熱血高話


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熱血高話

1: 名無しさんAA:10/11/25 19:06 ID:s6
私は書くぞ どんどん書くぞ ひるまないぞ!!!
老人のくそ力を見せてやる。


2: 名無しさんAA:10/11/25 19:15
やばいぞ日本


先月の「日本の、これから」で、韓国人の若者の意見が盛んに述べられて、日本人の
若者は殆ど反論が出来ませんでした。NHKがアンケートで審査していたことが明らかに
なっていますが、それでも、日本の若者は日韓併合の裏について、知らなさすぎる
と思います。ハングルが日韓併合後に広まったことや、従軍慰安婦の証拠が出ていない
ことすら、知らないのです。韓国の日韓併合以前の公文書なんて、殆ど漢文ではない
ですか。創氏改名強制もでっち上げです。日本が韓国でインフラ整備に腐心したこと
すら、知らない。ただ、「日韓併合で韓国は苦しい思いをしたらしい」くらいにしか
思ってない。私は韓国に対して、酷いことをしたとは思っていません。何故かと言う
と、植民地支配はヨーロッパによる大航海時代から当然の様に行われていたことで
あり、誰も悪いとは思ってなかった。韓国にも言い分はあるだろうが、日韓併合条約
も国際的に認知された条約なのです。だから、日韓併合は私は悪だとは全然思いませ
ん。何故日本人が歴史に疎いかというと、理由の一つに教科書がおかしいことですね。
これについては論をまたないと思います。二つ目に、教師がおかしいことですね。
教師も近代の歴史をあまり、学んでないようです。従軍慰安婦の証拠が無いことも
知らないのですから。私の大学の教員も「日本の戦争は全て悪」「南京事件はラーベ
日記で証明されている。」「日韓併合で韓国の近代化が進んだなんてウソ」等々、
若者なら騙せると思っているのか、本当に知らないのかはわかりませんが、教師が
これではどうしようもない。中には良い先生もいましたけど。とにかく、日本の歴史
教科書には近代の歴史の増量が急務です。教師が歴史は答えは一つではないことを教
えるのも、大切です。日本の歴史教育は全面的に見直されなければなりません。


と 誰かが書き込んでいた。私もそう思う 君は思わないかい。


3: 名無しさんAA:10/11/25 21:52
自民党批判35

 みんなの党も自民党も馬鹿ではなかろうか。この北朝鮮の襲撃事件は異様な事で
北朝鮮は表向きは韓国を向いているが 本心は打倒日本に他ならない。それは中国
も同じで中国のミサイルも北朝鮮のウラン濃縮も結局は形の上も実質も日本に向いて
ある。これを止める術はない。そもそも自民党時代にそれを膨らましたのではないか
今 中国首脳部は日中友好に頭を抱えていたとしてしても そうした嘘の歴史を教え
てまでも日本を恨ませて 国を一つにしてきた事は 今日本が衝突映像を出さないで
いようと画策した事と同じで 国民を信じていない事の表れであり 共産国が多かれ
少なかれ そうした鬱積した不満を 国外に逸らそうという行為はある。日本の多く
の馬鹿経営者は その行為が共産国で突出してあって国内法や常識が日本と全く違っ
ているのも知らず 間違えた経営判断をしている。とはいえ 今だ北やロシアがたき
つける日本占領政策に躊躇してるのは 日本企業の下請けや従業員などがいて 経済
損失と北の難民が溢れ 国内事情が悪化して自らの政権の足元が掬われる可能性が大
である事である。かつての戦争の歴史からみて 大国はすでに勝った時の領土支配ま
で結んで事を起こしている。こうした共産国の不穏な動きを招いているのは 他なら
ぬアメリカの理由なき アフガンとイラク戦争に他ならない。アメリカはすぐさまで
もブッシュを法廷に招いて何らかの謝罪や責任やあるいは釈明がなければ 国際的な
この動きは止まらないのではないだろうか。

4: 名無しさんAA:10/11/25 23:54
 今流33

 小沢氏裁判で裁判所は 裁判停止の要望に対して 却下しその判断を刑事裁判に
向けた これまでも自衛隊違憲裁判で 高度に政治判断を要する裁判では判断を示
す事無く終わり 田中角栄の外為法違反では 事後にできた法令を下に裁判した。
こうした裁判所の 正義なき方針は 公務員の事なかれ主義とともに大きく批判さ
れるべきであろう。裁判所が独自の倫理感をもって判断することは決して違法では
ない。いや違法というよりは それこそが正しい判断のはずだ。そもそも政府でも
議会でも民衆の心理や流行でも 決して正しく動いてはいない。今回の韓国砲撃も
撃った兵士はおろか 北朝鮮自身すらも 大きな時流や枠組みの中で仕方なしに行
った行為であるのかも知れない。だがそれを止め時流を正義に戻すことが裁判や人
の道徳心である。徳川時代 子供には悪いものを 見せない聞かせない言わせない
として育てる事を 未来への方針として真実を築いて生きた。言わば日本は水槽の
金魚のごとく 醜悪な国際事情と離れて 獲物を狙うかのごとき動きと離れていた。
が 中国ではそうした中で日本への敵愾心を植えつける事に成功した。だがそれだけ
中国に裁判所という権威ある公平組織がなかったから出来たと言える。もし裁判所
がその権威と誇りを持ったものであれば この停止の要望は受け付けるべきであろう
。限りなく黒に近い白を判断した事を考えれば それが時流に流されず国民の良心
を指導する道ではあるまいか。

5: 名無しさんAA:10/11/27 01:55
 日本のこれから 109


 実は、既に米国の産業界では既に中国抜きの戦略が始まっているとも話す。例えば
次のような具合だ。
 「米国はもはや中国を世界の工場とは認識していない。賃金が急速に上昇し始めた
中国で物を作っても国際競争力はない。しかも中国で作る製品は欠陥だらけで、中国
以外の市場では通用しない。米企業は中国での生産は中国市場向けと割り切り始めた」
米国の経営者も消費者は中国産の製品や食品には手を出さない
 「中国に最先端の設備を導入すれば必ずと言っていいほどコピーされ、すぐにライバ
ルとなって米企業に立ち向かってくる企業が誕生する。とりわけ先端的な製薬メーカー
などでその危機意識が高く、技術移転も工場の建設にも二の足を踏んでいる」
 「一方、米国の消費者はスーパーで手に取った食品に中国産のラベルがついているの
を確認すると、ほとんどの人がそれを棚に返す。安全性に問題があると信じているから
だ」 そしてマルムグレン氏が言うには、「賢明な米国の経営者は、中国があと10〜15
年で中国の人口は減少に転じ、その前から急激な少子高齢化が始まっているのを知って
いる。50年後を見て投資できる国ではないことも」。
 そんな米国の経営者は中国を通り越してインドに目を向けているという。

 中国はガラパゴスで、日本がイースター島
世界第2位、3位の経済大国が向かう哀れな結末2010.11.27(Sat) 川嶋 諭 から

6: 名無しさんAA:10/11/29 02:45
民主党批判 53

 鳩山氏は かつての叔父がした過ちを あまり理解していない。シベリア抑留者の
多くの人たちを救った功績は多大なる事はあるが だがソ連での労働者であった証明
の発行をしなかったのである。鈴木宗雄はこの事を知っていたし 前橋本首相時代に
この証明を話し合われて合意に至った経過があるはずなのだが履行されてない。
 旧ソ連が行った惨劇は 全くあのヨーロッパにおけるユダヤ収容所やカチンの森で
の事件よりすさまじかったと言われている。というのも ドイツが行ったものや同じ
白人としての扱いは 同じ悲惨であってもレンガ作りの家で充分な食料を受給されて
いたが 捕虜や拉致された日本人の悲劇は 穴のある木造の掘っ立て小屋での一切れ
のパンの支給による過酷な労働であったからだ。今のシベリア第二鉄道通称バム鉄道
の大部分は 日本人で切られた木と日本人が掘った土によって出来上がったと言われ
る。
 その間逃げ出して来たシベリアからの帰還民は50〜100万人はいただろうと言わ
れていて実際の数字はわからないままである。その中で知られているだけで40万人が
既に高齢で死んでしまい今や一割程度の4万人程度がその全貌と謝罪を求めている。
自民党時代に パンドラの箱を開けて藪をつついて蛇が出る事を恐れて蓋をした結果
 そうした正確な実態と数字がないのである。がそうした生存者の多くは 捕虜とし
て一年目に6割が死に二年目には八割りが死んでいった為にその場を逃げたと証言する
。つまりは少なくみても250万人程度が 終戦となって部隊ごとあるいは部落ごと
連行されていった事になるのだ。


7: 名無しさんAA:10/11/29 03:04
民主党批判 54

 もちろん この数字は多いか少ないかはわからないし 又 女真族といわれた一緒
に住んでいた満州族つまり北方朝鮮族の人たちもいるのかも知れない。がそれでも
今回やっとやってきた メドベージェフ首相に管氏は会談をしたのだが こうした
事に全く 官邸や政府特に外交を司どる外務省が言及していない事は かつての関東
軍だと威張りながら 良いように人を配置して内乱と敗戦とを起こした軍部に似ていて
悲しいものだ。もし本当に国民を守る気概があるなら あるいは国土を愛して亡国の
民となることを危惧するのであれば もう少しやり方があったのではないか。ロシア
との問題は何も北方4島に限った話ではない。経済協力しようにも途中で難癖つけさせ
られたり 中古市場では違法積み込みの上で出航したり共産主義をすてなかったり
終戦日を変えてまで正当化を計ったり かつての拿捕やそうした終戦後の混乱時の
ドサクサにまぎれた火事場泥棒を働いた過去を 謝罪しなかったりである。われわれ
日本人はそうした違法行為に保障しろとは言わない。だが歴史認識はひとつにして
今後の過ちのない世界構築を考える手立てには 手を打たなくてはならない。


8: 名無しさんAA:10/12/05 10:07
民主主義が立ち往生している。それはブッシュのアフガンやイラクたたきやったから
ではあるが それは個人まで影響している。つまりは情報の精査をだれがどうやるのか
が問われている。個人も国家もすべてが 足かせとなった道義的責任が 国際社会で
はもとより こんな律儀な日本でも起こっている。
 今回の国会論議でも 野党は国家公安員はどうしてたどうすべきだったという過去
の話で諌めるが 将来どうあるべきだどうすべきだという建設的意見はない。また
諌められる政府も これでは日本が立ち行かないほど 貧弱な議論の元にいて 本人
である 政府要人も国会改革して 幅広い意見のもとに集約を図るという作業をして
いない。小沢喚問にしても 彼は法律の抜け穴はくぐっても違反はしていなだろう。
と思われる。だがこれが悩ましい問題でもある。
 海老蔵事件にみるように 本人は痛ましいほど傷つけられていても この喧嘩を
誰も 当たり前の話とは思わない。酒に酔うことは人間である。だがその酔い方に
極めて異常があったとしても それは本人の自覚でしか補正はできない。北朝鮮が
乱暴で中国が横暴でも 人は諌めるだけで実力行使はできないのが実情だが だが
それは皆でわたれば怖くない赤信号も 将来がなくなる話で地球が悲鳴をあげるだけ
の話で 海老蔵が酒を飲んで悪酔いしても 禁酒法を作れとは言えない。本来なら
破門されて当たり前のこの事件でも 異様な歌舞伎界はたぶん処分はしない。あの
市川氏が忙しさにかまかけて自らの躾や教育しなかった事を露呈する事になるからだが
 が これは市川宗家のみならずこの悪循環は 日本社会いや世界中で起こっている
それだけ 指導者が力量不足というよりは個人の人間のいわれなき批判性弱肉強食と
いう本能が 人間同士の戦いをするよう神が仕組んだ罠にかかろうとしているように
みえる。


9: 名無しさんAA:10/12/05 10:13
つまりは 今世界中で再構築されるべき 道義的責任や
道徳や倫理観が必要視されているのであるが ここに又
共産党やら創価学会やらオウムのようなものの付け込む
手段があるので 厄介だが自らで自らの頭の中でこの道徳
を考え実行しなければなないし そうした人を選別して
付き合わなければならないのである。


10: 名無しさんAA:10/12/05 10:19
この電算化社会で一番の厄介な問題は この自分の足で考え自分の手で作り自分の頭を働かせ自分の言葉でしゃべる事がなくなりつつあることだ。昔まだ電話に記憶機能がなかった頃は人は間違いを繰り返してでも相手の番号を覚えてきていた。89のタバコ
屋のおばあちゃんはつり銭を間違わず計算していた。いまやボケ
対策は生活から医療の世界に移ったようである。ボケた脳は個人
から国会や世界の若者にまで移っているように。

11: 名無しさんAA:10/12/05 16:12
ウィキリークスの抱える最大の矛盾

ウィキリークスが公開したイラクのバグダッドで2007年7月に米軍の攻撃ヘリコプタ
ーが路上の人びとを銃撃する様子を空撮した映像〔AFPBB News〕
 超大権力の重大犯罪を言うから、主敵は一にも二にもワシントンである。アサーンジ
に従う限り米国は犯罪者集団であり、裏で何をしでかすか知れたものではない国だ。
 ウィキリークスが抱える最大の矛盾を、ここに感じる。

 ばらしても撃ち殺されない自信が持てる体制にぬくぬく生きている告発者から
さんざんリークを頂戴する代わり、すぐさま投獄される中国、一族郎党露頭に迷う
だろう北朝鮮、ネット接続環境自体なきに等しい国、しかも悪政はびこる国だとかから
は、滅多なことでネタをもらえない一事にある。
 民主主義の国、言論の自由が手厚く守られた国ほど、ウィキリークスに狙われやすい
。そのウィキリークスはサーバーをこれまた自由と民主主義の国に置く。よもやロシア
や中国に置こうとは思うまい。
 しかも彼が信奉する正義とは俗情との結託である。公電暴露が窮地に追いやるのは
外交というプロフェッションであって、この先外交官は電報に重大事項は書けなくなる
恐れすらあるけれど、ウィキリークスが今後続々明らかにしていく米国の公電を誰より
熱心に読むであろう集団も、ほかならぬ外交官たちであるに違いない。

アンチ権威主義者の真の姿は、至高のエリート主義者
 覗き趣味の奨励でなくて、何であろう。

12: 名無しさんAA:10/12/08 06:03
いま 日本において国民を不幸にしているのは 国・地方を問わず公務員の違法な
振る舞いであろう。もちろんこの公務員というのは議員や独立法人も含めての話で
ある。そしてその最もたるものはその資料の廃棄である。建築や都市計画はいうに
及ばず配布される国民向けのパンフレットとも全くその時には説明をしながら今や
 何ら資料となっていない現実に唖然とすることは多い。それは各小中学校や高校
の図書館の本や目録さえ汚いと理由だけで簡単に廃棄し処分されている。
 こうした現状を踏まえると 公文書の100年保管とすべての発行ないし届出される
全てを公文書として決め その上にその保管処理を行うことが必要である。つまり
そうした法律処理や運用こそ大事で 議員がちまちま小さな法律論や行動批判を
やっている場合ではない。
 更に今盛んに新耐震をやっているが実は新耐震以上に新たな用地確保や石綿被害
などの調査がまだ未完成にある。つまり建物の補強よりは より詳しい現状把握と
その解析が必要である。更に国会答弁にいまだ次官クラスの本来の国の姿勢や方針
やらの答弁がなされていないのは 極めて違憲であり 政治は議員の為の議会では
ない。政治とは官僚の行う公務事務に 市民の送る監視の為の代理者である議員が
 議会という開かれた公的な国民の見える形での会議で意思決定を図る事なのだ。
国会対策会議やら何がしかの与野党協議やら執務自治体やらが報道機関を締め出し
て 決定や会議していることは ほとんど異常であり違法なのであるのだ。



13: 名無しさんAA:10/12/10 07:11
[ソウル/東京 9日 ロイター]

 新華社によると、中国の戴秉国・国務委員(外交担当)は9日、北朝鮮の金正日
総書記と平壌で会談した。新華社は戴国務委員と金総書記が「率直な」話し合いを
行い、朝鮮半島の危機について見解が一致したと伝えている。
 「両者は率直かつ掘り下げた話し合いの後、二国間関係と朝鮮半島情勢に関して
見解が一致した」という。 
 また、北朝鮮国営の朝鮮中央通信社(KCNA)は「(北朝鮮と中国)両国間の
友好的で協力的な関係を発展させることと、一連の共通の関心事項について協議が
行われた」と報じた。

 どちらの通信社もこれ以上の詳細は伝えていない。


14: 名無しさんAA:10/12/19 11:59
管政権は 今や風前の灯状態であるかのようだ。マスコミは色々言ってはいるがこの
マスコミの暴挙も 今回の市川家事件の発表のように 憶測で発表し物事を動かして
やまない。その抽著たる例が ニュースバラエティでの若手議員のコメントであろう
勉強不足と議員権力の中に言いたい放題で批判している。いわゆる小沢派議員の中に
は 今回の小沢事件をまるで他人事のように庇護し 違法性がないと言い切る議員が
いる。はたして政治とはそんなに軽いものなのだろうか。名古屋の議会解散要求でも
選挙管理委員会は 政治的中立を記した法文を読み上げる。一体どうした事か。法は
あくまでも 中立性と厳格な運用の手順を記したに過ぎない。小沢氏問題も大本の内
容すなわち 金と政治の有り様を規定したに過ぎない。日本国憲法もすべていわゆる
法律とは あくまでも言葉にした共通認識であり 本文はその運用精神にあると言え
る。一般の臓器提供カードが否定カードを持たなければ 移植可能とする法案を国会
議員が党派を超えて賛同した。PS細胞を発見してるにも関わらず こんな馬鹿げた
臓器移植法案を可決する事ができるのなら 今の北朝鮮対策に力を注ぐべきであろう
。管内閣も沖縄問題担当大臣には鳩山氏官房長官に小沢氏法務大臣に仙石氏霞ヶ関の
改革に河野氏さら行政改革にみんなの党から北朝鮮問題に阿部氏といった 全く新し
い内閣の姿が 必要であろう。日本の為に党派を超えてという名目の元で


15: 名無しさんAA:10/12/20 02:18
 歴史にもしも というのは禁句とされている。だがそれを押して尚もしもと言わせて
いただくなら 中曽根以降の進めて来た制度改革や社会観念が放置され国会論争がから
回りしていたなら 日本はもっと素敵なままの国であったろう。と思われる。われわれ
がともすれば 江戸時代あるいは明治時代や大正時代といったとき そこでぷっつり切
られた新時代が幕あけたように思いがちだが 人々の生活というのはそうそう簡単には
変わらないし 考え方や価値観がかわるのは そうした天皇や国家像よりは革新的技術
や戦争などの世情的な流動によることが多い。というよりはそれこそが歴史を変える。
 おそらくは戦後世代とはいうものの 明治政府が打ち立てた日本像という言葉や文化
やイデオロギーは昭和の時代まで裏では脈々と受け継がれてきていたものであろう。
 かつて 暴走族やらヒッピーやら竹の子族やらと言われていた時代は そうした過去
の遺産である家やつながりや文化や生活態度や習慣やらが忌み嫌われて政治家が時代に
呼応して あたらしい方針を官僚と共に打ち立てた時代であったのであろう。仮に動か
ずそのままでいたら 無駄な瀬戸大橋やら大店法改正やらあるいは金融ビックバンなど
の行財政改革は全く進まなかったろうし 日本の財政規律は守られても おそらくは
最貧国のままの世界に陽の目を見られる事も羨望される事も 袋叩きのような金蔓国家
にもならなかったであろう。しかし かつての住み着いた西洋人が言うように賞賛と賛
美の嵐の中で 住む環境もまた過酷ながらも平和で律儀な国民性を携え中国が台頭して
くる事もなかったと思える。が 既にここまで来て日本こそが人類の進歩のさきがけと
ならんこと という気概をもって進む事を ためらっては 平和が止まるであろう。つ
まり国際的にも この進んできた道を悔やんではならない と言うことに他ならない。
以外にも日本人は悲観的になりがちであるが 子供手当てよりは 将来を担う青年や若
人をしっかり育てる事に金をつぎ込むべきで そうすればまだまだ楽観できるのでは
ないか と思う今日この頃である

16: 名無しさんAA:10/12/22 01:40
運輸省は20日、トヨタ自動車(Toyota Motor)が実施した2件のリコールについて、
合わせて3242万5000ドル(約27億円)の制裁金を支払うことで合意した。トヨタが
ことし支払った制裁金の総額は約4880万ドル(約41億円)に上った

これは 豊田の馬鹿社長という役を中国人 張さんに預けた為である。日本人なら
誇りをもって 自社の車が安全であったと言え そして裁判で戦うべきだ。
いわれの無い因縁に脅かされるな。良いじゃないかアメリカで売れなくったて
性能の悪いアメ車に市場を譲ってやって 資源の浪費をさせても。


17: 名無しさんAA:10/12/26 07:56 ID:v.
かつて ソニーは 家庭用ビデオについて 個人的主権の侵害あるいは著作権侵害
などとと いわれの無い非難と裁判を受けた。それでも かの企業家精神はひるむ
事はなかった。音楽にテープがありダビングして聞くことが出来るように 映像で
出来てもおかしくは無い。と更に8ミリフィルムも 大掛かりではあるがダビング
が出来ないわけではなく 単に手軽になっただけだ。とアメリカ政府や公的機関を
相手に 単独でこれに違法性がない事を堂々と戦ったのである。これに比べVHS
の後発メーカーは それを支援しなかったどころか 新たな規格としてソニーに対
し対坑した機器を発売しだしたのである。もちろんビクターが映像の先駆者として
のそのプライドを捨てて 多くのパテントのある心臓部を公表し公開したことには
賞賛されることではある。しかしである これは経団連あるいは経済同友会の様な
クラブの本心が試されたものである。そして残念ながら 日本の経営者連中はその
行為に無頓着で正義を広める行為を行わなかったのである。今回のトヨタの事件も
日本人としての誇りがあるなら その車は欠陥車でない事を証明し 裁判すべきで
あるしまた 欠陥車を売らない事へのこだわりはあるはずであろうし まさしく正々
堂々と大手をふって戦うべきである。妙に経済やら将来の利益にこだわっていては
まったく日本人の恥さらしである。アメリカには 車に積んだ日本製のOSに非常
に関心がありその公開を求めているだけで シート下のマットがアクセルに当たる
事などで 事故が多発したとするのは大きな誤解と非道である。
 

18: 名無しさんAA:10/12/31 01:35
 NHK 僕はロックで大人になった。を見た なんとひねくれた題名だろうか。
が 内容は忌野清志郎の物語であった。が 魅入ってしまうほどの出来だった。
なぜ 素直に忌野清志郎に捧ぐとかそのロック人生とか。新たなるロック歌手とか
しなかったのだろうか。結構堂々の映像が多く 魅了する番組であったが その感傷
もつかの間 すぐさま忌野清志郎ゴッホに会う などと忌野氏の特集らしいが
これがいけない。このHNKのやり方が全く気に食わない。ファンの為なのか視聴者
の為なのか ついていけない。が そこまで立て続けに年末に見る気はしない。
そんな愚痴はさておいて この本名栗野氏という人は 何とも奇才であり達観者でも
ある。誰もが持つ少年の青春の迷いの中でレコードを出すという快挙を行い 恵まれた
偉業の中にありながらも その清純さゆえに純粋に押し通して なかなかの苦労をし
その後やっと成功を掴んだという 何とも奇妙な人生の人であった。
 彼の「僕の先生〜〜」って歌を知ったのが高校生の頃だったから きっと同じぐらい
の年齢だったのだろう。あの頃のロックと言えば 宇崎竜堂とか矢沢栄吉などがファン
を掴んでいたし フォークの世界では 「バラが咲いた〜」以来GSバンドからの
独立した個人だったり 盛んなフォークの目白押し状態で団塊の世代の有名な人達の
中にあって 彼の新しいジャンルだろう「新和製ロック」とも言えるものは陽の目を
見ることは あまりなく 井上陽水や吉田拓郎などの前座さえやっていたという。
しかしながら ある時 不調のまま舞台にあがり歌ったのだが 聴衆はのりに乗って
いた。そこで彼は悟ったらしい。この人達は詩や曲を聴き来てはいない。俺らの
エンターティナーとしての歌を見に来ているのだ。と それから金髪に腕輪をはめて
派手な服 そして凝った演出を行った。そうしたまるでアメリカ映画を彷彿させる
ような筋書きで そうした彼のを自分史を写していた。彼は惜しい逸材であったろう
が 一つだけこうした成功した人達の失敗がある。近年の多くのそうした偉人にある
ようにそれは次の人達を育てていない事である。つまりは かれの哲学と詩のつくり
と音楽感覚さらには その努力の光景などが 後世に伝えれない残せないのである。



19: 名無しさんAA:10/12/31 18:48
もし 管総理が政権浮上を目指すなら 秘密裏に韓国とホットラインで対北朝鮮問題
を話あうべきであろう。今年の冬将軍は かなりの猛威を振るう可能性があり 死者
の数は おそらくは餓死者や凍死者・自殺者とうなぎのぼりに増えて 人の生活は
出来ない様がおきるであろう。そして今回の砲撃問題は その予想を見越しての行為
と見ることができる。問題はこうした中で体の弱者に病気が多く出るだろうと思われ
ることである。川が凍りつけば 中国への避難民は劇的に増えるかもしれない。そし
て まともな国民が次々と離れ 更に悪化した経済を持ち悲惨な現状に冷酷な意識を
もった 狂気国家が強く結束するかもしれない。だが 日本や韓国は恐れてはいけな
い。問題は中国の出方である。中国に 北朝鮮の現政権の降伏と韓国への編入を促す
決意があれば 事は平和裏に 彼らを国賓クラスの重臣として 韓国で保護出来るだ
ろうが 中国やロシアがその領土を虎視眈々と狙っているとしたら 姑息な大統領 
メドベージェフに かき回される恐れがある。 が米国は 恐らくはこの核戦争前の
ここ1・2年が この朝鮮半島から起こるであろう 世界大戦の前触れを防ぐ手立て
がない事を肝に銘じるべきである。限定的にでも ウラン濃縮ができ核実験の体制が
出来上がれば それはイランをはじめパキスタン・イエメン・南米・アフリカなどに
急速に 広がりイスラム原理主義教徒の 思う壺となるであろう。こうなっては
もはやアメリカの権威やヨーロッパの知恵あるいはアジアの経済力を全て合わせても
戦争の機運に立ち向かうことはできない。
 



20: 名無しさんAA:11/01/04 00:20
 P・P 2

 とりあえず アジア経済は今のところ落ち着いている。しかし日本浮上の切り札は
いかに中国と離れるかにかかっている。今までの歴史において 中国のような昔武芸
者つまるところ 地理に恵まれた大国がうぬぼれて強気しか言えない強情張りの強欲
国民と付き合って日本がいい事にあった試しはない。聖徳太子時代に隋に日の出ずる
国からと書いたとして生人を貢物として強要されたし 江戸幕府においても大陸の弱
さゆえに琉球王国は荒れに荒れて薩摩の庇護に陥り 日本は黒船来航で幕府は滅んだ
さらに明治政府に至っては イギリスに下手な外交をしてその政権が奪われた事から
日清・日露の戦争に陥ったのである。その後も日本が植民地解放を叫んでいたにも関
わらず 欧米についていきながらもあの手この手で八方美人外交を行い最後にはソ連
にアジアの実権を譲り共産化を許した。その為に自らの国が分割されていながらも 
その統一を話し合いで図ろうという気はいまだになく 戦後すらベトナム・朝鮮にと
出兵しては逃げ帰って 大国の後ろ盾がないとみるや どうゆうわけか敵対もしてい
ないウイグル・チベットを殺戮のうえ実権を奪った。国際的に許されない行為と台湾
などが叫んだが ベトナム戦争やアフガン戦争中東戦争にまぎれて 米ソ大国にはそ
の平和維持への体力がなかったのである。またそれを利用してきたのである。こんな
姑息な国と外交関係を田中元首相は国交回復をしたのだが 中曽根の馬鹿首相はそれ
に輪をかけてODAを奮発して軍事国家を応援したのである。当時の社会党が外交で
暖かく隣国と接すれば 日本の窮地に助けるはずだと なんの根拠もない平和主義を
受け入れて・・・である。結果自民党はそのまま 中国脅威論を取らないなどとボケ
た外交の中で 今では軍事どころか 政治・経済・領海・技術・パテントとあらゆる
分野で違法的盗みを助長し敵対日本心をあおりたてることに寄与しただけで なんら
日本にも世界にも 全人類の頭痛の種でしかない始末なのだ。それは国民が悪いから
国家が悪いという事を 全く無視した日本流の虫のいい言葉で対応して来た結果に他
ならない。


21: 名無しさんAA:11/01/04 00:56
P・P 3

だが ここで日本人ならめげてはいけない。世界は日本のもつ情愛の念を求めている。
それが証拠に 活花・柔道・茶道・すし・ラーメン・刺身・醤油・相撲・アニメ・
ファッション・モード・車・最先端技術・米・その他 色々の文化が今や世界中に
広がり 特別有色人種という地位は いまだもって衰えてはいないはずだ。下駄や
傘あるいは酢やわさびに至るまで まだまだ日本人から世界の人類に送るものはある。
 問題はその方式とその単価である。今経済状態が悪く世界に発信できないものが
数多くあるだろう。それでも 日本人の精神と教育さえしっかりあれば 日本人の
今まで行って来た努力は生活そのものであり なんら世界に劣るものではない。
 ここに来て今まで ゆとり教育など言ってはうぬぼれたあほな授業が省みられて
すこしまともな青年が育ってきているようで 今の若者の派遣村や路上生活者らが
少しは減るであろうと思われる。もちろん 中国やアフリカやその他の後進国の台頭
によって 地球規模の異変はかなりの大きな激震が起きるであろうが すでに日本
の技術はそれに対応すべきものを持っている事は 間違いない。問題は政治の力が
それを掘り起こし 正確に間違いのない進展をさせることだが 現政権の悩みの種
は 多分にそうしたもの発達発展と同時に 強権的にもより的確な弱者救済を行う
事にあるだろう。その為にには 国民が今考えている今のねじれ国会という現実が
実は一番まともな二分国会である事を国民に知らせる事であろう。今は遅きに失し
たような感があるものの それでも その国会改革なしには公務員改革はない。
つまり 国策が政権交代で揺らいでもそれでも他国からは 一本芯が通った流れの
中に国が進んでいる事であることが大事なのだ。その為には出来るだけ早く民主党
の出したマニフェストの撤回を民主党全員が決定し更に新しいマニフェストを作る
事が大事となるであろう


22: 名無しさんAA:11/01/04 12:00 ID:g.
P・P 4

 あいも変わらず 年頭から小沢氏の政治資金問題の応答である。首相は少し身を引き
発言したが良いし 記者も記者である。総理といえども神でもなければスーパーマン
でもない。と言うことは 今後の行方は 総理の意向いかんに関わらず 小沢氏の動向
と世論を動かす世人や記者の言動にあり そうした他人事では総裁としてもどうしよう
もないのが現実であるはずだ。もちろん与野党の攻防や国会運営においてはその意思が
大きく左右はされるものの 検察やらの団体としての小沢派への意見ならまだしも小沢
氏という個人の問題にある中では あまり個人主観は聞くべきものでもないだろうし 
新年から発言すべきものとは思わないのが 一般人の意見ではないだろうか。
 今年はウサギ年である。北朝鮮問題は慎重に動かなければ日本の世論が沸騰しかねな
いかも知れない。その意味では 北朝鮮には対話と圧力といわれる政策の的確な対応が
求められ、対処を間違えれば 核兵器や自衛隊増強などの禍根を残す結果になりかねな
い様相を呈している。経済的にには 中国も大事だろうがアメリカの景気低迷は日本が
取り除いてやらなければならないだろう。その意味では 西海岸からの鉄道建設の交渉
が成功させれるかが鍵となるであろう。国内的には事業仕分けを一省庁2箇月制を設け
て一つ一つを丹念に精査し独立行政法人を交えて 経済問題のみならず 国策としての
あり方や有様のまとめと発表が必要で かつての道路公団整理すら三年ぐらいかけ議論
したものを たかだか数人の大して知識や思慮分別のない未来の設計図を持たない意見
で 一刀両断に廃止や検討を叫んでも 国民も官僚も全く合点はいかないであろう。


23: 名無しさんAA:11/01/09 19:05
 それはそれは弱い足取りだが アメリカ経済も日本経済も回復の兆しが現れた。
リーマンショックの立ち直りがやっと来たかと思える。ユーロも各国が色々と思い
悩んでいる中安定してきている。通貨のディラーやオピニオン達はほっと胸をなで
降ろした事であろう。今後中東情勢が イスラエルが強気な事を言わなくなって
イランの核開発が無くなれば 後はアフガン問題と北朝鮮問題のみが紛争の兆しが
見える土地となる。悪魔の死の商人の兵器販売が 今後落ち着く事はないだろうが
ロシアや中国では 今後紛争の後ろ盾となれば やっとヒノキ舞台から降りて隠居
し自分の老後を見ようと言う時期に 早々国民に批判され政治で蹴落とされかねな
いような政策は取らないと思える。つまりは三代目の北朝鮮の世襲政治を除いては
他に問題は起きないだろうと思える。中国にしても王氏と近氏がリーダーとされた
が他6人のテーブル指名が残っていてどうにも動けないだろうと予測される。
友人の言葉を借りれば ここ二、三年で世界は劇的に変わるであろうという。つまり
一つの事が瞬時に駆け巡り それは情報も金も資源の流通も今や中国の台頭により
今やうかうか見逃せない中に世界が陥っているのだという。つまりその変化の兆し
が今年は現れ 日本やアメリカは明るい光が差し込むだろうというのだ。
 又今や中国の軍拡は既に世界の批判の渦中にあるのだが それがやっと首脳部が
統制できるぎりぎりまで軍が巨大に隠れて育っているというのだ。それは更に今ま
では最先端技術に程遠く その量が多少多くても質が劣っていて安心出来たらしい
が 今や中国は糞詰まり状態は避けられそうに無いという。しかし 中国首脳部も
馬鹿ではないだろうから 文民統制がある今の状態で何とか小さくするかも知れな
いとの世界の期待も裏腹にあるというのだ。
  中東諸国も今や石油・ガスに依存した社会からの脱皮を模索しだしてきて 今
まで国王や皇太子の資産の為の海外発注から 国の発展の為に 自由主義的要素を
取り入れ半ば共産思想を取り入れた体制から 議会制民主主義に近づけ より一層
の国体維持を図ろうとしているみたいだ。


