡来人またはその
子孫だったので、中国への使節よりも、はるかに回数も多く大きな成果を日本に持ち帰
ったのが、朝鮮への使節であった事で文字の統一した使い方になっていない。渤海への
使節15回が確認されており、新羅への使節は31回派遣されさらに、中国から日本へ
は使節がほとんど送られてこなかったのに対して、新羅や渤海から送られてきた使節か
らは国際情勢だけではなく、多くの進んだ学問や文化が、周辺国から日本は学んだので
ある。この三国の動乱による渡来人が倭の文化・技術形成に大きな影響を与えた時代の
後に、まともな遣新羅使と遣渤海使等が花形であった8〜9世紀の時代がやって来たの
である。彼が厩戸王と言ったのは多分死んでからだろう。彼は仏教伝来とはいえキリス
ト教を連れて来た。と思われる。推古天皇のもとで、蘇我馬子と協調して政治を行い、
国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二
階や十七条憲法を定めるなど大王(天皇)や王族を中心とした中央集権国家体制の確立
を図った他に、仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめたとされている。
母が実母・蘇我小姉君の実家(おじ・蘇我馬子の家)にて出産したので馬子屋敷に因み
厩戸と命名されたとする説がある。つまり本名は他にあって外から厩戸皇子とよばれて
本人も快諾していたのだろう。他に豐聰耳皇子と書いてあるのでこれが実名かもしれな
い。橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)は、奈良時代の政変。橘奈良麻呂が
藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった事
件である。父である橘諸兄は、聖武天皇の信任を得て政権を担い、天平15年(743年)に
は従一位左大臣にまで昇進し、天平12年(740年)に聖武天皇が、諸兄の相楽の地に行幸
した際にも、奈良麻呂は昇進し、天平13年(741年)大学頭に任ぜられている。つまり、
彼は頭は良く慕われていたと言える。擁立を目指した安積親王が急逝して聖武天皇の皇
子がいなくなる状況下で、翌天平17年(744年)9月に聖武天皇が行幸中の難波宮で病気
に倒れると、阿倍内親王を皇嗣と認めない奈良麻呂は事変の発生を予想し、多治比国人
・多治比犢養・小野東人・佐伯全成らを勧誘して黄文王を皇嗣に擁立する動きを見せて
いる。これを藤原北家、参議・藤原房前の次男の藤原 永手(ふじわらの ながて)は、
奈良時代の金脈鉱山を握っていたが、金を送って公卿になり「何ゆえ政治が無道なのか
」と問いつめ、奈良麻呂は「東大寺などを造り人民が辛苦している」と答えた。永手が
「東大寺はお前の父の時代に造ったものだ。お前の言うべきことではない。」といった
と言う。賄賂の横暴である。


82: 名無しさんAA:19/03/17 18:11
 柳川 銭紋  78

 私は、この藤原 永手(ふじわらの ながて)こそ聖徳太子が連れて来た。もしくは、
別船で帰着したユダヤ人だったのではないかと考えている。この時本当に藤原氏が居た
かは疑問だがこの「ながて」と言う名に疑問がある。更に東北からふんだんに 黄金を
朝廷や天皇に送っている事だ。この技術は確かに古代でもあったとはいえ鉛や水銀など
が健康を害していてそう多くは産出出来ない筈だ。それを湯水のごとく使ったとなれば
ちょっと考えるに帰化人としか思えないのである。更に大仏建立を果たした中で文句を
いうなと言っているのである。天平9年(737年)藤原四兄弟の相次ぐ死去に伴って孝謙
天皇は群臣を招集し、天武天皇の孫を皇太子に立てるが、この道祖王(ふなどおう)に
対して聖武上皇の服喪中にもかかわらず淫らで勝手気ままな気持ちがあり、教え戒める
勅にも悔い改めることがなかった。ことを理由として、道祖王の皇太子を廃することの
是非を問うている。孝謙天皇の母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明
皇后(光明子)である。聖武天皇の正夫人の県犬養広刀自(あがたのいぬかい の ひろ
とじは子が一男二女をもうけた。県犬養宿禰の出自は県犬養氏で、中堅氏族と県犬養氏
の族長的立場にあった橘三千代の推挙があったと考えられている。不思議だが、先帝(
聖武)の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなし、先帝への服喪の礼を失した。宮
中の機密を巷間に漏らした。孝謙天皇がたびたび戒めても、悔い改めず、むしろ婦人の
言うことを好んで取り上げるなど、態度が改まらなかった。夜中に勝手に東宮を脱けだ
して私邸に戻ったりした。自ら「自分は愚か者で皇太子の重責には耐えられない」と述
べた。などで廃皇子して後、同年7月に橘奈良麻呂の乱が発覚し、奈良麻呂らが天皇に
擁立しようと画策していた候補者の中に、塩焼王・安宿王・黄文王とともに道祖王の名
もあったため、朝廷の兵士に右京の邸宅を包囲され捕縛された。道祖王は麻度比(まど
ひ=惑い者の意)と改名させられた上、同時に捕縛された黄文王・大伴古麻呂・多治比
犢養・賀茂角足らと共に杖で激しく殴打される拷問を受けて獄死している。先の天皇の
孫が名があがり捕縛され獄中で叩かれ死である。ちょっと日本的ではない。黄文王も又
名があがったとして久奈多夫礼(くなたぶれ=愚かな者)あるいは多夫礼(たぶれ=誑
かす者)と改名させられた後、杖で何度も打たれる拷問を受けて 獄死しているのだ。
天武天皇の後裔で、左大臣・長屋王の五男の安宿王のみは、天平勝宝6年(754年)に、
唐から渡来した鑑真を迎えるための勅使に任じられるなどしているからか、橘奈良麻呂
の乱が発生した際の謀反への関与を疑われても。尋問に対して安宿王は「黄文王の仲介
で事情がわからないまま謀議に参加させられた」旨の証言をするも嫌疑は晴れず、妻子
とともに佐渡に流罪となった。とされる。


83: 名無しさんAA:19/03/17 18:11
 柳川 銭紋  79

 百済王 敬福(くだらのこにきし きょうふく)は、奈良時代の公卿であったが執拗に
彼らをせめている。当時の聖武天皇は、東大寺大仏の建立を進めて鋳造まで終えていた
。しかし、巨大な仏像に鍍金するための黄金が不足し、遣唐使を派遣して調達すること
が検討されていた。全国に黄金探索の指令が出されていたが、日本では黄金を産出した
ことはこれまでなかった。天平18年(746年)4月に敬福は陸奥守を石川年足と交替して
上総守に転任する奇妙な人事が行われた。そして9月には従五位上へと加叙を受けて、
陸奥守に再任される。この可笑しな人事を皮切りに、乱の平定として捕縛が起こってい
る。この時に黄金探索の手がかりがあった可能性もある。また、陸奥では緊急の事態に
対応するために諸国から徴発した鎮兵を置いていたが、敬福はその他国からの徴発を突
然停止し、陸奥国内からの兵士を徴発して鎮兵に加える対応を行っている。その後この
対応は停止されたと見られるが、神護景雲2年(768年)になって他国出身の鎮兵に多数
の逃亡者が発生すること、鎮兵の食料を前線に運搬するための負荷が大きいことを理由
に、陸奥国内からの鎮兵徴発が復活している。天平21年(749年)になって、敬福は朝廷
に対して、陸奥小田郡で産出し黄金 900両を貢上していてた。既に産出していたのだっ
た。聖武天皇は狂喜して東大寺大仏殿に行幸し、仏前に詔を捧げると共に、全国の神社
に幣帛を奉じ、大赦を行っている。この功労により敬福は従五位上から従三位へ一気に
七階級特進し、産金に貢献した他田舎人部常世・小田根成も十階以上昇進して外従五位
下に叙せられた。さらに、年号は天平から天平感宝、次いで天平勝宝と改められている
。歌人・大伴家持は次のように黄金産出を寿ぐ。 「すめろぎの 御世栄えんと 東なる
みちのく山に、黄金花咲く」と謳う。確かな文献はないが、黄金を発見したのは、敬福
配下の百済系鉱山師ではないか。と言われている。日本最初の産金地とされ、小田郡の
金山は現在の宮城県遠田郡涌谷町一帯であり、同町黄金迫(こがねはざま)黄金山神社
は延喜式内社にも比定される。現代の調査でも黄金山神社付近の土質は純度の高い良質
の砂金が含まれている。なお、この黄金献上もあって、敬福は聖武天皇から大変な寵遇
を受け、多くの恩賞や賜り物を与えられた。こののち、10年余に亘って年間900-1000両
もの金が陸奥国司を介して朝廷に貢納されたと見られ、陸奥国から平城京に運ばれた計
10,446両もの金によって東大寺大仏が完成したとしている。こうして大仏開眼の法要が
営まれ、5月には敬福は常陸守に任ぜられた。左大弁を経て、天平勝宝9年(757年)に
は出雲守にも補せられている。これらの地方官への任官は実際に任地に赴かない遙任と
推測される。同年7月に橘奈良麻呂の乱が勃発すると、大宰帥・船王らと共に、衛府の
人々を率いて黄文王・道祖王・大伴古麻呂・小野東人ら反乱者の勾留警備および拷問の
任に当たっている。


84: 名無しさんAA:19/03/17 18:15
 柳川 銭紋  80

 2016年11月05日、中国の視界網は、「中国で死んだはずの楊貴妃の墓が、なぜ日本に
あるのか」と題する記事を掲載した。楊貴妃といえば、日本では世界三大美女、中国で
は古代四大美女として有名な歴史上の人物。唐代の皇妃で、756年6月14日に中国で亡く
なったとされている。しかし、その死には疑惑が存在する。記事は、「馬嵬(陝西省咸
陽市興平県)にも楊貴妃の墓があるが、なんと日本(山口県の二尊院)にも同じく楊貴
妃の墓がある。これはどういうことなのか。」と疑問を提起している。その上で、記事
は日本に伝わる伝説を紹介する。安史の乱の兵士らから原因となった楊貴妃殺害を求め
られた玄宗帝は、かばいきれずに楊貴妃を縊死(首つり)させたとされている。しかし
、時が経ち楊貴妃の改葬が行われた際には遺体の判別がつかず、お香の入った袋だけが
残っていたことから、「侍女が替え玉となったのではないか」あるいは「蘇生したので
はないか」といううわさが流れた。本人は日本に逃れたものの、ほどなく病によりこの
世を去ったというのだ。記事は、こうした説が浮上した理由について、楊貴妃が非常に
慕われる性格であったこと、玄宗帝と軍の間を取り持っていたのが楊貴妃の前夫である
寿王李瑁で手助けした可能性が十分にあること、楊貴妃を縊死させたとされる高力士と
の関係も非常に良かったこと、の3つがあると指摘している。さらに、「(楊貴妃殺害
を求めた)陳玄礼らがその死を確認した。」とされていることについて、中国国内でも
「陳玄礼が皇妃の殺害を迫るという不敬に兜を脱いで許しを請うた。」とされている事
から、遺体を確認するというそれ以上の不敬には及ばなかったのではないかとみている
。人間に首をつらせること自体容易ではなく、専門家もいなかったことから、内侍官が
意図したか否かにかかわらず気絶するにとどめ、人々が去った後に蘇生した可能性に言
及している。記事は、「もちろんこれは単なる一説にすぎず、中国と日本の記録は異な
る部分もある」としながら、「何が正しいかはわれわれには判断しようがない。こうし
た物語は、文学芸術に発展の余地を与え、世の人々に無限の希望と幻想をもたらしてく
れる。」としている。安史の乱の頃に第18皇子・寿王の妃となった楊玉環(後の楊貴妃
)に心を奪われた第6代皇帝・玄宗は、寿王から玉環を取りあげ、宮廷に道教寺院を建
てて二人して道教の修行に励んだという。歴史家の白居易(白楽天)が綴った長恨歌に
よると「午前中の政務は全て取りやめた」と記されるほど、玄宗は政務を怠るようにな
っていたと記録が残っている。貴妃が唐王朝の内乱を逃れて天草に渡っていたという伝
説は天草の地名の元と言われている。真実だろうか。この馬嵬事変の時、阿倍仲麻呂が
中国にいた。阿倍仲麻呂が、玄宗皇帝の長安脱出の時、その行列の中に混じっていた。
記録はないがしかし、この時、長安にいたのは確実で、脱出組の中にいたと考えて自然
である。日本に返したつもりの阿倍仲麻呂の処遇をどうするか、おそらくは、決まらな
いうちに安史の乱が起こり、政務は混乱をきわめて阿倍仲麻呂の他国の者の人事などは
、後回しになったのだろう。楊貴妃を助けた宦官の高力士(こうりきし)は、才も人脈も
あり、この阿倍仲麻呂に楊貴妃の行く末を頼み、まかせたのではないか。と言われる。

85: 名無しさんAA:19/03/17 18:16
 柳川 銭紋  81

 すこし、唐の「安史の乱」について語れば、時の第18皇子・寿王の妃となった楊玉環
(後の楊貴妃)に、心を奪われた第6代皇帝・玄宗は、寿王から玉環を取りあげて宮廷
内に道教寺院を建てて二人して道教の修行に励んだと言われる。つまり息子の正室を、
取り上げて宮廷内に別居し、楊貴妃とべったりの中になったのだ。この祖母となる武則
天が女性皇帝として君臨する武周時代、武則天は皇后で10人の子のうち6番目に位を
禅譲したが、それでも皇帝内皇位争奪戦は大きな内部争いのまま譲っていたので崩壊の
一途であった。 705年、20歳の時武則天は、中宗に禅譲する形で帝位を奪われた。武周
は消滅し、唐が復活したが、朝廷には隆基の叔母で武后の娘である太平公主や、武則天
の実家である武氏の一族の勢力が残存していた。中宗の皇后である韋皇后は、武則天を
まねて政権を掌握すべく中宗を毒殺した。韋皇后は代わって擁立した殤帝を傀儡とし、
自らに禅譲させようと企てていた。これに対し、隆基の従兄である皇太子李重俊が韋后
に対してクーデターを起こしたが失敗した。隆基はこれを教訓とし、太平公主と協力し
て慎重に韋皇后排除を計画、 710年に計画が実行され、韋皇后はじめ韋氏一族やその与
党をみなごろしにした。ここで武則天によりいったん廃位されていた睿宗が重祚して、
隆基はこのときの功績により皇太子に立てられた。睿宗がさきに在位していたときには
、隆基の長兄李憲(成器)が皇太子に立てられたが、李憲は弟の才能や功績を認め皇位
継承を放棄したため、皇位継承争いは生じなかった。隆基は即位後も兄に対しては常に
敬意を払い、臣下に「やりすぎだ」と批判されたほど臣下となった。その死後には皇帝
の位を追贈し「譲」と諡した。しかし隆基と太平公主との間には、主導権争いが発生す
る。これは 712年に隆基が睿宗から譲位されたのち、ついに太平公主を殺害して実権を
掌握したことで決着を見る。こうした中で生き残っていた玄宗は第6代皇帝になった。
当然武則天の後ろ盾である。彼が帝位に着いた頃は、治世の前半には、太宗の貞観の治
を手本とし非常に安定した朝廷になって素晴らしい政治であった。開元の治と称えられ
善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った
。とされている。白居易(白楽天)に長恨歌で「午前中の政務は全て取りやめた」と記
される頃は政務を怠るようになっていた。この間に王朝を運営したのは宰相の李林甫だ
った。しかし性格が陰険なため旧来の重臣を次々と失脚させ、強力だった軍事力は陰り
を見せた。李林甫の死後に実権を掌握したのは、楊貴妃のまた従兄の楊国忠だった。し
かし、そして北方方面の執政は、節度使だった安禄山に全てが任され力をつけた。節度
使は地域の行政と軍事を司る総監で、北方三軍を掌握した安禄山は一気に唐王朝の五指
に入るほどの実力者に昇りつめ、安禄山は楊貴妃に取り入って、玄宗にも気に入られて
、宮廷の奥の院で、時には酒食を共にするほどに親しくなっていた。


86: 名無しさんAA:19/03/17 18:27
 柳川 銭紋  82

 安禄山の心中では楊貴妃に強烈な恋心を抱いた。と言われる。快く思わない楊国忠は
策をもって安禄山を凋落しようとした。予知した安禄山が先に楊国忠打倒の兵を挙げて
これが、唐王朝を衰退させた。そしてこの覇権争いが有名な「安史の乱」だ。安禄山は
北方3州の豪族に対して、「皇帝より、楊国忠を撃てとの玉命を賜った」と計り、精鋭
8千騎と15万の歩兵を集めて、長安に向けて進撃する。そして1ヶ月後には長安の守
りの要衝である洛陽府を陥落し、自らが「ここに燕国を建てる」と宣言し皇帝を名乗っ
た。長安の皇帝軍と洛陽府の反乱軍はその間300キロを挟んで激しい攻防を繰り返し
半年後の皇帝軍の敗走により、玄宗は楊貴妃、楊国忠、そして宦官太監である高力士ら
と共に楊貴妃の故郷の蜀をめざした。しかし、安禄山の心の中は、本当に覇権争いする
様な謀反だったかというところが言われている。トルコ系の大柄で太ったこの陽気な男
は、宮中で宴会になるとコーカサスのステップで踊り、楊貴妃を大いに楽しませた。と
いう。楊貴妃のお陰で破格の出世をした。が、心中は楊貴妃を我が物にしたい。という
邪(よこしま)な考えで溢れていたようだという。凶暴な軍を率い都に乗り込み、戦闘
放棄させて、玄宗から楊貴妃を奪い取ろう。という魂胆だった。長安を落としたその3
日後に「楊貴妃処刑」の報を聞いて、心底驚いた。そして眼球が溶けて落ちるほどに涙
を流し、やがて発狂して、息子に寝首をかかれ死んだ。安史の乱とは、国を盗るよりは
楊貴妃の奪い合い、ただそれだけの戦いであったのかも知れないとさえ言われる。この
院政の頃に、阿倍仲麻呂は遣隋使としてやって来ていたのである。楊貴妃の馬嵬事変か
ら、3年後の続日本紀の天平宝字3年 (759)の記事に「新羅の人々が帰化を望んで、
来日しその船の絶えることがない。帰国したいものがあれば、食糧を給し、帰らせよ。
」と大宰府(だざいふ)に伝えた記事がある。ここからも、少なくとも新羅経由であれば
、多くの記録に残っていない異国船往来があった事をうかがわれる。即ち官の船は無く
とも民間の船は交易に多く居た。と言う証左だ。阿倍仲麻呂の時代に、文献に書いてな
いといっても、船の行き来がなかったという証拠ではない。記録は必要があると判断さ
れ記されているが、その必要性がない記録は残っていない。遣唐使船は、政府専用船の
往来の記録にすぎない。楊貴妃の親族(楊国忠の息子)に「楊咄(ようとつ)」がいた
。楊咄は、外交を扱う鴻臚卿(こうろけい)官使で、楊貴妃の脱出行を、この楊咄が支援
していたと言える。又阿倍仲麻呂は、親友である吉備真備が 日本の大宰大弐(だざいの
だいに)の職にあるという情報を得ていたのだろう。『今昔物語集』巻24「安陪仲麿、
於唐読和歌語第四十四」には---今昔(いまはむかし)、安陪仲麿と云(い)ふ人有けり。
遣唐使として物を令習(ならはしめ)むが為に、彼国に渡けり。数(あまた)の年を経て、
否(え)返り不来(こざ)りけるに、亦此国より〇〇と云ふ人、遣唐使として行たりけるが
、返り来けるに伴なひて返りなむとて、明州と云所の海の辺にて、彼の国の人餞(はな
むけ)しけるに、夜に成て月の極(いみじ)く明かりけるを見て、墓(はか)無(な)き事に
付ても、此の国の事思ひ被出(いでられ)つゝ、恋く悲しく思ひければ、此の国の方を詠
(なが)めて、此(かく)なむ読(よみ)ける、「あまのはらふりさけみれはかすがなるみか
さの山にいてしつきかも」と云(いひ)てなむ泣ける。此れは、仲丸、此国に返てかたり
けるを聞(きき)て語り伝へたるとや。

87: 名無しさんAA:19/03/17 18:29
 柳川 銭紋  83

----訳文----『今昔物語集』巻24「安倍仲麿 唐に於いて和歌を読む事 第44」
 今は昔となりましたが、安倍仲麿という人がいました。遣唐使として勉強するために
、唐の国へと渡りました。多くの年数が経っても、帰って来る事が出来ませんでした。
また、この日本から〇〇〇〇という人が、遣唐使として行きましたが、仲麿は、この人
の日本に帰るのに、伴って帰ろうとしました。明州という所の海辺で、唐の国の人達が
仲麿のために餞別の宴を開いてくれましたが、夜になって、月がとっても明るいのを見
て、こんなほんの些細(ささい)な事につけても、日本の事が思い出されて、恋しく悲し
く思えました 。そこで日本の方を眺めて、次のように詩を詠みました。「あまのはら
 ふりさけみれは かすがなる みかさの山にいてし つきかも」と書かれる。
又、楊貴妃が唐王朝の内乱を逃れて天草に渡っていたという伝説は九州には多くある。
九州の物語では、長安の都を逃れた玄宗皇帝と楊貴妃が2日間逃げ続け、そして皇帝を
守るべき宦官と近衛兵らは、長安から3日目についた馬嵬(現在の陝西省興平市)に差
かかったところで、その事件は起きた。とされる。宰相の楊国忠(楊貴妃のまた従兄)
を憎んでいた近衛兵達にの不満が爆発した。「宰相を討てば戦は収まる。」との裏切り
だった。こうして楊国忠を刺殺。さらに楊貴妃をも殺害すると騒ぎ出した。玄宗は、「
貴妃は後宮にいて政治に関わりはない。」とかばったが、宦官総監の高力士の説得を受
けて、楊貴妃に処刑を命ずることになった。楊貴妃は「国の恩に背いたのだから死んで
も恨まない、せめては最後に神を拝ませて欲しい。」と頼みこみ聞き入れられた。宦官
の高力士によって、馬の背後に乗せられて馬嵬から西方の道教寺院へと向かった。小さ
な道教の寺に着くと楊貴妃は神前で読経をよみ、高力士がその背後から荒縄で首を絞め
て縊死(えし)させたといわれる。こうして遺体は寺の裏山にひっそりと埋葬されたが
、墓の在処は高力士と墓を掘った数人の宦官しか知らされていない。知っての通りに、
こうして楊貴妃の死を知った安禄山は毎夜泣き明かしたあげくに失明し、さらには発狂
して、息子に殺害されるという無惨な最期を遂げた。さらにその息子も反乱軍の重鎮だ
った史思明に殺害され、史思明もその息子に暗殺される。という連鎖になった。まるで
楊貴妃の怨念ともとれる悲惨な運命を彼らは辿った。安禄山の死を受けた玄宗は、長安
の都に戻ったが楊貴妃のいない生活に耐えられず、皇位を皇太子の李亨に譲って自らは
太上皇となり、隠居をした。その後に玄宗は楊貴妃の霊を祀るため、宮中に墓所を建て
ようとしたが宦官総監にこれに反対され、やむなく馬嵬の墓を改葬するように命じたの
である。宦官たちがこの作業にあたったが墓の中には楊貴妃のものと思われる着衣と錦
の香袋があっただけで亡骸は影も形もなかったと報告された。当時に、楊貴妃と玄宗の
寵愛を描いたといわれる詩人、白居易の長恨歌を検証してみると、どこにも楊貴妃が死
んだという文言は見あたらず「馬嵬坡下泥土中不見玉顔空死処(馬嵬の墓の泥土の中に
は貴妃の玉顔は見られず)」との一節があり、楊貴妃の墓が空っぽであったことを歴史
書は伝えている。思うに彼女は先の百済王敬福と共に異人種すなわち白人のキリスタン
ではなかったろうか。とおもうのだ。



88: 名無しさんAA:19/03/17 18:30
 柳川 銭紋  84

 この楊貴妃の行方については、中国国内にでも諸説あるくらいだ。玄宗の高官だった
阿倍仲麻呂に助けられて中国のとある村に落ちのびたとか、同じく仲麻呂に助けられて
蓬莱に渡り住んだというものが有名である。同じ頃の日本に記述では、日本への帰国を
強く望んでいた仲麻呂の音信が途絶えた。ともあるし、唐の記録ではベトナムの節度使
になったとあるが、実際にはベトナムは唐の領土ではなかったのだからこの記述は信ぴ
ょう性に欠けるが、いずれにしても、何故か、楊貴妃といえば日本との深い関係が語ら
れているのである。取り合えず一般的に死亡したとされるのは、長安から西方に60キ
ロの馬嵬である。この地には黄河の支流にあたる渭水(いすい)が流れて、楊貴妃を乗
せた小舟を渭水に流すならば、黄河を下って安禄山の陣営のまっただ中を通過して渤海
に出る。そうすれば天草に着くなど考えようもなく、運良ければ朝鮮半島に漂着するか
、もしくは対馬海流に乗って山陰の沖合を漂流することになる。朝鮮半島や対馬海流に
漂流以前に、安禄山の陣営のまっただ中を通過するのだから、いつ何時、小舟が岸に乗
り上げて安禄山の手に落ちるかも知れない。もとより安禄山は楊貴妃に恋い焦がれてい
たのだから、捕まれば間違いなく安禄山の囲いものになってしまう。そんな失態のある
方法を、玄宗を思う宦官総監の高力士がするはずもない。特に非情なソクド人の安禄山
に、絶対に楊貴妃を渡してはならない。とそう思っていたはずだ。そうなれば、馬嵬で
処刑したということもすべて嘘になって、高力士も処刑されるから。逃れる手はただ一
つ、絶対見つからない様に南に逃げて最悪の場合は揚子江の支流にあたる漢水からに流
すほかはないと考えた。それならば、万に一つの救いがある。今の武漢市を経て上海を
通過して東シナ海に出て、東方海上に、道教の憧れの地でもある蓬莱(ほうらい)があ
る。道教を盲信する楊貴妃も、蓬莱に流れ着くとなると安心して流れに身を任せる事は
出来るだろう。安史の乱が勃発したのは西暦755年の11月。その翌月には、精鋭の
8000騎が長安の東方300キロの洛陽府を陥落させて長安の都に攻め入ろうとして
いた。これに対抗した皇帝軍は半年を持たずに敗退して、危機を感じた玄宗と楊貴妃、
宦官たちと近衛兵らは756年6月13日、長安を放棄してしまい楊貴妃の故郷である
蜀(四川省)に向けて都落ちした。従って漢水から楊貴妃が流されたとすると、旧暦の
6月か7月である。真夏の揚子江は、源流の四川高原に降るスコールの影響ですこぶる
水量が多い。漢水から武漢を経て揚子江の河口である上海まで1200km、膨大な水
量に押されればおよそ5日で東シナ海まで流れ着く。上海から先のことは分からないに
しても、このルートをとれば安禄山の手に落ちることはないと高力士は考え船を用意さ
せていた。遣唐使であり、盟友でもあった阿倍仲麻呂が話していた。雨季の水量を利用
すれば上海から東シナ海に出て、5日もあれば日本の九州までたどり着く。


89: 名無しさんAA:19/03/18 10:26
柳川 銭紋  87

 時は西暦700年の頃に、現在の中国東北部の(遼寧省・吉林省・黒竜江省)に渤海
(ブゥハイ)という唐国に隣接する新興の国家があった。時の聖武天皇は、遣唐使とは
別に遣渤海使を派遣して友好を深めており、その一員に小野朝臣田守という大使がいた
。小野田守は安史の乱が起きた2年後の758年9月に帰国。楊貴妃が日本に逃がれた
との情報も聞きつけており、それが事実ならば、安禄山が大軍をもって日本に攻め込ん
でくるであろうと、安史の乱の子細(以下)を奏上した。『天平宝字二年(七五八)十
二月戊申』遣渤海使小野朝臣田守等奏唐国消息曰。天宝十四載、歳次乙未十一月九日。
御史大夫兼范陽節度使安禄山反。挙兵作乱。自称大燕聖武皇帝。改范陽作霊武郡。其宅
為潛竜宮。年号聖武。留其子安卿緒。知范陽郡事。自将精兵廿余万騎。啓行南往。十二
月。直入洛陽。署置百官。天子遣安西節度使哥舒翰。将卅万衆。守潼津関。使大将軍封
常清。将十五万衆。別囲洛陽。と書かれた。
 淳仁天皇(大和朝廷)は鎮西府のあった大宰府に対し、万一、安禄山の軍が攻めて来
た時のために「奇謀を設けよ」と命じたのである。奇謀とは奇策・謀略のことであろう
。当時の朝廷の防人では、安禄山の大軍と闘って勝てるわけもない。ならば、正面から
激突する戦法をとらず、ゲリラ戦をするように命じたのだろう。安禄山の水軍も遣唐使
のルートと同じく、揚子江の流れと西風によって天草一帯に攻撃を仕掛けてくる。ただ
ちに、天草をはじめ九州西海岸は厳戒態勢に入った。そんな時期に、楊貴妃の出現であ
る。これが安禄山に知れたら攻められると思って、全てを封印せざるをえなかっただろ
う。従って楊貴妃は、天草に大きな功徳を積みながらも、墓碑も記録も残されずに、そ
のまま時代が流れていった。それでも今をもって天草という島名の由来には伝説でしか
ない、確たる資料がない。由来を解き明かすために、いつ頃から「天草」と呼ばれるよ
うになったかを検証してみなければならない。日本最古の歴史記といわれる古事記を紐
解いてみても。これは天武天皇(680年代)の発案で取りまとめられて、語部(かた
りべ)の稗田阿礼(ひえだのあれ)に記憶させたものを、その後の天明天皇の御代にお
いて太安万侶(おおのやすまろ)に文書化させ、712年に完成したものだ。上・中・
下の3巻からなり、神々の成り立ちと天孫降臨から始まって、日本創造、そして初代か
ら33代の推古天皇までの偉業について記されている。その上巻3−神代7代(以下、
原文)で注目すべきが、日本国土の創造(国産み)神話となる。



90: 名無しさんAA:19/03/18 10:27
 柳川 銭紋  88

 この角氏が存在していたのは奈良からの移住人である。奈良には角振町(ツノフリ)とい
う地名の場所があり、町内に隼神社があって、角振神社とも呼ばれている。この事から
隼人族の一部だった事が覗える。祀られる角振神は、火酢芹命(ホスセリノミコト)の御子で、
隼神は父であるとのこととされる。この近くは橋本町とされ、この町名の由来は、昔々
に、この町の南の方に、猿沢池の方から率川が流れてきていた川沿いであったからだ。
その後昭和の初め頃には暗渠にする工事で今はみえない、その上が遊歩道になっている
。まだ川が地表を流れていた頃、通りとの交差点に、石の橋がかかっていたので町名は
有名だった様だ。此個の摩詞不思議ラリーマップは、次のような伝説が書かれてあった
。『この石橋を渡る人々は、口々に妙な噂をした。一人でそこを通り過ぎようとすると
、後から声がして呼び止められる。「…して、…して。」と。しかし振り向いても誰も
いない。気のせいかと思い、再び歩き出すが、やはり声はする。よく耳を澄まし聞いて
みると、その声は川の方から聞こえてくるのだった。だが見渡しても人影はない。こう
して怖がられた場所だった。又、川に奇妙な人達がいるのを見たという人も多くいた。
夜が更けると、手元の明かりのみで、遠くは暗くてなにも見えない場所で。街と言えど
も夜は寂しい所で、しかしその夜の月明かりは川の上に浮いている人の姿がはっきり見
えたという噂がたった。その目撃は多く、若い女性だったり、年を召したおじいさんだ
ったり、また子供だったりと様々だが、決まって恨めしそうに、じっとこちらを見てい
たと言われた。さて、その遊歩道を設ける工事が行われた時のこと、川の淵を固めてい
た石を崩したところ、なんと、その中から出て来たのは多くの墓石であったと言う。こ
うして、近所の人達は驚き「ああそういうことだったのか。」と、今までの奇怪な噂に
納得したという。その墓石は無縁仏としてお寺に運ばれ、丁重に供養された。という。
昔は戦乱も多くあって、急いで石垣を築いたり、水路の修理をしたりする時は石が間に
あわなくて、石のお地藤さんや墓石を使っていて、奇妙なことがおこったという話は、
よくあったようだ。又、この橋本町は奈良市の中央で、奈良からの交通起点となってい
たという。県下の里程は、ここを基点として測量された。廃藩置県の頃まで一丁目一番
地の面目があったらしい。橋本町は、この率川南方にあって板橋があったので橋本と言
う。本は許(ある人の居るところ、あるいはその影響の及ぶ範囲)の和語である。隣の
樽井町は、足井、垂井とも作る。一説には弘法大師が始め橋本で法水を求めて井戸を穿
ったが、不足したのでまたこの井戸を掘って法用供濯に足したので、足井(たるい)と
名付けたからと言う。


91: 名無しさんAA:19/03/18 10:27
 柳川 銭紋  88

この奈良の話が、紀伊の人=木の下=木下氏の自出とされる事から、橋本氏も同じと思
われる。南都では、東を上とし、西を下とすることから、東大寺、春日社へ至る道であ
るの途中であり物資の往来も盛んだったと思われる。近くには漢国町(かんごくちょう
)や漢国神社(かんごうじんじゃ)がある。奈良町には七小路(しちすじ)、七御門(
しちみかど)の町名があるという話で、奈良にある七つの大寺に由来し。東大寺・興福
寺・元興寺(がんごうじ)・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺の七寺。南都七堂。七大寺
という「7」の数字で彩られる。南都七郷を、南大門郷、新薬師寺郷、東御門郷、北御
門郷、穴口郷、西御門郷、不開門郷以上で、七御門は高御門、下御門、今御門、西御門
、東御門、中御門、北御門とされる。中御門は東大寺の俗称焼け門に由来し、東御門は
『習見聴諺集』「南都興福寺七郷」の中にその名前がある。この中の東御門郷〈金堂郷
)は、南院、中村、登大路、東里、芝、西野田、東野田、北野田、重持院で構成されて
います。つまり中村氏や、野田氏、柴氏などは、この原田氏従属の物で大塔の宮家と共
に南朝として下向してきた者たちなのである。戦乱に明け暮れた其の後、何故か七御門
(しちみかど)は奈良(南都)七御門(ななごもん)と言われ初めて、興福寺東西二門
(東御門、西御門)、東大寺西門二所(中御門、北御門)、元興寺西北三門(高御門、
下御門、今御門)と坊目拙解に変わってしまう。この門の名称は正確でない。近畿、特
に奈良は歴史が古いだけに、地名や町名の難解なものが多くあって歴史が改ざんされる
。漢文の音読み訓読み韻と3種の読みがあっても平気だったらしい。意味が通じたから
だが後の人が、わざとそう変えていった面もある。一般的には奈良市内だけのもので、
他府県の方には難読と思われるものが残っている。阿宇万字:あぜまめ、油坂地方:あ
ぶらさかじかた、藺生町:いうちょう、荻:おおき、邑地町:おおじちょう、興ヶ原:
おくがはら、押上町:おしあげちょう、帯解:おびとけ、肘塚:かいのつか、鵲町:か
ささぎちょう、杏町:からももちょう、元林院町:がんりいんちょう、包永:かりがね
、京終:きょうばて、沓掛町:くつかけちょう、神殿:こどの、芝突抜町:しばつきぬ
けちょう、勝南院:しょうなみ、杉ヶ町:するがまち、誓多林町:せたりんちょう、済
美:せいび、雑司:ぞうし、高天:たかま、都祁:つげ、角振:つのぶり、東一:とう
いち、内侍原町:なしはらまち、平城山:ならやま、並松:なんまつ、二名:にみょう
、丹生町:にゅうちょう、忍辱山:にんにくせん、吐山:はやま、疋田町:ひきだちょ
う、不審ヶ辻子町:ふしがづしちょう、生琉星町:ふるさとちょう、三碓:みつがらす
、大豆山町:まめやまちょう、山陵町:みささぎちょう、茗荷町:みょうがちょう、餅
飯殿:もちいどの、油留木:ゆるぎ、鹿野園町:ろくやおんちょう、破石:わりいし--
-(50音順)---etc----などが挙げられている。奈良には花街も多く元林院町など
は元林院は興福寺の別院と坊目拙解にはあるが当町はもちいどのセンター街と猿沢の池
の間あったと言う。


92: 名無しさんAA:19/03/18 10:28
 柳川 銭紋  89

南北の道をはさんで西側には、南都銀行本店の堂々たる建物がある。奈良県の経済の中
心であり、原動力でもある南都銀行は、昭和六十年発行の「南都銀行五十年史」による
と、昭和九年六月一日、奈良県下の六十八銀行、吉野銀行、八木銀行、御所銀行の四銀
行が合併して設立された。」という。 大和郡山には室町時代に、在地領主によって、
郡山城が築かれ、天正年間の一五八〇年、織田信長によって、筒井順慶に与えられた。
順慶は城の大増築をしたが、五年後の一五八五年には筒井氏に代わって豊臣秀吉の弟、
豊臣秀長が入城、大和、紀伊、和泉三国の城郭を整備、城下町郡山を拡張した。この地
の南都銀行五十年史によると、秀長は城下の繁栄をはかるため、大和国中(くんなか、
平坦部)での一切の商売は郡山城下以外では出来ないという商業厳禁策をとったという
。その後、この商業厳禁策は緩和されたが、江戸時代の郡山は依然として大和の商業の
中心地として栄えた。江戸幕府のもとでは幾度か藩主の交替があったが、亨保九年(一
七二四)以降は柳沢氏の郡山藩十五万石の城下町として明治に至った。明治四年七月の
廃藩置県により、郡山藩は郡山県となり、一時は郡山城に県庁がおかれ、郡山城最後の
城主であった柳沢保申氏は郡山県知事となられた。郡山城主として百四十年余り縦承さ
れた柳沢家の六代目の城主であった柳沢保申氏は、旧藩士の生活や郡山の盛衰について
常に心を痛めておられた。明治九年の国立銀行条例の一大改正に基き、近代的な金融業
を興し、産業を開発することが重要であると考え、士族救済の方策ともなることを説き
、旧藩士達に、銀行設立を提唱されたと伝えられる。この提唱を受けて、旧藩士の主だ
った人八名、土地の素封家二名が発起人となって、大蔵卿大隈重信公に国立銀行設立願
を出し、開業免状を貰って、明治十二年一月十一日第六十八国立銀行は「堺県下大和国
添下郡、郡山柳町一丁目二十一番地で開業した。郡山県になったり、堺県になったり、
その後大阪府になったりした明治初期の人心の動揺がしのばれる。」と銀行史には書い
てある。明治十三年六月からは奈良東城戸町に出張所を設け、官公金出納業務を開始し
たが、出張所ではなにかと不便が多かった。明治九年に奈良県が廃止されて以来、奈良
県再開運動が繰り広げられていたのが、やっと実現して県庁が奈良に設立されたのを機
に、大蔵省に申請して、明治二十一年一月十二日、奈良角振町七番地に奈良支店を開設
した。【奈良支店の新築と南都銀行への移行】には、角振町に設立された支店は業務の
拡大と共に手ぜまとなり、この支店から東へ約100米の奈良市橋本町十六番地(現在
、南都銀行本店のある場所)に新築されることになった。設計監理は東京在住の工学博
士で建築士の長野宇平治氏、工事は大林組が担当された。



93: 名無しさんAA:19/03/18 11:05
 柳川 銭紋  90

 養老元年(717年)4月23日、詔をもって「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出て
みだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑してい
る。」と、この新しいタイプの宗教集団を、朝廷が、寺の外での活動を禁じた僧尼令に
違反すると、糾弾されて弾圧を受けた。行基の仏法活動と国家弾圧に関して、奈良時代
において、具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみであり、前代未聞だっ
た。その後も、天平2年(730年)9月、平城京の東の丘陵(天地院と推定)で妖言を吐
き数千人から多い時には1万人を集めて説教し民衆を惑わしている。と糾弾された。(
続日本紀)。しかし、行基とその集団の活動が大きくなっていき、指導により墾田開発
や社会事業が進展し、豪族や民衆らを中心とした宗教団体の拡大を抑えきれなかった。
、こうした行基らの活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではない
と判断したことで、天平3年(731年)に弾圧を緩め、翌年には河内国の狭山池の築造に
行基の技術力や農民動員の力量を利用した。天平8年(736年)には、インド出身の僧・
菩提僊那がチャンパ王国出身の僧・仏哲、唐の僧・道詮とともに来日した。彼らは九州
の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられてい
る。こうして天平10年(738年)に 朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられたのであ
る。(日本初の律令法典「大宝律令」の注釈書)この後三世一身法が施行されると灌漑
事業などをはじめ、多くの行基の事業は権力側にとっても好ましいものとなり、やがて
聖武天皇の方から接近して、行基は 740年(天平12年)に聖武天皇に依頼され大仏建立
に協力し奈良の大仏を建立した。ここで解る様に、海外から渡来僧、菩提僊那(ぼだい
せんな)仏哲・道詮(ぶってつ・どうせん)など6僧と日本の僧合わせて15人位が、
日本で貧民救済・治水・架橋をして噂になっている為に、わざわざ大宰府まで下向して
それを迎えに行基は門徒や部下と共に会いに行っているのである。朝廷において、圧倒
的な権力を誇ったとされる藤原四兄弟が天然痘(てんねんとう)の流行によって相次い
で死んでいったのは、天平9年(737年)なのだ。つまりこの天然痘(てんねんとう)の
流行は世界的流行であって、日本では死者が少なく、中でも行基はその介抱を成功して
いたのだろう。と思われる。その行基が在していたとされるのが水田・八女・瀬高での
伝説である。かつて角(すみ)氏の先祖は、この行基の信仰で住みついて、角を名乗っ
たとされる。つまり何らかの形でその隅に置いてくれという意味で住み着いた人なのだ
。実は角氏は役小角(えん の おづぬ)の末裔伝説がのこっている。飛鳥時代の呪術者
である。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)といった呼び名で
広く知られ、姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物
像は後世の伝説による。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場には、
役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承があるとされる。


94: 名無しさんAA:19/03/18 11:15
 柳川 銭紋  91

 この角氏の役小角(えん の おづぬ)の末裔伝説を探ると、意外な展開に驚く事があ
る。それが橋本伝説である。つまり角氏の土木を担ったのが橋本と呼ばれた奈良の人と
言う話である。伝説では飢えや飢餓に会う人達が、誰か共に九州下向について行った。
とされた。それが橋本氏の始まりだった。その橋本の由来は、朝鮮族からの悪口だった
。日本で相撲の本家は吉田神道であり、熊本が起源とされる。吉田氏は隼人との融和を
相撲に求めた。とされている。つまりここに祖母傾山の、新羅人の移住伝説があるのだ
。日本で天然痘が治ったのは何故だろうか。実はここに火の祭りや裸祭りの起源がある
のだろう。清らかな川で禊を行う。或いは藁人形で火に当たり汗をかく。と言うのは、
有効な措置で、厩や藁に納豆菌が居る事が今では判明している。天然痘ウイルスは低温
、乾燥に強く、エーテル耐性ですが、アルコール、ホルマリン、紫外線で容易に不活化
し病気を起こさなくなるとされる。臨床的には天然痘は 致命率が高い場合(20〜50%)
と、致命率が低い場合(1%以下)に分けられているが、増殖温度以外では区別できない
。又、天然痘ウィルスは壊れやすい(もろい)ので、天然痘を噴霧器などで放出された
場合でも、1〜2日以内に不活性化する。最初にウィルスが噴霧器で放出された建物は
、汚染を除去する必要はない。最初の事例が発覚するまでに、放出から約2週間たって
おり、その建物内のウィルスはもうすでにそこにはいないからだ。とされる。天然痘は
独特の症状と経過をたどり、古い時代の文献からもある程度その存在を確認し得る。大
まかな症状と経過は次のとおりである。@飛沫感染や接触感染により感染し、7 - 16日
の潜伏期間を経て発症する。A40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。B
発熱後3 - 4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じ またはやや白
色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。C 7 - 9日目に再度40℃以上の高熱に
なる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけで
なく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って
呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。D 2 - 3週目に
は膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。治癒後は免疫抗体ができるため、二度とかかるこ
とはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。天然痘ウ
イルスの感染力は非常に強く、患者のかさぶたが落下したものでも1年以上も感染させ
る力を持続する。このかさぶたで生きる天然痘の力で九州から都まで広がった。この事
で藤原氏の勢力は大きく後退し、宇合の長男、広嗣は大養徳(大和)守から太宰少弐(
だざいのしょうに)に任じられ、太宰府に赴任しこれを左遷(させん)と感じた広嗣は
、天平12年(740年)8月29日、天地による災厄の元凶は、反藤原勢力の吉備真備(きび
のまきび)と僧玄ム(そうげんぼう)に起因するとの上奏文を朝廷に送り、批判した。
聖武天皇は、広嗣の召喚の勅(ちょく)を出すが従わず、広嗣は、天平12年、弟の綱手
(つなて)とともに太宰府の手勢や隼人などを加えた1万余を率いて反乱を起こした。
聖武天皇は広嗣を反逆者として、大野東人(おおののあずまびと)を大将軍に任命し、
兵1万7千人を授けて広嗣討伐(とうばつ)を命じた。



95: 名無しさんAA:19/03/18 11:21
 柳川 銭紋  92

 結局広嗣は追討軍に敗走し、最後は肥前国松浦郡に逃れ、値賀浦から耽(たん)(韓
国の済州島)へ亡命しようとしたが、逆風に吹き戻されて、値嘉島の長野村に漂着し、
そこで討伐の軍に捕らえられて、松浦郡で処刑された。吉備真備は天平勝宝2年(750)
筑前守に任じられて下向し、広嗣の怨霊鎮めにつとめ鏡神社を建立した。また、広嗣処
刑の地とされている浜玉町五反田には、広嗣鎮魂の為の無怨寺が建立されました。建立
したのは五反田村の庄屋加茂丹後で、建立までの流れが分かる手紙が残っていると言う
。現在の大村神社とされる。実は広嗣が追手を逃れ身を隠したとされる渕の地では、後
に広嗣の死を知った村人が渕野権現社を建て霊を奉っている。この社の神田には、下肥
(しもごえ)をやってはならないとされ初穂を奉納するといいます。また、一説には、
稚茶木(ちさき)の下で自害したともいわれ、そこに稚茶木権現を奉って霊を慰めまし
た。この下田には毎年一羽の白鷺(しろさぎ)が飛んでくるようになり、これを「権現
様(ごんげんさま)の使い」といいました。広嗣の遺体を埋葬したところを伽藍野(が
らんの)、あるいは藤原原といい、ここには昔、松の大木があり、これを切り倒した木
こりの二人は盲目になったという伝説もあります。いずれの権現社も、早田鎮守神社に
合祀(ごうし)されています。と言う。この渕の地には、他にもいろいろな話がある。
実は、博多が「伯人(はかた)」と呼ばれた起源がこの天然痘(てんねんとう)にある
ようだ。女真族(満洲民族)粛慎人ユウ婁(ゆうろう)人、勿吉(もっきつ)人、靺鞨
(まっかつ)人でも、恐らくはこの博多の浜に流れ着いている筈だ。その中で、先の大
和長岡(やまと の ながおか)こと、大倭長脚足宿禰。(やまとながあしのすくね)が
産まれたのだろう。この長岡と言うのは当然長岡京を意味し、大倭長脚足、というのは
長脛族の容姿を意味した。博多が「伯人(はかた)」と言うのは実はこの長脛族を白兎
として「ハクト」と呼んでいた名残りなのである。この事は足が長く背の高い白人だっ
た事を示している。つまり大倭長脚足宿禰も又見た目から白兎の人間と見られていた可
能性が高い。ここで広嗣討伐(とうばつ)を命じ大野東人(おおののあずまびと)を、
大将軍に任命し副将軍に紀飯麻呂を任じて征伐を命じた。ところがこの兵は隼人の民だ
った。ここに大きな逆転模様がある。聖武天皇は文武天皇の姉である元正天皇が「中継
ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった天皇だ。神亀6年(729年)に長屋王の変
が起きて、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立
后されたが、本来聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当し
ていた。長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で
光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている反乱だった。天平年間
は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依していたが、天平
13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立
の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたもの
の、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。そこで出てくるのが聖徳太子の
逸話である。厩戸(うまやど)というのは、多分天然痘患者のベッドで家畜の部屋に、
次々死んで行くので放っておいたら息吹き返し、生き残った子供が居た。そこで藤の藁
の姓が生まれたのではないか。藤とは「不治の病」を示した言葉でなかったか。という
説である。


