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さてさて

1: 名無しさんAA:11/05/17 15:39 ID:Sg
さてさて一体どうしたものか
金はなし 仕事もなし
さりとて 昔の暮らしも出来ないものを
金に追われ 貧乏に明け暮れたとしても
今ほどの鬼気迫る事はなかったものを
仕方なしにも 現代に足を踏み入れた私は
一体 どうしたものか と 途方にくれる 


101: 名無しさんAA:19/03/22 15:14
  宇宙仏教説     ----   ----  ---- 10

 現代の世界において、ある国が「近代国家」を自称するならば、「民主的であること
」が大前提である。 近代国家の思想的バックボーンを形成した思想家たち、たとえば
フランスの思想家・ルソーやドイツの哲学者・ヘーゲルなどはみな、古代ギリシャの、
民主制を「近代民主主義の原点」ととらえている。たしかに古代ギリシャでは奴隷制を
採用していた。しかしその奴隷をのぞけば、アテネにおいては市民たちは原則的に自由
で平等だったのである。この点について、他のアジアの専制国家より“自由”の概念が
、進展していたのは事実だろう。今回のイスラムモスクの襲撃には、イスラム教的部分
即ち、共産党的ねじ曲がったキリスト教の原理主義を感じる。アテネのポリス市民は、
政治や国防および戦争に参加することを、主体的かつ「“市民”としての権利と義務に
したがっておこなっていた。彼らは自分たちはアテネ、もしくはギリシャという国家を
構成する国民だという意識を、つねにもっていたのだ。その積極的な愛国心が、ポリス
市民の根底にあった。つまりポリスとは、自分たちのものだから、自分たち自身で守ら
なければならない都市であり文化であり郷土と考えていたのである。では、ポリス市民
たちがもつ、“国家”に対する意識とは、他のアジア的国家住人たちのものとくらべ、
異なるのであろうか?。実はそんなにちがわない。こうした現象を見ると「レコンキス
タエネルギー」が今も残っている様に見える。本部はアメリカ合衆国ワシントンD.C.に
あり加盟国は189ヶ国にも及ぶ。 各国の中央政府または同政府から債務保証を受けた機
関に対し融資を行う国際機関である。当初は国際復興開発銀行のみを指したが、1960年
に設立された国際開発協会とあわせ世界銀行と呼んでいる。国際通貨基金と共に、第二
次世界大戦後の西側の金融秩序制度の中心を担っている。こんどもニュージーランドで
白人優位主義者が銃を乱射した。更にこの陰でイスラエルにゴラン高原の領地をイスラ
ム正統国王のシリア領をも納めてたヨルダン国王とは相談もなく、イスラエルのものと
認可した。この一連の動きは奇妙なものである。白人優位主義者は、一連のクラブ復活
を狙う。かつてのKKKの様な陳腐なナチスの真似事倶楽部ではない。一方で「自由・
博愛・平等」を謳いながら、一方でこうした過激な洗脳愛国者を育てている。もちろん
これがテロ行為には他ならならない。しかし国家転覆を謀ったテロリストにはならない
。至って真面目な最新機器を揃えて扱う、頭のいい車を運転し銃を集めたおっさんであ
る。よく言えばホームアローンテロリストと断じて好い様だが、さりとてかれはモスク
を狙ったものでどこかの国を名指ししたものでもなく、殺して国家転覆が出来るとも、
思っていない。だが気になるのは「静かでのうのうと平和に浸る国だから行った。」と
述べている。そしてイスラム教のシンボルのモスクの乱立を見よ。白人は犯されている
。と言っているのだ。一方でそうした声に答える様に、ゴラン高原はイスラエルのもの
と声明をだした。これはトランプの仕業ではない。操られる大統領の姿である。今や、
ガーファの勢いも又おなじだ。特定の独占企業化した最先端技術はいつでも何処でも何
度でも起こり得る。宗教も独裁国も経済もこれに乗かかっている。これを人類は果たし
て止め得るのだろうか。


102: 名無しさんAA:19/03/22 15:15
  宇宙仏教説     ----   ----  ---- 11

 拡大消費社会の国をまたいだ国際的利益。これが今の自由経済と言われる物の仕組み
であろう。戦後にマーシャル・プランの融資額は40億ドルを投じて復興計画は世界銀行
(せかいぎんこう)がその一翼を担った。いわゆる世銀だが規模が大きくなり補完する
機関が必要性から、1956年には世銀融資できないものに民間企業に融資する国際金融公
社が設立され、ついで1960年には保証担保のない世界銀行借り入れに貧しい発展途上国
向融資の国際開発協会、1966年に発展途上国と外国投資家紛争を仲裁する国際投資紛争
解決センター、途上国投資に保証を与え、サービスや助言する多国間投資保証機関など
が1988年に設立されて、今の世界銀行グループが形成されている。(株)国際協力銀行は
(Japan Bank for International Cooperation)は、株式会社国際協力銀行法に基づい
て特殊会社として出来たが、前身の輸出信用機関である日本輸出入銀行(輸銀)の転籍
であった。独立行政法人国際協力機構だが政府の大きな天下り先である。この世銀の公
表する世界分析には一定の定評がかつてはあった。にも関わらず今回、何故か世界銀行
の新総裁に、トランプ米政権で財務次官を務めるデービッド・マルパス氏が就任するこ
とが確実になった。2月から3月まで立候補を受け付けたが、同氏の対抗馬が現れなか
ったのだ。世銀は近く理事会を開いて選任作業を進め、4月初旬までに同氏の就任を正
式に決める。と言う筋書きだが、これは人権違反としか言いようがない。国際担当の財
務次官を経て、2016年の大統領選でトランプ氏の経済顧問を務め、大統領に近い。中国
との貿易協議にも参加する対中強硬派の一人としても知られ、日本経済新聞などの取材
に「世銀は中国向け融資の縮小が必要だ」などと主張してきた強者(つわもの)だ。米
国は世銀の最大出資国ではある。その為歴代総裁ポストを独占してきた。「米国第一」
を掲げるトランプ政権の人事案に加盟国の反発も予想されたが、新興国や途上国からの
対抗馬は現れず、立候補を表明したのはマルパス氏だけだった。アメリカ利上げ構想と
と共に途上国は更に貧困化するだろう。そもそも今の経済論は金融理論であり社会論に
まで至っていない。簡単に軍事国家に変貌させる力を金本位制をすてた米国のドル札は
今や敵はいない。軍事産業は無人の兵器開発が盛んでその中枢に米国の軍需産業がロシ
アで開発している。このクロス経済解決にはなかなか理解しがたい。だが韓国の状況を
見れば直ぐ解ってくる。この最先端のAIをもじった機械化都市での政治形態は最悪で
ある。巨大財閥が経済を左右し、国民は今もフィリピンの様な出稼ぎ状態で政府に税収
をして、一方で対北朝鮮に軍を配置して兵役は徴兵制を敷き国民の義務としている。し
たがって敵は日本だ抗日だ。と一度(ひとたび)叫べば右に倣え(ならえ)なのだ。こ
れを各国の主導部も富裕層も求めているのである。それはある意味金正恩の独裁形態を
羨ましがり望んでいる様な事だ。それが今端的に韓国に現われているのである。世銀の
間違いは此処に在る。なぜ戦争を止める工夫をしないのか。何故ISILの住民が避難
民となっても、或いはイエメンが紛争しても、アメリカを批判しないのか。不思議だ。


103: 名無しさんAA:19/03/27 13:05 ID:YM
  宇宙仏教説     ----   ----  ---- 11

 拡大消費社会の国をまたいだ国際的利益。これが今の自由経済と言われる物の仕組み
であろう。戦後にマーシャル・プランの融資額は40億ドルを投じる復興計画は世界銀行
(せかいぎんこう)がその一翼を担った。いわゆる世銀なのだが、規模が大きくなりす
ぎて補完する機関が必要となり、1956年世銀融資できないもので、民間企業に融資する
国際金融公社が設立された。1960年に保証担保のない世界銀行借入に貧しい発展途上国
向融資向け担保の国際開発協会が発足し、1966年に発展途上国と外国投資家紛争を仲裁
する為、国際投資紛争解決センターを、1988年に途上国投資に保証を与え、サービスや
助言する仕組みの多国間投資保証機関などが設立されて、今の世界銀行グループが形成
されて活動をしている。こうした中で日本は(株)国際協力銀行を株式会社国際協力銀行
法に基づいて特殊会社として出来た。前身の輸出信用機関である日本輸出入銀行(輸銀
)の転籍であったが。独立行政法人国際協力機構だが政府の大きな実働部隊だ。こうし
た世銀の公表する世界分析には一定の定評がかつてはあった。にも関わらず今回、何故
か世界銀行の新総裁に、トランプ米政権で財務次官を務めるデービッド・マルパス氏が
就任する意向が確実になった。2月から3月まで立候補を受け付け、対抗馬が現れなか
ったのだ。世銀は近く理事会を開いて選任作業を進め、4月初旬までに同氏の就任を正
式に決める。と言う筋書きだが、これは人権違反としか言いようがない。国際担当の財
務次官を経て、2016年の大統領選でトランプ氏の経済顧問を務め、大統領に近い考えで
あろう。と言われる。中国との貿易協議にも参加し、対中強硬の一人としても知られ、
日本経済新聞の取材には「世銀は中国向け融資の縮小が必要だ」と主張してきた強者(
つわもの)らしい。米国は世銀の最大出資国である。その為にこれまで歴代総裁ポスト
を独占してきた。「米国第一」を掲げるトランプ政権の人事案に加盟国の反発も予想さ
れたが、新興国や途上国からの対抗馬は現れなかった。立候補を表明したのはマルパス
氏だけだったのだ。アメリカ利上げ構想と中国対抗は共に途上国は更に貧困化する事だ
ろうと予測される。だが、そもそも今の経済論は、金融債権理論であり社会資本論にま
では至っていない。今や簡単に軍事国家に変貌させる力を、金本位制をすてた米国の持
つドル札の前に敵はいない状態が続く。軍事産業は無人の兵器開発が盛んでその中枢に
米国の軍需産業やロシアなどで開発している。このクロスした経済にはなかなか理解し
がたい提携がある。だが韓国の状況を見れば直ぐ理解できる。韓国は最先端のAIをも
った機械化都市だが、西側として政治形態は最悪である。右も左も巨大財閥が経済を左
右し、国民は今もフィリピンの様な出稼ぎ状態で政府に税収をして、一方で対北朝鮮に
軍を配置して兵役は徴兵制を敷き国民の義務としている。中でも敵は日本だ抗日だ。と
一度(ひとたび)叫べば右に倣え(ならえ)で共産主義社会資本独裁なのだ。しかし、
この「独裁形態」を、各国の主導部も富裕層も求めている。それはある意味、金正恩の
独裁形態を羨ましがり望んでいる様な事だ。それが今端的に韓国に現われているだけで
あって、世銀の間違いは此処に在る。なぜこうした強硬論や戦争を止める工夫をしない
のだろうか。何故ISの住民が避難民となっても、或いはイエメンが紛争しても、アメ
リカの我儘を批判しないのか。不思議だ。


104: 名無しさんAA:19/10/29 23:45
 ただでさえ、込み合い観光被害の京都市は無駄に税金を使い、ステルスマーケティン
グする。京都市長広報課は問題ないと答える。嘘つけ大いに問題だ。国を挙げて伝統的
家屋や街並みとして、大きな予算や地方交付税をもらっていながら自治体という公職の
あるまじき考え方は、かつての日本軍のやり過ごしと同じで許すことのできない所業だ
。そんなに金が余っているなら 宗教団体の特に東本願寺や西本願寺の強制寄付金や、
お布施などを止めろ。まったく何様と思っているのか。かつての天皇領地だからと言っ
てつけあがっている。ほかの都県の特に田舎の町に補助を回すべきで、今度水害でも、
まったく公職の公務員のずさんさが溢れかえっているではないか。国会や閣僚がバカで
どうしようもなく国家というものを崩しているからだ。まずは中国・韓国に対しての、
アフリカ豚コレラの規制で、来日規制と食用品の入国規制の広報啓蒙活動を他国飛行場
にポスターやCMを入れているのか。生ぬるいほど今の豚コレラも止めていない。京都
の観光客はその責任の一因を持っていると自覚してるんだか。このバカ広報職員は。



105: 名無しさんAA:19/10/29 23:46
日本の肝っ玉かあさんが死んだ。緒方貞子さんである。92歳の晩年を迎えた死去だっ
た。元難民高等弁務官として名を馳せ、世界の紛争地に足運んだ。そして彼女は言った
「紛争地の事は机の上ではわからない。現場の困難さは見つけられない。」と。彼女の
作る思想の世界は未だ出来てはいない。彼女が寄り添ったクルド人社会は、今も虐待の
中にあえぎ、果敢にも平和の勇士達の死もトランプの勝手な判断でふいにされたが、そ
れでも彼女の活きた生き方は、その防弾服とヘルメットで訪れたアフガン・イラク・イ
ンドネシア・アフリカなど、数々の支援とPKO派遣などで束の間の平和と命をつない
で今に至っている。こうした彼女のような人に何故日本は称賛し国民栄誉賞などを与え
ないのか不思議だ。オリンピックなどのスター選手は既に人気を持つ。確かに日本の知
名度と本人の努力はあったろう。しかし、命をなげうってまでも世界に貢献した人では
ない。その事で日本を知らしめたの緒方さんだろう。緒方さんは言う。も一度共存共和
というものを根本から見つめなおし考えなおすべきだ。と。そしていう「相身互い、や
持ちつ持たれつっていうのは、日本の言葉でしょ。困っている人を助けることは大事な
人の生きる使命でしょ。」と。そしてその行動力は過去になかった国際機関の活動を生
んだ。


106: 名無しさんAA:19/10/31 09:52
 31日午前2時40分ごろ、那覇市の首里城で「煙が上がっている」と警備会社から119番
があった。正殿などが激しい炎を上げて燃え、消防車両が10台以上出動して消火に当た
ったが、首里城の正殿と北殿、南殿がいずれも全焼した。けが人の情報はない。那覇署
によると、正殿と北殿、南殿はいずれも木造。近接する「奉神門」や「書院・鎖之間」
も延焼した。今月27日からは琉球王国の儀式を再現する「首里城祭」が開かれていた。
琉球王国の中心だった首里城は太平洋戦争で建物が全て焼失したが、1992年に主要施設
が復元された。首里城跡を含む「遺産群」は2000年に世界遺産に登録された。

なにやってんだか沖縄県や沖縄市は。世界遺産までなっていながら管理もできぬとは。
どんだけ日本の資産を食いつぶせば済むんだか。沖縄市民ももっと考えよ。辺野古危機
に嘉手納の危険性。対応した新空港の建設。これらは国家プロジェクトで取り組んでい
て沖縄県が管理を任されているから民主主義であって、国の直轄管理したがいいのなら
市長職も県知事職も返上すればいいのである。防火設備や防火体制も子供以下、世界の
木材資源を国の金で立て直しておいて スプリングクラーも十分ではない。消防車も遅
い上にモニター看視もなく、更に観光客さえ立ち入り禁止すべき廟舎を お祭り広場の
ように使うなんておかしい。荘厳やおごそかといった感謝や畏敬の念がないのだろうか
。熊本城さえ地震で壊れ、東北日本の神社も壊れて文化遺産が損壊してなくなる中で、
まったく、どんな意識で生きているんだか。あれだけ米国内に山火事が1週間以上も、
近年に頻発する中で、航空機や戦闘機が飛び交う沖縄の空なんだ。少しは真面目に国土
保全を考えたら、お祭り広場じゃないことはわかるだろう。さらに明治神宮や靖国神社
など 意味不明の油かけ事件が韓国人や中国人で嫌がらせ受けているんだ。すこしは、
この火災の危機感があって当然であろう。まったく無駄飯の市長や県知事で今を大事に
しない。買えば済む、作れば済む、反対すれば平和が来る、気に入らないならデモ起こ
す。まったく論外な未開発なろくでなし大陸人の様な考え方だ。不埒千万で景観教育を
捨てたなれの果てであろう。東京の教育庁がセンター試験改革を発表してるが、日本語
や日本人観や日本人の誇りすら持てない悪たれを作り出していて、なぜ英語に終始した
読み書き聞き取り試験をするんだか。大事なのは日本語であり理科社会であろう。地理
歴史はなにも生まれた所のみない。ちゃんとした自覚意識があればおのずと英語は身に
つけるべき時身につける。それより26文字しかない英語より5000文字の8万語の
日本語教育のほうが大きく大事だ。今やTVアナウンサーすら日本語を知らない。基礎
を土台と言ってみたり、付くと附くの意味の違い、同じ発音ながらも早い速いの違い。
それらを正確にしらないものたちばかりが、お笑い芸人だの言ってトークショーして、
芸の技もしゃべりもないやつが大きくTVに出してはダメなんだ。漢字が全くなってな
いパソコンと同じで、本当に情けない日本になったものだ。



107: 名無しさんAA:19/10/31 11:46
 室井佑月が、「この国はいつの間にか、北朝鮮。」と書いた。まさしく正論だ。汚職
忖度、賄賂に議員の宅配。まったく政党助成金なんて作った時から「やらずぼったくり
」国民の目線では考えられない議員言動と行動の数々。まずもって国民に寄り添って。
などというのがおこがましい。自らに意思表示すらままならない個人的人権のない天皇
職ならいざ知らず、首相や議員というのは自ら求めた権力の座で、国家権力の中枢なの
だ。国民から選ばれた代議士として国を憂い国民を助くる為の司令塔として自ら上った
地位でその給与も権力もあるいは職権職域そのものが国民のもので、その代表に預から
せて貰っているだけの話である。それはなんの為か。それこそ国民の為であり次世代や
孫の代のための社会を作るためだ。それが今まで思っても見なかったのか、寄り添って
などと貧民の上の金持ちと言わんばかりである。当然の話を口にだして国会答弁で俺も
下るからなんていう政治家ばかりである。ふざけるない。お前は国民ではないのか。と
いいたくなる。GHQ様すらもそんな事はいわない。実務での地位であり、感情や思い
のままの地位と勘違いしている。民主主義国家と独裁主義国家の違いはここにあるし、
その為の議会である。小沢の様に「野党一致して安倍政権を叩かねばならん。」という
のは時代錯誤も甚だしい。今や地球規模の温暖化や海洋危機や公害災害のじだいである
。挙国一致体制などと言えば軍国主義時代と勘違いするが、およそ今日の日本の国際化
の荒波では、船団方式だろうが、玉砕意識だろうが、およそ国会でのまともな議論する
場の形成が一番の大事なことだ。是が否々でやっていく。というのが近代議会のあり方
である。イギリス議会を見てわかるように、一つ一つの議論を高めて採決しているのだ
。離脱の投票を議論し、離脱のあり方を議論し、離脱に沿った協定を開示し、離脱の時
の状況を議論し、離脱是非の中での多数決を幾つも可決し、さら合理的方法論まで開示
し、可決も離脱の議決、合意なき離脱の議決、合意なき後の終結の議決など、その議決
は日本のように二束三文の籠売りの一緒くたでは決して議決していない。国民投票でも
その拘束性はゆるく、議員の党派の離合集散もかなりあり、政治の風通しはかなり良い
。この辺のところが 日本の性悪な自民党政治家と違うし、イギリスでは逮捕されるよ
うな党外議員を敵視したり党内擁護したりする言動すら日本では許されている。なるほ
ど政治の早い決済は手っ取り早い。しかし、それ故に熟考も配慮も交渉もなく消費税は
強行され、国の姿を経済本位の忙しい国民忙殺した、議員義務や議員人権のない党拘束
の姿をして日本を狂わし 日本のあり方や姿を間違えさせている。


108: 名無しさんAA:19/10/31 12:51
 森 喜朗は何をIOCにへつらってるんだ。そんな卑屈な態度だから北方4島もまと
められなかったんだ。IOC会長だからと言って独裁断言は許されない行為だ。特に、
スポーツマンシップに乗っ取った平和の祭典なら特に独断と偏見や拡大商業主義は許さ
れない行為だ。売名と商業忖度で大なたをふるうなどとはとんでもない話で、10月の
中旬にやれば済む話である。日程を一〜二か月ずらせばいい事であり何も8月の暑い最
中にやらなくともいいのである。森喜朗も正論や常識がなければ さっさと一般人にな
れ。老害そのものだ。


109: 名無しさんAA:19/10/31 13:20
 大体、選手の危険性をどう考えているんだろう。マラソン自体は炎天下でやっても、
構わない競技である。それよりも大腸菌や新種のウイルスさえ見つかる東京湾のカヌー
の競技の方がずっと危険性は高い。このカヌー競技の東北行きを止めていて何が札幌と
言うのか。おかしいだろう。


110: 名無しさんAA:19/10/31 14:00
 窪田順生 2019/10/31 06:00 の東京誘致で暑さ対策が弱いという指摘だが、専門家も
云々といっているが、なんの専門家なのか。気候の専門家なのかスポーツの専門家なの
か街つくりの専門家なのかしらないが、暑さ対策の何をどう疑問視しているのだろうか
。ドーハマラソンのように倒れたということが東京オリンピックであるかもしれない。
ということを心配するというのならわかる。しかし、そうした暑さの中でも行うのが、
スポーツの原点であろう。倒れたっていいじゃないか。救急車をちゃんと横付けしてい
けば、どんな試合でも怪我や負傷はつきものだ。何ら対策を取らなくても、マラソンは
競技となる。クーラーのついた快適な部屋でやれという考え方こそおかしいのである。
 また「今回の急な変更についてIOCが身勝手だとか、欧米のテレビ放映に合わせた
五輪の商業主義だなんだというのはお門違いである。そのような制約がある事は、招致
に名乗りを上げた時点から分かりきっていたからだ。IOCの立場としては、ドーハの
世界陸上のように、マラソンや競歩で選手や観客がバタバタと倒れる映像だけは絶対に
世界に流したくない。しかし、東京都がこれまでやってきた「暑さ対策」はどれも効果
が疑わしく、科学的とは言い難い民間信仰のようなものまで飛び出してきてる。だから
、合理的な判断をして「札幌」でリスクヘッジしただけに過ぎないのだ。」というのは
聞き逃せない机上の空論でスポーツを馬鹿にしている。そもそもあのスモッグ北京の、
中国の空気の悪い中でも走らせているじゃないか。どこで走ろうがどんな環境だろうが
それはそれ、これはこれである。IR施設の町つくりと 東京五輪のスポーツイベント
と同じにするな。最初からわかっていたから暑さのために開催期間をずらす話は出てい
て、最初から東京湾が汚いからカヌー競技に移転の申し込みをしているではないか。こ
うした協議を全く受け付けず、どこまで妥協できるかわからない 米国流の運営母体に
こそ大きな問題があり、それが国際流などとほざくからからこうなるのだ。IOC委員
が契約上云々というなら、日本の法律でも国際法上人権や平等契約の法規でも違反した
ブラック企業と同じであり、国際人権裁判の対象委員会という事になる。国際的にも、
企業・団体のコンプアライアンス遵守は例えIOC委員長と言えども守られなくてなら
ず、東京都が拒否する以上変える事は許されない。特にカヌー競技を東京オリンピック
という開催土地制約で拒否した以上自らの独断と偏見なら 会長辞任も視野に入れるべ
きである。強硬となればアメリカの裁判所なりストックホルムなりにに東京都は訴えれ
ばいいのである。


111: 名無しさんAA:19/10/31 19:56

 あたかも30日は反日一色であるかのように、日本メディアでは報道された。しかし、
その陰では実は新しい動きも起きていた。韓国人被害者たちが、反日運動家や韓国政府
に対して反撃を始めたのだ。反日運動の象徴となっているソウルの日本大使館前。徴用
工判決から1周年は、計らずとも水曜日だった。それは反日市民団体である挺対協(現
・『日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯』代表・尹美香ユン・ミヒャン)が
主催する水曜デモが行われる日だった。挺対協が記者会見を行う一時間前、これに先立
ち「アジア太平洋戦争犠牲者韓国遺族会」など強制徴用の被害者や遺族、支援者らでつ
くる連合団体が日本大使館前で記者会見を開いた。そして徴用工など被害者への賠償問
題の解決を訴えた。しかし、こうした違法な反日団体を全く韓国は取締りすらしない。
「大法院判決によって韓日両国が平和的に問題を解決すると期待して待った。が、両国
政府が解決の努力より政治的手段としてのみ利用している。徴用工被害者の個人請求権
の補償は韓国政府の(負うべき)責任が大きいと考えます」つまり、彼らは、まず韓国
政府が被害者や遺族らに対して先に補償すべきだと主張したのだ。その考えの背景には
日韓条約を遵守したいという思いがある。そして、被害者を中心とした財団を設立する
ことなどを韓国政府などに要求している。だが過去の清算問題では、例えばチェコやら
ウクライナは、ソ連からもドイツナチスからも、兵士として赤紙をもらい強制徴用での
戦地で重火器すらみじめなものだった。それでもこうした裁判は起こしていない。国情
もあろうが、今やっとチェコ人ユダヤの補償を国家として求めているが、戦後慰霊式典
に参加して謝罪声明はだすが、一切応じていないし、それらに法的根拠は全くない。と
いうのも時代が、国民国外占領民通じて同じだったからだ。占領地ですぐさま兵を集め
たナチスすらそうなのなのだ。ましてやいわんや。朝鮮半島は戦果の占領地でもなけれ
ば、当初の3年間以上も日中戦争から徴兵制をしいていないし徴用工も行っていない。
わずか半年や一年前にいよいよ人がいない敗戦だ。という頃の話である。更に日韓国交
時の話し合いでも盛んに日本は個人補償をしたいと願ったが国で行う。戦争の悲惨さは
お互い様だ。とすんなり却下された経緯が何度もある中で、今に至っている。つまり、
韓国人特に今の団体は甘えに甘えきった存在で、北朝鮮や中国の資金支援をバックに、
やりたい放題するからこうなったのであって、これを規制しない韓国は自業自得である



112: 名無しさんAA:19/11/01 20:57 ID:b2
 マツコ&有吉にトーテンポールをアメリカインデンアンからと言ったがそれは違う。
エスキモーを除いて北方民族の特にアイヌ人の領域主張からの目印でカナダや北アメリ
カなど同一民族の証として研究されていた歴史を持つ。又日本全土にあっ猟師族だった
日本語と違う絵文字や記号文字に石窟文字すなわちサンカ文字が日本に存在した。今で
こそ定住化しないものが座敷童(ざしきわらし)や河童や天狗などという妖怪話に変化
しているが、実は明治・大正時代の渦巻き文様文字や記号文字、絵文字はかなり解明が
進んでいたが、昭和の戦争で灰燼に付して今や研究者も資料も遺跡すらも無くなってい
る。確かに電柱の再利用のトーテンポールも流行をしての国民意識を高めたが、札幌の
農学校のアメリカ人技術者が来た理由にもなった経緯すらある事を知っていてほしい。


113: 名無しさんAA:19/11/02 03:01
 なんというつまらない日本になったことだろうか。言い訳だらけで実力も本意もない
日本人達。はたしてこれでいいのだろうか。まず五輪問題でマラソンコースはドーハの
5割棄権のマラソンに危機感があった云々というは、バカの戯言としか言いようがない
。ここをそれはIOC委員会の勝手な判断での大会でしょう。とちゃんと批判したのか
。更にカヌー大会の移転を認めなかったのに何故マラソンだけ変更できるのか。と言う
答えはIOCから発表されていない。小池都知事は自分の人気取りのみに終始していて
、金がかからなくていいなら東京も反論しない。決定を阻害しないと言う玉虫色の合意
をしながら、合意なき決定であります。などと、ぬけぬけと言っている。もし五輪開催
に重きをなし選手の事を思うなら、なお一層の暑さ対策で乗り切ることが東京五輪には
ふさわしいのであって、開催地を勝手にIOCの独断で変えることなど認められない。
と堂々と平行線でも議論すべきだ。これをできない都知事は、やはり都知事の資格はな
いし、森氏のような悪態の露払いのような行為は人道上も未来志向でなく許されない。
正に老害中の老害。百害あって一利なしの人間だろう。そうした東京感覚が日本中に、
悪害をまき散らす。いい加減すぎる行政手法は数限りなくあって、今度の水害対策の、
皆無に等しい堤防補強の無さは、まったくもって日本が有史以前から国土を水と共に、
台風や水害と共に生活してきたという歴史を無にした行為であろう。というのも教育の
至らなさの結果である。これまで営々として積まれた生活実態が今や洋風生活でかき消
されたとはいえ、自然災害との共存と戦いは依然として現実にあるのは事実である。こ
うした自然現象までを否定して生きていけるはずはない。教育庁はそうしたものを安倍
氏はじめ新しい時代としてかなりに捨てる覚悟で入試形態や学校無償化を決めてるよう
だが、馬鹿の方策、愚作の頂点でしかない。だいたい今の入試の高い得点競争には何の
効果も進化もない。教育の大きな効果や必要理由は全世界の格差是正や能力維持である
。つまり蟻が営々と餌を運び自らの巣穴での生活を維持するように、ミツバチが蜜を探
すように、人々が生活に安心や喜びが与えられ、何人も害されず人権や自由が守られる
。という人類社会の構築だ。これは行政や法律や生活や教育と、あらゆるものに同じだ
。しかし、侵されるものが、いくらそれらの努力を行使しても、問題はそれらを壊す者
を制する力がないことだ。そこに格差是正や国際化や教育の信念がある。泥棒や犯罪者
たちの世界でよかったのなら、何も中央集権的制度も教育制度もいらないのである。こ
の意味では今や日本以上の国はない。つまり日本は別に英語を話さないでも海外語看板
に取り換えなくても十分で、問題はその意見の発信力のなさと、まったく昔からの意思
を阻害している行政の在り方なのある。その意味でも今度の萩生田氏や森氏や小池氏ら
の行動や発言は罪深いものだ。つまり世界に日本は強圧を強いれば何とかなる。という
かつて戦前の西洋列強や欧米に間違えたニュアンスや意思をアピールするもので、こう
したことを繰り返すから北方四島は返されず尖閣諸島は問題になり、竹島まで弱い韓国
に文句言われる。馬鹿の頂点だ。首里城焼失も全く同じに、美ら海財団などという資格
も責任もない行政にちゃんとしたルールや規制を敷いて行動させているのか。と言う話
で、例え行政でも初期消火の放水すらできず、延焼のシステムなく、さらに簡単に電気
照明を行う風潮で、ライトアップや影絵証明を可としている馬鹿さ加減は、大事な物を
わすれた技術で、芸術でもなく文化ですらない。ただの客集め商業悪態なのである。そ
れを教えているのが醜悪な愛知ビエンナーレ展の落ちぶれた展示会である。幼稚園児で
はあるまいし。まるで子供がミルク落とさないと片手でコップを握りこぼした様な行動
が多い。大人とはそうした俺が俺が・・やれる出来ると主張しない世界である。ままよ
の国際社会には、そうした指導者が揃ってはいるがいずれも韓国と似たり寄ったりで、
行き詰まりをわかっていながら突き進むのを、日本人は警鐘を鳴らす責任がある。


114: 名無しさんAA:19/11/02 13:22
   歴史の群像     193

 このバルカン戦争の構図はそのまま第一次大戦にまで受け継がれた。この頃はドイツ
は小さな公国が集まって、ロシア帝国やオスマン帝国、更に最初の自由主義フランスと
産業革命を果たしたイギリスに囲まれていて、こうした戦火の果てに疲弊する事に悩ん
でいた。海洋流通で財をなすネーデルランドやベルギーは兎も角後にドイツ帝国となっ
たライン川周辺あるいはドナウ川など川路を出てしか外海に出れない国は、産業不振で
途中の通行料徴収やバチカンの支払い拒否など数々の弱い立場だった。バルカンでは、
公平に選ばれたとされる諸国の専門家で構成されたカーネギー調査団でさえ、バルカン
半島に到着した時でも、ベオグラード政府からは何の助言も援助も受けられなかったし
、公平な人道主義とは遠く離れた意識しかなかった。それほど都は暴徒の中にあった。
しかし、ここで言う公平や人道主義が果たして本当に差別主義がなかったか。には疑問
がのこる。というのも日本の満州国にやってきたリットン調査団でも公平な調査団とさ
れていたが、全く公平でも洞察力も検視力もなかったからだ。中国は日本に満州を侵略
されたと国際連盟に提訴し、それによって連盟はイギリスのリットン伯爵を団長とする
「リットン調査団」を結成し、満州事変と満州建国への調査に乗り出した。そして日本
は、その調査結果を不服として国際連盟を脱退するに至る。それが今の混迷のアジアを
形作った。しかし、リットン報告書は、要するに満州国の独立は認めない。けれども、
日本の潜在的主権は認める。ということになっている。これは当時の外交的常識だが、
中国本土と満州は別だということも認めていた。歴史的には中国と一体でない。だから
調査団は、中華民国の名目的な主権は認めるけれども、実効支配は認めない。それに、
日本が後見をする自治政府は作ってもいいという条件で報告されていた。リットン報告
書…「本紛争に包含せらるる諸問題は極度に複雑である。一切の事実とその史的背景に
関する徹底した知識ある者のみが、事態に関する確定的意見を表示しうる資格がある」
(この事変は世界に類例のないケースだから、この問題をよく知っている人でなければ
判断を下す資格はない)と言っている。これを何故だか世論も軍部も認めず、新聞では
立ち上がり退席した松岡を「国連脱会」と欧米の新聞は記事にした。この事で電文が伝
わった日本は大騒ぎで何故だか意気消沈して根性なしの松岡大使に「よくやった。」と
万歳三唱の国民のエールがあった。この不可思議さは諜報工作で日本人を戦争に向くよ
うに仕掛けられたとしか言えないし、リットン卿も正確には公表出来ていなかった。と
思える。今公表されている報告書が本物なら、調査団はたしかに満州国の独立は認めな
かったが、日清戦争にまで遡って日中の立場と両国の歴史を極めて公正に分析している
。更に報告書のどこにも、現在の日本や中国で言われている「邪悪な日本の軍国主義」
VS「気の毒な占領され切り取られた中国」の様な単純構図で事変を分析している部分
はない。それどころか、世界規模でパワーバランスが変化した19世紀に、中国は孤立
主義を脱すべきだったにも関わらず、「此新なる接触に応ぜんとするの用意無かりき」
と批判され、日本は「自己の古き傅統の価値を減ずる事なく西洋の科学と技術を同化し
西洋の標準を採用したる速度と完全性は遍く賞嘆せられたり」と称賛されている。更に
調査団は、その日本を攻撃した国民党の激しい反日政策・教科書・人民外交協会など、
社会の各層で鼓舞された抗日反日運動が、中国人民の感情の自然な盛り上がりというよ
り、国民党政府の政策だった面を指摘した。反日教育は往時も今も、中国不変の国策な
のだが、それでも、終戦にソ連軍の満州を攻めた事を犯罪とせず連合国の一員としなが
らも全く満州国を残していない。更に朝鮮すらも米軍は全体占領に至っていない。この
頃に、もっと強く野蛮な赤化思想の南下を止める事は重要で、日本は正義を行った。と
名言すれば良かったし、この発表前に中国側の主張は言いがかかりで認めれられない。
とちゃんと言えば国際社会はもっとも正しい方向に行ったであろう。がそれは今も同じ
である。



115: 名無しさんAA:19/11/02 15:45
   歴史の群像     194

 リットン報告書で、「もちろん満州国の独立は認めないが、八割方日本が正しい。」
と言っていっていながら、なぜにこうも間違った形に日本が動いたのかは不思議な事だ
。報告に、中国は法律も約束も守らない、進歩進化した現代文明に追いつこうとしない
で怠惰な民族である。とさんざん書かれているのに。である。そして日本を、信じられ
ないくらい賞賛している。ところが、この報告書の採決前に、なぜだか中国側の「日本
悪し」の誹謗中傷の話と映写会を開かれている。つまり、リットン卿の報告書の内容は
至って正確だったが、全く意味のないものと、西洋列強は見ていたし見下していた。国
連事務局も又、欺瞞の米国が指導して編集されごまかされたフィルムの米国巡りを許し
わざわざ対日興行を行なわせていた抗日思想の中にいた。オランダの中国問題専門家で
、リットン委員会の専門委員も務めたアンジェリノ氏は、国際連盟事務次長杉村陽太郎
に会って述べた発言の記録では、「自分としては、既往数年間における支那側の抗日的
態度、殊に中村大尉事件のごときに対し、日本の軍人達が癇癪を起こし、支那側に一撃
を加えたるは真に無理からぬことと信じ、ことのあまりに当然なる、いささかも非難の
余地なきものとの見解を有す。幣原外交の実績に徹するも、支那側は日本の好意に甘え
、不当に付け上りたりて、この一事に対しては、委員会内の意見一致し、何人も異議を
挿み得ず。従って日本側においても、 9月18日の事件が正当防衛に出でたりとか、また
は満州建国は3千万の意思に基く民族自決の結果なりと言うがごとき点に、力を注がる
る代りに、支那側の無暴摘発、之に対しやむを得ず種々権宜の措置に出たるゆえんを、
率直に記述せられる方が、形勢を有利に展開し得べきかと思考す。」と打電している。
つまり、松岡にわざわざ指名してこの会議に全権を委ねられたのは、この助言で、こう
した事の真意を説明させるために指名したのであったのだ。が、この事は傍受していた
米国や中国あるいはソ連や英国を怒らせたのであり、すぐさま、抗日キャンペーンを張
っていた一団に伝えられて、蒋介石夫人の耳にも入り、こうしてすぐさま、中国の国家
予算以上の賄賂のバラマキとロビー活動がなされ、映写会の運びとなった。…ここで、
「中国は日本に見習え」と言っているのにである。この報告書は米国の紛れもない野心
で世論で消えたのであり、リットン報告書の中で貫く考え方・判断が逆利用されたので
ある。戦前の日本において、共産主義が国内に侵入してくることに対して大変な脅威を
感じていたし、その為の日英同盟にくさびを打った人々の思惑がそこにあった。世界中
を共産主義に染めようと画策するソ連、どの主導の下暴力革命の先導する国際組織「コ
ミンテルン」の暗躍は、この戦争の大きな一因をなしていた。この研究で1997年にフラ
ンスで発行された「共産主義黒書」の紹介されている文を信じれば、20世紀の共産主義
によって殺された人々の概数(単位:万人)…ソ連(2,000)・中国(6,500)・ベトナ
ム(100)・北朝鮮(200)・カンボジア(200)・東欧(100)・ラテンアメリカ(15)
・アフリカ(170)・アフガニスタン(150)…これらを合計すると、約1億人に達する
。とされる。その数はファシズムの犠牲者500万人と比較にならない。それだけでなく
2度の世界大戦による死者の約2倍である。つまり戦争で死んだ兵士より、虐殺や革命
運動で生活破壊された民衆のほうがずっと多かった。ということなのだ。そうした非道
に陥った背景に天候不順がある。ソ連には時々大飢饉が起こっていた。しかし米国では
暗躍するアルカポネのようにロシアンゲートがはるかに多く活動していたのである。