24: 名無しさんAA:11/01/10 19:02
P・P 9

 この日本の刺身という行為は他のどの国も味わえなかった行為であろう。野菜の刺身
も魚の刺身も鳥の刺身も 本来の狩猟民族しか行えない行為ではないだろうか。そして
それは 高温多湿のすぐに食材が腐れ 腹を下して 或いは生命さえも危険な地域の
日本でのみ進化したものと言える。捌くという行為はどこの国でも狩猟民ならある。
鹿や牛や多くの食肉を食らう国なら 生の肉を分け食べるし残りはぶら下げて干し肉
となり 生き血はスープの足しになる。が 野菜を漬物とする 生き血を捨てて寿司
などのように野菜と共に盛り付けて生を食べる という食べ方は独特である。それは
麺でも乾燥させ素麺にしラーメンし食べるという流通できる乾燥品を作る行為は本家
中国にもあまりなかった行為である。この違いが中華料理と日本料理の違いを産んだ
。中華は旬のものでも 味付けし火を通し食べる 西洋ではそれをタレやスープとし
干したものを切って食べる。日本は旬は旬なものとして野菜も盛り付けなべ料理でも
活け造りも寿司も食べる。そしてそうした貯蔵食は貯蔵食として 沢庵でも梅干でも
或いは味噌や素麺でも それなりの別の料理として分けて食べる。そして生にこだわ
るのである。今のカップ麺やソーセイジや色んな食材の基本は 日本流にアレンジし
その気質に合わせて販売している事に 世界的成功の秘訣がある。逆に言えば日本で
成功したもの 車でも食材でも農業でも漁業でもありとあらゆるものが成功する。
 中でも郵便制度・保険制度・国鉄 護送船団方式 豊田の看板方式 入札制度など
は あの中古車同様今や 世界的に0サム・系列・寿司・etcと各地で流行っていて
日本そのものが捨てているのが 現実なのだ。



25: 名無しさんAA:11/01/10 19:02
P・P 10

 が この特異な 高温多湿で 豪雪の上台風が来る国というのは 案外他にはない。
この自然現象と戦いながら暮らしてきた文化は そうそう他国にはわからないだろう。
と同時に 今の日本の若者にも解らないと思える。新成人は何の根拠もなしに未来は
今よりも明るいと答え 自らが学もなく経験もなく年取ってしまって社会人となった
事を悔いる事も恥じる事も或いはおごる事も憂う事もないらしい。只はしゃぎまわり
或いは自覚するのみで 毎年のごとく行われる晴れやかな式典は変わらぬままである
 これは逆に平和を象徴する事でもあるのだろう。が意味深な事をいえば それが今
の平和を持続させる力や礎とはならない。今の若者が昔と違うとは思わないが 大半
はそうでも あれほどゆとり教育といい長所を伸ばすと言っていた教育が実は 逆に
平和にのぼせたありきたりの人間を増やし 特異な特徴のある人よりは秀でた人材が
極端に少なくなった事に驚く。そして平均平凡の特徴である 仲良し倶楽部の多さは
かつてのフリーターやら寄生虫呼ばわりされ 販売員やサービス業や飲食店等に甘ん
じて就業した先輩を当然と認めている様は異様でもある。日本に起業家がいないので
就職先がなく氷河期に突入したというのは 私は信じない。逆に多すぎて失敗だらけ
で萎縮している。というならそうだと相槌を打つだろう。いまTPPやら 法人税で
多くの経営者が 税が高くなれば企業が逃げて更に就職先が無くなると危惧する。又
政府もそう言う。が逆で 税を高くして企業を逃がし国民福祉の充実を図り 新たな
産業なり企業なりを育成したほうが 日本は良くなる。日産やトヨタや色々あるが彼
らは かろうじて円高により海外資本家の餌になってないだけで もし三百六十円の
レートなら 輸出は好調でもすぐに乗っ取られる運命にある。逆に明治政府のように
10円のレートでは 全く海外への輸出が出来ない事になる。つまり安売りしすぎて
国を滅ぼしている様が見てとれるのだ。

26: 名無しさんAA:11/01/10 19:03
P・P 11

 つまり 日本はどうあがいても 小さな国家であり 大きな資本競争には勝てない
という事になる。それはアメリカの 連邦通貨準備中央銀行 通常の連銀だがその量
はどんなにあがいても 欧州通貨ユーロや日本円ではたちうち出来ない流通量である
これに 中国は挑もうとしているが 日本は基本的に元と円を交換しない事をすべき
である。そして元を買いつくす事が大事だ。が中国政府は今や独自レートで独自の資
金としている。これに対して中国元にドルも円も対応しないとすれば 元の暴落は避
けられない。更に世界中に買いあさっている資源は 中国元では届かない場所になる
これは中国にとっては極めて深刻な問題となる。したがって今のうちに通貨バスケッ
トによる各国通貨の買い入れと 国力である軍事力をつけるというしたたかな外交を
展開しているわけだが これは国内外の供給バランスを市場でなく国が舵をとってい
るという話で そのしわ寄せが今 アメリカと日本にやってきている。つまり今後は
ユダヤ資本が牛耳る米国やイギリスなどの中央銀行や連銀の意思次第というわけなの
だ。多くの資本家特に名だたる金持ちは かなりの資産家で彼らの金は世界を覆い尽
くしてありあまるのだが 中でも共産圏においては その価格差において かなりの
貸付金の派生があるのだが が軍事国家にそうそう取立て出来ないでいるのが現実だ
。かつて南米危機と呼ばれた ブラジルなどのハイパーインフレにも国連や世界銀行
などでの多くの支援を行い 利払いや元利返済などの帳消しをした過去がある。これ
にも日本などはかなりの税金がつぎ込まれたのだが かの国は韓国や中国のような背
信行為はしなかった。北朝鮮のように窮々としてはいても 返せる分は返し 返せな
い分は返せないと明確に対応したのだ。




27: 名無しさんAA:11/01/10 19:04
P・P 12

 だが此のとき怒った軍が イギリス領とする南米のある島を領有した。フォーク島
であったか 一夜戦とも言われたその戦闘は数時間で終わったとされる。大体日本も
千島列島および隠岐の島沖 あるいは東シナ海ガス田もすべて自衛隊の演習場として
指定すればいいではないか。つき一回ずつ爆撃なり戦闘用の機関銃なり発射して今の
隣国の実効支配は解くべきである。人のいないガス田などは 核実験場としての試験
を発表すれば事足りる話である。ちゃんと公式外交をして余裕日程を組み世界的発表
の上事を一つづつ行えば済む話で 日本人として帰化するか 本国に戻り生活するの
か迫ればいい話で 誰も戦争にはしないだろう。韓国などは裏に北朝鮮表に日本と双
方と喧嘩し戦争する馬鹿げた事はしないだろう。もちろんアメリカと共に手を組んで
の話ではあろうが 今解決しなければ解決のめどは立たない。今まで社会党の言うよ
うに平和理におんびんに話し合って来たから足元を掬われたのであって 武力や権力
無しには 相手国も温情だけでは反対する国民に説明や理屈をつけられない手前引き
さがれないのである。それだけ他の国特に隣接する国には正義感がないのであり正義
を貫く為の仕組みが備わっていないのである。個々の国民にはそれが 無いわけでは
ない。が一度集団が相手であればそれはかなわない事は多い。今回のアメリカの事件
でうら若き女性民主党議員が打たれたのも そうした背景のなせるものだ。日本の数
多くの経営者達ものさばっていないで堂々と法人税が高いとして外国に行けばいいで
はないか。個人個人がどんなに優秀で安い人材があり働きものであったとしても国家
としての仕組みや国家としての技術や財産が今の大きな経営を育ててくれたのであっ
て日本で言う御陰様を忘れているならそれはそれで 他国で野垂れ死にさせればいい
のである。事実他国と違い日本は税金は納めるものであり取られるものではない。


28: 名無しさんAA:19/02/05 18:49 ID:UE
 てんでコケにされている福岡県警の話は多い。何故にこうも事件解決出来ないのか。
福岡県警八幡西署は5日、北九州市小倉南区の暴力団組長(62)と、岡山市北区に住
む会社役員の男(50)を暴力行為等処罰法違反の疑いで逮捕した。逮捕容疑は昨年4
月10日ごろ、北九州市八幡西区の会社事務所で、暴力団幹部を同席させて会社役員が
当時44歳の男性に対し「法律なんて超越してますよ」などと脅した疑いで捕まってい
る。更に02/05 13:22 不審な事故が起こっている。ニュースによると、警察発表では、
「4日午後10時すぎ、福岡市中央区赤坂で18歳の女性が運転する普通乗用車とタク
シーが正面衝突した。タクシーの乗客で福岡高検の総務課長・井下雅博さん(56)が
頭を強く打ち死亡しました。井下さんは帰宅途中だったとみられ、シートベルトをして
いたかどうかは分かっていません。女性(18)とタクシー運転手の男性(51)も軽
いけがをして病院に運ばれています。現場は緩やかなカーブで乗用車の女性が「カーナ
ビに気を取られた」と話していることから、警察は乗用車が中央線をはみ出した可能性
があるとみて調べている。」
 つまり、タクシーで帰宅途中の福岡高検の総務課長・井下さんが、交通事故で殺され
た。と言う話である。こんな不審死はない。様態は交通事故だが、まずタクシーであり
カーブする一般道で、例えシートベルトであっても、投げ出されて死ぬなんて事は滅多
な事ではない。タクシーの運転手が軽いけがであり、女性も又カーナビに気を取られて
いたとはいえ 奇妙なぶつかり方を恣意的にやったとしか考えられない。つまりここに
福岡高検の総務課長と知って起こした事故ではなかったかと言う どろどろとした予想
まで付くのである。事実は不明で 実態も不明だ。あえての予想だが現実なら、かなり
福岡県も市も 完全に暴力団に舐められている。


29: 名無しさんAA:19/02/07 22:13 ID:Hw
バカシンゾーは とうとう 北方4島に 不法占拠の言葉を消した。
 いみじくも自ら 住民の帰属変更の言葉で反発を招き 挙句に 日本で正当な言葉を
  消しても尚 前進した。などとしゃべる とんだ茶番だ。さっさとひっこめこのボケナス


30: 名無しさんAA:19/02/07 22:28 ID:Hw
 ロシアが、不法占拠に第二次世界大戦の戦歴とするなら 日本は核ミサイル開発の、
実験場とする。ぐらいの声明を発して、ロシアの不法航行に強制拿捕を行えよ。弱虫が
。江戸以前からロシアは対馬占領や、佐渡ヶ島上陸や アイヌ惨殺 など在ったのだか
らちゃんと言えよ。全く戦略も無しに近寄るから経済発展して、より帰還しえなくなっ
たのだ。馬鹿げている。まずシベリア開発して、食糧供給施設を作って、返還反対なら
供給ストップなど 戦略を練れよ馬鹿内閣は。なにが国家戦略室だ。こんなに前準備し
て御破算とは なさけない政権だ。



31: 名無しさんAA:19/02/09 10:46 ID:Ms
 柳川 銭紋  26

 福博電気軌道に対する軌道敷設特許から半年経った1909年夏、嘉穂郡の坂口栄らに対
して福岡市とその周辺における軌道敷設特許が下りた。翌1910年03月、太田清蔵や渡辺
与八郎、麻生太吉といった有力実業家を発起人に加えて、博多電気軌道(初代)が発足
し、福岡市の市街地外縁を循環する環状線と吉塚駅への連絡線の建設を計画し、1911年
10月から順次路線を建設していった。この博多電気軌道は電気供給事業の兼営を試み、
福岡市とその周辺町村に対する供給権を取得していた。このため福岡市を地盤としてい
た博多電灯改め九州電灯鉄道では供給事業での競争を防ぐべく博多電気軌道の合併を目
指すに至っている。しかし関西資本と東京資本のぶつかり合いは福岡の迷惑であった。
電気の売電合戦は火花を散らし収まる事はなかった。というのも筑豊炭鉱があって水力
発電と共に北九州の火力発電も又旺盛な勢いだったからだ。博多電気軌道と九州電灯鉄
道は様々形で影響があった。その煽りを食って富安保太郎にも汚職疑惑が起こったし、
かつて橋本氏が一緒にした川北村は三橋町となり他の市町村を巻き込んで三ヶ町村土木
組合と大田花宗土木組合が火花を散らしたのである。そもそも太田地区は八女郡司(ぐ
んかつ)の支配下でありかつての田中吉政の配下の地域で矢部川と同じ水源でありなが
ら筑後川管轄だった。対して三ヶ町村土木組合は矢部川流域の水問題だったのである。
 膠着状態を見て新たに、九州水力電気が博多電気軌道の合併に動き出した。1911年4
月に同社は設立された電力会社で、当時には筑後川水系にて大規模水力発電所を建設中
であった。博多電気軌道に対し、九州電灯鉄道が提示するより有利な条件を示して合併
を勧誘し契約にこぎつけていた。ところが水力に取られる事を察知して、炭鉱成金だっ
た麻生太吉の調停により翻意し、同社は九州電灯鉄道と合併仮契約を締結するが、これ
が又株主総意で改めて九州水力電気と契約されると言う騒ぎになった。その後九州電灯
鉄道による合併決議無効訴訟などの妨害があったものの、九州水力電気と博多電気軌道
の合併は完了した。その後1913年(大正2年)になって、九州電灯鉄道と九州水力電気
の合併話が具体化するもののしこりは消えず破談になった。こうして旧福博電気軌道線
は九州電灯鉄道、旧博多電気軌道線は九州水力電気と分立した状態が長く続いた。1921
年(大正10年)12月に、渡辺氏は、電気事業再編の動きに合わせ九州電灯鉄道の経営陣
が愛知県の電力会社関西電気(旧・名古屋電灯)に乗り込み、翌1922年(大正11年)5
月には九州電灯鉄道を関西電気に合併させた。同年6月関西電気が社名を変更し、東海
地方と九州地方を供給区域とする資本金1億円超の電力会社、東邦電力株式会社が発足
した。しかし東邦電気時代に客足の伸びが止まり、1927年(昭和2年)、九州水力電気
では福岡市渡辺通一丁目から西新町に至る新線(城南線)を建設を行う。第十七国立銀
行は直ぐに安田銀行の救済にて筑邦銀行や高椋銀行や嘉穂銀行や福岡貯蓄銀行と合併し
福岡銀行となっていたが、安田家の信用と暖簾ははずせなかった。ここで松本氏に製材
所を汚職疑惑払拭に富安製材所は売却するのだった。かつて枕木で財をなし植樹した楠
の間引きで旨味をもっていたが、立花農園の十時氏の指導と許可を得た為だった。

32: 名無しさんAA:19/02/09 10:53 ID:Ms
 柳川 銭紋  27

 明治9年(1876)に国立銀行条例が改正されると、全国各地で国立銀行設立の機
運が高まった。佐賀県下では、旧佐賀藩主鍋島家と小城鍋島家の主唱のもと、12年に
それぞれ佐賀第百六国立銀行と小城第九十七国立銀行の2行が設立され、これまで行わ
れてきた士族授産や農民救済のための銀行類似業務が継承された。なお、前者は国立銀
行営業満期前特別処分法に基づき31年に普通銀行に転換し、後者は32年に解散し、
新設の小城銀行に営業譲渡した。明治12年中には国立銀行の新設が禁止されることで
各地に私立銀行の設立をみるが、佐賀県下ではじめて設立されたのは15年の伊万里銀
行であり、また同年には栄銀行も設立された。さらに15年には、深川栄左衛門により
有田貯蔵会社が設立され、この会社は有田貯蔵銀行(21年)を経て有田銀行(26年
)となった。そして16年には三省銀行、18年には古賀銀行、さらに大島小太郎頭取
のもと特に石炭商との関係を深めて発展した唐津銀行などが、あいついで設立されてい
る。栄銀行は旧佐賀藩御用商人の伊丹文右衛門により設立され、彼の長男であり「佐賀
財閥」の一翼を担った伊丹弥太郎の時代に発展をみるともに、弥太郎は佐賀貯蓄銀行(
明治29年)、佐賀セメント(30年)、そして佐賀県農工銀行(31年、大正10年
[1921]に日本勧業銀行に合併)の設立、そして広滝水力電気(明治39年)から
東邦電力に至る電力事業などにも深く関与した。福岡・筑豊では、貝島太助(1845
〜1916)、麻生太吉(1857〜1933)、安川敬一郎(1849〜1934)
らが「炭鉱王」として名を馳せていた。各社がヤマの獲得競争を繰り広げる中、三菱が
1885年、松島の地質調査に乗り出した。三菱は土佐藩出身の岩崎弥(彌)太郎(1
835〜1885)の下で、巨大財閥として急速に発展していた。三菱は翌86年、採
炭に着手した。しかし、深さ74メートルに達したとき、多量の海水が湧出した。掘り
進めることができず、わずか3年で撤退した。その鉱区を佐賀の銀行家、古賀善兵衛が
買った。呉服商だった古賀家は維新後、銀行業を始めた。善兵衛は古賀銀行を九州五大
銀行の一つにまで成長させた。北方村(現佐賀県武雄市)で経営した炭鉱の利益も又、
銀行の成長に大きく寄与した。春一は、その善兵衛の養子だった。彼が作った会社が、
三井松島産業で、長崎松島炭鉱を成功させた。彼は不運の快男児の初代代表取締役古賀
春一。とされる。弱冠22歳で「あの三菱が採炭を断念した難しい島だ。しかし、よい
石炭が出る。古賀家を立て直すために、必ず事業を成功させる。」と海辺に立ったのだ
九州では、長崎の電力会社「長崎電灯」の経営権を取得した。さらに福岡の九州電灯鉄
道にも出資した。後の九州電力、西日本鉄道などの源流となる会社だ。この出資を通じ
て、福沢諭吉の養子で「日本の電力王」と称された福沢桃介(ももすけ)や長崎・壱岐
出身の松永安左ヱ門(1875〜1971)の知遇を得たのである。柳川古賀新はその
古賀家の縁戚の丁稚が暖簾分けされた店であった。つまりこの時店を購入したのである



33: 名無しさんAA:19/02/09 11:13
 柳川 銭紋  28

 実は古賀家と言うのは、もともとは今の久賀家として、今の祐徳稲荷神社付近に住ん
でいた。と言われる。キリシタン武将と西郷族が暴れた頃方々に散らばったのである。
西郷氏はもともとは竹崎の住民で諫早氏の下にいた武将だった。しかし蒙古襲来の恩賞
により竹崎氏の領分となり付近から追い出され、そうして鹿児島の住民となったとされ
る。久賀氏も柳川に来て古賀氏と名乗り、佐賀では久閑氏と名乗ったりしたというのが
通説である。かつて立花宗茂は関ヶ原で西軍に与して大津城攻撃などで活躍したが、09
月15日の関ヶ原本戦に間に合わず、大坂城に撤退、徳川家康との徹底抗戦を主張したが
、西軍総大将の毛利輝元に聞き入られず、本国である筑後国柳河に戻っては、なおも黒
田と戦い、抵抗姿勢を示した。立花宗茂は、関ヶ原合戦において豊臣恩顧の臣として、
二臣に仕えずを通し、徳川方には、入る事はなかっただ。その為、関ヶ原からの帰途で
は黒田勢に囲まれ鍋島勢が攻め入る事になった。しかし、それを守り助けたのが肥後の
加藤清正の大軍だったとされる。およそ八女から久留米城島大川と蟻の隙間もない程の
囲まれぶりで、さしもの黒田も加藤氏を差し置いての戦さは出来なかった。大川から、
銀千代君が守る江の浦城に入って、それから入城を果たして、最終的には久末神社での
綿貫邸で無血開城の会談を果たし、立花山に蟄居した。1603年の(慶長8年)立花宗茂
が家光に気にいられ棚倉1万石で入部し、棚倉藩が立藩したのである。東軍の黒田孝高
(如水)、加藤清正、鍋島直茂に攻められ降伏したあとは、所領を没収され、浪人の身
となっていたが宗茂には、その人となりから、その武勇伝も多く、本多忠勝に劣らぬと
言われ、文禄・慶長の役での碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)では、加藤清正
が、朝鮮軍と明・李如松軍に囲まれたのを他の者が捨て去るを、一人引き返すを進言し
救出に向かった武将で、虎を素手で倒した加藤清正と共に天下一双と秀吉が喜んだ程だ
。浪人となったあとも清正や前田利長をはじめ、多くの大名から仕官に誘われている。
その中で家康もそのうちの一人で、宗茂を再び大名として取り立てたといわれる。宗茂
は江戸で将軍に近侍したため、家臣の由布惟信が代わって藩内の行政を担当した。この
福井の棚倉藩で、知り得たのが佐竹新之助であった。元々伊達家の家臣で御取潰しにあ
った家系で、一人の浪人家臣として多くの事に手伝っている。伊達家への果たし討ちに
浪人であった所に意気投合し船頭として雇っていたのだ。柳川に帰郷出来る折に声をか
け佐竹では都合が悪いとして、出会いの地の高椋に名を改めさせ 柳川連れて帰り住ま
いを与えた。その子が高椋新太郎であった。又その時藩内の行政を取り仕切った家臣の
由布惟信の孫こそが 立花氏に養子に行った最後の家老立花壱岐守その人なのである。
こうして陸奥棚倉(福島県)の魚商であった島田氏と一緒に移り住んだ高椋家も、その
子新太郎は、そうした縁で20歳で父の許可をうけ、豪家から30両を借り受け八百屋
町に魚問屋を開き、商才に優れ藩内で評判となった。彼を影から支えたのが後の和尚に
なった小野氏で、天下無双の旗で、江戸城下で真剣試合で金を稼いでいた。これに困っ
た家康が送り込んだのが柳生一刀斉の配下だった。しかし柳生が倒れる程負けていった
。そこで江戸城下に立花氏を直参旗本で住まわせる事は不可能だった。と言われる。

34: 名無しさんAA:19/02/09 12:26 ID:Ms
 柳川 銭紋  29

 高椋銀行の新太郎の父高椋新ノ介は、もともとは信長を撃った明智氏の家臣であった
と言われる。立花氏と出会ったのが高椋の地であった事から高椋と名を変えたのである
。家康を狙い、彼は北回り船の船頭になって再興や信長配下で家を潰した恨みを果たそ
うとしたらしく、その為に立花氏に仕えていたと言われる。つまり遠洋の魚市場や漁師
を知っていたのだろう。直ぐに栄えて、当時の「魚百五十目也預かり」の魚問屋の私札
を発行するまでになっている。そうした才能を買われて、天保7年(1836)天草の
幕府御用達の松坂屋の石本平兵衛の愛顧となり、藩主に会う時には、高椋新太郎は随伴
して藩主に謁見し、大いに藩財政の手腕を発揮したと言う。つまり天草からの買い付け
を成功させたのだった。石本平兵衛の失脚後は新太郎が藩命を受けて日田、天草、長崎
などに往来して、柳川藩の藩財政の建て直しを委ねられる。屋号の「松坂屋」は初代の
治兵衛時代に、寛永年間(1624〜1644)長崎より御領へ移り住み、農業を営みながら御
領村旧家となった。五代目勝之丞(平兵衛と称す)の時代に幕府の御用商人となった。
敷地は、江戸時代百姓として許された最大限のもので、広さ約1,200坪(3,900u)ある
。住居(一部3階建て)は、正連寺(御領)に庫裡として移され、当時の建物は蔵1棟
が残されており、石垣が往時の面影を偲ばせている。平兵衛は、特に難民救済に力を尽
くし、文化・天保時代の大飢饉には、天草をはじめ、長崎・宇佐・江戸等の各被災地に
多くの救援米や巨額の私財を送って救世済民に精根を注いでいる。少年時代に、長崎に
出て、語学・経済・貿易等の学問を修めて才覚を現したという。後に海外貿易業界の雄
となって、三井・住友・鴻池等の財閥と比肩されるまでに至る財閥だ。天保5年(1834
)、幕府は平兵衛のこの卓越した財政手腕を認め、勘定所御用達を命じ、大名並の待遇
を与えた。が、天保13年(1842)4月、高島秋帆事件に連座、無実の罪に問われ、江戸
送りとなり、天保14年(1843)、獄中で病没した。57歳。石本家は、代々貧民救済にも
力を注ぎ、天草全土を揺るがせた弘化4年(1847)の大規模な百姓一揆の際にも打ち壊
しを免れている。高島秋帆事件は、老中水野忠邦の支持をうけて天保改革期に活躍した
が江戸町人からは甲斐守忠耀をもじって妖怪(耀甲斐)と恐れられた時代に起こった事件
だ。洋学断罪事件で、1840年の蛮社の獄での洋学者を弾圧連座した。高島秋帆は幕府も
公認した西洋砲術家だったが、老中阿部正弘らが採用した事で、オランダ国書問題対立
で、起こった事件だった。頻発する沿岸襲撃事件に、異国船打ち払い令を出すものの、
フェートン号事件など、外国船の威力を考えると何が起こるか分からないので、「薪水
給与令」として異国船打払令は数年で廃止され又復活する。と揺れ動いた幕府方策の中
で起こった。実は、産業革命のため欧米の国々活発に海に出て、日本近海でも捕鯨が盛
んなり、しばしば沿岸に出て乱暴狼藉を働いていたのである。1824年には水戸藩大津浜
事件で野菜や水の補給に上陸し役人に捕縛されたり、宝島事件では薩摩沖の宝島英国の
に捕鯨船員上陸で牛を強奪しようとし交戦するに及んで、国内には白顔悪鬼として恐怖
が広がっていたのである。その後もロシアの対馬占領やアイヌ虐殺と多かった。


35: 名無しさんAA:19/02/09 12:29
 柳川 銭紋  30

 こうした西洋人の横暴に乗った形で西洋学排斥運動となり、国民や藩主の人気取りに
、甲斐守忠耀が、老中水野忠邦の支持をうけて天保改革の一端として行った事件だった
のである。40年の蛮社の獄での洋学者の弾圧の中に、幕府砲術指南の高島秋帆まで獄中
に及んだ事は、老中阿部正弘らとオランダ国書問題の対立でのまざまざと上位権力者を
見せつけるものだった。ペリー来航時に幕府老中だった阿部は、かなりの切れ者であり
先見の明がある人物だった。とされる。彼は譜代大名から20代半ばで日本のトップに君
臨し、水野忠邦が復帰した時期をのぞいて亡くなるまで、彼は老中として尽くした。寛
大な人物で、よく人の意見を聞き、たとえ相手が違う意見を持っていても、おおっぴら
に反対するようなことはなく、長所や使えそうなところを判断し、採用していた。幕政
参与の水戸藩の徳川 斉昭(とくがわ なりあき)のような相手がいたから特にそうした
公明正大に働いたのだろう。ただし、そうした部分が「八方美人」的性格に映り多くの
怪訝な評価を受けてもいたようだ。高島流砲術の創始者(流祖)として「火技之中興洋
兵之開祖」と号すことを認められる程 高島秋帆(たかしましゅうはん)は、高い地位
にいた。江戸時代後期か末期の第一の砲術家で通っていた。清がアヘン戦争でイギリス
に敗れたことが伝わると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』という意見
書を提出し、天保12年5月9日武蔵国徳丸ヶ原で日本初との洋式砲術と、洋式銃陣の公開
演習を行なう事になった。この時の兵装束は筒袖上衣に裁着袴(たっつけばかま)、頭
に黒塗円錐形の銃陣笠で、特に銃陣笠は見分に来ていた幕府役人が「異様之冠物」と称
するような斬新なものであった。家系は佐々木氏系であり、近江の高島出で、長崎高島
炭鉱がどうも近江差配分だった為、父親が長崎会所調役頭取となったらしい。高島炭鉱
の高島はこの高島家から来ている様だ。当時日本で唯一の海外貿易都市で育った秋帆は
、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ
語や洋式砲術を学んだ。私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術学を完成
させ本にして披露した。この年に肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門すると、翌天保
6年(1835年)に免許皆伝を与えて、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上
している。武雄の大砲の歴史はこの武雄領主の鍋島茂義の家臣平山醇左衛門が、天保3
年(1832)に長崎の西洋砲術家高島秋帆の門下生になったことに始まる。この2年遅れ
で爵位になった茂義自身も入門し、武雄ではこうして全国に先駆けて大砲製造に努力し
成功し。こうして試射を行う至った。しかし、このモルチール砲は、既に立花藩には、
受け継がれて在ったのである。それは戦国時代にも使っているし、関ヶ原でも使ってい
たのである。それを十時家は受け継いでいたし、小野氏はこの鉄砲紋とされる紋をつけ
ていたという。


36: 名無しさんAA:19/02/09 16:16 ID:Ms
 柳川 銭紋  31

 この時既に、上野戦争で使われたような青銅製のアームストロング砲は出来ていた。
しかし、佐賀藩の大砲として伝えられるモルチール砲は大きく飛躍して臼砲弾であった
。臼砲(きゅうほう)は字のごとく臼(うす)の様な砲身の小さい物で持ち運び可能な
ものであった。モルチール砲は、高島流と呼ばれる西洋砲術の開祖高島秋帆によって、
当時の幕末於いてに日本で初めて作られた最も危険な洋式砲であった。砲身が短く少量
の火薬で発射できることが特徴の大砲で、重いアームストロング砲よりは簡単に使用が
可能であった。佐賀のアームストロング砲は実際には1〜3台しか出来ていない。江島
密偵誌によれば、散々苦労して長年かけて作った鋳造鉄も結局は青銅に及ばず合金比率
の究極が武雄に先を越され、更に完成したストロング砲がグラバーが輸入して見せた、
海外のストロング砲の方が遥かに性能や使い良さがあったから断念したのだ。がその前
に鍋島藩は砲身内の螺旋に問題がある事は知っていたようだ。と言うのも財政難でこの
反射炉の技術は、妻の仲介で薩摩の島津斉彬に売られた。この後この技術は鹿児島での
開発になった。と言うのもそもそもこの大砲の開発は長崎警護の必要性から始まってい
たからだ。つまり大砲を売る為でも薩摩の様な海外との戦争の為のものでは無かった。
つまり遠くに飛ばして船と戦う事では無く、船を沈める威力があれば良かったからだ。
この螺旋の砲身作りに薩摩は画期的に最初から水車の動力利用と、超硬刃の使用があっ
た。それも又佐賀の反射炉の失敗の炭素鉄の塊から導きだされていた物だった。東京で
の砲撃の時に、幾つかの砲身は破裂した。それは佐賀からの買い付けのものだった。と
される。つまり早くに出来た砲は数多くの連射が出来なかったのだ。その後、島津砲と
される下関の砲は取り去られて今もフランスに残っている。これは完成されたもので、
またこの武雄以降のモルチ―ル砲は上野の攻撃や会津攻撃にも威力を発し、その後展示
される様に完成している。こうした試射の成功の成果は、直ぐに茂義の実弟の佐賀藩士
坂部三十郎によって佐賀本藩にも伝えられた。そして改めて天保11年(1840)に神埼の
岩田で大砲の試射に成功した。以来、西洋砲術は「佐賀藩の大砲」として全国に知られ
るようになった。このモルチール砲は、通称20ドイムモルチールと呼ばれるものである
。把っ手のある上面には銀製の武雄鍋島家の家紋がはめ込まれ、蘭文の銘がある。下面
には漢文の銘があって、高島秋帆が天保6年(1835)に日本で最初に製造した洋式大砲
であることがわかる。実はこの持ち運び可能の砲を柳川も秘かに投資し買い付けていた
のである。この砲が武雄にあることの意義は大変大きく、当時の武雄が近代科学の進取
の都市であった事が読み取れる。そしてこの九州の鍛冶師は明治期は函館に引っ越しを
余儀なくされる。室蘭には鉄鉱石と石炭があつまり、特殊鋼のクルップ砲が出来たから
だ。これが室蘭製鉄所の流れである。

37: 名無しさんAA:19/02/09 16:17
 柳川 銭紋  32

 日本においては、島原の乱で榴弾の必要性を認識した幕府がオランダ商館長に臼砲の
製造を依頼しており、1639年に鋳物師ハンス・ヴォルフガング・ブラウンがこれを製造
し、麻布の射場で試射を行っている。1649年には東インド会社の砲術士官ユリアン・ス
ヘーデルが来日し、翌年40ポンド臼砲の砲撃演習を披露し、これを北条氏長が「攻城 
阿蘭陀由里安牟相伝」にまとめている。すなわち1649年には既に江戸幕府はこの手軽な
臼砲を知っていて、ひたすら隠していて、それを日本側は、天保3年(1832)にやっと
自力で隠れながら開発に成功したと言う訳である。これは当然幕府の隠密に知れたのだ
。これが明治期に柳川城に政府軍と西郷軍の駆け引きに大いに関係していると言われる
。つまり当時武雄藩と立花藩は、佐賀の鍋島藩以上に近かった。もともと祐徳稲荷や、
伏見稲荷などは柳川太郎稲荷の分社であり、更に日露大戦に缶詰の縁で乃木将軍はしょ
っちゅう立花氏とお花で逢っていたと言われる。産後の肥立ちの飴屋に軍刀を寄付した
りしている。初期の臼砲は欧州では元寇の頃の14世紀後半に出現している。石弾を発射
して敵の城郭を攻撃した射石砲で、当時の臼砲は投石機の代用であった。16世紀になっ
て火薬の製法が知られ始め、導火線式時限信管を利用した榴弾が使用されるようになっ
た。この頃までの臼砲は大型で迅速な移動を考慮したものはなかったのだ。日本の大坂
万博の三百年前1670年にはこの持ち運び簡単な臼砲は大きなヒット商品になって、
欧州でもてはやされた。アメリカの南北戦争まで使用されていて、仰角は45度に固定さ
れており、火薬の量で何段階かに射程を調節する方式だったので方角と高さが一定での
中で距離を威力で変えると言う手法は、案外受け入れらる技能だった。また小さいので
臼砲は艦砲としても用いられた。木造小型帆船に少数の臼砲をのせた艦はボムケッチと
呼ばれ、対地砲撃に用いられた。のちに大型船の砲艦が出現すると姿を消したが、第二
次世界大戦ではモニター艦として復活した。隠した小型砲台として威力があったのだ。
幕末の日本に、オランダ製の12ドイム臼砲と20ドイム臼砲が持ち込まれコピーが日本初
の反射炉を持つ佐賀藩で初めての国産近代火砲として製造された。戊辰戦争で鶴ヶ城攻
略で使用されたと言われる。大山巌が12ドイム臼砲を元に日本初の国産火砲である弥助
砲(十二斤綫臼砲)を作った。明治時代になると明治政府に引き継がれ日本陸軍の装備と
なった。ドイム臼砲は明治23年には正式装備から外され、武器庫にしまわれていたが、
日露戦争で12ドイム臼砲の榴弾が12センチ迫撃砲の砲弾として再利用されたという。恐
らくこれは破裂型砲弾の臼砲弾の間違いであろう。西洋では既に改良され只の金属の塊
や石の塊ではなく火薬を詰めて自爆型砲弾が出回っていたからだ。大山巌は西南戦争を
はじめ、相次ぐ士族反乱を鎮圧しに出ている。西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊
司令官)として、城山に立て籠もった親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこの
ことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかった。と言われる