96: 名無しさんAA:19/03/18 11:23
 柳川 銭紋  93

 藤原広嗣の乱の話は、柳川に伝わる渕上伝説と随分違う。式家家伝では多くの民が、
病気により不作になって、京への供物や貢物が送れなくなった。しかし、京ではこの事
を九州王朝の反乱とみなして軍を徴収し、東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の
五道の軍1万7,000人を動員する用意をするがしか、し吉備真備の助言で、朝廷に出仕し
ていた隼人24人をつれて佐伯常人、阿倍虫麻呂が勅使として向かわせた。藤原式家は
北家より由緒ある家柄である。この時まだまだ天然痘(てんねんとう)の流行は収まっ
ていない。ここに瀬高の広田八幡宮の創記の、大隈・日向の隼人族は律令制に反対して
大隈の国司を殺害するなど、川上静が朝廷に反乱した。と言う伝承がでているのである
。朝廷は3月4日に大伴旅人(おおとものたびと)を遣わせて平定するというのは、確
かに養老4年(720年)2月29日に大隅守・陽侯史麻呂の殺害に端を発した「隼人の反乱
」の報を受け、3月4日に征隼人持節大将軍に任命され反乱の鎮圧にあたったとされる。
しかし、5月頃軍営を張り、6月中旬まで成果を上げる中で8月に右大臣・藤原不比等
が亡くなったことから隼人平定の中途半端のまま京にもどる指令をうけるのである。そ
の後の藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)は天平12年(740年)という 僅か20
年後の事だ。この神亀5年(728年)頃大宰帥として妻 大伴郎女を伴って大宰府に赴任
する事をみれば10年後であり。60歳を過ぎてからの二度目の九州下向であったが、こ
の任官については、当時権力を握っていた左大臣・長屋王排斥に向けた藤原四兄弟によ
る一種の左遷人事とされ、当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された
人事との説もある。不比等の死は養老4年(720年)63歳とされる。つまり一度京に戻っ
て再度出て来たのだ。賊徒征伐の勅命を受けた宇努首男人と、宇佐の軍衆達は、勝ちを
宇佐皇大神の広前に祈った。3月3日夜の神託で「筑紫なる御心廣田に遷し、廣田速彦麿
をおいて吾御前を祭らば皇軍必ず勝つ」とお告げがあり、皇軍は賜った言葉に従い、勝
ちの凱旋報告を、養老5年(721)8月に行っている。お告げの通りに、廣田速彦麿は
朝廷より、この地廣田縣の500町の田地を賜り、分霊を筑紫廣田原に遷宮して祀るの
である。廣田速彦麿は養老7年(723)3月1日に亡くなった(73歳)とされ神官
を息子の速胤(はやたね)が受け継いで後、神亀元年(724)2月に、豊前宇佐八幡
宮(応神天皇)の分霊が遷宮されている。神亀5年(728)3月に、従三位太宰師に
着任した大伴旅人は、広田庄惣社として3万坪の社地を廣田縣芳司村に奉納して壮殿を
建立した。大伴旅人は使者として、太宰少弐という官職の石川足人(たりひと)と、前
討伐将軍宇努首男人に(この年に任を解かれ、その後上京している)を同席させて11
月19日に新宮に宇佐八幡宮の分霊を遷して祀った。と言う。この時石川足人は竜宮寺
の石川氏の始祖とされ、亡き廣田速彦麿の長男の速胤(はやたね)は神主として、広田
を継ぎ、次男の彦信は勅使役(ちょくしやく)として御神体の跡詰を役し、三男の速具
は先祓の神として守護し奉じ祀った。この事で次男彦信は宮の壇を築き壇性を、三男速
具は瀬渡し板橋を架かけ、板橋性を受けて、氏の氏祖となったと言う。又川上姓は脊振
の川上伝説の住民である。


97: 名無しさんAA:19/03/18 11:26
 柳川 銭紋  78

 実はこの時又大きな出来事が遇っている。式家家伝では、多くの民が、病気により不
作になって、京への供物や貢物が送れなくなった事を再開させるべく動いたのである。
物語では、広嗣軍は板櫃川の会戦に敗れて敗走し、船に乗って肥前国松浦郡値嘉嶋(五
島列島)に渡り、そこから新羅へ逃れようとした。ところが耽羅嶋(済州島)の近くま
で来て船が進まなくなり、風が変わって吹き戻されそうになった。広嗣は「わたしは、
大忠臣だ。神霊が我を見捨てることはない。神よ風波を静めたまえ」と祈って駅鈴を海
に投じたが、風波は更に激しくなり、値嘉嶋(現在の宇久島)に戻されてしまった。と
している。この島は、平家盛(平清盛の弟)が壇ノ浦の戦いの後にこの島に逃れて住み
つき、五島一円に勢力を伸ばして宇久氏の祖となったという伝説が残っている。ここの
問題に一つは宇佐氏と言う隼人族は実は海人族でこの宇久氏であった可能性である。つ
まり追い詰めた広嗣軍の相手は隼人族ではなかったか。と言う事だ。そしてもう一つは
この後に壇ノ浦とされる地がこの時姓を貰った檀氏が船頭であった為に、褒賞として彼
の領地となった。と言う可能性だ。そして式氏は「志岐氏」としてその後天草や長崎に
点在した。そうして追い詰められた隼人族は政府転覆に動いた。そこに藤原4兄弟がい
たのだろう。唐から帰国した吉備真備と玄ムが重用されて、藤原氏の勢力は大きく後退
した中で、筑前国遠賀郡に本営を築き、烽火を発して太宰府管内諸国の兵を徴集して、
広嗣は、関門海峡で、登美、板櫃(豊前国企救郡)、京都(豊前国京都郡)の三郡鎮に
兵を増派したと言う事から、間違いないと思える。登美(うみ)と言うのは宇美氏であ
り板櫃(いたづけ)は板橋氏の土地ではなかったかと言える。実はこの時も、安曇の磯
良丸の子孫の安曇氏と高橋氏の衝突があった。とされる。高橋家は磐鹿六雁命(日本料
理の神として尊崇を集めた神)を祖とする古代氏族の一で、膳部(かしわで)氏とも称
した。この膳部(かしわで)氏は代々高橋家の変苗であり、相撲などの祖とされた祭人
であると言われる。天皇の饗応係であり、日々は安曇氏が受け持ち、多分に天然痘(て
んねんとう)流行のあおりで何らかの行き違いが生じたと考えられる。代々内膳司を勤
めており、同僚の安曇(あずみ)氏との衝突の果てに家記『高橋氏文』(789年奏上 逸
文)を奏上したことでも知られる。また、「10月23日、こうして値嘉嶋(現在の宇久島
)に潜伏していた広嗣は安倍黒麻呂によって捕らえられ 11月1日、大野東人は広嗣と綱
手の兄弟を、肥前国唐津(現・佐賀県唐津市)で斬った。」と報告された。それでも、
乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し
都を出てしまうのである。聖武天皇は、伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京
(山城国)に移ったのである。養老4年(720年)大隅・日向で隼人が一斉に蜂起し、こ
の時豊前守であった宇努首男人は鎮圧のために将軍に任ぜられて戦勝を祈り宇佐神宮に
参拝している。

98: 名無しさんAA:19/03/18 11:27
 柳川 銭紋  94 でした



99: 名無しさんAA:19/03/18 13:04
 柳川 銭紋  95

 この戦いの結果が柳川伝習館文書に記載されていたと言う。男人は隼人の軍勢を大い
に破って数多くの兵を討ち取り、又多くの兵を殺した償いとして大神の託宣が発せられ
たが、この戦で多くの友や供を失い、死者を弔い(ともらい)毎年放生会が催されるよ
うになり、これが後に、石清水八幡宮の創建につながった。つまり賊徒征伐の勅命を受
けた時の賊徒は隼人の民なのだったが。この軍が、これが僅か10年も経たずに隼人に
追われる立場になったのである。佐賀の川上伝説では、ここに大きな死者が出て隠れて
いた住民は、瀬高の清水を真似て創建するとある仏僧と共に誓いを立てて住んだが、再
度の戦いで、奈良に奴隷として連れていかれていった。その後京都に清水寺が建った。
と言う話である。少なくとも広嗣の乱では、大きな言い争いはあっても戦乱は起きなく
一方的な九州王朝への大和朝廷への軍事介入で、これまで技術を取り入れていた韓国に
藤原広嗣は帰ろうとしたが帰れなかった。と物語は書いている。天皇はその後も難波京
へ移り、また平城京へ還って、と遷都を繰り返すようになる。遠い九州で起きた、広嗣
の乱を聖武天皇が極度に恐れた為であったとされるが、どうも乗っ取られた大和朝廷内
での権力争いが、朝鮮や中国風の強権主義に変わって行く状況だったに思われて仕方な
い。これまでの政権の懲罰は戦そのものだったが、ここに来て集団化して確立された。
罪人がかつては平民であったのが、上層部の天皇の兄弟まで及んできたのだ。天平13年
(741年)1月、乱の処分が決定し、死罪16人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177
人であった。といわれる。藤原式家の、広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された
。又「広嗣軍1万騎が板櫃川(北九州市)に至り、河の西側に布陣した。勅使佐伯常人
、阿倍虫麻呂の軍は 6,000人余で川の東側に布陣した。」とあるがここで「阿倍虫麻呂
」は歌人で「高橋虫麻呂」であり物部氏連(もののべのむらじ)の一人であのだろう。
つまり、この高橋と言う奈良人と言う意味の安倍の姓は、新しい朝廷の権威だったのだ
。かつては曽我氏と物部氏の対立が、ここに又ぶり返した。聖徳太子 以来の確執が645
年7月10日(皇極天皇4年6月12日) 中大兄皇子は中臣鎌足らが謀り、皇極天皇の御前で
蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こし(乙巳の変)入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害し
たが、一族が滅んだ訳でもなかったのである。又その後藤原道長の世になったのを見て
も、結局朝廷が支配を固めても、人民自治には至らなかったのである。吉備真備は天平
勝宝2年(750)筑前守に任じられて下向し、広嗣の怨霊鎮めにつとめ鏡神社を建立した
。また、広嗣処刑の地とされている浜玉町五反田には、広嗣鎮魂の為の無怨寺が建立さ
れました。建立したのは五反田村の庄屋「加茂丹後」で、建立までの流れが分かる手紙
が残っているとされる。現在の大村神社である。広嗣が追手を逃れ身を隠した。とされ
る渕の地では、後に広嗣の死を知った村人が渕野権現社を建て霊を奉りました。この社
の神田には、「決して下肥をやってはならない」とされ初穂を奉納するといいます。

100: 名無しさんAA:19/03/18 13:05
 柳川 銭紋  96

 また一説には、「稚茶木(ちさき)の下で自害したともいわれ、そこに稚茶木権現を
奉って霊を慰めました。この下の田には毎年一羽の白鷺(しろさぎ)が飛んでくるよう
になり、これを「権現様(ごんげんさま)の使い」といいました。広嗣の遺体を埋葬し
たところを伽藍野(がらんの)、あるいは藤原原といい、ここには昔、松の大木があり
、これを切り倒した木こり二人は盲目になったという伝説もあります。いずれの権現社
も、早田鎮守神社に合祀(ごうし)されています。肥前町には「馬ノ部(まのはまり)
」という地名があります。これは、広嗣の馬がはまり込んだことにちなんだ地名といい
ます。大村神社の成立、音なしの祭り(家に引きこもる祭りがある)などがある。」と
かかれる。鏡神社は鏡山の西側麓にある。古来より松浦地方の総社として尊崇されてい
て、松浦三社の一位として歴代の唐津藩主が第一に参拝する祈願所として定められてい
た場所だ。源氏物語に「松浦なる鏡の神」と詠われ、遥かなる時を越え今もなお、松浦
地方の鎮守神の神社です。御祭神は一の宮には息長足姫命(神功皇后さま)、二の宮に
は藤原廣嗣朝臣を主祭神として祭祀をする。しかしここに、この言葉の奇妙さがある。
「馬ノ部(まのはまり)」は一般的には馬のはまり口と言う意味で「ぬかるみ」を示す
。だが、日本の馬はこの頃騎馬戦すら、今の競馬の様な走りは無い。言わば平地の牛車
と同じに歩かずに旅や荷馬車とする物であり、ぬかるみを行くほどの早馬があったとは
思えない。これは今でいう「魔」あるいは「間のはまり」である。つまり時間だけが過
ぎて行く場所を意味している。「稚茶木(ちさき)」の樹を文字通りのお茶の樹とすれ
ば、彼はお茶の樹を栽培していた事になる。しかし日本のお茶は八女が茶発祥の地とさ
れ「霊巌寺」応永30年(1423年)、栄林周瑞禅師発願による霊巌寺は臨済宗妙心寺派の禅
寺で、深山幽谷、数多くの奇岩のそびえたつ霊地で、初めて栽培された。というのが、
定説である。古くは修験道、山伏道とも、人々の修験道場であったとも言われています
。南北朝時代、南朝の天皇方は吉野山の修験を頼りとされ、吉野を根拠に60年間の長い
間、北朝との抗争を続けました。奥八女の霊巌寺も同様、寺内の正規型宝篋印塔2基を
現存証拠として、南朝の隠密基地の役割をもっていた。と伝えられ、明国から持ち帰っ
た茶の実を植栽し、栽培と製茶の指導を始めたことから「八女茶発祥の地」と伝えられ
ており、八十八夜には周瑞禅師を偲ぶ献茶祭が執り行われています。728年と1423年で、
600年も開きがある。そもそもの今の最大の茶畑は静岡だが、これは明治期の勝海舟
などの無職浪人や廃藩置県でのあぶれ週番の人民を救う為に開発されたものだが、京都
の宇治茶の成功から、南北朝時代には既に隠れて栽培されている。つまり高級だったの
だ。


101: 名無しさんAA:19/03/18 13:05
 柳川 銭紋  97

 お茶は鎌倉時代から生産されていたと考えられ、室町時代には将軍家をはじめ室町幕
府の有力武将により茶園が設けられた。戦国時代には、新芽にあたる日光を遮って茶の
旨味や甘みを高める覆下(おおいした)栽培の茶園により日本を代表する高級茶の地位
を固め、江戸時代には幕府に献上されるお茶壷道中(宇治採茶使)が宇治から江戸まで
の道中を練り歩いた。という。お茶の起源では、日本に喫茶の習慣を広めた栄西は宋か
ら持ち帰った茶種を「漢柿蔕茶壷」に入れて明恵に送った。明恵はその茶種を京都の北
、栂尾の高山寺に近い深瀬(ふかいぜ)の地に植え、その後、宇治の地にも播植した。
とされる。13世紀半ば、後嵯峨天皇が宇治を訪れたのを機に平等院に小松茶園、木幡に
西浦茶園が開かれ、この地で本格的な茶の栽培が始まった。と言う。これはあくまでも
高級茶の玉露についての話だろう。戦国時代は御抹茶を泡だてて茶道精神を建てている
。中国では、古くから伝説や神話で、三国時代の天地開闢説による伝説が茶の始まりを
伝えている。紀元前2700年頃の天地創造時代の神話で、天地創造のはじめに三人の
皇帝(伏義氏、、炎帝神農氏)が登場する。人面蛇身の伏義氏は食物を人々に教えた、
彼は人面蛇身の女性で子孫を生んだといわれる。炎帝神農氏は産業を興し、医術を教え
、火をつかさどり、火の使い方を教えた知性の神とされ、医術の神で衛生的に、生水を
飲まず火を使って水を煮沸して飲む事を教えた。とされる。神農自らも煮沸したものし
か口にしなかった。 この炎帝神農氏は、「ある晴れた日の午後、野原の下手の小さな
野生の木陰の下で彼の研究書を見ながら休んでいた。しばらくして、彼は喉が渇いてき
たので、 小川のほとりで清水を汲み小さな火鉢の上でお湯を沸かし始めた。 丁度お湯
が沸騰し始めると、突然そよ風が吹いてきて、小さな木から3枚の葉がひらひらと舞い
落ちて釜の中に入った。それが煮沸され、次第に芳香を放ちはじめ、美しい色となる。
この煮沸された湯を飲んでみると、香り高く、味もよいので、早速この木を調べてみる
と、茶の木の葉であった。神農氏は、この茶の木の葉の事を人々に教えたので、人々は
茶を飲む事を知り、この葉の加工を研究して、さらに美味しく飲む方法を考えたといわ
れ、これが茶のはじまりとされている。こうして紀元前千二百年以上も前に中国にあっ
た習慣であれば、縄文時代から茶葉はあったと考えられる。お茶の大産地インドには別
の伝説がある。インド香志園の第3王子の若き日の達磨太師が禅の修業のため、はるば
る海を渡って中国の崇山の少林寺にこもり、面壁9年の座禅修行に入った時の事、座禅
3年目に入ると、猛烈な睡魔に襲われて眠気がどうしてもさめず、修行も打ち切らねば
ならないほど眠くなったので、達磨太師は意を決して自らの瞼を切り取って捨て、眠気
を追放しようとした。ところがその瞼を捨てたところの土に1本の木が生え、みるみる
大木に成長し青い葉が茂るようになった。達磨さんは驚いてこの葉をちぎって食べてみ
ると、たちまち眠気がさめたので、以後この葉を食べて眠気を払い、無事に修行を完成
することが出来て、達磨大師といわれる名僧になることができた。この葉が茶の葉であ
り達磨大師修行の恩人になったというものである。



102: 名無しさんAA:19/03/18 13:05
 柳川 銭紋  98

 中国神話もインド伝説も、ともに神話の域を出ない。作り話といわれるほど根拠のな
い話ではある。しかし舞台が中国であることは一致する。この事から茶の始まりは中国
であり、茶が昔から薬用効果があり、特に不老長寿の霊薬としての神秘的な薬用効能が
重視され、宗教と結びつき、一般的な飲み物となる前に宗教的、政治的、儀式的なもの
となり禅や茶道に発展した。とこの発祥の神話に基く信者は言う。実際には、茶が文献
にあらわれるのは三国志(西暦242年〜283年)時代である。「呉の人、茶を採り
之を煮る」との記述があり、茶の発祥の地といわれている西南夷の雲南から野生の茶が
四川省に伝播し高級茶葉として貿易していた。西暦386〜535年頃、茶の製造飲用
について残されている文献もあり、漢代から三国時代、唐代にかけて本格的に飲み物と
して普及した。茶樹の栽培は350年頃といわれ、最初の種子は四川省の丘の斜面に植
えられ、茶の飲用も富豪の飲料用に各地に広がっていく。漢代(620〜907年)に
、茶の栽培も山岳地帯の奥地から揚子江に沿って下り、やがて中国全土に広がるように
なっていて、茶が中国全土から国外にまで知られるようになった。780年代唐代の中
頃、文人陸羽が著した「茶経」のによる効果である。「茶経」は茶の古典といわれ、全
3巻、10篇にわかれ、茶の植生、用途、製造方法、製造機具、茶の入れ方、茶道具な
ど、当時の茶の全てを解説した大作とされている。この書によって中国はもとより世界
各国に茶が知れわたり、今日の茶業の隆盛をみた。これにより今日でも陸羽は「茶神」
として崇め奉られている。中国に発祥した茶は、まず周辺の国々に広がり、西はチベッ
ト、カシミール、中央アジア、イラン、イラク、コーカサス、さらにアフリカ北岸にま
で伸びたとされ、東は朝鮮、日本に渡り、北は蒙古、シベリヤに広がって東アジア全域
に及ぶのである。中国の茶が最初にヨーロッパに送られた1610年で、オランダの東
インド会社が中国のマカオと日本の平戸から緑茶を買い付けて、これを自国領土ジャワ
のバンタムに送り、さらに船でヨーロッパに転送したものとされる。これらの茶はさら
にポルトガルやオランダの宮廷社会に入り珍重された。やがてオランダ商人は1657
年海を渡ってイギリス海岸に中国の茶を送り込んだが、これがイギリスで人気を呼んで
、茶の需要がまたたく間に広がって、東洋への憧れと茶の自力輸入への熱望となって、
海洋熱がおこり、スペイン、オランダ、ポルトガルと東洋交易を争い、イギリスが海の
覇者となって東洋交易を独占するにいたる。イギリス東インド会社が中国茶をロンドン
に運んだ1669年、ジャワのバンタムからロンドンに輸入したのをきっかけに、オラ
ンダとの茶交易の競争が激化していった。ティー戦争である。茶「chay」がアジアを越
えて英語の「tea」となった途端に貿易戦争になっていったのである。



103: 名無しさんAA:19/03/18 13:37
 柳川 銭紋  99

 現在では松浦総鎮守鏡神社と呼ばれ、旧称は鏡尊廟宮、鏡宮、松浦宮、板櫃社、久里
大明神である。古来、鏡神社は松浦国の総社として尊崇され、松浦三社の一位に列せら
れていた。社伝では、三韓征伐の際、神功皇后が鏡山山頂に戦勝を祈願して鏡を納めた
が、その後この鏡が霊光を発したことから、それを聞いた神功皇后が自らの生霊を鏡に
込めて祀ったのに始まると伝えられる。また、三韓征伐の帰途、神功皇后は当地で陣痛
に襲われたが、里人が差し出した湧き水を飲むと陣痛が治まり、宇美の地で無事に応神
天皇を産んだ。このことで安産の霊験もあるとされる。藤原広嗣の乱により藤原広嗣が
当地で処刑された10年後の天平勝宝2年(750年)、肥前国司に左遷された吉備真備によ
り、広嗣を祀る二ノ宮が創建された。広嗣処刑の後、玄ムが筑紫に左遷されそこで歿し
たことから、これは広嗣の怨霊のせいであるとされ、それを慰めるためであった。話は
ちょっとそれるが、アマゾン奥地のTvクル―が一介のデレクターを人気者にした。そ
う地球防衛隊名物テレビの友寄隆英ディレクターである。「美容にいい」と言われて、
刺青にも使用される染料“ウィト”を塗ったはいいが、全身がナスのような墨色に染ま
ってしまい、そのまま色が落ちなくなったことからナスDの愛称がついたが、この人の
「破天荒ぶり」は、アルコール度数50度のお酒を大量に飲んだり、生の川魚、巨大カタ
ツムリ、イタチの丸焼きなど、普通なら躊躇してしまうものを「うまいうまい」と食し
、時には「すっごい臭い」と笑う。その姿は、現地のガイドにまで「先住民や馬でも食
べない」と引かれるほどの食べっぷりだ。芸人以上に型破りな行動の彼が、ある時湖で
それこそ茶色い原始人の風景の水たまり「タンニンの湖」の水をごくごく飲んでいたが
、今でも彼は元気である。日本人的に言えば「流れない水は腐る」従って、流れない水
は「細菌の水」であり、体に適さない。つまり「飲めない水」と言う常識があったが、
それを軽々と破ったのである。この松浦の地も松の裏の地名であり、旧称の鏡尊廟宮、
鏡宮、松浦宮、板櫃社、久里大明神には、古来から集落があって、飲み水があった事で
あろう。柳川の渕上・淵神伝説や佐賀の方渕・片渕伝説では、この淵の物語がある。つ
まり広嗣が追手を逃れ身を隠した。横穴が淵とされる。渕の地では、「後に広嗣の死を
知った村人が渕野権現社を建て霊を奉りました。」とあるが、柳川伝説は日本書記の、
吉備真備がこの板橋氏を頼って、広田氏と逢って、この地から神社を作る大工を派遣し
て、こうした神社を作って行った。それに感謝して渕上氏が入植して広田に物産市場を
起して、そこに海の変わった物まで並べられたとされる。多分それが、船小屋の起こり
であろう。そこに檀氏が取り仕切り、段々畑の檀、と評されたのだろう。



104: 名無しさんAA:19/03/18 13:38
 柳川 銭紋  100

 大野東人(おおの の あずまびと)は、奈良時代の公卿の有力な武人であった。 糺職
大夫・大野果安の子で姓は君ののち朝臣となっている。参議官で奈良時代の武将とされ
天武13年に大野朝臣姓を賜う。 (720年)に発生した蝦夷の反乱が起こり征夷将軍・
多治比縣守により鎮圧しまもなく蝦夷開拓の本拠として多賀柵を築く。聖武天皇の即位
後にまもなく従五位上に叙せられた。3月になって海道の蝦夷が反乱を起こして、陸奥
大掾・佐伯児屋麻呂を殺害する。この反乱を鎮圧するために4月に持節大将軍・藤原宇
合以下の遠征軍が派遣され、東人は副将軍格で従軍したらしく、11月に帰還して翌神亀
2年(725年) 軍功に対する叙勲位が行われた。陸奥国司(むつこくし)は、陸奥国の
国司のことである。701年から775年までは、陸奥守、陸奥介、陸奥大掾、陸奥少掾、陸
奥大目、陸奥少目の各1人を定員とした陸奥の政庁である。佐伯 麻呂(さえき の まろ
)は、文武天皇時代(700年) には、遣新羅大使に任ぜられて新羅に渡航している程の
人物だ。だが10月に帰国し孔雀や珍物を持ち帰ってきて、この時の冠位は直広肆であり
大宝律令における位階制の施行を通じて正五位上に叙せられている家系である。陸奥守
多治比 縣守(たじひ の あがたもり)は、養老4年(720年)に陸奥国按察使・上毛野
広人が殺害されるという、史上初の大規模な蝦夷による反乱が発生し、征夷将軍として
行くが、当時は、蝦夷と儀礼的な会食を行い、食糧や衣類を与え、服属関係を固めるこ
とであり早々ぶつかる事の無い支配だった。征討は国境をこえた軍事行動で、同じ辺境
でも西国の国司の場合は、征討のかわりに防守、饗給ではなく蕃客(外国使節の接待)
と帰化である。この時国家を形成しない蝦夷集団を相手にする陸奥国司は、自らの判断
で征討に出ることが許されており、蝦夷との服属関係を維持することも期待されていた
。つまり西国と東国蝦夷とでは大きく支配が違っていたのである。陸奥国按察使上毛野
広人が殺害され、征伐に行った軍の官使が陸奥少掾言わば陸奥の支配の司令塔を殺した
のだ。その後京の役人の官舎も焼き払われている。これは仏教をまだ蕃神(ばんしん)
とした、外部(外国、異国)からやってきた邪教の神。外来の神として反発したから起
こったものだったのだろう。と思える。外から入り込んできた後に定着し、その国、そ
の土地で既に信仰の対象とされる神が、意識的に布教されその国の人々が蕃神の存在を
知り、、多分に天然痘(てんねんとう)が流行し、急激に信仰対立が起こり、この混乱
が戦闘になったと考えられる。もともと神道が信仰されていた日本においては、伝来の
当初の仏教について、「仏」を「蕃神」(トナリノクニノカミ)と呼ぶなどしていたが
ここにきて死人を起したのが、蕃神伝来の起因派と逆に旧来の朝廷弱体として信仰した
派の2つにわかれたのであろう。ここに仏教反対の保守派の物部尾輿や中臣鎌子や、革
新派の蘇我稲目らの戦いが尾を引いていたのである。このとき、神道(古神道)の神は
「国津神」、仏教の仏を「蕃神」として区別されたという。父である大野果安は壬申の
乱(672)で近江朝廷軍の将として、大海人皇子側の 大伴吹負(ふけい)を大和乃楽(なら)
山で破った功により。乱後天武朝で糾職大夫(きゅうしきだいぶ)をつとめた。この役は
後の弾正台(だんじょうだい)であり、他の配下にない独立の官で、非違の糾弾・弾劾
を担当した役職である。平城天皇の代に『内礼司』を吸収したが、言わば大目付で今の
検察や会計検査院にあたる。



105: 名無しさんAA:19/03/18 13:53
 柳川 銭紋  101

しかし、藤原広嗣を肥前国松浦郡値嘉嶋長野村(五島列島の宇久島内)で捕縛したとさ
れる「安倍の黒麻呂」だが、こうした功績に関わらず黒麻呂の出自は不明だ。藤原広嗣
の乱に進士(志願兵)とて参加し、10月に逃亡中であった広嗣を掴まえたとしている。
また自出も高橋氏と同じく、「阿倍虫麻呂」と同郷の士ではないかと推測されている。
 この「蕃神伝来(ばんしんでんらい)」に応じて陸奥国(東北地方)に鎮守将軍とし
て赴任し、多賀城を創建した大野東人(おおの の あずまびと)は対蝦夷政策に功あり
として、また陸奥−出羽間の街道整備にも尽力した。直ぐに中央政府に召還されると、
征西将軍に任じられて藤原広嗣の乱を鎮圧しに来たのである。天平14年に没したとさる
が、大野東人を大将軍に任じて、彼が東海道,東山道,山陰道,山陽道,南海道の五道
の軍1万7,000人を動員するよう命じた時、聖武天皇が 大野東人への勅をこう発している
「朕,意ふ所有るに縁りて,今月の末暫く関東(鈴鹿関・不破関の東)に往かむ.その
時に非ずと雖も,事已むこと能はず.将軍これを知るとも驚き怪しむべからず.」(私
が思うに至るに、今月中に暫くの間、関東に住んでる兵を集めてはどうか。今すぐでな
くとも事は起こるだろう。と天皇がいいそれを聞いた将軍は驚きも怪しみもしなかった
。)というのである。土気酒井氏の居城の土気城とけじょうは別名に貴船城と言う、山
城としては交通路を完成させた城である。平安時代の鎮守府将軍であった大野東人が蝦
夷に対する備えとして築いた貴船城であるといわれている。奈良の東大寺から南に向う
道と新薬師寺から西に向う道が交差する高畑町にこんもりした小山がある。盛り土の上
に雑木が茂っているような形だが、この地は奈良時代の傑僧玄ム(げんぼう)の頭部を
葬った首塚であると永く信じられてきた。奈良市教育委員会によると『外見は森である
が「頭塔」といい、本来方形32mの四角錐台で、7段に築かれた仏塔である。各段の
四方には現在27基の石仏が残っている。石仏の高さ61〜111cmそれぞれ浮彫り
、線彫りなどで如来三尊や侍者等をあらわした一群は変化に富んでいる。奈良時代の彫
刻として価値の高いこれらの石仏のうち、当時確認できた13基は昭和52年6月11
日重要文化財に指定された。』と解説されている。玄ムは、717年に、阿倍仲麻呂、
吉備真備(きびのまきび)とともに入唐留学(るがく)し、法相宗を唐の智周に学び、
時の玄宗皇帝から紫衣を許されるほど重んじられた人物だ。玄ムは17年間の留学を終
え、735年に5000巻の一切経や諸仏像を携えて帰国した。その頃日本では平城京
内に流行した天然痘によって、勢力を振るっていた藤原氏四家の祖が相次いで病死し、
政治の表舞台から降りていった。これに代わって政権を担当したのが橘諸兄だった。彼
は玄ムを最高位の僧正に任命し、吉備真備とともに天平の新風を吹き込む役割を演じさ
せ。二人は唐で学んできた幅広い知識で、兵士・健児(こんでい)の停止、郡司の減員
、国の併合等の政策を推進していった。この日本型の鍵穴墳墓とも仏教の洞窟型社寺と
もちがう方墳墓は、インドのピラミッド型のジグラットの伝承とされるがなんとも不思
議で謎である。



106: 名無しさんAA:19/03/18 14:27
 柳川 銭紋  102

 この奈良市高畑町にある頭塔東大寺要録の「実忠二十九箇条事」の記述によると頭塔
が767(神護景雲元)年に東大寺の高僧、実忠和上(じっちゅうかしょう)が「土塔
(どとう)」を造ったとある。この土塔が玄ムの首塚伝説と一体になって「どとう」が
「ずとう」となり、「頭塔」と呼ばれるようになったと十分推測される。ただ、何故こ
の土塔がこのような形式で建設されたのかが気がかりになる。平成19年1月20日に
TBSで放映された「世界ふしぎ発見 謎の大伽藍・ボロブドゥール 〜ピラミッド寺
院は海を越えた〜」という番組では奈良東大寺の南に、階段状ピラミッドの遺跡が残さ
れていると紹介し、壁面に石仏が並べられたこの遺跡は、実はインドネシアにある世界
遺産にも登録されている世界最大の仏教建造物ボロブドゥールと構造がそっくりと伝え
ていた。レポーターの浜島さんは「シルエットは確かに階段ピラミッドなんですが、細
かい石の彫刻が施されているせいか、かもし出す雰囲気はカンボジアのアンコールワッ
トに似ていると思いました。」と話していた。確かにその通りだ。土塔のアイデアは、
遣唐使がもたらした舎利塔(ストゥーパー)のイメージだろう。筆者は大陸の文化を受
け入れようとする奈良時代の人々の受容性の広さだと考えている。頭塔は史跡頭塔顕彰
会の仲村太寶堂表具店で案内してくれる。このような土塔は他には、大阪府堺市の大野
寺土塔と岡山県熊山町の熊山遺跡に見ることができる。ただ、ストゥーパーとしては、
五重塔や木造の舎利殿も既に存在しており、木造寺院建築と相俟って木造が主流となっ
て石造りの土塔は広がらなかったのではないだろうか。一方、天然痘で病死した、藤原
式家の宇合(うまかい)の息子の藤原広嗣は大宰少弐に任じられて大宰府に左遷された
。彼はこの措置は玄ムらのせいだと恨みを募らせた。そして740年8月、広嗣は玄ム
と吉備真備を排除することを要求して、筑紫で反乱を起こした。と言う。聖武天皇は、
その鎮圧のために、大野東人を討伐の将として大軍を率いて九州へ向かわせ、乱はすぐ
に鎮圧されて広嗣は佐賀県唐津市で斬殺された。その5年後のことである。今度は玄ム
が聖武天皇の信頼を失い造観世音寺別当に任じられて大宰府に左遷された。観世音寺と
いうのは、中大兄皇子(天智天皇)が新羅遠征の途上、朝倉の橘広庭宮で崩御した母帝
斉明天皇の冥福を祈るため建立しようとした寺で、80余年の歳月をかけ完成したもの
だ。平安後期の歴史書「扶桑略記」によると、落慶法要の様子は「玄ム法師、太宰府、
観世音寺供養之日、為其導師、乗於腰輿供養之間、俄自大虚、捉捕其身、忽然失亡。後
日、其首落置于興福寺唐院。」とあり、玄ムを導師として行われたが、その当日空高く
何者かに抓みあげられて、もと玄ムがいた奈良興福寺唐塔へ首が落ちてきたと書かれて
いる。人々は玄ムの死因が藤原広嗣の怨霊の仕業であると信じ、その噂話拡がっていっ
た。玄ムは広嗣の怨霊に八つ裂きにされ、吹き飛ばされて頭部の落ちたところが頭塔の
あるところとか、眉と目が落ちたのが眉目塚のある崇徳寺(奈良市大豆山町)の境内と
いうような話もまことしやかに囁かれた。実際の頭塔については奈良文化財研究所によ
り86年から98年までの間に発掘調査が行われ、その報告書がまとめられている。


107: 名無しさんAA:19/03/18 14:27
 柳川 銭紋  103

落慶法要の様子を、玄ム法師は太宰府にて、観世音寺供養之日に、其の為の導師として
、鞍付きの腰輿(こし)に乗って供養之間に於いて、「俄自大虚、捉捕其身、忽然失亡
。」おおみえ切って捕えられた身は、呆然自失(ぼうぜんじしつ)であった。後日に、
其の首が、落ちて置かれ于いたところが興福寺唐院。」と言うのは、玄ムを導師として
本当は大宰府の観世音寺にいる筈の人だ。と言う事だろうか。観世音寺(かんぜおんじ
)は、福岡県太宰府市観世音寺五丁目にある天台宗の寺院として存在する。山号は清水
山で後に瀬高清水山の支寺になったと考えられる。本尊は聖観音(しょうかんのん)。
開基は天智天皇である。九州西国三十三箇所第三十三番札所。九州を代表する古寺で、
造営開始は7世紀後半にさかのぼる。奈良の東大寺・栃木の下野薬師寺とともに「天下
三戒壇」の1つに数えられる。平安時代以降は徐々に衰退したが、仏像をはじめとする
文化財を豊富に有する。この九州随一の仏像彫刻の宝庫である観世音寺の縁起は、公式
には伝わっておらず、関連文書として最も古いものは延喜5年(905年)成立の「観世音
寺資財帳」(東京藝術大学所蔵、国宝)である。『続日本紀』の記述によると、観世音
寺は、天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願した。といわれる。斉明天皇は 661年
に没していることから、それからほどなく造営が始められたと推定され、『二中歴』に
観世音寺創建は白鳳年間(661年〜683年)のことの記事が見える。『続日本紀』の和銅
2年(709年) の記事によると、この時点で造営はまだ完了しておらず、完了したのは
発願から約80年も経った天平18年(746年) のこととされる。実はこの観世音寺伝記で
は、日本初の国家祈祷院だったとされる。薬師寺は天武天皇九年(680年)の11月
12日は、天武天皇は薬師寺建立を発願した。とされている。天武天皇は、当時体調を
崩していた皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈ってこのお寺を建てさせた。とされる
。天皇のお寺を作る時は、ご利益や何らかの祈願をするために建てたものだが、薬師寺
の場合は持統天皇の平癒であった。この頃の「薬師」とは薬師(くすし)や薬剤師のこ
とではなく、「薬師如来」という仏様のことで。書いて字の如く、病気回復その他を司
り、人々を幸せにするという仏様を指し一切衆生救済(いっさいしゅうじょうきゅさい
)を挙げていた。その為、薬師如来にはお供の仏様がお二方いて、薬師寺の像も”三尊
像”といわれる三人(仏)一組としている。この薬師様の全面に日光菩薩・月光菩薩の
二人のお供を左右に控えて、薬師如来像とされる。病気のみならず「寒さや虫刺され、
衣服の無い人に与えて助ける。」などとされ、貧困救済が主だったとされる。ここで少
し考察がいる。それは仏教とはいえ、式典は同じでも飾られる仏が違うと言う事だ。聖
観世音菩薩は、あの世の救済神である。薬師如来は仏教で神になるに定められた者で、
仏であり神ではない。如来である。地蔵像はその人間の姿とされ6地蔵が試されるとし
た考えである。なかなか難しいが、日本の神道は太陽神である神仏混合があったとして
も本来の死後の世界の祈りは相反するものなのである。と言う事は論理は押し切っての
仏教布教と言う事になる。

108: 名無しさんAA:19/03/19 13:38 ID:Pk
柳川 銭紋  104

 となると、なぜ強硬に仏教を更に推し進めたのか。更に何故九州では「薬師如来」と
なったのか。聖観音の使いでなく、現世救済を祈るほどの、天然痘の救済。すなわち助
かった者が多く存在した。と思える。多分理由は温泉であろう。つまり癒えた者が温泉
特に硫黄などの源泉垂れ流しの風呂では、うつされる事が無かったか少なかったのでは
内だろうか。と思う。柳川のこの鬼童町の救済伝記でも、恐らくは船小屋近辺の、炭酸
水の冷泉が影響されたのだろう。藤丸・冨丸・吉丸の伝説は、所謂雀の由来記の付記で
あったのだろう。「霊験あらたかな水」としての地位である。ここで一つ気になるのが
福禄寿の伝説的位置だ。いわゆる七福神と言う伝説であるが、これは仏教神でも神道神
でもない。この物語は柳川高畑つまり、大渕氏が開いたとする平安時代の市場初めには
出て来ている。また彼らが来たとする佐賀市内は古くからこの七福神は街路の角の守り
神とされる。まあ大黒神や恵比寿様が多いが、弁天様は稲荷神社になり毘沙門天が広目
天や多聞天と共に仏教にとりいれられたが福禄寿や布袋或いは寿老人というのはあまり
お目にかかりはしない。曰く「七福神とは、。平安時代以降、京都の鞍馬の毘沙門信仰
からはじまった毘沙門天を恵比寿・大黒に加え、三神として信仰され、その後大黒天(
だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、恵比寿天(えびすてん)、寿老人(じ
ゅろうじん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそ
ん)の七つの神様の総称で『七難即滅、七福即生』の説に基づき七福神を参拝すると七
つの災難が除かれ、七つの幸福が授かると室町時代以前の庶民信仰である。」とされる
。布袋なんぞは酒飲みの「布袋腹」であり、寿老人も「イエズス神士の杖」として十字
軍などで出てくるし、六房星からユダヤの長寿王だろうと理解できる。しかし福禄寿の
長頭はなんともインカしか考えられない。この頭が最近話題になった記事がある。---
「七福神の一つとされる福禄寿は、頭が異様に長い老人の姿で描かれることが多い。そ
んな福禄寿のような頭を持った生後3ヶ月の赤ん坊が、パキスタン南部のシンド州の町
ドックリにいる。彼女の名前はアニラ・アリ。頭が異常に大きくて軟らかく、医師によ
ると重度の「頭蓋骨縫合早期癒合症」だという。頭蓋骨縫合とは、何枚かに分かれてい
る赤ん坊の頭蓋骨にあるつなぎ目で脳が急速に拡大する乳児期には、縫合部分が広がり
、脳の成長に合わせて頭蓋骨も拡大する。しかし、頭蓋骨縫合早期癒合症では、縫合部
分が通常よりも早い時期に癒合してしまうため、頭蓋骨が変形して、同時に脳を圧迫す
る障害をもたらす。変形した頭部は、舟状頭や三角頭、尖頭などの種類に分類される。


109: 名無しさんAA:19/03/19 13:38
柳川 銭紋  105

 実はこの七福神伝説は今持って謎だ。一説では中国の八仙道師の話に擬えたとも言わ
れるがそうでも無い様だ。平安以前からの民俗信仰もあるからだ。まずは至って不明と
言える。更に不明なのは「カゴメ・カゴメ」の歌だ。「かごめかごめ」ヘブライ語説で
は、「かごめ」を繰り返し歌った後、「籠の中の鳥」が「いついつ出会う」と歌う。こ
の事からは、2羽の鳥の存在が浮かび上がり、また「籠の中」という表現からは、何か
が「囲まれ」、「封じ込められ」ている話しだ。この2羽の鳥は、契約の箱の上に飾ら
れたケルビムと呼ばれる鳥の形をした2体の守護神を指していると考えられすると、「
いついつ出会う」とは、それまで隠されていた神宝の秘蔵場所が明らかにされ、守護神
のケルビムが再び現れて互いに出会う日を待ち遠しく思う気持ちを、遠まわしに述べた
歌とも解釈できる。「かごめかごめ」は、日本語とヘブライ語という2つの言語、どち
らでも読むことのできる歌であり、折り句のように二重の意味を含む歌として創作され
ていた可能性に驚く。と書かれるヘブライ語を用いて「かごめかごめ」の歌詞を読み続
けてみましょう。「籠の中の」は「カゴ・ノ・ナカ・ノ」という4つのヘブライ語形成
の言葉です。まず「籠の」は、「囲む」「守護する」を意味するkhagorに、「鍵をかけ
る」または「閉じ込める」を意味するnoel、を合わせ、「カゴーノェ」となり、「囲ん
で閉じ込める」「守護して封印する」ことを意味します。次に「ナカノ」は、「置かれ
た」「そこにあった」を意味するnakhに、「ノェ」の語尾を足して「置いて鍵をかける
」、または「安置して閉ざした」を意味します。つまり、「籠の中の」はヘブライ語で
、「守護して封印し、安置して閉ざした」と解釈できます。これはまさに大切な神宝が
、どこかに秘蔵されたことを指していると考えられます。続く「鳥は」は、「取り外せ
!」の意味を持つtoridという言葉と、「そして」を意味する接続詞の va、を合わせた
ヘブライ語が語源であると考えられます。「トリー」には強い命令形としての意味合い
があり、「取り外せ!」「下ろせ!」と命令が込められる。すると「籠の中の鳥は」の意
味が、ヘブライ語で明確に浮かび上り、それは、「守護して封じ、安置して閉ざれてい
た物を取り出せ」という命令文だったのです。「取り下ろせ」とういヘブライ語は、高
い所にあるものを外す、あるいは下ろす、という主旨が含まれることから、封じられて
いた物は高い位置にあったと推測されそれ故、守護されている物が神宝と想定するなら
ば、それらが秘蔵されていた場所は、山上のような標高の高い場所にあったと考えられ
ます。大切な神宝が人目のつかぬ山奥に安置され、その場所が長らく守られてきたから
こそ、「取ってきて下ろせ」、「取り出せ!」「取り外せ!」という言葉が使われたの
ではないでしょうか。


110: 名無しさんAA:19/03/19 13:38
 柳川 銭紋  106

 いまでも探される古代からの神宝。それは「アーク」とされる物だ。「かごめかごめ
」の歌詞に含まれるヘブライ語は「カゴメ」だけにとどまらず、歌全体をヘブライ語で
読むことができます。しかもヘブライ語で読む「かごめかごめ」には一貫したメッセー
ジが込められており、歌全体のモチーフが自然に読み取れることからしても、ヘブライ
語説の信憑性はもはや、簡単に否定できません。早速、ヘブライ語で「かごめかごめ」
を読んでみて一層解ると言う。「滑った」という歌詞を振り返ってみる。ヘブライ語で
「晩に鶴と亀が」は「お守りの岩が造られた」、を意味することから、後に続く「滑っ
た」が解釈の要となります。「すーべった」に類似する発音を持つヘブライ語には、も
うひとつ、「水を引く」、「水を出す」を意味するshoevet という言葉があります。す
ると「晩に鶴と亀が滑った」の意味が一変し、「お守りの岩を造り水を引く」、「造ら
れたお守りの岩から水が湧く」という意味になります。これは、水が溢れる場所におい
て、お守りとなる岩を切り、磐座を造ったということではないでしょうか。つまり、「
水際にお守りの岩が造られた」と解釈できるのです。その後に続く歌詞も、「焼かれた
荒地は見捨てられた」という悲劇を語るのではなく、ヘブライ語で類似した読みを持ち
ながらも、正反対の前向きな意味に解釈することができるのです。そして「晩に鶴と亀
が滑った」を「水際にお守りの岩が造られた」と理解することにより、火で焼かれた後
の、救いの道を示す復興の預言であった可能性が見えてくるのです。復興という明るい
展開を前提に考え「後ろの」は、ヘブライ語で「地域を支配する」の意味 (hushlat、
フシュラッ)と解します。そして「正面」は前述のとおり「僻地」「荒地」とし、最後
の「だーれ」はヘブライ語で「水を引く」のDalah、ダラー(Dalah、ダラー)とします
。「だーれ」は、「焼かれた」を意味するdalak(ダラッ)と、「水を引く」dalah(ダ
ラー)という、どちらもほぼ同じ発音を持つ言葉のいずれかを選ぶことにより、紙一重
でその意味が正反対に変わってしまうことがわかります。その「だーれ」を水源に関す
る「水を引く」と理解することにより、「後ろの正面、だーれ」は、「水を引いた無人
の地を支配する」という意味になります。この解釈は、前文の「水が出るお守りの岩」
と、焼かれた後、水が枯れてしまう「荒地」の存在を自然に結び付けることに注目です
。こうして「晩に鶴と亀が滑った」と「後ろの正面、だーれ」の意味は、ヘブライ語で
「水際にお守りの岩を造り、荒地に水を引いて支配する」と理解することができます。



