川中島周辺に住むスレ


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川中島周辺に住むスレ

1: とある金持ち:11/06/18 15:47 ID:HU
川中島周辺に住む中高生のスレ。

167: 名無しさんAA:19/09/19 08:03

  新経済論               67

 「発行銀行券=日銀券=紙幣」も「当座預金」も日銀の「負債」となる。この負債を
支えているのが国民の返済する力である。農民も漁民も商店でも、実はこれが肝要であ
って、企業であることや個人であることは全く関係なく、人々が生まれた時から地球に
も人の生活にも負担であり負債である。しかし、それを人は克服する知恵や力や技術や
社会法則を作りお祝いとまでしてきた。つまり食糧を育てて収穫したり、漁をしたり、
生きる知恵をもって、負担はしても余剰をつくり喜びとしたのである。国家はそれを進
め法をもってその増進に努め今に至った人口増加をなし経ている。その意味では国家が
どう負債しようが窮地に落ちようが国民が負担がないのであれば、全く関係ないところ
だ。これが現代のMMCの理論で他国の干渉のできない中では自転車操業でも、敢えて
負担とはならない。この様に国家のバランスシートと日銀と金融機関とでは明解にわか
る。日銀は政府の機関でありほとんど負債に頼っていても、国家財政さえ充分であれば
あるいは予算編成さえ健全であれば、どんな形態でも関係ないのである。日本には米国
の民間の嘱託である中央銀行と中国の管理された共産党中央銀行の二つの景色を見れる
。発行銀行券が日銀の「負債」でも信用がある限り中国のようにはならないし、米国の
ように常に市場を気にして利上げや利下げで調整する民間利益をだす必要性も又ない。
とはいえ、銀行券に対して日銀が利子を支払うことはない事は利点でもあり欠点でもあ
る。当座預金は、一般銀行では小切手や手形などの決済専用の口座で、民間金融機関に
おいては無利子である。これは法令で定められている。しかし、日銀の当座預金に関し
ては、民間金融機関は利子を受け取っている。この本来は不合理な話がリーマンショッ
クで資金供給円滑化措置で日銀は導入し、今だに切れてない。「準備預金制度」は「受
け入れ預金の一定比率の日本銀行に預け入れる制度」だがこれも義務づけられたままで
金融機関は必ずいくらかの金額を日銀に預けておかなければならない。しかし補完当座
預金制度で日銀は、法定準備預金額を上回って預けてられている金額=超過準備金に対
して利子をつける。普通の民間企業の金融機関への当座預金は無利子である。この保有
が会社の信用調査の大きな部分を占める。金融機関の日銀への当座預金は利子が付いて
いる。


168: 名無しさんAA:19/09/19 08:03
の意味で金融機関の甘い経営が加速され民間すなわち市中への投資は、
急に減速され貸し剥がしが起こっている。元まで無くなるリスクの企業より政府に利子
がつけば誰でももう貸さないで政府に預けるというのは当然の選択だ。そこで日銀は「
マイナス金利政策」を実施して話題になったが日銀当座預金は4百兆程度で、マイナス
金利が適用になるのはごく一部で、ほとんどの部分にプラスの金利で、金融機関は日銀
金利をもらう状況に変わりはない。この「当座預金」は「銀行発行券」の代替で、「銀
行発行券」は日銀にとって負債ではあっても無利子・無償還で実質的な借金ではない。
、返す必要のないお金だ。つまり日銀のバランスシートにおいて、「負債金額」は実質
ほとんど日銀の「資産」と読める。しかし、国債分の約474兆円の貸付が日本の未来
へ投資であるか、と言えばまったく負債のまま、つまり現状維持の為の資金となると、
まったく違ってくる。国の財務状況は心配するレベルではない。バランスシート上も、
日銀の資産474兆円が、ほぼそのまま政府の「資産」に加わると 政府の資産・負債差額
はマイナス568兆円からマイナス94兆円まで下がる。問題はこの94兆円の部分である。
消費税の引き上げが来月に迫った。政府は「国債返済のために増税が必要だ」と説明し
「国債発行額が増えれば増税につながる」というウソを補完した形で説明する。問題の
国内事情と自分たちの浪費癖の国家予算を差し置いての話である。これが最重要課題だ
。ベトナムに行けば今や洪水の大被害で大変だろうと思いきや、氾濫した河川からの魚
の漁で賑わっている。農民の声は「これでやっと少し暮らしが楽になる。」だった。そ
うした自然現象がベトナム戦争に勝った要因でもあり、これまでの暮らしだったのだ。
確かに国際競争力や工業化も大事だが、それは国民生活に付与したものでなくてはなら
ない。今の農協のように野放図に薬と肥料と機械化では健康被害があるし、国策の水の
管理や水質検査も全くなされていない事は江戸時代よりわるい。まったく政府の馬鹿の
事業で日本の多くの木々は放置され、必要な大木が切られ東京をまねた街づくりで家庭
はほとんどが崩壊した核家族で、伝統も文化もあるいは教育も歴史もつづられない。

169: 名無しさんAA:19/09/19 09:11
 小猫のそら   36

 イエメンから出撃したとのフーシ派の主張に疑問が投げ掛けられる中、サウジの石油
施設の打撃が北西方面であることを根拠に、アメリカ側には、イランが出撃地点だった
との主張した。イランの明確な関与を立証できれば、非対称戦争という相手の土俵では
なく、同盟国による攻撃を理由に、アメリカは通常戦力による報復も可能となる。サウ
ジ攻撃となれば、アメリカはイラン攻撃の大義名分を持つ。つまりは米国の死の商人が
暗躍の活躍する場所が提供されることになるのだが。CNNTvは、アメリカとサウジ
の捜査当局がイラク国境に近いイランの基地からドローンや巡行ミサイルが発射された
可能性が極めて高いと結論付けたと伝えた。世界最強軍隊の第5艦隊は駐留し中東地域
に基地を持ち展開している。これに対して執拗にイランはすでに非対称戦争で迎え撃っ
ている事実がある。日本の派遣した一連のタンカー攻撃事件もイランが関与した。とい
ったが攻撃により、イランが警告するホルムズ海峡の封鎖が、米国の希望であり現実的
な脅威でもある。こうしたサウジの石油施設への攻撃は、サウジにとっては迷惑な話の
ようだ。本来高くなった原油価格にウハウハのはずだが、すぐに修理でき数週間で復活
すると声明を出し原油価格の下げ圧力がかかった。あわててポンペオ氏が訪問している
所を見ると、ツイッターで解任されたジョン・ボルトン大統領補佐官よりかなりやばい
対イラン強硬派のようだ。サウジはもしこのまま戦闘態勢にはいればムハンマド皇太子
は持たないほど国内不満が持ち上がっている。又もしアメリカ言うようにイランからの
飛行ではレーダー網を潜り抜けた可能性が高い、わざわざ飛行経路を迂回させたとは、
考えられないからだ。アメリカのレーダーミサイル防衛網の導入など数兆円の軍事費を
費やすサウジの軍事装備をもってしても、1機1万数千ドルの安価なドローン攻撃を防
げず、世界経済を左右する原油相場を人質に取ることが容易にできると証明された。軍
専門家は、「アメリカもレーザーなどを使った無人機迎撃システムをようやく発表して
いる段階で、ドローン攻撃から石油施設を守る技術は存在しない。」と明快に話してい
る。それはその小ささからだ。石油業界関係者は、「石油施設への攻撃で無人機の脅威
の大きさが示された形で、原油相場はリスクを織り込んでいくだろう。原油相場が高止
まりしかねない」と指摘した。闇の商人の思う壺だろうが、イランとしても、アメリカ
やサウジとの直接対決は避ける方向にある。ここで国連事務総長の解明に派遣する声明
で一気に株は上がり原油は下がった。面目躍如であるが、当の米国は金利引き下げまで
発表している。不思議な事だ。トランプ大統領は臨戦態勢」としながらも、「戦争は望
んでいない」と表明している。対するフーシ派や革命防衛軍も不思議な動きがある。一
時イエメン政府はフーシ派によって奪還され、正規兵士は捕虜になった。しかしなぜか
又政府軍の空爆が始まりハディ大統領派(イスラム教スンニ派)が盛り返したのだ。航空
兵器つまり戦闘機は武装勢力のフーシ派(イスラム教シーア派)にはない。さらに無人機
攻撃力も実はもってなく、イランの革命防衛隊の供給である。もともと農業国で食糧す
らまままらない国あるのは、まだ掘削されない石油資源ぐらいである。つまり、ここが
採掘されれば危険なホルムズ海峡を通らずに済むのである。つまりサウジは自国の戦争
は望まないがイエメンの紛争はそのままがいい。と思っている。となるとこの攻撃は、
イランも革命防衛隊も望んでいない。残るはサウジに武器を売るイスラエルかアメリカ
かしか残らない。つまり石油資本はどうしても高値維持をしたいということで執拗に、
中東の戦争を願っていることになる。その意味では石油メジャーにイランもサウジも嫌
われたのかも知れない。しかしここで中国が不必要な犯人指摘は証拠が出てから言えと
声明をだしている。この地域にはアラビアのアルカイダも残存している。迷路の中東だ


170: 名無しさんAA:19/09/19 09:54

 今度のサウジの石油施設の打撃が使われたのがアメリカ製であったと言われたのだ。
たいがいの国には認識符号があって、日本ではカタカナ表記だったり韓国では韓国数字
記号だったりする。今度の破片はガス圧力によって大方の破片が残っているその本体の
記号がMC符号が打ってあった事が認められたようだ。MCとはミサイル識別で地対空
を意味するのだそうだ。どこで拾って来たんだか、パトリオットの小型の様なものだっ
た。これはイランと言うよりはイラク軍が作ったのではないだろうか。と一人思うので
ある。イラク軍にいるモサドと考えれば立派な要因がある。一つはネタニヤフ政権の問
題で選挙中であること。更に米軍支援でイラクが建て直されている事シリア戦争が間も
なく終わろうとしてる事、雇用兵に失業がくるその点サウジはお金持ちの国で、沢山の
王子がいる。小さな支援があれば、政権転覆を図る事も可能でありパトロンがいても、
不思議ではない。つまりはサウジの内紛の可能性も高い。



171: 名無しさんAA:19/09/19 10:51
 歴史の群像     99

 明治憲法での、内閣については規定はなく、天皇の輔弼機関(55条)と規定された
のみで、その他に位置付ける文言はない。行政機能としては枢密院が存在し、枢密院と
内閣の政策が対立する場合も多々あって、一体性は損なわれても変化がなかった。既に
国際化を果たしていた第1次若槻内閣で、1927年(昭和2年)に台湾銀行救済のための
緊急勅令案を枢密院で指令したが、19対11で否決し内閣を総辞職に追い込んだ例がある
ほど、天皇の絶対性は年々薄れていって有名無実となっていた。統帥権に関しても、例
えば1930年(昭和5年)、浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約の批准問題では多く
の政令反発がある。この時、条約批准を目指す政府、つまり浜口民政党政権があったが
、枢密院・軍部・鳩山一郎らを中心とする野党政友会、などが対立して、内閣が軍部の
意向に反して軍縮を断行するのは「統帥権干犯」との非難が浴びせられた。加藤寛治は
軍令部長であり帷幄上奏まで行われ、枢密院でも反浜口内閣の動きが大いに顕在化して
多くの混乱が走った。しかし、このときは浜口首相の奮闘によって、枢密院側は折れて
浜口内閣は条約批准をやっと達成した。こうしたことで内閣総理大臣と言えど各大臣は
ほぼ対等であった現実がある。つまり平安時代の右大臣左大臣と同じに天皇の相談役で
内閣運営をしている形だったので、知行制をしていた江戸時代の若年寄の上に月番老中
を置き、担当大名に、幕府の間を事前に調整指導して取り持つ取次老中に、将軍の命令
を老中奉書で大名に下達した形式より悪かった。諸大名の統治も職務とした将軍下達は
一人の老中首座しか出来ずその任命によって将軍の座があったからだ。明治後権力基盤
になった内閣制度では、議院内閣制の制度的保障はなく、もし老中首座を総理大臣とし
ても、月番老中7人は議員の役職であって、その若年寄は実務官僚である。しかし明治
期では、各国務大臣は単独で平等に天皇を輔弼し、内閣は内閣総理大臣を首班としても
、各省の長官である担当大臣によって構成されて各国務大臣が、直接天皇に会って助言
し輔弼する事ができたのだった。更に内閣官制で、総理大臣の地位・権限は抑えらて、
戦前では海軍大臣や陸軍大臣が総理大臣より力があったのである。というのも総理大臣
は閣僚の罷免もできない上に任命の拒否権が陸軍海軍双方にあったからだ。例えば、岸
信介は、1941年10月に発足した東條英機内閣で商工大臣として入閣したが。その後に、
太平洋戦争の戦況悪化に伴い「反東條」に転じた為東條は辞任要求した。しかし、この
辞任要求を拒み、44年 7月には閣内不統一で東條内閣を総辞職に追い込んだ。こうした
事が頻繁に行われて日本の国家としての統一性や国家方針の継続性が削がれていった。
又、内閣組織では総理大臣の候補に組閣の大命が降りて、首相が国務大臣を選任するが
天皇が任命した。つまり首相の選出は専ら元老の手に握られ、最後の元老西園寺公望な
どの重臣が、代わってその権能を行使し強い否定権を持っていた。総理大臣には、国会
議員である必要は全く無く、政党の威信や発言権が大きく支配した。日清戦争期に政党
が提携や妥協で議会運営をし、それ以降政党との調整は不可分となり、政党員の入閣が
常態化した。1924年(大正13)の護憲三派内閣成立で、1932年(昭和7)の5・15事件に
よって犬養内閣が総辞職すると、政党内閣が、この「憲政の常道」として成立したので
ある。