38: 名無しさんAA:19/02/09 16:59 ID:Ms
 柳川 銭紋  33

 実は柳川城炎上や三潴県令からの城明け渡しには、そこにミソがある。徳川幕府が、
必死に隠して、佐賀藩が秘密裏に苦労して開発したこの大砲は、実は戦国時代から既に
柳川にあったのである。と言うのも大友氏が蒲池氏を重要視し、佐賀の龍造寺氏を匿い
育てる事に激怒しながら襲う事にならなかったか。と言う事である。当時にハゼの実か
らの蝋燭などはどこにも作っていなく、この筑後だけだった。蒲池氏すらも私領を持た
ぬ頃は、只の住みつついた関東武者で終わっていて、何代かを過ごしている。記録によ
れば、諏訪神社を寄進し、三嶋神社に参拝し、高良玉垂れ宮に祈り、伊豆大島に知遇を
得たから、としている。ここに柳川の現実がある。この時には蒲池氏は北朝方に属した
、しかし直ぐに南朝方として筑後宇都宮氏と縁戚を結び、宇都宮久憲が蒲池武久の娘を
妻とした、これで海外貿易との関係を得たのである。歴史書は「粟田関白道兼の末葉、
宇都宮左衛門尉朝綱の 後胤なり。久憲三代の祖宇都宮藤原貞久、正中年間(1324年〜
1226年)」とも書かれる、「征西将軍営に供奉して肥後国に下って後、久憲が時に当た
りて渡辺党蒲池氏が婿となりその遺跡を領す。」と『筑後志談』が伝えているように、
蒲池は明らかに、南朝方に属し、筑後宇都宮氏の宇都宮久憲が蒲池武久の娘を妻とした
。これは当然である。三橋町木之元(現、二ッ河小学校付近一帯)はかつて戦前には、
嶋町と言われ、磯辺宮たからべとされた。かつては南方の大塔の宮の皇太子の在所とさ
れたからだ。我が富安家の伝説では「たからべ」とは「他からの邊(べ)」という別の
所から来た人の部落だったのだ。目野(めの)氏は、愛農氏であり紀伊の宮中を示した
。つまり南北朝時代まで、この地は既に米を送る先を紀伊の半島の人である事で「めの
氏」としていたのだ、「起こし田」を意味する起田には、木下や野田が多い。これは、
いずれも「紀伊の国の人の田」と言う意味だ。又その周りに御供田の地名はその奉納が
約束される天皇陛下の田んぼだった事による。吉開とは葦を開いた人と意味があるが、
それは同時にこの天皇を迎えに行き戦い、南北朝の初戦で勝って吉の道を開いたという
事で授かった名だとも伝えられている。実は水田の水天宮の伝承史では、その地から、
鷹尾神社まで全てが水田で瀬高の清水寺の御神領であり、柳川の中の細工町などが瀬高
すなわち波の背が来る所として瀬高と呼ばれていた。田尻氏はこうした頃にこの田の尻
に住みついた豪族だった。実は蒲池氏(かまちし)は、鎌倉時代以来の筑後国の一族だ
がこの田尻氏の分家であった。とされる。鎌倉時代は地頭職、室町時代には大身の国人
領主になり、戦国時代は筑後十五城の旗頭の大名分で柳川城主であった。そもそもが、
北朝も南朝もなく足利将軍の再起の場所が九州である。しかし、九州の長はこの時菊池
氏であり日足の流水紋でも解る様に南朝方朝廷重視の氏族だったのである。この菊池氏
の支族が大神氏であり土蜘蛛田油津媛の一族とされる。「山門五郷、大江、鷹尾、山門
、草壁、大神」とされる。草壁=日下部で久留米地方であり大江=大莞であり瀬高大木
の葦の歯の一帯であり、鷹尾は荒尾〜大和町沿岸で山門が八女〜清水の山間といえる。
「山門郷 夜万止(やまと)と訓むとされ、かつて山上から民をみて光が少なく、今だ
民の暮らしは豊かならざる。と天皇が夜に足を止め見下ろしたことから付いた名だと伝
わる言葉である。


39: 名無しさんAA:19/02/09 17:24
 柳川 銭紋  34

 田尻家文書の(田尻系図)には、大蔵春実より8代目の種成に5人の子があり、長男
種直が原田氏を継ぎ、次男種雄が秋月氏、三男実種が田尻氏を、四男種良が江上氏を五
男五郎が高橋氏の祖となった。とされている。戦国時代の九州の武将、大蔵党一族と呼
ばれ活躍した。田尻初代の実種の頃は、平安時代末期で筑前国から筑後国三池庄田尻邑
(高田町田尻)に移り住み田尻三郎と称したのが始まりとされ、森山宮を勧請し、代々
田尻家の氏神と尊崇ししたとある。しかし、この祀った神社が森山となると御祭神は、
秦氏の海神を祀ったという事になる。多く森山八幡の祭神は、南朝の忠臣、日野資朝と
その子朝保の二柱を祀る。ここで日野資朝の物語を少し振り返ると、今から七百年近前
後醍醐天皇の正中年間の事だ。資朝は政権奪還を計って露見、捕えられて佐渡に流され
た。正中の変と言われる。佐渡の守護職であった本間山城入道は、北条高時の命により
資朝殺害を図る事になる。その頃京都にいた資朝の第二子阿新丸は風のたよりにこの事
を知り得て、父の死ぬ前に一目会いたい。とはるばる佐渡にやって来た。しかし守りが
厳しく父に近づくことが出来ない。そればかりか、資朝の子が来ていることが知れて、
山城入道は急ぎ一族の本間三郎に言い付けて、資朝を殺害を早めて行った。これを聞き
阿新丸は、情けある僧の手引きで父の遺骨を貰い受け、これを兄朝保のところへ送り、
自らは、せめて仇に一太刀報いる誓いを立てた。こうして機会をうかがっていた大雨の
夜、漸(ようや)く仇の館に潜入することが出来た。こうして本間三郎の寝所に忍びこ
んだ阿新丸は、枕をけって三郎を起こし、起き上がるところを一刺し刺し通し、急ぎ外
に出た、がしかし、変事を知った家来が大騒ぎし、あちらこちらと探している間に、竹
のしなう力を使って堀を越え、無事に敵地を脱出しました。海岸に逃れたところへ折り
よく西へ行くという船が一艘あって、危ういところを 逃れて京都へ帰り着きました。
阿新丸はこの時十三歳。資朝の長子朝保は、洛西葛野に父の遺骨を葬り、廟を建て祀っ
た。北条方の目をはばかって八幡宮と称していたのが森山宮である。程なく後醍醐天皇
は吉野の行宮で崩御せられ、南朝の勢いは年を追うて弱まった。後村上天皇崩御の後は
、資朝の子や孫たちは、身の置きどころにも困るようになりました。朝保の子勝朝は、
八幡の璽と重器を背負い、海を渡り阿波を経て吾川郡森山村に、着いた。と伝えている
。八幡の璽というのは、資朝の魂代のことです。ここにおいて森山の領主徳弘安宗は、
勝朝を迎え厚く待遇していましたが、勝朝の滞在が或は面倒な問題を起こすことになる
かも知れないと心配し、「私が一つの社殿を建てますから、貴殿は神璽をお祀りになっ
て下さい。そして貴殿が神主としてそこでお住まいになれば文句を言う者はないでしょ
う。」と言い、社殿を狩谷口(現在地)に建立した。勝朝はこの社に資朝と父朝保を祀
りましたが、これが正平二十四年といいますから凡そ六百年の昔のことになります。も
とも八幡宮は、神宮皇后時代、息長帯比売命が紅白の帯によって合図をだして海賊に勝
った事で、博多の志賀島で祀ったことから軍神とされ、その後足利氏が祀り志賀島の名
がついた。と言われている。


40: 名無しさんAA:19/02/09 17:44
 柳川 銭紋  35

 この二ッ河までやって来た大塔の宮家は、多くに守られた護良親王(もりながしんの
う)とされている。延慶元年(1308年)建武期は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人
物である。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘で藤原保藤の娘
である南方(みなみのかた)の盟主だった。興良親王の父で、若い頃から仏法院の修行
積んで大塔宮(だいとうのみや)と呼ばれ、既に天台座主となり征夷大将軍の座にあっ
た。六歳の頃から、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入
院している。大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置
いたと見られることからである。正中2年(1325年)には門跡を継承し、門主となって
皇位の高僧にある。後醍醐天皇の画策で、嘉暦2年(1327年)12月から元徳元年(1329
年)2月までと、同年12月から元徳2年(1330年)4月までの2度に渡り、天台座主となる
。『太平記』によると、武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む極めて例がない座主であ
ったという。御座主は天台宗門に限らず、飛鳥時代に宗教内の最高地位を示すもので、
字のごとく天皇との協議や他宗と折衝の代表者となれる地位を言った。田尻氏の居城と
した田尻山の飛塚城(ひずかじょう)跡は昭和8年に開墾されみかん畑となっている。
森山宮は城跡の下の北西の中腹に鎮座し桜咲く春に例祭が行われている。護良親王は、
1308年、後醍醐天皇の息子として生まれました。そして父の後醍醐天皇は、邦良親王が
成長するまでのつなぎ役として1318年に天皇即位している。ここで交互に後深草天
皇の子孫の持明院統と亀山天皇の子孫の大覚寺統とが天皇に即位して治めていたものが
瓦解し戦いになった。これが南北朝で鎌倉時代から室町時代に移った理由だが、実は、
鎌倉時代そのものがそうした後継ぎ争いの中で生まれた時代だった。一般的には「源平
合戦(げんぺいかっせん)」と言われる治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)
は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわた
る大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇
子であった以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する不満で、
反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊に源頼朝
を中心とした、主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に
至る合戦で、奥州合戦終結まで治承寿永の乱が続いた。京都において朝家・貴族内部の
権力闘争が起こり、保元の乱・平治の乱の軍事衝突が起こった。この内乱で平清盛は、
対立を深める後白河上皇と二条天皇の間をうまく渡り歩き、摂政近衛基実と姻戚関係を
結ぶなど、政界の地位を上昇させて、実権を握った。仁安2年(1167年)には太政大臣
に就任したが、反発は多かった。そうした中で 後醍醐天皇の第1皇子として護良親王
(もりながしんのう)が産まれていた。しかし皇位継承をめぐって既に持明院統と称し
た持明院家と亀山上皇の皇統の大覚寺統と対立していて、皇位の行方は火花の中にあっ
た。


41: 名無しさんAA:19/02/09 18:18 ID:Ms
 柳川 銭紋  36

 後白河法皇と清盛の政治提携は、二者を橋渡ししていた建春門院(清盛の義妹)が、
安元2年(1176年)に亡くなると途端に齟齬が生じた。安元3年(1177年)北陸の国衙
と比叡山の末社の対立をきっかけに比叡山と院近臣が対立し、院近臣を守る立場にある
後白河法皇は清盛に比叡山攻撃を指示したが、清盛はこれを拒否して逆に比叡山の要求
を通し、院近臣の身柄を拘束するという手段に出た。これによって後白河法皇は比叡山
の言い分を聞かざるを得なくなり、近臣の追放を許す結果となった。鹿ケ谷の陰謀と言
われる事案だ。院近臣は朝廷側の従者でありながら仏門の徒となり、その間を取り持つ
職業の者だ。応徳3年(1086年)の白河上皇の、堀河天皇に譲位して院政を開始するが
、結局は、堀河天皇が家臣や親戚縁者に対応し、権力的命令を白河上皇が吐くと言う、
上皇の都合のよい二重構造であった。当然上皇の意見が振舞いが重視され、仏門に入る
上皇の寺社や宗門への寄進が多く、寺領の荘園が力をつけそれを守るべく武士も多くな
った。こうして、朝廷の荘園宮家の荘園寺社の荘園がそれぞれ境界争いになった。とい
うのも本来は税金逃れに土地や農民を共に寄進されたものであったがしかし、一緒に配
下になった農民は当然ながら良い処遇の寺社や宮家に着いたのだ。この自由を奪うべく
管理した武士は当然嫌われて不満の対象だった。院近臣(いんのきんしん)院すなわち
朝廷側から仏門の方に送られた人達は、朝廷の縁戚であるものも多く、遠くは皇籍剥奪
の為に下向処分の者らである。平清盛の建春門院(けんしゅんもんいん)も院号であり
名を平滋子(たいらのしげこ)という、父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)いわゆる
堂上平氏の末端で、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子(すけこ)の二人の間に生まれて
いる。兄弟姉妹も多く、時忠・親宗、姉妹に、二位尼時子(平清盛継室)・冷泉局(建
春門院女房)・清子(宗盛の室)・坊門殿(重盛の室)・藤原親隆の室(権少僧都・全
真の母)・帥局(建礼門院女房)などがいる。父は鳥羽法皇の近臣で、滋子も法皇の娘
・上西門院(後白河上皇の同母姉)に女房で仕えている。早くからも、その美貌と聡明
さが後白河院の目に留まり、寵愛を受け、院御所の「法住寺殿」が完成後にと滋子は、
後白河院や皇后・忻子と共に入御して「東の御方」と呼ばれるようになる実力を持った
。しかし身分の低さのために、その取締まりの親分の女御にはなれなかった。後白河院
の寵愛は他の妃とは比較にならなかったとされるが此処に悲話がある。ここでの法住持
殿とは天皇の生活の部屋と言う事で、そして女房とは そこに身辺に直接関わる雑務を
果たす身分の高い使用人の事だ。天皇の大奥と言ったが早いかもしれない。乳母、幼児
や女子の主人の家庭教師、男子主人には内々の秘書、などの役割を果たした。男性主人
の場合には主人の妾(召人)となったり、女性の場合には主人の元に通う男と関係を持
つことも多く、結婚などによって退職するのが一般的習わしであった。所謂天皇の為の
内裏で大奥よりもっと規制がゆるい、みだらな寝所や奥園と言われた所の話である。こ
こで建春門院は情報を持ち、采配を果たして重要な役割を演じていた。


42: 名無しさんAA:19/02/09 18:19
 柳川 銭紋  37

 現代では想像を絶するが、近世になっても高貴な家は、特に世襲親王家の当主などが
正室以外の女性に手をつけて子を産ませ、その女性のことを家女房(いえにょうぼう)
と呼んで、事実上の正式な側室扱いとした。例えば久邇宮朝彦親王は正妃を置かず、5
人の家女房とのあいだに18人の王子女を儲けたが、そのうちの一人が今上天皇の外祖
父に当たる久邇宮邦彦王である。一夫多妻の代表的生活とも言える。大奥では正妻がい
たが、宮中では身分はあっても正妻も側室もなく全てが側室であった。そして男妾も又
可能だった。女房のこの語の意味するところは時代が下るにつれてさらに地位が向上す
る。女房(にょうぼう)は、今日の日本語では妻(すなわち正室)の意味で用いられて
いるし、さらに転じて、仕事上における不可分の存在を伴侶的な意味をこめて比喩的に
女房役(にょうぼうやく)と呼ぶこともある。例えば野球の投手に対する捕手、内閣の
総理大臣に対する官房長官などがこれにあたる。既にこの頃、政治の主導権を巡っては
、後白河院と二条天皇は激しく対立していたため、その出生には大きな運命が付きまと
う。兄弟の平時忠らが憲仁立太子の陰謀が発覚し、二条帝はただちに平時忠・平教盛・
藤原成親・坊門信隆らを解官して、後白河院の政治介入を停止する措置をとった。翌年
には、平時忠・源資賢を「二条帝を呪詛した罪」で配流する。この事件で、憲仁の立太
子のみならず親王宣下は絶望的なものとなる。しかし二条帝の乳母が滋子の姉・時子で
あったことが幸いして、滋子自身に直接の圧迫が加えられることはなかった。しかしそ
の後、二条帝が崩御したことで後白河院は政治活動を再開し、12月には念願だった憲仁
への親王宣下を行い六条天皇を後見していた摂政・近衛基実が死去すると平清盛を自派
に引き入れ、憲仁親王の立太子を実現させる。儀式は東三条院にて挙行されて、滋子は
生母として従三位に叙せられた。翌年正月には女御となって、晴れて家司と職事を教盛
・宗盛・知盛・信範ら平氏一門が任じられる。後白河院は、滋子を伴って熊野参詣を行
ったが、後白河院の母の待賢門院が、白河法皇・鳥羽上皇に従って参詣した先例になら
ったものだったが、これは御行幸であり、妻の権威の象徴として行われるものだった。
ある時、熊野本宮で滋子が「胡飲酒」を舞っていたところに突然大雨が降ったのだが、
いささかもたじろがず舞を続けたという逸話がある。滋子の信念の強さ、気丈な性格を
表したものといえる。実際に滋子は神仏に対する信仰が厚く、特に日吉神社と平野神社
には頻繁に参詣した。平野神社は平氏の祖・桓武天皇ゆかりの神社である。この記述は
現代人には、なんともない風景だろうが、当時は雷や雨と言うのは忌み嫌われて、恐れ
あるもので、天皇の前では恐れ多く取り止めやその相談でうろたえるのが常であったが
それを、そのまま挙行して無事終わったと言う話である。秋篠宮家の長女・眞子さまと
次女・佳子さまの結婚で今は色々あるが、かつては男尊女卑の中にあっても、皇位剥奪
があったので、容易にかけ落ち同然の事が行われていた。その分朝廷の支給米が少なく
済んだからだ。そもそも、清和源氏桓武平氏というのは、朝廷の皇子が多すぎたからだ
。桓武天皇の第三皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)が祖とし、数多く枝分かれし
、彼の子孫は公家として続いた家柄となった。この高棟の子孫たちを「堂上平氏」と呼
び、かれらは必死に公家の座にしがみついたのである。


43: 名無しさんAA:19/02/13 18:19 ID:BM
 柳川 銭紋  39

理由は簡単だ。公家となれば皇位であり、給付米は随分な不足でも生活の糧だったのだ
。この熊野古宮こそは現代語では「くまのこきゅう」とされるが、実は当時の日本言語
つまり「やまとことば」では、「くめのうこきゅう」となり言葉的には「久芽野故宮」
の意味となる。つまり、かつての大和朝廷の天皇の芽生えた場所。と言ういみである。
ここに日本神話と実在の王朝の繋がりがある。と言う事になる。かつて、まだ幼い頃の
小学校の運動会が雨で久末部落は「御幣歌」もしくは「御謳い・応対」なる言葉があっ
たようだ。そこの誰がしが、昼食前の興で謳ってくれ、昼食だったが久末神社の氏子会
の全員の祭り歌だった。しかし今やそれを聞く事はなく、友人が聞かせたが、内容も節
も昔と違う今の標準のものと変わったものだった。滋子の素顔は、藤原定家の同母姉・
健寿女が日記『たまきはる(建春門院中納言日記)』に書き記している。健寿女が滋子
の女房として仕えるようになったのは12歳の頃で、滋子は皇太后になったばかりだった
。『たまきはる』には「あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか(なん
と美しい、この世にはこのような人もいらしたのか)」と記されている。滋子の美貌は
『建礼門院右京大夫集』でも、「言ふ方なくめでたく、若くもおはします(言葉にでき
ぬほど美しく、若々しい)」と絶賛している。滋子はその美貌を頼むだけでなく「大方
の御心掟など、まことにたぐひ少なくやおはしましけん(心構えが実に比類なくていら
した)」(『たまきはる』)とあるように、万事につけてしっかりとして几帳面な性格
で、女房が退屈しないよう気配りを怠らず、いつ後白河や高倉が来ても良いように絶え
ず威儀を正し、後白河が御所にいる時は、いつも同殿して食事を共にとった。とされ、
その様子は「御所の御しつらひ、人々の姿まで、ことにかがやくばかり見えし(御所の
調度から女房の姿まで、輝くようだった)」(『建礼門院右京大夫集』)と記されてい
る。実はこの三橋町久末の綿貫邸は剣豪綿貫一刀斉の家屋だったが、実はこの地が、か
つては百丁や五十丁などの地名を持ち、この「建礼門院の荘園」だった頃の番地であっ
た事は知られていない。建礼門院徳子が余生を過ごしたのが「寂光院」で、寂光院は古
くは、かの有名な聖徳太子が594(推古2)年に父・用明天皇の菩提を弔うために創建さ
れた寺院である。初代住持は聖徳太子の乳母であった玉照姫(たまてるひめ)で、その
後も、代々高貴な家門の姫君が住持となって、法灯を守り続けましたが、その中で寂光
院を広く世に知らしめたのは、第3代住持の建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)
は話し相手もなく、滅びた平家一門と我が子である安徳天皇の冥福を祈るだけの毎日で
した。義理の父親の後白河法皇は失意の中で大原に住まう建礼門院を案じて、はるばる
都から訪ねてきた。法皇はその侘び住まいに暮らす建礼門院の姿を見て、涙を流し再会
を果たした。二人はいつまでも懐かしく語り合った。これが“祇園精舎の鐘の声 諸行
無常の響きあり…”で始まる『平家物語』に出てくる有名な「大原御幸(おおはらごこ
う)」のくだりである。その後、建礼門院は平家一門と安徳天皇の冥福を祈り続け、再
び、歴史の表舞台に登場することなく、1213(健保1)年にその波乱の生涯を閉じた。


44: 名無しさんAA:19/02/13 18:19
 柳川 銭紋  40

幕末の頃、綿貫吉直(わたぬきよしなお)は、天保2年(1831)孫として三橋町五
拾町に生まれた。藩士の子として幼い頃から、暑い日も寒い日も剣術道場に通った。と
され最終的には綿貫一刀術居合抜きの、免許皆伝(めんきょかいでん)まで行きついて
奥義を極め、最終的に一子相伝(いっしそうでん:一人にしか伝えない)の秘法まで流
派の大事なところまで学んだとされる。その後は蜷藩士として幕末、外国船に対応す
るため江戸の海岸防衛まで出向き、明治に入ると反政府軍を鎮圧するために明治政府軍
の一員として、函館戦争まで出向いている。明治2年(1869)の、函館では、土方
歳三ら新撰組の生き残りは五稜郭を中心に鉄壁な防戦ラインを引いていた。しかし、彼
が立花由布摂津守の呼びかけで、参謀として行ってやっと函館戦争を制し倒したのだ。
 柳川の主に伝習館生で作られた2つの兵組織の精鋭達の勇ましさぶりは、江戸期から
評判であった。その理由はいろいろあるが、立花氏の治世にもある。貧弱な小藩国が、
薩摩に劣らぬ大きな金を産み出していたから不思議だった事で、注目視されていたのだ
。例えば、今は焼失したが、三柱神社伝記では、全くこの地は三柱神社ではなかった。
だが、太閤秀吉が九州征伐して立花氏がはいると、すぐさま円満解決して、広大な秦家
(はたけ)の土地を三柱神社に変え、かつての三柱神社のあった山王宮を日吉神社に変
えた。その上今の矢部川の付近をすべてその立ちのいた者の開拓地として褒章にした。
その為、蛇行して氾濫に悩まされていた棚町地区より先の、芥地とされた壇氏族の土地
は開発され、板橋でしか行けなかった聖河の沼地も開墾された。こうしてこれまで戦時
の集合場所の厩屋としていた蒲池氏の頃の高畑は完全に寺社領地となったのだ。これま
での荷の積み上げをしていた蒲船津や高畑は完全に密貿易は阻止され、米の陸揚げ場と
して筑紫町の堤防整備し、お花の別邸の場所に石垣での良地にする計画にしたのである
。これは蒲池氏領より完全に小さくなった事や、柳川城築城による地権を綺麗に配置を
変えた功績でもあった。この時取った政策が、大友氏や竜造寺氏などによって陶氏の者
つまり毛利軍の打ち壊された白鳥城や花園城安富城或いは酒見城を修復しないで、逆に
町民や寺に売って金を取り、水の管理の為に石垣をかけた事だった。それが本郷の地の
分流調整である。千間土居を開発し、水を沖の端川に流し、大水は矢部川と共に不断川
に流して蒲池、大川に流した、大田堰で、水を調整し、今まで作付出来なかった大和町
までも稲作が可能になったのである。その頃まで大川より酷い「あお水取り」つまり、
海流の潮と混ざらず浮いた真水だけ取る手法が格段に少なくなって収量が一気に増えた
。ここで利用した寺社への金と旧支城の石垣などの利用は、その労賃に報われた形で収
まったのだ。そうした事で農民はとても豊かであった為次の田中吉正時代でも立花山の
蟄居ちまでも米を送り届けている。そして再入城に際しても、同じに三柱神社内には、
日本初の太郎稲荷神社を作った。地元柳川ではあまり有名にはならなかったが、江戸の
立花藩の太郎稲荷は大きくヒットした。つまり、再入城まで果たした殿様と言う事を、
大きく宣伝したし、御利益がある事でその仕組みに庶民や商店の商売繁盛に向いたのだ
。更にここに久留米の水天宮社の仕組みを取り入れたのである。つまり分社化である。


45: 名無しさんAA:19/02/13 18:23
 柳川 銭紋  41

実は柳川にはもともと水天宮社は無かった。佐賀鍋島藩との境界には多くの水争いがあ
り、これに津村氏の采配で、久留米藩に決めてもらう事をした。と、同時にその頃まだ
久留米の藩主すらもめていた時代だった中で水田水天宮は多くの崇拝者がいた。そこで
旧来の崇められた高良山水天宮を分社にして大川に第一神霊分社を作り、その後沖の端
に作った。水天宮信仰は江戸以前の事だ。津村氏の案はに芝を川にながしてそれを境界
とする行事を画策する事だった。しかし成功したのである。これにより酒見城や榎木城
が不要となる元となった。つまり一国一城制の中で、その采配から、柳川風浪宮社酒見
分社として売り払いが可能になったのだ。こうして次々と攻撃し壊された城は整理され
ていった。高畑などのこうしたこの秦氏の土地である「はたち」は起田や吉開も又そう
呼ばれていた土地がある。こうして密貿易の末次船の痕跡を、次々に消していったのだ
。末次船は朱印船貿易をしていたと言われ、南北朝時代や戦国時代には九州・瀬戸内海
方面の武士や海賊が中国、朝鮮沿岸を荒らしまわり、倭寇と恐れられた。とされるが、
実はもっと古いとみられる。というのも16世紀後半になるとポルトガル船が日本に来航
するようになって海外への関心が高まり、東南アジア方面にまで進出する日本人も現れ
て起こったの朱印船であるからだ。荒木宗太郎は、自ら、船に乗って、東南アジアでの
商売をした大商人で、当時の安南(現ベトナム)の王族の娘を嫁に娶ったというスケー
ルの大きな人物で、この彼が乗っていたのが、この荒木船ということになっている。船
の特徴は、中国のジャンク船の形式を基本に、ガレオンのような装飾をしていることが
特徴で、この形式が、日本前型と言われる朱印船の基本形とされる。この船の特徴の一
つに広い四角い船首にあり、この船首の部分の四角い立方体に櫓棚があり、そこから櫓
を出して、港湾内では漕いでいた考えられてます。しかし、後にも先にも前方に櫓棚が
あるのは、このタイプの船しかなく、ある意味奇妙な造りとも言える。特徴として白い
喫水線の上部に三角形の排水口があり、これが船体構造がジャンク式という証拠になっ
ていて、これは他の日本前型朱印船にも見られる。荒木船の船旗はオランダ東インド会
社のマークを逆さにしたものを使用していた。宗太郎の子孫は代々長崎西築町の町乙名
(町名主にあたる)を務め,同家には船旗や安南(アンナン)国書,同国製の鏡などを伝
えていた。記録上では1606年(慶長11)に暹羅(シヤム)に,10年には交趾(コーチ)に
、そして19年(元和5)から32年(寛永9)まで数回交趾にみずから渡航したが,交趾の高官
阮(グエン)氏に信頼され,貴族の待遇を受け,阮氏の娘を妻とするなど,当時の有力
な朱印船貿易家であったという。この荒木船や末吉船が 三橋町正行の名の元となって
居る事はあんまり知られていない。更に日本の船の発祥地として安曇磯良丸を崇拝し、
日本の船が------丸と言う名をつけられたと言う伝説も知られていない。何とも奥ゆか
しい柳川である。


46: 名無しさんAA:19/02/13 22:03 ID:BM
 柳川 銭紋  42

 天下統一による統一政権が日本に生まれると交易統制の必要性が発生し、近世で統一
政権を樹立した豊臣秀吉は、日本人の海外交易を統制し、倭寇(後期倭寇)を禁圧する
必要から、1592年に初めて朱印状を発行してマニラ、アユタヤ、パタニになどに派遣し
たとされる。がしかし、この時のことはあまり資料がない。江戸時代初め,大坂の豪商
末吉孫左衛門がルソン渡航などは、朱印状を受けて海外貿易に従事させた代表的な御朱
印船貿易の一つだろう。京都の清水寺には,寛永9 (1632) 年から同 11年にかけて3年
連続して奉納された絵馬があり、これによっての、末次船と同系の日本前型の大型商船
と推定される風景が解る。船上に西欧人が乗っているが、おそらく外人航海士を描いた
ものと思われる。江戸初期、末吉孫左衛門が徳川家康の朱印状を受けて、タイ・フィリ
ピン・安南などに貿易のために渡航した。その豪商の名を取って貿易船は、末次船・末
吉船などとと呼ばれていた。末吉孫左衛門は、しばしば朱印状を交付されていてルソン
やシャム,トンキン等との朱印船貿易に活躍し、跡を継いだ長男孫左衛門長方も,代官
を務めるとともに鎖国に至るまで朱印船貿易に従事した事が解っている。また、柏原船
(かしはらぶね)(平野川を利用して河内国柏原村と大坂を結んだ川船)を創始したこと
などで著名な山田船もある。荒木氏の資料では、外国との通商御朱印(許可証)の写し
から長崎西築町の乙名にて、荒木作三郎家に伝わる古文書によれば、文禄の初、日本国
から外国へ通商のための航海を許された者は、京都より三艘、堺の湊から一艘、長崎か
ら五艘の船主がいたようだ。東京(トンキン)、交址(コウチ)、東補塞(カンボジャ
)、太泥(マレー)、六昆(暹羅の一部)の国々へ航海した。この中の一艘の船主が、
末吉氏の先祖宗太郎と言うもので、元和八年(1622)台徳院様(秀忠)より御朱印を頂
き、広南国(ベトナム中南部交址国の一部))と往来している。この国の国王に面会し
、たいへん気にいられ、囲碁の賭けにかこつけ、国王の息女を妻に賜りました。その時
同地歴世の支配者である阮氏の親族に宗太郎を加えるという書状を賜りました。此書は
外縁に金泥の絵形があるの金札と唱え、その船を金札船と称していたと伝えている。そ
の後寛永十年(1633年)になると、幕府は、日本より外国に行く事が禁止され、交址と
の通商も途絶えました。 宗太郎は妻を日本に帯同し、こちらで女子一名を生み長崎で
一生を終えた。彼女が生前に使用していた交趾国製の手鏡をひとつ今も伝えています。
御朱印状については、渡航が禁止されているのに民間が持ち、伝える事は恐れ多い事で
すから、天和元年(1681)長崎奉行所に宮川監物様と川口攝津守様が御在勤の時に伊太
郎(初代を宗太郎、二代目宗右衛門、宗太郎の実子が無く京都の奥野山庄右衛門二男を
養子にして、外祖父は広南王娘に娶わせたのが宗右衛門で、三代目伊太郎(宗右衛門実
子)が奉行所に持参しました。ところがこれとそっくりな話が、島田天満宮や瀬高の、
広田八幡宮にあって、柳川藩も密貿易の巣窟だったらしい事が垣間見える。


47: 名無しさんAA:19/02/13 22:13
 柳川 銭紋  44

鎌倉初期の建久7年(1196)頃の「宇佐大鏡」にはその治領分として神領として「
国々散在常見名田」の項目に書かれている。筑後国常見名田、つまり毎年検査役を派遣
していく神領である。「北広田田数(州余丁勘文定)宮加地子起請定14丁5反州、加
地子稲291束2把(但米丸)国半不輸」として「かしきいね」つまりすごいた米のみ
を半分を収めていた。但し俵で、というものである。この広田八幡宮は、本来常見名田
北広田の地に勧請された社領鎮守社になっていて、その起源があると言われ宇佐八幡宮
領の広田庄として広大な耕作地を持った村とみれる。瀬高町誌には、「後年に廣田縣は
瀬高庄・樋口庄・小川庄・北広田庄(松田字北広田)・南広田庄(山川町清水)となっ
た。」と捉えていて瀬高町のほぼ全域のようだ。また大正時代の渡辺氏の「邪馬台国 
探検記」では、当宮の縁起によると、うさ速麿は三韓の軍の勲功で広田縣270町の封
戸を与えられ「広田縣は後年、樋口・広田・瀬高など5庄となる、今の本郷・芳司地方
を広田原と称するのは往時の広田庄たるを知るなり」と紹介している。芳司についても
、「芳司は元市街にして市を開きし地なり」として、市恵比須を紹介している。ちなみ
に宇佐宮領は九州一円に120か所余り分布していた。これらの社領は南北朝期以降、
武士の押領(おうりょう)により有名無実のものとなり、太閤検地による石高制の成立
によって最終的に消滅している。とされる。しかし廣田縣については更なる検証を要す
る程まだ解っていない。廣田八幡宮文書の社記編には鎌倉時代の寿永4年(1185)
に、源頼朝は梶原景時(かじわらかげとき)に命じて廣田縣あがたを没収し、廣田庄の
田村(船小屋の北、筑後市鶴田))に官府を建てた。号を七庄司とし住した。廣田・
水田・御牟田・川合(筑後市川犬)・樋口・竹井・瀬高(小川庄)としている。しかし
廣田大神の御戸代五百町余りを残すことが出来(文永・弘安の役の恩賞によるものか)
廣田庄内の芳司・吉岡・両坂田・三長田・今寺・久良原・古賀・志村・本郷・常用・両
折地となる。つまり鎌倉時代の文永11年(1274)に蒙古襲来で、文永の役に広田
宮の広田速澄は、菊池氏と共に博多に出陣し、弘安4年(1281)の、二度目の蒙古
襲来においても、菊池一族の第9代の菊池隆泰らと廣田宮の広田速澄・宮柱の壇速興な
どが博多に出陣しているが、その時に宇佐八幡にはやらなくていいから筑後の方は領分
としない。と半分にされてしまったようだが、瀬高分はやっと守れた。と言う風な話で
ある。ここに石橋氏伝説が出てくる。板橋氏はこの地を出自としているが石橋氏も同じ
にこの地を出自としている。と言うのである。これが磯宮社を作ったとされる。つまり
幸作橋と行基橋の伝説である。幸作橋は板橋氏が作ったが行基橋は石橋氏が作ったとい
う話である。