111: 名無しさんAA:19/03/19 13:39

 柳川 銭紋  107

「かごめかごめ」は単なる呪いの歌ではなく、原語となるヘブライ語の類似した読み方
により、二重の意味が込められていたと考えられます。そこには、焼かれた後、水辺に
造られたお守りの岩の恩恵によって導かれ、その無人の地にも水が引かれて、最終的に
は祝福されるという預言の言葉が含まれていたのです。つまりこの歌は
   何が守られているのか?誰が守られているのか?
   守護されて封印し、安置して閉ざされていた神宝を、取り出せ!
   そして、火を付けろ、燃やせ!神の社を根絶せよ。
   水際にお守りの岩を造り、無人の地に水を引いて支配せよ!
と言う歌になるのである。---これまで隠しおかれた神宝が、収蔵されていた山頂周辺
一帯には、とてつもない災害がおきた。その緊迫した状況が、「籠の中の鳥は」の後に
続く「かごめかごめ」の歌詞の中で説明され、宝物を収めるために用いられていた神の
箱や、その周辺一帯の山までもが、丸ごと焼かれてしまうという、厳しい神の裁きが定
められていたことを、ヘブライ語の歌詞から読み取れる。「いついつ」という歌詞は、
ヘブライ語でも「火を付ける」を意味するhitsit、ヒィツィ(hitsit、ヒィツィ)が語源
です。それを繰り返し語ることによって、燃やさなければならなかったことが強調され
ています。つまり「いついつ」とは、「火を付けろ、燃やせ!」という命令の言葉だっ
たのです。これは、火による神の裁きを象徴する表現として捉えることができます。
「かごめかごめ」の歌詞をヘブライ語で読み続けると、そこには裁きの深刻さについて
、更に言及されています。「であう」はヘブライ語で、収納庫、容器、家を意味するが
ディユゥー(diyur、ディユゥー)で、「ディユゥー」の発音は、日本語の 「出会う」と
類似しているだけでなく、その意味は収納庫、もしくは箱であることにも注目できる。
その言葉に神を意味する「や」または「よ」と読む漢字の「夜」を加えて「ディユゥー
・ヤ―」とすると、「神の箱」「神の社」の意味になります。そして「明け」はakar、
アカー(akar、アカー)というヘブライ語で、「根絶する」を意味します。つまり、「出
会う夜明け」はヘブライ語で、「神の箱を根絶する」「神の社を根絶やしにする」こと
を意味していたのです。何という恐ろしい言葉ではないでしょうか。つまり、火を付け
て燃やす対象は、神の社、もしくは神の箱だったのです。「ヒィツィ・ヒィツィ・ディ
ユゥー・ヤ・アカー」というヘブライ語は、「火をつけろ、燃やせ、神の社を根絶せよ
」という裁きの言葉であったことがわかります。--- --- と説明している。


112: 名無しさんAA:19/03/19 13:39
 柳川 銭紋  108

 実はこのなんとも「古代の宇宙人伝説」みたいな荒唐無稽の話が此処に来たのは訳が
ある。実はこのカゴメカゴメは、最後の立花藩家老が、病身で行基橋傍に移って、立花
農園の守役と 養生した頃のここらの伝説を集めて書した中の歌だったからだ。この時
の心情を語る本は、柳城中学の図書館の郷土伝説に書いてある。洟垂れ地蔵や笠地蔵と
共に蒲池氏の没落時の歌だと解しているが、郷土歌の拾い上げであり、真実は不明だ。
また、知られていないが、此処柳川こそキリスタンの古い郷土であり此処から宇佐のあ
る豊前に上ったとされている。宣教師アルメイダ街道のわき道としては当然善き場所だ
 竜造寺氏は、実はこの蒲池氏の家臣の鷹尾神社の守役の田尻氏に身を寄せて居た者だ
。蜷城に龍造寺の家臣が攻めたのは、先の祝いに呼ばれて城主蒲池氏が謀られたから
だった。佐賀の鹿子神宮は実は大きな宮社だったが、近くの寺に納められ、この蒲池氏
殺傷の歴史を消そうとしている。がこうして城主亡きあと鍋島直茂の督戦の下、鷹尾城
にいる田尻鑑種が柳川城に兵を進めて、一族を抹殺(まっさつ)に及び城は落城した。
田尻鑑種にとって蒲池氏は姉の嫁入り先であったが、逆らえば隆信に討たれることは、
明白であり、柳川の残党征伐に乗り出した。柳川城内にいた鎮並の弟の蒲池統春は城を
明け渡して田尻領の佐留垣城へ引き退いた。これで討伐は終わったかに見えたが一時中
止だけであり、支城の塩塚城へ蒲池統康、豊饒鎮連らの男女5百余人は、籠りながらま
だ必死に防戦していた。この事で田尻鑑種により討伐が再開された。蒲池鎮並夫人の、
玉鶴姫はじめ女、子供も追手に捕まり城外にて討たれ悲劇の場となる。そばの宝樹寺に
玉鶴姫と108名を供養して地蔵尊に祀られている。戦国の習いとはいえ同族、親族を
相打ちさせた残忍な悲劇の終末で、鎮並夫人とは龍造寺隆信の娘、玉鶴姫で父の元へ帰
ることを拒んで、蒲池氏の支城の塩塚城の近くで、鎮並の後を追うように自害したのだ
った。なお鎮並の嫡男の宗虎丸はようやく逃れ小仙と言う山伏に連れられ鎮並の正室の
実家の肥後の隈部城主、赤星統家(むねいえ)を志したが中島(大和町)で敵に囲まれ
舟上で自殺した。宗虎丸の姉の徳姫と弟宮童丸は、家臣に守られ柳川落城から逃れる。
つづいて、佐留垣城(大和町)いる統春も討死された。筑後最大の勢力を誇った下蒲池
氏家は滅亡した。田尻鑑種は下蒲池追討の賞として隆信から、新恩地1000町のうち
680町を賜わった。だが田尻氏家臣は憤然としなかった。蒲池鎮並を謀殺した隆信に
対して、諸豪たちの間にその非道さを憤る声があがり、筑後国内でも、天正十年二月、
猫尾城主の黒木兵庫頭家永が反旗を翻した。蒲池氏を直接討った田尻鑑種も、隆信に対
して割り切れない不信感を抱いたのは違いない、彼は竜造寺隆信の岳父として、佐賀帰
参には数回兵をつけて居た程だったからだ。翌天正九年八月になると田尻鑑種が島原の
有馬晴信とはかって、島津家に使者を送り幕下についたという風聞が立った。


113: 名無しさんAA:19/03/19 13:41
 柳川 銭紋  109

 十月、腹を括った鑑種は鷹尾城において抗戦の構えに入った。龍造寺政家は肥筑三万
の軍勢を率いて鷹尾城に攻め寄せたが、鑑種はよく防戦して佐嘉勢は遠巻きの状態とな
った。これに業を煮やした隆信はみずから指揮に当ったが、攻撃はことごとく撃退され
、籠造寺軍は押さえの兵を残して柳川へ帰城した。鑑種はこの間に急使を立てて、島津
氏に応援を求めた。翌十一年正月、島津氏は伊集院若狭守を田尻への援軍として送った
。若狭守は三百余騎を率いて海路到着し、兵糧を城に運び入れ城兵を励ました。城兵の
士気は大いにあがったが、その年の十一月、鑑種は龍造寺との間に和議を講じた。城を
開いた鑑種は堀切城に移り、嫡子長松丸に対し堪忍分として新地二百余町が宛行われた
。もともと蒲池氏も田尻氏も始祖遠来の地では無い。鎌倉時代初期の平家追討の命を受
けて一族は九州に下り、豊前城井谷の宇都宮・筑後柳川の下蒲池・筑後山下の上蒲池・
肥後木の葉郷の宇都宮・肥前彼杵郡宮村の宇都宮の4家が、九州での宇都宮氏としての
活躍の場を得たのだ。一般に下野宇都宮を嫡流として、朝綱を初代とし、豊前宇都宮を
分家筋の分流としている。宇都宮宗綱の弟の嫡男、信房を初代とする。景綱の次男の、
資綱は瀬高町北大木に大木城を構えて大木氏を名乗った。その4代後の久憲が蒲池10
代目の婿養子に入り蒲池家を再興する。久憲の次男資綱は大木城を再興している。永正
4年(1508)5月の頃、蒲池家14代目の蒲池治久が足利10代将軍足利義尹(よ
しただ)が上洛の折、お供している記述がある。筑後に他に、田尻種久・草野親永・星
野親実が、筑前には秋月種貞・原田興種・立花親載・宗像氏重が、肥前には少弐資元・
龍造寺家和・同家兼・渋川尹繁・千葉介興介、他に平戸の松浦興信・肥後の菊池義国・
薩摩の島津忠昌・日向の伊藤祐秀・豊後の大友一族・豊前の城井長門がお供している。
天文年間(1532〜55)、筑後十五城の旗頭蒲池鑑貞(蒲池鑑久)はこれを怠ったため、
府内に呼び出されて斬られたと「西国盛衰記」にある。当時は毎年、八朔(旧暦8月1
日)に筑後守護職大友家当主の検閲を受け忠誠を誓わされており離反する者は征伐され
たのである。この時実はこの地を田尻氏支配に大友氏は変えてしまったが、現実は田尻
氏は、この蒲池氏の代理人者であった筈だ。ここに食い違いがある。蒲池氏は一度凋落
し再興したのは正平13年・延文4年(1359)足利尊氏が亡くなった翌年に、筑後
大久保原の「筑後川の戦い」での戦功があったからだ。南朝方の菊池勢は北朝方少弐氏
の軍勢をを破り、勢力は大いに振るうようになる。この筑後川の戦いで宇都宮久憲は、
南朝勢の父親宇都宮懐久と伯父の宇都宮貞邦を亡くし、九州に領地を持たない久憲は、
蒲池家に婿養子に入った。23年前の筑前の「多々良浜の戦い」で9代目蒲池武久を亡
くし、当主不在で滅びかけていた蒲池家の婿養子に入り娘と結婚し再興する。蒲池氏の
「地頭」職を継ぎ、蒲池久憲と名のり10代目を継ぎ蒲池家の勢力を拡大し、筑後随一
の「国人」へと発展し戦国大名に等しい勢力となる。次男の宇都宮資綱とその嫡子の、
大木知長(政長)は、瀬高町北大木にある宇都宮泰宗の大木城を再興して大木氏の祖と
なった。正平16年・康安元年(1361)南朝側の菊池勢は太宰府を支配下にし征西府を
おき以後、10年にわたって全盛期を現出した。


114: 名無しさんAA:19/03/19 14:06
 柳川 銭紋  110

 建徳2年・応安4年(1371)になると、南朝側の征西府は、室町幕府が派遣した
今川貞世(了俊)を使い隼人族日向、豊前などと入念に提携を組み これに敗れて少弐氏
が大宰府を回復した。文中2年・応安6年(1373)10月に大友親世と菊池武朝が肥後で
戦い、大友軍勢の蒲池久憲は田尻鑑安ら筑後諸将と竹井(高田町)に陣を構えたが、戦
いは菊池氏の勝利で終わる。元中9年明徳3年(1392)南北朝の合一がなって菊池
しが奉じていた南朝の「大塔の宮家」は柳川の柳の磯の宮に閉居の生活となった。天文
17年(1548)田尻親種(ちかたね)が筑後守護の大友義鑑(よしあき)から山門
郡の鷹尾(大和町)に250町の知行地を与えられると、矢部川河畔に新しく鷹尾城を
築き、これに移った。旧田尻城(高田町)には、一族の田尻左京を入れて城番とした。
田尻親種の妹は蒲池城主の蒲池鑑盛に嫁ぎ、姉は大木城主の大木統光に嫁ぎ3家は義兄
弟にあたる。天文19年(1550)、蒲池鑑盛、同鑑広は田尻鑑種、星野鑑乗らとと
もに大友勢に属し、西牟田氏や肥後の菊池義武は大友の従属下から離反し、筑後は緊張
状態となったが、豊後勢が進出してきたことで西牟田氏は降伏し、菊池義武も殺害され
事件は落着した。天文20年(1551)九州進出を目論んでいた防府(ほうふ山口)
の大内義隆が家臣・陶晴賢の謀反により亡くなると、少弐氏が佐嘉城を包囲龍造寺隆信
は一時、家臣たちによって肥前を追われ、肥前から逃げてきて助けを求めた。これに対
して蒲池鑑盛は2年近くも一木村に住まわせ、3百石をあてがい保護した。蒲池鑑盛は
仁愛の徳にあふれる武将であったのだ。3度の挙兵に、めげずに行く竜造寺に兵をつけ
送りだしている。2年後の1553年、龍造寺隆信は佐賀城を奪還し、主筋の少弐氏を
滅ぼした。こうして本格的に柳川城を本城に改築し、比翼鶴の秦氏の財源を頼った様だ
。蒲池物語では、蒲池氏は嵯峨源氏の流れを汲み、鎌倉時代には筑後国の三瀦〜柳川周
辺を代々治める地頭職で、室町幕府が始まった頃、蒲池家にはお姫様しかおらず女地頭
として頑張っていた。当主の蒲池武久が南北朝の戦いで亡くなって女地頭であるお姫様
はこのままでは家が廃れてしまう。と思い悩み神仏にすがる毎日をおくっていました。
ある夜、不思議な夢を見て高良山に参拝します。宇都宮久憲は下野国の宇都宮氏の流れ
を汲む人物で祖父貞久の代に九州に下向し瀬高の辺りを治めていました。同じ頃、この
久憲も不思議な夢を見て高良山へ参拝し、偶然二人が出会ってお互いに夢のお告げの話
をした所、明神様の加護に違いないと、不思議な縁で結ばれる事となりました。それで
この久憲が婿養子として蒲池の家を継いでくれたので蒲池家は滅ばずに家を残す事が出
来ました。という話が蒲池物語に記されている。実はカゴメ紋は六芒星(ろくぼうせい
、りくぼうせい)であるが、この鶏の籠に隠れて朝の曙声で捕まった事で、後に、今の
大善寺の橋で捕まった兄と共に殺された。この事で二ノ宮信徒所謂沖の端人は決して鶏
は食べない。としている。又代々この玉満橋の橋裏にはその伝説を記載して取りつけた
とされる。兄の方は「とうりゃんせ」の歌があり、この2つは蒲池氏悲話とされる。

115: 名無しさんAA:19/03/19 14:13
 柳川 銭紋  112

 永禄2年(1559)16代目の蒲池鑑盛は、筑後守護の大友氏の幕下にあり、独立
した戦国大名ではない。だが、山門郡、上妻郡、三潴郡など、数郡を支配して事実上、
戦国大名に等しい勢力であった。この年に柳川城を改築拡張を行ない、蒲池氏の本城と
した。柳川城の別名の舞鶴城と称し、家紋の左三巴のほか比翼鶴の家紋も使用していた
。興味深いのは、二ノ宮氏も祖先を蒲池氏で比翼鶴の家紋を使用して、戦国時代に筑後
十五城の筆頭として柳川を治めていた武将としている事だ。鎌倉幕府以降、筑後国の、
守護職は大友氏。大友氏が守護する筑後国を実質的に治めた15の国人領主を筑後十五
城と呼んだが、実は15城ではない。この呼び名は間違いで筑後15旗と呼ぶべきで、
これは15国人衆の筆頭家老の意味である。城そのものは100城くらいあった筈だ。
下蒲池氏・上蒲池氏・問註所氏・星野氏・黒木氏・黒木河崎氏・草野氏・丹波氏・高橋
氏・三原氏・西牟田氏・田尻氏・五条氏・溝口氏・三池氏を国人城主の地位にある。と
決めたのだ。これは従来の菊池氏の行っていた支配形態をそのまま踏襲したものだった
。そもそも戦国武将と言えども、本当の臣下の者は3割程度であり、他の7割は地域に
住していた、先住有力者であった。この先住の15の領主の下でも同じに下に家老など
は地元に城主となっていた。ちなみに鶴紋といえば日本航空の社章として有名な「鶴丸
」が一般的だが 、鶴の姿勢によって呼び方が変化する。ちなみに 飛んでいる様のもの
を「舞鶴」といい、上向きのものを「昇鶴」、下向きのものを「降鶴」という。起立し
た状態で一羽の場合は「一羽鶴」、二羽であれば「二羽鶴」といい 左右向かいあって
いるものを「対鶴」という。「対鶴」の場合、一羽は嘴を開き、もう一羽は嘴を閉じた
阿吽形を示すのが決まりであったがそれだけとも言えない。他にも菱形の「菱鶴」、嘴
を咬みあった「咬合鶴」など、図柄のバリエーションはまことに多彩である。清和源氏
の頼親流の石川氏、同じく義家流の森氏らが「鶴」紋を用いている。南部氏のほかに高
井左衛門が「松に鶴」としている。鶴紋や鶴の字は日本人様式の様に見られるが、実は
古代朝鮮皇子の家紋とされる。但し日本の家紋の様な鶴紋ではない。南部氏は清和源氏
武田氏の分かれで、甲斐国南巨摩郡南部邑より興ったとされる。すなわち新羅三郎義光
の五世の孫にあたる加賀美次郎遠光の三男光行をもって祖とする。と言われている。光
行は父遠光とともに鎌倉幕府の創業に尽して、幕府が成立すると源頼朝の側近として仕
え、文治五年(1189)の奥州征伐に従軍し、その功績によって糠部五郡を賜わったとい
う。南部氏の家紋は、「対い鶴に九曜」として知られる。本来は、南部光行の画像にも
見られるように武田氏族らしく「割菱紋」であったと言う。もともと鶴は飛来鳥である
北方民族で言う、八田烏=カササギ=勝ち烏で土属種ではあるが、鶴は巧妙な「片破鶴
紋」なる写真がでていて 千鳥紋や雀紋とは一線を画したデザインである。又鷹の紋と
鷲の紋の違いも良く知られていないし隼紋も鱗紋と間違えられやすいようだ。


116: 名無しさんAA:19/04/16 02:47 ID:vw
 柳川 銭紋  113

 牛王家紋は熊野牛王符(くまのごおうふ、熊野牛玉符)でおなじみだが、熊野三山で
配布される特殊な神札とされている。こうした神紋・祈祷札紋などは大体において焼く
 実は、瀬高に於いて昔の明治の頃の写真に「片破鶴紋」なる写真を見たが、はっきり
しないが3本脚の「八咫烏(ヤタガラス)」紋だったのかもしれない。八咫烏が三本足
であることが何を意味するかについては、諸説ある。熊野本宮大社では、八咫烏の三本
の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人とが、同じ
太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている。また、かつて熊野地方に勢力をも
った熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれる。しかしながら
、『古事記』や『日本書紀』には八咫烏が三本足であるとは記述されておらず、八咫烏
を 三本足とする最古の文献は、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」であり、こ
の頃に八咫烏が中国や朝鮮の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足
になったとされる。かつて高句麗があった地域(現在の北朝鮮)で古墳に描かれている
。一方、朝鮮半島南部(現在の韓国)にまでは広がっていなかった。日本神話の「東征
」において、八咫烏は瀬戸内海から近畿に進もうとした神武天皇の道案内を務めたとさ
れる。龍の指ないし爪も韓国製は5本中国伝記は3本日本は4本足と決まっているとい
われる。龍の自出も韓国は獣人伝説から、中国は月や山の使者や仙人伝説、日本は池の
鯉の瀧登りから、とそれぞれ伝説は決まっていると言われる。三足烏(さんそくう、さ
んぞくう)は神話や絵画などに見られる三本の足を持ったカラスのことで、アジア、ア
ナトリア半島、北アフリカなどに見られる神の鳥で、黒い烏は太陽の黒点を表している
という説まであり、基本的には火の鳥とされる。中国神話の烏では、太陽に住むとされ
太陽を象徴する。日烏(にちう)や火烏ともいい、月の兎の月兎と対比された物語であ
る。しばしば3本の足をもつとされ、三足烏とも呼ばれた事から同じとされる。また、
金色という説もあり、金烏(きんう)とも呼ばれる。三足烏の「金烏」の絵は、日本の
1712年(正徳2年)刊の「和漢三才図会」の天の部の「日」の項にも認められる。そも
生物学的には、カラスは、最も広義にはスズメ目カラス科の総称だ。通常はその一部と
され最も広義のカラス、つまりカラス科は、通常のカラスのほか、カケス類、サンジャ
ク類、オナガ類、カササギ類などを含む。とされる。カラス科の中で標準和名に「カラ
ス」(または「ガラス」)がある種は、ベニハシガラス属 Pyrrhocorax、ソデグロガラ
ス属 Zavattariornis 、サバクガラス属 Podoces 、ホシガラス属 Nucifraga 、コクマ
ルガラス属 Coloeus 、カラス属 Corvus の6種で、カラス科内でのカラスの範囲を 狭
義のカラス属としている。広義にはそれに近縁な数属がいて今だ分枝の決定はなされて
いない。今もコクマルガラス属 Coloeusは、独立属とするかカラス属に含めるか論争が
ある。



117: 名無しさんAA:19/04/16 02:48
 柳川 銭紋  114

 コクマルガラス属はそれでも今は「カラス属」とされる最も狭義のカラスにも含めら
れている。しかし、また、カササギ属のカササギは、標準和名には「カラス」はないが
、カチガラス、コウライガラスの異名を持つ。これらのほとんどは、かつてはカラス属
に近縁だろうと考えられていたからだ。しかし実際は、ホシガラス属・コクマルガラス
属はカラス属に近縁だが、ソデグロガラス属・サバクガラス属・ベニハシガラス属は離
れており、中でもベニハシガラス属はカラス科の中で最初に分岐している為、鷺種との
中間の鳥とされている。カササギ(鵲、Pica pica)は、鳥綱スズメ目カラス科 の1目
1種の留鳥である。別名にカチガラスもしくはコウライガラスがある。日本で日常的に
見られるカラス属のカラスは、留鳥のハシブトガラスとハシボソガラスの2種である。
日常語ではこれらの全身が黒いカラスを通常は区別されることはない。渡り鳥では、北
海道にワタリガラス、九州にミヤマガラスとコクマルガラスが冬鳥として飛来する。迷
鳥のニシコクマルガラスとイエガラスを含めると、計7種が日本に記録されて烏である
。カラス属以外では、ホシガラスが山間部に生息する。ハシブトガラスの場合、翼長は
32〜39cmと大型な鳥だ。鳥類の中で、最も知能が発達しているとされる。ある程度の社
会性を持っており、協力したり、鳴き声による意思の疎通を行っていると言う。遊戯行
動(電線にぶら下がる、滑り台で滑る、雪の斜面を仰向けで滑り降りるなど)をとるこ
とも観察されている。4色型色覚で色を識別でき、人間と同じRGBのカラーに加えて
紫外線も識別できる。人間の個体を見分けて記憶したり、植物・家畜やペットなどを含
む哺乳類・鳥類などを区別して認識できるといわれている。最近に多く増えた理由は、
藪や洞穴が減り蝙蝠種や蛇などの天敵に、赤ちゃんがさらわれなったからとされる。更
に気象変動で里まで住み着いて、雑食性から人間社会の残飯整理で肥えている。実は、
神武東征の縁から、三本足の烏は、野権現の神使とされ、神官鈴木氏とその後裔の家紋
として用いるようになった。熊野鈴木氏は饒速日命五世の孫千翁命の子孫といい、熊野
神に稲穂を捧げて穂積の姓を賜った。「穂積」とは積まれた稲穂のことで、神に一年間
の収穫を感謝し、稲穂を高く積む事によって神の降臨を願ったものである。稲穂を熊野
地方では「ススキ・スズキ」と呼んだところから、主に鈴木の漢字を充てられ、のちに
「宇井」「鈴木」「榎本」に分流した。中世、武家の間で誓約の神文を交わすときに用
いられたのは、八咫烏文字で描かれた熊野牛王神符であった。 地酒雑賀 烏紋は鈴木氏
の代表紋となり、鈴木氏が熊野権現の御使として、神官として全国に広まるとともに、
烏紋も広まっていった。一方、鈴木宗家は藤白神社神主家として続き、家紋は「稲穂丸
」、替紋は藤白にちなんで「藤の丸」、幕紋は「熊野烏」を用いた。また名字の起こり
である「ススキ=稲」から「稲紋」を用いる鈴木氏も多い。なかでも「烏」と「稲」を
組み合わせた「稲に烏紋」は、鈴木氏の成り立ちを表現した出色のものである。


118: 名無しさんAA:19/04/16 02:48
 柳川 銭紋  115

 では西部征討ではどうだったのか。菊池氏や英彦山族は皆んなが日足紋から発達した
菊の御紋や朝日紋に変化している。しかしこの九州制圧のち二つ鷹の羽や鷹容姿紋に変
わる。片羽鶴紋は、実は良く似たのがナチスの鷹の紋章だった。いまにして思えば、勝
手につると決めつけていたのかも知れない。ちなみにナチスの紋は鷹でなく鷲なのであ
る。何故鷲かといえばプロイセンそのものがローマ帝国の名残りで、ローマ帝国は双頭
の鷲を国旗や国章としていたのである。でこの双頭の鷲の紋章は盛んに変化して小公国
のエンプレムとして発案された。でなぜ鷲の羽かと言えば拝火教の影響であろうと言え
る。拝火教すなわちゾロアスター教は、古代ペルシアを起源の地とする善悪二元論的な
宗教である。『アヴェスター』を根本経典とする。ゾロアスター教の全寺院には、ザラ
スシュトラが点火したといわれる火が絶えることなく燃え続けており、寺院内には偶像
はなく、信者は炎に向かって礼拝する。中国では妖教(けんきょう)とも筆写されて、
唐代には「三夷教」の一つとして隆盛した。、パーシー教ないしパールシー教とも称さ
れる。ゾロアスター教の教義は、善と悪の二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確
定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教」と言われている。しかし、この
ゾロアスターが整備されたのは、世界最古の預言者といわれるザラスシュトラ(ゾロア
スター、ツァラトストラ)の生きた 紀元前1600年頃〜紀元前600年頃で、火の崇拝教は
紀元前6千年までさかのぼる事が出来る。従って拝火教そのものは紀元前4500年頃
に出来た物とされる。ゾロアスター教の守護霊は、「プラヴァシ」と呼ばれている鳥で
、プラヴァシは善をあらわし、また、この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起
こす霊的存在として象徴され、従って多くは人の頭と「プラヴァシ」の鳥の姿で象徴と
される。中世ゾロアスター教文献の神話によれば、世界の始まりの時にはズルワーンの
みが存在していた。彼は長い時間をかけて、全善なる存在を生み出して世界を治めさせ
ようとしたが、ある時それが可能なのかと疑念を抱いた。この心の迷いによって、ズル
ワーンの子は善なる存在と悪しき存在とに分裂してしまった。それが全善の神オフルマ
ズド(アフラ・マズダー)と全悪の神アフリマン(アンラ・マンユ)である。かくして
世界はこの双子の神々によって創造され、善と悪とが戦う戦場となったという。善思・
善口・善行を謳うこの宗教は、恐らく日本の公明・公正・正大の基本となったのであろ
う。実は大阿蘇神社は狛犬になったのは江戸以降で、ナマズのたった姿だったらしい。
田主丸の阿蘇神社にその名残りがある。しかしこの寺は橘の紋がある。橘紋は橘氏の代
表紋で主として橘氏流が用いている。使用家は中井、橘、薬師寺、山崎、土田、岩下、
野尻、福富、山脇、山口の諸氏と、たいへん多い。この神紋は恐らく黒田家の家紋であ
ったのだろう。大津山阿蘇神社は揃い鷹の羽紋である。鷹の羽は菊池の復興紋である。



119: 名無しさんAA:19/04/16 02:49
 柳川 銭紋  116

 この紋の話で言えば、祇園守紋がある。祇園守とは、京都東山にある八坂神社のお守
りをさす。祇園守紋の由来には、三つの説がある。すなわち祇園社の森の図案化、キリ
スト教の十字架の図案化、牛の頭部の図案化だが、いずれも決めてを欠いているがしか
し、江戸期では、キリシタン大名やその家臣がクルス紋を祇園守紋に変えてカモフラー
ジュしたことは確かな事だ。単に守紋ともいう祇園守紋は、クロスした筒が特徴。後世
筒は巻き物に変わったが、呪府のシンボルであることは変わらない。祇園守(ぎおんま
もり) 。祇園社は、牛頭天王を祀神とする八坂神社の事で、この社宮が配布する蘇民将
来符や粽を模った紋章となる。本来疫病や厄災から身を守るためのお守りであるが、隠
れキリシタンの使用とされた。もともと祇園守紋は、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔
嗚尊(すさのおのみこと)を祀神とする京都祇園社(現・八坂神社)が配布するお守り
を模ったものといわれ、八坂神社の裏紋であったといわれている。牛頭天王は釈迦の説
法を行ったとされる祇園精舎の守護神であり続け、日本では神道・仏教と混ざり合い、
素戔嗚尊であり、薬師如来でもあり、祇園天神や祇園大明神とも呼ばれた。ただ一方で
、疫病をもたらす疫神としても有名である。祇園祭は元来、疫神である牛頭天王を鎮め
るために始まったといわれています。そのため祇園守紋をよく観察すると、その中にさ
まざまな意図が隠されていることがわかります。中央下の銀杏のようなものは、笹の葉
で作られた厄病・災難除けのお守り「粽(ちまき)」を模っているといわれています。
また中央で交差している巻物は「牛頭天王之祭文」のお札であり、背後にある丸輪のよ
うなものは、「茅の輪くぐり」で有名な「茅輪」だと考えられます。「粽」も「牛頭天
王之祭文」も「茅の輪」も、すべて牛頭天王の疫病から身を守るためのお守りとされた
。そのため紋帳では「守(まもり)」の名で掲載されています。また中央で交差してい
る「牛頭天王之祭文」を十字架に見立てて、隠れキリシタンにもよく使用されました。
この祇園守紋は実は数10種あったとされる。大名でとくに有名なのが、備前岡山と因
幡鳥取の両池田氏、および九州柳河の大友氏流立花氏である。池田氏は清和源氏頼光流
を称し、本紋には輪蝶を用い、守を副紋として用いた。岡山のほうは札形、鳥取のほう
は鴨はし形を用いる。柳河の立花氏は、柳河守といって中心に二つ巴が入っている。こ
れらの大名は、一時家内にキリシタンがいたが、守紋と無理に結び付けることはないよ
うだが、実はクルス紋の変化形とされた。簡易型の巴紋・三つ巴紋・州浜紋・更に初期
の羽降る記章紋など、それぞれの家系の成り立ちが違う事を意味していたといわれる。
祇園守に二つ巴になっているのは二男であった立花氏の三池柳河守の分家久留米の柳川
守紋である。州浜紋は途絶えてしまった立花鎮幸の水田柳川守である三池藩分家立花家
に伝わる家紋も、三池藩立花家では中央で結ばない。三池藩(現・福岡県大牟田市)に伝
わる大蛇山は又刻記紋と呼ばれる祭事用の神社紋を使う。



120: 名無しさんAA:19/04/16 02:59
 柳川 銭紋  117

 立花守(たちばなまもり)は、守紋のひとつ。立花氏の定紋であり、柳川守との別称
もある。有名な戦国武将では九州きっての勇将と名高い立花宗茂が使用していた家紋と
されるが、実は宗茂死後に使われた紋である。細長い筒をクロスさせた図形を中央にお
き、そのまわりに銀杏の葉のような飾りがあしらわれた紋。この一風変わった紋は立花
家の定紋(公式の家紋)として用いられる祇園守紋です。祇園守紋は京都八坂神社の守
り札をあらわしたものとされています。中央の二本の筒が守り札で、銀杏の葉のような
飾りは、守り札に結ばれた緒がひらりと広がる様をあらわしているのでしょう。中心に
緒の結び目があらわされているのが特徴ですが、この結び目は形式化されて巴文のよう
な形にあらわされることもある。基本は京都の八坂神社の護符の筒守を象ったものだが
。祇園神崇拝に基づく紋章。戦国期以後は、禁教令で家紋が使えなくなったキリシタン
たちが、天主を天王に仮託して、この紋を用いた為に素盞雄神社は、頭の右に穴を置き
剣の刀身を現している。飯津佐和乃神社などは、波を現し簡素紋として中心を三つ巴紋
をあしらう事もある。加積神社は実は稲穂だったとされたが飯津佐和乃神社と一緒にな
ってしまっている。小石神社も実は素盞雄を祀っている。従って後に他と区別して剣を
中央に現したと思われる。ところがその理由は小石神社は江戸時代後期に赤い御霊石を
勝手に祀ったのが始まりで同じ紋章が飾れなかった事に起因する。この赤い御霊石は、
南橘村(現前橋市南橘町)の橘山にあった疫病にご利益があるという聖石である。当初
は八坂神社と言ったが、明治44年(1911年)神仏混合によって数社を合併し小石
神社となった。昭和46年(1971年)当地に遷座している。遷座前は大酉祭が行わ
れていた。現在では熊野神社で行われているという。ちなみに、ご神体の「赤い石」は
意外と大きく、色は黒っぽく溶岩のような石で非常に重いという。元々は小石だったが
大きく育って重くなったという伝説がある。社殿前には縁結び石がある。この石に触れ
ると素晴らしい出会いやご縁があるといわれる。見づらいが、石の両側から手を入れら
れるようになっており、中でつなぐとより一層結ばれるという類だ。この石についてい
た説明文には「素敵な出会いやご縁が訪れるかも?」「より一層結ばれるかも?」と、
と、最後に「かも」や「?」がついている何ともふがいない神様で予防線を張ている。
実は当初の立花氏は中結祇園流れ守と言う変わった紋を使っていた。しかし再封して、
矢部川の流れを変える大工事が完成してから広田の神主の意見で紋を変えた。細長い筒
をクロスさせた図形を中央におき、そのまわりに銀杏の葉のような飾りがあしらわれた
紋である。これには理由があったが、とりあえあずは護国報寿を願ったのである。この
筒の神文の巻物とされる。それが柳川にもたらされたのはキリスタンと僧兵の協力から
であり、「秘密の呪文を誦ずしますと、たちまちその雲気の中に、朦朧とした二尊の金
甲神」が、勇ましく金剛杵(こんごうしょ)をふりかざしながら現われるという、一種
のランプの魔神の様な、「艮の金神」(うしとらのこんじん)を蒲船津から細工町に移
したのである。この「艮の金神」とは、日本に古くから伝わる陰陽道の神で「金神」と
は“祟り神”のことで、また「艮」(うしとら)とは東北の意味で、もっとも恐れられ
る神だった。

121: 名無しさんAA:19/04/16 03:09
 柳川 銭紋  117

この一風変わった紋は立花家の定紋(公式の家紋)として用いられる柳川祇園守紋とさ
れた。祇園守紋は京都八坂神社の守り札をあらわし、中央の二本の筒が守り札で、銀杏
の葉のような飾りは、守り札に結ばれた緒がひらりと広がる様をあらわしている。中心
に緒の結び目があらわされているのが特徴ですが、この結び目は形式化されて巴文のよ
うな形にあらわされることもある『旧柳川藩志』によれば祇園守紋の由来は藩祖宗茂が
夢の中で祇園神のお告げを受け、「扇子の上に祇園守を載せたる様」を家紋としたこと
が初めとされます。この伝承の真偽のほどは定かではありませんが、立花家で初めのう
ちに用いられていた祇園守紋はご定紋とされる今の形とは異なるものだった。このこと
は、宗茂や鑑虎といった江戸時代初期の藩主所用の道具から確認できる。宗茂の肖像画
や鑑虎の具足にあらわされた3種の祇園守紋はくずし祇園守紋とされ、初期の用例であ
るとされる。その形はどこか絵画的で、まだ家紋として類型化していない印象を受ける
ほどだ。これらの紋は立花家の定紋に対してくずし祇園守紋と呼ばれているが正式には
いまの祇園守を45度傾けて、旗の中や扇子の中の祇園守紋として使っていた。おそら
く発生したばかりの祇園守紋であったのだろう。実は他に立花家で用いられる祇園守紋
は、くずし祇園守紋3種、定紋、扇祇園守紋、札祇園守紋の合計6種がある。大名家で
は複数の家紋を持つことは珍しいことではなく、立花家でも時代と共に家紋のヴァリエ
ーションはかなりあったと考えられる。複数の祇園守紋が散らさされた調度は華やかで
、見るものの目を楽しませませる程だ。もともと祇園守でなく、なびき白旗扇に祇園守
であった理由である。立花氏の仕えた大友宗麟はキリシタン大名であり、強制的に宗茂
も少なからず洗礼を受けたかもしれない。一方の池田氏はキリシタンとして知られた、
摂津池田氏の一族といい、摂津池田氏は「花形十字紋」を旗印に用いたことが知られて
いる。加えて、摂津から出たキリシタン大名中川清秀の子孫で豊後竹田藩に封じられた
中川氏は、抱き柏紋とともに中川車あるいは轡崩しと呼ばれる家紋を用いている。同紋
は、別名中川久留守紋といわれるように十字架を象ったものであった。実は中山校区で
の人頭に中川氏が来ているが、これは久留米のキリシタンが追われたのを引き取った事
であったと言われ、これが実は宗像からの松石なにがしの夢のお告げで矢部川の流れを
変える大工事をし大人形祭を作った所以である。と伝えられる。中川家はもともと摂津
の海賊である。中川氏の祖とされる清深は、頼光の後胤になる。鎌倉幕府方として戦い
、建武年間より摂津国豊島郡中川村に住し、中川を家号としたが、荒木氏と共に楠正行
と共にやってきている。新田氏祖の義重、足利氏祖の義康を出し、また義家の裔・頼朝
が鎌倉幕府初代将軍となるなどして、嫡流となった多田源氏、清和源氏頼光の流れであ
る。矢部川改良には、ここに宮地嶽神社がでてくる。宮地嶽神社略記によれば、宮地嶽
神社縁起で、柳川地方の信者一同相計って宮地嶽神社本社に御分霊を懇願し生命をかけ
るほどの熱意が実つて、慶応二年三月待ちに待つた御社殿が柳川の地に造営されました
お陰で当社は第一分霊社となりまして宮地嶽大神を祀る神社は宗像本宮と柳川だけとい
う由緒の深いお宮でございます。私どもの開運をお譲り下さる御神徳は幾千代までも極
みないことでありましょう。と書いている。御祭神を勝村大神=藤之高麿・息長足比売
命=神功皇后・勝頼大神=藤之助麿右三神を「宮地嶽三柱の大神」と申し上げ奉祀して
あります。としている。実は松石とはこの勝頼大神=藤之助麿右を家系とした宗像大社
の創宮氏の流れとなっている。


122: 名無しさんAA:19/04/16 03:15
 柳川 銭紋  118

、宮地嶽神社の祭神のとなった皇子の、勝頼大神=藤之助麿右は、高良宮大社の「起建
」でその名が書かれている。由緒書をもう一度読めば、筑後の神社縁起では、久留米の
高良大社の麓に鎮座する高良皇子神社(王子宮)高良皇子神社の祭神の一人である「朝
日豊盛ノ命」こそ宮地嶽神社の祭神のお一人である藤高麿勝村大明神とされる。高良宮
大社の「起建」で高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あって、人
皇二十代允恭天皇の御宇(412〜453)、高良の神の御託宣(おぼしめし)により阿志岐
山上に九躰の社を、大宮司孝成造立する。としている(古宝殿) 四八代称徳天皇神護
景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。とされた。つまり、
九躰皇子は「高良玉垂命の御子」と書かれています。九州の名はこの九躰皇子から来て
いる。
斯礼賀志ノ命神(シレガシ)        =志賀島の姫
朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)    =志賀島の中津姫
暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)    =志賀島の沖津姫
渕志ノ命神(フチシ)           =淵の国の国王
谿上ノ命神(タニガミ)、         =田仁神=稲作の神
那男美ノ命神(ナオミ)          =那の君の国王
坂本ノ命神(サカモト)          =都の国の国王
安志奇ノ命神(アシキ)          =亜志岐=紀伊の国
安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)      =亜裸帯=船の神
 中国の歴史上、漢民族は外の脅威に対抗し万里の長城は異民族の侵入を阻むために、
秦の頃から作られたものとされる。元がモンゴル国家だったように、国土が占領されて
しまうことを恐れた。後漢や三国時代は、異民族の勢力が衰えている頃だが、それでも
度々侵入があった。三国志演義では諸葛亮の南征し、三国時代は漢民族同士が正当性を
争って戦っている。つまり、外からの攻撃は絶対に避けるべき政体の要であった。倭国
と魏の往来ができるようになったのは公孫淵の反乱が鎮圧されたからだ。後漢末に朝鮮
半島北部は公孫度の支配下にあった。辺境で半独立としていたが、子の公孫康の時に、
曹操(後漢)に恭順する。公孫康は帯方郡を設置し、朝鮮半島と倭を支配下に置いた。
その後、公孫淵の支配になった際に、再び独立を画策。呉と共謀し魏に反発した。その
後燕王を名乗るまでになったため、魏の司馬懿によって制圧された。公孫氏が台頭して
倭を含む朝鮮半島についての記載が滞(とどこお)っています。このことから、倭から
の使者を公孫氏が遮っていた可能性が高い。この公孫淵の反乱の件で、魏は警戒心を高
めた。失敗は当然だが、それでも公孫淵は呉と共謀した時期がある。朝鮮半島より呉に
近い倭国が呉と連携されるのは厄介だったからだ。何しろ倭国は呉のすぐ東にある国と
考えられていた。こうした話しは邪馬台国前の話しとなる。


123: 名無しさんAA:19/04/16 03:16
 柳川 銭紋  119

 魏としては過剰な優遇をしても、憂いを断っておくのが安心だった。こうして倭国に
親魏倭王の称号を与えたのである。北と東の憂いがなくなったので、呉を警戒しつつも
侵攻を続ける蜀の対戦に集中できた。こうして「親魏倭王」の外交となった。親魏倭王
を与えられた卑弥呼は、魏の後ろ盾を得た筈だ。このことで倭国内はもとより、対立す
る狗奴国に対する牽制にもなった。親魏倭王を与えられて9年。狗奴国との対立の中で
、卑弥呼は死去し、倭国の王として、壱与(台与)が即位している。卑弥呼が死去した
とされる249年 には、今度は中国では司馬懿のクーデターが起こり、実質的に傀儡にな
ってしまう。親魏倭王の称号は卑弥呼に与えられ、壱与に引き継がれているかどうかは
残されていない。この時の遣隋使や遣唐使は大きく航路を変えている。変遷がわかるの
が遣唐使一行の中で、「訳語(おさ)」という役職の変化だ。読み方は「やくご」では
なく「おさ」です。通訳の仕事である。もともと日本には、古墳時代あたりから渡来人
がやってきて定住し帰化し、彼らが通訳として外交に貢献している。しかし、時代が下
ると、大陸の方に変化があり、覇権国の言葉が国そのものが変化していったため、日本
にそのものが、対応に追われた。これまでの定住し渡来人系の人々は、その役割をこな
せなくなっていったのだ。そのため渡来人の末裔から今の学僧に代わっていったのだろ
う。こうして遣隋使・遣唐使の経験者が務めるようになった。また航路も地図を見れば
、国内を大阪湾〜瀬戸内海〜博多湾まで船で進み、そこから方向が幾つもかわったのだ
。遣唐使が始まった頃は、壱岐・対馬経由で朝鮮半島の西海岸沿いを進み、渤海湾から
山東半島に向かうルートをとっていた。一番上の北向きラインの「北路(630〜665)」
である。しかし、663年の 白村江の戦い以降、このルートの新羅との国交が途絶えた。
ここを通れなくなってしまった。こうして新たに九州南端から種子島〜屋久島〜奄美大
島〜徳之島〜沖縄〜久米島〜石垣島〜東シナ海を渡り、揚子江を目指すルートがとられ
る。島周りライン「南島路(702〜752)」である。このルートで唐側知られ、鑑真和尚
がこの航路で来日した。しかし鑑真が来日まで六回もかかっている。つまりかなりに、
天候や荒波のもまれこのルートでは、大きな病気や怪我に見舞われた人が少なからずい
た。それでも日本は中国渡航の要求があり、航路を探した。福岡県〜佐賀県〜長崎県と
進み、五島列島付近から東シナ海を横断して揚子江岸へ、という「大洋南路 (773-838)
」である。これが採用されるようになったが、これは日本の各国王や豪族とのやり取り
も必要となった。それでも遣唐使が命がけだったことは歴史上知れる。往路・復路を問
わず難破し、諸々の苦難に遭った。空海と最澄が渡航した時4隻中2隻が難破してる。


124: 名無しさんAA:19/04/16 03:20
 柳川 銭紋  120

 途中の船酔いや病気が船にも蔓延した。重病になれば、唐に置き去りにされることも
あった。当時の状況や他の人達も命がけで、「そうせざるを得なかった実情」があった
。有名なのは阿倍仲麻呂の話では、現地に渡った後、詩人・李白と友達になった。天才
的な頭脳の持ち主で、遣唐使の目的の、「唐の制度・文物を導入するため」に多くの唐
の仕組みを持ち込んでいる。この中で、一定の時期までは外交上の駆け引きも行われて
いる。唐で遣唐使の一団が正月を迎えた式典に、新羅やチベットなどと遣唐使らの、ど
のような席次になるか、という件で揉めているのもそうした事が出来た状況があったの
だろう。次第に政治上の役割は薄れていき、再び学生や僧侶の勉強が重んじられるよう
になり、もっと実利的に、貿易における交渉のウエイトも高まっていきました。日本が
平安時代に入った頃は、唐も日本も社会的情勢が変わり、遣唐使そのもののの重要性も
薄れ正式に廃止された。寛平六年(894年)の事だ。そもそも 平安時代になってからの
遣唐使は延暦二十三年(804年)と承和五年(838年)の2回しか行っておらず、約60年
も中断されていた。その点だけでも「もう遣唐使いらない」という情勢が見える。唐に
「安史の乱(755〜763年・楊貴妃殺害)」の後から目に見えて衰えて、公的な関係を保
つ意義が薄れていた。安史の乱が終わってからの遣唐使で大陸に行って帰ってきた人は
、仏教でお馴染みの最澄・空海や、三筆の一人である橘逸勢(はやなり)などがいる。
彼らは少なからず朝廷との関わりがありましたし、私的な付き合いの場で、直に見た唐
の有様を話すこともあったと言える。それでも、唐や新羅の商人と日本との間で民間の
貿易は行われていましたので、わざわざ国から使節を送る意味もなくなったのである。
この遣唐使に、菅原道真は「危険を冒す遣唐使派遣の意義なし。お金もかかりやめるが
よいと思う」(意訳)と奏上し、これが受け入れられて遣唐使が停止されたのである。
この間取り入れられた文化にお茶を味わう文化がある。「喫茶」の習慣は、中国の唐王
朝(618〜907年)で広まり8世紀頃には、最古となるお茶の専門書「茶経」も記されて
いる。唐以前の時代には、お茶の持つ苦味を緩和させるため、生姜や紫蘇(しそ)など
の香味を入れて飲むのが主流だった。しかし「茶経」では「お茶の葉の美味しさを楽し
む事」が主張され広まり、茶葉だけのお茶が主流になった。この喫茶習慣は唐の習慣の
一つとして、遣唐使を通じて日本へ伝わった。最古の史料 では、弘仁六年(815年)に
嵯峨天皇が近江へ行幸した際、お寺でお茶を出されて「旨い。」と大喜びしたことが、
記録されている。近畿圏に茶の栽培を始めさせたとか。しかしこのお茶は煎茶や抹茶で
はなく、団茶でした。団茶とは、一度粉状にした茶葉を整形し、麹を植え付けて発酵さ
せたもの言わば紅茶に近い。まずは平戸・博多・栂尾・鎌倉などで茶の栽培ができて、
その後鎌倉時代になって宇治のお茶が出来た。こうして従来の団茶に加え、抹茶が飲ま
れるようになっていきました。南宋の禅僧の喫茶の風潮が僧社会に流行したからだ。
ところが実はこの瀬高清水寺は古くからあり、この空海と最澄も祈願して鷹尾神社から
大牟田の唐船に乗ったとされる伝説がある。大牟田と唐まで不定期船が船出していた。
というのである。