172: 名無しさんAA:19/09/19 11:24
 歴史の群像     100

こうして、衆議院第1党の政党総裁が首相に推薦され、組閣する慣行が現われた悪習を
断つ為に現役武官制を置いた。1900年(明治33)、軍部大臣現役武官制の規定が制定さ
れると、内閣を構成する陸・海軍大臣の選出はそれぞれ陸海軍の推薦を規定し、逆に、
1912年(大正1)の第2次西園寺内閣の末期は、陸軍は大臣を推薦しないことによって
内閣が組閣できず、政権の死命を制することができるようになり、軍部は強くなった。
今近の現代史では「日本軍、特に陸軍は無謀な戦争に走った」という見方が定着してい
るが、実は、そうでなく日本の国内政治形態が、世界の戦争期に完成し、内閣の組閣を
軍部に任せた形になってしまった事が大きな主因だった。この時まで赤紙つまり徴兵制
がなかったのに、日本の戦争で勝つ事を職務とする兵士に国家運営のほぼ全権を簡単に
乗っ取られたのだ。天皇に統帥権を持たせたものの、大正天皇にその政治的制度の改革
は不可能に近い。明治天皇すら明治期の議会成立による「擬似の議会制民主主義(憲政
の常道)」を維新政治家と共に作ることしか出来なかったぐらいである。この大政翼賛
会的行為をいまや自民党は繰り返し、政党補助金まで出す始末でバカをして議会が国民
の代弁者とはならないでいる。この悲惨な現状でもいまだ自民党を担ぎ上げる。ほかの
政党が、例えば「やらずぼったくり」とした民主党さえもこの政党給付をやめなかった
し、政権交代も野田総理のように思いつき答弁で事を起こしている。江戸時代では宿老
とする連中が談判した。当初、老中は年寄衆と呼ばれていたということで、旗本の間で
は年寄衆という呼称で定着した。重要な事柄を合議・処理する為当番制の老中も置いた
、諸大名の統治も職務としており将軍の命令を老中奉書で大名に下達した。これが将軍
の命令を老中奉書で大名に下達した文書となっており、藩の御取り潰し文書も下達にな
っている。担当大名と幕府の間を事前に調整や指導して取り持つ取次の老中と呼ばれる
立場のものもいた。戦時中は総力戦研究所は研究所などと銘打った研究所はおおくあっ
たが、まだまだ各省庁、大手民間企業のエリートを教育・訓練するのが主目的で電算機
すらない時代で、専門家を寄せ集めするのが精一杯で、提言するほどの資料の蓄積は、
なかった。しかし、陸軍省の専門研究班では、このエリートとは言え、素人にすぎない
若手集団の研究をはるかに超えた視野と戦略で、日本を支え日米英戦を考えていた。と
いわれた。ただし、戦闘は油田を持つ英国を主敵とし、米国とは極力戦わないという点
は総力戦研究所の結論と全く同じだった。しかし実際、陸軍省の研究班の通りに戦争し
ていて指令通りに戦ったとしても、又勝っていたとしても、この戦後がどうなったかは
わからない。もっと大きな核戦争の時代が幕開けた可能性も高い。米国では、陸軍省の
計算がそれほど間違っていないという見方もある。「太平洋戦争」は無謀な戦争だった
のかでは、なぜ日本は敗戦したのかが如実語られる。陸軍省研究班の通りに戦争を進め
なかったからである。真珠湾攻撃をして米国を怒らせてしまった山本五十六連合艦隊司
令長官の『暴走』が招いた敗戦だ、と本書は指摘している。「勝てる戦略」を準備して
、開戦に臨んだという陸軍は「陸軍省戦争経済研究班」のもと日米欧の経済力と軍事力
を徹底的に調査、研究し合理的判断をした。というのである。「昭和16年夏の敗戦」の
続編「空気と戦争」を読み解けば、猪瀬氏の見解がわかる。「無謀な戦争突入」という
史観は、自虐史観同様作られたものだ。左翼・リベラル系の学者やメディアによっての
み出されているのではなく、保守層の間でも幅広く定着している。その大きな要因の1
つに、猪瀬直樹氏などの出版物の影響である。特に山本五十六は「日米開戦反対を最後
まで主張していた。開戦と決まって仕方なく真珠湾攻撃をめざした」という、好意的な
意見は多く私もその一人であるが、しかし、とは言っても彼が敗戦の要因を作った事は
同意する。あれだけの戦艦や兵員をもって日本海軍を徐々に作り上げた日本を灰塵にし
た責任は時の上層部にあるし、最初の志のように多くのレーダーや起爆装置飛行機など
もっと研究させていれば民間では米国を勝った研究も多々あったのに軍の精神論にはま
りストップさせたのだ。仕方ない時代だったかもしれないが、ハワイ奇襲や進んで出て
戦闘する。という天邪鬼的ものは、帝国軍部の反発のみでは済まされない。


173: 名無しさんAA:19/09/19 14:08
 歴史の群像     101

 なぜ米国民を怒らせる真珠湾攻撃を強行したのか。実は陸軍省研究班の対英米戦略の
腹案(アイデア)では、陸軍参謀本部と海軍軍令部の間で基本的には了承されている。
昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議で正式に決定されていたのである。しかしその
方針では、「極東における米英蘭の根拠地を覆滅して自存自衛を確立するとともに、更
に積極的措置により蒋(介石)政権の屈服を促進し、独伊と提携して先づ英の屈服を図
り、米の継戦意思を喪失せしむるに勉む」事になっている。米国に対してはどう臨むの
かに腹案はこう書いている。「日独伊は協力し対英措置と並行して米の戦意を喪失せし
むるに勉め。対米宣伝謀略を強化し、其の重点項目を、米海軍主力の極東への誘致並び
に米極東政策の反省と日米戦無意義指摘に置く」としている、米国輿論の厭戦誘致に導
く事を目標としていたのである。しかし歴史的には、日本の軍部は、ルーズベルト大統
領がチャーチルの要請に応えて第二次大戦に参戦したがっていたし、逆に米国民の多く
が第二次大戦への参加を拒んでいることを良く知っていた。だから、米輿論の厭戦気分
を高め、戦意を喪失することが得策と考えていた事は理にかなった戦略でもあったのだ
。日本に工作員や諜報員が多かったように、アメリカにも多くの工作員も諜報員も多く
存在していたのだ。しかし、ドイツでは厳戒令下であまり多くの情報は出て居なかった
。これが不思議である。オリンピックまで開催したのに日本はドイツの動きで中国に対
日や抗日作戦が着々と進んで軍事顧問までおいて指導してるのに、中日協議にドイツに
頼んでいるのだ。全く情報が無かったか関東軍が米英の情報を聴かなかったかであろう
。山本五十六は真珠湾を攻撃してギャフンと言わせれば、米国民の戦意は喪失すると考
えていたようだ。とされる。これほど愚かなことはない。力のある者が緒戦で鼻っ柱を
叩かれれば、激高して大反撃に出る。と考えるのが自然ではないか。あれだけ日米反戦
を唱えていたものの意見とは思えない。実際に激高し、厭戦気分は雲散霧消、「日本叩
くべし」で米国は一致団結、これで対ドイツ戦に兵員を送り出す。当時世界最大の経済
力を持った米国が立ち上がったのである。太平洋での海軍力は日本と拮抗していたが、
イザとなれば一気に戦力を拡大できたし実際、そうなった。陸軍の腹案はそれを恐れ、
極力、米国の戦意を抑制することが肝腎と考えていた。また、ドイツのヒットラーすら
米国が出てくる前にと欧州を蹂躙した。山本五十六も同じに太平洋に出たのだ。日本を
奈落の底に導いた愚将と言わずしてなんと言おうか。問題なのは、なぜ大本営はそんな
山本の「暴走」を抑えることができなかったのか。もう一度言えば「腹案」が、大本営
連絡会議で決定したのは昭和16年11月15日である。だがこれが大本営の意思で山本参加
で穏やかな怒らせない方針が出たと考えれば辻褄があう。正式名称は陸軍省戦争経済研
究班であり、目立たないように陸軍省主計課別班という名称が使われ、作成した資料の
ほとんどは陸軍省主計課別班の名前で提出された。岩畔大佐の意を受けて秋丸次朗中佐
が率いたので秋丸機関とも呼ばれた。こお秋丸機関(あきまるきかん)は、ノモンハン
事件後の1939年に、総力戦を経済面から研究するために、日本の陸軍省経理局内に設立
された小さな研究組織である。対外的名称は「陸軍省主計課別班」とされた。


174: 名無しさんAA:19/09/19 14:09
 歴史の群像     102

 近年発見された「独逸経済抗戦力調査」や、「英米合作経済抗戦力調査(其一)」、
「英米合作経済抗戦力調査(其二)」などの報告書や、他にも多くの資料が現存してい
る事はわかった。独ソ戦開始直後の1941年(昭和16年)、秋丸機関はこれらを集大成し
て陸軍上層部に報告を行ったとされる。その内容は「英米合作の本格的な戦争準備には
一年余りかかる一方で、日本は開戦後二年は貯備戦力と総動員にて国力を高め抗戦可能
である。この間、英国の属領・植民地への攻撃、インド洋(および大西洋)における制
海権の獲得および潜水艦による海上輸送の遮断の徹底などによって、ドイツと協力して
輸入依存率が高く経済的に脆弱な英国を屈服させ、同時に英蘭等の植民地である南方圏
(東南アジア)を自足自給圏として取り込み抗戦力を強化し、米国の継戦意思を失わせ
て戦争終結を図る。」という対英米戦争戦略を示す。一方、イギリス屈伏の鍵を握って
いるドイツの経済抗戦力については下記のように悲観的な見方を示している。秋丸機関
の結論は結局は玉虫色のものであり、「緒戦のみ戦術として真珠湾を攻撃して、米国に
打撃を与え、後は極東、インド洋での戦闘に注力するという戦術はありえた。」という
大本営の「戦略意見」は、山本にとっては、そうはならない。という強い反対のはずだ
。「戦術」に齟齬はない、というわけだが、これってあり、ですか。「腹案」は米国に
は極力、こちらから手出しせず、戦う場合は「極東に米海軍をひきつけて」と書いてい
る。そのそばで太平洋の米国よりの真珠湾に攻撃に出かける。大本営政府連絡会議を、
完全に無視した格好である。組織として体を成していない、と言わざるをえない。これ
に対して『石井秋穂回想録』によると、1941年04月17日に 大本営海軍部で決定された
「対南方施策要綱」は、秋丸機関や陸軍省兵備課で行われた研究を参考にして作成され
、秋丸機関は取りまとめただけのようだ。陸軍省軍務局軍務課高級課員の石井秋穂大佐
に対し、研究結果を何度も報告していたとされている。その石井大佐には 9月29日に、
大本営陸海軍部にて決定された「対英米蘭戦争指導要綱」や11月15日に大本営政府連絡
会議にて決定された「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の策定に参画していたこ
とや、また「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」と『英米合作経済抗戦力調査(其
一)』の両資料とも、海上遮断による経済封鎖で経済的に脆弱性のあるイギリスを敗戦
に追い込み、その結果アメリカの反戦気運を期待して外交交渉などによる終戦を提案し
ている。ことなど、内容に共通項が多くまったく方針転換ができない報告書に留まって
いる。戦中の1942年(昭和17年)、陸軍省戦備課長の岡田菊三郎大佐が、中山伊知郎ら
が参加した「大東亜建設座談会」で、英米の国力の大きさを認めながらも、植民地を奪
ったり船舶を沈めるなどしていくことで国防経済的に英米に屈服を求めることができる
。と信じて発言しており、この内容は朝日新聞1面に掲載されている事でも、日本その
ものが自信過剰でとんでもない「うつけもの」になっていたのである。これ以外でも、
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前後に、何故だが同様の戦略や論調が新聞や雑誌上で、
盛んに数多く論じられており、秋丸機関の報告書も「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する
腹案」も、当時の日本におけるほとんどの人の常識的な内容であった。真珠湾攻撃によ
って日米戦の戦端が開かれたのは同年12月 9日である。すでに「腹案」が決定された時
には山本五十六率いる連合艦隊は真珠湾攻撃を目指し動き出していた。最後通牒が米国
に手渡されればすぐに攻撃できるように動き出していたし、その動きが米国政府には伝
わっていたのである。「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」作成に秋丸機関の報告
書が影響力を与えたという研究もあるが、逆にこの報告書こそ世論の影響をもって出来
たものだった。1942年12月に秋丸機関は解散し、その研究機能は総力戦研究所に移管さ
れた。


175: 名無しさんAA:19/09/19 14:09
 歴史の群像     103

 南雲は太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊
)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。死後一階級特進により、最終階級海軍
大将。正三位勲一等功一級である。大和は打撃艦隊所属で、南雲機動部隊は巡洋艦中心
の偵察艦隊所属だ。偵察艦隊が前衛、打撃艦隊が後衛は当時の常識的な布陣で、ミッド
ウェーに向かっている。空母を主力に据えるなら空母を中心とした艦隊布陣としなけれ
ばならない、という戦訓がなくミッドウェー戦に出ていた。当時の戦訓の常識を覆すの
は難しくこの布陣が敗戦に導いた。さらに戦艦嵐が潜水艦退治で遅れをとって長い航跡
を残し偵察機に見つかり、不意打ちを食らい、その上に大和がいたのは機動部隊400km
も後方ですから、半日ほどなければ追い着けない位置でまともな布陣ではなかった。そ
れほど離れていた理由は隠密行動だったからである。元々真珠湾攻撃という「戦術」は
どう考えても「米国を怒らせない」「厭戦気分を高める」「米軍は極東に誘致する」と
いう「戦略」には対立する。戦術はつねに戦略に従わなければならない。にも関わらず
、山本にこの戦術をさせたところに日本の軍部の、そして日本政府の組織的欠陥があっ
たといわざるをえない。515事件以来、統帥権の干犯問題により、政府は軍部をコン
トロールできない。のみならず、陸軍と海軍は同格で互いに相手を掣肘できない。でき
るのは天皇のみだが、それは形式的で、天皇に軍事的、政治的な権限は実質的になかっ
た。緒戦の真珠湾攻撃で中途半端に勝ち、さらに日本のもっとも憂慮すべき空母たたき
にミッドウェー戦で惨敗する。これが組織的欠陥でも日本敗戦の穴を大きくした結果だ
った事は歴史が物語る。日本人の悪い癖で、山本五十六は軍神のように当時の新聞など
のメディアで賞賛され、日本から遠いミッドウェーへの攻撃、ガダルカナルへの進出な
ど「腹案」の逆を行く山本の戦術を阻止できなかった。その結果、大敗し、失敗した。
 リーダーの統制がきかず、ボトムアップで勝手な行動を黙認してしまう風潮は、今で
も各省庁、古い体質の大企業に見られる。日本の業病ともいうべき、この組織的欠陥を
正さすことが日本飛躍に不可欠なのだろう。こうした事で、勝手ばらばらというひどい
状態だった。海軍、陸軍内においても統率がとれない。陸軍では関東軍の暴走を抑えら
れなかったし、海軍にも山本五十六という権威を抑える強い権力が存在せず、「腹案」
に反する戦術を黙認してしまったのである。そしてインパール作戦も又同じように山下
将軍という軍神の利用で、コヒマの惨劇や白骨街道を許している。結局大本営決定の、
ハワイで空母を叩いて時間稼ぎした後、厭戦気分を利用した米国との休戦交渉にはいる
という作戦に抗じれなかった。そのうえ南雲が叩けなかった空母撃沈に向かう羽目にな
り、この戦略や戦術は南雲にまかせて大失態のうちに敗れるという境遇だった。1942年
4月12日エンタープラズの姉妹艦がホーネットと陸軍最新鋭爆撃機のB25が太平洋
上に現れたのである。日本本土爆撃が行われ、東京から九州まで縦断していった。この
B25ミッチェルが1.5トンの爆撃を落として中国に向かった。強風の神風が米国を
加勢する。本来大型機の離発着できないのだが向かい風で16機全機が飛べて二千ポン
ドの爆弾を投下したのである。この事が日本無敵の神話が崩され山本を追い詰めた。