48: 名無しさんAA:19/02/13 22:14
 柳川 銭紋  45

この後、南北朝時代では広田家歴代記の文書には征西大将軍懐良親王(かいらしんのう
)を奉じて、二ッ河の柳の離宮まで守って連れて来ている。南朝の中心として戦ったの
は菊池一族でその軍功に従い活躍しており、58代の廣田速時から、67代の廣田速秋
に至る記録がある。天正8年(1580)には、騒乱時代となり3月7日に、肥前龍造
寺隆信の5千余の軍に襲撃され社殿を焼かれてしまう。廣田の兵は惨敗し社領も奪われ
ている。しかし、芳司・吉岡・本郷・今寺・久良原・古賀・折地など7村の郷里は守ら
れ、廣田大神を崇拝できたようだ。天正15年(1587)4月に豊臣秀吉が島津征伐
の為に高良山に陣を置いた時には、廣田宮の神戸代(社領)は没収され、5町余の社地
のみが還付された。同年6月25日に立花宗茂(宗虎)が柳川城に入った時に、宗茂か
ら3町8反余が寄付され、この時廣田大神の社殿も造営された。また宗茂は、秀吉より
従四位下に叙せられ羽柴の号を賜り、これを祝って廣田宮の広場にて流鏑馬奉納を行っ
ている。文禄元年(1592)4月、宗茂の朝鮮征伐の出兵の前に「適国降伏」の祈願
を此処で行って朝鮮に渡ったと言われる。文禄4年(1595)に宗茂は朝鮮より無事
帰朝し祈願成就として高8石3斗5升3合の御供田が寄付され奉納された。これにより
毎年、廣田宮祭礼には立花家より騎射奉納がある様になった。こうして時を重ねたが、
天明8年(1788)3月10日夜に盗難があり、天平勝宝2年(750)に孝謙天皇
より奉納の金幣(きんぺい)、さらに弘仁2年(811)に嵯峨天皇より奉納の御宸篳
(しんぴつ)蕃国御取の勅願などを失っている。文化5年(1808)石鳥居新規建立
の際、その額面に「八幡宮」と刻記されて、古来より「広田宮」と称していたが「八幡
宮」と改称された。こうして昭和27年12月に宗教法人「廣田八幡宮」となった。境
内には住吉宮と春日宮も祀られている。往時には旧暦11月19日の例大祭に、寒風の
矢部川清流に身を潔め、天をも焦ごがす篝火(かがりび)を焚き、火の映る的を射たと
いう流鏑馬(やぶさめ)行事は、近郷に希な一大圧巻であった。とされる。しかし明治
元年(1868)に、ここの広田氏が新政府寄りだった事で、騎廃止され、今は惜くも
見られない。古くは旧暦11月19日、これを新暦に移して12月21日が本来の祭典
日であった。現在は11月3日に御神幸祭 御神輿風流行列が行われている。神幸行列
の奉納が終わると、御迎えの神輿台と本郷の白衣姿になった本郷の氏子が、応仁天皇の
神輿を担ぎ再び大和堰を渡り聖母宮まで行幸する。聖母宮に着くと神功皇后と応仁天皇
の親子の対面の神事が行われる。帰りの神輿は芳司の氏子に担ぎ手を替え、芳司と作出
の氏子行列が笛、太鼓、鐘の音を響かせ暗くなった道を提灯の灯かりで幸作橋を渡り、
作出のお宮と新座で奉納したのちに芳司の広田八幡宮に還御する。この祭りは囃子の音
から「ドンキャンキャン」の愛称で本郷、芳司、作出の部落を中心に盛大に行われる。
がこれが柳川の「ドンキャンキャン」の素であったろうと思われる。祭の起源は定かで
ないが平安時代からの氏子が氏神を歓待する祭りとされる。


49: 名無しさんAA:19/02/13 22:18 ID:BM
 柳川 銭紋  46

 立花家臣、城戸豊前が書いた『豊前覚書』によると、六月十一日に、老臣小野和泉を
正使として、城戸豊前、八尋民部、扇掃部嘉門が付き添って、柳川城受け取りに立ち会
った。前城主であった龍造寺家晴が在城中に植えた竹が青々と見事に成長していて一段
の風情を添えていた、と記されている。恐らく木下家の前の孟宗竹の様な感じで茂って
いたのだろう。宗茂の入封は季節が夏に向かう六月一五日であった。夫人のァの千代(
ぎんちよ)をはじめ立花家中の者たちは、住みなれた粕屋郡の立花山麓を離れて十七日
に柳川へ入ったようだ。ァ千代は立花から離れたくないと、周囲の者を困らせた。とい
うが、住みなれた実父の道雪が眠る立花の地を去ることは耐えられなかったのである。
 宗茂は入封するとすぐに、家臣たちの配置と知行割に着手している。戦国時代に荒れ
たこの地に、始めて入り土地で在地の情勢を見極めて、領内の数カ所に配置していた領
内の支城に城主として入封させて、地域の支配に当らせたのである。以前に在地の土豪
たちが城館としていた処も順次修復整備して支城とし城番に任じさせた。それには筑前
以来の有力家臣達に、地元の家臣を作る事も許した。城内には「城料百十三町」ずつを
与えている。この時支城の城番に配した家臣は「柳川年表」によると、次の六城である
。家老の小野和泉に蒲池城を当たらせ、当面の筑後蒲池地区を受け持たせた。由布美作
を酒見城主にして大川地区を、薦野玄賀に城島城主に、立花三郎右衛門を八女黒木を当
たらせ松延(黒木町)城主とし、米多比丹波に鷹尾城(大和町)立花了均に 今古賀城
(三橋町)をそれぞれ城主としている。この時ほかの榎木城や花園城白鳥城富安城など
壊されていた城は打ち捨てられた。しかしそれらの城は水郷回りの要所にあった為に、
十時氏にその内容を調べさせている。又、家臣の知行は、すべて恩給として与えられて
土地からの収穫は全て城中国高としている。、中世のような土着性や、在地との伝統的
な地権の結びつきを否定した措置がとられた。天正十五年の宗茂入封後の知行割の特色
として、一村支配をさせず一村を数人に分けて知行させる分給方式がとられた。これに
よって付け届けの違いは、是正され産業振興がはかられる事になる。それともう一つ、
知行割が町・反・丈という古い面積の呼称で表示され、石高制の採用は太閤検地が行な
われたのが文禄四年以後のこととなる事がある。筑後地方の天正検地の施行は『筑後国
史』に「天正十七年、公義により筑後国田畑検地これ有り、上使山口玄蕃頭を下向せし
め、上妻郡に長崎伊豆守竿頭による田畠方分に成りて、」とあり、天正十七年におもし
ろい事に山口玄蕃、長崎伊豆守による検地が行なわれたことを記している。筑後におけ
る秀吉の「知行宛行状」などは、天正十五年時点で、すべて面積で知行地を宛行ってお
り、秀吉の九州平定後のころではまだ石高の表示はつかわれていないのである。



50: 名無しさんAA:19/03/09 05:53 ID:Ms
 柳川 銭紋  47

 立花氏が本格的に藩体制の確立のための、収穫米の石高政策を実施するのは、文禄三
年朝鮮出兵から帰国した後であると言う。第一に、文禄四年、文禄検地(太閤検地)を
実施し、このことについては、次のような文禄四年十二月朔日付の立花宗茂宛の秀吉の
「知行付」がある。『福岡県史史料』第四輯で、筑後国山門郡四万五千弐拾参石、下妻
郡壱万七千八百四拾五石、三瀦郡内五万八千六百弐拾石、三池郡内壱万七百石、合計拾
参万弐千弐百石事目録別紙これ有り此度検地の上を以て、これを扶助せしめ訖り、全て
領地すべく候也。 文禄四一二月朔日  朱印(秀吉) 羽柴柳川侍従とのへ 」と言
う書状がある。つまり下妻45、023石 三潴58、620石と此処で決められた。
 この検地により、面積表示に代わる石高表示の石高制に全面的に変更され、この制度
に基づく領内四郡二〇六か村の村高が打ち出された。この文禄検地については、この文
章中に「目録別紙これ有り」とあるように、文禄四年一二月朔日の「筑後石知行目録」
がある。
大木町関係分の村の石高を次に表記する。現大木町域内の文禄三年検地村高
 七一二・二四  篠渕村  二一七・三五  高橋村  一一〇四・九二  蛭池牟田村
 四六三・四五  筏溝村  一八八・六〇  中村  一六一一・〇二  木崎村  
 四六三・一三  侍島村  二〇七・三七  吉祥村  八九四・六三  八町牟田村
 二〇九・八六  小入村  三五三・二八  荒牟田村  七二一・一〇  大角村
 一四八・二八 野口村  三九六・六四  福間村  六二八・五二  奥牟田村
 二一四・二四  中野村  三九五・五六 大薮村 となっている。ところがこの
検地については、瀬高山川や南関などで、佐々成正に熊襲とされる隈部一党が反旗に及
んだとされる。実は瀬高や南関などは 朝廷の荘園であったのである。寺領や神領・宮
中領がひしめいており、これらを整理する事が必要であった。しかし佐々氏は真面目で
生粋の秀吉の臣下であった。太閤検地以前に、この地の元図すらなかったのである。一
度は話し合いが出来た検地も、強行に測量を始めた事で諍いが起こり、切腹の憂き目に
合う事件に発展した。秀吉にすれば、今だ九州のつわものの息の根を荒々しくさせる事
はあまり良い事では無かった。それに京都の宮家の米も取り上げて行くには、少し難が
あった。博多ではキリスタンの豪商が大砲を載せた船まで建造していたからだ。ここで
もし九州が一丸となってこの新しき秀吉政権に攻めのぼる事があれば ひとたまりも無
く瓦解し、これまでの苦労は水の泡になる。更にあの一向一揆のような辛酸を嘗める様
な事にも為りかねなかったのだ。ここに神領であった事の危うさがあった。秀吉は加藤
清正など八女から本郷を得て久末を通り棚町(田野街)を柳川まで行ったが、本郷から
別れた徳川氏は実は筑後の方から蒲池の方へ戦いながら侍島を経て水田を抜け吉開から
磯鳥に行き蒲船津に行っている。これが九州征伐時の軍の進軍だった。それは他ならぬ
キリスタンの力を借りたからだ。そこで島津氏は直ぐに長崎雲仙方面の手勢は薩摩に帰
っている。この時立花氏は妻や子が城島八院でで捕虜の様に捕まっていた。という。



51: 名無しさんAA:19/03/09 05:54
 柳川 銭紋  48

 その八院では、関ヶ原から帰ってきてから、鍋島との戦いが起こった所だ。つまり、
軍師として老練な黒田は、戦えばぼろが出る寄り集めの大軍で、鍋島と加藤をせっつい
て先陣を果たすよう書状を送っていた。鍋島はその頃竜造寺氏の子孫がいた。にも関わ
らず彼は幼く政治的実権からは遠ざけられ蚊帳の外であった。したがって関ヶ原の窮地
に独断で自分は東軍に息子は西軍につかせているこれは苦肉の策で、前田家、真田家な
ども同じに家系存続の為にそうしていた。そもそもこの関ヶ原の戦いは、豊臣体制での
突然起こった徳川家のクーデターであって、気配はあったものの突然の事だった。特に
佐賀藩にはラッパや忍者或いは諜報の草の者と言われる者が機能していなかったのだ。
その為西軍についていた多くの者は親父や勢力のある家康と繋がってはいない中にあっ
た。しかし、立花氏には加藤氏から、「進軍の折には是非内府様のお味方となられて、
我々と共に友軍して貰いたい。」と何回も申し出があっていた。しかしその度に「わざ
わざの申し入れ痛み炒る。されど当方には太閤様の御恩義にて治領を御仰せ付け給う所
に、我が家に二君交えずの家訓ありて、御執り引き願いたい。」と答えていて決して迷
う事など無かったと言う。又小野氏十時氏問注所氏など数々の京都の情勢が伝えられて
家臣団が紛糾して、徳川方に付くべきと言う意見にも、一笑に付した。つまり、武士の
武士たる面目は君臣一途の事たる事なり。とし、負けて命絶っても武士の本懐を遂げよ
うというものだ。と謳っている。部下も殆どがその気心について来た者達だったので、
何も反論は無かったと言われる。大坂から帰途に着いた時、慶長五年一〇月一九日には
、城島方面に、鍋島軍は三万(太宰管内誌は二万余としている)の軍勢を一三手に編成
し、直茂本陣を城島に進め諸軍も城島を中心に広がり先鋒を横溝村の五反田に置いてい
た。その北方の江上方面にかけて陣営を構えていた。一方、宗茂の胸中には実父紹運・
養父道雪このかたの「武名」と自分が得た国内・朝鮮にかけての「武勇」があり、江上
村あたりで二つとない一戦をしようという気持で城に入っていた。城中の老臣みんなの
自重の意見が城主の出陣には猛反対であった。とはいっても敵兵が領内を侵す以上は、
武将の面目にかけても見過ごすことは出来ない。つまり小勢をだして、これを押えよう
との意見にきまり、次のように軍を編成し視察がてらの兵を出すに及んだ。先鋒に立花
三太夫・足軽頭安東五郎衛門、同石松安兵ヱ、同千手六之允(ろくのすけ)中軍の大将
に猛将小野和泉鎮幸を置き、後軍には若い立花右衛門太夫鎮実、次男善次郎親雄、新田
兵右衛門、矢島左助などを置いた。


52: 名無しさんAA:19/03/09 05:55
 柳川 銭紋  49

「安東五郎右衛門尉合戦注文写」と「小野和泉守合戦注文写」の掲載資料では、この戦
いに江島氏一家が参戦し戦死している。江嶋市郎と江嶋又太郎が戦死し、江嶋善兵衛・
江嶋孫六・江嶋善九郎・江嶋彦右衛門尉らが刀傷や鉄砲傷で重症を負っている。この時
の江上合戦において、江島氏は一族を二つに分け、江島宗家当主、江島彦右衛門一族は
従来通り小野和泉守の与力として参戦。もう一方の一族は江島村の知行主である安東五
郎右衛門と安東摂津之介親子の与力として参戦したようだ。江嶋彦右衛門の小野和泉守
との関係は、記録で見る限り、文禄・慶長の役から関ケ原の大津城攻め、江上合戦に至
る迄終始一貫して、与力として行動を共にして来た。一方、安東五郎右衛門の与力とし
て参戦した江島氏の主体は、主家を失った元蒲池家家臣の江島氏ではなく、江島村の中
の江島宗家であった。江島氏は立花和泉守が蒲池城主となった事でいち早く臣下となっ
た一人だ。また小野和泉守は立花道雪に仕える前は大友氏の直参で、同様に江島氏も同
格の大友氏の直参で、古くから見知った関係でもあった。しかし、江島宗家は面子もあ
りそうはいかなかった。江島宗家は、安東五郎右衛門と安東摂津之介親子の与力として
古くから、廻船業問屋的な働きで活動で収入を得て、蓄財があった、知行は無く、家臣
や郎党をかなり抱えていた。蒲池家や龍造寺配下であった江島庶流が主家を無くして、
江島村の江島宗家を頼っていた事は十分考えられる。「立花親成(宗茂)知行宛行状写
」の文禄5年の書物では、三潴郡内、江嶋村501石余、高津村180石余、山門郡塩塚村17
石余、合計七百石を、「安東摂津介」が持っている。「安東摂津介」の他の知行記録で
調べても、天正15年、三潴郡8ヶ所、山門郡3ヶ所 合計19町4反とあり、その中に
は、当然三潴郡の知行地の江島村は含まれてはいない。その後文禄2年朝鮮役の功で、
13町を加増されていて、計50町3反28歩とあります。宛名は「安東津介」とあり
津介は摂津介とは、同一若しくは親子の人物と見られている。またこれには知行地名の
記載がない。文禄4年の太閤検地では、江島村の総石高は819石6斗6升とされており
、翌5年には安東摂津介は江嶋村に501石余の知行していたとされる。つまり江島村
に500石その他に300石を知行していたのだ。このように主家を失った者を家臣に
加えて、戦乱期に一族郎党を二手にわけることは容易であったと考えられます。では、
この安東五郎右衛門尉とは何者か。安東五郎右衛門こと「安東範久」は安東家栄の弟に
なります。安東摂津介(津介)こと「安東幸貞」は安東家栄の四弟で、二人は兄弟だ。
しかも五郎右衛門に男子がなかったのか、摂津之介は五郎右衛門の養子になっている。



53: 名無しさんAA:19/03/09 06:12
 柳川 銭紋  50

 二人は実の兄弟であり、義理の親子という関係なのです。安東摂津介(津介)こと「
安東幸貞」は安東家栄の四弟で、二人は兄弟です。しかも五郎右衛門に男子がなかった
のか、摂津之介は五郎右衛門の養子になっています。二人は実の兄弟であり、義理の親
子という関係なのです。安東五郎右衛門は道雪、宗茂と仕えた譜代の家臣であり、家中
でも指折りの豪の者として知られる武将でした。当然ながら摂津之介は五郎衛門と良く
行動を共にしていた。坂本神社が再建されたのは、立花氏が最初に筑後の領主であった
時代と見ておりますが、現在の時点で再興した人物は「十時摂津守連貞」ではなく、「
安東摂津介幸貞」であったと思われる。「久留米藩寛文十年社方開基」では天正13年
「立花左近」様の家臣「十時摂津守」殿が再興したとありますが、この再興の年には、
大いに問題が残り、再興した人物は「十時摂津守連貞」ではなく、「安東摂津介幸貞」
であったのだろうと推測される。「現江島氏には、家譜が存在しない為「諱」を確認す
ることが困難ですが、江戸期に柳川藩士として江島家再興を果たした一族(彦右衛門と
の血縁も濃いと考えられる)」とされ四代の「諱」の通字は「幸」だった。という。摂
津介と和泉守、彦右衛門と和泉守、共に両者の関係は主従関係ではありませんが、尊敬
する者から「偏諱」を貰うという事はあったのかもしれません。南関には十時氏跡があ
る。平家狩時代に田尻氏や大津山氏が攻められた時、地元の者が夜明けと共に敵を蹴散
らして大勝を得たと言う話でその時鬨の声をあげて勝ちに導いた者に十時の姓をあげ、
更に冬の椿の花から妻夫木の姓を与えたというものである。これは炭鉱節の「山越えて
何ぼ綺麗に咲いたとて寒椿は見る者が居なくては寂しかろう。」の歌の元になったと言
われる。この十時氏が旧姓小野家の者だったのはあった事は当然だろう。安東摂津介は
小野和泉守鎮幸との関係が深かったのかもしれません。そして江島氏が安東氏の与力と
なったのは、案外小野和泉守の働きかけがあったのかもしれない。安東摂津介の諱は、
「幸貞」で、資料で見る限り安東一族で「諱」に「幸」の文字を使用していたのは摂津
介だけという。しかし、宗氏の替紋「丸に平四ツ目」が筑後江島氏の定紋と同じであり
、対馬・江島氏が古(いにしえ)60人と呼ばれる、宗氏の御用商人であった事が解っ
ている。朝鮮語に堪能な事から朝鮮の役では従軍通詞として活躍した事も確かである。
この江島氏と共に内山田氏がいたようだ。内山田氏は日本初の活版印刷の印刷所を長崎
で開業していた。と伝えられる。戦国時代からキリスタンと仲がよかったのだ。さらに
「丸に平四ツ目」は、伝統的な十字架の紋であるのは確かだろう。室町時代の『見聞諸
家紋』によれば、9家が目結紋で載り、飯田氏、二松氏が「三つ目」、佐々木氏、椎屋
氏が「四つ目」、斉藤氏、本庄氏が「九つ目」、ほかに、能勢氏「十二目結」、本間氏
「十六目結」、武藤氏は「寄懸目結(よせかけめゆい)」という。佐々木氏族では、六
角氏が「隅立て四つ目」、京極氏は「平四つ目」、近江寺村氏は「丸に隅立て四つ目」
を使用した。しかし「平」と「四つ目」は京極氏か六角氏かとなる。


54: 名無しさんAA:19/03/09 06:26
 柳川 銭紋  52

 こうした文禄の役(1592)よりも20年遡って元亀3年(1572)の対馬・江島氏が活
躍した史料はかなり貴重である。江島彦右衛門が和泉守の手の者となった経緯は不明で
すが、江島氏が立花宗茂の家臣に正式に取り立てられる為には、武功をあげる事が必要
条件で、立花氏の家臣団の中でも勇猛随一の人物として、数々の戦功をもつ小野和泉守
の下について行動することは、最も早道であったと推察できる。彦右衛門が江島氏存続
のキーパーソンとして小野和泉守を選んだとしても何の不思議もない。江島吉左衛門が
筑後江島氏の本家筋の人物であることを証明する史料が、「柳河藩享保八年藩士系図」
である。この資料によって江島吉左衛門の人物像と足跡がかなり判明出来たのである。
この系図によれば、享保八年藩士であった江島繁之丞幸繁の曾祖父 江島幸利の名乗り
(通称)が当初は四郎左衛門で次が吉左衛門です。幸利の次男幸親(幸繁の祖父)の名
乗りも吉左衛門です。この藩士系図に書かれた年代から推測していくと幸利が慶長15年
(1611)に朱印船貿易を行った江島吉左衛門では年齢的に無理がある。つまりそれは、初
代吉左衛門の子で二代目が同じ「吉左衛門」を名乗ったのであれば、辻褄があう。何故
、幸利が当初「四郎左衛門」を名乗っていたか、それは初代吉左衛門がまだ存命であっ
たからだと推測される。こに青木島周辺の開発で記録に残る四郎丸村の住人、江島四郎
左衛門が開発に着手するのが慶長6年(1605)頃で、開発終了後藤原正喜と改名している
。江島四郎左衛門は本家筋の人物であり、先祖代々由緒あるその名を貰って四郎左衛門
と名乗り、初代吉左衛門が引退するか、亡くなった後、二代目吉左衛門を襲名した。と
考えられる。もともと肥前後藤氏は藤原利仁の末裔を称する。東北平泉における前九年
の役の戦功により武雄の地を与えられたといわれ、平安時代末期以降、代々武雄の地を
領してきた部族であった。後藤 貴明(ごとう たかあきら)は、戦国時代から安土桃山
時代にかけての武将だが、肥前後藤氏第19代当主(武雄領主)となっている。彼は、
大村純前の庶子とされ、この頃色々な名字や姓が当たり前だったようだ。庶子とは妾の
子で外子である。当時相続が大きく意味をなす社会においては、跡継ぎの確保が必要で
あった、一門の繁栄という観点から。相手は側室等の、多くの政略結婚が影響力や財産
の確保を目的として行われた。ただ家同士のつながりにより行われても、正室の子のみ
が嫡子であり、相続を受け継ぐまで側室の子は只の兄弟であり、用が無いと庶子として
外に出され家老の養子となって育つ。又身分差などで結婚できないとき相手は愛人で妾
等などであり、そうした家の外の子は非公認であり庶子である。又聖職者等、父親が妻
帯できない職業の場合も庶子だった。


55: 名無しさんAA:19/03/09 06:27
 柳川 銭紋  51


朝鮮送使国次之書覚(ちょうせんそうしくになみのしょおぼえ)は元亀3年(1572)か
ら天正3年(1575)三月迄の、朝鮮渡航の船隻を記録したもので、朝鮮通交の名義人や
実際の行使者名が記されています。「同月二十四日に以上船数七隻渡海候、両御奉行よ
り召され候て、船の見様、御指南を得候。船数の事。」と朝鮮に来た船の数を出せとい
う中には、一、 古屋惣左衛門、一、 江嶋善左衛門、一、 阿比留三郎右衛門一、 三川
藤神助、一、 長富玄播助、一、 財部木工助、一、神埼善右衛門の7人を貿易する豪商
として上げている。この時の七隻の船主の一人に江嶋善左衛門の名があり、他二隻にも
それぞれ江島氏の名があります。おそらく助左衛門は善左衛門の代行として船に乗り込
んだのでしょう。この時又右衛門は上官人とありますので、役人として乗り込んでいま
す。有力商人が代官となる事もありました。この二人が荒波の玄界灘を颯爽と乗り渡る
様が眼に浮かぶようだ。こうした貿易船で御用商人達に与えられた特権には、送使船一
隻につき、宗氏が行う公的取引から最大800両(現在の金額換算で約1億円)の利益
が自動的に得られたと言われている。通行税や取引税である。しかし同時に私的貿易を
行う事が許されていますから、一航海で、さらにその数倍もの利益があったと言われて
いる。ちなみに江戸初期には対馬藩は公的取引で年間15万両の利益を挙げて藩財政を
賄っている。こうして朝鮮との貿易は宗氏と商人達に巨額の利益をもたらしていたのだ
。朝鮮送使国次之書覚が書かれた元亀3年は、織田信長が浅井長政を攻め滅ぼし、武田
信玄が遠江、三河を攻撃し徳川家康を攻めた年です。まさに戦国時代真っ只中で、この
城島地方の武士は、織田信長、武田信玄、上杉謙信が活躍していた時代を尻目に、貿易
船を出していた。九州では大友宗麟、島津義久の時代である。永禄七年(1564)の下田
城攻めの記録に筑後江島氏の名前が登場し、元亀3年(1572)から6年後の天正6年に
(1578)春に、天下布武を目指す織田信長が九州攻略の為、九州の諸大名や城主を調べ
させた時の文書に、大名格の国人領主等と共に筑後国三潴郡江島城主「江嶋修理亮鎮村
(しゅりのすけしげむら)の名が登場するなど、この頃から江島氏の記録が増えている
。これらの事象はこの時期、筑後江島氏が力を蓄えて、それなりの勢力を持ち始めたと
いう証でもあります。その背景には対馬・江島氏との商業ネットワークによる輸出入品
の売買、貿易事業への投資による利益の蓄積が潤沢な軍資金となって、武具や馬、船を
揃え、多くの将兵を養う事が出来るようになったのではないかと推測されている。江嶋
善左衛門が、久留米商人の代表だったのは当然で江島家は高良大社のバックアップを得
て、城島の織物・柳川の密蝋・熊本の鉱物を扱った。阿比留三郎右衛門の阿比留氏は壱
岐対馬の通訳の代表として名が残る。安永5年(1776)旧松屋呉服店創業、松屋は文政9
年(1826 )古屋長吉が、甲斐国巨摩郡上教来石村(現在の山梨県北巨摩郡白州町上教来
石)農業古屋九左衛門の二男として出生し松屋を操業した。


56: 名無しさんAA:19/03/09 11:14
 柳川 銭紋  52

 こうした文禄の役(1592)よりも20年遡って元亀3年(1572)の対馬・江島氏が活
躍した史料はかなり貴重である。江島彦右衛門が和泉守の手の者となった経緯は不明で
すが、江島氏が立花宗茂の家臣に正式に取り立てられる為には、武功をあげる事が必要
条件で、立花氏の家臣団の中でも勇猛随一の人物として、数々の戦功をもつ小野和泉守
の下について行動することは、最も早道であったと推察できる。彦右衛門が江島氏存続
のキーパーソンとして小野和泉守を選んだとしても何の不思議もない。江島吉左衛門が
筑後江島氏の本家筋の人物であることを証明する史料が、「柳河藩享保八年藩士系図」
である。この資料によって江島吉左衛門の人物像と足跡がかなり判明出来たのである。
この系図によれば、享保八年藩士であった江島繁之丞幸繁の曾祖父 江島幸利の名乗り
(通称)が当初は四郎左衛門で次が吉左衛門です。幸利の次男幸親(幸繁の祖父)の名
乗りも吉左衛門です。この藩士系図に書かれた年代から推測していくと幸利が慶長15年
(1611)に朱印船貿易を行った江島吉左衛門では年齢的に無理がある。つまりそれは、初
代吉左衛門の子で二代目が同じ「吉左衛門」を名乗ったのであれば、辻褄があう。何故
、幸利が当初「四郎左衛門」を名乗っていたか、それは初代吉左衛門がまだ存命であっ
たからだと推測される。こに青木島周辺の開発で記録に残る四郎丸村の住人、江島四郎
左衛門が開発に着手するのが慶長6年(1605)頃で、開発終了後藤原正喜と改名している
。江島四郎左衛門は本家筋の人物であり、先祖代々由緒あるその名を貰って四郎左衛門
と名乗り、初代吉左衛門が引退するか、亡くなった後、二代目吉左衛門を襲名した。と
考えられる。もともと肥前後藤氏は藤原利仁の末裔を称する。東北平泉における前九年
の役の戦功により武雄の地を与えられたといわれ、平安時代末期以降、代々武雄の地を
領してきた部族であった。後藤 貴明(ごとう たかあきら)は、戦国時代から安土桃山
時代にかけての武将だが、肥前後藤氏第19代当主(武雄領主)となっている。彼は、
大村純前の庶子とされ、この頃色々な名字や姓が当たり前だったようだ。庶子とは妾の
子で外子である。当時相続が大きく意味をなす社会においては、跡継ぎの確保が必要で
あった、一門の繁栄という観点から。相手は側室等の、多くの政略結婚が影響力や財産
の確保を目的として行われた。ただ家同士のつながりにより行われても、正室の子のみ
が嫡子であり、相続を受け継ぐまで側室の子は只の兄弟であり、用が無いと庶子として
外に出され家老の養子となって育つ。又身分差などで結婚できないとき相手は愛人で妾
等などであり、そうした家の外の子は非公認であり庶子である。又聖職者等、父親が妻
帯できない職業の場合も庶子だった。つまり子供でも嫡男嫡子と庶家庶子では、例え我
が子でも、殿様が如何にしようとも、大きな違いがあったのである。

57: 名無しさんAA:19/03/09 11:33
 柳川 銭紋  53

 大村氏家臣団の中には、もともと跡継ぎであった貴明を追い出す原因となった純忠に
反発する動きがあり、純忠がキリシタンに入信したことによって、貴明によしみを通じ
る者が続出し、貴明は純忠としばしばその西洋化の在り方で対立した。『フロイス日本
史』にも、大村氏と敵対する立場でしばしば「後藤殿」として登場する。永禄3年に、
(1560年)、貴明は当時実子がなかったことから、平戸城主の松浦隆信から惟明を養子
に迎えている。永禄3年9月、長島庄の旧主一族である渋江公師(貴明の従兄弟)に守ら
せていた潮見城(武雄市橘町永島)は、有馬晴純の軍勢に攻められ奪取され、貴明は直
ちに出陣しこれを奪い返す。しかしこの時、家臣渋江公師は貴明の怒りに触れることを
恐れて肥後国に逃亡した。その後兵を募って同年12月、今度は須古城(白石町堤)を攻
めるが落とせず敗退する。永禄4年(1561年)には、塩田(嬉野市塩田町)を攻めて、
領主・原直景を降伏させ、永禄5年(1562年)、貴明は大友宗麟に秘かに書簡を送り、
翌年、同盟を結ぶこととなった。永禄6年(1563年)7月、貴明は大村家臣団と呼応し
てクーデターを起こさせ、自らも出陣して大村氏の平定を試みる。しかし大筒により敗
退し(野岳の戦い)針尾島に兵を出して佐志方城を攻め落とし、かつ、佐世保、日宇、
早岐、針尾島の四ヶ村を自らの領土とした。なおこのとき、貴明に呼応した横瀬浦奉行
・針尾伊賀守とともに、大村純忠が前年ポルトガルに提供した横瀬浦港も焼討ちしてい
る。(『フロイス日本史』によれば8月15日の出来事とされてる)。龍造寺隆信が武雄
の北方に迫った時、貴明は隆信と和議を結び、和議に従って龍造寺氏の先鋒で須古城の
平井経治を攻めるが失敗している。柳川の城門見回りの平井氏の本家筋である。今度は
、平戸の松浦氏や諫早の西郷氏と呼応して大村方の彼杵城を攻め落とした。これに対し
、同年8月、有馬・大村の連合軍が彼杵城に奪還を迫るも撃退される。こうして有明海
側の鹿島方面からは有馬軍が塩田に迫ったが、これも撃退した。永禄9年(1566年)7月
、後藤貴明は大村純忠を攻めるが大村奪取は失敗する。元亀元年(1570年)4月には、
ついに大友宗麟による佐嘉城(別名、佐嘉龍造寺城・村中城)の龍造寺隆信攻めはいり、
協力して包囲網の西方向から参陣する。このときは大友氏に服属していた諸氏のほか、
有馬氏、大村氏、西郷氏、平井氏も包囲網に参加し、龍造寺方5千に対して、大友方は
8万が囲んだ。龍造寺の敗北は必至と思われたが、鍋島直茂(当時の名は鍋島信生)に
よる赤熊祭りの風体の奇襲により大友方は敗退してしまった(今山の戦い)。いまの面
浮流祭の起源である。田舎の農民にみたてて、祭りの風体で姉川城を叩いたのだ。難攻
不落とされたこの城も、この守りの兵の不備により、簡単にではないが落ちてしまった
のである。ここに不思議な後藤家の物語がある。つまり姉川城はこの戦国期に九州貿易
においての中心地であったのだ。後藤家は名の通り内藤の後にいた者だ。内藤家や武藤
家は朝廷から派遣された大宰府の次官で、大宰大弐に次ぐ官職として大宰少弐(だざい
のしょうに)と名乗った。鎌倉幕府では御家人の武藤資頼が任ぜられて以後に、武藤氏
の世襲となり、武藤氏は代々少弐氏を称するに至っていた。つまりこの武藤氏が「武」
の姓を貰った家人で後藤氏はその裏の商家としての名だったのだ。