125: 名無しさんAA:19/04/16 03:34
 柳川 銭紋  121

 坂本 財(さかもとの たから)は、飛鳥時代の人物。姓は臣。坂本糠手の子とする
系図がある。冠位は大錦上、贈小紫で、672年 の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側
にたって戦い、河内から倭(大和)に来る敵を防いで敗れたとされる。この坂本衆とい
うのはどうも姓ではないようである。実は織田信長を撃った明智光秀は、坂本衆であっ
たといわれるからだ。坂本衆とはどうも船頭の事らしく船が川をのぼる事からの言葉で
あるらしい。坂木の元でそうした行き先を知る案内役で、昔は大きな大木を目印にうご
いていたからだ。柳川坂本町は、紀元前から逸話が残っていた地で蒲池柳川城以前の城
の中心だったと言われている。その裏に鷹の秦家からの山王宮が祀られたのは当然のそ
れなりの理由があった。万葉集の歌に「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都とな
しつ」(四二六一、読み人知らず)とある。しかしその後柿本人麻呂天皇記に全く似た
様な歌を2句差し出している
「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも」という歌と、もう一つ
「大君は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きいます」と言う句だ。読み方は、
(おほきみは かみにしませば あまくもの いかづちのうへに いほりせるかも)と
(おほきみは かみにしませば くもがくる いかづちやまに みやしきいます)であ
る。 天武天皇元年(672)六月の条、原文は、「天皇於茲、行宮興野上而居焉。此夜。
雷電雨甚。則天皇祈之日。天神地祇扶朕者。雷雨息矣。言訖即雷雨止之。」と書いてい
る。重要なのは漢字が、後に来たか。先に来たか。である。つまり時代がどっちが先か
と言う事になる。恐らく二句も作っているのは、真似たからだろう。ここで高良の神の
名前について言えば斯礼賀志ノ命神(シレガシ)と言えば足柄山の金太郎で解るように
強き高き山の意味であるつまり=日子山=英彦山の神と言う事であろう。朝日豊盛ノ命
神(アサヒトヨサカリ)朝日の昇る山=朝日嶽=栂牟礼山と言う事になる。と当然暮日
豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)は日の沈む所=久保山=脊振山の神であろう。なぜ、
長崎の加羅岳でないのか、それが次の渕志ノ命神(フチシ)鏡山の神=沖津の神という
事で出せないからだ。すると逆の大分の豊前や豊後は谿上ノ命神(タニガミ)、津の神
=中津の神となる。那男美ノ命神(ナオミ)その中間地「仲御見」=那珂の神であり、
これが白兎族「博人」の足長族と思われる。坂本ノ命神(サカモト)=サイノカミ(幸
神)=出雲の神、安志奇ノ命神(アシキ)=高千穂の神=隼人族、安楽応宝秘ノ命神(
アラオホビ)=新(荒)帯(褒美)=新天地=紀伊の神と言う事なのだろう。つまり、
「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ」つまり、本当のおおきみは水鳥
の住んでいる水沼の地の都にいます。と報告しているのである。


126: 名無しさんAA:19/04/16 03:34
 柳川 銭紋  122

 水沼氏とか水間氏は全国的に散在する。だが水沼君とか水沼県主、水沼別が記紀など
の古典にも出てくるのは、筑紫平野一帯に勢力があった著名な一族で達である。水沼君
、水沼県主、水間君、水沼別が同族かどうかは諸説あるが、一応は筑後国三潴郡(現・
久留米市三潴町)を本拠にしていた氏族と言うこととなっている。とかく、筑後は筑前
に比べ華やかなところはなく、その豪族と言っても古墳や発掘遺物から見て筑前と比べ
るとかなり見劣りがする。しかしそれは、先に発達し石炭他煉瓦土や農業などで荒らさ
れて明治時代を迎え、更に殊更福岡県は軍都の建設が強く、過去の文献文物更に遺構や
遺跡が壊され続けて来たからである上、そうした風潮が今でも残っていて大事にしない
。従って、歴史に表立って出てくる豪族も高良玉垂命、水沼君、筑紫君くらいなもので
浮羽の君も、犬飼氏も、鳥飼氏も、今や探すのは困難である。但し、筑紫君は八女市に
ある岩戸山古墳を筑紫君磐井の墓と仮定したものであり、「磐井の子の筑紫君葛子は、
糟屋(現・福岡県糟屋郡)の屯倉を大和王権に献上して死罪を免れた」とあり、筑紫君
の本拠は今の福岡市だった可能性が高いとされている。残るは、高良玉垂命にまつわる
氏族と水沼系氏族であるが、高良玉垂命はその子孫がはっきりせず、結局、筑後の有力
氏族となると水沼系の氏族だけである。その水沼氏も水沼県主とか水沼君とか水沼別と
か複数の氏族かとも思われる表記がなされている。一応、「日本書紀」で水沼、水間らの
関係箇所を見てみると、神代上 第六段に「其の十握剣は、是素戔嗚尊の物なり。故、
この三の女神は、悉くに是爾が児なり」とのたまいて、便ち、素戔嗚尊に授けたまう。
此則ち、筑紫の胸肩君等が祭る神、是也。又神代上 第六段一書第三には、即ち日神の
生れませる三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中
に存す。号けて道主貴と日す。此筑紫の水沼君等が祭る神、是也。景行天皇十八年七月
七日。時に水沼県主猿大海、奏して言さく、「女神有します。名を八女津媛と日す。常
に山の中に居します」雄略天皇十年九月四日。身狭村主青等、呉の献れる二の鵞を将て
、筑紫に到る。此の鵞、水間君の犬の為に喰われて死ぬ。是によりて、水間君、恐怖り
憂愁えて、自ら黙あること能わずして、鴻十隻と養鳥人とを献りて、罪を贖うことを請
す。天皇、許し給う。とある。要約すれば、一つは十握剣は、是素戔嗚尊の物だったが
この子孫として三人の女神が、葦原中国の宇佐嶋に保管していた。そして一つは、葦原
中国の宇佐嶋に道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として
航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。(アマテラスとス
サノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神の別名が道主貴とされる。)


127: 名無しさんAA:19/04/16 03:38
 柳川 銭紋  123

 つまり天皇に水沼県主猿大海(みぬまのさるおおみ)は、「女神有します。名を八女
津媛と日す」と説明したと言う事だ。又別の、雄略天皇が来た時、身狭青(むさの あお
:日本古代の官吏・側近・豪族。この外交官の東漢氏(倭漢氏:やまとのあやうじ)配下
の渡来人(帰化人)系の人物達)をつれて来た。彼らは、わざわざ鷹を呉地方から連れて
来たが筑紫では犬に食われて死んでしまい。水沼君は直ぐにおののき、鴻十隻と養鳥人
とを献りて、罪を贖うた。ここで天皇は許した。とされる。鴻(こう)とは大きな鳥で
、十隻とはそれを扱う船だ。養鳥人とは鵜飼いの人をさす。つまり鳥飼いを差し出した
のだ。八女の鴻の池(こうのいけ)はその伝統的な池だった。この物語は筑後でも多く
語り継がれて来ている。実はこの時降り立ったのは福岡では無い。実は恐らくは長洲当
たりに着いただろう。と言われている。彼らの鷹は道案内と食糧供給の為だった。その
為、大牟田吉野の近くを行幸し吉野とは、天皇が付けた名だと言われる。更に鷹が殺さ
れたのは八女であり、その代わりに食糧供給したのは、鳥飼氏だったとされる。だが、
この鳥飼氏も、鳥が飲み込んだ魚を取りだし焼いていたのが解り天皇は怒って殺されて
しまう。それが、鳥飼と言う地名になったと言われている。これが八女の鴻池伝説だ。
私は、水沼がそのまま三瀦の呼び名になったとは思わない。み・つま=三の妻で、この
宗像三神の前形がこの地にあって、三っつの国が各地の豪族を持っていて広大だった。
と思う。そして菊池族からこう呼ばれたのではないか。と思っている。三潴町の高三瀦
に本拠を構えた氏族は、ご先祖様を弓頭神社に祀っている。この神社の故事によれば、
水沼別(みぬまわけ)の始祖、国乳別(くにちわけ)皇子を主祭神とするといい、成務
天皇紀で「吾が国造(くにのみやつこ)を任命する時には必ず楯矛を授けて証とする。
」とあって、第12代景行天皇の皇子、国乳別皇子が「古式にのっとり、弓矢楯矛を頂
き下向し、高三瀦の地に在所を定めて、久しく筑紫地方を治められた。」と書かれた。
とここの由来をするものとしている。高三瀦は水沼の君累代の政治の地で、古代行政と
文化の中心として繁栄した所である。と言う古伝説には「神功皇后韓攻撃の時、弓大将
だったために、弓頭大明神と称えられた。」と言い伝えられた為に弓頭神社となった。
という。国乳別皇子のお墓は烏帽子塚(弓頭神社御廟塚ともいう)と称し、本社の西北
3町(約300m)ばかりの所にある。明治6年6月、郷社に定められる。水沼別と言
うと筑紫の君磐井のことを『先代旧事本紀』に、物部の阿遅古(アジコ)の連は筑紫の
ミヌマの君の祖なり。とあり筑紫の君磐井は 玉垂命の子孫としている。「高良玉垂宮
神秘書」ではヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズの尊は住吉大明神であり、明星天子の
垂迹である。(垂迹とは、菩薩が人々を救済するために仮の姿をとって現れること)と
ここで 一挙に嘘になる。つまり垂迹などというのは鎌倉以降の話だからだ。私には、
塚本家と言う縁戚がある。だがこの塚本家と言うのは、筑後川の戦いで古墳の守役だっ
たのが逃げてきて筑後に収まったとされる。田中吉正時代にも更に追われこの地に来た
というのだ。

128: 名無しさんAA:19/04/16 10:27
 柳川 銭紋  124

 ところが、この阿遅古(アジコ)の連の話は奥がふかく、さかなにも「あじこ」膨れ
た勢いの魚の呼称で残る。「阿遅古連」の話は、肥前風土記姫社伝は、神功 摂政301年
頃の話とされる。姫社(ひめこそ)の郷の荒ぶる神を鎮める話である。道行く人が倒れ
るので、宗像郡の阿遅古連に祀るようにと、荒神が催促しにきた。そこで阿遅古連が占
うと幡を飛ばし、落ちた所は、姫社の社だった。ここで女神と解り、姫社神社とした。
というのだ。この地は、小郡市大崎町:七夕神社(肥前風土記)の話である。ここは、
宝満川流域で、下流で筑後川と合流する所だ。ここでの呼び名はアジコではなく、漢音
アチコ、呉音アジク、です。阿遅古は、漢音アチコです。従って、閼智古と同じです。
閼智古は、閼智の箱の義です。この場合、女神でした。こうらさんは今は「高良」と書
くが、慶州新羅の羅は織物を示す言葉とされる。つまり、高羅と言う質の良い織物がこ
こに生産されていた事を示すと言う。末羅の羅も、やはり織女や天照大神を担いだ集団
で天照大神の神話でもその織女集団だった事は出てくる。天照大神は、羅(うすきぬ)
を作る織り女の師匠で、慶州新羅の初代赫居世は、女性に布織の速さを競わせている。
豊前刈田町の金富神社は、絹で、羅(うすきぬ)です。157年に辛島氏が来ているが、彼
は辛嶋や韓島とも書かれた渡来人である。慶州新羅の羅が決定的で、末羅の羅もやはり
織女や天照大神を担いだ集団だった。とされる。女王を立てた狗奴国王:卑弥弓呼素は
、邪馬壹國王を引き継いで、天照大神を立てたとされる。旧瀬高町に女山(ぞやま)の
頂上には、男神女神を祀って居る。筑後の八女地名は、羽衣、天女と関係しており、地
上におりて、福の神になり、幸をもたらす神だった。天日矛の場合には、行いが悪く逆
に敵になる。玉を得た天日矛は、玉が姫となり婚姻したが、天日矛は、妻を粗末にする
ので、妻は本国の姫社へ逃げたとされる。しかし、追跡を畏れ、姫社へは帰らず、難波
に行った。と言うのである。天日矛はつまり天日子と天日矛と二人いた事になっている
のである。高良大社(筑後の一宮)は、織り女を祀る七夕神社のほぼ真南に高良玉垂神
社(たからたまたれ)を祀る神社は、宝玉垂命が誰なのか、諸説があって不詳だが、こ
の神が水沼から来た神である。濫觴(らんしょう)は事の始まりの意味で、久留米は宝
満山の竃門だから、鍛冶神の坐するところで、巨石がゴロゴロとある。鍛冶と鷲は一対
とされる。高良山は、もと、高木神の坐するところだったが、宿を借りたいと玉垂命が
来たので、宿らせてから、玉垂命となった。蘇民将来は民間信仰で今でも「蘇民将来」
と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されて
おり、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。つまりここの神も又
(スサノオ)で宿を借りたのだ。決定的な国建ち神話である。五芒星(ごぼうせい)は
、五光星、五稜星あるいは五角星と呼ばれる5つの角を持つ星マークは晴明紋とされる



129: 名無しさんAA:19/04/16 10:46
 柳川 銭紋  125

 蘇民将来という人物は、様々ある蘇民将来伝説のいずれの中でも、スサノオノミコト
もしくは、牛頭天王より、「茅の輪を飾り、蘇民将来の子孫の家ですと書いたお札を付
けていれば厄災や禍を除くことができる」というお言葉をもらいそれを伝統にした。そ
してその言葉の通りに実践したことによって蘇民将来の家は長く繁栄をしたとされる。
箱崎は神宮皇后の朝鮮征伐で勝って我が子の遺体を香木の香椎宮で病死した仲哀天皇を
葬りその後祀りの御棺を流す船を作った所として箱崎の名がついた。しかし箱崎に元宮
は筑穂町の大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)であるとされる。仲哀天皇は第四子の、
応神天皇(おうじんてんのう)を神宮皇后との中で九州で産んだとされる。この応神天
皇を祀って神宮皇后と共に奈良に送り届けたのが武内宿禰(たけのうちすくね)とされ
る。まず八幡宮のいわれだがこれは朝鮮征伐時に紅白の長い帯旗によって、戦い勝った
事に起因する。志賀の浦八幡宮は今は志賀海神社となりの創建は明らかではない。古く
は志賀島北部の勝馬に「表津宮」「仲津宮」「沖津宮」の三社が建てられ、それぞれが
「表津綿津見神」「仲津綿津見神」「底津綿津見神」が祀られて今の宗像大社の祀りに
なっている。二〜四世紀の間になって表津宮を勝山の麓である現在の場所に遷座し、併
せて仲津綿津見神、表津綿津見神が奉祀されたと伝えられています。綿津見三神を祖神
とする阿曇族が代々奉斎してきました。平城天皇時代の大同元年(八〇六年)に阿曇神に
神封八戸が寄進され、清和天皇の貞観元年(八五九年)に従五位上の神階が授けられた。
南北朝の頃には衰微しましたが、大内持世が再興し、さらに豊臣秀吉が50石を寄進し
ています。小早川隆景、黒田長政なども崇敬している。この事でこの旗船の帰還から、
神宮皇后=大帯姫(おおたらしひめ)とも称されたとされる。筥崎宮の元宮の大分八幡
宮(だいぶはちまんぐう)の社伝によれば、この神社がある場所は神功皇后が三韓征伐
の帰途に一時逗留した地であるという事から。、奈良時代の神亀3年(726年)に移設創
建されという。『筥崎宮縁起』(石清水八幡宮記録)によれば、平安時代の延喜21年に
(921年)箱崎浜(現福岡市東区箱崎)への遷座の託宣があって、延長元年(923年)に
遷座したのが筥崎宮の始まりで、宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』にも、
筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮
へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていた。創建当時には社殿は
現在地より後方の丘陵上にあったが、戦国時代に戦乱のため焼失。天正5年(1577年)
に秋月種実が現在地に再建した。明治5年(1872年)郷社に列し、平成に大修理が行な
われている。この蘇民将来がイスラエルでモーゼの伝説出エジプト記に全く同じとされ
茅野輪くぐりはモーセが地下神殿の洞窟に流れる川から流された記録と同じとされ、さ
らにこの五芒星(ごぼうせい)の5つの角を持つ星マークの晴明紋が昔の久留米紋とさ
れた着物のデザインで初期の玉垂れ宮の社寺紋である事はかなり異様な博多の歴史でも
ある。



130: 名無しさんAA:19/04/16 10:48
 柳川 銭紋  126

『古事記』応神天皇記では、その昔に新羅王子を自称する天之日矛が渡来した。として
その渡来の理由を次のように記す。新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」とい
う名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のよ
うに輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺って
いた卑しい男は、その赤玉をもらい受けた。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の
子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞
うて赤玉を献上した。天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい
少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかし、ある時
に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船
に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流
比売神であるという(大阪府大阪市の比売許曾神社に比定)。天之日矛は、妻が逃げた
ことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたり
のかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国
に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見
(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。
そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)に至る系譜
を伝える。また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種
、 珠 2貫、浪振る比礼(なみふるひれ)、浪切る比礼(なみきるひれ)、風振る比礼
(かぜふるひれ)、風切る比礼(かぜきるひれ)、奥津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(
へつかがみ)であったとする。そしてこれらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえの
おおかみ)」と称されるという。(兵庫県豊岡市の出石神社祭神に比定)。『古事記』
では、その後続けてこの伊豆志大神についての物語が記されている。伊豆志大神につい
ては山陰山陽の中国地方の話となっている。天日槍の一族は、系譜の淵源を「檀君伝説
の古朝鮮の王」に発したという伝承を持ち、弁韓に移遷してその王となり、さらに日本
列島に渡ってきたとされる。その所伝は牛頭山や天日槍関連の地名分布とよく符合する
。しかし、天日槍(アメノヒボコ)は、息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后
)の祖ともされたりする。『日本書紀』に記される播磨→近江→若狭→但馬という遍歴
は、この集団の移動または分布を反映するといわれ、アメノヒボコを主祭神とする但馬
国一宮 出石神社には、八種神宝を八前大神として祀っており、禁足地には、「霊廟」
とされていて、アメノヒボコの神霊が祀られている。つまり、新羅から攻められたのは
九州ではなく、京都近くの山陰地方だった事になる。

131: 名無しさんAA:19/04/16 10:58
 柳川 銭紋  127

『播磨国風土記』では、天日槍について次のような地名起源説話が記されている。揖保
郡揖保里粒丘条では、客神(外来神)の天日槍命が、韓の国から海を渡って宇頭川(揖
保川・林田川の合流点付近の川辺に着き、当地の長たる葦原志挙乎命(あしはらのしこ
おのみこと)に宿所としての土地を求めると、志挙は海中に宿ることのみを許した。こ
れを受けて天日槍命は剣で海をかき回し、出来た島に宿った。志挙はその霊力に畏れを
なし、天日槍命よりも先に国を抑えるべく北上し、粒丘に至って食事を取った。その時
に口から飯粒が落ちたため、「粒丘(いいぼおか)」と称されたという。また川音村は
天日槍命が村に泊まって「川の音がとても高い」と言ったので「川音村(かわとのむら
)」と称されるという。葦原志許乎命と天日槍命の2神が谷を奪い合った「奪谷(うば
いだに)」と称され、天日槍命が「この村の高さは他の村に優っている」と言ったので
「高家(たかや)」と称され、葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時、い
ななく馬がこの川で2神に遭遇したため「伊奈加川(いなかがわ)」と称される。原志
許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に
付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)
、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」の原と称されるという。一方、
天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のも
のとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた
)」と称される。伊和大神と天日桙命の2神が軍を起こして戦った際、大神の軍が集ま
って稲をつき、その糠が集まって丘となったが、その箕を落とした糠を墓といい、また
「城牟礼山(きむれやま)」というとする。『筑前国風土記』逸文では、足仲彦天皇(
仲哀天皇)による球磨・囎唹(くま・そお:総じて熊襲)征伐のための筑紫行幸の際、
怡土県主(いとのあがたぬし:福岡県糸島市付近の県主)らの祖の五十迹手(いとで)
が出迎え、五十迹手はその言の中で、自分を高麗国(朝鮮の総称か)の意呂山(不詳。
一説では蔚山)に天降った日桙の後裔としている。他にアメノヒボコの名はないが関連
伝承として、『摂津国風土記』逸文によると、応神天皇の時に新羅国の女神が夫のもと
を逃れ、筑紫国の「伊波比乃比売島」に住んだ(一説では豊後国ながら大分県の姫島)
。しかしこの島はまだ新羅から遠くないため男がやって来るだろうと、さらに摂津国の
比売島松原に移った。そしてその地名「比売島」は元の島の名を取ったことに由来する
。としている。また『豊前国風土記』逸文『宇佐宮託宣集』では、新羅国の神がやって
来て田河郡鹿春郷の付近に住み「鹿春の神(かわらのかみ)」と称されたとする伝承を
記す(福岡県田川郡香春町の香春神社に比定)。 こうした伝説をみると朝鮮半島は九州
王国に属し邪馬台国以降は鳥取兵庫あたりが、大和朝廷との境界線であったらしく、こ
こで取り合った場所が正に尼子氏の金鉱山であり播磨の国だった事になる。つまりは、
今の出雲大社は実は朝鮮を含めた九州族と関東を含めた大和族更に四国を含めた隼人族
の会談場所だった可能性が高く他に東北北陸部を含めたツングース族やアイヌが居た様
な可能性も高い。


132: 名無しさんAA:19/04/16 11:07
 柳川 銭紋  128

 慶州新羅では当時は、天山をトウ利など言って匈奴語を話しています。因って、日本
の百済が中国へ通訳を兼ねて道案内します。なお天山は、九州佐賀に在る。こうなると
筑後三輪町の三輪神社伝承が気になる。大三輪(大物主、大巳貴、少彦那)を神功皇后
が祀る神社だ。倭国に大倭へ入るために助けを求めて来た。と言う話である。ここは、
大物主の威光の広矛や光鋒つまり、盾や鉾や剣を作り船を仕立て、都奪還に3〜4年を
擁し計画を練った。「弓頭神社(ゆみがしらじんじゃ)」は三潴町内最古の神社として
知られ、お祀(まつ)りしているのは水沼別(みぬまわけ=水別君(みぬまのきみ)=景
行天皇の子孫とされる筑紫地方の古代豪族)の始祖:国乳別皇子(くにちわけのみこ)
だ。冊封国家は中国王朝の臣下の儀礼として原則的に毎年の朝貢の義務を持って貿易を
していた。又冊封を受けていない国で朝貢自体は行うことが出来た為先の遣隋使や遣唐
使を派遣したとしている。しかし朝貢使(ちょうこうし)としては、渤海との貿易にお
いての影響や実益の方が非常に高かったと言えるはずだ。渤海の側が日本に対して渤海
使を派遣し渤海側は日本に対し「朝貢」をし、当時の日本の国力では、毎年の「朝貢」
に対して回賜を行う能力は無く、12年に1度に制限するに至るほどだった。つまり、
渤海使側は毎年来れる程力があり、日本側が答えられなかった。と言う訳である。遣隋
使(けんずいし)は、推古朝の時代、倭国が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢
使で、600年(推古8年)〜618年(推古26年)の18年間に5回以上ぐらいの派遣だが、
遣渤海使(けんぼっかいし)は、日本からの渤海へ728年から811年までの間に14回(う
ち1回は渤海経由の遣唐使)の使節が記録に残っている。遣唐使では、大阪の住吉大社
近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出て難波津を経て、
瀬戸内海を筑紫(九州)那大津へ向かい、そこから玄界灘に出る。としている。しかし
これは恐らく虚実であろう。と思う。玄界灘に日本側から出れば、海流によって朝鮮で
はなく、今のサハリンや良くて沿海州の沿岸のウラジオストック当たりだと考えられる
からだ。つまり、エンジンの無い当時の船では、遣唐使や遣隋使より渤海使の方が遥か
に簡単だったのである。渤海使は日本海側の山陰から北陸、東北にかけて、多くの津に
上陸した。前半は東北から西南の広い範囲に着岸したが、次第に西南の範囲になった。
それは航海術の発達や気候の知見によるものと思われる。前半では出羽国・佐渡国に計
八回も到着しているが、後半ではすべて能登国以西となっている。上陸後の渤海使は、
北陸道で平城京、平安京を目指したが、入京となるか現地より放還となるか、いずれに
しろ、来航した現地では「安置」すなわち一時的に滞在させ、食料や衣料など生活物資
が供給された。「安置」する場合は、史料には「便処」に「安置」したことがみえるが
、具体的には「郡家」(天長五年正月二日太政官符)のほか、国府または駅館などが利
用されたと思われる。松原の「客館」などに移送されたと思われる。こうなると大宰府
の鴻臚館(こうろかん)など後の時代に、外国の使節を接待した館が出来たが、筑紫(
福岡市)・大和宮都の外港である難波(大阪)・平安京(京都)の3ヶ所に置かれる前
に此処らに大きくあった可能性が強くある。山陰が大きく紀元300年頃中枢の外交場
としてあっても不思議ではない。海上を除いて一番台風が来ない所といえるからだ。つ
まり縄文時代東北もサハリンももっと温かかった気候とおもわれる。それが丸山遺跡で
は証明されている。隼人族の北上も実は温暖化による海の上昇だったかもしれない。


133: 名無しさんAA:19/04/16 11:29
 柳川 銭紋  129

 つまり、当時は民間交易として、公式の渤海使と並行して活発で、民間による交易も
敦賀津を経由して渤海とかなり多く行われていたと思われる。遣唐使交流とは別に大陸
の(唐・新羅)文物が流入していたが、これが渤海使が日本にもたらした物だった。貂や
大虫(虎)の毛皮など皮革製品や蜂蜜や人参など自然採集品が中心であったが文物書物
もあっただろう。また、日本からは絹・綿・糸など繊維製品、黄金・水銀・漆・海石榴
油(つばき油)・水精念珠(すいしょうねんじゅ)・檳榔(びんろう:椰子の実)の扇
などであった。遣隋使は倭の五王による南朝への奉献以来、約1世紀を経て再開された
。遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主で、朝鮮半島
での影響力維持の意図もあった。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。
推古天皇のとき、聖徳太子が中国の隋へ派遣を目指した使節で、第1回は『隋書』には
、推古8 (600) 年,倭王の使者,隋にいたるとみえるが,日本側の記録は見当らない。
第2回 (『日本書紀』では第1回) は同15年,小野妹子を大使として派遣。国書には
「日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す」とあった。第3回は同16年に、
妹子が隋使裴世清らを伴って帰朝後,裴世清の帰国を送って再び渡隋、このとき学生の
高向玄理、学問僧旻、南淵請安、慧隠らを随行した。彼ら留学僧は帰朝後,大化改新に
貢献している。最後は同22年、犬上御田鍬を大使として派遣。のち遣唐使に引継がれ
た。この事を見れば、恐らく仏教伝来は朝鮮半島でなくロシア沿海州つまり渤海からの
ものと考えられる。つまり朝鮮半島はもともと仏教国では無かったのである。そこで、
改めて中国に渡って仏教の教えを取ろうと遣隋使を派遣したものと思われる。この頃の
古代人にとって、日本海は大きな湖で関門海峡などは大きな川の河口にしか思えなかっ
たのではあるまいか。不思議な事はまだある。阿倍仲麻呂伝説である。「三国相伝陰陽
管轄笙筧内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょ
くとしゅう」である。これは諸説はあるものの安倍晴明が編纂したと伝承される占いの
専門・実用書とされている。実際は晴明死後(成立年代は諸説ある)に作られたもので
ある。この『金烏玉兎集』の注釈書で江戸時代初期までに出版されたと推察されている
。本書は天竺で文殊菩薩が書いたもので、その後伯道上人に伝えられ、これが吉備真備
の手に渡り、その際吉備真備に助力した安部仲丸(遣唐使として唐に渡った後死して鬼
と化している)の子孫である晴明に伝えられたと記されている。渤海は698年におい
て(持統12)大陸に渤海(698年 - 926年)に国が成立した。と言う。高麗国(朝鮮)の遺民(
君主や王朝が滅びたのちも生き残って、遺風を伝えている民) 大祚栄により建国された
。つまりこの国は紀元3〜500年代には無かったのである。だが大陸では突厥(とっ
けつ)国があり6世紀に中央にテュルク系遊牧国家としていたようなのだ。ジュンガル
盆地からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ
山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したと言う。552年に 柔然から独
立した。大国の柔然の始祖は木骨閭といい、故にその王族は郁久閭(いくきゅうりょ)
氏と言い3世紀ごろには鮮卑拓跋部に従属していたが、鮮卑が華北へ移住した後のモン
ゴル高原で勢力を拡大し、5世紀初めの社崙の時代に高車を服属させてタリム盆地一帯
を支配し、拓跋部によって建てられた華北の北魏と対立している。つまり鮮卑柔然族や
社崙東胡族の送可汗使(そうかがんし)が、遣唐使の様に来ていたはずなのである。何
故なら仏教以前に拝火教が日本に伝えられているからだ。


134: 名無しさんAA:19/04/16 11:41
 柳川 銭紋  130

柳川神文経とされる、柳川牛頭祇園守紋(ごずぎおんもりもん)の中心の巻物について
は、時の元正天皇(げんしょうてんのう)の話となる。その頃一番の英才と知られた阿倍
仲麻呂(あべのなかまろ)は天皇からの勅命(ちょくめい)が下り、唐の国、第一の宝物で
ある「三国相伝陰陽管轄笙筧内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほき
ないでんきんうぎょくとしゅう」を譲り受けるべく、唐の国に渡る事になった。中国の
玄宗皇帝は、始め、「笙筧内伝金烏玉兎集」を渡す事を惜しみ拒否するのですが、阿倍
仲麻呂は勅命であるので、唐において修行する事になった。住みついてやがては、阿倍
仲麻呂の才能に打たれて、寵愛し、重用するようになっていった。そして、阿倍仲麻呂
は、ついに、玄宗皇帝からこの「内伝金烏玉兎集」を譲るとの約束を取り付けるまでに
至ったのである。しかし、阿倍仲麻呂は、玄宗皇帝の仲麻呂の重用を、危ぶんだ安禄山
(あんろくざん)と楊国忠(ようこくちゅう)によって、高楼(こうろう)に閉じ込められ殺
されてしまう。その後、阿倍仲麻呂は鬼と変じ、唐の国の人々を脅かしたといわれる。
阿倍仲麻呂が唐の国に渡ってから数年のち。仲麻呂からは、何の連絡もなく、日本では
、阿倍仲麻呂は、唐の国に魂を売ったのだという噂が出ていた。阿倍仲麻呂が逆臣(ぎ
ゃくしん)の汚名をきせられ、家族の者は、官位を奪われ、所領(しょりょう)を没収さ
れ、都を追われた。そこで、仲麻呂に変わって、今度は、吉備真備が選ばれ、「内伝金
烏玉兎集」を取りに唐の国に渡る事になるのである。ここでこれは大変!とばかり、安
禄山と楊国忠は、やってきた吉備真備をいきなり、阿倍仲麻呂を閉じ込めて殺した高楼
に案内します。吉備真備を、鬼に取り殺さそうというのでした。しかし鬼は、吉備真備
が、日本から来た事を聞くと喜び、自分が阿倍仲麻呂である事を打ち明け、吉備真備に
協力を申し出ました。次の日、もう死んだものと高楼にやってきた唐人らは、吉備真備
が、生きているのを見て、びっくりし、今度は、吉備真備に次から、次と難題をしかけ
られるのでした。 安禄山と楊国忠は、其の頃まだ、日本に伝わっていなかった囲碁の
勝負を吉備真備にさせる事を思いつきます。この囲碁で負けた方が首を斬るという首か
け勝負をさせようというのです。 この勝負のため、囲碁の名手として「玄東」という
男が選ばれました。実は、この玄東は、真面目ですが、魯鈍(ろどん)な気質であり、
もともと囲碁の才能も持ち合わせていなったのですが、その妻の隆昌女(りゅうしょう
じょ)が美しい才媛 で、ひそか に妻に稽古をつけてもらっているうちに、名人と呼ば
れるまで強くなっていた人でした。



135: 名無しさんAA:19/04/16 11:42
 柳川 銭紋  131

 囲碁の勝負の事を聞き及んだ鬼は、神通力を使って、吉備真備を、隆昌女が玄東に囲
碁の手ほどきをしている場所へといざないます。 隆昌女が玄東に稽古をつけている様
子をじっと見ていた吉備真備は、一夜にして囲碁の極意をマスターしてしまったのでし
た。いよいよ始まった囲碁の勝負は、唐側の予想に反して、なかなか勝負のつかない白
熱戦となりました。給仕役として、その場に出席していた隆昌女は、このままでは、夫
の一目負けになると読み切り、密かに吉備真備が獲った黒石を盗み取り、自分の体内に
隠してしまいます。勝負が終わった時、玄東と吉備真備の獲った地の数は全くの同数の
引き分けでした。しかし、石をしまう段になって、黒石が一つ無くなっている事が発覚
します。絶世の美女として知られていた隆昌女に横恋慕(よこれんぼ)していた安禄山は
、隆昌女が石を隠した事を知り、隆昌女の弱みを握って我が者にせんと・・・隆昌女の
身体を調べようとします。しかし、吉備真備は、すでに勝負は済んだと、それを押しと
どめ、隆昌女を救うのでした。こうして「三国相伝陰陽管轄笙筧内伝金烏玉兎集(さん
ごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう」を返却を条件に、
借り受ける。安禄山は突厥や契丹、奚などの諸勢力が混在する地域に育ち、唐へ亡命し
大成を果たした軍人である。開元年間初期の頃十代の時に、突厥の混乱で、養父安延偃
の姻戚である胡将軍・安道買、安延偃の息子である安思順、安文貞らが唐の嵐州別駕と
なっていた安道買の息子の安貞節を頼りにして、唐に亡命してきたのだ。初め互市牙郎
(貿易官)に任じられたが、ずる賢く、残忍で、機転が効き、人に取り入るのに巧みで
あったと伝えられる。 開元27年(739年)に唐代玄宗期の北辺で戦功をたて、節度使に
就いた張守珪(ちょうしゅけい)の取り立てで軍人となった。突厥が北庭に攻め込んで
きた時に、郭虔灌の命で朝廷に入り、玄宗に状況を述べた。突厥は敗北し、張守珪は游
撃将軍に取り立てられ、以来幽州刺史の盧斉卿から重く厚遇され瓜州に都督府が置かれ
、その都督に任じられるまでなった。しかし(736年)、養子の平盧討撃使・安禄山が奚
と契丹に敗北する。彼を長安に送り、判断を朝廷に委ねる。張九齢の反対があったが、
玄宗は助命した。こうして安録山は(740年)、平盧兵馬使に昇進し、往来者には多額の
賄賂を贈り、誉めあげるように求めた。その甲斐あって玄宗は彼を信用したといわれる



136: 名無しさんAA:19/04/16 11:42
 柳川 銭紋  132

 楊国忠(ようこくちゅう)は本名はしょうとされ、蒲州永楽(山西省 丙城県) の人で、
中国の唐中期の権勢家とされる。楊貴妃の親戚として登用され、宰相李林甫と結んでは
財政的手腕を発揮したといわれる。国忠とはこの頃玄宗から与えられた名で侵攻する南
詔に対して7万の兵を率いて討伐にあたったが失敗している。天宝 11 (752) 年李林甫
の死で宰相となり,中央政界をその一派で占め、また安禄山の失脚を画策した。これが
安史の乱の誘因となった。乱が起ると,玄宗に従って四川に逃れる途中で楊貴妃ととも
に馬嵬坡で殺された。とされる。学問を好まずに酒とばくちを好み、行いが定まらず、
一族の嫌われ者であったが、30歳の時に蜀地方軍に入り、軍功を挙げて新都県尉に任命
された。任期が終わった後、困窮して蜀地方の富豪・鮮于仲通に資金を提供してもらっ
ていた。遠縁のおじ・楊玄淡(楊貴妃の父)の死後、その家に行き、娘の一人(楊貴妃
の姉・後の鯱国夫人)と私通していたという。楊貴妃が貴妃に冊された天宝4載(745年
)頃、剣南節度使の章仇兼瓊が長安にいる楊貴妃の一族と結ぼうとした。鮮于仲通の紹
介で彼と会い、容貌がすぐれて弁舌が立つため、気に入られて多くの財貨を与えられ、
長安への使いとなった。一族に会い、財貨をばらまいて、寡婦となっていた鯱国夫人の
家に入った。鯱国夫人を使って玄宗の機嫌をよく探知し、調子をうまく合わせたために
有能と判断され、度支員外郎に任命され、15以上の使職(唐代の財政などを扱う役職)
を兼ねた。だが、この頃から李林甫との対立が始まったという。安史の乱では、楊国忠
は剣南節度使を兼ねていたため、蜀地方への出奔を提言し、玄宗も同意した為、太子・
李亨、楊貴妃、楊一族、宦官の李輔国、高力士、韋見素、魏方進、陳玄礼らを連れ、密
かに西方へと出発している。「三国相伝陰陽管轄笙筧内伝金烏玉兎集(さんごくそうで
んいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう」にはまだ後の話がある。その
後阿倍仲麻呂は日本に帰り名を安倍晴明と与えられ、この効能に力比べとなった。帝の
呪術師蘆屋道満は、御前で晴明と術比べをして負ける。播磨の道摩法師(蘆屋道満)は
その後、晴明の弟子になる事になる。しかし、彼は晴明を追い落とそうと狙っていた。
そして晴明がある秘書(金烏玉兎集)を所有していることを知った。そこで道摩は晴明
の妻・梨子と不倫関係となり、その秘書がどこにあるかを聞き出し、自分と晴明の妻と
の仲がより親密になったと見計らった道摩は、彼女からその秘書が石の箱に入っている
ことを聞き出した。しかし、その開け方は妻にも分からないと言う。


137: 名無しさんAA:19/04/16 11:42
 柳川 銭紋  133

 道摩はその箱を晴明が不在の時を見計らい見せてもらって、何とかして箱を開けてし
まった。そして晴明が帰宅した時に「私はこの道の秘書を授かった」と、彼に告げた。
晴明は「その秘書は自分が唐に渡って修行してようやく手に入れたもの。お前が持って
いるはずが無い。」と道摩を叱った。道摩は「今が晴明を抹殺する好機」と「ではその
秘書を私がもっていたらその首をいただく。」と言い、晴明はそれに応じてしまった。
そして道摩は懐からあらかじめ書き取っておいた金烏玉兎集を見せ、晴明の首を刎ねた
。同じころ、晴明に金烏玉兎集を授けた伯道上人は晴明が殺されたことを察知し、日本
にやってきた。そして無残に殺された晴明の骨を拾い集め、術を掛けて蘇生させた。そ
して弟子を殺された報復をするため、生き返った晴明と共に道摩と、晴明を裏切った上
に道摩の妻となっていた梨子の元へ向かった。伯道は道摩に「晴明はいるか」と尋ねる
。道摩は「かつてここにいたが、首を刎ねられて死んだ」と答えた。すると伯道が「そ
んなはずは無い。先ほど彼と会った」と言った。道摩は「貴方の言うことこそ、そんな
はずはない。もし晴明が生きていたらこの首を差し上げよう。」と答えた。そして伯道
は先ほど蘇生した晴明を呼んで道摩に見せた。こうして道摩は約束通り首を刎ねられ、
梨子も殺害したという。このことからこの書をみだりに、浅はかな気持ちで読むことは
死に値するとして、この書が秘伝中の秘伝であるということをあらわし、この話を冒頭
に置くことによってこの書の秘密性・神聖性を高めた。と言う。「三国相伝陰陽管轄笙
筧内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとし
ゅう。」とは一体何なのか。実は、安倍晴明が編纂したと伝承される占いの専門・実用
書として日本に『三国相伝宣明暦経註(さんごくそうでんせんみょうれきけいちゅう)
』ともいい、『笙筧内伝(ほきないでん)』または『笙筧(ほき)』、または『金烏玉
兎集(きんうぎょくとしゅう)』と略称され広く伝えられている。『金烏玉兎集』は多
くの写本が現存し、田中太右衛門版のように「晴明朝臣入唐伝」の題名のみ記していて
、内容をすべて省略しているものまでもが存在する。全5巻で構成され、第1巻は牛頭
天王の縁起と、様々な方位神とその吉凶を説明している。第2巻は世界最初の神・盤古
の縁起と、盤牛王の子らの解説、暦の吉凶を説明している。第3巻は1、2巻には書かれ
なかった納音、空亡などが説明されている。第4巻は風水、建築に関する吉凶説をのべ
ている。第5巻は密教占星術である宿曜占術をのべている。1〜3巻と比べて、4〜5巻は
あきらかに異質である。最初に1〜2巻が書かれ、それの増補として3巻が加えられた。
それに、別個に成立したと思われる本が加えられ、これが4巻、5巻であったと考えられ
るという。晴明朝臣入唐伝である。牛頭天王の縁起では、牛頭天王は、インドにおける
大乗仏教運動の中で仏教に取り込まれて祇園精舎(きおんしょうじゃ)の守護神という
ことにされてしまったが、もともとはインド北方の九相国(きゅうそうくに)の土地神
だったとされる。九相国はときに「倶相国」「吉祥国」「豊饒国」等と記述されるが同
じである。「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神とも
云う。」とされ桃源郷の守り神とされる。所謂牛頭人神である。なぜか武塔天神と書か
れ武闘神とは記されない不思議な神だ。


138: 名無しさんAA:19/04/16 13:03
 柳川 銭紋  134

牛頭天王(ごずてんのう)は、京都・八坂神社の祭神で、平安時代に、疫病退治に魔神
的な霊力をもつとして信仰を集めた神である。神仏習合で牛頭天王はスサノオの垂迹(
すいじゃく:子孫)ということになっている。この八坂神社に伝わる『祇園牛頭天王縁
起(ぎおんごずてんのうえんぎ)』や「大和の安居院(あんごいん)」(我が国最初の
寺院である飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏をその地で守る寺)に伝わる『神道集』の中の『蘇
民将来伝説』が牛頭天王の由来を詳しく述べている。二十二社註式祇園社(群書類従)
ではこう記される。
「神社本縁記いわく。昔、北海に坐すの武塔神、南海の女に通いて、彼に出ますに、日
暮れたり。彼の所に将来二人ありき。兄は蘇民将来という。甚だ貧窮。弟は巨旦将来と
いう。富饒で屋舎一百ありき。ここに武塔神が宿る所を借りるに、惜しみて借さず。兄
の蘇民将来は借したてまつる。すなわち、粟柄を以って席となし、粟飯を以って饗たて
まつる。武塔出まして後に、年を経て八柱の子を率い還り来て、我、まさに奉りの報答
を為さんとす。曰く。汝に子孫ありや。蘇民答えていわく。己(おのれ)に子女、子と
婦と侍ると申す。宣わく。茅を以って輪を為し、腰上に着けよ。詔に随いて着く。即ち
、夜に、蘇民の女(むすめ)、子と婦と置きて、皆ことごとく殺し亡ぼしてき。時に詔
わく、吾は速須佐能神なり。後世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云いて茅の輪を
以って腰に着く人あれば、まさに免れむとすと詔き。」
備後国風土記逸文では
「備後国の風土記に曰く。疫隈の国社。昔、北海に坐しし武塔神、南海の神の女子をよ
ばいに出でいますに、日暮れぬ。彼の所に将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚だ貧窮。
弟の将来は豊饒で屋倉一百ありき。ここに、武塔神宿る所を借りるに、おしみて借さず
。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち粟柄を以って座となし、粟飯等を以って饗
たてまつる。ここにおえて出で坐す。のちに、年を経て、八柱の子を率いて還り来て詔
りたまひしく、我は将来の報答を為す。汝の子孫、その家にありやと問いたまふ。蘇民
将来、答えて申ししく。己が女子、この婦と侍りと申す。すなわち詔りたまひしく。茅
の輪を以って腰の上に着けさしめよ。詔にしたがひて着けさしむ。すなわち、夜に蘇民
の女子一人を置きて、皆ことごとく殺し滅ぼしてき。すなわち、詔りたまひしく。吾は
速須佐雄能神なり。後の世に、疫気あれば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪を以
って腰に付けるある人は将にのがれなむと詔たまひしき。」と書いている。
瀬高・八坂神社の祭神も同じだが、この八坂神社は何故か矢部川の水路を切り替えて、
かつての鬼の秦川の氾濫を押さえ、沖の端川として大田花宗川に分流する事に成功した
事による。それまで鷹の秦家とされていた港や蒲船津の海賊の船出所が無くなり正行が
陸上通行出来るまでになった。かつては入り組んだ江曲がりの場所が順次お堀となって
いったのだ。こうして「艮の金神(うしとらこんじん)」信仰は急速に絶たれ、細工町
を樽見の職人に明け渡した街づくりに入った。三橋町の地もこの時農地が随分増えたと
言われる。これは先の戦国時代に山口の大内氏の陶氏が発った時に毛利氏に入冠させて
戦場となったからだ。先の蒲池氏の縁戚の溝口氏や牟田口氏などの援軍もあったのが、
筑後吉富城も百丁花園城も白鳥(しらとり)城も正行の砦も蒲船津城も、毛利の猛攻に
落ちたのである。本家の大友氏が動かなかったからだ。と言うより大和が攻められてい
ないから裏交渉があったのかも知れない。これでは家老の田尻の謀反を気にして蒲池氏
は以降動けなくなった。この蒲池氏に対して大宰府対策で竜造寺氏支援を申し出ている
のである。