176: 名無しさんAA:19/09/19 20:07
 英紙タイムズ(電子版)は19日までに、現役の英軍人で構成されるラグビーチーム
が訪日中に靖国神社を参拝し、物議を醸したと報じた。第二次大戦で日本と戦った英国
内では「A級戦犯が合祀(ごうし)される神社を参拝した」との批判があり、ポール・
マデン駐日英国大使が注意したという。このポール・マデン駐日英国大使は全くおかし
い。A級戦犯とは、勝手に戦勝国が作ったもので、日本では死んでいったものは平等に
黄泉の世界にいる。と考えている。さらにアーリントン墓地など英霊に祭りあげられた
墓地を参拝するのは、同じ過去の偉人や英霊に敬意を表してるだけで、なぜこの駐英の
大使は注意するのか。あくまでも個人の自由であり大使が注意すべき事項ではない。あ
まりにも韓国や中国の扇動に巻き込まれすぎだ、中国でも韓国でも1975年ころまでは、
まったく誰も文句を言っていない。朝日新聞やらの在日系の日本人記者が騒動したから
であり、素直に先人を祈る事や御霊の平穏を願うことになんの異議があろうや。


177: 名無しさんAA:19/09/19 20:08
 歴史の群像     105

 既に日本軍は、マーシャル諸島域で、ウェイク島やマーカス島など既に急襲されてい
て、幾多の飛行機も無くなっていたのである。レーダーの貧弱な日本海軍は、対潜用の
駆逐艦や、防空装備を充実させた防空巡洋艦、防空戦闘機搭載の護衛空母群さえ持たな
かった。いつまでも木製甲板で重量魚雷を持って飛べないゼロ戦の戦果に頼っていたの
である。ミッドウェー島はハワイ諸島の北西にあり、基地が置かれている、そこそこの
戦略要地で、ハワイ奇襲後に艦隊をおいて要防護する必要はあったはずだがそれをしな
かった。日本軍は、ハワイ諸島攻略という大目標の足掛かりとするため、この島を占領
し、同時に、防衛にやってくるアメリカ艦隊を撃滅する、という作戦を練ったが時すで
に遅しの感はゆがめない。ミッドウェー海戦では空母のなかで、日本軍はミッドウェー
空襲の準備をしていた。難なく暗号を解読され、無線を傍受されて、日本の艦隊の居場
所はアメリカ側に筒抜けであった。しかし日本側は、アメリカの艦隊が目の前に迫って
いるという事実を知らず、ミッドウェー島を爆撃するために、空母艦載機に、対地用の
爆弾を搭載しているところでした。そこに、日本側から見れば突如として、敵艦隊が姿
を現します。使う艦載機は同じであっても、対地用の兵装と、対艦攻撃用の兵装は、異
なり、珊瑚海でやったような空母戦を行うためには、兵器を積み替えなければならなか
ったのです。この積み替えが「運命の五分間」―痛恨の作戦判断ミスとされる。実際に
、南雲忠一中将の判断のもと、南雲機動部隊所属各空母は、狭い空母の上で、既に搭載
されている爆弾を艦載機から下ろし、別の爆弾に換装する、という、難しい作業を実行
し始めました。結論からいえば、この判断が命取りとなりました。間に合わなかったの
です。あと五分あれば爆弾を積み替えて対艦戦闘の準備を整えた艦載機を発進させられ
た、と言われており、これを「運命の五分間」と言うそうだ。しかしそれだけではない
。頻繁に出撃していた赤城は、変則的に防空飛行機は不足であった爆撃を待つだけで、
防空戦闘機は全くいなかったのだ。つまり急いで近寄りすぎたのにまったく出していな
い。こうして沈められ、加賀・蒼龍の最期の戦いが始まる。敵機群が連続的に飛来した
ため、護衛を務めるべき零式艦上戦闘機はほとんどが出払ってしまいます。そして1942
年6月5日、日本時間午前7時。空母・加賀の見張り員が「敵、急降下」の報を発した。
しかし、打つ手はありませんでした。戦闘機排除して爆撃機を重要視した失敗がここに
ある。制空権を持たないかぎり爆撃機が勝てる見込みがないのである。爆弾を搭載した
艦載機でいっぱいの飛行甲板に、次々に急降下爆撃が加えられ、加賀は大爆発を起こし
、真っ二つに折れて沈没していった。蒼龍は3発の直撃弾を受け、大火災となり、総員
退艦の末、午後4時過ぎに沈没した。艦長の柳本柳作中佐は艦と運命をともにしました
。赤城は直撃弾こそ少なかったものの、強引な兵装転換のために格納庫内に散乱してい
た兵装などに引火して誘爆、炎上。消火が試みられましたがその甲斐なく、日本軍での
駆逐艦四隻による雷撃によって処分された。ここにレーダーが貧弱で暗号が読み取られ
たという悲劇がある。一方日本側の、もう一隻の空母・飛龍は、たまたま少し離れた場
所で、しかも雲の下にいたため、さし当たっては難を逃れた。この時点では貴重な残存
空母となった飛龍を、戦場から離脱させる選択もあり得た。しかし、飛龍艦上の山口多
聞少将は判断する。上からの作戦判断を待つことなく、米空母ヨークタウンに対し攻撃
を開始した。さしものアメリカ艦隊も、三空母に対する総攻撃の直後で、隙を生じてい
て飛龍の攻撃隊が次々に出撃してヨークタウンを攻撃した。こうして中破へと追い込む
ことに成功した。飛龍の決死の戦いである。一方ヨークタウンも飛龍の位置情報を友軍
に知らせ、飛龍は空母エンタープライズからの猛攻撃を受けることになります。火災が
発生し、飛龍もまた継戦能力を喪失しました。まあ甘っちょろい休戦や停戦を予測した
開戦や宣戦布告を考えた大本営の思い上がりの結果であった。


178: 名無しさんAA:19/09/19 20:46
 東京地裁は何を勘違いしているのか。市川房江や菅直人は市民運動家として1988〜90
ぐらいにこの原子力発電反対闘争で、裁判所にこうした地震や津波が起こるはずだ。と
提訴していたし、TV討論で当時の自民党議員と議論してるじゃないか。バカ判事は、
歴史事象もさがさない怠慢人間か。


179: 名無しさんAA:19/09/21 06:48 ID:Hg
 歴史の群像     106

 工業力に劣る日本軍は、わずか3日間での空母四隻の喪失という痛手から、二度と立
ち直ることはできませんでした。太平洋全域の制海権を掌握してアメリカとの講和に持
ち込む、という、おそらくはたった一つの勝機も、ここで完全に失われました。その後
のガダルカナルのソロモン海戦では、巡洋艦クインシーを入れ始めて上陸部隊を入れて
海兵隊を送っている。ミッドウェーの敗戦でアメリカが攻戦にでたのである。ここで、
米国も初めての戦艦ノースカロライナを入れた。この戦艦は自動追尾射撃を入れていた
軍艦でこの船の戦績は華々しい。この後は、日本軍は太平洋方面においては、華々しい
戦果を得ることがほぼなくなり、苦しい防衛作戦を敷いて各地で多くの米兵を阻止した
ものの、それは悲劇の上乗せでしかなかった。米兵を恐怖に陥れるほど鬼神のごとき、
玉砕の自爆戦法も起こったが、天皇の敗戦宣言で辛うじて本土決戦は免れた様だ。1945
年 8月15日への降伏の日まで、凄絶な後退戦を繰り広げていくことになって原爆までも
、落とされる結果になったのである。この世界大戦に負けた原因の一つに砲弾技術の違
いが大きくある。榴弾は炸裂砲弾の事だが、対戦車榴弾や粘着榴弾など、着弾時に火薬
の効果を用いる砲弾や、砲弾に限らず爆弾の内部に炸薬を詰めたもののことだ。陸上兵
器や艦載兵器で使用されている火砲の砲弾は、ほとんどが榴弾と徹甲弾に大別される。
徹甲弾はその運動量によって目標を破壊するのに対して、榴弾は内部の火薬が炸裂する
ことで、弾殻が破砕され、その破片が広範囲に飛び散り、目標に突き刺さって打撃を与
える。この威力が格段に劣っていた。攻撃対象の違いにより、徹甲弾は戦車や艦船など
、装甲された目標の装甲板を破壊するために使用されるのに対し、榴弾は散開した兵士
や軽車両、通常の建物などを広く攻撃するために使用される。航空機を撃ち落とすのに
高射砲が取り付けられたが、この射程距離も短く空中爆発するにはその高さを調整しな
ければならなかった。つまり信管調整をするほど日本は悠長な兵撃しか想定していなか
った。更に盛んにカミカゼ特攻隊を送り出したが、彼らが沈めたのは最初に神風特攻隊
の元となったフィリピン戦後の一隻でしかなかった。つまり特高が成功しても船は沈む
事がなかったのだ。アメリカは既にTNT火薬からトーペックスに替えていたのである
。トーペックス(torpex)は、戦争前既に存在し1942年にイギリス王立兵器工廠で魚雷
、爆雷用として改良開発し軍用爆薬として使われていた。名前の由来は魚雷爆薬である
。第二次世界大戦中に欧米の海軍で使用され徐々ににアメリカ合衆国で安定性など改良
されたHBX爆薬が作られた。この混合火薬はRDX42%、TNT40%、粉末アルミニウム2割
から作られたが日本のアルミ生産は僅かだった。この事で魚雷や徹甲弾の威力が数段に
違いがあり、特に水中での破壊力に優れていた。比較的高価であったて主として魚雷の
弾頭等に使われたがその調合に似せた高射砲にも使われた。一般に高射砲が届く範囲は
、簡単いえば、その砲を中心にした半球をかぶせた台所のボールを伏せたような空間に
なる。このボールの頂点の、ただ1箇所だけが「最大射高」で高さ的射程距離は日本軍
も米国も違いはない。その為内側の「有効射高」という弾丸が敵機を落とせる高度もま
ったく劣ってはいない。しかし、炸裂弾の場合は、日本の弾はあまり意味がなかったが
逆に米国の場合は日本の飛行機が弱い事もあったが、炸裂内に更に球を込めたものや、
発射スピードの高い数段大きい弾が使われた。これは、命中率、発射速度、弾丸威力な
どから、敵機を撃墜できる、あるいは十分に威圧することのできる範囲で多くの威力を
発揮した。



180: 名無しさんAA:19/09/21 06:49
 歴史の群像     107

この違いは、例えば5発撃てれば十分と考えれば、発射速度20発/分の高射砲なら14秒
間敵機がこの切り口に存在し続ける最大高度である。つまりこの高度は敵機の推定速度
で変わるし、また逆に、大きな大砲で旋回速度が遅かったりすると、逆に「最低高度」
が出てくる。実際の実用面でこの実用高度の全空域を覆う兵器など当時はない。簡単に
言えば、日本の高射砲は、砲弾の生産、運送能力の不足で、性能一杯まで撃ちまくる事
ができませんでした。日本軍高射砲部隊の「命中率」は、ずば抜けて良い。それは当た
る弾、当てられる弾しか打たなかったからだ。技量が高いからより、狙って狙って当た
る弾しか撃っていなかった。本来の高射砲目的の、「そのエリアには入れない」という
効果で、撃てるだけ撃って、ドイツの様に数千〜1万発かかっていますが、日本は千発
以下どころか百発もなかった。つまり日本軍のは「対空射撃」でなく「対空狙撃」だと
言わる所以である。その上に砲弾内磁気炸裂弾や新型火薬を作り、5インチ爆裂砲弾は
15Kmの射程距離で15発/分の洋陵砲8問ボホーズ40o連射砲などは160発/分の
を20o機関砲は有効射程900m450発/分を腹一杯射撃している。高射砲に加え
て、高射装置がセットで運用されることが多い高射装置は、射撃管制装置の一種で目標
航空機の「現在位置」「高さ」「速度」を測定して未来位置を計算して照準を行って、
最大の効果が得られる時に砲弾を炸裂させるよう時限信管を調定する機械であった。射
砲弾は敵機の直撃を狙うのではなく、近くで空中爆発して飛散する破片により被害を与
える一種の榴弾である為極めて高価になりがちだった。第二次大戦初期までは、発射後
敵機の飛行高度に達する時間を計算して爆発させる時限信管が使用されたが、時限信管
による射撃は精度が極めて低かった。しかし米国の場合信管が敵機との距離をセンサー
で測定して爆発する近接信管が開発され、撃墜率が飛躍的に向上していたのである。後
の第二次大戦後は高々度を飛行する敵機を攻撃するために、より効果的な地対空ミサイ
ルが使用されるようになり、大口径の「高射砲」は消えていった。開発当初が、偵察や
弾着観測を行う少数の航空機の排除を想定して、高角砲を装備したのは艦体に余裕のあ
る巡洋艦以上に限られていたのであったがその数も単装砲を数基装備するのみであり、
あくまで補助的な兵装という扱いの日本だった。しかし、第二次世界大戦が始まると、
戦闘艦艇の任務は戦前の想定に反して、航空攻撃に対抗する対空戦闘が大きな戦争要素
となり、高角砲は近接戦闘用の機銃と併せて対空戦闘の主兵装として用いられた。こう
して戦争様態の変化に大日本帝国海軍は、各国より早く着目していたが、資材事情から
米国には一歩遅れをとった。相対的に対空兵装が重視され、各艦は相次いで対空兵装の
強化が行われたが大和型戦艦の2隻の就航時ぐらいで遅かった。その上時間的発射数は
米国の半分で、弾自体もケチっている。1k〜10Km先の飛行機を撃ち落とすのは、
ほとんど不可能で20q/h速度の戦車でさえ当たるのは1〜3%の世界で空中ではその
50分の1とされる。練度が低かった上撃込み連射の遅さとの砲弾節約さらに近接信管
開発の遅れ。この4つは、どこの戦闘でも起こった。それでもラバウル戦硫黄島戦沖縄
などかなり奮戦し占領部隊を遅らせている。ドイツ軍部隊に開発したナパーム弾で日本
兵の要塞トンネルに有効だと知ると直ぐに火炎放射砲を取り入れた。ナパームは粘着性
揮発発火剤を用いたもので、新たな開発兵器だった。大口径の「高射砲」は、重巡洋艦
の「摩耶」、軽巡洋艦の「五十鈴」や「夕張」のように、対艦兵装の一部を撤去しても
高角砲または機銃に変えるほど必要なものだった。また、新造艦においては駆逐艦以下
の小型艦艇でも、秋月型駆逐艦や丁型駆逐艦、船団護衛用の海防艦など、高角砲を主兵
装として搭載する艦が計画され、次々に戦線へ投入された。これら艦載の高角砲の一部
は拠点において揚陸され、拠点防衛用の陸砲として用いられるものになった。重装備か
ら軽装備に代わるため良かったが、それでも頑丈な米機には威力はなかった。