58: 名無しさんAA:19/03/09 11:46
 柳川 銭紋  54

後藤 家信(ごとう いえのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将だが
永禄6年(1563年)、龍造寺隆信の子として誕生している実子である。しかし天正5年
(1577年)、後藤貴明の実子・晴明(後の龍造寺家均)を龍造寺氏へ養子に出す代わり
に、隆信の子・家信が貴明の娘・槌市と結婚して婿養子となった。つまり後藤家と更に
晴明と人身交換させられ兄弟婚を強いられた事になる。後藤家の晴明は後の龍造寺家と
して優遇されたが、本家家信は鍋島に押さえられた。肥前後藤氏20代当主(武雄領主
)となったが、天正12年(1584年)、島津氏・有馬氏連合軍との沖田畷の戦いにおいて
父・隆信が討ち取られ、出陣した家信も敗走したからだ。武雄の後藤山城(塚崎城)を
出て、要害の地である住吉城(武雄市山内町)に居を移した。なお『フロイス日本史』
によれば、隆信の死後、家信は何度もコエリュにキリスト教への入信を打診していた。
しかし、父・隆信や龍造寺家臣の戦死や兄弟からの家信への悪辣な仕打ちなどがあり、
気が狂って正常な判断ができなくなり、牢に入れられて監視を付される身となったてい
て自由な身ではなかった。と記されている。本来ならこの佐賀藩の藩主で佐賀城に入城
する身分だったが、武雄市山内町の住吉城に隔離された状態になって、幽閉された。こ
の住吉城(武雄市山内町宮野)は天然の要塞ではあるが川に挟まれた谷の窪地であり、
後藤山城(現武雄高校)の様な石垣のある丘陵地の城でない事からその事情が知れる。
瀬高清水山神籠石伝説では、昔「三井郡、高良山なるは、明治以前より、か(こ)うご
ういしと称せられ、此の遺跡、最も先ず学者に知られたるに因りて、後に處々ところど
ころに発見せられたるものにも、同名に称えらる。周防国、能毛郡、石城山にも類似の
ものあり」とある。として、この神域を兵と石で結界とした。と考えられている。事実
、神話でも「天照大神が天の岩戸に隠れた。天手力男命がそれを引き出した。その後大
神が二度と天の岩戸のもどれないよう、布刀玉命がしめ縄をその前に張った。」という
のが古事記である。この時兵を集めて壱万人に守らせた。と言う。この時守りに来た人
が西海人であった。とされる。この時守ったのが藤丸氏とされる。その後城に本丸二の
丸三の丸などと言う名に変わる前の丸が出来た理由だ。そしてその周りを後藤遠藤武藤
末藤が囲いその恩賞で名字を貰ったとされる。平安鎌倉期頃は佐賀大川の干拓地は連絡
取れる所までが末藤即ち後の松藤氏の所有だったそれより遠い所は遠藤氏とされた。で
は後藤とは最初から佐賀との境の江上や城島や神崎の周辺の者と言える。こうした後藤
家の本家が大和町鷹尾神社辺りに居を構えた貿易商であった事は良く知られていない。
鷹尾は、元々は古くからの商船運航の税の徴収や船の管理をした代官所の部落である。
船の荷物も町に高値で売らねば商売にならない。その為一時置き場として「瀬高」、つ
まり荷上げ所が必要だったのだ。大牟田に唐船の港ができた後でも その意味合いは強
く必要だった。山鹿灯篭で有名な山鹿でもそれは機能している。なぜ竜造寺氏を匿い、
鷹尾を守護武将で蒲池氏の家老の田尻氏が養育して縁を繋いだのか、それは後藤家の血
筋だったからだ。


59: 名無しさんAA:19/03/09 11:53
 柳川 銭紋  55

 かつて中臣鎌足は藤原氏を名乗った。彼が掴んだ天智天皇(中大兄皇子)からの信頼
はその後の藤原氏の繁栄の基礎となり、子孫である藤原氏の家系図を紐解くと藤原四家
(南家、北家、京家、式家)、そののちの五摂家(近衛家・鷹司家・九条家・二条家・
一条家)は公家社会では絶大な勢力を誇り、日本史上摂政の位に就いたのは藤原氏血族
だけで、関白も豊臣秀次以外は全て藤原氏血族で占められるほどだ。中臣鎌足は日本の
歴史上最初の女性天皇・推古天皇の時代(614年) 神祇官(朝廷の祭祀を行う官庁)の
長官・神祇伯(じんぎはく)中臣御食子(なかとみのみけこ)の嫡男として生まれた。
鎌足は幼少期から非凡な才能を開花させ「六韜(りくとう・中国の兵法書)」を暗唱し
、蘇我入鹿とともに、南淵請安(みなぶちのしょうあん)の塾の双璧と評されていた。
南淵請安とは、飛鳥時代の僧で、大和国高市郡南淵村(現明日香村)に住んだ南淵漢人
(みなみぶちのあやひと)と称される漢人系渡来族出身の知識人だったとされる。遣隋
使の小野妹子に従い高向玄理、僧旻ら8人の留学生、留学僧の一人として隋へ留学して
32年間もの間唐に住み、隋の滅亡(618年)から唐の建国の過程を見聞して、640年(舒
明天皇12年)に高向玄理とともに帰国し、隋・唐の進んだ学問知識を日本に伝える為に
、開塾したと言われる。中大兄皇子は中臣鎌子と請安の塾に通う道すがら蘇我氏打倒の
計画を練ったと伝えられる。権藤成卿によると、『南淵書』という本を著したとされる
が、現在では偽書と解釈されている。しかし、権藤成卿は『自治民政理』(昭和11年)
で、南淵書について次のように書いている。「予は先づ此に大化新政の本源を探求し、
南淵先生のことを略叙し、古今を一貫せる偉人の一班を、窺看することゝしよう。南淵
先生のことは、正史の表面には、中大兄皇子、中臣鎌足を従へさせられ、南淵先生の所
に至り、周孔の教を学ばんと請はせられた一節が見えて居る丈けである。併し、後世の
学者間に於て、古文献を渉猟せし林道春、貝原益軒等の時代に至り、先生を王仁の次に
置く様になつた。人名辞書に、推古朝隋に遊び、経術を以て称せられ、書百余巻を著は
せリ、其書今伝はらずとあるは、道春の考索を採録したものであらう。意ふに近江朝倒
覆の後、当時の事蹟が頻りに抹殺されたことは、疑ふべくもないことであつて、天智天
皇の御遺著百巻余、東寺に其目録を留めてある計りで、一冊も伝はつて居らぬ。南淵先
生の事歴及びその遺著の焚滅に帰したのも、此の時代に於ける、心なき官僚のなしたこ
とゝ考へらるゝ。但だ幸にも南淵書二巻が、制度家の秘籍として大中臣家に伝へられ、
元禄中同家の家難に依り、庶長子の友安と云ふ人が、筑後の蓮台僧正の下に隠れ、帰雲
翁と称し制度律令の学問を権藤宕山に伝へ、南淵書を授与したものである。」と書いて
いる。つまり『南淵書』を信じて居なかったが事情で全て焚書になったが筑後から出て
来て信じるに至ったが、なぜ中大兄皇子や中臣鎌子は詳しいのに南淵漢人は詳しくない
のであろうか。と問うのである。



60: 名無しさんAA:19/03/09 12:03
 柳川 銭紋  56

 また「予が家に南淵書を伝へたのは、宕山以後の事にして、宕山は柳川藩の安東省庵
に師事し、長崎に遊び明人鄭一元に就き漢音を学び朱舜水を引き、省庵との親交を結ば
しめ、後舜水は水戸侯に聴せられ、大いに修史上に貢献したことは、世間周知の事であ
る。それより宕山は、大中臣氏の伝を受け、制度律令の学を修め、漢唐三韓歴代の礼制
刑律の書を渉猟して一家の見を立て、処士を以て一世を終り、門人田中浩蔵に家塾を譲
りしが、浩蔵は宝暦中山県大弐事件の嫌疑を以て絶食して死し、幾もなく宕山の嫡孫寿
達も、高山彦九郎に親交ありし為め、幽閉中に死し、其子の延陵と云ふが家学を復興し
て、多数の子弟を養成し、養子松窗、遺子松門二人の代となつた。此時は安政慶應変革
の代に当り、学問を顧みるの遑もなく、明治維新を迎へたのである。松門は予が先考に
して、明治初年より文墨に隠れ、晩年に及び、予が支那朝鮮に来往せしため、特に南淵
書の校修を遺命して世を終りしが、千数百年間伝写を重ねたる本書は、誤謬錯訛甚しく
、其上蟲蝕敗爛の簡所多く、且つ支那朝鮮の史書に参較せねば、解釈されぬ処も尠くな
いので、纔に老学小沢打魚氏に依り、前後凡十年を費し、漸く読まるゝ迄に補修校訂し
た所、一条実輝公爵は、我家に於いても縁深き本書が卿等の努力に依り今日に至り世に
出(い)でしことは、彼のモーゼの書が石室を出でしよりも勝れる一大快事である。我
家の伝へに中興の祖と称する兼良公が本書を珍蔵せられしも 応仁の兵火に罹り焼失し
たので、之を終世の憾となし悲まれたと云ふことである。」と伝えている。つまり応仁
の乱で焼かれたとされた本書(南淵書)は千数百年間伝写を重ねて門人田中浩蔵に家塾
になった纔(わずか)に老子派の小沢打魚氏に依って、一条実輝公爵の後見で見つかり
発見をした。というのであるそれまでは、柳川藩の安東省庵にあって宕山によって守ら
れ舜水によって水戸藩にもたらされ田中浩蔵の家塾に来たと推測しているのである。と
なれば原本は柳川にあった。と言う事になる。それは何故かがここに又解かれている。
「権藤種盛は、文禄元年(一五九二)豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には見事に采配を振い、
手柄をたてるのであった。しかし、歴史は、秀吉のそれまでの恩に報いるために西軍に
かけた、種盛の子権藤伊右衛門種茂の前に、その流れを変えた。関ケ原の戦いである。
十八才で大阪方に参加した種茂は、戦い終って帰国の途中、東軍(徳川方)の黒田如水
が父と兄達を謀略をもって殺害した事を知り、しばらくは豊後中村に身をかくしていた
が、後に水田(現在の筑後市水田)に父と二人の兄を弔い、そのまま府中にきて住みつ
いた。と言う。ここに柳川が古代歴史書の宝庫として資料が山積みにあるのに、ことも
あろうことか、昭和や平成の時代になって、その多くが子孫を教育せずして無法の土地
政策にによって、墓も寺も、書物も遺物も、不幸にも福岡県は捨て去ったのだ。柳川の
誇りであったお堀でさえ埋めてしまい、鷹狩りの城主の地を勝手に売り買いし、城を燃
やし遺物の痕跡さえも辿られぬ様になった。要するに柳川人は今世紀最大の大馬鹿で、
福岡県人はそれに輪をかけた行政をする非人道ぶりなのである。


61: 名無しさんAA:19/03/09 22:52
 柳川 銭紋  57

 当時の三井の府中は、高良山蓮台院座主の(神領)であったので、諸侯が互いに管理
する安全地帯であった。種茂は、再三の立花氏(柳川城)の招きを断わり、武士を捨て
て医術を学んで、これより府中の「権藤氏」が末永く御井町にその吊を留めることにな
るのである。種茂の孫、栄政は祖父の親友柳川の碩学、安東省庵を師とし、明から長崎
に亡命して来ていた人について薬学を学び、さらに江戸に上って祖父の兄種賢について
診察術を学んだ後、帰郷するとたちまち、その医吊は広く四方にきこえ、諸候から招か
れたがすべて辞退した。その頃、高良山座主寂源を頼って京より逃れてきていた大中臣
友安が府中にいて、栄政は彼に「典制学」を学び、秘書、『南淵書』を授けられた。こ
の『南淵書』が後に昭和の初期の思想家に少なからず影響を与えた権藤家の末喬の一人
、成郷の『社稷国家論』へと発展していくのである。「社稷」とは、「社」は土の神、
「稷・稜」は五穀の神で、自然と共同社会(村落等の地域共同体)の恩恵に感謝する。
わかり易くいえば、昔の年寄りがよく口にした、「お天道さまにすまない」「世間様、
今日様に申し訳がたたない」などという、人間が日常正しくあらねばならない生き方、
姿勢を説いたのであった。栄政はその後、医業を長子の種栄(寿侃)に譲り、愛宕山の
南に、家塾を開き、「宕山」と号して幾つかの事業を成している。その一つには、当時
の座主寂源を説いて、高良山に大和杉六十余万本を植えさせた。また次男には、原野を
開墾させたのである。宕山の教える学問は、「我が道は、飲食、男女、衣服、住居にあ
り」として実用を旨としていた。それ以来、権藤家の塾は江戸時代初期から明治の終り
まで約三百年間、筑後地方における医学・経学(孔子の教えに基づいた学問)・史学等
の教育のかなめとして、人材育成に大きく貢献したのである。江戸時代において、人材
の多くは城下町や郷村の私塾出身者であった。私塾では、自分の力で生き抜く人物とな
ること、まさしく実地有用の人物を養成していた。宕山没後、塾はその高弟、田中宜卿
なる人物によって学統が継がれ守られていった。田中宜卿は医吊を玄白、夢庵と称して
、はじめは大阪で医者として開業していたが、府中に来て儒医学を宕山に学んだ。宝暦
八年(一七五八)徳川幕府は、尊皇首唱者の公卿十七人の官位を剥脱して、竹内式部他
二十人余を捕えて京都より追放したが、式部と親交の深かった宜卿にも、その事件の嫌
疑が及び、その後自ら十七年間居し、謹慎した。その間、宕山の孫、寿達に学問を伝え
、後食を断って没した。その墓は権藤家の墓地にあるが、墓石には 当時の幕府からの
追及を逃れるかのように、氏吊も記されておらず、享年も上詳のままである。宕山が秘
蔵していた『南淵書』は、宜卿の死後全国を転々としたが、大正初期になって宕山から
数えて五人目の子孫成卿の手に戻ることになるのである」と言っている


62: 名無しさんAA:19/03/09 22:52
 柳川 銭紋  58

『南淵書』の巻初にはこうある。「日本には古くから続く自然自治について明らかにす
る。古の民は自然に治まったのである。書籍が残っていないから詳しいことはわからな
い。しかし、飲食のこと、男女のことは人間共通の性質である。また死亡貧苦は人間が
つねに患うものである。その性質を生かし、患いをなくすことはみな自然に行なわれる
ことである。勧誘しなくても人が赴き、刑を与えなくても民が勤め励む。不思議で計り
知れない知恵が生まれ、家が海に近い者は漁をし、山に近い者は狩りをする。古語にあ
るとおり山に福あり、海に利あり。それぞれが天の分に従うとはこのことであるとして
、これが自治のもっとも大きな源とした。そして日本国の運営の方針としては、田と里
を整理して必ず約束を守り、民を治めること父母の子を愛するごとく、士を持つこと兄
の弟を愛するごとく、飢えたり寒がっている人を見たらその為に憂い、その労苦を見た
らそのために悲しみ、賞罰は身に加えるがごとく、税を取るのは己に取るがごとくせよ
」特に南淵先生は貧富の格差が外交の困難を招くことを例証されている。さらに南淵先
生は人類の祖はひとつだと説いている。それは中国北部の砂漠、北漠の地が起源であり
、どれほど時間が過ぎても人間としての性質に違いはない。」と書いている。少々、や
やこしいので話を変えよう、「元々は日本列島は、確乎たる支配体制、国家らしい国家
が存在しておらず、それを古(いにしえ)とし、統治機構らしい統治機構がなくとも、
自然に治まっていた事、自然自治≠ナあった。」「死亡と貧苦は人間が常に患うもの
である為自然発生的に祀りごとをして政治を行って来た。」「仏教的な解釈入れて「刑
を与えなくても、日本の場合は律令、「律」と「令」という基本法典を作れば、令(行
政令)が先に出来上がって、その後に律(刑法)が出来上がっても、東洋思想の道徳に
則って国を治める事が出来ると思う。と話している。この頃既に「万世一系」でその素
は中国大陸の中心の砂漠にある。と説いていたようである。小野妹子時代に渡って来た
渡来人とはその後、七姓漢人(しちしょうかんじん)とされた。応神天皇の時代に阿知
使主とともに日本に帰化した漢人は、朱・李・多・皀郭・皀・段・高の7つの姓があっ
た。単に七姓とも表記されるが、漢人族は大和国今来郡、のち高市郡檜前(ひのくま)
郷に住んだ。とされるがこれは嘘を取りつけたものだろう。漢人族は大和国今来郡と言
えば熊本の津に当たる。今の天草あたりから南になる。百済は『三国志』魏書東夷伝倭
人条の項目で狗邪韓国の後継にあたる金官国を中心とする地域は、三韓の弁辰、弁韓・
辰韓の一部、馬韓の一部に百済があったとしている。ここに大内氏が、わざわざ百済の
聖王の第3王子である琳聖太子の後裔と称した理由がある。


63: 名無しさんAA:19/03/09 22:56
 柳川 銭紋  59

 中臣鎌足は最初は皇極天皇(こうぎょくてんのう)の弟である軽皇子(かるおうじ)
に接近した。しかし、人物的にも能力的にも物足りず、次の人物を探したという。ある
日蹴鞠の会合で皇極天皇の息子である中大兄皇子と蹴鞠の会で面識を得て話が弾んだ。
蘇我氏に対して同じ志を持つ二人はすぐに打ち解けあい、密かに蘇我氏討伐の秘策を練
り上げていったとされる。中大兄皇子は舒明天皇(じょめいてんのう)と皇極天皇(こ
うぎょくてんのう)の間に生まれた舒明天皇の次男にして天皇家のサラブレッドだった
。兄は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)でこちらは母が蘇我馬子の娘であり、
蘇我氏が全面的にバックアップして天皇への階段を登っている。蘇我入鹿の方は古人大
兄皇子を天皇にするために、最大のライバルと見られていた聖徳太子の息子・山背大兄
王(やましろのおおえのおう)を謀殺し、政治を私物化したとされる。蘇我氏打倒の策
を練り、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏一族でありながら入鹿をよく思っていなかった
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)を味方に引き込んだ。反蘇我
氏の勢力を拡大して、645年7月に行われた三国の調の儀式(新羅、百済、高句麗か
らの貢ぎ物を受けとる儀式)の席上で蘇我入鹿を暗殺するに及んだ。翌日には、強力な
軍を持つ蘇我蝦夷を討伐のため法興寺に軍勢を集結させると、蝦夷は自邸に火を放って
自害、蘇我宗家は滅んだとされる。その後も蘇我入鹿に推されていた古人大兄皇子を、
謀反の疑いで討伐、朝廷の潜在的な対抗勢力を葬り、翌646年、天皇中心の律令国家
を目指す指針である改新の詔が出され、中大兄皇子と中臣鎌足は新政府の両輪となって
次々と政策を打ち出した。これが大化改新だった。その二卿制で政権を切り盛りしたが
、左大臣の阿倍内麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂と対立しますが、中大兄皇子は一
貫して中臣鎌足を支持し、蘇我倉山田石川麻呂と阿倍内麻呂は失脚し、また孝徳天皇と
中大兄皇子が対立した時でも、中臣鎌足は中大兄皇子の側近として事態を収拾している
。中大兄皇子と中臣鎌足は鎌足が死去するまで知り合ったときと変わらずお互いを支持
し続けました。こうして、中臣鎌足が病の床に臥せっているとき、見舞いに訪れた天智
天皇(中大兄皇子)は鎌足に対し、これまでの功績を称え官位の最高位である大織冠を
授け、内大臣に任じ、「藤原」の姓を贈り、この翌日に、中臣鎌足は55年の波乱の人生
の幕を閉じた。とされる。つまり藤原姓は、歴史上天智天皇がくれた物だったのである
。しかし、藤原鎌足亡き後、政権の中枢から退けられた。その後鎌足の次男藤原不比等
が藤原氏の権勢を盛り返し、再び表舞台に登場させ、平安時代には左大臣、摂政として
円融、花山、一条、三条、後一条の五人の天皇に使えた藤原道長が摂関政治を行った。
道長期に最大の寺院・法成寺を建立し、息子・藤原頼通は摂関政治の全盛期を作り出し
その象徴である平等院を建立している。華やかな皇族、貴族文化を後世に伝え、藤原氏
の家系図は隆盛を見せた。平安時代以降、摂関政治は衰退し院政や武士の台頭で藤原氏
の権勢は衰退しますが、公卿としての権威が衰えることはなく、公家社会で最高の家格
であり続けた。つまり藤の姓は鎌足にさえ死ぬ間際にまで貰えなかったし使えなかった
のである。


64: 名無しさんAA:19/03/09 23:01
 柳川 銭紋  60

その後天下の旺盛を極めたのは藤原道長である、彼の誤算は天皇家の誤算でもあった。
一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子の子として後一条天皇は産まれた。道長
にとって待望久しい外孫皇子出生はその後の一族の栄華の初花となった。三条天皇の崩
御によってそのまま践祚され、2月7日に数え8歳で即位した。幼帝のため道長が摂政と
なり権勢を振るい。道長の娘で叔母にあたる威子を中宮で、外戚の地位を藤原氏御堂流
以外に渡すまいという藤原頼通と母彰子の意向によりその中宮をそのままにした。この
時代には珍しく他の妃を持たず、皇子女は内親王二人のみで世継ぎの皇子には恵まれぬ
まま、数え29歳で崩御している。この頃治部省の次官である治部大輔制度があった。時
々治部大夫と書かれるが簡略誤記である。治部大輔の官位相当は正五位下として地方を
司る官位だった。治部大夫丞の略で治部大夫と表記だれた。治部省の判官(三等官)で
ある大丞(官位相当は正六位下)なり少丞(官位相当は従六位上)に任ぜられ、しかも
従五位下など五位に叙せられた場合、大夫といった言い方が可能となる。治部省は外事
・戸籍(姓名関係)・儀礼全般を管轄し姓氏に関する訴訟や、結婚、戸籍関係の管理や
訴訟、僧尼、仏事に対する監督、雅楽の監督、山陵の監督、外国からの使節の接待など
を職掌としていたと言われる。姓氏の訴訟に関しては解部が設置されて専任した。しか
し平安時代以降は姓氏に関する事項を扱うことは少なくなり、894年(寛平6年)になり
菅原道真の建白による遣唐使廃止以降、中国などとの正式な国交がなくなった。外国か
らの使節の接待もしなくなり更には、戸籍制度の解体で戸籍関係の職務も遂行不可能に
なって、もっぱら僧尼、仏事、雅楽及び山陵の監督を職務とすることとなったのである
。長官である治部卿は正四位下相当であるが、公卿が兼任する例が多かった。その一例
としては、藤原兼家が藤原兼通と関白の座を争った際に、負けた大納言兼家が右大将か
ら治部卿に降格されたという事件が挙げられる。つまり天皇の代理とされる関白の差配
で政治の実行部隊であった。道長がもっとも力を入れたのが、後宮政策で、次々と宮中
に娘を入れ、外孫が登位することで、不動の地位を得て、息子達の権力に及ぼしていた
。道長は、厚く仏教に帰依し、祖先を供養するために、宇治の木幡の墓地に浄妙寺を立
て、晩年には法成寺を建立した。宮中とは幕府の大奥の様な物でもっとも権勢を持って
いた。不比等の次男の藤原房前は参議となって、藤原北家の祖となったが、彼が九州を
支配しようと企て、天平勝宝2年(750年)第12次遣唐使の大使に藤原清河(ふじわらの
きよかわ)を任じた。なお、副使には大伴古麻呂と吉備真備が任じられた唐使にした。
奈良時代藤原北家の祖である参議・藤原房前の四男。唐名は河清(かせい)となり中国
の渡航で難破漂流し南方の驩州(現在のベトナム北部)に漂着し土人の襲撃を受けたり
、苦労している。遣唐大使として入唐し、阿倍仲麻呂と唐朝に仕えた。暴風や安史の乱
により日本への帰国は叶わず、在唐のまま死去したが、少し前に沖縄にも渡航している
。藤原氏と言う欲の強い人々が、こうして大和朝廷を蝕んでいった。

65: 名無しさんAA:19/03/09 23:15
 柳川 銭紋  61

天平時代には聖武朝前半の朝廷において圧倒的な権力を誇っていた藤原四兄弟が相次い
で亡くなった後、9月に従六位上から三階昇進して藤原広嗣が大宰少弐となって下向し
ている。藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)は、奈良時代に起きた内乱で、藤
原広嗣が政権への不満から九州の大宰府で挙兵したが、官軍によって鎮圧された乱とさ
れ、今一不明な内乱である。天平9年 (737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が
天然痘の流行によって相次いで死去し、代って政治を担ったのが橘諸兄だった。諸兄は
軍拡政策と天然痘による社会の疲弊を復興するため、新羅との緊張緩和と軍事力の縮小
政策を取った。また、唐から、帰国した吉備真備と玄ムが重用されるようになり、藤原
氏の勢力は大きく後退した。天平10年に (738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)
は大養徳(大和)守から、大宰少弐に任じられて、大宰府に赴任したと言う。この人事
は対新羅強硬論者だった広嗣を中央から遠ざけ、新羅使の迎接に当たらせる思惑が少々
はあったが、広嗣はこれを左遷と強く感じ、強い不満を抱いた。天平11年(740年)4月
に新羅に派遣した遣新羅使は、追い返される形で8月下旬に帰国したがこの内容が掴め
ず。憤った広嗣は天平12年(740年)8月29日、政治を批判し、吉備真備と玄ムの更迭を
求める上表を送った。この時、何故か同時に筑前国遠賀郡に本営を築き、烽火を発して
太宰府管内諸国の兵を徴集し闘う準備をした。軍縮によって官兵の動員には時間がかか
ると予測した広嗣は、関門海峡を臨む登美、板櫃(豊前国企救郡)、京都(豊前京都郡
)の三郡鎮に兵を増派を命令した。また、中央に広嗣の政治路線に同調する中臣名代、
大和長岡といった実務官人は少なくなく、挙兵に応じて在京の支持勢力がクーデターに
成功することに期待した。ともいわれる。9月、広嗣が挙兵したとの報が飛駅によって
都にもたらされると、聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍に紀飯
麻呂を任じて征伐を命じた。こうして、東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五
道の軍1万7000人を動員するよう命じた。翌日、朝廷に出仕していた隼人の24人に従軍
が命じられた。翌々日、佐伯常人、阿倍虫麻呂が、勅使に任じられ、朝廷は伊勢神宮へ
幣帛が奉納され、また、諸国に観世音菩薩像をつくり、観世音経10巻を写経して戦勝を
祈願するよう命じられた。こうして、朝廷では大野東人を将として1万7,000の兵で鎮圧
にあたることが整い、整い次第鎮圧に向かわせる。戦闘はほぼ7ヵ月に及んだが,広嗣
は捕えられて処刑され、鎮圧された。この結果、広嗣の出た藤原式家は一時衰えて南家
が台頭し、この後遷都が計画されて、玄ム、真備が左遷された。この時の藤原広嗣の子
孫とされるのが柳川の式家であるし大川の藤原家とされる。新しい政権は、知太政官事
鈴鹿王(長屋王の弟)、大納言橘諸兄(はじめ葛城王,母は橘三千代)、中納言多治比広成
らによって構成され、これに唐から帰国したばかりの玄ム(げんぼう)と下道真備(し
もつみちのまきび)(のち吉備真備)が参画し、その性格は反藤原氏的である事からある
意味、大きな政変劇だったのだろうとも言える。



66: 名無しさんAA:19/03/10 16:14

 大化の改新の功績によって天智天皇から「藤原」の姓を名乗ったのは、中臣鎌足が、
天智天皇から大和国高市郡藤原里を知行地と賜って、同時に藤原姓を賜わってからだ。
この後藤原氏は、奈良時代や平安時代(特に藤原道長の時)に栄華をきわめ、平安時代
の後期には朝廷の役職の大半を占めた。地方に下った藤原氏は、中央政界の藤原氏との
区別するため、「〜の藤原氏」と称した。佐藤、斎藤、加藤、伊藤など。その為「藤」
族の名字の後に付くのが「〜の藤原氏」の意味だとされる。つまり後藤氏は後(うしろ
)の藤原氏であり松藤は松(マツ)の藤原氏と言う事になる。だが藤丸氏は藤原氏から
子孫や家来ではなく、天皇から直接姓を貰った可能性が強い。実はこの丸の語尾は、こ
の地九州の最高神官の地位を意味する。つまり安曇の磯良丸の武神の子孫を意味してい
るのである。飛鳥時代の聖徳太子が生きていた時代に、聖徳太子は「天皇を中心にした
政治」を作り上げ冠位12階を作った。その聖徳太子が亡くって蘇我入鹿という人物が
天皇に代わって政治をし、この事態に危機感を覚えた中臣鎌足と、当時の天皇の御子息
であった中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害し、「天皇を中心にした政治」の完成となった。
この完成に「中臣鎌足」という人物が、中大兄皇子から「藤原」の姓を下賜され藤原氏
の祖となったのである。そして、中大兄皇子は皇太子の立場にありながら日本の政治に
深くかかわり、後に父の跡を継いで天皇となり、亡くなる前日に天智天皇を名乗った。
という。この天智天皇から授かったとされる藤とつく家名は朝廷内踏み絵として利用さ
れ、藤の家紋はその後の九州平定に大友氏が欲しかったものだとされる。中大兄皇子(
天智天皇)に接近し、まず蘇我倉山田石川麻呂の娘と中大兄皇子を結婚させて蘇我氏の
勢力分断をはかり、乙巳の変(大化の改新)後に軽皇子を孝徳天皇として即位させた。と
言う。こうして鎌足は内臣(最高顧問)になった。ただし内臣としての事績は、ほとんど
不明であり、正倉院に伝存する赤漆槻木厨子は百済の義慈王が鎌足に贈ったものである
。という記述などから外交面での交流が推定される程度だとされる。つまり天智天皇の
名も藤原の名もそもそもは死ぬ間際もしくは死んでからの名である。又その前の名中臣
の名も改革が成功し冠位を授かったからの名である。百済の義慈王(ぎじおう)は百済
の第31代最後の王(在位:641年〜660年)である。既に日本に逃れていたもので諱の
義慈からとられた。第30代の武王の嫡男である。『旧唐書』などには扶余義慈として現
れる。645年7月に行われた三国の調の儀式(新羅、百済、高句麗からの貢ぎ物を受
けとる儀式)の席上で蘇我入鹿を暗殺するに及んだ理由は、ここで新羅、高句麗の使い
に対して事件が起こった。とも取れる。百済滅亡は高句麗と共同し新羅を攻めていたが
、逆に唐・新羅同盟を成立させてしまい、660年に唐に滅ぼされた事による。

67: 名無しさんAA:19/03/10 16:14
 柳川 銭紋  63

 『北斉書』に真興として現れる新羅の24代真興王は、この時代に朝鮮半島を未曾有
の戦国時代としたと記している。彼の治績として特筆されるものは、積極的な対外戦争
と領土拡張を進めた事だ。541年より百済との同盟関係(羅済同盟)を保ち、548年に、
高句麗が百済に攻め込んだときには百済を助けた。がこれは日本との同盟によるものと
考えられる。645年 の蘇我入鹿の暗殺の後でも日本は朝鮮に進軍や援軍を送るものと思
っていたのだ。しかしもともと、皇極天皇は、中国の唐の長安に習ったような中央集権
国家を目指していた。そのためにも、飛鳥京の建設は不可欠と考えていた人物である。
ここに次期天皇の第一候補であった山背大兄王は慎重意見で立ちふさがっていた。既に
父の聖徳太子が同じ唐重視で、斑鳩に都を築きあげており、一族は、上宮王家と呼ばれ
、斑鳩を拠点としていた完成していたからだ。日本書記には、入鹿の父の、曽我蝦夷は
山背大兄王が襲撃された事を知って、「入鹿は実に愚かで横暴な悪事を行ったものだ。
」と、激怒したとされている。つまり誰も入鹿を止められなかったが、曽我氏も又この
行為を愚行に見えていたのである。これはまた入鹿も、皇極天皇の命に背けなかったの
だろうが本当に山背大兄王が襲撃を起したのかは疑問だ。その疑問は、皇極天皇が、山
背大兄王を討った入鹿になんのペナルティを与えていないばかりか、次の天皇として、
第2候補だった弟の軽皇子ではなく、第3候補で曽我の入鹿の従兄弟にある古人皇子を
後継者として指名している。当初は次期候補だった軽皇子は、入鹿のこの山背大兄王を
襲撃したことによって、年齢的にも、血筋的にも、最も近い皇極天皇の弟である軽皇子
は、完全に天皇からの朝廷から完全に脱落した。ここに「入鹿暗殺」の大きな動機が生
まれた。新宮であった中臣鎌足家は、代々、神道祭事を携わっていた。しかし、仏教を
報じた入鹿と対立し、中臣家にはないがしろにされ高い地位は与えられなくなっていた
。日本書記に鎌足が、「入鹿は、天皇と臣下の間の秩序を破り、国家を我がものとする
野望を抱いている。」と言った様に書かれるのはその為だ。しかし、皇極天皇は、飛鳥
京の建設に、労働力を集める必要があり「東は遠江国、西は安芸国に限って宮廷を造営
する丁を徴発せよ。」と命令したと日本書記に記述される。当時の日本において、豪族
が各地を支配して、天皇と言えども豪族の同意がなければ民の動員は難しいものだった
。思うように労働力の動員は難しい中で、入鹿は、天皇の宮廷を建設することには協力
せず、更に、自分の従兄弟の古人皇子が太子になったことで、「甘橿岡(あまがしのお
か)」に天皇の宮廷を見下ろすように、先に大邸宅を築いていた。この時、最も豪族の
中で力を持っていた入鹿が飛鳥京の建設に活躍したという記述は一切ない。つまり、こ
の時、皇極天皇は、その点当てにしていた入鹿に対して怒りがあったと言える。更に、
入鹿は、屋敷が完成すると、その大邸宅の門を「谷宮門(はざまのみかど)」と名付け
、自分の子供たちを「王子(みこ)」と呼んだといいます。「みかど」とは宮廷の門の
ことを意味し、「みこ」とは皇族の呼称です。こうした入鹿の振る舞いが、皇極天皇の
怒りを買い、皇極天皇の気持ちが軽皇子と中臣鎌足に優位に働いて行った。


