川中島周辺に住むスレ


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川中島周辺に住むスレ

1: とある金持ち:11/06/18 15:47 ID:HU
川中島周辺に住む中高生のスレ。

101: 名無しさんAA:19/09/12 01:12
 本来人は 嘘をつくものであり、欲望をもつものだ。人間には間違いを犯すし、いい
逃れも多いものだ。しかしそれが、正しいものか悪いものかというのは、又別の判断が
必要になる。多くはその欲望や言い逃れが悪いことではあるが、自分の地位や立場或は
何かを守る為の嘘は時として必要不可欠の要素の場合もある。しかし残念ながら大統領
制度の下では、その独裁的手腕に任されている事が多い。その点王室や天皇がある国は
気楽なものだ。米国などでは、神にか紙にかあるいは文字にか民衆にか憲法にか宣誓し
その上で、告白なり意見なり判断なりを行う。この行為を茶番とは言わないものの、国
という大きなものを動かす政治では、民衆の目や批判の下にさらされて判断されるべき
なのである。日本の裁判所もこの英国ほどに 公明正大な公平正義の公言をしていよう



102: 名無しさんAA:19/09/12 08:20
 なぜNHKは情報を割いて嘘をつく。日本の経済界が訪中している。中国を訪れてい
るのは日中経済協会訪問団である。中国の李克強首相と会談し、米中の貿易摩擦をめぐ
って「両国が交渉による問題解決を図るよう期待したい」と述べたのに対し、李首相は
、「誠意を持ってアメリカと交渉し、問題の解決策を探りたい」と応じ、前向きな解決
意欲が見て取れ、さらに李首相が「日中両国が貿易や技術面で協力することが世界経済
の安定に資する」と述べ、日本と中国が経済面での一層の関係強化を図ることを確認し
た。とされる。またこの経済界は、アンポンタンで大馬鹿であろう。いままでにスパイ
疑惑や違法麻薬所持で5人の経営者が秘密裡の未公開裁判で処刑されている。濡れ衣な
のか、証拠や事実があってかは不明だが、公開裁判でもなければ日本の国際弁護士も入
れないままだ。それ以上に自国の人権派弁護士とされる678人は2560回もの不当
拘束不当逮捕である。こうした事に目を背けての訪中とは情けない話だ。香港の学生よ
り悪く、幼児じみた訪中である。せめて今後の香港の意向や警官暴力反対の声やドイツ
大使の声明は自由主義貿易の違反であって、何も悪いことをしていない青年を、国家が
批判追及して議員交流させないのは不当な行為である。と批判すべきである。能天気に
中国に近寄って またかつての1990年代のように中国に資本も流通も技術も労務も
販路もお客も取られて、政冷経熱と騒いだ時の経済人より、よりバカな2代目3代目の
経営者連中が日本を衰退させていくのではないかと大きな心配な動きである。そうした
過去のデーターや過去の情勢や今の動向の裏側をNHKは強いて隠している。まったく
国民放送の精神に立ち返れ。


103: 名無しさんAA:19/09/12 08:25
    歴史の群像     43

 第一次インドシナ戦争終結後でも、中国の北ベトナムが支援する南ベトナム解放民族
戦線(アメリカ合衆国はベトコンと呼称)が南ベトナムで武力を用いた反政府活動を続
けた。その為、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワーは少数のアメリカ軍人からな
る「軍事顧問団」を南ベトナムに派遣したが、彼らが暴走するとは思っていなかった。
その後も、ジョン・F・ケネディ大統領は軍事顧問団の規模を増大させる。その為事実
上の正規軍の派兵を進めた事になった。リンドン・ジョンソン大統領は、この大規模な
正規軍に増派部隊を送ってベトナム戦争に積極的に介入した。と言うより政治が決めた
フランスの植民地支配の賛意が、そのまま武力制圧で紛争に陥って、ベトナム戦争を引
き起こした。と言えるだろう。これが中国でなくベトナムであった事が大きな間違いだ
ったのだ。米国にとっては、朝鮮も台湾もベトナムも、フィリピンでさえも東南アジア
の野蛮な未開の小国の一つとしか認識していなかった。つまりアラスカやフィリピンを
頭越しで購入したアメリカ独立戦争後と対して意識は変わらず、有色人種=奴隷種族の
意識しかなかったのである。これに苦労したのは日本だけではなかった。ベトナム戦争
で数度にわたり組織の名称を変えて戦った時のポルポトの運命や性格は、全く同じに、
なぜこの戦いをカンボジアは解らないのか、なぜ一緒に立ち上がろう戦おうとしないで
平和に戻ろうとするのか。ベトナム人と何故こんなに違うのかとの怒りがあったのだろ
う。こうして共産化しない高度の知識層の人々を次々と殺戮して行った。この残虐行為
に対抗したロン・ノル将軍もまたシアヌーク公が敵方クメールルージュと共闘しても尚
共産党員を探し出させ、容赦なく殺しまくった。残虐行為に憤怒し、この国の道として
ポルポトから守る事を選んだのだった。アメリカの1930年代ユダヤ基金は資金が底
をついた。アメリカが破綻したからだ。国全体で株の大暴落で一夜にして5千億ドルが
消えてしまい、フーバー夫人は感謝祭に食糧を配ったほどだ。失業者の群れに暗黒街の
アル・カポネまでもが配給サービスに及んだのである。つまり戦争したり国を買ったり
するホワイトハウスと庶民の生活には乖離があり、ホワイトハウスの火事と共に銀行も
潰れ、取り付け騒ぎの中で、銀行閉鎖で、さらに8千億ドルが消えてしまうのだった。
4〜500万人が路頭に迷う浮浪者となったのである。さらにフォードは政府支援に、
給与を上げて車の値段をさげ八千万ドル近くの赤字をだし、五千人解雇に踏み切った。
つまり、政府の行政に忖度してさらに国を危機におちいらせたのである。この強硬な米
国国民の意識が米国政治をそのまま続けさせ、第二次世界大戦は勿論ベトナム戦争まで
もつづけて、ポルポトやロン・ノル将軍を産んでいたのである。


104: 名無しさんAA:19/09/12 08:26
    歴史の群像     44

 映画「苦闘五十年」は、このルーズヴェルトの大統領選挙直後に 暗殺されたシカゴ
市長のヨセフ・ノバクの物語である。「渦巻く妖術」などの監督、ハミルトン・マクフ
ァッデンが作った映画で、大統領選挙前にマイアミで凶弾に倒れたシカゴ市長アントン
・セルマックの生涯を描いたもの。デッドリー・ニコルズとラマール・トロッチが共同
して書き下ろしている。
1871年ボヘミヤ人ヨセフ・ノバクは妻テレザと共にアメリカへ移民としてやってきた。
テレザと旨には乳飲み子のジョンが抱かれて到着した。ノヴァクは妻子を携えてシカゴ
へ行ったが、その時シカゴは大火に見舞われ全市灰燼に帰してしまっていた。ノヴァク
はシカゴに隣る炭坑町ブレイドウッドに住むこととなり、坑夫となって働いた。ところ
がヨセフは炭坑爆発の犠牲となって倒れた。ジョンは父とどうよう炭坑に働いていたが
、暗黒の地下から地下の光明へ浮かび上がらねばならぬ、との父の遺訓に従って、坑夫
生活をキッパリ止めて陸上に出た。いくつかの仕事をした末に、木材売買で儲けだした
ジョンは、トリーナ・ハヴェリックという乙女に恋して結婚した。かくて平和な生活が
続いた後、政界に身を投じ公式な道を歩んだ。議員となったジョンは無産階級の味方と
して熱弁をふるい、公明正大な態度を以て民衆に喝采された。かくして遂に、ジョン・
ノヴァクはシカゴの市長に選ばれた。市長となった彼は敢然として暗黒街掃蕩を志し、
犯罪の都シカゴの場かに尽力して治績を挙げた。ルーズヴェルトが大統領候補としてた
つや、ジョンはフロリダのマイアミに応援演説に赴いた。マイアミで凶漢がルーズヴェ
ルトを襲ったときジョンは身代わりとなって致命傷を受けた。ルーズヴェルトに抱かれ
て死亡した。息を引き取るときジョンが洩らした言葉は「私で良かった、貴方でなくて
」の一言であった。と映画はなっている。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ
、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は
育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」というのは、
山本五十六の言葉であるが、この10年程前の1919年にアメリカに駐在を受命して、ハ
ーバード大学に留学している。1921年に帰国するが、アメリカに駐在する前の1918年の
頃から「ナショナルジオグラフィック」を購読し、2度目のアメリカ滞在から日本に戻
った1928年以降でも、長男の山本義正は鎌倉・材木座の自宅に、ナショナルジオグラフ
ィックがアメリカから毎月届きました。当時小学生だった私は、父より先に封筒から取
り出して良く見たものです。本棚の半分はアメリカの歴史に関する本で、他に黄色い背
表紙のナショナルジオグラフィックがたくさん並んでいました。付録地図もケースの中
に大切にとってありました。父はアメリカを知るためのあらゆる勉強をしていました」
と語っている。これだけの勉強家が他に日本にいなかったのだろう。山本の意見は海軍
でも御前会議でも孤高の意見であった。ただ天皇や米内あたりは解っていたろう。だが
1938年(昭和13年)11月25日、米内が南シナ海の海南島を占領する計画を、五相会議で
提案し、閣議了承されるに至っては米英との対立が決まるので、山本もがっくりしただ
ろう。パナイ号事件であれほど駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーに謝罪し、綿密な検
証での解決をはかった意味を失くしたのである。山本が言うようにあと3〜5年じっと
日本が耐えていれば、勝ったかもしれないどころか、日米開戦すら起らなかったかもし
れない。

105: 名無しさんAA:19/09/12 08:27
    歴史の群像     45

 この米内が発したとされる南シナ海の海南島を占領する計画が五相会議で提案した時
海軍は米国に臆している。とされたからだが、海軍も世間知らずで簡単に閣議了承され
たのは意外だった。海軍軍令部(次長・古賀峯一、第一部長・宇垣纏、第一部第一作戦
課長・草鹿龍之介なども賛同し、1939年(昭和14年)2月に日本軍は海南島を軍事占領
し、山本の米英の反発を招くとして反対したが、海軍の補給基地が沖縄や台湾では中国
内戦に対応できず遠かったのも事実だった。その判断が軍令部総長・伏見宮の賛成によ
り押し切られ制止できなかった。草鹿によれば日本の南方進出を見込んだ布石であった
が、東南アジアに多数の植民地を持つ欧米列強との関係は一挙に悪化することになった
のも又事実だった。3月、米国で客死した前駐米大使・斎藤博の遺骨が米巡洋艦「アス
トリア」で礼送され、横浜港にて山本が受け取った。4月こうして山本は航空本部長を
兼務することになった。斎藤は生粋の親米派でアメリカ・イギリス勤務が長く省内屈指
の秀才とも評された。父・祥三郎も外務省主任翻訳官で、親子2代の外交官の血筋であ
り将来を嘱望されて又活躍もした。35歳のシアトル領事を皮切りに、2年後ニューヨー
ク領事ほか、パリ講和会議・ワシントン会議・第1次ロンドン海軍軍縮会議といった、
大正期の重要な国際会議においてほぼ全権団に加わっている。当然山本とも故知の中で
、1929年(昭和4年)には43歳で外務省情報部長に任じられた。1934年(昭和9年)に駐
オランダ公使に任じられるが、その年のうちに駐米大使としてワシントンに転任して、
満州事変後に悪化した日米関係改善に尽した。日中戦争初期のパナイ号事件では本国の
訓令を待たずに直接ラジオの全国中継で平和的解決を全米中に訴える程の和平主義でも
あった。1938年(昭和13年)夏に肺結核が悪化してバージニア州の避暑地ホットスプリ
ングスで療養する。首相・近衛文麿から同年9月に突然辞職した外相・宇垣一成の後任
になることを要請されたが、健康を理由に固辞している。外務省は翌10月に斎藤の駐米
大使の任を解いて帰朝命令を出し、堀内謙介が後任として着任したが、斎藤の体は帰国
の旅に堪えられず、そのままワシントンで死去したのである。バージニア州は歴史上は
かなりに黒人奴隷と白人優位主義者の衝突してきたところで、欧州人が上陸してきた時
から、フレンチ・インディアン戦争があったり。イギリス占領になって、本国の議会が
植民地に新税を課して独立戦争になったり、歴史の上で少なからぬ役割を果たしていた
。そうした過去からインディアン、ヨーロッパ人、アフリカ人などがこの地で貢献し、
住み着いている。これらの人々を巻き込んだ戦争が常にあったのだ。フレンチ・インデ
ィアン戦争、アメリカ独立戦争、南北戦争から冷戦、テロとの戦いまで、バージニアが
殆ど舞台になってきたのはニューヨークやワシントンのさほど遠くない南部であり肥沃
な大地に恵まれた土壌がアメリカ農産物の供給元であったからであろう。。トーマス・
ジェファーソンはメイソンの宣言を受けて全植民地のアメリカ独立宣言をここで起草し
た。1883年から保守的白人層の民主党は、人種差別のジム・クロウ法を通し、1902年に
バージニア憲法を書き直して、人頭税など投票権を制限する手段を入れた。これが実質
的なアフリカ系アメリカ人の大半と、多くの貧乏白人から投票権を取り上げた形の人種
差別の基幹となったのである。つまり当時一番偏見の強い土地柄で必ずしも斎藤の療養
に適してはいなかった場所だ。特に当時黒人からも白人からも煙たがれていたアジア人
にとっては見えない壁があったろうと思う。


106: 名無しさんAA:19/09/12 08:30
    歴史の群像     46

 歴史家は通常この時代を再建時代といい、その始まりを、1863年元旦の奴隷解放宣言
からとしている。リコンストラクション( Reconstruction,「再建」の意味)は、アメ
リカ南北戦争によって、アメリカ連合国と奴隷制システムが崩壊した後の幾多の問題を
解決しようとした時代という枠組みである。1863年〜1877年までの間アメリカ合衆国史
の用語として使われる。リコンストラクションの間、連邦政府は南部諸州の合衆国への
復帰と、元連合国の指導者たちの地位の回復に取り組み、解放されたアフリカ系アメリ
カ人つまり自由黒人の、法的、政治的、経済的、社会的なシステムの構築を学ぶ。この
時半恒久的な平等の実現に失敗し、合衆国のリコンストラクションのこれらの課題を、
今もどのように達成するかのについての議論は続いている。既に1861年には人権擁護の
声は始まっていたものの、共和党急進派は、奴隷制を廃止し連邦政府に従うという南部
諸州の決意に対して強く疑いの念を持っており、もっと強制的な連邦政府の行動をリン
カーンに要求してた。しかし、1865年春の南北戦争終結後の、北部を地盤とする共和党
のリーダーでも、奴隷制および奴隷所有者の権利は永久に壊されたと理解したが、実質
的解放はしていない。この時アメリカ連合国の国旗やシンボルなど連合国のナショナリ
ズムを表すあらゆる形式のものは抑圧されたが、そこには反発もあった。共和党穏健派
は、これらは連合国の軍が降伏したのと同じくらいすぐに容易に達成できるであろう。
と軽く考え、そして南部州は脱退を撤廃し、アメリカ合衆国憲法修正第13条を承認した
。これら全ては1865年までに起こったことである。エイブラハム・リンカーン達の奴隷
解放宣言によって連邦政府では奴隷は解放された。としていたが、奴隷解放宣言を発し
たが一時的な戦争終結の手段で、現実行政ではない。と見なされていた。又宣言後も、
合衆国憲法修正第13条の批准の前は、デラウェア州とケンタッキー州では奴隷制は合法
のままであったのだ。公式に奴隷制を廃止し、奴隷制の禁止を継続すること、および、
制限のある例外(犯罪を犯した者)付きで、自発的ではない隷属を、改めて禁じた法案
をアメリカ合衆国憲法の修正条項の一つとしてだしたのである。しかし、この時のデラ
ウェアとケンタッキーは大きく内情が違っていた。最初のピューリタン(清教徒)が、
作った州がデラウェアであって既に農業経済は集合型から混合型へ移行し、奴隷労働力
の需要は減り、白人の農業主も独立戦争に出かけ、その後はメソジストやクエーカー教
徒が所有者に奴隷解放を働きかけ、理想を求めるという理由で個人的に奴隷解放が進ん
でいたのだ。逆にケンタッキーは多くの現地人つまりインディアンが逃げ延びた所で、
かつての集落の地を白人が盗んだと白人社会との闘争がまだ終わっていなかった。白人
の奴隷所有者は、護衛や仲間や世話がまだまだ必要だったのである。つまり合衆国脱退
も辞さない南部の生活様式がそこに必要だったのだ。対する北部の文化と経済の攻勢へ
の正当な合憲的反応で、又南部と北部の最前線で、南北戦争の負けは「失われた大義」
と呼んで、奴隷制は恵み深い制度であり、奴隷達はその恵みを与える所有者達に忠実で
誠実であるべき、と考えていた。進んだ文化で文明を与える神が白人だ。というのであ
る。双方にあるのは政府不信で、奴隷制の擁護よりも州の権限の防衛が11の州を駆り立
てアメリカ合衆国から脱退させ、それが戦争に突き進ませた。実際独立戦争後に脱退で
南北戦争に走った事は、実際には内戦であるということを白人優位主義者は認めない。
今その象徴の昔の州旗がよく掲げられるが、これらは単にテロの国旗に過ぎない。つま
り今の米国人は開拓戦争と南北戦争と独立戦争の仕分けすら出来ないバカのようだ。


107: 名無しさんAA:19/09/12 08:35
   歴史の群像     47

 戦前に国が既に全面戦争に入ろうとする中で、昭和15年(1940)に総理大臣直轄の、
「内閣総力戦研究所」が開設された。この研究経過とその結論を綴ったものは今でも有
効なものだった。同研究所では軍部・官庁・民間から、選りすぐりの若手エリートを集
め討議する「模擬内閣」まで結成し、豊富なデータを基に日米開戦を分析したようだ。
兵器増産の見通し、食糧や燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携などについて科学
的に分析、机上の演習を繰り返した。その結果、昭和16年 8月には「日米が開戦すれば
日本は必敗である。」という結論を導き出していた。結論を聞いた東條英機陸軍大臣は
この年の10月に首相就任して、こう述べた。「これはあくまでも机上の空論でありまし
て、実際の戦争というものは、君たちの考えているようにはいかない。意外裡なことが
勝利につながっていく。君たちの結論はその意外裡の要素を考慮したものではないので
あります。」「意外裡の要素」という言葉が科学的、合理的な分析を無視した「ヤマト
魂に敵はない。」につながる精神論を意味していると戦後、解釈された。こうして政府
や軍部は、総力戦研究所の「日本必敗」という結論を無視して無謀な戦争に突入した。
ということになる。しかし、この総力戦研究所の他にも、陸軍省は戦争経済研究班を持
っていた。この総力戦研究所とほぼ同時期に、英米との戦争を徹底的に研究していた。
その結論は次のようなものだった。
(1)極東の米英蘭根拠地を攻撃して自存自衛を確立。
(2)東南アジア、インド洋からの英米による蒋介石政権への軍事物資補給ルート
   (援蒋ルート)を攻撃、支配し、蒋政権を屈服させる。
(3)独伊と連携して英国の屈服を図る。
(4)最強の敵となる米国とは極力戦わず、戦闘は日本近海に米国をひきつけて行う
  (戦争は本拠地からの距離の二乗に比例して自陣が有利である。だからハワイ攻撃
   などはしてはならない。)との基本方針を示している。ところがこの他にも研究
論文が2つあって、海軍陸戦隊、中野陸軍学校のからの、4つのいづれも大きくはとり
あげられなかった。陸軍省の研究で、戦争の舞台は東南アジアとインド洋を中心にして
、当時の日本の海軍力と英国の海軍力を比較すれば十分に勝算がある戦い方を望んでい
た。米海軍側もフィリピン基地など日本近海の西太平洋側だけならば、当時は日本側の
方が物量的に優れていたし攻撃される恐れも少なかった。この研究班のシナリオ通りに
実行すれば、緒戦で英国軍を破って、東南アジアとインド洋の制空海権を奪取、日本は
インドネシアの石油を確保。援蒋ルートも断ち切り、シナ大陸の戦闘を含めて、極めて
有利に展開できたことになる。こうしてインド、東南アジアの国が列強から独立して、
日本に味方するならば、ドイツと提携して米国によるインド洋、スエズ運河からの英ソ
への援助ルートを断ち、独伊が欧州戦線で決定的な優位に立てる。と踏んでいたのであ
る。東條陸相は、こうした「陸軍省戦争経済研究班」など幾つかの結論を知っていた。
だが、昭和16年夏の段階で、極秘戦略の内容やそうした敗戦結果などを民間人を含む、
幾つかの総力戦研究所などのメンバーに軽々しく開示することはない。だから「意外裡
の要素」と言った。更に原子爆弾開発に密かに理化学研究所に諮問していた。 当時は
新型爆弾開発は実は海軍が早く着手していた。何故なら日本は1949年(昭和24年)ノー
ベル賞を受賞したほど物理学が進んでいたのは、ドイツ留学者が多かったからだ。


108: 名無しさんAA:19/09/12 08:35
    歴史の群像     48

 1893年(明治26年)から1896年(明治29年)にかけ、長岡半太郎は当時一番進んで
いたドイツに留学し、ルートヴィッヒ・ボルツマンのもとで学び帰国し日本に広めてい
たのである。戦前にはアインシュタインが来日したほど物理学者の交友は多かったよう
だ。海軍がこれを知ったのはシベリア出兵に船を出し、ユダヤ人学者をも救出した事の
ようだ。第一次大戦時飛行機も戦車も出来るのだが、化学兵器やあるいは新型火薬など
の開発も進んで、電気と同じ燃料機関などの研究も進んだ。この頃は理論が先行し研究
特許が盛んだったのである。ここに仁科芳雄の公式がでてくる。仁科芳雄は天才科学者
で、ニールス・ボーアの講演を聴いて物理学に興味を持ち、1923年に コペンハーゲン
大学のボーアの研究室に移って助手の研究員をしている。5年半過ごし1928年にはオス
カル・クラインとともにコンプトンの散乱の有効断面積を計算して、クライン=仁科の
公式を導いた。この公式によって核兵器の転用の可能性が生まれたのである。これを以
て新たにその可能性に海軍は予算を割いたが、そんな忌まわしい兵器研究はまかりなら
ん。と口上を口添えした木戸幸一もろとも天皇の怒りがあったとされる。だが密かに、
陸軍がこの情報を聞きつけて継続したという。この予算に杉山元などが理化学研究所に
日産コンテェルンを使った迂回投資をしたと考えられる。荒勝文策などは、1941年に、
日本海軍より 原子核分裂の技術を用いた新型爆弾の開発を依頼された。としている。
この年表には少し疑問がのこる。というのも、荒勝文策は台北帝大開学までの2年間ヨ
ーロッパに留学して、ベルリン・チューリヒを経てイギリス・ケンブリッジ大学の研究
所に在籍したが。帰国後1928年に、すでに台北帝国大学教授を経て1936年には京都帝国
大学教授となっているのだ。発表通りの時期としても、アメリカの原爆開発開始と比べ
ても決して遅れたものではなかった。上に、この計画には湯川秀樹らも加わっていた。
一方、日本陸軍は理研の仁科芳雄に原爆の開発を依頼し、「海軍-京大」「陸軍-理研」
という2つの並行した研究開発が別々に進められた。もともと工業力や人的資源の厚み
に劣る日本にとって、どっちみちこのような計画は無謀であった。と言えるが朝鮮半島
ではウランの濃縮化プランが実験室から工場建設になろうとしていた。つまり幾つかの
爆弾は製造された事になる。その後広島に原爆が投下された後の 8月10日、荒勝などは
、広島入りして現地で開いた大本営会議に仁科芳雄らと共に出席し、会議で新型爆弾は
原爆であると結論づけた。すぐに京都に戻り12日に持ち帰った土壌サンプルからベータ
線測定し、その後再び広島でベータ線の特性を再度確認し、15日に広島被害は原子爆弾
によるもの。と報告を海軍に提出した。この報告では、「核分裂ヲオコセル『ウラニウ
ム』ハ約1kg」という分析結果があり、ほぼ正確に実態をつきとめていたのである。こ
うした発見された文書からも、宇垣一成や東條英機など幾人かの新型爆弾を知る者は、
天皇がこの爆弾の投下を認めさえすれば勝てる筈と見込んでいたのだろう。しかし昭和
天皇は敗戦に及んでもこの爆弾の固く封印し研究さえも廃棄せよと命じている。特高の
内偵でほぼ朝鮮半島での研究などが判っていたが、決して認めなかった。そして 先に
落とされて、これ以上の戦争続行不可能でも、阿南は梅津美治郎参謀総長とともに戦争
の継続と本土決戦を強硬に主張した。しかし、昭和天皇の聖断によって最後には陸相と
して終戦の詔書に同意した。 阿南はその後「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへ
き片言もなし」と割腹自殺した。阿南もそれを知る一人だったかもしれない。

109: 名無しさんAA:19/09/12 11:34

 いい加減にしろ政府記者団、西日本新聞なんか育休なんか聞いてどうするんだ。それ
よりなぜ菅氏をしかりつけないのだ。萩生田文部大臣や問題閣僚の質問に苦笑いなどし
て不肖ではないか。本人が否定してるので問題なしというのはどういうことだ。森友も
加計もまったく問題のまま未解決ではないのか。それもこれも民主主義を守るメディア
が日本では育っていなくて弱いからだ。大体ホリエモン問題でも何故TV局擁護に走り
株式相場を束ねる東京市場の方についたのか。まったくおかしいだろう。



110: 名無しさんAA:19/09/12 16:43
、「旭日旗はアジアの国々にとって帝国主義の象徴で忘れがたいものだ。メダルデザイ
ンが旭日旗に似ていることで大いに感銘を受けた。共生社会を掲げる組織委には、速や
かに大量の告示や表示をして、この旗がアジア解放植民地主義の打破に大いに勇気付け
てきた。希望の紋章だった。と言う歴史的意義と誇りと栄誉ある旗であるという正確な
説明対応を求める。」フィリピン国民、タイ。カンボジア。ミャンマー。マレーシア。
インド。シンガポールインド、南アフリカ・・・・・各国国民代表の長老兵士の言葉。



111: 名無しさんAA:19/09/14 18:13
 番組冒頭、設楽統は「我々がTBSでレギュラーでやっている『消えた天才』と『クレ
イジージャーニー』で、ちょっと番組の不正がありまして」と切り出し、「ちょっと立
て続けに…。俺なんか両方出てますから。ちょっとビックリしたのとショックと」と
吐露した。お笑いコンビ・バナナマンが、13日深夜に放送されたTBSラジオ『バナナマ
ンのバナナムーンGOLD』(毎週金曜25:00〜27:00)で、自身がレギュラー出演するTBS
系番組『消えた天才』『クレイジージャーニー』の不正な演出について語った。という
だが、こんな吐露すべきでなく、怒りと謝罪すべきで、何を他人事のようにいうのか。
当事者の一人だろう。Tv局もい1ヶ月くらい謹慎させるべき事案だろう。どうにかし
ている。番組の看板スターは意見もできないでいるなら番組にでるな。一緒に企画演出
に意見を言うから番組だろうよ。歌謡ショーとは違うのだ。いや歌謡ショーでも舞台の
演出や楽団が悪ければ文句しうべきである。まったく甘いというか情けないというか。
言うに事欠いて「視聴者を騙し嘘ついた事になるから」などと言う。そういう事ではな
い。視聴者にウソつく番組なんぞ腐るほどある。アニメなどはほとんど絵空事である。
問題は良識良心に即した番組でなかった事だ。およそ人の世で会社や企業が運営すると
言う社会構造の中で、福祉増大や社会貢献のない企業や会社は認めてない。当然TV局
も同じでTV局だからと有害放送をしていい事はない。この有害性が今回の問題なのだ
。とうぜんバラエティと言って、どこかの間違えたおっさんのように、健康になります
。とてもいい食品ですなんて焚きつけて返って会社を大負債にして知らん顔するアナウ
ンサーもいたが、放送の影響力と教育力により良い次世代を育てることが求めれるから
悪行を断てといっているんであって、悪くても良くても関係ないというのは、ヤクザの
所場代家業である。つまりブラック企業でない限り、監理も責任もなければ廃業しろと
視聴者でなく、国や国民が言っているのである。少しはわかったかバナナマン吉本興業
もこのままなら必要ない廃業しなさい。と国家命令がでても仕方ない所業だったのだ。
会社にしてそうであるから、学校法人はさらさら公明正大にして公平正義が求めれられ
ているのに、スポーツ振興財団やらどこかの学校法人やら腐れ切り未だ森友加計問題を
解決しない。本来閉鎖命令をだすべき事案であろう。だから安倍内閣は腐っているのだ
口ばっかり達者ものがそろった嘘つきの締め付けばかりの自民党に、日本は何故預けら
れようか。次世代の若者がかわいそうすぎる。


112: 名無しさんAA:19/09/15 07:49 ID:E.
   歴史の群像     49

 南雲中将6人兄弟姉の末子であった。 父の周蔵は旧米沢藩士であり、藩では御扶持方
の中士階級でもあった。そもそもこの男ほど屑はいない。先に言ったように山本五十六
は当然のごとく米国について色々情報を得たり検討していたが、南雲はずぼらで明治気
風の親分肌の直観男で意志の強い男だった。よく言えば人情家、悪く言えばヤクザの様
な侠客性分だった。日本が日英同盟が自然消滅となった第一次世界大戦後のワシントン
会議の開催は日本の歴史上のガンとも言えた。急速に台頭してきたアメリカは国際連合
を提唱しながら加入せず、議会運営がままならならずそのまま強国を集めた同盟にして
しまっていた。この米国の思惑通り四カ国条約が締結されて日英同盟の更新は行われな
い事で、1923年、事実上の破棄となった。しかし第一次大戦の戦後不況は世界中で起こ
った。イギリスの求めに応じて1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約締結がなさ
れる事になった。「条約妥結やむなし」とする条約派(海軍省)とこれに反対する艦隊
派(軍令部)とに対立構造が生まれた。基本的に国家予算が減少する中に、軍がもっと
金を分配しろ。と言う騒動だったが、その裏に陸軍という軍本部と海軍という政府方針
の位置関係が存在していて決して対等な立場ではなかった。こうして後に統帥権干犯の
問題に発展するのだが、ここには日露戦争の影が強くあった。不凍港を求めたロシアの
南下政策はどの国でも脅威だった。三国干渉で煮え湯を飲まされる形になった日本は、
「臥薪嘗胆」というスローガンで、ロシア帝国に復讐するために耐えようという機運が
盛り上がるが、話し合いで交渉を進めた親ロシア派も交渉が全く前進する事はなかった
。満韓交換論を唱える政治家も日露の衝突は遅かれ早かれ避けられない。と判断してい
た中の日英同盟だった。だが同じように第一次世界大戦でシベリア出兵を果たした日本
は、今度は味方と思っていた米英に煮え湯を飲まされた形だった。というのも言い様に
振り回され、出費のみが日本を覆い、戦勝国になったものの共同戦線のアメリカはロマ
ネフの財宝をロシアの港から引揚げるとさっさと帰国し、シベリア鉄道沿いの前線には
日本部隊しかいなかったのである。1918年から1922年までの間に連合国として駐留した
が、多くは兵站線が切れ食糧が無い中で生き抜いていた。現場指揮をした海軍中尉古賀
清志や死亡した藤井斉などは、日蓮宗の僧侶の法話や研究会で洗脳化でおこした血盟団
事件に続く昭和維新の第二弾として革命政府を志望し決行されたものだった。つまり、
ロシアの革命思想が日本に伝染したような形だった。しかし、海軍青年将校が組織を率
いて、総理大臣官邸、内大臣官邸、立憲政友会本部を襲撃し、つづいて昭和維新共鳴の
大学生が三菱銀行に爆弾を投げるという組織だった計画が実行されて以降に、海軍内で
条約派に強く対立する事で艦隊派が強い声を発するようになった。



113: 名無しさんAA:19/09/15 07:50
    歴史の群像     50

 1932年(昭和7年)5月15日に東京で反乱事件が起こった。大正デモクラシーの中で、
ざわつく街に大量の大陸移民がやってきた。満州事変で日本か大国化したのもあるが、
その前の大陸の前線、すなわちシベリア出兵からの帰還兵の不満が募ったのだ。若者が
農村から集められ日本の危機でもない戦争に駆り出され凍傷の負傷兵で帰ってきて食い
潰しと卑下されたからだ。あふれた浮浪者に昭和恐慌が降り注いだ。日本で1910年代か
ら1920年代にかけて概ね大正年間に起こった狂乱は、政治・社会・文化の各方面におけ
る民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮などが都会や大農領主などには起こ
ったが、田舎の一般市民には格差経済で裕福な人々の贅沢にしか映らなかった。そこに
人々の信仰に走る姿があった。隣組はすなわち集団入信の世界でオウムのような狂信者
を盛り立て日蓮宗の僧侶の法話や研究会で洗脳化でおこした血盟団まで作り上げたが、
他の宗教界もキリストであれ仏教であれ同じだった。つまり人間の満たした生活への欲
望が日本国中に横たわったのだ。これをもって、天皇に直訴する形で、武装した海軍の
青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した。つまり現行政
が悪さの元凶としたのだ。暴力革命すなわちテロリズムによる国家改造計画の企てで、
「紀元節前後を目途としてまず民間が政治経済界の指導者を暗殺し、行動を開始すれば
続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革
新が成るであろう。」というのは血盟団思想だが、これはソ連の共産革命のイデオロギ
ーが輸入されたものである。大正デモクラシーも実は日本にはなかったデモクラシーと
言う民主資本主義理想の原型は欧州から輸入された思想である。およそ、辛亥革命から
治安維持法制定まで、1911〜1925年(明治44年〜大正14年)の大正年間の、日本の西洋
技術を取り入れて二代目世代の考え方が革新的発達で古い日本的自我を振り払った時期
で、このデモクラシーの自由眺望の時期が過ぎてそのインフラ格差が生んだ寒村の貧困
が産みだしたものが、共済共栄で共産の思想とマッチしたのである。これが日本政府を
萎縮させた。軍縮会議に出た高官だった世界をよく知る者で、伏見宮博恭王、加藤寛治
、山本英輔、末次信正、高橋三吉などが中心となり、ロンドン条約時には東郷平八郎が
シンボルとして取り扱われ条約派とされた。一方で第2次山縣内閣、第4次伊藤内閣、
第1次桂内閣で海軍大臣を務め、第16、第22代の内閣総理大臣を務め、日露戦争下での
大日本帝国海軍を支えたとされた。山本 権兵衛(やまもと ごんのひょうえ)は気骨の
海軍戦士として律性にあったが日露戦争の戦没遺族からは名誉だけでは食えないと不評
だった。というのも政府も又、日露戦争の賠償金支払いが無く遺族年金制度などなかっ
たのだ。彼の日本の為の偉業は多かったが薩摩出身で、まだまだ薩摩閥や長州閥などあ
って更に政治的集団の党があり嫌われ者を押し通してしまう。これが反山本という形で
艦隊派をつくり南雲は艦隊派(軍縮条約反対派)の論客として知られ、さしずめ中心的
人物としてまつりあげられた。こうして山本五十六や井上成美と対立し、その政治的な
活動は外部にも知られる。


114: 名無しさんAA:19/09/15 07:50
    歴史の群像     51

 この大正デモクラシーは、かなりに悲惨な日本の思想革命だったらしい。明治期天皇
勅令を待たず西郷隆盛ら、武士の救済と自立を目的に改革を進めて、朝鮮より日本国内
を西洋列強と同じにする事を望んだ。しかし、岩倉使節団が到着するや否や岩倉の思っ
た改革はスムースに終わっていた。留守政府の首班は太政大臣三条実美であり、三条は
政治的手腕の高い参議大隈重信を頼りとして、西郷らは政治方針については任せきりで
、無条件に承認していたとしている。西郷自体、新政府軍のリーダーと祭られたのだ。
、幕府側の中心人物であった勝海舟と会談を行い、幕府軍は江戸城を明け渡すことを決
めて、西郷は江戸への総攻撃を行うことなく新政府軍は江戸を手に入れることに成功し
た。この時の勝海舟は西郷が大好きだったらしい事が言葉の節々にある。「お前さん達
薩摩は、江戸の放火が大好きだったらしいが、江戸が燃えたら幕府はおろか日本もない
よ。一千万の大江戸の町民も戦争を怖がって今や空き家同然だが、ここで町民から憎し
み受けたら末代まで誰も薩摩を信じないだろうよ。それでもいいのかい。そして清国の
様にアヘンが溢れかえって新政府とやらはエゲレスの言いなりになるだろうよな〜〜。
」「それはござらぬ。」「ほほう。新政府とやらは、いつ外国に御勝ちなすった。薩摩
もエゲレスに負けて今や幕府に借金の身、長州だってお前さんらがさっさと隠して運ん
だ中古の銃もフランサには効きもうさんで今や日本人を殺すだけで関門海峡では威勢は
よかったがそれも藩が持たないほどの借金よのう。会津は古くから紅毛の御ロシアと、
松前でも負けずに戦ったが勝つことはなかった。今度の新政府はいかにして勝つつもり
じゃの。日本人に勝ったとてどうなることでもなかろう。今度幕府がなければ、だれが
請求を肩代わりするというのかや。その返事を貰おう。」「・・・」「通訳によれば、
エゲレスを味方につけたと勘違いした御仁たちがいるそうじゃが、紅毛人や南蛮人は、
奴隷が欲しくて鉄砲を売っていると言い寄ったが、日本人を一人も奴隷にせずに新政府
は外の国と戦争に勝つ算段があるや否や。」「西郷さんよ。わしゃいつでも死んでも好
いと思ってきちょる。恐らくおはんも同じで、江戸を守ろうとする御武家の兵どもも、
全く同じじゃろう。その襖の奥の者も同じじゃろう。じゃがしかし死んでもうたら、誰
がこの日本を守るんじゃ。無辜の民百姓や町屋の衆が大勢江戸から逃げ惑っておる。何
んも悪くねえ彼らを、お前さんは地獄から救う気はないのかや。」と迫る。三日に及ぶ
会談は無血開城に決まったが以降吉之助ははたと思い悩んだに違いない。私は武士の世
武士の世界しか知らないと。そして武士の視点でしか見ていなかった。と彼が新政府に
物言わなかったのは、果たして新政府が江戸幕府よりも、より良い暮らしを与え得るか
を考察したからに違いない。彼は外様の薩摩藩のそのまた外侍の子倅で、とても本郷の
郷士のような身分にはなれない境遇にいた。しかし彼は今の西郷像のように勇ましくも
男らしくもなく童顔で篤姫に似た顔立ちの青年だった事で、篤姫の身変わりの御庭番と
して採用された人だった。御庭番すなわち忍者や密偵の頭目である。しかしそれは藩主
ならいざ知らず養子娘下級藩士の長男として生まれた本来の名前は「隆永」すら、親の
隆盛の名に変えられるほど本人も回りも気にしない地位だったのである。、


115: 名無しさんAA:19/09/15 09:02
    歴史の群像     52

 しかし、その頃の皇居の天皇側近たちにはそうそう資金はなかった。つまり明治天皇
を祭っても、本来の日本で使える貨幣は藩札であり、天皇がもつ金銀保有量は僅かであ
った。明治政府設立以降の大蔵省を掌握していた井上馨は、緩やかな改革しかできない
。と考えていた。急速な改革を進めようとするのに厄介な経済問題が横たわっていたの
である。他の連中は、西郷を頼りにして省庁の対立も激化している。西郷も斉彬の薩摩
藩の経済運営には全く関わってなく、薩摩も大砲の藩内製造でやっと光明が見えたぐら
いだったのだ。5〜7月にかけて天皇は関西・中国・西国巡幸した。井上らは随行して
鹿児島行幸から帰る途中に、宮中の近衛兵の紛議を知り急ぎ帰京して解決に奔走してい
るぐらいだ。今でいう給与闘争のデモであろう。8月には頃陸軍元帥兼参議に任命され
、長州藩縁故の兵部省御用商人から用立てしてもらい山城屋事件が起こった。軍需品の
納入業者にこの欧州訪問の資金を出させた為だ。これは軍事費予算を預け、生糸株式で
儲けさせた事であり、この株が暴落した。山城屋和助は江戸時代に放浪の医師信高右の
四男とされる。幼少時に両親と死別し萩「龍昌院」の寺に預けられ僧侶となるも逃げだ
し奇兵隊にはいり高杉晋作にかわいがられた。その縁故で軍の物資調達として商店を開
き稼いでいた。受付係は近衛都督・山縣有朋だったが、政府は火消しに山縣を。多額の
使い込みしたとして辞任させた。これが薩長の均衡をとるために三弟・西郷従道を近衛
副都督からの解任につながった。ここで西郷の兄弟が軍部や海外の動きの情報が取れな
い状態になった。この為西郷と板垣退助・副島種臣らは、秘かな調査をやめて朝鮮半島
の調査を表だって請求して閣議を通し、人を送った。ここに明治5年(1872年)8月15
日に北村重頼・河村洋与・別府晋介(景長)らを花房外務大丞随員(実際は変装しての
探偵)として釜山に派遣した。そして先発隊に池上四郎・武市正幹・彭城中平を清国・
ロシア・朝鮮の探偵として満洲に行かせた。花房端連(まさつら)の長男の、花房義質(
よしもと)はもと備前岡山藩士だった。緒方洪庵(こうあん)に学んで欧米に外遊して、
明治2年外国官御用掛となり公使となった。外交官として外務大臣の下で朝鮮、ロシア
に渡っている。のち農商務次官、宮内次官、枢密顧問官をへて大正元年には日本赤十字
社社長になったが、実はここに江戸に店を置いた星一の物語が加わる。作家星新一の父
でアメリカ留学して日本の薬科の第一人者で、新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)を通じ
て野口英世とも知り合いだったようだが詳細は不明だ。代々富山の薬の仲介商店で湿布
の巧妙を見て消炎剤に唐辛子を入れて爆発的に売れ生計をたてた伯父がいた。その孫で
アヘンを消炎剤として考案し、その研究にアメリカ留学した。帰ってきて初めて代理店
方式を作り、株式会社のような権利売りで資金を集めて開業している。星製薬、星薬科
大学を創立するほどの研究者で成功者だったが軍部で取り潰され、三共製薬の前身会社
として消滅した。福島県の富農の長男に生まれる。東京商業学校(夜学)を卒業後に、
渡米、苦学のすえコロンビア大学を卒業、新聞事業を営み失敗して帰国。1908年(明治
41)星製薬を設立、モルヒネなどの国産化を成功させた。しかし、原料のアヘン輸入を
めぐり内務省と対立して反感を買い、種々の圧迫を受けて苦しんだが、その頃満州軍部
に貢いだ商社が三井三菱だった。