181: 名無しさんAA:19/09/23 22:05 ID:xM
 歴史の群像     108

 東洋の不思議な島国。これが「ルックイースト」とまで言われた日本の姿だったが、
基本的には小さな島国で毎年台風は来るし地震や津波も多く、欧州の様な石造りの伝統
も持たない様な国が、中国やインドより先に世界に飛び出してしまったのが第二次世界
大戦だった。この戦争では、人間の本質や、戦いの基調が解るような模様が多かった。
基本的に諸外国や欧州世界は戦い慣れしていたであろう。しかし、日本は究極の生存権
の行使で戦っていた。かつてGHQのマッカーサー司令長官すら日本に来て半年後には
「日本は誠に持って自衛の為の戦争だった。軍事物資はもとより資源はおろか石油がな
くよくぞ生きてこられた。という有様に私は酷く動揺した。」と言った。日本の批評家
にはマッカーサーは愚将だったと言われる。その聞く耳を持たなかったとされる愚将す
らもこの素晴らしい日本という愚直で素朴な民族を痛めつけた事を悔やんだ。と言われ
る。基本的に人類は何の為に殺し合いの戦争をするのか。それは正義の為である。大方
が善人だからである。善人は弱くそう多く奮起したりしない。ましては日本は島国育ち
で世界の悪態に慣れてはいなかった。正義は必ずしも勝つとは限らない。更に心に響い
ても人々が共感持ち得るとも限らない。だから正義の者善人は常に戦わなければならな
いし、日々精進し先に行くしかない。そこで科学力や経済力や結束力を持って世界に問
う事になる。そこで刀を作り拳銃を作り大砲を作り軍艦や戦闘機を作り出す事になる。
しかし、大阪で秀吉が宣教師に日本人奴隷の解放を叫んだ後、家康時代から日本は先進
文化であった鉄砲を捨てて刀の精神文化に後戻りして、平和を楽しむ方向に方針を変え
た。というのも平和の為の戦争行為を無駄と悟ったのである。地震や台風などの災害の
多い島国で自らの生活を同世紀に同じ時期の者と仲良く励ましあって生きていた方が楽
しいじゃないかとして、家康は生き方のその行き過ぎの境界を決めて御法度という法令
を盛んに作り出して行った。そうした日本人は200年間門を閉ざした自立主義を貫い
て生きてきた。そして突然に明治時代を迎えて、ロシアの不凍港を求めた南進紛争に巻
き込まれるのである。そして必死に戦って自立自衛の為に朝鮮半島に渡ってまで防衛線
を行うのである。しかし、時代は技術進展もすさまじく、戦争は巨大軍事兵器化学兵器
、原子爆弾他種々の大きな殺す為の殺戮兵器が生み出されるのである。ここでも必死に
なって対抗した。危機が迫れば、団結して富国強兵政策を取り、破壊を目論む異端児は
排除していった。軍国主義の台頭である。各国事情は米国などは戦争する理由は全くな
かった。日本には世界各国の脅威が降りかかった。日露戦争での国家賠償のルールは、
故意に米国は外した。その頃のアジアは、白人ルールに適用されていた。日本も又同じ
に、「陸奥」「長門」をはじめとする侮ることのできない連合艦隊があった事が癪にさ
わるものだった。すべての有色人種の所有権は白人社会のもので権利はない。と公言さ
れていた時代だったのである。しかし日本だけは軍事の後ろ盾があったからこそ、侮れ
ずアメリカは、その白人ルールを無視してでも叩いた。すして日本人の堪忍袋の緒が切
れた。日本を崖っぷちに追い込こまれたからだ。日本の戦前の暮らしぶりや社会生活が
良かった事はアメリカはよく知っていた。又民主主義がアメリカ占領軍統治から始まっ
た訳ではない事も知っていた。しかし戦後は日本人に隠し、学校でも教えなさせなかっ
た。明治の民主主義の断絶の遠因は、ロシア南下阻止に欧州社会がクリミア戦争した為
極東に出てきたことで、ロシア革命から共産化が進んだからだ。そして近因はアメリカ
がそうして苦慮している日本に鉄屑や石油を恣意的に売らなくなったことだ。それは、
日英同盟を消してまで日本を抱き込んで米国商品を進めた同盟国条約の違反で、日本人
は不当に思った。それでも、戦前日本はそれほど悪い国ではなかった。当時の天皇は本
心で一心に国家の基本は「独立を守ること」努力を惜しむことなく、軍部も国体保持に
傾注して事に当たっていた。しかしここで間違いが起こる。アメリカが民主主義を捨て
扇動主義になってドイツと同じに広報活動で日本悪玉論を敷き嘘つきになったのである
。対して日本も戦争中には、正義や善人論では対処できなくなって、徴兵制を引き更に
この戦争続きで文化の伝承が絶えて、欧米流の合理主義と弱者排除の価値観に染まった
のである。戦争の悲劇はここにある。善人の早死や伝統的社会秩序の毀損や欠損である


182: 名無しさんAA:19/09/23 22:05
 歴史の群像     109

 こうして、戦前日本の分水嶺は日露戦争の賠償交渉にあった。平和、自由主義、民主
主義に向かって歩んでいた日本を右翼国家主義に転変させたのは、共産主義という怪物
だろう。ソビエトロシアへの対策としてそうならざるを得なかった。にもかかわらず、
米国はそれを利用した日本叩きに出た。戦前の日本人は、独立の尊さを知っていた。同
時に有色人種の独立国が危機であることも充分自覚していた。だから必死に努力した。
危機が迫れば、団結して富国強兵政策を取り、破壊を目論む異端児は排除された。そう
いう事情の吟味なくして、戦争の反省も戦後の反省もない。日本に降りかかった脅威を
故意に見ないのは、自虐史観の本文かもしれない。民主主義はアメリカ占領軍統治から
始まったことにしようとGHQは大いに広報した。そうした事を日本人は不当に思った
。それでも多くの日本人は見て見ぬふりをした。声を上げたのは侠客とされるヤクザ者
達だった。戦前の日本はそれほど悪い国ではなかった。当時の国家の基本は「独立を守
ること」努力を傾注しなければ危うことを知っていし、戦後も一貫してそれを守って切
り開いた。そうした親に反発したのが学生運動であり、赤軍派の時代である。安保反対
を扇動されたり、反戦デモにフォークソングで声を上げようと人々に広報した。過激な
右派や左派はビル爆破や海外逃亡までして戦った。そうした意気込みは革命家のチェ・
ゲバラの本が売れたり、時の音楽が洋風化して若者に支持されたのが証明している。戦
後すぐGHQが始めたのは白人ルールの徹底であった「独立を守るのは余計なことであ
り、生意気なことだ。お前の国ほどの幸せはアメリカが保障してやる」という今や日本
で大前提になっている「核の傘の自衛権のない国」と言う日本の姿である。確かに日本
は軍事的には敗れたが、戦ったこと自体をそのまま善悪で分かつべきでない。しかし、
お隣の韓国は、大戦に敗れた時は、独立を奪われ、教育も何もかも奪われ、それこそ男
も女も奴隷的境遇に落とされた過去を日本が救った事を、恨んでるかのような言い分だ
。日本の日韓併合時代の施策を真似てGHQは寛大な処置をした。南洋でも東南アジア
でも120人の米兵が日本の植民地時代の悪行を東京裁判にもって行こうと調査したが
、そこで出たのが米兵の悪口と日本兵駐留で平和になった。奴隷から解放された。とい
う喜びの声や感謝の声だったのである。これにはGHQも口を塞いだのだ。こうして、
日本駐留を大局主義に変え寛大な方策に変えた天皇の勅令を残したのである。これに日
本人はバカに感激してしまった。それで独立のために命を捧げるなど阿呆らしかったと
いう雰囲気になり、犬死至論が出てくる。こんなことなら戦う必要なかったと。しかし
戦ったからこそ、アメリカは寛大になった。「戦う気概を忘れた国はやがて亡国の淵に
立つ。」「戦って敗れた国は必ず再生する。戦わず敗れた国は永久に立ち上がれない」
と言ったのはチャーチルだが、戦う気概を忘れた国は必然的に亡国の淵に立つと言うこ
とを、今の日本人は真剣に思い起こす必要がある。こうして20世紀後半は、国際秩序ら
しきものを米国は犯せなかった。人々の独立に道理が通ってアメリカも自制した。それ
は、身命をなげうって究極の奪戦をしてくれた英霊のなかんずく神風特攻隊などのおか
げだと言っても過言でない。追いつめられた日本が立ち上がって噛みついた。その記憶
がバリアーとして彼我の記憶にあるから、あまり理不尽なことを仕掛けてはいけないと
いう自制を彼らにもたらした。そして一世代はなんとか日本は平和に暮らせたのである
。こうして戦後日本には悪いことをやってきたという教育がまかり通り呪縛から逃れら
れない。日本人を潜在的にも顕在的にも萎縮させて平和をつないできた。しかしいわば
国を売る行為が良心にかなう行為だと誤解され、次々と身売りするような条約には参る
。このような空気が戦後この方ずっとわが国を支配し外交を決定する例えば小泉などは
全く間違ってきた。日本の戦争犯罪なるものの世界的追及の動きに同調し煽っているの
は日本人自身なのだし、ここまでこじれさせた中国や韓国北朝鮮の抗日反日感情は日本
の一部のバカ記者が焚きつけたものだ。在日という中途半端な帰化者温情が逆に日本の
の伝統的思考や文化はほとんど壊わされてしまうのである。

183: 名無しさんAA:19/09/23 22:06
  歴史の群像     110

 よく欧米の巨大な軍事力を背景に行われる外交を恫喝外交や砲艦外交と題される。対
象的に、韓国や北朝鮮がそうした大国相手に朝鮮や中国が行うのが、崖っぷち外交や、
サラミ外交と言うとんでもない技巧言葉の応酬である。いわゆる大同小異と言う国民性
をわかってくれと言う奴である。例えば6ヶ国協議でも盛んに日本は孤立するとマスコ
ミ各社は日本政府を攻撃した。というのもこの時既に核開発中止やミサイル廃棄で代わ
りに経済支援や技術援助あるいは貿易解放が約束される。と中国・ロシア・韓国・米国
が北朝鮮が同意している。としていたので日本の拉致問題解決を追加条件をしている事
に批判がはいったのである。しかし日本は小さなその段階的合意で常にゴール地点を後
ろに下げて更に遠くにゴールテープを持っていく性格を知っていた。今でもこうした、
たとえば国際連盟の批判決議や経済封鎖に、中国・ロシアに血の同盟国と泣きついては
石油や労働対価をちゃんと輸入し、韓国には民族的同族を謳い、文政権を狂ったように
躍らせていて石炭はおろかミサイルのIT基盤輸入はレーダー照射問題時の船長拿捕の
帰還など完全にいかれた西側と成り下がっている状態だ。不思議なのは、日本の独立国
で天与のものと思ってるのか、神の国と思っているのか、日本に対していくら悪く言お
うが傷つかない、いくら金を貰おうが揺るがないと、世界は思ってるらしい。幼児症の
甘えの感覚と同じ感覚で、日本に甘えた国は多く、戦前戦後共に多く利用される。米国
は日英同盟を廃止しろと英国に迫った。日英同盟が存続していたなら英国は、今も大英
帝国だった可能性は大きい。廃止の必要がなかったと言われている日英同盟の頃、アジ
アのプランテーションに日本は進出した、ベトナム・タイ・フィリピン・マレーシア・
インドネシアと各国に欧米は教会と共に原住民を奴隷として使った農園経営をしていた
。更に逃げ出さないよう私兵警備までして懲罰室まで置いていた。しかしそこに乗り込
んできた日本人は家族農園の形態で、日本人も現地人同じに行った。石造りの召使いの
いる贅沢な暮らしでなく、長屋の宿主的集落的生活に終始し勤勉だった。当然収益率が
まったく違って英国の農園主は脅威に思い考えあぐね監督者に日本人起用をし、中には
日本人に農園を任せ本国に帰ったり、売ったりした。つまり利益搾取のみでマラリアや
風土病の多いこの地から去っていった。しかし米国人は違った、政府主導で英国の様な
私企業ではなかったし、国や商売の経営ではなく拠点の駐留権益だったのだ。当時米国
人は魚など食わないし肉輸入もなく、農場経営には見向きもしなかった。ただ日本人が
経営したバナナ農場や魚肉加工や牧場経営は見向きもしなかったが、ゴム農園だけは、
輸出品として母国に送っていた。戦後世界でも日本の力を一番知っているのはアメリカ
で、それを一番利用したのもアメリカだった。戦前にロシア南下阻止に利用され、戦争
もドイツ叩きに利用された形だったが、戦後も日米同盟という下支えはアメリカ帝国主
義に利用され続けた。日本は野蛮な侵略国家だ。と一方的に決めつけて日本上陸して、
断罪しようとした東京裁判で、東京裁判を始めた連合国軍の最高司令官のマッカーサー
そのものがその過ちを認め、「日本の戦争の動機は安全保障の必要に迫られたことだ」
と証言するに至る(昭和26年米国上院軍事外交合同委員会・米国の極東政策をめぐる
公聴会の席で)し、その戦争目的が侵略であったと、決めつけていた視点を正式に取り
消したのである。にもかかわらず、このマッカーサーの証言を日本では封鎖された教育
政策が行われた。「戦後50年決議」のとき、細川護熙、村山富市、土井たか子、宮沢喜
一、河野洋平という政治家達は、日本の歴史をまともに学ばないまま政治家になった。
そして知っても、敢えて波風を立てない方針を終始貫いたのである。例え間違った歴史
でも掘り起して世界からの白い眼や国内の混乱を避けたのである。そうした近隣国を、
増長させる様な政治方針は今でも続いている。わざわざ戦争までして正義を毅然と行使
した日本人に、降ろされた敗戦の結果を馬鹿とする世代だったのだ。日本や米国の間違
いはこうした悪人との戦いにおいてドイツの様に人道に劣る極悪非道の悪人に成り下が
った事である。強きをくじき弱きを助くの精神文化を亡くしたのである。