68: 名無しさんAA:19/03/10 16:14
柳川 銭紋  64

 この皇極天皇が入鹿に怒りを持っている傍に、軽皇子は改革を実行するという手土産
を持って現れた。その当時、豪族が支配していた土地と民衆を、天皇が豪族を介さない
で直接支配できるという改革制度、いわゆる「公地公民」の提案である。つまり豪族の
持つ家賃や地賃収入に対して、関係なく朝廷が直接税を徴収する形だ。この制度によれ
ば希望する大規模な都の建設を行うことができる。これに大いに動かされた皇極天皇が
、軽皇子の提案に賛成したのは当然だった。朝鮮半島の3つの国からの貢ぎ物が届いて
、天皇に奉納される儀式の最中であったとされています。その場に立ち会ったのは、皇
極天皇、入鹿、古人皇子の3名と天皇の貢ぎ物を取扱う、石川麻呂と記述されている。
この石川麻呂は、中臣鎌足の仲介で軽皇子と組んだ人物で、こうして暗殺に及んだのだ
。日本書記には、最期に入鹿は、皇極天皇に「私に何の罪があるのでしょうか?」と聞
いたとされる。入鹿暗殺から2日後、皇極天皇は引退し、軽皇子が即位し、孝徳天皇と
なり中大兄皇子は、その後継者である太子となった。即位後、元号を大化に改め、日本
の律令体制の礎となった改新の理を発布します。その第1条には「大臣以下、豪族、村
長たちは民をすべて差し出すように」という公地公民を謳ったものでした。この孝徳天
皇(軽皇子)が、宣言した公地公民こそ、飛鳥京建設を目指す皇極天皇が待ち望んだも
のと言える。この入鹿暗殺の背景としては、入鹿が曽我家一門の繁栄だけを考慮してい
たという横暴さはあったと言えます。しかし「曽我」と言う名が現す様に木曽山麓での
地出で自分達のもの。と言う意味から原住民の豪族だったのだろう。しかし、以上のよ
うに飛鳥京建設ということを背景に、軽皇子の天皇への後継者争いの犠牲になった。と
いえる。入鹿暗殺をきっかけにして、公地公民の制度が出来上がり、天皇を中心とした
中央集権体制が出来上がっていくという意味で、日本の歴史上重要な位置付けだと言わ
れている。こうしてこれまで朝鮮応援が、豪族の合議制から簡単に朝廷のみの意向で出
来る様になった事で百済は安泰かに見えた。蘇我入鹿は、蘇我蝦夷(えみし)を父に持
ち、蘇我馬子(うまこ)を祖父に持つ飛鳥時代の権力者の家系に生まれた。暗殺後皇極
天皇は、真っ青になってその場から立ち去り、蘇我氏に味方しようとする人たちはいま
せんでした。翌日、もう終わりだと覚悟を決めた蘇我蝦夷は自邸に火を放って自害し、
蘇我氏の独裁は一気に崩れ去った。かつての蘇我馬子は、皇位継承と仏教保護の確執で
、当時の2大勢力の片方の物部氏と対立したが、蘇我氏VS物部氏の争いは、仏教を保護
したいと考えた聖徳太子とタッグを組んだ蘇我氏に軍配があがり、そして、蘇我馬子は
娘婿となる厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に据えて、ともに政治改革を推し進めていっ
た。こうして朝鮮半島と同じ思想的基盤を整えた形だったが、その後の歴史は違った。



69: 名無しさんAA:19/03/11 20:09
 柳川 銭紋  65

 かつて541年より百済との同盟関係(羅済同盟)を保ち、548年に、高句麗が百済に攻
め込んだときには百済を助けた新羅だったが、のちの24代真興王は、積極的な対外戦
争と領土拡張にでた。550年 の高句麗と百済との交戦の時には異斯夫を派遣し、両国間
の係争地である道薩城(忠清北道槐山郡)及び金幌城(忠清北道鎮川郡)を奪い取り、
次の 551年には居柴夫(金荒宗)らを派遣して高句麗領に侵入し、竹嶺付近を10郡の
都市を奪っている。(慶尚北道栄州市から忠清北道丹陽郡) 553年に、百済が高句麗から
取り戻したばかりの漢山城(京畿道広州市)を含む一帯を奪い、漢江流域に新州を設置
したのである。このことで百済との関係は悪化し、 554年には百済は、聖王が出て、伽
耶と連合して管山城(忠清北道沃川郡)に攻め入ったが、新羅は逆に聖王を戦死させた
。聖王は中国南朝と結び、また新羅・倭との連携を図って高句麗に対抗し百済の伝統的
な外交態勢を再び固めた。しかし、529年 には高句麗の安臧王の親征に勝てず、2000人
の死者を出した百済と伽耶の連合軍2万9千600を殲滅した。562年には異斯夫と斯多含と
を派遣して、伽耶を滅ぼし、洛東江下流域を制圧したのであるが、倭国の応援が無い為
といえる。541年 任那復興を名目とする新羅討伐を企図し、大和朝廷の介入を要請した
任那復興会議だが、時の舒明天皇は 641年崩御し、皇后であった宝皇女が即位した為に
(皇極天皇)却下され蘇我氏の専横は更に甚だしくなった。皇極天皇元年(642年)夏、
日照りが続いたため、蝦夷は百済大寺に菩薩像と四天王像をまつり衆僧に読経させ焼香
して雨を祈ったところ、翌日僅かに降った。しかしその翌日には降らなかった。が8月
皇極天皇が南淵の川辺で四方を拝して雨を祈り、たちまち雷雨となり、雨は5日間続い
たという。これにより人々は「至徳天皇」と呼んだ。蘇我氏が天皇家が古代君主の資格
である祈祷力比べで、天皇家が勝っていた。と後に書かれた史書の『日本書紀』が主張
している理由になった。百済の大和朝廷に対する要請は、百済主導の伽耶諸国連合体制
を承認することと、新羅に対抗する為の援軍の派遣であったが、天皇から武具や援軍が
送られたのは 547年以降のこととなる。ここで伽耶(大伽耶)の滅亡によって朝鮮半島
南東部が、すべて新羅の領域となったとする恨みが国内にあった。こうして三国時代と
なった後、新羅の武烈王は唐からの遠征を撃退した。勢いに乗った高句麗と伽耶地方を
80年ぶりに新羅から奪回し百済からの圧迫で疲弊し窮した新羅は隣国の支援を求めて、
王族の金春秋を高句麗や、日本に派遣したが、成果を挙げることはできなかったという
。ところが、突然に、648年になって、唐から派遣していた金春秋が、太宗の厚遇を
受けた。「特進」の正二品の地位が与えられ、新羅は支援を得ることに成功する。唐・
新羅の同盟の結成である。さっそく翌年、金春秋は息子の金文王を唐に残して帰国し、
唐の恭順を示すため、高宗の永黴元年(650年)からは、新羅独自の年号を廃止し、唐の
元号を使用し、日本の645年7月に行われた三国の調の儀式には、以降出席しなかっ
た。この朝鮮三国の朝貢外交の儀式でこの時に起こった政変が唐を動かしたのである。
新羅は隣国の支援を求め、日本に調停もしくは救援の兵を求めたにちがいないのは事実
であろう。この時の最高政治顧問の蘇我入鹿と軍の最高実力者の将軍蘇我蝦夷を倒した
のは、恐らくは派兵する答えをしたからであり、これに反対していた鎌足の謀反が唐に
伝え聞くに及んで唐・新羅の同盟の結成となったと言えるのだ。つまり日本が朝鮮に渡
らないのであれば、唐は進出しても良い。と言う考え方で役職を授けた。と推測される
。現にこの事件以降急速に百済は亡国となり滅ぼされるのである。正に兵力のない国が
無くなった理由は、他の国の外交使のいる目の前で混乱が起きて、拒否された事にある。

70: 名無しさんAA:19/03/11 20:12
 柳川 銭紋  66

 実は藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)はこの大化の改新によって百済から
亡命してきた者の混乱に抑えが効かなかった事象の事件なのである。大化の改新によっ
て課税が新たになった。その上朝鮮から貢物も無くなり、逃げてきた移民も多くなった
。こうした時に、藤原広嗣は大宰少弐となったが、日本の最初の怨霊の神官ともなった
。遣唐使達は、唐の最新文化を日本に輸入してくれた大変重要な遣使達ではあったが、
戦乱後に朝鮮で流行った天然痘という疫病も又、日本に持ち込んできていた。その為日
本においても流行り、737年、長屋王の変からわずか8年後、天然痘の大流行で不比
等の4人の息子は皆亡くなってしまう。まさに、栄華必衰。天然痘は、藤原4兄弟の他
、多くの官僚の命を奪って日本を混沌とさせていた。聖武天皇は、この緊急事態を受け
、天然痘により亡くなった幹部たちの欠員を補充する必要に強いられた。藤原不比等の
政権の末期から、日本は新羅に朝貢させることで安定した外交関係を築き、それを前提
とした軍事縮小を行って、経済的な余裕を持っていたのがひっくりかえっていた。続く
長屋王も軍縮路線を継承したが藤原四兄弟に討たれてしまい。藤原四兄弟は唐と対立す
る渤海と同盟し、唐を支援する新羅に軍事的圧力をかける外交方針を取って、軍事強大
路線に転じていた。それに伴い、西海道に節度使を置いて、大規模な演習を行うなど、
軍事拡張路線と兵の献上を協力に推し進めていた。代りに軍官を下向させた。これが、
天然痘の大流行を招いた。中臣 名代(なかとみの なしろ)はこの時代の貴族だった。
小錦上・中臣垂目の孫で、小山中・中臣島麻呂の子。官位は従四位下・神祇伯である。
水田水天宮伝説では、大和長岡(やまと の ながおか)は、大倭長脚足宿禰。(やまと
 ながあしのすくね)として奈良時代の下向貴族の明法家だった。初名は小東人。姓は
忌寸のち宿禰。刑部少輔・大倭五百足の子とされる。官位は正四位下・大和国造。若い
頃から刑名の学を好み、文章作成を得意としたという。既に、霊亀2年(716年)遣唐使
に請益生として随行し入唐している。それまで疑問とされていた中国事項について、在
唐中に多く解明したとされる頭脳明晰な能力者だったのだ。帰国後は法律を論じる者は
長岡に付き従い、教えを請うたという。養老6年(722年)『養老令』撰定の功労により
功田4町を与えられた。この時の位階は従六位上。天平9年(737年)神の宣託があった
と、一族の水守と共に宿禰姓を賜与され、他の同族は連姓に改姓した。また同時に正六
位上から外従五位下に昇叙の上、あしぎぬ20疋を与えされた。と言う。天平10年(738)
刑部少輔に任ぜられている。だが、しかし、天平13年(741年)藤原広嗣の乱において、
連座して流罪となったのだ。それでものちに赦免され、天平16年(744年)西海道巡察使
次官、天平18年(746年)摂津亮を経て、天平19年(747年)には従五位下に叙せられて
いる。孝謙朝から淳仁朝にかけて、 天平勝宝2年(750年)従五位上〜〜天平宝字7年(
763年 )従四位下と10年間に順調に昇進し、駿河守・紫微大忠・民部大輔・左京大夫
・河内守を務めている。


71: 名無しさんAA:19/03/11 20:12
 柳川 銭紋  67

 大和長岡(やまと の ながおか)は、大倭長脚足宿禰。(やまとながあしのすくね)
として、奈良時代の稀有の下向貴族の明法家である。しかし、彼の評価は、地方官とし
ては政治に仁恵がなく、部下の官人や人民はこれを患えたという。天平宝字8年(764年
)右京大夫に任ぜられるが、老齢のため致仕した。神護景雲2年(768年)賀正の宴にお
いて称徳天皇の詔で昇殿を許されるが、鬢髪は豊かで所作も作法を違わなかったことか
ら、天皇に年齢を問われ、80歳になったと答えている。これに天皇は久しく感嘆して自
ら位記を書き正四位下に昇叙した程だ。しかし、彼については多くの事象が不明である
。延暦10年(791年)施行された刪定律令24条の撰者の一人として、吉備真備と共にその
名が挙がっているほどの逸材なのだが不思議な事にない。見当たらないのだ。大倭長脚
足宿禰は、八女の土蜘蛛伝説の素になった人の名だった事が僅かに残る。藤原広嗣の乱
に連座して流罪となって、この地に来て稲作の増産に務め赦免となった。と考えられて
いる。長岡京市は、平安時代には、古典『伊勢物語』の主人公とされている在原業平が
晩年を過ごし、学問の神として知られる菅原道真が太宰府へ左遷される際、名残を惜し
んだ地と言われている。また、清少納言作の随筆『枕草子』等の古典にも登場する等、
深い歴史を持っている。 市名は長岡京にちなみ、長岡京の南部と一部市域が重なる。
隣接する向日市、大山崎町とともにタケノコの産地として著名な山間の地だ。光明寺を
始め、長岡天満宮やその境内にある料亭・錦水亭など、市内は風光明美な場所とされ、
しばしばロケも多い。海印寺(かいいんじ)は、京都府長岡京市にあった寺院。一説に
モウソウチクが初めて伝わった場所とも言われる。9世紀始めに平安時代前期の真言宗
の僧。空海の十大弟子の一人。道雄(どうゆう)によって創建された。とされる。かつ
ては朝廷や皇室の庇護を受けて栄え、周辺の村々を海印寺領とした時期もあった。10
の支院を持ち、年分度者2名が定められ、定額寺に認定された。平安時代後期には衰退
し、鎌倉時代には再興が図られるなどしたが、応仁の乱で罹災した。現在では、海印寺
十院と呼ばれたうち寂照院のみが残る。当時の海印寺は、現在の奥海印寺、下海印寺の
集落に跨っていたと伝えられている。だがこれも間違いであろう。もし孟宗竹(モウソ
ウチク)が最初に来た土地とすれば海印寺は再建された寺である。勿論真言宗など仏教
では無かった事だろう。事実在原業平が晩年を過ごし、菅原道真が太宰府へ左遷される
まで訪問したとするなら尚更である。ここが陰陽師氏の寺だったのであろう。そもそも
藤原広嗣は何故反乱を起こしたのか。天平9年(737年)朝廷において、圧倒的な権力を
誇っていた藤原四兄弟が天然痘(てんねんとう)の流行によって相次いで死んでいった


72: 名無しさんAA:19/03/11 20:13
 柳川 銭紋  68

ここに所謂神話の時代に、4代続いた架空の天皇と皇后の名前がある。
歴 代  漢風諡号  『古事記』の諡号    『日本書紀』の和風諡号
第12代「景行天皇」……大帯日子淤斯呂和氣天皇…大足彦忍代別天皇
第13代「成務天皇」……若帯日子天皇………………稚足彦天皇
第14代「仲哀天皇」……帯中日子天皇………………足仲彦天皇
応神の母「神功皇后」……息長帯日賣命………………気長足姫尊
宿禰(すくね)とは言えども、大倭長脚足宿禰。(やまとながあしのすくね)と言う名
は少なくとも簡単に付けられる名前ではない。そもそもが、宿禰(すくね)の呼称その
物が天皇からの爵位なのだ。皇極天皇は、重祚しており、斉明天皇(さいめいてんのう
)となって、 594年(推古天皇2年)には、既に寶女王(たからのおおきみ)として、
天皇になっている。はじめに、高向王(用明天皇の孫)と結婚し、漢皇子を産んだ。後
に(630年)に37歳で舒明天皇の皇后に取り立てられ、舒明天皇との間に、中大兄皇子
(のちの天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を
産んでのち (641年)に舒明天皇が崩御したが皇后はこの時48歳だったとされる。そ
の後に斎式を終えて2ヶ月経っても継嗣となる皇子が定まらなかった。そこで皇極天皇
元年 (642年)1月15日、 皇極天皇として即位した。とされる。『日本書紀』によれば
、天皇は古の道に従って政を行なった。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、
その子・入鹿が自ら国政を執った。と言う。つまり、聖徳太子が進めていた仏教布教の
奨励を、蕃神信仰(ばんしんしんこう)とまで批判して行かないものの旧来に戻して、
和の政治を求めたのである。しかし、此処に阿倍比羅夫が出てくる。『日本書紀』によ
れば、北方の蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送って「後方羊蹄
(シリベシ)」に至り、政所を置き郡領を任命して帰ったとある。さらに「幣賄弁島(
へろべのしま)」まで出兵し「粛慎(しゅくしん)」に勝利したと伝えている。現在、
樺太北部に住むニヴフがその末裔といわれる。中国文献中の粛慎には本来の満州東部に
住むツングース系民族を指すのだが、存在時期にかなりの開きがあることから日本書紀
に記されたこの「粛慎民族」とは異なるのではないか。とみられている。ニヴフは、樺
太北部及び対岸のアムール川下流域に住む少数民族。古くはギリヤークとも言われ、古
アジア諸語に分類される固有の言語ニヴフ語を持つ民族だ。アイヌやウィルタと隣り合
って居住していたが、ツングース・満州系諸族やモンゴル系民族などと全く別系統の中
の民族で、トナカイの放牧遊民である。有史時代は樺太の他の先住民ウィルタと同様、
古くは狩猟・漁猟をしていた。また近世には外満州の山丹人やウィルタとともに日本と
清の貿易の仲介(山丹交易)もしていた。とされ「ニヴフ」とはアムール川下流部では
「人」を意味する語であり、樺太東岸ではニグヴンというが、これも「人」を意味する
。アイヌでは樺太を「ニクブン」大陸を「スメレンクル」と呼んだ為、間宮林蔵は「ス
メレンクル夷」と記したが、これは樺太アイヌ語の「sumari(キツネ)」と、アイヌ語
で人をいう「クル」が合わさった「キツネびと」を意味する名称といわれる。ロシア革
命前はギリヤーク人とされ、「ギリヤーク」という名称はロシア語風に訛ったものであ
り、もともとは日本からは「ギリミ(吉里迷)」といったとされる。


73: 名無しさんAA:19/03/16 15:18
 柳川 銭紋  69

 実はこの北方狩猟民族は、日本の歴史上は度々大きな問題を引き起こす。元寇もそう
だが、この元朝にも厄介な存在だった。アムール川下流域から樺太にかけての地域に、
広く居住していた吉里迷(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)
の子孫であるシデ(碩徳)の遠征により1263年(中統4年)にモンゴルに服従したのだ
が、翌1264年(至元元年)に吉里迷の民は、骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が毎年の
ように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告している。ここで言う吉里迷は、
ギリヤーク(ニヴフ)、骨嵬(苦夷・蝦夷とも)はアイヌを指しているとする。しかし
現実には亦里于に関しては不明の為同じ森に小規模の単民族が複数いたと考えられる。
しかし、王朝が放って置けず、この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した。これがいわゆ
る「北からの蒙古襲来」(ニヴフや元朝の視点では「南からの骨嵬・亦里于襲来」)の
初めであり、西日本に対する侵攻(文永の役、1274年(至元11年))より10年早い襲
撃だった。日本でも刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に起こっ
た、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、
更に筑前に侵攻した事件だが、この「刀伊の来寇」とも称される海賊行為は度々あった
ものだった。「粛慎(しゅくしん)」という民族に関しては中国の史書にも同じ漢字で
記録されていますが、活動年代が違うため、その同一性については諸説あるが、兎も角
日本もその中国の用語を真似た。史実では中国の粛慎が紀元前まで存在していたとされ
粛慎の後も同じ地域に粛慎の末裔とされるユウ婁(ゆうろう。ユウは手偏に邑。〜5世
紀半ばごろ)や勿吉(もっきつ。〜6世紀末ごろ)、靺鞨(まっかつ。〜7世紀ごろ)
といった諸民族が入れ替わりに支配していた。中国側からは記録に残す名称が変わった
が、当の粛慎達は本質的にシベリアに住居していた。その為日本では、粛慎という古称
をそのまま使い続けていた。「粛慎(みしはせ:しゅくしん)」とその名の呼び名も今
や解っていない。『日本書紀』によると、日本人と粛慎の話は欽明天皇五544年にある。
『日本書紀』欽明天皇五年十二月条【原文】越國言。於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人
。乘一船舶而淹留。春夏捕魚充食。彼嶋之人言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。---
越国(こしのくに。現:北陸地方)の住民が言うには、粛慎の人々が船でやって来て、
御名部(みなべ。佐渡島北部)の海岸に停泊した。春や夏には魚を獲って暮らしていた
そうですが、佐渡島の住民たちは「あいつらは人間じゃない。鬼かも知れない」などと
恐れて、彼らに近づくことはなかった。『日本書紀』では、欽明天皇五年十二月条には
嶋東禹武邑人採拾椎子、爲欲熟喫。着灰裏炮。其皮甲化成二人、飛騰火上一尺餘許。經
時相鬪。邑人深以爲異、取置於庭。亦如前飛相鬪不已。有人占云 「是邑人必爲魃鬼所
迷惑。」不久如言被其抄掠。------と書かれる。


74: 名無しさんAA:19/03/16 15:18
 柳川 銭紋  70

ある時(粛慎の人々が滞在中)、佐渡島の東部にある禹武(うむ)村の住民がドングリ
(椎の実)を集め、煮て食べようと灰の中で炒って(灰汁抜きのため?)いたところ、
ドングリが二粒、それぞれ小人の形になって一尺(約30センチ)ほども飛び上がり、互
いに喧嘩を始める、という怪現象がありました。「これは何かの異変に違いない!」と
占ってもらったところ「この村の者はやがて鬼に惑わされるであろう」という結果が出
て、間もなく禹武村は略奪に遭ったということです。
『日本書紀』欽明天皇五年十二月条【原文】於是肅愼人移就P波河浦。浦神嚴忌。人敢
近。渇飮其水。死者且半。骨積於巖岫。俗呼肅愼隈也。------
 この禹武村での略奪が、御名部海岸にいた粛慎による犯行なのか、その因果関係は判
りません。前述で「春と夏は魚を獲って暮らしていた」ことが記されて、秋から冬にか
けて魚があまり獲れなくなり、飢えた粛慎の人々が禹武村まで遠征・略奪した可能性も
、両地の位置関係次第ではありえなくもなく、彼らが四季を理解していたとは思えない
。やがて粛慎の人々は舟で瀬波河浦(せなみかわのうら)という場所に移住するのです
が、恐らく村人たちが「あいつら(粛慎)の仕業に違いない!」と追い立てた結果であ
ろうともと考えられます。瀬波河浦は聖域だったようで、住民は神々を畏れてそれ以上
追って来なかったものの、孤立した粛慎の人々は食糧や水の確保もままならず、渇きの
あまり海水(浦の水)を飲んで次々と死亡。やがて死者は半分にも達し、その骨(亡骸
)は岩穴に溜まった(捨てられていった)ため、そこそ「粛慎隈(みしはせのくま)」
と呼ぶようになったそうだ。とこの物語は伝えている。ところがこの欽明天皇期は古墳
時代(6〜7世紀ごろ)、日本海を越えて交流していた北方異民族として「粛慎(みしは
せ)」についてであり、古墳時代の話がこの東北では死んで行ったが、他の沿岸部でも
起こった話なのかも知れないのである。「粛慎隈(みしはせのくま)」の話は『日本書
紀』から粛慎に関する記述がなくなりますが、次に粛慎の人々が登場するのが一世紀以
上が経過した 斉明天皇四658年。ここで猛将・阿倍比羅夫(あべのひらふ)が登場して
、三年間にまたがる粛慎討伐の始まるのである。阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ)は、7
世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将
軍・大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北は北海
道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。とされる。斉明天皇四には、 658
年、越国の国守である阿倍引田臣比羅夫が粛慎を征伐、戦利品としてヒグマ2頭、ヒグ
マの毛皮70枚を献上した。又、斉明天皇五では659年3月、阿倍引田臣比羅夫が粛慎を
征伐、捕虜39人を献上したとも言われる。随分と簡素な記録だが、翌斉明天皇六には
詳細な粛慎征伐の記録が残されている。660年の事だ。

75: 名無しさんAA:19/03/16 15:19
 柳川 銭紋  71

斉明天皇は阿倍臣(名前が明記されていない、恐らく比羅夫と思われる)に二百艘の船
団を率いさせて粛慎の討伐に派遣する。遠征の道中で蝦夷の軍勢を組み込みながらも、
阿倍臣らは大河(アムール河)のほとりに到着した。すると、渡島(北海道と推定)か
ら来ていた蝦夷が千人ばかり海岸にいて、その中から二人ばかりが阿倍臣の前に進み出
て「粛慎の大軍が私たちを殺そうとしています。お仕えしますので、どうか助けて頂け
ますようお願いします」と申し出てきた。話を聞いた阿倍臣は二人の蝦夷者に粛慎軍の
布陣や軍船の数を訊ねると、蝦夷らは粛慎軍の居場所を指して軍船は二十艘あまりであ
ると答えました。そこで阿倍臣は使者を出してアプローチを試みるも、粛慎からのリア
クションはありませんでした。もしかしたら、自分たちより十倍ほども多勢な阿倍臣の
軍勢に、恐れをなしたのかも知れません。そこで阿倍臣は次なるアプローチとして、色
鮮やかな絹や武器、鉄などを海岸に並べて置き、自分たちは少し離れ、粛慎に持って行
かせようとしました。暫く待っていると、粛慎の船から2人の老人が上陸し、並べ置か
れた絹などを観察すると、その一部を船に持って帰りました。「これでアプローチ成功
か」と思われましたが、再び老人がやって来て、持ち去った物品を元に戻して船に引き
上げていきました。随分とまどろっこしいやりとりですが「降伏すれば、これらの品々
をくれてやる」というメッセージだったのでしょうか。かくして交渉は決裂、その後も
阿倍臣は何度かアプローチを試みるも応じず、粛慎たちは渡島の一部といわれる弊賂弁
嶋(へろべのしま。渡島≒北海道の一部と言われるが、利尻島or奥尻島などと推定され
ている)まで退却し、砦(柵)に立て籠もったそうです。しかし、事ここに至っては、
阿倍臣は粛慎に対して宣戦布告、その立て籠もる砦を攻め立てたところ、やがて粛慎が
和睦を求めて来ましたが、阿倍臣はこれまでのアプローチに対する非礼に怒っていたの
か、これを拒絶し激戦の中で阿倍臣の部将である 能登臣馬身龍(のとのおみ まむたつ
)が戦死したものの、ついに粛慎の砦は陥落。粛慎たちは「最早これまで」と妻子を殺
し、(記述にないものの)自分たちも自決した。その後、粛慎はヤマト朝廷と和睦した
のか、粛慎征伐の動きは沈静化していきます。他にも『日本書紀』には阿倍臣が粛慎の
人々をもてなすエピソード(斉明天皇六 660年五月条)や、新羅国(しらぎ)からの使
者に粛慎人が随行していた記録(天武天皇五 676年十一月条)、持統天皇が粛慎人二人
に務広肆(むこうし。後の従七位下に相当)等の官位を与えたエピソード(持統天皇八
694年一月二十三日条)等が残されている。そして、持統天皇が粛慎人の志良守叡草(
しらすえそう)という者に錦の袍(ほう。上着)と袴、絹や斧などを下賜した持統天皇
十年(696年3月12日)を最後に、『日本書紀』からその姿を消したのである。



76: 名無しさんAA:19/03/16 15:28
 柳川 銭紋  72

 こうしたエピソードは、誰がどう捉えようが構わないが、問題はこの日本海が湖や池
の様に交易の道として運航していた現実である。近年日本海に北朝鮮の船が着いて問題
になっていたが、日本は四方を海に囲まれた島国で、その海を越えて多くの人やモノ、
そして文化が行き交ったことは、今も昔も同じである。斉明天皇在位5年(660年)に、
百済が唐と新羅によって滅ぼされた。この時百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質と
して日本に滞在していた百済王子豊璋を、百済に送っている。百済を援けるため、難波
に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に
備えた動きが起こった。しかし、遠征の軍が発する前に 661年に、当地にて崩御した。
この辺りの史実は詳しくは解らないが、斉明天皇崩御にあたっても、皇子は即位せずに
称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援、日本軍は
朝鮮半島南部に上陸し、白村江の戦いを戦った。しかし、白村江の戦い(はくすきのえ
のたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近
)で行われた、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との衝突だったが唐と新羅
の連合軍に完全敗北したのである。これまで6〜7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・
新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であったがこれを除去した
。この時倭国は任那、加羅と関係が深いことを示され。任那、加羅は、倭国から百済へ
の割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされた。475年に百済は
高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落し、その後、熊津への遷都によって復興したのだが
、538年 には泗批へ遷都した。当時の百済は倭国と関係が深く、倭国朝廷から派遣され
た重臣が駐在している。また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送り支援して
いる。しかし、日本から送られた人々は、背が低く足も短い倭人であり、朝鮮人からは
勇猛ではあったが頼りなかった様に見えたのかもしれない。続日本書記では、養老4年
(720年)正月23日 遣渡嶋津軽津司従七位上諸君鞍男等六人於靺鞨国、観其風俗。---
 渡島の津軽の津司(つのつかさ)である従七位上の諸君鞍男(もろきみのくらお)ら
6人を靺鞨国(粛慎)に遣わし、その風俗を視察させた。とある。 698年に高王により
建国された渤海である。武王の時代に唐や新羅と外交的に対立するようになり、これら
の勢力を牽制する目的で日本への遣使が計画されたようだ。武王時代、唐や新羅と外交
対立する。これらの勢力を牽制する目的で日本への遣使が計画された。これは軍事同盟
としての色彩が強い使節で、日本側も渤海が天皇の徳化により来朝したと捉え、渤海の
前身であるとされた高句麗の復興と理解し、使節を非常に厚遇した。この造船の責任者
の秦氏こそ、柳川の秦氏の起こりとされる。つまりこの辺も大川も三潴も大木が多くあ
って船大工が居たと言う事になる。白村江の戦いと柳川との関連は多くあろうが、今や
伝習館に残されていた遺物すら残っていない。



77: 名無しさんAA:19/03/17 15:22
 柳川 銭紋  73

 翌年早々に遣渤海使を派遣している。一般的には第1回の遣渤海使はこのときの遣使
を指す。新羅との関係が特に緊張していた期間(758年〜763年)に、ほぼ毎年、使者が
往来し、759年(天平宝字3年)には恵美押勝が渤海の要請によって、軍船394隻、兵士
4万700人を動員する本格的な新羅遠征計画を立てられた。この遠征は、後の孝謙上皇と
押勝との不和や渤海側の事情の変化等によって中止された。その後文王が唐との融和を
図る時代になると軍事的な意味合いは薄れ、専ら文化交流と経済活動を中心とした使節
へとその性格を変化していった。この交流は朝貢貿易の形態を取り、渤海からの貢物に
対して、日本側では数倍の回賜でもって応える義務が生じ、多大な利益を渤海にもたら
した。反面日本側の財政を圧迫し、使節供応と回賜のための経費が無視できない規模に
なった後は、使節来朝に制限を加え、日本側からの遣使は中断した。しかし渤海側から
の遣使は渤海滅亡まで継続した。『延喜式』大蔵省式によると、遣渤海使の一行は、大
使、判官、録事、訳語、主神、医師、陰陽師、史生、船師、射手、卜部、雑使、船工、
梶取師、{人、挟杪、水手から構成される。こうした天平の甍人の中で注目されるのが
行基和尚であろう。奈良時代の日本の僧として、寺と僧侶を広く仏法の教えを説き、多
くの人々より篤く崇敬された。そして結局は行基集団を形成し、道場や寺院を49院、
溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、と、判明しているだけで数多くの土木工事をして
その土地に生活基盤を創った。国家機関を朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の
布教活動を禁じた時代に、その禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問
わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げたと言う
。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して、
逆境を跳ね返した。その後に、大僧正と言う最高位である僧正の位を行基が日本で最初
に授かり、聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘され
たのである。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。この行基伝説
が一番多かったはずが本当は筑後平野なのである。知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗
混合の宗教集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活
動したとされるが、行基の行績は本当の所解っていない。少なくとも奈良の大和王朝と
九州王朝の隔壁時代に奈良では活躍していない事は九州で足場を得ている筈は当然であ
ろう。公式には天智天皇7年(668年)に、父・高志才智、母・蜂田古爾比売の長子とし
て生まれ、天武天皇11年 (682年)に15歳で大官大寺で得度を受け、出家し法行と称し
た。


78: 名無しさんAA:19/03/17 16:24

  柳川 銭紋  74

 この行基法師は持統天皇5年(691年)24歳で 戒師の高宮寺徳光禅師のもと受戒して
飛鳥寺、次に薬師寺で法相宗を主として教学を学び名を行基と改め、全国行脚に出かけ
ている。ここに、朝廷は天智天皇、天武天皇、持統天皇と代っている。ここに大きな問
題がある。この奈良の大仏がつくられた時代には、遣新羅使(けんしらぎし)や遣渤海
使(けんぼっかいし)は盛んに送られていたが、ここらでは大和朝廷と九州王朝とが、
あまり仲がよくなかった事や朝廷内抗争が起こっていた事があるだろう。遣渤海使につ
いては、728年(神亀5)から811(弘仁2)年にかけて日本から渤海に13回にわたって
も派遣された公式の使節だ。日本と渤海(698〜926)との交渉は727年 渤海使来日に始
まり、翌年初めて遣使が行われた。渤海の来日目的は、唐と対立し、唐・新羅(しらぎ)
から挟撃された形勢を打開することにあったと言われ、日本も、新羅を避けて渡唐する
経路として渤海を利用するために派遣を開始したとしている。やがて渤海と唐との関係
が修復されると、日渤国交の性格も政治的なものが除かれ、経済・文化的なものへ変質
した。日本は絹糸、織物、漆などをもたらし、渤海からは高級毛皮、蜂蜜(はちみつ)、
高麗ニンジン、などがもたらされ、渤海使の来日は、なんと、919年(延喜19)まで34回
に及ぶほど多く続いた。しかしあまり日本の歴史の中で国家の基礎になったとは出て来
ない。続日本紀には、唐の「安史の乱」の情報が、天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(
758)年、遣渤海使(けんぼっかいし)の小野(おのの)田守(たもり)に よってもたら
されられた事が書かれていたり、多くの外国情報や産物の知見を与えて、その頃の核の
情報ルートだった事が垣間見える。小野田守がわざわざ「安史の乱」の情報をもたらし
たのは、偶然ではなく必然だった。小野田守は「安史の乱」の情報を得るために、わざ
わざ渤海(ぼっかい)に渡ったのではないかと考えられている。藤原仲麻呂は、この時
橘奈良麻呂事件で得られた「安史の乱」の情報の真偽を確かめる為、大陸にまで人間を
送り込む必要があった。藤原仲麻呂にとっての小野田守は、その任務を果たす事には、
一番に相応しい人物だった筈だ。小野田守の家柄は祖先が日本書紀によれば最初の遣隋
使(けんずいし)として名高い小野妹子(おののいもこ)である。ただし、隋書には、小野
妹子の七年前、阿毎(あま)多利思比孤(たりしひこ)という大王(天皇)が使いを送ってき
たという記録である。これを思えば小野田守は、外交筋のエリートであり彼が、「安史
の乱」の情報をもたらす5年前の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)5年(753)、2
月9日に、小野田守は遣新羅大使(けんしらぎたいし)に任命されている。遣新羅大使に
任命される前の、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(749)5月の記事に、大宰
小弐に任命された事が書かれ、大宰小弐の任官には、遣新羅大使に任命される前の役職
に戻された格好であった。