116: 名無しさんAA:19/09/15 09:02
    歴史の群像     53

 満州鉄道では、農産物の増産指令が出ていたが、一向に麦や米だけの農家は存在せず
アヘン栽培が横行していた。単価が高く作りよかったからだ。そこで江藤新平は台湾で
のように調査の上相応しい農地として熱河域を選んで 逆にそこで増産させて一挙に根
絶やししようと試みた。つまりアヘン栽培がいいものは満州国と中国の境目の荒れた土
地に移住するよう仕向けたのだ。代わりに満州部分には麦や米の現物供出を増やさせて
アヘン栽培の税金を高く設定した。この熱河域は中国と満州の中間保安地帯で常に北伐
による田畑が荒らされる危険があった事と、新規参入の三井三菱徳川などの資本を受け
入れた事で、地主は軍部か企業だったとされている。そこに星製薬の新株持ち込みがあ
った。つまりアヘン収量が高い品種が植えられたのだ。ところが収量は大きかったが、
軍部は台湾のアヘン撲滅を狙い、英国は中東からの従来のアヘンをタイ・カンボジア付
近での栽培で新鮮なものを送ることで対抗した。アヘンは株価のように上下しながら、
軍部は東京震災以降の頃は、満州の電化と共に効率化で大きく軍部は巨万の利益を貯め
て、増産に次ぐ増産に走った。しかしある時更に新品種がインドから種が持ち込まれ、
星製薬はモルヒネ精製にかなったものが市場に現れて、それは軍部供給のものよりも、
はるかに優れた品質となった。さらにそのアヘンは南部の温かい気候しか育たなかった
。もっと悪いことは満州の産業では、このアヘンの実を取った残りで麻袋を生産して、
農家の工業化もして生計の一助になっていた。当然軍部と星製薬は裁判をしたが、政府
と個人の契約違反で個人の言い分は通らず摂取され、その後三井資本の三共製薬となっ
た。この頃の軍部の横暴は大きく、九州の線路も軍部の接収が行われ、電力会社もまた
統合会社に天下りをする方向で、社会全体がそうした戦争に向けたような国民一丸思想
が政治家に蔓延し始めた。というより軍部の勝手放題が国内に蔓延してきたのである。
九州鉄道や博多電気鉄道あるいは九州電力などは、富安保太郎と麻生太吉と九州抗争と
され関西経済と関東経済の戦場となっていたがあっさり軍部の接収で終わった。しかし
福岡の渡辺通りを作り横浜に進出していた横浜渡辺銀行は、政治家の発言で取付け騒ぎ
であっさり潰れてしまっている。麻生派の反撃とされるが詳細は不明だ。山縣有朋など
は陰に表に九州の自立を謳っていた。朝鮮半島に野口尊(したがう)を呼び込んだのは
長州派がこの九州取りまとめに八幡製鉄のみではかなわなかったからだ。古くから石炭
で栄えていて大物揃いで、関東経済界と関西経済界とがいがみ合い、野口は大陸運営に
舵をきって大きく利益を生んだ。それが日産コンチェルンであった。こうして5人を指
す「弐キ参スケ」の言葉がが生まれ、名前の末尾から揶揄されそうして弐キ参スケ(に
キさんスケ、2キ3スケ)という、満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人の実
力者が生まれた。 東條英機(とうじょう ひでキ、役職:関東軍参謀長)星野直樹(ほ
しの なおキ、役職:国務院総務長官)鮎川義介(あゆかわ よしスケ、満州重工業開発
株式会社社長)岸信介(きし のぶスケ、総務庁次長)松岡洋右(まつおか ようスケ、
満鉄総裁)である。この内、鮎川義介・岸信介・松岡洋右の3人は満州三角同盟とも称
され、いずれも山口県周防地方の生まれ、育ちであった。この3人の間には姻戚関係も
ある。彼らは興亜院を作り阿片売買のために三井物産と設置された宏済善堂の副董事長
(事実上の社長)に里見甫を就任させた。三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資し
て設立された商社で実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や
紅幇などとも連携し、1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立し莫大
な関東軍の戦費や遊興費をねん出した。とされる。

117: 名無しさんAA:19/09/15 09:02
    歴史の群像     54

 こうした流れを見ると如何に長州藩が無力で、九州勢の洋行者に頼って新政府を動か
していたかが解る。特にその頂点にいた西郷に、この海外調査で海外を視察してきた時
、気合を入れた日本への帰国で大久保利通や岩倉具視は、すでに廃藩置県は実行されて
いて、使節団出発後、留守政府は学制・徴兵令・地租改正・太陽暦の採用・司法制度の
整備・キリスト教弾圧の中止など改革を積極的に行って日本の近代化の基礎が整いつつ
あった。つまり実情をみて気合いが削がれたのである。この力落としは怒りを起こさせ
ていた。人事を巡る問題と西郷隆盛の遣韓問題を巡って留守政府と岩倉使節団の対立が
激化して明治六年政変に至る事になったが、むしろそれは資金と人事問題にあった様だ
。大使節団の外遊中に留守を守り、廃藩置県の後始末を行うための組織として太政大臣
三条実美を筆頭に西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・江藤新平・大木喬任らによ
って結成された留守政府は鮮やかに手腕を発揮した。この大使節団の出発前に各省大輔
以上の政府高官達はが盟約書(「大臣・参議・大輔盟約書」)を結んでいる。その第6
条には「内地の事務は大使帰国の上で大いに改正するの目的なれば、其内可成丈新規の
改正を要す可らず。」として留守中に大規模な改革を行わないことを約束させた。しか
し一方では、次の第7条に、「廃藩置県の処置は内地事務の統一に帰せしむべき基なれ
ば、条理を逐て順次其効を挙げ、改正の地歩をなさしむべし。」として廃藩置県の後始
末については速やかに行うように指示されていたのだ。こうしてとりあえず反対の理由
を「内地優先」で国内の改革が先だと主張する事になった。明治2(1869) 年「版籍奉
還」は行っているものの徳川氏排除の意向が強く大名のままで、大藩の為にそのままの
議会制民主主義には移行できなかった。従って実質的には藩体制が存続し→藩治職制→
府藩県三治制、と移行はするが、人手が、「藩制」「徴兵規則」「新律綱領」「戸籍法
」などの諸法令を急速に発布して、集権的な国家機能維持の為には不可欠だった。そこ
で政府は,さらに実質的廃藩に踏切るための準備をすすめ,明治3年9月藩制改革を命
じて課税権を確立、次いで武士に威望のある薩摩藩の西郷隆盛を軍の大将から参議とし
て入閣させて、薩長土3藩の協力を形の上保持してやっていきたい。というのが新政府
の思いだった。つまり西郷は薩長同盟の薩摩の数合わせの任官だった。先の宮家奉上者
としての参議職は、基本的に自分達だけに収めたかったのが長州藩士だったのだ。とこ
ろが西郷は御庭番の仕切り役をしていた事から、すぐれていて、情報収集や状況把握、
更に分析力判断力実行力が抜群に抜きんでていて俊敏でかろやかだった。人手不足には
徴兵制採用で兵士を求め、版籍献上には人と資金を与え殖産興業をさせ、国民教育には
子弟教育から義務教育の学校制度に変え、万事うまくいっていたのである。本来国であ
れ、会社であれ、集団というのは団体競技の運動会のようなものである。音頭取りや、
リーダーは不可欠なものの、それらが異常で各個の個人能力を発揮するよう働きかけが
なければ、威圧や権力での無理な運営になる。すなわちチームワークの問題は大きなも
のを代償とする。西南戦争は、じつはこの時の大久保利通らの無能さが日本を追い詰め
た。こうして佐賀の乱から始まる不満分子の反乱は明治期から226事件まで収まらず
日本の歩みを50年ほども鈍足にしたのである。


118: 名無しさんAA:19/09/15 09:03
    歴史の群像     55

 今でも、例えばBE(ブリティシュ・エアーウェイズ)英国航空は機長が賃上げ闘争
し、このバカンスシーズンの櫂き入れ時に飛行機を飛ばさない。国内に於いては機長の
給料は決して安くない。英ブリティッシュ・エアウエイズ(BA)の操縦士で構成する
労組、英国航空操縦士協会(BALPA)が9日、賃上げ交渉の行詰まりから48時間
ストライキを開始した。BALPA側は操縦士への利益分配を増やすべきと主張。対し
て経営側は、賃金の提示は公平であり、ストは正当化できないとしている。BALPA
のブライアン・ストラットン事務局長は、ストに先立ち、「このストは、賃金交渉成立
に必要な投資をはるかに上回る代償を会社に強いるだろう。交渉の場に戻り、話し合い
を終わらせる真剣な提案をまとめる時期だ」との声明を発表した。こうしたストライキ
やデモは洋風の定番である。日本でもバカな教員がスト権ストなど挙げた時期があった
が、先に言うようにこの集団プレーでチームワークのない国に先はない。もちろん輝か
しい個人の能力も大事だが、それには集団の調和と統制の中で発揮されてしかるべき物
しか、市民幸福はもたらせない。今のトランプのパフォーマンスや文氏の一人相撲をみ
れば、如何に人類の損失かが、わかり得る。ストライキには14日前までの通告が法律に
よって義務付けられている。このためブリティッシュ・エアウェイズのパイロット労使
は現地時間8月23日遅く(日本時間8月24日未明)、9月9日、10日、27日にストライキを
行うと通告しました。パイロット労組は 7月22日、昇給を実現するため夏休みの繁忙期
にストライキを行うことを決議した、パイロットの9割がこの労組に加入しているのだ
から休止は当然だろう。かつてフランスでは中国人やアジア系を密かに雇い代用飛行士
で運航したがそこは5割程度の労組加入だったから遂げられた。ブリティッシュ・エア
ウェイズの問い合わせ窓口は、休日中は500人、平日は640人で電話やインターネットの
応対している、しかしこの非常事態を受けて100人近く増員して730人体制で苦情の処理
に追われている。にもかかわらず、3日続けてオンライン予約システムが使えなかった
ことから、お客の中には「恥を知りなさい」とツィッターで不満をあらわにされている
。昇給交渉のパイロットは、利潤分配制を含めたインフレ率を上回る昇給を要求してい
る。しかし、会社が金融危機の困難な市場に直面したときに自分たちも減給を受け入れ
たのだから、会社の業績が好転したらその分配を得ることができるはずだと主張してい
る。最近の好調を受けての話だ。これに対して英国航空はスト決議の無効を求める訴え
を起こした。しかし、イギリス控訴院は英国航空ブリティッシュ・エアウェイズの訴え
を却下したのでこうして労使交渉が続く事になった。日本でも、1926年に労働争議が、
頻繁に起きた。中でも共同印刷株式会社の操業の短縮と短縮分賃金カット発表に端を発
し、日本労働組合評議会の指導で、関東出版労働組合加盟の労働者がストライキに突入
する。会社側は、暴力団や臨時職工を工場に引き入れて操業を再開したがストライキは
全国から支援を受け2ヶ月間続けられた。しかし、約1700人の労働者を解雇とし3月に
終了した。職を失い、労働者側の敗北に終わったこの争議の中心にいた徳永直は、小説
『太陽のない街』の岩波文庫版(1950年)の〈解説〉で、この争議が、最初から敗北の
予感に捉われていた悲壮なものだったと回想し、これが今の日本の現状だったと語る。
1926年(昭和元年)はそんな世の中だったのである。


119: 名無しさんAA:19/09/15 09:04
    歴史の群像     56

高柳健次郎は、静岡県浜名郡和田村に1899年1月20日に生まれた。静岡師範学校を経て、
1921年東京高等工業学校(現・東京工業大学)附設工業教員養成所卒業している。同年
神奈川県立工業学校(現・神奈川県立神奈川工業高等学校)教諭となった。1924年(大
正13年)に浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)助教授となり「無線遠視法」(テ
レビジョン)の研究を本格的に開始したのだった。1926年12月25日、浜松高工にてブラ
ウン管による電送・受像を世界で初めて成功した。送像側に機械式のニプコー円板と受
像側にブラウン管を用いて、片仮名の「イ」の文字を送受像した。走査線の数は40本で
の映像だった。「イ」の文字はいろは順の最初の文字として選んだものだった。しかし
こうした快挙も軍には響かなかった。1937年、NHKが出来て出向し、東京オリンピッ
ク時のテレビ放送を目指してテレビ受像機の研究を本格的に開始した。しかし1938年に
日中戦争が激化するなどで東京オリンピックは中止、テレビの研究も中断させられレー
ダーや奮龍の誘導装置などの研究をすることになった。奮龍 (ミサイル)は、艦政本部
の研究機関である海軍技術研究所に吉田少佐が通う許可を与え、本格的に開発が始まっ
て出来た物だった。わずか10ヵ月後の1945年(昭和20年)4月に、高松宮宣仁親王臨席
で、浅間山で特型噴進弾二型の最初の発射実験が行われたほどだった。この時は無誘導
で発射され、飛行特性が調べられ、2回目以降は無線操縦装置を備えて実施され、二型
は、目視による無線操縦により左右旋回を繰り返した後に目標地点に20m離れた場所に
着弾し、命中しなかったものの試験は成功と看做された。その後、十数の試作弾が試験
され、6月に宣仁親王の裁可によって、特型噴進弾四型に「奮龍」の愛称が付けられた
。その後又試験され、四型機には伊豆半島の施設で三菱と空技廠の技術者によって設計
され遅速と左右振動の難点を克服した。より先進的な誘導装置を備え、ロケットエンジ
ンは、長崎兵器製作所で桜花に搭載する予定で開発され、不採用となった液体燃料ロケ
ットエンジン「特呂二号原動機」を流用し、燃焼室を改良することで実用化の目途をつ
けた時は既に戦時中だった。このレーダー技術が完成したのが昭和元年というのは不幸
だった。この頃共同印刷争議と並んで野田醤油争議も起こっている。最後の時期の労資
の仁義なき戦いで戦争や海外との競争よりは、明日の生きるため戦争が起こっていたの
である。ドイツに遅れること5年で日本にも恐慌の波が押し寄せていたのだ。「野田の
労働争議」は、経緯的には、組合と戦っていたのは会社だけでなく国も関与している。
正議団や右翼は別としても、2回目には調停などに入った県や警察なども今争議からは
距離を置いている。内務省警保局(1928年4月帝国議会報告)は「警察は、紛争の内容
に干渉することなく、厳正公平なる態度を以って、もっぱら両者の行動内偵に努めよ」
と通達している。さらに協調会の動きで分かるように、会社の背後には政府、具体的に
は内務省がいた。時代は大正デモクラシーから既に戦時時局に変わりつつあったのだ。
争議中の1928年に、日本共産党の党員ら1500人以上が検挙された「三・一五事件」が、
突然発生する。争議終結から間もない6月4日には、中国・奉天郊外で「奉天派軍閥」の
張作霖が爆殺される。もはや政府として、これほどの大争議で労働組合側に勝たせる事
は何としてもできなかった。国家は資本家にすさまじい圧力をかけて争議を潰し、国外
へ日本の国体威信に力を注いだ。という実態だった。そうした事も薩摩藩士を打ち捨て
長州閥で乗り切りたかった明治新政府の間違いの伝統がそうさせていたのである。


120: 名無しさんAA:19/09/15 19:05
    歴史の群像     57

 1930年に開催されたロンドン軍縮会議の後、南雲は山下知彦らと、同郷の先輩である
左近司政三を含む条約派に辞職を迫り、後の大角人事に関係していた。南雲忠一(なぐ
もちゅういち)は馬鹿の上を行く馬鹿だった。海兵36期の日本の帝国海軍の軍人だった
が、これほどまでの馬鹿はでていない。宮中晩餐会で庭先の池に立ちションしたり、同
僚の諫めには暴力で相対し、外国人捕虜は海に帰した。彼には戦争は望むところで条約
や文民管制など関係ない自分の喧嘩で米国など撃ち負かせるものと単純にして愚弄な男
でしかなかった。真珠湾攻撃がどんなにか危険な日米開戦かをわかっていた山本五十六
はこの攻撃からは外されている。米内同様親米派の条約派を除いた勝手な一大決戦だっ
た。既に海軍内はこの艦隊派の工作で排除され軍司令部の通達によって大本営が動かす
条約無視の海軍に変わっていたのである。これには理由があった。戦後にアメリカ海軍
の世界初の攻撃型原子力潜水艦を作った。この潜水艦の名をノーチラスと名付けた。米
海軍艦艇で6代目の命名にあたる。オウムガイのラテン語名を元にするこの名は各国で
使われた。米国においての初代の潜水艦ノーチラス号は米墨戦争で活躍していた帆船で
あった。帆船時代が終わり三代目は第一次世界大戦でUボートを捕獲し対抗する船とし
て活躍した潜水艦につけられていた。後にH−2に改称したが、それは遊覧船につけら
れたからだ。その後O-12(SS-73型)のO型が北極探検潜水艦として活躍すると軍籍を外
されて、ノーティラスと命名された。その後ロンドン海軍軍縮会議でも保有が維持され
、第二次世界大戦前から長い間活躍したのが五代目で、USS ナワール型 SS-168 として
建造されて、アメリカ海軍のナーワル級潜水艦のVボートの一隻であるこの船が命名さ
れた。1927年 5月10日にカリフォルニア州ヴァレーホのメア・アイランド海軍造船所で
起工されて、1930年 3月15日ジョアン・キースリングで進水している、1930年7月1日に
艦長トマス・J・ドイル少佐が就役し指揮下で活躍する。これが今なぜ注目したのか。
つまり1927年には、既に日米開戦に向けて作っていた代物だった事が証明されたの
だからだ。そもそも既に太平洋側にはドイツ領はなく、カルフォルニアからの敵対国は
、日本しかない。第一次世界大戦終了時に太平洋南洋諸島で鹵獲(ろかく)したドイツ
Uボートの引き揚げ曳航し、この造船所で分解研究し、3年間もかかって作った代物だ
ったが、実は第二次世界大戦までこの分解研究された潜水艦は英国資金で資金繰りが、
滞る事になっていた。しかし米国によって完成されノーチラスは潜水艦隊の太平洋上の
旗艦で、ハワイを母港にしていた。1941年7月に近代化にメア・アイランド海軍造船所
に入り、無線機、機関(モースディーゼルエンジン)や、換気装置が換装され。作業は
翌年春まで行われたのである。その間に真珠湾攻撃があって、破壊を免れて参戦してい
る。アメリカは第二次世界大戦にこの艦船を最大利用した。大戦以前から、日本向け輸
出を経済制裁してる状態で、O型潜水艦によって三井商船や日本郵船、漁船、採掘船、
客船と次々に日本行きの船が沈められ救助もされなかったのである。


121: 名無しさんAA:19/09/15 19:05
    歴史の群像     58

 第一次大戦時イタリア兵は鬼将軍ルイージ・カドルナによって行軍するがエルビン・
ロンメル後のロンメル将軍のいた部隊にやられ27万5千人の兵が捕虜になった。その
時ソ連には臨時政府しかなかった。しかしレーニンを送り込み戦争を終わらせる宣伝で
休戦協定にはいり、大きくソ連は退くことで協定は終わった。これがドイツのウュルヘ
ルム2世のパリ占領の欲望を駆り立てた。一時的にドイツは占領するも、ジョージパッ
トン将軍がマーク4の戦車と航空部隊を取り入れると、瞬く間にドイツ軍は壊滅した。
捕虜にとられた後新しい兵員が年寄りと子供しかいなかったからだ。この第一次世界大
戦の慣習。つまり占領国の兵員をして次の国や領地を攻めるやり方は、日本人にはなん
とも気色の悪い姿だった。信念と恥を重んじた民衆には、味方を攻撃する兵などいなか
ったからだ。ルーデンドルフは「我々軍人に降伏という選択肢はない飽く迄戦うのみだ
。」と虚勢をはった。ウッドロウ・ウイルソン米大統領は、この終戦に民族自決の原則
を唱えた。しかし、この後のベルサユ条約が行われたが、日本は厄介な存在だった。つ
まり、民族自決の建前はアメリカ建国の精神だったが、これからのアジアを席巻し覇権
しようとする米国の本音には縛るものでしかなかったからだ。ここにアジアにおいての
植民地経営を捨てよと迫る近衛文麿がいたのである。この二枚舌は欧州の中東戦略にも
ドイツ人支配のフランス人にも及んでいた。ヒトラーは自作自演の「ポーランド正規軍
によるドイツ領のラジオ放送局への攻撃」というグライヴィッツ事件を起こし、ドイツ
系民族への迫害という口実と、16箇条の要求に対する無回答を根拠に、突然ポーラン
ド侵攻を命令し、北部、南部、西部の3方面から攻撃をした。ドイツ参謀本部ではこの
作戦に「白の場合」という秘匿名称を付けて準備していたのである。これ対してソ連は
当然対抗した。こうして1939年9月1日にドイツ国、及びドイツと同盟を組む独立スロバ
キアが、続いて1939年 9月17日にソビエト連邦がポーランド領内に侵攻した。ここで、
ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスは、相互援助条約(ポーランド・イギ
リス相互援助条約を元に9月3日にドイツに宣戦布告するいかなく、第二次世界大戦が始
まった。しかしドイツ側では、フランスからの宣戦布告であってドイツから侵略ではな
い。という理由で、戦争を受けてたった。1940年ドイツは電撃戦を開始し、北欧の
鉄鉱石輸送を奪ってドイツに輸送させたのである。その後イギリス遠征軍によって行わ
れた唯一の大規模な攻撃がアラスの戦いであった。ドゴール将軍は、数も兵士も格段に
すぐれた機甲師団でドイツの進軍を止めようとした。ドイツの対戦車砲 3.7 cm PaK 36
はイギリス軍のマチルダII歩兵戦車には効果がなかった。しかし、スツーカ戦闘機がも
つ爆撃で容赦なく叩かれた。ダンケルクではあらゆる船舶を総動員した撤退作戦(ダイ
ナモ作戦)に80万の兵士が追い詰められ船を待っていた。ドイツ軍はアラスの戦いで
の連合軍のこの反撃を重く受けて、連合軍の本格的な反攻作戦の端緒と誤認し、酷使し
た機甲部隊の温存をはかり、イギリス空軍の活躍と、砂浜がクッションとなって爆弾の
威力が減衰するなどもあり、スツーカによる船舶破壊のみに転じて、35万程の兵士が
英国に帰国できた。

122: 名無しさんAA:19/09/15 19:10
    歴史の群像     59

 ノーチラスが真珠湾で第12潜水艦隊の旗艦となった頃、ヨーロッパ戦線は拡大の一
途でドイツの電撃戦は功を奏していた。1933年1月30日 ナチ党党首アドルフ・ヒトラー
は、ついにドイツの政権を掌握した。オーストリアなどの周辺国を政治的圧力により無
血でドイツの支配下においた。だが、ポーランドだけは強硬にこれを拒んだ。ソ連から
の油の支援を切れなかったし、ソ連も又強力に後押ししていたからだ。第一次世界大戦
の終結後中立地帯は、ドイツの格好の餌食となった。1938年にポ-ランド侵攻を画策し
1939年には侵攻した。アメリカのO型潜水艦は、1920年代から第二次世界大戦の終了ま
で長く訓練艦として使用された。とされる。本級は、1918年の第一次大戦のドイツとの
停戦直前に導入された艦だが、戦闘に参加することはなかった。と言われる。しかし、
1918年7月24日、イギリスの汽船がO-4とO-6をUボートと誤認し砲撃を行い、沈められた
。何隻かはロンドン海軍軍縮条約に従って廃棄されたが、また何隻かは他の船との衝突
事故を起こし沈没した。生き残った数隻はスクラップとして売却されたが、作られ続け
本級の後期建造艦(O-11からO-16)は、レイク・トルペード・ボート社で設計されて、
エレクトリック・ボート社設計で建造された前期建造艦とは相違点を持つため、しばし
ば別の艦級と見なされる事があった。ノーチラスが1941年7月に近代化にメア・アイラ
ンド海軍造船所に入り、無線機、機関(エンジン)や、換気装置が換装されたのは、こ
のO型の試験潜水が大きなデーターを残したからだ。建造後カリフォルニア州サンディ
エゴの第13潜水艦隊に転属し、1935年から1938年まで活動する。ノーチラスは再び真珠
湾を母港とし、十年にわたって訓練活動、艦隊演習、といった規則的なスケジュールを
維持する。1941年7月に近代化のためメア・アイランド海軍造船所に入り、艦長トマス
・J・ドイル少佐退役し、ウィリアム・H・ブロックマン(アナポリス1927年組)艦長
の指揮下で戦争に参加して活躍する。こうして新組織の中でノーチラスは1942年4月、
改修を終えてノーチラスはサンフランシスコを出航し、真珠湾には 4月28日に到着した
。5月ノーチラスはミッドウェー島近海に急行するよう命令を受け、この方面に日本の
艦隊が侵攻してくることが予想され、ミッドウェー海戦を迎える。ノーチラスはこのミ
ッドウェー島西方洋上に配備された中の9隻の潜水艦のうち、北から3番目の哨戒を受
け持った。そしてミッドウエー海戦が始まっている。もともと日本は潜水艦開発を、敵
の軍艦の撃沈に傾けていた為重装備していない。艦隊決戦の補助戦力の運用という認識
だ。だがアメリカは、ドイツによって寸断させられた英国同様に日本の孤立化運用に、
狙いを定め開発していた。敵国商船を撃沈は、日本の海上輸送寸断に運用したのだった
。アメリカの潜水艦によって、戦前に既に海外からの物資を輸送する商船が次々撃沈さ
れて、日本の継戦能力が大いに奪われていた。日本も、ハワイ、アメリカ本土、オース
トラリアを結ぶ、敵の交通網の寸断に潜水艦を運用していれば、それなりに連合軍の足
を引っ張ることが出来たのだが山本以下商船攻撃は禁止したし、天皇も又国際法違反の
戦争を禁止してた。しかし欧米各国はすでにナチスの魔の手に条約などお構いなしに、
大西洋や地中海洋上の戦争は行われていたのである。


123: 名無しさんAA:19/09/15 19:10
    歴史の群像     60

 アメリカは、日米戦の開始前から、対日戦争の開始には、無制限潜水艦作戦を行う事
が決定して既に行動に移していた。その意味ではハルノートでまかり間違って戦争しな
いで和平交渉が成功すると、軍司令部や政府は大きな批判と大統領の転落が予想された
。すでにドイツがイギリスと戦っている中で、国家戦略上それは許されない方向だった
。こうして無制限潜水艦作戦は続けられる方向に米政府の誰もが進んでいた。無制限潜
水艦作戦は、敵国に関係すると思われる船舶全てを、目標を限定せず、無警告で攻撃す
る作戦で国際法や人道上で禁止され、先の軍縮会議では会議ごとに何回も合意をとりつ
けている。なぜならドイツが既に大西洋やインド洋で無制限潜水艦作戦を行い、英国も
米国も苦慮していたからだ。この「敵国に関係すると思われる船舶全て撃沈せよ」の中
には当然民間船も含まれ、米英は護送船団方式まで考案して英国への物資輸送を図った
。しかし、中立国の船だろうと関係する船に攻撃したと思われれ、英潜水艦も米潜水艦
も味方や客船や商船で沈められた潜水艦も多数あった。アメリカは御前会議の決定情報
を聞いて、半年前の真珠湾攻撃が行われる前の1941年の11月下旬には、既に発令
し太平洋の潜水艦隊に対して対日無制限潜水艦作戦を行っている。真珠湾攻撃を受けた
その日から作戦も続けて発動している。実はこの大型潜水艦の6隻も実はハワイ攻撃の
肝の一つで空母も潜水艦も南雲中将は何一つ爆沈させずに帰ってきているのである。で
すから真珠湾攻撃は全くの失敗で子供の戦争ごっこと同じだった。しかしその為、商船
はあの戦争期間の全てを通じて、アメリカの潜水艦による、無警告で無差別で突然の攻
撃にさらされ、とても危険な中を航海せざるをえなかった。実は山本の南雲や陸軍への
不信はそこにあった。どんなに言っても卓上論に過ぎない戦争論を精神論と威圧でふり
かざして日本が勝てるはずもない。と見ていていたのだ。戦時中すら、非戦闘員を乗せ
た非武装の船の商船や客船の無警告撃沈を禁止していたが、それを戦前に行っていた。
ドイツが第一次第二次ともに行ったイギリス戦略は、1915年からは通商破壊戦、1917年
からは拡大した無制限潜水艦作戦が開始された。島国であるイギリスに資源・食料の多
くを海外の植民地からの輸入に頼っていたことで、イギリス海軍も全力で対抗し大西洋
の戦いは、対潜水艦作戦で幕を開け、幕を閉じた。こうした事で、大型船の多くは武器
弾薬や兵士を輸送し、商船自身が大砲を備えるなど武装しており、戦時中は軍艦に護衛
されて航行している。こうした場合などには対象にはならない。と米国は勝手に考えた
し、世界は米英に習うしかなかった。しかし、問題はこうした潜水艦乗組員に国際条約
や船舶法や海洋法などの意識も教育も無かった事が大きな問題だった。アメリカ潜水艦
は 病院船や赤十字船「ぶえのすあいれす丸」撃沈、緑十字船「阿波丸」の攻撃、漂流
中の救命ボートへの機銃掃射攻撃などを行っている。同じ米国の船舶さえ急浮上による
沈没事故すら起こっている。アメリカの国際法無視はかなり多く、ガトー級潜水艦ワフ
ー(SS-238)は南洋諸島で日本の輸送船団を攻撃し撃沈したあと浮上し、救命ボート銃砲
攻撃し漂流中の人員を虐殺しています。その後、ワフーは昭和18年10月に宗谷海峡で、
日本側に撃沈されている。大戦では、東京大空襲や原爆投下などアメリカは国際法無視
な事を散々やっていて、テロリストや東南アジアを批判できる立場じゃありません。今
や戦争が公共事業と言われるほどアメリカ自体がテロリストであったのだ。


124: 名無しさんAA:19/09/15 19:16

    歴史の群像     61

 そうした事を日本はかなり知らないでいた。自由の女神のいる国として、吉田松陰が
無断乗船で密航しようとした時の、憧れや希望のままに対象として外交していたのであ
る。日々変わりゆくアメリカについていけなかった。というのが正しいかもしれない。
元々日本における第二次世界大戦での勝利の見込みはどこにも無かった。軍部さえも、
全く勝てる見込みのない戦争だろうと知っていた。それゆえに天皇も政府も軍部も悲壮
な雰囲気があった御前会議を何回もしていた。それでも執拗な米国の日本叩きが外交か
ら実行に及び暴力措置に出ると一挙に世論は戦争突入やむなしの勢いに呑み込まれた。
こうして米国との協調が切れて戦争の勢いの強い日本が、軍縮会議で突き放され他の国
との同盟に取り掛かれなった。1922年のワシントン海軍軍縮会議は大型艦艇規制をし、
1927年にジュネーブ海軍軍縮会議では補助艦など小型艦も規制対象にした討議をし決裂
した。その為更に1930年に列強海軍の補助艦保有量の制限を主な目的とした国際会議を
開催した。日本側は若槻禮次郎元総理を首席全権、斎藤博外務省情報局長を政府代表と
して派遣、またイギリスもマクドナルド首相、アメリカもスティムソン国務長官を派遣
して交渉した。先のジュネーヴ会議で軍人を主としたため、政治的判断による妥協が望
めなかったことを反省しての人事だったが、それでも紛糾した。この時潜水艦の上限排
水量は2000トン、備砲は5.1インチ以下であった。しかし 米国3艦に限っては2800トン
であり6.1インチ以下となり合計排水量は、各国とも5万2700トンとした。この3艦のみ
の特別措置は、アメリカが「ノーチラス」「ノーワール」「アルゴノート」の潜水艦を
既に保有し、国際軍縮会議違反の就航をさせ、それを維持するための措置を取ったので
ある。ナノワールはV5潜水艦で、最新鋭の新型潜水艦だった。1927年 5月10日に艦船
の建造には定評のメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所で起工し。1929年12月17日
に、進水している。1930年5月15日に艦長ジョン・H・ブラウン・少佐指揮下に就役させ
た。この後V-5は1931年2月19日にナーワルと改名され、7月1日に SS-167 に船体番号が
変更された。この船体番号変更が日本向け就航と仮想敵国として、明快にドイツ同盟軍
として海軍の再編成を狙ったものだった。アルゴノート (SS-166)も 艦名はタコの総称
に因んで命名された。当初の艦名はV4の同じ同級の新型潜水艦だった。つまりここで
すでに大型潜水艦でパナマ運河が行き来出来る潜水艦の大量生産の分業化が確立してい
たことが判明できる。V-4、V-5、V-6は、失敗作と判明した初期の V3ボートなどに比べ
大型化し、強力なMANディーゼルエンジンを搭載し、弾薬、乗員数その快適さも飛躍的に
進化していた。それまで海中の棺桶として誰も乗りたがらない船が、海軍の主役と変わ
るきっかけを作った。こうした船にあったのがソナーがついていた事だ。日本軍の船に
似たようにソナーはあったがその方向性や精度において日本軍の潜水艦は人に頼って、
レーダーの様な表示はなかった。又新造の艦艇は条約の規制をうけ、その規定に納める
無理な設計を強いられた。結果重心があがったトップヘビー構造の艦が建造され、台風
などで日本国内では事故を起こし友鶴事件・第四艦隊事件などの遭難事件を引き起こし
た。そして米国も同じように設計の無理がほころびていた。

125: 名無しさんAA:19/09/15 19:37
    歴史の群像     62

 日米共にこうした設計思想の進化に規定が合わず、1935年12月に、第2回の日米会議
が開催されたが、日本の翌1936年 1月15日に国連脱退で、軍縮時代は終わった。ドイツ
との建艦競争が激化するイギリスでおこった軍縮は頓挫した。海軍大臣に就任し第一次
世界大戦時には海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導したチャーチルは、ロイド・ジョ
ージ内閣で軍需大臣として再入閣を果たしていた。ロシア革命を批判し反共産主義戦争
を主導し、赤軍のポーランド侵攻を撃退していた。しかしロイドジョージは干渉戦争を
快く思わず、植民地大臣への転任を命じユダヤ人のパレスチナ移民計画をさせた。これ
がドイツ侵攻を許した。英国では併合されたボーア人融和政策や中国人奴隷問題の処理
など問題は山積みだった。1930年、インドの反英闘争の自治政策や、ドイツのナチ党の
ヒトラー独裁政権への宥和政策に反対していた。第二次世界大戦を機にチャーチルは、
海軍大臣として閣僚に復帰し、北欧戦で惨敗した事でチェンバレンの辞任から代理首相
になった。1941年12月以降に日本軍は参戦したが、1930年代のチャーチルは干されても
ドイツの再軍備要求には断固拒否し、イギリスは軍備増強を行うべきである。と主張し
ていた。イギリスでは一般に保守党の政治家はナチ党に同情的で、ヴェルサイユ条約の
ようなものを押し付けられては、その撤廃を主張するのは無理からぬこと、と思ってい
たのだ。又ナチ党とドイツ共産党以外に政党が力を失っているドイツでは、もしナチ党
を政権から引き降ろせば、代わって政権につくのは恐らく共産党だった事でも仕方ない
風潮が蔓延していた。ところがチャーチルはこうした立場に立たず、対独強硬論者とな
って反論を繰り返している。ドイツに再軍備を許せばドイツは帝政時代並みの国力を備
えるだろう。反ソ防波堤のメリットより、大英帝国の世界支配体制をドイツが再び脅か
すリスクの方が、相当に大きいはず。と。だが1930年代のチャーチルは干されていた。
あえて保守党主流と一線を画す対独強硬論に立ち、ドイツ脅威論が盛り上げて保守党中
枢に返り咲こうという政治的狙いだった。という見方もある。ドイツの再軍備要求には
断固拒否し、イギリスは軍備増強を行うべきであると主張し、次の戦争では海軍ではな
く空軍が 決定的役割を果たすと見て、とりわけドイツ空軍の増強に警鐘を鳴らした。
1936年、3月にヒトラーはヴェルサイユ条約での「非武装地帯」と定められていたライ
ンラントにドイツ軍を進駐させた。フランス政府では対独開戦すべきかどうか判断に迷
い、イギリス政府に伺いを立て、保守党党首ボールドウィンが再び首相となっていて、
融和政策に基づき、放置すべしとした判断を送った。しかし、残念ながら、イギリスの
国内世論も「ドイツの領土にドイツ軍が入っていっただけ。」という空気が強かった。
だがチャーチルは一人激怒し、「クレマンソーだったらボールドウィンごときに諮るこ
となく、ただちに戦争を開始しただろう。」と述べ、フランスの弱腰と人材不足を嘆い
た。と言われる。この強気は結局対決をもって雌雄を決するという覇権主義だったのだ
、しかし1935年のムッソリーニのエチオピア侵攻についての帝国主義に「エチオピア人
はインド人と同類であり、支配されるべき原始的人種。」として熱烈支持していた程で
、白人優位主義の意識が当然の時代だったのである。


126: 名無しさんAA:19/09/15 19:39
    歴史の群像     63

 一方で、1936年のスペインフランコ将軍による左翼との戦い(スペイン内戦)も反共
主義者としての立場から共感を持っていて、労働党が左翼政府を支持しようとするのに
対してチャーチルはボールドウィン内閣の不干渉方針を支持している。第一次世界大戦
中にロイド・ジョージ内閣はインド人から積極的な戦争協力を得るために戦後のインド
自治を約束した。しかし戦争が終わっても自治の見通しは立たず、1929年にインドの大
英帝国自治領化が最終目標であり、そのためのロンドン円卓会議インド人出席だった。
その為、ガンジーを嫌悪するチャーチルは、交渉に応じるアーウィン卿を批判し、イン
ド自治の危険性を感じない大衆にも怒りを感じた発言をしている。「彼らは失業と増税
の心配ばかりしている。あるいはスポーツと犯罪報道に夢中だ。今、自分たちが乗って
いる大型客船が静かに沈みつつあるというのが分からないのか。」と、憂慮している。
こうした人種偏見と非情さはヒットラーに勝るとも劣らないものだった。チャーチルは
米国訪問し、植民地大臣への転任以降からのユダヤ人のパレスチナ移民計画の問題で、
すでに米国ユダヤ人会の渇望を受けて、日本への怨恨やドイツの恐怖ロシアのポグロム
などの要望と話し合いを受け大きく国際政治の舵を取り出していたのである。1932年夏
に初代マールバラ公の古戦場めぐりの旅に出た際、ドイツ・バイエルン州・ミュンヘン
に立ち寄った。その時期に丁度ドイツでは国会議員選挙が行われ、国家社会主義ドイツ
労働者党が第一党となり、その党首アドルフ・ヒトラーが近いうちにパウル・フォン・
ヒンデンブルク大統領より首相に任命されるだろう可能性に危機を抱いていた。かつて
英国で政府と資本家による労働運動が高まり、切り崩し工作が成功し労働組合会議が若
干の賃金切り下げを認めるに至り、 5月11日にゼネスト中止を宣言した事があった。こ
の時の鉱山はユダヤ資本で切り上げポンド不況であり鉱山労働組合のみ従おうとせず、
単独での労働争議を続けた。しかし、輸出産業の花形だった鉱夫達の給与は戻らず、チ
ャーチルの努力で政府支援で、彼らも11月に資本家の要求をすべて受け入れ無条件降伏
に追い込まれてストは終結した事があった。ユダヤ資本の力がそこにあったのである。
チャーチルはこうしたシオニズム団体を支持している政治家だった。ハンフシュテング
ルに「なぜヒトラーはユダヤ人を、しかもユダヤ人であるという理由だけで迫害するの
か。」という単純な質問をぶつけ、この質問はヒトラーの耳に入った。この時機嫌を損
ねたらしく、会見はヒトラーから拒否されるに至った。12時間も待った会見が流れた
後世にチャーチルは「こうしてヒトラーは私と会見するただ一度のチャンスを逃したの
だった。ヒトラーが政権を握ってから、何度か会談オファーがあったが、私は口実を作
って断った。」と回顧している。チャーチルの訪米は、1929年秋に突然起こったアメリ
カ・ウォール街の大暴落に端を発する世界大恐慌からだ。この波はイギリスも襲って、
1929年 5月に115万人だったイギリスの失業者数が1930年12月には250万人に倍増したの
で米国よりひどかった。失業手当が膨大となる中、労働党政権は失業手当削減案をめぐ
って閣内が分裂し、1931年 8月に総辞職し困難な時局に、対応できる強力な政府が求め
られた。その前年1928年に、首相ムッソリーニ政権はソ連を支持したが、イギリスの半
植民地エジプト訪問の帰路に 1927年1月にイタリアを訪問し、1922年以来 政権を掌握
していたファシスト党党首で首相のベニート・ムッソリーニと会見し、「もし私がイタ
リア人だったら、レーニン主義の獣欲と狂気に対抗する貴方達の戦いを支持し、行動を
ともにしただろう。だが、イギリスにおいては死闘を演じる必要がなく、我々には我々
流の物事の進め方がある。しかし最終的には我々が共産主義と戦い、その息の根を止め
ることに成功すると確信している。」と語った。