184: 名無しさんAA:19/09/23 22:07
  歴史の群像     111

 こうして戦後は真の民主主義と無くしていった。日本を売ったのが「崇洋媚外」の心
は何事も対共産イデオロギーというメガネを通しての物事をもなくし、教条主義のまま
諸外国さえ捨てた日本悪者論を国内では続けた。戦争協力の足跡を隠す為、熱心に日本
断罪に取り組んだ政治家達はそれを利用して国内不安を掻き消そうとしたのである。右
翼左翼共に受け入れ、政治家・活動家・あるいは労働組合の人たちも同意するように動
いた。21世紀でも、日本を味方につけた国が栄える。20世紀の、パワーゲームの中
において日本は主役だった。ロシア、中国、イギリスは日本と戦い衰運に傾いたし、第
二次世界大戦や冷戦も日本に勝利したという間違いは、「原爆使用」に代表される非人
道な殺戮兵器において勝ったのみで、思考や国家運営が勝ったものではなかった。ソ連
の「中立条約違反」と同様、同族同種の白人に対しては、全くやらないことを日本に対
して行った。日本人が有色人種蔑視の正体を見て奮起し、日本は善戦敢闘したが正義は
弱いものである。弱いからこそ戦ったという日本人の義憤は、非人道なその事実を紛ら
わすために、戦後は日本を軍国主義だ侵略国家だとしつこく悪宣したが、その事実が見
つからないまま東京裁判は終わったのだった。日本がなければ、白人世界は本当に完璧
な、白人アパルトヘイトの世界が覆される契機など存在しなかった。それを突き崩した
戦争が戦後の黒人解放を起こし、人種差別撤回まで持ち込んだ。戦前の日本の「悪の帝
国」のレッテルが果たして本当だったか。戦争が無意味なものだったかが、正に戦後に
明らかになる。戦前戦後とも、アジア各国は、日本の味方が出来なかった。白人も我々
有色人種と変わらない、工業化して立ち向かえばいいんだ。とアジアに示した日本人は
白人の特に米国には脅威だった。それをわかっている人々は米国内でも今も昔も日本を
悪く言わず尊敬する。そして黒人人権運動や女性参政権に戦った。世界がいくら日本を
悪者に仕立て上げようとも、こうした正義の日本を味方につけた国は栄え、敵に回した
国は衰運に向かった。その教訓は21世紀にも通じる。それに気づいた国だけが得をする
事になった。大東亜戦争が終結して、日本にマッカーサー率いた連合軍司令部ができた
このGHQすらも同じだった。GHQは当初日本で厳しい言論統制を行い、新聞や書物
と言ったものに検閲を掛け、自分たちに都合の悪いものは全て除外し戦争協力者を公職
追放し、20万人以上もの職を奪った。その代わりに戦前からくすぶっていた社会主義の
思想に拍車を掛けて、日本の保守的な者達の口を次々と塞いで来たのだ。それが一夜に
して更に変化する事件が起こる。朝鮮戦争である。ある時期ある時このGHQすなわち
米国の日本占領政策が全く間違った政策であった事に、総司令官のマッカーサーが気付
く事になる。朝鮮戦争は、大東亜戦争後、日本が統治していた統一朝鮮は二つに割れて
、北がソ連、南をアメリカが統治する事に代わり北の金日成が南の李承晩を叩いた内紛
で、それを支援した米ソの代理戦争だった。元々大東亜戦争期は、既に米ソの対立構造
が強く打ち出されていた。その中で植民地経営が行き詰まった英国がドイツに負けそう
でソ連にまで泣きついて仲裁をとった為、世界を分断する形で米国の覇権欲を翻弄させ
て戦争参加させていたのだ。朝鮮戦争は北朝鮮が突如として南朝鮮に攻め込んだと思わ
れているが、実際はその攻め込まれる理由をアメリカが作ってしまったものだ。1950年
1月12日、米国アチソン国務長官は講演で次のように述べている。『アメリカの西太平
洋に於ける防衛戦は、アリューシャン列島から日本列島、沖縄に至る線である。』と。
こうした勝手な米国の放言に惑わされたのが朝鮮人で、李承晩と金日成は実はつながっ
ていて、この言葉をそのまま受け取けて、ソ連に協力を求めた金日成に李承晩は譲歩し
占領させていたのだ。アメリカは韓国を防衛圏内に入れていないと受け取れ、李承晩の
九州争奪作戦をたてて手を握ってしまったのだ。李承晩はあくまで朝鮮人は戦勝国側の
同盟国だ。日本の分割統治に参加していいはずだ。と主張して止まなかったのである。

185: 名無しさんAA:19/09/23 22:07
  歴史の群像     112

 北朝鮮の金日成がソ連政府は原爆問題で北の要望を公式には却下した。しかし諜報戦
でソ連も実験室内の原爆製造のメドがたち、スターリンは南進の指示を出し、武器の供
与を認めた事で中国は大賛成をしたのだった。これに慌てたのはまさしくアメリカで、
韓国を共産勢力の支配下に置かれれば日本が危うくなることに気付いたのである。まさ
に戦前の大日本帝国がロシアの南下を恐れ、併合までして朝鮮に力を入れた事と同じ道
をアメリカが辿る事になった。この時になって初めて明治以降の日本が如何に共産勢力
の南下を恐れ、日本の自衛の為に戦って来たのかをマッカーサーは痛感する事になる。
朝鮮戦争では勢いに乗じた北朝鮮に、アメリカの支援を受けた韓国が釜山まで追い込ま
れるが、そこから仁川上陸作戦を敢行してソウルを奪還し鴨緑江の朝鮮半島の付け根の
付近まで盛り返し朝鮮戦争が終結するかに思われた。しかし朝鮮戦争はこれで終わりで
はなかった。金日成はしたたかに引き上げ中国人民軍の応援を受けアメリカが統一朝鮮
を望んでやってくる事を知っていた。待ち構えて包囲作戦を敷き、マッカサー軍は精鋭
部隊の大部分を失うことになった。ソ連の支援を受けた北朝鮮軍は依然として旧満州に
勢力を保ち支那内陸やソ連からいくらでも支援・補給が出来る体制を整えていたのだ。
ここでもマッカーサーは日本がなぜ満州を発展させる必要があったのかを思い知る事に
なった上に、ソ連は原爆の野外実験がこの時実施され、大きく国際社会に広告された。
朝鮮戦争が始まって、共産勢力に対抗して行く事で、全く日本と同じ道を辿った。マッ
カーサーは「かつての満州を空爆し、敵を完全に殲滅しなければ、また東シナ海の港湾
を封鎖せねばならない。」とトルーマン大統領に進言する。しかしトルーマン大統領は
ソ連の原爆開発成功の報を受けて、原爆戦争に発展し批判される事を恐れてマッカーサ
ーの意見を却下して、その声が大きくならない様に解任してまで封印してしまう。仁川
上陸作戦を敢行したマッカーサーがいなくなった米軍は共産勢力の反撃を受ける事にな
り、結局は元の38度線に戻り現在に至った。特筆すべきはマッカーサーの変節ぶりだ。
当初朝鮮解放が至上命題として乗り込んだのに、朝鮮は至って治安がよく統一朝鮮社会
は豊かであった。都市空爆や原爆が落とされ悲惨だった日本の現状に比べて雲泥の差だ
った。残留日本兵が朝鮮にいると乗り込んだが、既に国旗は大極旗が掲げられ立法行政
も議会が運営され選挙で議員は選出されて、アメリカ以上に自由闊達な意見がそこにあ
ったのだ。1945年 9月 6日の京城府で呂運亨らによって結成された「朝鮮建国準備委員
会」、「朝鮮人民共和国」樹立宣言を米国政府もGHQも認めようとしていたが李承晩
はロビー活動で大きく反対運動をしてそれを却下させた。曰く「戦時中の政府を認める
事は朝鮮解放にはならない。」という主張だった。更にサンフランシスコ条約も同じに
「日本を分割統治し朝鮮人の土地を与えよ。」と言い反対闘争にあった。これを一笑に
付した。これは女性のわがままな社会進出と同じだ。基本的に人類は継続する事を正義
とした。しかし、女性が家庭に入らず仕事すれば食べていけると未婚で遊び回っていて
、社会生活がホモであれレズであれ快感のみの生活で結婚生活と認める事はバカに等し
い。社会的差別があってはいけないが黒人が肌を白く出来ようか、白人が肌を黒く手術
しようか。そうした行為を朝鮮人はしたがる。整形手術をし物真似K−POPを流行ら
せ政治すら日本に敵対して真似る。さらには車産業・建設・造船・IT・文化すらも、
退職日本人をヘッドハンテングしては頭越しの技術導入をして今になった。その為基礎
的ものの科学も歴史も政治もない。自らの皇帝すらも廃止して蹴落とした社会を作った
まったく継続性の正義は存在しない。



186: 名無しさんAA:19/09/23 22:17
  歴史の群像     113

 戦後世界での朝鮮戦争で辿(たど)った米軍の道のりは、明治以降の日本による朝鮮
・満州統治と行って来た日本政策の意思と同じであり、日本の作った過去より悪い物だ
った。共産勢力の拡大・侵攻を恐れれば、自国を守るために敵であったアメリカでさえ
も、結局は同じ道同じ考えを辿ってしまう。その過程で如何に日本の行った戦争が自衛
の戦争で正当な正義のものであったと言う事が分かると言うものだ。そもそも朝鮮半島
を少なくとも分裂させたり中国と敵対視させる分断利用の政治を行っていない。そして
今の現状のこの分断は少なくとも朝鮮民族が望んで行った行為と結果である。更に一つ
は、日本に原爆を落としたトルーマン大統領すら、ソ連との原爆戦争になる事を恐れて
空爆すらも却下したことだ。つまり日本には原爆が無かったから、いや無いと確信して
いたからこそ日本に原爆を落とすことが出来た。と言う結果だ。もし持っていたら原爆
投下は無かったと言えるのがミソだ。最後にマッカーサーは議会証言で、こうも話して
いる。「日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが4つの島の中にひしめいている
のだ。ということを理解して頂かなくてはなりません。その半分近くは農業人口で、後
の残りの半分が工業生産に従事していました。潜在的に日本の擁する労働力は量的にも
質的にも、私がこれまで接したいずれにも劣らぬ優秀な民衆で構成しているです。歴史
上どの時点においてか、日本の労働力は、人間の怠けている時より生産している時の方
がより幸福なのだ。と言う国家構成を行った事、つまり労働の尊厳と呼んでも、良いよ
うなものを発見して国体を保持していたのです。これほど巨大な労働能力を持っている
と言う事は、彼らには、何か働くための材料が必要だと言う事を意味します。彼らは、
工場を建設し労働力を有していました。しかし、(我が国は)彼らに手を加えるべき原
料を(取り上げた為)得る事が出来ませんでした。日本は絹産業以外には、固有の産物
はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無
い、ゴムが無い、この無い々々ずくしの中で、そしてそれら一切のものがアジアの海域
には存在していた。これらの原料を断ち切られ、一千万から一千二百万の失業者が発生
するであろう事を彼らは恐れてもいました。従って彼らが戦争に飛び込んで行った動機
は、大部分が安全保障の必要に迫られての事だったのです。」この意味はこれほど重要
な証言はない。事実日本の軍部の大本営はチェンバレン侵攻を重視していたのである。
当時もそして現在も報じた日本のマスメディアは存在しないのは、極めて日本の為には
、ならない勢力が この国を支配している証左とされる。戦後でも中枢ではシーレーン
防衛をアメリカに要請したし、オイルショック時の新出光日章丸の事件も又極めて日本
的命運の中にあった事件でもある。我々日本人といういう島国は極めてこの真実の歴史
を誤解して行くように教育している。本当の真実を知って立ち上がる事は摩擦を呼ぶ事
になるし、正義は負け続ける。だがこれを失っては人間として、生きていく意味も価値
もなくなる。正義の声をあげ公明正大に大きく声をあげて戦うことは人類の当然の権利
であり進化の正常化への軌道でもある。これを日本人は失ってはいけない原則である。
常に正義であり、公明であり公平で誠実に情愛にある国として戦って負けても負けても
立ち向かうことが日本の生きる道であり、人の生きるべき道人間の本分でもある。