116: 名無しさんAA:19/11/02 16:32
   歴史の群像     195

 実は日本は開国する前から日本の国防は北方からの野蛮な遊牧民の暴力追放が主眼で
あった。対馬占領はその端緒であり、大津事件は、実はその結果でもあった。大津事件
(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月に日本を訪問中のロシア帝国の皇太子・
ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあた
っていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。当時列強
の一つであるロシア帝国の艦隊が、神戸港にいる中で事件が発生し、まだまだ発展途上
であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも、
司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。
裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となり(実際には収監の翌々月に死亡した)日本政府
内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が責任を負って辞職し、6月には司法
大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した。1891年(明治24年)シベリア鉄道の極東地区
の起工式典に出席するため、ニコライは御召艦「パーミャチ・アゾーヴァ」以下ロシア
帝国海軍の艦隊を率いて、ウラジオストクに向かう途中、非公式に、つまり勝手に日本
を訪問した。ニコライの一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸、京都に向か
った。いまだ小国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待する。公式の接待
係有栖川宮威仁親王・海軍大佐が任命され、京都では季節外れの五山送り火まで行われ
た。次の訪問予定地である横浜、東京でも歓迎の準備が進んでおり、まさに国を挙げて
の一大行事であった。しかし、それをいぶかる人々もいた。それが遡ること三十年前の
文久元年の2月3日(1861年 3月14日)の文化露寇(ぶんかろこう)後の対馬事件だっ
た。ロシア帝国海軍中尉のニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し
、尾崎浦に投錨し測量し、そのまま浅茅湾内に進航した。ロシア艦隊は南下政策におい
ての中国海域は、ロシアにとって極めて戦略的価値のあるところだった。事実いまでこ
そウラジオストックはロシアの極東部とされていたが、江戸時代には薄水の金華条村と
として記録が残る。つまりこの対馬藩管轄の地でしばしば北廻り船など台風の避難地と
して利用され難破し漂流遭難されて、引き揚げられた日本人の居留区もあった。しかし
艦隊司令官イワン・リハチョーフ大佐を置いて、このウラジオストック(東の占領地)
を宣言し港湾建設をしたのである。この時アイヌ人や九州人津軽人など多くが労役した
。その後、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案して日本を覗いて
いたのである。日本との関係悪化を懸念しロシア政府は大佐の提案を拒否はしていた。




117: 名無しさんAA:19/11/02 16:32
   歴史の群像     196

しかし、海事大臣ニコラエヴィチ大公は、艦隊派遣許可し、リハチョーフ司令官の命令
によりポサドニック号が派遣される事になる。この事件を、ロシア軍艦対馬占領事件と
いい、幕末にロシア帝国軍艦が対馬芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して
半年余にも長きにわたって滞留し、暴行を働く事件となった。ロシア側でポサドニック
号事件とも呼ばれるものだ。当然、対馬藩内では対応を巡って、武力排撃派と紛争回避
派とに分かれて藩内は混乱し紛糾した。とりあえず穏健派の講和で行く事を藩主は決め
問状使をポサドニック号に派遣して不法何度か詰問し退去を勧告するに至っている。だ
がロシア側は、この火力を見せつけ空砲を鳴らし、威嚇し無回答を貫き、武力をもって
対馬側を脅した。昼間から上陸し木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して、滞留
の準備を整え、4月には事件を起こした。江戸幕府も当然知らせは届いたがなす術もな
かったようだ。大船越の水門で、藩の警備兵の制止を無視侵入を試み、ロシア兵は警備
兵・松村安五郎を銃殺、さらに郷士2名を拉致し、軍艦に連行し、内1名は舌を噛み自
殺する。ロシア軍の暴挙はこれに留まらずその後番所を襲撃し武器を強奪、数人の住民
を拉致し、婦女暴行の上7頭の牛を奪って帰船し。さらに翌日には水兵百余人を派して
大船越の村で略奪を行った。藩主宗義和は、ポサドニック号に速やかに退去を要求し、
米・塩・薪炭を贈って懐柔策を図っている。紛争を避けるべく藩士民に軽挙を戒め一方
では密かに沿岸に砲台を築造し事態に備えた。宗氏の肥前田代では代官平田平八が手兵
を率いて対馬に渡り、ロシア兵を討つ気勢を示した。幕府は報告を受けて驚き、直ぐに
箱館奉行に命じて、同地駐在のロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチ大使に、ポサドニ
ック号退去を要求させ、外国奉行・小栗忠順を咸臨丸で対馬に急派して事態の収拾に当
たらせた。しかし裏ではウラジオストックと同じに、全員を収容し労働者とする手筈で
交渉も報告も提言もうまくいく道は閉ざされていた。小栗はこの交渉に「私を射殺して
構わない。」と言い切り交渉を押し切った。5月には小栗は対馬を離れ江戸に向かった
江戸では、小栗は老中に、対馬を直轄領とすること、今回の事件の折衝は、正式の外交
形式で行うこと、国際世論に訴えることなどを提言している。しかし老中はこの意見を
受け入れず、小栗は7月に外国奉行を辞任することになる。交渉に行き詰まった対馬藩
では藩主謁見を実現せざるを得なくなり、ビリリョフは軍艦を府中に回航し、部下を従
えて藩主宗義和に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じ、長日滞留の恩を謝
した。しかしロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献、警備
協力などを提案していた。事件は7月まで交渉が実らず、最終的には同じように対馬を
狙っていた英国公使のラザフォード・オールコックとイギリス海軍中将ジェームズ・ホ
ープが幕府に対して、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案して、老中安藤
信正らはそれらを飲んで威嚇を黙認した。ビリリョフの行動を傍観していたロシア領事
のゴシケーヴィチが英国干渉のいきさつを見て形勢不利と察し、軍艦ヲフルチニックを
対馬に急派して、急速にビリリョフを説得。文久元年8月15日、無事ポサドニック号
を対馬から退去させて、この事件は終わった。


118: 名無しさんAA:19/11/02 17:00
   歴史の群像     197

実はこの頃の日本には、北廻船の殆どはこの壱岐対馬を定期停港としていた。所謂、
廻船問屋の商業船や海賊と言われた国外交易船である。この江戸が終わる頃起こったこ
の事件も実は江戸の初期から起こっていた事件のぶり返しである。戦艦ポチョムキン号
はロシアの初代艦船であった。1811年(文化8年)に起こったゴローニン事件(ゴロヴ
ニン事件)は、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・
ミハイロヴィチ・ゴロヴニン(一般にはゴローニンと表記)らが、国後島沖で松前奉行
配下の役人に拿捕、捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留され獄中生活をさせた事件
である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルドと、彼に拿捕そしてカムチャツカへ
連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。これらの行為は、帰国後
ゴローニンが執筆した『日本幽囚記』によって日本でも広く知られる事になったのだが
この背景には、ロシアの毛皮商で露米会社を設立したニコライ・レザノフの無理な国外
での砲艦交渉での毛皮の買い付けがあった。その後解放に国交樹立の親書を持ったラス
クマンが解決したが、ロシア側は、若宮丸漂流民の津太夫一行を送還するとともに通商
を求める権利を認めさせる事にあった。当時の日本の鎖国政策は「外国船打ち払い令」
の下で海岸防衛をしていて、水や食料あるいは薪は与える事も漂着民をかくまう事も、
切支丹禁教令の下で禁止されていたからである。ロシアは、西方のオスマントルコとの
軋轢などで、侵略・進出が多くの現地民の抵抗があって止まると、東方への領土拡張を
模索しだしていた。大陸横断のその河や山を抜けた氷上道路が認知され、18世紀に入
ると、アイヌ民やエスキモーやシベリア民など定住化しオホーツクやペトロパブロフス
クなどを拠点都市が出来上がってきていた。又、千島アイヌへのキリスト教布教や毛皮
税(ヤサーク)の徴収を行い、得撫島(クナシリ)に移民団を送るなど千島列島へ進出
してきた。一方で日本も、戦国時代が明けて、徳川幕府時代に国内が安定すると、松前
藩を興して、が1754年(宝暦4年)に、国後場所(官史詰所)を設置して、アイヌとの
交易を開始した。もちろんそれ以前にも交易はあったが、戦国時代以上は文献がなく、
日本人が北海道に渡って行っても、海流からもアイヌがやって来る事は少なかった。と
みられている。こうして廻船の寄港地として寄港地が出来、藩ができて、1759年(宝暦
9年)に、松前藩士の、厚岸で択捉島および国後島のアイヌから、北千島に赤衣を着た
異人番所が居住を構えいるという報告を受けるに至り、日本側もロシア人の千島列島へ
の進出を認識した。1778年(安永7年)、イルクーツク商人のシャバリンが、蝦夷地の
ノッカマップ(現在の根室市)に上陸し交易を求め、応対した松前藩士が来年返答する
と伝え、翌1779年(安永8年)、厚岸に来航し幕府に無断での交易は出来ないと告げた
。日本の窓口は長崎のみであり、蝦夷地で無理であることを伝えて引き取らせた一方で
、日本側も老中・田沼意次の時代に、幕府が蝦夷地探検隊を派遣、1786年(天明6年)
に最上徳内が幕吏として初めて択捉島へ渡り、同島北東端のシャルシャムでロシア人と
遭遇するなど、公式な両国の接触が増えていった。寛政9年(1796年)には、嘉兵衛は
兄弟と力を合わせ蝦夷地まで商売の手を広げていた。当時、蝦夷地を支配していたのは
松前藩で、その城下にあたる松前では近江商人などが利権を確保しており、新参者とし
て参入の余地が無いと知ると、遠く箱館を拠点とし、寛政10年(1798年)に弟の金兵衛
を箱館の支配人とした商売を行っていた。そんな中で船が強襲され、1792年(寛政4年
)に、アダム・ラクスマンらが神昌丸漂流民の大黒屋光太夫らを拉致し、シベリア総督
の親書を所持し使節として蝦夷地に来航した。ラクスマンは江戸での通商交渉を強く求
めた。が謝絶され、代わりに長崎入港を認める「信牌」を渡され帰国した。この時に別
行動国後島にて幕府役人調役奈佐瀬左衛門に捕縛され、箱館で幽閉される。言葉も通じ
なかったゴロヴニーンは幽閉中に間宮林蔵に会見し、村上貞助や上原熊次郎にロシア語
を教えたりもした。この後、1813年に、ディアナ号副艦長だったピョートル・リコルド
の尽力により、ロシア側が捕らえてた高田屋嘉兵衛らの日本人を解放するのと引き換え
にゴロヴニーン船長はは解放されるに至った。これらの事は、既に1770年代にアイヌの
厚岸戦争があって、ロシア側との対外貿易の窓口が開かれていたことを示している。

119: 名無しさんAA:19/11/02 17:00
   歴史の群像     198

 この頃はまだ北海道という言葉はなく、蝦夷地や攘夷とされた夷狄(いてき:北の外
敵)がいる処との観念が強くあった。千島国(ちしまのくに)は、大宝律令の国郡里制
を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つとなっ
て整備された。別称は千州。五畿八道が決められ、そのうち北海道 (令制)に含まれた
。領域は最初国後島と択捉島のみであったが、後に得撫島以北の千島列島が加わり、探
検し検証されて色丹島も根室国から移管された。現在の根室振興局管内の東部にあたる
。国後島の泊漁港には、交易の拠点や松前藩の出先機関として運上屋が設けられていた
。運上屋では撫育政策としてオムシャ(交易に訪れた客人を歓待するための年一の祭行
事)なども行われた。宝暦6年(1756年)紀伊国薗村の船は、択捉島モヨロに漂着して
いる。安永2年(1773年)には、飛騨屋が国後場所での交易を請け負っている。天明8
年(1788年)には蝦夷(アイヌ)の人々を雇い大規模な搾粕製造を開始した。搾粕は、
この頃肥料として大量に生産され、本州方面への重要な産業品となった。しかし、寛政
元年(1789年)労働条件や飛騨屋との商取引に不満を持った蝦夷が蜂起したクナシリ・
メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)が勃発し、多くの和人が殺害された。乱の平定に尽力し
たアイヌ乙名(御味方蝦夷)たちが松前に赴き、藩主にウイマム(謁見)した。この時
の彼らを題材とした夷酋列像が描かれている。この頃幕府は政権交代により、蝦夷地を
従来通り松前藩に任せようとする松平定信と、幕府直轄の公議御料としてロシアに備え
るべきとする本多忠壽が対立したが、最終的に松平定信の意見が通り、飛騨屋は松前藩
により場所請負人から外され、没落した。交通は、寛政11年(1799年)に高田屋嘉兵衛
によって択捉航路が運営されるようになり、翌寛政12年(1800年)には国後場所から分立
し新たに択捉場所も開かれ、紗那に会所(運上屋)を置き択捉島に17箇所の漁場が設け
られ、北前船も寄航していた。陸上は、渡船場、旅宿所(通行屋)が数箇所存在した。
その他、寛政年間には本州や和人地などと同様に郷村制がしかれて、アイヌの有力者に
乙名(役蝦夷)に任命、住民を調べ恵登呂府村々人別帳(戸籍)を作製させた。アイヌ
はこの時百姓身分に位置づけられていた。文化露寇(ぶんかろこう)とは、文化3年(
1806年)と文化4年(1807年)に、ロシア帝国から日本へ派遣された毛皮商で外交使節
だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件で、名
は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件といわれる。ニコライ・フヴ
ォストフによる文化露寇の後、日本の対ロシア感情は極めて悪化した。そうした中で更
に、文化8年(1811年)、軍艦ディアナ号で千島列島の測量を行っていたヴァーシリー
・ゴローニンの国後島の泊に入港した際、厳戒態勢にあった国後陣屋の役人に捕えられ
て、松前で幽囚の身となる事件がおこったのがこの事件の正体だ。ディアナ号で副艦長
をしていたピョートル・リコルドは一旦オホーツクに戻り、ゴローニン救出の交渉材料
とするため、文化露寇で捕虜となりシベリアに送られていた良左衛門や文化7年(1810
年)にカムチャツカ半島に漂着した摂津国の歓喜丸の漂流民を伴ない、国後島に向かっ
た。国後島に着いたリコルドは漂流民を陸へ送り、日本側からゴローニンの消息を知ろ
うとしたが。松前奉行調役の奈佐瀬左衛門は良左衛門を介してゴローニンは死んだと伝
えた。リコルドは信じず、文書で証明するようにと良左衛門を陸へ送り返したが、良左
衛門は戻らなかった。こうしてリコルドは国後島沖に留まり、日本船を拿捕して更なる
情報を入手しようと待ち受けた。そこに通りかかったのが嘉兵衛の船であり、襲撃をう
け拿捕され拘束されロシアに連れていかれたのである。


120: 名無しさんAA:19/11/02 20:50
「集団極性化」「自己否定反動」「抑制解放効果」これらは高学歴社会のトラウマ社会
構造とされる。我々はこれを精神構造ととらえがちだが実は違っていて、社会現象の、
本質なのだ。例えば英国のEU離脱に固執するのは高学歴者の犯罪区分の自己否定反動
であり、離脱票が現行行政のEU内経済を否定したのは、集団極性化の表れだ。つまり
渋谷交差点で、勝手に軽自動車が集団で横倒しされた暴動と同じ衆人心理がEU離脱で
ある。人間は、ともすれば理性的人間だと思いたがる。しかし神へのトラウマは大きく
高速道路上のあおり運転の加害者よろしく「抑制解放効果」を求める自分がいることを
悟らねばならない。そして日本人以上に西洋人や大陸人特に韓国人は何らかの鬱積する
不満を克服してこうした抑制や我慢の術を体得する必要がある。それが人間性であり、
人道というものだ。日本すら悟りの到達した民族ではない。

121: 名無しさんAA:19/11/03 02:03 ID:IE
   歴史の群像     199

 少なくともこれ以降日本の北方の大陸民族への懐疑心は常に大きくあった。更にこう
した事件が起こる度にロシア側は暴徒と化して、逃げるのみで謝罪や悪態を認める事は
全くなかった。こうした事件の遺族たちのの憤りは常に発散する事はなく耐えて忍ぶの
みで、それらに同じ義憤があるのは日本中のだれもが持っていた。明治維新の開国後も
こうした脅迫外交は続いた。ロシアの皇帝が日本に来ても、退位しても、革命がおこっ
てロシアからソ連に代わっても何ら変わることは無かった。国民性でもあろうがもしも
日本に少しでも寄り添う事があるシベリアの民だったのなら、もう少し平和で独立を果
たした豊かな国も出来たであろうが、常に強硬であり続け北方の寒い飢餓に近い世界は
続けられ今も同じのようだ。およそ近代の歴史において、日本はこのロシアの強硬で、
なお強奪も辞さない共同生活者の共産思想との戦いだった。第一次大戦期以後、我国の
対外行動、即ち紛争・出兵(シベリア)・事変・戦争の殆ど悉く共産主義防御の立場と
関連していた事実を再認識すべきであろう。大東亜共済の思想にも色濃く残り、日本が
こうした不確実な共産主義思想の甘い誘いから守らんとした歴史が、我国の歴史でもあ
る。民族自決と自主独立と国民国家の共済五族共和の思想は、改訳以前に彼らにとって
は愛国主義と軍事態勢の優位しか頭にはない国家作りを意味していた。市民生活や人権
などという甘いものはなく、国外はもとより国内でも権力構造のピラミッドの中での優
位性に権力闘争するのが習わしだったのである。自ら中共とは別の主張と論理がある。
それは結局、アジア共産化とアジア防共の何れが歴史的に正しい選択であったかの問題
に帰するであろう。防共という視点を欠いては、近代日本の戦争を語ることは出来ない
。大日本帝国の日本の防共戦について、当時世界には少なからぬ理解者がいた。という
より、ほぼ日本開国の理由そのものが西側の防共の防波堤を望んだものだったのである
。もし日本がソ連やロシアのような振る舞いで信用がなかったら、すぐさまアメリカは
領土を取り上げていたであろう。更に開国後の日英同盟も無かったろうし、盲目的に、
キリシタンを掲げる朝鮮民族のようになったろう。しかし日本は江戸の時代に醸成した
文化が西洋を魅了し、欧州人の移住を盛んにして最新技術の習得が早かったのである。
最後に開国した小さな島国に関わらず、植民地にもならずアヘン蔓延の亡国にもならず
紛争での占領された国にもならなかった。さらに執拗に強固に天皇巨民として万世一系
を信じた。この事に欧米は称賛している。防共国として適任の国に見えていたのである
。その中の最も注目すべきは、ローマ法王ピオ11世だった。支那事変勃発後3ヵ月経っ
た昭和12年10月、ピオ11世は全世界、特に極東のカトリック教会に対して「(支那事変
での)日本の直接の関心は、共産党勢力のアジア浸潤駆逐に他ならない」として「日本
の文明擁護」を唱えこの意図を支那が諒解する必要のあることを説き、同時に外蒙より
する凶暴なる(共産主義の)影響を駆逐すること。を呼び掛けている。そして共産主義
の危険が存する限り、遠慮することなく日本を支援すべきこと。日本軍当局に対しては
、カトリック教会の立場は、全面的に日本との協力に必要があること。協力を徹底せし
めること。…等の具体的な指令を発出した程だった。


122: 名無しさんAA:19/11/03 02:03
   歴史の群像     200  

 奇しくも、日本が国際連盟を脱退したのは昭和8年3月だが、この年のドイツでは、
1月にヒトラーが首相就任してナチス(ドイツ社会労働党)が大きく躍進しドイツ国民
に拍手喝采で受け入れられた年でもある。ゴータは少なくとも8世紀に遡る古い町で、
17世紀にはザクセン=ゴータ公国の首都となり、19世紀になるとコーブルクとともに、
ザクセン=コーブルク=ゴータ公国の首都として栄えた。18世紀になってヴォルテール
が滞在し、ドイツにおける啓蒙主義の中心地となった。ヴォルテールはフランスの数多
くいる哲学者でも、文学者、歴史家であって、歴史的には、イギリスの哲学者であった
ジョン・ロックなどとともに啓蒙主義を代表する人物で、理屈を好む風変わりな一物で
あって人気は芳しくなかった。イエズス会のルイ=ル=グラン学院で最高の教育を受け
た彼は、優秀な生徒であってイエズス会側がは『ジュヌヴィエーヴによせるルジュ神父
のオードの模倣』を1710年に出版するほどの逸物で天才だったであろう。しかしそうし
た天分に関わらず彼は宗教家よりは詩人になるのを夢見ていたようだ。若い頃から詩編
をたびたび出版し、世の中にヒット作を送り続けた。そして事件が起こった。フランス
の政治や政府を痛烈に中傷する詩を書いて、流布し続けたあげく、1717年、彼は捕縛さ
れ裁判されバスティーユ牢獄に投獄され、11ヶ月、約一年間を牢獄で過ごしたのである
。多感な22〜23歳の青春を奪われたが幸いにして家柄が良く賄賂で短期間で出獄できた
。そして、彼の本名フランソワ=マリー・アルエが偽名で「ヴォルテール」という筆名
を用いたのはまさにこの時期であった。1718年11月18日、ヴォルテールは、その生涯に
大量に書き残す韻文悲劇の処女作、『エディップ(オイディプス)』を書き残しコメデ
ィー・フランセーズにて初公演された。この頃は、まだヴォルテールはバスティーユか
ら釈放された直後であり、パリ在住の仮認可だけしか得られなかった時期である。しか
し劇は大成功を収め、45回という異例の回数にわたって上演され、このことでヴォルテ
ールは摂政より金メダルと年金を受け、ジャン・ラシーヌやピエール・コルネイユとも
並ぶ大物作家になった。しかしこの名声は敵をも作り、名門貴族のロアン家とのトラブ
ルののち、1726年、再びバスティーユに投獄されて、出獄の後英国に渡った。イギリス
の自由な風潮に、当時の前時代的封建的性格のフランスから来た青年は、その母国思い
知りイギリスに深く感銘を受けた。この時イギリスで影響力のあるジョン・ロックや、
アイザック・ニュートンらの哲学を深く知り、イギリスの哲学研究に触発されて問題書
『哲学書簡』の発表に繋がった。1728年秋にはロンドンからふたたびフランスへと戻っ
たが、この書は古典的保守派の怒りを買いすぐに焚書となったが、海賊版は広く市中に
出回った。ヴォルテールはまずオランダに逃れ、その後愛人のエミリー・デュ・シャト
レ(シャトレ夫人)を頼り、ロレーヌのシレーにあるデュ・シャトレ家の館に隠れた。
ニュートンの『自然哲学の数学的原理』の翻訳書で、1738年『ニュートン哲学要綱』を
著すなどしていて、ニュートン思想の流布に一役買ったほど、彼には作文の才能に溢れ
た者だった。この新人作家「ヴォルテール」の掲げた現代啓蒙思想は神の否定だったが
、これこそナチスドイツを甘やかし、ヒットラーを自ら神に匹敵する総統閣下にさせた
賜物だったし、イギリスのチャーチルをして、経済で全てが解決する。と豪語させた、
ユダヤ宗教そのものだったのだ。それが米国の対日政策に結び付きドイツが放つ「黄禍
論」と共に東洋が特殊異人の国々と言う独特の違和感を放つもとになった。


123: 名無しさんAA:19/11/03 02:20
   歴史の群像     201

 1755年に突然にリスボン地震が起こった。以降、宗教界思想界では、社会の中で神の
全能や神の慈悲を懐疑する風潮があったが、終末論で人間の行いが神の怒りを買った。
などとするキリスト教信仰擁護者と軋轢が生まれた。この問題提起で二分する国論で、
大親友だったジャン・ジャック・ルソーとも袂を分けた。一貫して無神論の極論に接し
理神論に身を置くヴォルテールは、かねてからキリスト教への批判を展開していたが、
地震のすぐ直後には『リスボンの災禍に関する詩』を発表して、そうした主張を展開し
た。この動きのなかでは、教会側からのルソーへと、ジュネーヴの牧師から神の摂理を
弁護するよう書の依頼を受けこれによって決定的敵対的関係が生まれた。ゴットフリー
ト・ライプニッツ哲学を批判的風刺した『カンディード』を発表すると、すぐさまこの
書をルソーは批判した。又ルソーが『新エロイーズ』を発表すると、ヴォルテールも、
多くの批判文書を送っている。ルソーは『山からの手紙』のなかで、追放されたことに
ついて、ヴォルテールのせいであると告発した。ヴォルテールは著者であることをかく
して旧約聖書への攻撃的批判である『サウル』を発表すると、ルソーはヴォルテールを
名指しで攻撃し、経緯に激怒しヴォルテールは『市民の見解』を発表し、ルソーを追放
した。ジュネーヴの牧師たちの味方として、ルソーの人間像を批判的に描いてヴォルテ
ールはルソーを攻撃した。一方で、ヴォルテールは反ユダヤ主義者であったことでも知
られ、『哲学辞典』で「ユダヤ人を地上で最も憎むべき民」、「無知にして野蛮な民」
「その民は、旧来、もっとも忌まわしい迷信にもっとも悪辣な吝嗇を混ぜ合せた民であ
る」などと30項目においてユダヤ人を酷評し攻撃している。ヴォルテールは「それでも
なお、ユダヤ人を焼くべきではない」ともいっているが、ポリアコフは申し訳形式的な
意味しか持たない。としている。また、青年期のヴォルテールはデュボワ枢機卿へ書簡
で、「祖国といって金を稼ぐことのできる場所以外のものを知らないユダヤ人が、皇帝
の為に王を、王の為に皇帝を裏切るようなことをいとも簡単にやってのける人間である
。ということは今さらのように猊下にご説明申し上げるまでもありませぬ。」と書いた
リールの騎士団に対して「イスラエルの包皮なしの連中(ユダヤ人の割礼者)は、「か
つて地球の表面を汚した乞食どものなかで最悪の乞食である。」と述べている。1762年
、ユダヤ人のイザーク・ピント批判に対して、「シボレットを発音できなかったからと
いって4万2千人の人間を殺したり、ミディアン人の女と寝たから といって2万4千人の
人間を殺したり、といったことだけはなさらないでください」。と「キリスト者ヴォル
テール」と署名して答えている。ヴォルテールの反ユダヤ主義は広く知れ渡り、1807年
反ユダヤ主義政治家グラッテナウアーは、ユダヤのモーゼス・メンデルスゾーンの胸像
に代わってヴォルテールの胸像の設置を提言する。他方、ヴォルテールはユダヤ人に、
つかの間の安息をもたらした啓蒙主義の進展に寄与したため、当時のユダヤ人側からの
厳しい評価が寄せられはしなかった。この宗教革命論争の啓蒙主義者の論争は遠く離れ
たロシア正教までおも影響を及ぼしたようだ。



124: 名無しさんAA:19/11/03 02:21
   歴史の群像     202

ヨーロッパで啓蒙思想が起こって、主流となって吹き荒れたいた17世〜18世紀にかけて
の時代のことを啓蒙時代と言う。時代的に先行するルネサンスを引き継ぐ側面もあって
ゴーダは中心的思想を持った都市だった。啓蒙主義(けいもうしゅぎ)は。ヨーロッパ
各国語の「啓蒙」の単語の、原義は「光で照らされる」の意である。自然光の太陽の光
が遍く明らかにすると言う趣旨で、超自然的な偏見を取り払って人間本来の理性の自立
を促す行為や思想だった。科学革命や近代哲学の勃興とも連動し重複もするが、一般的
に経験論的認識論、政治思想・社会思想や道徳哲学や倫理学、文芸活動などを指す。が
17世紀後半にイギリスで興り、18世紀のヨーロッパにおいて主流となり政治形態を変え
た。フランスで最も大きな政治的影響力を持ち、フランス革命に影響を与えたとされる
。1875年にここでドイツ社会民主党が結成され、その際の綱領草案(ゴータ綱領)がカ
ール・マルクスに批判されたこと(『ゴータ綱領批判』)でよく知られる。この自由主
義運動とも取れる熱狂的宗教離れに、人々はユダヤ人やロマ人など下層市民の迫害が、
ポグロムとして起こり頻発した。対して中流民は支配者層を攻撃し、共用生活共済活動
を強くした。こうした団結した集団抗議運動に危機感があり、ドイツの社会主義民主党
はビスマルクによって制定された社会主義者鎮圧法によって、党は地下に押しやられた
。党の代議士たちは、議会に出ることを許されたが、集会・組織化・会報の出版が大き
く禁じられて活動していた。しかしそれでも尚1877年には国会の選挙で50万票を獲得し
た。1890年に、社会主義者鎮圧法は続いていたが、140万票を得て 勝利しドイツ最大の
政党になった。社会主義者鎮圧法は、ビスマルクが社会主義を危惧した結果だった。ビ
スマルクは社会主義者が2つの暗殺未遂事件の犯人である。と信じていた。社会主義者
鎮圧法は3年ごとに更新されたが、1890年の秋にビスマルクが政界を去った時、それは
終わる。すぐさまドイツ社会主義労働者党は党名をドイツ社会民主党(SPD)に改称
し、それは現在まで続いている。この中で極右派が1931年秋に分派し設立された。過激
な左派の主張に対抗し、政治的立場には極右に分類されるドイツ労働者党(DAP)が 設立
され、1919年に作られ1920年に改称した。こうして極右も極左も許さないとした保守で
革新の労働者党ができた。しかし1921年に第一議長に就任したアドルフ・ヒトラーは、
党内でフューラー(指導者、総統)と呼ばれるようになり、指導者原理に基づくカリスマ
的支配を確立し存在した。結党以来長らくは生活者党として野党であったが、1929年の
世界恐慌以降に国民の社会不安を背景に、一気に支持を拡大させていき、1932年の国会
選挙で国会の第一党を占めるに至った。。一般にナチス、ナチ党などと呼ばれる。つま
り、日本もドイツも対共産党戦線において、こうした極左に対抗した極右の政権であり
、それに嫌気を指して真面目に庶民の党を国民が推すのだが、日本の鳩山氏の様に、妙
竹林な思想の可笑しな言い分の政党ができると言うことである。日本の民主党も戦略や
勉強不足であり続け、国民の声よりは党の論理や国会運営や政府運営に終始し安定化を
出来なかった。黄禍論伝説は史実には違いないだろうが、何もフン族だけが悪人ではな
かった。それが本来の平等な見方だろうが、白人あるいはドイツ人は優位主義論者であ
り、あくまでも正義の無辜の民である前提がそこにあった。だからこそユダヤやロマは
迫害の中にあった。

125: 名無しさんAA:19/11/03 02:37 ID:IE
   歴史の群像     199

 少なくともこれ以降日本の北方の大陸民族への懐疑心は常に大きくあった。更にこう
した事件が起こる度にロシア側は暴徒と化して、逃げるのみで謝罪や悪態を認める事は
全くなかった。こうした事件の遺族たちのの憤りは常に発散する事はなく耐えて忍ぶの
みで、それらに同じ義憤があるのは日本中のだれもが持っていた。明治維新の開国後も
こうした脅迫外交は続いた。ロシアの皇帝が日本に来ても、退位しても、革命がおこっ
てロシアからソ連に代わっても何ら変わることは無かった。国民性でもあろうがもしも
日本に少しでも寄り添う事があるシベリアの民だったのなら、もう少し平和で独立を果
たした豊かな国も出来たであろうが、常に強硬であり続け北方の寒い飢餓に近い世界は
続けられ今も同じのようだ。およそ近代の歴史において、日本はこのロシアの強硬で、
なお強奪も辞さない共同生活者の共産思想との戦いだった。第一次大戦期以後、我国の
対外行動、即ち紛争・出兵(シベリア)・事変・戦争の殆ど悉く共産主義防御の立場と
関連していた事実を再認識すべきであろう。大東亜共済の思想にも色濃く残り、日本が
こうした不確実な共産主義思想の甘い誘いから守らんとした歴史が、我国の歴史でもあ
る。民族自決と自主独立と国民国家の共済五族共和の思想は、改訳以前に彼らにとって
は愛国主義と軍事態勢の優位しか頭にはない国家作りを意味していた。市民生活や人権
などという甘いものはなく、国外はもとより国内でも権力構造のピラミッドの中での優
位性に権力闘争するのが習わしだったのである。自ら中共とは別の主張と論理がある。
それは結局、アジア共産化とアジア防共の何れが歴史的に正しい選択であったかの問題
に帰するであろう。防共という視点を欠いては、近代日本の戦争を語ることは出来ない
。大日本帝国の日本の防共戦について、当時世界には少なからぬ理解者がいた。という
より、ほぼ日本開国の理由そのものが西側の防共の防波堤を望んだものだったのである
。もし日本がソ連やロシアのような振る舞いで信用がなかったら、すぐさまアメリカは
領土を取り上げていたであろう。更に開国後の日英同盟も無かったろうし、盲目的に、
キリシタンを掲げる朝鮮民族のようになったろう。しかし日本は江戸の時代に醸成した
文化が西洋を魅了し、欧州人の移住を盛んにして最新技術の習得が早かったのである。
最後に開国した小さな島国に関わらず、植民地にもならずアヘン蔓延の亡国にもならず
紛争での占領された国にもならなかった。さらに執拗に強固に天皇巨民として万世一系
を信じた。この事に欧米は称賛している。防共国として適任の国に見えていたのである
。その中の最も注目すべきは、ローマ法王ピオ11世だった。支那事変勃発後3ヵ月経っ
た昭和12年10月、ピオ11世は全世界、特に極東のカトリック教会に対して「(支那事変
での)日本の直接の関心は、共産党勢力のアジア浸潤駆逐に他ならない」として「日本
の文明擁護」を唱えこの意図を支那が諒解する必要のあることを説き、同時に外蒙より
する凶暴なる(共産主義の)影響を駆逐すること。を呼び掛けている。そして共産主義
の危険が存する限り、遠慮することなく日本を支援すべきこと。日本軍当局に対しては
、カトリック教会の立場は、全面的に日本との協力に必要があること。協力を徹底せし
めること。…等の具体的な指令を発出した程だった。


126: 名無しさんAA:19/11/03 02:38
   歴史の群像     204

 ところが、国連の代表団というのは諸外国は貴族や諸侯の成り上がりが多くて、日本
のような世界の危機感を持った代表団は至って少なかった上に、松岡は慟哭に弱い性格
の持ち主だった。そもそもこの時の日本代表が、国連費用も払えない国の広告映写など
認めない。とすれば良かったが、当時映写機は真実の画像を映しだすものと勘違いして
いて、そのナレーションや時間軸の加工などには不慣れで意図も容易く騙され鑑賞に出
された。議事場の国際連盟総会の議場退席は松岡の意に反するものであったがやってし
まった。というのが正解だろう。昭和7年(1932年)の世界の動きは激しかった。正月
に日本が承認した南京に新国民政府樹立し、南京・広東両国民政府が妥協している。4
日インドでは、国民会議派,非合法化。ガンディー逮捕,獄中で「死に至る断食」開始し
いよいよもって英国の植民地支配は強くあって無抵抗運動でも投獄された。この危機感
に同じ帝国入りを果たそうとした米国の国務長官ステムソンは満州事変に関し満州侵略
不承認を声明しステムソン・ドクトリンとして発表し蒋介石夫人の称賛をうけ、活動は
拡大した。二月になって、緊縮する国家財政にジュネーブ軍縮会議開催され、民間の国
際活動も活発化し第3回冬季オリンピックが米国のレークプラシッドで17か国が参加し
開始された。4月10日ヒンデンブルグがからくもヒトラーらを破り独大統領に再選した
が得票率53%と低かった。4月これまで上海から逃げ延び活動していた共産党は毛沢東
一声で瑞金政府を建国した。瑞金(ずいきん)は江西省の山間部にある場所で1931
年11月に中国共産党がこの地を本拠地として、「中華ソヴィエト共和国臨時政府」を
樹立宣言したのである。中国に出現した最初の共産党に指導された労働者・農民の権力
が成立した。この触発で更なる北伐には、北京政府は動かざるを得なく三鼎立国家を望
まなかった。つまり、中共合作がすでに崩れ米国支援が確立していた頃だった。しかし
国連はソビエトの抵抗でこうした事は議題にすら登らなかった。1928年から31年
にかけて、毛沢東は「農村を武装して都市を包囲する」戦略を立て、井崗山以外の紅軍
の根拠地を農村に建設することを進めた。共産党の主流は、ソ連に留学したグループが
(李立三ら)が握り、都市での蜂起を主とした全国武装蜂起を企てテロ工作を行ってい
た。しかし、1930年7月の「長沙ソヴィエト」樹立以外はいずれも失敗し、蒋介石
の指揮する国民政府軍の攻勢(囲剿作戦)によって次第に後退していった。その間毛は
農村根拠地の拡大に努め、1931年の満州事変の勃発後、この瑞金を首都とする中華
ソヴィエト共和国の建国を宣言し、1931年11月7日(ロシア革命記念日)に、江
西省瑞金で中国共産党を中心とした各地のソヴィエト政権の代表が集まり、第1回中華
ソヴィエト代表大会を開き、中華ソヴィエト共和国臨時政府の樹立を決定した。主席に
は毛沢東を選出したのは当然だった。瑞金を首都とするこの国は、人口1千万にすぎな
い小国だが、しかし、ここに初めてソビエト支援の中国共産党国家が建設されたことは
重要な歴史的位置にある。そして1932年4月に、この日本の脱退工作が成功して、
「対日戦争宣言」を行っている。その後4年間存続したが、抗日戦よりも共産党撲滅(
囲剿作戦)を重視してそれに全力を挙げる蒋介石の国民党軍の包囲攻撃で1934年の
10月に瑞金を放棄して「大長征」(大西遷)という逃避を敢行することとなる。瑞金
(ずいきん)政府は江西省の山間部の要害に建てられ1931年11月に中国共産党が
この地を本拠地として、「中華ソヴィエト共和国臨時政府」を樹立し拠点化を目指して
大陸内の破壊工作の指導や指令をを行って行く