127: 名無しさんAA:19/09/15 19:53
    歴史の群像     64

 ここに欧州の苦悩の縮図がある。ムッソリーニはファシストの先駆者だ。ファシスト
とは、結束主義者と訳される。第一次世界大戦で、国家は国民に社会愛国主義、社会帝
国主義の流れを作り。ドイツ、フランス、イギリス、ロシア、オーストリア・ハンガリ
ーで高まる「国家主義」の流れに加わった。こうした社会主義者たちが現れていたのだ
。多くの者が熱心な社会主義者で第二インターナショナルのメンバーであり、社会主義
と無政府主義と共和主義が入り混じった独特な思想を誰でもが持っていた。当時からも
難解さを知られていたマルクス主義は、まるで流行歌の様に普及したが、これを完全に
理解できている人間は社会主義者や共産主義者の間ですら限られていた。しかしレーニ
ンがそのマルクス主義に、独自の解釈を加えてその思考を打ち込んだ。成立したマルク
ス・レーニン主義については徹底的な教育思想があり、社会主義理論について完全知識
を得られる仕組みを提供した。つまり洗脳選民主義である。要は搾取は綺麗に上手くや
れそうすれば君も僕も儲かる。というものだったが、その基本が誤りでねずみ講の様な
仕組みを存在させていた。その後ドイツロマン主義、ドイツ観念論、ベルグソン、スピ
ノザなど、人々には積極的に他の思想を取り込んだ思想が蔓延していく。政治的シンク
レティズムを志向する政治家を多く輩出し、反平等主義的な選民主義を説いたフリード
リヒ・ニーチェなどから選民主義と反キリスト思想の影響を多大に及ぼして社会崩壊が
生まれていた。ニーチェの選民思想は明らかに社会主義の一般的な理念から離れており
、ニーチェに理解を示すムッソリーニは社会主義者にとって異端のはずだ。ムッソリー
ニなどは(社会主義の一派である)マルクス主義の決定論や社会民主主義の改良主義の
挫折によって社会主義全体が道を失い始めている。と感じニーチェの思想の社会主義の
補強を試み、先に述べた様に、ソレル主義の革命的サンディカリスムも提唱した。サン
ディカリスムとは、労働組合主義、組合主義、労働組合至上主義とも訳され、資本家や
国家主導の経済運営ではなく、集産主義的な労働組合の連合により経済を運営する。と
いう組合思想である。資本主義あるいは社会主義に代わるものとして提案され、この経
済体制の一種またはその思想は理想にも見えた。しかし特に急進主義的なサンディカリ
スムは革命的サンディカリスムとも呼ばれる。革命的サンディカリスムの支持者は労働
組合を、資本家による労働者の搾取体制を覆すためだけでなく、多数派の利益に基づき
社会を公平に運営するのにも、適した手段となりうると考えられた。イタリア自体にも
対中東のオスマントルコ対戦では英国は賞賛し、ソ連とのつながりにおいては厳しく批
判された。さらにこの労働共同主義は、ユダヤの自由資本主義とは相容れないものだっ
た。イタリアを離れる際、イタリアの新聞記者たちに対してチャーチルが言った「レー
ニン主義の獣欲と狂気に対抗する貴方達の戦いを支持し、行動をともにしただろう。」
という皮肉と、「イギリスにおいては、我々には我々流の物事の進め方がある。」とい
う信念と「最終的には我々が共産主義と戦い、その息の根を止めることに成功すると確
信している。」決意は、そのまま日本にも向けられた。ここでチャーチルは日本は共産
国以下の国家と見下していた。


128: 名無しさんAA:19/09/15 19:53
    歴史の群像     65

 その見下された日本も、米国を戦争突入を自己演出するような非情国家とは、全く
思っていなかった。かつて北朝鮮は地上の楽園と謳って日本人妻を誘惑したが、米国も
自由の国として人々を引きつけ、国内に共産党の指令本部があって国際旅団や第三イン
ターナショナルのスパイや諜報活動者の巣窟だった事はあまり知られてない事実だった
が、日本はおよびもつかなかった。つまり日露戦争の終結にアメリカの仲裁があったと
いう理由がそこにあったのだ。講和条約の中で、日本は朝鮮半島における権益を全面的
に承認され、ロシア領ともめていた樺太の南半分を割譲された。またロシアが清国から
受領していた大連と旅順の租借権を移譲され、同様に東清鉄道の旅順〜長春間支線と共
に鉄道付属地の租借権も譲渡された。しかし国民が期待した賠償金については、一切の
要求を認められなかった。開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦
ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが日本の安全保障上の脅威となった事
が戦争動機に挙げているほど、日清戦争後の4国干渉での遼東半島の返却が大きな遠因
であったのに関わらず、各国ともその事には反省のきざしすら無かったのだ。アメリカ
合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋仲介によって、日本とロシア帝国との間で
結ばれた日露講和条約は。1905年(明治38年)9月4日アメリカ・ニューハンプシャー州
ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)と
ロシア帝国全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印されたものだ。日本はこの戦争には
勝利に近い形で終結し、ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて 戦後に日露
協約が成立したことで日露関係は急速に改善し、革命によりロシア帝国が崩壊するまで
その信頼関係は維持されたのである。この条約により、相互の勢力圏は確定され日本は
朝鮮半島の権益を確保したうえ、ロシア帝国の軍事的脅威を排除して当面の安全保障を
達成した事になっていた。新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道を獲得するなど満州
における権益を増進することとなり、恐慌も日本では半減し大陸経営の重荷も堪えては
いなかった。しかしこれが米国には気に入らなかったのである。特に革命で逃げて米国
に住み着いたロシア人始め各国は、ロビー活動を通じてユダヤ人会とつながっていた。
。その貸付でイギリスは国益を保持していた為、チャーチルも又その動向の一端を担う
代議士だった。対する日本は順調に成長し、戦いの主役である海軍なおは、昭和の初め
頃から大本営海軍部=軍令部と連合艦隊司令部双方が分裂し、それぞれが別の目標選び
を始めて戦っていた。連合艦隊司令部の考えは、艦隊主力を再び東太平洋に進出させ、
米機動部隊に決戦を挑んでこれを撃滅し、同時にハワイも攻略するというものだった。
だが、作戦本部の決定権を持つ海軍部は連合艦隊司令部案には大反対で、第二作戦の主
攻撃正面は、既に1月末に陸軍部の賛成も得ているソロモン諸島沖のニューギニア〜ニ
ューカレドニア〜フィジー〜サモアの南方諸島の防衛強化で進出して、米豪遮断作戦の
率ない遂行(FS作戦)を敢行し、オーストラリアを孤立させるという案だった。更に陸軍
もシベリア出兵からその後を完成させるべき、という意見と南方に足場を作るべきとい
いう者もいて、中でも独立に寄与すべきとか、資源や貿易の基礎を築く為とか全く色々
だったのである。

129: 名無しさんAA:19/09/15 20:12
    歴史の群像     66

 ハワイ攻撃後も大日本帝国はどうするべきかが解らずじまいのまま時流に流されてい
て、軍に対して山本五十六を筆頭に連合艦隊司令部が強力に進めていたのは更に違って
いて、米機動部隊撃滅案の概要では、まずミッドウェー島を攻略(占領)して前進基地を
確保し、同時に、米機動(空母)部隊を誘い出して撃滅し、その後でFS作戦を実施する
。というものだった。その後半年ぐらい後の10月を目途にハワイ攻略作戦の準備を進め
るというものである。4月3日、この連合艦隊案は、大本営海軍部=軍令部に正式に提出
された。海軍部は反対であった。伝統的ではあったが、日本の海戦は進んできた船団を
叩くというのが最も合理的であり効率的な打撃としていたからだ。特にミッドウェー島
攻略には強く反対で遠すぎであったからだが、作戦も危険であるばかりでなく、米空母
の誘いだしにも疑問があり、同島の攻略後の保持も困難であるという理由もあった。し
かし、連合艦隊側のゴリ押しで、作戦が決まってしまう。東か西か、次の作戦をめぐる
連合艦隊司令部と海軍部の交渉は暗礁に乗り上げて止まっていた。しかし、海軍と折衝
していた連合艦隊の渡辺安次専務参謀は、ここで又「切り札」を出した。「山本長官は
、この案が通らなければ連合艦隊司令長官を辞任するといっておられます。」である。
真珠湾奇襲攻撃案を通すときに使った、あの「切り札」をまたも持ち出したのである。
そして結果もまた同じに出た。「山本さんがそれほど言うなら・・・」という永野修身
軍司令部総長の決裁で同案は承認されたのである。 4月13日、連合艦隊司令部は以後の
作戦日程案を海軍部に伝えた。渡辺安次専務参謀は人懐っこく陽気な奴だった。海軍兵
学校51期卒。開戦時に中佐で、聯合艦隊の戦務参謀になった。「変人参謀」「仙人参謀」
と噂で暗く、不気味な黒島亀人首席参謀に比べると、対照的に気遣いもできる明るい性
格なので、周囲からは「安ベエ」との愛称すらいわれて慕われていた。しかしそれは、
本来の威厳のある暗い参謀長内の際立った姿で取られたもので、黒島亀人首席参謀も又
そうそう暗く厳しい人ではなかったのである。黒島同様に山本長官のお気に入りであり
、よき将棋の相手でもあり、司令部内では藤井渉外参謀、三和航空参謀たちとともに良
き話し相手でもありました。特に将棋の相手は彼が努めることが多かったので、長官の
性格や考えを理解することが早かった。もともと、この戦争を国際法も条約過程も知ら
ない「安ベエ」に知られた事が大きな問題だった。渡辺安次中佐に関して言えば、彼は
、昭和14年から五十六についている。参謀としての能力より、五十六に気に入られた
イメージでは、いわゆる茶坊主的位置だ。黒島亀人首席参謀は軍令部に真珠湾攻撃決行
同意を取り付けのために、派遣された実務の第一線の男であった。山本は、第十一航空
艦隊参謀長・大西瀧治郎に真珠湾作戦の航空攻撃案の作成を極秘に依頼して原案を作成
させ、それを黒島ら自分の幕僚に提示してさらに検討させたのである。「山本長官は、
ハワイ作戦を職を賭しても断行すると主張しておられる。もし、この案が容れられなけ
れば、皇国の防衛に対し責任が持てないと伝えよと言われた。長官はその職を辞する他
はない。われわれ全幕僚も同様である。」と切り出し説得に成功した。とされる。が、
ここで注意すべきは、既に山本五十六は天皇向けの飾り物であり、戦争するなら開戦の
宣戦布告を大々的にして正義を問う形で、できれば外交手腕や内政弾圧でも戦争不参加
がいい。と考えていた。大きく布告に出て小さな被害で終戦に至りたい。と中途半端な
威嚇で済んでしまう事を望んでいた。


130: 名無しさんAA:19/09/15 20:13
    歴史の群像     67

 しかし、この案作成の大きな間違いは、そもそもが品行方正よろしくない、大西瀧治
郎少将にハワイ攻撃案を発案させた事にある。1941年(昭和16年)1月頃、司令長官の
山本五十六が第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎少将に手紙を送って、26日頃戦艦長門
(連合艦隊旗艦)を訪ねた大西から、山本からハワイ奇襲作戦の立案を依頼されてる。
山本から大西への手紙の要旨は「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の
已むなきに至るかもしれない。日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か
余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦劈頭、
ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をも
って、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の 西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。
目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざる
ことなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意で
ある。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいた
い。」と言う文面であった。大西 瀧治郎(おおにし たきじろう)は神風特別攻撃隊の
創始者の一人で終戦時に自決した軍人だ。最終階級は海軍中将で海軍兵学校では、秩序
を乱すものがいれば、そのものを布団に簀巻きにして、2階の窓から下に落とすような
荒事もやり、大西には誰も手出ししない、喧嘩瀧兵衛ともあだ名される棒倒し男だった
。柔道も剣道も優れ、学業も優秀であり、1912年7月17日、150人中20番の成績で卒業し
たが、1924年、3度目の海軍大学校受験にも不合格する暴れ馬だった。学科試験をパス
し、口頭試問に臨んだが、数日前飲酒の席上、料亭で芸者を殴り暴力事件として新聞に
なる素行不良を理由に「大西は出頭するに及ばず」と入試候補を取り消されている程だ
。1925年1月7日霞ヶ浦海軍航空隊教官。1926年2月1日佐世保海軍航空隊飛行隊長。1927
年12月第一艦隊司令部付、連合艦隊参謀と歩くが、佐世保の頃、大西の傍若無人で飾り
気のない人柄を非常に気に入り、佐世保海軍工廠人事部長・井上四郎中佐は、懇意にし
ていた笹井賢二造兵大尉の妹の縁談相手として紹介し「海軍軍人としてあっぱれな振舞
い、このような豪傑に娘を嫁がせたい」と嘉子に強く結婚を促し嫁がせた、又日本で初
めて落下傘降下を行った事で有名だ。イタリアの戦犯の話題に、大西は「おれなんか、
生きておったならば、絞首刑だな。真珠湾攻撃に参画し、特攻を出して若いものを死な
せ、悪いことばかりしてきた。」と幕僚たちに述べている。台南海軍航空隊の中庭で、
開催された特攻の命名式で、「この神風特別攻撃隊が出て、万一負けたとしても、日本
は亡国にならない。これが出ないで負けたら真の亡国になる。」と訓示した。幕僚らは
「負けても」という表現は禁句のはずなので不思議に感じていた。訓示を聞いた中島は
、戦後になってから、この時点で大西は目先の戦争の勝敗ではなく、敗戦した場合でも
日本の悠久性を感じて言った事と感慨している。一方で大西は、真珠湾内の魚雷発射は
水深が浅いため不可能なこと、ハワイ周辺の哨戒圏から機密保持がむずかしいこと。の
二点を山本に説明し、福留にも「長官にあの計画を思いとどまるようにいってほしい」
と頼んでいる。大西は「日米戦では武力で米国を屈服させることができない。早期戦争
終結を考え、長期戦争となることはできるだけ避けるようにする必要がある。そのため
にも真珠湾攻撃のような米国を強く刺激する作戦は避けるべきである」との見解を吉岡
忠一に漏らしている。大西にしてこうであったのだ。ましては親米派の山本五十六は、
致し方ないとしても何とか………平和裏に早期に終わりたい。と願っていただろう。



131: 名無しさんAA:19/09/15 20:26
    歴史の群像     68

 大西は、1934年11月15日、横須賀海軍航空隊副長兼教頭となり航空主兵論者の一人で
あった。1935年の戦艦大和、武蔵の建造に反対し、「一方を廃止し5万トン以下にすれ
ば空母が三つ作れる。」と主張した。また、福留繁軍令部課長に対し「大和一つの建造
費で千機の戦闘機ができる」と主張して今すぐ建造を中止するように要望し行動した。
大西は大型機論(戦闘機無用論)を支持し。1935年、横須賀航空隊副長兼教頭だった頃
横空研究会で、戦闘機より優速の双発陸上攻撃機の完成が近いこと、戦闘機は短航続力
で海上航法能力も小さいため、空母での使用制限があることから戦闘機無用論を唱えて
、横空の戦闘機関係者を論破している。また援護戦闘機も不要と主張していた。そして
大西が危惧したように「日米戦では武力で米国を屈服させることができない。早期戦争
終結を考え、長期戦争となることはできるだけ避けるようにする必要がある。」という
意見だった「真珠湾攻撃のような米国を強く刺激する作戦は避けるべきである。」との
見解が漏れることなく大失敗に終わっている。連合艦隊司令部では 12月8日真珠湾攻撃
に大成功したと報じたが、黒島ら幕僚すべてが、山本に第一航空艦隊にさらなる反復攻
撃の命令をすべき。と意見具申した。その爆撃が失敗だった事をしっていたからだ。今
問題の大型潜水艦も大型空母もそこには無かったからだ。そもそもこの奇襲作戦という
には程遠いほどまったく作戦にならないものだった。わざわざハワイ島に出て行きなが
らも、どの船がどこにいて何をしているのかを調べることなしに空爆しているのである
。暗号が解読され回避されたとしても、日本軍はそれを警戒しながら極秘を装って航行
しているのだ。敵前の艦隊すら掴まず突然編隊を出したというのは唐突すぎている。又
日本の危機、世紀の大決戦というのに、山本は呑気に「南雲はやらんだろう。」「機動
部隊指揮官(南雲)に任せよう」と言い、参謀長・宇垣纏も今から下令しても時機を失
し攻撃が翌朝になると反対したのだった。第一航空艦隊長官・南雲忠一もさらなる攻撃
は全く行わなかった。しかし、この攻撃前の状況把握や攻撃後状況把握の無さは、この
第二次世界大戦の日本の特徴的もので負ける要因でもあった。まさしく「敵を知り、己
を知れば一戦危うからず。」のまったく逆を行くもので。日露戦争時の乃木将軍や東郷
元帥と全くかけ離れたものであった。時代が、日本が貧相な武器で何回も失敗していた
ロシア攻略でやっと勝ったのと状況は違うが、それでも、自国の位置や立場や国際情勢
国内の議論を知ることもなく、また米国事情や米国の技術更に艦船や潜水艦の動き暗号
の解読状況など知らずに戦さに挑んでいた。井の中の蛙のままで。この第二次世界大戦
の失態は、日中戦争のまま、欺瞞に溢れた嘘が蔓延して、そのまま開戦に挑み反省どこ
ろか、分析のための戦闘前や戦闘後の比較状況など戦線結果をいつの間にか、日本軍部
は把握することを忘れて、連戦連勝のウソに溢れて逸脱の外交をしていたのだ。どうし
ても、この山本五十六がこの無謀な真珠湾奇襲攻撃について発案し同意した。などとは
思えない。大西でさえも、米国を怒らせて開戦する事は得策ではない。と思っていたか
らだ。しかし、1941年(昭和16年)1月頃の御前会議での上層部には開戦派がこの列席
を占めていて身動きできなかったのである。ここに天皇の悲話がある。和歌に託して、
平和の交渉を望んだが、明治天皇の日露戦争を仕方なしに決意した歌だったのだ。実は
これが日露戦争で日本人はどれほど死んだか、賠償金も貰ってないじゃないか一つも好
いこと無かっただろう。と諭したつもりが、軍部は既に今や天皇は戦争突入を決意して
おられる。我々はその期待に添うよう政治や外交を行うべき。と誤解したのである。


132: 名無しさんAA:19/09/16 11:00 ID:vw
自己都合な韓国メディアの責任も大きい上に、その論調には汚い悪の死臭が漂っている
。全く日本の皇室と言う立場を理解していない上に突然靖国問題を取り上げたり、慰安
婦問題や徴用工を取り上げる。はちゃめゃの乞食の恫喝である。日本国憲法がどの様に
敗戦後に策定されたかすら理解が無く、自分達がどういう歴史を持っているのか知らな
いのだろう。まるで新興宗教の熱狂信者の狂気の戯言に近い。その韓国新聞が今度は、
池上彰にかみついている。ナチスヒットラーの行状よりたちが悪い戦争開戦論者である
ような韓国メディアは自国政府批判は猫なで声でしか言わない。全く卑怯な歪曲文化の
伝道者になっている。世界平和を願い、日本の皇室は、日本国の平和を願って公務する
立場となっている。それを政治利用するなどもってのほかで、それを担いで悪用し韓国
世論を盛り上げて統一した一心となりたいみたいだ。韓国語が日本人が作った新言語と
も知らずに、漢字の氏名に韓国語のスローガンにない言葉は日本語の盗用、そんな民族
が古くから歴史があったと嘘をつき歴史改竄に暗殺さえする性質、日本海名称を東海の
名称を求める。まったく伝統や慣習をこけにしてるのか、大事にしているのか。かつて
過去には韓国にも皇室があったわけで、知らないはずがないのだが、韓国メディアは、
歪曲した上に嘘の作り話記事を掲載する。これが韓国の自国民を相当に間違って伝わる
わけで、反日メディアだから歪曲した記事を書いてよい。という法律でもあるかのよう
だ。信義にもとり、人間は正しくありたいと願うように、メディアは常に正しく報じる
のが役目となる。自国民に正しい情報を与えないのでは、メディアの価値も役目も無い。


133: 名無しさんAA:19/09/16 13:16
   歴史の群像     69

 日本海軍の部隊の一つである佐伯海軍航空隊(さえきかいぐんこうくうたい)は、瀬
戸内海の入り口に位置する。この奥に呉軍港は、太平洋に出撃する艦艇が航行する船が
豊後水道を通る為、この安全確保を図るため、哨戒を行う航空隊基地である。全期間を
呉鎮守府の部隊として豊後水道の哨戒に専念し、豊後水道での潜水艦攻撃を止めていた
。アメリカ映画『深く静かに潜航せよ』の潜水艦攻撃にも、佐伯空の任務を髣髴させる
航空機の活動が描かれている。各軍港に設置された航空隊は偵察専門であったのに対し
、この豊後水道防衛に備えた佐伯空は、爆撃機を中心に編成されていて、内戦航空隊の
中では館山海軍航空隊に次ぐ実戦力を持っていた部隊だった。自治体名の「さいき」で
はなく、古来より呼び習わされてきた「さえき」を名乗り。先に同じ文字で始まってい
る佐世保海軍航空隊との重複を避けるため、機体識別記号は「サヘ」を機体番号にして
いた。(歴史的仮名遣では「さへき」と書くため)と記入していた。1931年(昭和6年
)8月に佐伯への設置が内定し、佐伯町は番匠川河口の女島を提供した。地元の協力を
得て、佐伯空の工事は順調に進捗し、1934年(昭和9年)12月1日に開業開隊式を迎えた
。戦時中は佐伯飛行場は6回もの空襲を受け、基地のみならず市民にも被害が出ても、
特攻作戦のためにフル稼働し、佐伯飛行場は豊後水道の哨戒任務に専念していた。しか
し、大和の出撃を最後に連合艦隊の出入港は凍結され、佐伯空の哨戒任務の価値は大き
く低下した。戦艦ヤマトは超ど級の戦艦で大砲巨艦主義が既に時代遅れになっていた事
が言われる。しかしそうだろうか。ロンドン海軍軍縮条約の失効を1年後に控えた1937
年(昭和12年)に、失効後にはアメリカ・イギリス海軍が建造するであろう新型戦艦に
対し、帝国海軍には巨艦艦船がなかった。物資が滞る中建造することが急務と軍令部は
、慌てて艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の
建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち 後の
大和型戦艦である。この「A140-F6」型2隻の建造が計画され、それぞれに「第一号艦」
「第二号艦」と称されて建造が進められた。当時すでに航空主兵論が提唱され始めてい
たこともあり、飛行将校からはそうした大型艦の建造が批判されていた中で、太平洋戦
争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役し。1942年(昭和17年
)2月12日に連合艦隊旗艦となった。司令長官山本五十六大将を乗せて 6月上旬のミッ
ドウェー作戦が初出撃となった。実はこの大和の試験就航に、半年以上の乗務員教育が
必要だった。というのも物資不足の上、未整備のまま就航して、まだまだ戦艦としては
未完成であったのである。おれは工廠部内部と大本営の圧力でそうなってしまったのだ
。更に大和(やまと)は、大和型戦艦の1番艦として。2番艦の武蔵とともに、史上最
大にして唯一46センチ砲を搭載した戦艦でもあったが、呉海軍工廠で建造され、一方の
武蔵は、民間企業である「三菱重工業長崎造船所」で建造されていて、武蔵の方は極め
て順調に出来つつあったものの物資の取り合いに負けてしまっていた。戦艦として史上
最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパー
ト)など対46cm砲防御を施した軍艦であった。設計はもちろん施工においても、ブロッ
ク工法の採用など当時の日本の最高の技術が駆使され三菱の長崎造船所の方が優れてい
たのだ。一般的に、武蔵は大和の“コピー”だと言う人も少なくない。だが、実際には
、大和と武蔵には異なる点も多く武装に関しては貧装備になった。12基の「12.7cm連装
高角砲」という対空砲が武蔵につける予定が、大和に増設された。武蔵は、この対空砲
の増産が間に合わずに設計に場所を置いていても装備できなかった。このため、本来は
対空砲を置くスペースに、機銃を設置してその結果、武蔵の機銃のほうが多くなった




134: 名無しさんAA:19/09/16 13:20
   歴史の群像     70

 したがって、見た目も作りも違った。一見すると、外観はほとんど同じだが、微妙な
違いがある。軍艦の艦橋部分には、甲板と結ぶ「ラッタル」と呼ばれるハシゴが備え付
けられている。艦長は艦橋で指揮をとり、各部署に命令を出す。ラッタルは各部署との
連絡に重要な役割を果たしていた。ハシゴの踊り場の数が、武蔵より大和のほうが多か
ったと言われている。また、大和は艦橋最上部にある防空指揮所までハシゴが通じてい
たとされる。武蔵にはこれがなかった。より実践に即した設計に自ら変えていたのであ
る。武蔵は、民間企業である「三菱重工業長崎造船所」で建造されている。三菱重工業
の長崎造船所は、多くの軍艦を建造する一方で、日本と欧米を結ぶ客船も造っていた。
そのため、艦船の内装の設計にも定評があったという。大和を製造した呉海軍工廠は、
司令官が乗り込む施設の調度品を長崎造船所に依頼したという話もある。大和より武蔵
のほうが内装の質が上だったということだろう。大和型巨艦は急いで作り急いで進水式
を行った。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を大和(やまと)と命
名した。なお同日附でのマル3計画の各艦艦名、武蔵(2号艦)、翔鶴(3号艦)、瑞鶴
(4号艦)も決定していた。1940 年8月8日進水。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎
造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船
ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた上に、しかも機密保持からも
その進水式は公表されることもなく、高官 100名と進水作業員1000名が見守る中での、
進水式としては寂しいものだった。昭和天皇が海軍兵学校の卒業式出席という名目で、
大和進水式に行幸する予定が組まれて、造船関係者は社殿風の進水台まで作ったが天皇
の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄、当時海防艦八雲艦長)臨席のも
とで進水式は行われたほどだった。大和には、当時の最新技術が多数使用されていた。
日本海軍では最初に造波抵抗を打ち消す球状艦首を用いて速力向上をはかり、煙突など
に蜂の巣構造の装甲、巨大な観測用の測距儀の装備な、進水時は世界最大最新鋭の艦型
だった曲面船体を用いている。就役当初レーダーは装備されていなかったが、その後に
電波探信儀が漸次装備されていった。1941年(昭和16年)10月18日にも、土佐沖で荒天
(風速南西20m)の中で、速力27.4ノットを記録。続いて30日に全力公試27.46ノットを
記録、11月25日には山本五十六連合艦隊司令長官が視察に訪れ、12月 7日、周防灘での
主砲射撃を実施と次々に試験運行を果たした。しかしそれは真珠湾攻撃の前日だった。
太平洋戦争での連合艦隊の旗艦といえば、大和というイメージが強い。大和は42年2月
から約1年間、旗艦だった。武蔵がその後を引き継いでいる。その理由は、司令部施設
の機能や性能が武蔵のほうが上だったからだ。武蔵は、44年5月まで1年2カ月あまり
旗艦を務めた。つまり、武蔵は、太平洋戦争中の連合艦隊で、最も長く旗艦だったので
ある。しかし武器に関して設備が大和中心で思った調達ができていなかったのである。
また、武蔵は“世界一被弾した軍艦”と言われている。被弾数には諸説あるが、米軍の
記録によると、武蔵は、レイテ沖海戦で爆弾44発、ロケット弾9発、魚雷25本 が命中し
たとされる。だが、これだけの猛攻撃を受けても、武蔵は約5時間も沈まなかった。沈
まなかった理由は、魚雷攻撃を左舷と右舷にバランスよく受けたためとも言われている
。だが武蔵の防御力や浸水に対する設計が極めて優れていた証拠であるし、火砲に対空
砲があれば又変わっていたのかもしれない。武蔵の壮絶な最期を大和の艦上から目撃し
た宇垣纏中将は、この時の様子を満身創痍…まるで、源義経を守るため、自ら盾となり
、多数の矢を受けて、壮絶な死を遂げた武蔵坊弁慶のようだった。と、武蔵の防御力に
驚愕した米軍は、のちに沖縄沖で大和を攻撃した時には、魚雷攻撃を左舷に集中させて
、撃沈している。この大和の最期も壮絶なものだったらしいが、エンタープライズの側
壁に防護鉄水嚢を取り付けたとき、なぜかこの戦艦大和の設計を真似て行ったとされる
。つまりあれだけ極秘の造船だったが、案外簡単にその設計図は漏れていたのである。


135: 名無しさんAA:19/09/16 13:29
   歴史の群像     71

 昭和五年のロンドン海軍軍縮条約の結果、山本五十六少将は、飛行機により攻撃力を
補おうと考え、攻撃機の増強に努めた。その意見は局解され、昭和十年頃には、横須賀
海軍航空隊戦闘機分隊長・源田実大尉などは、同航空隊副長・大西瀧治郎大佐と意を通
じて、「戦闘機無用論」を強く主張していく。また、昭和十一年年末には横須賀航空隊
教官に就任した三和義勇(みわ・よしたけ)少佐などは(空母「加賀」飛行長・横須賀
航空隊飛行長・霞ヶ浦航空隊副長・大佐・連合艦隊参謀・第一一航空艦隊参謀・第一航
空艦隊参謀長・自決・少将)は「戦闘機無用論」に大きく教育する航空教官となってい
た。「鷹が征く」では、航空隊教官・三和少佐が高等科学生に対し、「戦闘機は攻撃機
が攻撃実施前に阻止できないことは実証されている。航空母艦には戦闘機の代わりに艦
爆や艦攻を多く積んで攻撃力を増すべし」と力説したようだ。これに対して、「戦闘機
無用論」に反対する柴田武雄大尉は次のように反論して論争を挑んだ。「三和教官、私
にはなぜ戦闘機を無用とするのか、その根拠がさっぱりわかりませんな。そもそも艦攻
や艦爆がその威力を充分に発揮するためには、まず無事に敵艦隊の上空に到達すること
が先決ではないですか。」とやり込めている。「敵は必ず戦闘機を上げて待ち構えてい
る。これを突き破るには、こちらも優勢な戦闘機の援護をつけてやらなければならない
。さらに、来襲する敵の艦攻や艦爆などから空母を守るためにも、多数の戦闘機が必要
です」「しかも残念なことに、我が海軍の空母の防御力はアメリカ空母に比べて弱いか
ら、この欠点を補うためにも、直衛戦闘機の数を増やさなければ、空母自体の防御力の
強化と共に、これは急を要する課題だと考えますが、教官。」戦術教官の三和少佐は“
攻撃”主義者だけに、柴田大尉がしきりに我が弱点や防御を力説するのが気に障ったら
しく、不機嫌をあらわにして、次の様に切り替えして来た。「何だ貴様、君の話を聞い
ていると、まるで帝国海軍の艦攻や艦爆は腰抜けで、航空母艦は弱虫だと言わんばかり
じゃないか。だから攻撃隊や空母の援護の為に戦闘機を沢山配備せよだと……冗談じゃ
ない。そもそも我が海軍が今日あるのは、“肉を切らせて骨を切る”という肉薄必殺の
伝統的な攻撃精神にあるからだ。こちらもやられるかも知れんが、もっと多くの損害を
敵に与えればいいのだ。このためには戦闘機など減らして、艦攻や艦爆を一機でも多く
増やすべきだ。」これに対して柴田大尉は次のように再反論した。「いや、問題なのは
艦攻や艦爆を何機揃えるではなく、実際に攻撃を実施できるのが何機あるか。という事
であて対空砲火はいざ知らず、敵戦闘機の攻撃に対抗するには、こちらも戦闘機をぶつ
ける以外にない。」すると三和少佐は、いよいよ不機嫌になって、次の様に言い放った
。「何を言うか。君はそれでも日本人かね。艦攻や艦爆だって、そうむざむざ敵戦闘機
に食われやせん。君は戦闘機の威力を過大評価し過ぎるようだな。それとも 臆病風に
ふかれたのか。」なおも食い下がろうとする柴田大尉も、その冷ややかな態度に、これ
以上何を言っても無駄だと悟った。しかし、現実には重い重爆用爆弾を背負っての飛行
はとろく遅い上に高度を上げることも水面すれすれの低空飛行からの上昇も無駄だった
。直ぐに敵機に追いつかれ見つかり撃ち落とされたからだ。そのうえそうした積荷の多
い空母は被弾すると簡単に自爆したので、すぐに沈んで行った。つまり米国のような、
攻撃機中心で制空権を得て最後に船を叩く。若しくは密かに魚雷で撃つ。という戦略を
立てなかった上に、空母を中心に周りを巨砲が守る。という戦法も取らず、レイテ沖な
どでは小さな戦力を更に分割して進むという失態を犯した上に、艦船も戦闘機も兵員も
食料も如何に守るか。と言う視点は陸軍に限らず、海軍も抜けていたのである。つまり
すべてのもの、兵器や戦略や兵法や戦術において、第一次世界大戦前まで人の命を大事
に第一として戦争は行われていた。しかし、この太平洋戦争時はそれらは新世代におい
て損なわれ、これが全くの敗戦に導いた導火線だった。アメリカにはそうした人道主義
がいくらか残り、航空兵員のベテランの命の確保する座席やパラシュート。船の防御壁
や戦術の最後に空爆して航空機を確保する。戦闘機は7割以上乗せる。食糧は2倍確保
など格段に違った戦法をとって戦いに挑んでいたのだった。


136: 名無しさんAA:19/09/16 13:37
   歴史の群像     72

そして、五十六はこうした三和義勇(48期)などを指導出来なかった事で、既に日本
で戦争しても意味はない。と踏んでいた。つまりいつ退任しても、戦死しても良いと、
考えていた。集団自殺や自決の心境である。その為祭り上げられたままで、戦艦大和の
試乗に立ち会っていた。ところがこれを軍令部は利用した。八雲中将を筆頭にした奇襲
の真珠湾攻撃を決定して動いていたのである。軍が既に決めた方針に楯突くのは軍令違
反のそしりは免れない。つまり諦めた山本の前に、この戦艦大和の艦長命令が下ったの
だ。「これなら、やれるかもしれない。」そう思ったに違いない。実は欧州戦線の前の
時代なら、この国際条約にを守った戦いをし勝てる見込みはあった。しかし、既に英国
には仏国が取られ、米国の介入を待たんとした悲壮な戦争に発展していたのである。既
に、電撃作戦以来、1941年のバルバロッサ作戦によるドイツ軍のソ連侵攻を果たし、ヨ
ーロッパ本土で戦線は少なく、ドイツ軍戦力のほとんどがソ連に向けられていた。ソ連
のヨシフ・スターリンは危機的な状況を緩和するため、イギリスやアメリカに対して、
ヨーロッパに第二戦線を築くことを要請していた。イギリス軍は第一次世界大戦同様に
正面からの攻撃を繰り返すのではなく、ヨーロッパを周囲から攻撃することを提案した
。しかしアメリカ側は前線の延長を望まなかったこと。と、イギリスの勢力拡大意図に
ついて心配したため、ドーバー海峡を渡っての上陸作戦を行うようイギリス側を説得し
ていた。ドーバー海峡を渡っての作戦は、1942年中にブレストかシェルブールへの本格
的反攻ではない限定的上陸を示唆したが、スレッジハンマー作戦は失敗した。1943年以
降の北フランス上陸のラウンドアップ作戦を立案、また周囲からの攻撃で北西アフリカ
上陸のジムナスト作戦、ノルウェー上陸のジュピター作戦が立案された。スレッジハン
マー作戦は、準備期間が短すぎ、上陸して半島に閉じ込められるだけで、吸引ドイツ兵
が小さいことから早々に放棄され、ジュピター作戦も放棄。結局北アフリカのドイツ軍
を排除するトーチ作戦(ジムナスト作戦から改称)が実行され、ラウンドアップ作戦は
1943年以降になる。結局ラウンドアップ作戦は1943年中に実施できない事が判明1944年
までずれ込み、作戦名も「オーバーロード作戦」に変更された。1943年に、北アフリカ
から北上した連合軍がやっとイタリアに上陸したが、戦線の状況は全く動かなかった。
こうして改めて1943年11月28日テヘラン会談において、アメリカ大統領フランクリン・
ルーズヴェルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、スターリンが討議し、1944
年の5月には第二戦線を開くことが、いやいやながら正式に合意されたのであった。こ
の時に欧州戦線の駆け引きにアジア戦線の譲歩をソ連に行っていたのである。英国にと
ってはアジア戦線は全く日本とは争っていないし、インドの植民地支配も上手くいって
はいなかった。しかしあえて米国を入れこんで、ソ連との交渉に引き込んだのだ。この
米国を引き込む事は当然日本と敵対させる事になるのは承知していたが、日本が同盟か
ら松岡外相が離脱した事で当然簡単に引き込めたのである。松岡が馬鹿だったのか敢え
て馬鹿を起用したのか、はからずも馬鹿を演じたのかは不明だが、少なくとも国内中の
離脱阻止すべしの声は天皇以下多くあったにも関わらず世論にかき消された要因を作っ
た。つまり、なぜか全世界からきた工作員工作に負けてしまい、へまをやるのである。
このお人とよしの日本人の流儀だとして、この流儀なり慣習が負けを決め込んで決戦に
挑んだ形になったのだろう。としか言えない敗戦だった。とはいえ、それによる日本の
不幸はかなり悲しいものだ。ミッドウェーに負けた後の大きな海戦は常に蠅叩きの様に
米国は被害0の様相で日本機は何十機も撃ち落されている。ベテラン操作兵員がいなく
ただ空飛ぶだけの文句を言えない飛行機乗りばかりに代わっていたからだった。いわく
「ゲーム遊びのように次々に撃ち落し楽しかった」である。


137: 名無しさんAA:19/09/16 13:42
  歴史の群像     73

 第一次世界大戦以降アメリカの主導で国際連盟ができた。第一次世界大戦の教訓を得
て、史上初の国際平和機構として、大戦後の1920年に発足したものだった。その発足当
時からの日本は常任理事国であり、事務局次長に日本人新渡戸稲造が任命されるなど、
中心的な役割を担っていた。そうした日本がなぜ脱退してしまったのか。その理由は、
簡単にも日本が欧州の中に一緒にいてもアジアの国だったからだ。当時の世界情勢を観
てわかるように、国際連盟の発足当時の常任理事国は4ヶ国でアメリカすら入っていな
い。イギリス・イタリア・大日本帝国・フランスである。その後、ドイツ、ソヴィエト
も加わりました。原加盟国数:42カ国、最大加盟国数:60カ国、日本は列強国としての
国力と、当時紛争の絶えなかったヨーロッパから離れていたことから、第三者の立場で
の公平な調停が行えると高く評価されたため、この常任理事国入りを果たしていた。こ
の連盟の事務局次長を務めていた新渡戸稲造(にとべいなぞう)は「武士道」の著者と
しても有名で、1920年〜1926年の7年間もの間、次長を務めていた。しかし、1931年に
(昭和6年、民国20年)9月18日、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在瀋陽市)近郊
の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、日本の所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破
された事件が起こった。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表することで、満州にお
ける軍事展開およびその占領の口実として利用した。関東軍よりこの爆破事件は中国軍
の犯行によるものであると発表され、日本では一般的に、太平洋戦争終結に至るまで、
爆破は張学良ら東北軍の犯行と信じられていた。しかし、実際には、関東軍の部隊によ
って実行された謀略事件であった。とされる。事件の首謀者は、関東軍高級参謀の板垣
征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀の石原莞爾中佐で、二人はともに陸軍中央の研究団体
である一夕会の会員であり、張作霖爆殺事件の計画立案者とされた河本大作大佐の後任
として関東軍に赴任していた。背景には張作霖事件があった。張作霖は馬賊出身の日露
戦争での日本協力者だった、日本の関東軍による支援で段芝貴を失脚させ満洲での実効
支配を確立、有力な軍閥指導者になった。しかし張作霖は、日本の満洲保全の意向に反
し中国本土への野望逞しく、1918年(大正7年)同じ日本支援の段祺瑞内閣が再現した
際に、長江奥地まで南征軍を進め戦った。こうして軍閥戦争が続き安直戦争の際には、
直隷派を支援して勝利、又直隷派と対立。第一次奉直戦争を起こし敗北、東三省の独立
宣言し、日本との関係改善を声明。鉄道建設、産業奨励、朝鮮人の安住、土地商祖など
の諸問題解決にも努力すると姿勢を示したが、第一次国共合作(1924年)で諸外国支援
を呼び込み、 奉天軍(張作霖)日本支援、直隷派 欧米支援、中国国民党ソ連支援(実
質は党内の共産党員)と言う姿になった。1924年(大正13年)の第二次奉直戦争で、馮
玉祥の寝返りで大勝し、翌年、張の勢力範囲は長江にまで及び、1925年11月22日、最も
信頼していた部下の郭松齢が叛旗を翻し、張は窮地に陥り関東軍の支援で虎口を脱する
。こうして約束した商租権の解決は果たされなかった。郭の叛乱は馮玉祥の教唆による
もので、馮の背後にはソ連がいた。張作霖は呉佩孚と連合し、「赤賊討伐令」を発して
馮玉祥の西北国民軍を追い落とし、1927年 4月に北京のソビエト連邦大使館を襲撃し、
中華民国とソ連の国交は断絶するに至った。こうして国民党の北伐が起こり、直隷派が
1926年に壊滅し、中国に権益を持ちたい欧米(イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ
など)は張作霖を支援した。その為、日本から欧米寄りの姿勢に転換し権益拡大したい
欧米の大陸進出と合致した。しかしこれはあからさまなベルサユ協定違反であったので
ある上ソ連の工作に火がついた。そこに北伐をする蒋介石が上海の商人の支援で現れる
。本来張作霖でなく共産党退治だったが、清中央政府に反旗を翻した辛亥革命が以降は
軍閥跋扈で共産党も勢力をつけ、結局は反旗を翻して蒋介石政府は共産党との合作で、
日本撃退に変化する。こうして共産主義の暴力革命に移った中国国内は瞬く間に庶民の
生活は社会生活から離れ、内戦状態に陥り、共産党の思い通りの阿鼻叫喚の世界に変り
、日本政府は手を焼いてしまうのである。強姦・強盗・殺人・放火・拉致・恐喝・麻薬
民族消滅、とあらゆる悪がはびこってしまうのであった。