187: 名無しさんAA:19/09/23 22:17
  歴史の群像     114

 世界的な反日工作は、常に日本発と言っていいほど溢れている。マスコミがその実態
を全く報道しない。日本叩きにはあんなに熱を上げるのに、日本の弁護・正確な言い分
を発信することには本当に力を注がない。今度の韓国輸出の最恵国優遇に関して正常化
したのも発表に際して信用置けない国というはレーダー照射から解っている話だろう。
しかし、マスコミは純粋な貿易管理の問題としてはどこの放送局も新聞社も記事にして
いない。NHKすらも早とちりした韓国への制裁用の改正と報道した。又決める前も、
麻生外相は、「我々も対抗策は幾つもある。」みたいな発表を個人的見解として述べた
。全く間違いそのものだ。やった事が正義なら、ちゃんと「韓国の繁栄が日本の繁栄で
ある。朝鮮半島の平和が日本の平和である。隣国として条約違反は許されることではな
い。」と言えばいいのであって日本に韓国文化のような「恨み辛み妬み」や「怨恨主義
」は存在しないし存在させない。と新聞も書くべきである。その意味でも戦前の日本の
「悪玉論」や戦後の日本の「善玉論」という錯誤の元凶を消していく事が大事である。
GHQに趣旨返しして、擦り寄って言論人と学者、思想信条を守って当然の立場の筈だ
が、生きる苦境の為に、掌返した物言いを行った許しがたい者は非常に多かった。しか
し彼らが、権力を持って命令する立場にある官僚になって、自己総括せずに生まれ変わ
った証拠として、盛んに日本の悪口を目一杯言う様になり、在日朝鮮人なんぞは「我々
は戦勝国の国民だ。お前たち日本人は我々の奴隷となっても仕方ないはずだ。」と公言
し、強盗・殺人・拉致・監禁・食い逃げ・強姦・詐欺が横行した。記録では無賃乗車や
税金未納など、小さいものまで集めれば最初の半年で400件その後の一年間で700
件近くが報告されているが、それでも公権力である警察は動かなった。正確には動けな
かったのかもしれない。が報告だけ挙げられた。そうした実情があるにも関わらず新聞
や報道各局は「日本断罪論者」の登場しかしなかった。品格に欠け大衆蔑視、独善的で
欧米合理主義で進歩的でなければならない。という視点から罵倒対象は常に戦前の軍国
主義だった。しかし、兵役検査でも病弱者や弱者はとらなかったし、学童疎開させても
軍は戦いをやめず治安を守ったし、朝鮮半島からの徴兵制の申し出は断り続けている。
それを今では徴用工を行ったと裁判までする始末である。自国にいまだ徴兵制を持って
いる国が笑わせるようなブラックジョークである。さらに炭鉱労働や機械加工賃金は、
朝鮮人には払われて、日本人の方が安くさらに税や年金を自動差引されて半分ぐらいで
日本人が働いていたにも関わらずである。慰安婦問題でも同じで、当時の慰安婦事情を
知る者は、朝鮮業者がしつこく納入業者受け入れ業者としてはべりきて賄賂をしてまで
最前線現地に乗り込み送り込んだ。実は日本は遊郭制度でそれなりの家や旅館の形態し
か認めてなかったのを勝手に時間的な大量の薄利多売で店先茶屋の性交渉を繁盛させて
困ってしまい。病気治療や衛生管理のみ軍が指導して強制噴霧や強制治療をした。淋病
や梅毒の蔓延を恐れたのである。記録からも少年少女の結婚も労働も本当は国際社会よ
り強く高学歴にしたい腹があったが日本が20歳主張したのに韓国政府は12歳や14
歳の幼年労働を認めよと言ってきたのだ。そこで日本は16歳朝鮮半島で15歳からの
就労を認める事になった。それは日本では就学制度の義務教育は整ったのだが、朝鮮国
では李承晩などの左派系両班は李氏朝鮮の政府内で干されている立場だった。それは、
「事大主義(じゅうだい主義)で小さい政府が大きな国に反抗するのは良くない罪であ
る。という考え方からだ。

188: 名無しさんAA:19/09/23 22:18
  歴史の群像     115

 実は韓国人を見ると、朝鮮半島は100年前も300年前も全く変わらず進化していない事
がわかる。1906年に、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とし登場した時も
、伊藤は日本が囲うことは、経済的損失と日本の国際事情から反対していた。日本政府
内でも併合派と反対派が拮抗し紛糾して議論していた。元老で政界にも発言力を持って
いた伊藤博文は併合派に対して異論を唱え、併合には反対の姿勢をとったのだった。つ
よく「韓国の独立富強という建前を捨てることは却って益なしである。」と述べ、加え
て財政支出の増大を招く。と併合は勧められず国内産業の育成に力を注ぐべきとしてい
た。しかし窮した李氏朝鮮は密かに安重根放し、暗殺させた。1909年10月26日には伊藤
博文が韓日合邦を要求する声明書が朝鮮人によって出され、併合派が優勢となって日韓
併合に陥ったのは知っての通りの歴史である。こうして韓国併合および大韓帝国の滅亡
は決定的なものとなった。その後もあまり乗り気ではなかったが、国策上多大な国費を
もって農地改良や学校建設に取り組み、中間言語の韓国語統一を行って、高宗帝を喜ば
せた。戦時中日本が疎開しおかゆの食糧難時代でも満州からの食糧は来たが朝鮮半島の
農業組合は日本に送ることは少なかった。陸軍の食糧として東南アジア向けに少量持っ
て行った程度である。戦後すぐも渡航禁止で朝鮮半島の食糧は余っていたほどだったが
日本は貧困の限りであった。韓国の電力事情も同じで大きなダムの発電量も送電線も、
まったく空爆されずに豊かなままであった。問題はソ連軍の蛮行であった。もとは朝鮮
書物は日本が購入するように立派な写し書の国だった。1776年、正祖の時代に昌徳宮の
敷地内に設立された書院は、歴代の持つ中国や朝鮮の典籍が収蔵され、正祖と支持し合
う実学派の文官らが集められて教育され、彼らが文献研究や政策立案を行う場を早くか
ら作っていた。この奎章閣(キュジャンガク)の設置は、アジアにおける王立図書館に
相当する機関で李氏朝鮮の権威でもあった。歴代王・王室文書や各種記録、中国の文献
、朝鮮の古文書などを収蔵管理、修復などを行った。朝鮮の歴史的記録物の重要な所蔵
庫として機能している。そこには朝鮮におけるキリスト教誕生の嚆矢となった李承薫が
洗礼を受け、帰国して1784年キリスト教礼拝所を設立した天主教経典すら残されている
しかし1801年 辛酉邪獄(カトリック弾圧)が行われ。1804年 純祖の治世、安東金氏によ
る権勢政治は1811年洪景来の乱(地方差別に反発した一揆)まで起こす要因となった。
1816年イギリス軍艦が立ち寄り、バジル・ホールらが朝鮮航海記を相次いで出版したが
その著作によると、清に通商を迫るために中国に向かうイギリス全権大使アマーストら
外交団を軍艦ライラ号の艦長と北京に来たホールは、同行したアルセスト号とともに、
東シナ海海域の探検・調査のため朝鮮の西海岸と琉球王国に寄港した。那覇に40余日
間滞在した。言葉が通じず徹底した海禁政策で拒絶的応対を受けた朝鮮と違い、琉球で
は中国語のできる官吏の真栄平房昭を通事に得て交流を深め、琉球に対して非常に良い
印象を抱いた事が載っている。1862年 壬戌民乱が起こり1863年 哲宗崩御して高宗即位
したが、幼年の高宗の代理の大院君政権の成立した。欧州にも朝鮮事情が伝わると1866
年1月にロシア船現れ通商求めた。元々は興宣大院君はキリスト教に友好的で妻がキリ
スト教徒だったと言われるが、1861年のロシアの南下政策に対馬事件によって、ロシア
の通商要求に難色を示した。この後もキリスト教徒の興宣大院君に三国同盟(朝鮮、フ
ランス、イギリス)を申し入れたが計画は失敗し、興宣大院君にはキリスト教徒を擁護
している非難を受けた。非難を終息するために起こしたのが丙寅教獄で、この非難に3
月には朝鮮で布教に当たっていたベルヌー司教他9名のフランス宣教師、高宗の乳母(
朴マルタ)を含んで八千名におよぶ信者を虐殺した。当然フランス政府に抗議し10月に
フランス軍により江華島の一部占拠(丙寅教獄)という一連の事件が起こった。8月に
もアメリカの通商交渉に、ジェネラル・シャーマン号の強襲事件が起こっている。



189: 名無しさんAA:19/09/23 22:19
  歴史の群像     116

1868年 オッペルト事件(ドイツ商人による大院君恐喝未遂事件)は、ユダヤ人実業家の
エルンスト・ヤーコプ・オッペルトは1851年に香港で貿易業を始めていたた。しかし、
その会社が1867年に破産し、エルンストは当時厳しい鎖国政策を執り、西洋人にとって
閉ざされた市場だった朝鮮との交易に興味を抱いた。ある日スタニラス・フェロンとい
うフランスの宣教師と貿易のために開国するよう脅すべく、国王高宗の実父で摂政を務
め朝鮮の実質的な統治者であった興宣大院君の父親の遺骨を掘り出して、朝鮮より持ち
去る計画を立て実行した。アメリカ人フレデリック・H・B・ジェンキンスの資金と手を
借りて、1868年4月30日に出発し墓所にたどり着いて発掘を試みた。しかし 遺骸を覆う
巨大な切り石に阻まれて、目的を達することができず帰路したが、彼らは朝鮮の兵士と
戦うこととなり、一行は朝鮮から逃げ出す羽目となった。この事件は朝鮮人を激昂させ
、外国人との交易を更により遠ざけるもの原因となった。こうした事が重なり、1871年
辛未洋擾事件がおこる。1866年、朝鮮国で奇襲したジェネラル・シャーマン号事件によ
り、商船シャーマン号が沈没し乗組員全員が虐殺された事で、1867年 1月、アメリカは
シャーマン号の乗組員の安否を確認するために軍艦ワチュセットを派遣し、翌1868年 4
月には事件の究明のため軍艦シェナンドアを派遣し、1871年清に駐在していたアメリカ
公使のフレドリック・ローの指令で、シャーマン号事件への謝罪と通商を求めてアジア
艦隊に朝鮮派遣を命じた。4月には、アメリカのアジア艦隊司令官ジョン・ロジャーズ
は日本の長崎で落合って艦隊を編成し5月にロジャーズは旗艦コロラド、アラスカ、パ
ロス 、モノカシー 、ベニシアの5隻の艦隊を率いて江華島に向かった。この艦隊は、
1871年 6月10日、江華島の草芝鎮、次いで徳津鎮を襲撃し、激しい砲撃戦を経て、アジ
ア艦隊は米国の海兵隊を上陸させることに成功した。草芝鎮と徳津鎮占領後、さらには
6月11日には広城鎮を制圧した。この戦闘で朝鮮軍は240名以上の戦死者をだすこととな
った一方で、米軍は3名の戦死者を出した。朝鮮側の攻撃は、ほとんど米艦隊に損害を
与えることができなかったとされる。しかし自軍の不都合で何故か15名の死者を出した
。米軍の攻撃により朝鮮国軍は240名以上の戦死者を出すこととなった。この後米軍
は、朝鮮国軍の多数の武器・軍旗を戦利品にして、帰投。戦利品として米海軍士官学校
博物館にはこの時の「帥字旗」を飾っている。この戦いは米海軍の勝利ではあったが、
本来の目的である通商は、却って大院君の強硬な開国拒絶により実現せず、朝鮮国は引
き続き鎖国を続ける事になった。米国議会は戦死者も含む15名に名誉勲章を授与した。
写真家フェリーチェ・ベアトが撮影した写真は、朝鮮の風物を捉えた現存する最も初期
の写真となった。1872年 朝鮮大飢饉が発生し1873年 高宗が成人し親政を宣言、大院君
を退けて親日方針を出した。1875年、朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する
江華島は日本海軍が測量していた事にいらだち、突然日本の軍艦雲陽に向けて朝鮮が発
砲して、応酬合戦となった。この時すでに米軍占領後の事件だったが米軍は駐留はして
はいない事から米軍艦と間違えた砲撃だったのかもしれない。理由は特にわかっていな
い。しかし、日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれ
るこの事件は、日朝修好条規締結の契機ともなった。大院君のもとで攘夷を掲げる朝鮮
政府は、西洋化を進める明治政府を訝しみ、冊封体制下では中華王朝の皇帝にのみ許さ
れる称号「皇」と、中華皇帝の詔勅を意味する「勅」の文字を理由に国書の受け取りを
拒否し、日本はその後何度も国書を送ったが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否した。
大院君は、「日本人は何故蒸気船で来て、洋服を着ているのか。そのような行為は華夷
秩序を乱す行為である。」と非難し、交渉が暗礁に乗り上げ、日本国内では朝鮮出兵を
求めた征韓論争など出兵問題が政治問題化するようになった。

190: 名無しさんAA:19/09/24 01:26

額田は防衛長官までなったのに、こんなに甘っちょろいバカだったのか。日韓議連であ
ろうとも、本当の友好国ならば、今の文政権にちゃんと恫喝批判をすべきだろう。貴国
は条約違反で国際社会を棄損する行為をして人類を危険に晒している。目を覚まして、
国際社会をよく見よ。と行ったのか。世界を敵にして戦争でもするつもりか。と北朝鮮
と同じに国連制裁を求めることまで経済疲弊が訪れるぞと言ったのか。いいのか。と




191: 名無しさんAA:19/09/24 01:30
 そもそも、国や県あるいは市や町というものは行政とされる。しかしの市や町で、あ
るいは国が、組織としてバラバラでは困る。そこで国の中に最高権力機関として政府を
置き最高決定機関として議会を置いた。それが立法府とされる国策や憲法も論議される
機関である。この行政府を整える為に予算を講じ、その方針や国の形や基準を決めたの
である。そしてそれが国と国では条約となる。つまり条約は国が決めた法律と同じ物で
ある。そこで条約を批准するかどう履行するかが議会や政府で決定されたり予算をどう
使うかがが決まるのである。そしての遂行による法の下で違反がないか抜け穴に走って
いないかを問うのが司法なのである。つまりは今韓国が言う三権分立がどういうものか
知らないが、司法だから法律違反や条約違反してもいいというのは、もはや国の形態を
成していない。つまり近代国家あるいは過去の遺物の宗教国家の国体すらない姿であり
アマゾンにすらない野蛮な未開地人集落の集合体と言える。