79: 名無しさんAA:19/03/17 16:25
  柳川 銭紋  75

 この時、遣新羅大使としての貢献があったもかかわらず、大宰小弐に戻されるという
のは左遷でしか無い。吉備真備の大宰大弐の任命にも左遷の意味があったように、小野
田守の大宰小弐の任命も左遷の意味があったと思える。実は天平勝宝5年(753)、
小野田守が新羅に派遣された時、新羅の国王は、小野田守の面会は赦(ゆる)されず、
小野田守は使者の任務を果たせないままに帰国したからだ。実は裏に、小野田守には、
思いもかけない事件があったのだ。遣新羅大使の使節として旅立つ数ヶ月前に、753
年の正月の礼拝の儀式に、大伴古麻呂(おおとものこまろ)は、唐の国での新羅の使節と
席次問題(せきじもんだい)で新羅より大切にされてない。と訴えている。これにより
新羅側では、唐での雪辱のため小野田守を使節として扱わないという報復措置をとった
のである。後の天平宝字(てんぴょうほうじ)4年(760)9月16日の記事に明記し
ている。つまり小野田守の遣新羅使失敗の原因は大伴古麻呂にあり、小野田守の遣新羅
大使失敗としての、大宰小弐(だざいのしょうに)への左遷の遠因は、大伴古麻呂にあっ
たのである。後ででも知った小野田守は、大伴古麻呂に対して大きく恨みを持っていた
事であろう。と思われる。こうして小野田守は吉備真備の大宰大弐の任命と共に、大宰
小弐に赴任(ふにん)して来ている事から、大宰府の事情にも詳しくあって、吉備真備と
も繋がりを持っていた。小野田守が、もしそのまま、ずっと大宰小弐の任務(にんむ)に
ついていたなら、楊貴妃の大宰府到着と吉備真備との面会も知る事になったはずだった
だが残念ながら、小野田守は、楊貴妃の馬嵬事変(ばかいじへん)の起る1ヶ月ほど前、
天平勝宝8年(756)5月3日、山作司(やまつくりのつかさ:御陵造り)に任じら
れて、隠すかのごとく都に呼び戻されている。こうして楊貴妃来日の事情には情報を持
たず、関与していなかった。外交筋の中で、大伴古麻呂などは橘奈良麻呂事件の首謀者
達も反抗心を持ち、大宰府と吉備真備の情報にも詳しい上、同時に、遣新羅大使失敗の
汚名を晴らしたいと考えていた。小野田守は、藤原仲麻呂にとっては、とても都合のい
い配置の人物であったはずだ。藤原仲麻呂は、小野田守に目をかけ重用し、橘奈良麻呂
事件のあった直後の天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)年の7月12日には、
小野田守は、軍事を担当する刑部小輔(ぎょうぶしょうほ)に任じられて軍隊の長となっ
た。遣渤海使(けんぼっかいし)に任じられたのが、その影に藤原仲麻呂の推挙と、強い
意思があった事は間違いない。天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)2月10日
、藤原仲麻呂は、再度遣渤海使(けんぼっかいし)に任じられ外交使に返り咲く。小野田
守を自分の屋敷に招き、饗応 (きょうおう)した事が、万葉集にも載っている。

80: 名無しさんAA:19/03/17 16:25
 柳川 銭紋  76

 この頃朝鮮半島では、統一新羅による、国を大切にする政治により、朝鮮半島に住む
人々には、民族としての一体感を身につけて行った。新羅の都である慶州(キョンジュ
)は、瓦ぶきの家が立ち並び、道路は石や煉瓦で敷き詰められ、また東洋で、一番古い
天文台である瞻星台(チョムソンデ)や、新羅の仏教文化を代表する仏国寺(ブルグッ
サ)芬皇寺(ブンファンジ)皇龍寺(ファンニョンサ)などが、豪華さを競いあって建
てられたとしている。こうして、大和政権も競い、東大寺や大仏をつくった。このよう
な新羅への対抗心があったからだとも言えるのだろう。だが、新羅と唐の連合軍によっ
て滅ぼされた百済の人々の多くが、倭の国に逃げてきていた。そして、倭の国づくりに
大きな役割を果たした。浮浪者に仕事を与える大工事が必要だったのだ。こうして建設
され、仏教が広く伝わったものの病気も連れてきていた。同じように新羅と唐の連合軍
によって滅ぼされた高句麗の将軍で大祚栄の中も病気が蔓延していた筈だった。699
年頃、振(震)の国を建国した。大祚栄(テジョヨン)を初代王とする振(しん・震)
の国の名前は「東方の日の昇る国」という意味で、同じ頃の倭が「日の出る国」の意味
で日本という国名を使い出したのと、殆ど一緒だ。韓国ドラマの大祚栄と違って、史実
では、713年に なると、振と唐の関係がよくなり、大祚栄は渤海王(パルヘおう)と名
のり、国の名も渤海と呼ぶようになった。この国の宮殿の建て方は、高句麗風で、仏教
が広まり、唐からは「海東の盛国(海を渡った東にある発展した国)」と呼ばれていま
した。最初の遣隋使は、聖徳太子が渡来人蘇我氏の一員として、隋と高句麗との争いを
心配して派遣したと考えられている。中国に派遣した留学生や留学僧は、高向漢人玄理
(たかむくのあやひとげんり)や僧旻(みん)、南淵漢人請安(みなみぶちのあやひと
しょうあん)をはじめほとんどすべてが、朝鮮からの渡来人、またはその子孫達だ。そ
の後、中国への使節よりも、はるかに回数も多く大きな成果を日本に持ち帰ったのは、
朝鮮への使節で、その為平仮名(ひらがな)と片仮名(かたかな)と漢字が流通した。渤海
使節は15回が確認され、新羅への使節は31回派遣されたと書物に書かれている。さ
らに、中国から日本へは使節がほとんど送られては来ていない。対して、新羅や渤海か
ら送られてきた使節からは国際情勢だけではなく、多くの進んだ学問や文化を日本は学
んだようだ。こうして三国の動乱による渡来人が倭の文化・技術形成に大きな影響を与
えた時代であった。この時九州はこの大和の動きに関係なく戦乱が起こっていた。隼人
族の北進である。大分にはそうした事で祖母傾岳に大きな災いがあったようだ。又火山
噴火や地震なども起こっていた。


81: 名無しさんAA:19/03/17 16:26
 柳川 銭紋  77

 この後に、遣新羅使と遣渤海使等が花形であった8〜9世紀の時代がやって来たので
あるが、7世紀になって、朝鮮からの渡来人の力によって、倭は国としての形が整い始
め更に、朝鮮や中国の進んだ文化や学問を学ぶ為にも、また朝鮮との関係や国のつきあ
いのあり方を調整する為に、多くの使節が日本から派遣された。と考えられる。最初の
遣隋使の聖徳太子が、渡来人蘇我氏の一員として、隋と高句麗との争いを心配して派遣
されていた。中国に派遣された留学生や留学僧の殆どが、朝鮮からの渡来人またはその
子孫だったので、中国への使節よりも、はるかに回数も多く大きな成果を日本に持ち帰
ったのが、朝鮮への使節であった事で文字の統一した使い方になっていない。渤海への
使節15回が確認されており、新羅への使節は31回派遣されさらに、中国から日本へ
は使節がほとんど送られてこなかったのに対して、新羅や渤海から送られてきた使節か
らは国際情勢だけではなく、多くの進んだ学問や文化が、周辺国から日本は学んだので
ある。この三国の動乱による渡来人が倭の文化・技術形成に大きな影響を与えた時代の
後に、まともな遣新羅使と遣渤海使等が花形であった8〜9世紀の時代がやって来たの
である。彼が厩戸王と言ったのは多分死んでからだろう。彼は仏教伝来とはいえキリス
ト教を連れて来た。と思われる。推古天皇のもとで、蘇我馬子と協調して政治を行い、
国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二
階や十七条憲法を定めるなど大王(天皇)や王族を中心とした中央集権国家体制の確立
を図った他に、仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめたとされている。
母が実母・蘇我小姉君の実家(おじ・蘇我馬子の家)にて出産したので馬子屋敷に因み
厩戸と命名されたとする説がある。つまり本名は他にあって外から厩戸皇子とよばれて
本人も快諾していたのだろう。他に豐聰耳皇子と書いてあるのでこれが実名かもしれな
い。橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)は、奈良時代の政変。橘奈良麻呂が
藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった事
件である。父である橘諸兄は、聖武天皇の信任を得て政権を担い、天平15年(743年)に
は従一位左大臣にまで昇進し、天平12年(740年)に聖武天皇が、諸兄の相楽の地に行幸
した際にも、奈良麻呂は昇進し、天平13年(741年)大学頭に任ぜられている。つまり、
彼は頭は良く慕われていたと言える。擁立を目指した安積親王が急逝して聖武天皇の皇
子がいなくなる状況下で、翌天平17年(744年)9月に聖武天皇が行幸中の難波宮で病気
に倒れると、阿倍内親王を皇嗣と認めない奈良麻呂は事変の発生を予想し、多治比国人
・多治比犢養・小野東人・佐伯全成らを勧誘して黄文王を皇嗣に擁立する動きを見せて
いる。これを藤原北家、参議・藤原房前の次男の藤原 永手(ふじわらの ながて)は、
奈良時代の金脈鉱山を握っていたが、金を送って公卿になり「何ゆえ政治が無道なのか
」と問いつめ、奈良麻呂は「東大寺などを造り人民が辛苦している」と答えた。永手が
「東大寺はお前の父の時代に造ったものだ。お前の言うべきことではない。」といった
と言う。賄賂の横暴である。


82: 名無しさんAA:19/03/17 18:11
 柳川 銭紋  78

 私は、この藤原 永手(ふじわらの ながて)こそ聖徳太子が連れて来た。もしくは、
別船で帰着したユダヤ人だったのではないかと考えている。この時本当に藤原氏が居た
かは疑問だがこの「ながて」と言う名に疑問がある。更に東北からふんだんに 黄金を
朝廷や天皇に送っている事だ。この技術は確かに古代でもあったとはいえ鉛や水銀など
が健康を害していてそう多くは産出出来ない筈だ。それを湯水のごとく使ったとなれば
ちょっと考えるに帰化人としか思えないのである。更に大仏建立を果たした中で文句を
いうなと言っているのである。天平9年(737年)藤原四兄弟の相次ぐ死去に伴って孝謙
天皇は群臣を招集し、天武天皇の孫を皇太子に立てるが、この道祖王(ふなどおう)に
対して聖武上皇の服喪中にもかかわらず淫らで勝手気ままな気持ちがあり、教え戒める
勅にも悔い改めることがなかった。ことを理由として、道祖王の皇太子を廃することの
是非を問うている。孝謙天皇の母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明
皇后(光明子)である。聖武天皇の正夫人の県犬養広刀自(あがたのいぬかい の ひろ
とじは子が一男二女をもうけた。県犬養宿禰の出自は県犬養氏で、中堅氏族と県犬養氏
の族長的立場にあった橘三千代の推挙があったと考えられている。不思議だが、先帝(
聖武)の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなし、先帝への服喪の礼を失した。宮
中の機密を巷間に漏らした。孝謙天皇がたびたび戒めても、悔い改めず、むしろ婦人の
言うことを好んで取り上げるなど、態度が改まらなかった。夜中に勝手に東宮を脱けだ
して私邸に戻ったりした。自ら「自分は愚か者で皇太子の重責には耐えられない」と述
べた。などで廃皇子して後、同年7月に橘奈良麻呂の乱が発覚し、奈良麻呂らが天皇に
擁立しようと画策していた候補者の中に、塩焼王・安宿王・黄文王とともに道祖王の名
もあったため、朝廷の兵士に右京の邸宅を包囲され捕縛された。道祖王は麻度比(まど
ひ=惑い者の意)と改名させられた上、同時に捕縛された黄文王・大伴古麻呂・多治比
犢養・賀茂角足らと共に杖で激しく殴打される拷問を受けて獄死している。先の天皇の
孫が名があがり捕縛され獄中で叩かれ死である。ちょっと日本的ではない。黄文王も又
名があがったとして久奈多夫礼(くなたぶれ=愚かな者)あるいは多夫礼(たぶれ=誑
かす者)と改名させられた後、杖で何度も打たれる拷問を受けて 獄死しているのだ。
天武天皇の後裔で、左大臣・長屋王の五男の安宿王のみは、天平勝宝6年(754年)に、
唐から渡来した鑑真を迎えるための勅使に任じられるなどしているからか、橘奈良麻呂
の乱が発生した際の謀反への関与を疑われても。尋問に対して安宿王は「黄文王の仲介
で事情がわからないまま謀議に参加させられた」旨の証言をするも嫌疑は晴れず、妻子
とともに佐渡に流罪となった。とされる。


83: 名無しさんAA:19/03/17 18:11
 柳川 銭紋  79

 百済王 敬福(くだらのこにきし きょうふく)は、奈良時代の公卿であったが執拗に
彼らをせめている。当時の聖武天皇は、東大寺大仏の建立を進めて鋳造まで終えていた
。しかし、巨大な仏像に鍍金するための黄金が不足し、遣唐使を派遣して調達すること
が検討されていた。全国に黄金探索の指令が出されていたが、日本では黄金を産出した
ことはこれまでなかった。天平18年(746年)4月に敬福は陸奥守を石川年足と交替して
上総守に転任する奇妙な人事が行われた。そして9月には従五位上へと加叙を受けて、
陸奥守に再任される。この可笑しな人事を皮切りに、乱の平定として捕縛が起こってい
る。この時に黄金探索の手がかりがあった可能性もある。また、陸奥では緊急の事態に
対応するために諸国から徴発した鎮兵を置いていたが、敬福はその他国からの徴発を突
然停止し、陸奥国内からの兵士を徴発して鎮兵に加える対応を行っている。その後この
対応は停止されたと見られるが、神護景雲2年(768年)になって他国出身の鎮兵に多数
の逃亡者が発生すること、鎮兵の食料を前線に運搬するための負荷が大きいことを理由
に、陸奥国内からの鎮兵徴発が復活している。天平21年(749年)になって、敬福は朝廷
に対して、陸奥小田郡で産出し黄金 900両を貢上していてた。既に産出していたのだっ
た。聖武天皇は狂喜して東大寺大仏殿に行幸し、仏前に詔を捧げると共に、全国の神社
に幣帛を奉じ、大赦を行っている。この功労により敬福は従五位上から従三位へ一気に
七階級特進し、産金に貢献した他田舎人部常世・小田根成も十階以上昇進して外従五位
下に叙せられた。さらに、年号は天平から天平感宝、次いで天平勝宝と改められている
。歌人・大伴家持は次のように黄金産出を寿ぐ。 「すめろぎの 御世栄えんと 東なる
みちのく山に、黄金花咲く」と謳う。確かな文献はないが、黄金を発見したのは、敬福
配下の百済系鉱山師ではないか。と言われている。日本最初の産金地とされ、小田郡の
金山は現在の宮城県遠田郡涌谷町一帯であり、同町黄金迫(こがねはざま)黄金山神社
は延喜式内社にも比定される。現代の調査でも黄金山神社付近の土質は純度の高い良質
の砂金が含まれている。なお、この黄金献上もあって、敬福は聖武天皇から大変な寵遇
を受け、多くの恩賞や賜り物を与えられた。こののち、10年余に亘って年間900-1000両
もの金が陸奥国司を介して朝廷に貢納されたと見られ、陸奥国から平城京に運ばれた計
10,446両もの金によって東大寺大仏が完成したとしている。こうして大仏開眼の法要が
営まれ、5月には敬福は常陸守に任ぜられた。左大弁を経て、天平勝宝9年(757年)に
は出雲守にも補せられている。これらの地方官への任官は実際に任地に赴かない遙任と
推測される。同年7月に橘奈良麻呂の乱が勃発すると、大宰帥・船王らと共に、衛府の
人々を率いて黄文王・道祖王・大伴古麻呂・小野東人ら反乱者の勾留警備および拷問の
任に当たっている。


84: 名無しさんAA:19/03/17 18:15
 柳川 銭紋  80

 2016年11月05日、中国の視界網は、「中国で死んだはずの楊貴妃の墓が、なぜ日本に
あるのか」と題する記事を掲載した。楊貴妃といえば、日本では世界三大美女、中国で
は古代四大美女として有名な歴史上の人物。唐代の皇妃で、756年6月14日に中国で亡く
なったとされている。しかし、その死には疑惑が存在する。記事は、「馬嵬(陝西省咸
陽市興平県)にも楊貴妃の墓があるが、なんと日本(山口県の二尊院)にも同じく楊貴
妃の墓がある。これはどういうことなのか。」と疑問を提起している。その上で、記事
は日本に伝わる伝説を紹介する。安史の乱の兵士らから原因となった楊貴妃殺害を求め
られた玄宗帝は、かばいきれずに楊貴妃を縊死(首つり)させたとされている。しかし
、時が経ち楊貴妃の改葬が行われた際には遺体の判別がつかず、お香の入った袋だけが
残っていたことから、「侍女が替え玉となったのではないか」あるいは「蘇生したので
はないか」といううわさが流れた。本人は日本に逃れたものの、ほどなく病によりこの
世を去ったというのだ。記事は、こうした説が浮上した理由について、楊貴妃が非常に
慕われる性格であったこと、玄宗帝と軍の間を取り持っていたのが楊貴妃の前夫である
寿王李瑁で手助けした可能性が十分にあること、楊貴妃を縊死させたとされる高力士と
の関係も非常に良かったこと、の3つがあると指摘している。さらに、「(楊貴妃殺害
を求めた)陳玄礼らがその死を確認した。」とされていることについて、中国国内でも
「陳玄礼が皇妃の殺害を迫るという不敬に兜を脱いで許しを請うた。」とされている事
から、遺体を確認するというそれ以上の不敬には及ばなかったのではないかとみている
。人間に首をつらせること自体容易ではなく、専門家もいなかったことから、内侍官が
意図したか否かにかかわらず気絶するにとどめ、人々が去った後に蘇生した可能性に言
及している。記事は、「もちろんこれは単なる一説にすぎず、中国と日本の記録は異な
る部分もある」としながら、「何が正しいかはわれわれには判断しようがない。こうし
た物語は、文学芸術に発展の余地を与え、世の人々に無限の希望と幻想をもたらしてく
れる。」としている。安史の乱の頃に第18皇子・寿王の妃となった楊玉環(後の楊貴妃
)に心を奪われた第6代皇帝・玄宗は、寿王から玉環を取りあげ、宮廷に道教寺院を建
てて二人して道教の修行に励んだという。歴史家の白居易(白楽天)が綴った長恨歌に
よると「午前中の政務は全て取りやめた」と記されるほど、玄宗は政務を怠るようにな
っていたと記録が残っている。貴妃が唐王朝の内乱を逃れて天草に渡っていたという伝
説は天草の地名の元と言われている。真実だろうか。この馬嵬事変の時、阿倍仲麻呂が
中国にいた。阿倍仲麻呂が、玄宗皇帝の長安脱出の時、その行列の中に混じっていた。
記録はないがしかし、この時、長安にいたのは確実で、脱出組の中にいたと考えて自然
である。日本に返したつもりの阿倍仲麻呂の処遇をどうするか、おそらくは、決まらな
いうちに安史の乱が起こり、政務は混乱をきわめて阿倍仲麻呂の他国の者の人事などは
、後回しになったのだろう。楊貴妃を助けた宦官の高力士(こうりきし)は、才も人脈も
あり、この阿倍仲麻呂に楊貴妃の行く末を頼み、まかせたのではないか。と言われる。

85: 名無しさんAA:19/03/17 18:16
 柳川 銭紋  81

 すこし、唐の「安史の乱」について語れば、時の第18皇子・寿王の妃となった楊玉環
(後の楊貴妃)に、心を奪われた第6代皇帝・玄宗は、寿王から玉環を取りあげて宮廷
内に道教寺院を建てて二人して道教の修行に励んだと言われる。つまり息子の正室を、
取り上げて宮廷内に別居し、楊貴妃とべったりの中になったのだ。この祖母となる武則
天が女性皇帝として君臨する武周時代、武則天は皇后で10人の子のうち6番目に位を
禅譲したが、それでも皇帝内皇位争奪戦は大きな内部争いのまま譲っていたので崩壊の
一途であった。 705年、20歳の時武則天は、中宗に禅譲する形で帝位を奪われた。武周
は消滅し、唐が復活したが、朝廷には隆基の叔母で武后の娘である太平公主や、武則天
の実家である武氏の一族の勢力が残存していた。中宗の皇后である韋皇后は、武則天を
まねて政権を掌握すべく中宗を毒殺した。韋皇后は代わって擁立した殤帝を傀儡とし、
自らに禅譲させようと企てていた。これに対し、隆基の従兄である皇太子李重俊が韋后
に対してクーデターを起こしたが失敗した。隆基はこれを教訓とし、太平公主と協力し
て慎重に韋皇后排除を計画、 710年に計画が実行され、韋皇后はじめ韋氏一族やその与
党をみなごろしにした。ここで武則天によりいったん廃位されていた睿宗が重祚して、
隆基はこのときの功績により皇太子に立てられた。睿宗がさきに在位していたときには
、隆基の長兄李憲(成器)が皇太子に立てられたが、李憲は弟の才能や功績を認め皇位
継承を放棄したため、皇位継承争いは生じなかった。隆基は即位後も兄に対しては常に
敬意を払い、臣下に「やりすぎだ」と批判されたほど臣下となった。その死後には皇帝
の位を追贈し「譲」と諡した。しかし隆基と太平公主との間には、主導権争いが発生す
る。これは 712年に隆基が睿宗から譲位されたのち、ついに太平公主を殺害して実権を
掌握したことで決着を見る。こうした中で生き残っていた玄宗は第6代皇帝になった。
当然武則天の後ろ盾である。彼が帝位に着いた頃は、治世の前半には、太宗の貞観の治
を手本とし非常に安定した朝廷になって素晴らしい政治であった。開元の治と称えられ
善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った
。とされている。白居易(白楽天)に長恨歌で「午前中の政務は全て取りやめた」と記
される頃は政務を怠るようになっていた。この間に王朝を運営したのは宰相の李林甫だ
った。しかし性格が陰険なため旧来の重臣を次々と失脚させ、強力だった軍事力は陰り
を見せた。李林甫の死後に実権を掌握したのは、楊貴妃のまた従兄の楊国忠だった。し
かし、そして北方方面の執政は、節度使だった安禄山に全てが任され力をつけた。節度
使は地域の行政と軍事を司る総監で、北方三軍を掌握した安禄山は一気に唐王朝の五指
に入るほどの実力者に昇りつめ、安禄山は楊貴妃に取り入って、玄宗にも気に入られて
、宮廷の奥の院で、時には酒食を共にするほどに親しくなっていた。


86: 名無しさんAA:19/03/17 18:27
 柳川 銭紋  82

 安禄山の心中では楊貴妃に強烈な恋心を抱いた。と言われる。快く思わない楊国忠は
策をもって安禄山を凋落しようとした。予知した安禄山が先に楊国忠打倒の兵を挙げて
これが、唐王朝を衰退させた。そしてこの覇権争いが有名な「安史の乱」だ。安禄山は
北方3州の豪族に対して、「皇帝より、楊国忠を撃てとの玉命を賜った」と計り、精鋭
8千騎と15万の歩兵を集めて、長安に向けて進撃する。そして1ヶ月後には長安の守
りの要衝である洛陽府を陥落し、自らが「ここに燕国を建てる」と宣言し皇帝を名乗っ
た。長安の皇帝軍と洛陽府の反乱軍はその間300キロを挟んで激しい攻防を繰り返し
半年後の皇帝軍の敗走により、玄宗は楊貴妃、楊国忠、そして宦官太監である高力士ら
と共に楊貴妃の故郷の蜀をめざした。しかし、安禄山の心の中は、本当に覇権争いする
様な謀反だったかというところが言われている。トルコ系の大柄で太ったこの陽気な男
は、宮中で宴会になるとコーカサスのステップで踊り、楊貴妃を大いに楽しませた。と
いう。楊貴妃のお陰で破格の出世をした。が、心中は楊貴妃を我が物にしたい。という
邪(よこしま)な考えで溢れていたようだという。凶暴な軍を率い都に乗り込み、戦闘
放棄させて、玄宗から楊貴妃を奪い取ろう。という魂胆だった。長安を落としたその3
日後に「楊貴妃処刑」の報を聞いて、心底驚いた。そして眼球が溶けて落ちるほどに涙
を流し、やがて発狂して、息子に寝首をかかれ死んだ。安史の乱とは、国を盗るよりは
楊貴妃の奪い合い、ただそれだけの戦いであったのかも知れないとさえ言われる。この
院政の頃に、阿倍仲麻呂は遣隋使としてやって来ていたのである。楊貴妃の馬嵬事変か
ら、3年後の続日本紀の天平宝字3年 (759)の記事に「新羅の人々が帰化を望んで、
来日しその船の絶えることがない。帰国したいものがあれば、食糧を給し、帰らせよ。
」と大宰府(だざいふ)に伝えた記事がある。ここからも、少なくとも新羅経由であれば
、多くの記録に残っていない異国船往来があった事をうかがわれる。即ち官の船は無く
とも民間の船は交易に多く居た。と言う証左だ。阿倍仲麻呂の時代に、文献に書いてな
いといっても、船の行き来がなかったという証拠ではない。記録は必要があると判断さ
れ記されているが、その必要性がない記録は残っていない。遣唐使船は、政府専用船の
往来の記録にすぎない。楊貴妃の親族(楊国忠の息子)に「楊咄(ようとつ)」がいた
。楊咄は、外交を扱う鴻臚卿(こうろけい)官使で、楊貴妃の脱出行を、この楊咄が支援
していたと言える。又阿倍仲麻呂は、親友である吉備真備が 日本の大宰大弐(だざいの
だいに)の職にあるという情報を得ていたのだろう。『今昔物語集』巻24「安陪仲麿、
於唐読和歌語第四十四」には---今昔(いまはむかし)、安陪仲麿と云(い)ふ人有けり。
遣唐使として物を令習(ならはしめ)むが為に、彼国に渡けり。数(あまた)の年を経て、
否(え)返り不来(こざ)りけるに、亦此国より〇〇と云ふ人、遣唐使として行たりけるが
、返り来けるに伴なひて返りなむとて、明州と云所の海の辺にて、彼の国の人餞(はな
むけ)しけるに、夜に成て月の極(いみじ)く明かりけるを見て、墓(はか)無(な)き事に
付ても、此の国の事思ひ被出(いでられ)つゝ、恋く悲しく思ひければ、此の国の方を詠
(なが)めて、此(かく)なむ読(よみ)ける、「あまのはらふりさけみれはかすがなるみか
さの山にいてしつきかも」と云(いひ)てなむ泣ける。此れは、仲丸、此国に返てかたり
けるを聞(きき)て語り伝へたるとや。

87: 名無しさんAA:19/03/17 18:29
 柳川 銭紋  83

----訳文----『今昔物語集』巻24「安倍仲麿 唐に於いて和歌を読む事 第44」
 今は昔となりましたが、安倍仲麿という人がいました。遣唐使として勉強するために
、唐の国へと渡りました。多くの年数が経っても、帰って来る事が出来ませんでした。
また、この日本から〇〇〇〇という人が、遣唐使として行きましたが、仲麿は、この人
の日本に帰るのに、伴って帰ろうとしました。明州という所の海辺で、唐の国の人達が
仲麿のために餞別の宴を開いてくれましたが、夜になって、月がとっても明るいのを見
て、こんなほんの些細(ささい)な事につけても、日本の事が思い出されて、恋しく悲し
く思えました 。そこで日本の方を眺めて、次のように詩を詠みました。「あまのはら
 ふりさけみれは かすがなる みかさの山にいてし つきかも」と書かれる。
又、楊貴妃が唐王朝の内乱を逃れて天草に渡っていたという伝説は九州には多くある。
九州の物語では、長安の都を逃れた玄宗皇帝と楊貴妃が2日間逃げ続け、そして皇帝を
守るべき宦官と近衛兵らは、長安から3日目についた馬嵬(現在の陝西省興平市)に差
かかったところで、その事件は起きた。とされる。宰相の楊国忠(楊貴妃のまた従兄)
を憎んでいた近衛兵達にの不満が爆発した。「宰相を討てば戦は収まる。」との裏切り
だった。こうして楊国忠を刺殺。さらに楊貴妃をも殺害すると騒ぎ出した。玄宗は、「
貴妃は後宮にいて政治に関わりはない。」とかばったが、宦官総監の高力士の説得を受
けて、楊貴妃に処刑を命ずることになった。楊貴妃は「国の恩に背いたのだから死んで
も恨まない、せめては最後に神を拝ませて欲しい。」と頼みこみ聞き入れられた。宦官
の高力士によって、馬の背後に乗せられて馬嵬から西方の道教寺院へと向かった。小さ
な道教の寺に着くと楊貴妃は神前で読経をよみ、高力士がその背後から荒縄で首を絞め
て縊死(えし)させたといわれる。こうして遺体は寺の裏山にひっそりと埋葬されたが
、墓の在処は高力士と墓を掘った数人の宦官しか知らされていない。知っての通りに、
こうして楊貴妃の死を知った安禄山は毎夜泣き明かしたあげくに失明し、さらには発狂
して、息子に殺害されるという無惨な最期を遂げた。さらにその息子も反乱軍の重鎮だ
った史思明に殺害され、史思明もその息子に暗殺される。という連鎖になった。まるで
楊貴妃の怨念ともとれる悲惨な運命を彼らは辿った。安禄山の死を受けた玄宗は、長安
の都に戻ったが楊貴妃のいない生活に耐えられず、皇位を皇太子の李亨に譲って自らは
太上皇となり、隠居をした。その後に玄宗は楊貴妃の霊を祀るため、宮中に墓所を建て
ようとしたが宦官総監にこれに反対され、やむなく馬嵬の墓を改葬するように命じたの
である。宦官たちがこの作業にあたったが墓の中には楊貴妃のものと思われる着衣と錦
の香袋があっただけで亡骸は影も形もなかったと報告された。当時に、楊貴妃と玄宗の
寵愛を描いたといわれる詩人、白居易の長恨歌を検証してみると、どこにも楊貴妃が死
んだという文言は見あたらず「馬嵬坡下泥土中不見玉顔空死処(馬嵬の墓の泥土の中に
は貴妃の玉顔は見られず)」との一節があり、楊貴妃の墓が空っぽであったことを歴史
書は伝えている。思うに彼女は先の百済王敬福と共に異人種すなわち白人のキリスタン
ではなかったろうか。とおもうのだ。



88: 名無しさんAA:19/03/17 18:30
 柳川 銭紋  84

 この楊貴妃の行方については、中国国内にでも諸説あるくらいだ。玄宗の高官だった
阿倍仲麻呂に助けられて中国のとある村に落ちのびたとか、同じく仲麻呂に助けられて
蓬莱に渡り住んだというものが有名である。同じ頃の日本に記述では、日本への帰国を
強く望んでいた仲麻呂の音信が途絶えた。ともあるし、唐の記録ではベトナムの節度使
になったとあるが、実際にはベトナムは唐の領土ではなかったのだからこの記述は信ぴ
ょう性に欠けるが、いずれにしても、何故か、楊貴妃といえば日本との深い関係が語ら
れているのである。取り合えず一般的に死亡したとされるのは、長安から西方に60キ
ロの馬嵬である。この地には黄河の支流にあたる渭水(いすい)が流れて、楊貴妃を乗
せた小舟を渭水に流すならば、黄河を下って安禄山の陣営のまっただ中を通過して渤海
に出る。そうすれば天草に着くなど考えようもなく、運良ければ朝鮮半島に漂着するか
、もしくは対馬海流に乗って山陰の沖合を漂流することになる。朝鮮半島や対馬海流に
漂流以前に、安禄山の陣営のまっただ中を通過するのだから、いつ何時、小舟が岸に乗
り上げて安禄山の手に落ちるかも知れない。もとより安禄山は楊貴妃に恋い焦がれてい
たのだから、捕まれば間違いなく安禄山の囲いものになってしまう。そんな失態のある
方法を、玄宗を思う宦官総監の高力士がするはずもない。特に非情なソクド人の安禄山
に、絶対に楊貴妃を渡してはならない。とそう思っていたはずだ。そうなれば、馬嵬で
処刑したということもすべて嘘になって、高力士も処刑されるから。逃れる手はただ一
つ、絶対見つからない様に南に逃げて最悪の場合は揚子江の支流にあたる漢水からに流
すほかはないと考えた。それならば、万に一つの救いがある。今の武漢市を経て上海を
通過して東シナ海に出て、東方海上に、道教の憧れの地でもある蓬莱(ほうらい)があ
る。道教を盲信する楊貴妃も、蓬莱に流れ着くとなると安心して流れに身を任せる事は
出来るだろう。安史の乱が勃発したのは西暦755年の11月。その翌月には、精鋭の
8000騎が長安の東方300キロの洛陽府を陥落させて長安の都に攻め入ろうとして
いた。これに対抗した皇帝軍は半年を持たずに敗退して、危機を感じた玄宗と楊貴妃、
宦官たちと近衛兵らは756年6月13日、長安を放棄してしまい楊貴妃の故郷である
蜀(四川省)に向けて都落ちした。従って漢水から楊貴妃が流されたとすると、旧暦の
6月か7月である。真夏の揚子江は、源流の四川高原に降るスコールの影響ですこぶる
水量が多い。漢水から武漢を経て揚子江の河口である上海まで1200km、膨大な水
量に押されればおよそ5日で東シナ海まで流れ着く。上海から先のことは分からないに
しても、このルートをとれば安禄山の手に落ちることはないと高力士は考え船を用意さ
せていた。遣唐使であり、盟友でもあった阿倍仲麻呂が話していた。雨季の水量を利用
すれば上海から東シナ海に出て、5日もあれば日本の九州までたどり着く。