138: 名無しさんAA:19/09/16 14:54
   歴史の群像     74

 再三再四の欧米列強に対する抗議に関わらず、欧米列強は兵器輸出や軍事支援を止め
なかった。特に列強の軍事顧問団は日本に対する諜報活動において蒋介石を扇動してい
て、蒋介石夫人は多くの賄賂にまみれて生きていた。しかし、奉天軍(張作霖)国民党
(欧米)共産党(ソ連)という構図に変化すると、張作霖には行き場がなく、ソ連軍の
諜報将校に何回も暗殺されそうになりながら日本軍に守られていたが、それができなく
なったのが、この九ヶ国条約違反の国際的批判の世論攻勢であった。米国のイエロージ
ャーナリズムは、このミステリアスな中国模様や東洋的魅力を報じ、更に戦争を欲して
いた。日本では6回目の暗殺計画を事前に知っていたが、これを利用し爆殺やむなしの
合議においてソ連兵の爆殺にそのまま乗じた方策を取った。この時日本も蒋介石の国民
党政府との合意が出来たからである。 5月18日、アメリカは「日本は満洲に対して何ら
かの積極的行動に出るのではないか、もしそうなら事前にアメリカにその内容を示して
ほしい」という要求をした。また19日に、アメリカのケロッグ国務長官が記者団に対し
、「満州は中華民国の領土である」とし、同国の領土保全を定めた九カ国条約を提示し
た。と話した。しかしそれが大きなアメリカの欺瞞で、すでに蒋介石はドイツやアメリ
カに焚きつけられ、4月19日、北伐を再開していたのだった、日本は 居留民保護と駐留
兵の安全の為に第二次山東出兵を決定し、5月3日、済南事件が起こった。さらに日本は
、満洲から混成第28旅団を山東に派遣し、代わりに朝鮮の混成第40旅団を満洲に派遣し
た。これをみて1928年(昭和3年)6月4日の早朝、蒋介石の率いる北伐軍と決戦を断念
して満洲へ引き上げる。途上にいた張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊、皇姑
屯(こうことん)の京奉線(けいほうせん)と満鉄連長線の立体交差地点を10km/h程で
通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた黄色火薬 300kgが爆発した。列車
は大破炎上し、交差していた鉄橋も崩落した。この時の九ヶ国条約の申し入れは根本的
誤謬であった。そも中華民国の国境を明確に定めないで、その領土保全を認め、清朝に
忠誠を誓ったモンゴル人、満洲人、チベット人、回教徒、トルキスタン人らの種族が、
その独立権を、漢民族の共和国に譲渡したものと推定していて、これらは張作霖を入れ
た北京政府の欲望と欧米の欲望の合意で行っているきな臭いものだった。かつての日清
戦争後の4ヶ国干渉と同じに日本をみていて、中国大陸の平和なんぞ必要ないと見下し
ていたのである。その証左に、この九カ国には中国に強大な影響力を及ぼし得るソ連が
含まれておらず、ソ連は、1924年(大正13年)には、外蒙古を中国から独立させてその
支配下におき、また国民党に多大の援助を与えるなど、条約に縛られず自由に活動し得
ている。欧米列強の遥かなる欺瞞だったのである。しかし日本もこの張作霖の対処には
意見が割れていた。日本政府は田中義一首相を始め、陸軍少佐時代から張作霖を見知っ
ており、「張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針を
打ち出していた。しかし、中国在留の関東軍幹部は、その諸外国の権益流入に手を焼き
、軍閥を通した間接統治には限界があるとして、社会インフラを整備した上で傀儡政権
による間接統治(満洲国建国)以外方法はない。と画策していた。つまり張作霖の「東
三省復帰」は、その後の「満州国建国の障害」になるだろうとして、排除方針を打ち出
していたのである。したがって、ソ連兵の鉄橋爆破にはちょうど良い事件に見えていた
のである。ロシアが動き出したのは、そうした各国の権益の話し合いに自国がはいって
ない事に驚き、張作霖政府に申し出たがことなげに門前払いされたからだった。



139: 名無しさんAA:19/09/16 14:54
  歴史の群像     75

 この後に打ち出された、九ヶ国条約は明らかに蒋介石支援に打ち出されたものだった
。(1)中国の主権・独立および領土的・行政的保全を尊重する、(2)中国が有効な安定し
た政府を樹立し維持するため障害のない機会を与える 、(3)中国全土を通じる商工業の
機会均等主義を確立する、(4)中国における 排他的特権の獲得を差し控える、といった
原則が定められた九ヶ国条約の声明の内容は、実は中国北京の袁世凱政府を倒しての、
欧米の支援する蒋介石の上海政府が北京に乗り出したからだ。蒋介石政権を応援したの
は、日本が作り応援していた4つの自治政府を倒す為だった。蒙古聯合自治政府(もう
これんごうじちせいふ)は、1939年に内蒙古(南モンゴル)に樹立された反共のために
作られた自治政府である。首府を張家口。1941年以降は蒙古自治邦政府(もうこじちほ
うせいふ)と称したが、その前に日本独自が認めていた察哈爾政府があった。段祺瑞(
だんきずい)政府は、清末民初の軍人政治家であった段祺瑞が作った国家組織だった。
家馮国璋・王士珍とともに「北洋の三傑」と称された人で、袁世凱政府で北洋大臣とな
ったが、袂をわけて独立国家を作った。経済にたけていて、日露戦争やシベリア出兵で
日本軍を兵站支援し、ロシアのロマノフ財宝の一部を持って国家経営をした。と言われ
たが 直隷派の呉佩孚や馮玉祥が勇戦していたにも関わらず、張作霖を後継者に選んだ。
安泰かと思われたが、陸徴祥らのパリ講和会議代表団が、最後は北京政府の命令を蹴っ
てヴェルサイユ条約調印を拒否した為権威は失墜し、馮玉祥・張作霖らが軍事・政治的
実権を握って影響力を失くし国民党軍に負けてしまう。つまり袁世凱が死去し、黎元洪
が後任の大総統に就任し、段祺瑞は国務総理に就任したが、重石を失った北京政府では
、段率いる安徽派と馮国璋率いる直隷派とで派閥が成立して、段が日本からの支援を得
ようと図った為に、正当な段祺瑞の総理就任にあからさまに米国が工作を開始している
。直隷派が英米の支援を受ける傾向があったのに対し、安徽派は日本からの支援を受け
る動きがあったが、この日本の影響力排除に九ヶ国条約は作られ始めていたのである。
このアメリカの動きが、日英同盟破棄を迫った動きであって、日本は蛇に睨まれた蛙の
状態だった。張作霖はもともと馬賊の出で、小さな国をつくって治める気がなかった。
第一次奉直戦争で張作霖の奉天派は、英米を背景に持つ呉佩孚ら直隷派に敗北し、退却
し直隷派が政権を取得する。この東三省に退却した奉天派は、行政官僚の王永江の指導
のもと財政再建、軍事行動の抑制による不拡大方針、軍隊の再建、、自弁鉄道の建設、
東北大学の創立などの地域密着型の行政が行われたが、ここを一国とはsなかったのだ
。 1924年9月、王永江たちは反対したが江浙戦争に介入し第二次奉直戦争が勃発する。
10月23日に、馮玉祥らが北京政変を起こし、奉天派と馮玉祥軍は呉佩孚率いる直隷軍を
挟撃、直隷派は壊滅した。これによって長江下流域にも勢力を伸ばしたが、この内戦で
費やした軍事費を重税で回収しようと試み各地で猛反発を受けた。これをみて馮玉祥は
蒋介石に北伐を勧めて、奉天派と安徽派は交戦し、奉天派内で中央介入に反対していた
有力軍人の郭松齢を仲間とし反乱を起こさせた。郭松齢は張作霖、楊宇霆の引退を図り
、一時は優勢だったが、関東軍が郭松齢に排日感を覚え、張作霖を間接的に支援する。
郭の軍は満鉄に乗車を禁止されるなど行動を阻害され張作霖の反撃に敗北して処刑され
た。しかしこの事で欧米の排日感は高まり、馮玉祥との戦いが続き、同盟の直隷派も蒋
介石の北伐軍に敗れていった。1926年12月、張作霖は負けながらも北京で大元帥に就任
し、自らが中華民国の主権者であることを宣言した。1928年4月、蒋介石は改めて国民
革命軍を改編し、欧米の支持を得て再び北伐を開始した。この時は他の軍閥勢力である
馮玉祥・閻錫山なども自らの勢力下に加え、万全な態勢を取っていた。張は防戦するが
、欧米からの支持を失っていて日本政府も張を支援せず、国民革命軍との戦争に敗れた
。こうして北京を脱出したが瀋陽郊外の皇姑屯で爆殺されたのである。


140: 名無しさんAA:19/09/16 14:55
  歴史の群像     76
 
 林久治郎奉天総領事は6月4日の事件発生直後、内田五郎領事に対し、現場へ急行して
奉天警察側との合同調査班を結成するよう命じた。内田は 八ヶ代副領事らとともに、
奉天交渉所管第一科長、安第三科長らとの合同現場検証チームを編成した。日本と奉天
軍閥の共同調査が行われ、爆発後に集めた破片から爆弾はロシア製と判断された。事件
当初から「日本軍の仕業」と流布する張学良がいた。当初、国民党便衣兵による犯行で
あるとされたこと、また現場は張作霖の通過ということで奉天軍側は前日に警備の交替
を日本側に申し出て奉天軍閥兵士50名で張が利用する京奉鉄道側を守り、日本軍は満洲
鉄道側を警備していたため無関係との理解が得られ、日本に対する疑念は晴れたのだが
、葬儀では息子の奉天軍閥を継いだ張作霖の息子・張学良は関東軍の仕業で復讐すると
大きく声明を出していた。事実川本大作は線路脇の土嚢の土を火薬にすりかえたと証言
しており、後輩である磯谷廉介に「張作霖の一人や二人ぐらい、野垂れ死にしても差し
支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ」と、張に対する実力行使を手紙で
事前に告げていて、「満蒙問題の解決は理屈ではとてもできぬ、少しぐらいの恩恵を施
す術策も駄目なり、武力の他に道なし、ただ武力を用いるとするも 名義と旗じるしの
選択が肝要なり、ここにおいてか少しでも理屈ある時に一大痛棒を喰わせて根本的に彼
らの対日観念を変革せしむる要あり。」と彼が共産党コミンテルンに犯された人間であ
ったことが見える。日本軍の中にも軍規よりは平和を望んでこうしたロシアに加担した
考えの者も大勢いたようだ。ともあれ息子の張学良は程なく真相も不明のまま激怒して
、国民政府との合作で日本と対抗する政策に転換した。1928年(昭和3年)12月29日朝
、奉天城内外に一斉に青天白日満地紅旗が掲げられた(易幟)。この結果、日本は満洲
への影響力を弱める結果となる。これが後の満洲事変の背景の1つとなった。日本国内
も1926年(大正15年・昭和元年)に蒋介石の北伐が開始されて以降、同年に万県事件、
1927年(昭和2年)に南京事件や漢口事件など共産党テロが多発し、日本国内での協調
外交に対する疑問から不満の世論が大きくなった。軍部はこの「協調外交」にとらわれ
た外交政策を「弱腰外交」として強く批判して、国民や邦人の声援を受け強くなった。
そして、1931年(昭和6年)満州事変は九ヶ国条約で定められた中国の領土保全の原則
に違反しているとして、各国から非難を受けた。が、それ以後もたびたび日本の行動は
同条約違反と、何かにつけ非難された続ける。日本政府は非難を受けるたびに本条約を
遵守する声明を公約し公表し続けた。これが逆に諸外国の条約違反を誘発させ増長させ
た。満州事変は、1931年に、関東軍(日本)の自作自演の策略によって起こったのだが
、ドイツの防御陣地指導やイタリアの航空隊支援、ロシアの財政支援、欧米の武器調達
が、既に隠れておこなわれていた。アメリカマフィアすらも上海拠点を持ち、九龍党と
抗争し、英国やイタリアは白ロシアユダヤ人に赤ロシア排除を指導していた。事件は、
日本が所有していた鉄道の爆破事件で、柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)が起こり
、そして それを機に、日本が満州全土を制圧して満州国を設立させるというものだっ
た。中国国内治安の為に、中国に軍を派遣しないかぎり、国民党軍に治安能力が欠けて
きたからだ。この時日本は「九ヶ国条約で定められた中国の領土保全の原則に違反して
いる。」として、満州国を各国は非難をしたが、実際は事実無根であり言いがかりだっ
た。何故なら中国の自治を認め、自由な出入りを認め、兵器の納入を禁じていた条約で
日本は何一つ違反していなかったからだ。

141: 名無しさんAA:19/09/16 15:07
  歴史の群像     77

 日本は、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定を解消してまで、機会均等
を体現し、この条約に基づいて別途中国と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(
山東還付条約)。この弱腰に突いた形で言い寄っている。1922年2月に、ワシント
ン会議によって成立した中国に関する条約。中国の主権尊重・領土保全と、門戸開放・
機会均等を確認し、日本の二十一カ条の要求で得た山東省の旧ドイツ権益の返還などを
決めた。この時の9ヶ国とは日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・ベルギ
ー・オランダ・ポルトガル・中国である。中国が参加しての話し合いなのだが米国主導
で連れてきて、合意に達している。ねらいの第一次大戦中に「二十一カ条の要求」を、
中国に認めさせ、ドイツとロシアの後退で積極的大陸進出した日本の動きを、アメリカ
とイギリスが抑えようとしたものだった事は明らかだった。しかし、日本も国際協調の
世論に押され、二十一カ条の要求で獲得した山東省の旧ドイツ権益(膠州湾)の返還を
あっさり認めた上で権益を確保している。アメリカ他諸外国の国民はの外交上の勝利と
言った。またアメリカとの間で交わされていた石井・ランシング協定も破棄されること
となった。ライシング協定は、第一次世界大戦の勃発の翌年、1915年1月18日、
日本の大隈重信内閣は、中国の袁世凱政府に対し、二十一カ条の要求を突きつけ、五項
と二十一条からなっている条約である。
第1項「山東省に関する件」日本のドイツ権益を継承を認めることと、芝罘(煙台)
    と膠済鉄道(青島−済南)をつなぐ新鉄道の敷設権を要求。(全4条)
第2項「南満州および東部内蒙古(内モンゴル)に関するする件」(全七ヵ条)その
    主なものは (1)旅順・大連の租借期限を99ヶ年延長すること
          (2)日本人の土地租借権と土地所有権を認めること
          (3)日本人の居住と営業の自由
          (4)鉱山採掘権の承認
          (5)政治、財政、軍事についての顧問を求める場合は、まず日本
            政府と協議すること
第3項「漢冶萍公司に関する件」漢冶萍公司を両国合弁事業にすること(全2条)
第4項「中国政府は中国沿岸のすべての港湾と島嶼を他国に譲渡または貸与しない旨
約束すること」
第5項は「懸案解決その他に関する件」
  (1)中央政府の政治、財政、軍事顧問に有力な日本人を就任させること
 (2)必要な地方の警察を日華合弁とするか、あるいは警察官に多数の日本人を
採用すること
  (3)兵器は日本に供給を仰ぐか、日中合弁の兵器工場を作ること
  (4)武昌と九江・南昌を結ぶ鉄道、南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権
を日本に与えること
  (5)福建省の鉄道・鉱山開発等はまず日本と協議すること
 (6)日本人の布教権、など(全7条)
漢冶萍公司(かんやひょうこんす)は湖北・湖南両省にまたがる中国最大の鉄鋼コンビ
ナートで、漢陽製鉄所、大冶鉄山、萍郷炭鉱から成る。日本にとっては大冶の鉄鉱石が
八幡製鉄所の原料として重要な意味を持っていた。日本は、第一次世界大戦に際して、
日英同盟を口実に参戦し、ドイツ支配下の青島と南洋諸島の獲得に乗り出し承認を得て
いた。列強の目がヨーロッパにむいたことと辛亥革命後の中国の混乱、内部対立に乗じ
ての進出だったが、中国政府(袁世凱政府)に対し、ドイツの山東省権益の継承と日露
戦争で得た日本の権益を認めさせようとしていた。こうした中国権益はベルサユ条約の
協定規定に沿ったものだったし、この条件を飲むことでフィリピンやメキシコなどの、
欧州の権益を米英は守ったはずだった。つまり一方的に中国から離れよというのはおか
しく、この条件を日本にやるからメキシコや東南アジアの植民地支配を認めてくれ。と
言う話だったし、成立しなければアラスカ承認もなかったのだ。



142: 名無しさんAA:19/09/16 15:09
  歴史の群像     78

中国の袁世凱政府は、第五項は日本が中国を保護国化する意図ととられかねず、それを
知り中国政府は、第五項を強調して宣伝した。その為難航し、外相加藤高明は第五項は
「希望条項」にすぎないと弁明し、かえって不信を買った。そのため政府の予測に反し
て交渉は2月からはじまり、二十回ほど交渉し、満州・山東などの駐留軍を増強して、
も歩み寄りはなく、5月、加藤外相の交渉に不満な元老山県有朋の意見で第五項を削除
して最後通牒とし調印にこぎつけている。日本の要求は過大で高圧的な内容であったが
、第五項が秘密にされていた段階では、帝国主義政策をとる列強にとっても日本だけを
責めるわけにはいかず、また日本が第1次世界大戦に参戦してドイツとの戦争に加わっ
た見返りの意味もあって黙認、基本的には容認していた。しかし、中国がこれを暴露し
強調すると、アメリカとイギリスは、第五項には中国保護国化の恐れがあるとみて警戒
し非難し、中国を擁護し、日本に第五項の取り下げを要求し、5月に日本が取り下げた
ことを評価し、アメリカは11月に石井・ランシング協定を締結したのだった。それは
、アメリカの主張である中国の領土保全と門戸開放を日本が認める一方で、アメリカに
日本の山東省権益を認めさせた事だった。こうしてパリ講和会議と五・四運動は1919年
の、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議において、山東問題は重要課題とし
て交渉され、中国政府は二十一カ条要求の無効を訴えたが、イギリス・フランスは大戦
中の日本との密約があるので同調せず、ヴェルサイユ条約には盛り込まれないことにな
ったが承認された。それに対して中国政府は官制デモを繰り返し五・四運動として、激
しい抗議行動を展開したのである。こうして中国政府もヴェルサイユ条約の調印を拒否
し、中国国内に蒋介石の国民党軍が発生した。また欧米列強の一部に、日本の中国大陸
進出を警戒する意見が強まり広がって、日英同盟の継続に対する反対論も出始めたのだ
った。こうして米国の日本敵視政策が織り込まれると、日米間の対立が激化していき、
イギリスは巻き込まれることを恐れ、日英同盟の継続に両政府が反対した。1921年
のワシントン会議で日英同盟の破棄が決定され、代わりにこの九ヶ国条約が検討された
。アメリカの英国の対日要綱が多肢に渡り、その為この条約の二十一カ条要求は多岐に
なった。その結果も項目別に異なって、長い条文となっている。ポイントとしては次の
通りである。項目は大きく5つあり、そのうち1〜4は「要求」で、最重要は1と2で
ある。5は「希望事項」であるとされた。そして5については公表されず、秘密事項で
あった。要求項目とその結果をまとめると次のようになる。
1.山東省のドイツ権益の継承について →
  中国政府承認。いわゆる山東問題として継続。ワシントン会議の結果、1922年
  の九カ国条約で日本が放棄。
2.南満州及び東部内蒙古の日本権益の延長と拡大について → 中国政府承認。旅順・
  大連の租借延長はその後も撤回されず、それを起点に1932年に日本が満州国設立。
  1945年まで存続。
3.漢冶萍公司の両国合弁化について → 
  中国政府承認。順調には進まず、実質的には日中戦争期に日本の経営権が成立。
4.沿岸部の不譲渡・不貸与 → 
  中国政府承認。日中戦争期に日本軍が海岸地方をほぼ制圧。
5.政治顧問団の日本人の派遣や就任など → 
  内外の批判強く、日本政府が取り下げる。
1922年2月、ワシントン会議によって成立した中国に関する条約。中国の主権尊重・領土保全と、門戸開放・機会均等を確認し、日本の二十一カ条の要求で得た山東省の旧ドイツ権益の返還などを決めた。


143: 名無しさんAA:19/09/16 15:52
 小猫のそら   35

 サウジアラビアの住民でイスラエルのモサドとなっている、黒の集団がアメリカ資本
の資金で、サウジアラムコのコンビナートを攻撃した。これは不思議な事だ。サウジが
イスラエルの首相選挙である今のネタニヤフ首相の応援に裏取引をしたのだろうか。今
や中東・イスラエルのネタニヤフは、総選挙に勝利すればパレスチナ自治区ヨルダン川
西岸の一部をイスラエルに併合する考えを明らかにしていたが、イスラエル国民の賛同
は少ない。パレスチナへの強硬姿勢は右派から根強い人気だが、4月の選挙で中道左派
の野党と互角の勝負を展開していて。自身が率いる与党・リクードが中心となった右派
勢力の議席が過半数をやっと越えて連立政権に失敗して、今月17日に再選挙が行われ
る結果になった。対し、パレスチナ自治区ガザを実効支配しているイスラム組織ハマス
は、「ネタニヤフ首相の声明でイスラエルによる侵略の事実が変わることはない、我々
は抵抗を続ける。」と反発していた。また、10日夜に、ネタニヤフ首相がイスラエル
中部の町で選挙演説を行っていたが、ガザからイスラエルに向けてロケット弾が発射さ
れる事件が起こっている。ハマスによるものかどうかは不明で、演説の会場にサイレン
が鳴り響き、集まった支援者らが一時避難し、選挙目前に緊張が高まる事態だ。事実上
、ネタニヤフ首相の続投となれば、中東和平実現への道はさらに険しいものになりそう
で、つい最近もなぜか イランの諜報部を批判したTV画像が出て嘘八百で飾っていた
。今回のサウジアラムコのコンビナートの攻撃には4つの問題がある。一つはこの精油
所はかなりの秘密基地でそうそう遠くからは無人飛行機で飛ばせるものではないことだ
。砂漠のど真ん中で目印も気候条件で変わる。しかし知ってる者はしる所だが侵入には
かなり平時でも危険な所である。なんせ武装兵士が守っているところだから。二つ目は
かなりの精度の高い小型ミサイルだったということだ。タンクがいくら大きいとはいえ
鉄板である。それを重たいミサイルを持った無人飛行機が飛ぶのは困難である。確かに
イランはそういったものを開発はしている。しかし自動小銃や監視カメラ程度で自爆機
であってもそんなに威力はない。それが炎上したし、広大な砂漠を超えてそこまで飛ば
す電気なり油なりがそんなにない。つまり、こうした技術は、アメリカ・欧米・イスラ
エルしか持ちえない技術である。三つ目は、イエメンのフーシ派が犯行声明を出した事
だ。フーシ派は10機のドローンで攻撃したと声明を出しイラクから飛行させたという
。しかし、トランプはイエメンからの攻撃である可能性は低いとした。つまり角度が、
いまいち違うということだ。これはフーシ派のにこの事件に乗じた声明発動を呼びかけ
て声明発表したのだろう。またこの攻撃はドローン攻撃でなくミサイル攻撃だと専門家
は分析している。四つ目は、誰が得するか。ということだ。イランは全く得はしない。
既に核合意離脱で戦々恐々の中だからだ。ということはフーシ派も支援されている以上
得にならない。で他に得するのサウジ自身かイスラエルである。イスラエルは小さいが
石油産出国だ。更にこうした破壊技術を持っている。サウジは当然ながらこのタンクの
持ち主だ。自国だからと言って行わないとは限らない。もう一つは石油メジャー達だ。
此の所石油の値段はまたも下げに転じている。更に夏場にはいり下がる傾向だ。つまり
これで石油値段は約1割が瞬時に売価が上がった事になったし、今後も危機感が続けば
2割以上は上がるだろうと言っている。こうした理由からネタニヤフ配下のモサド工作
は確かだろうが、かと言って何が目的かは全く不明である。イランとの戦争したがって
いるのはわかるが中東全体を巻き込んだ紛争をまだ起こし足りないというのは・・・・
開いた口がふさがらない。いまでも避難民は充分地獄を見ているというのに。

144: 名無しさんAA:19/09/16 16:41
 歴史の群像     79

 上記の条約調印で得た「日本の二十一カ条の要求で得た権益」は1922年2月6日
、新たにワシントン会議で調印された中国に関する一連の原則を定めた条約で変更され
た。調印国は、アメリカ、ベルギー、イギリス、中国、フランス、イタリア、日本、オ
ランダおよびポルトガルの9か国で批准し、完了は25年8月5日であった。あとでに
スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、メキシコ、ボリビアも参加して、十四ヶ国の
条約となって中国支配の全容が決められた。全文は九ヶ条からなる。
第1条で、(1)中国の主権・独立および領土的・行政的保全を尊重する、
     (2)中国が有効な安定した政府を樹立し維持するため障害のない機会を与える
、(3)中国全土を通じる商工業の機会均等主義を確立する、
(4)中国における排他的特権の獲得を差し控える、という原則が定められた。
そのほかに、中国における門戸開放、機会均等を有効にするための条件を3条に追加さ
れ、勢力範囲創設の否定を4条、鉄道に関する差別待遇の廃止を5条、中国の中立尊重
を6条などが織り込まれ合意された。この条約により、アメリカはかねてから主張して
きた中国における門戸開放政策を成文化し、列強に承認させ、列強の勢力範囲を否定し
、極東における国際関係の主導権を握った。また中国における日本の特殊権益を承認し
た石井‐ランシング協定は廃棄された。別途に開かれた日中交渉により、日本は二十一
か条要求の一部放棄、膠州湾(こうしゅうわん)租借地の返還などを迫られのである。か
くして日本の対中国進出にストップをかけようとするアメリカのねらいは成功を収めた
。つまり、この条約には中国人皇帝が自国の建立を宣言し国を建てることを禁止しては
いなし、中国への欧米列強の軍事顧問団派遣や戦闘機や兵器の輸出などは全く認めては
いないのである。はからずも、日本の検閲や意見を求めると言う義務はなくなったが、
その為の記入した自主独立と共に排他的特権の排除が謡われていて北伐の蒋介石軍すら
も禁止行為にしているし、毛沢東のテロ行為は当然第一項に禁止しそこに兵器提供も又
禁止していたのである。しかし、このワシントン会議は、実はこうした中国権益よりは
ワシントン体制とされる軍縮会議の最初であり、その割合のアメリカ、イギリス、日本
、フランス、イタリアの順番で、艦船保有を5:5:3:1.67 :1.67 の 割合を決
めた事の布石として、日本の占有権を認めた事のほうが大きいものだった。しかしこれ
は、第一次世界大戦後に行ったアメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱に
よるもので、ワシントンで開かれた勝手な国際軍縮会議で、国際連盟の賛助を得ずに、
勝手に実施されたものだった。つまりソ連などは参加していないのである。ここに米国
の欺瞞がある。一方で共産党の赤色思想の南下食い止めを指導し、一方で日本の大陸の
駐留をシベリア出兵以来非難し続け、又一方で自らの中国との交渉を持たず陰に隠れて
武器支援をし、イタリアを紹介し飛行部隊を作らせ、一方でドイツ人軍事顧問団を派遣
し、赤ロシアと白ロシアの中国内対立の仲介に日本ははいるなと牽制をしていた。ので
ある。そこにはフィリピン問題やメキシコ問題があって強く言えない理由はあっただろ
うが、それにしてもメキシコには武力介入し石油資本を入れ、フィリッピンには独立に
又武力で押さえ、日本には大陸治安すら横暴だと批判していたのである。日本も違反じ
ゃないと強く突っぱねればそれで良かったのだが、欧米列強とは対峙していくのを恐れ
た政府は、そうした表明にのみ走った。しかし満州は、中国軍による爆破被害という、
自作自演(偽旗作戦)の計画で、立案者の石原と板垣が幕僚長であり、爆破工作を奉天
特務機関補佐官の花谷正少佐参謀本部付の張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉が指揮
した。とされる。爆破のための火薬を用意したのは今田大尉で、今田と河本は 密接に
連携をとりあい、計画に三谷清奉天憲兵分隊長と、上司の第三中隊長の川島大尉などの
数名の大将を巻き込んでいた。ただ世界大戦後に発表された花谷の手記によれば、関東
軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部第一部長建川美次少将など
、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも、この謀略を知って、賛意し知らん顔してい
たらしい。


145: 名無しさんAA:19/09/17 20:28 ID:og
 歴史の群像     80

 元々、中国政府は、早くから切り売りしていた。1896年に、ロシア帝国フランスと、
ドイツは三国干渉を行い、遼東半島を占有していたドイツ帝国は、1897年、山東省曹州
でドイツ人宣教師が殺害されたことを口実として、膠州湾を占領し、翌年、膠州湾の周
囲50キロの円周地域を99年間租借する権利を獲得していた。英国の香港島と同じに
ドイツ占領地を広げていた。また済南と青島間やその他の鉄道の敷設権や、山東省内の
鉱山採掘権、山東省内の一切の利権に対する優先権を獲得し更に1899年には、特別協定
によって青島港の税関長をドイツ人とし、税関吏員もなるべくドイツ人を採用し、税関
書類もドイツ語にする権利を得て、青島港は要塞化され、山東省は完全にドイツの勢力
範囲となっていて、ここで第一次世界大戦に突入していた。日英同盟を理由として第1
次世界大戦に参戦した日本は、1914年11月には、ドイツが支配していた膠州湾と青島、
山東鉄道を奪還占領し、ドイツとの開戦のさい膠州湾租借地(青島)の全部を支那国(
中華民国)に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し
ていた。これが戦争終結後の外交交渉で対華21カ条要求交渉とない、締約された2条約
13交換公文だった。戦後に戦勝国として山東省ドイツ権益継承を要求、ヴェルサイユ
条約で認められ日本のものと国際間協定ができていた。中国側のドイツ作った協定で、
山東省に関する条約によりドイツのものだった山東省ドイツの権益を、日独間での協定
権であらかじめ承認したものを、更に国際間のベルサユで承認された形だったが、これ
に反発して、アメリカの使嗾によりヴェルサイユ条約の調印を拒絶し、一般の中国人に
も反日機運を高めたもので米国の中国支援はおかしなものだった。しかし、ワシントン
会議が開催されると、アメリカ・イギリスの仲裁で山東還付問題が協議される。租借地
と同地の公有財産の無条件返還については合意を得たが、山東鉄道の問題で両者は対立
した。日本側は山東鉄道返還の回避を狙い、山東鉄道の日中合弁化や、あるいは 売却
代金4000万円を借款化して長期による割賦とし半永久的な支配権を要求していた。これ
に対して中国側は即時一括での代金支払いを要求し、更に中国の建設鉄道とまで嘘をつ
いた。ここでアメリカ・イギリスの提案で、4000万円を15年満期の外債で日本に支払い
を提案し、満期まで運輸主任・会計主任に日本人を起用し、条約発効から5年経過した
場合には中国側は随時繰り上げ償還を行えることを条件として妥協が成立した。こうし
てドイツ発行の中国鉄道債券四千万を払い、日本の元で運営された。その他にも日本側
では青島税関の管理権を中国側に返還したり、日本側が青島での専従居留地設置を求め
ない代案に、中国側は青島を自由貿易港として外国人の自由な居住と営業を認め外国人
にも市政参与権を与えることなど、山東省の主要都市を外国人に開放することを条件に
今でいうなら良心的すぎるぐらいの素直さで明け渡している。こうして、山東鉄道保護
を理由として駐留していた日本軍は山東省から撤退した。膠済鉄道沿線の若干の鉱山は
撤退が難しく日中合弁会社が経営すること、などが合意されて条約締結していた。この
条約に基づいて、12月1日には山東懸案細目の協定を結び、同5日には山東懸案鉄道
細目協定が調印され、これによって1922年末までには着々と、日本軍の撤退と租借地及
び公有財産・青島税関の返還が完了した。翌1923年1月1日に山東鉄道が条約で認められ
、条件付ながらも、こうして中国政府側に返還されたのだったのが、だがしかし、こう
した山東省における鉄道と鉱山に関する日本の権益は、全く「誠意のない」袁世凱中国
政府によってまったく無視されてしまうのである。そしてより以上に中国政府は日本の
駐留批判を繰り返し世界に発信させた。そしてアメリカ新聞社はその嘘を真実のように
扱い書いたのである。本社では平和友好記事は没にされ記事として載せない方針が政府
の圧力で突き抜かれたからだ。世の中はこうして戦争へ戦争へと動いていた。



146: 名無しさんAA:19/09/17 20:28
 歴史の群像     81

 中国政府の不誠実な対応のそれは、国民党煽動や共産党テロによって民衆の排外運動
(外国人排除運動)と内乱状態(外国の軍閥支援)の激化により、簡単に侵害されたの
である。また、外国人の青島市政参与権の約束も新しい国民党政府に簡単に拒否され、
山東省の主要都市も外国人に開放されることは全くなかった。こうして嘘つき中国の始
まりができたのである。九ヶ国条約が積極的な張作霖排除の動き自体はしなかったが、
この時点で息子の張学良や蒋介石の北京政府は、当初からなんとも胡散臭い政府だった
。というのもドイツ政府の軍事顧問団の廃止で帰国問題では、彼らは帰国しなかった。
国際条約から当然の処置だったにも関わらず、蒋介石夫人やアメリカ領事館が出てきて
は宣教師やジャーナリストと職業と変えたり、すぐにアメリカ国籍者にしたりして日本
政府の目をくらましていたのだ。更にひどいものは名前を変えて日本に在住し、中国へ
再入国させていたりした。しかしそれでも上海租界や香港租界でのドイツ人復職擁護は
中国政府での並々ならぬ努力のものだった。そこには白系ロシアのユダヤ人が日本人に
泣訴するほどの事件も一部にあった。多くは日本に亡命を願い最終的には米国人になっ
たのだが、この善良なロシア国籍のチェコやスロベニア人などはドイツを憎んでいた。
とはいえ、日本につれて帰ったドイツ人捕虜も半数ほど日本に帰化するほどだったから
、当時のドイツ政府はよっぽど嫌われた政府だったのだろう。この頃は一概にドイツ人
と呼んではいけない程に、歴史的に地域で違っている感情があったのだろう。しかし、
満州事変の結果で満州国建国には、それらが一掃された。反発した国民党軍北京政府の
中華民国は連盟に提訴した。それを受けて連盟は、イギリスのリットン伯爵を団長とし
た「リットン調査団」を満州に派遣する。日本の作った満州国が、正当なものであるか
どうか、これを調べに来た。と日本人は思っていたらしく、全くお門違いだった。結果
、リットン調査団は、日本の満州での「特殊権益」は認めていた。しかし、満州事変は
正当防衛には当たらないとして、日本に満州を返還するようにと「リットン報告書」を
国際連盟に提出した。それは当然である。アメリカはあら捜しに彼らをよこし、張作霖
の爆殺がロシア軍だとしても、柳条湖事件は日本軍が手を回し、満州国建国したのは、
ありありだったし、『ラストエンペラー』として知られる清朝皇帝の愛新覚羅国王を、
担ぎ上げ守る親衛隊や近衛兵に中国の将軍は一人もいなく、日本の関東軍が日本語で守
っていたのだから、それが中国人の自治だ。などとは言えなかったしいうなよと、本国
指令もある調査団だったのだ。朝皇帝の愛新覚羅国王は大清皇帝で紫禁城に軟禁されて
、北京政変で紫禁城を追われていた所を日本は庇護し、即位させている。当初に庇護を
受けようとしたであろうイギリスやオランダ公館に拒否されてしまい、天津の日本租界
で日本公館の庇護を受けていたのは周知の事実のはずである。これ以降の縁で満州事変
以降関東軍の主導で建国された満洲国の執政に就任していた。これを以て満州国は正当
政府だと主張していた関東軍は世間知らずだった。


147: 名無しさんAA:19/09/17 20:29
 歴史の群像     82

 こうして、満州国軍大元帥や満州国協和会名誉総裁などを兼任し、帝政移行後の満洲
国で皇帝に即位している。もしそれを周知の国際社会で承認される国家としたかったな
らば、松岡などでなく彼と彼の援助軍人を国連につれていくべきだったのである。その
後がたとえ北京政府とゴタゴタしようとも、満州国皇帝としては元号から康徳帝と称さ
れ、革命北京政府批判を宣言させるべきであったのだ。その後、太平洋戦争(大東亜戦
争)における日本の敗戦やソビエト連邦軍の侵略を受けて、満州帝国の崩壊ととも運命
を一つにし退位したが、リットン調査団に対してはこの頃の中国では私のものだ。と言
える立場のはずだったはずで、このことを強く指導すべきだった。これを松岡が出来な
かった。つまり無能だったのだ。日本は、わざわざ国際連盟の会合など出席せずとも、
この政府を正当政府との声明の公言をし、PRするだけで事足りたのである。事実この
理由d皇帝を首席に据えたものだったのである。基本的にこの頃の国際社会は、各国と
も植民地経営は行き詰まり、国の財政赤字が増して軍縮交渉するまで追い詰められてい
た。その理由は原住民の独立闘争にあった。つまり、ここで中国で独立を認めてしまえ
ば、その影響はインドシナやインド、あるいはフィリピンやメキシコなど、欧米各国の
植民地に火が噴く可能性があって、とても認められない状況だった事を感知すべきであ
る。松岡演説の前に如何に日本軍が悪いかという映画まで上映されて、とても日本人の
思う、本来の国連総会の状況ではなかったのだ。これを松岡は勘違いしていた。日本が
国連離脱するほど否定されたのではなく、新たな独立国を認めない。という賛否の可決
だったのが日本が拒否された。と思ったのだ。1933年のリットン報告書を基にした可決
が、当然、国際連盟特別総会での審議されることは周知の事実で、最終的に日本以外の
総会に参加した全加盟国が、満州国を認めない事に賛成し、賛成42対1(日本のみ)
の結果は当然予測される欧米各国の思惑でもあった。一見100%ダメという状況に見える
が、この頃に認められている国は欧米諸国のほとんどが第一次大戦の痛手に窮した国の
集まりだったのだ。次の戦争に備え忖度し条約国が賛成する。この時、日本の代表とし
て全権を任命され総会に参加していた外交官・松岡洋右(まつおかようすけ)は馬鹿者
の世間知らずだったので、「国連の決定は、日本は受け入れることができない」と決別
を意味する演説を行い、場を退場までしてしまったのである。もちろん、退場だけでは
脱退にはならない。しかし、ほぼ全会一致で、日本の非が認められてしまったと軍部も
勘違いして、日本国としては脱退やむなし、という国内世論を形成してしまったのだ。
しかしこの松岡は出国の際重々退席するな脱退するなと天皇からも首相からも言われて
いた。帰国の船の中では、青い顔し意気消沈していたが、乗った船が港に着いて国民か
らは拍手喝采で出迎えられた。つまりそれほど当時の日本に国際世論とのズレた情報を
各国のスパイなり諜報員なり工作員がイエロージャーナルを形成し動かしていたのであ
る。こうしてリットン報告書が審議された特別総会の2ヵ月後には、勢いに乗った世論
に押され。正式に連盟脱退を日本が表明して九カ国条約を突きつけた欧米各国は、大喜
びだったのだ。これで東洋の目の上のたん瘤を気にしなくとも、堂々と中国侵入できる
。と

148: 名無しさんAA:19/09/17 20:41
 歴史の群像     83

 齋藤内閣(さいとうないかく)は、実に最低の妥協の産物だった。枢密顧問官で取り
柄もない退役海軍大将の斎藤実が第30代内閣総理大臣に任命されて、1932年(昭和7
年) 5月26日から1934年(昭和9年)7月8日まで続いた。1932年(昭和7年)5月には
、期待されていた内閣総理大臣犬養毅は、武装した海軍青年将校らの暴徒に殺害された
。五・一五事件である。その後元老の西園寺公望は、犬養内閣の陸軍大臣であった荒木
貞夫からは、政党内閣の拒絶の意を伝えられ、また親米派の昭和天皇の意向を受けて、
次期首相の推薦についての調整を行ったが難航した。その結果、シーメンス汚職事件で
引責辞任した元海軍大臣で、朝鮮総督の時期に子爵の爵位を授与されていた穏健派だっ
た斎藤実が首相として推薦されることとなったのだ。本来、犬養毅総裁及び首相を失っ
た立憲政友会は、テロによる内閣総辞職の後の首班には「同じ政党の党首」を推薦する
という元老の慣例を考慮し、元老と天皇による次期党首の次期首相指名という大命降下
を期待していた。ここで、右派の森恪らは次期総裁・首相として、右翼とつながりを有
しナチズムやファシズム、共産主義など外来思想を危険視していた司法官僚だった平沼
騏一郎を押していた。が、立憲政友会は突如17日、鳩山一郎の義弟である鈴木喜三郎を
選んだのだった。元老だった西園寺公望も、当初は政党内閣継続の為、鈴木を次期首相
に推薦する意向で、陸相の荒木貞夫も19日に鈴木と会見し「鈴木内閣発足に反対しない
」と発言した。だが翌20日に、軍の意向が繋がらない陸軍の少壮将校達がこれに反発し
、政友会単独内閣成立に強く反対していることが報じられた。こうした、不穏な情勢と
なった事を危惧し。21日、西園寺は重臣や元帥の意見を聞いた上で、鈴木ではなく海軍
穏健派の長老である斎藤実を推薦する事にしたのである。斎藤は英語に堪能で、条約派
に属する国際派の海軍軍人であり、粘り強い性格、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さ
が評価されていた。斉藤内閣は精力的に動き、1932年(昭和7年)秋、それまで帝国政
府が断固として承認しなかった満州国を承認する日満議定書を交付し、また、1933年に
(昭和8年)5月には中国軍と日本軍との間の停戦協定である塘沽協定を、満州との間に
締結した(この当時の外務大臣は内田康哉)意外にも齋藤内閣は立憲政友会と立憲民政
党の双方から大臣を迎えた挙国一致内閣(連立内閣)であった為に平和路線をそのまま
いくかと思われた。 しかし前述の様に、国際連盟は満州事変について、1932年(昭和7
年)にリットン調査団を派遣し、その結果9月に対日勧告案のリットン報告書が提出さ
れ、同対日勧告案は1933年(昭和8年)2月24日のジュネーブ特別総会で採択されたのだ
った。同報告書の内容は、日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとっ
て必ずしも不利な内容ではなかった。それでも、松岡退席の報道で、同報告書が満州国
を独立国と認めず国際管理下に置くことを勧告したことが国民に大きく報じられ、国内
では受諾反対世論が沸騰するに至って、斎藤および内田もこれに呼応せざるを獲なかっ
た。日本全権主席松岡洋右の議場を退席はそれほどインパクトが強かった。 3月27日に
日本は正式に国際連盟を脱退し、この斎藤内閣の選択を期に、日本は孤立への道を歩み
始め戦争に走るのである。もともと大日本帝国すらも断固として承認しなかった満州国
である。1931年(昭和6年)〜1932年(昭和7年)まで軍部と政府に意見の相違があっ
たのは当然だ。また折角1933年に停戦協定である塘沽協定を結んだのに同盟脱退である
ただし脱退宣言に猶予期間が設けられたので、正式に脱退したのは更に2年後の1935年
で、脱退表明をしたからと言って、連盟と完全に関係を断ったわけではなく、猶予期間
中も加盟中にも分担金を払い続けていました。又アヘンの取り締まりなど、国際警察活
動に協力したりと、一定の協力関係を築いていました。