192: 名無しさんAA:19/09/24 01:35
行政の市長、市民代理の陪審員制度
から出た立法、司法行使の保安官という姿があったのである

193: 名無しさんAA:19/09/24 01:36
行政の市長、市民代理の陪審員制度
から出た議会立法府、司法行使の保安官という姿があったのである

194: 名無しさんAA:19/09/24 01:36
西部劇時代であっても、行政の市長、市民代理の陪審員制度
から出た議会立法府、司法行使の保安官という姿があったのである。


195: 名無しさんAA:19/09/24 09:25
  歴史の群像     117

 ならず者の大院君は、見た目以上に繊細にかつ敏感に有力者に近づく努力をし、安東
金氏に対抗する豊壌趙氏の神貞王后の甥趙成夏(承侯君)と親交を結んだ。神貞王后に近
づき、謀議を重ね、命福(高宗の幼名)を王位継承者とすることとする合意を得た。それ
によって宮中の宦官や女官を包摂し、王族とのつながりを更に深くした。安東金氏とも
親交を結ぶ為に金炳学や金炳国らを通して、政敵安東金氏の中からも大院君を支持する
者も現れ様になっていった。憲宗が崩御した時には、王孫として王位継承者の候補者に
なった為、安東金氏の思惑により排除されていた。安東金氏が哲宗を即位させてからは
、安東金氏の勢道政治の基盤を強化で、王族を厳しく監視していたからだ。ならず者達
と関わり、妓生と昼夜遊んで、安東金氏の「宮道令」と卑称されても、監視から免れた
存在にまでなった。勢道家などを回り乞食などのように装って食事をとったり、使用人
を地位を甘んじて受けて生活していたのである。小説では唾を吐かれた時はちゃんと拭
き取って、大きく笑って、必要以上に食べて侮辱までも甘受していた、とある。大院君
は系譜上、王位継承に近くはなく、裏ではさまざまな交友を深め、王位に向けての布石
を打った。こうして1864年に哲宗が崩御する。神貞王后は早速命福を「翼成君」に封爵
し、院相鄭元容ら元老の意見を利用して王位につける。これによって「興宣大院君」に
封爵され、朝議では大院君の地位や政治参加に議論され、礼遇については、国王以上の
待遇を与えるかわりに、政治に口出しできないように議論された。最終的に地位は国王
の下になり、三政丞の上に設定され、礼遇は三政丞などが乗る、四人轎の乗車はしない
などの規制で、三政丞より下の設定を取ることで政治に参加することが許された。大院
君の出生はかなり痛ましく1820年ソウル地区安国洞で、父南延君と、母郡夫人驪興閔氏
の四男として生まれた。父は、英祖の子の荘献世子の三男・恩信君の養子となり。本系
は仁祖の8世孫。7代祖は麟坪大君、6代祖は福寧君、6代祖は義原君、高祖父は安興
君、曾祖父は李鎮翼、祖父が李秉源である皇帝一家の養子に行った父をもっていた。長
兄興寧君は8歳で死去し、母を12歳でなくすなど不遇な環境で、それでも父南延君から
漢学を学び、姻戚の縁で、金正喜の門下生となり学問を教わっている。13歳で、母と
12親等の驪興府大夫人閔氏と婚姻した。17歳で父を亡くし、長男完興君、次男高宗
などが早くから生まれた。また妾が二人いた。こうして王室宮家の末座に据えられたが
神貞王后が垂簾聴政を行うので、それを補佐するという名目で摂政まで登る。実際には
神貞王后が大院君に大権を委任していた形だったので大きな権力を握って行った。早速
摂政の座に着くと、勢道家一門の官職追放、老論派一党独裁を終わらせ、各党派の人材
を均等に登用し、王権維持のために王族を主要な官職に抜擢し、李朝の五百年の規則を
破って庶子を科挙に応試させ要職につけるなどして、専制王権を強化しようとした。と
はいえ勢道家や権門家である名門両班の支持や推薦あっての大院君だったので、一部の
権門勢家の勢力を残したままだった。しかし自らに包摂することで、大権を保持した。
大院君は儒教政策を推し進め、勢道政治を終わらせ、党派と身分の貴賎を問わず、能力
に応じて人材を登用する。人事行政を行い、専横による腐敗や堕落した王朝をもう一度
再建しようと努めていたが、国外対策については鎖国政策を採ることで、従来の政策を
推し進めていた。公文書には王の教書と記さず「大院位分付」と記した。さらに華陽の
洞書院の権限を取り上げた。華陽洞書院は朝鮮大書院の一つであり、横暴や不正が強く
支配し、大院君の摂政前に、華陽洞書院の儒生に殴られたことで改革を指令していた。
すぐさまこの命令は実行され、華陽洞書院は後に廃止させられた。


196: 名無しさんAA:19/09/24 09:27
  歴史の群像     118

 1875年に起きた江華島事件では、日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)の
きっかけを作った。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、突然の威嚇砲を受け
て、江華島、永宗島砲台と交戦した日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件であるが、
日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれるこの事件の
頃は、日本政府も度重なる親書の受け取り拒否で、征韓論争が日本の明治六年政変によ
って「延期」で模様眺めしようと決まった矢先の頃だった。その後の台湾出兵の発生と
大院君失脚の報によって征韓論の勢いが弱まったために、明治政府は政府間交渉をして
相手の状況をみることとした。1875年(明治8年)にこの暴挙に、釜山に於いて、東莱
府と森山茂理事官との間で初めての政府間交渉が持たれた。しかし、宴饗の儀における
日本大使の大礼服着用(服制問題)と、同大使が宴饗大庁門を通過することについて、
東莱府が承認しないなど、難癖がつき紛糾し、さらに朝鮮政府の中央での大院君の支持
者が交渉中止を求めた報告で議論が紛糾し、東莱府も確実な回答を日本側に伝えること
が不可能となった。この打開策に「雲揚」「第二丁卯」の2隻の軍艦を極秘裏に派遣さ
れ、5月25日に雲揚、6月12日に第二丁卯が釜山草梁へと入港した。朝鮮側は突然軍艦の
来航で懸念を表明し、日本側は「交渉の停滞を懸念して自分(森山)を督促するために
派遣された。」と説明した。さらに軍艦への乗船視察を求めた朝鮮側官吏の歓迎式典や
事前通達をした上での訓練を名目に、空砲による砲撃・射撃演習などの威圧行為を行っ
た。これらの行動は朝鮮側官吏や釜山周辺の住民を大いに恐れさせたが、交渉の進展に
は全く寄与することは無く、大院君の鎖国の決意は固く、交渉官が降りることはなく、
日朝交渉は森山たちの帰国という形で一旦打ち切られた。日本政府はこの事件に関して
はしばらく静観の構えを取った。一方朝鮮国内では日本船を攻撃したという噂が流れ、
釜山草梁で日本人に接する朝鮮側の人々は大いに不安に駆られていた。朝鮮政府は事件
後、釜山草梁における日本人への対応を一転して丁重なものに変えて、日本側を慰撫す
る動きに変わった。事件後の1876年(明治9年)、黒田清隆を特命全権大使の交渉団が
江華府へと派遣されると、朝鮮政府はすっかり変わり、開化派の司訳院堂上官呉慶錫を
交渉に先立つ応接の使者に派遣する。そうして日本側に多大な配慮を示す対応を見せた
。韓国側は「事件は日本船を西洋船だと誤認したことによって発生した不幸な事故であ
ることは明白である。日本船と認識していたのなら攻撃などするはずが無い。」といい
日本政府は「事前に日本国旗を渡して誤認を避けるように忠告していたのに事件が発生
したのは朝鮮側の怠慢ではないか。黄色い旗を掲げていたという報告は受け入れがたい
。雲揚が日章旗(事件発生時は一旒、被攻撃後に三旒まで増やす)を揚げていたことは
間違い無く、そもそも条約交渉が滞っていたこと(書契問題)は、事件と同程度に重大
な問題である。としたのである。


197: 名無しさんAA:19/09/24 09:32
韓国側は「事件は日本船を西洋船だと誤認したことによって発生した不幸な事故であ
ることは明白である。日本船と認識していたのなら攻撃などするはずが無い。」といい
日本政府は「事前に日本国旗を渡して誤認を避けるように忠告していたのに事件が発生
したのは朝鮮側の怠慢ではないか。黄色い旗を掲げていたという報告は受け入れがたい
。雲揚が日章旗(事件発生時は一旒、被攻撃後に三旒まで増やす)を揚げていたことは
間違い無く、そもそも条約交渉が滞っていたこと(書契問題)は、事件と同程度に重大
な問題である。としたのである。ところが、韓国側は日本の開国時の騒動ほどには全く
鎖国政策の続行や解放も全く気にしていなかった。というのも鎖国続行や開国政策にも
大国中国が決めることで、属国人の我々は関係ない。との認識や態度を合議していたか
らだ。




198: 名無しさんAA:19/09/24 09:33
  歴史の群像     119


 これまで、大院君は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主
張することは売国行為である。」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建て、攘夷の機運を高
めて開国派排除を行っていたが、日本は朝鮮との交渉を有利にするため、朝鮮の宗主国
である清朝と対等の条約を進めて、1871年に日清修好条規を締結した。これにより冊封
体制の維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮に修交を促していた。1873年には対外強硬
派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握った。それでも日朝関係は容易には好転
しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵で勝機を得て、
この時、次に日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や
朴珪寿を中心に日本からの国書を受理すべしという声が高まった。結果李・朴は対馬藩
のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊を意味するに過ぎず朝鮮に対して
唱えているのではない。受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張す
るに至り、江華島に全権大使黒田清隆と副使井上馨が渡航し、朝鮮からは簡判中枢府の
事申穂と副総管尹滋承が出席し交渉する。釜山における国交交渉が数年間継続しても、
挫折し続けてきたことに焦れた日本側は、突然条約締結を持ち出した形となったが、こ
れはペリーの江戸湾黒船来航の前例に倣って、ソウルに近距離な江華島で威迫交渉する
ことを決め、一挙に積年の懸案を解決しようと図ったのだとされる。その為に朝鮮との
交渉に際しては、事前に日本側はペリーの『日本遠征記』を深く研究し、交渉姿勢から
後に締結する条約に至るまで模倣した。と言われている。日朝間交渉の修正項目は、両
国の国名をどう記載するか、相手国に赴く使臣の交渉相手とその資格・往復回数、開港
場所とその数、最恵国待遇などであった。朝鮮側の修正要求は冊封国としての体面的な
ものが多く、後々問題となる領事裁判権は一切問題としなかった。数ヶ月後に結ばれた
条規附録や貿易規則で定められた関税自主権の放棄なども円滑に承認された。条約批准
の段階に至っても、朝鮮側の関心事は体面的なもので批准の際の、朝鮮国王の署名を要
しないことを日本側に求めた。結局、この問題は「朝鮮国主上之宝」という玉璽を新鋳
して押下批准することになった。そして、 2月27日(朝鮮旧暦2月3日)に江華府練武堂
で条約を締結及び批准した。条文は漢文と日本語で書かれ、両国の外交文書は日本語と
朝鮮真文(漢文)で書くこととし、日本側の文書には、先10年間は日本語に漢文を併記
する事とし両国の国名はそれぞれ「大日本国」、「大朝鮮国」と表記することとした。
第一款 朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。 第二款 
日朝両国が相互にその首都に公使を駐在させること。を謳ったが、ここで後で問題にな
ったは第一款であり、日本は朝鮮を国際法に於ける独立国に措定しようとした。「自主
の国」=「独立国」という解釈である。国際的な独立国を措定することで清朝が朝鮮に
介入する余地を無くす試みをした。朝鮮側ではそのようには解釈していなかった。冊封
体制下では「属国」=「自主のない国」の認識はなく矛盾しなかった。というより属国
か独立国か、という二項対立的な枠組みそのものは、西洋から来た近代の所産であった
。第四款 すでに日本公館が存在する釜山以外に2港を選び開港すること。第五款 土地
を貸借し家屋を造営しあるいは所在する朝鮮人の家屋を賃借することも各人の自由に任
せること。第五款 開港地において日本人は朝鮮人に賃金を支払うことにより雇用する
ことができる。朝鮮政府の許可あれば、来日することも問題なしとする。第六款 開港
地での米や雑穀の輸出入を認める。第七款 航海者が自由に沿岸を測量し、位置や深度
を明らかにして地図編纂して両国客船の安全な航海を可能とする。第八款 指定された
開港場以外において密貿易を行い、その地の官僚に摘発された時は、日本の管理官に引
き渡し、日本側は没収した金品を全て朝鮮側に交付すべし。第九款 通商については、
自由貿易を行う。両国の官吏は少しも貿易の制限・禁止してはならない。第十款 日本
人が開港にて罪を犯した場合は日本の官吏が裁判を行う。朝鮮人が罪を犯した場合は、
朝鮮官吏が裁判を行う。双方は、その国法をもって裁判を行い、すこしも加減をするこ
となく努めて公平に裁判すること。などを定めた。