89: 名無しさんAA:19/03/18 10:26
柳川 銭紋  87

 時は西暦700年の頃に、現在の中国東北部の(遼寧省・吉林省・黒竜江省)に渤海
(ブゥハイ)という唐国に隣接する新興の国家があった。時の聖武天皇は、遣唐使とは
別に遣渤海使を派遣して友好を深めており、その一員に小野朝臣田守という大使がいた
。小野田守は安史の乱が起きた2年後の758年9月に帰国。楊貴妃が日本に逃がれた
との情報も聞きつけており、それが事実ならば、安禄山が大軍をもって日本に攻め込ん
でくるであろうと、安史の乱の子細(以下)を奏上した。『天平宝字二年(七五八)十
二月戊申』遣渤海使小野朝臣田守等奏唐国消息曰。天宝十四載、歳次乙未十一月九日。
御史大夫兼范陽節度使安禄山反。挙兵作乱。自称大燕聖武皇帝。改范陽作霊武郡。其宅
為潛竜宮。年号聖武。留其子安卿緒。知范陽郡事。自将精兵廿余万騎。啓行南往。十二
月。直入洛陽。署置百官。天子遣安西節度使哥舒翰。将卅万衆。守潼津関。使大将軍封
常清。将十五万衆。別囲洛陽。と書かれた。
 淳仁天皇(大和朝廷)は鎮西府のあった大宰府に対し、万一、安禄山の軍が攻めて来
た時のために「奇謀を設けよ」と命じたのである。奇謀とは奇策・謀略のことであろう
。当時の朝廷の防人では、安禄山の大軍と闘って勝てるわけもない。ならば、正面から
激突する戦法をとらず、ゲリラ戦をするように命じたのだろう。安禄山の水軍も遣唐使
のルートと同じく、揚子江の流れと西風によって天草一帯に攻撃を仕掛けてくる。ただ
ちに、天草をはじめ九州西海岸は厳戒態勢に入った。そんな時期に、楊貴妃の出現であ
る。これが安禄山に知れたら攻められると思って、全てを封印せざるをえなかっただろ
う。従って楊貴妃は、天草に大きな功徳を積みながらも、墓碑も記録も残されずに、そ
のまま時代が流れていった。それでも今をもって天草という島名の由来には伝説でしか
ない、確たる資料がない。由来を解き明かすために、いつ頃から「天草」と呼ばれるよ
うになったかを検証してみなければならない。日本最古の歴史記といわれる古事記を紐
解いてみても。これは天武天皇(680年代)の発案で取りまとめられて、語部(かた
りべ)の稗田阿礼(ひえだのあれ)に記憶させたものを、その後の天明天皇の御代にお
いて太安万侶(おおのやすまろ)に文書化させ、712年に完成したものだ。上・中・
下の3巻からなり、神々の成り立ちと天孫降臨から始まって、日本創造、そして初代か
ら33代の推古天皇までの偉業について記されている。その上巻3−神代7代(以下、
原文)で注目すべきが、日本国土の創造(国産み)神話となる。



90: 名無しさんAA:19/03/18 10:27
 柳川 銭紋  88

 この角氏が存在していたのは奈良からの移住人である。奈良には角振町(ツノフリ)とい
う地名の場所があり、町内に隼神社があって、角振神社とも呼ばれている。この事から
隼人族の一部だった事が覗える。祀られる角振神は、火酢芹命(ホスセリノミコト)の御子で、
隼神は父であるとのこととされる。この近くは橋本町とされ、この町名の由来は、昔々
に、この町の南の方に、猿沢池の方から率川が流れてきていた川沿いであったからだ。
その後昭和の初め頃には暗渠にする工事で今はみえない、その上が遊歩道になっている
。まだ川が地表を流れていた頃、通りとの交差点に、石の橋がかかっていたので町名は
有名だった様だ。此個の摩詞不思議ラリーマップは、次のような伝説が書かれてあった
。『この石橋を渡る人々は、口々に妙な噂をした。一人でそこを通り過ぎようとすると
、後から声がして呼び止められる。「…して、…して。」と。しかし振り向いても誰も
いない。気のせいかと思い、再び歩き出すが、やはり声はする。よく耳を澄まし聞いて
みると、その声は川の方から聞こえてくるのだった。だが見渡しても人影はない。こう
して怖がられた場所だった。又、川に奇妙な人達がいるのを見たという人も多くいた。
夜が更けると、手元の明かりのみで、遠くは暗くてなにも見えない場所で。街と言えど
も夜は寂しい所で、しかしその夜の月明かりは川の上に浮いている人の姿がはっきり見
えたという噂がたった。その目撃は多く、若い女性だったり、年を召したおじいさんだ
ったり、また子供だったりと様々だが、決まって恨めしそうに、じっとこちらを見てい
たと言われた。さて、その遊歩道を設ける工事が行われた時のこと、川の淵を固めてい
た石を崩したところ、なんと、その中から出て来たのは多くの墓石であったと言う。こ
うして、近所の人達は驚き「ああそういうことだったのか。」と、今までの奇怪な噂に
納得したという。その墓石は無縁仏としてお寺に運ばれ、丁重に供養された。という。
昔は戦乱も多くあって、急いで石垣を築いたり、水路の修理をしたりする時は石が間に
あわなくて、石のお地藤さんや墓石を使っていて、奇妙なことがおこったという話は、
よくあったようだ。又、この橋本町は奈良市の中央で、奈良からの交通起点となってい
たという。県下の里程は、ここを基点として測量された。廃藩置県の頃まで一丁目一番
地の面目があったらしい。橋本町は、この率川南方にあって板橋があったので橋本と言
う。本は許(ある人の居るところ、あるいはその影響の及ぶ範囲)の和語である。隣の
樽井町は、足井、垂井とも作る。一説には弘法大師が始め橋本で法水を求めて井戸を穿
ったが、不足したのでまたこの井戸を掘って法用供濯に足したので、足井(たるい)と
名付けたからと言う。


91: 名無しさんAA:19/03/18 10:27
 柳川 銭紋  88

この奈良の話が、紀伊の人=木の下=木下氏の自出とされる事から、橋本氏も同じと思
われる。南都では、東を上とし、西を下とすることから、東大寺、春日社へ至る道であ
るの途中であり物資の往来も盛んだったと思われる。近くには漢国町(かんごくちょう
)や漢国神社(かんごうじんじゃ)がある。奈良町には七小路(しちすじ)、七御門(
しちみかど)の町名があるという話で、奈良にある七つの大寺に由来し。東大寺・興福
寺・元興寺(がんごうじ)・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺の七寺。南都七堂。七大寺
という「7」の数字で彩られる。南都七郷を、南大門郷、新薬師寺郷、東御門郷、北御
門郷、穴口郷、西御門郷、不開門郷以上で、七御門は高御門、下御門、今御門、西御門
、東御門、中御門、北御門とされる。中御門は東大寺の俗称焼け門に由来し、東御門は
『習見聴諺集』「南都興福寺七郷」の中にその名前がある。この中の東御門郷〈金堂郷
)は、南院、中村、登大路、東里、芝、西野田、東野田、北野田、重持院で構成されて
います。つまり中村氏や、野田氏、柴氏などは、この原田氏従属の物で大塔の宮家と共
に南朝として下向してきた者たちなのである。戦乱に明け暮れた其の後、何故か七御門
(しちみかど)は奈良(南都)七御門(ななごもん)と言われ初めて、興福寺東西二門
(東御門、西御門)、東大寺西門二所(中御門、北御門)、元興寺西北三門(高御門、
下御門、今御門)と坊目拙解に変わってしまう。この門の名称は正確でない。近畿、特
に奈良は歴史が古いだけに、地名や町名の難解なものが多くあって歴史が改ざんされる
。漢文の音読み訓読み韻と3種の読みがあっても平気だったらしい。意味が通じたから
だが後の人が、わざとそう変えていった面もある。一般的には奈良市内だけのもので、
他府県の方には難読と思われるものが残っている。阿宇万字:あぜまめ、油坂地方:あ
ぶらさかじかた、藺生町:いうちょう、荻:おおき、邑地町:おおじちょう、興ヶ原:
おくがはら、押上町:おしあげちょう、帯解:おびとけ、肘塚:かいのつか、鵲町:か
ささぎちょう、杏町:からももちょう、元林院町:がんりいんちょう、包永:かりがね
、京終:きょうばて、沓掛町:くつかけちょう、神殿:こどの、芝突抜町:しばつきぬ
けちょう、勝南院:しょうなみ、杉ヶ町:するがまち、誓多林町:せたりんちょう、済
美:せいび、雑司:ぞうし、高天:たかま、都祁:つげ、角振:つのぶり、東一:とう
いち、内侍原町:なしはらまち、平城山:ならやま、並松:なんまつ、二名:にみょう
、丹生町:にゅうちょう、忍辱山:にんにくせん、吐山:はやま、疋田町:ひきだちょ
う、不審ヶ辻子町:ふしがづしちょう、生琉星町:ふるさとちょう、三碓:みつがらす
、大豆山町:まめやまちょう、山陵町:みささぎちょう、茗荷町:みょうがちょう、餅
飯殿:もちいどの、油留木:ゆるぎ、鹿野園町:ろくやおんちょう、破石:わりいし--
-(50音順)---etc----などが挙げられている。奈良には花街も多く元林院町など
は元林院は興福寺の別院と坊目拙解にはあるが当町はもちいどのセンター街と猿沢の池
の間あったと言う。


92: 名無しさんAA:19/03/18 10:28
 柳川 銭紋  89

南北の道をはさんで西側には、南都銀行本店の堂々たる建物がある。奈良県の経済の中
心であり、原動力でもある南都銀行は、昭和六十年発行の「南都銀行五十年史」による
と、昭和九年六月一日、奈良県下の六十八銀行、吉野銀行、八木銀行、御所銀行の四銀
行が合併して設立された。」という。 大和郡山には室町時代に、在地領主によって、
郡山城が築かれ、天正年間の一五八〇年、織田信長によって、筒井順慶に与えられた。
順慶は城の大増築をしたが、五年後の一五八五年には筒井氏に代わって豊臣秀吉の弟、
豊臣秀長が入城、大和、紀伊、和泉三国の城郭を整備、城下町郡山を拡張した。この地
の南都銀行五十年史によると、秀長は城下の繁栄をはかるため、大和国中(くんなか、
平坦部)での一切の商売は郡山城下以外では出来ないという商業厳禁策をとったという
。その後、この商業厳禁策は緩和されたが、江戸時代の郡山は依然として大和の商業の
中心地として栄えた。江戸幕府のもとでは幾度か藩主の交替があったが、亨保九年(一
七二四)以降は柳沢氏の郡山藩十五万石の城下町として明治に至った。明治四年七月の
廃藩置県により、郡山藩は郡山県となり、一時は郡山城に県庁がおかれ、郡山城最後の
城主であった柳沢保申氏は郡山県知事となられた。郡山城主として百四十年余り縦承さ
れた柳沢家の六代目の城主であった柳沢保申氏は、旧藩士の生活や郡山の盛衰について
常に心を痛めておられた。明治九年の国立銀行条例の一大改正に基き、近代的な金融業
を興し、産業を開発することが重要であると考え、士族救済の方策ともなることを説き
、旧藩士達に、銀行設立を提唱されたと伝えられる。この提唱を受けて、旧藩士の主だ
った人八名、土地の素封家二名が発起人となって、大蔵卿大隈重信公に国立銀行設立願
を出し、開業免状を貰って、明治十二年一月十一日第六十八国立銀行は「堺県下大和国
添下郡、郡山柳町一丁目二十一番地で開業した。郡山県になったり、堺県になったり、
その後大阪府になったりした明治初期の人心の動揺がしのばれる。」と銀行史には書い
てある。明治十三年六月からは奈良東城戸町に出張所を設け、官公金出納業務を開始し
たが、出張所ではなにかと不便が多かった。明治九年に奈良県が廃止されて以来、奈良
県再開運動が繰り広げられていたのが、やっと実現して県庁が奈良に設立されたのを機
に、大蔵省に申請して、明治二十一年一月十二日、奈良角振町七番地に奈良支店を開設
した。【奈良支店の新築と南都銀行への移行】には、角振町に設立された支店は業務の
拡大と共に手ぜまとなり、この支店から東へ約100米の奈良市橋本町十六番地(現在
、南都銀行本店のある場所)に新築されることになった。設計監理は東京在住の工学博
士で建築士の長野宇平治氏、工事は大林組が担当された。



93: 名無しさんAA:19/03/18 11:05
 柳川 銭紋  90

 養老元年(717年)4月23日、詔をもって「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出て
みだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑してい
る。」と、この新しいタイプの宗教集団を、朝廷が、寺の外での活動を禁じた僧尼令に
違反すると、糾弾されて弾圧を受けた。行基の仏法活動と国家弾圧に関して、奈良時代
において、具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみであり、前代未聞だっ
た。その後も、天平2年(730年)9月、平城京の東の丘陵(天地院と推定)で妖言を吐
き数千人から多い時には1万人を集めて説教し民衆を惑わしている。と糾弾された。(
続日本紀)。しかし、行基とその集団の活動が大きくなっていき、指導により墾田開発
や社会事業が進展し、豪族や民衆らを中心とした宗教団体の拡大を抑えきれなかった。
、こうした行基らの活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではない
と判断したことで、天平3年(731年)に弾圧を緩め、翌年には河内国の狭山池の築造に
行基の技術力や農民動員の力量を利用した。天平8年(736年)には、インド出身の僧・
菩提僊那がチャンパ王国出身の僧・仏哲、唐の僧・道詮とともに来日した。彼らは九州
の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられてい
る。こうして天平10年(738年)に 朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられたのであ
る。(日本初の律令法典「大宝律令」の注釈書)この後三世一身法が施行されると灌漑
事業などをはじめ、多くの行基の事業は権力側にとっても好ましいものとなり、やがて
聖武天皇の方から接近して、行基は 740年(天平12年)に聖武天皇に依頼され大仏建立
に協力し奈良の大仏を建立した。ここで解る様に、海外から渡来僧、菩提僊那(ぼだい
せんな)仏哲・道詮(ぶってつ・どうせん)など6僧と日本の僧合わせて15人位が、
日本で貧民救済・治水・架橋をして噂になっている為に、わざわざ大宰府まで下向して
それを迎えに行基は門徒や部下と共に会いに行っているのである。朝廷において、圧倒
的な権力を誇ったとされる藤原四兄弟が天然痘(てんねんとう)の流行によって相次い
で死んでいったのは、天平9年(737年)なのだ。つまりこの天然痘(てんねんとう)の
流行は世界的流行であって、日本では死者が少なく、中でも行基はその介抱を成功して
いたのだろう。と思われる。その行基が在していたとされるのが水田・八女・瀬高での
伝説である。かつて角(すみ)氏の先祖は、この行基の信仰で住みついて、角を名乗っ
たとされる。つまり何らかの形でその隅に置いてくれという意味で住み着いた人なのだ
。実は角氏は役小角(えん の おづぬ)の末裔伝説がのこっている。飛鳥時代の呪術者
である。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)といった呼び名で
広く知られ、姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物
像は後世の伝説による。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場には、
役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承があるとされる。


94: 名無しさんAA:19/03/18 11:15
 柳川 銭紋  91

 この角氏の役小角(えん の おづぬ)の末裔伝説を探ると、意外な展開に驚く事があ
る。それが橋本伝説である。つまり角氏の土木を担ったのが橋本と呼ばれた奈良の人と
言う話である。伝説では飢えや飢餓に会う人達が、誰か共に九州下向について行った。
とされた。それが橋本氏の始まりだった。その橋本の由来は、朝鮮族からの悪口だった
。日本で相撲の本家は吉田神道であり、熊本が起源とされる。吉田氏は隼人との融和を
相撲に求めた。とされている。つまりここに祖母傾山の、新羅人の移住伝説があるのだ
。日本で天然痘が治ったのは何故だろうか。実はここに火の祭りや裸祭りの起源がある
のだろう。清らかな川で禊を行う。或いは藁人形で火に当たり汗をかく。と言うのは、
有効な措置で、厩や藁に納豆菌が居る事が今では判明している。天然痘ウイルスは低温
、乾燥に強く、エーテル耐性ですが、アルコール、ホルマリン、紫外線で容易に不活化
し病気を起こさなくなるとされる。臨床的には天然痘は 致命率が高い場合(20〜50%)
と、致命率が低い場合(1%以下)に分けられているが、増殖温度以外では区別できない
。又、天然痘ウィルスは壊れやすい(もろい)ので、天然痘を噴霧器などで放出された
場合でも、1〜2日以内に不活性化する。最初にウィルスが噴霧器で放出された建物は
、汚染を除去する必要はない。最初の事例が発覚するまでに、放出から約2週間たって
おり、その建物内のウィルスはもうすでにそこにはいないからだ。とされる。天然痘は
独特の症状と経過をたどり、古い時代の文献からもある程度その存在を確認し得る。大
まかな症状と経過は次のとおりである。@飛沫感染や接触感染により感染し、7 - 16日
の潜伏期間を経て発症する。A40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。B
発熱後3 - 4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じ またはやや白
色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。C 7 - 9日目に再度40℃以上の高熱に
なる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけで
なく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って
呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。D 2 - 3週目に
は膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。治癒後は免疫抗体ができるため、二度とかかるこ
とはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。天然痘ウ
イルスの感染力は非常に強く、患者のかさぶたが落下したものでも1年以上も感染させ
る力を持続する。このかさぶたで生きる天然痘の力で九州から都まで広がった。この事
で藤原氏の勢力は大きく後退し、宇合の長男、広嗣は大養徳(大和)守から太宰少弐(
だざいのしょうに)に任じられ、太宰府に赴任しこれを左遷(させん)と感じた広嗣は
、天平12年(740年)8月29日、天地による災厄の元凶は、反藤原勢力の吉備真備(きび
のまきび)と僧玄ム(そうげんぼう)に起因するとの上奏文を朝廷に送り、批判した。
聖武天皇は、広嗣の召喚の勅(ちょく)を出すが従わず、広嗣は、天平12年、弟の綱手
(つなて)とともに太宰府の手勢や隼人などを加えた1万余を率いて反乱を起こした。
聖武天皇は広嗣を反逆者として、大野東人(おおののあずまびと)を大将軍に任命し、
兵1万7千人を授けて広嗣討伐(とうばつ)を命じた。



95: 名無しさんAA:19/03/18 11:21
 柳川 銭紋  92

 結局広嗣は追討軍に敗走し、最後は肥前国松浦郡に逃れ、値賀浦から耽(たん)(韓
国の済州島)へ亡命しようとしたが、逆風に吹き戻されて、値嘉島の長野村に漂着し、
そこで討伐の軍に捕らえられて、松浦郡で処刑された。吉備真備は天平勝宝2年(750)
筑前守に任じられて下向し、広嗣の怨霊鎮めにつとめ鏡神社を建立した。また、広嗣処
刑の地とされている浜玉町五反田には、広嗣鎮魂の為の無怨寺が建立されました。建立
したのは五反田村の庄屋加茂丹後で、建立までの流れが分かる手紙が残っていると言う
。現在の大村神社とされる。実は広嗣が追手を逃れ身を隠したとされる渕の地では、後
に広嗣の死を知った村人が渕野権現社を建て霊を奉っている。この社の神田には、下肥
(しもごえ)をやってはならないとされ初穂を奉納するといいます。また、一説には、
稚茶木(ちさき)の下で自害したともいわれ、そこに稚茶木権現を奉って霊を慰めまし
た。この下田には毎年一羽の白鷺(しろさぎ)が飛んでくるようになり、これを「権現
様(ごんげんさま)の使い」といいました。広嗣の遺体を埋葬したところを伽藍野(が
らんの)、あるいは藤原原といい、ここには昔、松の大木があり、これを切り倒した木
こりの二人は盲目になったという伝説もあります。いずれの権現社も、早田鎮守神社に
合祀(ごうし)されています。と言う。この渕の地には、他にもいろいろな話がある。
実は、博多が「伯人(はかた)」と呼ばれた起源がこの天然痘(てんねんとう)にある
ようだ。女真族(満洲民族)粛慎人ユウ婁(ゆうろう)人、勿吉(もっきつ)人、靺鞨
(まっかつ)人でも、恐らくはこの博多の浜に流れ着いている筈だ。その中で、先の大
和長岡(やまと の ながおか)こと、大倭長脚足宿禰。(やまとながあしのすくね)が
産まれたのだろう。この長岡と言うのは当然長岡京を意味し、大倭長脚足、というのは
長脛族の容姿を意味した。博多が「伯人(はかた)」と言うのは実はこの長脛族を白兎
として「ハクト」と呼んでいた名残りなのである。この事は足が長く背の高い白人だっ
た事を示している。つまり大倭長脚足宿禰も又見た目から白兎の人間と見られていた可
能性が高い。ここで広嗣討伐(とうばつ)を命じ大野東人(おおののあずまびと)を、
大将軍に任命し副将軍に紀飯麻呂を任じて征伐を命じた。ところがこの兵は隼人の民だ
った。ここに大きな逆転模様がある。聖武天皇は文武天皇の姉である元正天皇が「中継
ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった天皇だ。神亀6年(729年)に長屋王の変
が起きて、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立
后されたが、本来聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当し
ていた。長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で
光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている反乱だった。天平年間
は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依していたが、天平
13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立
の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたもの
の、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。そこで出てくるのが聖徳太子の
逸話である。厩戸(うまやど)というのは、多分天然痘患者のベッドで家畜の部屋に、
次々死んで行くので放っておいたら息吹き返し、生き残った子供が居た。そこで藤の藁
の姓が生まれたのではないか。藤とは「不治の病」を示した言葉でなかったか。という
説である。


96: 名無しさんAA:19/03/18 11:23
 柳川 銭紋  93

 藤原広嗣の乱の話は、柳川に伝わる渕上伝説と随分違う。式家家伝では多くの民が、
病気により不作になって、京への供物や貢物が送れなくなった。しかし、京ではこの事
を九州王朝の反乱とみなして軍を徴収し、東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の
五道の軍1万7,000人を動員する用意をするがしか、し吉備真備の助言で、朝廷に出仕し
ていた隼人24人をつれて佐伯常人、阿倍虫麻呂が勅使として向かわせた。藤原式家は
北家より由緒ある家柄である。この時まだまだ天然痘(てんねんとう)の流行は収まっ
ていない。ここに瀬高の広田八幡宮の創記の、大隈・日向の隼人族は律令制に反対して
大隈の国司を殺害するなど、川上静が朝廷に反乱した。と言う伝承がでているのである
。朝廷は3月4日に大伴旅人(おおとものたびと)を遣わせて平定するというのは、確
かに養老4年(720年)2月29日に大隅守・陽侯史麻呂の殺害に端を発した「隼人の反乱
」の報を受け、3月4日に征隼人持節大将軍に任命され反乱の鎮圧にあたったとされる。
しかし、5月頃軍営を張り、6月中旬まで成果を上げる中で8月に右大臣・藤原不比等
が亡くなったことから隼人平定の中途半端のまま京にもどる指令をうけるのである。そ
の後の藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)は天平12年(740年)という 僅か20
年後の事だ。この神亀5年(728年)頃大宰帥として妻 大伴郎女を伴って大宰府に赴任
する事をみれば10年後であり。60歳を過ぎてからの二度目の九州下向であったが、こ
の任官については、当時権力を握っていた左大臣・長屋王排斥に向けた藤原四兄弟によ
る一種の左遷人事とされ、当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された
人事との説もある。不比等の死は養老4年(720年)63歳とされる。つまり一度京に戻っ
て再度出て来たのだ。賊徒征伐の勅命を受けた宇努首男人と、宇佐の軍衆達は、勝ちを
宇佐皇大神の広前に祈った。3月3日夜の神託で「筑紫なる御心廣田に遷し、廣田速彦麿
をおいて吾御前を祭らば皇軍必ず勝つ」とお告げがあり、皇軍は賜った言葉に従い、勝
ちの凱旋報告を、養老5年(721)8月に行っている。お告げの通りに、廣田速彦麿は
朝廷より、この地廣田縣の500町の田地を賜り、分霊を筑紫廣田原に遷宮して祀るの
である。廣田速彦麿は養老7年(723)3月1日に亡くなった(73歳)とされ神官
を息子の速胤(はやたね)が受け継いで後、神亀元年(724)2月に、豊前宇佐八幡
宮(応神天皇)の分霊が遷宮されている。神亀5年(728)3月に、従三位太宰師に
着任した大伴旅人は、広田庄惣社として3万坪の社地を廣田縣芳司村に奉納して壮殿を
建立した。大伴旅人は使者として、太宰少弐という官職の石川足人(たりひと)と、前
討伐将軍宇努首男人に(この年に任を解かれ、その後上京している)を同席させて11
月19日に新宮に宇佐八幡宮の分霊を遷して祀った。と言う。この時石川足人は竜宮寺
の石川氏の始祖とされ、亡き廣田速彦麿の長男の速胤(はやたね)は神主として、広田
を継ぎ、次男の彦信は勅使役(ちょくしやく)として御神体の跡詰を役し、三男の速具
は先祓の神として守護し奉じ祀った。この事で次男彦信は宮の壇を築き壇性を、三男速
具は瀬渡し板橋を架かけ、板橋性を受けて、氏の氏祖となったと言う。又川上姓は脊振
の川上伝説の住民である。


97: 名無しさんAA:19/03/18 11:26
 柳川 銭紋  78

 実はこの時又大きな出来事が遇っている。式家家伝では、多くの民が、病気により不
作になって、京への供物や貢物が送れなくなった事を再開させるべく動いたのである。
物語では、広嗣軍は板櫃川の会戦に敗れて敗走し、船に乗って肥前国松浦郡値嘉嶋(五
島列島)に渡り、そこから新羅へ逃れようとした。ところが耽羅嶋(済州島)の近くま
で来て船が進まなくなり、風が変わって吹き戻されそうになった。広嗣は「わたしは、
大忠臣だ。神霊が我を見捨てることはない。神よ風波を静めたまえ」と祈って駅鈴を海
に投じたが、風波は更に激しくなり、値嘉嶋(現在の宇久島)に戻されてしまった。と
している。この島は、平家盛(平清盛の弟)が壇ノ浦の戦いの後にこの島に逃れて住み
つき、五島一円に勢力を伸ばして宇久氏の祖となったという伝説が残っている。ここの
問題に一つは宇佐氏と言う隼人族は実は海人族でこの宇久氏であった可能性である。つ
まり追い詰めた広嗣軍の相手は隼人族ではなかったか。と言う事だ。そしてもう一つは
この後に壇ノ浦とされる地がこの時姓を貰った檀氏が船頭であった為に、褒賞として彼
の領地となった。と言う可能性だ。そして式氏は「志岐氏」としてその後天草や長崎に
点在した。そうして追い詰められた隼人族は政府転覆に動いた。そこに藤原4兄弟がい
たのだろう。唐から帰国した吉備真備と玄ムが重用されて、藤原氏の勢力は大きく後退
した中で、筑前国遠賀郡に本営を築き、烽火を発して太宰府管内諸国の兵を徴集して、
広嗣は、関門海峡で、登美、板櫃(豊前国企救郡)、京都(豊前国京都郡)の三郡鎮に
兵を増派したと言う事から、間違いないと思える。登美(うみ)と言うのは宇美氏であ
り板櫃(いたづけ)は板橋氏の土地ではなかったかと言える。実はこの時も、安曇の磯
良丸の子孫の安曇氏と高橋氏の衝突があった。とされる。高橋家は磐鹿六雁命(日本料
理の神として尊崇を集めた神)を祖とする古代氏族の一で、膳部(かしわで)氏とも称
した。この膳部(かしわで)氏は代々高橋家の変苗であり、相撲などの祖とされた祭人
であると言われる。天皇の饗応係であり、日々は安曇氏が受け持ち、多分に天然痘(て
んねんとう)流行のあおりで何らかの行き違いが生じたと考えられる。代々内膳司を勤
めており、同僚の安曇(あずみ)氏との衝突の果てに家記『高橋氏文』(789年奏上 逸
文)を奏上したことでも知られる。また、「10月23日、こうして値嘉嶋(現在の宇久島
)に潜伏していた広嗣は安倍黒麻呂によって捕らえられ 11月1日、大野東人は広嗣と綱
手の兄弟を、肥前国唐津(現・佐賀県唐津市)で斬った。」と報告された。それでも、
乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し
都を出てしまうのである。聖武天皇は、伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京
(山城国)に移ったのである。養老4年(720年)大隅・日向で隼人が一斉に蜂起し、こ
の時豊前守であった宇努首男人は鎮圧のために将軍に任ぜられて戦勝を祈り宇佐神宮に
参拝している。

98: 名無しさんAA:19/03/18 11:27
 柳川 銭紋  94 でした



99: 名無しさんAA:19/03/18 13:04
 柳川 銭紋  95

 この戦いの結果が柳川伝習館文書に記載されていたと言う。男人は隼人の軍勢を大い
に破って数多くの兵を討ち取り、又多くの兵を殺した償いとして大神の託宣が発せられ
たが、この戦で多くの友や供を失い、死者を弔い(ともらい)毎年放生会が催されるよ
うになり、これが後に、石清水八幡宮の創建につながった。つまり賊徒征伐の勅命を受
けた時の賊徒は隼人の民なのだったが。この軍が、これが僅か10年も経たずに隼人に
追われる立場になったのである。佐賀の川上伝説では、ここに大きな死者が出て隠れて
いた住民は、瀬高の清水を真似て創建するとある仏僧と共に誓いを立てて住んだが、再
度の戦いで、奈良に奴隷として連れていかれていった。その後京都に清水寺が建った。
と言う話である。少なくとも広嗣の乱では、大きな言い争いはあっても戦乱は起きなく
一方的な九州王朝への大和朝廷への軍事介入で、これまで技術を取り入れていた韓国に
藤原広嗣は帰ろうとしたが帰れなかった。と物語は書いている。天皇はその後も難波京
へ移り、また平城京へ還って、と遷都を繰り返すようになる。遠い九州で起きた、広嗣
の乱を聖武天皇が極度に恐れた為であったとされるが、どうも乗っ取られた大和朝廷内
での権力争いが、朝鮮や中国風の強権主義に変わって行く状況だったに思われて仕方な
い。これまでの政権の懲罰は戦そのものだったが、ここに来て集団化して確立された。
罪人がかつては平民であったのが、上層部の天皇の兄弟まで及んできたのだ。天平13年
(741年)1月、乱の処分が決定し、死罪16人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177
人であった。といわれる。藤原式家の、広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された
。又「広嗣軍1万騎が板櫃川(北九州市)に至り、河の西側に布陣した。勅使佐伯常人
、阿倍虫麻呂の軍は 6,000人余で川の東側に布陣した。」とあるがここで「阿倍虫麻呂
」は歌人で「高橋虫麻呂」であり物部氏連(もののべのむらじ)の一人であのだろう。
つまり、この高橋と言う奈良人と言う意味の安倍の姓は、新しい朝廷の権威だったのだ
。かつては曽我氏と物部氏の対立が、ここに又ぶり返した。聖徳太子 以来の確執が645
年7月10日(皇極天皇4年6月12日) 中大兄皇子は中臣鎌足らが謀り、皇極天皇の御前で
蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こし(乙巳の変)入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害し
たが、一族が滅んだ訳でもなかったのである。又その後藤原道長の世になったのを見て
も、結局朝廷が支配を固めても、人民自治には至らなかったのである。吉備真備は天平
勝宝2年(750)筑前守に任じられて下向し、広嗣の怨霊鎮めにつとめ鏡神社を建立した
。また、広嗣処刑の地とされている浜玉町五反田には、広嗣鎮魂の為の無怨寺が建立さ
れました。建立したのは五反田村の庄屋「加茂丹後」で、建立までの流れが分かる手紙
が残っているとされる。現在の大村神社である。広嗣が追手を逃れ身を隠した。とされ
る渕の地では、後に広嗣の死を知った村人が渕野権現社を建て霊を奉りました。この社
の神田には、「決して下肥をやってはならない」とされ初穂を奉納するといいます。

100: 名無しさんAA:19/03/18 13:05
 柳川 銭紋  96

 また一説には、「稚茶木(ちさき)の下で自害したともいわれ、そこに稚茶木権現を
奉って霊を慰めました。この下の田には毎年一羽の白鷺(しろさぎ)が飛んでくるよう
になり、これを「権現様(ごんげんさま)の使い」といいました。広嗣の遺体を埋葬し
たところを伽藍野(がらんの)、あるいは藤原原といい、ここには昔、松の大木があり
、これを切り倒した木こり二人は盲目になったという伝説もあります。いずれの権現社
も、早田鎮守神社に合祀(ごうし)されています。肥前町には「馬ノ部(まのはまり)
」という地名があります。これは、広嗣の馬がはまり込んだことにちなんだ地名といい
ます。大村神社の成立、音なしの祭り(家に引きこもる祭りがある)などがある。」と
かかれる。鏡神社は鏡山の西側麓にある。古来より松浦地方の総社として尊崇されてい
て、松浦三社の一位として歴代の唐津藩主が第一に参拝する祈願所として定められてい
た場所だ。源氏物語に「松浦なる鏡の神」と詠われ、遥かなる時を越え今もなお、松浦
地方の鎮守神の神社です。御祭神は一の宮には息長足姫命(神功皇后さま)、二の宮に
は藤原廣嗣朝臣を主祭神として祭祀をする。しかしここに、この言葉の奇妙さがある。
「馬ノ部(まのはまり)」は一般的には馬のはまり口と言う意味で「ぬかるみ」を示す
。だが、日本の馬はこの頃騎馬戦すら、今の競馬の様な走りは無い。言わば平地の牛車
と同じに歩かずに旅や荷馬車とする物であり、ぬかるみを行くほどの早馬があったとは
思えない。これは今でいう「魔」あるいは「間のはまり」である。つまり時間だけが過
ぎて行く場所を意味している。「稚茶木(ちさき)」の樹を文字通りのお茶の樹とすれ
ば、彼はお茶の樹を栽培していた事になる。しかし日本のお茶は八女が茶発祥の地とさ
れ「霊巌寺」応永30年(1423年)、栄林周瑞禅師発願による霊巌寺は臨済宗妙心寺派の禅
寺で、深山幽谷、数多くの奇岩のそびえたつ霊地で、初めて栽培された。というのが、
定説である。古くは修験道、山伏道とも、人々の修験道場であったとも言われています
。南北朝時代、南朝の天皇方は吉野山の修験を頼りとされ、吉野を根拠に60年間の長い
間、北朝との抗争を続けました。奥八女の霊巌寺も同様、寺内の正規型宝篋印塔2基を
現存証拠として、南朝の隠密基地の役割をもっていた。と伝えられ、明国から持ち帰っ
た茶の実を植栽し、栽培と製茶の指導を始めたことから「八女茶発祥の地」と伝えられ
ており、八十八夜には周瑞禅師を偲ぶ献茶祭が執り行われています。728年と1423年で、
600年も開きがある。そもそもの今の最大の茶畑は静岡だが、これは明治期の勝海舟
などの無職浪人や廃藩置県でのあぶれ週番の人民を救う為に開発されたものだが、京都
の宇治茶の成功から、南北朝時代には既に隠れて栽培されている。つまり高級だったの
だ。



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