149: 名無しさんAA:19/09/17 20:41
 歴史の群像     84

 我々は往々にして軍国主義とは政府が作り出したもの。と勘違いする。実はアメリカ
のトランプ政権やイギリスのEU離脱あるいは香港の言論弾圧を見て判るように、民衆
の力や民衆の反発が正常化できるかどうかであり、民衆の一部、軍の一部が、革命家と
なった時悲劇が訪れる。日本でも一部の過激な者が思案の末に桜会(さくらかい)を作
った。桜会とは、日本の強い軍事国家と強制的翼賛議会体制への国家改造を目指してい
る人の集まりで1930年(昭和5年)に結成された。いわゆる愛国運動の末に生まれた超
国家主義的な秘密結社・軍閥組織であった。1930年秋に、参謀本部の橋本欣五郎中佐、
陸軍省の坂田義朗中佐、東京警備司令部の樋口季一郎中佐が発起人となり設立したもの
だ。その後参謀本部や陸軍省の陸大出のエリート将校が集まり、影佐禎昭、和知鷹二、
長勇、今井武夫、永井八津次などの「支那通」と呼ばれる佐官、尉官が多く入会し20
数名が参加して動かした。その設立趣意書には、政党政治の腐敗と軍縮への呪詛が述べ
られ、軍部独裁政権樹立による国家改造を目的としていて強国化運動と見てとれる。そ
の後、会員は翌1931年頃には100余名まで増加した。しかし拡大して内部では 破壊派・
建設派・中間派の三派があり、絶えず論争があって分裂した。その中で事件が起こる。
三月事件(さんがつじけん)は、1931(昭和6)年 3月20日を期して、日本陸軍の中堅
幹部によって計画されたクーデター未遂事件である。橋本欣五郎ロシア班班長ら「桜会
」のメンバーが、民間右翼の大川周明・清水行之助らと計画を立案し実行しようとした
。しかし、最終的には宇垣の同意が得られず未遂に終わっている。つまり革命思想の中
でうずうずしている輩が大勢いたのである。その後、1931年 9月18日深夜、柳条湖事件
が発生すると、これを端緒として満州事変が勃発した。当時外務大臣の幣原喜重郎を中
心とした政府の働きが、不拡大・局地解決の方針だった事で 9月24日の閣議決定に反発
。陸軍急進派は決定を不服とし、三月事件にも関わった桜会が中心となり、大川周明・
北一輝らの一派と共にこの動きに呼応するクーデターを計画した。これが十月事件(じ
ゅうがつじけん)である。1931年(昭和6年)10月の決行を目標として日本陸軍の中堅
幹部によって計画されクーデター未遂事件で終わる。別名錦旗革命事件(きんきかくめ
いじけん)といわれる。こうして次第に皇道派が形成され、より過激な国体原理派が生
まれる。両派の関係の性質は複雑である。この二派は同じグループとされたり、より大
きなグループを構成する2つのグループとして扱われることも多い。当時のメンバー達
の証言や記述によると、この二派は現実には別個のグループであって、それらが互恵的
な同盟関係にあった。皇道派は国体原理派を隠蔽しつつ、彼らにはアクセスを提供する
が、見返りとして、急進的な将校たちを抑えるための手段として国体原理派を利用して
いた。一方国体原理派に属する人数は比較的少数ではあったが、同派がもたらした政治
的テロの威力は大きく、参謀たちや皇族の中に理解者がおり、中でも天皇の弟(1933年
までは皇位継承者)の、西田や他の国体原理派リーダーたちの友人であった秩父宮など
がいた。また、国体原理派はかなり反資本主義的であったが、我が身を守りたい財閥か
らの資金を調達することに長けて資金が豊富だった。 三井財閥は血盟団事件で 團琢磨
が暗殺されが、青年将校らの動向調査に「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円も(
総務省統計局の戦前国内企業物価指数では、7000万円)北一輝に贈与している。三井側
としてはテロに対する保険だったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、
西田税(北の弟子で国家社会主義思想家)にもその一部が渡っていたほどだ。 2月22日
の時点で北は西田から蹶起の意思を知らされていたが、このときに北は「已むを得ざる
者以外は成るべく多くの人を殺さないという方針を以てしないといけませんよ」と諭し
たという。

150: 名無しさんAA:19/09/17 20:42

 歴史の群像     85

 その後の五・一五事件では、関与した海軍軍人は海軍刑法の「反乱罪の容疑」で海軍
の横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の「反乱罪の容疑」で陸軍
軍法会議で、それぞれ処罰され、民間人は爆発物取締罰則違反・刑法の「殺人罪・殺人
未遂罪の容疑」で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生の池松武志は
陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。当時の政党政治への
腐敗に対する反感は、犯人将校達に対する助命嘆願運動が巻き起こるほどで、将校たち
への判決は軽いものとなってしまった。このことが後に、二・二六事件の陸軍将校の反
乱を後押ししたと言われる。二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常
に楽観視していたことが、二・二六将校の一人の磯部浅一の獄中日記によって伺える。
二・二六事件は陸軍内の派閥の一つである、皇道派の影響を受けた一部の青年将校らの
(陸軍士官学校に進み任官した20歳代の 隊附の現役大尉、中尉、少尉達)、かねて
から「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇
親政が実現し、政治腐敗撲滅につながる。と考えて、政財界の様々な現象や、農村困窮
などが終息すると考えて行動したものだった。彼らはこの考えのもと、1936年(昭和11
年)2月26日未明に決起した。決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3
連隊、野戦重砲兵第7連隊・等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介(内閣総理大臣)
、鈴木貫太郎(侍従長)、斎藤實(内大臣)、高橋是清(大蔵大臣)、渡辺錠太郎(陸
軍教育総監)、牧野伸顕(前内大臣)らを襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸
、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠したものになった。この少し
前に帝人事件があり無罪となっている。1934年(昭和9年)1月、時事新報(武藤山治
社長)が、繊維会社の帝人と財界人グループ「番町会」や鳩山一郎との間に贈収賄疑惑
を報じた。このことから帝人事件の調査が開始され、帝人社長、帝人の株式を担保して
いた台湾銀行の頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら16人が起訴された。
しかし、その後、帝人事件の担当裁判官の石田和外らは4月に、被告ら全員に無罪判決
を言い渡した(司法大臣は小山松吉)。このことで、政権批判の世論が収まることはな
く、齊藤内閣は7月8日、内閣総辞職した。そして五・一五事件の後に、齋藤内閣(さい
とうないかく)は挙国一致内閣の首相となりますが、二・二六事件で暗殺されてしまっ
た。国連脱退1933年に大いに喜んだ国民が齋藤實〈さいとうまこと)を殺してしまうの
である。これを一体何が止めるのか。それは先走る庶民の思い違いの感激をさせない事
つまりは、人気投票や人気政策・目玉政策をする国会議員を落選させることこそが政治
の本望で国民の王道なのである。これを失くして日本人にも革命闘争が起こった事この
ことは、米内にも山本五十六にも信じられない事で、大きなショックだった。いままで
の日本人として大和民族を守るとして幾多の戦いをしてきたのが馬鹿らしく見えたのだ
。中国人のような破壊活動しない。朝鮮人のような自国民に銃を向けない。西洋人の様
に革命運動なんかしない。何故なら日本は、万世一系の皇民の国と信じていたからだっ
た。この頃も鳩山一郎の軍への調達物資で大儲けし、友愛会と言うユダヤ組織を抱えな
がらコミンテルンの巣窟となっていた歴史を残している。賄賂で世間をたぶらかしては
国内を経済格差で混乱に陥れ、政治を動かしていたのである。一時期米英には彼のゴム
の原材料買占めで国内供給できないほどで米英に憎まれた。


151: 名無しさんAA:19/09/17 20:43
 歴史の群像     86

時系列にまとめますと・・・
日本が国連から脱退した前後
1、1926年上海から蒋介石が北伐部隊を立ち上げ、日欧米露が支援する
2、1927年蒋介石、南京政府樹立表明、ソビエト大使館襲撃事件
3、1928年奉天軍首領(張作霖)爆殺事件、
4、1929年日本で共産党員一斉検挙(四・一六事件)ベルリンで血のメーデー
5、1930年ホー・チ・ミンの指導でベトナム共産党が創設される。
     ロンドン海軍軍縮会議が始まる。マハトマ・ガンディーが塩の行進を開始。
     「ロンドン海軍軍縮条約」に調印。補助艦の保有比を英米10:日本7に制限。
     アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーが関税戦争し
     ジョセフ・クレーターの失踪事件が起き
     濱口雄幸首相が東京駅で右翼青年佐郷屋留雄に狙撃され重傷。
     中国で紅軍が長沙を占領。長沙ソビエト政権樹立。
6、1931年:関東軍(日本)が鉄道を爆破し、柳条湖事件で満州事変へと発展
7、1932年:日本の関東軍が満州を制圧し、満州国を建国 中共合作米国の兵器支援
      中国が猛抗議。連盟へ提訴、リットン調査団派遣
8、1933年:日本の非が国際連盟で全会一致で認められる
      松岡はそれを理由に脱退を表明し退席
9、1934年:満州国にて帝政実施。執政溥儀が皇帝となる
      1月26日 - ドイツ・ポーランド不可侵条約締結。
      5月5日  ポーランド・ソ連不可侵条約を更新した。
      8月2日 - 独ヒンデンブルク大統領死去19日、国民投票によりヒトラー総統
      9月18日 ソ連が国際連盟加盟
      10月15日 - 中国工農紅軍が瑞金を脱出し長征を開始
      10月6日 - カタルーニャが独立宣言、まもなく鎮圧
      12月29日 - 日本が米国にワシントン海軍軍縮条約の単独破棄を通告。
           ヨシフ・スターリンの「大粛清」が始まる。
10、1935年:日本は正式に国連を脱退
      4月6日 - 満洲国皇帝溥儀が来日。靖国神社参拝 
      4月7日 - 美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される
      5月吉日‐日本の国号表記を「大日本帝国」に統一する事を決定
      5月14日 - フィリピンが独立協定を批准
      6月10日 - 梅津・何応欽協定成立(日本軍による華北分離工作の開始)
      6月18日 - 英独海軍協定調印(英国が独海軍の拡張を認める)
      8月1日 ‐中国共産党が抗日救国統一戦線を提唱(八・一宣言)
      9月15日 - ナチス・ドイツにおいてニュルンベルク法制定
          (ユダヤ人公民権停止・ドイツ人との通婚禁止)
          - ハーケンクロイツ旗が正式にドイツの国旗とされる。
      10月21日 - ナチス・ドイツが国際連盟を脱退
      11月1日 - 汪兆銘狙撃事件
      11月9日 ‐中山水兵射殺事件
      11月25日 - 日本、冀東防共自治委員会(後の冀東防共自治政府)を設立
      12月9日‐第二次ロンドン海軍軍縮会議開催
           北平の学生1万名が抗日・華北分離工作反対デモ
           (一二・九学生運動)
      12月18日 - 中華民国で冀察政務委員会設置

152: 名無しさんAA:19/09/18 10:40
 歴史の群像     87

 この年表が示す様に、1926年の南京から蒋介石が北伐部隊を立ち上げている時に、元
々は上海から軍閥を排除する為に蒋介石を露が唆し立ち上がる様に欧米が支援し承認し
た上で日本も国民党中国政府として認めた事がわかる。ここで欧米は現地民の自治独立
という肩書をつけて張作霖の奉天政府の代わりを見つけた事になったのである。この事
は、欧米を満州鉄道に沿わせた鉄道計画の承認を進め、日本政府では見切りをつけた決
断をさせた。勿論、裏ではそれだけではなかったろう。日本政府よりは軍部が欧米資本
の投資を許せなかった事と奉天軍政府の信用が失墜した。この頃冀東防共自治委員会も
できていなく、ロシア革命の白系ロシア人と赤系ロシア人が殺し合いをしていた頃であ
る。この暴力革命で赤系が再度の革命で政権を取り、皇帝ニコライ一家を殺害してしま
う。このことは、当時の日本人には大きなショックだったようだ。特に伝統を重んじて
天皇を担ぐ日本が、同じように伝統ある皇帝が血統主義で培った国が朝鮮国と同じ様に
、技術が優れ広大な土地を持つ白人社会でも内部分裂で退位どころか廃位と処刑に及ん
だ処置が、現政府でなされたのである。当然この共産党の暴力思想に危機感をもった。
さらに張作霖爆殺計画は、そうしたロシアの動きを警戒する中で出来た物で、何回もこ
の男を日本軍は救っていた。にも関わらず張作霖は当然だと言わんばかりの横暴さを、
国際社会に見せ、日本政府の言う西洋列強を入れずに日本との話し合いで中国の発展に
寄与したい。という意思に、まったく不合理で道理のない西洋武器の輸入の代価に鉄道
敷設権利を売っていた。日本本国の国内では、より一層のコミンテルン排除に共産党員
の一斉検挙を、四・一六事件に合わせて行い、ベルリンでは血のメーデーがあり国際旅
団やコミンテルンが本格的活動で、世界的混乱が起こっていた。スペインカタルーニャ
の面積は約3万2千平方キロで九州とほぼ同じの地域の紛争が中国人にいち早く興奮を呼
び起こした。人口は 約750万人で九州の半分のスペインのカタルーニャ州は、GDPで
二千億ユーロと、今では北欧デンマーク並みのGDPで、フィンランド、アイルランド
、ポルトガルを上回る程の経済規模をもつ州となった。リーマン・ショックで自治州の
財政が悪化したものの、戦前でも一定規模の経済活動をし財力を持っていて、フランス
とスペインとイタリアがそれぞれ権益競争していた処にロシアが噛みついたのである。
ドイツも武器開発を止められていたが、密かに、こうした今の香港の様な国際都市形成
の中で資金を用立てた。今でも住民の不満が募り独立派が台頭しているが、以前からこ
の地のカトリック批判は自由貿易を促進しユグノー神霊派の総本山として、カタルーニ
ャは賑やかに栄える都市だった。今日でも体制の拘束反対に独立の是非を問う住民投票
をしたりする程独立熱は高い。当時でもスペイン国王は違法として固く認めない。この
カタルーニャ・ナショナリズムといわれる形態にソ連が後押しした。絵画『ゲルニカ』
はスペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画である。同じ
絵柄で作られたいくつかの壁画の総称だが、ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカ
ヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。1936年7
月に、第二共和政期のスペインでスペイン内戦が勃発し、マヌエル・アサーニャ率いる
共和国軍と、フランシスコ・フランコを中心とした反乱軍が争った。1937年 4月26日に
ビスカヤ県のゲルニカがナチスドイツ軍によって都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を受
けるた。27日には数紙の夕刊にゲルニカ爆撃の短報が掲載された。。マヌエル・アサー
ニャ率いる左派の人民戦線政府(共和派)に、反ファシズム陣営としてソビエト連邦が
支援し、欧米市民知識人らも数多く義勇軍として参戦し、フランシスコ・フランコを核
とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)をファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持
して直接参戦するなどした。

153: 名無しさんAA:19/09/18 10:40
 歴史の群像     88

 つまりソ連の共産党の内政干渉で共産党共和制派とイタリア愛国主義結束党が、対峙
したのである。人民戦線側はバスク、カタルーニャ、バレンシア、マドリード、ラ・マ
ンチャ、アンダルシアなど国土の大半(国土の東半分)を確保したのに対して、反乱軍
側はガリシアとレオン(支援されるポルトガル国境地域)に過ぎなかった。しかし英仏
の不干渉政策によって、政党政府はどこからも武器購入の信用取引ができなくなってい
た。そのため、現金購入資金として、外貨調達を行いたいソビエト側は市民が買い付け
たため、金がソ連に輸送された。民間銀行の金融資産は約510.08トンにのぼり、当時の
価値で5億ドルを超える金が銀行にあった。しかしその多くは金塊ではなく各国の金貨
だった。その中には、骨董的価値のある金貨も少なからず存在し、政府も銀行も各国の
用立て通貨がなくなるほど自国通貨が流通しなくなった。こうして共和国の支援国ソ連
から武器・人員がどしどし援助されたが、それらの支援は有償であり、まだ産業発達の
なかったソ連革命政府は、この金の一部を使い、アメリカやチェコから自動車など購入
して調達を図り、反乱のスペインに送っていた。第四インターナショナルを形成してい
たスペイン支部は、スターリン主義の共産党のみならず、マルクス主義信奉者の、統一
労働党や、全国労働連合やイベリア・アナーキスト連盟(CNT・FAI)などの日和見主義
を批判していたが、ドイツ軍の隠れた参戦があり送り込まれた義勇軍航空部隊コンドル
軍団のJu52輸送機を改造した爆撃型を主体とした24機による空襲(ゲルニカ爆撃)で、
4月26日にバスク地方のゲルニカが焦土化して、鉄道・道路など交通の要を破壊して
しまうとそうもいかなくなった。共和国軍側の補給を妨害することが目的で、巻き添え
となった市民が多数出て、政府は被害を過大に発表した。当時は制空権は政府がもって
いて爆撃の真相は不明なまま、「人民戦線軍による焦土作戦」と「フランコ側の焦土化
」で市民の怒りは沸騰した。マドリード攻防でイタリア戦車部隊を壊滅させたものの、
共和国軍(反ファシズム)側にも市民の不信感があり、軍隊運営は不効率だった。そも
そも、労働者達は軍を敵視し、政府が敵だった。一方、反乱軍は軍隊組織の秩序を維持
し物量に勝る共和国軍をもしばしば破った。民兵達は党派ごとに指揮系統も分かれて、
他党派の軍勢が負けると喜ぶといった有様だった。急進的労働組合と労働者自治が手を
結び全国労働連合とイベリア・アナーキスト連盟(CNT・FAI)は左翼政党マルクス主義
統一労働党(POUM)と協力し、統治下の地域で社会主義的な政策を導入しよう統一して
しまう。こうしてバルセロナは、労働者による工場等の接収もあり、緒戦の敗退から、
ようやく共和国軍も軍隊の再建し、その過程でスペイン共産党が、ソ連の援助もあって
共和国軍の主導権を握った。もともと革命のその勢力は外国人の数十名で、革命が現実
的な影響力を及ぼすことはできなかった。しかし、国際的社会主義組織を始めとした反
ファシズム運動が、この戦争に当たって結束し、国際旅団も組織された。この結成には
コミンテルンが深く関わっており、構成は知識人や学生2割、労働者8割で、全構成員
の60-85%は共産党員だった。さらに、戦闘で消耗を重ねた結果、末期には国際旅団とい
いながら兵士の大多数がスペイン人に置き換わっていた部隊もあった。こうして愛国を
掲げたイタリアから来たファシスト党(結束主義)の反乱は、ソ連コミンテルンを肥や
した動きで終わった。日本でも第一次大戦の戦後不況つまり、恐慌によって職を逃した
不就労者に強く受け取られ、日本もシベリア出兵など凍傷を負ったソ連帰りの帰還兵達
は、共生共和の共済主義として平等な生活を望み共産主義を持ち込んで来た。若者の体
制批判と共に五・一五事件や二・二六事件を起こしたのである。この頃はアメリカも又
禁酒法が作られ、粗暴な飲酒者を排除する動きがでて暗黒街を作ってしまい、マフィア
と呼ばれたコーザ・ノストラ(我らの家族)組織を作ってしまった。大変な時代だった
のである。

154: 名無しさんAA:19/09/18 10:44
 歴史の群像     89

 たぶんに山本五十六がハワイ攻撃を反対するだろう。そしてハワイ攻撃するなら精油
基地も攻撃するだろう。と日本軍の大本営は見ていた。そこで上層部は山本五十六には
戦艦大和の試乗と新しい乗組員達の指導を兼ねて乗務させていた。既に個別の戦艦行動
を内務規定で縛り、勝手な行動を止めて大本営指導よるようにするため名雲中将を以下
艦隊派の多数擁して条約派とされた艦隊長達は飾りものに化していた。というのも軍人
としては「大佐時代から第一水雷戦隊司令官の頃は満点を与えられる軍人だった」と評
されたがもともと水雷挺で名を挙げた軍人で指令通り動くのが仕事だった。そんな南雲
は昭和16年(1941)に第一航空艦隊司令長官に任ぜられます。すなわち空母を基幹とする
機動部隊であり、水雷の第一人者にとっては全くの畑違いでした。この人事は吉田海軍
大臣と山本五十六連合艦隊司令長官によって決められたとされるが大本営の策略だろう
。南雲が選ばれた主な理由は、海軍内の年功序列で一番組みし易かったのだろう。航空
であれば、南雲の1期下の37期に小澤治三郎、40期には山口多聞、大西瀧治郎らがいま
したが、期が上であるという理由で、航空指揮の経験のない南雲が選ばれていた。南雲
にとっても、これは嬉しくない異動であった。しかも異動早々、南雲が聞かされた作戦
計画とは、航空攻撃によって真珠湾の敵艦隊を叩くという、奇策ともいうべきものでし
た。山本長官が発案し、黒島亀人連合艦隊参謀らが練り上げたシナリオとされる。しか
しあまりにも投機的であり、南雲が二の足を踏むのも当然でした。そんな南雲の補佐役
として、草鹿龍之介が参謀長となりますが、航空作戦の実質的な判断は航空参謀の源田
実に任されるかたちとなり、南雲機動部隊は「源田艦隊」と陰口を叩かれることになっ
た。昭和16年12月 8日、真珠湾奇襲成功。外務省の不手際で奇襲攻撃は「騙し討ち」と
言われるが、実は天皇はちゃんと開戦布告を行い、6時間前には新聞記者を通じてアメ
リカに伝えられていた。それを聞いてハルノートが示されたのである。しかしそれは、
南雲の預かり知らぬことで6隻の空母によって、史上初の大がかりな航空攻撃で真珠湾
の戦艦部隊の半分を壊滅させることに成功した。惜しむらくは、第2撃をかけて基地の
重油タンク、及び工廠施設を破壊しておけば、真珠湾の基地機能は当分失われ、米海軍
の行動力を著しく低減させたことであろう。しかし、敵空母不在の情報が南雲に、反撃
される危険のあるハワイ近海から早々に脱出することを指令していた。というのもこの
戦争は石油の確保が至上命題だったのだ。大本営はチェンバレン油田は位置がやっとわ
かった程度でミリ油田はまだ探索中だったのだ。つまり、もしチェンバレン油田を確保
できずに、自爆や炎上する事になれば、日本は石油は入らないので飛行機はおろか船も
運行に支障が出るくらい逼迫していたのである。つまりチェンバレンが確保できず、又
ミリ油田すら見つからないとなれば、次に本格的にハワイ攻略する事を考えていたのだ
った。こうした二面作戦・三面作戦をしたこれは、大本営の弱腰であったが、仕方ない
ことだったのだろう。彼らに国際社会の道義や悲惨さや頑強さは、まったく教育されず
、外交にも戦術にも生かされず西洋の物まねをした。その為に海軍陸戦隊を乗せて行か
なかったのである。そして、この機械化機動部隊の戦術や戦法もまた確立されず、海軍
と陸軍の根本意見も、双方同意せず、南方洋確保か南支那海確保かが大本営には決めら
れず、同時攻撃になっていたのである。




155: 名無しさんAA:19/09/18 11:18
 歴史の群像     90

 南雲機動部隊はその後もジャワ、ニューギニア、インド洋などを転戦し、技量抜群の
搭乗員らによる雷撃、急降下爆撃の精度は当時世界最高で、無敵を謳われることになる
。しかし南雲のこの連勝続きは航空兵士の技量であり、太平洋の制空権を確立すること
に成功したのは、そのベテラン飛行士に頼った世界の事だった。又それは作戦の失敗を
隠し全くの間違いの精神論を台頭させた。実は当時の日本の飛行機は時代の先端であり
、飛行機乗りも又訓練のできたベテラン揃いであったのだ。「昭和の日本海軍は人事で
けた」といわれるが、それは欧米歴史家が解析分析した大きな真理であった。南雲が愚
将であったという非難の前に、適材適所を実現しない組織運営をした大本営の人事配員
や卓上作戦の考慮に問題があったのだ。真珠湾攻撃のそもそもの作戦目的が、第1は、
「空母の撃沈」だったし、第2は「戦艦の無能化」であった。作戦自体には真珠湾諸施設
の攻撃が念頭になく、事前の情報は大統領には伝えられ、上官には演習目的で真珠湾か
ら空母を出港させていたのである。これまでの感謝祭に兵を返していた習わしからは、
前代未聞の措置だった。その為潜水艦で少し探させたが見つからず、底につきこれが、
一番最初に捕獲されている。帰らない視察隊に現状報告は上がらず、奇襲開始と同時に
機動部隊の南雲は、アメリカ空母群による側面奇襲攻撃を受ける恐れを感じていたはず
だろう。探査潜水艦からの連絡がない事は緊急事態で、本来なら館長権限で奇襲中止も
できたはずだが、これを軍令部指令を絶対としたのは山本を追い落とした南雲本人であ
った。。当然反撃を受ける可能性が十分あると認識していた。太平洋には米空母は2隻
しかおらず、米国は秘密理に安全退避として輸送任務を与えていた。攻撃できる状態で
はなかったが、極秘行動だった。日本もこれを撃沈させる事を目的にハワイ攻撃をして
いる。その為日本軍はそんな情報は全く知らないものの血眼になって探したはずだ。し
かし時間は許さない。空母の想定も5隻が太平洋に配属されていると考えていたが一隻
も見つからない。作戦目的を達して冷や汗でさっさと帰路につき機動部隊を危険に晒す
の止めた。しかし、こうした大本営の現場を見ないで指令する姿が日本を敗戦に追い込
んだ。既に無線が解読され、陸軍大将や艦長が全く戦勝に浸る愚将ばかりだった上に、
レーダーや戦闘機などを精神論で否定しだし予算をつけず、アメリカはミッドウェーな
ど船を改装につぐ改装し同じ木造甲板に鉄板を張ったり、対魚雷防御用のバルジの増設
したり、毎分3800リットル放水可能なディーゼル動力消火ポンプを2基設置し、28mm機
銃の撤去と40mm機銃24門、20mm機銃6門増設レーダー連動の射撃管制装置を導入し、5
インチ砲、40mm機銃はレーダー連動を可能にしたり、レーダーや魚雷の精度をあげたり
とかなりの改造を何回も行っていた。対して日本軍は武蔵と大和を大事にしすぎてこの
戦艦で空母を守ろうとした戦法や戦闘機での防空活動や偵察活動をしようとしなかった
。その為、ミッドウェイ海戦時、敵空母への攻撃機の爆装、雷装変換にとまどり、敵機
の攻撃を受け自軍の航空母艦多数を失ったのである。もともと作戦の守秘などずさんで
すぐに無線を使って解読されたし素人戦術の南雲は、早くも爆装させていて、そのまま
爆撃機を発進させても、敵艦に被害を与えることはできても撃沈は難しいはずだった。
また、自軍の護衛用戦闘機無しでは、敵機に撃墜されるのは明らかだったのにその数は
不要論で足りなかったのである。。つまり護衛戦闘機で常に守る用意をしていなかった
上に離発着管理は勤務規定通りで行おうとした。従って、セオリー通りの南雲の行動は
落ち度ばかりで。戦闘準備が整わず発進できない。飛竜の山口多門少将のほうも爆装の
ままでの発進の意見具申を退けたのは上記理由により当然。生死を分けるような場合と
考え、何が何でも発進しても良かっただろうが、敵機に先に攻撃される事も考えなかっ
たようだ。さらに班分けも日本は個別でなく空母の仕分けで済ましていた。


156: 名無しさんAA:19/09/18 11:20
あくまでも
連合艦隊・護送船団の戦いで、空母一隻での戦いを想定確立していなかったのだ。


157: 名無しさんAA:19/09/18 17:06
 歴史の群像     91

 ミッドウエー空襲隊が出撃した04:30時頃(現地時間)4空母はそれぞれ1航戦
は雷装で待機、2航戦はインド洋作戦での戦訓に踏まえてどちらでも対応できるよう未
装備で待機。の状態だった。05:20南雲長官より「第2次攻撃隊はミッドウエーを
攻撃する予定」と通知。巷ではここから兵装転換が始まったとも言われるがこれはあく
まで「予令」であり、実際は各空母は兵装転換は開始していない。つまりここで攻撃用
の予定訓示のみで細かな指令を行っていないのである。07:15ミッドウエー攻撃隊
の報告なども踏まえ「爆装」への転換を指示。しかし、これは1航戦のみで2航戦には
指示せず。これは不測の事態に備えてのもの。07:45敵艦隊発見の報を受け「艦攻
の雷装そのまま」を下令し、この時点で30分ほどしかたっておらず転換完了してたの
は赤城、加賀の各9機のみだった。ここに大きな間違いで、攻撃に本来大和や武蔵など
の大型砲台を持たない空母は戦闘機による防空しかない事をわかっていなかったのだ。
08:30空母発見の報により空母への攻撃を決意し、実際は兵装転換での混乱はあま
りなかったのが発進が遅れた。そしてこの直後に山口司令からの「直ちに発進の要あり
」の進言が入る訳ですがこれも最近の調査で「直前の米機の撮影で飛龍の飛行甲板には
艦載機が殆ど並んでいなかった。「上記の通りこの時点で2航戦の艦爆は兵装は未装備
のままだった。」という2点が判っている。つまり命令がなければ動くなという大本営
の規則正しい行動がここに生きていたのである。これまで山本五十六などは日露開戦で
やり方だけが指令されたが行動は規制されてなく艦長の機敏な対応で勝っていたのだ。
つまり大本営は、山本五十六の空母を餌に戦いをわざわざ南方まで行って挑むというも
のこそやめさせるべきで、海戦そのものは本部や艦隊長の指令を待って行うものではな
かったのである。又山口指令の進言が、「直ちに発進の要あり」が「いますぐ攻撃隊を
だすべき」という意味では無かった。帰還中のミッドウエー攻撃隊を収容せずに、まず
は攻撃隊の発進準備を済ませ出撃させるのを優先させるべきという意味であったが、そ
れだと燃料の持たない攻撃隊は全機が不時着水を余儀なくされ艦隊は作戦頭で航空戦力
の半数を失う事になる。作戦中の南雲司令部としてはそんな無茶は出来ない。この時点
で作戦成功はほぼ不可能になったのだ。これはもともとの艦載機と空母間合いの問題で
戦闘機を多く載せていない事で起こったことだ。ミッドウェー空母も、何回か降りてく
る他の空母航空機を直ぐに海に捨てて格納している。またもともとミッドウェーまでも
行かなくとも、日本の輸送船がすでに潜水艦で撃沈され始めていて護送船団が必要な事
になっている頃だったのだ。またそれまでの直掩機(偵察援護機)の零戦隊の活躍を見
ても、まずミッドウエー攻撃隊を回収し(その間1航戦の18機の兵装を雷装に戻すの
と2航戦の艦爆隊に対艦兵装を装備させる)そのうえで発艦準備にかかるという判断を
するのは間違いではない。問題は潜水艦を追っていた嵐が追いつこうと戦列に急いでい
て長い航跡を残して大きく先に発見された事だ。つまり潜水艦攻撃には空母以下艦隊の
行動を一時回避させ航空機も含めて捜査させなかった事が大きな敗因だったのである。
さらに言えば、精神論をかざして兵装や船や戦闘機更に戦略・戦術を発展させなかった
事に大問題があったのだ。

158: 名無しさんAA:19/09/18 17:11
 歴史の群像     92

 実はこの頃の海戦には全く日本人の熱酔があった。つまり全く結果調査もせずに勝っ
た勝ったと報道し続けていたのだ。日米格差も日本が島国だった事も中国紛争も行き詰
まりが見えていたにも関わらず、文政権の韓国の様に国内問題を隠し、実戦模様を隠し
戦勝ムードで政府や軍部批判を削いで、国民不安を隠すため楽観視を広報していたのだ
。それは軍部のみならず報道各社も宮内省も外国特派員も同じだった。もともと愚将の
阿南大将や南雲中将が重宝されたのは、大本営の作戦通りに動いてくれる為に上層部が
配員したことで、わざわざミッドウェーまで出かけて南雲に太平洋艦隊を任せたのは、
こんなにも負けると思っていなかったからだ。実は南支那海通行は、油輸送の要であり
それこそが最重要だった。このことは撃沈されない用におとりとして 山本五十六の再
度の空母叩きを許した側面が強い。南洋の駐留兵士への物資供給の兵站輸送と南方から
の油輸送の目くらましである。それこそ歴戦のベテランパイロットと豊富な弾薬を積み
ながら戦艦大和を最前線に走らせなかった。大きな期待をもって建造されたが、大和の
戦績には見るべきものは何もない。戦略がなく大事に飾ったものでしかなかったのであ
る。大和の初陣、ミッドウェー海戦で、空母部隊が一撃を加えた後に戦艦部隊が止めを
指すという山本の艦隊決戦思想から、空母部隊の300海里後方に配備されていたのだ
。このため「敵空母ミッドウェー近海にあり」との情報を空母部隊にも知らせず、損害
を与えた米空母を追跡さえも遠距離のため断念している。続くガダルカナル争奪戦でも
、山本五十六長官が大和によるガダルカナル砲撃を主張したが、大和型戦艦の主砲の陸
上射撃の効果は少なく、水深が不正確で座礁の惧れがあるなどと言われて見送られ、竣
工からフィリピン沖海戦まで、出撃していても敵に遭遇することなく燃料だけを消耗し
た。寄与したことと言えば、1000余名の陸軍部隊や、零戦の補助燃料タンクなどを
輸送した程度で、ガダルカナル争奪戦の間、「大和ホテル」と揶揄されながらトラック
島に巨体を横たえていたのだ。つまり過度な砲弾や燃料の消費を避けていたのである。
実際には巨砲をもっているために、位置さえ掴めれば島の防衛と攻撃には向いていたの
がこの大型戦艦と空母であったのだ。逆に太平洋上では空母は発着の艦載機問題があっ
たし巨砲も対面してなくば味方を撃つ可能性があったからだ。30K先に砲弾を着けて
も、それが味方か敵かを判別できなければどうしようもないのである。大和が本格的な
戦闘に参加したのは、本土空襲や敗戦濃厚となってからだ。米軍の反攻が本土に迫った
1943年6月の「あ号作戦」の海戦で大和は航空機に対して念願の主砲も発射した。
しかし、遠距離のため成果はなかった。次の「捷1号作戦」では対空・対水上射撃も行
い、主砲31発を含め2万1500発を発射し、サンベルナルジノ海峡の通過後の護衛
空母部隊には電探射撃も実施した。しかし、護衛空母ガンビア・ベイを撃沈したのは、
戦艦金剛と重巡利根、筑摩であり、損害を受けた他の艦艇の命中弾も8インチ砲や6イ
ンチ砲弾で、大和の砲弾はなかったのだ。すでにミッドウエーで負けてのち、ラバウル
では、1400機が鴨撃ち猟の様に飛行艇も人員もなくなっていたから、撃つべき探査
の偵察機すらなかったのだ。主砲がどんなに飛ばせて精度があっても目をつぶった形で
勝つ見込みはない。



159: 名無しさんAA:19/09/18 17:12
 歴史の群像     93

 動く敵にはまったく無駄な主砲だったのである。ガダルカナル争奪戦に大和を積極的
に投入していたならば、戦艦サウス・ダコダがレーダー利用の射撃指揮装置を装備して
いたとはいえ不完全なものであり、ラバウルの航空部隊と連携すれば、ソロモン海域の
制海権・征空権を確保でき、ガダルカナルの戦いをある程度は有利に戦い得ただろう。
日本海軍の有効射程の長距離思想の裏側にあるのは威嚇か兵力温存の思想であって叩く
実益を考えていなかったのだ。特にソロモンの戦いでは僅か2〜4機の米機を撃ち落し
たのみであって、日本側は400機が廃陣に帰した。まったくの素人飛行機乗りと指揮
官で戦術参謀だったからだ。なぜこうなったか。実は先に言ったように、無能な艦隊派
同様に陸軍航空隊も無能な上層部のみ推挙し、本当に苦言や諫言を訂した参謀や将軍は
まったく配置変換をされ、前線で死んでしまい、また中途半端な玉虫色の返事の八方美
人が大本営から指導していたからだ。事実レイテ湾でもソロモンでもガナルカナル戦も
全く不必要に東京から分断させられた戦いだった。こうして、大きな防空防衛の大東亜
共栄圏建設には、兵力の逐次投入となり、さらにマレーからビルマ戦線に向かった兵士
はソロモン海の制海権の喪失ののち、兵站補給さえされなかったのである。ガダルカナ
ルの敗北を早め、敗戦に導き南洋のたのであった。ガダルカナル攻撃も中途半端で奪還
できず1943年マキム環礁すら守れなかった。B−25爆撃機ミッチェルは2.3ton
の爆薬を積めた。日本都市空爆に空母ホーネットから初めて飛び立った。嵐が丁度いい
向かい風を生んでいた。高度の高いこの機体は高射砲は届かなかった。1942年4月
中旬突如として東京や川崎の町は空爆されたのだ。これによって日本の開戦がもう早期
解決ができない事を示していたのである。これによって蒸気発射の射出シリンダーが、
空母に積み込まれる様になって、日本の倍の早さで発進出来たのである。ミッドウエー
海戦はハワイ攻撃がまずかった。と気づいたから起こったものだろう。太平洋戦争にお
いて、つまり第二次世界大戦において最も重要な戦いを一つ挙げるならば、その答えは
まず一つしかありません。ミッドウェー海戦であり、開戦前の外交戦争であろう。何故
ならば、それは日本が最大の馬鹿をやり痛撃を受けた大敗戦の幕開けだったからだ。日
本は余りにも世界を間違い米国を過信し、自国をわかっていなかったのである。そして
この時に太平洋戦争の結果を、つまりは日本の敗戦そのものをもこの時点で決めてしま
ったと言うに足る海戦だった。勿論太平洋戦争をめぐって、日本とアメリカの工業力の
差の問題はあった。しかし、アメリカが一年間に建造することのできる艦船の数が空母
も含めて、日本より圧倒的に多くなったのは欧州にドイツが進撃してからの話である。
 太平洋戦争初期についていえば、日本海軍は決して弱体な軍隊ではありませんでした
。工業力も総合力も、最初からアメリカ海軍が最強だった訳ではない。アメリカ海軍が
今も昔も抱える弱点として、「太平洋と大西洋にそれぞれ艦隊を振り分けなければなら
ない」という問題がありルーズベルトが出てくるまで、日本は格段に早く追いつこうと
した国力があった。第一次大戦に太平洋も大西洋もドイツ海軍が活躍していた時代に、
突然敗戦となって日本に譲渡された。第二次大戦でアメリカ海軍の全艦船を太平洋に送
ることはできないと判断しドイツ海軍に向けて対抗工業力を整備した。一方日本は、大
陸進出はしたものの中国政府に振り回されて陸軍も海軍も政府もてんてこ舞い状態であ
った。しかし、日本の島はユーラシア大陸東端に位置し、ほぼ一方面に海軍兵力のすべ
てを投入可能で、南洋諸島のインフラ整備や日本人同化の方策は案外上手くいっていた
。この優位性により、日本の太平洋艦隊こそ当時世界最強の海軍であった、と唱える人
もいるほど誇りと文化があった。



160: 名無しさんAA:19/09/18 17:14
 歴史の群像     94

 しかしそれは松岡が国際連盟で演説するまでの話である。ちなみに、国際連盟を脱退
した理由は、日本の権利とした満州国建国が国際社会に認めてもらえなかったからブチ
切れて退席したから、勝手に世論に脱退する機運を作ったからです。たとえ松岡が失敗
していようとも、国内新聞が、脱退の非業や国難を説いて松岡非難の声が轟々ととあが
っていたならその一年後の正式な脱退はなかったかもしれないし、そうした論説で国民
はもっと国際社会というものを学んだかもしれない。しかし、当時の日本の新聞社は、
社会派の共産主義の闘争要員の巣窟で体制批判者のたまり場だったし、英米独などとの
提携された情報は、各国の特派員に頼った解説をしていた。言うなれば、イエロージャ
ーナルの上にスパイ工作員がゾルゲのように浸透して情報を取っていた中にあったのだ
。日本の大衆も我慢せずに国際社会に対して、怒ってしまったわけでどんな経緯があっ
て日本は怒ったでしょう。1934年に加盟国数が60カ国になりましたが、以降脱退や除名
があり、加盟国数は減少した。1926年に昭和天皇(しょうわてんのう)即位した年
だか金融恐慌は、この昭和元年に起こった。震災手形割引損失補償令で震災手形をなん
とかして経済が良くなるかと働いたが、あんまり改善しなかった。震災手形割引の損失
補償令ってなにかというと、ものすごくわかりやすくいえば震災手形を政府が買い取り
ますよというものだったのだが、政府そのものがいまだ赤字財政の中にいた。又3年前
の1923年(大正12)の関東大震災でも痛手を負っており、さしもの日本人も我慢が切れた
世相があった。大震災は、9月1日11時58分、相模湾北部を震源とする海溝型の巨大地震
が発生し。地震そのものの規模は最大級とは言えないが、人口密度の高い地域と、火災
により、観測史上最大規模の死者14万人(2003年の武村雅之氏の研究では死者10万5千人
)、現在の貨幣価値に換算して約320兆円という甚大な被害をもたらした地震だった。そ
の前にあった日露戦争やシベリア出兵も政府財政には負担がかかっていた中の出来事で
あった。こうした暗い世情になって宗教的所業や神にすがる様な狂気が流行るのは日本
も又おなじであったのだ。その後の脱退以降は、泣き面に蜂で、アメリカからは石油の
輸出を禁止を指導され、イギリス海軍はエッソを接収し日本への輸出を止めた。中国か
らの全軍撤退、満州国の返還、イタリア・ドイツとの三国同盟の解消等の無理な要求を
次々と突きつけられ、御前会議で抑止していたアメリカとの戦争が、とうとう抑えられ
ずを決意した。日本はアメリカの機動部隊を攻撃し、行動不能にして戦争を有利に進め
て休戦や終戦するとの方針を立てたが、東南アジアの資源(南方資源)を武力で獲得する
為に、ハワイの真珠湾に奇襲をかける事となり、その判断の甘さを露呈した。真珠湾の
攻撃では、当初、山本五十六連合艦隊司令長官の真珠湾攻撃案に対しては、正規空母の
沈没を恐れた軍令部の永野修身大将や伊藤整一中将らまともな司令官は大反対でしたが
、「この作戦が認められなければ連合艦隊司令長官を辞める」と山本五十六の連合艦隊
司令長官を祭り上げた声に押されて、渋々作戦実施を認めた。これは、各国工作員も、
陸軍もあるいは、天皇側近もこぞってそうした方向に持っていった可能性が非常に高い
。まったく高所大所の話が捻じ曲げられたことに、すでに敗因が内包されていた。