127: 名無しさんAA:19/11/03 02:38
   歴史の群像     205

 1928年から31年にかけて、毛沢東は「農村を武装して都市を包囲する」戦略を
立て、井崗山以外の紅軍の根拠地を農村に建設することを進めた。しかしながら共産党
の主流は、ソ連に留学したグループ(李立三ら)が握り、都市での蜂起を主とした全国
武装蜂起を企てた。しかし1930年7月の「長沙ソヴィエト」樹立を除いていずれも
失敗し蒋介石の指揮する国民政府軍の攻勢(囲剿作戦)によって次第に主流派は後退し
全滅していく。その間に毛沢東は農村根拠地の拡大に努め、1931年の満州事変を境
に勃発後、この瑞金を首都とするソビエトの全面協力で、中華ソヴィエト共和国の建国
を宣言した。ここで北伐は逆に捕縛監禁捕虜となり蒋介石は姿勢を逆転させた。つまり
先の中共合作を捨てるかどうかが問われたとされる。1937年、蒋介石は廬山で抗日講話
を発表し、日本軍との全面抗戦を開始を宣言し、中華人民共和国の成立後、毛沢東らは
廬山を三度訪れ、中国共産党中央会議をここで開いた。こうして瑞金の中華ソビエト政
府もまた対日宣戦布告をした。既に上海では、汪兆銘政府が日本に置いて承認されてい
た中での出来事だった。蒋介石は慮山会議開催(第4次掃共作戦対日妥協政策を決定し
。掃共作戦を練った。朝鮮半島でも、朝鮮人両班の李奉昌は、桜田門外で天皇の馬車に
爆弾を投げる(昭和の桜田門事件)が起こっている。責任を取り犬養首相は辞表提出した
が、大陸では布教活動していた日蓮宗の日本人僧侶が田中隆吉少佐の謀略によって上海
で中国人に殺傷されている。一月末には日中両軍の武力衝突に発展し第1次上海事変が
起こり5月の上海停戦協定調印まで続いた。この時偽装日本機が空爆し写真に収められ
た事で蒋介石の自国空爆が判明している。しかし、上海政府には飛行機乗りはいなく、
米軍の国務長官ステムソンが民間部隊を送り、隠れて戦闘機とパイロット訓練養成の為
の教官を送っていた事が判明し、新聞に載せられたが、すぐに米国政府の妨害活動がお
こりワシントンでは載らず大陸の新聞のみだった。空欄には軍部の求人広告がでかでか
と載った。井上準之助前蔵相は「一人一殺主義」を掲げる朝鮮血盟団(盟主井上日召)の
小沼正に射殺されている。東北行政委員長張景恵は満州国の建国を宣言し、首都を、「
新京(旧長春)」に決めて元号「大同」を名乗った。血盟団事件は続き、三井合名理事
長の団琢磨が、血盟団員菱沼五郎に射殺された。3月に政府は満蒙地方を「帝国の対露
対支の国防の第一線とし外部よりの攪乱を許さず。」とする強い意志の「満蒙問題処理
方針要綱」を決定し、4月に三井・三菱両財閥,満州国への 2000万円融資契約調印した
。こうして、奉天政府の首席威式毅・黒竜江省馬占山・吉林省政府首席熙沿・東省特別
区長官張景恵・関東軍参謀板垣征四郎らが音頭をとり、奉天で満州国建設に向け新国家
建設会議開催。内外に満州国の「独立を宣言。「五族協和」「王道楽土」を建国理念に
掲げる事になった。満州中央銀行設立(資本金3000万円)を発表。7月『赤旗』特別号は
コミンテルン論評で「日本に於ける情勢と日本共産党の任務」(32年テーゼ)を掲載して
「天皇制打倒」を主張した。この時日本も斎藤実(海軍大将)内閣成立して。政友会3人
民政党2人が入閣するも、これまでの政党内閣が去り、政党・官僚・軍部の三者均衡の
内閣で、事実上政党内閣政治時代が終った。急速に枯渇する民生品に歯止めの資源局を
設置し国指導の管理型社会を目標とした。そんな時に外務省は満州問題に関する報告書
のリットン報告書(10月)が公表された。満州事変の日本の自衛行動否認とも受け取ら
れる内容に見えた。



128: 名無しさんAA:19/11/03 02:43
   歴史の群像     206

 もし大日本帝国が満州事変で留まっていれば、日本の歴史はそのままだったかも知れ
ない。日本が中国大陸に満州国を建国し、「王道楽土・五族協和」をスローガンとした
新世界を欲し、フロンティアを求めたことは、この頃どこの国でもあった事だったから
だ。この時点で関東軍が留まり、現代においても中国大陸に満州国というのが開かれて
もう一つの日本国が存在し、漢民族やモンゴル人と共存し、自由な経済活動が行われて
いたかもしれない。しかし、関東軍(陸軍)が暴走して建国樹立した国、満州国は承認
されず、日本は結局、国際的な孤立をしてしまう。リットン調査団は、意外にも満州国
建国には寛容でした。しかし、日本は中国での軍事行動を続けざるを得ないほど、共産
党のテロ行為は拡大の一途だった。これに中国が油を注いだPR映写で米国世論の後押
しされ国際連盟が大激怒する。その結果、せっかくリットンらが容認した満州国の建国
が承認されず、日本は国際連盟を脱退することを決意した。とされる。しかし戦争とは
究極の経済対策だった。なので政府は、昭和恐慌に苦しむ当時の日本は、不況での失業
不安は軍部の徴兵に頼った。国民が戦争を歓迎することはなかったが、軍部の台頭は許
してしまっていた。こうして昭和初期の大陸の戦争は、軍部の暴走によって引き起こさ
れたことは、周知の事実だった。こうした軍部の暴走を、新聞紙上は熱狂的に民衆を煽
りたてて国民も支持した。昭和の泥沼の戦争は、一体誰が招いたか。そんな戦争責任を
追及する際、どうしても忘れてはならないことは、当時の国民は戦争を熱烈支持する層
が随分多くいたことである。私達の印象から見れば、昭和初期は軍部が暴走したことで
、日本は泥沼の戦争に引きづられていった、国民は言論統制により、言いたいことも言
えず、軍部の暴走に振りまれた結果、大量の国民が犠牲になった。ともされる。しかし
大きな間違いで、その要因はむしろ、戦争が、国民が引き起こしたものである。と見な
す方が正しい。「戦争が起きれば、景気が回復する。」「肥沃な満州という地に移り住
めば、豊かな生活ができる。」国民は皆、戦争や満州国に希望を抱いていたし、事実が
そうだった。こうした経緯から日本は満州事変を起こしました。1931年9月の満州
事変は列強を中心に世界各国に衝撃を与え、日本の恐慌からの復興は目覚ましく、他国
を抜きんでていた。国際社会においては、イギリスやアメリカ、そして満州隣国のソ連
でさえも、日本を批判こそしたものの、経済制裁や軍隊の派遣といった対抗措置が取れ
ず動けない国民デモがあったのだ。確かに九か国条約の中で、中国への侵略をしないと
取り決めてはいた。しかし列強各国のアジア・アフリカ侵略は止まらず、その植民地の
資源や市場に頼っている事もあり、日本を表立って批判出来なかった事情もあった。又
関東軍に対抗する中国軍や大陸事情も大きな抵抗を見せれなかった。これらが相まって
、関東軍は意外なほどあっけなく満州を制圧してしまった。これによって当初、不拡大
方針を決めていた日本政府も陸軍(関東軍)の暴走を、追認した形になってしまった。
勢いにのった陸軍は、ますます独断で動くようになってしまいました。こうして五一五
や二二六の事件が思い上がった軍部の高級兵士によって引き起こされた。これが日本の
まずさで変換期となったのだったのだろう。この陸軍の暴走こそが、日本の国際社会に
おける立場を危ぶませ、国際連盟の脱退へと導いた大きな要因できっかけとなっていた
のは間違いない。


129: 名無しさんAA:19/11/03 03:23
   歴史の群像     207

 リットン調査団は視察完了から約2か月後に、作成した報告書を国際連盟に提出した
。報告書には、満州事変や上海事変など日本軍の行動は、国際ルールに合致する「自衛
の行動」だとは、当然ながら認めてはいない。がしかし、日本が満州に持つ権益には、
尊重していて、満州国は独立国とは異なる形での「自治政府」創設して、日本人を含む
外国人顧問をその自治政府に付随させることを提言していた。つまり、リットン卿らは
満州国を国際連盟の管理下に置くとしながらも、実質的には日本人の居住や行政・商業
などにおける日本の権利を全面的に認めたのであったのだ。ドイツ領だった南洋の付託
と同じである。当時国際連盟の日本政府代表だった松岡洋右(まつおかようすけ)は、
1932年12月14日に、リットン調査団の妥協案を受け入れるべく中国に多少譲歩
することで、問題の幕引きを図るべきだと東京の政府に進言している。松岡自身、満州
事変勃発から8カ月も前からも、例えば1931年1月23日、帝国議会(国会)でも
「満蒙(満州と内蒙古)は我が国民の生命線である。」と演説したが、満州国の独立と
いう問題の解決法に固執していたわけではなく、むしろ国際社会に従い、平和的な方法
で満州国の建国を目指している方針を進言している。もともと日本はこの過酷な大地で
そうそう米も取れない土地にしがみ付いているのは、ソ連の赤思想の南下を食い止める
為で中国占領の意思は全くというほど無かった。南方の石油資源に通る道のりだったの
だ。もっとも、近現代の外交ルールでは、単に当事者の愛新覚羅前皇帝を助け「独立」
を宣言するだけ、国際社会や国連は認めない。他国が正式にその国の政府を承認して、
外交関係を築かないと、独立国とは見なされない。そうした現状があったのだが、松岡
代表が、国際連盟との妥協案を受け入れ、平和的な解決がされようとしていた頃、まさ
にその時、事件がおきていた。1933(昭和8)年3月、関東軍が新たな軍事行動と
して「熱河作戦」を開始したのである。これは、同地から共産党の破壊工作行動の国民
革命軍を追い出す目的で、計画の対処行動であった。熱河省は、満州国西部に位置する
。熱河は(日本側が考える)満州国の一部だから、占領するのは問題ないことではあっ
た。しかし、ここは既に関東軍の取り締まりと国民党の取り締まりに隠れて逃げてくる
農民兵の逃げ場になっていた。その上三井や徳川財閥などの新開発のアヘン栽培場を、
軍部医療班発注で整備していたのである。これらの横流しが中国政府に取っての収入を
押えてしまっていた。当時サッスーン財閥のアヘン流通で蒋介石政府の政府予算は出来
ていた。日本が汪兆銘に乗り換えた事で、刷新される恐れがあり毛沢東も焦っていた。
1933(昭和8)年1月13日の閣議において、既に日本政府も関東軍に対し「長城
(満州国の国境とされる線)を超えないならば」という条件で、作戦を許可していた。
しかし、こうしたことを松岡代表は一言も聞かされていなかったのである。国際情勢に
無頓着な政府と国際連盟の実情を知らない松岡、更に松岡そのものが文官であり武官す
らもごく一部しか知らない通達情報。更に蠢いていた日本の商社や財閥の動き。これら
に危機感を募る英国政府と更に泥沼に引き込もうとする米国。日本政府は「熱河作戦は
日本側が考える満州国の一部だから、国際問題にならないだろう。」と状況を甘く見て
いた。事実国際協定では、中国大陸に欧米は手出ししない。軍事物資は送らない。との
条約は整っていたのである。


130: 名無しさんAA:19/11/03 08:53

 ばかげた文部省と馬鹿げた大学の検定試験がクローズアップされる。勿論今回政治的
問題や発言問題でのニュースだが、実はかなりの民間委託の検定試験がこうした経済的
格差の温床になっている。それは各省庁の天下り役人の理事入りや退職後の給与保証と
して機能している事実があるからだ。幾つもの細分化を起こして、更にかなりの資格化
を限定している割には、市役所職員など公務員には甘くまったく実務の伴わない資格の
ふじょがなされている。この事はまったく憤慨である。今度の首里城消失にも関係ある
話で、ほとんどこの管理を一般的者が責任も権限もなく行っている事に問題があるのだ
。おそらくはユーチューバーの不始末てき出火であろうが、いち早く助役は放火や失火
でないと何の根拠もなく発言し、玉城知事は復興の支援を政府に伺っている。早すぎる
だろうし、虫のよい話である。自らの失政や住民の執政を問いただし、過失の根源を、
取り除く作業を行ってからの話である。燃えたものは仕方がないでは済まされない。今
の観光行政や防火体制の執行などかなり悪質で、これでは地方自治体とは言えないのだ
。何をそんなに甘えているのだ。誰がどう見てもスプリングクラーや類似の物が必要な
重要建造物であろう。丘の上に立ち猛火になるのが予想される建物を簡単に燃やす体制
など考えられないものだ。



131: 名無しさんAA:19/11/03 21:35
   歴史の群像     208

しかし、国際連盟の加盟国は、まだ満州事変や満州国の問題をどう処理するかの話も、
ついていなく、関東軍が「占領地」で新たな軍事行動をはじめたことは、国際連盟に対
する侮辱と挑戦であると理解してしまった。というより、既にアメリカ国内は徐々に国
の形が形成されている中で、奇妙な共産党思想を取り入れてしまい、ソ連の諜報工作に
負けて世論が作られていたのである。イエロージャーナルもその一端だったといえるだ
ろう。。更に日本政府も、国内においては、今や内閣に軍部が圧倒された以上、軍部の
動向を抑える力を持たなかったし、軍部も軍人に抑えがなかったのである。1933年
(昭和8)2月初頭、国際連盟では、まず日本に対する新たな勧告案を作成し始めた。
その内容を知り日本は慌てた。この勧告案が満州国の正当性を否定し、日本がそれを受
け入れない場合には、連盟規約に従い日本に対する諸外国からの「経済制裁」が課され
る内容だったからだ。そして実際、1933(昭和8)年2月24日、ジュネーブでの
国際連盟総会での勧告案が採決にかけられる。日本が全権大使として、松岡洋右をジュ
ネーブに派遣した頃は、既に国際社会はこの軽はずみな武力を背にした日本の進出には
大きな反対運動で、意識統一されていた。勧告案の内容は、満州国の成立を認めず満州
事変以降の日本の責任を問うという、日本にとって大変厳しいものと、変化した内容に
変化している。この時採決の結果は、賛成が42ヵ国、反対が1か国(日本)、棄権が
1ヵ国(シャム=タイ)で、日本の完敗結果となる。「これで満州国の存在は絶望的な
ものになってしまった。この原因はあきらかに熱河省での一件だ。」と松岡は悟ったか
もしれない。松岡は即座に「日本は、このような勧告案は受け入れられない。」と演説
して後席をたつ。代表らの国際連盟の受入不可の表明は、松岡のみならず、日本政府は
懸念があった。このまま国際連盟を脱退してしまえば、列強各国からの経済制裁は免れ
ない。そうなったら、日本の生命線ともいえる石油の供給が絶たれ、軍事面において、
大変不利な状況に立たされる。それらは既に予想された事だった。国際連盟の思惑は、
従来どおり、日本を連盟の中で鎖につなぎ自由にさせない事だった。それがアメリカの
利益だったからだ。その為の大幅譲歩案がリットン報告に絡む決議だった。おそらくは
天皇は内々に報告を受け了承していた。松岡は、国民は怒っているだろうと思い込み、
直接に帰国せず、他を立ち寄って帰国した。当時の日本国民は松岡の行動を絶賛してい
て、それを報道でしって。松岡がようやく決心して恐る恐る帰国することになった。し
かし、帰国に凱旋将軍のように迎えられた。国民の多くは、松岡の態度を、日本の名誉
を貫いた。堂々たる行動。と歓迎したのだ。しかし、国際連盟の脱退で日本は国際協調
から外れ、自国の権利や立場を主張できる場所を失うことになった。この時の首相の、
斉藤はもともとは、脱退反対論者だった。閣僚の大半、内相山本達雄、蔵相高橋是清、
文相鳩山一郎、農相後藤文夫、拓相永井柳太郎らも脱退には反対だった。また、海軍も
斉藤を支持していた。閣僚ではないが、内大臣牧野伸顕も、イギリス提案をのんだ方が
いいという意見だった。それでも何故か報道関係者の、特に新聞各社は、圧倒的に脱退
論を唱えていた。天皇は腸が煮えたぎる思いの怒りがあったに違いない。あれだけ釘を
さし頼み込んだ思いは無駄になった。が、新聞社は有頂天に全国百三十二社が共同声明
を作って一面にのせた。内容は、満州国の存在を危うくするような解決案は、いかなる
事情があろうとも絶対に受諾すべきではないと説いていた。全言論機関の名においての
声明、というのであったのである。客観的にいって、新聞はじつにだらしなかったのだ
。陸軍の青年将校の威勢のいい言辞にひきずられていたし、海外からの工作員を多数受
け入れ記者にしていたし、国際事情に無頓着の上に取材力はなく、海外のイエロージャ
ーナルに毒されていたといえる。もし同情的にいうならば、新聞にはもはや言論の自由
は無く、既に国内事情が憲兵隊と特高警察などがその力をほしいままにしていたのであ
る。そこに今の現状の恨みがあって、強硬な戦争支持論者が多く占めていたのである。


132: 名無しさんAA:19/11/03 21:36
   歴史の群像     209

 小林多喜二が特高の手に捕らえられて、築地警察で虐殺されたのは、二月二十日の事
であったが、それをありのままに報道した新聞は一社も存在しなかった。毛利特高課長
の「決して拷問した事実はない。心臓に急変をきたしたものだ」という談話を淡々と、
載せて警察発表のままだった。わずかに、友人の江口渙の「顔面の打撲裂傷、首の縄の
跡、腰下の出血がひどく、たんなる心臓マヒとは思えません」という談話が都新聞には
乗ったが、家族や友人が「むごくも変わりはてた姿に死の対面をした」(読売新聞)と
いった表現で、真相をそれとなく匂わせるのがやっとであったようだ。こうした暗い世
情や国民生活が世論を襲っていたのである。その元は中国や朝鮮の共産化の嵐だった・
国連理事会二日目翌二十四日に第三回の理事会がひらかれた。まず、中国北京政府の顧
が約五十分、ついで松岡が二十分の演説を行なった。顧はいった。「第一に、一九三一
年九月十八日の事件は、日本の自衛行為であったろうか。答えは、ノウである。第二に
、満州国の建設は人民の自由意思によるものであったか。答えは、ノウである。第三に
、日本は公約どおりに軍隊を撤収しただろうか。答えは、ノウである。では紛争は平和
的に解決されうるものであったろうか。答えは、初めて、イエスである。」と「松岡氏
は、日本の国民感情をいうが、それでは、国際的紛争における正邪の判定者は、日本の
国民感情なのであろうか。平和を守る機構としての国際連盟の規約は神聖であり、これ
を反故としてはならぬ――。」と顧はいうのである国連連盟での松岡演説は輝いていた
「人類はかつて二千年前、ナザレのイエスを十字架にかけた。しかも、今日、どうであ
ろうか。諸君は、いわゆる世界の世論なるものが誤っていないと保証できようか。我々
日本人は、現に試練に遭遇しつつあるのを覚悟している。ヨーロッパやアメリカのある
人びとは、いま二十世紀における日本を十字架にかけんと欲しているのではないか。今
諸君!日本はまさに十字架にかけられんとしているのだ。しかし、われわれは信ずる。
固く固く信ずる。わずか数年ならずして、世界の世論は変わるであろう。しかして、ナ
ザレのイエスがついに世界に理解されたごとくに、われわれもまた世界によって理解さ
れるであろう、と。」松岡の英語を存分に駆使した演説は、一時間半に及んだ。彼が、
サンキューといって演壇から下りたとき、会議場をゆるがすような拍手が一斉にわき起
こった。それはまさしく感動的な場面だった。自分の席に戻る松岡に、フランス代表の
ボンクール陸相、イギリスのサイモン外相らが、つぎつぎに席を立って、松岡に握手を
求めにやってきた。イギリスの陸相でやはり代表となっているヘールシャムは、松岡の
肩に抱きついていった。「すばらしかった。三十年間も外交生活をしているが、こんな
演説は初めてだ。」とも言った。また、のちに感想を求められたサイモン外相は、あれ
は松岡にとっては、演説というよりも詩であったといい、ボンクールは、ヴェルサイユ
におけるクレマンソーの猛虎演説に比すべき歴史的雄弁だ、といった。事実松岡の雄弁
は、総会の空気に微妙な一石を投じた。日本に対して、同情的な空気がいくぶんか生じ
てきた。四国決議案をそのまま表決に付するのは、好ましくないという意見が増えてい
きてきた。イギリスやフランスにとっては、これは歓迎できる兆候である。日本にとっ
ても、表決はさけた方がいい。そこで妥協案が生まれていた。従来どおり、日本を連盟
の中で日本の軍拡を止め、島国を鎖につないでおき自由にさせないで自治させず。アメ
リカの利益に沿って、ドイツを抑えたい。という事だった。この時日本を抑えられたら
、恐らくはドイツやソ連の包囲網となったであろう。その大幅譲歩案がリットン報告に
絡む決議で、世界の声となることだった。日本のとる道が植民地主義に反対せず、欧米
列強が大恐慌から復帰復興するまで時間を与えれば、叩くことは出来る。とみていた。
その大きな要因がメキシコ油田の発見採掘であったのは他でもない。


133: 名無しさんAA:19/11/03 22:01
   歴史の群像     210

 日本に国連から中国の訴状案がきて、その弁明に松岡が出かける時、何ら他国の情勢
が掴めなかった。情報部長の伊藤述史のように、英、仏、独の三ヵ国語をこなしての、
八面六臂の大活躍をするものもいることはいたが、それはごく例外であった。ほかの国
がこの事で、どういう動きに出るか、どういう理由でどうなるか。予想しそれを事前に
つかんでくるような、機敏な外交官は一人もいなかったのだ。その意味では既に日本は
腐った軍政府となっていた。「外交官に連盟の内部に深く喰い入っているものはいない
か、あるいは、小委員会の誰かに特別懇意な人はいないかと物色してみた。しかし、ほ
とんど見当たらぬので、大いに失望した。こうした大事な場合に備えて、かねがねから
深く関係をつけておかなくては、イザとなってホゾをかむのは当たりまえである。迂闊
千万といわざるをえない。これでは情報を探るにしても、また工作をほどこすことも、
全然手がかりなしである。」と、嘆いていたのは、随員の一人だった土橋の回想である
。全く松岡が人事を、か探り回し既に国体毀損を行っていたのだ。アメリカで一九三五
年(昭和十年)に中立法は制定していた。これは、大統領が外国間の戦争状態が存在す
ると認めたとき、あるいは内乱が重大化したとき、交戦国や内乱国に、武器または軍需
物資の輸出を禁止するという法律であった。スペイン内乱にまず適用され、この年の五
月には修正強化された。もし、この法を米国が発動すれば、日本はアメリカから鉄その
他を輸入できなくなる恐れがあった。中国への軍事物資の供給は、それを狙ったもので
先倒しした契約だった。又逆に、日本での、実際は戦争状態であるにもかかわらずに「
日支事変」と呼んでいて、宣戦布告しなかった理由の最大のものは、この法があるため
だった。と言う理由もあった。既に日米とも軍事加工品原料の貿易中止が日本の急所で
あると認めていたのである。しかしアメリカ国内の世論は依然としてモンロー主義の中
の意識にいた。だが政府首脳や軍部などある程度の知識層では、日本軍の侵略に対する
非難の声は強かった。そこで一段とイエロージャーナルに訴えた広報を米政府は行った
。そして、ルーズベルト大統領が出た時は、「中立法を発動すべし。」とルーズベルト
大統領に迫る下院議員もいるほどになり、上院ではルイス議員が決議案を提出した。が
、ルーズベルトは中立法を発動しようとしなかった。その理由は簡単だった。国務長官
のハルが代わって弁明している。「中立法は、交戦国双方への武器などの輸出を禁じて
いる。この場合、より大きな不利益を蒙るのは、武器を国産化としている日本よりも、
アメリカから輸入している中国である。よって中立法は使えない。」と。中国のために
、とハルは言った。しかし実際には、アメリカの対日貿易額は、全ヨーロッパの二倍で
あるという現実もあり、日本との貿易が切れれば国内不安が更に株価暴落を起こす引き
金にもなりかねなかった。アメリカの資本家にとって、大口の輸出先である日本を失う
ことは、決して得策ではなかったのである。ルーズベルトといえども、こうした資本家
のかれらの意向を無視することはできなかった。更にアメリカ国民の中で、まだまだ、
一般の多くのものがモンロー主義に則った考え方を変えていないこともあった。しかし
欧州ではドイツのナチスの軍拡の声が日増しにおおきくなっていた。英国は既に何回も
米国に軍事行動の打診をしていた。幸か不幸か日本はそうした事に無頓着にも靖国神社
の皇紀二千年祭の事で頭いっぱいの中だった。日本が祭りに溺れたときは全く良いこと
は起こらない。これがこれまでの歴史であった。



134: 名無しさんAA:19/11/03 22:35
   歴史の群像     211

十月五日、ルーズベルトは、シカゴで演説した。彼は、「侵略国」という表現を使って
日本およびドイツを伝染病患者にたとえて非難し、国際社会の健康を守るためには、こ
うした好戦的な軍国主義国家を隔離すべきである、といった。これは俗に「隔離演説」
と称された。その非難の激しさは、アメリカがいまにも介入せんばかりであり、モンロ
ー以来の伝統的な孤立主義から百八十度の転換を示すものと受け取られてはいたのだっ
た。しかし、現実には、アメリカは中国と日本の戦争よりは、ドイツの強硬な激しさに
同盟国イギリス・フランスの危機にその注目はあった。松岡は有頂天であった。彼は、
シベリアの荒野を走り続けながら、まさに西の空に沈もうとする夕陽を見ていた。何人
もなしえなかった電撃外交をやってのけたからだ。それも、怪物スターリンを相手にだ
。彼は同乗している新聞記者に喋っている。「これで北の方は心配なくなった。だから
アメリカは、こんどは日本が南進すると思っているだろう。しかし、おれの構想はそう
ではない。六月になったら、おれは重慶へ行って蒋介石と会う。そして二人でワシント
ンへ行き、ルーズベルトと三者会談をする。万里の長城以北を中立地域として、日本は
中国から完全撤兵をする。その代わり、米、中に満州を承認させるのだ。」そう松岡は
意気込んだ。モスクワのスタインハートを通じて、すでに対米工作をひそかに開始して
いたからだ。モスクワにおける成功の勢いをかりて、懸念を一気に解決するつもりであ
った。しかし、そうした行為が裏目に出ている事を悟りもしなかった。英国からの忠告
が来ていたにも関わらず。である。これには昭和天皇も怒り心頭だったようだ。天皇に
は古来より八咫烏と暁烏の二つの諜報機関があったとされている。聖武天皇の密勅によ
り始まりというもので、吉備真備などが初代の頃だとされる。この隠れた情報部隊は、
すでに今の情勢を詳しく天皇に報告していたものと推測される。戦後占領軍のGHQの
神道廃止や境内地の接収、国家主義団体や結社の解散などの、社会政策や神社本庁創設
による神社界の締め付けなどが原因で、八咫烏の財力は大きく削がれ零細化した。しか
し現在でも、八咫烏は天皇・内定皇族の葬儀を担う八瀬童子の大半、皇室の祭祀実務を
担う内定職員の一部、上賀茂神社、下賀茂神社などの非公式神職や民族派団体幹部など
一部にメンバーで細々とあるとされる。ところがある時徹底的事件が起こった。靖国神
社にこの松岡洋右を靖国神社に祀るという国会決議がされた時である。この時昭和天皇
は報告に来た侍従に掃いて捨てたように言った。「松岡ごときのような非国民を祀るの
であれば、国体国民に祖霊に申し訳が立たぬ。この後朕は足を向け鳥居をくぐる事は、
永久にない。」ときっぱり言った。この時天皇の諜報機関や情報機関だった八咫烏と暁
烏は、細々とつないできたのが空中分解となった。と国際興業小佐野氏は言っていた。
恐らく事実であろう。21世紀に新たに八咫烏ができ、スターシードと呼ばれる方策で、
独自に神童の青少年を少人数でもスカウトして神道学の基本教育を受けさせて、任意で
次世代のメンバーに登用しようとしているとされる。しかし頭のいない神道で「神の威
光で統治する」と言う呪術的発想や「軍事力や警察力の行使」と言う汚れた仕事での、
国家制度存立は不可能で、飾りにしかならない。戦後、「公式のものとしての存在を認
めない」と言う世界でも類の少ない「特異な制度」の不採用で現行憲法は成立した。条
文には秘密結社の政治結社は認めない。と公然と書き加えられた経緯でもわかる。古来
から日本は、「神の威光で統治する」「軍事力や警察力の行使による統治」は世界共通
の仕組みの一つであろう。しかし今米国も中国もあるいはロシアすらも認めていない。
ここにはこの法理でも、武力や暴力は使わない。という日本流の相対思想がある。しか
し歴史上大王の本音は、常に直属の武力機関を持ちたかった。というのがあった。明治
政府ができて、民衆は臣民(しんみん)であり、万世一系で皇民とされて、新政府以降
持てなくなった。江戸幕府と共に切り捨てられ、皇族宮家のみが存続した。こうした事
はキリシタンの松岡には解らない歴史だったろうし、この国際連盟に行く時に、彼には
天皇や宮家重鎮の言葉などは、全くに重石にもならなかったであろう。ヒットラーの方
がよっぽど賞賛し重しとしていたのである。


135: 名無しさんAA:19/11/04 09:13 ID:jA
   歴史の群像     212

 世界大戦時の時代の変遷はかなりに早く、科学技術の進歩、巨大債務の弁済、国益の
ある交易・貿易の流通、さらに油や資源と 欧米列強の鍔迫り合いの勢力図、中国性格
の把握と現状の対処 朝鮮半島のテロ行為と、この頃の時点で、半年後の国際情勢を、
ズバリ予測するという人がいたとするならば、その人は嘘つきか、国際情勢をよくわか
っていないかのいずれかであった。それどころか国内情勢すら皇民で一致していた国民
があらぬ締め付けによって不満の内に反乱分子が共産思想を持ち込んできたのである。
そうした、現実に与える変数があまりにも多くなって一義的な分析ができなくなってい
いたといわれる。その上に、分析や予測を、場当たり的な対処を容認してしまって国益
を毀損していった。結果にそうした敗戦を生んだ。本来こういう時こそ、高度な分析力
を持った対外インテリジェンス(諜報活動)が必要になるのだがこれが日本人には出来
なかった教育が荒んだからだ。「日本人はインテリジェンスが苦手だ。」と過小評価す
る向きもあるがそれは間違いだ。日露戦争の明石元二郎や、大東亜戦争の陸軍中野学校
や陸軍参謀本部第二部第八課(謀略担当)、陸軍登戸研究所などの業績などを見れば、
当時、国際水準で第一級の対外インテリジェンスを行っていたことも事実だ。しかし、
残念な事に、このインテリジェンスは政府でなく軍部指導で利用されるものだった。つ
まり国家戦略ではなく一部の陸軍や海軍のものとなってしまい、省庁間を超えた組織と
して機能も利用も共有もなり得なかったのである。そしてそうした軍部は権限はあって
も責任はなかった。戦後でも外務省には機微に触れる情報を入手し、任国の中枢に食い
込んだ外交官は何人もいる。警察庁のカウンターインテリジェンス(防諜活動)も世界
最高水準だった。サイバー・インテリジェンスにおいても自衛隊は高い能力を持ってい
る。しかしそれはおいそれとは内閣さえも出せないものだった。お馬鹿議員のみならず
大臣さえも、認識も教養も感覚も知見も全てが人間性において一般以下で不勉強不慣れ
の大臣ばかりであったからだ。戦後一時を除いて無関心主義が人気投票の議員に変えた
からだ。今もに民間の総合商社、新聞社、大学などの組織、独自の人脈を構築するのに
長けたロビイストが機微に触れる情報を持ち、的確な分析や予測を行っている事例も少
なくない。しかしして、これらは過去の話で明治期と戦後期だけの話で、遺物や遺産と
して続いているだけで何ら実力はない。途中にも優れた諜報員はコマ切れして輩出した
。しかし、それらは軍部拡張にしか利用されず、国家戦略としては機能しなくなってい
る。表だって上層部の失敗が公けにならず経験として蓄積する機能がないからだ。その
まま隠し通して利用されず終わった。こうしてこれらのインテリジェンスは総合されず
、日本国家と日本国民のために有効に用いられたことは、戦前も戦後もなかった。対外
諜報や相対諜報に従事する外務省、内閣情報調査室、警察庁、防衛省、公安調査庁など
の垣根を取り払うのに一番の障害物は大臣の人格であるし、高級官僚の意識である。か
つて北朝鮮の金正男が日本に拘留された。この時も簡単に映像に撮られ、更に放映され
て、田中真紀子は大慌てで勝手に釈放したのである。何ら報道管制も敷かず、拉致被害
者の事も考えず、仮に時の総理の小泉に相談や提言したとしても、この事を持って米国
を動かし拉致被害者救出に向かったり、金正男政権樹立を画策しただろうか。おそらく
そうした器量ある大臣など一人もいないであろう。口では簡単にPKOに行け、イラク
に派兵だ。などと行ったが、現実はいまでもどこかの料亭で老人会を開いた様な飲会を
開いているぐらいの調子であり、これまで情報や諜報で内閣を支えてくれた文官と共に
国際的なシンクタンクを立ち上げるとか、国際情勢分析に多くの情報を披露し民に享受
させる。というような仕事をしない。つまりそこらのゲートボールおやじと同じ、議員
年金で悠々と贅沢三昧の暮らしを満足する馬鹿人間でしかなく、国を思う気持ちなど、
一かけらもない有様なのだ。少なくとも田中角栄はそうしたものをつくれない環境にな
ったが中曽根や小泉あたりは長期政権を担い、そうしたシンクタンクを作る責任があっ
た。




136: 名無しさんAA:19/11/04 10:08
   歴史の群像     213

 「国益のために団結せよ」という指摘は明治時代からなされている。省庁間の壁を打
ち破る事や議員派閥や与野党障壁をいまだ超えていない現実が的になる。しかし今後も
無理だろう。首相官邸に直属する新設対外インテリジェンス機関を構築することが日本
の不可分の生き残り方法だが、それができていないのだという声がある。又、この作業
には、かなりのリスクと時間をかけなくては完成されないし構築できない。民主主義や
自由主義において、この必要度は高く、無責任総理を作ってきた自民党の怠慢が、この
日本的哲学的構築さえもが完成されていない現在を作っている。その中で米国などでは
、着々と7つの部署が国内国外共に監視をして指導・警告・策定・提言を行っている。
FBIやCIAはおなじみだで、日本人の多くが憧れたスパイ映画の主要テーマだ。国
外をCIAと国内をFBIとして安全対策室的な役割分担している。日本にも検察庁や
自治省はある。だが日本との大きな違いが、金融や経済までも取締り対象であり、日本
でいう外務省の管轄となる部分だ。新技術や海外の特許品の抑え込みまでをも行うこと
は知られた通りで、通産省つまり経済産業省すらも監査する。そもそも連邦準備捜査局
(FBI)は日本での警察・検察である。だが汚職や欺瞞政治家の捜査には、大きく隔
たりがある。それは法律の壁もあるが、海外への調査がなってないのである。安全保障
長官は安全保障会議の主要閣僚だ。日本でも国家戦略室なるものが出来たが、真似て非
なるもので、いまだかって白書もなければTV出演しアピールしたり国際社会に提言し
、NPO(国際非営利団体)の信頼や信望を得る事はやっていないし、これからも武力
も持たない日本の憲法下で平和活動啓蒙活動は不可能であろう。仮にクルド支援を声明
しても予算どころか派兵の安全すら保てないからだ。米国国防長官は米国の国防総省の
長で、陸・海・空軍の長官だが、他にも海兵隊や州兵の長官でもある。日本の防衛長官
との違いは、州兵つまり、歴史的に州の合衆国加盟前の国防を担ってきた形を今だ存続
させている兵も動かしている事だ。日本では地方自治体がかつて持っていただろう自治
の要の留置所は全く防衛省の許認可なしに廃止されていたりしている。おかげて警察の
出費は多く地方自治体は有り余る予算で街を拡大させるという愚挙である。合衆国国務
長官は、外交通商国家行事行政長官で外務大臣に当たる。しかし他に国土安全保障長官
がいて、沿岸警備隊、国境警備隊、シークレット・サーヴィス、連邦緊急事態管理庁の
長官などを担う他の部署を持つ。つまり日本の官房長官の役割が別に国家安全保障上に
いる。ではこの日本の声明を出す官房長官はと言えば、他に大統領補佐官という役職を
設定している。この形を今トランプは壊して日本のような形に変えている。つまり独裁
に近くしたのである。複雑怪奇な巨大予算の整理なのだろうが、果たして解りやすいの
がいいのか解りづらいのがいいのか。かつて、ヘンリー・キッシンジャーは、国家安全
保障問題担当大統領補佐官で、国務長官に任命され兼任し、国家戦略を敷いた事で知ら
れる。CIA長官は中央情報局長官と訳される。国家安全保障局、国家偵察局、国防情
報局、各軍情報部、財務省情報部、エネルギー省情報部の統合長官などを部下にもつ、
すなわちこうしたずば抜けて幅広い科学的文化的諜報分析機関はアメリカにおいて他に
ない。日本には到底存在しない諜報機関が存在する。しかしこれらの機能が充分果たさ
れいるか。といえば、トランプのような視野の狭い大統領では、生かされていないのが
目に見える。クルド問題、ロシア問題、中東アラブ問題、朝鮮問題に解決法を見出して
いないのは、アメリカとて同じように愚才の無能な大統領を生む危険が起こっている事
を示している。