139: 名無しさんAA:19/04/16 13:21
 柳川 銭紋  135

 二十二社註式では、蘇民将来の娘、子(子供)と婦(成人した娘)の二人を残して、
皆、ことごとく殺し亡ぼしたとされていますが、備後国風土記逸文では、「蘇民の女子
一人を置きて、皆、ことごとく殺し亡ぼしてき」と、残されたのは一人の女の子です。
おそらく、二十二社註式の方が原型を伝えているでしょう。風土記逸文では、「汝の子
孫その家に在りや?」という武塔神の問いに、「娘とこの婦(妻)がいる。」と答えて
おり、問いの「子孫」と内容がずれています。須佐之男神は、宿を貸してくれなかった
弟の巨旦将来一族ばかりでなく、貧しいなりに自分を接待してくれた恩義あるはずの蘇
民将来まで殺したことになります。私はこれはキリスト教ではないか。と考えている。
あまりにもエジプト王のユダヤ人抹殺事件やソドムとゴモラ事件に極意しているからだ
。「蘇民将来」もアーメンソウメーンと言う祈りの言葉で「本当に皆全く」と言う誓い
の言葉として日本語的には「全身全霊を向けて」と言う前置きの言葉だ。モーセ神話で
は、モーセはエジプトのヘブライ人家族に生まれたが、新生児を殺害することを命じた
ファラオの命令を逃れるために「萱の船」パピルスつまり茅野輪の船でナイル川に流さ
れ、王族に拾われて育てられたという逸話である。又その後も殺害に長じて、血で印が
付けられた以外のエジプト人を殺害し、神の命令によって奴隷状態のヘブライ人をエジ
プトから連れ出す使命を受けている。ソドムとゴモラ事件では、ヤハウェの使い(天使
)二人がソドムにあるロトの家へ訪れ、ロトは使いたちをもてなした。やがてソドムの
男たちがロトの家を囲み、「なぶりものにしてやるから」と言って使いたちを出すよう
騒いだ。ロトは二人の使いたちを守るべく、かわりに自分の二人の処女の娘達を差し出
そうとした。使いたちは、ヤハウェの使いとして町を滅ぼしに来たことをロトに明かし
、狼狽するロトに妻と娘とともに逃げるよう促し、町外れへ連れ出す。ロトがツォアル
という町に避難すると、ヤハウェはソドムとゴモラを滅ぼした。ロトの妻は振り向いて
はいけないと言う禁を犯して後ろを振り向き、塩の柱に変えられてしまう。ヤハウェは
アブラハムに配慮して、ロトのみを救い出した。と言う話だ。前段には偶像や他の神を
崇拝する罪ではなく、男色などの風俗の乱れの罪によって滅ぼされるという設定だが、
いずれにしても啓典であるトーラー(律法)を犯し神が怒った。と言う事になっている
。こうした話しを日本語に移すに写せなかったが、それがこの『笙筧内伝(ほきないで
ん)』でやっと移したのではなかったか。と思う。まあ神話の時代と言うのは全く解ら
ないものだが、茅野輪くぐりが大和創造神話としても、この日の「夏至の祀り」として
「水無月の夏越(なごし)の祓」をするという日本の習慣は、なかなかちょっと考える


140: 名無しさんAA:19/04/16 13:21
 柳川 銭紋  136

 盤古開闢神話は中国神話と思われがちだが、中国にもたらされた伝説に過ぎない。元
始天尊時代、天地がその姿かたちをなす前、全ては卵の中身のようにドロドロで、混沌
としていた。その中に、天地開闢の主人公となる盤古が生まれた。この盤古誕生をきっ
かけとして天地が分かれ始めたが、天は1日に1丈ずつ高さを増し、地も同じように厚
くなっていった(従って、中国神話では、天の高さと地の厚さの長さは同じ)。その境
にいた盤古も姿を1日9度も姿を変えながら1丈ずつ成長していった。そして1万8千年
の時が過ぎ、盤古も背丈が9万里の大巨人となり、計り知れない時が経った末に死んだ
。盤古が死ぬと、その死体の頭は五岳に(東岳泰山を筆頭とした北岳恒山、南岳衡山、
西岳華山、中岳嵩山の総称)変わった。又、その左目は太陽に、その右目は月に、その
血液は海に、その毛髪は草木に、その涙が川に、その呼気が風に、その声が雷になった
。 (『太上妙始経』ではこの状態を仮に「道(タオ)」と呼称し、万物の根源(神格化
したものを元始天尊)とする)。と言う。盤古が天地を開闢した時、一ヶ月目は山が生
まれ、二ヶ月目に河が生じ、三ヶ月目に草が生え、四ヶ月目に樹が生長し、続いて虫魚
鳥獣が相次いで生じ、九ヶ月目に人類が現れたが天地はまだ朦朧としていた。盤古は、
巨人で、立ち上がると東方に一筋の光が見えたので、それにそって歩いていくと扶桑と
呼ばれる場所に着き、そこで二人の娘とであった。二人は双子の姉妹で、姉は月、妹は
太陽という名前だった。姉は上品でおとなしく優美で立ち居振舞いがきちんとしていて
おっとりした性格だった。妹は天真爛漫で活発、情熱がほとばしっているような性格だ
った。盤古は二人に世界を照らしてくれるように頼んだ。二人は快諾し世界の人々と万
物はその恵みを享受できるようになった。二人は交代で世界を照らすことにし、昼間は
月、夜は太陽が担当しようとしたが、太陽は夜が暗くて怖いといったので、昼間は、妹
太陽が、夜は姉月が担当するようになった。さらに太陽は地上の人々に注目されるのが
恥ずかしいといったので、月は太陽に針を渡した。人々が太陽を直視できないのはこの
ためである。盤古は天地を開くと死んでしまったので、天地の間には何もなかった。後
に神農は百草と樹木を作り、伏羲は鳥獣を作ったので、天地はにわかににぎやかになっ
た。植物も動物も話ができたので、争いが起った。神農と伏羲は相談して主を決める事
にした。この時女禍が現れ人を造ろうと提案した。女禍は黄泥を使って 360の人を造っ
た。49日間乾かすと、人は話ができるようになる。48日目に鶏が飛んできて、泥人形の
股間についているものを啄ばみ始めた。女禍が気付いて追い払ったが、既に半分がやら
れていた。鶏が啄ばんだのでそれを“鶏巴”(男性器の隠語)という。半分が女になり
、半分が男になった。49日目には泥人は話せるようになったが、鶏巴を失った者たちが
自分達は欠陥があると騒ぎ出した。女禍は二人が一対になるように作ったのだと彼等を
なだめた。夫婦の始まりである。人は泥からできたので、身体をこすると垢が出るので
ある。



141: 名無しさんAA:19/04/16 13:23
 柳川 銭紋  137

 こうした盤古の縁起と、盤牛王の子らの解説、暦の吉凶を説明している。第3巻は、
1、2巻には書かれる前に、巻首に「天文司郎 安倍博士 吉備后胤 晴明朝臣撰」とあ
ることから、土御門家(安倍家)が家祖と仰ぐ安倍晴明の著作と中世以降信じられてき
たが、晴明に仮託した後世のものとされる。理由として、晴明について述べた説話集や
、『本朝書籍目録』に名前が見えないこと。現存諸本が中世後半以降の書写に限られる
こと。、中世独特の仏教色に彩られた内容が見えること、などが挙げられる。真言・天
台の密教僧、祇園感神院周辺の宗教者、土御門家の人物等の関与が考えられる。構成は
「晴明序」「牛頭天王序」を持つ「宣明暦経(宣明暦経注)」が3巻、「造屋篇」およ
び「文殊曜宿経」の全5巻から成る。「晴明序」は、『ホキ内伝金烏玉兎集』の伝達の
経緯、天竺の文殊菩薩→中国の伯道→晴明のいきさつを記す。「牛頭天王序」は、牛頭
天王、歳徳神、八王子、金神(巨旦)の説話に基づき、暦の運行と禁忌を述べる。「造
屋篇」は、土木建築に関わる暦と方位、「文殊曜宿経」は仏教色の強い暦学が展開され
る。が、巨旦・蘇民の話はもっと古くから伝わっており、『ホキ内伝』に伝わっている
変形型の話もある。恵方伝説はもともと身体が弱い天皇を、と言うより権力抗争の朝廷
の長を、鬼から守るため、宮廷役人が方相氏(ほうそうし)と呼ばれる4つ目の面をつ
け、槍を振り回しながら宮廷を駆けめぐる儀式だった。牛頭天王伝説では、天界の名君
、牛頭天王が未だに独身だった頃のある日、牛頭天王の元に、天帝の使者の青い鳥がや
って来て言うことは、「南海に住む竜王の娘・頗梨采女は、凄い美人らしい。彼女と結
婚したらどうですかね?」と言う。喜んだ牛頭天王は、早速部下を引き連れて頗梨采女
の待つ南海へ向かった。しかし遠い。とにかく南海は遠い。途中で人も馬も疲れ果て、
動けなくなってしまった。そこで牛頭天王は近くの村に立ち寄った。素直に、立ち往生
した国の支配者に助けを求めることにした。その国の王は巨旦将来(こたんしょうらい
)というケチだったので、牛頭天王は宿を頼んだが断られてしまった。困った牛頭天王
を助けたのは蘇民将来(そみんしょうらい)という、貧しい老人だった。蘇民将来は粟
の飯を炊き、草の葉に盛って牛頭天王に差し出した。これに感動した牛頭天王は、蘇民
将来へ沢山の謝礼を贈り、その国を後にする。そんなこんなで、何とか頗梨采女の元へ
着いた牛頭天王は無事に結婚し、20年間で8人の王子をもうけた。牛頭天王は自分の国
へ戻る時、息子達に巨旦将来の嫌がらせを語って聞かせた。息子達は怒り噴騰し、父の
牛頭天王と力を合わせ、巨旦将来の城を攻め滅ぼした。20年後の恐るべき恨みである。
牛頭天王は蘇民将来をその国の王とし、言った。「今から私と8人の王子達は、疫病を
流行らせて諸国を攻めるが、蘇民将来の子孫であるならば攻めないでおこう。」まあ、
一宿一飯の恩義の話であろう。まぁ、いきなり王様になってしまった蘇民将来にしてみ
れば「あれ・・いいの・・」という感じでしょう。今でも寺社で「蘇民将来子孫」と書
かれた呪符を配っているそうですが、これは、自分が蘇民将来の子孫だと示すことで、
疫神が家の中に入ってこないようにするためという。



142: 名無しさんAA:19/04/16 13:24
 柳川 銭紋  138

 さてこの長い話の、このストーリーが今の「暦」つまり暦神のベースとなっている。
頗梨采女である歳徳神と、息子である8人の王子(太歳神・大将軍・太隠神・歳刑神・
歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神)達は、それに巨旦将来の怨念の化身とされる金神(
こんじん)が、全方角に散らばっており、くるくる回って我々を襲うと言う信仰だ。こ
の神様は毎年回っている為年によって方角に留まっている期間も違う。歳徳神・金神は
1年単位で移動するが、大将軍は3年同じ方角に居座る。といった具合だ。しかも名前
から分かるように、歳徳神以外の方々は、ほとんどが祟り神の性格を持っている神であ
ります。中世の貴族は、災いのある方角へ行く場合、いちいち「方違え(かたたがえ)
」をしていました。「方違え」というのは、今から行こうとしている場所に祟り神がい
る場合、いったん90度違う方向の知人の家など寄り道し、別の方角へ移動してから、
そこから目的地へ向かう事だ。これは実は山の遭難避けやクマとの遭遇にも使われると
される山小屋思想である。一気に高みを目指さないしたたかな人間素養とされる意思か
も知れない。ちなみに、方違えを理由にして女性の家に押しかけるケースもままあった
ようでこれできっかけ作りが行われた文化かもしれない。特に強烈なのが「艮(うしと
ら)の金神歳神」(うしとらのこんじんさいじん)である。歳神とはその時の長の神で
金神というのは、いる方角に無礼を働けば家の人間を7人殺すと言い、7人に満たない
場合は牛馬も殺すと言われる強烈な祟り神とされている。常に金神は、歳徳神とは正反
対の方向に位置しますで、今年は歳徳神がいる西南西の逆、東北東に金神がいることに
なる。名の「ウシトラ」とは名のごとく北東の鬼門神の話で、「艮」の字は「良い」に
点が届かず。を意味する。つまり鬼門を守る神も又回っていたのである。実はこの鬼門
は日本独自の地震の時北東の方に家屋が倒れた事でその方向に鬼が居るとしたのだ。実
は日本の木造家屋は一般的に実はこの方角が一番湿度が高く朽ち果て壊れやすい。この
為そう言われる。歳神とは「としがみさま」とも言われ、その時の一番の神様である。
つまり、神様の地位も又その年々で回るのである。この「金神様」は祟り神として畏れ
られていた金神を「天地金乃神」と呼び、偉大な神として祀りなおしたのが、教派神道
の金光教であるとされる。時代が進み、天皇の私的な神事だった追儺が「節分」として
民間伝承に浸透した時には、方相氏自体が鬼に変化してしまい、今見るような「節分の
鬼」や「なまはげ」などとなってしまった。と思われている。こうした追儺の儀式は、
陰陽師主導のもと行われていた。陰陽師は中国の五行説にのっとった天文・暦・方角を
司った先生で、恵方信仰をもたらした元だ。恵方巻起源は時の京都の茶店で江戸期から
であり本来は恵方巻などない。そもそも板海苔など庶民の物ではない。

143: 名無しさんAA:19/04/16 13:26
 柳川 銭紋  139

「恵方」とは、歳徳神の居所であり、恵方の方向はは十二支十干で求められる。十二支
までなら「酉年」と答えられるでしょうが、十干まできちんと答えられる人は現代では
珍しいと言える。しかしこれは方位の干支を、十干と十二支を組み合わせた60を周期
とする方位暦であり至って簡単な法則で、時間、方位などに用いられた物だ。六十干支
、十干十二支、天干地支ともいうが、12支は使わず10干で甲・己の年 :「東北東」
、乙・庚の年 :「西南西」、丙・辛の年 :「南南東」、丁・壬の年 :「北北西」、戊・
癸の年 :「南南東」という事になっている、つまり十干の為に、西洋暦の10進法では
簡単に下の「4と9」:「東北東」、「5と0」:「西南西」、「1と6」:「南南東」、「
2と7」:「北北西」、「3」と「8」:「南南東」となる。これは一体何を意味するのか
。つまりもともと日本は6進法6日1週間を使っていたのである。60進法は西洋で、
キリストの言葉に準じて天文科学の6元素に休息日を入れ、12進法で24時間制を用
いたが、日本は純粋に6道法で6日の中に仏滅を入れている。だが仏教が後でやって来
て決めた言葉で仏滅とは仏僧の休みの日だっただけである。六曜は「ろくよう」と読む
のが一般的ですが、元々は六輝八卦からの事だ。六曜の元となる時刻占いは、陰陽五行
説というものから生まれた。五行説では木火土金水の順に周り、この順序を相生(そう
じょう)とした。つまり、木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ
、水は木を生ずるというこの関係が、永遠の循環を示すものとしている事だ。「相性」
の言葉の元だ。ここで滅亡するには、逆に回れば良いが勝つためには、一つずつ飛ばし
て星型に行くことが規則とされる。それが相剋(そうこく)である。木は土に勝ち、土
は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝つというのが「相剋」です。木
は土から養分を吸い取って生長すると、土は水を吸い取ってしまう。その水は火を消し
てしまい、火は金属をも溶かしてしまう。金属では木をも切ってしまう。と言う訳だ。
そしてその状態の量が、大安・友引・先勝・先負・赤口・仏滅と言う対比量であるのだ
つまり土はどんなに木が茂ろうとも無くならない。これが大安である。雨が降り土が流
れ流れても土も水もそれらは引き分けである。これが友引だ。火は早めに消せば水が勝
つ先勝の言われである。山火事などの大火では消せないからだ。金属は溶ける火にそれ
に向かう金属はその用意に於いて先に負けている。木を倒す事はその食糧すら無くす。
赤口=惜口=飢饉を意味している。これに休みの何もしない休日を仏滅としたのである
。こうした意味合いは縄文人や古代人の学問であったのだろう。この五行説の相剋術が
晴明紋の五芒星の意味とされ、だからこそ、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に
金は木に向かうべし。としているのだ。更にこの他に比和(ひわ)と言う考えを示す。
木と木、火と火、土と土、金と金、水と水は相乗効果でますます盛んになるというのが
「比和」である。これが良い方向へゆけば「さらに良し」となりますが、逆に悪い方向
へゆくと「ますます悪くなる」ということにもなる。徒党を組むの例えである。こうし
た神話は殆どが陰陽道の話である。

144: 名無しさんAA:19/04/16 17:17
 柳川 銭紋  139

「恵方」とは、歳徳神の居所であり、恵方の方向はは十二支十干で求められる。十二支
までなら「酉年」と答えられるでしょうが、十干まできちんと答えられる人は現代では
珍しいと言える。しかしこれは方位の干支を、十干と十二支を組み合わせた60を周期
とする方位暦であり至って簡単な法則で、時間、方位などに用いられた物だ。六十干支
、十干十二支、天干地支ともいうが、12支は使わず10干で甲・己の年 :「東北東」
、乙・庚の年 :「西南西」、丙・辛の年 :「南南東」、丁・壬の年 :「北北西」、戊・
癸の年 :「南南東」という事になっている、つまり十干の為に、西洋暦の10進法では
簡単に下の「4と9」:「東北東」、「5と0」:「西南西」、「1と6」:「南南東」、「
2と7」:「北北西」、「3」と「8」:「南南東」となる。これは一体何を意味するのか
。つまりもともと日本は6進法6日1週間を使っていたのである。60進法は西洋で、
キリストの言葉に準じて天文科学の6元素に休息日を入れ、12進法で24時間制を用
いた物が日本で純粋に6道法で6日の中に仏滅を入れているからだ。仏教が後でやって
来て決めた事で仏滅とは仏僧の休みの日になっただけの話。六曜は「ろくよう」と読む
のが一般的ですが、元々は六輝八卦からの事だ。六曜の元となる時刻占いは、陰陽五行
説というものから生まれた。五行説では木火土金水の順に周り、この順序を相生(そう
じょう)とした。つまり、木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ
、水は木を生ずるというこの関係が、永遠の循環を示すものとしている事だ。「相性」
の言葉の元だ。ここで滅亡するには、逆に回れば良いが勝つためには、一つずつ飛ばし
て星型に行くことが規則とされる。それが相剋(そうこく)である。木は土に勝ち、土
は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝つというのが「相剋」だ。木は
土から養分を吸い取って生長する、土は水を吸い取ってしまう。その水は火を消して、
火は金属をも溶かしてしまう。金属では木をも切ってしまう。と言う自然の法則である
。そしてその状態量が、大安・友引・先勝・先負・赤口・仏滅と言う対比量である。つ
まり土は、どんなに木が茂ろうとも無くならない。これが大安である。雨が降り土が流
れ流れても土も水も無くならない引分けとした友引である。火は早めに消せば水が勝つ
、先勝の言われである。山火事などの大火では消せないからだ。金属は溶ける火にそれ
に向かう金属はその用意に於いて先に負けている。木を倒す事はその食糧すら無くす。
赤口=惜口=飢饉を意味している。これに休みの何もしない休日を仏滅としたのである
。こうした意味合いは縄文人や古代人の学問であったのだろう。この五行説の相剋術が
晴明紋の五芒星の意味とされ、だからこそ、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に
金は木に向かうべし。としているのだ。更にこの他に比和(ひわ)と言う考えを示す。
木と木、火と火、土と土、金と金、水と水は相乗効果でますます盛んになるというのが
「比和」である。これが良い方向へゆけば「さらに良し」となりますが、逆に悪い方向
へゆくと「ますます悪くなる」ということにもなる。徒党を組むの例えである。こうし
た神話は殆どが陰陽道の話である。こうして災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神と
して信仰される「艮の金神社(丑寅神社)」(うしとらのこんじんしゃ)であった。つ
まり南向きの祈祷神社の恨みを晴らす神として、牛頭天王(ごずてんのう)=須佐之男
命、素戔男尊、素戔嗚尊等、須佐乃袁尊、(スサノオ)=艮の金神として五芒星、五光
星、五稜星、五角星(ごぼうせい)の5つの角を持つ星マークがつき、晴明紋の神格と
していたのである。


145: 名無しさんAA:19/04/16 18:26
 柳川 銭紋  140

 「弓頭神社(ゆみがしらじんじゃ)」では、三潴町内最古の神社として、お祀(まつ
)りしている。というのも水沼別(みぬまわけ=水別君(みぬまのきみ)=景行天皇の
子孫で、筑紫地方の古代豪族の始祖=国乳別皇子(くにちわけのみこ)として三潴町は
、鎌倉時代以前「水沼の県(みぬまのあがた)」と呼ばれていた。としてるからだ。当
時、この地方が沼地であったこと。その現(あらわ)れか、各地の遺跡からはたくさん
の貝類が出土していて、こちらの弓頭神社には同じく出土した古代の銅剣や石包丁・石
棺(せっかん)などが所蔵され、いずれも町の文化財に指定されている。明治6年には
郷社(ごうしゃ:昔の社の格付けのひとつ)にも選ばれた由緒(ゆいしょ)ある社と、
いう。久留米市には耳納連山の最西端、標高312メートル の高良山にある「高良大社」
の事だ。社殿は江戸時代初期の権現造りで、神社建築としては九州最大のものという。
この御社の造営は鎌倉時代までは、時の天皇自らが裁断して執り行われ、後に「筑後国
一の宮」と称えられた。江戸時代には歴代久留米藩主から崇敬され、現在の石垣大鳥居
(重要文化財)や社殿を寄進されるなどし、大正時代にはついに国幣大社に昇格してい
る。しかし、水沼(みぬま)と三瀦(みつま、みづま)や三妻は当時から何かしら発音が異
なっていたのではないかと思う。したがって、水沼君と水沼(三瀦)別と三妻などは、全
くの別人であり、奈良時代の発音の混乱が両氏を一緒くたにして(水沼、水間、美努麻
等と書く)しまったのではないだろうか。当然のことながら、海人族である水沼君では
筑後川の河口の近く(今の柳川市、大川市界隈)に住んでいたのであり、水沼別は高三瀦
に居を構えていた。水沼別は、景行天皇の後裔と言うことで その後も長らく筑後国の
統治者として君臨したようである。但し、成務天皇が任命した筑紫国の国造は筑紫君と
いう。大規模なものではないようだ。が、久留米市大善寺には御塚(おんつか)や権現
塚(ごんげんづか)の二つの古墳が残っている。通説は水沼別の古墳と解しているよう
である。ところで、水沼君だが、おそらく今の筑後川河口から長崎半島を経由して中国
・上海へ到る航路の開設者だったとも思われる。この航路は今はどうかわからないが、
第二次世界大戦終了までは上海航路として活用されていたらしい。真崎(まさき)氏の
伝説では、海路や航行に際しては昔からの船の舵人とされる。これがどういう意味か。
日本の歴史を紐解いてみると「魏志倭人伝」のみで以来この航路で正使が日中間を往来
したケースがほとんどないのである。記紀に出てくるものでは前述の「身狭村主青等」の
派遣譚くらいで。古代においては脇街道ならぬ脇航路に過ぎなかった航路ではないか。
さすれば、政府の庇護も薄いか若しくは九州王朝として突っぱねたか、水沼君一族が、
一時的に宗像へ居を移したか。それが、宗像三女神を宗像氏と水沼氏が祀る原因になっ
たか。宗像氏左座、水沼氏右座説もある。安曇の磯良丸神話では、水沼氏水間氏満妻氏
共に一族をが別れて玉垂れ宮の下で神宮皇后を迎え、安曇の磯良丸を案内したとされる。

146: 名無しさんAA:19/04/16 18:27
 柳川 銭紋  141

 筑後(ちくご)水沼(みぬま)の県主(あがたぬし)は、景行天皇18年八女県(やめのあ
がた)をおとずれ藤山をこえて南方をのぞんだ天皇に、山々に神はいるかと問われ八女
津媛(やめつひめ)という女神がいます。と答えている。水沼猿大海(みぬまの さるおお
み)の話だ。ここで、八女津媛(やめつひめ)と言う名だが、かつて柳川の地は瀬高と言
われれて、明治の頃まで言われていたが、その頃は八女津は八女でなく山川や南関であ
り、今の八女はもっぱら妻国であり続けていた。と言う。「日本書紀」によると水沼君は
「海の北の道の中に存す。号けて道主貴(みちぬしのむち)と日す。此筑紫の水沼君等
が祭る神、是也」とかく。「水沼県主猿大海」とか、どう見ても海岸沿いに本拠を置いて
いたのではないかと思われる。「卑弥呼」の名は、ヤマト王朝の史書日本書紀、古事記
には一切登場していない。一方で、中国や朝鮮の史書にはしっかりと外交が記録されて
いる。瀬織津姫や菊理媛の様に、ひっそりと存在を知られてもよさそうなものだが、消
された気配すらなくホツマツタエにも登場せず神皇正統記にさえ何も書かれていない。
(元々知らないのだろう)。こうなると卑弥呼の敵対国である狗奴国や男王「ヒミコク」
、「クコチひこ」という狗奴国の官名も登場しない。狗奴国のクナは=クマで、熊本県
球磨に比定され、「クコチ」は熊本県菊池郡の久々地(ククチ)に比定されるのみである
。当時、狗奴国との戦に際しては、魏から張政という特使が派遣され、邪馬台国には魏
軍の軍旗が与えられ、ヒミコの使ナシメは魏国より「率善中朗将」なる称号を授かって
いた。魏にとっての邪馬台国は、服従させ難い極東情勢の前衛の様なもので、邪馬台国
を失えば極東支配の足場に影響がでる。(今でいう日米関係のような……)帯方郡守は自
ら洛陽に赴き魏帝に、邪馬台国と狗奴国との風雲急を報告し、魏帝の詔書を預かった。
そうした、当時の魏国との関係や極東情勢についての緊迫した超〜重要なストーリーが
、古事記・日本書紀には全く書かれてはいない。【大分県】 邪馬(ヤマ)国=耶馬溪を
して、躬臣(クシ)国=玖珠(クス)町【福岡県】巴利(ハリ)国=杷木(ハキ)町、支惟(キイ
)国=基肄(キイ)城下(基山)、烏奴(ウナ)国=鳥栖市、伊都(イト)国=糸島半島【長崎
県】末羅(マツラ)国=松浦市、【熊本県】 狗奴(クナ)国=球磨川、と名前だけは期せ
ずして名残りはその周辺に残している。瀬織津姫(せおりつひめ)は、神道の大祓詞に
登場する神であるが、。古事記・日本書紀には記されていない。『ホツマツタエ』では
、日本書紀神功皇后の段に登場する撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と同名の向津姫を瀬織
津姫と同一神とし、天照大神の皇后とし、ある時は天照大神の名代として活躍されたこ
とが記されている。しかし、その瀬織津姫には穂乃子という名が後に付いている。瀬織
津姫穂乃子という。この瀬織津姫は本当の瀬織津姫かは、ホツマツタエが偽書であるか
ないかとともに、真偽が問われる部分である。菊理媛は白山比盗_(しらやまひめのか
み)と同一神とされる山の女神だ。日本神話においては本文には登場せず、『日本書紀
』の一書(第十)に一度だけ出てくるのみである。その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よ
もつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに「私が始め悲しみ慕ったのは、
私が弱かったからだ」と。このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうの
に、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。な
ぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒に
は還れません』とおっしゃっております」と。このとき菊理媛神が、申し上げられる事
があった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。



147: 名無しさんAA:19/04/16 20:23
 柳川 銭紋  142

 神産み神話の中で、伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざな
ぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)
で追いつかれ、伊弉冉尊と口論になる。そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継
いで「一緒に帰ることはできない」と言った。つづいてあらわれた菊理媛神が何かを言
うと、伊奘諾尊はそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った、
とある。菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない
。この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神と
されている。 夜見国で伊弉冉尊に仕える女神とも、 伊奘諾尊と伊弉冉尊の娘、イザナ
ミが「故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ」(古事記)と言及した黄泉神(よ
もつかみ)(イザナミ以前の黄泉津大神)、伊弉冉尊の荒魂(あらみたま)もしくは和
魂(にぎみたま)、あるいは伊弉冉尊(イザナミ)の別名という説もある。いずれにせ
よ菊理媛神(泉守道者)は、伊奘諾尊および伊弉冉尊と深い関係を持つ。また、死者(
伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神で
はないかとも言われている。ケガレを払う神格ともされる。神名の「ククリ」は「括り
」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる。菊花の
古名を久々(くく)としたことから「括る」に菊の漢字をあてたとも、また菊花の形状
からという説もある。菊池城(きくちじょう)は、熊本県菊池市隈府にある中世の山城
跡で、菊池氏の本拠であった。通常、菊池氏の本城(居城)を隈府城とするので、別名
で隈府城(わいふじょう)とも呼ばれる。東アジア情勢が緊迫した7世紀後半(約13
00年前)の大和朝廷時代は鞠智城と呼ばれ、九州王朝の中心であったとも思える。こ
の事から菊理媛神は卑弥呼の先祖では無かったかとも思える。八女日向ダムは実は、こ
の近くが日向(ヒムカ)の里とされ言われていたからだ。実は邪馬台国の卑弥呼とはヒ
ムカと呼ばれ、このダム周辺に住んでいたかであろうと私は思っている。邪馬台国もキ
クチコクと呼んだのではないかと思っている。この菊理媛神が「菊池姫」であったなら
伊奘諾尊と伊弉冉尊とは日子山の人間で、恐らくこの小国や大牟田の甘木などが境界で
あったろう。となると伊奘諾尊と伊弉冉尊を送った親神は大陸にあった。と言う事にな
る。伊奘諾尊(いざなぎ)が南に向かって伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに行きそして、
日向(ひゅうがみ)で禊(みそぎ)をした伝説が本当であった事になる。となるとこの
2つのグループはその後一緒になった。そして邪馬台国が産まれたとすれば、


148: 名無しさんAA:19/04/16 20:23
八女が、
その地であった可能性も捨てきれないのである。つまり八女の大国と言う事になるのだ
。菊池氏が日足紋をつけている理由は、こうした経過があったのだろう。日足紋は九州
に多く見受けられる家紋で、むかし肥前・肥後が「日(ヒ)の国」と呼ばれたことと関
係するという。日足紋を用いた武家は龍造寺氏のほかに筑後の草野氏、肥前の大村氏、
肥後の菊地氏らが知られ、藤原姓高木氏流の系譜に連なる家が多い。龍造寺氏の場合、
惣領家が十二日足で、庶子家は十一ないし十日足を用いたという。龍造寺氏が杏葉紋を
用いるようになった由来については、以下のような話が伝えられている。杏葉紋はもと
もと豊後の戦国大名大友氏の家紋で、鎮西の武将が憧れた紋である。大友氏も杏葉紋を
一族や功のあった武将に与えて同紋衆として優遇したため、杏葉紋は権威のある紋とさ
れたが、本人は藤下がり紋が欲しかった。天文年中(元亀元年とも)大友宗隣が龍造寺
隆信を討とうと肥前に出陣したが、龍造寺隆信の部将鍋島直茂の夜襲に大敗した。その
とき、大友軍の攻撃を斥けた隆信は、大友氏の家紋「杏葉」を戦勝記念として用いるよ
うになった。と言う。以来、龍造寺氏は日足紋とともに杏葉紋を用いるようになった。
のちに龍造寺氏の跡を継ぐかたちとなった鍋島氏も杏葉紋を受け継ぎ、定紋として用い
鍋島氏の杏葉紋はとくに「鍋島杏葉」と称される。








149: 名無しさんAA:19/04/16 20:23
 柳川 銭紋  143

 新田氏が出てくる話しは平安末期の足利氏の南北朝時代である。荘園の境界争いがあ
り、水争いも頻繁に起きて、これまでの外国の情勢に遣唐使など派遣する余裕はない。
 それまで朝廷、武者所の田氏と 内の司宮氏があったらしい。つまり八田氏や武田氏
田中氏などの語源である。更に宇都宮氏の語源となる内裏の司の文官と武官の役職名で
ある。新田氏の新田義貞は当時尤もな軍官であったらしい。武者所頭人新田氏の始祖に
八田 知家(はった ともいえ)がいた。平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府
御家人。下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男である。系図などによる
異説としては源義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局で初め朝家(読み同じ)と名
乗ったという記述もある。鎌倉幕府の十三人の合議制の一人。小田氏の始祖であり小田
城の築城者と言う。元暦元年(1184年)八月の源範頼率いる平氏追討軍に従軍した。し
かし文治元年(1185年)4月、前年に源義経が無断任官で頼朝の怒りを買った際、知家
も右衛門尉に任官しており、頼朝から「鎮西に下向する途中に京で任官するなど、怠け
馬が道草を食うようなものだ。」と小山朝政と共に罵倒されている。文治5年(1189年)
7月の奥州合戦では千葉常胤と共に東海道大将軍に任ぜられ、福島の浜通りから奥州の
藤原氏を追い詰めた。 建久4年(1193年)、曾我兄弟の仇討ちをきっかけに、従兄弟で
ある常陸大掾氏の多気義幹を北条時政と共に罠にはめて領地を没収し、自分の本拠地を
下野から常陸に移し守護に補任された。建久7年(1196年)には降伏して捕らえられた
平景清を自邸に預かっている。この八田氏の頃に新田氏は一文字の旗を掲げた。対して
これに縦棒を入れたのが川上氏である。川上氏は信長の縁戚であるが、体格が良く新羅
系の人物であったらしい。九州川上氏はおよそ山に起源をもつ。島津貞久の子川上大夫
判官頼久に始まる。頼久は建武三年(1335)、薩摩の軍勢を率いて新田義貞の拠る越前
敦賀城を攻め、文和元年(1352)に薩摩国加世田別府半分地頭職を与えられている。五
代兼久は薩摩国日置郡伊集院の地頭となった。十代昌久は、天文四年(1535)島津勝久
の行跡を諌め、自殺している。その孫久貞は同国薩摩郡中郷地頭、その子久運は頴娃郡
頴娃郷・大隅国肝属郡高山郷・日向国諸県郡飯野郷・薩摩国高城郡高城郷の地頭となっ
た。久運の子久尚は、延宝三(1675)年大隅国肝属郡百引郷地頭、宝永二年(1705)に
は日向国諸県郡吉田郷地頭となった。あとを継いだ久東も同六年同郷地頭、同七年に寺
社奉行となった。庶流の川上久朗は、忠良に仕えて永禄五年(1562)より家老を務め、
久朗は、日新斎忠良より島津家に無くてはならない武者といわれ、看経所に名をとどめ
られた四人のうちの一人であった。その時まだ十八歳だったという。島津家の領内統一
戦に従って転戦し、功をあげるが、永禄十一年(1568)に堂ヶ崎における菱刈軍との戦
いで、島津義弘を守って戦死した。凡そこの話では海外の体格であったと想像できる。
不思議なのは、その後楠正成は、元亨2年(1322年)に得宗・北条高時の命で摂津国の
要衝淀川河口に居する渡辺党を討ち、紀伊国安田庄司湯浅氏を殺害し、南大和の越智氏
を撃滅している事だ。そこに楠木正成の菊水の家紋の理由があるようだ。




150: 名無しさんAA:19/04/16 20:24
 柳川 銭紋  144

 楠木正成の自出は今も判然としない。だが正行父子は後醍醐天皇や南朝(吉野朝)方
して活躍している。当時多くの武将が、利害関係によって、昨日は北朝方、今日は南朝
方というように変化していたが、その有利な勢力に鞍替えするのが当たり前な時代の中
で、楠木一族はずっーと南朝方に付いていました。しかし、正行の跡を継いだ正成の三
男の楠木正儀の代には、南朝の勢力も弱くなり、何度か京を奪還しますが、その度に、
すぐに北朝方に追い出され嫌になっていた。やがて、和平の機運ももちあがり、打ち続
く戦乱に終止符を打つための画策が具体的に練られ始めました。正儀は南北朝の統一を
夢見ながら働いていましたが、南朝の後村上天皇が亡くなられて、強硬派(主戦派)の
長慶天皇が位にたつと、正儀は南朝に居ずらくなったのか、ついに北朝へ移ってしまう
。正儀の子供達が、父の行動に従わなかったことをみると、正儀の心苦しい心中が察せ
られるのだが。しかし、我々は後の時代から当時の時代を見ているので、このようにも
思うのですが、当時の南朝勢力や楠木一族から見れば、裏切り行為と見られても仕方が
なかった。しかし北朝側もそうそう戦っていた者が下野しても信用はない。その正儀も
再び南朝へ戻ってくるのですが、その最期は不明となっている。南北朝の合一をどこか
らか見ていたのかもしれません。しかし正儀は、どこにいても一族郎党や南朝のことを
思い、そのもっとも良い状態を常に考えていたと言われている。その後正儀の子、楠木
正勝らが篭る千早城も足利勢に落とされてしまうわけですが、城内には、ごく少数の人
数しかいなかったとされ、正勝らは雲隠れする。後の南朝時代の南北朝の合一での取り
決め事が履行されないために後亀山上皇は再び吉野へ行かれたのですが、その後の楠木
氏の足取りもほとんどわからなる。1399年の、応永の乱に楠木正勝や楠木正秀が幕府に
反旗を翻した大内義弘の援軍として現れたりと、足利政権の反対勢力側として楠木氏の
名(楠木正元・楠木光正・楠木兄弟・楠木雅樂助等)が出てくる。この頃から、さらに
朝敵(朝廷の敵)とされるのが強まった楠木氏は、河内・紀伊・大和・伊勢国や四国な
どで楠木の名前を変えて隠れ住んだものと思われている。楠木家の自出については、九
州の海運武将だったと思われる。嘉吉三年(1443)に禁闕の変(きんけつのへん)が、
長禄 元年〜2年(1457〜58)には長禄の変がおこりましたが、その時楠木を名乗る人物
が現われている。南朝方の一員として働きその後、室町時代後期に現れた楠木正虎の働
きで朝敵を免れ、伊勢楠氏の流れが形作られている。これらから出た楠正具は織田信長
の軍勢を悩まし、後には大坂本願寺で働いた武将がおり、また江戸時代には楠木流の軍
学(一例として、由井正雪の師とされる南木流の楠不伝)も流行りました。また河内の
楠木正長が讃岐国(香川県)の高松藩に出仕しました。また、大阪府には、名字が代々
「楠」だったと思われるお寺が多く残っております。定専坊さん、法正寺さん、瑞松寺
さん、定願寺さん、慈光寺さん、勝光寺さん…等々。また墨屋を開いた末裔や枚方宿の
「くらわんか舟」に携わった末裔など、身分や職業を変えて生き延びた楠木一族の末裔
だと名乗る家は今現在も少なくありません



151: 名無しさんAA:19/04/16 20:24
 柳川 銭紋  145

 中世の楠木一族は、いったい、どのような身分の集団だったのかは、諸説あって定説
なしとされている。その諸説には、鎌倉幕府御家人(参考楠木四郎)、非御家人、商人
的武士団、水陸交通の要衝に居住し運搬輸送に従事した集団、悪党、荘園の荘官、など
があるとされる。能などの芸能を行う人々や賤民・散所の長、僧・山伏との結びつき、
諜報活動などいろんな側面を持った一族だったようです。楠木正成がおおいに活躍でき
た背景には、彼の出現以前からのしっかりとした基盤(地盤)があったことが想像でき
る。鎌倉幕府の有力御家人は、その土地の名称とその武士達の苗字(名字)が同じ場合
がほとんどであるようですが、楠木という地名は資料等では確認されていない。したが
って、幕府の命令で楠木一族が各地の討伐に出向いた記録があっても、その事だけでは
、鎌倉幕府の御家人だったとは断定できない。その1322年の幕命で北条高時は、『河内
の国の住人楠正成をして』という表現を用いていることから、正成は幕府の御家人とは
違うという説もあります。しかし、もし楠木という地名があったらどうなんでしょうか
。しかも河内に楠木という字をを分解したかもしれない。紀伊国の熊野辺りに、熊野木
+豫(木へんに豫)樟日命の6世孫である熊野木+豫樟富命の末裔に富彦という人物がい
ました。平安時代の弘仁年間(810年〜824年)、富彦は熊野で起こった乱を天皇の命を得
て平定し、その後、京へ上りました。その子孫達は熊野に戻らなかったのですが、富彦
の6世孫の楠正定は熊野へ帰りました。正定は、楠藪と呼ばれている所に住みましたの
で周辺の人々からは楠殿と呼ばれました。ひょっとしたら、この頃から「楠」という名
字を使用したのかもしれません。関東地方などの東国の多くの武士は住んでいる土地の
(名・みょう)、もしくは元々住んでいた土地(名・みょう)の呼び名を、一族の名字
(名前)として姓(源や平、藤原、橘など)の変わりの通字として用いたそうですが、
西国(西日本)では、土地の名称以外からも自分たちの名字として用いたそうですので
、楠氏の発祥の地というべく「くすのき」という名称の地(名)が存在しないのかもし
れない。つまり東国では木の名はないが、西国では土地よりは愛でる物の名を姓とした
。古くから「楠」という名称の土地が無いそうなので、西南日本に多く群生する「クス
ノキ」という木が楠氏の名字の由来なのかもしれません。ちなみに、熊野本宮や新宮大
社の南西方向には楠(くす)という地名(現・和歌山県の古座川町楠)が、三重県四日
市市楠町にも楠という場所が室町時代にはあったそうです。熊野に戻ってきた正定の末
裔たちは、熊野本宮や新宮の神官や社僧になっており、奈良を本拠地にもしていたよう
だ。

152: 名無しさんAA:19/04/16 20:24
 柳川 銭紋  146

 しかし、奈良も多分に出身地ではない。特徴として、楠木一族は水の神を祀る、建水
分神社を崇拝していました。同じく水系の美具久留御魂神社や恩智神社、元春日の枚岡
神社も崇拝していたと思われます。楠木一党の一つとされる恩地氏の拠点にある。この
恩智神社にも水分社という別名がありまして、さらにこの恩智神社は江戸時代終わりま
で奈良の春日大社の猿楽をこの神社が受け持っていました。ますます能と関係が深そう
なことがわかります。鎌倉時代末期、楠木一族は水運に深く従事した集団だったと思わ
れている記載は多い。用水路も押さえていたのではと推測されます。また河内の金剛寺
や観心寺、和泉の久米田寺との関係から、僧侶(当初は真言宗か、後は浄土真宗が多い
)や山伏や修験者らが使う山岳ルートも、卓越して知っていたので利用していただろう
。僧・文観との結びつきや、大覚寺統との関わりもかなりありそうである。この河内国
のすぐ近くにある二上山などから採れた辰砂(水銀がとれる)を、楠木一族が売り捌い
て生活資金にしていた一族とも言われている。ちなみに、砂鉄が採れた土地は土が赤か
ったそうですが、赤坂という地名はそれに由来していることが多い。旧大和川から分か
れる平野川、近くには奈良街道という交通の要衝に赤坂という村がありますがそのそば
には南木本村がある。だが正行に残る伝説では南北朝時代には、この二ッ河小学校の、
島町を磯の宮社に柳の宮廷を建て近くに殯宮を置き「もがりの丘」を作ったとされてい
る。殯宮は棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れる式祭典の場である
。殯宮は「もがりのみや」という名で天皇の大喪の礼に、また「ひんきゅう」という名
で皇后・皇太后・太皇太后の斂葬の儀までの間、皇居宮殿内に仮設される遺体安置所の
名として使用される。そうして、それを同時に楠木の姓が藤の名を与えて藤木の姓にな
ったとされている。こうして同行していた武人の楠木公の息子楠木正行は藤木正行とな
った。又恩智氏は越智氏に代わった。従って九州人からすれば、要衝淀川河口に居する
渡辺党を討ち、紀伊国安田庄司湯浅氏を殺害し、南大和の越智氏を撃滅している事は大
変な不思議となる。そこに楠木正成の菊水の家紋の理由があるようだ。実は足利氏と共
に南朝方を支えて、渡辺党も湯浅氏も越智氏もいたからである。勿論足利氏も反乱して
も朝廷になれないはずだったが渡辺党も湯浅氏も越智氏などは北朝成立の立役者だった
のだ。ここに義憤があったのだろう。となると九州に南朝を迎えていた足利氏は名を変
えて生き残る道を探る事になる。足利氏は阿志賀氏と変え、天皇家は大塔家に変わった
。目野家も木下家も実は昔は他に姓があったと思われている。野田家も基は山田家であ
ったし新谷家も新開として別れた。こうした一族二家の方式はかなり流行った。つまり
南北朝統一時代になっては氏素性はどうでもよく生き残る事が大事になった。冨丸藤丸
吉丸も吉富城が落ちて安富や富安と色々名乗っている。五郎丸氏も実は屋号であり本姓
ではない。ところがこの頃は戸籍謄本などなかったのだ。



153: 名無しさんAA:19/06/25 11:42
 宇宙仏教説     ----   ----  ----130

 ドナルド・トランプ(Donald Trump)米大統領は21日に、米国がイラン攻撃を行う「
準備は万端」だったものの、イランによる米無人偵察機の撃墜に対する報復には「釣り
合わない」として、直前に中止したことを明らかにしている。トランプ氏の話によると
、戦略上の要衝であるホルムズ海峡(Strait of Hormuz)付近で起きた無人機撃墜への
対応に迫られる中、米国は20日夜に3ヶ所の攻撃を行う準備を整えたが、開始の「10
分」前に大統領自らが攻撃を中止したという。トランプ氏はツイッターは、「何人の死
者が出るか尋ねた。150人、というのが将官の答えだった」と記し、被害が「無人機
の撃墜に釣り合わないと判断した」と説明している。ホワイトハウスでの収録された米
NBC「ミート・ザ・プレス」のインタビューでは、トランプ氏は、イラン攻撃の最終
承認はしておらず、当時、航空機は出動していないと語っている。イランは、アフガン
での無人機の撃墜後、その撃ち落とし方を学んでいる。今後も国境を防衛すると宣言。
同国の精鋭部隊である革命防衛隊の空軍司令官は、米無人機は撃墜前に2回警告を受け
ていたと主張している。イラン側は更に、トランプ氏がオマーンを介しいう様なイラン
に交渉の意志がなければ攻撃を実施すると警告したとの報道を否定している。つまり、
これは可笑しな話で包まれている。トランプ側も、このイラン攻撃は、何らかの形での
陳情なり申請がなければ了承・承認にならない。では誰が発案したか。当然ペンタゴン
なり国防長官なりのはずだ。ところがポンペイオ国務長官は高揚しイランの関与を主張
しイランに対する糾弾をした。実はマティス氏退任以降米国の国防は行き詰っている。
後任として、パトリック・シャナハン副長官や実質的に外交・安全保障をリードする、
ジョン・ボルトン大統領補佐官(国家安全保障担当)は対中政策さらに北朝鮮情勢で、
おそらく手一杯のはずだった。この虚をついてカショギ氏殺害にエルサレム移転である
。理由は何であれ、米軍のシリア撤退とその結果として起きるトルコの勢力拡大により
、中東は再び混乱に向かう可能性を高くした。だからこそ、マティス氏は自らの進退を
かけて、トランプ大統領に考え直すよう説得したのだろう。ところが一向にアメリカの
優位とはならない。そもそもマティス戦略は最高の世界平和守護であった中で、イラン
の核合意廃棄やサウジへの武器売却や北朝鮮制裁緩和など、雲泥の差がある。特に今や
イバンカ夫人やクシュナーのイスラエルの言いなり政策では世界は滅びる。イラン外務
省のムサビ報道官は、「イランはホルムズ海峡の安全を守る立場にあり、短時間に乗組
員を救助することでそれを示した。」として、イランは必要な役割を果たしたと抗弁し
、関与を否定しアメリカの非難は危険だと警告までしている。事実イランは、救助した
乗組員の様子を国営放送でいち早く伝えるなど、救助活動で果たし積極的に発信してい
て非はない。イランの関与を主張するアメリカをけん制し、事件とは無関係であること
を強調するねらいもあろうが至極まっとうだ。対して敵対関係にあるサウジアラビアは
、イランに対する非難を強めてサウジアラビアのジュベイル外務相は、アメリカCNN
に対し「アメリカの分析に全面的に賛成する。イランにはタンカー攻撃を繰り返してき
た歴史がある。」と述べファリハ・エネルギー産業鉱物資源相は「2隻のタンカーが、
テロ攻撃を受けたことについて重大な懸念を持って状況を注視している」とした上で、
「サウジは自国の港湾施設や周辺海域を守るためにあらゆる必要な措置をとる」と述べ
て、警戒態勢を強める考えを示した。どうもUAE他のサウジシンパが、カショギ氏や
その前の税制徴収の皇太子軟禁などで不評なので、援護しようと起こした事件の様相だ
。これにBグールプが乗っている。それを苦笑いしてロシアが見ている。という構図な
のだ。事実ディールという交渉取引で簡単に色んな事を言う大統領にアメリカ自体には
考察も戦略も又それなりの効果も検証も無いように見える。つまり今までも今からも、
本来はあってしかるべき人類の恩恵もアメリカという国の利益もここでは消えて軍需の
複合産業やユダヤの資本ばかりが増えている有様のようだ。