161: 名無しさんAA:19/09/18 17:15
 歴史の群像     95

 今、GSOMIAが韓国も利するものであるにもかかわらず、あえて破棄という決定を行っ
た青瓦台は、こうした国民の意識をわかった上で、極めて政治的に動いた。ということ
なのだろう。今の文在寅政権や青瓦台(大統領府)の側近達は過去を学ばない。中でも
「86世代(80年代に抗日学生運動を送った世代)」では、原理主義的な進歩派で対日や
抗日にこだわる硬直的な傾向が強い。この韓国国内の保革の分断も極めて深刻な問題で
、大統領の支持率を上げるため、幾度となく対日強硬路線が使われる。こうしたことは
奈良時代以前からあった事だろう。こうした時日本でもナショナリズムは台頭し国内が
二分してしまう。「主張外交」の勢いは増し、国内の反韓感情を反映した政策が語られ
る。日本は幾度となく朝鮮半島を巡って戦争をした経緯がある。朝鮮国民の一貫しない
弱い精神と優柔不断の態度からだが、とは言え、遠くは中国皇帝時代、モンゴル族台頭
時代、ロシアの無凍結の港を求め南下した時代の、その全てが朝鮮国より遥かに優れた
兵力と科学力とを持っていて、時代の先を行く文物や制度を誇った大国達だったのだ。
そして日韓併合のこの時代も又、極めて優れた欧州の科学力を、日本が修めて先を行く
思想の国家でもあったのだ。しかし残念な事に、50年経とうが100年経とうが朝鮮
には、豊臣秀吉時代に6年にわたって行った朝鮮出兵の戦闘は心に刻まれたままでいて
、朝鮮半島の権益を巡って朝鮮半島を主戦場とした日清戦争や、朝鮮半島の利権拡大を
意図したロシアを封じるべく戦った日露戦争は、その時の想いを復活させた。日本は、
その後、日韓併合を行い、朝鮮半島を直接支配し善く建国させたのだが。こうした戦争
時代に朝鮮半島の人々に多大なる犠牲を強いたことを決して忘れてはならないが、同時
に、日本も中国やロシアに朝鮮半島を支配されることが自国の安全に甚大な影響を及ぼ
すと考え続けて、多大な犠牲の上に戦争を乗り越え成り立ってきたこともよく認識しな
ければならないのに、自国・自国の領土・祖先と騒ぐ。1965年に日韓基本条約を締結し
関係をすぐさま正常化し、日本は韓国の早急な経済的自立が重要と考え、何の過負荷的
懲罰条件をつけることなく全面的に日本は支援した。南北に分かれ米国との同盟を結び
韓国の国づくりに全面的に助ける様要請までしているのだが、日本の安全のためにも、
それが必要と一致して考えていたのだ。こうした歴史では、日本はある意味一貫して、
朝鮮半島を日本の安全と一体化して考えてきていた事がわかる。そして、それは今日で
もほとんど当てはまる。日本の利益は朝鮮半島の安定にある。やはり、米国と同盟関係
にあり、民主主義のもとでの先進国の道を歩んでいる韓国を支援していくのが日本の為
の国益にかなうし、朝鮮半島全体の平和や朝鮮人達の福祉増進と幸福にかなうものであ
る。中国・朝鮮が、どんなに強硬策に転じ、覇権をちらつかせようが、それは破壊と狂
気しか生まないことはすでに1900年代の戦後の世界の変節や大陸危機で経験済みの事だ
ろう。こうした時、第一に必要になるのは、朝鮮半島有事において米国の作戦を稼働さ
せることに尽きた。今のそれは米韓相互防衛条約に基づく米韓共同作戦であると同時に
、日米安保条約に基づいて米軍が戦闘機、人員など日本へ大量動員することがなければ
、北朝鮮他の韓国への侵攻は、一国では防げないのは周知の事実だ。今、日米韓の連携
がなければ、そもそも、こうした効果的な抑止力や平和の維持とはならないということ
中国もロシアも認めなければならない。専制体制にある北朝鮮が主導権をとり朝鮮半島
の出現しても同じである。その為の戦さが起これば、中国経済もロシア経済も破壊する
。韓国が破棄通告をした、日韓のGSOMIA(軍事情報包括保護協定)の最も重要な機能は
、日米韓の間の軍事情報の交換ではあるが、アジア全体の平和維持の戦略的効果を持つ
面が更に高い。つまり日韓のGSOMIAの破棄は、どんなに騒ごうと韓国のアジア内の地位
を下げ、軍事はおろか経済も政治的地位も全く下げてしまうだろう。日米韓の連携が、
現実になくなれば、中国ロシアに大打撃であり、日本政府がいかに否定しようと、この
韓国の地が中東のイラクやシリアの様になったとして、一体だれが復興の手を伸ばそう
か。

162: 名無しさんAA:19/09/18 17:16
石油も鉱物資源も産業もこれと言って開発に及んではいない。ロシアにとって重要
性は不凍港だが今や温暖化で戦争の負担のデメリットが大きく、又中国も都市破壊戦線
が拡大するのは相当なリスクを持つ。周辺の大国に脅かされ支配され防げなかった政府
への、強い恨み、憎しみ、悲しみであると説明されるが、それらは教育に作られたもの
だ。近代に直接支配をした日本への「恨」は格別表記し。今や日本が大上段に嘘を書く
なと振りかぶって韓国をたたいても、この「恨」という感情を創り、理不尽な手立てを
使っても日本悪国に意識をかき立てる仕組みを取り払わない。ネズミの集団自殺方式の
理論である。


163: 名無しさんAA:19/09/18 17:28
 歴史の群像     96

 山本五十六については、横須賀海軍航空隊研究会で柴田が「戦闘機の射撃は接近すれ
ば命中率はいいが、敵攻撃機の旋回機銃と一緒だと差がなくなる。少し離れた位置から
確実に命中させる兵器開発・訓練が必要だ。」と意見を出した。しかし海軍航空本部の
技術部長・山本五十六は「帝国海軍の今日あるは、肉薄必中の伝統精神にある。今後1
メートルたりとも射距離を延ばそうとすることは、絶対に許さん」と認めなかった。と
書いてある。柴田は「上にわけのわからないのがいると必ず負ける、歴史を無視した様
な精神偏重論で、戦闘機や技術開発に努めるべきだった日本が五十六で止まった。山本
には能力も英知にも欠けていた。」と批判している。又、ミッドウェー作戦は、三和の
出張中に黒島らが大要を決定、それを三和がまとめて提出した。連合艦隊のミッドウェ
ー攻略案に対し、軍令部は米豪遮断を目的とするフィジー方面の攻略を主張していた。
連合艦隊側は軍令部に歩み寄って、ニューカレドニア、フィジーは攻略確保し、遠方の
サモアは攻略破壊後に引き上げることとし、これがを認められた。軍令部側は、これに
アリューシャン西部要地攻略を同時に行う案を加えた。三和は「フィジー方面の作戦に
関し、軍令部側相当異論あるが如し。何れも妄論に近し。特に同方面に依り、米豪交通
を遮断し得と考へるは、子供の議論なり。」と日記に残している。素人論が看過されて
いたのである。それでもこの子供の議論に、「この作戦が認められなければ長官は辞職
するぞ。」と軍令部側に啖呵を斬り、ミッドウェー海戦中、旗艦大和で「空母3隻被弾、
大火災」の凶報に接しても 長官と将棋を指し続けていたのが三和だった。山本長官の
遭難の際にも真っ先に捜索に向かって長官の遺体を収容したのも彼だったのだが果たし
て彼に本当の愛国心があったのかは大きな疑問だ。日本の軍部の多くは、ルーズベルト
大統領がチャーチルの要請に応えて第2次大戦に参戦したがっているのは知らなかった
が、米国民の多くが第2次大戦への参加には、大いに拒んでいることを良く知っていた
。だから、米輿論の厭戦気分を高め、戦意を喪失することが得策と考えていた。この時
山本五十六は真珠湾を攻撃してギャフンと言わせれば、米国民の戦意は喪失すると考え
ていたとは思えない。これほど愚かなことはないからだ。しかし側近や周囲にはそうい
った挑発を続けていたのではないだろうか。力のある者が緒戦で鼻っ柱を叩かれれば、
激高して大反撃に出ると考えるのが自然ではないか。と、又実際に激高し、厭戦気分は
雲散霧消し、「日本叩くべし」の声が全米で高まった。米国は当時、経済力が世界最大
で太平洋での海軍力は日本と拮抗していたが、イザとなれば一気に戦力を拡大できる。
実際、そうなったしそれを知らない山本ではなかったはずだ。軍部の腹案はそれを恐れ
極力、米国の戦意を抑制することが肝腎と考えていた。山本五十六はそれと180度違う。
日本を奈落の底に導いた挙に出たのだ。愚将と言わずしてなんと言おう。大本営政府の
連絡会議議事録には、米国には極力こちらから手出しせず、戦う場合は「極東に米海軍
をひきつけて戦う」と書いている。そのそばで太平洋の米国よりの真珠湾に攻撃に出か
けるという。大本営政府連絡会議を完全に無視した格好である。組織として体を成して
いない、と言わざるをえない。どう考えても大本営政府を試した。としか言いようがな
い。こうした声に、「緒戦のみ戦術として真珠湾を攻撃して米国に打撃を与えて、後は
極東、インド洋での戦闘に注力する。という戦術はありえたはずだ」という意見がある
。大本営の「戦略」と山本の「戦術」に齟齬はない、というわけだ。しかし、それは、
言い訳と戦争への曲解である。真珠湾攻撃という「戦術」は「米国を怒らせない」で「
厭戦気分を高める」とはならず「米軍は極東に誘致する」という「戦略」に対立する。
戦術はつねに戦略に従わなければならないのが道理である。にもかかわらず、この山本
の戦術を認めた。ところに日本の敗因と軍部の怠慢、そして日本政府の組織的欠陥が、
浮かび上がる。つまり、今の韓国と同じに国際社会に負け犬の遠い咆えを続けていたの
だ。


164: 名無しさんAA:19/09/18 20:24
 歴史の群像     97

 安達 峰一郎(あだち みねいちろう)は、日本の、国際法学者だったが外交官の職を
経て国際裁判所に勤めていた。アジア系として、有色人種として初の常設国際司法裁判
所の所長をしていた。判事としては邦人は国内2人目となるが、所長就任早々、祖国の
日本が満州事変を起こし、国際連盟を脱退することになって、全く最先の悪い就任だっ
た。しかし精力的で細やかで論拠がしっかりして概ね好評だった。所長3年の任期を終
え、1934年(昭和9年)1月から平判事になったが、日本の国際連盟脱退問題の悩みか
ら6月に体調を崩してしまい、8月には重い心臓病を発症。同年12月28日、オランダの
アムステルダムにある病院で死去した。この時、オランダは国葬の礼をもって国際平和
に尽力した人物として、多大の功績と栄誉を称えた。1905年には日本全権小村寿太郎の
随員として、日露戦争講和のポーツマス条約草案作成にあたり、1919年には第一次世界
大戦のパリ講和会議日本代表代理、1920年国際連盟第1回総会 日本代表代理、と活躍し
している。1929年ハーグ対独賠償会議で日本代表になったが、この会議ではフランスと
イギリスが激しく対立していた。調停の依頼を受けた安達は、一計を案じて日本流の茶
会を開いて両国代表を招いて話し合い、和解させて会議を成功に導いた。その後1930年
推されて常設国際司法裁判所2期目の判事選挙で最高得票で当選した。そして日本は開
戦するのである。どんなにか心痛の思いだったろう。各国の思惑のある中で日本は立派
な中立主義の中に判断していた。この姿には各国が敬意を表している。ところが戦争は
彼が死んだのち益々激しくなって、ドイツに敗戦が起こると日本一国対世界の構図にな
った。開国の時代に各国との交渉で多難な不平等貿易に涙して交渉に挑んでいた日本人
の悲願の不平等な白人社会の権威の頂点にやっとなって平等主義が進める。となった時
の所長就任早々であった。「祖国の日本が満州事変を起こし、国際連盟を脱退」という
悲運は国際情勢にも全くの悪夢だったに違いない。この頃、日本政府は共産化の群れに
困り果ててこうした事件の大なたが振られたのだが、こうした国際派日本人を頼ってい
たのだが、当てと突っ張りは素から外れた。というなんとも大きな悲劇でもあったのだ
。日本人は日本を自由主義、民主主義、資本主義の国と思っている。ところが世界中で
日本は社会主義の国家と見られている。ゴルバチョフ書記長が日本に来日した時褒め称
え「なんとすばららしい。どうしたらこんな完成された社会主義ができるのだ。教えて
くれ。まさしくこれがソ連が望む共産国家だ。」と叫んでいる。誰が見ても規制が厳し
く税金が高く、公共料金が多く、電気・水道・交通・電波まで政府に準じた機関が牛耳
って、民間と言えど天下り役人の宝庫で税の抜け穴で生きている。実はアメリカの暗黒
時代には日本も暗黒時代だったのである。知っての通り軍部は治療用のモルヒネの研究
をしていた。そこにアヘン栽培の旨みがあった。軍部の陸軍の作った販売ルートには、
当然横流しや横領や賄賂があったのであるし、巡り巡って軍部の兵士さえアヘン患者が
出る始末だったのだ。その中に三井三菱住友以外に大きな徳川財閥がいた。徳川氏その
ものは、家光の時代であっても天守閣再建できないほどの財政難だった。明治期も徳川
家にあった不動産はほとんど軍部や政府あるいは小作人に没収や譲渡された。江戸城に
明治天皇が移った際も、何ら債務の免除や資金の手当てがなされたわけではなかった。
 実はこれが大きく日本を戦争に引きずる要因でもあったのである。天皇は家系的には
江戸幕府に庇護されていて、江戸時代の法律も庶民の生活の保護も諸外国の趨勢も無知
であって、世間の動静に敏感に対応して、戦争に勝っていくなど言う積み上げもない。
江戸幕府すらも、250年もの平和によって明治政府が建てらるほど制度が老朽化して
いたのである。この平和志向や協調思想あるいは百年前の遺恨を持たないというのは、
この大和民族が勝ち得た平和の積み上げの性格なのであろう。戦前の法律をみればこの
何となくいい加減で、海外の様に戦わない姿勢や精神性はは、かなりに見て取れる。こ
の甘さが、逆に戦争中の特攻精神や、為せば成ると命を懸けよの大号令になっている。


165: 名無しさんAA:19/09/18 20:54 ID:P.
 歴史の群像     98

 帝国政府は、戦前に「内閣」という概念はなかった。行政権などは、天皇自身にある
と規定し、各国務大臣は各々輔弼という、命令に対し忠実に実行する立場をとっていた
。それ為に、初代伊藤博文総理大臣から、第42代鈴木貫太郎総理大臣までの総理大臣達
は、本来なら存在する必要のない役職の中にあり、名誉職だったのだ。しかし、要職で
最高地位であり命令権を持っていた。逆に言えば実際に天皇が行政権を行使したなどと
いうことはほとんどなく、代々内閣がそれを代行した為に、各大臣には大きな発言権を
有し権限を行使していた。つまり法令の役職と地位と、役職の持つ実際の権限に大きな
開きがあった。戦前の天皇機関説は、今の会社の仕組みの経営者や社長の存在として論
じて、大きな波紋を呼んだ。戦後になって、天皇は象徴として一切の権力を失って、「
内閣」という制度が公式に認められた。そうした形で、やっと総理大臣の資格が、閣内
統一のための「国務大臣任免権」が公式に認められた内閣を作り、行政権を行使する事
が出来るようになり公式に認められた。つまり戦前では、誰もが皇民の一人であって、
何人でも、勝手に人の役職や仕事を取り上げる事や、天皇認可や任命された上意以上の
行為は、否定も命令もできなかったのである。かつての宗教の親鸞宗徒の仏の平等の様
な話である。戦前の内閣制度と、戦後の内閣制度を比べたときには注意しなければなら
ないのがこの思想である。実際のところは文面において大きな相違点がない。というの
がある。それは見た目の法文が、現代語訳したぐらい変わらないからだが、しかしなが
ら、その中の精神性のその権限の根拠が全く大いに違う。戦後の制度は民衆支持という
大きな法的根拠のある強制的な制度であるのに対し、戦前のそれは、その支持する天皇
の方針とい法的根拠以上に、流動する天皇の考え方や意向という、慣習にもとづく制度
であったため、まれに慣習が破られることがあったし、慣習法の強さがあった。日本史
においては、明治憲法発布の前に内閣制度が成立している。つまり法的根拠の前に議員
や大臣ができて、暴力なり武力なりの抑えを作って法令ができて議会運営が決められた
のである。明治18(1885)年12月に、太政官制から内閣制度への転換がなされて、内閣
総理大臣の職権を定めた「内閣職権」も制定された。内閣職権では首相に広汎な統督権
が認められていた。しかしそれは、閣僚の個別輔弼制を定めた帝国憲法に合わせるため
に認めているに過ぎないもので認証は天皇の個々のものとなっている。明治22(1889)
年12月、内閣官制が定められたこの時は、伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命された。
明治憲法の下で内閣官制が定められたのは、これまでの例えば聖徳太子の冠位十二制と
同じに政府という器の目録に過ぎなかったのだが、一応は形が整った。内閣官制は1889
年(明治22年)に定められ、広義には内閣の設置・廃止、名称、組織、権限等に関する
法律の定めを置いた。その後、1947年(昭和22年)の戦後の日本国憲法施行に、内閣法
(昭和22年法律)が施行され、内閣官制は廃止された。それまでの内閣はこの内閣制度
によって行われていたものだった。戦前は「内閣官制」、戦後は、「内閣法」にのっと
って運営されている。この事が一番の違いだろう。この内閣制度は、1885年に内閣職権
が公布され、伊藤博文の総理大臣内閣が発足し太政官制であって天皇を輔弼する職務を
太政大臣、左右大臣に限った事を決め、実務を担った参議や卿達は、直接天皇を輔弼す
ることを禁止していた。その為。政府組織としての天皇との一体性と能率性に欠けてい
て天皇も直接言葉を交わすのは多くなかった。わざわざ謁見した議会運営をしながらも
その自由な討論は江戸時代以下だったのである。1890年の明治議会開設を目前に立憲制
に対応しうるように政府組織が要請されて、初めて諸外国を参考に内閣制度が導入され
た。日本人は他の国の様に政府がないからと、大きな革命は起らなかったし庶民はデモ
より日々の生活にその姿はあった。不思議である。



166: 名無しさんAA:19/09/19 08:01
 国の借金は今や1000兆円を超えた。これからの少子高齢化時代、経済縮小時代を迎え
るに重く暗い数字である。「日本はいま1000兆円の借金を背負っている。国民一人当た
りに直すと800万円 になる。」と声高に叫ぶ気にはならないが「こんな借金を子や孫に
背負わせていいのか。」といった話は痛い。いづれも税でしか返そうとしないからだ。
財務省(かつての大蔵省)は昔から赤字続きではあった。しかし、人口増加と経済需要
の国内の拡大経済のおかげでいつでも返せる中にあった。1980年代までは、例えば政府
がこの世から消えた途端に、国民生活は黒字となるほど日本資産は生きていた。しかし
そう言った根も葉もない議論に正確な数値をつけることで調査部が作られバランスシー
ト作成が行われた。大蔵省内部で、「そんなものは要らない」論もあったが2004年頃、
野党の追及で小出しに「政府のバランスシート」を出し小泉改革で、郵便局の貯金政策
廃止で今に至っている。以降、嘘でも政府の2005年からバランスシートを公開している
。知っておく必要があるのは、「一般企業は負債よりも資産のほうが大きいが、政府の
場合は資産よりも負債のほうがちょっと大きい」のが世界的流れだということである。
政府には「利益剰余金」は存在しない。代わりにあるのが国民資産だったり、教育予算
だったり福祉予算だったりする。殆どの国の政府のBSの「純資産」はマイナスである。
それは、よほど大きなマイナスでなければ破綻しないからだ。これは歴史的に大国借財
は、戦争や革命しかなく国が破綻して無くなった例はない。というのが事実だ。平成29
年度の政府のバランスシートは、負債の部で際立つのは「公債」で 966兆8986億2800万
円。つまり悪名高い「借金1000兆円」の政府や自治体発行債である。その上に「政府の
短期証券76兆9877億9300万円」がある。これと合わせることで堂々と「借金1000兆円」
と騒がれる。さらに「借入金31兆4434億4900万円」を足したものが日本政府の借金であ
る。「借金の額だけを見て批判するのは的はずれである」という馬鹿官僚がいる。勿論
重要なのは負債総額ではなく、「資産と負債のバランス」である。つまり額ではなく%
にすれば簡単にその馬鹿さがわかる。明治政府でも30%を超えたことはない返済金が
今や政府予算を覆う。「借金1000兆円」と騒ぐ人が「資産 負債差額568兆円」が見えて
いない訳ではない。負債の額が問題なのではない。「日本政府の純資産は約-568兆円」
が正しい言い方なのは当然知っている。日銀資産で、際立って大きい数字は「国債」の
473兆877億9235万8000円がある。日銀の「負債」で最も大きいのは「当座預金/376兆8
004億9798万円」、次に大きいのが「発行銀行券/106兆5571億5865万3000円」だが当座
預金とは「民間金融機関の日銀当座預金」で、銀行発行券とは「発行された日本銀行券
つまり紙幣」のことである。両方とも、言うまでもないが「お金」のことだ。「お金」
は、会計的に言えば「日銀が発行する債務証券」で、よくある詐欺摘発の信用発行の券
である。いうなれば、コンビニやスーパーの商品券であり、いずれ手放すべき資産の交
換券なのである。日銀は、民間金融機関が保有している国債を買い戻し、その代金から
民間金融機関の当座預金に振り込んで日銀券、紙幣を発行して渡す。その価値を保証は
今では発行元であるところの日銀である。かつての軍票とおなじである。つまり、政府
でなくともこうした証文文化は日本にあって、損得勘定つまりバランスシートは昔から
あったのである。その意味で子供銀行のように藩や集落あるいは家や商店はそうした物
を発行して生きてきたのである。それが明治期に全国統一の貨幣となり、現代の紙幣と
なって、「お金」は日銀が発行する「証文」として信用がつき、箪笥預金から市中の金
に代った。したがって市中の質屋も少なくなって、中古物品も単純な嗜好品から車や金
券や電化製品まで、限りなく幅広いものとなった。しかし本来の政府資産は、山林の木
々であり、その労働力の人間を教育しどれだけの保有が出来て幸せにするか。が資産で
あったはずだ。だからこそ税で返すという政府勘定に反対し負債に声をあげたのだ。が
馬鹿議員や安倍首相や野田は、こともあろうに政府予算が思うように作れないと税を上
げその帳簿の損得勘定を帳消しにしたいとした。まったく本末転倒の身売り政治である
。国民を奴隷とでも思っているのだろうか。


167: 名無しさんAA:19/09/19 08:03

  新経済論               67

 「発行銀行券=日銀券=紙幣」も「当座預金」も日銀の「負債」となる。この負債を
支えているのが国民の返済する力である。農民も漁民も商店でも、実はこれが肝要であ
って、企業であることや個人であることは全く関係なく、人々が生まれた時から地球に
も人の生活にも負担であり負債である。しかし、それを人は克服する知恵や力や技術や
社会法則を作りお祝いとまでしてきた。つまり食糧を育てて収穫したり、漁をしたり、
生きる知恵をもって、負担はしても余剰をつくり喜びとしたのである。国家はそれを進
め法をもってその増進に努め今に至った人口増加をなし経ている。その意味では国家が
どう負債しようが窮地に落ちようが国民が負担がないのであれば、全く関係ないところ
だ。これが現代のMMCの理論で他国の干渉のできない中では自転車操業でも、敢えて
負担とはならない。この様に国家のバランスシートと日銀と金融機関とでは明解にわか
る。日銀は政府の機関でありほとんど負債に頼っていても、国家財政さえ充分であれば
あるいは予算編成さえ健全であれば、どんな形態でも関係ないのである。日本には米国
の民間の嘱託である中央銀行と中国の管理された共産党中央銀行の二つの景色を見れる
。発行銀行券が日銀の「負債」でも信用がある限り中国のようにはならないし、米国の
ように常に市場を気にして利上げや利下げで調整する民間利益をだす必要性も又ない。
とはいえ、銀行券に対して日銀が利子を支払うことはない事は利点でもあり欠点でもあ
る。当座預金は、一般銀行では小切手や手形などの決済専用の口座で、民間金融機関に
おいては無利子である。これは法令で定められている。しかし、日銀の当座預金に関し
ては、民間金融機関は利子を受け取っている。この本来は不合理な話がリーマンショッ
クで資金供給円滑化措置で日銀は導入し、今だに切れてない。「準備預金制度」は「受
け入れ預金の一定比率の日本銀行に預け入れる制度」だがこれも義務づけられたままで
金融機関は必ずいくらかの金額を日銀に預けておかなければならない。しかし補完当座
預金制度で日銀は、法定準備預金額を上回って預けてられている金額=超過準備金に対
して利子をつける。普通の民間企業の金融機関への当座預金は無利子である。この保有
が会社の信用調査の大きな部分を占める。金融機関の日銀への当座預金は利子が付いて
いる。


168: 名無しさんAA:19/09/19 08:03
の意味で金融機関の甘い経営が加速され民間すなわち市中への投資は、
急に減速され貸し剥がしが起こっている。元まで無くなるリスクの企業より政府に利子
がつけば誰でももう貸さないで政府に預けるというのは当然の選択だ。そこで日銀は「
マイナス金利政策」を実施して話題になったが日銀当座預金は4百兆程度で、マイナス
金利が適用になるのはごく一部で、ほとんどの部分にプラスの金利で、金融機関は日銀
金利をもらう状況に変わりはない。この「当座預金」は「銀行発行券」の代替で、「銀
行発行券」は日銀にとって負債ではあっても無利子・無償還で実質的な借金ではない。
、返す必要のないお金だ。つまり日銀のバランスシートにおいて、「負債金額」は実質
ほとんど日銀の「資産」と読める。しかし、国債分の約474兆円の貸付が日本の未来
へ投資であるか、と言えばまったく負債のまま、つまり現状維持の為の資金となると、
まったく違ってくる。国の財務状況は心配するレベルではない。バランスシート上も、
日銀の資産474兆円が、ほぼそのまま政府の「資産」に加わると 政府の資産・負債差額
はマイナス568兆円からマイナス94兆円まで下がる。問題はこの94兆円の部分である。
消費税の引き上げが来月に迫った。政府は「国債返済のために増税が必要だ」と説明し
「国債発行額が増えれば増税につながる」というウソを補完した形で説明する。問題の
国内事情と自分たちの浪費癖の国家予算を差し置いての話である。これが最重要課題だ
。ベトナムに行けば今や洪水の大被害で大変だろうと思いきや、氾濫した河川からの魚
の漁で賑わっている。農民の声は「これでやっと少し暮らしが楽になる。」だった。そ
うした自然現象がベトナム戦争に勝った要因でもあり、これまでの暮らしだったのだ。
確かに国際競争力や工業化も大事だが、それは国民生活に付与したものでなくてはなら
ない。今の農協のように野放図に薬と肥料と機械化では健康被害があるし、国策の水の
管理や水質検査も全くなされていない事は江戸時代よりわるい。まったく政府の馬鹿の
事業で日本の多くの木々は放置され、必要な大木が切られ東京をまねた街づくりで家庭
はほとんどが崩壊した核家族で、伝統も文化もあるいは教育も歴史もつづられない。

169: 名無しさんAA:19/09/19 09:11
 小猫のそら   36

 イエメンから出撃したとのフーシ派の主張に疑問が投げ掛けられる中、サウジの石油
施設の打撃が北西方面であることを根拠に、アメリカ側には、イランが出撃地点だった
との主張した。イランの明確な関与を立証できれば、非対称戦争という相手の土俵では
なく、同盟国による攻撃を理由に、アメリカは通常戦力による報復も可能となる。サウ
ジ攻撃となれば、アメリカはイラン攻撃の大義名分を持つ。つまりは米国の死の商人が
暗躍の活躍する場所が提供されることになるのだが。CNNTvは、アメリカとサウジ
の捜査当局がイラク国境に近いイランの基地からドローンや巡行ミサイルが発射された
可能性が極めて高いと結論付けたと伝えた。世界最強軍隊の第5艦隊は駐留し中東地域
に基地を持ち展開している。これに対して執拗にイランはすでに非対称戦争で迎え撃っ
ている事実がある。日本の派遣した一連のタンカー攻撃事件もイランが関与した。とい
ったが攻撃により、イランが警告するホルムズ海峡の封鎖が、米国の希望であり現実的
な脅威でもある。こうしたサウジの石油施設への攻撃は、サウジにとっては迷惑な話の
ようだ。本来高くなった原油価格にウハウハのはずだが、すぐに修理でき数週間で復活
すると声明を出し原油価格の下げ圧力がかかった。あわててポンペオ氏が訪問している
所を見ると、ツイッターで解任されたジョン・ボルトン大統領補佐官よりかなりやばい
対イラン強硬派のようだ。サウジはもしこのまま戦闘態勢にはいればムハンマド皇太子
は持たないほど国内不満が持ち上がっている。又もしアメリカ言うようにイランからの
飛行ではレーダー網を潜り抜けた可能性が高い、わざわざ飛行経路を迂回させたとは、
考えられないからだ。アメリカのレーダーミサイル防衛網の導入など数兆円の軍事費を
費やすサウジの軍事装備をもってしても、1機1万数千ドルの安価なドローン攻撃を防
げず、世界経済を左右する原油相場を人質に取ることが容易にできると証明された。軍
専門家は、「アメリカもレーザーなどを使った無人機迎撃システムをようやく発表して
いる段階で、ドローン攻撃から石油施設を守る技術は存在しない。」と明快に話してい
る。それはその小ささからだ。石油業界関係者は、「石油施設への攻撃で無人機の脅威
の大きさが示された形で、原油相場はリスクを織り込んでいくだろう。原油相場が高止
まりしかねない」と指摘した。闇の商人の思う壺だろうが、イランとしても、アメリカ
やサウジとの直接対決は避ける方向にある。ここで国連事務総長の解明に派遣する声明
で一気に株は上がり原油は下がった。面目躍如であるが、当の米国は金利引き下げまで
発表している。不思議な事だ。トランプ大統領は臨戦態勢」としながらも、「戦争は望
んでいない」と表明している。対するフーシ派や革命防衛軍も不思議な動きがある。一
時イエメン政府はフーシ派によって奪還され、正規兵士は捕虜になった。しかしなぜか
又政府軍の空爆が始まりハディ大統領派(イスラム教スンニ派)が盛り返したのだ。航空
兵器つまり戦闘機は武装勢力のフーシ派(イスラム教シーア派)にはない。さらに無人機
攻撃力も実はもってなく、イランの革命防衛隊の供給である。もともと農業国で食糧す
らまままらない国あるのは、まだ掘削されない石油資源ぐらいである。つまり、ここが
採掘されれば危険なホルムズ海峡を通らずに済むのである。つまりサウジは自国の戦争
は望まないがイエメンの紛争はそのままがいい。と思っている。となるとこの攻撃は、
イランも革命防衛隊も望んでいない。残るはサウジに武器を売るイスラエルかアメリカ
かしか残らない。つまり石油資本はどうしても高値維持をしたいということで執拗に、
中東の戦争を願っていることになる。その意味では石油メジャーにイランもサウジも嫌
われたのかも知れない。しかしここで中国が不必要な犯人指摘は証拠が出てから言えと
声明をだしている。この地域にはアラビアのアルカイダも残存している。迷路の中東だ


170: 名無しさんAA:19/09/19 09:54

 今度のサウジの石油施設の打撃が使われたのがアメリカ製であったと言われたのだ。
たいがいの国には認識符号があって、日本ではカタカナ表記だったり韓国では韓国数字
記号だったりする。今度の破片はガス圧力によって大方の破片が残っているその本体の
記号がMC符号が打ってあった事が認められたようだ。MCとはミサイル識別で地対空
を意味するのだそうだ。どこで拾って来たんだか、パトリオットの小型の様なものだっ
た。これはイランと言うよりはイラク軍が作ったのではないだろうか。と一人思うので
ある。イラク軍にいるモサドと考えれば立派な要因がある。一つはネタニヤフ政権の問
題で選挙中であること。更に米軍支援でイラクが建て直されている事シリア戦争が間も
なく終わろうとしてる事、雇用兵に失業がくるその点サウジはお金持ちの国で、沢山の
王子がいる。小さな支援があれば、政権転覆を図る事も可能でありパトロンがいても、
不思議ではない。つまりはサウジの内紛の可能性も高い。



171: 名無しさんAA:19/09/19 10:51
 歴史の群像     99

 明治憲法での、内閣については規定はなく、天皇の輔弼機関(55条)と規定された
のみで、その他に位置付ける文言はない。行政機能としては枢密院が存在し、枢密院と
内閣の政策が対立する場合も多々あって、一体性は損なわれても変化がなかった。既に
国際化を果たしていた第1次若槻内閣で、1927年(昭和2年)に台湾銀行救済のための
緊急勅令案を枢密院で指令したが、19対11で否決し内閣を総辞職に追い込んだ例がある
ほど、天皇の絶対性は年々薄れていって有名無実となっていた。統帥権に関しても、例
えば1930年(昭和5年)、浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約の批准問題では多く
の政令反発がある。この時、条約批准を目指す政府、つまり浜口民政党政権があったが
、枢密院・軍部・鳩山一郎らを中心とする野党政友会、などが対立して、内閣が軍部の
意向に反して軍縮を断行するのは「統帥権干犯」との非難が浴びせられた。加藤寛治は
軍令部長であり帷幄上奏まで行われ、枢密院でも反浜口内閣の動きが大いに顕在化して
多くの混乱が走った。しかし、このときは浜口首相の奮闘によって、枢密院側は折れて
浜口内閣は条約批准をやっと達成した。こうしたことで内閣総理大臣と言えど各大臣は
ほぼ対等であった現実がある。つまり平安時代の右大臣左大臣と同じに天皇の相談役で
内閣運営をしている形だったので、知行制をしていた江戸時代の若年寄の上に月番老中
を置き、担当大名に、幕府の間を事前に調整指導して取り持つ取次老中に、将軍の命令
を老中奉書で大名に下達した形式より悪かった。諸大名の統治も職務とした将軍下達は
一人の老中首座しか出来ずその任命によって将軍の座があったからだ。明治後権力基盤
になった内閣制度では、議院内閣制の制度的保障はなく、もし老中首座を総理大臣とし
ても、月番老中7人は議員の役職であって、その若年寄は実務官僚である。しかし明治
期では、各国務大臣は単独で平等に天皇を輔弼し、内閣は内閣総理大臣を首班としても
、各省の長官である担当大臣によって構成されて各国務大臣が、直接天皇に会って助言
し輔弼する事ができたのだった。更に内閣官制で、総理大臣の地位・権限は抑えらて、
戦前では海軍大臣や陸軍大臣が総理大臣より力があったのである。というのも総理大臣
は閣僚の罷免もできない上に任命の拒否権が陸軍海軍双方にあったからだ。例えば、岸
信介は、1941年10月に発足した東條英機内閣で商工大臣として入閣したが。その後に、
太平洋戦争の戦況悪化に伴い「反東條」に転じた為東條は辞任要求した。しかし、この
辞任要求を拒み、44年 7月には閣内不統一で東條内閣を総辞職に追い込んだ。こうした
事が頻繁に行われて日本の国家としての統一性や国家方針の継続性が削がれていった。
又、内閣組織では総理大臣の候補に組閣の大命が降りて、首相が国務大臣を選任するが
天皇が任命した。つまり首相の選出は専ら元老の手に握られ、最後の元老西園寺公望な
どの重臣が、代わってその権能を行使し強い否定権を持っていた。総理大臣には、国会
議員である必要は全く無く、政党の威信や発言権が大きく支配した。日清戦争期に政党
が提携や妥協で議会運営をし、それ以降政党との調整は不可分となり、政党員の入閣が
常態化した。1924年(大正13)の護憲三派内閣成立で、1932年(昭和7)の5・15事件に
よって犬養内閣が総辞職すると、政党内閣が、この「憲政の常道」として成立したので
ある。


172: 名無しさんAA:19/09/19 11:24
 歴史の群像     100

こうして、衆議院第1党の政党総裁が首相に推薦され、組閣する慣行が現われた悪習を
断つ為に現役武官制を置いた。1900年(明治33)、軍部大臣現役武官制の規定が制定さ
れると、内閣を構成する陸・海軍大臣の選出はそれぞれ陸海軍の推薦を規定し、逆に、
1912年(大正1)の第2次西園寺内閣の末期は、陸軍は大臣を推薦しないことによって
内閣が組閣できず、政権の死命を制することができるようになり、軍部は強くなった。
今近の現代史では「日本軍、特に陸軍は無謀な戦争に走った」という見方が定着してい
るが、実は、そうでなく日本の国内政治形態が、世界の戦争期に完成し、内閣の組閣を
軍部に任せた形になってしまった事が大きな主因だった。この時まで赤紙つまり徴兵制
がなかったのに、日本の戦争で勝つ事を職務とする兵士に国家運営のほぼ全権を簡単に
乗っ取られたのだ。天皇に統帥権を持たせたものの、大正天皇にその政治的制度の改革
は不可能に近い。明治天皇すら明治期の議会成立による「擬似の議会制民主主義(憲政
の常道)」を維新政治家と共に作ることしか出来なかったぐらいである。この大政翼賛
会的行為をいまや自民党は繰り返し、政党補助金まで出す始末でバカをして議会が国民
の代弁者とはならないでいる。この悲惨な現状でもいまだ自民党を担ぎ上げる。ほかの
政党が、例えば「やらずぼったくり」とした民主党さえもこの政党給付をやめなかった
し、政権交代も野田総理のように思いつき答弁で事を起こしている。江戸時代では宿老
とする連中が談判した。当初、老中は年寄衆と呼ばれていたということで、旗本の間で
は年寄衆という呼称で定着した。重要な事柄を合議・処理する為当番制の老中も置いた
、諸大名の統治も職務としており将軍の命令を老中奉書で大名に下達した。これが将軍
の命令を老中奉書で大名に下達した文書となっており、藩の御取り潰し文書も下達にな
っている。担当大名と幕府の間を事前に調整や指導して取り持つ取次の老中と呼ばれる
立場のものもいた。戦時中は総力戦研究所は研究所などと銘打った研究所はおおくあっ
たが、まだまだ各省庁、大手民間企業のエリートを教育・訓練するのが主目的で電算機
すらない時代で、専門家を寄せ集めするのが精一杯で、提言するほどの資料の蓄積は、
なかった。しかし、陸軍省の専門研究班では、このエリートとは言え、素人にすぎない
若手集団の研究をはるかに超えた視野と戦略で、日本を支え日米英戦を考えていた。と
いわれた。ただし、戦闘は油田を持つ英国を主敵とし、米国とは極力戦わないという点
は総力戦研究所の結論と全く同じだった。しかし実際、陸軍省の研究班の通りに戦争し
ていて指令通りに戦ったとしても、又勝っていたとしても、この戦後がどうなったかは
わからない。もっと大きな核戦争の時代が幕開けた可能性も高い。米国では、陸軍省の
計算がそれほど間違っていないという見方もある。「太平洋戦争」は無謀な戦争だった
のかでは、なぜ日本は敗戦したのかが如実語られる。陸軍省研究班の通りに戦争を進め
なかったからである。真珠湾攻撃をして米国を怒らせてしまった山本五十六連合艦隊司
令長官の『暴走』が招いた敗戦だ、と本書は指摘している。「勝てる戦略」を準備して
、開戦に臨んだという陸軍は「陸軍省戦争経済研究班」のもと日米欧の経済力と軍事力
を徹底的に調査、研究し合理的判断をした。というのである。「昭和16年夏の敗戦」の
続編「空気と戦争」を読み解けば、猪瀬氏の見解がわかる。「無謀な戦争突入」という
史観は、自虐史観同様作られたものだ。左翼・リベラル系の学者やメディアによっての
み出されているのではなく、保守層の間でも幅広く定着している。その大きな要因の1
つに、猪瀬直樹氏などの出版物の影響である。特に山本五十六は「日米開戦反対を最後
まで主張していた。開戦と決まって仕方なく真珠湾攻撃をめざした」という、好意的な
意見は多く私もその一人であるが、しかし、とは言っても彼が敗戦の要因を作った事は
同意する。あれだけの戦艦や兵員をもって日本海軍を徐々に作り上げた日本を灰塵にし
た責任は時の上層部にあるし、最初の志のように多くのレーダーや起爆装置飛行機など
もっと研究させていれば民間では米国を勝った研究も多々あったのに軍の精神論にはま
りストップさせたのだ。仕方ない時代だったかもしれないが、ハワイ奇襲や進んで出て
戦闘する。という天邪鬼的ものは、帝国軍部の反発のみでは済まされない。