137: 名無しさんAA:19/11/04 10:43
   歴史の群像     214

 よくKGBやMI7などとも比較される。ところが、共産国と自由主義国の違いは、
随分とある。大統領という職分に忠実にあって、証拠隠滅はあっても、おいそれと殺人
などは犯さないという大前提がある。ところが、米国は自由主義の筆頭に挙げられそう
だが、実は本当の自由主義国ではない。政府規制においては他の中小諸国の方が法に適
う行政を行っている。例えば日本と米国のノーベル賞受賞者をみても一般企業からは余
り違わない人数で受賞し、米国や他は国の研究体系の中にも国の補助も多く盛られいる
。軍産複合体の中の研究機関として機能しているものも多く中国に大差にない形にある
。つまりは、中国にしてみれば、今の自米国のと中国の国有企業の公司と変わりないで
はないか。という反論が出てくるのだ。だがそれは、他国が悪いから自国も悪くあって
いいのか。という問題で50歩100歩だから悪態のままというのも困る話だ。ソ連の
崩壊時期にチェルノブイリ事故とスリーマイル事故が起こったが、この事故の違いが良
く国の違いと言われる。今では福島原発事故も、その国の特有の事情をよくあらわして
いるのかも知れない。軍事的上司命令の試験運行で大爆発した原子炉と経済的理由での
過剰運転で爆発する原子炉さらに地形的災害に対応もしないで爆発した原子炉という、
それぞれの事故だった。トランプはかつてジェームスモンローが唱えた「それぞれが、
それぞれの国を防衛しなさい。」と言う方向で物をいう。しかしそれが言える権利を、
米国は持っていない。自衛をする日本に干渉し、戦争を起こさせる画策し、兵力放棄し
た宣言を日本に強制した国に言える言葉だろうか。「アメリカは、もはや、世界の警察
ではない。」とは方便であっても言える筈のない歴史をもっている。この事を米国人は
重く強く解っていなければならない。今でも中東もアフガンもベトナムも壊したのは、
米国であり米国はそこを平和に引き戻す義務と責任を持っている。日本でも日本人は、
江戸から綿々と続いて来た伝統や秩序があったが、未だ取り戻していない。アメリカが
勝手な国内事情で、孤立主義の共和党と国際主義の民主党が交互に政権を担い、民主党
時代に起こした戦争の歴史だ。と国内向けには通用しても国際社会には通用しない。そ
れは米国民内の事情であって何も他国への干渉のルールとはならないからだ。戦前も戦
中も戦後も今まで、日本の正義を貫く姿勢を持って生きてきている。それをこうも引き
裂いていながら、今更アジアの北朝鮮すら叩けない弱腰では困るし国際社会の為になら
ない。そうした事をやり続ける限り益々平和協調が難題になってしまう。正解を言えば
大国はアメリカでも10州ロシアなど15州中国では8州程度に細かに別れて独立すべ
きであろう。というのもこの超大国三国は、鎖国しても成り立つ国で全く協調心がない
。一体何を目標に敵対し、一体何をどうしてるかまったく不明の核大国三国は、公害の
問題すらも自らの国民すら何をどう思っているか不明のままで推移している。地球の中
で大国が出来る最大のメリットが地球保全である。なのに大国がこぞって反対している
。なんという無様で情けなき姿であろうか。鎖国でも、十分食っていける大国と、日本
のような微々たる軍事しかない国では大きく違う。しかし、共生社会と認識しているの
かどうかが違うのでは困る。小さな国の苦境も地球規模の変革や自然災害なら、いずれ
自国にもおこるものだ。今まで日本人がハワイの真珠湾攻撃をした経過を全く間違えて
米国流で解釈している。いうまでもなくハワイはまだハワイ王国の地で米国の国土では
なかった時から日本は移民をして殺されている。アメリカ流の歴史で綴られるが、実は
ハワイの革命期は、工業化でも民主化でも人権問題でも経済問題でもなく米軍に強襲さ
れた。米国からの移民の白人優位主義者の脅迫観念が生んだ危機意識が米軍を動かした
のである。今の中国の南沙諸島の無人島の軍施設建設と同じである。およそ海洋諸国の
意識と違う大陸文化の野蛮な領土拡張意識のありようであろう。


138: 名無しさんAA:19/11/04 12:27
 韓国国会の文喜相議長は、4日日韓の懸案である韓国人元徴用工らの訴訟に絡みて、
日韓の企業と個人から寄付を募り、韓国で日本企業相手に訴訟を起こした元徴用工らに
支給する内容の法案を作ったと述べた。ところが述べたのは日本にやってきての事だ。
まったくバカにしている。文喜相は日本に来るな。こんなバカで嘘つき議員を何故日本
は国内に入れるのか。自民党議員も頭がどうかしている。歴史認識も間違えているなら
ば、言ってることも天に唾はく非人道で暴力的恐喝以外なにものでもない感覚である。
これが韓国の一般的性格かもしれないが、過去の行状も言動も残らねば免責されると勘
違いしているし、日本が手をさし忍べててもナイフをかざし切り付けておきながら今だ
鞘に納めず、右手にナイフ左手に握手である。こんなバカやアホウと日本人は話しては
日本人に伝染する。決して言葉を交わしていけないし会ってもいけない。嘘つきは嘘の
行為の戒めを知らねばいつまでも嘘をつく。朝鮮半島の南北戦争で逃げ延び悲痛に暮ら
し、戦えなかった苦しさや無念の韓国民の先祖の思いが今の文政権には全くないし、こ
の議長にしても全く歴史を理解していない。この日本で在日を捨て帰化し日本人となっ
た苦しみを韓国民は共有していない。以下に北朝鮮が李承晩政権が非道であったかを悟
らねば韓国は前進しない。もちろん倍晋三政権は即座に拒否した。とは言うが、この、
はなはだ不見識で醜く、自己主張のみしかしない従ってひとのいう事に聞く耳のない国
が、20カ国・地域(G20)国会議長会議に出席し、会場の参院議員会館で、こんなバカな
話を堂々と記者団に語ったこと自体許されない。韓国内でコンセンサスをも得ず、軽々
と物をいい、実際に法案を国会に提出できるかも含め、実現性のない話をどうして日本
でかたるのか。何様と思っているのか。バカやキチガイの類の韓国議長である。





139: 名無しさんAA:19/11/04 17:37
 又韓国人は嘘をつく。安倍首相と文大統領は、ASEAN(東南アジア諸国連合)での日中韓
3ヶ国による首脳会議の開始に先立ち、控室で椅子に座り、およそ10分間言葉を交わし
た。両首脳の会話について、韓国側は、「懸案は対話を通じて解決しなければならない
という原則を再確認した。」と発表した。がしかし、日本側は、「2国間の問題に関す
る、わが国の原則的立場をしっかりと伝達した。」と発表し、立場の違いが鮮明となっ
ている。安倍首相が、元徴用工問題をめぐり、国際法違反の状況を韓国側が是正すべき
だとの立場をあらためて主張したものとみられる。とニュースが出た。そもそも韓国の
大統領の権限は日本の首相の地位どころではない大きな地位である。それが次々とその
席に座るたびに不幸な境遇に陥る。いったい何故か。嘘つきばかりで人を陥れて止まな
い精神がそこにあるという、胡散臭い文化を醸成してきたからだ。よく韓国一番主義と
か歴史上の最初の発明発見だとか言う言葉が出るが、その根拠となる文化遺産は、全く
保護されないどころか資料が都合で廃棄され、政権の都合で政治家どころか学者さえも
暗殺される。そんな独裁の国を作る大法院を成敗も制裁も改革もなしに日本に向けて、
よろしくなどと言えた義理ではなかろう。それは市中の新聞はじめ教科書共に国際常識
を逸脱した添付と嘘の歴史を満載しても全く恥じても悔いてもいない人種的感覚による
。この徴用工問題は竹島問題と同じである。国際社会特に米国の制裁が無いことや批判
がなければ人畜に劣る行為も可とする思想であろう。まったく北朝鮮のミサイルと同じ
構図である。米国は、第二次世界大戦では無差別都市攻撃、大量破壊兵器原子爆弾投下
さらに潜水艦の警告なしの通商破壊攻撃、米国帰化日系人の強制収容と、数々の国際法
違反してまで日本に勝っている。その理由は大統領声明では自由を守り、人類の平和を
願わんが為の人道上の正義の戦争と銘打ったものだった。なら今でもその戦後社会を、
その標榜の下で築いていく責任がある。日本はソ連からやってくる赤化思想の南下抗戦
に国際社会の求めで行ってきていたし、何も宣戦布告しても非人道的国家行為は何一つ
優勢で行ってはいない。つまり、いまの中東やアフリカが欧州文化の責任なら、ロシア
中国の台頭とこの朝鮮半島の嘘つき民族を抑えるのは米国の責任だ。ベトナムのライダ
ーズの問題も不埒な韓国軍を指導できなかった米国にも責任はある。


140: 名無しさんAA:19/11/04 18:06

 そも中韓の言い分は全く筋が通らない。自ら署名した条約で最終的決着を見たと何回
も声明や表明しながら、こうした国際条約さえ反故する人間が、日本人が勝手に参拝し
ている靖国神社に文句を言い、今でも日本の象徴軍旗である旭日旗にいちゃもんをつけ
る。恐ろしく身勝手な言い分でこれは誰彼吠える狂犬より悪い鬼畜症状である。そうし
た情勢で終わったことを持ち出して、話し合いしましょうなどとはアホでもしない行為
と言動なのだ。香港市民が怒るのはそこにある。まったく言い訳や抜け穴を巡って強権
発動し、今ではマスクも法に触れるなど馬鹿をやる。香港長官ももし辞めたいのなら、
我々は香港人だ。大陸の強制には従わない。独立はしないが一国二制度を堅持して昔の
香港に戻す。と発言すれば済む話だ。常にゴールポストの移動やサラミ輪切りの薄い話
でその場しのぎして国が人類が繁栄するはずもない。

141: 名無しさんAA:19/11/04 20:52
  歴史の群像     216

 天草四郎がキリシタンで迫害された。と教科書には載る。しかし、彼も又日本人を売
り、その金で武器を買い武装していた。つまり、宣教師の手先となって動いていたのだ
った。明治維新の先駆けだったろう。当時から西洋人は肌の色が違うだけで、動物なみ
の扱いを同じ人間にしている。今の欧州の大富豪は、ほとんどが過去に人身売買で巨万
の富を形成してきた大富豪の子孫たちだ。この思想は奥深く、日本に入って来てしまっ
た時、日本でも1900年(大正天皇)から日本人(からゆきさん)を海外に売り一人当時
のお金で2000円と言う高値で売り儲けることが起こった。欧州から学んだ商売だったの
だろうと思われる。西洋では、戦争等で他人種、他思想の人を虐殺、することは多く、
今でも肌の色の違いでの差別は残る、日本でも天皇が同じ国民を、同じ思想で、しかも
神道を敬う皇民を売りとばし、金儲けをしていたとは驚く話ではあるが、実は大正天皇
は全く存知しない行動が軍部にあったのである。しかしこの頃の地球の歴史では日本は
いいほうだったと言える。と言うのも女衒の孤児買いは本人認知だったからだが、朝鮮
では相変わらず貧民層の所払いにおいて捕縛監禁売り飛ばしが強権で行われていたから
だ。「バテレン追放令」の第1条は、「大唐・南蛮・高麗(こうらい)へ日本人を売り
遣わし候こと、曲事(くせごと)たるべきこと。付けたり、日本において人の売り買い
停止のこと。」現代語に直せば、「大唐・南蛮・高麗へ日本人を売り渡す事は違法行為
である。加えて、日本で人身売買は固く禁止する。」という意味になろう。実は、この
「バテレン追放令」は原本が残っておらず、多くの写しがあるに過ぎないが数多くが同
じ文言である。孝明天皇も強い攘夷(攘夷=外国は入れたくない)派で、その子の明治
天皇が突然に、イギリスから勲章を貰い騎士団に入隊し軍服を着、日本古来の神道を心
に宿す国民が、アヘン商売の行き詰まりに、若い少女の海外売りとばしを認めさせた。
日本人には馴染みのない商売だったが遊郭がある以上黙認するしかなかったのである。
日本銀行はここで、金貨の流出を食い止めるべく三井に悪貨鍛造と三菱に造船以来更に
紙幣の発行を模索して日本経済立て直しを図った。イエズス会ザビエルは山口の大内家
に1551年から接触し男色家の拝火教に似た太刀持ち制度には大きな不満と批判をしてい
る。しかしアフリカから船で輸入される奴隷達には多くの性交渉が強要されている。秀
吉はいう。「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア
人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷
として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為であ
る。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行った全て
の日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに
不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。
予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」と。日本は他と違い重婚や強姦などには
寛容であったが、事身売りや奴隷には厳しかった。実は奉公人制度があって、奴隷に近
い下働き制度はあったが、暴力や束縛には厳しかったのである。つまり身分保証や食料
や糧は絶対の保障せねばならなかったのだ。戦場でもそれは同じだった。多くの身売り
は、戦場となったり、災害となった糧を失ったものの移動であり、転職だったからだ。


142: 名無しさんAA:19/11/04 20:53
  歴史の群像     217

 秀吉の日本人奴隷売買禁止の執念は、9年後の慶長元(1596)年にようやく結実
することになった。同年、イエズス会は奴隷売買をする者に対しての、破門することを
決議したのである。次に、その概要を示すと、時の司祭であるセルケイラの前任司教の
ペドロは、当初は長い年月の慣習により、ポルトガル商人が少年少女を購入し日本国外
へ輸出する際、労務の契約に署名するなどすれば認可を与えた。しかし、日本の事情に
精通すると、奴隷とその労務年限から生じる弊害を看取し、インド出発する前、破門令
を定めた法を作った。秀吉の意を組んで、インドのアジア総括の司教が発令したものだ
。その破門令は、長崎で公表され、当該法令は、その権を司教一人が保留し、その行為
自体により受ける破門の罰をもって、およそポルトガル人が日本から少年少女を購入し
て舶載することを厳禁した。そして、その罰に加えて、買われた者の損害(購入代金は
返金されない)以外に、各少年少女一人ごとに十クルザードの罰金を科した。のである
。キリスト教の破門はそう大きな障害にはならないだろうが、実は宣教師の資格を失え
ば、国民の地位はなく、無償で載せてもらう船はなく、輸出入商売もできないのである
。これは帰国できず教会にも行けない事を意味していた。つまり墓にも入れて貰えない
究極の恥だった。破門を命じる権限は、司祭がただ一人有する。解放された少年少女に
は、当座の生活資金として10クルザードが与えられた。今の10万円くらいだろうか
。秀吉の九州征伐に至るまで、イエズス会らは日本人奴隷の売買や海外への輸出をやむ
を得ず容認する立場であった。がしかし、秀吉からの強い禁止の要望により方針を転換
せざるを得なくなった。日本人奴隷の売買禁止は、司祭の交代とタイミングを合わせた
。人身売買を継続することで、教会はキリスト教布教が止められる事が恐れられた。つ
まり「自衛手段」であったのだ。「いかなる人物であれ、ただの一人でも奴隷購買には
許可を与えないという宣告である」とまで明記されて、まさしく教会側不退転の決意で
ある事を示していた。ところが一向に解決はしなかった。秀吉が病没した翌年の慶長3
年には、奴隷輸出をストップするための努力がさらに求められた。問題だったのは貪欲
の虜(とりこ)になったポルトガル商人達で、戦国期の農民達や戦争孤児の、日本人や
朝鮮人をタダ同然で購入し、毎年のように輸出することが、キリスト教の悪評を高める
ことになっていた。この場合の「朝鮮人」とは、文禄・慶長の役で日本軍が朝鮮半島で
拉致した朝鮮被虜人という。翌年の慶長2年には、司教の意向を受けて、インド副王が
ポルトガル国王の名で、勅令を発布した。それはマカオ住民の安寧と、同地で行われる
紊乱(びんらん)非行を避けるなどの目的があった。「朕(=ポルトガル王)は本勅令
により、本勅令交付以後、いずれの地位にある日本人といえども、それをマカオに居住
せしめたり連行されることなく、また他のいずれの国民であっても拘束・不拘束にかか
わらず、奴隷として連れて来ることを禁止する。」としたのである。その後日本人だけ
ではなく、その他の国の人々も対象となった。この後に続けて、刀輸入も禁止し、これ
を発見した場合には厳しい処罰が科された。その罰とは、ガレー船に拘禁させられる。
というものであった。このガレー船は長崎にも多く出入りしていた。

143: 名無しさんAA:19/11/04 20:53
  歴史の群像     218

このガレー船がハワイにも寄港していて、これまで見てきたようになし崩し的な米国の
意思を日本政府に伝え、又日本に明治政府が出来た事が、ハワイに伝わっていたのであ
る。こうしてしかるべき手続きにより、明治新政府が容認されていたという事実がある
。これを改めて法的に確認したことになると考えられる。ハワイでは、日本人のこうし
た昔からのつながりや移民と違っていて、アメリカ人らは白人優位主義のまま入植者と
してやってくる。1893年にアメリカ人は本土を制圧し、原住民を追い払った革命が起こ
った。裕福なアメリカ型社会を望む入植者が国王の兄弟を焚きつけて内紛が起こったの
だ。こうして海軍や兵を投入して鎮圧し国王を退陣させて、米国の属国化を成功させた
。こうして共和制を引かせてアメリカ合衆国に併合されるに至り、ハワイ王朝は消滅し
たのである。そのきっかけとなったのは、アメリカの白人がサトウキビ畑栽培のために
入植したことであり、かつては日本に親善を求めて日本に防衛や婚姻を求めたハワイの
国王だったが、フィリピン同様に公に助けるほど日本の明治政府には国力や兵力はなか
ったのである。1887年には遂に白人によるクーデターが勃発し、ハワイ王国の滅亡は始
まることとなり、時のアメリカ大統領がハワイの米国領への編入を宣言、イオラニ宮殿
に掲げられていたハワイ王国国旗が降ろされ、星条旗が揚げられる結果を生んだ。古来
からの原住民であるハワイ住民らは、この時には悲しみの声をあげたし、その後日本に
亡命してきた移民もいる。。ハワイの歌として誰でも知っている「アロハ・オエ」とい
う歌があるが、この歌は、ハワイ王朝の最後の王であったリリウオカラニ女王が作詞・
作曲したものであるとされている。ハワイ王朝の最後の王妃であるリリウオカラニ女王
が、愛する祖国を失う悲しみや無念に思う気持ち、それに、ハワイの人々を思いやる愛
する気持ち、感謝の気持ちを歌にしたものでその思いが自然と伝わる歌詞であり曲だ。
ちなみに、アロハとは、愛する気持ち、オエとは、あなた、という意味になる。ハワイ
が本式に米国の準州となったのは1959年、50番目の州としてハワイ州が成立したのもの
である。つまりアメリカ軍が攻撃されたが、ハワイそのものはまだまだハワイ人のもの
だったのである。つまりよくナチスや日本の枢軸国の領土拡大化の野望などと言ってい
るが、それはアメリカ自身の事で、日本やドイツ、あるいはハワイやフィリピンなどは
ベトナム戦争のあったついこの頃まで、欧米人の奴隷化構想の下の奴隷のまま、偏見の
に満ちた人種差別意識の人種隔離政策のままの白人社会がもたらした脅威だったのであ
る。実はこの太平洋戦争は蒙古襲来に似た戦いだった。世界VS日本あるいは蒙古思想
VS鎌倉幕府はまったく同じものに見える。つまり今でこそ日本は世界に組み込まれた
政府組織だが、それまでは全く世界から極東の小さな島国を屁とでも思わなかったし、
逆に日本も、世界なんぞ知識の一つでしかなく、現実にどうこう出来るとは思っていな
い。大群の蒙古襲来でも一人の武士一人の若武者が立ち向かうような、そんな物怖じし
ない国民性で成り立っていた時代背景があったのだ。言わば昭和の敗戦まで全く鎌倉の
時代から変わらずに生きてきていた。ともいえるのである。ブラジル・リオデジャネイ
ロで見つかった、カトリックのイエズス会の書物はそうした事を物語っている。


144: 名無しさんAA:19/11/04 21:03
  歴史の群像     219

 日本に明治政府ができて独立を宣言した時、どこの国も独立国として認めなかった。
自治国とは認めていたが独立国とは認めないとはどういう事か。端的言えば西洋の国の
ような地位を持たない国としての国を認めるといったものだ。当時メキシコやインドと
同じである。地域や国としてしては認めるものの、武力や防衛力ない国は列強の取引の
材料でしかなく、自治も独立も形の上では認めていても、いざ外交貿易となると違った
。アジアは植民地としての思惑がある中で、中国と同じに占領する意図があったからだ
。そうした中で外交文書や協定協約はその後の日本の政府を困らせた。いわゆる不平等
条約の撤回や条約改正である。ところがこれを可能にしたのがハワイ王国との外交であ
った。当時の太平洋横断の船旅は活発ではあったが、ハワイは水・食糧の中継基地とし
て大きな地位を持っていた。これが崩れ去るのが、石炭から石油に変わった為だ。石炭
は通常の土地通常の家で保管出来た。しかし、石油は水の様に扱いに便利だったが同時
に鉄のタンクや貯蔵施設が必要であり港湾から外れてはできないという、過大な出費や
投資を伴う施設だった。その意味でアメリカには、ハワイ国王が見識が高く、日本との
交流や親密さに危機感があった。明治政府が出来て最初の来賓となったハワイ国王だっ
たが、日本の朝廷と縁故になりたい縁戚を作りたいと希望していた。もともと、カメハ
メハ1世がハワイ諸島を初めて統一した1810年頃は、誰の国でも無かった。というより
は、西洋に認知されてない島国だった。ここにハワイ王国を建国し、初代国王となった
人物がカメハメハ大王である。「カ・メハメハ」はハワイ語で「孤独な人」「静かな人
」の意味だが、およそこれまでのハワイの地位を物語。ハワイ語は文字を持たない言語
民族だったので、この時初めて文字教育が施行されたといってもいいだろう。カメハメ
ハは巧みな外交手腕で、イギリスやアメリカ合衆国などの西洋諸国との友好関係を維持
し、ハワイの独立を守り通した先駆的島だった。伝統的なその文化の保護と繁栄に貢献
し、大王が作った「ママラホエ」と呼ばれる法律は、戦時における、非戦闘員の人権を
保護するもので、今日では世界中で受け入れられている先駆的なものであったという。
副王としてカメハメハ2世、および3世を補佐して旧習撤廃に努めたカアフマヌがいる
。1789年冬に、アメリカ人メットカーフ親子が率いた、エレアノラ号とフェアー・アメ
リカン号がハワイ島を訪問しトラブルを起こした。この時 100人余りの島民の命が奪わ
れて、事件となった。この恨みを持った首長カメイアイモクは、フェアー・アメリカン
号を1790年3月3日に襲撃し、乗組員のアイザック・デービスを除く全員を殺害し復讐し
た。これを受けエレアノラ号は乗組員ジョン・ヤングに調査に派遣させるが、ヤングは
捕縛され、やむをえずエレアノラ号はヤングを残して出航し出ていった。ハワイに残さ
れたデービスとヤングの二人は、その後カメイアイモクの振る舞いに激怒したカメハメ
ハ1世によって救い出され、すぐに保護し、自分の軍事顧問として遇した。それ以来に
カメハメハ1世は重火器と火薬の調達にいそしみ自衛の防衛戦力を持った。火器の使用
法や管理法に習熟した白人の顧問を迎え入れた事で1804年には、600挺のマスケット銃、
14門の大砲、40門の旋回砲、6門の小型臼砲を保有するに至り、簡単にアメリカ人も、
手出しが出来ない体制となっていったのである。1789年〜1804年であるから、欧州では
ナポレオンが皇帝になる時代アメリカが初代リンカーン大統領を迎い入れて独立宣言を
する時代の話である。日本では・伊能忠敬が1800年に日本の測量を開始し、1808年間宮
林蔵 が樺太を探検する。という徳川幕府の文化年間の頃で、享和3年 1804年 文化元年
ロシア使節 レザノフ 、長崎に来航し、前後して文化露寇(ぶんかろこう)があった頃
だ。日本は1600年代より交流しない鎖国政策で1700年代の後半からロシアや西洋列強が
開国要求にやってきたが、散々悪態を放ち砲艦外交や威嚇強要の恐喝交渉を国も個人も
行っていたのは、何も日本にだけではなくハワイでも起こっていた事だったのだ。



145: 名無しさんAA:19/11/05 05:00
  歴史の群像     220

 ハワイ諸島は太平洋の真ん中にある事から、列強の格好の寄港地となっており白人も
多く住んでいた。当時の移民政策では、労働は有色人種、流通や商売は白人商社と相場
は決まっていたようだ。従って白人が10人やってくれば、黒人奴隷が100人連れて
来られるという姿だった。この白人優位主義が損なわれる事件が起こった。ボーア戦争
である。植民地主義の崩壊となった事件は多い。中でも欧州の宗教戦争で海洋を超えて
逃げていくユグノー資本がアフリカに国を作ってイギリス資本に乗っ取られまいと戦っ
たムーア戦争は、その後の世界大戦の形を作った云わば第一回目の近代世界戦争であっ
た。19世紀に、17世紀頃から移植してケープ植民地に入植していたオランダ系移民達の
子孫は、ボーア人と呼ばれていた。彼らは、アフリカ南部の支配権を巡って、その後や
ってきたイギリスと激しく対立していていた。オランダはドイツ帝国の経済的繁栄に、
あやかり、カトリック勢力の突き上げにあいながらも、英仏の同じユグノー資本からも
脅威と受け止められている程に、豊かな交易繁栄を極めてだった。しかし、イギリスの
ケープ占領とオランダの植民地譲渡により、ボーア人は新天地を求めて、更にアフリカ
大陸内部へ移動せざるを得ず、開拓移動を繰り返し植民を開始し、原住民ズールー族を
駆逐するに至り、1839年にナタール共和国を建設した。彼らのいたアフリカ原住民も又
定住化民族ではなく狩りで移動する民族だったからである。しかし建国後も、あっけな
く1843年のイギリス侵攻により潰えた。それでも又、ボーア人は更に内陸部へ移動し続
けて、1852年にトランスヴァール共和国を、1854年にオレンジ自由国を設立。イギリス
も両国を、交易上で承認していた。だがこの英国の欲望に輪をかけた米国独立がやって
くる。1775年から1783年までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)と、アメリカ
東部沿岸のイギリス領の13州植民地との軋轢の戦争は米国大陸を疲弊させた。現在の
アメリカではアメリカ独立革命もしくは革命戦争と呼ばれるが、それは市民社会を成立
させたブルジョワ革命とされるからだ。1775年4月のボストン郊外のレキシントン
での植民地軍とイギリス本国軍の衝突に始まり、1781年のヨークタウンの戦いでの
アメリカ独立軍の勝利によて事実上戦闘が終わり、1783年9月のパリ条約で終結す
るまでの約8年間にわたって続けられた長い戦争だった。18世紀中頃においてイギリス
がフランスとの激しい英仏植民地戦争を展開していたのがきっかけだった。ヨーロッパ
本土での七年戦争(1756〜1763年)とアメリカ大陸ではフレンチ=インディアン戦争が
おこり、イギリスは勝利を占めたが、この世界制覇の第一歩もそこで生じた国債などの
償還が必要となり、植民地に対してさまざまな課税を強化して、市民は重税にあえいで
きた為の反乱だった。独立軍の苦戦が続く中で、1776年のトマス=ペインが発表し
た『コモン=センス』は、アメリカの独立が人間の権利にもとづく正義の戦いである。
と論じて、多くの植民地人に自信と勇気を与え、彼らが独立戦争に確信を持つことに大
きく貢献していた。そうした中翌年の1777年、カナダから南下したイギリス軍を迎
え撃ったアメリカ軍はサラトガの戦いが起こり、奇跡的に大勝して、戦局は転換する。
それまでフランスは個人的な、義勇軍の参戦の他は認めず、先のインデアン戦争トラウ
マを引きづっていた。貴族の突き上げで密かに武器・弾薬の支援にとどまっていたが、
この時のアメリカ軍の勝利を知り、ルイ16世は大きく舵を切り正式にフランスの参戦
を宣言した。これによってヨーロッパでも英仏間の戦争に拡大した。さらに1779年
にはスペインが、1780年にはオランダが同じくアメリカ側に参戦し、ロシアのエカ
チェリーナ2世も武装中立同盟を掲げた。こうして国際情勢はアメリカ独立に圧倒的に
有利となり独立に至ったのである。しかし、その国債償還の突き上げも大きかった。そ
して結局は金鉱脈の発掘と西洋兵器による防衛が欠かせないものとなっていくのである



146: 名無しさんAA:19/11/05 05:00
  歴史の群像     221

 第一次ボーア戦争は、トランスヴァール共和国をイギリスが併合しようとした戦争で
あり。そのためトランスヴァール戦争とも呼ばれる。この時イギリスは瀕死の経済状態
つまり植民地経営が破綻していた時代であった。トランスヴァール共和国(トランスヴ
ァールきょうわこく)は、20世紀初めまでヴァール川北方(現在の南アフリカ共和国北
部)に存在した共和国で、。1852年にボーア人が建国し首都はプレトリアに決めていた
。このトランスヴァール共和国とオレンジ自由国などは、長年の探索の結果にユグノー
資本が金やダイヤモンドを発掘した土地で、アフリカユグノー資本の資金源となるもの
だった。更に独立戦争(1775年〜1783年)後も南北戦争(1861年〜1865年)が起きて、
アメリカ合衆国の北部と南部諸州との間で奴隷制存続を主張する農業地アメリカ南部の
諸州のうち11州が合衆国を脱退してしまい、アメリカ連合国を結成して、合衆国に留ま
る北部23州との間で国内戦となった。この戦争では史上初めて近代的な機械技術が主戦
力として投入された。ボーア戦争は1839年にナタール共和国を建設し1843年イギリス軍
の侵攻からの怨念がある。1852年にトランスヴァール共和国を1854年にオレンジ自由国
を設立。その後1860年代以降、トランスヴァールで金鉱が、オレンジ自由国でダイヤモ
ンド鉱山が発見され、白人技師が大量に流入。イギリスはこの技師達の保護を大義名分
としてオレンジ自由国を領有化し戦争を始めたものだ。こうして1880年から第一次
・第二次と世界大戦まで続いた。金とダイヤモンドの鉱脈に目を付けたイギリス人の両
国へ侵略した戦争だが、金鉱を抜きにしても、もともとイギリス人とオランダ系の白人
住民であるボーア人は激しく対立しており、大なり小なり争いが頻発していた。別名、
ブーア人、アフリカーナー、アフリカンダーとも呼ばれたボーア人とは、オランダ語で
農民を意味しており、南アフリカ共和国に在住する白人の6割を占めている。ボーア人
はオランダ系南アフリカ入植人を言い、その多くが農民であったことを物語っている。
内陸農民のトランスヴァール共和国は、海沿いを目指した。山の硫黄分がない三角州の
肥沃な大地を欲したからだが、イギリスはこの動きを警戒し、トランスヴァール共和国
との併合を宣言した。しかし、これが発端となり、トランスヴァールは1880年12月16日
に大英帝国に宣戦を布告。これが第一次ボーア戦争(別名:マジュバ・ヒルの戦い)とな
った。そして英軍は1881年に大敗し、プレトリア条約でイギリスはトランスヴァール共
和国を承認するに至った。ところが8年後にも、イギリス人は金鉱とダイヤモンド鉱山
を狙い1899年〜1902年に再び双方は再び対立し、第二次ボーア戦争が勃発しているのだ
。イギリス政治家セシル・ローズは併合を目論み、トランスヴァールの選挙出馬を考え
、トランスヴァール大統領のポール・クルーガーはそれを見抜き、イギリス人選挙権を
制限する。その後、軍事力でジェームソン侵入事件を引き起こすものの、これも失敗。
警戒を強めたトランスヴァールはオレンジ自由国と同盟を結び、1899年にイギリスとの
戦争がはじまった。軍事力差は歴然でイギリスはボーア人との戦争を楽観していた。し
かしベトナム戦同様に民兵による巧妙なゲリラ戦でイギリスは大苦戦を強いられ、最終
的にはイギリスが勝利を収めたものの戦争は2年間にもわたり、多くの犠牲と代償を払
った。この中でイギリス軍は一般人を強制収納所に監禁して2万人以上を死亡させた。
イギリス人の占領や拉致で多くの惨劇を生み出してしまった現代のイギリスのこの行為
は恥じるべく過去の多くの一つとされている。こうした事が数多くあった中で


147: 名無しさんAA:19/11/05 05:01
  歴史の群像     222

「いずれ(アメリカに)併合されるのでは?」と危機感を抱いたハワイは、近代化政策
を進め始めた新興国の日本と同盟を結ぼうと考え、1881年(明治14年)3月にハワイ国
王カラカウアが訪日して、明治天皇と会談した。カラカウア王は、日本との結びつきを
一層強くしたい。姪のカイウラニの婿として山階宮定麿(やましなのみやさだまろ)親
王を迎えたい。と要望している。 当時の、山階宮定麿親王は13歳で、カイウラニは5歳
であった。しかし日本は幕藩体制を倒したばかりで、明治維新からわずか14年である。
人々の生活や感覚は江戸時代と変らなかった。つまり国力増強のために、がむしゃらに
富国強兵と殖産興業を進める中では、他国を思いやるどころか自国さえ危うかったのだ
。日本に余裕はなく、また、アメリカに配慮してこの縁談を丁重に断っている。断られ
たハワイ側はこんな提案をしました。我が国の議会は入植者のアメリカ人が多勢をしめ
ており、また、彼らが持ち込んだ病気などで人口が激減した。このままではアメリカに
併合されてしまいます。日本人の勤勉さを高く評価していますし、我が国のプランテー
ションの労働力として、多数の日本人移民を派遣してくれませんか。とこれについては
日本側は快諾し、その後、続々と解放された移民政策で人々がハワイへ向かっています
。結果的に、日本人移民はハワイの全人口の4割を占めるまでになっていった。なぜ、
カラカウア王はこんなにも日本人を買っていたのか。当時1881年(明治14年)に来日し
、鉄道をはじめ、インフラが主に日本人で運用されている事に驚いていた。当時には、
アジア諸国でも多くの国に鉄道が走っていましたが、ほとんどは欧米人が独占していた
。他にも銀行、船、税関など、あらゆる重要施設はその国に住んでいる国民が運用する
事はできていなかった。各国とも欧米人が独占していた中で、明治維新からたった14年
で、同じ人種(モンゴロイド)が欧米諸国に負けじと頑張っている姿に感動したという
。しかし、こうしてどんどんハワイ王国にやってくる日本人移民に、アメリカは危惧を
抱き、危機感を覚えてた。日本人移民は、いずれ日本政府にハワイを併合するよう働く
だろう。このアメリカ人の日本人に対する危惧は、1893年(明治26年)、ハワイ王宮へ
入植者アメリカ人のクーデターとなって現れる。翌年王国は廃止されハワイ共和国とな
った。この時、日本政府はハワイ在住の日本人保護の名目で、軍艦『浪速』を派遣して
アメリカを威圧した。しかし、この行動がかえってアメリカ人を刺激、アメリカの世論
は更に騒ぎ、ハワイ併合論が多勢をしめ、1894年(明治30年)、ハワイはアメリカ併合
されてしまうのである。しかし、この世論の合併論こそがアメリカのイエロージャーナ
リズムの発症とされる。つまりユダヤの押さえた金融機関の指導によって、アメリカ国
民に危機感をあおり、フェイクニュースを次々に流し、新聞が嘘をつき政府方針を変え
させるという手法が、ここで確立されたのである。この後は次々とこの手の報道がなさ
れ、メキシコ戦争、アラスカ買収、フィリピン独立阻止と色々な形でアメリカの新聞社
は新聞社同志でも戦う姿勢が出てきたし、政府はそれを操って人心を掌握する研究をし
た。米墨戦争は、既にスペインから独立革命を経て独立した中起こった戦争で1846年〜
1848年の間にアメリカ合衆国とメキシコ合衆国(墨西哥)の間で戦われた戦争である。
アメリカ・メキシコ戦争とも呼ばれたが、その後も石油利権から米西戦争(べいせいせ
んそう)を、1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起こしている。アメリカ海軍の
軍艦爆発を機にアメリカ世論の好戦ムードは高まる一方だった中で、アメリカの新聞社
は部数売上の為にねつ造記事を次々と報道し発刊部数を伸ばしていった。