154: 名無しさんAA:19/08/31 19:28
  歴史の群像  03

 歴史的に見て、中国は常に大国であった。陸続きの隣国が大国であった場合、周辺の
国々は常に侵略に侵される。このとき行動は、小田原評定ではないが、戦いを挑むか、
恭順を示すか。を選択せざるを得ない。大国が平和国家で考え方が侵略者でなければ、
逆にわざわざ遣唐使や遣隋使を送る事で同盟も果たす。その大国が、気は優しくて力持
ちの大国なら、災害などで困った時に助けてもらう可能性や、先端技術や貿易などにお
いて多大な味方になるだろうからだが、だが大抵の大国は他の国を敵にして国の結束を
図る。中国もそれに入り、常套手段で自己の文明を誇り、意思統一を策し、周囲の人々
を「東夷、西戎、南蛮、北狄」と呼んだ。さらには遠征までして朝貢貿易の国富の一部
を上納を求め、隣国は対応に苦慮した。隣接する大国への2つの対応で(A)大きな国
には敵わないから、最初から恭順の意を示す国は皆無に近く。下手に出てお追従を言い
続ける。ご機嫌を取って上納金を下げてもらう。としたのは朝鮮半島ぐらいで、その他
は(B)敵わないと分かっていても、徹底的に抵抗する。いくら大国でも弱点はある。
ここは自分達の領土だ、勝たないまでも引き分けぐらいには持ち込めよう。粘り強く、
ゲリラ戦や夜襲をかけ、戦う場所は勝手を知るたる郷里だ。敵を誘導し全力で叩き局地
戦や分断戦に勝利し兵站を切り交渉すれば何とかなろう。勢いに乗って相手国に攻め込
もうとは考えないが。勝った直後に相手のメンツを立てながら講和に応じる。戦に勝っ
た事で、上納金は支払わないなどの約束は出来よう。と策を練るのがほとんどだった。
当然日本も同じだった。前者では人的な損害はないが、上納金を払い続け、経済的負担
も重く、他国の信用もない。しかし後者では上納金も払わないが、強大な相手と戦う事
の負担も多く戦死者も出すが、何よりも名誉と誇りは守られ、国際社会に恥はかかない
。これが普通の国の行ってきた事だった。こうして降伏せずに戦い続けたのがベトナム
始めウイグルや日本人だったのである。隣の大国中国の対応として、朝鮮半島に住人は
もともとがこの旧元朝の都落ちの官史や宮中も多く、内情を知り言葉も交え交流も深い
立場だったからだ。従って矜持も普通の国とは違っていた。結果、朝鮮半島に住人は、
中国王朝と戦火を交えることはなかった。たまに戦う機運にある時には国が離反し時の
王が退位されるクーデターとなった。格差が大きすぎたのだ。一方で、約千年前にでも
中国から独立していたベトナムや日本は、独立後の歴史は中国との戦いの歴史が重なる
。中国王朝が変わる度に、日本やベトナムは攻められたからだ。このことは人々の気質
を大きく変える。朝鮮半島の人々は中国への恭順を千年以上も続け属国2等国民として
の「へつらい」が習い性になった。これが今の韓国や北朝鮮の「超学歴社会」と「権威
主義」、いつまでも治らない「火病」の元となった。歴代王朝の中で近代史では、「清
」が建国されてその対応を間違っていたことが、近世三百年でも多額の貢物を要求を聞
いて、屈辱的な扱いを受け続けた事が記録されている。


155: 名無しさんAA:19/08/31 19:28
  歴史の群像  04

 アヘン戦争で西洋社会に多くの賠償金が銀で支払われたが、この銀は海洋商人に行っ
た税がほとんどで、欧州の要求で開港したが、その時その多くも朝鮮からの海商が半分
だった。しかし港の権益を取られた為に、中国国民には多くの課税が行われた。この銀
はほとんどが日本から持ち出された銀だったといわれる。秀吉時代に銀鉱山の産出は、
ピークを過ぎていたが、それでも中国からの鉄砲や火薬や綿糸が南蛮船で持ち込まれて
、銀貨や女郎が奴隷として海を渡っていた。博多糸割賦はこの南蛮船に対抗して貿易船
を仕立てた博多商人の海賊船である。この頃の海賊とは貿易権利を持つ船を指した言葉
である。博多商人が運航し京では岩見銀山を押さえようと武士が戦った上に、銀山職人
にキリスト教化して権力者中枢に食い込む南蛮貿易があった中、武力闘争続ける宗門の
門徒衆がいた。もともと○○山○○寺と言うのは、教派もさる事ながら寺を護る寺男の
集団の所在を意味している。今で言う坊兵の訓練所の学校はどこを出たかの違いだ。こ
うした戦国時代の日本が江戸時代に変わっても、朝鮮半島では高麗時代から変わらずに
、李氏朝鮮の支配のコリアンカースト制が続いていた。階級の「両班」などの貴族階級
からは庶民は農奴(農業奴隷)であった。そして両班といえども、中国皇帝の奴隷だっ
た。こうしてこの国は貴族も庶民も鬱屈したまま歴史が続けられた。隷属する鬱屈のは
け口が庶民だった。そして庶民である農奴もその下にいた売娘をはけ口にした、それが
「恨(ハン)」の文化として定着した。強いものには必ずへつらい、弱いものに強く出
る。朝鮮半島に住人の基本的な行動原理だ。昨今の従軍慰安婦や徴用工の問題はこの国
特有のこの民族感情の延長上にある。日本が今や攻めてこない。日本人と同じ生活レベ
ル、そうなると一気に強気な態度に出る。理性的な対話などない不可能な思考下に汚染
されているのである。一方で、中国を挟んで対境界のベトナムは違った。日本と同じに
元寇が襲って大軍を送っても、ゲリラ戦や河川を利用し防御し戦いに勝った。粘り強く
、絶対に降伏せずに戦い続ける。それがこの国だった。近代戦でも、朝鮮戦争はわずか
3日でソウルは落とされ一週間後に李承晩は山口や島根への亡命政府を打診し、前線に
出て指揮することはなかった。それどころか一ヶ月後は既に釜山陥落まであと僅かとな
っていた。ベトナムは例えアメリカでも戦った。粘り強く。そのような性格を最も見誤
ったのは、フランスであり米国だった。米国が建国以来、戦って唯一勝てなかった相手
がベトナムであるという汚点を残して立ち去った。現在もベトナムは中国に対して一歩
も引かない。徹底抗戦を貫いている。例え中立地帯だったマカオや香港が盗られても、
賢くふるまっている。ベトナムは中国と同じ社会主義国である。だが仲が良いわけでも
仲が悪いわけでもない。地政学的に敵であり味方である。是々非々の隣国なのだ。学ぶ
べきポジションである。


156: 名無しさんAA:19/08/31 19:29
  歴史の群像  05

 事実本来「西沙諸島」はベトナムのものとして第二次世界大戦は終了している。中国
が出てくる領域は一ミリも権利はない。ベトナムには「南沙諸島博物館」がある。この
博物館が伝えるのは、中国の如実な侵略と非道な歴史の伝承である。ダナンにある西沙
諸島問題に関する博物館も徹底した抵抗の精神が示されている。この一ミリもない主張
の領有権は、今や香港島を英国が勝手に中国に返して深刻である。もともと阮王朝に、
フランスが乗り込んできた時英国のシェアの中に食い込んで昔のような英仏戦争になり
たくなかったのが今の国境である。その為南沙諸島や西沙諸島を巡る紛争は、尖閣諸島
問題よりもずっと深刻である。この問題を巡っては、ベトナムと中国は近代でも何度も
戦火を交え、多くの戦死者を出している。戦後の最初の戦いは、まだベトナム戦争が行
われていた1974年にまで遡るので驚きであろう。当時ベトナムは南北に分断されて、北
ベトナムは中国やソ連、南ベトナムは米国に支援されていたのは知っての通りである。
ベトナムがこうした混乱していた時期に中国は本格的に南沙諸島への進出を開始してい
る。無茶苦茶である。混乱に乗じた友軍の侵攻だった。それを阻止しようと、当時の南
ベトナム海軍が出動して海戦が勃発した。民兵やホーチミンには苦悩が走った。米軍は
その情報に乗って韓国軍を送って前進し枯葉作戦を行っている。日本では高度成長期の
万博が終わり、石炭産業で一翼を担った端島、今の軍艦島が閉山し小野田少尉が帰国し
まさに戦後が終わろうとする頃である。この海戦ではベトナム軍兵士70人以上が死亡し
、中国側にも若干の戦死者があったという。文化大革命の下でも着実に海軍力を増強し
て中国はこの海戦に大勝利した。アメリカも敵であったはずが裏で通じてベトナム戦の
勝利終結に走っていた為叩かなかったのだ。その結果、南沙諸島を実効支配するととも
に、その領有を主張するようになった。5月にインドが初の地下核実験を実施し、日本
の経団連会長に土光敏夫が就任した。しかし、情報は日本にもアメリカにも伝わってい
てベトナム和平運動連合会、略称べ兵連は白熱化し革マル派とも衝突する。野外音楽堂
はフォークのメッカとなった。しかしここで全米ニュースにエポックが起こる。1974年
7月15日、いつものように担当するニュース番組「サンコースト・ダイジェスト」で
全国ニュースを伝えていた。ところが、番組中に映像のリールが故障、放送予定だった
ニュースの映像が流れなかった。すると、彼女はそれを受け流すようにして、視聴者に
対して語りかけ始めた。「チャンネル40にはポリシーがあります。それは視聴者の方々
に、ありのままの情報をお届けするということです。」というと、「ただいまから皆様
にお見せいたしますのは、本邦初公開の…」と語りながら机の下に手を伸ばし、隠して
いた38口径のリボルバー拳銃を取り出し、「自殺です。」と言い、自身の側頭部に銃口
を当て、躊躇することなく引き金を引き、床に崩れ落ちた。


157: 名無しさんAA:19/08/31 19:29
  歴史の群像  06

 この話は映画にもなった。当然番組は中断され映画の放送で対処した。チュバックは
すぐに病院に運ばれたが、死亡した。29歳だった。ここで影の組織が蠢いていた。クリ
スティーン・チュバックはオハイオ州サミット郡ハドソン出身でマイアミ大学卒業であ
る。1966年から1967年までクリーブランドのテレビ局WVIZに入社、その後フロリダ
州セントピーターズバーグのテレビ局WTOGを経て、フロリダ州サラソータのテレビ
局WXTWーTVに勤務して地域の問題についてのトーク番組を持つに至っていた。こ
のTV局では、その後午前のニュース番組「サンコースト・ダイジェスト」のキャスタ
ーを務めるようになった。彼女は社会正義の強い人で政治腐敗の色々なゴシップを知る
ネットワークを持っていた。しかし富裕層に嫌われてTV局から左遷されてここにいた
。突然アメリカ社会には降ってわいたウォーターゲート事件が起こり、これを執拗に問
いつめて追いかけていたのが彼女だったのである。7月24日 - ウォーターゲート事件で
アメリカ最高裁は、ニクソン大統領と首席補佐官が事件対策を話しあう様子がおさめら
れた録音テープの引渡しを大統領側に命じる判決を出した。8月になると8日にウォー
ターゲート事件でニクソン米大統領辞任する事になった。初戦の1968年共和党予備選挙
はミシガン州のロムニー知事、ニューヨーク州のロックフェラー知事、カリフォルニア
州のロナルド・レーガン知事などと富裕層の支持争いで終始リードを保ち有利に進めて
共和党候補者となっていた。対する民主党は前アラバマ州知事で、人種隔離政策を支持
を掲げるジョージ・ウォレスが立候補し、北ベトナムへの無差別爆撃の継続を訴えてい
たカーチス・ルメイ空軍大将を副大統領候補に据え、ベトナム戦争における北ベトナム
に対しての強硬な政策実施を主張し、「偉大なアメリカ」「偉大な社会への計画」継承
を訴え、貧困の撲滅などの実現を主張していた。そこで対抗としてシカゴで行われた党
大会にでていた。しかし、ジョンソン大統領のベトナム政策に反対するデモ隊が押しか
け、リチャード・J・デイリー市長が動員したシカゴ市警察と衝突し、流血の事態とな
り六百人以上の逮捕者を出すなど大混乱に陥ったのだ。早い時期から選挙運動を開始し
ていた彼は、公民権運動やベトナム反戦運動が過激化したことに対して「法と秩序の回
復」を訴え、民主党のケネディ政権が始めてジョンソン政権で拡大の一途を辿っていた
ベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を主張し、「これを実現する秘密の方策がある」
と民主党対抗の共和党意見の代表者となっていた。これに、学生を中心とした過激な「
反戦運動」を嫌う多数の保守層が流れ込み、ニクソンの掲げた「法と秩序」のキャッチ
フレーズを支持した上、ジョンソン政権下で泥沼化していたベトナム戦争の早期撤退を
公約したことで、戦争終結を求める反戦志向の無党派の票までも獲得し。大統領になっ
ていたのである。ニクソン自身の外交政策は、カンボジアとチリにおいては政権転覆な
どクーデターを謀り、傀儡政権の樹立などの力を背景とした政策を行うとともに、ベト
ナム戦争からのアメリカ軍の全軍撤退と軍縮政策の推進、国際協調外交の推進など腹心
のキッシンジャーが奉ずるリアリズムを基調とした硬軟織り交ぜた政策を展開した政策
を行っていた。これに軍産複合体の多くが乗りかかっていた。大統領自身、1959年7月
の「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦の首都モスクワを
公式訪問するなど、当時のソ連のフルシチョフ政権下におけるいわゆる「雪融け」政策
者の一人だったのである。


158: 名無しさんAA:19/08/31 19:29
  歴史の群像  07   

 こうして突然に終わりを遂げたベトナム戦争は米国の撤退で幕を閉じた。これは世界
的な、公民権運動やベトナム反戦運動が過激化したことに対して「法と秩序の回復」を
訴えた結果であった事は間違いないものだったが、同時にこの「法と秩序の回復」発言
のニクソン自身の外交のデタント政策に色濃く残り、双子の赤字はドル・ショックを生
んだ。減税と輸入課徴金制度の設立、物価・賃金の凍結を打ち出すなど国内経済の保護
主義を断行し、それは日米繊維交渉で一歩も譲歩しない日本の田中角栄に対して対敵的
通商法で揺さぶった姿勢に、日本は大いに戸惑い米国の不満が現れてしまった。外交と
内政で大きな成果をおさめ、国の内外からその絶妙な転換の手腕が高い評価を受けて、
大統領選挙で再選を果たしたニクソンだったが、アメリカ史上初めての大統領任期中の
辞任という不名誉な状況になった。初回の大統領選挙の予備選挙が最終盤を迎えた1972
年6月に起きた民主党全国委員会本部への不法侵入および盗聴事件が、本部オフィスへ
の不法侵入と盗聴器の設置容疑で逮捕された5人のうち1人はジェームズ・W・マッコ
ード・ジュニアでニクソン大統領再選委員会の警備主任であった事で、当初ニクソンと
ホワイトハウスのスタッフは「民主党全国委員会本部オフィスへの侵入事件と政権とは
無関係」として、1972年秋の大統領選挙には全く影響は無かったが再度疑惑として追及
を受けて、最高裁は明らかなFBIへ捜査妨害を指示していた。と決定し、司法委員会
が弾劾発議を可決、さらには上院で弾劾裁判の反対票のはずの与党共和党の議員からも
雪崩を打ってニクソンへの支持撤回が相次ぎ、「ウォーターゲート事件」として辞任す
るのである。しかし彼はデタントを進め、1949年に中華人民共和国が建国された以降、
朝鮮戦争における米中の交戦と休戦を経て長年の間アメリカと対立関係にあった中で、
初めて1971年に中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国との関係を正常化する
ことに立ち会っている。中華人民共和国と対立を続けていたソ連を牽制する為に近づた
のである。こうした実績からすると、「ニクソンはむしろリベラルに属する大統領であ
った」と指摘される。環境を保護し、環境破壊の予防回復の観察政策の為にアメリカ環
境保護局 (EPA) を設立。海洋と大気状態を観察し 海洋資源と生態系観察を行う、海洋
大気局を設立。包括的薬物乱用予防管理法に署名。職業安全衛生法に署名。大気浄化法
(マスキー法)に署名。自然環境と生態系と自然資源の被害予防の国家環境政策法に署名
。スペースシャトル計画を承認,ラムサール条約に調印,水質清浄法(水のマスキー法)に
署名。1973年 麻薬取締局 (DEA) を設置。と今では当然の社会福祉増進の為の役所や法
を完備した。しかし、撤退したベトナムでは、いまだ中国の攻撃は止まなかった。測量
を行っていたベトナム原住民であり、非戦闘員を攻撃される。ベトナムは1975年に統一
されたていたが、それ以降もベトナムと中国の間では南沙諸島を巡って対立が続いて、
その争いはエスカレートして、中国は1974年以降はより以上南沙諸島への関与を強めて
、その実効支配をより強固なものにしようとしていた。



159: 名無しさんAA:19/08/31 19:30
  歴史の群像  08   

 1988年に入ると、中国海軍はその実効支配地域をマラッカ海峡付近にまで拡大しよう
と蠢動し始めた。ソ連に廃船空母ポチョムキンを観覧客船にするとして購入し、アメリ
カからは、数多くの製鉄廃工場の利権回収をした。ラストベルトの工場購入にアメリカ
の工場の町は再開か解体作業員で少しは潤うと思っていたが、まったく違っていて、彼
らは20人程度でモーテルに住み込み突貫工事で解体し、回収し大型船に回収し積み込
み本国に送ったのである。日本でも中古機械は、盗品と共にほとんど買い漁り、漁船な
どは漁業作業員が事故を起こし、死んでも操業できれば田舎から労働者はやってくると
船団は増え続けさらに日本の遠洋漁業は廃退つづけ多くは沿岸漁業者のみになったのだ
。そうした中1988年3月14日、ベトナム人にとって忘れることができない出来事が起
きる。ベトナム海軍は測量を目的にジョセフ環礁とも呼ばれる海域に兵士を派遣してい
たが、それに対して中国はこの他国の領土他国の海域で測量を阻止する目的として軍艦
を緊急に派遣し派兵した。結果急襲し民間のベトナム測量士を銃撃した。補佐の多くの
ベトナム兵が死亡し、一部は捕虜にもなった。ベトナムは「同島にいた兵士は戦闘員で
はない。又兵士であっても測量を行っていただけであり、武器などは携帯していなかっ
た。」と改めて主張している。中国はそんな兵士に対して急襲し重戦車砲攻撃を加えた
。この攻撃でベトナム兵64名が死亡し、その後、遺体の回収に向かった艦船は島に近
づくことすらできなかった。改めて外交官を通じ解放を求めたが、艦船の遺体回収を、
中国側が拒否したために、10日間にらみ合ったがベトナム側は遺体を収容することが
できなかった。ベトナムはこれを人道上きわめて重大な問題であるとして表明している
。こうした事件を起こしながら、中国政府高官も報道官も、共産党中国はいかなる国も
侵略しないし侵略させない平和を求める民主国家だ。といけしゃしゃと厚顔無恥に設楽
顔でいう。毛は、1951年末に汚職・浪費・官僚主義に反対し「三反運動」を、1952年初
から贈賄・脱税・国家資材の横領と手抜き・材料のごまかし・経済情報の窃盗に反対し
「五反運動」を展開している。しかし朝鮮戦争で息子が死んで以来変節を遂げる。当初
国家主席に就任で毛沢東は、反対勢力を粛清していたが。1956年のソ連共産党第一書記
ニキータ・フルシチョフのスターリン批判に共感し、中国共産党に対する党外の積極的
批判を歓迎する「百花斉放百家争鳴」運動を行っている。しかし、多くの知識人たちに
共産党独裁化批判にさらされて、再び弾圧する反右派闘争を開始し、全国で50万人以上
を粛清失脚させ投獄し、。こうして70年日中友好に走り1988年経済復興して再び周辺
諸国強硬弾圧に力を入れポルポト政権などを支援している。ポルポトはクメール王宮の
末弟で留学中共産党組織を動かすスターリンに魅了されカンボジア共産党を組織してい
た。ベトナム人にはこの武力勢力とも戦う事が強いられた。中国人はフィリピンでも同
じように機関銃で住民殺しをやった。ベトナム人はこの事件をよく知っている。しかし
、この事件が広く世界に知られることはなかった。わが国でもその詳細を知る人は殆ど
いなかった。ベトナム政府も、そしてベトナムの人々も、この事件にひどく憤慨し発生
当初に、ベトナム政府は中国に強く抗議したものの、しかし、強い抗議の声を上げつつ
も端的に言えば、巨大中国との外交悪化にためらっていた。1990年代から中国は急速に
経済成長して貿易活動や支援もあった。中国の力はベトナムを圧倒し経済力は更に巨大
になった。軍事面だけでなく経済の面でもベトナムは中国と対立することが難しい。そ
こで人々は、政府に頼らずこの記憶を留めておくために、全額募金でこの記念館を設置
したのである


160: 名無しさんAA:19/08/31 19:30
  歴史の群像  09  

、中華人民共和国で、建国宣言には「新民主主義社会」の建設を掲げ支配地域には「新
土地革命」を全国の未実施地域で行った。、法律では従来の「土地革命」とは異なり、
「富農経済の保護」を打ち出し、「穏健で秩序ある」改革をめざし、建国後すぐには、
周恩来などの指導で、農業生産高は一気に増大し、同時期の工業は、農業以上に生産の
伸長した。この為毛沢東は、1951年末には汚職・浪費・官僚主義に反対し「三反運動」
を、1952年初から贈賄・脱税・国家資材の横領と手抜き・材料のごまかし・経済情報の
窃盗に反対する「五反運動」を展開している。しかし朝鮮戦争で息子が死んで以来変節
を遂げる。当初国家主席に就任で毛沢東は、反対勢力を粛清していたが。1956年のソ連
共産党第一書記ニキータ・フルシチョフのスターリン批判に共感し、中国共産党に対す
る党外の積極的批判を歓迎する「百花斉放百家争鳴」運動を行っている。しかし、多く
の知識人の共産党独裁化批判にさらされ再び弾圧する反右派闘争を開始し、全国で50万
人以上を粛清失脚させ投獄した。こうして極端な不作となった。70年日中友好に走り
1988年経済復興して再び周辺諸国強硬弾圧に力を入れていた。中華人民共和国になって
大躍進政策を施行し、農業と工業の大増産政策を打ち立てた。反対派を始末し、合作社
・人民公社・大食堂など国民の財産を全て取り上げて、共有化する共産主義政策を推進
し、毛沢東は。「数年間で核武装や経済的にアメリカ合衆国やイギリスを15年以内に追
い越す」と宣言した。しかし、市場原理を無視して、一部の農工業生産指標のみにおい
て3年間で英米を追い越すほどのノルマを人民に課し、ずさんな管理の元でこれらの農
工業製品に特化し、大きな増産体制を指示し却って生産力低下をもたらし、従来の3割
以下となった。原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄法を奨励し全国の都市、農村で
展開され農機具が粗鉄の塊に変わった。また土法炉を建設するための主資材の耐火煉瓦
の供給は有名で信仰ある寺社の土壁や仏像からとられた。必然的に土法炉の火力や還元
剤に木炭が使用され、木炭を生産する目的で、全土で樹木の大規模な伐採が開始される
、当然全国の山は禿山となった。この粗鉄運動で1117万トン生産されたが鉄の内、6割
が全く使い物にならない粗悪品(銑鉄)だった。それでも増産計画に従って生産を続け
資源を大量に浪費する国となる。結果農民が大量に駆り出され、杜撰な農地解放は荒れ
果て、ノルマ達成の為農民の保有する鍋釜、農具まで供出され、地域農業や生活の基盤
は破壊されてしまった。 1958年には「除四害運動」を行われた。四害(伝染病媒介)
するとしてハエ、カ、ネズミと、農作物を食い荒らすスズメの大量捕獲作戦が展開され
た。しかし、スズメの駆除は、かえってハエ、カ、イナゴ、ウンカなどの害虫の大量発
生を招き、農業生産は大打撃を被った。伝統農法も科学的近代農法もまったく無視した
政策として密植・深耕運動が実行に移された。結果、農業は大きなダメージとなる。更
に、強硬に推進する為人民公社の設立など農村のコミューン化を推し進め生産意欲減退
に繋がった。1978年の生産責任制が導入されるまでシステムとなった。これらの手法は
効果的に、凄まじいまでの凶作を作った。人々は生んだ赤子まで食べると言う貧困にな
ったのである。1980年代の北京経済制度研究所報告書では、パンチェン・ラマの故郷で
ある青海省で、人口の45%に当たる、90万人が死亡し、四川省では900万人が死亡した。
と言う。飢饉について研究したジェスパー・ベッカーは、「中国のいかなる民族でも、
この飢饉によってチベット人ほどの苛酷な苦難に直面した人々はいない。」と指摘して
いる。


161: 名無しさんAA:19/08/31 19:34
 歴史の群像  10    

 この大躍進政策によるチベットの惨状については、パンチェン・ラマは周恩来首相に
改善を求めている。パンチェン・ラマ10世は、今のダライ・ラマの先代になる。チベッ
ト仏教では輪廻思想の下、子孫や血統では受け継がず神のお告げを話し、全国行脚で次
のラマの祭司大司教の赤ん坊を決定し入場させて帰依させる。しかしながら共産党中央
政府は独断で、指名する者を連れてきて強制した。これにバンチェン・ラマは抵抗して
文化大革命の際に紅衛兵に拘束された。1968年から1978年まで10年間投獄され、出獄後
も1982年まで北京で軟禁された。パンチェン・ラマ10世は1989年の演説で「チベットは
過去30年間、その発展のために記録した進歩よりも、今や大きな代価を支払った。二度
と繰り返してはならない一つの過ちである」と自説を述べた。これは中共政府の用意し
た原稿を無視した演説であった。その発言後のわずか5日後、パンチェン・ラマ10世は
死去に至った。中華人民共和国政府は死因を心筋梗塞と発表したが、チベット亡命政府
や西側のチベット独立運動家などは暗殺説を主張している。これはチベット仏教のみに
行われた行為ではなかった。多くの多民族国家の独立民族は虐殺と強要が横行し現在に
至っている。しかしこの頃のチベットの惨状は凄まじく、多くの地域で民衆が餓死して
いる。地域によっては、民族が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い場所
がチベット周辺だった。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であったがし
かしこうした食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうで
ありチベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死
寸前であるこの村には強制的農法が何の根拠も指導された。そして餓死しあるいは非常
に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいったのだった。また、公共食堂で食事を義務
づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じ
った小麦が配給されるのみで、パンチェンラマは次のように書いている。この恐るべき
搾取と配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている
。チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中でも、こん
な恐ろしい飢餓を想像することはなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれ
が数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く。(…中略…)チベットでは1959
年から1961年までの2年間に、牧畜と農業は殆ど完全に停止させられた。遊牧民は食べ
る穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送
することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァン
パ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった
カム地方でも1965年まで飢餓が続き、パンチェン・ラマが批判した惨状が継続していた
。他にもパンチェン・ラマはチベット民族の消滅を危惧して記述している。また当時の
映像はすべて英国記者が記録し、チベット仏教僧の焼身自殺、ラマ僧の闘争、中国軍の
無差別虐殺 僧侶の脳みそを笑って食べる中国軍などフィルムが残っていて、インター
ネットで覗く事が出来る。


162: 名無しさんAA:19/08/31 19:34
  歴史の群像  11

 こうした事で、周恩来首相宛に「七万言上書(7万字の覚書」を上奏したのだった。チ
ベットに対する中国共産党政府の抑圧政策の実状に触れたこのパンチェン・ラマ10世は
1962年、中華人民共和国のチベット支配を批判した諌言「七万言上書」によって拉致さ
れ北京に連れられた。七万言上書は長らく極秘文書であったが、のちに最近発見された
。 パンチェン・ラマは1962年5月18日に、チベット政府首班の地位を周恩来首相に譲る
覚え書きに署名が強制され素直に従っている。中国統一戦線部部長の李維漢は、3ヶ月
間のみ諌言を受けて改善を実行しようとしたが、同1962年8月に、毛沢東は中止を指示
し、李はパンチェン・ラマとの結託を批判され処分された。毛沢東政策の間違いが認め
られる事を恐れたのである。パンチェン・ラマも自己批判を命じられ翌1963年、ラサで
50日間の闘争集会に掛けられたあと、北京に送還された。なお1960年に法学者国際委員
会報告書は、チベットにおいてジェノサイド(民族絶滅を意図する大虐殺)があった事
は明らかな証拠があると発表しており、七万言上書はこの見解を裏付けるものとなった
。この七万言上書について周恩来は「事実ではない」と答えているがこの間にも虐殺は
続き一部はいまでも映像が残っている。実は天安門事件は、その切れ目ない政府指導の
虐殺事件の民衆抵抗の姿であったのである。一般には知られてないが、この時にかけつ
けた心優しき多くの信者や支援者は、その後何十万人と労働刑務所に入れられ肢体解剖
標本にされたり、臓器移植のモルモットとされて物議をかもし、世界各地の博物館に売
られていたのである。それがワシントンで友人の標本展示や労働刑務所の強制物品の中
の手紙などで露見している。 この語「七万言上書」は1959年のチベット動乱(1959年の
チベット蜂起)に対する中共政府の過剰な報復的処罰を批判している。大躍進政策によ
る失敗のチベットの惨状についてパンチェン・ラマは何回も周恩来首相に改善を求めて
いる。この事は日本にも亡命者や帰化した者達から伝わっていて、日本政府は日中国交
をするに及んでいる。この時台湾を捨てる選択は非常に厳しいものがあった。まちがい
といえば間違いだったが、それでもこの時も4人の外交官は、民主化自由化人権に配慮
する。約束すると誓って本国に帰っている。生産量を増大の地方・地区は「革命的」で
あった、その地区の共産党幹部はより有能で、昇進が約束され虚偽宣伝する事例が全土
で横行した。ある地区で農作物の生産量が増大したと宣伝された場合、隣接地区の幹部
も対抗上、生産量が増大したと虚偽報告するしかなく、中央への申告と実際の生産量と
のギャップは年々広がる一方であった。中央政府は、地方報告の生産量に、輸出などに
回す穀物の供出を地方政府に命じた。地方幹部は生産量を過剰申告したとも言えず、一
度『増えた』生産量を減らせず、辻褄あわせに農村から食糧を洗いざらい徴発したのだ
。これが共産党政治の実態だったのである。こうして大躍進政策は公式調査でも餓死者
数は3,635万人、実質では6千万人以上の餓死者を出す、惨憺たる大失敗に終わった。


163: 名無しさんAA:19/08/31 19:35
  歴史の群像  12    

 中国人の歴史が悠久の昔からあるのに、日本の様に積み上げた社会や人徳や技術とは
ならない。それは毛沢東政治でもわかる。大躍進政策の大失敗と共に毛沢東の辞任した
。ところがこののち、党中央委員会副主席兼国家主席に就任して、陰に実権を握った。
劉少奇やケ小平共産党総書記が、混乱した経済の立て直しを目的に市場経済を部分的に
導入し、瞬く間に回復し出し人気を得つつあったのだが、この後世の指導者が現れたの
は気に入らず、毛沢東はこの政策を、「共産主義を資本主義的に修正するもの」として
あからさまに大批判を始めた。そのころ、清華大学附属中学(日本での高校に相当)で
こうした自由の運びで回族の張承志ら学生によって毛沢東賛美の紅衛兵が結成された。
こうして1969年に「文化大革命」として、正式に宣言されると権力闘争が本格化した。
日本の近衛兵(このえへい)は、天皇を警衛する君主直属の軍人または軍団をいった。
近衛府・御親兵・親衛隊・近衛師団・禁衛府・衛兵など、時代や国によってさまざまな
名称があるが要は君主の親衛隊である。毛沢東はひそかに自分の新しい親衛隊を組織す
る事に成功していた。これが紅衛兵(こうえいへい)である1950年代の人民公社政策や
大躍進運動の失敗によって実権を失っていた毛沢東は、失敗の責任を迫り立て直しに力
があって当時に人気を博した実権政府を批判した。その上1965年この実権派党員に対す
る奪権を目指して、文化大革命を計画する。1966年6月29日学生たちが反抗の動きを
支持するために秘密裏に紅衛兵を組織し、資金と人材を置いて煽ったである。紅衛兵と
いう名称は、当時清華大学附属中学学生だった回族(イスラム教を信仰する少数民族)
出身の張承志の発案だと、本人は述べている。しかし、「愛国無罪」をいい、「文化大
革命」を呼びかけたのは他ならぬ謹慎中の毛沢東の恨みの声であった。同年6月には北
京地質学院附属中学、北京石油学院附属中学、北京大学附属中学、北京鉱業学院附属中
学、北京第25中学の学生が「紅衛兵」「紅旗」「東風」などの秘密学生組織を相次いで
設立しネットワークを結んだ。紅五類(労働者、貧農・下層中農、革命幹部、革命軍人
、革命烈士、およびその子女)であり紅衛兵団体の加入認証を得た者が紅衛兵となる。
対して地主、富豪、反動分子、悪質分子、右派分子、およびその子女は黒五類とされ、
出身のみの理由で吊るし上げの対象となった。北京の紅衛兵は『毛主席語録』を掲げて
「破四旧」(旧い思想・文化・風俗・習慣の打破)を叫んで街頭へ繰り出し、劉少奇や
ケ小平に代表される実権派、反革命分子を攻撃し、人民服ではなく、ジーンズをはいた
若者を「西洋的」であるとして取り囲んで服を切り刻んだり、貴重な文化財を片っぱし
から破壊し(文化浄化)、果ては多くの人々に暴行を加え死傷させた。不満分子の反乱
で、515事件や226事件の様な形である。日本との違いは天皇崇拝者の革命でも、
天皇毅然と反対し処断を命じた。しかし中国は政府の官制デモであり、それも前任者の
新しい治世者の追い落としに使うというものだ。そう全く朝鮮の文政権と同じなのだ。
これが共産党政治の源流なのである。


164: 名無しさんAA:19/09/02 14:41 ID:mw
     歴史の群像  13    

 8月5日に毛沢東は、「司令部を砲撃せよ」と題した大字報(壁新聞)を発表し、公式
に紅衛兵に対し、大々的に党指導部の実権派と目されたケ小平や劉少奇国家主席らに対
する攻撃を指示した。前代未聞の話だが暴力革命の未開地国家ではよくある実力派が実
権者にクーデターで追い落とされ更にその復権にかかる構図はよくある事だ。ただ中国
では、その話が同じ共産党の内部分裂で行い、海外の国も介入しない程閉鎖的にあった
というのが特殊である。従ってその後、毛沢東の腹心の林彪共産党副主席は指示を受け
、紅衛兵に「反革命勢力」の批判や打倒を扇動して上に上り詰め、当時の実権派や、そ
の支持者と見なされた中国共産党の多くの幹部、知識人、旧地主の子孫など、反革命分
子と定義された層は、すべて熱狂した紅衛兵の攻撃と迫害の対象として追いかけて払い
落としし暗殺や、組織的・暴力的な公開裁判や市民裁判の吊るし上げが全土で横行した
。こうして劉やケが失脚したほか、過酷な糾弾や迫害によって多数の死者や自殺者が続
出する。また紅衛兵も派閥に分れて大規模な武力闘争を展開するなど毛沢東すら制御で
きない大混乱に陥った。この時生産力がないなら食い扶持も減らすとして一人っ子政策
も起こっていたが、この「文化大革命」の暴走は拡大し、農本民主主義思想的な「毛沢
東思想」の強い共産化を呼びかけ。「中国革命は(劉やケのような)走資派の修正主義
によって失敗の危機にある。修正主義者を批判・打倒せよ。」という「反革命勢力」の
批判や打倒を扇動したままでブルジョア打倒の4人組と林彪を生んだまま紅衛兵の暴走
は毛沢東にすら制御不能となって荒れ狂った。教育のない共産党の愚衆徒となった人民
は毛沢東語録を片手に残虐を楽しんでいたのである。危険を感じた毛は1968年に、上山
下郷運動(下放)を主唱し、都市の紅衛兵を全員地方農村に送りこむことで収拾を図っ
て林彪を指導者として立てた。その後林彪は毛と対立し、1971年9月毛沢東暗殺計画が
発覚したとされる事件が起きて、国外逃亡を試みた林彪だったが飛行機で事故死する。
林彪事件である。林彪の死後も「四人組」を中心として文革は継続したが、1976年にや
っと扇動者の張本人の毛沢東が死去し、直後に四人組が失脚。文革はやっと終息した。
毛が扇動し告示してから1969年の第9回党大会で林彪が文化大革命を宣言するまでの、
虐殺反乱期間の第一段階と、第二段階のそれ以降の1973年の第10回党大会における林彪
事件の総括し国家安定にひとまず終息し国家主導として市民裁判公開処刑している時期
更にそれでも立ちいかず毛沢東の死の直後、即ち1976年10月の国家指導者の四人組逮捕
までの第三段階までをこの「文化大革命時代」と呼んでいる。犠牲者数は、中国共産党
第11期中央委員会第3回全体会議(第十一屆三中全会)において「文革の死者は40万人
、被害者1億人」と推計数を発表公表している。しかし文革時の死者数の公式な推計は
中国共産党当局の公式資料は存在せず、研究者調査でも40万人から1000万人以上と諸説
に渡る。ただ大革命によって、1億人以上が何らかの損害を被り、国内大混乱と経済の
深刻な停滞をもたらしたのは確かだった。


165: 名無しさんAA:19/09/02 14:41
     歴史の群像  14    

 この文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会におけ
る林彪の政治報告である。その報告には、「党内の資本主義の道を歩む実権派は中央で
ブルジョワ司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とを持ち、各省市自治区、
および中央の各部門に代理人を抱えている。(…中略…)実権派の奪い取っている権力
を奪い返すには文化大革命を実行して、公然と全面的に、下から上へ、広範な大衆を立
ち上がらせ上述の暗黒面を暴き出すよりほかない。これは実質的にはひとつの階級が、
もうひとつの階級を覆す政治大革命であり、今後とも何度も行われねばならない。」と
書かれており、林彪は文化大革命を、国内の反動的勢力に対する新たな階級闘争として
とらえている。1966年8月5日に、毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題した大字報(壁新
聞)を発表し、公式に紅衛兵に対し、中国の良心とされた党指導部の実権派の実力者と
目された「ケ小平」や「劉少奇国家主席」らに対する攻撃を指示した。また紅衛兵によ
る官僚や党幹部への攻撃が「造反有理(上への造反には、道理がある)」のスローガン
で、正当化され追い落としされたのである。実は「劉少奇国家主席」は数少ない中曽根
首相の中国の友人だった。『毛主席語録』に掲載され、スローガンとなって、多くの人
々が暴力に走るに足りる言葉がある。「革命は、客を招いてごちそうすることでもなけ
れば、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなに、お
上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかで、おとなしく、うやうやし
く、つつましく、ひかえ目のものではない。革命は暴力であり暴動であり、一つの階級
が他の階級を打ち倒す激烈な行動である。 」・・・毛沢東の1927年に記した言葉だ。
文化大革命中、各地で大量の殺戮や内乱が行われた。またマルクス主義に基づいて宗教
が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットでは、
その対象としての影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。
内モンゴル自治区においても、ウイグル・モンゴル族の権力闘争に起因して、漢民族の
指導がはいり、多くの幹部・一般人を弾圧、死に追いやった内モンゴル人民党事件が起
こったほか、旧貴族階級などの指導階級を徹底的に殺戮された。モンゴルウイグル地区
さえその犠牲者の合計数は数百万人から1000万人以上と言われた。1970年代に入ると、
内戦状態にともなう経済活動の停滞によって、国内の疲弊はピークに達し、それに合わ
せるかのように、騒乱は次第に沈静化して行った。そうした中翌1972年に、アメリカ合
衆国のリチャード・ニクソン大統領が訪中し、毛沢東と会談を行い、日本の田中角栄首
相も中華人民共和国を訪問した。第二次世界大戦以来の戦争状態に終止符が打たれ日本
との間で国交が樹立され、これまでの文革中の鎖国政策から改革開放政策に移って行っ
た。


166: 名無しさんAA:19/09/02 14:42
     歴史の群像  15    

 林彪の死後も、周恩来は実権を握ってはいたが1973年に友人のケ小平を復活させた。
五七幹部学校に入っていた知識人はその多くが都市に戻ってきたがしかし、文化大革命
はその後も継続され、周恩来らと四人組の間で激しい火花の散る権力闘争が行われた。
周恩来にしてみればこの四人組はどうしても負けられない相手でここに囚人解放があっ
たし。毛沢東は2つを派閥争いさせる事で主席の地位が安泰だったのである。1976年に
は、こうして文革派と実権派のあいだにあって両者を調停してきた周恩来が、同年1月8
日に死去した。周恩来を追悼する花輪が撤去されたことから四五天安門事件が発生し、
ケ小平が再び失脚するのだ。同年9月9日に毛沢東が死去した。ここで新首相の華国鋒は
、葉剣英、李先念、汪東興等の後押しを受け同年10月6日、四人組を逮捕した。この頃、
中国の経済破綻に華国鋒首相は援助要請に、日本人諜報員をしていた父を持つ江沢民を
日本に送っている。ここでの日本の援助は成功しても失敗しても、政治生命は絶たれる
運命であったといわれる。しかし華国鋒と田中訪問以来の友人となっていた中曽根は2
つ返事で了承し、丁重に江沢民をもてなした。この時江沢民は会談前後に靖国神社に参
っている。しかし成功の報を聞いた毛沢東は4人組に処断を探っていた。ここでスパイ
の靖国批判が登場し、中国側も日本の援助による抗日記念施設建設に江沢民を置いたが
ここで毛沢東の死で命拾いし4人組排除で華国鋒の右腕になった。翌1977年、失脚して
いたケ小平が復活し、中国共産党は第11回大会で、四人組粉砕をもって文化大革命は勝
利のうちに終結した、と宣言した。しかしここで江沢民の処断に大きな変化が生じてい
た。日本への経済支援が技術支援に変わっていたのである。日本は日中国交を田中角栄
が決めても、アメリカの日本叩きは続き、ロッキード事件で総合商社丸紅やらフィクサ
ーの児玉誉士夫や日航商事の小佐野健二などに司法の手がかかる。それでも土光の上司
の新日鉄の稲山嘉寛は、強引に中国への技術供与を進めたのだ。親日鉄の前身は官営の
八幡製鐵所である。戦前までトップは天下り「社長」で、戦後でも20年間で以下の4人
しか役職を務めていない。三鬼隆(1950年〜1952年)から渡辺義介(1952年〜1956年)
につなげ小島新一(1956年〜1962年)がなったが、会長へ人事異動し1962年に稲山嘉寛
が就任していた。前身の日鐡は戦後の解体の過程で、持ち株をすべて手放していた。こ
のため、八幡製鐵発足時に日鉄が継承したが、他社の株式は持たなかった。後継会社の
日鐡も「制限会社」に指定されていて、戦後復興の経営は厳しく他社の株式まで保有で
きない状態でいた。日鐡の制限会社の指定が解除された1951年(昭和26年)で八幡製鐵
はやっと製品の購買資本家や原料の取り引き需要社、関連事業の展開会社などに出資し
て、企業グループを形成していた。しかし、既に世界は鉄の供給過多に陥り安値競争の
中にあった。そこで人件費を削減し、品質向上さらに製品開発の為36部門の1800
工程の一連作業を、オートメーション化した新工場を君津に作ることを決めた。いまだ
戦後復興の余韻で経済需要がある景気の時にしかできない。そう思ってプロジェクトは
発進した。幸いにも成功し本格稼働したばかりの頃に、ケ小平が訪問していた。

167: 名無しさんAA:19/09/02 14:42
     歴史の群像  16    

 ソ連が米国との対立に「キューバ・ミサイル危機」が生まれたが、既にこの1年半前
の1961年に「ピッグズ湾事件」でソ連との核戦争の危機がうまれていて「第一次キュー
バ危機」がある中でジョンFケネディが登場してた。カストロは米国に親善会談の公式
申し入れをしドワイトDアイゼンハワー大統領と会っている。しかしねじれた情報で、
カストロの旧バチスタ政権の有力者処刑、親米地主の農地の強制接収を進める政策で、
「カストロは共産主義者である」と報告され「予定されていたゴルフに行く」と公式の
会談日に欠席し代わって会談したリチャード・ニクソン副大統領で「カストロとアメリ
カは友好関係を保つ」としながら「革命後の共産主義の影響拡大」「反革命派の処刑」
「自由選挙の未実施」と問い詰められて怒りを抑えるほどの罵倒だった。冷遇に反発し
たカストロはより強く国内改革を断行した。このCIA報告により「共産主義者」との
レッテルを張られカストロ政権の転覆計画が密かに進められてCIA他米国はキューバ
への海空からの破壊活動、キューバ国内の反革命勢力への支援、カストロ体制の打倒工
作、カストロ暗殺計画など秘密裏に転覆計画を開始した。これが露呈したのが「ピッグ
ズ湾事件」である。アメリカ軍は正確な情報がないまま次々と爆撃機の援護に出し援護
は成功せず完全に撃退され政府軍投降者114名が戦死、捕虜1189名 が出て侵攻作戦は大
失敗に終わる。こうしてソ連の支援を受けて対抗せざるを得ず、核ミサイル基地建設で
1962年に「第二次キューバ危機」が起こった。CIAのアレン・ダレスはグアテマラに
親米軍事政権を成立させ南米情報を得ていて、その為グアテマラにゲリラの訓練基地を
作っていたのである。それは禁酒法以来の麻薬産業の国内問題からのものだった。しか
し、このキューバ危機は何とか乗り越えるとケネディはデタントにでて親米ソの時代に
変わった。冷戦体制下の1960年代末から1970年代末にいたるアメリカ合衆国とソビエト
連邦の政治対話は頻に行われるようになった。だがその間に、1969年3月2日、15日には
アムール川(黒竜江)の支流ウスリー川の中州であるダマンスキー島(珍宝島)の領有
権を巡って大規模な軍事衝突が発生した(珍宝島事件、ダマンスキー島事件)である。
又8月にも新疆ウイグル自治区で軍事衝突が起こり、今度は中ソの全面戦争や核戦争に
エスカレートする重大な危機に発展してしまっていた。これによってソ連からの支援は
全く受けられなくなっていたのである。世界が平和になる中、毛沢東が死去し世界大戦
の影が消えて行ったが、一方で中国のみは戦前よりも暗い暮らしや貧困が押し寄せいた
のである。こうしてケ小平が再度恩赦により解き放たれ、かつての経済再建の経歴から
国家主席として誕生した。ケ小平に奇策はなく、既に頼りの友人の周恩来も死んでいた
。つまり、周の育てた若者の声を聴き、毛沢東晩年時代に築いた日本との外交に頼るし
か道はなかったのだ。この頃の八幡製鐵では、当初三重県四日市市に製鉄所を建設する
方向で調整を進め、既に臨海部の埋め立て工事も進められていたが、埋め立て予定地の
地盤が成田より悪く予想以上の費用や需要減が予測され、新たに東京に新工場を計画し
時の花形となりつつあったコンピュータによる一貫生産と電信による管理生産を取り入
れやっと軌道にのった頃だった。