173: 名無しさんAA:19/09/19 14:08
 歴史の群像     101

 なぜ米国民を怒らせる真珠湾攻撃を強行したのか。実は陸軍省研究班の対英米戦略の
腹案(アイデア)では、陸軍参謀本部と海軍軍令部の間で基本的には了承されている。
昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議で正式に決定されていたのである。しかしその
方針では、「極東における米英蘭の根拠地を覆滅して自存自衛を確立するとともに、更
に積極的措置により蒋(介石)政権の屈服を促進し、独伊と提携して先づ英の屈服を図
り、米の継戦意思を喪失せしむるに勉む」事になっている。米国に対してはどう臨むの
かに腹案はこう書いている。「日独伊は協力し対英措置と並行して米の戦意を喪失せし
むるに勉め。対米宣伝謀略を強化し、其の重点項目を、米海軍主力の極東への誘致並び
に米極東政策の反省と日米戦無意義指摘に置く」としている、米国輿論の厭戦誘致に導
く事を目標としていたのである。しかし歴史的には、日本の軍部は、ルーズベルト大統
領がチャーチルの要請に応えて第二次大戦に参戦したがっていたし、逆に米国民の多く
が第二次大戦への参加を拒んでいることを良く知っていた。だから、米輿論の厭戦気分
を高め、戦意を喪失することが得策と考えていた事は理にかなった戦略でもあったのだ
。日本に工作員や諜報員が多かったように、アメリカにも多くの工作員も諜報員も多く
存在していたのだ。しかし、ドイツでは厳戒令下であまり多くの情報は出て居なかった
。これが不思議である。オリンピックまで開催したのに日本はドイツの動きで中国に対
日や抗日作戦が着々と進んで軍事顧問までおいて指導してるのに、中日協議にドイツに
頼んでいるのだ。全く情報が無かったか関東軍が米英の情報を聴かなかったかであろう
。山本五十六は真珠湾を攻撃してギャフンと言わせれば、米国民の戦意は喪失すると考
えていたようだ。とされる。これほど愚かなことはない。力のある者が緒戦で鼻っ柱を
叩かれれば、激高して大反撃に出る。と考えるのが自然ではないか。あれだけ日米反戦
を唱えていたものの意見とは思えない。実際に激高し、厭戦気分は雲散霧消、「日本叩
くべし」で米国は一致団結、これで対ドイツ戦に兵員を送り出す。当時世界最大の経済
力を持った米国が立ち上がったのである。太平洋での海軍力は日本と拮抗していたが、
イザとなれば一気に戦力を拡大できたし実際、そうなった。陸軍の腹案はそれを恐れ、
極力、米国の戦意を抑制することが肝腎と考えていた。また、ドイツのヒットラーすら
米国が出てくる前にと欧州を蹂躙した。山本五十六も同じに太平洋に出たのだ。日本を
奈落の底に導いた愚将と言わずしてなんと言おうか。問題なのは、なぜ大本営はそんな
山本の「暴走」を抑えることができなかったのか。もう一度言えば「腹案」が、大本営
連絡会議で決定したのは昭和16年11月15日である。だがこれが大本営の意思で山本参加
で穏やかな怒らせない方針が出たと考えれば辻褄があう。正式名称は陸軍省戦争経済研
究班であり、目立たないように陸軍省主計課別班という名称が使われ、作成した資料の
ほとんどは陸軍省主計課別班の名前で提出された。岩畔大佐の意を受けて秋丸次朗中佐
が率いたので秋丸機関とも呼ばれた。こお秋丸機関(あきまるきかん)は、ノモンハン
事件後の1939年に、総力戦を経済面から研究するために、日本の陸軍省経理局内に設立
された小さな研究組織である。対外的名称は「陸軍省主計課別班」とされた。


174: 名無しさんAA:19/09/19 14:09
 歴史の群像     102

 近年発見された「独逸経済抗戦力調査」や、「英米合作経済抗戦力調査(其一)」、
「英米合作経済抗戦力調査(其二)」などの報告書や、他にも多くの資料が現存してい
る事はわかった。独ソ戦開始直後の1941年(昭和16年)、秋丸機関はこれらを集大成し
て陸軍上層部に報告を行ったとされる。その内容は「英米合作の本格的な戦争準備には
一年余りかかる一方で、日本は開戦後二年は貯備戦力と総動員にて国力を高め抗戦可能
である。この間、英国の属領・植民地への攻撃、インド洋(および大西洋)における制
海権の獲得および潜水艦による海上輸送の遮断の徹底などによって、ドイツと協力して
輸入依存率が高く経済的に脆弱な英国を屈服させ、同時に英蘭等の植民地である南方圏
(東南アジア)を自足自給圏として取り込み抗戦力を強化し、米国の継戦意思を失わせ
て戦争終結を図る。」という対英米戦争戦略を示す。一方、イギリス屈伏の鍵を握って
いるドイツの経済抗戦力については下記のように悲観的な見方を示している。秋丸機関
の結論は結局は玉虫色のものであり、「緒戦のみ戦術として真珠湾を攻撃して、米国に
打撃を与え、後は極東、インド洋での戦闘に注力するという戦術はありえた。」という
大本営の「戦略意見」は、山本にとっては、そうはならない。という強い反対のはずだ
。「戦術」に齟齬はない、というわけだが、これってあり、ですか。「腹案」は米国に
は極力、こちらから手出しせず、戦う場合は「極東に米海軍をひきつけて」と書いてい
る。そのそばで太平洋の米国よりの真珠湾に攻撃に出かける。大本営政府連絡会議を、
完全に無視した格好である。組織として体を成していない、と言わざるをえない。これ
に対して『石井秋穂回想録』によると、1941年04月17日に 大本営海軍部で決定された
「対南方施策要綱」は、秋丸機関や陸軍省兵備課で行われた研究を参考にして作成され
、秋丸機関は取りまとめただけのようだ。陸軍省軍務局軍務課高級課員の石井秋穂大佐
に対し、研究結果を何度も報告していたとされている。その石井大佐には 9月29日に、
大本営陸海軍部にて決定された「対英米蘭戦争指導要綱」や11月15日に大本営政府連絡
会議にて決定された「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の策定に参画していたこ
とや、また「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」と『英米合作経済抗戦力調査(其
一)』の両資料とも、海上遮断による経済封鎖で経済的に脆弱性のあるイギリスを敗戦
に追い込み、その結果アメリカの反戦気運を期待して外交交渉などによる終戦を提案し
ている。ことなど、内容に共通項が多くまったく方針転換ができない報告書に留まって
いる。戦中の1942年(昭和17年)、陸軍省戦備課長の岡田菊三郎大佐が、中山伊知郎ら
が参加した「大東亜建設座談会」で、英米の国力の大きさを認めながらも、植民地を奪
ったり船舶を沈めるなどしていくことで国防経済的に英米に屈服を求めることができる
。と信じて発言しており、この内容は朝日新聞1面に掲載されている事でも、日本その
ものが自信過剰でとんでもない「うつけもの」になっていたのである。これ以外でも、
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前後に、何故だが同様の戦略や論調が新聞や雑誌上で、
盛んに数多く論じられており、秋丸機関の報告書も「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する
腹案」も、当時の日本におけるほとんどの人の常識的な内容であった。真珠湾攻撃によ
って日米戦の戦端が開かれたのは同年12月 9日である。すでに「腹案」が決定された時
には山本五十六率いる連合艦隊は真珠湾攻撃を目指し動き出していた。最後通牒が米国
に手渡されればすぐに攻撃できるように動き出していたし、その動きが米国政府には伝
わっていたのである。「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」作成に秋丸機関の報告
書が影響力を与えたという研究もあるが、逆にこの報告書こそ世論の影響をもって出来
たものだった。1942年12月に秋丸機関は解散し、その研究機能は総力戦研究所に移管さ
れた。


175: 名無しさんAA:19/09/19 14:09
 歴史の群像     103

 南雲は太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊
)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。死後一階級特進により、最終階級海軍
大将。正三位勲一等功一級である。大和は打撃艦隊所属で、南雲機動部隊は巡洋艦中心
の偵察艦隊所属だ。偵察艦隊が前衛、打撃艦隊が後衛は当時の常識的な布陣で、ミッド
ウェーに向かっている。空母を主力に据えるなら空母を中心とした艦隊布陣としなけれ
ばならない、という戦訓がなくミッドウェー戦に出ていた。当時の戦訓の常識を覆すの
は難しくこの布陣が敗戦に導いた。さらに戦艦嵐が潜水艦退治で遅れをとって長い航跡
を残し偵察機に見つかり、不意打ちを食らい、その上に大和がいたのは機動部隊400km
も後方ですから、半日ほどなければ追い着けない位置でまともな布陣ではなかった。そ
れほど離れていた理由は隠密行動だったからである。元々真珠湾攻撃という「戦術」は
どう考えても「米国を怒らせない」「厭戦気分を高める」「米軍は極東に誘致する」と
いう「戦略」には対立する。戦術はつねに戦略に従わなければならない。にも関わらず
、山本にこの戦術をさせたところに日本の軍部の、そして日本政府の組織的欠陥があっ
たといわざるをえない。515事件以来、統帥権の干犯問題により、政府は軍部をコン
トロールできない。のみならず、陸軍と海軍は同格で互いに相手を掣肘できない。でき
るのは天皇のみだが、それは形式的で、天皇に軍事的、政治的な権限は実質的になかっ
た。緒戦の真珠湾攻撃で中途半端に勝ち、さらに日本のもっとも憂慮すべき空母たたき
にミッドウェー戦で惨敗する。これが組織的欠陥でも日本敗戦の穴を大きくした結果だ
った事は歴史が物語る。日本人の悪い癖で、山本五十六は軍神のように当時の新聞など
のメディアで賞賛され、日本から遠いミッドウェーへの攻撃、ガダルカナルへの進出な
ど「腹案」の逆を行く山本の戦術を阻止できなかった。その結果、大敗し、失敗した。
 リーダーの統制がきかず、ボトムアップで勝手な行動を黙認してしまう風潮は、今で
も各省庁、古い体質の大企業に見られる。日本の業病ともいうべき、この組織的欠陥を
正さすことが日本飛躍に不可欠なのだろう。こうした事で、勝手ばらばらというひどい
状態だった。海軍、陸軍内においても統率がとれない。陸軍では関東軍の暴走を抑えら
れなかったし、海軍にも山本五十六という権威を抑える強い権力が存在せず、「腹案」
に反する戦術を黙認してしまったのである。そしてインパール作戦も又同じように山下
将軍という軍神の利用で、コヒマの惨劇や白骨街道を許している。結局大本営決定の、
ハワイで空母を叩いて時間稼ぎした後、厭戦気分を利用した米国との休戦交渉にはいる
という作戦に抗じれなかった。そのうえ南雲が叩けなかった空母撃沈に向かう羽目にな
り、この戦略や戦術は南雲にまかせて大失態のうちに敗れるという境遇だった。1942年
4月12日エンタープラズの姉妹艦がホーネットと陸軍最新鋭爆撃機のB25が太平洋
上に現れたのである。日本本土爆撃が行われ、東京から九州まで縦断していった。この
B25ミッチェルが1.5トンの爆撃を落として中国に向かった。強風の神風が米国を
加勢する。本来大型機の離発着できないのだが向かい風で16機全機が飛べて二千ポン
ドの爆弾を投下したのである。この事が日本無敵の神話が崩され山本を追い詰めた。

176: 名無しさんAA:19/09/19 20:07
 英紙タイムズ(電子版)は19日までに、現役の英軍人で構成されるラグビーチーム
が訪日中に靖国神社を参拝し、物議を醸したと報じた。第二次大戦で日本と戦った英国
内では「A級戦犯が合祀(ごうし)される神社を参拝した」との批判があり、ポール・
マデン駐日英国大使が注意したという。このポール・マデン駐日英国大使は全くおかし
い。A級戦犯とは、勝手に戦勝国が作ったもので、日本では死んでいったものは平等に
黄泉の世界にいる。と考えている。さらにアーリントン墓地など英霊に祭りあげられた
墓地を参拝するのは、同じ過去の偉人や英霊に敬意を表してるだけで、なぜこの駐英の
大使は注意するのか。あくまでも個人の自由であり大使が注意すべき事項ではない。あ
まりにも韓国や中国の扇動に巻き込まれすぎだ、中国でも韓国でも1975年ころまでは、
まったく誰も文句を言っていない。朝日新聞やらの在日系の日本人記者が騒動したから
であり、素直に先人を祈る事や御霊の平穏を願うことになんの異議があろうや。


177: 名無しさんAA:19/09/19 20:08
 歴史の群像     105

 既に日本軍は、マーシャル諸島域で、ウェイク島やマーカス島など既に急襲されてい
て、幾多の飛行機も無くなっていたのである。レーダーの貧弱な日本海軍は、対潜用の
駆逐艦や、防空装備を充実させた防空巡洋艦、防空戦闘機搭載の護衛空母群さえ持たな
かった。いつまでも木製甲板で重量魚雷を持って飛べないゼロ戦の戦果に頼っていたの
である。ミッドウェー島はハワイ諸島の北西にあり、基地が置かれている、そこそこの
戦略要地で、ハワイ奇襲後に艦隊をおいて要防護する必要はあったはずだがそれをしな
かった。日本軍は、ハワイ諸島攻略という大目標の足掛かりとするため、この島を占領
し、同時に、防衛にやってくるアメリカ艦隊を撃滅する、という作戦を練ったが時すで
に遅しの感はゆがめない。ミッドウェー海戦では空母のなかで、日本軍はミッドウェー
空襲の準備をしていた。難なく暗号を解読され、無線を傍受されて、日本の艦隊の居場
所はアメリカ側に筒抜けであった。しかし日本側は、アメリカの艦隊が目の前に迫って
いるという事実を知らず、ミッドウェー島を爆撃するために、空母艦載機に、対地用の
爆弾を搭載しているところでした。そこに、日本側から見れば突如として、敵艦隊が姿
を現します。使う艦載機は同じであっても、対地用の兵装と、対艦攻撃用の兵装は、異
なり、珊瑚海でやったような空母戦を行うためには、兵器を積み替えなければならなか
ったのです。この積み替えが「運命の五分間」―痛恨の作戦判断ミスとされる。実際に
、南雲忠一中将の判断のもと、南雲機動部隊所属各空母は、狭い空母の上で、既に搭載
されている爆弾を艦載機から下ろし、別の爆弾に換装する、という、難しい作業を実行
し始めました。結論からいえば、この判断が命取りとなりました。間に合わなかったの
です。あと五分あれば爆弾を積み替えて対艦戦闘の準備を整えた艦載機を発進させられ
た、と言われており、これを「運命の五分間」と言うそうだ。しかしそれだけではない
。頻繁に出撃していた赤城は、変則的に防空飛行機は不足であった爆撃を待つだけで、
防空戦闘機は全くいなかったのだ。つまり急いで近寄りすぎたのにまったく出していな
い。こうして沈められ、加賀・蒼龍の最期の戦いが始まる。敵機群が連続的に飛来した
ため、護衛を務めるべき零式艦上戦闘機はほとんどが出払ってしまいます。そして1942
年6月5日、日本時間午前7時。空母・加賀の見張り員が「敵、急降下」の報を発した。
しかし、打つ手はありませんでした。戦闘機排除して爆撃機を重要視した失敗がここに
ある。制空権を持たないかぎり爆撃機が勝てる見込みがないのである。爆弾を搭載した
艦載機でいっぱいの飛行甲板に、次々に急降下爆撃が加えられ、加賀は大爆発を起こし
、真っ二つに折れて沈没していった。蒼龍は3発の直撃弾を受け、大火災となり、総員
退艦の末、午後4時過ぎに沈没した。艦長の柳本柳作中佐は艦と運命をともにしました
。赤城は直撃弾こそ少なかったものの、強引な兵装転換のために格納庫内に散乱してい
た兵装などに引火して誘爆、炎上。消火が試みられましたがその甲斐なく、日本軍での
駆逐艦四隻による雷撃によって処分された。ここにレーダーが貧弱で暗号が読み取られ
たという悲劇がある。一方日本側の、もう一隻の空母・飛龍は、たまたま少し離れた場
所で、しかも雲の下にいたため、さし当たっては難を逃れた。この時点では貴重な残存
空母となった飛龍を、戦場から離脱させる選択もあり得た。しかし、飛龍艦上の山口多
聞少将は判断する。上からの作戦判断を待つことなく、米空母ヨークタウンに対し攻撃
を開始した。さしものアメリカ艦隊も、三空母に対する総攻撃の直後で、隙を生じてい
て飛龍の攻撃隊が次々に出撃してヨークタウンを攻撃した。こうして中破へと追い込む
ことに成功した。飛龍の決死の戦いである。一方ヨークタウンも飛龍の位置情報を友軍
に知らせ、飛龍は空母エンタープライズからの猛攻撃を受けることになります。火災が
発生し、飛龍もまた継戦能力を喪失しました。まあ甘っちょろい休戦や停戦を予測した
開戦や宣戦布告を考えた大本営の思い上がりの結果であった。


178: 名無しさんAA:19/09/19 20:46
 東京地裁は何を勘違いしているのか。市川房江や菅直人は市民運動家として1988〜90
ぐらいにこの原子力発電反対闘争で、裁判所にこうした地震や津波が起こるはずだ。と
提訴していたし、TV討論で当時の自民党議員と議論してるじゃないか。バカ判事は、
歴史事象もさがさない怠慢人間か。


179: 名無しさんAA:19/09/21 06:48 ID:Hg
 歴史の群像     106

 工業力に劣る日本軍は、わずか3日間での空母四隻の喪失という痛手から、二度と立
ち直ることはできませんでした。太平洋全域の制海権を掌握してアメリカとの講和に持
ち込む、という、おそらくはたった一つの勝機も、ここで完全に失われました。その後
のガダルカナルのソロモン海戦では、巡洋艦クインシーを入れ始めて上陸部隊を入れて
海兵隊を送っている。ミッドウェーの敗戦でアメリカが攻戦にでたのである。ここで、
米国も初めての戦艦ノースカロライナを入れた。この戦艦は自動追尾射撃を入れていた
軍艦でこの船の戦績は華々しい。この後は、日本軍は太平洋方面においては、華々しい
戦果を得ることがほぼなくなり、苦しい防衛作戦を敷いて各地で多くの米兵を阻止した
ものの、それは悲劇の上乗せでしかなかった。米兵を恐怖に陥れるほど鬼神のごとき、
玉砕の自爆戦法も起こったが、天皇の敗戦宣言で辛うじて本土決戦は免れた様だ。1945
年 8月15日への降伏の日まで、凄絶な後退戦を繰り広げていくことになって原爆までも
、落とされる結果になったのである。この世界大戦に負けた原因の一つに砲弾技術の違
いが大きくある。榴弾は炸裂砲弾の事だが、対戦車榴弾や粘着榴弾など、着弾時に火薬
の効果を用いる砲弾や、砲弾に限らず爆弾の内部に炸薬を詰めたもののことだ。陸上兵
器や艦載兵器で使用されている火砲の砲弾は、ほとんどが榴弾と徹甲弾に大別される。
徹甲弾はその運動量によって目標を破壊するのに対して、榴弾は内部の火薬が炸裂する
ことで、弾殻が破砕され、その破片が広範囲に飛び散り、目標に突き刺さって打撃を与
える。この威力が格段に劣っていた。攻撃対象の違いにより、徹甲弾は戦車や艦船など
、装甲された目標の装甲板を破壊するために使用されるのに対し、榴弾は散開した兵士
や軽車両、通常の建物などを広く攻撃するために使用される。航空機を撃ち落とすのに
高射砲が取り付けられたが、この射程距離も短く空中爆発するにはその高さを調整しな
ければならなかった。つまり信管調整をするほど日本は悠長な兵撃しか想定していなか
った。更に盛んにカミカゼ特攻隊を送り出したが、彼らが沈めたのは最初に神風特攻隊
の元となったフィリピン戦後の一隻でしかなかった。つまり特高が成功しても船は沈む
事がなかったのだ。アメリカは既にTNT火薬からトーペックスに替えていたのである
。トーペックス(torpex)は、戦争前既に存在し1942年にイギリス王立兵器工廠で魚雷
、爆雷用として改良開発し軍用爆薬として使われていた。名前の由来は魚雷爆薬である
。第二次世界大戦中に欧米の海軍で使用され徐々ににアメリカ合衆国で安定性など改良
されたHBX爆薬が作られた。この混合火薬はRDX42%、TNT40%、粉末アルミニウム2割
から作られたが日本のアルミ生産は僅かだった。この事で魚雷や徹甲弾の威力が数段に
違いがあり、特に水中での破壊力に優れていた。比較的高価であったて主として魚雷の
弾頭等に使われたがその調合に似せた高射砲にも使われた。一般に高射砲が届く範囲は
、簡単いえば、その砲を中心にした半球をかぶせた台所のボールを伏せたような空間に
なる。このボールの頂点の、ただ1箇所だけが「最大射高」で高さ的射程距離は日本軍
も米国も違いはない。その為内側の「有効射高」という弾丸が敵機を落とせる高度もま
ったく劣ってはいない。しかし、炸裂弾の場合は、日本の弾はあまり意味がなかったが
逆に米国の場合は日本の飛行機が弱い事もあったが、炸裂内に更に球を込めたものや、
発射スピードの高い数段大きい弾が使われた。これは、命中率、発射速度、弾丸威力な
どから、敵機を撃墜できる、あるいは十分に威圧することのできる範囲で多くの威力を
発揮した。



180: 名無しさんAA:19/09/21 06:49
 歴史の群像     107

この違いは、例えば5発撃てれば十分と考えれば、発射速度20発/分の高射砲なら14秒
間敵機がこの切り口に存在し続ける最大高度である。つまりこの高度は敵機の推定速度
で変わるし、また逆に、大きな大砲で旋回速度が遅かったりすると、逆に「最低高度」
が出てくる。実際の実用面でこの実用高度の全空域を覆う兵器など当時はない。簡単に
言えば、日本の高射砲は、砲弾の生産、運送能力の不足で、性能一杯まで撃ちまくる事
ができませんでした。日本軍高射砲部隊の「命中率」は、ずば抜けて良い。それは当た
る弾、当てられる弾しか打たなかったからだ。技量が高いからより、狙って狙って当た
る弾しか撃っていなかった。本来の高射砲目的の、「そのエリアには入れない」という
効果で、撃てるだけ撃って、ドイツの様に数千〜1万発かかっていますが、日本は千発
以下どころか百発もなかった。つまり日本軍のは「対空射撃」でなく「対空狙撃」だと
言わる所以である。その上に砲弾内磁気炸裂弾や新型火薬を作り、5インチ爆裂砲弾は
15Kmの射程距離で15発/分の洋陵砲8問ボホーズ40o連射砲などは160発/分の
を20o機関砲は有効射程900m450発/分を腹一杯射撃している。高射砲に加え
て、高射装置がセットで運用されることが多い高射装置は、射撃管制装置の一種で目標
航空機の「現在位置」「高さ」「速度」を測定して未来位置を計算して照準を行って、
最大の効果が得られる時に砲弾を炸裂させるよう時限信管を調定する機械であった。射
砲弾は敵機の直撃を狙うのではなく、近くで空中爆発して飛散する破片により被害を与
える一種の榴弾である為極めて高価になりがちだった。第二次大戦初期までは、発射後
敵機の飛行高度に達する時間を計算して爆発させる時限信管が使用されたが、時限信管
による射撃は精度が極めて低かった。しかし米国の場合信管が敵機との距離をセンサー
で測定して爆発する近接信管が開発され、撃墜率が飛躍的に向上していたのである。後
の第二次大戦後は高々度を飛行する敵機を攻撃するために、より効果的な地対空ミサイ
ルが使用されるようになり、大口径の「高射砲」は消えていった。開発当初が、偵察や
弾着観測を行う少数の航空機の排除を想定して、高角砲を装備したのは艦体に余裕のあ
る巡洋艦以上に限られていたのであったがその数も単装砲を数基装備するのみであり、
あくまで補助的な兵装という扱いの日本だった。しかし、第二次世界大戦が始まると、
戦闘艦艇の任務は戦前の想定に反して、航空攻撃に対抗する対空戦闘が大きな戦争要素
となり、高角砲は近接戦闘用の機銃と併せて対空戦闘の主兵装として用いられた。こう
して戦争様態の変化に大日本帝国海軍は、各国より早く着目していたが、資材事情から
米国には一歩遅れをとった。相対的に対空兵装が重視され、各艦は相次いで対空兵装の
強化が行われたが大和型戦艦の2隻の就航時ぐらいで遅かった。その上時間的発射数は
米国の半分で、弾自体もケチっている。1k〜10Km先の飛行機を撃ち落とすのは、
ほとんど不可能で20q/h速度の戦車でさえ当たるのは1〜3%の世界で空中ではその
50分の1とされる。練度が低かった上撃込み連射の遅さとの砲弾節約さらに近接信管
開発の遅れ。この4つは、どこの戦闘でも起こった。それでもラバウル戦硫黄島戦沖縄
などかなり奮戦し占領部隊を遅らせている。ドイツ軍部隊に開発したナパーム弾で日本
兵の要塞トンネルに有効だと知ると直ぐに火炎放射砲を取り入れた。ナパームは粘着性
揮発発火剤を用いたもので、新たな開発兵器だった。大口径の「高射砲」は、重巡洋艦
の「摩耶」、軽巡洋艦の「五十鈴」や「夕張」のように、対艦兵装の一部を撤去しても
高角砲または機銃に変えるほど必要なものだった。また、新造艦においては駆逐艦以下
の小型艦艇でも、秋月型駆逐艦や丁型駆逐艦、船団護衛用の海防艦など、高角砲を主兵
装として搭載する艦が計画され、次々に戦線へ投入された。これら艦載の高角砲の一部
は拠点において揚陸され、拠点防衛用の陸砲として用いられるものになった。重装備か
ら軽装備に代わるため良かったが、それでも頑丈な米機には威力はなかった。


181: 名無しさんAA:19/09/23 22:05 ID:xM
 歴史の群像     108

 東洋の不思議な島国。これが「ルックイースト」とまで言われた日本の姿だったが、
基本的には小さな島国で毎年台風は来るし地震や津波も多く、欧州の様な石造りの伝統
も持たない様な国が、中国やインドより先に世界に飛び出してしまったのが第二次世界
大戦だった。この戦争では、人間の本質や、戦いの基調が解るような模様が多かった。
基本的に諸外国や欧州世界は戦い慣れしていたであろう。しかし、日本は究極の生存権
の行使で戦っていた。かつてGHQのマッカーサー司令長官すら日本に来て半年後には
「日本は誠に持って自衛の為の戦争だった。軍事物資はもとより資源はおろか石油がな
くよくぞ生きてこられた。という有様に私は酷く動揺した。」と言った。日本の批評家
にはマッカーサーは愚将だったと言われる。その聞く耳を持たなかったとされる愚将す
らもこの素晴らしい日本という愚直で素朴な民族を痛めつけた事を悔やんだ。と言われ
る。基本的に人類は何の為に殺し合いの戦争をするのか。それは正義の為である。大方
が善人だからである。善人は弱くそう多く奮起したりしない。ましては日本は島国育ち
で世界の悪態に慣れてはいなかった。正義は必ずしも勝つとは限らない。更に心に響い
ても人々が共感持ち得るとも限らない。だから正義の者善人は常に戦わなければならな
いし、日々精進し先に行くしかない。そこで科学力や経済力や結束力を持って世界に問
う事になる。そこで刀を作り拳銃を作り大砲を作り軍艦や戦闘機を作り出す事になる。
しかし、大阪で秀吉が宣教師に日本人奴隷の解放を叫んだ後、家康時代から日本は先進
文化であった鉄砲を捨てて刀の精神文化に後戻りして、平和を楽しむ方向に方針を変え
た。というのも平和の為の戦争行為を無駄と悟ったのである。地震や台風などの災害の
多い島国で自らの生活を同世紀に同じ時期の者と仲良く励ましあって生きていた方が楽
しいじゃないかとして、家康は生き方のその行き過ぎの境界を決めて御法度という法令
を盛んに作り出して行った。そうした日本人は200年間門を閉ざした自立主義を貫い
て生きてきた。そして突然に明治時代を迎えて、ロシアの不凍港を求めた南進紛争に巻
き込まれるのである。そして必死に戦って自立自衛の為に朝鮮半島に渡ってまで防衛線
を行うのである。しかし、時代は技術進展もすさまじく、戦争は巨大軍事兵器化学兵器
、原子爆弾他種々の大きな殺す為の殺戮兵器が生み出されるのである。ここでも必死に
なって対抗した。危機が迫れば、団結して富国強兵政策を取り、破壊を目論む異端児は
排除していった。軍国主義の台頭である。各国事情は米国などは戦争する理由は全くな
かった。日本には世界各国の脅威が降りかかった。日露戦争での国家賠償のルールは、
故意に米国は外した。その頃のアジアは、白人ルールに適用されていた。日本も又同じ
に、「陸奥」「長門」をはじめとする侮ることのできない連合艦隊があった事が癪にさ
わるものだった。すべての有色人種の所有権は白人社会のもので権利はない。と公言さ
れていた時代だったのである。しかし日本だけは軍事の後ろ盾があったからこそ、侮れ
ずアメリカは、その白人ルールを無視してでも叩いた。すして日本人の堪忍袋の緒が切
れた。日本を崖っぷちに追い込こまれたからだ。日本の戦前の暮らしぶりや社会生活が
良かった事はアメリカはよく知っていた。又民主主義がアメリカ占領軍統治から始まっ
た訳ではない事も知っていた。しかし戦後は日本人に隠し、学校でも教えなさせなかっ
た。明治の民主主義の断絶の遠因は、ロシア南下阻止に欧州社会がクリミア戦争した為
極東に出てきたことで、ロシア革命から共産化が進んだからだ。そして近因はアメリカ
がそうして苦慮している日本に鉄屑や石油を恣意的に売らなくなったことだ。それは、
日英同盟を消してまで日本を抱き込んで米国商品を進めた同盟国条約の違反で、日本人
は不当に思った。それでも、戦前日本はそれほど悪い国ではなかった。当時の天皇は本
心で一心に国家の基本は「独立を守ること」努力を惜しむことなく、軍部も国体保持に
傾注して事に当たっていた。しかしここで間違いが起こる。アメリカが民主主義を捨て
扇動主義になってドイツと同じに広報活動で日本悪玉論を敷き嘘つきになったのである
。対して日本も戦争中には、正義や善人論では対処できなくなって、徴兵制を引き更に
この戦争続きで文化の伝承が絶えて、欧米流の合理主義と弱者排除の価値観に染まった
のである。戦争の悲劇はここにある。善人の早死や伝統的社会秩序の毀損や欠損である


182: 名無しさんAA:19/09/23 22:05
 歴史の群像     109

 こうして、戦前日本の分水嶺は日露戦争の賠償交渉にあった。平和、自由主義、民主
主義に向かって歩んでいた日本を右翼国家主義に転変させたのは、共産主義という怪物
だろう。ソビエトロシアへの対策としてそうならざるを得なかった。にもかかわらず、
米国はそれを利用した日本叩きに出た。戦前の日本人は、独立の尊さを知っていた。同
時に有色人種の独立国が危機であることも充分自覚していた。だから必死に努力した。
危機が迫れば、団結して富国強兵政策を取り、破壊を目論む異端児は排除された。そう
いう事情の吟味なくして、戦争の反省も戦後の反省もない。日本に降りかかった脅威を
故意に見ないのは、自虐史観の本文かもしれない。民主主義はアメリカ占領軍統治から
始まったことにしようとGHQは大いに広報した。そうした事を日本人は不当に思った
。それでも多くの日本人は見て見ぬふりをした。声を上げたのは侠客とされるヤクザ者
達だった。戦前の日本はそれほど悪い国ではなかった。当時の国家の基本は「独立を守
ること」努力を傾注しなければ危うことを知っていし、戦後も一貫してそれを守って切
り開いた。そうした親に反発したのが学生運動であり、赤軍派の時代である。安保反対
を扇動されたり、反戦デモにフォークソングで声を上げようと人々に広報した。過激な
右派や左派はビル爆破や海外逃亡までして戦った。そうした意気込みは革命家のチェ・
ゲバラの本が売れたり、時の音楽が洋風化して若者に支持されたのが証明している。戦
後すぐGHQが始めたのは白人ルールの徹底であった「独立を守るのは余計なことであ
り、生意気なことだ。お前の国ほどの幸せはアメリカが保障してやる」という今や日本
で大前提になっている「核の傘の自衛権のない国」と言う日本の姿である。確かに日本
は軍事的には敗れたが、戦ったこと自体をそのまま善悪で分かつべきでない。しかし、
お隣の韓国は、大戦に敗れた時は、独立を奪われ、教育も何もかも奪われ、それこそ男
も女も奴隷的境遇に落とされた過去を日本が救った事を、恨んでるかのような言い分だ
。日本の日韓併合時代の施策を真似てGHQは寛大な処置をした。南洋でも東南アジア
でも120人の米兵が日本の植民地時代の悪行を東京裁判にもって行こうと調査したが
、そこで出たのが米兵の悪口と日本兵駐留で平和になった。奴隷から解放された。とい
う喜びの声や感謝の声だったのである。これにはGHQも口を塞いだのだ。こうして、
日本駐留を大局主義に変え寛大な方策に変えた天皇の勅令を残したのである。これに日
本人はバカに感激してしまった。それで独立のために命を捧げるなど阿呆らしかったと
いう雰囲気になり、犬死至論が出てくる。こんなことなら戦う必要なかったと。しかし
戦ったからこそ、アメリカは寛大になった。「戦う気概を忘れた国はやがて亡国の淵に
立つ。」「戦って敗れた国は必ず再生する。戦わず敗れた国は永久に立ち上がれない」
と言ったのはチャーチルだが、戦う気概を忘れた国は必然的に亡国の淵に立つと言うこ
とを、今の日本人は真剣に思い起こす必要がある。こうして20世紀後半は、国際秩序ら
しきものを米国は犯せなかった。人々の独立に道理が通ってアメリカも自制した。それ
は、身命をなげうって究極の奪戦をしてくれた英霊のなかんずく神風特攻隊などのおか
げだと言っても過言でない。追いつめられた日本が立ち上がって噛みついた。その記憶
がバリアーとして彼我の記憶にあるから、あまり理不尽なことを仕掛けてはいけないと
いう自制を彼らにもたらした。そして一世代はなんとか日本は平和に暮らせたのである
。こうして戦後日本には悪いことをやってきたという教育がまかり通り呪縛から逃れら
れない。日本人を潜在的にも顕在的にも萎縮させて平和をつないできた。しかしいわば
国を売る行為が良心にかなう行為だと誤解され、次々と身売りするような条約には参る
。このような空気が戦後この方ずっとわが国を支配し外交を決定する例えば小泉などは
全く間違ってきた。日本の戦争犯罪なるものの世界的追及の動きに同調し煽っているの
は日本人自身なのだし、ここまでこじれさせた中国や韓国北朝鮮の抗日反日感情は日本
の一部のバカ記者が焚きつけたものだ。在日という中途半端な帰化者温情が逆に日本の
の伝統的思考や文化はほとんど壊わされてしまうのである。

183: 名無しさんAA:19/09/23 22:06
  歴史の群像     110

 よく欧米の巨大な軍事力を背景に行われる外交を恫喝外交や砲艦外交と題される。対
象的に、韓国や北朝鮮がそうした大国相手に朝鮮や中国が行うのが、崖っぷち外交や、
サラミ外交と言うとんでもない技巧言葉の応酬である。いわゆる大同小異と言う国民性
をわかってくれと言う奴である。例えば6ヶ国協議でも盛んに日本は孤立するとマスコ
ミ各社は日本政府を攻撃した。というのもこの時既に核開発中止やミサイル廃棄で代わ
りに経済支援や技術援助あるいは貿易解放が約束される。と中国・ロシア・韓国・米国
が北朝鮮が同意している。としていたので日本の拉致問題解決を追加条件をしている事
に批判がはいったのである。しかし日本は小さなその段階的合意で常にゴール地点を後
ろに下げて更に遠くにゴールテープを持っていく性格を知っていた。今でもこうした、
たとえば国際連盟の批判決議や経済封鎖に、中国・ロシアに血の同盟国と泣きついては
石油や労働対価をちゃんと輸入し、韓国には民族的同族を謳い、文政権を狂ったように
躍らせていて石炭はおろかミサイルのIT基盤輸入はレーダー照射問題時の船長拿捕の
帰還など完全にいかれた西側と成り下がっている状態だ。不思議なのは、日本の独立国
で天与のものと思ってるのか、神の国と思っているのか、日本に対していくら悪く言お
うが傷つかない、いくら金を貰おうが揺るがないと、世界は思ってるらしい。幼児症の
甘えの感覚と同じ感覚で、日本に甘えた国は多く、戦前戦後共に多く利用される。米国
は日英同盟を廃止しろと英国に迫った。日英同盟が存続していたなら英国は、今も大英
帝国だった可能性は大きい。廃止の必要がなかったと言われている日英同盟の頃、アジ
アのプランテーションに日本は進出した、ベトナム・タイ・フィリピン・マレーシア・
インドネシアと各国に欧米は教会と共に原住民を奴隷として使った農園経営をしていた
。更に逃げ出さないよう私兵警備までして懲罰室まで置いていた。しかしそこに乗り込
んできた日本人は家族農園の形態で、日本人も現地人同じに行った。石造りの召使いの
いる贅沢な暮らしでなく、長屋の宿主的集落的生活に終始し勤勉だった。当然収益率が
まったく違って英国の農園主は脅威に思い考えあぐね監督者に日本人起用をし、中には
日本人に農園を任せ本国に帰ったり、売ったりした。つまり利益搾取のみでマラリアや
風土病の多いこの地から去っていった。しかし米国人は違った、政府主導で英国の様な
私企業ではなかったし、国や商売の経営ではなく拠点の駐留権益だったのだ。当時米国
人は魚など食わないし肉輸入もなく、農場経営には見向きもしなかった。ただ日本人が
経営したバナナ農場や魚肉加工や牧場経営は見向きもしなかったが、ゴム農園だけは、
輸出品として母国に送っていた。戦後世界でも日本の力を一番知っているのはアメリカ
で、それを一番利用したのもアメリカだった。戦前にロシア南下阻止に利用され、戦争
もドイツ叩きに利用された形だったが、戦後も日米同盟という下支えはアメリカ帝国主
義に利用され続けた。日本は野蛮な侵略国家だ。と一方的に決めつけて日本上陸して、
断罪しようとした東京裁判で、東京裁判を始めた連合国軍の最高司令官のマッカーサー
そのものがその過ちを認め、「日本の戦争の動機は安全保障の必要に迫られたことだ」
と証言するに至る(昭和26年米国上院軍事外交合同委員会・米国の極東政策をめぐる
公聴会の席で)し、その戦争目的が侵略であったと、決めつけていた視点を正式に取り
消したのである。にもかかわらず、このマッカーサーの証言を日本では封鎖された教育
政策が行われた。「戦後50年決議」のとき、細川護熙、村山富市、土井たか子、宮沢喜
一、河野洋平という政治家達は、日本の歴史をまともに学ばないまま政治家になった。
そして知っても、敢えて波風を立てない方針を終始貫いたのである。例え間違った歴史
でも掘り起して世界からの白い眼や国内の混乱を避けたのである。そうした近隣国を、
増長させる様な政治方針は今でも続いている。わざわざ戦争までして正義を毅然と行使
した日本人に、降ろされた敗戦の結果を馬鹿とする世代だったのだ。日本や米国の間違
いはこうした悪人との戦いにおいてドイツの様に人道に劣る極悪非道の悪人に成り下が
った事である。強きをくじき弱きを助くの精神文化を亡くしたのである。

184: 名無しさんAA:19/09/23 22:07
  歴史の群像     111

 こうして戦後は真の民主主義と無くしていった。日本を売ったのが「崇洋媚外」の心
は何事も対共産イデオロギーというメガネを通しての物事をもなくし、教条主義のまま
諸外国さえ捨てた日本悪者論を国内では続けた。戦争協力の足跡を隠す為、熱心に日本
断罪に取り組んだ政治家達はそれを利用して国内不安を掻き消そうとしたのである。右
翼左翼共に受け入れ、政治家・活動家・あるいは労働組合の人たちも同意するように動
いた。21世紀でも、日本を味方につけた国が栄える。20世紀の、パワーゲームの中
において日本は主役だった。ロシア、中国、イギリスは日本と戦い衰運に傾いたし、第
二次世界大戦や冷戦も日本に勝利したという間違いは、「原爆使用」に代表される非人
道な殺戮兵器において勝ったのみで、思考や国家運営が勝ったものではなかった。ソ連
の「中立条約違反」と同様、同族同種の白人に対しては、全くやらないことを日本に対
して行った。日本人が有色人種蔑視の正体を見て奮起し、日本は善戦敢闘したが正義は
弱いものである。弱いからこそ戦ったという日本人の義憤は、非人道なその事実を紛ら
わすために、戦後は日本を軍国主義だ侵略国家だとしつこく悪宣したが、その事実が見
つからないまま東京裁判は終わったのだった。日本がなければ、白人世界は本当に完璧
な、白人アパルトヘイトの世界が覆される契機など存在しなかった。それを突き崩した
戦争が戦後の黒人解放を起こし、人種差別撤回まで持ち込んだ。戦前の日本の「悪の帝
国」のレッテルが果たして本当だったか。戦争が無意味なものだったかが、正に戦後に
明らかになる。戦前戦後とも、アジア各国は、日本の味方が出来なかった。白人も我々
有色人種と変わらない、工業化して立ち向かえばいいんだ。とアジアに示した日本人は
白人の特に米国には脅威だった。それをわかっている人々は米国内でも今も昔も日本を
悪く言わず尊敬する。そして黒人人権運動や女性参政権に戦った。世界がいくら日本を
悪者に仕立て上げようとも、こうした正義の日本を味方につけた国は栄え、敵に回した
国は衰運に向かった。その教訓は21世紀にも通じる。それに気づいた国だけが得をする
事になった。大東亜戦争が終結して、日本にマッカーサー率いた連合軍司令部ができた
このGHQすらも同じだった。GHQは当初日本で厳しい言論統制を行い、新聞や書物
と言ったものに検閲を掛け、自分たちに都合の悪いものは全て除外し戦争協力者を公職
追放し、20万人以上もの職を奪った。その代わりに戦前からくすぶっていた社会主義の
思想に拍車を掛けて、日本の保守的な者達の口を次々と塞いで来たのだ。それが一夜に
して更に変化する事件が起こる。朝鮮戦争である。ある時期ある時このGHQすなわち
米国の日本占領政策が全く間違った政策であった事に、総司令官のマッカーサーが気付
く事になる。朝鮮戦争は、大東亜戦争後、日本が統治していた統一朝鮮は二つに割れて
、北がソ連、南をアメリカが統治する事に代わり北の金日成が南の李承晩を叩いた内紛
で、それを支援した米ソの代理戦争だった。元々大東亜戦争期は、既に米ソの対立構造
が強く打ち出されていた。その中で植民地経営が行き詰まった英国がドイツに負けそう
でソ連にまで泣きついて仲裁をとった為、世界を分断する形で米国の覇権欲を翻弄させ
て戦争参加させていたのだ。朝鮮戦争は北朝鮮が突如として南朝鮮に攻め込んだと思わ
れているが、実際はその攻め込まれる理由をアメリカが作ってしまったものだ。1950年
1月12日、米国アチソン国務長官は講演で次のように述べている。『アメリカの西太平
洋に於ける防衛戦は、アリューシャン列島から日本列島、沖縄に至る線である。』と。
こうした勝手な米国の放言に惑わされたのが朝鮮人で、李承晩と金日成は実はつながっ
ていて、この言葉をそのまま受け取けて、ソ連に協力を求めた金日成に李承晩は譲歩し
占領させていたのだ。アメリカは韓国を防衛圏内に入れていないと受け取れ、李承晩の
九州争奪作戦をたてて手を握ってしまったのだ。李承晩はあくまで朝鮮人は戦勝国側の
同盟国だ。日本の分割統治に参加していいはずだ。と主張して止まなかったのである。