148: 名無しさんAA:19/11/05 05:53
  歴史の群像     223

 カメハメハ4世は1834年2月9日にホノルルで生まれた。とされる。両親はともに王国
の皇帝政治家であり、祖父はハワイ王国の建国者カメハメハ1世であった。幼い頃から
伯父カメハメハ3世によって跡継ぎに指名されて、ホノルルの王宮学校での宣教師によ
る英才教育を受けて育った。この王宮学校は現在も名門校プナホウ学園として存続して
いる。1849年には教育目的で兄ロット・カプイワ(のちのカメハメハ5世)とともに、
サンフランシスコに渡り、パナマ、ジャマイカ、ニューヨーク、ワシントンD.C.を経て
さらにヨーロッパへ行き、多くの国々を巡訪している。1856年、カメハメハ4世はエマ
エンマ王妃と結婚、唯一の子であるアルバート王子をもうけた。アルバートの洗礼は、
イギリスのヴィクトリア女王が名親となり、ホノルルの聖アンドリュー大聖堂で行われ
た。しかし不幸にしてアルバートは4歳で亡くなり、ハワイ全島が悲しみに打ちひしが
れたという。1857年にはフリーメイソンのオセアニア・プログレス・ロッジNo 124のマ
スターに就任した。この白人優位者団体の友愛結社のロッジ支配人の冠を受けている事
は如何に当時のハワイ王国が存在感のある価値ある場所としてもてはやされていたか。
を物語る。フリーメイソン発祥はスコットランドとされる。フリーメイソンの原点は諸
説あるが、中世のスコットランドの原住民が使って掘っていた絵文字や言語に起点があ
る。石材加工業者、石工として職を得て石工の組合での、それぞれが持つ独自の技術の
秘密を守ったとされる。ルーツはあの巨大なストーンサークルまで遡る秘法は一子相伝
だった。欧州人というよりローマ人が乗り込んできた時から仲間内の特殊な暗号、儀式
を使って、よそ者を区別し仲間との結束を高めていた。ヨーロッパ各地では、キリスト
教のカトリックとプロテスタントが勢力争いを続け、更に王家の紛争に薔薇戦争が起こ
る。人々はその血にまみれた時代に疲弊し、そうした中で流行した。暗号や儀式さえ受
け入れれば身分や職業、政治や思想、宗教の流派が異なるものでも、友人として受け入
れるフリーメイソンは栄えた。1738年、ローマ教皇のクレメンス12世は、カトリック
信者のフリーメイソンへの入会を禁止。フリーメイソンに入会した信者が他の宗教と交
わることを危険視して、これを異端とみなし弾圧を行う。これにより、フリーメイソン
はさらに秘密性を増していった。死と再生でイニシエーション(儀式)が編み出されて
秘密の儀式・死の制裁が盟約となった。儀式ロウソクが灯された薄暗い部屋で入会から
上級になるまで、上級会員たちの間にはドクロが描かれた布で顔を隠した儀式を行い、
昇格を志願する会員は、自分の人間性を高める誓いの言葉と宣誓し、上級会員と問答を
答え。ひたすら命令と行動の一方的集団原理が営まれる。ハワイでも急増するアメリカ
系移民は、大勢のフリーメイソン達がサトウキビ経営に当たっていた。しかし移民達は
その組織性から王国が、政治的・経済的に多くの圧力を受けるようになっていた。カメ
ハメハ4世は早くからアメリカがハワイを征服するのではないかと恐れ、通商・貿易に
おけるアメリカへの依存を低めるよう努め、また、イギリスを初めとするヨーロッパの
国々との取引を模索した。しかし彼の在位期間は、十分な効果を上げられるほど続かな
かった。このイタリアに拠点を置くフリーメイソンのグランド・ロッジ「イタリア大東
社のアメリカンロッジとスコッチロッジは、共に融和することはなかった。1863年ロッ
ト・カプアイワはカメハメハ5世となり王位に就いた。この無秩序外国人の労働者入国
の懸念から、カメハメハ5世は移民局が設立させた。労働者受け入れが形を変えた奴隷
制とハワイは非難を受けたが、すぐさまガイドラインが設定され、給料や保証内容など
を含めた規定を作り、労働者の権利を保護した。既に砂糖以外にも米、綿、コーヒーな
どの農作物が試験的に栽培され初めていた。こうした整備で更にハワイを訪れる人の数
も増え、政府はホノルルのダウンタウンにハワイアンホテル( 後にロイヤル ハワイア
ンホテルと改名)を建設した。


149: 名無しさんAA:19/11/06 23:54 ID:EM
「センサーの発動から警備会社が消防通報するまで7分間。」発生翌日の会見で、首里
城を管理運営する沖縄美ら島財団の花城良廣理事長は初動について「決して遅くないと
思っている」と強調した。 当時、首里城にいたのは警備員2人と設備の監視員1人。
センサー発動後に警備員は正殿北側で充満する煙を確認し、消火器2本で初期消火を試
みたが消火はできなかった。消防到着は同発動から16分後だった。この対応について
防火研究専門の関澤愛東京理科大教授は「消防隊の数も十分。警備員もセオリー通りに
動いている。」と対応に遅れはなかったと見る。消火器、水の幕を作って延焼を防ぐド
レンチャー、放水銃、屋内・屋外消火栓など消火設備も「付けるべきものは付けていた
」と評する。------となんら裏付けも確信もない強気を発言するバカ者がいる。まるで
中国人である。責任逃れもいいとこだ。現に消失していて充分だったというのは香港で
行われるデモ鎮圧の警察が言っている事と同じだ。市民を守るべき警官が平和のデモ行
進を威嚇して内紛を誘い、市民を暴力で威嚇しまくる。死人まで出していて何様という
のだろうか。治安維持は政府であろうが香港政庁であろうが市民の声であろうが分別と
秩序の中にある。それを自ら壊しておいて片方にのみ手心をもって弱者を傷つけて世界
が平和な訳はない。今度の首里城火災も、自分達は現状では充分やったが、不十分な面
があって火災を防げなかった。延焼を食い止め得なかった。深く反省し今後の消化体制
や防火プランを検討し今回の原因と経過を検証したい。というならわかる。「こんなに
大規模な消防応援は初めてで、首里城火災は同局は県消防相互応援協定に基づき沖縄市
や糸満市など県内8消防本部に応援を要請。車両53台、消防団を含め171人が出動
し前代未聞の人数で対処し1988年以降、一度に9消防にもまたがった出動して充分
やった。」という那覇市消防局の担当者の強調した発言は隊員に対する忖度だろうが、
そうした言葉では済まされない。まず出火原因さえまだまともに発表されていない中で
記者会見というのも腑に落ちないが、それ以上に初期消火が全くなされていないし、こ
れだけ国宝級の焼失事件でありながら、警備体制や消防体制が可としている視点が不満
でならない。岐阜の白川郷でも電源操作盤からの失火があった。幸い電気集合盤の専用
の小屋で助かったがそれでも一時騒然としていていた。中国製の制御盤だったのか韓国
製の蓄電池からだったのかはニュースとして報道されないので不明だが、国家戦略室は
なんら声明を発していない。ここに奇妙さがある。タダ飯ぐらいの給与食いなのか全く
不明だが、今や北朝鮮の米国との話し合いも折り合いつかずということで工作員も多い
。まったく真相は闇の中だが、果たして国家規模でこの調査を指令してるんだが。今の
内閣ののんびりさにはちょっと老害以上のものがある。日本国民はこんな内閣でいのだ
ろうか。


150: 名無しさんAA:19/11/07 00:11
さらに消防職員が火災状況をSNSで流したとして謝罪してるが、何故謝罪してるのか
。状況把握に火災を映して上司の判断を仰ぐこともあるだろうし職務として何もホース
握って水を掛けるのみが仕事ではないだろう。ちゃんと連絡員の報告としてSNSで流
したものであり不謹慎とは思わない。というべきである。そもそもそうした事にこだわ
るから、こうした吹上丘上の楼閣が炎上するのがどんなに恐ろしい事か、火の回りが早
いかわからないでいるのだ。もともと陸軍の地下壕まであって乾燥しやすい亜熱帯地帯
なのだ。もっと用水タンクや水回り配管もできただろうにそれをしていない。ここに、
今の沖縄県行政のウソがあり国家内閣指導の甘さがある。こうしたことは日本の損失で
あり、税金の無駄遣い以上のものである。


151: 名無しさんAA:19/11/07 03:53

さらに消防職員が火災状況をSNSで流したとして謝罪してるが、何故謝罪してるのか
。状況把握に火災を映して上司の判断を仰ぐこともあるだろうし職務として何もホース
握って水を掛けるのみが仕事ではないだろう。ちゃんと連絡員の報告としてSNSで流
したものであり不謹慎とは思わない。というべきである。そもそもそうした事にこだわ
るから、こうした吹上丘上の楼閣が炎上するのがどんなに恐ろしい事か、火の回りが早
いかわからないでいるのだ。もともと陸軍の地下壕まであって乾燥しやすい亜熱帯地帯
なのだ。もっと用水タンクや水回り配管もできただろうにそれをしていない。ここに、
今の沖縄県行政のウソがあり国家内閣指導の甘さがある。こうしたことは日本の損失で
あり、税金の無駄遣い以上のものである。

 ちゅらうみ財団で管理していた。といわれるが、通常こうしたものの事業体は、燃え
てもらえば困るものや爆発物やコンビナート施設など大規模施設に当たる。ということ
になれば、当然ながら自警団組織として、防犯や整理や防火の判断組織が必要となる。
つまり警備員だろうが、何かのイベントだろうが、下請けで行ってはならないものにな
る。メーカーの系列ではないが、組織としての安全管理が必要で、果たして出入りの人
を含めた全員参加の消防訓練や自営の消防団の消化設備や消防車を持っていなければ、
これは沖縄県が手心を加えたか、全く法体系に無知だった。か、ということになる。全
く解せない話である。


152: 名無しさんAA:19/11/07 18:28

GSOMIAは今月23日に効力を失う。しかし 世論調査会社リアルメーターが7日、
6日実施の調査結果を発表。 502人から回答を得た中では、韓国政府と日本と軍事情報
包括保護協定(GSOMIA)の破棄を決めたことに関する韓国の世論調査によると、
回答者の約48.3%は政府の決定を支持し、37.6%は協定を維持すべきだと回答した。つ
まり韓国人の半分はバカであり、闇雲に抗日人間で、まともな人間は3割しかいない国
だという事だ。これでは国ではない。群れ行く魚や鳥より悪い。別段抗日主義でもいい
のだが、それならそれで日本に来ない北朝鮮のほうがまともである。


153: 名無しさんAA:19/11/07 18:56

 今回天皇陛下は何を考えて 叙勲をしているのか。谷垣やら腐れた議員ばかり選んで
何をもって日本を進化させたというのか。海外からも評価されず日本人からもツバを吐
かれるような人選をして自民党も困ったもんだ。やるなら原発事故に対応した枝野や管
を選ぶべきだろう。あれだけの大事故をしても何とか日本を持ちこたえさせて日本の威
信が保たれたのだから。それに比べて何とも器量の狭い党対抗の意識しか持ち合わせな
かった時の自民党総裁を選ぶなんて馬鹿げた話もたいがいにしろ。と国民全員が思う。


154: 名無しさんAA:19/11/07 19:21

首里城火災で、夜間は想定外などと何を馬鹿げた事をいっているのだろうか。世の中で
世界中どこに行っても昼と夜とは半分ずつある。なぜ夜の火災が想定外なのか言葉が通
じないほど沖縄県民は無能なのか。更に管理者と所有者がちがうなどくだらない言い訳
をするな。アパートの火災で大家と住民と言い合っても火災消失で損するのは双方だ。
だからこそ話し合い、防火対策し、未然に防ぐ手立てを講じるのである。例え違法建物
であっても、燃えやすい古民家であっても、そこに大事なものは保全する精神があるか
ないかであって、言い訳にならない。放火でれ失火であれ、不慮の事故火であれ、工事
の火であれ、炎を出さない出したら止め消化するのは四歳児すらわかる理屈だ。それが
できなかった過失が沖縄県にあるし、その責任は沖縄県知事であり、市長である。そし
て指導できなかった総理大臣にある。原発事故が例え東電の過失でも時の政権が対応す
るのと同じである。



155: 名無しさんAA:19/11/07 23:19
 石原伸晃議員はなぜそんな嘘をつく。国民民主党玉木代表に、天皇問題、安保問題、
自衛隊問題に、共産党と違うのだから立憲民主党と離れろ。」と助言している。これは
凝り固まった考え方で、今や共産党左翼と言えるのは自民党議員達であって、決して野
党だから共産党だから全体主義者や軍国主義とはならない。近代日本史で読み解いても
これは明らかである。今の政権がかつての共産党以下である事を解っていない。例えば
、政府が9月に開いた全世代型社会保障検討会議の初会合を巡り、有識者メンバーとし
て政府方針と異なる意見を述べた中西宏明経団連会長の発言の中身が、公表された議事
録に記載されていないことが7日分かった。というニュースがある。これが政府が見直
しを検討している「在職老齢年金制度」に言及した部分で、複数の会議関係者が「削除
された発言がある」と明らかにした。異論を表面化させない意図が働いた可能性がある
。つまり、共産党より悪い全体主義や修正主義が横行して、政府意思の書き換え横行が
絶え間なく国会にあり、国を愚弄し続け国土を国民を危険にさらし続けているのである
。これは自民党の多極体制にしびれをきらして、安倍一強の独裁を敷いて、自らの汚職
を忖度などというあるまじき賄賂で繋がって自民党指揮をしているからだ。民主党時代
に国税の党への補助金が今の憲法違反であることは明白でありながらそのままにして、
さらに議員の政治商売を加速させたからである。まずは国会正常化が問題で、首相特権
の解散権の剥奪とこの党利党略のない国家の為の政治、国民の為の安全を吐き違う議員
の排除である。地域に税金の補助金を持ってくる議員がいいなどさせては災害が大きく
なって死者が増えるだけだ。


156: 名無しさんAA:19/11/08 03:48 ID:OU
 全く何やってんだこの内閣は。違法ばかりではないか。今度の民間試験運用を行う。
とした有識者会議や懇談会の吉田座長は、まったく人選として違法である。教育を一歩
前になどと馬鹿を言うが、こうした英会話にのめり込むことこそ教育の敗退であり、本
人がどんなにそうは思っていない。と食って掛かって言おうが全くルール違反であり、
公平公正性を著しく欠いている。大体卑怯丸出しの下村などを文部大臣にする感覚が、
全くあり得ない判断だ。今でも私の後に本格的に議論し導入された。などと逃げている
。これが教育行政とは情けない限りだ。あり得ない事は全く続いている。長崎市での私
立海星高では、2年の男子生徒(当時16歳)が自殺した問題で、学校は7日、「いじ
めが自殺の要因」とする第三者委員会の調査結果がでたが、同校ホームページ(HP)
で公表したのは一年後も過ぎてからだ。学校側は調査結果を不服として約1年間、公表
を拒否していて、遺族の意向を受けて抗議があってから公表に応じた。同時に、「(報
告書の)自死との因果関係に論理的飛躍がある」などとする従来の見解をHPで表明し
たが、これはなんなのだ。生徒が死んだと受け入れられないのは遺族のほうであろう。
論理的飛躍もなにも、学校側が生徒を保護できないのであれば、教育ではない。すぐに
学校を閉校にすべきで、文部省も私学助成金などを全く無くせばいいのである。教師の
怠慢もいいところだ。佐野サービスエリアと同じだ。従業員と話し合いもしない経営者
と、約束も守らないまま、従業員に損失補てんの3億円の賠償を裁判するという。全く
デタラメ経営者の認識不足はいつまで続くのか。スト権行使が違法なら、スト権ストの
80年代から日教組も団体交渉の各労働組合もみんな違法者になる。それこそ赤ちゃん
に夜泣きするから殺してしまう餓鬼畜生の親と同じ考え方である。そんな考えの社会に
したくないから法律があり、法律で弱者保護を謳うからこそ仕事があるのだ。人々は何
もアマゾンのジャングルの弱肉強食の中で原始生活をしてるわけではない。



157: 名無しさんAA:19/11/08 03:58

子供達の教育を考えるから、民間試験を先延ばししたのだ。吉田研作はこんなバカで、
教育の座長や教授とはお寒い限りで、便宜供与の下村や吉田が何をどう言っても違法な
強欲政治家グループでまったく逸脱した考え方で日本を壊してしまっている。経済利益
や効率での人間教育がないのだ。人間を野菜のように形の良い市場出しの製品化しか考
えていないバカに、味のいい野菜の選別や、育ちのいい人間の教育などできない。まず
英会話よりは、英会話によって何をするのか何が出来るかが大きな問題なのだ。日本語
で出来る1割も、英会話によって表現できない。この現実を直視しろ。


158: 名無しさんAA:19/11/09 00:13
 米国でコリアンデモが起こっているという。かつてトランプ就任の頃、「US TROOPS
GO HOME(米軍は帰れ!)」と書かれたビラの画像が掲載されるデモがあった。このビラ
には「韓国人はトランプを軽蔑し、トランプの手下であるあなたたちも嫌悪している」
「よって韓国はあなたたちにとって安全ではあり得ず、武器を持ちすぐに立ち去ること
があなたたちを生かす唯一の方法だ」といった脅迫めいた内容が、米兵向けに英語で書
かれていた。この投稿に米兵内にの大きな反響を呼び、「米国の助けがなければ韓国は
今ごろ金正恩(キム・ジョンウン)の統治下にあったはずなのに、ありがたいとも思わ
ないのか。」「北朝鮮がそのまま韓国を手に入れるように放っておこう。」など呼びか
ける騒ぎがあった。こうした韓国への批判が殺到している中で、「彼ら(反米デモをす
る韓国人)は少数にすぎず、ほとんどの韓国人は米国が韓国を守ってくれるよう望んで
いる。」との声も米政府筋は必至に呼びかけたが、「韓国人は恩知らずだ。」といった
意見が圧倒的な広がりを見せた。この事態には韓国の専門家からも「(今度の米韓首脳
会談では)トランプ大統領に韓国の国論が統一されているという認識を植え付けること
が重要だ」として、「無分別で過激な反米デモ」を憂慮する指摘が韓国内で高まって、
やっと火が消えた。その後、高高度ミサイル防衛構想のTHAADの配置で中国からの
貿易低下で経済異変がおきて終息したが、ともかく韓国は何でもかんでも反抗すればい
い。との立場のようだ。今回のデモは旭日旗反対デモで東京五輪を反対するデモのよう
だが、先の冬季オリンピック開催に、東京五輪に向けて協力するから、2018年平昌冬季
五輪に力を貸してほしい。と訪日団を作ったのは全く嘘だったのだろう。米国の最近の
国に対する感情は、「韓国疲れ」という言葉で集約してしまう。英語"Korea fatigue"
と記されるこの表現は、簡単にいえば「韓国にはもううんざり」という意味である。今
の日本の反応と同じであるが、実はそこが韓国のねらい目であって慰安婦像設置は実に
7年かけてやっとアメリカ国中の公園に建設したのである。つまり日本と韓国が慰安婦
問題で言い合いするのに聞くのを疲れたところで、もういいやという頃合いに承諾がも
らえる。という感覚を実はよく知っていて、日本海を東海(トンヘ)と書き込ませる事
も日本の領土の竹島を独島とする事も、実は店の前で泣き止まない駄々っ子作戦と同じ
に手中におさめて現代に至っている。この「韓国疲れ」のそもそもも、日本の韓国に対
する「もう、ほとほと」という心情を、かつて米国側の専門家が「韓国疲れ」と評して
米国で広めた言葉でもある。この状況を知って今度も大っぴらに旭日旗に異議を唱える
。理由は「戦争の軍国主義を思い出すから。」と言う。では大極旗は違うのかと問いた
くなる。もちろん日本軍は旭日旗を軍旗として使用していた。では大極旗は使用してい
なかったか。往時の写真を見たらわかるように、所属の色龍旗と共に大極旗は掲げられ
、日本の旭日期と共に掲げられている写真すらある。つまり、勝手な思い込みの反論で
まさに、言いがかり論法でデモをやり、像を置き、土地を盗む民族である。彼らににも
こうしたレッテルは貼られたくないだろうに、彼らの心情には恥の精神という臆する心
はないのだろうか。正確な歴史を知らないからと言って出来る話ではない。正に今回の
全く意味のない包括的保全協定(GSOMIA:、ジーソミア)の複数国秘密軍事情報
協定の離脱と同じで、知らないからと言って出来る話ではないのに、行うのだから言う
言葉がない馬鹿民族の国だ。



159: 名無しさんAA:19/11/10 15:20 ID:B6
  歴史の群像     225

 中国は今や 米国の民主主義を馬鹿にしている。まったく民主主義や自由主義、或は
欧米で培われた人道精神や博愛精神というものを全く理解していないし、驚嘆するほど
侮蔑している。輪をかけてロシアは、世迷い事で騒動やデモを、弱い国の出来事として
他人事の様に、民主主義の欠陥と認識している。ところがそうした認識が共産国の馬鹿
さである事に思い至っていない。じつはこのデモの権利やストの権利こそ人権の最もな
自由主義の神髄であり、デモと暴動の境目こそ、民主主義の法治国家と共産主義の崩壊
放置国家の違いである。人類が一番心配するのは今の中国でも今の北朝鮮でもないし、
今のロシアではない。実はそのプーチンがいなくなった時のロシアであり、金正恩の死
んだ後の北朝鮮である。つまり習政権体制がほころんだ時の中国なのだ。今の共産中国
が如何に地球規模の自然災害の元凶となり、人類崩壊や経済混乱の中心となっているか
中国人は自覚していない。香港デモはまさしくその中心的ものでエポックである。そも
そもかつての雨傘運動での強硬暴力排除が大きな問題で、そうしたことで香港分断を誘
って大陸人を多数移住させ、監視社会を作った事が大きな間違いで、今の香港警察は、
何も急進的な抑圧部長をその座に又蘇らせる必要は何もなかったのだ。香港近くの大陸
暴力団組織「和勝和」の元組長がどう動いているのか知らないが、政界にも太いパイプ
を持つ郭永鴻氏(58)が7月21日、香港国際空港で逮捕された後逃亡犯引渡し条例
をきっかけにこのデモは起こっている。香港各紙によると、郭氏は香港やマカオの富豪
への恐喝や襲撃企画罪など3つの容疑で指名手配されていたが、そもそもが共産党中国
の地方共産党の城官の付属部隊でかつては、用済み切り捨てに甘んじていた組織である
。景気が良ければ共産党と共に栄えて国民の声もかき消されただろうが、欧州不景気と
米国の関税戦争で一挙に矛盾が噴出してきている。深セン地区の強制開発が終わって、
元朗地区に捨てられた混成ヤクザは、今や中国の深セン市と目の鼻の先で香港マフィア
との結束し組織が拠点地区に成長した。地方共産党、共産党ヤクザ警察、人民解放軍、
と、今まで敵対していた香港警察も、この「三合会」と呼ばれるマフィア組織との関係
は微妙なものになっている。ここに台湾の批判する「一国二制度の失敗」と断じる中身
がある。一国二制度に幻想を抱く台湾の無党派層に、香港警察によるデモ隊弾圧映像は
冷や水を浴びせた形だが、共産党中国の中央政府も同じに、嫌がらせでは、香港市民を
脅しても黙らせられないとして強行突破を案じる形になった。その為今も人民解放軍を
表立って入れていない。しかし、今の林鄭 月娥(りんてい げつが)通称、キャリー・
ラムは、いつでも共産党軍や人民解放軍を入れる事は出来ると市民に脅しをかけている
。しかし、これがヒットラーに習った市民を人質に取る作戦で、ほとんどの共産国の、
共産党たる証となっている。これが香港人民には鎖に繋がれた首輪の役割となっている





160: 名無しさんAA:19/11/10 15:20
  歴史の群像     226

 ここで少し日本の政治事情を考える。民主党が崩壊し、希望の党ができたがほどなく
大方は国民民主党と立憲民主党に分かれ、かつて戦後に自由党と民主党が合体した自民
党の敵とはならなくなった。しかし、もともと日本においては、明治時代自由民権運動
が起こり、熱狂的に代議士制度改革が叫ばれた時があった。開国後、西南戦争を最後に
、国内の武力紛争や反乱はなくなった。士族(しぞく)の家禄のない不満はあったが、
言論(げんろん)による話し合いの場を求める声でかき消され、それが。1874年土佐藩
の板垣退助(いたがきたいすけ)による、国会開催を求める意見書が政府提出されて、
自由言論、平等民権の運動として、国民が政治に参加できる権利を求める運動を自由民
権運動が起こって政府の対応が待たれたが、1885年、議会を開く準備とし内閣制度が作
られ、伊藤博文を初代内閣総理大臣として任命し、形を整え、その後に日本帝国憲法を
発布して国の形を整えた。ここでようやく薩長土肥の藩閥政治の批判が交わされるべく
政治システムの概要が国民に知らされたのである。つまりそれまでは今の香港政庁の様
な口では「自由」だ「民主国家」だ「法治主義」だと論じても、実態は長州藩閥の独裁
で宮家を担いだまま突っ走って外交判断を行っていたのである。つまり、王政型の商人
議会の英国や貴族型の宗教議会の仏蘭西か、公国や小国の集まった領主型の独逸国か、
それぞれの議会様式すら決まっていなかったのである。一応は明治天皇をして新政府の
立場があり頂点にいたのは当然だったが、神職を強くしても国際社会に説明できない。
かと言って英国型では、民衆のいいように議会が揺れる。伊藤博文はヨーロッパで学び
、君主権力が強いドイツの憲法を学んでいた。帰国後内閣総理大臣となり、憲法づくり
をすすめ、衆議院議員選挙が行われ、第1回の帝国議会を開いた。帝国議会は、貴族院
と衆議院の二院制とし日本に定着させた。貴族院には皇族などの代表者や、天皇が任命
した者、多額納税者などの特権優遇者で構成された議員を置き、衆議院に、大衆の選挙
で選ばれた議員で構成された議会とした。選挙に投票することができたのは、満25歳
以上の男子で15円以上の税金を納めていた人で、人口の1%くらいしかいませんでし
たが、それでも衆議院の可決されたものも、貴族院で否決される発議も起こっている。
つまり民衆のはけ口であり、発議権の拠り所であった。つまり大岡越前の目安箱の議会
版であり、それを行使するか決定するかは貴族院の上奏にあって、明治天皇の意向にか
かっていたのである。実はこうした転換期は内容は多様にあるが、どこの国でも陥る処
であり、今の香港のように至らないように運動したのが、板垣退助であったのである。
強権的江戸時代とその形態を受け継いだ天皇の下で特権を貪った長州藩、これらとの闘
いが、西郷隆盛や板垣の戦いだった。つまりは今の香港長官が戦うべきは香港市民や民
衆でなく大陸共産党中国政府であり、自治を守るべき警官は取り締まるべきは応援加勢
の共産市民なり暴力警官なのである。



161: 名無しさんAA:19/11/10 15:21
 歴史の群像     227

 中国広東省深セン市と深セン湾をはさんだ香港新界地域の元朗地区流浮山の路上にお
いて、駐車していた乗用車の中から、拳銃1丁と弾薬が入った弾倉4個、斧1つ、ナイフ4
つ、金属製のこん棒などが見つかっていたことが分かった。警察の調べで、車は盗難車
、2017年12月に盗難届が出されているがこの車のナンバーや所有者の届け出は実在しな
い者だった。と発表し、警察では車は犯罪組織の一員が使っていたのではないか。との
見方を声明として発した。しかしこれはおかしい。まず盗難車で盗難届を受理している
から盗難車であり、実在しないと結果が出ているという事は実在してるから結果を決め
ているのだ。こうした胡散臭い報道が溢れかえる中国を、なぜ香港市民が信じるに足り
る国と認めようか。今まで自由を謳歌し民主主義に生きて中国共産党幹部の抑圧や侵攻
にめげず容認して共産国家を尻目に海外との交流をしてきて、積み上げた信用が崩壊し
て行くことは耐えられないものであり環境だろう。米大統領選では民主党左派のウォー
レン上院議員に人気が高まる。格差是正を訴え、大企業と富裕層を対象に10年間で、
6兆ドル(約660兆円)の大増税を提唱しているからだ。この「反ビジネス」色の濃
い政策は、民間の自由な経済活動する米資本主義の基盤が損なわれる。との懸念も又台
頭している。国民皆保険制度導入、10年間で20兆5000億ドルの財源を確保、の
この計画は、中間層の負担を増やさない。富裕層のみへの3兆ドルの増税で、5000
万ドル以上の純資産には年2〜6%の税率適用を考えている。トランプ政権が実現した
法人税減税を撤廃し、35%へ税率引上げて大企業に3兆ドルの増税を強いる。実は、
これが民主主義のあり方なのだ。米国は民主主義平等博愛主義を唱えながらも、銃規制
をしない。普通の人より銃携帯の人が強いに決まっている。銃で戦うよりは大砲が強力
であり、大砲よりは走行する戦車で、戦車よりは飛行機でミサイルに行き着く。こうし
て次々と銃器や兵器を開発し、殺戮兵器は進歩したが、実は人の社会性の啓蒙や教育は
一進一退のままだ。税の再配分の原則は、人権主義や立憲主義の基本中の基本である。
言葉的な意味では、立憲=憲法を制定した社会を言う。しかし、立憲主義といえば制憲
の社会。すなわち「憲」という「基本掟(おきて:マスタールール)」の「憲法」の事
でそれを敷いた社会で、国民の方が国に向かって突きつけた絶対ルールを敷いた社会。
である。つまり君主が作ったものではなく民衆が作った法が憲法であり絶対として啓蒙
遵守を決めて行われる社会を行くのが立憲主義なのである。つまり中国大陸には国法は
定められていても、日本の様な絶対の憲法はない。と言うことになる。これが大事な事
である。さらに民主主義という大衆烏合主義を取らない事に特色がある。よくドイツは
「ドイツでは戦後60回も憲法を改正してるのに日本だけ1回も改正してないのはおかし
い」などと主張する人がいる。だがドイツには憲法でなく国内基本法であり中国と同じ
国法なのであって、基本的ワイマール条文は中世以来いじくられていない意識の中で、
日本でいう施行令の法文が変えられているだけの話なのである。板垣退助が求めた民権
運動の成果で、「1.人権の尊重(国民の人権を保障するために国家が存在する、という
こと。)」「2.権力の分立(権力の集中は人類史上、必ず独裁政治を生み出した。)」
「3.国民による国政参加(国民の意志の政治的反映が行われること。)」と言う三つの
基本は守られて日本は世界に動き出した。この基礎概念が破綻した民衆議会政治が民主
主義であり、トランプ政治のような高所得者優遇政策に陥った危険な国際政治を生み出
している。



162: 名無しさんAA:19/11/10 20:15
  歴史の群像     228

 時代が進化し、産業が発展する事に依存はない。しかし産業発展の中で人間性をしば
しば阻害し悪名高き奴隷労働力を総動員しても、その技術発展についてい行かざる得な
い姿は千手観音の様に裏では、先人にあざ笑われている生活だろう。そもそも外国人の
留学生に資金提供して、日本人を学ばせない、働かせない、守らない。と言うのは一体
何なのだろう。私学助成金にしても保育園無償化にしても問題がずれている。そもそも
論で言えば、少子高齢化問題は国家問題ではない。それを盛んにNHKがあおった責任
がある。少子高齢化問題は個人の権利問題である。誰もが子供を産み、家庭を育み、老
い、老後の生活をどう過ごすかは、個人の意識問題で、これに深入りして2千万だの、
5千万だの老後資金を蓄えよなどという国家方策が間違っている。人の生き様に環境を
与えるのが政治であって、中国や韓国の非難で靖国参拝を取りやめるようなら総理身分
を捨てて貰ったが国民の為になる。度台そんな軟な総理に資格はない。そもそも日本が
戦前は軍国主義だった。と批判するが、それをいうなら朝鮮半島は盗賊主義で、中国は
強盗主義がまかり通っていたではないか。今でも自分の都合の好い事しか言わないし、
しない。日本人が広げ開拓した農地に、集団で他所の土地の者が一揆をしたり、補助を
受けて学校を作ると、儒教差別主義の土地の有力者が占拠して学校を廃止させた。両班
の幼年娼婦売りが、日本の儒教差別主義の撤廃に動き、コリアンピラミッド崩壊で貧民
に落ちぶれたからだが、その為徒党を組み、盗賊に成り下がった。中国ではもっと酷く
混乱の無かった農民まで、勝手に拉致監禁して中日抗戦兵士として鎖につないで督戦兵
として鉄砲の前に立たせて日本軍と戦わせた。つまり中国政府そのものは闘牛場の観客
として動きゲリラ活動する共産党党員を増やす遠因を作っていたのである。世界大戦時
に日本人は差別主義に苛まされた。第一次大戦まで行われなかった大規模収容所が出来
てドイツで起こった優位遺伝説が大手を振って荒れたからだ。アメリカ本土では、ほぼ
全ての日系人が強制収容所に送り込まれていた。ハワイでは、「在住の日系人は数が多
く全員を強制収容所に送り込むと社会が大混乱する。」と抗告理由で、日本人でも各界
の指導者レベルの日系人だけが身柄を拘束された。ただ、身柄は拘束されなかった日系
のハワイ人も普段生活している中で日系人差別に遇される状況にあった。ホノルルの商
店経営者も体よく低価の強制購入で土地を追われ田舎に引っ越して黒人地区に改めて店
を始めたと言う記録もある。アメリカで生まれ育った日系二世達は、アメリカ国民とし
て生まれ育ってきて米国人との違いは無かった。だからこそ、この状況に我慢なりませ
んでした。「自分達はアメリカ国民だ。」とアピールするため、自ら兵士に志願した。
当初は受付を拒否されたが、戦争中盤に日系人だけで構成された 第442連隊が作られて
ヨーロッパ戦線で大活躍し米兵を助け出す偉業を行い、最も多くの勲章をもらった連隊
になった。しかし、このヨーロッパ戦線の過酷なテキサス大隊救出の運命では、生き残
りは5割だった。枢軸国相手に勇戦敢闘した。その激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死
傷者数 9,486人)という数字が示している。アメリカ合衆国史上では最も多くの勲章を
受けた部隊としても知られるが帰国後も日系人への偏見は付きまとって善き職業を得る
事はなかったと言われる。


163: 名無しさんAA:19/11/10 20:15

  歴史の群像     229

 日本人にはハワイを合併する意志はなく、馬鹿の様に太平洋戦争に入り、真珠湾攻撃
に向かった訳だが、この帝国主義的な行動をさせたのは、図らずもアメリカの敵視政策
であり、欧州戦争への介入の欲望だったのは論を待たない。このことが、その後日本人
敵視感と日本のアメリカ不平感との対立につながって行く。しかしそれはルーズベルト
やユダヤ連合の思う壺であった。そして遂には 日本時間1941年12月8日、未明(ハワイ
時間12月 7日)に日本は真珠湾攻撃を行ったのである。前後して昭和天皇はこのことを
外国人記者に説明し公けに告示している。つまり奇襲とはいえ、日本人は世界の国際法
にのっとって、ハワイオアフ島に真珠湾を攻撃したが、ハワイはある意味アメリカ人の
土地ではなかった事も理由にあったようだ。つまりハワイの開放である。しかし、米国
政府は日本以上の軍国主義であった。つまり、日曜日の朝を狙った奇襲攻撃がキリスト
教徒であった米国兵士への配慮だった。にも関らず、こうした日本からの声明は米国の
新聞紙上にも、米国議会にも何ら出てくることはなく、ルーズベルトの報復宣言と日本
の卑怯批判しか書き立ててはいなかった。正に日本が懸念した野蛮な新興国だったので
ある。伝統的に、軍部特に日本海軍は日本近海で待っての戦闘行為をする防衛戦闘を基
本としていた。対米戦を漸減邀撃作戦を基本戦略として、日本近海における艦隊決戦を
想定して国家作りを行っていた。これは日露戦争を手本にと言うわけであったが、これ
に従っていれば、ハワイへの奇襲攻撃が行われることはなかった。しかし、連合艦隊の
司令長官山本五十六大将は、それを壊してしまうのである。そこに南雲中将の司令官の
封鎖作戦があった。南雲はまるで潰れた土建会社の社長のような経営無知の人情家であ
った。何事も中央の判断に添えばそれでいい。という極めて短絡な行動軍人だったので
ある。スポーツ界の剛腕がその栄誉が監督にあるような部署を全うすれば事足りる考え
方で、その力強さや人情は称賛される人柄だった。しかし、山本の考えていることは、
全く違っていた。山本はアメリカ留学経験もあり、航空にも詳しく、開戦当初に航空戦
で一挙に決着を付けなければならない。と考えていました。真珠湾攻撃の立案にはこの
山本の悲壮感が溢れていたのである。つまり今のままでは米国に負ける。石油によって
負けるのは明らかだ。と知っていた。ではどうするか、敵航空部隊の壊滅しかない。特
に空母機動部隊を壊滅させられれば、日本にも勝機はあるかも知れない。と考えていた
。実は山本五十六にとってはセンセーショナルな事件が起こった。それが原爆開発の、
成功だった。日本海沖に出ていた戦艦妙高は特殊任務で原爆実験を行い、海洋投下で、
その性能を確認するまで至っていた。しかし昭和天皇はその報告に来た原爆成功の奏上
に、即刻の廃棄と実験や研究の停止を命じた。これに海軍上層部は反抗し、五一五事件
が起こったのである。日本の政治運動家、農本主義思想家農本ファシストで超国家主義
者でもあった橘 孝三郎(たちばな こうざぶろう)の報告から、頭山満の三男の、頭山
秀三で玄洋社社員は、その記事を書きたかったのだだが、粛清にあってしまったのだ。
強力な兵器開発に犬養首相すらも射殺されて、国体の存続さえ危うかったのである。元
々、犯人の青年将校らには問答などに時間をとられては殺害に失敗する恐れがあるため
、犬養首相を見つけ次第射殺する命令だったらしいが、おかげで三橋町の富安保太郎は
勝手に閉じこもってしまったのである。