168: 名無しさんAA:19/09/02 14:47
     歴史の群像  17    

 君津のダイナミックオンライン製造のシステムは、君津オンライン・コントロール・
システム(KOCS)として実施された最新鋭であった。こうした方式は米国ホームステッ
ド製鉄所(モンバレー製鉄所)でもある程度実施されていたが、この大型の一貫製鉄所
での試みは初めてで、その後に1970年代に新設された他社の製鉄所、加古川製鉄所(神
戸製鋼所)、鹿島製鉄所(住友金属工業)、京浜製鉄所・扇島(日本鋼管)などでも、
行われていた。しかし国際需要バランスは崩れ、造船不況も訪れ、すでに各国に技術の
支援や粗鋼製鉄率を伸ばして、ロス削減指導を海外に出て指導して稼ぐほど、逼迫した
経営をしていた。のである。上海宝山製鉄所は、中国最大の工業都市であり消費地でも
ある。上海に初の臨海製鉄所として立ち上げることとなった時。稲村はこの地で中国人
や日本人が大勢意味のない戦争で戦ったし、無辜の農民や無知の兵士が国家の扇動の生
贄で死んでいった時のことを知る一人だった。上海宝山製鉄所の建設は中国の「改革・
開放」政策後の中核プロジェクトで推進された。78年2月に日中間で調印された「日中
長期貿易取り決め」の第1号で第一級のプロジェクトでもあった。「日中長期貿易取り
決め」の日本側の調印者は稲山嘉寛だった。稲山は中国の建国以来のこの最大の重工業
建設プロジェクトを、日中合体で推進した文字通りの中心となって動いた人物だった。
「大陸戦争の痛みを知る世代がいる時に」「欧米の優位主義の猛威が再びもたげる前に
」「絶対に成功させねばならない。」と言う強い決意だった。こうして新日鐵の君津、
大分、八幡製鉄所をモデルに最新鋭の設備が導入され、惜しげもなく中国で初の近代的
な工場管理システムが移植されたのである。第一期工事は日本側に任せて、最新技術を
吸収し、二期目から自前の技術(国産技術)と称してここで合作設計製造という形をと
った。ここでは日本の先端技術の供与をほぼ無償で受け、ODAなどによって中国側は
一銭も金を払うことなくプロジェクトを仕上げている。第7代新日鐵社長、第9代経団
連会長をした稲村の子飼いの今井敬はかつて、こう語った。「1998年に経団連会長にな
ってありがたかったのは、海外の要人に会えたことだ。米国大統領と英国女王以外は、
(殆どの国に)面談時間をもらえた。頻繁に訪れた中国では(反日教育を推進した元凶
の)江沢民国家主席、朱鎔基首相、胡錦濤国家主席、温家宝首相らに親しく接すること
ができた。」と喜んでいた。彼は今は反日や抗日でもきっと日本をわかってくれる。わ
かりあえる。と未来を固く信じていたのである。「中国を最初に訪れたのは1966年。62
年から始まったLT貿易に参加するためだった。当時、日中に国交はなかったが、62年
に国が保証をつける長期貿易の覚書を交わした。」LT貿易は廖承志、高碕達之助の両国
通商代表者名で68年から日中覚書貿易に改められた。日本や中国が互いに敵視政策をと
らないことなどの政治三原則と政経不可分の原則の順守の協定である。つまりこの時も
国際的条約の背定や自由民主主義の尊重と実行あるいは資本主義人権のルールの遵守を
約束しているのである。また約束されなければ工事者の国内入りや自由行動が保障され
なかったのだ。


169: 名無しさんAA:19/09/02 15:34
     歴史の群像  18    

 78年に、田中内閣で外相を務めた大平正芳が首相になって、「より豊かな中国の出
現が、よりよき世界につながる。」と表明し、膨大な額の対中ODAの大号令が開始さ
れた。これこそ、日本の経済界の命取りになるものだったのだがそれは構わなかった。
これは、賠償的色合いを帯びたODAで、7兆円もの額を以後30年にわたり供与する
ことを閣議確認し政府は決めた。これは、当時の中国の公式GDPに匹敵する額で実質
6年分の中国国家予算とされた。これを共産党が支配する中国に流し込んだのである。
危険を覚悟で、未来を顧みない様と各界の新人経営者は軽視する政府に批判はあった。
しかし山崎豊子の小説「大地の子」のモデルとなった上海宝山鋼鉄誕生を新日鐵が支援
した際の社長であり、中国進出は「戦中の罪滅ぼし」と考えていた新日鐵の第4代社長
の斎藤英四郎は当時、日本企業の中国進出の先頭に立って現地入りしていた。彼には、
特に、新日鐵は最新鋭の製鉄設備を次々と中国へ進出させ、世界から「なぜ最新設備を
中国へ差し出すのか」と訝しがられた質問が来ていたからだ。しかし中国にはODA以
外にも、つづけと言わんばかりに巨額のジャパン・マネーが流入した。日本の経済界は
、国交正常化とODAの開始をビジネスチャンスととらえ、中国へ次々と進出したので
ある。こうしてこのODAが中国を今日の怪物(モンスター)に仕立て上げた栄養源と
なった。その後、政府主導で東日本旅客鉄道(JR東日本)は新幹線の技術を中国側に
供与したが、中国側はこれを国産技術と僭称し、米国にまで売り込みをかけるようにな
ってしまう。この驚くべき事実については、色々あるが、こうした最新技術を盗むシス
テムの最初の協力者が稲山嘉寛ということになってしまったのだ。しかしこれには欧米
の白人優位主義の残った社会体制が大きく影を落としてた。今井敬も稲山嘉寛も、或は
斎藤英四郎も鉄鋼売り込みや外国の政府要人との会談に世界各国に飛んで行っている。
彼らの行く先々には、常に白人のボディガードないし友人が必要だった。というのも、
白人社会の中で、ホワイトオンリーとかブラックダウンの標識が巷に溢れていて、便所
でさえも他の白人の目を気にしなければ入れない状態だったのだ。つまり日本人は特別
だ。といちいち説明しなければ、便所もバス停もバスの座席も飛行機の乗り口さえも、
分けられた世界だった。アフリカ諸国はもちろん、米国、英国、仏国、独逸、豪州と、
南米、東南アジアでもそれらの考えは浸食していた。この人種差別の気味悪さは実感の
ない者には到底解り得ない世界だった。日々にトイレで暴力が起こる海外日本人は白人
トイレにも黒人トイレにも怯えていたのである。一方国内は、アメリカナイズされた曲
や風潮に硬派が赤軍と称して危険な遊びに転じていた。ところがここでオイルショック
が起こったが、多くは石油や物価が上がって大変というぐらい認識の低いものだった。



170: 名無しさんAA:19/09/02 15:35
     歴史の群像  19    

 実はこのオイルショックは、兵士や武器こそ出回る事無く終わったが、日本での再度
の世界戦争だったのである。Tv界は簡単に高度成長期の混乱として掲げられるが、事
はそう単純なものではなかった。チェゲバラが日本訪問したのは、革命政権が成立した
直後の1959年7月である。キューバ革命の伝説的英雄、チェ・ゲバラは池田勇人通産相
(当時)と会見した後、予定になかった広島訪問を強く希望し、急きょ日程を変更して
、広島へ足を伸ばし1泊して慰霊碑に献花して、資料館や原爆病院を訪れた。そして、
「君たちはアメリカにこんなひどい目に遭わされて、怒らないのか」と言い残したのだ
った。これには日本人も目を見張った。過去の戦争が頭によぎったのである。帰国後に
キューバの新聞に寄稿したチェ・ゲバラの記事は「痛ましいのは原爆が投下されて14
年たった今でも、今年でも後遺症で多くの人が亡くなっていることだ。」「資料館では
、胸が引き裂かれるような場面を見た。」と語って、今だ日本の中に戦争は終わってな
い思いを綴っている。当然ながらそのごこの「革命家」に関する本は爆発的に売れた。
小学生の頃の映画フィルムやTVでは中東戦争が写しだされたが、山間の戦争はアラー
の祈りの声で銃撃戦はピタリと止まり、一斉に兵士たちが集まりそれぞれにメッカに向
けて座って祈りを捧ぐ。これが戦争かというほど義勇軍の組織は信心深い民兵達だった
のだ。イスラエル周辺の中東地域では、第二次世界大戦後(1945年)から4回もの
戦争が起こっていた。イスラエルにはアメリカとイギリスからの、軍需品や資金の援助
を受けていたが元々この地に住んでいたアラブ人(パレスチナ人)は納得せず戦後にも
周辺の他のアラブ人系の国の人々を巻き込んで抵抗運動を続けていた。エジプト・サウ
ジアラビア・イラク・トランスヨルダン・シリア・レバノンなどに助けを借り、イスラ
エル(ユダヤ人)の執拗な挑発行為に戦争をしていた。それは数理的に白人種が減ると
ロシアから20万人の移民を取り入れても戦争継続とユダヤ教保護をしている状況であ
った。数的有利なアラブ系連合軍隊は常に装備がおとり、イスラエル(ユダヤ人)勝利
の戦争に終わっていた。この欧州の支援はスエズ運河の通航が、欧州の越冬の暖房を、
多くを石油タンカーに依存していたからだった。日本が東南アジア占領に日米開戦して
世界大戦になったように欧米は、この中東石油で中東戦争を仕掛けていたのである。こ
の中で、エジプトが「スエズ運河」の国有化宣言した。1973年の第四次中東戦争に
は、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)を組織し石油戦略を発動した。イスラエルに
味方をする国への石油禁輸と原産国の権利主張、原油価格の引き上げなどである。この
戦争はスエズ運河の権利以上に原産地の井油の精油所などの権利が奪われるに至った。
こうして、先進国が次々と経済的な大打撃を受け、石油危機(オイルショック)がおこ
る。しかも、間の悪い事にアメリカの双子の赤字は、石油をドル購買券として成り立っ
ていたので、ドルの固定相場制から変動相場制に変わるニクソン・ショックまでもが起
こったのである。こうして世界経済大混乱して日本危機が起こった。



171: 名無しさんAA:19/09/02 15:35
     歴史の群像  20    

 その時日本人経営者は大きく動いた。特に国内13社の石油資本は何らかの形で米英
のユダヤ資本の圧力がかかっていて原油値上げによる販売値段引き揚げになった。30
が120円にも上がるというとてつもない値上げ要求だった。これに出光興産が戦いを
挑んだ過去に、こうした国際的な石油カルテルに抗し、苦難を乗り越えて最大の民族系
石油会社の出光興産の反骨精神は息づいていた。日章丸を出航させた。出光佐三が残し
た足跡は、まぎれもなく第三次世界大戦であった。「アバダンに行け」。一匹オオカミ
の出光佐三は慎重に情報を集め、機が熟すると見るや極秘にイランと輸入協定を結ぶ。
そこで仕掛けた“奇襲”がアバダン行きだった。インド洋を航海中の出光興産のタンカ
ー日章丸に、本社から暗号無電が届いた。緊張が走る。産油国イランのアバダン港へ、
石油を積みに行けという指令である。船長は乗組員を集め、あらかじめ預かっていた社
長の檄(げき)文は「今や日章丸は最も意義ある尊き第三の矢として弦を離れたのであ
る……ここにわが国ははじめて世界石油大資源と直結したる確固不動の石油国策確立の
基礎を射止めるのである」「各自、この趣旨をよく理解して、使命の達成に全力を尽く
されたい」。船長がこう告げると、極秘行動のため、それまで出航の本当の目的を知ら
されていなかった乗組員は、奮い立ち。一斉に声が上がった「日章丸万歳! 出光興産
万歳! 日本万歳!」の万歳三唱である。その反骨は、英国艦隊のイラン封鎖をかいく
ぐっての石油輸入を断行する「日章丸事件」を引き起こし、世界を驚かせた。この業界
の暴れん坊ともみられる行為は日本中に気骨を産み、借金してまで社員の給与を上げる
インフレ対策を各経営者が行った。つまり物品のインフレを一時的に負債投資で補った
のである。こうした国の行わない行為を経営者個人が行う国は世界的には存在しない。
人間尊重の大家族主義の経営を追求、消費者本位の信念を貫いた。経営と道徳のはざま
に生きた生涯は、なにも出光だけではなかったのであった。英国軍の監視を考えてマラ
ッカ海峡を避け水深が浅くて危険なジャワ海を通るなど苦闘の航海を乗り切り、イラン
石油の輸入に成功した。アングロ・イラニアン石油は、日章丸が積んだ石油の処分禁止
を求める仮処分を東京地裁、同高裁に提訴するが、出光は勝訴。石油輸入時の記者会見
で、佐三はこう言った。「一出光のためという、ちっぽけな目的のために 五十余名の
乗組員の命と日章丸を危険にさらしたのではない。国際カルテルの支配を跳ね返して、
消費者に安い石油を提供するためだ。」と。これは大和民族の生存権の戦いだったのだ
。新日鉄の稲山などの中国への最新鋭製鉄所建設も同じだった。稲山から斎藤には、「
戦争当時の兵士の環境や思いあるいは中国人の悲惨さは、今の現代人にはわからないだ
ろう。・・国と個人の戦いは永遠にあろうが、中国人にも日本人にも歴史の真実を理解
してほしい。」と語ったとしている。斎藤も田中と同じ身売り引き女衒がいた新潟で育
っていた。身売り女衒がおしんの様にあったのだ。後の田中の国交回復も第二次オイル
ショックも、こうした白人優位主義の傲慢な特典建設に唯一戦場常在として日本人は生
きて来たのである。これを朝鮮人や中国人は全く無視し、更に日本の土俵が恒久平和の
為の神事に似た戦いであり、血なまぐさい権力闘争には決して与しないのを知らないの
だ。あれだけ大陸で進めた文化を、大陸人は理解しないという嘆かわしい結果である。



172: 名無しさんAA:19/09/02 15:46
     歴史の群像  21       

 当時からアメリカの情報筋は中国の対日工作の一環と断言していたが、日本にうごめ
いていたのは米英のスパイとGHQ信奉の経営者たちだった。三鷹事件に見るように、
日本の暗黒部分には常にKGBとCIAの影の戦いがあったのである。それに朝鮮総連
や英国などが絡んでた。中国での一期工事(第1高炉、転炉3基、分塊工場)は中国側
の資金が途切れる事で批判を受け中止予定がされた。しかし、稲村は飛んでいき日本側
のファイナンスの供与によって継続された。第二期工事(第2高炉、コークス工場)な
どの契約はキャンセルされたが、およそ8年の歳月をかけて、85年9月に念願の第1
高炉の火入れ式が行われるまでにこぎつけた。そのご製鉄業界は進化し2011年の、
製鉄順位は
 1 アルセロール・ミッタル ルクセンブルグ 9720
 2 河北鋼鉄集団 中国 4440
 3 宝鋼集団 中国 4330
 4 ポスコ 韓国 3910
 5 武漢鋼鉄集団 中国 3770
 6 新日本製鐵 日 3340
と日本は6位に甘んじている。しかし1973年のオイルショック以降に、白人ユダヤ
の日本たたきは物凄いもので銀行間取引融資でも他の国の3倍利息だったり、輸出規制
には条文付記せず突然ココム違反を申し出たり、ニューヨークマンハッタンビル購入に
は日本が米国の魂を傷つけた。とデモしたり、とてつもなく理不尽な行為がまかり通っ
て日本の海外進出の妨げになっていた。内政干渉もほかの国にないくらいのものでIC
産業に至っては韓国や台湾移転を果たし、韓国経済のもととなっているのは見ての通り
である。実は日章丸事件の相手のアングロ・イラニアン石油は、英国BP(ブリティシ
ュペトロロイヤル)つまり英国王室御用達という会社名のごとく、英国資本で立ち上が
ったイランの合弁会社でイラン革命によって国営接収された中での世界の抗争劇の中心
にいた。中米のゲバラの親友カストロが強制国有化に転じた様に、イランの石油資本も
勝手に国有化されて売り先を求めてた処に出光との購買交渉が出来上がっていたのだ。
当然これを見過ごしたMI7は王室や英国政府の怒りと共に、イスラエルのモサドやら
CIAやFBIの信用も傷つけられ、KGBと共に誇りをかけて日本叩きを先導した。
イスラエルの人口は現在840万人に増えているが、そのうちロシアからの移民は12
0万人にも達し、人口の15%を占めているといわれる。かつて移民を認めなかったイス
ラエルはKGB活動で1990年からのソ連崩壊前後に社会主義計画経済が行き詰まり
とともに不満のはけ口をユダヤ人に向け、迫害を恐れたユダヤ人たちがソ連を後にして
イスラエルに帰住した。今やシリア等の国々から多くの難民が押し寄せ、ヨーロッパは
混乱しこれにどう対応するか、EUの結束を揺るがす大問題に発展している。しかし今
から2世紀前から起こってる一部の白人ユダヤ、つまり英国在住ドイツユダヤ達の立ち
あげた世界妄想観が未だおさまらない情勢なだけである。早く人類は新しい日本型仏教
観を持たなければ、世界人類は破滅するだろう。地球温暖化 根こそぎ漁の解禁 管理
なき共産化 これらには常に悪魔が巣食う。今のアメリカが自由主義の体をなしてない
議会は停滞し忖度し 日本と同じ2大政党制に伏した。3党以上の議論のない国は社会
主義共産党の国だ。更に極右や極左のいる国は教育文化の廃れた証左である。人は主義
主張より普通の平和生活を重視すべきで、その精神がなければ、欲望と廃棄の世界に化
す。それは個人への尊敬や尊重のない愛が報われなきわめて修羅に近い地獄だろう。そ
れが少子高齢化を生んでいる。苦労を共にする 食を分け合うこれが家族である。


173: 名無しさんAA:19/09/02 16:00
     歴史の群像    22    

 戦争が終わって日本は敗北から立ち上がった。70年代になって赤軍派などの大勢の
学者肌の革命家が、チェ・ゲバラの意思に感銘し世界に飛び散っていまだ白人優位主義
が収まらず、世界に兵器を売り捌く死の商人達がうごめき、戦争したくてうずうずして
いる国際社会のイエロージャーナリズムに気づく。そのうえ各国政府はやっとG7開催
で集合し顔合わせて賢人会議を行う様になった。しかし自由社会のユダヤ構想とされる
世界政府構想や共産社会が提唱する世界革命後の共済共生平等社会は、真っ赤な偽口実
で二枚舌の外交のデタラメだった事が各種の国際会議や国連会議で発覚しはじめていた
。1953年(昭和28年)に起きた石油の輸入とそれに付随した国際的な衝突の日章丸事件
は痛く日本人を傷つけた。その後のオイルショック時には、アメリカ合衆国と軍事同盟
安保を結んでいたため、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高く、急遽三木武夫
副総理を中東諸国に派遣して日本の立場を説明して支援国家リストから外すように交渉
した一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化対応
し、アメリカに原子力発電所の受け入れを返答し検討するにいたっている。こうして、
再びアメリカと共にシーレーン防衛に勤しむ事になったが、稲村は疑心があった。原爆
展の開催すらも米国はどこの州でも拒絶して受け付けなかったし、インディアンデモと
いう当時の原住民の立ち上がったデモに日本人が参加し、勝手に銃殺されるまで至って
友人が死んでいたからだ。当時の白人の地位保全の欲望はかなりのものだったのだ。や
っとキング牧師らの活動で、黒人の人権や移流民の居住権や女性の参政権など少しづつ
開けていったのである。日本でもその影響は多く福岡・横浜・沖縄などで米兵事件は、
まだまだ多発していたのだ。日本の実業家で「満州太郎」「アラビア太郎」などと呼ば
れた山下太郎は、楠木正成の子孫楠木正具の子孫として、「楠木同族会」の初代会長を
務めていた。東京深川に「山下商店」を設立し、穀物・鉄鋼の海外貿易に目を向けて奮
闘していた。海外貿易に意欲を示し、その資金調達のため五千円でオブラート権利を売
り、第一次世界大戦が勃発すると、ドイツから輸入していた硫安がストップしたため、
アメリカからの輸入を試み成功、巨利を得たという。わずか28歳にして数百万円の財を
成した。ロシアのウラジオストクで鮭缶の買い占めに成功するが、ロシア革命のあおり
で続かなく、米価が暴騰の折には、山下商店は外米輸入に取り組み上海で江蘇米を調達
するも契約は密輸に値し闇米として軍の関税当局に没収されている。その後も鉄材購入
契約を行ったが、満鉄の一方的破棄や戦後恐慌で暴落で破産寸前で満鉄を訴えていた。
しかし満鉄経営が一新され旧知の松岡洋右や長野護が着任したことで山下商店は息を吹
き返し、契約の損害代償として社宅建設管理契約を結んで、山下商店は満鉄本社(大連
市)の社宅2万戸の建設と管理を包括受注満州太郎と呼ばれるに至っている。こうして
偶然やあらぬきっかけから大きな財産を得た。これが普通の真面目なものの生き方であ
る。そもそも今やアメリカや日本で不妊治療や中絶阻止などを運動する。それは全く間
違っている。人の体にある精子や卵子の時代から個性は存在する。そして生まれる前も
生まれた後もその運命は決まっている。量子力学的にも幾つもの道があっても、結果は
決まっている。問題はそこに働く強い意思が正しいか。と言うことだけである。光も熱
も時間正弦波の中しか存在しない。時間自体は逆行も直進もする。そこで掴めるものは
認識や思いしかないのである。これが科学的にも証明されるであろう。トランプの性格
は粗暴でふしだらな発言ばかりだろう。だがこれがトランプの芯ではない。環境が彼を
育てたのである。トランプに共感する人は同等にしか学んでいない人達だ。決して知能
が低いわけでも、粗暴にありたい訳でもない。かつての黒人社会の様に教育が無い処で
世界認識を醸成できない処でそだったのだ。嘘つきジョンソンも同じである。



174: 名無しさんAA:19/09/02 16:01
     歴史の群像     22    

 戦前期の山下には、その大きな財力から、日魯漁業、日東化学、日本軽金属など数多
くの会社に関係し融資や投資をしている。しかし、昭和20年(1945年)の太平洋戦争で
敗戦し在外資産はすべて没収されてしまった。中国満州ではおよそ40億程度が中国・
北朝鮮の手に落ちたという。当時の40億には原野開発の権利もあったようだ。山下は
大正15年から終戦までの20年間にわたって郷里の大森町に奨学金を寄付しつづけている
。秋田県平鹿郡大森村は先の田中角栄や斎藤と同じく身売りの人身売買が戦後も続いて
いたのである。おしんの現状があったのだ。戦後は日本の復興のために、彼もまた石油
資源の獲得に奔走し昭和31年(1956年)、日本輸出石油株式会社を創立し、翌1957年に
ペルシャ湾海底油田の開発利権を獲得して1958年「アラビア石油株式会社」を創立した
。山下太郎も、産業の根幹をなす石油が100%アメリカ合衆国の供給と統制に依存してい
る現実を危惧しており、第二次世界大戦の苦酸をなめ惨劇を見てきた一人だった。日本
国政府・財界等の要路をまわり、時に官僚に虐められても経済発展のため日本が自前で
確保するよう説いて回ったといわれている。こうして世界の予想に反して、サウジアラ
ビア、クウェートの両国から採掘の利権を獲得した。その中でとくにクウェートが数多
くのライバルの中から日本に権利を与えたのは、山下の努力・人柄もさることながら、
欧米諸国に対するアラブ人たちの民族感情が左右していた。白人不信はここにもあった
のである。アラビア石油の創立は山下が苦心して採掘権を得て設立し得たものだった。
アラビア石油は1960年1月31日、1回目のボーリングで大規模海底油田(日産1,000kl)
を発見した。これが、カフジ油田であり、世界第1級の大噴油について「アラビア太郎
、100万ドル の笑顔」と世界中で報道された。以降も順調に石油メジャーに拠らない事
を願い「日の丸油田」と呼ばれる油田の発見と採掘・輸出を進めた。第一回の掘削では
その地は強豪欧米が掘削探査の上出ないとして放棄した土地で、出ても水との分離が必
要となった。この分離に際して大量の天然ガスを算出し、それを日本の技術はものにし
たと言われる。実はこの「日の丸油田」は戦前から生きてきた日本人の、限りない象徴
的感激であった。戦前から日本の戦争突入や軍部の闘争は、唯一の民族存続論の上にあ
った。それは食糧でも軍事力でもなく経済力、その原資となるエネルギーの供給元石油
資源の枯渇あった。米英の虐めもさることながら、東南アジア解放と石油資源の確保は
日本の究極の願いだったのである。それは民族の生存を賭けても足るものと認識してい
たのである。そうした中で電算機がIC事業とが日本の独壇場になろうとしていた。当
時一つのエポックがあった。米軍がベトナム戦争に配ったボールペンが沼地でインクが
流れて使えなくなった。が部下が同じように沼にはまった日本製のボールペンを差出し
メモを取ることができたとされる。ここからボールペンのベアリングが検査され格段の
精度が認められられた。こうして色々比較調査がなされて、ペンタゴンで日本のICが
ミサイルに積み込むICと比較し10倍以上の精度と速さと能力があることが証明され
たのである。そして金大中拉致事件、大韓航空の撃墜事件が起こったのである。特に、
金大中事件は北朝鮮の大韓航空機爆破事件で強固になったKCIAとロシア・米国英国
あるいは北朝鮮の諜報合戦の最中の出来事だった。この頃英国はアイルランド紛争を抱
え、日本赤軍のハイジャックやテリアベブ空港事件などが頻発していた。




175: 名無しさんAA:19/09/02 16:12
     歴史の群像     23    

 日本人にとって最低・最悪の大統領のルーズベルトはアメリカでは一番偉大としてい
る大統領だ。そして彼も、原爆投下をしたトルーマンも決して反日でも抗日でもなかっ
た。それどころか、排日法にサインしたクーリッジすらも親日家と呼ばれるほどだった
。俗に排日法と言われる物は、1924年移民法(ジョンソン=リード法)であり、第一次
世界大戦後にアメリカ国民を一国平和主義をして孤立主義(モンロー主義)とされた風
潮を進めて、日米両政府が立法府(米議会)の関与できない協定を結んだ事で、米国の
主権を侵害したとの反発から出来たものだった。実は日本は開国以来英国と親しく日英
同盟の切り崩しに、5ヶ国協定軍事同盟に切り替え軍縮会議にした。しかし議会内では
非常に強く、その流れを読めなかった国務省、在米大使館は対外的に気にしてなく楽観
的だった。とされる。1924年は大統領選挙年であった従って上下両院議員とも妥協する
余裕はなく、ここを排日ロビー活動者はねらった、前年には、ハーディング大統領の急
死により副大統領から昇格したクーリッジ大統領になっていた。ハーデングは大統領に
選ばれた最初の現職上院議員であり、在職中に死去した6人目の大統領だった。基本的
に彼は柔和な物腰で保守主義であり、そして第一次世界大戦の余波の中で、大統領選の
キャンペーンは、『敵を作らないでください』という選挙戦略であり、彼は国の「正常
」への復帰を約束して戦っていた。これが1920年の共和党全国大会における選択の候補
者の妥協の中心に据えたと声だった。ジョンソン=リード法で当初に言ったのは、「こ
の法案は特に日本人に対する排斥をはらんでいるものであり、それについて遺憾に思う
。」という声明であり、成立には否定的な態度にあった。しかし当時の人口増加で重要
なカリフォルニア州の有力者達は、先に成立したカリフォルニア州外国人土地法(しゅ
うがいこくじんとちほう、で排日土地法(ウェッブ法案)を、米カリフォルニア州議会
で1913年に可決し、市民権獲得資格の無い外国人の土地所有および3年以上の賃借を禁
止する法律を通していた。その頃は、日系移民の数が増加し働き者の経済進出が著しく
、この法案が主に日系人らアジア系移民に対して市民権獲得資格が無かったことから作
らたことは明らかな事だった。この日系人を閉め出す「排日土地法」は米国の農業で追
われたとされるドイツ人会が主にロビー活動していた。法案起草者のウェッブ・ヘニー
は、「この法案は、農業において日本人がこれ以上発展するのを防ぐのではなく、カル
フォルニア州から日本人を追い払うことを目的としている……」と述べている。ドイツ
人の移民は母国が敗戦となり仕方なし来ていた難民であり、母国を捨てたヴィルヘルム
2世の叫ぶ黄禍論が心の中に息づいていたからである。こうして後にアリゾナ州などで
も同様な法案が通過され国中がカリフォルニア州の排日運動に偏っていった。富国強兵
を目標とした日本国の目を見張る成長と経済発展は、軍事的にも列強との差を縮める物
だった。1904〜05年の日露戦争で勝って、短期間の日本がどれほど実力をつけたかを示
すのに充分な世界の衝撃だった。第一次大戦後のパリ講和会議に日本は人種平等案を巡
って何日間も議論したのは悪評を高め、日本の正論が苦杯を嘗めたことでも、五大国の
ほとんどが白人優位主義の下の平等であり、世界の人種差別を悪とは見ていない事を、
日本人は痛感したのである。特にその性質上たちが悪くいかに努力しようとも有色人種
の壁は乗り越えることは近代化に成功し列強と肩を並べても、打ち破ることの出来ない
ものだったのである


176: 名無しさんAA:19/09/02 16:12
    歴史の群像     24    

 列強唯一の非白色人種国家の事実は、更に日本に過酷な現実を引き起こした。中国移
民や朝鮮移民の中では、既に豹変し米国を見切っていて米国を狂わしていた。都合好く
植民地の奴隷であり敬虔なキリスト信者の仲間である、という顔で闊歩し、都合が悪い
と日本人のふりをして商売や利権に食い込んだ。母国では日本に羨望の国令を敷いた。
こうした難題を投げけられ日本は米国内での意見は通らなかった。日本からは在ニュー
ヨーク総領事の飯島亀太郎、添田壽一、神谷忠雄などが、法案に反対するロビー活動に
あたったが、うまくいかなった。こうしたなかで、カリフォルニア州の排日運動は拡大
し、国民の権利として示され、アメリカからの拒絶は日本を従来の「脱亜入欧」の意識
からアジアの盟主としての「脱欧入亜」の意識へと傾倒する契機をつくったのである。
。昭和天皇が敗戦後、日米開戦の遠因として「加州(カリフォルニア)移民拒否の如き
は日本国民を憤慨させるに充分なものである(…中略…)かかる国民的憤慨を背景とし
て一度、軍が立ち上がつた時に、之を抑へることは容易な業ではない『昭和天皇独白録
』と述べているのが好例である。こうしてカリフォルニアの意向を無視できなかった上
に、彼の支持層が優位主義団体の「オハイオ・ギャング」と呼ばれた中で友人や政治上
の貢献者であり財政的に大きく依存する相手だったのだ。外交政策で、ハーディングは
国際連盟への加入を拒んだ。ドイツとオーストリアに単独講和条約と結び、第一次世界
大戦を正式に終了させた立役者となり、彼はワシントン会議を開催し海軍力削減を世界
に促進しさせた手続きを始めた。国際法廷へのアメリカ合衆国の参加を主張し、内政面
でハーディングは、合衆国最初の児童福祉プログラムに署名し、坑夫や鉄道従事者など
のストライキに対応した。この努力で失業率はハーディングの任期中に半減したが病死
した。一説では死後ハーディングは「アメリカ史上最も成功しなかった大統領」として
評されたが、日本では、「国際規模の軍縮」を口実に日本の海軍戦力の制限や日英同盟
の破棄を行って戦争への端緒を開いた人となった。こうした功績で日本の台頭を防いだ
し、この会議で九カ国条約で中国に対する門戸開放政策を列強に認めさせて、極東にお
けるアメリカの覇権を確立する狙いをつけさせた。このことは軍産複合企業に祝杯をあ
げさせ、その後の増産体制をして軍事機器を売る黒い商人を登場させる結果を生んだ。
およそ米国には日本とは違って5つ以上の世界が存在する。日本では恐らく司法も行政
も立法も、例えば人道上とかホワイト国とか言えばその認識は韓国と同じように何とな
くでも統一された思考や意思が存在し、ハイジャックに「人命は地球より重い」などと
言えばその境界や壁を乗り越えて意識が一致する。しかし、アメリカやロシアや中国な
どいう大国で多民族の国家は全く違う。やはり、司法や行政や政府や立法などは侵され
ない壁が存在する。それを明確にしたのが三権分立の明文化だろう。しかしそれ以外に
宗教と軍事と金融と経済は明確に壁がある。司法が軍事法廷があるのはその明快な証左
である。更に日常の経済活動でも国家機密と突然に研究所閉鎖命令がでる。トランプが
関税戦争を一声でできるのは、こうした経済と金融更に政府が明解に分かれて忖度など
存在しないからだ。日本も戦前には国家権力として特別警察を置いて生活者は当然虐げ
られた。そしてその延長に諜報員つまりスパイや先の兵器商売の黒い商人がいる。彼ら
は平和教育や愛ある家庭がなく、生きる知恵で財を築く。まるで働き蜂が蜜を運ぶ様に
財貨を積み上げる。しかしそれは財産にならない。財産は人そのものの頭脳の中にある
。この教育で、豊かな音楽や映画や時間を楽しむ事こそが財産であり恒久平和である。
つまり従来からの仕事と言われるものは、人類の仕事ではない。農業生産や自動運転に
は覚醒の隔たりがある。つまりその行為そのものより行為による弊害と喜びの計測であ
ある。こうして決して便利さは便利とならない。企業が失業者や負債を国に任せる様に
その生産過多は生産に値しない。農業が自然を潰してまで行うものではない。食糧は、
人が生きてきた中で十分何千年と自然は与え続けてきた。これを壊してまでも生きる事
は不能なのである。


177: 名無しさんAA:19/09/03 20:50 ID:IE
    歴史の群像     25

 こうしたスパイの歴史は古く、欧州の社会は進み過ぎていて、秘密結社とか諜報者と
か宣教師など言うのは、言葉では理解できても、まったく実情や生活がそこにあるとい
うのは、普通の日本人は全く空想すら解しない。しかし、海外の軍事法廷のあるところ
では、ドラマの様に動き働き、世界中の国家権力相手に事が動き、たまには歴史すらも
変える。日本では起こりえないものである。かつて戦国時代にも大名や将軍、あるいは
天皇にも忍者や衛兵はいた。しかし、大国のように忍者や衛兵がその頂点の座に座る様
な転覆は起こらない。明治政府でも江戸時代でも天皇を廃位させる事は充分できた。が
日本人はそれをしなかった。又するつもりも無かった。いやそれどころか朝鮮皇帝高宗
や中央アジアの馬賊の首領もあるいは中国のラストエンペラーの愛新覚羅皇帝もできる
だけ助け出し復権させようとした。また革新をせまった袁世凱や孫文やその他の将軍に
も援助を惜しまなかった。アジアの復興や自由の解放の意思も大きかったが、それ以上
に島国気質がそこにあったのだろう。と思う。今でこそ南洋でもデモや民族運動がある
が、インカ人やモンゴル人と同じよう渡ってきた外部の人間にはいずれ帰るか同化する
か知っていて、別に攻撃して滅ぼす者が居るなどとは予測していないからだろう。日本
で開国時に最初に来た黒船の大統領の親書や意向は老中達に伝えられた。しかし二回目
に来た時の会談内容は極秘であった。なのだが、実は水戸をはじめ多くの藩主の命によ
って忍者や間諜が派遣されていたと言われる。中でも水戸の斉昭には詳細にその契約の
内容まで伝わっていた。これが桜田門外の変が起こる原因となった。桜田門外の変で打
たれた。安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞
が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃して、大老の
井伊直弼を暗殺した事件が起こる。本来なら御庭番の服部家が護衛し守るべきものだっ
たが彼らは既に戦いつかれしていた。年表の流れからも分かるだろう。
  1853年 7月 8日(嘉永6年6月3日) - ペリー提督らの黒船、浦賀へ来航。
  1854年 3月31日(嘉永7年3月3日)- 難航した国内合意せず日米和親条約締結。
4月24日(嘉永7年3月27日)吉田松陰が黒船へ密航しようとし幕吏に捕えられる。12月
23日(嘉永7年11月4日)安政東海地震。ディアナ号が津波で遭難し次の日の地震で座礁
。明けて1855年安政に名を変えたが、黒船が締結したことで2月27日(安政元12月21日)
ロシアが来て、混乱するも幕府は約束通り日露和親条約を結ぶ。そして11月11日には、
(安政2年10月2日)本格的に安政の大地震が起こって天変地異は幕府の行いの悪さと、
批判が高まる。1856年にはイギリス、オランダがやって来て長崎から陸路行幸し京に拝
謁。こうして1月30日(安政2年12月23日)日蘭和親条約が結ばれ、3月19日(安政 3年
2月13日)蕃書調所九段坂下に設置した。蛮書調所( ばんしょしらべしょ)は、ペリー
来航で蘭学以上の洋学研究の必要性を痛感し幕府は、天文台蛮書和解御用掛を拡充し、
1855年(安政2年)「洋学所」を開設した。しかし、開設直後の安政の大地震で全壊焼
失しのち移転し開成所となるを開いた。つくづく運のない話である。

178: 名無しさんAA:19/09/03 20:50
   歴史の群像     26

 しかし、めげずに、幕府は、4月28日(安政 3年3月24日)に築地講武所、のちの軍艦
操練所になる航海術を学ぶ学校を作っている。さらに越中島練兵場も設置され洋式陸軍
訓練も始めた。朝廷の意向をとり大阪安治川にも、江戸と同じに台場(砲台)の建設も
命じている。 8月21日には早速香港から初代駐日米国領事としてタウンゼント・ハリス
が下田に米国領事館設置しにやって来た。江戸城への登城、将軍との謁見を許可する。
ハリス、ヒュースケンらの一行は1857年10月に下田を出発し、江戸に入る。このハリス
はよっぽど日本に興味深かったのか、ペリーから拒絶されても政府筋に働きかけての、
雇用で、調印されたとみるや日米和親条約に記された駐在領事への就任を望み、大統領
のフランクリン・ピアースから初代駐日領事に任命されたいきさつがあった。それでも
日本には次々と厄害が及ぶ。8月には安政八戸沖地震発生。9月に安政台風として大型
台風が関東を襲い、暴風雨は「其惨害、実に乙卯の震災 (江戸地震)に倍する」と称せ
られるほどの被害を発生し、自然は猛威を振るった。北海道の駒ヶ岳が噴火しアイヌの
襲撃で松前藩が混乱する中に、江戸城では 12月8日(安政 3年11月11日)に島津家養女
篤姫が嫁入り、入城を将軍徳川家定と共に初の外交主任に堀田正睦などが迎えていた。
翌年1857年には、前年10月に起きた、中国大陸清のアロー号事件が起こった推移や結果
が報告され、にわかに日米追加条約(にちべいついかじょうやく)の交渉が起こった。
1857年6月17日(安政 4年5月26日)、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと、当時の
下田奉行の井上清直と中村時万が結んだ全9か条の条約で、日本とアメリカ合衆国との
間で1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に結ばれた日米和親条約を修補する目的で結ばれ
たものだ。別名下田協約。だが既にモリソン号事件やアヘン戦争に於ける清国の敗北も
あって、天保13年7月22日(1842年8月28日)に江戸幕府は異国船打払令から薪水給与令
に改めた事で起きたもので、外国船が日本に寄港を望む場合には必要な食料や薪水を与
え、速やかに退散させるように努めることを改めて、米はメリケン(米利堅)と約束し
たもので、既に調印された日米和親条約の細則を決めた付属協定であった。13ヵ条から
成った和親条約に基づいた下田,箱館の2港開港にあたってその細則を定めた。ここで
日本に着任したアメリカ総領事 T.ハリスと下田奉行井上清直らの間で結ばれ,下田,
箱館の開港細則を拡大して、居留地の権限について定め特に領事裁判制度が樹立された
。さらに両港のほか長崎開港に関する同様の細則もこの協定で定められ,全5ヵ条から
成る。こうしたペリーの圧力によって結ばれた和親条約が日米修好通商条約に至る間の
清が負けたことで、威圧がそのままに言わば砲艦外交に出ていたのである。早速その報
は諸外国の行動を促した。6月13日〜6月27日に天津条約で中国側が欧米に降りてしまう
と。7月29日(安政5年6月19日) - 日米修好通商条約調印。
  8月18日(安政5年7月10日) - 日蘭修好通商条約調印。
  8月19日(安政5年7月11日) - 日露修好通商条約調印。
  8月26日(安政5年7月18日) - 日英修好通商条約調印。
  10月9日(安政5年9月3日) - 日仏修好通商条約調印。して、国内の洋学者は危機を
唱えて幕府批判に達し、10月13日(安政5年9月7日)安政の大獄とされる捕縛開始がな
されるに至ったのだ。この間の各藩の密偵も、幕府の隠密同心も中国まで渡航して情報
を探ったに違いない。そもそも異国船打払令から薪水給与令に変えたのも、大砲の弾が
臼砲弾と言う炸裂弾を使用して大陸中国やクリミア半島で戦争が起こっていることを知
ったからであった。これも服部家からの情報だったのである。


179: 名無しさんAA:19/09/03 20:51
    歴史の群像     27

 この後、外国人排斥と倒幕運動を、水戸藩の下でおし進めることになるのだが、家定
亡き後は、水戸の御曹子の徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)が、江戸幕府第15代征夷
大将軍として慶応2年12月5日(1867年 1月10日)江戸幕府最後の将軍として入城する。
日本史上最後の将軍という汚名は慶応3年12月9日(1868年1月3日)大政奉還によるが、
それは基本的には、誰も正確な情報を慶喜入れる事がなくなったからだった。つまり、
水戸や薩摩が大きく動き、本来の幕府の屋台骨である江戸城門番が働けなかったのだ。
それは当然、今の水戸や薩摩は仮想敵方であって、この後もいつ他の藩から将軍輩出に
なるかもしれずひとまず命令がない限り海外事情に力を入れたのだった。そこで勝海舟
が登場するが、天皇や江戸を守ることに力が足りず、町回隊や新撰組など自主の自治の
防衛の義勇軍を許す事になった。慶喜もまた聡明ながら悲運なのはこうした父親の反感
された事情である。行き過ぎた行為は薩摩では、薩英戦争(さつえいせんそう)1863年
8月15日〜17日)を起こしているし、長州ではイギリス・フランス・オランダ・アメリ
カの列強四国との間に下関戦争(しものせきせんそう)を、1863年と1864年に起こして
いる。イギリスと薩摩藩の間で戦われた戦闘で文久2年旧暦8月21日(1862年9月14日)
に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦殺傷事件の解決と補償を、艦隊の力を背景に迫る
イギリスが請求した事で始まったものだ。最初幕府に請求が及んだが、薩摩がやったこ
ととしてはねのけた。そこで英国は鹿児島まで言って砲艦外交に遠征する。主権統治権
のもとに兵制の近代化を進めていた島津は鍋島藩の技術を借りて、既に多くの大砲を制
作するに及んでいた。つまり軌道精度の砲内螺旋まで入れた日本では最新鋭の大砲を、
自力で持っていたのだった。これはどうも幕府も密偵の情報で掴んでいてわざと薩摩に
英国船団をそそのかした疑いがある。生麦事件は1862年9月江戸城入りしていた薩摩藩
島津久光が京都へ戻る途中の出来事で、行列が武蔵野国生麦村付近に差しかかったとき
、乗馬で日本見物中であった英国人一行4人と遭遇し日本の風習や言葉を知らなかった
一行は、騎乗のまま久光の駕籠付近まで近づき、激怒した薩摩藩士らは、無礼討ちとし
て英国人ら1人に斬り殺してしまうという国際的事件である。激怒した代理公使ニール
は、幕府側に謝罪と10万ポンドの賠償金、薩摩藩に対して、犯人の公開処刑と 2万5000
ポンドの賠償金を要求した。これに対し、薩摩藩が要求を拒否し続け翌年7隻のイギリ
ス艦隊が鹿児島湾に現れることとなった。ここで訓練などで培った実力でこれを排除し
防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。


180: 名無しさんAA:19/09/03 20:53
    歴史の群像     28

 薩英戦争は、1863年 8月11日、7隻のイギリス艦隊が鹿児島湾に現れるが、この前か
らの出港の報は、入っていたのだ。しかし、イギリス側の目的は戦争ではなく、あくま
で生麦事件の賠償問題に対する直接交渉であったのだ。危険を察知した艦は入り江まで
入らず小舟で湾内に入り、陸上において役人立ち合いで、旅館で話し合う席が設けられ
、イギリス側は、改めて犯人の逮捕処罰と賠償金2万5000ポンドを要求した。薩摩藩側
が時間稼ぎを行い、回答を出さないことから、3ヶ目にしびれを切らしたイギリス側は
、 8月15日薩摩藩の汽船3隻を拿捕するという強硬手段にでた。この時に後の英国留学
生となる松木弘安、五代友厚が捕虜となった。これを開戦の意思と受け止めた薩摩藩は
用意していた天保山砲台から砲撃を開始し、英国艦隊との間で激しい砲撃戦を展開する
。薩摩藩側は既に住民を避難させていたが、鹿児島城下北部が焼かれ、諸砲台が壊滅的
損害を受けた。また、イギリス側も、弾薬庫の前に幕府から受け取った賠償金が積み上
げられており、戦闘準備に時間を要した。そのため、死傷者は60余人に及んだという。
一隻は直撃を受け沈みこそしなかったが自力航行はできなかった。思わぬ苦戦を強いら
れたイギリス艦隊は、鹿児島湾を去り横浜に戻っていった。その後に、横浜のイギリス
公使館で3回に及ぶ講和談判がおこなわれて、薩摩藩が2万5,000ポンドを幕府から借用
して支払うことで和解が成立したのである。交渉中に薩摩側がイギリス側に軍艦購入の
周旋を依頼したことから、これを購入する事にして以後、薩英の間に親密な関係が築か
れていき幕府の権力は同時に相対的に落ちていった。松木弘安(寺島宗則)と共に薩英
戦争時イギリス側の捕虜、罪人扱いとなった五代友厚は幕吏や攘夷派から逃れるために
長崎に潜伏していた。当時は海外との接触や特に負けた武士は果し合いの負けと同じに
切腹だった。ここでトーマス・グラバーと懇意の間柄になり、世界の情勢を知り危機感
を感じた五代は、1864年 6月頃、薩摩藩に対して今後の国づくりの上申書を提出する。
「これからは海外に留学し、西洋の技術を習得してこないと世界の大勢に遅れ、国の発
展に役立ちません。」この上申書に、新式器機の購入による藩産業の近代化、近代技術
・知識獲得のための海外留学生の派遣、外国人技術者の雇用、その経費に対する詳細な
捻出方法(上海貿易等)という具体的な内容までも含まれていて、藩主島津久光公を、
うならせた。さらに元はといえば、炸裂弾をまだ持たなかった薩摩の、西洋に並んだと
過信した盲挙での砲撃の始まりであった。一隻なりと沈めたなら戦果があったろうが、
全くの戦功がなかった。しかし、英国艦隊も又同じに、思わぬ反撃で多くの死傷者を出
しイギリス公使も参っていた。つまり海外には易々と占領できない地であることを示し
ていたのである。これまでも、富国強兵に努めていた薩摩藩の政策に、五代の上申書が
引き金となり、イギリス留学の方針が決定され切腹や家門廃絶は、逃れたのである。
こうした、日本人の一人一人の意識の高さや苦労が現代日本の繁栄を支える事になった