185: 名無しさんAA:19/09/23 22:07
  歴史の群像     112

 北朝鮮の金日成がソ連政府は原爆問題で北の要望を公式には却下した。しかし諜報戦
でソ連も実験室内の原爆製造のメドがたち、スターリンは南進の指示を出し、武器の供
与を認めた事で中国は大賛成をしたのだった。これに慌てたのはまさしくアメリカで、
韓国を共産勢力の支配下に置かれれば日本が危うくなることに気付いたのである。まさ
に戦前の大日本帝国がロシアの南下を恐れ、併合までして朝鮮に力を入れた事と同じ道
をアメリカが辿る事になった。この時になって初めて明治以降の日本が如何に共産勢力
の南下を恐れ、日本の自衛の為に戦って来たのかをマッカーサーは痛感する事になる。
朝鮮戦争では勢いに乗じた北朝鮮に、アメリカの支援を受けた韓国が釜山まで追い込ま
れるが、そこから仁川上陸作戦を敢行してソウルを奪還し鴨緑江の朝鮮半島の付け根の
付近まで盛り返し朝鮮戦争が終結するかに思われた。しかし朝鮮戦争はこれで終わりで
はなかった。金日成はしたたかに引き上げ中国人民軍の応援を受けアメリカが統一朝鮮
を望んでやってくる事を知っていた。待ち構えて包囲作戦を敷き、マッカサー軍は精鋭
部隊の大部分を失うことになった。ソ連の支援を受けた北朝鮮軍は依然として旧満州に
勢力を保ち支那内陸やソ連からいくらでも支援・補給が出来る体制を整えていたのだ。
ここでもマッカーサーは日本がなぜ満州を発展させる必要があったのかを思い知る事に
なった上に、ソ連は原爆の野外実験がこの時実施され、大きく国際社会に広告された。
朝鮮戦争が始まって、共産勢力に対抗して行く事で、全く日本と同じ道を辿った。マッ
カーサーは「かつての満州を空爆し、敵を完全に殲滅しなければ、また東シナ海の港湾
を封鎖せねばならない。」とトルーマン大統領に進言する。しかしトルーマン大統領は
ソ連の原爆開発成功の報を受けて、原爆戦争に発展し批判される事を恐れてマッカーサ
ーの意見を却下して、その声が大きくならない様に解任してまで封印してしまう。仁川
上陸作戦を敢行したマッカーサーがいなくなった米軍は共産勢力の反撃を受ける事にな
り、結局は元の38度線に戻り現在に至った。特筆すべきはマッカーサーの変節ぶりだ。
当初朝鮮解放が至上命題として乗り込んだのに、朝鮮は至って治安がよく統一朝鮮社会
は豊かであった。都市空爆や原爆が落とされ悲惨だった日本の現状に比べて雲泥の差だ
った。残留日本兵が朝鮮にいると乗り込んだが、既に国旗は大極旗が掲げられ立法行政
も議会が運営され選挙で議員は選出されて、アメリカ以上に自由闊達な意見がそこにあ
ったのだ。1945年 9月 6日の京城府で呂運亨らによって結成された「朝鮮建国準備委員
会」、「朝鮮人民共和国」樹立宣言を米国政府もGHQも認めようとしていたが李承晩
はロビー活動で大きく反対運動をしてそれを却下させた。曰く「戦時中の政府を認める
事は朝鮮解放にはならない。」という主張だった。更にサンフランシスコ条約も同じに
「日本を分割統治し朝鮮人の土地を与えよ。」と言い反対闘争にあった。これを一笑に
付した。これは女性のわがままな社会進出と同じだ。基本的に人類は継続する事を正義
とした。しかし、女性が家庭に入らず仕事すれば食べていけると未婚で遊び回っていて
、社会生活がホモであれレズであれ快感のみの生活で結婚生活と認める事はバカに等し
い。社会的差別があってはいけないが黒人が肌を白く出来ようか、白人が肌を黒く手術
しようか。そうした行為を朝鮮人はしたがる。整形手術をし物真似K−POPを流行ら
せ政治すら日本に敵対して真似る。さらには車産業・建設・造船・IT・文化すらも、
退職日本人をヘッドハンテングしては頭越しの技術導入をして今になった。その為基礎
的ものの科学も歴史も政治もない。自らの皇帝すらも廃止して蹴落とした社会を作った
まったく継続性の正義は存在しない。



186: 名無しさんAA:19/09/23 22:17
  歴史の群像     113

 戦後世界での朝鮮戦争で辿(たど)った米軍の道のりは、明治以降の日本による朝鮮
・満州統治と行って来た日本政策の意思と同じであり、日本の作った過去より悪い物だ
った。共産勢力の拡大・侵攻を恐れれば、自国を守るために敵であったアメリカでさえ
も、結局は同じ道同じ考えを辿ってしまう。その過程で如何に日本の行った戦争が自衛
の戦争で正当な正義のものであったと言う事が分かると言うものだ。そもそも朝鮮半島
を少なくとも分裂させたり中国と敵対視させる分断利用の政治を行っていない。そして
今の現状のこの分断は少なくとも朝鮮民族が望んで行った行為と結果である。更に一つ
は、日本に原爆を落としたトルーマン大統領すら、ソ連との原爆戦争になる事を恐れて
空爆すらも却下したことだ。つまり日本には原爆が無かったから、いや無いと確信して
いたからこそ日本に原爆を落とすことが出来た。と言う結果だ。もし持っていたら原爆
投下は無かったと言えるのがミソだ。最後にマッカーサーは議会証言で、こうも話して
いる。「日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが4つの島の中にひしめいている
のだ。ということを理解して頂かなくてはなりません。その半分近くは農業人口で、後
の残りの半分が工業生産に従事していました。潜在的に日本の擁する労働力は量的にも
質的にも、私がこれまで接したいずれにも劣らぬ優秀な民衆で構成しているです。歴史
上どの時点においてか、日本の労働力は、人間の怠けている時より生産している時の方
がより幸福なのだ。と言う国家構成を行った事、つまり労働の尊厳と呼んでも、良いよ
うなものを発見して国体を保持していたのです。これほど巨大な労働能力を持っている
と言う事は、彼らには、何か働くための材料が必要だと言う事を意味します。彼らは、
工場を建設し労働力を有していました。しかし、(我が国は)彼らに手を加えるべき原
料を(取り上げた為)得る事が出来ませんでした。日本は絹産業以外には、固有の産物
はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無
い、ゴムが無い、この無い々々ずくしの中で、そしてそれら一切のものがアジアの海域
には存在していた。これらの原料を断ち切られ、一千万から一千二百万の失業者が発生
するであろう事を彼らは恐れてもいました。従って彼らが戦争に飛び込んで行った動機
は、大部分が安全保障の必要に迫られての事だったのです。」この意味はこれほど重要
な証言はない。事実日本の軍部の大本営はチェンバレン侵攻を重視していたのである。
当時もそして現在も報じた日本のマスメディアは存在しないのは、極めて日本の為には
、ならない勢力が この国を支配している証左とされる。戦後でも中枢ではシーレーン
防衛をアメリカに要請したし、オイルショック時の新出光日章丸の事件も又極めて日本
的命運の中にあった事件でもある。我々日本人といういう島国は極めてこの真実の歴史
を誤解して行くように教育している。本当の真実を知って立ち上がる事は摩擦を呼ぶ事
になるし、正義は負け続ける。だがこれを失っては人間として、生きていく意味も価値
もなくなる。正義の声をあげ公明正大に大きく声をあげて戦うことは人類の当然の権利
であり進化の正常化への軌道でもある。これを日本人は失ってはいけない原則である。
常に正義であり、公明であり公平で誠実に情愛にある国として戦って負けても負けても
立ち向かうことが日本の生きる道であり、人の生きるべき道人間の本分でもある。


187: 名無しさんAA:19/09/23 22:17
  歴史の群像     114

 世界的な反日工作は、常に日本発と言っていいほど溢れている。マスコミがその実態
を全く報道しない。日本叩きにはあんなに熱を上げるのに、日本の弁護・正確な言い分
を発信することには本当に力を注がない。今度の韓国輸出の最恵国優遇に関して正常化
したのも発表に際して信用置けない国というはレーダー照射から解っている話だろう。
しかし、マスコミは純粋な貿易管理の問題としてはどこの放送局も新聞社も記事にして
いない。NHKすらも早とちりした韓国への制裁用の改正と報道した。又決める前も、
麻生外相は、「我々も対抗策は幾つもある。」みたいな発表を個人的見解として述べた
。全く間違いそのものだ。やった事が正義なら、ちゃんと「韓国の繁栄が日本の繁栄で
ある。朝鮮半島の平和が日本の平和である。隣国として条約違反は許されることではな
い。」と言えばいいのであって日本に韓国文化のような「恨み辛み妬み」や「怨恨主義
」は存在しないし存在させない。と新聞も書くべきである。その意味でも戦前の日本の
「悪玉論」や戦後の日本の「善玉論」という錯誤の元凶を消していく事が大事である。
GHQに趣旨返しして、擦り寄って言論人と学者、思想信条を守って当然の立場の筈だ
が、生きる苦境の為に、掌返した物言いを行った許しがたい者は非常に多かった。しか
し彼らが、権力を持って命令する立場にある官僚になって、自己総括せずに生まれ変わ
った証拠として、盛んに日本の悪口を目一杯言う様になり、在日朝鮮人なんぞは「我々
は戦勝国の国民だ。お前たち日本人は我々の奴隷となっても仕方ないはずだ。」と公言
し、強盗・殺人・拉致・監禁・食い逃げ・強姦・詐欺が横行した。記録では無賃乗車や
税金未納など、小さいものまで集めれば最初の半年で400件その後の一年間で700
件近くが報告されているが、それでも公権力である警察は動かなった。正確には動けな
かったのかもしれない。が報告だけ挙げられた。そうした実情があるにも関わらず新聞
や報道各局は「日本断罪論者」の登場しかしなかった。品格に欠け大衆蔑視、独善的で
欧米合理主義で進歩的でなければならない。という視点から罵倒対象は常に戦前の軍国
主義だった。しかし、兵役検査でも病弱者や弱者はとらなかったし、学童疎開させても
軍は戦いをやめず治安を守ったし、朝鮮半島からの徴兵制の申し出は断り続けている。
それを今では徴用工を行ったと裁判までする始末である。自国にいまだ徴兵制を持って
いる国が笑わせるようなブラックジョークである。さらに炭鉱労働や機械加工賃金は、
朝鮮人には払われて、日本人の方が安くさらに税や年金を自動差引されて半分ぐらいで
日本人が働いていたにも関わらずである。慰安婦問題でも同じで、当時の慰安婦事情を
知る者は、朝鮮業者がしつこく納入業者受け入れ業者としてはべりきて賄賂をしてまで
最前線現地に乗り込み送り込んだ。実は日本は遊郭制度でそれなりの家や旅館の形態し
か認めてなかったのを勝手に時間的な大量の薄利多売で店先茶屋の性交渉を繁盛させて
困ってしまい。病気治療や衛生管理のみ軍が指導して強制噴霧や強制治療をした。淋病
や梅毒の蔓延を恐れたのである。記録からも少年少女の結婚も労働も本当は国際社会よ
り強く高学歴にしたい腹があったが日本が20歳主張したのに韓国政府は12歳や14
歳の幼年労働を認めよと言ってきたのだ。そこで日本は16歳朝鮮半島で15歳からの
就労を認める事になった。それは日本では就学制度の義務教育は整ったのだが、朝鮮国
では李承晩などの左派系両班は李氏朝鮮の政府内で干されている立場だった。それは、
「事大主義(じゅうだい主義)で小さい政府が大きな国に反抗するのは良くない罪であ
る。という考え方からだ。

188: 名無しさんAA:19/09/23 22:18
  歴史の群像     115

 実は韓国人を見ると、朝鮮半島は100年前も300年前も全く変わらず進化していない事
がわかる。1906年に、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とし登場した時も
、伊藤は日本が囲うことは、経済的損失と日本の国際事情から反対していた。日本政府
内でも併合派と反対派が拮抗し紛糾して議論していた。元老で政界にも発言力を持って
いた伊藤博文は併合派に対して異論を唱え、併合には反対の姿勢をとったのだった。つ
よく「韓国の独立富強という建前を捨てることは却って益なしである。」と述べ、加え
て財政支出の増大を招く。と併合は勧められず国内産業の育成に力を注ぐべきとしてい
た。しかし窮した李氏朝鮮は密かに安重根放し、暗殺させた。1909年10月26日には伊藤
博文が韓日合邦を要求する声明書が朝鮮人によって出され、併合派が優勢となって日韓
併合に陥ったのは知っての通りの歴史である。こうして韓国併合および大韓帝国の滅亡
は決定的なものとなった。その後もあまり乗り気ではなかったが、国策上多大な国費を
もって農地改良や学校建設に取り組み、中間言語の韓国語統一を行って、高宗帝を喜ば
せた。戦時中日本が疎開しおかゆの食糧難時代でも満州からの食糧は来たが朝鮮半島の
農業組合は日本に送ることは少なかった。陸軍の食糧として東南アジア向けに少量持っ
て行った程度である。戦後すぐも渡航禁止で朝鮮半島の食糧は余っていたほどだったが
日本は貧困の限りであった。韓国の電力事情も同じで大きなダムの発電量も送電線も、
まったく空爆されずに豊かなままであった。問題はソ連軍の蛮行であった。もとは朝鮮
書物は日本が購入するように立派な写し書の国だった。1776年、正祖の時代に昌徳宮の
敷地内に設立された書院は、歴代の持つ中国や朝鮮の典籍が収蔵され、正祖と支持し合
う実学派の文官らが集められて教育され、彼らが文献研究や政策立案を行う場を早くか
ら作っていた。この奎章閣(キュジャンガク)の設置は、アジアにおける王立図書館に
相当する機関で李氏朝鮮の権威でもあった。歴代王・王室文書や各種記録、中国の文献
、朝鮮の古文書などを収蔵管理、修復などを行った。朝鮮の歴史的記録物の重要な所蔵
庫として機能している。そこには朝鮮におけるキリスト教誕生の嚆矢となった李承薫が
洗礼を受け、帰国して1784年キリスト教礼拝所を設立した天主教経典すら残されている
しかし1801年 辛酉邪獄(カトリック弾圧)が行われ。1804年 純祖の治世、安東金氏によ
る権勢政治は1811年洪景来の乱(地方差別に反発した一揆)まで起こす要因となった。
1816年イギリス軍艦が立ち寄り、バジル・ホールらが朝鮮航海記を相次いで出版したが
その著作によると、清に通商を迫るために中国に向かうイギリス全権大使アマーストら
外交団を軍艦ライラ号の艦長と北京に来たホールは、同行したアルセスト号とともに、
東シナ海海域の探検・調査のため朝鮮の西海岸と琉球王国に寄港した。那覇に40余日
間滞在した。言葉が通じず徹底した海禁政策で拒絶的応対を受けた朝鮮と違い、琉球で
は中国語のできる官吏の真栄平房昭を通事に得て交流を深め、琉球に対して非常に良い
印象を抱いた事が載っている。1862年 壬戌民乱が起こり1863年 哲宗崩御して高宗即位
したが、幼年の高宗の代理の大院君政権の成立した。欧州にも朝鮮事情が伝わると1866
年1月にロシア船現れ通商求めた。元々は興宣大院君はキリスト教に友好的で妻がキリ
スト教徒だったと言われるが、1861年のロシアの南下政策に対馬事件によって、ロシア
の通商要求に難色を示した。この後もキリスト教徒の興宣大院君に三国同盟(朝鮮、フ
ランス、イギリス)を申し入れたが計画は失敗し、興宣大院君にはキリスト教徒を擁護
している非難を受けた。非難を終息するために起こしたのが丙寅教獄で、この非難に3
月には朝鮮で布教に当たっていたベルヌー司教他9名のフランス宣教師、高宗の乳母(
朴マルタ)を含んで八千名におよぶ信者を虐殺した。当然フランス政府に抗議し10月に
フランス軍により江華島の一部占拠(丙寅教獄)という一連の事件が起こった。8月に
もアメリカの通商交渉に、ジェネラル・シャーマン号の強襲事件が起こっている。



189: 名無しさんAA:19/09/23 22:19
  歴史の群像     116

1868年 オッペルト事件(ドイツ商人による大院君恐喝未遂事件)は、ユダヤ人実業家の
エルンスト・ヤーコプ・オッペルトは1851年に香港で貿易業を始めていたた。しかし、
その会社が1867年に破産し、エルンストは当時厳しい鎖国政策を執り、西洋人にとって
閉ざされた市場だった朝鮮との交易に興味を抱いた。ある日スタニラス・フェロンとい
うフランスの宣教師と貿易のために開国するよう脅すべく、国王高宗の実父で摂政を務
め朝鮮の実質的な統治者であった興宣大院君の父親の遺骨を掘り出して、朝鮮より持ち
去る計画を立て実行した。アメリカ人フレデリック・H・B・ジェンキンスの資金と手を
借りて、1868年4月30日に出発し墓所にたどり着いて発掘を試みた。しかし 遺骸を覆う
巨大な切り石に阻まれて、目的を達することができず帰路したが、彼らは朝鮮の兵士と
戦うこととなり、一行は朝鮮から逃げ出す羽目となった。この事件は朝鮮人を激昂させ
、外国人との交易を更により遠ざけるもの原因となった。こうした事が重なり、1871年
辛未洋擾事件がおこる。1866年、朝鮮国で奇襲したジェネラル・シャーマン号事件によ
り、商船シャーマン号が沈没し乗組員全員が虐殺された事で、1867年 1月、アメリカは
シャーマン号の乗組員の安否を確認するために軍艦ワチュセットを派遣し、翌1868年 4
月には事件の究明のため軍艦シェナンドアを派遣し、1871年清に駐在していたアメリカ
公使のフレドリック・ローの指令で、シャーマン号事件への謝罪と通商を求めてアジア
艦隊に朝鮮派遣を命じた。4月には、アメリカのアジア艦隊司令官ジョン・ロジャーズ
は日本の長崎で落合って艦隊を編成し5月にロジャーズは旗艦コロラド、アラスカ、パ
ロス 、モノカシー 、ベニシアの5隻の艦隊を率いて江華島に向かった。この艦隊は、
1871年 6月10日、江華島の草芝鎮、次いで徳津鎮を襲撃し、激しい砲撃戦を経て、アジ
ア艦隊は米国の海兵隊を上陸させることに成功した。草芝鎮と徳津鎮占領後、さらには
6月11日には広城鎮を制圧した。この戦闘で朝鮮軍は240名以上の戦死者をだすこととな
った一方で、米軍は3名の戦死者を出した。朝鮮側の攻撃は、ほとんど米艦隊に損害を
与えることができなかったとされる。しかし自軍の不都合で何故か15名の死者を出した
。米軍の攻撃により朝鮮国軍は240名以上の戦死者を出すこととなった。この後米軍
は、朝鮮国軍の多数の武器・軍旗を戦利品にして、帰投。戦利品として米海軍士官学校
博物館にはこの時の「帥字旗」を飾っている。この戦いは米海軍の勝利ではあったが、
本来の目的である通商は、却って大院君の強硬な開国拒絶により実現せず、朝鮮国は引
き続き鎖国を続ける事になった。米国議会は戦死者も含む15名に名誉勲章を授与した。
写真家フェリーチェ・ベアトが撮影した写真は、朝鮮の風物を捉えた現存する最も初期
の写真となった。1872年 朝鮮大飢饉が発生し1873年 高宗が成人し親政を宣言、大院君
を退けて親日方針を出した。1875年、朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する
江華島は日本海軍が測量していた事にいらだち、突然日本の軍艦雲陽に向けて朝鮮が発
砲して、応酬合戦となった。この時すでに米軍占領後の事件だったが米軍は駐留はして
はいない事から米軍艦と間違えた砲撃だったのかもしれない。理由は特にわかっていな
い。しかし、日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれ
るこの事件は、日朝修好条規締結の契機ともなった。大院君のもとで攘夷を掲げる朝鮮
政府は、西洋化を進める明治政府を訝しみ、冊封体制下では中華王朝の皇帝にのみ許さ
れる称号「皇」と、中華皇帝の詔勅を意味する「勅」の文字を理由に国書の受け取りを
拒否し、日本はその後何度も国書を送ったが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否した。
大院君は、「日本人は何故蒸気船で来て、洋服を着ているのか。そのような行為は華夷
秩序を乱す行為である。」と非難し、交渉が暗礁に乗り上げ、日本国内では朝鮮出兵を
求めた征韓論争など出兵問題が政治問題化するようになった。

190: 名無しさんAA:19/09/24 01:26

額田は防衛長官までなったのに、こんなに甘っちょろいバカだったのか。日韓議連であ
ろうとも、本当の友好国ならば、今の文政権にちゃんと恫喝批判をすべきだろう。貴国
は条約違反で国際社会を棄損する行為をして人類を危険に晒している。目を覚まして、
国際社会をよく見よ。と行ったのか。世界を敵にして戦争でもするつもりか。と北朝鮮
と同じに国連制裁を求めることまで経済疲弊が訪れるぞと言ったのか。いいのか。と




191: 名無しさんAA:19/09/24 01:30
 そもそも、国や県あるいは市や町というものは行政とされる。しかしの市や町で、あ
るいは国が、組織としてバラバラでは困る。そこで国の中に最高権力機関として政府を
置き最高決定機関として議会を置いた。それが立法府とされる国策や憲法も論議される
機関である。この行政府を整える為に予算を講じ、その方針や国の形や基準を決めたの
である。そしてそれが国と国では条約となる。つまり条約は国が決めた法律と同じ物で
ある。そこで条約を批准するかどう履行するかが議会や政府で決定されたり予算をどう
使うかがが決まるのである。そしての遂行による法の下で違反がないか抜け穴に走って
いないかを問うのが司法なのである。つまりは今韓国が言う三権分立がどういうものか
知らないが、司法だから法律違反や条約違反してもいいというのは、もはや国の形態を
成していない。つまり近代国家あるいは過去の遺物の宗教国家の国体すらない姿であり
アマゾンにすらない野蛮な未開地人集落の集合体と言える。

192: 名無しさんAA:19/09/24 01:35
行政の市長、市民代理の陪審員制度
から出た立法、司法行使の保安官という姿があったのである

193: 名無しさんAA:19/09/24 01:36
行政の市長、市民代理の陪審員制度
から出た議会立法府、司法行使の保安官という姿があったのである

194: 名無しさんAA:19/09/24 01:36
西部劇時代であっても、行政の市長、市民代理の陪審員制度
から出た議会立法府、司法行使の保安官という姿があったのである。


195: 名無しさんAA:19/09/24 09:25
  歴史の群像     117

 ならず者の大院君は、見た目以上に繊細にかつ敏感に有力者に近づく努力をし、安東
金氏に対抗する豊壌趙氏の神貞王后の甥趙成夏(承侯君)と親交を結んだ。神貞王后に近
づき、謀議を重ね、命福(高宗の幼名)を王位継承者とすることとする合意を得た。それ
によって宮中の宦官や女官を包摂し、王族とのつながりを更に深くした。安東金氏とも
親交を結ぶ為に金炳学や金炳国らを通して、政敵安東金氏の中からも大院君を支持する
者も現れ様になっていった。憲宗が崩御した時には、王孫として王位継承者の候補者に
なった為、安東金氏の思惑により排除されていた。安東金氏が哲宗を即位させてからは
、安東金氏の勢道政治の基盤を強化で、王族を厳しく監視していたからだ。ならず者達
と関わり、妓生と昼夜遊んで、安東金氏の「宮道令」と卑称されても、監視から免れた
存在にまでなった。勢道家などを回り乞食などのように装って食事をとったり、使用人
を地位を甘んじて受けて生活していたのである。小説では唾を吐かれた時はちゃんと拭
き取って、大きく笑って、必要以上に食べて侮辱までも甘受していた、とある。大院君
は系譜上、王位継承に近くはなく、裏ではさまざまな交友を深め、王位に向けての布石
を打った。こうして1864年に哲宗が崩御する。神貞王后は早速命福を「翼成君」に封爵
し、院相鄭元容ら元老の意見を利用して王位につける。これによって「興宣大院君」に
封爵され、朝議では大院君の地位や政治参加に議論され、礼遇については、国王以上の
待遇を与えるかわりに、政治に口出しできないように議論された。最終的に地位は国王
の下になり、三政丞の上に設定され、礼遇は三政丞などが乗る、四人轎の乗車はしない
などの規制で、三政丞より下の設定を取ることで政治に参加することが許された。大院
君の出生はかなり痛ましく1820年ソウル地区安国洞で、父南延君と、母郡夫人驪興閔氏
の四男として生まれた。父は、英祖の子の荘献世子の三男・恩信君の養子となり。本系
は仁祖の8世孫。7代祖は麟坪大君、6代祖は福寧君、6代祖は義原君、高祖父は安興
君、曾祖父は李鎮翼、祖父が李秉源である皇帝一家の養子に行った父をもっていた。長
兄興寧君は8歳で死去し、母を12歳でなくすなど不遇な環境で、それでも父南延君から
漢学を学び、姻戚の縁で、金正喜の門下生となり学問を教わっている。13歳で、母と
12親等の驪興府大夫人閔氏と婚姻した。17歳で父を亡くし、長男完興君、次男高宗
などが早くから生まれた。また妾が二人いた。こうして王室宮家の末座に据えられたが
神貞王后が垂簾聴政を行うので、それを補佐するという名目で摂政まで登る。実際には
神貞王后が大院君に大権を委任していた形だったので大きな権力を握って行った。早速
摂政の座に着くと、勢道家一門の官職追放、老論派一党独裁を終わらせ、各党派の人材
を均等に登用し、王権維持のために王族を主要な官職に抜擢し、李朝の五百年の規則を
破って庶子を科挙に応試させ要職につけるなどして、専制王権を強化しようとした。と
はいえ勢道家や権門家である名門両班の支持や推薦あっての大院君だったので、一部の
権門勢家の勢力を残したままだった。しかし自らに包摂することで、大権を保持した。
大院君は儒教政策を推し進め、勢道政治を終わらせ、党派と身分の貴賎を問わず、能力
に応じて人材を登用する。人事行政を行い、専横による腐敗や堕落した王朝をもう一度
再建しようと努めていたが、国外対策については鎖国政策を採ることで、従来の政策を
推し進めていた。公文書には王の教書と記さず「大院位分付」と記した。さらに華陽の
洞書院の権限を取り上げた。華陽洞書院は朝鮮大書院の一つであり、横暴や不正が強く
支配し、大院君の摂政前に、華陽洞書院の儒生に殴られたことで改革を指令していた。
すぐさまこの命令は実行され、華陽洞書院は後に廃止させられた。


196: 名無しさんAA:19/09/24 09:27
  歴史の群像     118

 1875年に起きた江華島事件では、日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)の
きっかけを作った。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、突然の威嚇砲を受け
て、江華島、永宗島砲台と交戦した日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件であるが、
日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれるこの事件の
頃は、日本政府も度重なる親書の受け取り拒否で、征韓論争が日本の明治六年政変によ
って「延期」で模様眺めしようと決まった矢先の頃だった。その後の台湾出兵の発生と
大院君失脚の報によって征韓論の勢いが弱まったために、明治政府は政府間交渉をして
相手の状況をみることとした。1875年(明治8年)にこの暴挙に、釜山に於いて、東莱
府と森山茂理事官との間で初めての政府間交渉が持たれた。しかし、宴饗の儀における
日本大使の大礼服着用(服制問題)と、同大使が宴饗大庁門を通過することについて、
東莱府が承認しないなど、難癖がつき紛糾し、さらに朝鮮政府の中央での大院君の支持
者が交渉中止を求めた報告で議論が紛糾し、東莱府も確実な回答を日本側に伝えること
が不可能となった。この打開策に「雲揚」「第二丁卯」の2隻の軍艦を極秘裏に派遣さ
れ、5月25日に雲揚、6月12日に第二丁卯が釜山草梁へと入港した。朝鮮側は突然軍艦の
来航で懸念を表明し、日本側は「交渉の停滞を懸念して自分(森山)を督促するために
派遣された。」と説明した。さらに軍艦への乗船視察を求めた朝鮮側官吏の歓迎式典や
事前通達をした上での訓練を名目に、空砲による砲撃・射撃演習などの威圧行為を行っ
た。これらの行動は朝鮮側官吏や釜山周辺の住民を大いに恐れさせたが、交渉の進展に
は全く寄与することは無く、大院君の鎖国の決意は固く、交渉官が降りることはなく、
日朝交渉は森山たちの帰国という形で一旦打ち切られた。日本政府はこの事件に関して
はしばらく静観の構えを取った。一方朝鮮国内では日本船を攻撃したという噂が流れ、
釜山草梁で日本人に接する朝鮮側の人々は大いに不安に駆られていた。朝鮮政府は事件
後、釜山草梁における日本人への対応を一転して丁重なものに変えて、日本側を慰撫す
る動きに変わった。事件後の1876年(明治9年)、黒田清隆を特命全権大使の交渉団が
江華府へと派遣されると、朝鮮政府はすっかり変わり、開化派の司訳院堂上官呉慶錫を
交渉に先立つ応接の使者に派遣する。そうして日本側に多大な配慮を示す対応を見せた
。韓国側は「事件は日本船を西洋船だと誤認したことによって発生した不幸な事故であ
ることは明白である。日本船と認識していたのなら攻撃などするはずが無い。」といい
日本政府は「事前に日本国旗を渡して誤認を避けるように忠告していたのに事件が発生
したのは朝鮮側の怠慢ではないか。黄色い旗を掲げていたという報告は受け入れがたい
。雲揚が日章旗(事件発生時は一旒、被攻撃後に三旒まで増やす)を揚げていたことは
間違い無く、そもそも条約交渉が滞っていたこと(書契問題)は、事件と同程度に重大
な問題である。としたのである。


197: 名無しさんAA:19/09/24 09:32
韓国側は「事件は日本船を西洋船だと誤認したことによって発生した不幸な事故であ
ることは明白である。日本船と認識していたのなら攻撃などするはずが無い。」といい
日本政府は「事前に日本国旗を渡して誤認を避けるように忠告していたのに事件が発生
したのは朝鮮側の怠慢ではないか。黄色い旗を掲げていたという報告は受け入れがたい
。雲揚が日章旗(事件発生時は一旒、被攻撃後に三旒まで増やす)を揚げていたことは
間違い無く、そもそも条約交渉が滞っていたこと(書契問題)は、事件と同程度に重大
な問題である。としたのである。ところが、韓国側は日本の開国時の騒動ほどには全く
鎖国政策の続行や解放も全く気にしていなかった。というのも鎖国続行や開国政策にも
大国中国が決めることで、属国人の我々は関係ない。との認識や態度を合議していたか
らだ。




198: 名無しさんAA:19/09/24 09:33
  歴史の群像     119


 これまで、大院君は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主
張することは売国行為である。」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建て、攘夷の機運を高
めて開国派排除を行っていたが、日本は朝鮮との交渉を有利にするため、朝鮮の宗主国
である清朝と対等の条約を進めて、1871年に日清修好条規を締結した。これにより冊封
体制の維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮に修交を促していた。1873年には対外強硬
派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握った。それでも日朝関係は容易には好転
しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵で勝機を得て、
この時、次に日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や
朴珪寿を中心に日本からの国書を受理すべしという声が高まった。結果李・朴は対馬藩
のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊を意味するに過ぎず朝鮮に対して
唱えているのではない。受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張す
るに至り、江華島に全権大使黒田清隆と副使井上馨が渡航し、朝鮮からは簡判中枢府の
事申穂と副総管尹滋承が出席し交渉する。釜山における国交交渉が数年間継続しても、
挫折し続けてきたことに焦れた日本側は、突然条約締結を持ち出した形となったが、こ
れはペリーの江戸湾黒船来航の前例に倣って、ソウルに近距離な江華島で威迫交渉する
ことを決め、一挙に積年の懸案を解決しようと図ったのだとされる。その為に朝鮮との
交渉に際しては、事前に日本側はペリーの『日本遠征記』を深く研究し、交渉姿勢から
後に締結する条約に至るまで模倣した。と言われている。日朝間交渉の修正項目は、両
国の国名をどう記載するか、相手国に赴く使臣の交渉相手とその資格・往復回数、開港
場所とその数、最恵国待遇などであった。朝鮮側の修正要求は冊封国としての体面的な
ものが多く、後々問題となる領事裁判権は一切問題としなかった。数ヶ月後に結ばれた
条規附録や貿易規則で定められた関税自主権の放棄なども円滑に承認された。条約批准
の段階に至っても、朝鮮側の関心事は体面的なもので批准の際の、朝鮮国王の署名を要
しないことを日本側に求めた。結局、この問題は「朝鮮国主上之宝」という玉璽を新鋳
して押下批准することになった。そして、 2月27日(朝鮮旧暦2月3日)に江華府練武堂
で条約を締結及び批准した。条文は漢文と日本語で書かれ、両国の外交文書は日本語と
朝鮮真文(漢文)で書くこととし、日本側の文書には、先10年間は日本語に漢文を併記
する事とし両国の国名はそれぞれ「大日本国」、「大朝鮮国」と表記することとした。
第一款 朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。 第二款 
日朝両国が相互にその首都に公使を駐在させること。を謳ったが、ここで後で問題にな
ったは第一款であり、日本は朝鮮を国際法に於ける独立国に措定しようとした。「自主
の国」=「独立国」という解釈である。国際的な独立国を措定することで清朝が朝鮮に
介入する余地を無くす試みをした。朝鮮側ではそのようには解釈していなかった。冊封
体制下では「属国」=「自主のない国」の認識はなく矛盾しなかった。というより属国
か独立国か、という二項対立的な枠組みそのものは、西洋から来た近代の所産であった
。第四款 すでに日本公館が存在する釜山以外に2港を選び開港すること。第五款 土地
を貸借し家屋を造営しあるいは所在する朝鮮人の家屋を賃借することも各人の自由に任
せること。第五款 開港地において日本人は朝鮮人に賃金を支払うことにより雇用する
ことができる。朝鮮政府の許可あれば、来日することも問題なしとする。第六款 開港
地での米や雑穀の輸出入を認める。第七款 航海者が自由に沿岸を測量し、位置や深度
を明らかにして地図編纂して両国客船の安全な航海を可能とする。第八款 指定された
開港場以外において密貿易を行い、その地の官僚に摘発された時は、日本の管理官に引
き渡し、日本側は没収した金品を全て朝鮮側に交付すべし。第九款 通商については、
自由貿易を行う。両国の官吏は少しも貿易の制限・禁止してはならない。第十款 日本
人が開港にて罪を犯した場合は日本の官吏が裁判を行う。朝鮮人が罪を犯した場合は、
朝鮮官吏が裁判を行う。双方は、その国法をもって裁判を行い、すこしも加減をするこ
となく努めて公平に裁判すること。などを定めた。

199: 名無しさんAA:19/09/24 09:33
  歴史の群像     120

 日本が最初に締結した日米和親条約や日米修好通商条約はその後に結ばれた西欧列強
と締結した諸条約のモデルとなっている。強いて類別すれば、条規そのものが日米和親
条約にあたり、付録及び貿易規則・公文は日米修好通商条約に該当する。しかし同様の
性格を有しながら、いくつか相違点もある。朝鮮を「自主の国」とわざわざ言明してい
る点は、この条約の特殊な点である。西欧列強の対日条約のいずれにも、これに類似す
る項目は無い。また最恵国待遇がないことも特徴の一つである。駐日イギリス公使の、
パークスは、日本の朝鮮への要求が日本に対する欧米側の要求よりも上まわっているこ
とについて、非常に注目していた。以下に違いを列挙すると、・朝鮮側の雇用が前提と
はいえ、日本の商船が開港地以外での沿岸貿易が許される余地がある。当時日本自身が
欧米列強から強く要求されていたものであった。・開港地に外国人の遊歩区域を設けて
いる点は同様であるしかし、日朝修好条規では外国人の商業行為をも認めている。安政
の五ヶ国条約では、治外法権を犠牲にしてでも外国人の商業行為を阻止した。それによ
り日本が国内の産業育成の時間的猶予を得られた。しかし日朝修好条規では、そうした
暇を朝鮮に与えることは無かった。同じく開港場にて日本の貨幣使用が認められている
点も西欧の対日条約と同じであるが、それらは銅貨の輸出は認められていない。しかし
この日朝修好条規では認められ、その海外流出を促した。・港税の価格が、日本と欧米
間の取り決めでは港税は22ドル(入港料15ドル+出港料7ドル)であったのに対し、日朝
間では蒸気船など大きな船舶については5円、それ以下の規模の船は積載量により2円と
1円50銭とされた。明治のこの時期の為替レートは1円=1ドルほどであったので、港税は
1/4程度の廉価に抑えられている。 貿易・海外進出に関し先行する日本にとっては有利
な条件となっている。米穀や豆など穀類の輸出の自由や、朝鮮人の地主と直接交渉して
土地貸借ができること。など以上から日朝修好条規は、日本が欧米と結んだ諸条約と比
較してより過酷な内容を持ったものになっている、ともいえる。「朝鮮が清朝の冊封か
ら独立した国家主権を有する独立国であること」を明記した変わったものだったが、日
本が置かれた不平等な「片務的領事裁判権の設定」や「関税自主権の喪失」などといっ
た不平等条約的条項の内容とすることなどがなかった。という特徴がある。朝鮮側には
多少不利な内容となっているが、それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮
が開国する契機となった条約で、日本よりはかなりいい条件であった。その後、朝鮮は
似たような内容の条約を他の西洋諸国(アメリカ合衆国、イギリス、帝政ドイツ、帝政
ロシア、フランス)とも同様の条約を締結することとなった。朝鮮側の認識では、日朝
修好条規の締結は江戸時代における冊封体制下における交隣関係復活であると捉えてい
たようだ。決して、近代的な国際関係の中の自国が置かれた立場、などと認識や考えて
方はしていなかった。したがって両国が公使を相互に常駐させる必要性を認めることは
なかった。むしろ朝鮮通信使のように、慶弔といった事柄に対し随時使節を送れば良い
と主張し、そして首都に常駐することに非常な懸念を表明した。日朝間で激しいやりと
りがあり、弁理公使花房義質が日朝間を頻繁に往来し、1880年12月には漢城に公使館を
設置することで長期滞在を既成事実化していた。これで朝鮮側も黙認せざるを得なくな
った。そして同年には、朝鮮側も東京に公使館を設置している。


200: 名無しさんAA:19/09/24 09:33
  歴史の群像     121

 しかし、ここで注目なのは、李承薫が洗礼を受け、天主教経典の多くを持ち帰って来
て、帰国してキリスト教礼拝所を設立しのは1784年である。そしてこの海外との条約と
して最初の日朝修好条規が成立したのは1880年で、なんとほぼ百年かかっても尚属国の
地位がよい鎖国政策が良いとしたことである。日本の江戸幕府第!5代将軍徳川慶喜が
政権返上した大政奉還は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)で明治天皇へ奏上し翌日
に天皇が奏上を勅許したのだが、日本より早く開国に向かっていたことである。さらに
明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出された憲法発布に至っては、1889年(明治
22年)である。日本の方がはるかに遅かった道のりである。こうした遅れた開国ともに
大日本帝国憲法が発布されて、国民に公表され、この憲法は天皇が黒田清隆首相に手渡
すという欽定憲法祭典の儀式が行われた。しかし、それでも日本の国民は新聞紙上で、
福澤諭吉などは、『時事新報』紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚
き好意を持って受け止めつつも、「そもそも西洋諸国に行はるる国会の起源、または、
その沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭
ひ、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは、内
治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したる事
なれども、今の日本にはかかる人民あることなし。」と批判し、人民の精神の自立を伴
わない憲法発布や政治参加には不安を抱いている。又、中江兆民も同じに、「我々に授
けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずしては、
まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや。」と書生の
幸徳秋水に溜息をついている。つまり福沢諭吉は、内治外交がうまくいかずに発布して
も民衆の議論から成ったわけでなく心配だ。といい中江兆民は、中身も知らず憲法が出
来たとお祭り騒ぎをするのは愚の骨頂である。とためいきをついた。とされる。またこ
の時フランスの人権法であるボアソナード民法は、帝国憲法と同時に一旦公布はされた
ものの、井上馨の転回や山田の政策と相まって民法典論争が生じ、施行されず廃止され
た。朝鮮国内では、冊封体制下で「属国」=「自主のない国」の認識もなく属国をよし
として大院君の「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張する
ことは売国行為である。」という旨の法の中で定まっていたのだ。この事は日本人には
まったく信じられない政治と環境である。国内で治安が乱れ、外国船に散々敗れても尚
属国としての生き方を選んだのだ。国情や仕組みはあろうが国民も西洋列強を目のあた
りしながらもそうだったのだ。更に日本が驚いたのは識字率が2割に留まり、日本のよ
うな私塾も学校も極めて少なく、農村に至っては言語さえも違っていた事だ。又遣唐使
の時代にはあったろう国璽の印や皇帝の印すらなく、すべての行政には中国の意向を聞
く行事が行われて国を動かしていた事であった。政治が正に祭りごとで、日本でいえば
宴会の式典であり神主にあたる式亊省の両班の取り決めに従うのである。両班というの
は文班と武班を総称した言葉で、彼らは農・工・商に従事せず、儒学だけ勉強して科挙
を経て何の制限もなく高級官職にも昇進する特権を持った。そして、官僚になれば土地
と禄俸を国家から受けて、地主階級を形成した。両班の中で李氏朝鮮の建国以来、続出
した各種の功臣達と高級官僚達は、様々の名目で支給された広大な土地を世襲・私有し
、徐々大地主になった。この経済的な基盤を土台にして、権門勢家の門閥を成した両班
も生じて、同じ両班でも文官は武官より優位を占めていたから、一般的な要職は勿論、
軍事要職までも文官が長官になれば、武官をその下に置いた。又彼らの下位の身分層に
、吏胥・駅吏・軍校などが在り、末端の行政・警察事務を担当し、直接平民たちを支配
する実権を握った。その為普通に生活は一般的にとても悲惨だった社会は、様々な波紋
を投げかけていた。



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