164: 名無しさんAA:19/11/10 20:16
  歴史の群像     230

 かつて存在しドイツの政党のナチス(国家社会主義ドイツ労働者党:Nazi)は、第二
のドイツ社会主義労働者党(SAPD SAP)は、ドイツ社会民主党の分離した左翼分派の党
でそれほど支持はなかった。しかし1932年、共産党から分離した何人かがこのグループ
に加わり、党の規模は小さいままでも魁の方策として国民幸福を約束した。1933年に、
グループのメンバーは非合法的にナチズム(全体主義)に反対し活動し、ドイツ労働党
ナチスは拡大していく。この奇妙さは何ともいえない。批判する呼称とそれを乗っ取っ
た政策である。こうして1920年ドイツ労働者党を改称して成立し、翌年ヒトラーを党首
とすると飛躍的拡大をした。1933年に政権を掌握。反民主・反共産・反ユダヤ主義を標
榜し、全体主義的独裁政治を推進。ベルサイユ体制の打破をめざして再軍備を強行し、
第二次大戦を引き起こして、最終的に1945年に敗戦とともに崩壊した。世界中が、不況
で激化する労働運動対策に、労働党は共産党・社会民主党を次々と追放し、独裁体制を
固めていった経緯がある。国際連盟に対して軍備保有権の平等を求めて断固拒否し、そ
れによってドイツ国民は称賛した。日本に習い、国際連盟脱退賛成が9割を超える国民
投票を経た後に、同年10月、国際連盟を脱退し行き詰る国際社会に対応が戦闘だった。
こうして共に国際関係の中で孤立して、日独両国間に協調を求めるムードが生じたのは
不幸なことだった。その時謀略が働いていたとしても、自然の流れなのかもしれない。
令和の時代、終戦70周年にあたり戦争と歴史をめぐる論議が沸き起こって久しいのだ
が、これまでも、様々な方面からの検証に基づいて戦争を振り返って話がされる。しか
し尚、なぜ戦争に突入したのかという議論は多く聞かれる一方で、なぜ敗戦に至ったの
かという議論も少なくもないが、戦争の本質の議論に至っていない。この種の議論に置
いて欠けるのは、こうした議論を組み立て歴史に仮定を持ち込んだ理論も多いが、突然
にして敗戦の日がきたのではないし、突然に戦争が起こったわけではない。それは昭和
がバブル経済から突如として平成不況に突入した訳でもない。同じくそれなりに何らか
の要因と大きな影響を及ぼして、不可逆変化に今に至ったのだ。敗因を検証することは
歴史観の涵養に資するが、さりとて今の我々でも運命を変え得ただろうか。この疑問が
常に付きまとっている。ただ言えるのは日本の軍部も民衆の賛同を得て内閣が動いたし
、ドイツのナチス政権も国民の大いなる歓迎をもって国を担った事実である。対して、
ソ連も、アメリカも決してその時国民は戦争を希望していなかった事実もある。一部の
人間が大局を握って国民を先導し大戦になった。この事実に我々はもっと気づくべきで
ある。小国や島国がやっと希望と光の中で自衛権なりまともな自治を果たそうと言う時
に、大国は自国の秩序や、多くの国民の良心を踏みにじって、核開発を強硬し経済封鎖
で戦争に導き、無差別都市攻撃などの戦争犯罪を起こした。それでも裁かれていない。
日露戦争で米国は仲裁国になったが、日本に賠償は行われずまた戦えばいいと脅迫まで
した。第一次世界大戦の戦後処理では、良心なき過大な戦争賠償を、ドイツに求めてい
る仏国に了承承認した。という事実だ。ドイツは資金引揚げで、大きな国内恐慌があっ
たが各国とも手を差し伸べなかった。これではユダヤ憎し、となっても仕方ないだろう
。今香港デモが行われているが、林鄭 月娥(りんてい げつが)長官はあまりにも虫が
良すぎる。中華人民共和国の第5代香港特別行政区行政長官を務めているのだから、そ
れなりに国を憂いて良く、議会の民主議員の声を聴くべきだったのは当然だ。形ばかり
の議会で中華人民共和国、つまり共産党大陸中国の独裁は通るだろうが、国民や世界で
は通用しない。少なくとも香港政庁は今まで自由な議論の上に民主化をなした経済活動
をして大きくなった経済だ。少なくとも共産党中国もこれまでに、多くの恩恵を受けて
いた筈だ。つまり、香港議会が大陸中国と相対して話し合うもので、長官が大陸と話合
うのは筋ちがいなのである。ましては同じ香港人議員を議会の尊厳を破ったなどと退場
させるとの強行が度々あったが、それはまったくおかしな話で一国二制度となっていな
い証なのである。こうした事の穴は誰が負担するか林鄭月娥、チェリーラムは知るべき
である。


165: 名無しさんAA:19/11/11 02:40
こうした事の穴は誰が負担するか林鄭月娥、キャリーラムは知るべき
である。


166: 名無しさんAA:19/11/11 02:54
  歴史の群像     231

 しなくても良かった先制攻撃の真珠湾攻撃や米国への宣戦布告には日本海軍の裏事情
があったようだ。木戸幸一は、山本五十六に、「日本が窮地に陥ったならば、原爆研究
の再開もあるだろう。」と述べたと言われる。また当時に原子力発電のように動力の中
の熱源とする発想も又なかった。とりあえず日本国内では伏せて臥せて覆い隠すことに
専念して戦争に走っている。滑稽だと一笑に付すことは簡単だが、この微妙な思惑の間
違いは、死にの物狂いの中国や米国の戦闘とは大きな違いを生んでいるようにみえる。
昭和15年9月の日独伊三国軍事同盟調印に先立つの重大事件としては、昭和6年9月の、
満洲事変、そしてそれに続く昭和8年3月の、国際連盟脱退が最もよく挙げられる。当時
の国際情勢を鑑みるに、中華民国では毛沢東(1893〜1976)による瑞金の臨時政府樹立。
これに伴う内戦の激化、更に軍閥の割拠よって実質的な分断国家状態が収拾できず、そ
の上、世界では米英での深刻な財政危機下にあり金本位制の放棄を余儀なくされていた
。米国は大恐慌のため失業者は700万人に達し、フランスなどは自国の利権確保のために
無発言。日本に対しても米英に対しても強い意見を見せなかった。こんな時に、英国の
リットン(1876〜1947)を団長とする国際連盟調査団が、満洲事変による中華民国の主権
の侵害である。との裁定を下す。しかし、その裁定には、もともと拘束力などは無く、
日本を取り巻くパワーバランスも微妙な位置にあり 欧米列強がそれぞれ国内問題を抱
えていたことを考えれば、敢えて国際連盟から脱退するなどという寓挙短絡な外交判断
を下す必要は、全くなかったのである。確かに昭和7年1月の上海事変の発生により同年
5月までに、大陸の戦闘状態の表面化は、大日本帝国の特に軍部に風当たりを強いもの
にはしたが、国際連盟、広く言えば国際社会の我が国の立場は危ういながらも、均衡の
上を渡り歩けるだけの地位にはあったのである。見方を変えれば、諸外国の国内事情も
厳しい状態で、相対的には、日本だけが悪者扱いされ劣勢状態に立たされていたわけで
は、全くない。従って日本代表全権の松岡洋右による国際連盟総会の議場退席などは、
極めて残念な事態であったし、人選の間違いや世論の異常としか考えられないものだ。
むしろ欧米の経済的疲弊と中華民国の内戦・分断状況を弱みとして捉え、巧みな外交戦
で勝利を収めることは困難であるにせよ、惨敗を回避することは可能であった。と考え
られる時期でもあり、欧米列強も中立的位置にある日本には格段の頼る処があったとも
言える。こうした日本の敗戦がどの時点で、我が国の第二次世界大戦敗戦が決定的なも
のになったのかを検証することは、国家観の議論とはやや異なり、歴史的な考察が必要
とされるのは、他の国と違う転落の歴史だ。敗戦の要因は言うまでもなく重層的に複合
されたものだが、開戦も又、外交上の失態が覆い、我が国日本を敗戦という歴史の流れ
に最初から方向付けていたことを看過することはできないし、今後とも判断材料の一つ
として活用されるであろう。多元外交のモデルとしての三国同盟締結までのプロセスに
焦点を当てる事も大事だが、このプロセスに最初から一人転びしていた松岡洋右の特有
な行動で起こり、長州閥出身で海外生活組というだけで重用されていて、日本を間違え
た方向に引きずり込み戦争に陥らせた。独裁者でもなく政府首脳でもない政治家に引き
起された戦争と敗戦というのは、世界では極めて珍しいのではないか。それでも今も、
この政治形態が安倍首相や自民党議連に宿って汚職腐敗不正が行われているのは、嘆か
わしい日本国民の無知蒙昧・無勉強・無責任と言えよう。



167: 名無しさんAA:19/11/11 03:41
  歴史の群像     232

 松岡個人を推測するに、国際連盟総会の議場退席は松岡の意に反するもので、東京か
らの指令によるとする説が一般的である。松岡の胸中は如何なるものであっただろうか
と多くに観察される論文をみるが、米国病のとりわけベトナム退役軍人にみられる様な
症状の燃え尽き症候群のような形で帰国している。一部の学者からは松岡の語学力が高
く評価されることもあるが、松岡自身は英米人との日常的な社交のレベルにおいてさえ
病的なくらいコンプレックスを抱いていたと推測されている。そうした行動が国際連盟
脱退後に数多く見られたといわれ、この頃既に躁鬱病的気分屋行動が彼を覆っていた。
例えば、不可解なことに当時53歳の松岡はジュネーブから直ちに帰国するのではなく、
ローマではムッソリーニ(1883〜1945)と会談し、ワシントンでフランクリン・ルーズヴ
ェルト(1882〜1945)と会見した。その後も、わざわざオレゴン州ポートランドを再訪し
ている。その目的ではオレゴン大学在学時の寄宿先で世話になった未亡人、イザベル・
ダンバー・ベバリッジの墓碑建立というものであったが、実は自分のこの行動の結果は
日本では認められないだろう。という苦悩の放浪でどこかに或いは誰かに救いを求めて
いたとしか思えない行動だった。彼の青年期の松岡の苦学や、そして当時の、米国にお
いての人種差別の世論や意識は、想像を絶するものであろう。と言われる。とはいえ一
つ確かなことは、日露戦争講話締結に貢献した金子堅太郎(1853〜1942)のように松岡は
日本の国益増進のために米国留学経験を活かすことは全くなかった、ということである
。それは、当時の米国内の随所にあった秘密結社の入会を拒否し蹴って米国生活をして
いたからだ。日本と違い米国は三面国家主義の生活が往々にして行われていた。つまり
表の地域社会的つながりの他に、裏では人種差別的秘密結社つながり、その上に仮想の
生活すら受容する宗教的つながりである。この三つは欠かせないアメリカ文化の裏社会
事情であり、例えば学校生活でも教会の日曜礼拝でもついて回っていた。主義主張の前
に、民族種が問われてその経済的地位が先に問われて社会的生活が出来たのである。こ
の形は日本人には理解不能のシステムだった。今でもアフリカ奴隷移民を先祖に置いた
オバマ大統領にドイツ移民を先祖に置くトランプには、どんなにアメリカ国家に良い法
やシステムで方策でも全否定する姿がある。例え白人優位主義者の票が支えとしても、
日本では考えられない対立がここにある。松岡は、オレゴン感傷旅行に象徴されるよう
に、親密な国際協調外交のチャンネルを有してはいなかった。のみならず英米人に対す
る敵愾心やコンプレックスが無意識の内にせよ心の中に渦巻いていたのかもしれない。
恐らくは、結社入会拒否で虐められていた事を思えば、反吐が出るくらい嫌いだったの
だろう。このトラウマ的な病的白人嫌い黒人嫌いが彼にはあったのだろう。もし世話に
なった未亡人のイザベル・ダンバー・ベバリッジ夫人と会うことが出来たならば違って
いただろうが、彼女は会うことは叶わないものであり、色々話し問い合わせし確認でき
何でも話せる友人は、誰もいなかった。米国の新聞で、松岡の米国上陸記者会見を報ず
る米紙の大見出しは「松岡は、日本は米国の属国ではない、と主張した。」というもの
であり、日本国内での称賛の声が伝えられていた。これが彼の帰国の後押しとなった。
米国コンプレックスの裏返しが日本外交を枢軸国側へとシフトさせた。と多くは主張す
るが、実は違っていて植民地主義との戦いには、ソ連とドイツしか国がなかったのであ
る。それはベルサユ条約時の近衛文麿の憤慨と同じであろう。それでも近衛はたとえば
1941年の閣議においては、日米衝突を回避しようと近衛文麿首相が「日米問題は難
しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対
して東條が激怒し、「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を
加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か
、それは降伏です」と唱えたという話の様に、板垣征四郎や石原莞爾を詣でる陸軍将校
達に国民はぞっこんだった。この国民の馬鹿さが敗戦を生んだのだろう。

168: 名無しさんAA:19/11/11 08:31
  歴史の群像     233

 日本が国際連盟を脱退したのは昭和8年3月。この年ドイツでは1月にヒトラーが首相
就任して、世界不況で激化する労働運動対策として、共産党・社会民主党を次々と追放
し、独裁体制を固めている。更に国際連盟に軍備保有権の平等を求めて改めて拒否して
それによってドイツは日本に習った行動をとる。国際連盟脱退賛成が9割を超える支持
は国民投票を経て現実となった。こうしてドイツも10月、国際連盟を脱退した。共に国
際関係の中で孤立していた両国間に協調を求めるムードと、米国の排外悪者論が根をは
ったし、その謀略が働いても一向に不思議ではなかった。欧州では日本以上に疲弊して
いたのだ。原因は言うまでもなく第一次世界大戦による後遺症になるものである。戦後
の混乱を終結する為の団結心が覆う。イタリアでは大正11年にムッソーニが、ドイツで
は昭和8年にヒトラー(1889〜1945)が政権を握り、独裁体制を作りあげ、昭和7年に五
・一五事件、昭和11年に二・二六事件が発生している。これらを見るに欧州は日本より
政治的に、経済的に、病的な状況が進行していたのである。彼ら独裁者はクーデターで
政権を掌握したのではなく、選挙で選ばれ、民衆の支持を得て、合法的に独裁体制を築
いた体制だったとされる。たとえ9割以上の同意による国民投票がその後、幾度となく
隣国の併合など国家の重要な案件の政治的意思決定に用いられたとしても、これが英米
法的なコモンローの概念や「法の支配」という概念とは異種のものであることは容易に
推察される。しかし、米国同様に愚衆から多数決を取った民主主義の概念やシステムか
ら進化した立憲主義の概念はまだ存在していなかったのである。その意味では記述され
た法に則り確かに実定法には適法だった。「法の支配」に則っているという意味で合法
的とは言い難いがそれは運用のものであり、米国の戦争突入が裁判されない様に、日本
の軍国化もドイツの侵略していく防衛戦争も、誰も止められなかったのである。オルテ
ガの『大衆の反逆』(1930年)やル=ボンの『群衆心理』(1895年)に、見るまでもなく、
20世紀以降の民衆は、世界の全体主義の危険や流れと並存して国家運営をしていたのだ
。経済的苦境に立たされたドイツ。イタリアでは、民主主義的な意思決定に時間がかか
っていた。ナチズムという新たな薪の紐結び論が台頭し、表面上ではあるにせよ短期の
うちに混乱を収拾するためには独裁政治の方が適している。という世論だったからだ。
こうした世論の誘惑に抗うことができず、悲劇に到る道を歩んだ両国の正確な情勢分析
すれば、少なくとも国際連盟脱退前の我が国が、世界の事情を把握する必要があった筈
が、何故かしら阻害されて、中国の中の共産党信奉者によって、引きずり込まれた形で
あった事がわかる。ここで言う中国国内の信奉者は何も中華民とは限らない。よくよく
分析すればゲリラ戦の特攻隊はほとんどが督戦隊方式の中国人に操られたり、雇われた
りして騙された朝鮮人が多い事に気付く方も多いだろう。いまの蛇頭の人身売買が中国
人でありながら、英国で見つかったコンテナ社内の死人が全てがベトナム人のように、
督戦耶方式(とくせんやほうしき)で他人に殆ど任せて利益だけ盗む方式は中国の専売
特許的やり方である。日本では退化する文化・文明がみられるが、中華では、益々盛ん
に、他人の褌で相撲を取る方式に特化している。偽物(にせもの)文化、贋物(がんぶ
つ)文化の果てを目指してるようにビルを建て都市化し、投資も盛んに他所の国の技術
を盗み、他人を動かして巨利を得る。非道徳の限りを極めたこの主義に香港は立ち向か
うだろうが勝つ見込みはさらさらない。国際社会の協力しか頼れない。この構図自体は
かつての日中戦争時代とそっくりなのは、おそらく民族的性格からであろう。


169: 名無しさんAA:19/11/11 08:50

 まーだこの後に及んでも韓国はうその線を引く。何という愚かな国民で汚い文政権か
。GSOMIAは日米韓の三ヶ国協業のアジアの安全保障問題であって二ヶ国問題では
ないのは明らかなことで、だれが見ても韓国が混乱する処置である。時の安全保障室長
も、あれだけ部下も軍も民衆も国際社会も、この廃棄はおおきな損失だと声明をあげて
いるのに 愚かな事だが、「全く影響はない」と言い切っている。既に投資家さえ韓国
か離れ、北朝鮮の長距離多弾砲火の照準に入っているのにまったくこの薄らバカは危険
すら感じないらしい。日本や米軍はもうこの半島を救えない。さっさと北朝鮮の金正恩
に原爆でも落としたほうが影響や被害は少なくて済むだろう。もう韓国民の安全保障な
ど考えるな。生きる資格や地球上の同種の社会にいる存在資格や存在価値はない。これ
だけ世界を不幸にしていいはずもない。


170: 名無しさんAA:19/11/11 12:17
  歴史の群像     234

 世界中の大きなテーマとしては、「国家と戦争」のテーマの議論は長い間、論争され
ていて今後も止むことがないであろう。大きくは政治と結びついた領域で、信仰や民族
と貧困など、その時々の国の政権や民族的流行のイデオロギーに大きく左右されている
かのように扱われる。しかし他方、当時の国際情勢分析、国内事情検証、そして当事者
の政治家や指導者の人物研究をみれば、時代錯誤の当然の成り行きがあり、大国の行動
を読み解けなかった現実がそこにある。歴史的な解釈を組み立てていく議論の方法もあ
るが、例えばドイツのベルリンの壁崩壊は、民衆が起こした崩壊ではない。たまたま、
時のドイツのホーネッカ首相とロシアのゴルバチョフ書記長が歯の合わない犬猿の中で
自由旅行の提言に、西側東側の往来の規制項目が盛り込まれてなかった事で実現した。
同じ様に日中戦争もたまたま毛沢東がソ連の補助金にコミンテル会合の中国側受付担当
員になった事で治安の良かった中国が、ゲリラ活動で荒れてしまう国内に変化するのだ
った。昭和10年、第7回コミンテルン総会で人民戦線テーゼが採択され、国際的に連帯
し共産革命を推進することが決議されたが、この頃比較的穏やかだった中国国内に日本
軍の協力を仰いだ蒋介石将軍がいた。世界中で独立の兆しが現れ、同年イタリアがエチ
オピアに進出し、国際連盟と対立、翌年エチオピアを併合する。同じ頃、満洲事変後、
華北地方を国民政府から分離して日本の支配下に置こうとする華北分離工作が関東軍を
中心に推進されていく。昭和11年にはベルリンオリンピックが開催され、ドイツの急激
な発展が目を引いた。そして共産党の脅威に対抗し、同年11月、日独防共協定が締結さ
れた。当時、それと共にドイツとイタリアも連携を深め、翌年には日独伊の3国による
防共協定が成立。この事が遠因で、イギリス・フランス・アメリカの警戒心を喚起し、
第2次世界大戦への道筋が出来上がったのである。日独防共協定締結時、満鉄総裁であ
った松岡は「日英同盟に代わる日本丸の新しい舵がやっと造られた。」と大喜びしたと
いう。つまり英米嫌いであったのだ。その後に、日独の協定提携を「心中にまでゆくべ
き夫婦の契り。」とまで言い切った得意満面の記者会見は日本に不気味な戦争の足音を
響かせている。大正10年に理事として満鉄入りし、衆議院議員に選出される昭和5年
まで日本の満洲経営の最前線で活躍していた松岡は「満蒙は日本の生命線」という大衆
扇動的なキャッチフレーズを最初に唱導した人物でもある。その頃からドイツに酔いし
れた方向性が見える。その松岡が、華北分離工作と無関係であるはずもないのだが、昭
和12年7月の、北京郊外の盧溝橋事変によって満洲事変を起こし、それを遠因とする
戦火は次第に拡大していく。盧溝橋事変からわずか3年後の昭和15年7月、日独軍事
同盟締結を至上目的とする第二次近衛内閣が発足した。これは対日経済封鎖によっての
日本軍部のあがきでもあった。しかし、その構想が再び松岡を外相として外交の表舞台
に立たせることとなる。まるで、海外諜報員の工作に乗ったかの様な構想だが、事実、
日本はどうしようないくらい戦争突入が期待されていたのである。ドイツの台頭に手を
焼いた英国、そして欧州戦争に入り込みたい米国、東洋の戦争で自国を侵されたくない
仏国、とりあえずドイツとの協定でアジアに目を向けていたソ連、ソ連の下工作に国土
を取り戻したい中国、更に日本が戦争で勝って開放してくれると信じる植民地の国々。
そのどれもが日本の戦争突入を期待して動いていたし、日本国民もその期待に浮かれた
世論を形成していた。

171: 名無しさんAA:19/11/11 12:18
  歴史の群像     235

 日独伊三国防共協定が軍事同盟である三国同盟に発展したのが、松岡が外相就任して
からわずか2ヶ月後の昭和15年9月であった。即ち、既にヨーロッパにおける第二次
世界大戦開戦から1年もの期間が経過した時点であり、ドイツが西部戦線でベネルクス
三国のみならず、今度はフランスをも屈服させる牙を向き、欧州制圧の戦況の最中での
出来事であった。しかし、ここで松岡は大きなミスをする。というより日本を地獄に叩
きつける方策を行った。松岡構想の反対論者の更迭である。松岡は外相就任直後に三国
同盟締結に障害となる親米英派の大使、公使など40名を更迭するという、前代未聞の
空前の人事異動を実施したのだ。これによって私的にも公的にも世界情勢について正確
な情報を仕入れていた日本政府も軍部も情報が無くなった。このことが昭和16年12月の
日米開戦の大きな誘因になったのは言うまでもない。こうして三国同盟に対してルーズ
ヴェルト米国大統領は、屑鉄や鉄鋼など、日本にとって欠かせない原材料の輸出を更に
次々と禁止し、厳しい経済制裁を加えた。見る間に日本は苦境に立ち、短期間のうちに
日本とアメリカの対決は決定的なものになったのであった。又それがきっかけで日本は
石油などの天然資源確保に迫られてしまった。それによりこれまでの、華北分離工作に
象徴される北進政策から、南進政策へと大転換し、中国横断に傾斜していった。ドイツ
に叩かれて弱体化した仏印、蘭印への侵攻に踏み切れば、当時米領のフィリピンの安全
保障は脅かされ日米開戦は不可避なものとなるのは火を見るより明らかな事であった。
また、三国同盟は日本のナチスドイツについての無知も多分に含んでいる。戦前の日本
の教育では旧制高校でドイツ語を学んでいた。科学・技術の分野だけでなく、ゲーテや
ベートーベン、カントなども学んだ日本人は、人文科学、哲学、芸術の分野でもドイツ
への畏敬の念が強く持っていた世代だった。当時、若者のほとんどの日本人が、ナチス
ドイツの華々しい外面をみて、その腐臭を孕んだ媚薬に酔っていたと言えよう。人文学
上の崇高なフマニスムスのドイツと、ヒトラー率いる犯罪国家ドイツと同一化し、その
区別が出来なかったのである。まことに残念な事態への帰結がその後に控えているのだ
が、無知か、謀略か、それともその両者によって実に悪い相手と同盟を組んでしまった
ものである。そうした民衆の声に乗って松岡の馬鹿さは頂点にいた。ソ連とドイツそし
て日本は手を組む未来がある。と乗り込んだが、既に帰国の途中でソ連侵攻にドイツは
舵を切っている。昭和16年4月、松岡外相はモスクワにて日ソ中立条約を締結。日独伊
の三国同盟にソ連を協力させるという松岡の多元外交は、あたかも英米への頑強な牽制
を形成し新世界同盟に進むような錯覚をし、構想実現に向かったかに見えたが、幻想は
あえなく崩れた。2ヵ月後、ドイツは突如ソ連に進攻。ソ連を加えた4国でアメリカに
対抗しようとする松岡の構想は既に崩壊していたのである。ナチスドイツを過大評価し
、現実から乖離した米国敵視の松岡外交は必ず破綻をきたす。との予言は的中する。第
二次世界大戦全体を通して三国同盟や松岡外交は何ら我が国を益することなく、敗戦と
いう悲劇を招来せしめた。戦争という極限状況下で、この外交上のミスジャッジはどれ
くらい国益を減ずることになったか。悔やまれてならないが、実は日本敗戦という幸運
を産んだとも考えられる。開戦前に大きく4つの御前会議があったが、いずれも軍部に
は米国との開戦に勝つ見込みを充分持っていた。しかしそのことごとくが天皇の裁可で
不可となっていた。今となっては資料もないが、原爆開発の不認可と共に米国大陸攻撃
も不認可であった。あくまでも平和主義の昭和天皇は、アメリカとの熾烈な対戦を拒否
していたのである。

172: 名無しさんAA:19/11/11 12:18
  歴史の群像     236

 実は日本は数多くの勝算を持っていた。しかし、天皇はそれを良しとしなかった。例
えば航空機技術では、アメリカがB29爆撃機を開発する前に、地球一周爆撃機の開発
を軍部に問い合わせているが却下されている。いわゆるZ計画のZ機である。中島飛行
機創設者の中島知久平氏が訴えた「必勝防空計画」というものは戦前の計画で、中島氏
は開戦直後から「アメリカとの戦争は、技術力と資源量の差から、長期化すれば必ず負
ける」と考えていた。この考えは多少の国力を知る国民であれば誰もが持っていたもの
で中島氏のみの聡明さではない。「Z計画」のZ機は、アメリカで開発中の「B29」
よりかなり巨大なもので、またその計画も地球規模と言ってもいい、空前絶後の大計画
であった。概要は、日本を飛び立ち、給油なくアメリカを爆撃し、ドイツ若しくは日本
や友好占領地へ着陸して給油後に、同ルートを引き返して再びアメリカを攻撃して帰還
するか、又はソ連を爆撃して日本へ帰還する。というものだった。既に世界一周が各国
で成功し、敵地を直接攻撃するという構想は誰もが考えるものだったのだ。研究成果か
ら上空のジェット気流の存在は日本でも知られていて、しかもその気流は日本からアメ
リカへと流れていた事で一気に本格構想として中島は進言したのである。ジェット気流
の流れる高度10,000mを飛行すれば、燃費の面でもこの大飛行は可能だと考えたのです。
世界規模でも類をみない、大規模機動部隊同士の戦いを見越したのは何も山本五十六だ
けではなく、時代はもはや大艦巨砲主義ではなく、空母と航空機による航空戦であると
確信し、中島は独自でこれに対抗できる、もしくは先行してアメリカに直接攻撃を加え
る壮大な計画を社内でぶちあげたそれが「必勝防空計画」だった。中島氏はアメリカで
も超大型爆撃機を開発していることも察知しており、このままでは、日本はアメリカの
空襲に晒されると危機感をつのらせていたのである。この「B-29」よりも遥かに巨大で
、さらに世界でも未だ類を見ない6発機、常用高度は10,000mとした雷撃機、輸送機と
して運用し、機銃を山ほど装備した掃射機も計画されて編隊を組んで飛行する。という
資料が戦後になって次々と発見され明るみにでた。しかし終戦の翌年完成の「B-36」よ
りは少し小さいサイズであり実現可能な大きさでもあった。しかし、軍部は天皇の拒否
を見てそれを却下している。戦争が長引き、日本は終戦間際になって、中島氏が計画し
た「Z機」構想に許可をだし「富嶽」クラスの航空機を作ろうと試みることによって、
さらなる国内疲弊化が進んでいた。アメリカと戦争をするというのは、天皇も乗り気し
ない決定であり、アメリカ本土攻撃はもちろん、ハワイの油槽攻撃も反対し、内容は、
「ハワイには、我が国の移民も沢山いて、攻撃はアメリカ兵員や艦船に限りて許可とす
。」と言ったほどだった。アメリカと戦争をするというのは、実はこうした事で天皇す
らも負けても惜しくない考え方が日本に蔓延していたのである。松岡は大きなミスは、
あくまで日本の戦争は誰かが仲裁に入るか停戦協定に入る事で成り立っている戦況だっ
たにも関わらず、そうした途中停戦の仕事のできる諸氏をすべて官邸や国会から葬り去
り、なかんずく防衛戦争方針の軍部すらも山本五十六案を起用させて、米国嫌いの松岡
方針で、日英同盟廃棄以降の非常に不安定になっていた日本のポジションをはっきりさ
せる意味合いで三国同盟を考えていたことだ。更にのみならずソ連をも後ろ盾にした様
な架空の夢構想で米英との交渉を展望していたことにある。こうした妄想は東条英機も
又おなじだった。希望的観測に終始した大本営発表も最後には嘘だらけになって行った


173: 名無しさんAA:19/11/12 06:42 ID:Q2
 キャリーラムは何を勘違いしているのか。問答無用の発砲や威嚇で政府が暴力を振る
振る舞いこそ、深刻な事態を生んでいる。「暴力で事態が変わる」と思っているのは、
今の香港政府のほうではないか。バカも休み休み言え。貴方が香港を暴力化させいるの
だ。


174: 名無しさんAA:19/11/12 07:08
 桜を見る会のどこが問題ない。としている見解の根拠があるのか。官房長は辞職しろ
 政府の意見聴取はそれぞれに有識者懇談会がある。あえて宴会を置く理由はない。更
に天皇の園遊会すらも天皇の宮中行事として宮内庁が取り仕切る。与野党入れた国会が
とりしきらない勝手な桜を見る会は、違法も違法、まったく何の為の何の主旨と目的を
持つものかは規定していない。つまり国策行事にはなり得ない只のお遊び宴会なのだ。
これをやるなとは言わないが、やるなら個人支出で、頭にちゃんと安倍の桜を見る会と
したり、自民党の桜を見る会として、主催者個人が支払うべきものだ。国費などと冗談
ではない。国民の6割は桜をみて花見する余裕もなく生活し税金を取られているのだ。
逆にそうした人を選別して招いた会なら理解もあろうが、浮浪者同然の失業者や生活の
苦労者を招けるほどの余裕のある法案などどこにも見えない今国会である。


175: 名無しさんAA:19/11/12 07:36
 トルコは又バカな事を始めた。ISILの収容所に監集していた戦闘員を母国に返す
としたのだ。確かにこのままではどうすることも出来ないだろう。だがこの処置はIS
戦闘員の解放でしかない。なぜならクルド人が守衛として収容していた留置場5ヶ所の
戦闘員1収容所三百人としても千五百人の戦闘の幹部隊員達である。表だっては移送の
形を取るだろうが、多くは隠れた自由解放で、トルコの支援による破壊活動者にすり変
わる事を目的にしている。今後はシャルルエブドと同じに、全世界にイスラム教布教の
戦闘宣教師として散らばるのは火を見るよりも明らかな事だろう。今やっと平穏が保た
れているのに、今後は後進国での殺戮が始まり、先進国でテロ行為が配達される。つま
る処3年前10年前に治安は後戻りして地球は戦闘モードに変化する。これがアラーの
神の思し召しなどとんでもない話で、イスラムは何ら進歩的文化的国家を彩った事は、
歴史的にもない。沢山子作りして放置した宗教教育で育て、戦争や戦闘員でしか生きて
いない。そんな砂漠の生き方が現代に通用するほど地球自然は甘くない。アマゾンの様
に自分の種族の人員整理の人身御供の宗教殺人があったとしても、現代に信じられない
話である。アメリカもいい加減目をさまして、中東問題、環境問題に本腰入れねば米国
そのものが自然災害とテロ行為と国民の怒りで崩壊し終わるだろう。銃乱射はそうした
心の平和の取れない人々の喘ぎ声なのだから少しは異常を感じるべきであろう。



176: 名無しさんAA:19/11/12 11:03
 歴史の群像     237

 ある時侍従か運転手かが、何かの言葉のきっかけに、「陛下は南方進出に反対ですか
。」と言った事があったという。この時「北もままならぬのに南もなどと軍は勇ましく
て既にこけておる。」と言い、「油井のみだったら樺太でも制圧すればいいものを。」
と言ったという。この言葉の時が何時なのかは不明だが、南方の欧州列強の土地に攻め
る事は全く反対だったらしいが押し切られた形で軍部は進んでいった。この中でしきり
に米国などとの対戦は何回も反対したという話である。当時北樺太に存在していた油田
地帯ガス田地帯が、ロシア・サハリン州北部の都市、オハ周辺を中心してあったのだ。
オハ油田通称樺太油田は、北樺太のオホーツク海側での最初に開発された油田である。
日本が保障占領中において生産を開始した為、施政権がソビエト連邦に返還された後も
日本が採掘権を維持していた。しかしソ連側が人員や物資の出入りを制限するなどの、
操業ストや操業妨害をしばしば行ったことで、日本にとっての経済価値や戦略価値は、
あまり大きくなかった事で1941年に日ソ中立条約締結の条件としてソ連に返還された。
オハ油田の名称が北樺太の油田全体を指して使用する場合も見られるが、現実にはオハ
油田が北樺太最大の油田というわけではない。第二次世界大戦の後の1961年には、サハ
リン州全体で168万トンの石油が生産され、1970年代には、年間約250万トン程度の石油
が生産されていたとも言われている。シェル石油は実はこの油の運送から起こっていた
。今では巨大になったブリティシュ・ペトロはイギリスのエネルギー関連事業を展開す
る多国籍企業で一代の貴族が、量産してきた国際石油資本の典型的企業だ。民営化で進
められた垂直的統合により、石油や天然ガスの探鉱(シュルンベルジェと連携)採掘、
輸送(パイプラインふくむ)、石油精製、小売まで一括で行う石油資本総合企業である
。しかし、第一次世界大戦後、1900年に誕生したシェルGの前身であるライジングサン
石油株式会社はメキシコを狙っていた。明治期から、国内では新潟県を中心とする日本
海沿岸に油田が開発され、国産石油の生産が行なわれるなか、後年昭和石油の前身とな
る早山鉱油製造所、新津石油が設立されている。1833年先代マ−カス・サミュエルは、
ロンドンに東洋の貝殻を扱う店舗を開店していた。これがシェル石油のトレ−ドマ−ク
の起源となった。東南アジアでの事業成功を夢見て父母に無料の貝殻を送り、それを親
が売りさばく店であり、この貝の売り上げ金が資金になったと言う由来がある。開国し
て早々に1876年に日本にやって来て、ライジングサンの前身の貿易会社サミュエル商会
を横浜で開業している。そして1890年外交人会の会合で、投資家のJPモルガンやロス
チャイルドなどの知古ロイヤル・ダッチ・ペトロリアム社の前身ハーグの設立に参加し
その後1903年(明治36年)サミュエル、デターディング、ロスチャイルドの3者投資に
よって、極東での販売会社アジアチック・ペトロリアム社設立した。既に1892年には、
石油元売会社の昭和石油の前身の1つである新津石油が創業し、ランプ用灯油やローソ
ク、ベンジンなどを売っていた。そこに早山与三郎が新津に製油所を借り早山鉱油製造
所を興して、商品を増やして行った。世界的にも1902・03年(明治36年)は石油
草創期であり、イラン、イラクで油田が発見され、日英同盟協約されて、ロンドンでの
調印即日実施する。テキサコの前身テキサス石油設立され、モービル石油の前身バキュ
ーム石油設立されている。日本でも、石油消費税実施され、原油関税制定、翌年実施、
第5回内国勧業博覧会が大阪市で開催、東京・大阪両市に中央郵便局・中央電信局設置
国定教科書令公布、東京日比谷公園開園、東京電車鉄道会社、新橋−品川間電車運転開
始(東京初の電車運転)、フォード自動車会社設立(米国)、ライト兄弟の初の動力飛
行に成功などと技術革新の時代だった。先の1800年代には1859年に米国で初の油田
発見、1868年スタンダード石油会社設立、1875年ノーベル兄弟バクー油田に利権を得て
近代的製油所を建設、1885年ベンツがガソリン三輪自動車を発明、1891年バク−油田で
大噴油続出、1894年日清戦争勃発、1904年日露戦争勃発、1905年日本海海戦終了、1906
年日露講和条約締結、日米直通の海底電線による電信開始と続いていた。当初は日本に
送られた少量の油の全輸入量の7割もあったようだが徐々に比率は下がって開戦前には
2割も無かったようだが経済制裁で一挙に9割以上となった。