181: 名無しさんAA:19/09/03 20:54
    歴史の群像     29

 1865年 2月13日、視察員4人と、薩摩藩開成所を中心に留学生15人が選ばれ、留学
渡航の藩命が下された。鎖国中の最中、洋行は禁止のため、表向きの辞令は「甑島・大
島周辺の調査」であり、一人ずつ藩主から変名を与えられて渡航していった。城下を発
つ前日、攘夷思想を持つ3人(畠山丈之助、島津織之介、高橋要)が留学辞退を申し出
るがその後、畠山のみが島津久光の説得に応じ、辞退した島津と高橋と同じ家格から、
村橋直衛と名越平馬が選ばれることになった。藩をあげての密航である。 2月15日に、
使節団長の新納に率いられ鹿児島を出発した留学生一行16名は、苗代川(現在の日置市
美山)に一泊し、翌日、市来湊から船に乗って羽島に渡った。留学生一行はグラバーが
用立てた船に乗船することとなっており、その船が長崎から羽島沖に迂回されることに
なっていた。羽島は今の軍艦島あたりであり、ここではすでに少量の石炭が産出してい
たのである。留学生一行は、船が来るまでの2カ月余りの間、海沿いの藤崎家と川口家
に逗留しながら勉学に励み、渡航に備えた。 4月14日、英国渡航に係る手続きのために
長崎に滞在していた五代、松木、堀の3名が羽島に到着し、留学生一行と合流。1865年
4月16日、乗船する蒸気船「オースタライエン号」が羽島沖に現れて その後、荷物を積
み込み、羽島沖で停泊する船内で寝ることとなる。羽島沖をやっと出発した留学生たち
は、乗船して直ぐに刀を取り上げられた。イギリス人や中国人の船員に囲まれ、飛び交
う言葉は外国語、また慣れない食事など……船内は既に外国であった。留学生の中には
覚悟を決め、髷(まげ)を切る者もいた。1865年 4月21日の夕刻、香港に到着。ガス燈
で彩る香港の夜景に見惚れた彼らは、感嘆の声を上げる。同時に、薩英戦争時に戦った
英国戦艦「ユーリアラス号」が停泊していたことにも驚く。洋服を仕立て上陸した彼ら
は、紅茶を飲んだり、時計を買ったりとそれぞれ香港の街を満喫した。1865年 4月29日
、P&O汽船会社の客船マドラス号に乗り換えた一行は、次の目的地に向かった。マド
ラス号は、乗船人数 250名、客室30室の蒸気客船で食堂、浴室、トイレが完備されてい
た。洋式の便器を初めて見た五代友厚は、きれいな陶器に水が流れる便器を見て、洗面
器と勘違いして顔を洗った…後に財部実行は述べている。1865年5月5日、午前中にシン
ガポールに到着。彼らはここで、初めてパイナップルを食べた。「味は日本の桃のよう
で、形は丸く少し長く、皮は松の皮に以て黄色で実は白く、漢字にすると松笠果物では
ないか」と感想を述べている。翌日、シンガポールを出航する際に新たに20人程のオラ
ンダ人が乗船してきた。松村淳蔵はオランダ人乗客が家族との別れの際にキスをする姿
に驚き、「夫が妻の口を吸って別れた。その姿が痛々しく見える。一度では落ち着かず
、また吸い合っていた。船を見送る人は何百人も居たが、他の人など関係ないようだっ
た。子供にも同様に親が口を吸い別れていた。私はこういうことは初めて見るので、と
にかく驚いた。親しき人の別れには口を互いに吸うのが最も良い礼儀であると聞いた。
」と書いている。

182: 名無しさんAA:19/09/03 20:54
    歴史の群像     30

 ここでは、こんな船に隠密や隠れて探る忍者なのどが乗れたか。という疑問がのこる
。恐らくグラバーも慎重に事を運んだだろうし、こうした要注意人物は彼らだけではな
く、とても多かっただろう。また全国に散らばる「草}といわれる何代も続いて住みつ
いて幕府に情報を与える百姓や商人や坊主であっても、その報告は恐らく敵方と思える
薩摩や鍋島など外様大名の手に乗る危険は避けたと思える。こうして江戸幕府はまずは
裏の草の根ネットワークが崩れ去ったと言える。下関戦争は、尊皇攘夷運動の京都公家
に対抗できず、孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、1863年 6月25日をもっての
攘夷実行を約束した事に端を発す。幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていなかったが、
長州藩は馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船への封鎖を下命され、砲撃を実施した
。何回か分けて激しい戦闘が行われ、砲撃されて4ヶ国連合が1864年の戦闘を馬関戦争
(ばかんせんそう)と呼び、その封鎖の砲撃の1863年の戦闘はその「原因となった事件
」として扱われることが多い。今では1863年のことを下関事件、1864年を四国艦隊下関
砲撃事件と呼んで区別している。この戦争後、長州藩は幕命に従ったのみと主張した為
、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負
うこととなった。しかし、馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまっ
た長州藩では、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極
的に導入し、軍備軍制を近代化する方策に変える。こうしてさらに徳川幕府は武装して
強くなる各藩に対して弱く権限が阻害されていった。更に同じ外国船と戦った意気込み
で、長州・薩摩は近い思想を持つに至り、そこに坂本龍馬や中岡慎太郎などが暗躍し、
仲介により、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩
との薩長同盟を締結して幕府を驚かし、共に倒幕への道を進むことになる。すでにフラ
ンスに乗っ取られ、負けてしまっている長州藩の戦争に、拡大化を恐れ、幕府は7月8日
、「国の方針が確定する前の外国船への砲撃は慎むよう」長州藩に通告した。16日には
中根一之允らを軍艦「朝陽丸」で派遣し、無断での外国船砲撃や小倉藩領侵入について
長州藩を詰問した。ところが、長州の奇兵隊員は、アメリカ軍との交戦で失った長州艦
の代用として「朝陽丸」の提供を要求し、8月9日には「朝陽丸」を拿捕して 8月20日に
は中根一之允ら乗り組員を暗殺してしまった朝陽丸事件を起こしていた。これらは、三
条実美ら攘夷派公卿の画策で、 8月13日にも孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親征の詔
が下る(大和行幸)である。こうした蛮族退治の絶対訓令は日本各所に飛んだが、多く
は全く呼応していない。しかし大和国では天誅組が挙兵し(天誅組の変)京都の政局は
長州藩を支持する攘夷派が主導権を握っていたが、18日に薩摩藩と京都守護職の会津藩
がと共に孝明天皇の了承のもとクーデターを起こして、攘夷派公卿は失脚した。すでに
海峡の戦いの比べられないくらいの戦力は公けになっていたのである。こうして長州藩
も朝廷から排除された(八月十八日の政変)。天誅組も諸藩の討伐を受けて壊滅する。


183: 名無しさんAA:19/09/03 22:52
    歴史の群像     31

 江戸時代末期(幕末)に長州藩は、薩摩藩にさかのぼる事2年も前の1863年に、長州
藩から清国経由でヨーロッパに留学派遣をしていた。派遣は主にロンドン大学ユニヴァ
ーシティ・カレッジなどに留学させている。こうして井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾
庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す言葉に長州五傑
(ちょうしゅうごけつ)と言う言葉が残っている。文久3年4月18日(1863年6月4日)、
井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の内命を受ける。4月28日(6月14日)に 洋行の
ため、井上は野村と共に京都を発ち、5月6日(6月21日)に江戸に到着した。薩摩が砲撃
に備え砲台から演習をしていた中の頃だ。1854年 3月31日の再度の黒船来航で洋学者達
は吉田松陰のみならず、海外の奇妙さの探検に飢えていたのである。しかし、残念なが
らその渡航費や滞在費は下手な藩では賄えないほどの高額で、又江戸幕府が認めない限
り密航で、見つかれば大きな代償があった時代だった。あくまでも密かに動く事で渡航
の相談だけでも多くの人員が必要だった。 5月7日(6月22日)、駐日イギリス総領事と
なったエイベル・ガウワーを訪ねて、洋行の志を述べ、周旋を依頼する。ガウワーから
は、船賃が700ドル(約400両)、1年間の滞在費を含めると1000両は必要と聞かされて
彼らは驚きと憤慨に浸っただろう。一千両は、イギリスのポンド金貨と同様の価値とし
ての金額でも大きい。しかしイギリス商人は舶来品として高価で買い付ける大名には、
容赦なく高値を吹っかけていた。先の薩摩の件では、英国は幕府に、生麦事件の賠償・
謝罪として10万ポンド・東禅寺事件1万ポンド計11万ポンド(44万ドル)を要求
し、薩摩藩に2万5千ポンド(10万ドル=6万33百両)と犯人の処刑を要求してい
る。薩摩が賠償しないので英国艦隊は薩摩藩汽船(天佑丸{英製}・白鳳丸{米製}・
青鷹丸{独製})を拿捕したがこのときの船の購入価格が30万ドルである。戦闘推移
が英国艦隊不利で拿捕船を焼いて戦いますが旗艦ユーリアラス号の艦橋が直撃され幹部
全員が死傷し艦隊は鹿児島を去ったのだが、つまり今の客船価格500億〜2000億
ぐらいだろう。仮に三千億円=三十万$=ポンドとすれば、一万円=1$と言うとんで
もでない為替の高値だったのだ。ちなみに薩摩藩の大久保利通は、この賠償金10万ド
ル6万3千両ほどを幕府から借出し支払い返済はされずじまいである。つまり10万X
一万倍=百億=6万両つまり10万円=6両程度で仮に5両としても5万両は100億
である。50人留学させれば軍艦が買える値段だから当然ではある。長州は江戸到着後
さらに2人(伊藤・遠藤)増え、5人分つまり5000両が必要になった。洋行にあたって
藩主の手許金から1人200両(井上・伊藤・山尾の3人で600両)を支給されたが当然、全
く足りなかった。そこで、伊豆倉商店の番頭佐藤貞次郎と相談し、麻布藩邸に銃砲購入
資金として確保していた1万両の準備金があったので、佐藤は「藩邸の代表者が保証す
るなら5000両を貸す」ということになり、藩邸の留守居役村田蔵六に、死を決しても、
その志を遂げたいと半ば脅迫的に承諾させ、5000両を確保することができた。という。
軍艦の一割を当面必要としたのである。たった5人の渡航がこうしたものだった。だが
いまでも自衛隊は、一機1億だの10億だの払って戦闘機を購入しているのだ。これは
明治から変わらない欧米流のデールであってトランプのみではないのである。


184: 名無しさんAA:19/09/03 23:19
    歴史の群像     32

 ところが、英国はこの頃高値では売れなくなった。日本もそうだが、外為の価格差は
相手が経済発展と共に、貿易利潤はなくなり物資購入も売価もそう簡単ではなくなる。
よくドル高円安はどうのこうのと学者は説明する。しかし円が高くなると必ずしも原料
が安くなる訳ではない。そして円が安くなると輸出価格が下がるというのは、単純な話
だけで、そこにいる相手国生活者は全く違っている。動いた価格差分の負担がかかるの
である。例えイギリスのポンド下落でも輸出が楽になる事はない。輸入食品の値上がり
は職人給与を上げかえって高価な売り物としなくては食っていけない。また逆でも自国
通貨が高いからとそうそう安い買い物とはならない。豪州不動産は、中国人の爆買いで
結局は高くなりすぎて規制する程になり、住宅街はすまない住宅街で 空き巣や雑草や
放火や共益費未収とインフラさえままならずその住宅街は価値が昔より更に下がって悩
んでいる場所もある。政府主導の馬鹿さの賜物である。アメリカの農業も同じ道を行く
かつて多くの農場主がいたが、穀物メジャーの台頭でいいように国内産の食糧価格は操
られ決して安くはならなかったし、ある時中国の買い付けが生じ、その時点で大変動で
上下し安く大量に輸出されてしまったのだ。管理市場では腐敗が横行し自由市場では、
こうした事が日常茶飯事起こっているのである。こうした今の時代に比較しても日本人
は賭博のようなこんな自由市場では変わらぬ勤勉家であった為席巻した。しかし最近は
少し変わったようだ。中国資本が乱立してなだれ込んだ為、協調も予測もない世界にと
変化した。ともあれ当時そうした高い授業料を払っても、長州藩は海外留学に出かけさ
せていた。 5月12日 イギリスのエイベル・アンソニー・ジェームズ・ガウワー長崎総
領事の斡旋でジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)で横浜を出港し
、上海に向かったのだ。このとき、井上は密航という犯禁の罪が養家先に及ぶことを恐
れ、志道家を離別してまでしている。イギリスに留学していた時、長州藩士伊藤俊輔と
井上聞多は四国連合による下関攻撃が近いことを知らされる。慌てて戦争を止めさせる
べく急ぎ帰国の途についた。彼らのイギリス留学は、国力と機械技術が日本より遙かに
優れた事を現地で学び、二人は戦争をしても絶対に勝てないことを熟知していた。伊藤
と井上はもどかしい心のまま三カ月かかってやっと 6月10日に横浜に到着する。オール
コックに面会を申し出て、藩主を説得することを約束しオールコックもこれを承知した
。二人を軍艦に乗せて、アーネスト・サトウを伴わせて豊後国姫島まで送り、長州へ帰
させた。こうして二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に会い、止戦を説いたが、
長州藩では依然として強硬論が中心であり、藩主は収める事は出来なかった。こうして
徒労に終わったのである。こんなにも高い品物を簡単に各藩が買ってくれるので、グラ
バーは困ってしまった。つまり、本社の中国のジャーディン・マセソン商会が乗り込み
上海を中心に中国北部を支配したフリーメーソン組織「イングランド系北支地区大結社
」の主幹事のアヘン王のサッスーン財閥が直接横浜に支店を出したのだ。これは大きく
困ることだった。輸出入とはいえ、元売りが問屋や小売店の横に堂々と売店を構えた様
なものだからだ。その一つは銃や大砲が売れず、軍艦や留学といったかなり高額な取引
に変化していたからだ。さらに中国国内の事情も良くなく日本が安全で健康的だったか
らだが、これはより強くグラバーを長崎の石炭採掘に差し向けた。端島の石炭は大牟田
での立花氏がグラバーに鉱山技師を呼んだ事に始まる


185: 名無しさんAA:19/09/03 23:19
    歴史の群像     33

 下関の、前後二回にわたる攘夷思想に基づく海外との武力衝突事件で敗れた長州藩は
、自国一国での国内攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の
増強に努め、倒幕運動をおし進めることになる。こうして倒幕の準備が更に加速した。
ここで日本人が考えたのは言うまでもなく自国の郷里でも藩でもなく日本国という島国
の存立である。まるで貧民が「蛍の光窓の雪」の歌のように海外の知恵や知識を学び取
る覚悟をしたのである。狭く海に囲まれた領土で生きる。決して中国の様に邪魔させな
い。と。ここで既に富国強兵と殖産興業との意思が作られていた事だ。そうして日本は
正に世界の冒険活劇のようなサクセスストーリーの舞台に入って行ってしまうのだった
。桜田門外の変の井伊直弼を暗殺したのは水戸藩とされるが、水戸藩からの脱藩者17
名の他薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃している。つまり大老井伊直弼を暗殺事件は
脱藩者を囲った者が仕掛けているのであり、それは水戸藩でなく薩摩藩だった。という
ことになる。かねてから一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は、西郷隆盛を京都に遣わして、
内勅降下運動を盛んにしていたが、藩兵を率いて抗議のため上洛することまで計画して
いたとされる。しかし、 7月16日、島津斉彬は死去し、勅許を得ないままの条約調印と
斉昭・春嶽の排斥は行き場のないまま、攘夷論の強い公家達に伝播し、孝明天皇の耳に
まで達して幕府の行いに対し憤慨していた。と言われる。ここに半蔵門達の死闘があっ
て半蔵門を守る住民や主人の手を大きく患っていたと言える。篤姫が嫁いで来た以上は
例え水戸や薩摩が幕府の敵であっても、縁戚となり普通の外様などと違い、情報収集の
みで敵対行為は家定や井伊直弼などの許可や認可が必要だった。しかしかの耳にはその
公家内の動きが重要で薩摩藩の個々の動きはわからなかったのだ。また、急先鋒の島津
斉彬を暗殺したのかもしれないが、それによって単体の島津の薩摩武士のタガが外れて
こうした暗殺襲撃に走ったのかもしれない。更に薩摩は長崎以外の隠れた外国船寄港地
で沖縄とも通じていた。ここには既に公式ではないものの海外公務人として公使や領事
に匹敵するものが既にいたかもしれない。少なくともペリー提督は、沖縄を国王として
扱い条約を交わしてから江戸に向かっていた事が知られている。我々はこの歴史の裏の
事情を簡単に見過ごしている。しかしこの状態はかつての対戦前の陸軍や海軍の動き、
あるいは現代の中国や韓国の建国になった動きと全く同じで、大きな力のタガや規制か
ら逃れた者の、こうした反撃は、例えば毛沢東であり李承晩でありタガを外した要因は
アメリカであり連合国であったのである。そしてこの江戸幕府の仕組みに似た国がある
。今のロシアである。共産党世界は江戸幕府を研究した訳でもないだろうが、政権と、
その独裁政権維持に諜報警察いわゆる密告受付の秘密警察を置く姿に収れんしたのであ
る。ところがまったくそっくりな組織でありながら中国もロシアも、日本のような血統
主義が置かれていない。逆に血統主義を存続させながらもその由緒無き伝統を伝えてい
るのが北朝鮮である。これをどう見てどう考えるべきだろうか。



186: 名無しさんAA:19/09/03 23:20
    歴史の群像     34

 北朝鮮に対比されるのが英国王室や日本の天皇であろう。長きにわたり君主として在
り続け、その統治手腕は絶妙で、資本主義社会の恩恵と自由主義陣営の一翼を担う国家
として君臨し続けている。特に日本は小癪ながらも世界の注目を集めるほどの浮沈をし
小さいながらいち早く繁栄した国になった。この業績は天皇や朝廷あるいは幕府などの
過去の功なくして無かったことであろう。精神的にも物理的にも国際的にも経済的にも
その時々の歴史に権力を見せている。日本を戦争に落とし込んだ米国で、ユダヤ人協会
かそれまで5〜7つあった団体が一つになった。その演壇において、「もう脅威となっ
た日本人はいなくなる。さあ我々は日本の財閥が片付いた事で、ユダヤ人会は一つにな
るべき時が来た。世界制覇したアメリカ政府に祝杯を送ろうではないか。乾杯」と述べ
ている。つまり強大覇権国家パンアメリカ主義が完成した。と言いたかったようだが、
この声は連銀がまとまった事を記念したパーティだから穏やかではない。戦後韓国経済
を引っ張ったの朴正煕(パク・チョンヒ)大統領であったのは間違いない。無茶苦茶な
政権運営で、暗殺に次ぐ暗殺、疲弊に次ぐ疲弊で駐留米軍に知り合いを持つ友人に訴え
ても、当時の米国は「極東の野蛮な大陸は放し飼いに限る。我々は38度線の檻を点検
するだけだ。」と述べたと言う。この国の閉塞感に憤慨した彼は、職業軍人だったが、
1961年の軍事クーデターで国家再建最高会議議長に就任し、1963〜79年までを大統領の
椅子に座った。第5〜9大統領である。彼の時代約30年間にわたって『漢江の奇跡』
と呼ばれる高度経済成長の実現で、韓国は世界最貧国の層から驚くような近代国家とな
った。彼の苦悩は今の文政権のように、或いは北朝鮮の様に如何にして米国を振り向か
せるか。と言う問題だった。軍事的にはソ連南下の歯止めとして充分に注目はされては
いたが、地理的にも経済的にも不要でも重要でなく放置される国家のままだった。韓国
では平和裡に駐留していた日本の帝国陸軍は撤退し、その後連合国軍が統治しつつも、
金一派が李一派と袂をわかれて南北朝鮮の2つの国家が生まれていたが、ベトナムでは
違っていた。ベトナムは太平洋戦争では海外からはあまり相手にされない場所であった
。しかし、中国の援蒋ルートの問題から、中国と日本にとっては大きな要所としていた
。結果1944年10月〜1945年 5月にかけ、ベトナム北部で発生した大規模な飢饉が発生し
、40万〜 200万人が餓死する事件が起こった。45年飢饉である。1945年ベトナム飢饉は
ホーチミンを焚きつけた。ホー・チ・ミンの1945年9月2日のベトナム独立宣言には、「
フランス人と日本人の二重の支配のもとで、我々の同胞のうちの 200万人が餓死した。
との声明を発し記述する。日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万とされたが、それは
死体の判別が出来なかった為だ。どういう事かといえば、ここには多くの残留日本が、
隠れて生活していたからだ。台風などの多くの天候不順による凶作で、米軍の日本占領
による南北間輸送が途絶えた。又フランス・インドシナ植民地政府は機能しなかったし
従来のまま日本軍の食糧徴発などが行われていたのである。つまり玉音放送の敗戦の報
は届いていなかった。と言うより届いても多くは動けなかった。船はこず引き揚げる手
もなく、米軍の空襲はそのままあったからだ。

187: 名無しさんAA:19/09/03 23:24
    歴史の群像     35

 いわゆるベトナム戦争は、宣戦布告が行われていない、米軍の汚い戦争といわれてい
る。この戦争がいつ開始されたかについては諸説あるし今だ判明しない事件も多い。し
かしホー・チ・ミンのヴェトミン部隊は、この飢饉の原因を日本軍の強制調達にあると
民衆に訴えて、フランスからの植民地支配からの解放軍として支持を集めていた日本の
信頼を崩してしまい、ヴェトミン民兵がイニシアティブを握り、結局、1945年 8月15日
の終戦時直後の日本軍が仏印処理によるベトナム帝国の樹立を果たした正式政府を直ぐ
にヴェトミン民兵軍により打倒しようと中央政府と戦った。という李承晩の朝鮮半島の
様な形になった。ホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)側では、
南ベトナムを「アメリカ合衆国の傀儡国家」と規定し、共産主義イデオロギーを背景に
、ベトナム人による南北ベトナム統一独立国家の建国を求めるナショナリズムに基づく
植民地解放戦争であるとしたのだ。北部の中国の支援で、この戦争がアメリカ合衆国を
盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト社会主義共和国連邦を盟主とする共産
主義・社会主義陣営との間の、第二次世界大戦後のいわゆる冷戦対立の代理戦争となっ
たのは当然でもあった。1945年8月10日午後8時に日本政府がポツダム宣言受諾を連合軍
に通知した。との短波放送を8月12日午前0時頃、サンフランシスコ放送は連合国の回答
を放送するが、ラジオでのこの情報を得たホーチミンは、日本軍降伏を革命のチャンス
ととらえ、フランス軍の再進駐より前に実権を奪うことを策定した。1945年8月17日に
、ベトナム帝国首相のチャン・チョン・キムがハノイ市民劇場前広場で「独立を与えた
日本は敗れたが、ベトナムは心を一つにして我々の政権を築こう。」とフランスの復帰
を警戒する内容の演説を行った。この時、ベトミンが金星紅旗をあげるなかマイクを奪
い、「独立万歳」、「打倒ファシスト」、「日本は独立をやってくれたが、これからは
みんなで働こう。」といった声があがった。これがハノイ革命とされた。19日ベトミン
の大会で、20万人のデモ隊は市庁舎や日本軍が手放した保安隊や警察署など政府機関を
次々と占拠し、ハノイ・クーデターは成功した。 8月20日にフエの王宮にいたベトナム
帝国皇帝のバオ・ダイに対して、ベトミン革命軍事委員会が組織され退位を要求、24日
、バオ・ダイ帝は退位する。143年も続いた阮朝(グエン王朝)はここで滅亡した。
これらに前後して駅、中央郵便局、発電所などが占拠され、26日にベトミン軍がハノイ
に入城、28日にベトナム民主共和国臨時政府が樹立された。9月2日にホー・チ・ミンは
(胡志明)は「ベトナム独立宣言」を発表し、すべての民族は平等であり、1847年の、
フランス軍艦によるダナン攻撃事件以来、80年にわたるフランスの植民地支配を人道と
正義に反するものとして糾弾した。こうしてベトナム八月革命は成功し、ハノイを首都
とするベトナム民主共和国(北ベトナム)が一応は樹立したのである。しかし共産主義
国家建設を目指したホーに、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は国家としての
承認をしなかった。繰り返し書簡で求めるも同盟国フランスの反対にと、共産主義者に
よる統治は、アメリカ政府のネックとなりとりあげなかった。また新設された国際連合
にもフランス植民地支配についての公正な解決を訴えた。国際社会は戦争の傷は癒えな
いままで一切の変化を好まず徒労に終わったのである。つまり米国はホーチミン政権を
国と認めず国連交渉していたのである。表向き民族解放の旗手で自由・平等を掲げて、
民族自立を提唱していたからだ。それは米国も又独立間もない国だったからだ。

188: 名無しさんAA:19/09/03 23:29
    歴史の群像     36

 連合国間でも第二次世界大戦の戦後統治計画に、フランスのシャルル・ド・ゴールを
嫌っていたアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、「フランスはインドシナ
を植民地にしてから何か発展させたことがあったか。あの国は百年前よりひどくなって
いる。」とフランスのインドシナ植民地を批判し、インドシナ半島を信託統治構想をし
ていた。しかしながら、イギリスでは信託統治をしたらイギリス帝国の植民地が無くな
ると反対し、フランスの指導者となったド・ゴールは1945年 3月24日にインドシナ連邦
を構築して独立を許さず、フランス総督が統轄し、フランス連合に組み入れると声明を
発表し、植民地時代の復帰を求めたのだ。ところが戦争終結前にルーズベルトが死去し
アメリカ国務省は検討の上、あとを継いだトルーマンに「アメリカはフランスのインド
シナ復帰に反対すべきでない。」と、反共産主義の立場から進言し、同極東担当官他も
も完全に同一見解でアメリカ国務省は「アメリカはフランスのインドシナ主権を承認す
る」との統一見解を決定したのだ。この時からフランス植民地の後ろ盾のアメリカが、
ここに出現した。1945年 7月26日のポツダム会議で、「インドシナは、北緯16度線を境
に、北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐し、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装
解除してフランス軍に引き継いで、インドシナの独立を認めない。」と決定されたのだ
。ここに今度は中華民国の国民軍の進駐を認めるという愚かな決定と共産党中国の卑劣
な行動作戦が一体化する元を作ったのである。9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言
を受けて、南部に進駐していた駐英領インド軍のダグラス・グレイシー将軍は、騒乱を
理由にベトナム民衆から武器の押収をはじめ、9月6日には駐英領インド軍の部隊がサイ
ゴンに入り、9月9日には盧漢将軍率いる中華民国軍がハノイに入った。連合国軍として
強圧的支配である。国民党軍は敵対する中国共産党と同志としたインドシナ共産党に対
して決して好感はもっていなかった。ホー・チ・ミンは中国国民党軍との対立を避ける
ためインドシナ共産党を偽装解散させて対応した。しかしインドシナ共産党は党員を「
民族の前衛戦士」と位置づけ、民族の利益は党の利益よりも優先させる特徴があった。
つまりホー・チ・ミンは内外共に高い地位を得ていて、民衆の信頼や信望があったのだ
1946年 2月28日、フランスは「中国・フランス協定」でハイフォン港自由化などを中国
軍の撤退を条件に受け入れ「ベトナム民主共和国」を「フランス連合」の一員としての
独立を認める。と通告した。しかし新聞記者で欧米政府の実態を知るホー・チ・ミンら
、ベトミンは完全独立を要求し、交渉が持続されていた。がフランス本国では新政権は
譲る事はなかった。「ドゴールの欲望」である。仕方なしに3月5日、連合軍東南アジア
軍司令部では、南部インドシナが連合軍統轄下よりフランス軍管理下に移行したことを
発表し、フランス軍は北緯16度線以南はフランス当局が接収すると声明を発表したのだ
。こうして自由フランス軍はフィリップ将軍指揮下の第2機甲師団がサイゴンに入り、
インドシナ南部のコーチシナを制圧、3月6日ハイフォン港に上陸しハノイに入城した。
進軍は続きフランス軍はラオスにも進駐し、インドシナ一帯を占領する。軍事行動に対
してホー・チ・ミンらは強く抗議、フランスは連邦制妥協案を提示するが植民地時代と
同じだ、許容出来ない。と1946年秋、ベトナム民主共和国側との交渉は決裂した。当然
でもあった。

189: 名無しさんAA:19/09/03 23:29
    歴史の群像     37

 ベトミンはソ連と中国共産党からの軍事支援を受けるまでは装備も乏しく、1946年4
月に、独自の軍士官学校を二校設立した。一校は日本軍に追われたベトコン将軍達で、
もう一校は、帰還しなかったその旧日本兵で構成されていた。日本敗戦後、ベトミンに
協力したインドシナ残留日本兵は 766人にのぼるとされる。また、武器は中国共産党か
ら提供されたがそれは後半で、多くは日本軍から鹵獲したもので、38式小銃などが多か
った。対する中国軍の武器は米国製自動小銃だった。1946年11月20日、ハイフォン港で
の銃撃事件を口実にフランスとベトミンとの間で全面交戦状態が始まって、インドシナ
戦争(第一次インドシナ戦争)が勃発した。こうしてフランス軍は12月19日に、ハノイの
ベトナム民主共和国政府へ武力攻撃を開始し、12月20日、ホーチミンは全国抗戦声明を
発表した。「われわれは平和を切望し妥協を重ねてきたが、妥協を重ねれば重ねるほど
フランスはわが国を征服しようとしている。われわれは犠牲を辞さない。われわれは決
して奴隷とはならない。すべての老若男女に訴える。主義主張、政治性向、民族を問わ
ず、立ち上がり、フランス植民地主義と戦い、国を救おう----。」と呼びかけた。これ
がホー・チミンの抗戦声明とされる。事実第二次世界大戦前のベトナム民は奴隷狩りの
流れの中にあった。フランス人には言葉はおろか顔さえも合わせてはならない程だった
。フランス人側も有色人種の彼らは重宝な家畜であり、白人同士のSEXにも糞尿する
場にも堂々とタオルや紙を持たせて立たせていたし、平気で鞭を入れ殺したりしていた
。之に日本軍は解放の手を入れていた。従って、敵で追われたゲリラ部隊が2校存立を
させて救ったのである。ベトコンゲリラ部隊が民衆の救世主だったように日本軍は国の
解放部隊だったのだ。こうして3年にも及んだ連合国フランスとの交渉はフランス進軍
として終わった。この第二次世界大戦後は、混乱した戦争の後処理で民族闘争時代だっ
た。アジア・アフリカの植民地で、支配国である連合国に対して独立運動が激化して、
白人達の頭越しの妄想国境が瓦解していく時代だった。1945年にはインドネシア、ベト
ナム、10月にラオスが、1946年にはフィリピン、1947年にはインドがパキスタンと分離
独立を叫んで果たしている。1948年には2月にセイロン(スリランカ)が、同年ビルマや
、また大韓民国が独立した。1949年には国共内戦で中華民国軍に勝利した中国共産党に
よって中華人民共和国が樹立した。フランスはこうした国際情勢に呼応し、国民の人気
が高かったバオ・ダイ帝を担ぎ出した。1948年6月サイゴンに「ベトナム臨時中央政府
」を発足させ混乱を打開しようとした。大統領はグエン・ヴァン・スアンをあて翌1949
年3月にはサイゴン市(ホーチミン市)を首都とするベトナム国を樹立する。こうして
、傀儡政権のバオ・ダイ政権を唯一の正当な政府と宣言し、ベトミンを徹底的に弾圧す
ると表明した。1953年当時の共産主義者主導の反仏活動が各所で起こり、この中心であ
るベトナムから、周辺国カンボジアとやラオスに波及していた。1954年にはフランスが
仏領インドシナを去り、ベトミンはジュネーヴ協定に従ってカンボジア国内から撤退し
、北緯17度線以北の北ベトナムへ集結した。このため、カンボジア国内のベトナム人の
左翼活動家の引き上げが始まったのである。カンボジア人左翼活動家の中で、フランス
で教育を受けた者の一部はヴェトナムの撤退に合わせてハノイへ逃れたが、ポル・ポト
は身分を偽って密かにプノンペンへ戻った


190: 名無しさんAA:19/09/03 23:30
    歴史の群像     38

 虐殺者で知られるポルポト将軍の幼少期に関しては、「彼は当時の慣例にしたがって
幼時に6年間プノンペンの寺院で暮らし、リセから中級専門学校の電気機械科に進んだ
のちパリへ留学した」と文献の中で書かれている。「私は、ある農民の一家の出だ。子
供の時分は、両親と一緒に住んで農作業の手伝いをしていた。だがその後、伝統に従っ
て、読み書きを習うため寺院で生活した。寺で6年間過ごし、2年間は僧侶になってい
た。」と語ったとされる。しかし、この本名サロット・サルは、一度も水田で農作業を
したことはなく、6歳の時にプノンペンへ送られ、タマヨット派の寺院で1年間見習い
をした後、8歳にカトリックの私立エリート校エコール・ミシェに入学している。6年
間過ごした。入学には、ポル・ポトのいとこで、モニボン王の側室の1人だったルク・
クン・メアクの助力があり王室の縁戚である。プノンペンでは、ロット・スオンの妻、
ルク・クン・メアクと一緒にトラサク・ペム通りの大きな家で、従者付きで生活してい
た。14歳の時にプノンペンの高校の入学試験に失敗、コンポンチャムのクメール人市場
の中にあったノロドム・シハヌーク高校にやっと入学。以後6年過ごす。1948年始めに
プノンペンへ戻り、郊外にあるルッセイ・ケオ技術学校で寮生活をしながら木工を学ん
だ。こうした少年期を過ごすと、奨学金を得て宗主国フランスの首都パリへ留学した。
、グランゼコールの一つであるフランス国立通信工学校(エコール・フランセーズ・ド
・ラディオエレクトリシテ、現フランス国立情報工学校)に入校して2年間の技術課程
を受けて、この留学中にポル・ポトは共産主義者になり、新生のクメール共産主義のグ
ループに参加したのである。このグループは、主としてパリに留学した学生が中心とな
って1950年にフランス共産党内に作られた「クメール語セクションクラス」に入った。
共産主義同盟では異色のクラスで、ポル・ポトには個性はなかった。ただ、この当時か
ら両者の主張には隔たりが大きく、共産主義グループではあったが、その主義・主張は
かなり幅広く、全体としては、共産主義というよりもむしろ反王政派、民族主義団体だ
ったらしい。また、母国の共産主義活動からは遊離し、観念的であった。当然ながら。
フランス人に対する民族観の違いであろう。このグループの中で民族主義とは一線を画
していたのが、ポル・ポトとイエン・サリで、内部機関紙でポル・ポトは「本来のクメ
ール人」というペンネームで、フランス、ロシアと1924年の中国革命に関する記事を書
いている。これを以ってもポル・ポトがこの当時から人種差別的な傾向を持っていたと
推測できる。カンボジアではベトナムに余剰米を売っていたが。国王シハヌークの外遊
中、ロン・ノル将軍により南ベトナム解放民族戦線への米の供給を止めるために、強制
、強制的な余剰米の安値買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる。暴動
鎮圧作戦は数ヶ月間続き、この後帰国したシハヌークもプノンペンの共産主義者達への
弾圧を一層強化する道を取った。同じ頃、辺境部のジャングルに点々と小さな左翼集団
があるだけだったが、ポル・ポトが中国に支援されてカンボジア政府に対する武装蜂起
旗揚げした。又、アメリカ合衆国は、シハヌークが南ベトナム解放民族戦線を支援して
いると勘違いしロン・ノル将軍を支援していて、ここでも米国の強硬策と勘違いが戦争
を拡大させていた。その結果、1970年にロン・ノルはクーデターを起こし、シハヌーク
を追放、ベトナムから中国への援蒋ルートは農民の逃げ場と共にゲリラの通り道として
尾根にづたいに火砲が飛び交った。


191: 名無しさんAA:19/09/03 23:30
    歴史の群像     39

 国名を「クメール共和国」としたカンボジアは、1970年 3月18日、ロン・ノル将軍と
先代のシソワット王の子のエッサラヴォン親王の孫であるシソワット・シリク・マタク
らが、クーデターを起こし、病気の治療のため北京を訪れていたシハヌークを国家元首
を解任して王制を廃止して出来た国家だった。ノロドム・シハヌークの従兄弟であり、
北京に亡命したシハヌークは悩む事になった。シハヌークはロン・ノルを信じていたし
ロン・ノルもシハヌークへの忠誠心から決行を渋っていた。しかしシソワット・シリク
・マタクは人気や信望がないシハヌークの重臣で、シハヌークが敬遠したために政権か
ら遠ざけられ、駐日大使(1966年)などをしている。この男が帰国し強硬に決断を迫っ
た。とされて渋々従ったとされる。70年政権につき71年に病気で倒れたロン・ノル
に代わり首相職を代行した。しかしロン・ノル辞任後、シリク・マタクの首相昇格には
反対が多く、病身のロン・ノルが再び首相に就任して集団指導体制をとることとした。
また72年に大統領となったロン・ノルにより首相に任命されたが、彼と対立し1週間
で罷免された。逃げていた彼に武器を差し出したのは中国だった。ベトナムを超えて、
紛争がカンボジア内戦に及ぶと、共産勢力であるクメール・ルージュの勢力が伸長する
。、クメール・ルージュによると、ロン・ノル大統領、ロン・ボレト首相、ソン・ゴク
・タン元首相、ソステン・フェルナンデス参謀総長らは、「七人の売国奴」と称され、
死刑判決を受けた。シハヌークは挽回を図りポル・ポトと接触する事を決めた。元々は
クメール・ルージュとシハヌークは不倶戴天の敵であったが、ここに共闘関係が生まれ
た。ポル・ポトは元国王の支持を取り付けることで、自らの正当性を主張できると考え
たし、シハヌークは王位よりは王家の家系の断絶を悔やんでいたのだ。1975年 4月17日
、クメール・ルージュはプノンペンを陥落させた。シリク・マタクは数日前に米国への
亡命を勧められていた。しかし彼もまた共産党員であった為同行を拒否した。その後、
プノンペンのフランス大使館に避難していたが、クメール・ルージュ軍が迫りと投降し
た。フランスにも見限られてしまったのだ。こうして直後に殺害された。フランス革命
のレジスタンス教室の共産党達の運命は、フランスの内戦攪乱で領地を再び植民地にし
ようと言う意図や、中国の領地拡大権益南下政策の中で、揺れ動き双方に攻められた結
果だった。ロン・ノルは、イギリス軍がインドに到達した頃からの山岳民族の家系だっ
た。宗教に関わらない傭兵としてこの地に降り立ったクルドのグルカ兵とされる。なぜ
クルドのグルカといわれるか中世以前の十字軍遠征初期まで遡るとされる。ともあれ、
こうしてカンボジアの仏教宗教に帰依したグルカの子孫はシアヌーク殿下などの護衛を
し、ロン・ノルは単なる親衛隊長だった、しかしシアヌークの見込みで抜擢されていた
。日本軍がカンボジア軍のチャム人兵士を養成したが、その一人の将校レ・コセムのよ
き理解者であった。かつて幾つもの内乱となっていた民族や部族の紛争にシハヌーク国
王を説得し、被抑圧民族闘争統一戦線(FURO)の創設に排除でなく支援の方針を取
らせたのも彼だった。南ベトナムのメコンデルタクメールや中部沿海のチャム族、中部
高原山岳民、山岳エデ族、等々の自治・独立闘争において、シハヌークとロン・ノルは
彼らの希望の星であったと言える。ニクソンが対中政策の見直しを決定した1969年に、
ニクソンの内政干渉はこのFUROのの投降・解散であった。1969年のロン・ノルのク
ーデターは、これまでの中米仏の連合軍の協定破綻から来ている。アメリカのアジア圏
再分割案は、インドシナ半島の中国への譲渡のプロセスの中で行われた。これを後押し
する形でシソワット・シリク・マタクが旗揚げしたのは間違いなく、戦時中の中国支援
から移った対共産党アジア支援に約束されたものが実行される。と思っていたのである
。こうして中国周辺国は、日本が引き揚げても尚中国の共産軍国民軍と戦勝国に揺れて
歴史を刻んでいた。

192: 名無しさんAA:19/09/03 23:31
    歴史の群像     40

 ところがしかし、軍事支援はニクソン大統領の中国訪問後ただちに中止され、ロン・
ノル及びカンボジアの反共主義者たちは見捨てられた。亡命していたロン・ノルらを除
いて親中派のクメール・ルージュによって、ことごとく彼らは徹底的に虐殺されたのだ
。これは毛沢東方針と呼ばれる。ロン・ノルに任命されたシリク・マタク元首相や弟の
ロン・ボレト首相も1975年 4月17日のプノンペン陥落直後に殺害された。ニクソン大統
領は国内の人気取りに共産党排除をやめたのだった。1970年11月18日にニクソン大統領
は、カンボジア政府への援助金1億5,500万ドル(8,500万ドルは軍事援助)を連邦議会
に求めた。ロン・ノル政権は、シハヌークの中立政策で展開していた。北ベトナム軍と
ベトコン追放の名目でのニクソン政権を頼り、資金援助とCIA技術支援を受け取った
のだが、それでも中国支援のクメール・ルージュの攻勢を止めることはできなかった。
1971年4月20日、国会により元帥に指名されて、1972年3月10日に国家元首に就任したが
彼の心は憂鬱そのものだった。同年 3月13日に大統領に就任した。ロン・ノル政権にな
って以降、北ベトナム・クメールルージュとアメリカ・南ベトナムに支援された政府軍
の内戦は本格化し、人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大され、数十万人の農民が
犠牲となり、さらに難民が 100万人以上都市へ流入し、食糧輸出国であったカンボジア
は食糧輸入国に転落した。共産勢力が迫る1975年4月1日に、ロン・ノルはカンボジアを
出国し、インドネシア経由でハワイへ逃れた。その後1979年にカリフォルニア州フラー
トンに移り住み、1985年に死去した。カンボジアの毛沢東方針は、原始共産主義の生活
が一番だとポルポトが示す事と主張している。原始共産主義------つまり宗教や学問、
経済や芸術等の西側諸国のあらゆる習慣に一切妥協しないカンボジア共産主義国の建設
である。つまりは人間が築いてきた学問・技術・宗教といったものを否定したのだった
。なぜこうまで中国は共産主義の賛同を求めたか。実は1953年にスターリンが死んで、
ソ連国内も東欧もスターリンの路線の否定(1956年〜)に路線変更して政治を行おうと
していた。しかし毛沢東は、こうした改革路線は共産党の危機であり、それ以上自分の
地位の危機だった。市場仕組み導入を求めて、周恩来やケ小平の活躍でせっかくの経済
浮揚が文化大革命で沈み、徹底して中国国内の知識人を叩いていて、その一部が大陸の
援蒋ルートで脱出していたからだ。こうしてソ連のスターリン批判に同意せず1960年頃
から中ソの対立は鮮明になって行った。東側陣営(共産主義圏)もソ連陣営と中国陣営
に分かれて対立していたのである。その後も中ソは国境紛争もあって戦争一歩手前どこ
ろか、小競り合いの紛争を繰り返すようになった。つまり中国の国境なき共同生産革命
と国の威信と境界を規定したソ連の戦いだったのだ。カンボジアに国境を引かない。と
これが中国の狙いだったのである。そのためにカンボジアの知識人が殺害されたのだ。
いまでも中国人の国境意識は薄く、一帯一路政策はその中国人の意識に沿った形であり
、西洋の権利や人権あるいは境界や規則と言う歴史から学んで作られた洗練された意識
は全くない。歴史はこれから作っていくもの、中国はこれまで通り天子様以下平等にあ
った社会で境界も権利も自分達の決めるもの。今は中国共産党の下で自由に何でもでき
る。出来なければ戦争するまでだ。と勘違いしているのである。そしてそれに朝鮮人も
なびいていて韓国などは民主主義を民衆主義と認識しているのである。


193: 名無しさんAA:19/09/04 12:51
    歴史の群像     41

 ポルポトの運命や性格は、ベトナム戦争で数度にわたり組織の名称を変えて戦った時
に遡るのであろう。日本が敗戦まぎわに援蒋ルートを叩いて日本軍はビルマを抑えよう
とインパール作戦に向かったのだが、このインパール作戦も援蒋ルート叩きの一環だっ
た。1942年(昭和17年)10月に入ると日本海軍の敗戦結果として海の防波堤は消えて、
物資の補給すらままならない状況だった。イギリス陸軍は日本軍への反撃が開始し、イ
ンド洋と太平洋での英軍と米軍の協調で戦闘が激しくなった。そこで、日本陸軍は防衛
体制の刷新に迫られ中国のモノンハン事件に集合した部隊を南下させ、当時の失敗した
幹部連中を最前線に置いた。1943年に河辺正三(かわべまさかず)中将を方面司令官に
したビルマ方面軍が創設され、所属部隊の第15軍司令官に牟田口中将が就任させたのだ
。こうして南方がビルマに集中される頃カンボジヤやタイや中国国境沿いの峠道が新た
なルートとして開拓されていった。この頃から中国国民党軍と、越境した兵士を迎え討
つ日本軍と対峙していた英軍グルカ兵との交流があった。知っての通り日本は中国を単
に石油などの南方資源輸送の通り道であり、占領や支配する意図がなく、基本的には、
国民党軍はそのアジア共栄圏の仲間として中国大陸進出を果たしていた。しかし残念な
がら中国側は北伐作戦で既に毛沢東の国共合作に取り込まれ日本こそ悪玉と盧溝橋事件
や南京事件堤防爆破など数限り起こっていたのである。こうして敗戦後連合国の一員と
してベトナムに進駐するが、中国共産党にはその力がなく進軍支援をこの山岳民に頼り
共産党軍が侵攻した。こうしてカンプチア救国民族統一戦線( FUNSK ) は、政治的に
はマルクス主義政党カンプチア人民革命党(KPRP)の包括的組織の中にあり、基本では
民族主義独立闘争であった、1977年、こうして共産党下部にクメール・ルージュを組織
しポルポト派はカンボジア東部で血の粛清を行った。しかしこの中身の幹部は暴力共産
党であり中国人であった、仏教徒ではなかったのだ。いまやビルマいやミャンマー政権
で中国との国境沿いが一帯一路で開かれようとして、そこにいたイスラム教やヒンズー
を追い払う作戦に出た。そうしてロヒンギャ難民が出て国際問題化している。しかし、
彼らはロマの民族同様に海洋の流浪者の末裔で、実質上はミャンマー民は山岳の民とし
てグルカ兵の子孫と合流してるが、それより古くから海辺の墓守りあるいは水守りとし
てこの地に暮らしていた民である。貝や魚で筏によって暮らし、年老いては陸に上がる
。そうした部族で財産を持たない民だった。宗教が今やイスラムだが、彼らは仏教にあ
る帰依や奉仕あるいは報公や布施ができるほどの豊かさは持ち合わせていなかったのだ
。それは海と天候にある。つまりどんなに栽培しようが長雨や台風の影響が大きくて、
細々としか暮らせなかったのだ。また海岸も常に浸食と土砂崩れの間にあって引っ越し
も多く村も大きくはなれなかったのである。こうした民を、中国流の清野作戦で一部の
中国系帰化民の政府軍兵が焼き払いと捕縛・強奪に及んで人々を追い払ったのである。
これは単純明快に中国のガスパイプラインと石油供給ルートの策定から邪魔だったから
である。マラッカ半島を渡って供給するより遥かに近く、又米国の監視を割いて安全に
供給出来るからである。しかし、そうした国策で難民となった人たちはウイグルやチベ
ット同様に何も悪いことをしていない無辜の民たちで、国民を保護する事に向かわず、
異国の悪行と共に共謀し排除に向かうとは、既に国の体制を持っていない。



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