177: 名無しさんAA:19/11/12 11:03
 歴史の群像     238

 サミュエル商会が石油部門を独立させて、ライジングサン石油株式会社を(資本金25
万円)を設立させる頃は、ロイヤル・ダッチのシェルグループが誕生しライジングサン
石油は、シェルグル−プの日本の拠点として事業展開を手広くやっていた。この時代は
新たな技術開発に伴う石油内燃機、自動車、飛行機の発明・そして相次いで世界各地で
油田が発見されたりして、各国で大規模な石油会社が設立され、やがて訪れる石油時代
に布石が打たれていった時代だった。1900年(明治33年)スタンダ−ド石油などもイン
タ−ナショナル石油を設立日本の石油事業に進出していた。ブリテッシュ・ペトロ(B
P)も又第二次世界大戦後から1970年代まで、世界の石油の生産をほぼ独占状態に置い
たセブン・シスターズ7社の内の一社であり、ヨーロッパ最大のエネルギーグループで
ある。1910年(明治43年)メキシコで大噴油が見つかり世界最初の石油ガス生産が行わ
れ、東京のガス燈も灯った。大正元年ロイヤル・ダッチ・シェルはアメリカに進出し、
カリフォルニア油田買収を始めて行く。1918年〜1919年(大正8年)第1次世界大戦が
終結を迎えパリ(ベルサイユ)講和会議開催され講和会議、国際連盟の設置で合意した
頃にはライジングサンは、輸入しているオランダ領インドシナ原油が日本の輸入原油の
中では最大となる商社に変貌を遂げていた。しかし1923年(大正12年)関東大震災が起
こり、ライジングサン石油社屋が倒壊し、本社移転を余儀なくされ神戸に移している。
旭石油も、帝国石油と合併し新しい旭石油(資本金 960万円)として新発足していたが
流出事故もあって行き詰る経営となった。金融恐慌もいよいよ深刻化し第十五銀行など
は休業している。欧州で安売り合戦のシェア争いが起こり、産油制限のため英・米石油
業者がロンドンで国際石油会議開催されたのが、1928年(昭和3年)の事だった。次の
年に備蓄要請が起こり、旭石油や徳山製油所は満鉄に売却され満鉄資本の日本精蝋が設
立された。ライジングサンも拠点だった横浜市山下町に本社新築落成し東京油槽所開所
となった。小倉石油は、横浜貯油に製油所建設し(昭和16年日本石油に合併)カリフォ
ルニア・スタンダード、テキサス両社折半出資で新たな油井掘削にバーレン石油設立し
バーレン島で油田発見したのが1930年であった。ソ連でも石油5ヶ年計画成功し、
大増産を図っている。この時の資本もユダヤに頼った債権発行で賄っている。これが、
最終的に英国とソ連とアメリカを繋いだ。既にやりすぎた経済は、ドイツのインフレを
引き起こし1929年暗黒の木曜と呼ばれるニューヨークウォール街の株式大暴落に端を発
した大恐慌の為の、大戦後の天文学的な賠償金とインフレに苦しむドイツの政情不安と
共に世界に不気味な影を投げ掛けていく姿が見えていた。1931年に満州事変勃発し
たが国内は火の車状態の政府予算が通ったが、金輸出再禁止、対米為替暴落、金兌換停
止の緊急勅令公布施行し。株暴騰、全国株式市場大混乱を引き起こして、年が明けると
すぐに官営八幡製鉄所を中心に財閥系各製鉄会社を合併、日本製鉄として発足させると
共に、石油業法を公布、業者に貯油を義務づけ、石油製品の管理を一段と強化して行っ
た。1937年、戦時統制3法の公布をもって戦時経済体制へ移行し、重要な産業に関して
統制強化が進み、国民総動員法、灯火管制規則、新聞用紙制限令、等国民の日々の暮ら
しに直結した拘束法令が重要産業統制令と共に公布された。当然米と共に、石油、石炭
が配給制となり、ついには白米禁止令が実施される。一方、ファシズムが勢力を拡大す
るヨーロッパでは、ドイツにヒトラー独裁政権が誕生して周辺諸国への侵攻を開始して
とうとう1939年、第2次世界大戦へと突入していったのである。1932年(昭和7年)の
5 月15日の五一五の反乱事件や、陸軍青年将校らが重臣を襲撃・殺害して、永田町一帯
を占拠した1936年(昭和11年)2月26日の二二六事件は、正にこうした中で起こった。


178: 名無しさんAA:19/11/12 11:18

 香港の林鄭長官は、「抗議活動を強く非難し市民の反発は激化している。」と声明を
発している。おかしいだろう言ってることが。香港政府は香港人の政府であり香港警察
は香港人を守るためのものものだ。香港政府が決して屈しない。???何だって香港人
を奴隷か敵国人に見ているんだ。無抵抗デモが暴徒だって、なら、今の警察や香港政府
は殺人者集団であり、逆賊軍隊で秩序のない暴力団はないか。これが中国政府のやり方
か。おかしいだろう。自治政府であり自治会員が暴徒で発砲したなどというのは、交通
警察官がなぜ発砲するのだ。機動隊がなぜ攻撃しているのだ。これは防衛でも防備でも
ない。単なる虐殺だろ。強盗やテロ集団のような警察を騙る暴力団に他ならない。民衆
よりは、警察を規制することが先決だろう。騒動をあおっているとしか見えない。市民
のほうがよっぽど統制が効いていて、正しく行動していて、平常を保っている。選挙前
に混乱させようという腹なのか。


179: 名無しさんAA:19/11/12 11:19
 歴史の群像     239

このサミュエル商会を作ったサミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。そして、
1902年に、ロンドン市長になった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である
。彼は就任式に、日本の林董(はやしただす)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同
乗させた。この年1月に「日英同盟」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった
一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だっ
たかを示している。ちなみに、2台目の馬車に、サミュエルのファニー夫人と、林公使
夫人が乗ってパレード参加をしている。彼は、「ライジング・サン石油株式会社」をつ
くり、日本に石油を売り込み始めたのだが、このころ日本において、ケロシン油で暖房
したり、あるいは照明したりすることは革命的なことだった。この商売でも非常に成功
した。石油をインドネシアから日本までどのように運ぶかということは、頭の痛い問題
だった。初めのうちは2ガロン缶でウイスキー樽のように運んでいたが、原油を運ぶと
船を汚すために、後で洗うのが大変だった。それに火も出やすいということで、船会社
が運ぶのをいやがったし、運賃がべらぼうに高かった。そこでサミュエルは造船の専門
家を招いて、世界で初めてのタンカー船をデザインした。そして彼は、世界初の「タン
カー王」となった事がその後のシェルのシェアを作った。1907年、オランダの「ロ
イヤル・ダッチ石油会社」とイギリス資本の「シェル石油会社」が合併して、「ロイヤ
ル・ダッチ・シェル」が誕生しのだが、このイギリス・オランダの2社の合併を推進し
たのはイギリスのロスチャイルド財閥だった。これには裏がある。当時のドイツが如何
に石油を欲していたか。ルーデンドルフの回想録に、ナチスは政権が充分に石油を供給
しないが為に生産性向上は出来なかった。と伝えている。さらにルーマニアの石油は、
我々にとって絶対に重要なものであったが、しかしながらルーマニア石油の供給をもっ
てしても石油供給の問題は残された。と記している。、そして我々は既に戦時行動の為
のみならず国内の普通の生活にとっても一大困難に陥らしめた。と嘆いている。その為
ドイツの東方進出は石油獲得に対する熱望の結果として説明され、ブカレスト条約など
は石油争奪の為であったし、ブレスト・リトウスク条約も又そうであった。独逸は急い
でルーマニアの石油埋蔵地、及び総ての精製所、凡ての送油管をつけて、これらのもの
を自国軍隊の当面の必要に応じ得るよう変革改造した。こうして 独逸軍の本部では、
1917〜8年に於て石油工業設立会社を起し、余国の石油会社を没収、整理、掠奪し
其得て一つの巨大な採掘と販売の独占に集めて仕舞った。1918年11月21日休戦
条約が締結された時、カーゾン卿はランカスターの議院で、実際後世の人々は連合国の
勝利は石油の波の上に漂っていた。と云うであろう云々と述べている。ドイツは英和仏
三国の資本のルーマニアの純然たる会社に属する一切の所有権を掠奪し、接取している
。そのドイツさえもその石油が不足と言っているのである。石油は大英帝国の、維持・
発展には、必須の原料であった。植民地政策の失敗を補う力がそこにあったからだ。英
国が世界の油田を一手に収めようとした。米国は遅れ馳せながら全世界を物色して石油
資源の場所を特定し権利を行使した。石油は農作物のように耕作よろしきを得れば年々
増収が出来るものでなく、使用すればした分減少し補充の出来ないものであったからだ
。之が領地の争奪戦を誘い国の存亡の為に熾烈とならざるを得ないものだった。、而し
て産業発展上の主要原料は石油である形で国の経済力となり、各国は其争奪に懸命にな
っていたのは必然の結果であった。世界経済界に雄飛する米英が此石油争奪戦の真只中
に役を演じたのは当然だったのだ。つまり、サミュエル商会が発足した明治の当初から
英国は米国の追随に追われながら石油資本に資金投下し大英帝国を形作り死守していた
のである。

180: 名無しさんAA:19/11/12 11:20
 歴史の群像     240

山本五十六が証人となった軍部の開戦時の条件は、天皇によって数多い制約がつけ加え
られて宣戦布告に至っているようだ。日本は武力において米国にいつでも勝つことが出
来た。しかしそれができなかったのが天皇の勅諭つまりお言葉であり、足枷であった。
天皇の条件は、色々緻密に計算されたものではない。しかしそれでもなし崩し的に軍部
が肥大化するのを、身をもって体験し研究された言葉であったろうと思われる。内容は
今でも不明だが50以上はあったのではないかと思われる。@正々堂々宣戦布告して、
開戦する。Aアメリカ本土は襲わないBハワイ島島民に被害を与えないC油槽を爆破さ
せない。D原爆はしようしないなど・・・etcである。これでは戦争できない。と言
わんばかりの条件である。1941年(昭和16年)9月6日の御前会議は、知っての通りに
、昭和天皇は祖父明治天皇の御製を冒頭で引用していた。この意図について、昭和天皇
は1985年(昭和60年) 4月15日の記者会見で次のように語った。「会議の議題の第一議
に戦争準備をすることが掲げられ、また、次に平和のための努力となっていましたが、
私は平和努力と言うことが第一義になることを望んでいたので、明治天皇の御歌を引用
したのです。」と言っている。天皇は、この前日に近衛文麿首相から帝国国策遂行要領
の内奏(事前報告)を受けており、このとき天皇の回想と同様の発言があったと、近衛
文麿側の手記にも記録があるようだ。会議当日の杉山元陸軍参謀総長のメモ(杉山メモ
)にも、平和的外交をするよう、天皇から命ぜられたと記録がある。重要問題のあった
ときにだけ不定期に開かれていた連絡会議にかわって、第2次近衛内閣の時の1940
年11月28日からは、定期的に(週1回、問題があれば毎日でも)連絡懇談会が開か
れることになった。この「連絡懇談会」は、1941年7月まで、39回にわたって開
かれているが、第3次近衛内閣が成立した後の7月21日からは、場所を宮中に移して
連絡会議の名に戻って行っている。そして小磯国昭内閣が成立した直後の1944年8
月5日、名称を最高戦争指導会議と変更している。しかし内容や討議プロセスには、ほ
とんど変化はなかった。連絡会議(連絡懇談会)の構成メンバーは、時によって変動が
あるが、基本的な構成員は内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、
軍令部総長であった。閑院宮、伏見宮が両統帥部長だったときは、参謀次長、軍令部次
長が出席した。それに必要に応じて企画院総裁や大蔵大臣などの閣僚、陸軍省、海軍省
のそれぞれの軍務局長、参謀本部、軍令部の作戦部長、内閣書記官などが加わる場合も
あった。こうした連絡会議(連絡懇談会)は閣議ではない。その為連絡会議の構成員で
ない大部分の国務大臣には、会議の内容は知らされなかった。「連絡懇談会設置の趣意
」という一文には、「本会議に於テ決定セル事項ハ閣議決定以上ノ効力ヲ有シ戦争指導
上帝国ノ国策トシテ強力ニ施策セラルヘキモノトス。」と書かれている。つまり政府を
指導する程閣議以上の権威と権限があった。(『杉山メモ大本営政府連絡会議』上)対
米開戦にいたるまでの重要決定をしたのは、第5回から第8回までである。第2次近衛
内閣のときの7月2日の御前会議では「対米英戦を辞せず。」として「南進の続行」を
きめたものの、まだ開戦を決定した訳ではない。告いで第3次近衛内閣になってからの
9月6日の御前会議も、10月下旬を目標とする戦争準備の完成を決める。と同時に、
対米交渉において「10月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ
直チニ対米(英・蘭)開戦ヲ決意ス。」という、開戦決意はそのままに期限をつけた。
しかし、これがきわめて重要な決定となり。この決定があったので、10月上旬になっ
てなお交渉をつづけようとする近衛首相と、「目途」がないから直ちに開戦を決意すべ
きだとする東条英機陸相が対立した。こうして16日の近衛内閣総辞職、10月18日
の東条内閣成立となったのである。


181: 名無しさんAA:19/11/12 11:22
 歴史の群像     241

 日中戦争が全面化した1937年11月20日に、宮中に大本営が設置されて以来、
重要な国策の決定は大本営政府連絡会議で行われてきた。この連絡会議は、第1次近衛
内閣のときの1938年1月15日に、中国との交渉打ち切りという重大決定を下し、
翌日の「国民政府を対手とせず」という声明によって戦争長期化の大原因をつくった。
また、第2次近衛内閣成立直後の1940年7月27日には、「世界情勢の推移に伴う
時局処理要綱」という、武力行使を伴う南進政策を決定し、対米英戦争の遠因をつくっ
た。最終的には、この大本営政府連絡会議を、天皇の「御前」で開くのが御前会議であ
り、最高国策を決定するもっとも権威あるものとされたのである。ほかに大本営だけの
会議や、天皇が出席するのを大本営御前会議といって、1937年11月24日に第1
回が開かれたが、これは天皇への戦況説明である。38年2月16日の大本営御前会議
では戦面不拡大の方針が決定されたが政権が変わる度に反故にされた。人心が変わるか
らだが、御前会議と名づけられた会議は、大本営設置以後対米開戦まで、下記ように、
開催されていた。

 第1回 1938年1月11日「支那事変処理根本方針」(国民政府が和を求めてこ
                ないときは、これを対手にせず、新政権を樹立する
                という方針)を決定
 第2回 1938年6月15日 武漢、広東作戦実施を決定(『戦史叢書・支那事変
                陸軍作戦(2)』で御前会議と書かれているが、内
                容からみると大本営御前会議であったかもしれない
                )
 第3回 1938年11月30日「日支新関係調整方針」(東亜新秩序の建設のため
                日満支の提携と、華北と揚子江下流域の特殊地帯化
                方針)の決定
 第4回 1940年11月13日 汪政権との間の「日華基本条約」締結の決定
 第5回 1941年 7月 2日「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」(北方問題の武
                力解決を準備するとともに、南方進出のための対米
                英戦を辞せず)の決定
 第6回 1941年 9月 6日「帝国国策遂行要領(10月下旬を目途として対米
                英蘭戦争準備を完成)の決定
 第7回 1941年11月 5日「帝国国策遂行要領」(対米交渉を甲乙両案で行う
                とともに、12月初旬武力発動を決意)の決定
 第8回 1941年12月 1日「対米英蘭開戦の件」の決定

 太平洋戦争直前に発覚した国際スパイ事件の「ゾルゲ事件」では、旧司法省が作成し
たとみられる複数の報告書案を分析した結果、ソ連への方針を決定した御前会議の内容
など七つの情報漏えいがあった事が掴んでいた。しかし、当初は情報を提供した氏名や
機関名が付記されていたが、途中で削除されていたことが今日では分かっている。資料
を分析した加藤哲郎・一橋大名誉教授によると、文書には「上奏文案」と書かれており
、日付の数日後には、岩村通世・司法相(当時)が昭和天皇に事件を報告しているもの
だが、藤氏は、氏名などの削除について「捜査し尽くせない部分を隠す意図があったの
ではないか。」と判断している。


182: 名無しさんAA:19/11/12 11:22
 歴史の群像     242

 この石油紛争は日本だけでなくどこでも起こっていた。イラクで米国が、モスル油田
の開発に割込み、奏効したのを見て英国と米国の火花が散った。この石油戦は此の頃に
は一段落を告げたかの如く見る者があるがとんでもない事であった。尤も英米石油戦の
一時的な休戦には見えたが、他の方面に於ける戦線の、東洋、欧洲、北米、中米、南米
と到る処で、石油の争奪戦は延々と鍔迫り合いがなされていたのである。今般は英米両
アングロサクソン民族は、もの凄い生産と販売の争奪に鎬を削っているかを述べてみる
。英米両国に於てメキシコに於ける程猛烈な石油戦は、世界中探してもまずないと云っ
てよい程である。メキシコが多年に亘って絶えない不安の上にあったのは石油採掘利権
の争奪戦が行われた為である。スタンダード石油はメキシコで石油を販売する唯一の会
社であったが、タンビコの油田が発見されて以来、メキシコに於ける独占権を得ていた
。同社は極端にその地位を利用した販売利益を得、当時スタンダード石油は六百倍と云
う売価で大利潤を得て石油販売をしていたのである。同地に他に石油埋蔵地が発見され
るやボルフイリオ・ディアズ(大統領)は米国側に石油独占を根絶させる為、ビヤーソン
英国会社に重大な利権を許可したが、此利権の許可が、メキシコの一大叛乱の種となっ
たのである。何故こんな大事が勃発したか。英国側石油業者は近東に於ける石油戦捷利
に勢を得て、米本土に侵入して一挙にスタンダードの牙城を陥落しようとしたからだ。
そして、之と前後して米国の南隣メキシコに長駆し更にカリビア海沿岸の諸国に迫り、
米国の勢力に大胆な側面攻撃をなそうと計画したのである。ところがラテンアメリカは
米国政府がモンロー主義の名の下に特殊利益を得ている地域で、英国側の計画は、大分
怪しいものとなっていた。しかもメキシコに於て最初石油生産に著手したのは、米国人
エドワードエル、ドヘネーであった。彼は先ず三十二万五千弗で二十八万エーカーもの
油田の土地を求めて、大統領ヂアズ氏に財的便宜を与え、遂にメキシコに於ける石油王
となってた。米国側の事業が予想外の大成功を告げたのを見てヂアズ大統領はメキシコ
の立場として外国の資本を入れて、外国企業家を歓迎するはよいとしても、一国に偏重
する事はメキシコ将来の為めに寒心すべきである。との見解から、しばらくくて米国側
を抑える為めに英国側にも利権を与えるようになり、此処に初めて英国側の策戦は第一
歩に踏込んだのである。しかし、これでおさまらぬのが米国側である。米国とメキシコ
とは唇歯の関係があり、同国に於て石油事業に先鞭をつけたのは米国であり且つヂアズ
大統領に種々助力を与えたのも米国である、それが俄かに親英主義化したのは怪しから
ぬから、ヂアス大統領の独裁政府を転覆し親米大統領を挙げねばならぬの謀計を立てた
。此の結果がマデロの反ヂヤズ革命となって現れ、三十五年の長きに亘って大統領の椅
子めぐる攻防となり、ヂヤズ氏は倒れてマデロが之に代るに至ったのである。この記事
は、1930年代「大阪時事新報 1929.7.19-1929.8.4(昭和4)」の記事である。2020年
を迎える現代と何処に違いがあろうか。メキシコ沖の石油資源はいまでも自国大統領の
独裁を支えながら移行し、イラクのモスル油田は米国の収入源として湾岸戦争を起こし
ている。本来の土地の使用者たるクルド人は今でも流浪の民で恣意的に国際社会は建国
を認めない。つまり90年間およそ一世紀も間も米国は魑魅魍魎の意識下に蠢いていて
進化や進歩のない暴力国家であり続けているのである。


183: 名無しさんAA:19/11/12 11:30
 歴史の群像     243

 この日本の動きと、米国や欧州の動きの違いは、決定的に民族的危機感の違いであろ
う。古来より安定していた日本の島国国民と、常に戦闘で新大陸に移動し制圧し住み着
いて原住民を蹴散らし、いつ反撃に出会うか判らないと言う生活では自ずと意識からも
違うのは明らかである。だが、日本は最後に西欧列強に開かれた国なのに、アジア盟友
として、アジアの長の地位を得たのは、実はその古来より安定していた島国日本の民族
的な共通精神の安定感である。しかし、近年思う事は、激甚化災害とか過去にない災害
とか勝手に使われる言葉である。古い文献によると、この明治の頃までに無かった災害
などどこにもない。江戸期の浅間山噴火などM8相当の地震は起こっているし、伊勢湾
台風は突拍子もない強風と高潮にやられている。関東大震災でおそらく安定期にはいり
今のように少ない災害になったのだが、これは日本だけではない。ドーバー海峡の崖を
みると、近くまで船着き場があったというから、相当の海の高さが陸地にあったと言え
る事は確かだ。その高さが8〜6mであるからその時代や量が不確かなだけで南洋が沈
む事は当然ながら気候変動だが海洋循環の一周期の中でもある。ドーバー海峡が氷で覆
われ英国のロンドン橋の下でスケートができたのは産業革命の幕開け時代である。中世
の旧ロンドン橋には、住居や店舗、礼拝所が設けられ、決闘する広場までありました。
シティ周辺では1750年にウェストミンスター橋が開通するまで、この橋がテムズを渡る
唯一のもので、しかも通行料を徴収していましたから、交通渋滞がとてもひどかったよ
うです。その旧ロンドン橋の南側の入場門には晒し首が並べられていました。これから
シティに入るのはいいが、悪いことしたら、分かってるな、こうなるぞ、という脅しで
す。16世紀には30以上の晒し首が展示されていたそうですが、この種の展示会、1678年
まで続いた。考えてみれば、日本の関所や町の入口もそうだった。日本橋にも晒し場が
ありました。どこの国でも為政者の考えは似ていて、悪者はいたようだ。だがクルド人
の放浪をみれば、そうした領地の保全と施政の姿勢がなければ民衆のみの平等では治め
られないのだろう事が、かの民族が物語る。つまり日本も島国とはいえ、一度は欧州勢
と雌雄を決する戦いは必要だったのであろう。天皇が突き付けた軍部の開戦時の条件が
殊の外多く困難だった理由は、開戦したくなかったからであろうし、天皇家がかつての
幕府に突き付けた条件闘争の様に一種の天皇家の癖的ものだった。515事件で裏天皇
だった堀川氏が担ぎ出されて、改めて、暁烏(あけがらす)隊と八咫烏(やたがらす)
隊が組織され、天皇家の情報収集として外務省の諜報部隊員、海軍の制圧隊員が組みこ
まれた。その為226事件では、海軍は陸軍将校の動きは充分に知り逐次天皇に報告さ
れていたと言われる。その連絡係に一近衛兵として富安氏がいたと思われるが、近衛兵
そのものは各藩に於ける地方豪族の長が藩主推薦で行われた歴史がある。柳川では小野
氏と三潴では石井氏だったらしいが詳細は江戸の書物でしか不明だ。堀川氏における裏
天皇家は、いわゆる天皇行幸でのお手つき女中を預かる家系で、神職権限を持つ主家と
される天皇の縁戚となった家である。他に鳥飼など幾つかあったが、顔や性格が似てる
子供を持たなければその地位は自然消滅していく運命だったのだろう。たまたま堀川氏
がいたのだろう。そもそも大正天皇や明治天皇は、潔癖で女性に対して綺麗な性格であ
ったことからも、遠い遠い縁戚であったと言えるだろう。その前に天皇が死んでも後続
の宮家が多くいて、何時でも代替わりされる中にあり、それほど権限のなかった江戸期
は、幕府が問題としてこしらえた仕組みであり、幕府の大奥の様な仕組みが朝廷にもあ
ったことから褥屋の中の仕組みかもしれない。宮家の全員が死んで後が無いことは考え
られない状態で裏天皇家などは只の地位的ものだった。ただ単に武将の影武者的に必要
とされた場合の用意はしていたと見たほうがより具体的に見える。



184: 名無しさんAA:19/11/12 11:49
 歴史の群像     244

 終戦に対する八月九日の御前会議の状況は知っての通り重苦しい中で二回に渡った。
最高戦争指導会議、すなわち御前会議おいては、議論は二つに分かれた。大東亜戦争の
終戦を決定した鈴木内閣の内閣書記官長の、迫水久常(さこみづひさつね)氏の記録によ
れば、ポツダム宣言を無条件に受諾してここに戦争を終結すべし。という意見と、この
まま本土決戦を覚悟して戦争を継続すべし。との意見の対立があった。決戦論者も、唯
連合軍側がこのままの状況で停戦し、我軍隊も無条件降伏という形をとらず、それぞれ
の地点から自発的に撤退復員することで満足し、占領軍も我本土に上陸せず又戦争裁判
を日本国の手によって行うことを承知させてくれれば、戦争をやめてもよい。という。
しかし、それは出来ない相談で、結局戦争を継続する。という意見だ。閣議に於いての
経済閣僚から国内の経済力、軍需力の話がありいずれも戦争終結を主張していた。内務
大臣はここで戦争をやめ、右翼が騒動を起す恐れがあり国内治安が心配である。といい
阿南陸軍大臣は関東軍は遺憾乍ら、対ソ戦を実行する力なく、このまま推移せば二ヶ月
にて関東軍は全滅するだろう。と意見だった。こうした議論のこの間にも長崎に第二回
目の原子爆弾の投下があり小田原評定と同じだった。閣議は午後八時に至り、議決もな
く一応休憩した。この時総理は私を御呼びになり、どうしょう。と御相談があったが、
「誠に懼れ多いことと存じますが、陛下の御聖断を得て事を決する外はございますまい
。」と迫水久常(さこみづひさつね)は答えたという。総理は「実は自分もそう考えて、
今朝拝謁しましたときに、いよいよの場合は陛下にお助けを願いますということをお願
いして来た。」と言った。私は総理の用意の良さ、陛下の有難さに感激致しましたが、
偖て(さて)問題は陛下の御聖断を、如何なる方法で受けるかということに考えあぐねた
。即ち、通常の様に、総理が参内してそこで陛下の思召しを伺つて、大臣その他に伝え
るのも一つの方法だが、そういうことでは、陸軍の若い兵士などは総理が嘘を言ってい
るといい、どういう事態が起こらないとも限らない。懼れ多いとも思うが、御前会議を
開いてその席で御聖断を承るようにしよう。と決心した。ところが御前会議を開く為に
、陸軍参謀総長、海軍々令部総長の同意が必要である。両総長には政府及び軍の意見が
統一しない限り御前会議を開くべきではない。といっていてあくまで戦争継続を望む。
同意が得られない私は、当惑しましたが遂に強引な手段を取りまして、半ば両総長をだ
ますようにして、二人の署名花押をとり、御前会議を開くこととしたのでありました。
こうしてやっと、御前会議は八月九日夜十一時から開かれました。列席者は総理・外務
・陸軍・海軍の四大臣、陸軍参謀総長・海軍々令部総長、平沼枢密院議長の七名が正規
の構成員でありまして、陪席員は私、陸海軍の軍務局長、内閣綜合計画局長官の四名、
合計十一名でありました。会議場は宮中防空壕内の一室で約十五坪程のお室でありまし
た。地下十米下であります。一同は、席について陛下を待ちしました。陛下は足取りも
重く、お顔は上気したる如くにて、入って来られました。会議は総理が司会致しまして
、先ず私がポツダム宣言を読む。日本に耐え難い条件を読むのでありますから全く堪ら
ないことでした。次に外相が指名されて発言する。その論旨は、この際ポツダム宣言を
受諾して戦争を終るべきであるということを言葉は静か乍ら断乎申されました。しかし
次に阿南陸軍大臣は、外相の意見には反対であります。と述べ、荘重に涙と共に今日迄
の軍の敗退をお詫びし、併し今日と言えども、必勝は期し難しとするも必敗と決まって
はいない、本土を最後の決戦場として戦うに於いては、地の利あり人の和あり死中活を
求め得べく、若し事志と違うときは日本民族は一億玉砕し、その民族の名を青史に止む
ることこそ本懐であると存じます、と言われました。

185: 名無しさんAA:19/11/12 11:50
 歴史の群像     245

 次に米内海軍大臣はたった一言、外務大臣の意見に全面的に同意であります。と言わ
れました。平沼枢密院議長は列席の大臣、総長にいろいろ質問されたのち、外相の意見
に同意であると言われました。勿論、参謀総長・軍令部総長は、略ゝ陸軍大臣と同様の
意見であります。と言う。この間約二時間半も長く、陛下は終始熱心に聞いて居られま
したが、私はほんとうに至近の距離で陛下の御心配気なお顔を拝して涙のにじみ出るの
を禁じ得ませんでした。一同の発言の終ったとき、私はかねての打合せに従って総理に
合図致しました。総理が立ち、徐(おもむ)ろに「本日は列席者一同熱心に意見を開陳
致しましたが、只今まで意見はまとまりません。とかし事態は緊迫して居りまして全く
遅延を許しません。誠に懼れ多いことでは御座いますが、ここに天皇陛下の御思召しを
お伺いして、それによって私共の意見をまとめ度いと思います。」と述べられ静かに歩
を移して陛下の御前に進まれました。その時阿南さんはたしかに「総理」と声を掛けら
れた。と思います。併し総理は、おきこえになったのかおきこえにならなかったのか、
そのまゝ御前に進まれまして丁寧に御礼をされまして「「只今お聞きの通りで御座いま
す。何卒お思召しをお聞かせ下さいませ。」と申し上げました。陛下は総理に対し、席
に帰って煎るやうにと仰せられましたが、総理は元来耳が遠いためによく聞き取れなか
ったらしく、手を耳にあてて「ハイ」という風にして聞きなおしました。この間の図は
聖天子の前に八十の労宰相君臣一如と申しますか何とも言えない、情景でありました。
総理が席にかえり、天皇陛下は少し体を前にお乗り出しになるような形で御言葉が御座
いました。緊張の中で、陛下は先ず「それならば自分の意見を言おう。」と仰せられ、
「自分の意見は外務大臣の意見に同意である」と仰せられました。その一瞬に静寂が走
る。場所は地下十米の地下室、しかも陛下の御前。陛下のお言葉の終った瞬間、皆が胸
がつまった想いの前にあった。私は置いてあった書類に涙がしたたり落ちました。隣は
梅津大将でありましたが、彼も又書類の上に涙がにじんでいた。私は一瞬、各人の涙が
書類の上に落ちる音が聞こえたような気がしました。次にすすり泣きの声に埋もれた。
そして次の瞬間は号泣であります。建国二千六百余年日本の始めて敗れた日であります
。お言葉はそれで終りかと思う中。然るに陛下はしぼり出すようなお声を以って、声を
発した。「念のため理由を言って居く」と仰せられました。陛下が次に仰せられました
ことの要領は次の通りであります。「大東亜戦争が初まってから陸海軍のして来たこと
を見ると、どうも予定と結果が大変に違う場合が多い。今陸軍、海軍では先程も大臣、
総長が申したように本土決戦の準備をして居り、勝つ自信があると申して居るが、自分
はその点について心配している。先日参謀総長から九十九里浜の防備について話を聞い
たが、実はその後侍従武官が実地に見て来ての話では、総長の話とは非常に違っていて
、防備は殆んど出来ていないようである。又、先日編成を終った或る師団の装備につい
ては、参謀総長から完了の旨の話を聞いたが、実は兵士に銃剣さえ行き渡って居らない
有様である事が判った。このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は、
非常に心配である。或は、日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなか
ろうかと思う。そうなったらどうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るか
。自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となって
は一人でも多くの日本人に生き残っていて貰って、その人達が将来再び起ち上って貰う
外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。それにこのまゝ戦を続けることは、
世界人類にとっても不幸なことである。自分は明治天皇の三国干渉の時のお心持も考え
、自分のことはどうなっても構わない。堪え難きこと忍び難きことであるが、この戦争
をやめる決心をした次第である。」陛下のお言葉は人々の号泣の中にとぎれとぎれに伺
いましたが、日本国民と更に世界人類の為に自分のことはどうなっても構わないという
陛下自身の広大無辺なる御仁慈に対し、唯ひれ伏すのみでありました。

186: 名無しさんAA:19/11/12 11:54
 歴史の群像     246

 陛下のお言葉は更に続きまして、国民がよく今日まで戦ったこと、軍人の忠勇であっ
たこと、戦死者戦傷者に対するお心持、又遺族の事更に外国に居住する日本人即ち今日
の引揚者に対して又戦災に会った人に対して御仁慈の御言葉があり、一同は又新に号泣
したのであります。そうして陛下のお言葉は終りました。総理は立って、陛下に入御を
奏請し陛下はお足取りも重く室をお出になりました。後に残りまして一同は協議致しま
して、陛下のお思召しに従い、ポツダム宣言を受諾する方法によって戦争を終結する事
とし、唯一つ米国側に対し「このポツダム宣言の諸条件の中の、天皇の国家統治の大権
を変更する要求は、これを含まないものと諒解するが、この点について明確なる返事を
して欲しい。」という留保をつけて「ポツダム宣言を受諾する用意がある」旨を中立国
を通して、連合国に通知致すことにしたのであります。こうして、即ち国体護持を唯一
の条件として、終戦を決定したのであります。しかし、その後の八月十四日の御前会議
が更に行われる。「さて、こちらから十日の早朝打ちました電報に対する返事は仲々参
りません。」しかもこのことは公表致して居りませんので、東京市内の各所では家屋の
強制疎開の為家を引き倒して行って居るのだ。私は身を切られるような気が致しました
。流石に米軍の空襲も八月十日、十一日には御座いませんでした。十二日朝サンフラン
シスコの放送によって先方の回答の内容を知り得たのではありますが、正式の経路を通
じた回答は十三日朝到着まで待つことになった。この間に於ける諸般の情況は詳しく申
し述べるにないが、天皇陛下は皇族・重臣・元帥・軍事参議官などを次々にお召しにな
って、お考えをおさとしになりました。この際、東条大将は陛下にもう一度御考え直し
を願った。という風に聞いて居ります。十三日に正式回答を議題として閣議が開かれた
。先方の回答は長いものでありましたが要点は次の二つであります。
(イ) 日本国天皇及び政府の統治権は或る場合には連合軍司令官の制限の下におかれる
   ことがある。
(ロ) 日本国最終の政治形態は日本国民の自由なる意思によって決定せられる。(即ち
   国体は日本人がきめるにまかせる)というのであります。
 先方の回答の遅れた理由は、連合国間に意見が分かれた為であった。後で聞きました
所でありますが、ソ連は勿論、英国も支那も天皇制の廃止を主張した。が、米国だけが
前駐日大使のグル―さんなどの知日派の人々の働きによって、とうとうこういう回答に
なったのだそうであります。後で米国国務省の役人がきて私に話したのでありますが、
こちら側からの回答に天皇制のことについて留保がついてきたときには、ほんとうに驚
いた。実に堂々としていて、一体これが敗戦国の態度かと思った、同時に日本には何か
含みがあるのではないかと疑った。が、グル―さんなどが鈴木さんの人格からいって、
決して何もたくらみがあるのではない。と言ってがんばったので、他の国をやっと説得
したというのである。後から考えてみると正に米国側の主張が正しかったわけだった。
と申して居りました。この回答に対して大部分の大臣は、ポツダム宣言を受諾する当然
の結果として、国体が変るわけではない。ということを、先方が承知したものである。
として終戦に賛成でした。唯陸軍大臣及び両総長はこの回答では明瞭でく、もう一度、
先方に確かめてもっとはっきりした返事が来れば良いが、そうでない限り国体を護持し
得るかどうか、明瞭でない以上飽くまで戦争を継続せよ。と主張していた。平沼枢密院
議長などは、先方が国民の自由なる意思によって天皇制を維持するかどうか決めよ。と
いうのはおかしい。天皇の御地位は神ながら決まっているものであって、国民の意思に
よって決まったものではないのであるから、これでは国体に反するという議論をされて
いました。そして、これももう一度はっきり先方にたしかめよというのでありました。


187: 名無しさんAA:19/11/12 11:56
 歴史の群像     247

 この間米国側から盛んに、日本の回答の遅延を責めて参ります。もう一度先方の意向
を問い合わせたのでは、到底交渉の糸が切れてしまうことは、明かであります。よって
私は総理にもう一度陛下のお力におすがりする外はないと申し上げました。しかも、両
総長の同意を得られない限り、御前会議を開く途はありません。畏れ多いことながら、
陛下よりお召しを願うことにしたのであります。総理は、十四日早朝参内して拝謁して
陛下の方から十六人の大臣全部、枢密院議長、陸海軍の総長をお召しを願って、おさと
しを頂くことにお願い申し上げお許しを受けました。
 十四日午前十一時一同は、天皇の御招き(おまねき)によって参内して、先般の御前
会議の室に集まって陛下の御出席を待つ事になった。私も出席した。今度は、全部で、
二十三人もいた。総理より経過の概要を説明した後、陸軍大臣、参謀総長、軍令部総長
からは、「それぞれ先方の回答では国体護持について心配である、しかし、先方にもう
一度、確かめて満足な回答は得られないであろうから、このまゝ戦争を継続すべきであ
る。」という意見が涙共になされ、下って申し上げられました。陛下は総理の方に向か
って外に発言するものはないか。という意味の御合図があって後、「皆のものに意見が
なければ自分が意見を言おう。」と前提せられ、お言葉がありました。「自分の意見は
先日申したのと変りはない。先方の回答もあれで満足してよい。と思う」と仰せられま
した。号泣の声が起りました。そして陛下は玉砕を以って君国に殉んぜんとする国民の
心持ちはよく判るが、ここで戦争をやめる外には、日本を維持するの道はない。という
ことを、先日の御前会議と同じように懇々とおさとしになり、更に又皇軍将兵戦死者、
戦傷者、遺族更に国民全般に御仁愛のお言葉があり、しばしば御頬を純白の手袋をはめ
たお手にて拭われました。一同の感激はその極であります。椅子に腰かけているにのに
堪えず、床にひざまずいて泣いている人もありました。しかし、私共を、現実の敗戦の
悲しみを超えて、寧ろ歓喜にひたらせたものは、この次に仰せられた陛下のお言葉で御
座いました。陛下は「こうして戦争をやめるのであるが、これから日本は再建しなけれ
ばならない。それはむづかしいことであり、時間も長くかかるであろうが、それには、
国民が皆一つの家の者の心持になって努力すれば必ず出来るであろう。自分も国民と共
に努力する。」と仰せられました。この言葉を拝したときの心持は、高天原に於て天照
大神が天岩戸をお開きになってお出ましになった時、それをお迎え申した八百万神の、
心持もかくやと、しのべるような気が致しました。尊きを知って只高く仰いでいた陛下
はやはり国民と共にある陛下でありました。私はこゝに新日本建設の黎明さを感じた。
のであります。陛下は我等国民を御信頼なさって、我等に日本再建を御命じになったの
であります。しかし、陛下のお言葉の中には 全く他日の復讐を期するというお心持は
ないので、広大無辺な御仁慈は国民のみならず広く、人類の安心平和幸福を希い給い、
又将来日本が国際社会の一員として世界平和の確立に大いに寄与するため、新しき日本
が新しき民主主義の基礎の上に、道義の香り高き文化国家を再建することを希い給うた
。言葉でありました。陛下は更にお言葉をおつづけになり一般の国民には、ラジオを通
じて親ら(みづから)さとしてもよいと仰せられ、又、内閣に於いて速かに終戦に関する
詔勅の草案を作つて、手許に差し出すようにとのお言葉がございました。これにて御前
会議を終り、閣僚は内閣に帰つて終戦の議を決定し、更に終戦の御詔勅の草案を審議致
しました。かくして、内閣は終戦の詔勅を起草することになりました。


188: 名無しさんAA:19/11/12 11:56
 歴史の群像     248

 こうして、天皇の詔書を閣議にかけて、午后八時審議を終了しそのまま陛下のお手許
に差し出し、御嘉納がありまして一切の詔書公布の手続きを終了しましたのは、十四日
午后十一時でありました。即ち大東亜戦争の公式終了の時間は、昭和二十年八月十四日
午后十一時であります。直ちに、米国に向かってポツダム宣言を受諾した旨の電報を致
したのであります。御詔勅は陛下の御心持をそのまま表していると思います。一度朗読
させていただきます。

詔書
「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
  御 名 御 璽
   昭和二十年八月十四日
                   内閣総理大臣 男爵  鈴木貫太郎
                   海軍大臣       米内光政
                   司法大臣       松坂広政
                   陸軍大臣       阿南惟幾
                   軍需大臣       豊田貞次郎
                   厚生大臣       岡田忠彦
                   国務大臣       桜井兵五郎
                   国務大臣       左近司政三
                   国務大臣       下村宏
                   大蔵大臣       広瀬豊作
                   文部大臣       太田耕造
                   農商大臣       石黒忠篤
                   国務大臣       安倍源基
                   外務大臣兼大東亜大臣 東郷茂徳
                   国務大臣       安井藤治
                   運輸大臣       小日山直登

189: 名無しさんAA:19/11/12 11:57
 歴史の群像     239

 玉音放送の詔書 (みこのり)     [中垣現代語訳]
 私は、深く世界の大勢と日本国の現状とに思いを巡らし、非常の措置をもって時局を
収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良な全国民に申し述べる。
 私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、ポツダム宣言を受諾すること
を通告するよう下命した。そもそも、日本国民の平穏無事を図って、世界繁栄の喜びを
共有することは、代々の天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことで
ある。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定と
を望み願う思いからであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから
私の望むところではない。
 ところが交戦は、もう四年を経ても、我が陸海軍将兵の勇敢な戦いも、多くの公職者
の奮励努力も、一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず戦局
は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた、我が国に有利をもたらしていない。
それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(注 原子爆弾)を使用して、無実の人々までをも
殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。これ
以上戦争を継続するならば、遂には我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の
文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって、多くの
愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いのだろうか。これこそが、私
が日本国政府に対しポツダム宣言を受諾するよう命ずるに至った理由なのである。私は
、日本と共に 終始 東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の
意を表せざるを得ない。日本国民であって、前線で戦死した者、公務にて殉職した者、
戦災に倒れた者、更にはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思
いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については
、私が深く心を痛めているところである。
 考えれば、今後日本国が受ける苦難は、並大抵のことではないであろう。あなたがた
国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は、時の巡り合せに逆らわず、
堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思
う。私は、国としての形を維持することができるならば、善良な全国民の真心を拠所と
して、常に国民と共に過ごすことができる。もし誰かが感情の高ぶりから、むやみやた
らに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして、互いに時勢の成り行きを混乱させ
、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が
最も強く警戒するところである。ぜひとも 国を挙げて 一家の子孫にまで語り伝え、
誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重く かつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、
総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき
姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければなりません。あなた
がた国民は、これら私の考えをよく理解して行動して下さい。」

 これが玉音放送で流された内容なのである。よく、朝鮮人会や韓国の指導者などが、
「天皇が跪き、懺悔し 頸木の中で謝罪せよ。」などと声明を発するし、全く謝罪声明
がない。などとアホを言うが、全く違っていてポツダム宣言の受諾からして、天皇陛下
は、「……日本と共に 終始 東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して
は遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって、前線で戦死した者、公務にて殉職
した者、戦災に倒れた者、更にはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂
かれんばかりの思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々
の再起については、私が深く心を痛めているところである。……」と謝罪表明している
のだ。韓国の逃げてアメリカ合衆国という他所から李承晩には全く理解できなった言葉
であろうが、アジアの趨勢において、日本は心痛める必要も無かったが心痛めて戦って
きたのである。


190: 名無しさんAA:19/11/12 13:14
   朝鮮人に 喝!  317

 この頃トランプのせいで最近流行しつつある「経済外交策(economic statecraft)」
は、対外政策の内、経済を手段とするもので他に、「軍事力の行使」や「威嚇による交
渉」「平和的外交」「意図的広報操作(propaganda)」などがある。機動的なものと、
能動的なものに分けられる。つまり積極的行動での話と歴史的や体制的流れで行う物の
話である。自由貿易を国是とする日本は主に能動的流れなもの(広い意味での報酬や、
それを約束するもので、代表例は政府開発援助など)を使って来たが、しかし機動的な
主体事例もないわけではない。例えば、北朝鮮に対する日本独自の禁輸や、今度の韓国
に対する輸出管理厳格化措置がそれで、いずれも朝鮮半島に関するのは偶然ではないか
も知れない。その目指すところ(戦略目標)について、長谷川氏は次の8つを挙げる。
(1)シグナル: 経済的な損害や利益(或は脅し・約束)で相手にメッセージを送る
(2)強化: 様々な経済政策を通じて、自国や友好国の交易力を維持・補強する
(3)相殺: 敵対国や脅威国や不良国などの海外からの経済的悪影響を無効化する
(4)封込: 違法行為や不埒行為に締め付けによって相手国の産業形態を劣化させる
(5)強制: 経済的損害やその脅しによって相手を譲歩させ、国際発言の地位を守る
(6)買収: 経済的利益やその約束と引き換えに、相手を譲歩させ納得させる
(7)抽出: 相手の経済的依存に付け込み、相手から富や資源を調達し搾取する。
(8)誘導: 持続的な経済利益提供で、相手国にシンパを増やし、相手の迎合に導く

 今回の厳格化措置は、韓国を旧ホワイト国から除外することで、対象となる三品目(
フッ化ポリイミド・レジスト・フッ化水素)を、包括許可対象から除外することだった
。結果として、個別許可対象となるという、二点だった。とりわけ即効性が予想された
のは後者の方で、韓国の輸入量が少なくないことからグローバル・サプライチェーンに
影響すると韓国で大騒ぎとなった。確かに、当該品目における日本企業のシェアが高く
、他に代替がききにくいものだったため(そのような品目を選んだのだ)、効果てき面
で言わば急所を突いた形となったようだが、実際には、例えば最初の二品目は貿易統計
(通関実績)上はそれなりのボリュームがあっても、輸出管理の対象となるのはその内
の限られた仕様で極めて限定的であり、ほんの数%しかなくさしもの影響はない。しか
も手続きが煩雑となるだけで、例えば三つ目の品目などは既に許可がおりて、問題なく
輸出されており、一説によればここ数ヶ月、中国向け半導体輸出が減っていたので在庫
がだぶついていた。そのこともあって実害はなく丁度良かったとの声も有るほどだ。が
政府にしてみれば急所を突いたとは言え寸止めされていた形である。実際に、韓国の康
京和外交部長官は、最近の国会の決算特別委員会の全体会議で、日本の輸出管理措置に
ついて「具体的な被害は確認されていない。」「このような状況が長期化することによ
る不確実性が企業の負担となる。」と述べている。これに従い、日本国政府の本音を、
代弁すれば、この厳格化措置で狙ったのは上記(1)の「シグナル」つまり「警告」に
過ぎないのであって、輸出「規制」でもなければ、ましてや「禁輸」でもない。当初、
安倍首相や経産大臣が徴用工問題とリンクするかのようにうっかり口を滑らせたのは、
その為盛った発言だったのだろうと思われる。ところが韓国側では(5)の「強制」と
受け止めて強く反発した。日本側の意図が 正しく伝わらなかったのは、日本側の説明
不足と言うよりも、如何に説明されようとも政治利用しようと待ち構えていた韓国側の
作為と言うべきだろう。正確に言うと、その筋の専門家(例えば韓国側の規制官庁)は
正しく理解していただろうに、韓国大統領府が聞く耳を持たなかったのである。それは
ちょうど韓国の国防筋も情報筋も外交筋もGSOMIA継続を主張したのに、韓国大統領府が
受け入れなかったとされるのと同じ構図であり、なんとも死んだような腐ったイデオロ
ギーに凝り固まった文大統領府の独裁と言うべきだろう。これじゃあ日本政府として、
まともに相手をしていられる国だろうかぁ・・・ということになる。


191: 名無しさんAA:19/11/12 14:13
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 52

 トランプのせいで最近流行の「経済外交策(economic statecraft)」は、今や中国に
効かないようで、とうとう関税戦争になったようだ。まあ、トム・クルーズのワッペン
程度なら悪い冗談であったが、今や何でも間でも威嚇と誘導と封込めの対象らしく研究
にも、広告にも、洋服のデザインにも、スポーツ選手の発言にも中国政府が意見を言う
と言う、というまったく恥ずかしい国に成り下がった。まあ日中戦争の頃から、全くお
かしな人類の敵のような様態で、自国民を簡単に虐殺して他人の性にする行動が多々見
られ日本人は訝しがっていたが、香港デモでは図らずもその一端が露呈しているようだ
。この香港島と同じに長官が窮しているのが北朝鮮の将軍様だ。昨年の党中央委員会総
会では、金正恩は、核・ミサイル実験の中止と、核開発と経済建設の両方を追う「並進
路線」に勝利した。と終了宣言し、経済発展に注力する路線への転換を表明していた。
しかし、2月の米朝交渉が不調に終わった後悔もあって、ミサイルを飛ばし「自立的な
民族経済を土台にし、自力更生の旗を高く掲げ、社会主義建設をさらに進める。」など
と、「自力更生」という言葉を計27回も繰り返し「制裁でわれわれを屈服させること
が出来ると血眼になり誤った判断をしている敵対勢力に、深刻な打撃を与えるべきだ」
などとも語り、アメリカへの譲歩には応じず、交渉の長期化を視野に入れた姿勢を示し
ている。まあ可能性はゼロとは言わないがこの間に核開発を模索していて来年あたりは
更に巨大な威嚇する北朝鮮が出現しそうな雲行きである。後の交渉については、年内を
一つの区切りとし、韓国ではアメリカを高く評価しているが来年のアメリカ大統領選挙
を睨んでいるだけで具体的成果は出そうにもない。既にトランプ大統領の足元は見透か
されているのは間違いない。トランプ以前の大統領からは相手にされず、トランプ氏だ
からこそトップ同士の直接交渉の相手となり得た事情もある。原則合意から進展が乏し
い現状への焦りはあり、依然続く国連制裁への苛立ちもある。そんな中で、今年に入っ
て10回の度重なるミサイル発射実験で、北朝鮮はミサイル技術を着実に向上している
と懸念する声が聞かれる。しかし、真の意図は普通の国の様になりたい。という悲鳴に
見える。10月23日に金委員長が、朝鮮半島五霊山の一角・金剛山を視察したときの
報道は、韓国資本で作られた数々の観光施設をボロクソに貶し、「わが国の力で、名山
・金剛山にふさわしい施設を作り直すのだ」と命じたのは、見方によっては父親の偉業
を否定し、アメリカとの交渉で父を超えたと言いたいのだろう。そして16日には朝鮮
中央通信社は、金委員長が白馬に跨り聖地とされる白頭山に登る写真を公開するという
、なんとも大仰な報道をして見せた。金委員長に同行した側近は「金氏が雄大な作戦」
を計画していることを確信した。とまた勿体をつけて報じている。今度は伯父が果たせ
なかった韓国占領でもやるつもりだろうか。日本と韓国の軋轢を睨んでいるのは間違い
ないが、韓国も、金委員長とトランプ大統領の逢瀬を演出したが、いったん関係が構築
されてしまうと用済みで南北融和を期待しようにも、客観的な国際情勢の中北朝鮮声明
ではボロクソである。仕方がない面もあるが仲立ちをこれだけクソにするのも民族も、
世界広しといえど朝鮮国の民族のみだろう。全くおかしな大陸の国々である。




192: 名無しさんAA:19/11/12 21:05
   朝鮮人に 喝!  318

 相変わらず、責任ある立場の人がよくもまあ見え透いたことを。いけしゃあしゃあと
垂れ流せるものだと感心する(笑)。韓国名物のデモ参加人数の水増しがハンパじゃな
いのはこの際ご愛嬌ということにしよう。今月4日に、バンコク開催のASEAN関連
首脳会議に出席中の「日韓首脳のやりとり」(日本政府)は会談でも立ち話でもなく、
「言葉を交わしたという理解」(西村明宏官房副長官)などと、日本は軽く受け流した
記事に対して、韓国政府は堂々と「歓談」と発表し、野党議員の「韓日の発表に温度差
が大きい」と指摘された韓国の首相は、「対話の内容も紹介せず、国際的な基準に合う
とは思わない。」と日本の対応に言いがかりをつけた模様である。例のレーダーと同じ
で、証拠があるなら見せろと見せられた証拠をねつ造するような国民性の発言である。
昨日、韓国大統領府の国家安保室長は、「(GSOMIAは)韓日両国が解決すべき問題で、
韓米同盟とは全く関係ない。」「韓国の立場から見れば、最近の韓日関係悪化の根本的
原因は日本がつくった。」と詭弁を弄した発言が続く。GSOMIA協定延長のためには日本
の輸出管理厳格化措置の撤回が必要だ。と主張しているらしいが、日本という相手のあ
る話をしない独り善がりのみの主張が並ぶ。共産化したイデオロギーに凝り固まって、
自らの耳に心地よいファンタジーに酔っているが、そのうち悪酔いして現実の厳しさに
目覚めざるを得なくなるだろう。そろそろ日本に助け舟を出して欲しい。と甘える高等
戦術だろうが日本船にはとても乗れる場所はない。というのも安倍政権で沈没すれすれ
だからだ(笑)。この輸出管理厳格化措置について、少しでも気づいた方は多くの事に
納得するであろう。韓国を旧ホワイト国から除外することで、対象となった三品目の(
フッ化ポリイミド・レジスト・フッ化水素)の内容がキモイのだ。まず、今回の経済産
業省が発表したことで有名となった物体である、3品について紹介しよう。フッ化ポリ
イミドは、スマホなどの基盤の材料として使用されているようだ。フィルム状の状態で
使用されて、耐熱性・絶縁性・強度に関し高い水準を保ち、エレクトロニクスを始めと
して様々な分野への応用が可能となっている基板材料の被覆材のようだが、今日多段層
IC基盤が求められる中では、とっても大事な役割を持ちコーティング膜材の特性は、
大きく大事らしい。レジストは、これまた同じように基盤の表面を覆うことで絶縁膜を
作る保護剤だが、基盤加工時エッチング処理の保護材らしい。基盤の裏において緑色の
膜が縦横に複雑に覆っているが、その緑色の線がレジストに当たるものらしい。主に、
エッチング液・めっき液・はんだ付けなどに対して、特定の領域を保護する為使用され
、また、湿気や空気中のゴミが接触しないような目的もあって、かなり使用される。こ
ちらも、フッ化ポリイミドと同様、世界の全生産量のおおよそ9割を日本製品が占めて
いると言われる。世界の半導体企業はほとんど日本からの輸入しており、急に代替先を
見つけるのは同じく難しいとされている。フッ化水素とは、別名「エッチングガス」と
も呼ばれており、半導体のシリコン基板の洗浄に使われる物体である。中国でも作られ
るが、近年ますます精密化が進む産業分野において、純度の高い質のいいフッ化水素が
求められて、その供給がない限り新世代ICは製造できない。と言われる。要はごみ掃
除用の水の様な物だが、洗い水が汚れていたら精密さを追求できないのである。日本は
その最大手の生産国で、世界生産量の約7割を占めている。その上フッ化水素の不純物
を除く作用はウラン濃縮に使われる程の優れものらしい。つまりIC基盤の肝がこの3
種の材料らしいが、実は文氏はこのフッ化水素を韓国で作っていた頃の事故で、批判し
て名を上げた弁護士だったのである。なんとも運命とは恐ろしいものである。


193: 名無しさんAA:19/11/12 21:41
 歴史の群像     240

@ 最後の御前会議と場所
 終戦直前の昭和20年8月9日にポツダム宣言受諾の可否について御前会議が行われ
、鈴木貫太郎首相から乞われる形で宣言受諾の御聖断が下された。その後8月14日に
再び御前会議が開かれ、再び御聖断の形でポツダム宣言受諾の最終決定がなされた。 
この2回を特別に「最後の御前会議」と称している。この2回の御前会議の場所は、宮
中「望岳台」(武蔵野台地)近くの地下壕「吹上御文庫付属室」で行われた。とされる
。地下10メートル、部屋の広さは15坪ほどであり、天皇皇后両陛下の寝室・居間の
ある吹上御文庫地下壕からは90メートル離れており、地下道でつながっていた。陸軍
工兵隊により50トン爆弾に耐えられるよう作られた地下壕での事だった。と言われる
A 御前会議の制度的位置付け
 御前会議については「御前会議法」というような制度上の法的根拠は一切ない。御前
会議の位置付けは法的には不明確であり続けた。当然、開催が制度化されたものでもな
く、たとえ開催されても、天皇が出席して発言しないことが、多くの会議の建前であっ
た。国会でも明治天皇の中で行われたものを御前会議と称している。日本の帝国憲法は
「君臨すれども統治せず」を前提としていた。したがって憲法上の天皇の立場は、政務
は各大臣の務めであり、軍令では、参謀総長と軍令部総長の輔弼(補佐)を得て「上申を
承認する。」という形で、つまり賛否を言わずに「解った」と述べるだけであったのだ
。一方で、帝国憲法で、第13条においては「天皇が開戦と終戦を決定する」と定めて
いた。しかし、この場合でも立憲主義の建前からは、天皇による意思の表明・発動は好
ましくないとされていたし、特に開戦に関しては、天皇自身に戦争責任が及ぶため天皇
が直接に決することはなかったであろう。そこで、政務と軍令を統括する御前会議が、
その役割を果たしたという形である。しかも、この場合ですら、御前会議の決定が直ち
にそのまま国家意思の決定とならない。改めてその内容について閣議での諮問を経て、
閣議決定や国会決定してから、正式決定となる制度であったのだ。最後の御前会議での
決定事項も、改めて詔書に各大臣が署名花押して、同意がなければ正式決定とされなか
ったのである。そこで詔書を先行して憲法発布の様に成案として承認されて天皇が読む
事によって、法律として宣戦布告なり、終戦宣言なりが行われる形となっている。
B 迫水久常内閣書記官長
 迫水久常氏は、終戦時において、鈴木貫太郎海軍大将が組閣した内閣の内閣書記官長
であり、現在の内閣官房長官に相当する立場にあった。迫水氏は、明治35年生まれ、
鹿児島市出身で、東京帝大卒業後、大蔵省に入り、岡田啓介内閣の首相秘書官を歴任し
、岡田啓介元首相の女婿であり、岡田元首相の指示を受けながらも、東条政権の打倒に
尽力していた。そして、鈴木内閣では、内閣書記官長として、終戦のための手続きやら
段取りのすべてを、取り仕切ったようである。迫水氏は戦後には、参議院全国区で当選
4回、衆議院鹿児島1区で当選2回を果たし、この間、郵政大臣、経済企画庁長官など
を歴任している。
C ポツダム宣言
 ドイツ降伏後において、1945(昭和20)年7月1日から8月2日まで、ベルリン
郊外のポツダムにおいて、米英ソの3カ国首脳が集まって第二次世界大戦の戦後処理に
関しての会談が行われた。このことからポツダム会談での呼びかけが、ポツダム宣言と
いわれる。この会談の期間中の7月26日にトルーマン大統領、チャーチル首相、及び
蒋介石国民政府主席の3者の共同声明として発表されている。しかし、蒋介石を含んだ
中華民国の要員は会談に参加していなかった為、無線連絡網でで了承を得た。とされて
いる。


194: 名無しさんAA:19/11/12 21:41
 歴史の群像     241

 ポツダム宣言の、内容については、要旨次のとおりである。
1 米国大統領、英国首相及び中華民国主席は、自国の数億の国民を代表し協議の上
、日本国に対し戦争終結の機会を与えることに合意した。
2 欧州方面の陸海空軍によって、数倍にも増加された米英中の兵力は、日本全土に
対し、最後の打撃を加えようとしている。この軍事力は、日本国が抵抗をやめる
まで、日本国に対して戦争を遂行しようとする全連合国の決意によって、鼓舞さ
れ持続されている。
3 自由を希求して奮起する世界の諸国民の力に対し、ドイツが重ねてきた無意味な
抵抗の結末は、日本国の国民にとって、極めて解り易い見せしめである。現在、
日本に向かって集結しつつある軍事力は、全ドイツの国土と産業、生活様式を荒
廃させた軍事力よりも強大なものである。我が軍事力の全面的な発動は、日本国
軍の不可避にして完全な破壊と、同じく日本本土の完全な焦土化を意味する。
4 日本が引き続き、無分別により自国を滅亡の淵に追い詰めた強情な軍国主義者に
支配されたままこの戦争を続けるか、あるいは道理に従うか、決断する時期がき
   た。
5 我等の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩もしないし、
またこれから外れることもない。執行の遅れは認めない。
6 日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯した勢力を除去する。
7 日本に新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまで、日本国内諸
地点を占領する。
8 日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びにこれらに付属する諸小島に限
らなければならない。
9 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活できる。
10 戦争犯罪人は処罰される。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重が
確立される。
11 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段を保有できる
。また将来的には、国際貿易に復帰できる。
12 日本国民が自由意思により平和的・責任ある政府を樹立できる。この項目及び記
載した条件が達成された場合、占領軍は撤退する。
13 我々は日本政府が全日本軍の無条件降伏を宣言し、かつその行動について十分な
   保障が提供されることを要求する。


195: 名無しさんAA:19/11/12 22:05
 歴史の群像     242

D ポツダム宣言発表後の経緯
 ポツダム宣言は、日本側に降伏の条件を示し、また降伏しない場合の徹底的攻撃を示
したものであり7月26日に公表された。日本側は、翌27日に内容の詳細な検討に入
ったが、政府としては、この内容を即座に受諾は出来ないものの、明確に拒否すること
もできずにいた。終戦の機会を逸するものとして、ポツダム宣言には回答せずまた新聞
への発表も、宣言の訳文のみを載せ、政府のコメントなしという形でなされている。こ
うして、ポツダム宣言の内容は28日の新聞で国民に明らかにされた。がしかし、軍部
は猛反発し、鈴木首相に対して、宣言を無視し戦争貫徹に邁進する。という正式なコメ
ントを要求していた。鈴木首相はこの圧力に屈する形で、ポツダム宣言の黙殺をして、
断固抗戦という旨の首相談話が7月30日の新聞に公表された。しかし、実際のところ
は、日本政府は、仲介を依頼していたソ連の回答を待っていたので、回答を留保したの
であって談話は勝手に創作されている。「ノーコメント」(withhold comment, remain
silent)という姿勢は、各種報道のなかで「黙殺」(would be ignored, reject, kill
it with silence)という表現に変化して各国首脳に伝わったと言われている。そうし
て、その結果において、連合国首脳の反発を招き、結果的にはソ連の対日参戦を早め、
原爆投下を招いたとされ、返す返すも残念である。

E ソ連参戦
 8月になって、政府(特に鈴木首相と東郷外相)は依然終戦への道を模索していた。
ポツダム宣言が米英中の3カ国首脳の名の下に発表されたことを受け、政府は、ソ連を
仲介とした講和を目指していたのである。日本政府は、スターリンらがポツダム会談に
参加していたことは情報として承知していたが、当時は、日ソ中立条約が有効であり、
政府はソ連の対日参戦はない。と考えていたのだ。日ソ中立条約は、1941年に締結
され、1946年までの5年間有効であったからだ。その後の延長について、条約期限
切れの1 年前までに破棄通告なき場合自動延長とされていた。が、1945年4月5日
、突如としてソ連が条約不延長を通告してきた。しかし、1946年4月までは有効で
あり、8月は有効期限内であった。8月に入って本国の訓令を受けて、当時ソ連に駐在
していた佐藤大使は、ソ連を仲介とする講和締結のため、ソ連外相のモロトフとの面会
を目指して動いた。モロトフは、8月2日まで行われていたポツダム会談に参加してお
り、6日モスクワに帰還していた。モロトフ外相との面会を要求していた日本側に対し
、ソ連側は佐藤大使との面会を8日午後5時と指定したが、佐藤大使がモロトフ外相を
訪れたその場で、モロトフ外相はソ連の対日宣戦布告文書を読み上げるという不見識を
行ったのである。この宣戦布告をうけ、ソ連軍は翌9日、満州との国境を越え、日本軍
への攻撃を開始し、およそ50万人の邦人が一般人兵士問わずに収容所送りにあった。


196: 名無しさんAA:19/11/12 22:05
 歴史の群像     243

F 原爆投下
 こうした動きの中で6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下される事になった。
これを期に、慌てた政府は最早戦争の継続は不可能であり、早期の終戦を計ることとな
ったのだ。東郷外相が8日、昭和天皇に拝謁し、原子爆弾投下に関わる事情を上奏した
際、天皇陛下は「終戦に向け努力するように」と言われたと伝えられている。広島への
原爆投下とソ連の参戦を受けて、9日午前、最高戦争指導者会議が開かれた。とされる
。最高戦争指導者会議は鈴木首相、阿南陸軍大臣、米内海軍大臣、東郷外相、梅津陸軍
参謀総長、豊田副武海軍軍令総長の6人で構成され、戦争に対する最高の意思決定機関
である大本営会議の中枢を担う者が集まった形である。会議では、ポツダム宣言の受諾
にあたり、どのような条件を付けるかが論争の的となったようだ。首相・外相・海相は
「国体護持」の1条件のみを付けることを提案したのに対し、陸相と2人の総長達は、
国体護持に加え戦争犯罪人の処罰、武装解除の方法、占領軍の進駐に関する3条件付加
を求めていた。戦犯処罰は、連合国のみが、戦犯を処罰しないよう求める条件であり、
武装解除は前線での即時の武装解除は困難である。という主張であった。占領に関して
は短時間かつ少数の兵力上陸であることを連合国側に要請する。という主張であった。
この会議は最後まで意見が分かれた。午後1時散会となったが、奇しくもこの会議中、
11時2分に長崎に二発目の原子爆弾が投下された。そしてこの日午後、ポツダム宣言
受諾に関する閣議が開かれたが、ここでも外相と陸相の対立は解決せず、ついに深夜、
前述の御前会議が開催されることとなったのである。

G 連合国側の回答と日本の対応
 日本側の条件付きポツダム宣言受諾の通知は10日午前、当時中立国であったスイス
及びスウェーデン経由で行われている。連合国側の回答は12日に行われたが、当時の
米国務長官であったバーンズの名を取り、「バーンズ回答」と呼ばれている。バーンズ
回答に対して日本側で2点の改訳が問題となった。1点目は、「the authority of the
Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the
Supreme Commander of the Allied Powers というもので「天皇と日本政府の統治権は
連合国軍最高司令部の隷属下に置かれる。」という記述である。この点に関しての外務
省の訳文は、「subject to」を「制限下に置かれる」と意訳し軍を説得した。しかし、
この記述では国体護持が守られるか否かが曖昧であったため、最後まで議論の対象とな
ってしまう。受諾反対、若しくは国体護持、を再照会しようとの立場は、陸軍大臣及び
両総長が思うところであった。2点目は、「the ultimate form of the Government of
Japan shall,in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the
freely expressed will of the Japanese people である。「日本国政府の最終的形態
はポツダム宣言に従い日本国民の自由な意思に基づき決定される」という記述である。
この記述も又、現帝国憲法で天皇に行政権・立法権があるにもかかわらず、政府の形態
を国民の自由意志で決定する。という記述になり、国体に反するため、国体護持に適合
していないのではないか。と問題提起に挙げられた。発議者は平沼枢密院議長である。
いずれにせよ、前述のとおり御前会議における陛下の御聖断によりポツダム宣言受諾は
決定した。これを受けて14日23時、スイス及びスウェーデン経由で連合国側に受諾
を通知、ここに遂に終戦を迎えることとなった。



197: 名無しさんAA:19/11/12 22:07
 歴史の群像     244

H 関連資料
 14日の2度目の御聖断の発言の全てが含まれるこうした記録は「昭和天皇発言記録
集成(防衛庁防衛研究所戦史部監修)」に記載されている。また、尾形健一 陸軍大佐
侍従武官の日誌である「尾形健一大佐業務日誌」は太平洋戦争下の宮中の状況を知る上
で貴重な史料となっている。ただし、原本は防衛省防衛研究所戦史部図書館が所蔵して
おり、一般には非公開である。なお、尾形大佐は、御前会議に臨席していない。上司の
蓮沼侍従武官長が会議場に居て、蓮沼武官長からの伝聞を記述したもの、と思われる。
迫水氏の証言を補強する意味で、業務日誌の中の陛下の御発言部分を以下に紹介する。
 今回の回答に依り自分の先般の決意に変更なし。先般の決意は、内外の情勢、我国が
戦力等を十分省察して決定せるものである。又国体護持に関しては、先方は之を認めて
居るものと信じ不安を有せず。又国民の自由意志に基づく政体の決定も、外交上の用語
を見るを適当と信じ、余りに疑念を抱くことは適当でないと信ずる。保障占領に関して
は相当の不安あるも、夫れが為、更に戦争を継続することは、結局国体の護持も出来ず
、唯玉砕するのみの事となり、固より国の体面上、保障占領の如きは 洵に残念な事で
あり、又今迄身命を犠牲にして働いて呉れた軍隊の武装解除を要求せられ、場合に依り
ては忠良の子臣も罰せねばならぬのは、自分としては洵に残念であり、忍び得ざる処で
ある。然し此の際、涙を呑み、忍び難きを忍び、明治天皇の遼東還付の御心を忍びつゝ
、此に戦争を終結に導き、我国体を保持し、万民を塗炭の苦より救ひ度し、と決心せる
次第。皆も残念であろうが、自分の気持ちを察して其様に運んで貰ひ度。国民には速に
夫れに関して詔書を出す様に、又陸海軍にも詔書を出す様取計って貰い度。要すれば自
ら放送しても良いと思ふ。

I 天皇の皇太子への手紙
 以下は天皇陛下が穂積重遠東宮大夫に皇太子の元に届けるように命じた手紙のコピー
である。この手紙のコピーも野田代議士から一緒にいただいた。ちなみに、皇太子殿下
は当時11歳の学習院初等科で奥日光に疎開されていた。
「手紙をありがたう しつかりとした精神をもつて 元気で居ることを聞いて 喜んで
居ます。国家は多事であるが 私は 丈夫で居るから安心してください。今度のやうな
決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつた
ことをいふことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言
いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである
。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである。明治天皇の時には
、山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも 第一次
世界大戦の独の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知ら
なかつたからです。戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さな
ければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべく つとめたのである。
穂積大夫は常識の高い人であるから わからない所があつたら きいてくれ。寒くなる
から 心体を大切に勉強なさい。      九月九日            父より


J マッカサーとの対面  その1
 1945年8月15日、ポツダム宣言受諾から2週間後に、日本の運命を握る人物が
厚木飛行場に降り立った。連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーである。終戦直後
連合国は、天皇に対し厳しい処罰を要求しようとする勢力があった。一方の日本政府は
、たとえ連合国に占領されても、何とか天皇制を維持していきたい。と望んでいたので
ある。敗戦から1ヵ月半の後、昭和天皇は急速マッカーサーを訪ねている。会見の2日
後に発表された1枚の写真は、それは日本国民に敗戦の現実を正々と実感させるものだ
った。そこにあるのは昭和天皇の会見を、できるだけ印象深いものとして発表しよう。
という思惑がある写真だった。会談のあとマッカーサーは、周囲の圧力を退けて天皇制
の維持を腹に決めて、以後さまざまな占領政策を実施した。この戦後の出発点とも言え
る、昭和天皇とマッカーサーの会見にまつわる事項は、内容・反響など敗戦直後の歴史
的事実で大きな事だったが、9月27日のマッカーサーと昭和天皇は2人だけで会見し
、その会見内容は当時も今も公式に発表されていない。



198: 名無しさんAA:19/11/12 22:13
マッカーサーの回想記によれば
、昭和天皇は「政治・軍事の全責任は私にあり、私自身を連合国に委ねる。」と申し出
たと言う。これにマッカーサーは感激し、日本最上の紳士と評価して、その後一層好意
ある態度を示したようだ。これは昭和天皇とマッカーサーの人物像の一端を示す、意義
ある話題だった。これが、今の象徴天皇の発端となったと言われる。一方マッカーサー
は、会見写真の新聞公開を指示し、日本国民に敗戦を実感させる才覚も示している。こ
の会見の通訳も皇太子であり完全な密室状態で漏れるものはなかった。いずれにしても
、終戦直後の占領軍と日本政府の間で、天皇自身の扱いを含めてマッカーサー会見で、
かけひきが、真剣かつ必死の覚悟で行われていた。このことは、あまり知られていない
だけに歴史的にも興味深いものがある。


199: 名無しさんAA:19/11/12 22:15
この昭和天皇の心意気を、今の香港政府や北京政府に日本人として伝えたい。
同じ中国人が こんな暴動や紛争でいいのか 改めてキャリーラムに問いたい


200: 名無しさんAA:19/11/13 07:16 ID:BM
 「福島原発汚染水問題を国際公論化」とぎょっとする命題がついたニュースが流れる
。韓国海洋水産省は10月10日、このような報道発表を出した。前日にロンドンで開
かれた海洋投棄禁止に関するロンドン条約の締約国会議についての発表で、韓国が福島
第1原発の「汚染水」の海洋放出は「全地球的な環境環境に影響する国際問題になる」
と主張した。との内容だ。 韓国は同11日のフィリピンでの世界保健機関(WHO)
の会合でも「汚染水」問題を提起している。いずれの会議でも「原子力」問題との直接
関係が全くなく、主管は国土交通省、厚生労働省だった。しかし、韓国側の主張を想定
して外務省が情報を共有していたため、連携して即座に反論した。韓国側の主張は事実
を踏まえていない。福島第1原発のタンクで保管しているのは、原子炉内で溶けた燃料
に触れた放射能汚染水を多核種除去設備(ALPS)で浄化した「処理水」の事だが。
放射性物質トリチウムを含む処理水は、政府の小委員会で処理方法を検討中で、結論は
出ていない。海洋放出の場合も未処理の汚染水を流すわけではない。更にもっと言えば
韓国の原子炉の海洋排出水はこの数値の約21倍の高濃度で排出放流している。近々の
高濃度では民間団体調査の結果では57倍や78倍などの数値が記録されている。日本
の外務省や経済産業省は9月に、東京の各国大使館向けの説明会を開き、韓国の3人を
含む出席者に資料を配布し事情を説明している。しかし、韓国は国際会議で海洋放出を
前提として「福島汚染水」との言葉を多用している。外務省幹部は「原子炉の周りの水
をそのまま放出するかのような印象を植え付けようとしている。」と担当者は憤ている
。韓国は今月下旬に中国で開催予定の日中韓原子力安全上級規制者会合でも「汚染水の
海洋放出問題」を提起するとされ、日本側の一層の取り組みが求められる。という。し
かし、韓国の原子力安全委員会は、自分たちの出している海洋放流水の月次調査資料す
ら開示も明示もしていない。いったいどうしてなんだ。日本のように調査してるかすら
も解らないままだ。少なくとも民間の採取した放流数値は、大きく希釈した海水調査で
あり200以上の数値即ち日本の福島汚染水の数値の100倍ほどの数値があがるもの
と考えられる。ただし、希釈し薄くなればいいという類は甚だ危険で、数値が低いから
、人体に影響ない。放流できる。というものでもないだろう。と思われる。


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