199: 名無しさんAA:19/09/24 09:33
  歴史の群像     120

 日本が最初に締結した日米和親条約や日米修好通商条約はその後に結ばれた西欧列強
と締結した諸条約のモデルとなっている。強いて類別すれば、条規そのものが日米和親
条約にあたり、付録及び貿易規則・公文は日米修好通商条約に該当する。しかし同様の
性格を有しながら、いくつか相違点もある。朝鮮を「自主の国」とわざわざ言明してい
る点は、この条約の特殊な点である。西欧列強の対日条約のいずれにも、これに類似す
る項目は無い。また最恵国待遇がないことも特徴の一つである。駐日イギリス公使の、
パークスは、日本の朝鮮への要求が日本に対する欧米側の要求よりも上まわっているこ
とについて、非常に注目していた。以下に違いを列挙すると、・朝鮮側の雇用が前提と
はいえ、日本の商船が開港地以外での沿岸貿易が許される余地がある。当時日本自身が
欧米列強から強く要求されていたものであった。・開港地に外国人の遊歩区域を設けて
いる点は同様であるしかし、日朝修好条規では外国人の商業行為をも認めている。安政
の五ヶ国条約では、治外法権を犠牲にしてでも外国人の商業行為を阻止した。それによ
り日本が国内の産業育成の時間的猶予を得られた。しかし日朝修好条規では、そうした
暇を朝鮮に与えることは無かった。同じく開港場にて日本の貨幣使用が認められている
点も西欧の対日条約と同じであるが、それらは銅貨の輸出は認められていない。しかし
この日朝修好条規では認められ、その海外流出を促した。・港税の価格が、日本と欧米
間の取り決めでは港税は22ドル(入港料15ドル+出港料7ドル)であったのに対し、日朝
間では蒸気船など大きな船舶については5円、それ以下の規模の船は積載量により2円と
1円50銭とされた。明治のこの時期の為替レートは1円=1ドルほどであったので、港税は
1/4程度の廉価に抑えられている。 貿易・海外進出に関し先行する日本にとっては有利
な条件となっている。米穀や豆など穀類の輸出の自由や、朝鮮人の地主と直接交渉して
土地貸借ができること。など以上から日朝修好条規は、日本が欧米と結んだ諸条約と比
較してより過酷な内容を持ったものになっている、ともいえる。「朝鮮が清朝の冊封か
ら独立した国家主権を有する独立国であること」を明記した変わったものだったが、日
本が置かれた不平等な「片務的領事裁判権の設定」や「関税自主権の喪失」などといっ
た不平等条約的条項の内容とすることなどがなかった。という特徴がある。朝鮮側には
多少不利な内容となっているが、それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮
が開国する契機となった条約で、日本よりはかなりいい条件であった。その後、朝鮮は
似たような内容の条約を他の西洋諸国(アメリカ合衆国、イギリス、帝政ドイツ、帝政
ロシア、フランス)とも同様の条約を締結することとなった。朝鮮側の認識では、日朝
修好条規の締結は江戸時代における冊封体制下における交隣関係復活であると捉えてい
たようだ。決して、近代的な国際関係の中の自国が置かれた立場、などと認識や考えて
方はしていなかった。したがって両国が公使を相互に常駐させる必要性を認めることは
なかった。むしろ朝鮮通信使のように、慶弔といった事柄に対し随時使節を送れば良い
と主張し、そして首都に常駐することに非常な懸念を表明した。日朝間で激しいやりと
りがあり、弁理公使花房義質が日朝間を頻繁に往来し、1880年12月には漢城に公使館を
設置することで長期滞在を既成事実化していた。これで朝鮮側も黙認せざるを得なくな
った。そして同年には、朝鮮側も東京に公使館を設置している。


200: 名無しさんAA:19/09/24 09:33
  歴史の群像     121

 しかし、ここで注目なのは、李承薫が洗礼を受け、天主教経典の多くを持ち帰って来
て、帰国してキリスト教礼拝所を設立しのは1784年である。そしてこの海外との条約と
して最初の日朝修好条規が成立したのは1880年で、なんとほぼ百年かかっても尚属国の
地位がよい鎖国政策が良いとしたことである。日本の江戸幕府第!5代将軍徳川慶喜が
政権返上した大政奉還は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)で明治天皇へ奏上し翌日
に天皇が奏上を勅許したのだが、日本より早く開国に向かっていたことである。さらに
明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出された憲法発布に至っては、1889年(明治
22年)である。日本の方がはるかに遅かった道のりである。こうした遅れた開国ともに
大日本帝国憲法が発布されて、国民に公表され、この憲法は天皇が黒田清隆首相に手渡
すという欽定憲法祭典の儀式が行われた。しかし、それでも日本の国民は新聞紙上で、
福澤諭吉などは、『時事新報』紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚
き好意を持って受け止めつつも、「そもそも西洋諸国に行はるる国会の起源、または、
その沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭
ひ、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは、内
治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したる事
なれども、今の日本にはかかる人民あることなし。」と批判し、人民の精神の自立を伴
わない憲法発布や政治参加には不安を抱いている。又、中江兆民も同じに、「我々に授
けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずしては、
まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや。」と書生の
幸徳秋水に溜息をついている。つまり福沢諭吉は、内治外交がうまくいかずに発布して
も民衆の議論から成ったわけでなく心配だ。といい中江兆民は、中身も知らず憲法が出
来たとお祭り騒ぎをするのは愚の骨頂である。とためいきをついた。とされる。またこ
の時フランスの人権法であるボアソナード民法は、帝国憲法と同時に一旦公布はされた
ものの、井上馨の転回や山田の政策と相まって民法典論争が生じ、施行されず廃止され
た。朝鮮国内では、冊封体制下で「属国」=「自主のない国」の認識もなく属国をよし
として大院君の「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張する
ことは売国行為である。」という旨の法の中で定まっていたのだ。この事は日本人には
まったく信じられない政治と環境である。国内で治安が乱れ、外国船に散々敗れても尚
属国としての生き方を選んだのだ。国情や仕組みはあろうが国民も西洋列強を目のあた
りしながらもそうだったのだ。更に日本が驚いたのは識字率が2割に留まり、日本のよ
うな私塾も学校も極めて少なく、農村に至っては言語さえも違っていた事だ。又遣唐使
の時代にはあったろう国璽の印や皇帝の印すらなく、すべての行政には中国の意向を聞
く行事が行われて国を動かしていた事であった。政治が正に祭りごとで、日本でいえば
宴会の式典であり神主にあたる式亊省の両班の取り決めに従うのである。両班というの
は文班と武班を総称した言葉で、彼らは農・工・商に従事せず、儒学だけ勉強して科挙
を経て何の制限もなく高級官職にも昇進する特権を持った。そして、官僚になれば土地
と禄俸を国家から受けて、地主階級を形成した。両班の中で李氏朝鮮の建国以来、続出
した各種の功臣達と高級官僚達は、様々の名目で支給された広大な土地を世襲・私有し
、徐々大地主になった。この経済的な基盤を土台にして、権門勢家の門閥を成した両班
も生じて、同じ両班でも文官は武官より優位を占めていたから、一般的な要職は勿論、
軍事要職までも文官が長官になれば、武官をその下に置いた。又彼らの下位の身分層に
、吏胥・駅吏・軍校などが在り、末端の行政・警察事務を担当し、直接平民たちを支配
する実権を握った。その為普通に生活は一般的にとても悲惨だった社会は、様々な波紋
を投げかけていた。


201: 名無しさんAA:19/09/24 09:34
  歴史の群像     122

 李氏朝鮮の末期になるにつれて、より一層ひどくなった官吏たちの収奪に対する反抗
として、民乱が毎年起ったりした。洪景来の乱、哲宗の時の民乱、甲午農民戦争などの
主体は全て搾取される農民だった。商工業に従事する人は、ほとんど全部が奴婢の身分
で、彼らは両班たちの一種の財産と見なされて売買・相続などの対象になった。その為
海外の黒人奴隷の売買にも沢山の朝鮮人が地主から売られ欧米にやってきたと言われる
。奴婢には公賎と私賎の2つに大別される。つまり、奴婢の彼らの中にも多くの階層が
あったのだ。この外にも、娼妓・巫堂・広大なども賎人に属したし、仏教の没落ととも
に僧侶や宣教師も賎人の待遇を受けた。賎人中でも最も賎待を受けた身分層は白丁で、
彼らは人間以下の待遇を受けたし、特殊部落を成して一般人とも隔離された中で、屠殺
・柳器匠などの作業を世襲しながら暮した。日韓条約の最初の日朝修好条規修は、日朝
間で結ばれた最初の条約であるが、条約そのものは全12款から成り、それとは別に具体
的なことを定めた付属文書が全11款、貿易規則11則、及び公文がある。これら全てを含
んで一体のものとされる。しかし、この条約が朝鮮人を解放した。今の日本に定住する
帰化朝鮮人は、この時期密航によって九州に上陸し、日本語や習慣を覚えながら北上し
た、この日韓併合の後の時期、両班に差別された白丁達は、両班の搾取に耐えられなく
なり、いち早く近代的で清潔な日本に移り住んで来たのである。そしてもう一つは、第
二次大戦後に、朝鮮戦争で圧倒的な朝鮮人民軍(北朝鮮軍)との人員・戦力・装備の差
から大韓民国国軍(韓国軍)は瞬く間に総崩れとなり、釜山に逃げ込んだ。そこでは、
それまで釜山や済州島に住んでいた住民や白丁達は追いやられて土地は奪われ、以降も
韓国政府と韓国軍の弾圧と虐殺から逃れ日本に密入国してきた。いずれにしても結論と
して言えることは、@日本に定住する多くの朝鮮人は白丁の子孫である事が大多数であ
り、日本に定住する朝鮮人は自ら日本に来たのであって 強制連行などは存在しなかっ
た。という。つまり労働者は搾取するものとしてコリアンカースト制が確立していて、
農奴を私物化支配した世界が横たわっていたのである。しかし、ここで起こった事は、
そうした実務労働をしないで胡坐を掻いて、まるで家畜か虫けらの様に支配していた人
達の生活崩壊であった。日本の様に、江戸時代の領主支配もなく藩政改革もなく、更に
は明治維新文明開化や自らの国の統一や国を挙げての戦争もなく、ただ属国として中国
に追随し、アジア解放は日本からの手取り足取りで棚ぼた式に独立を果たした国だった
。日本が日清戦争で日本側が戦死者164人、マラリア等による病死者4,642人に上り、女
性子供も参加したゲリラ戦などによって抵抗した台湾側が兵士と住民およそ1万4千人
死亡(推測)とされる中でも、あるいは日露戦争で19か月の戦争期間中に戦費18億円あ
まりの戦費を戦時国債で借金し、日本軍の常備兵力20万人に対して、 109万人に総動員
法を立ち上げ兵を送り込み80万の死傷者を出しながら、国内産業の稼働低下という、
経済的疲弊をおおこし国力を激しく消耗しながらも、朝鮮軍は自軍を温存して模様眺め
であった。のだ。こうした歴史の事実は、まったく真実隠しをして歴史を公言するのは
昔からの習慣ではあったが、第二次世界大戦も同じ現象を起こしていたのである。こう
して日韓併合時に解放で農奴がいなくなったり農地改革で生活を失った両班は約5割に
上りその後も、両班のほとんどが2代目や3代目もしくは6代までそのまま努力も改革
も技術的進展も何の改善もしなかった無能などころか働かない経営者だったので時代と
共に8割近くが落ちぶれたとされている。代りに台頭したのが日本人の産業実業家や、
農業主だったとされる。ここに新たに恨み怨み妬みの文化が育ってそれらは今も李承晩
によって現代まで受け継がれた韓国の文化的基礎になってしまっている。


202: 名無しさんAA:19/09/24 09:34
  歴史の群像     123

 そもそも、国や県あるいは市や町というものは行政とされる。しかしの市や町で、あ
るいは国が、組織としてバラバラでは困る。そこで国の中に最高権力機関として政府を
置き最高決定機関として議会を置いた。それが立法府とされる国策や憲法も論議される
機関である。この行政府を整える為に予算を講じ、その方針や国の形や基準を決めたの
である。そしてそれが国と国では条約となる。つまり条約は国が決めた法律と同じ物で
ある。そこで条約を批准するかどう履行するかが議会や政府で決定されたり予算をどう
使うかがが決まるのである。そしての遂行による法の下で違反がないか抜け穴に走って
いないかを問うのが司法なのである。つまりは今韓国が言う三権分立がどういうものか
知らないが、司法だから法律違反や条約違反してもいいというのは、もはや国の形態を
成していない。つまり近代国家あるいは過去の遺物の宗教国家の国体すらない姿であり
アマゾンにすらない野蛮な未開地人集落の集合体と言える。こうした姿を恥ともしない
国民はこの世にアフリカや戦場にしかいない。つまりこうした矛盾国家は韓国が初めて
であろう。特に西側諸国から出ているのは残念でならない。今アメリカも又民主主義の
崩壊と同じ大統領の国家犯罪を審議できないでいるし、イギリスも又やっとのことで、
これまで平和構築に寄与してきたEUの拡大行政から離脱しようしている事を繋ぎ止め
ている状態である。そしてスペインやイタリアあるいはフランスでもトランプ支援なの
か極右や極左が目覚ましい市民権を得ようとしている。また社会主義国のロシア、中国
でも、かつての共産主義をかなぐり捨てた行政統治しながらも、司法は独裁政権のまま
変えるべき運命に逆らって国民を痛めつけたままで生き残ろうと画策している。この事
は、あくなき和平への挑戦であり人類の糧には何一つ利にならない措置だが、習政権や
プーチン政権も自ら党なり個人なりの保身活動であってナチス政権下のヒットラーの姿
と何ら変わらない。しかし第二次世界大戦以降も、文明国家の戦勝国外交が二枚舌外交
や国家第一主義でのほかの宗教国家や独裁国家と付き合って来たために、非常に多くの
問題を抱えてしまっている。ベトナム戦争をみても解る様に、米国がベトナムに負けた
のではなく米国は新社会に追いつかなかった。若者が声をあげてやっと米国は現実に目
を向け手を引いてベトナムは独立を果たした。そして国内もまたやっと黒人差別を違法
としての取り締まりに向かったのである。今香港でデモが行われるが、実は1970年代の
香港はその意味では人種差別はなく、アメリカよりも進んでいたと言えるのである。こ
の人種差別が起こっていた西部劇時代であっても、行政の指導としての市長、市民代理
の陪審員制度から出た議会立法府、司法行使の保安官という姿があったのである。これ
らは、日本が米国を真似た様に、米国は欧州を真似たし、欧州は日本を真似た。つまり
朝鮮人がいかに言い逃れしようとも、朝鮮半島の最高に自由な最高に発展した時代は、
日本が最新鋭の思想を持ち込んで指導教育した日韓併合時代であり、現代の基礎となっ
た資本はそこにある。そこで朴政権は伏して日本に資金援助や技術援助を求めて、今の
漢江の奇跡からの経済発展を遂げたのである。それは中国も同じだった。日中戦争前は
ほぼ世界の国の投資が集まり、日本以上に農場、工場、商店が栄えて、誰も毛沢東に声
に聞く耳を持たないぐらいに、綿糸による織物輸出や鉄鉱石の製錬から製品ができて、
輸出するまでなっていた。手工業ではあったか、簡単な水車による発電まで行われて、
火薬・銅・更に芸術と、皇帝退位した後は発展していった。この革命後の近代化成功か
と思われた頃、突然毛沢東の暴力闘争に襲われ、蒋介石によって討伐隊が作られるのだ
が、囚われて偽称政権として大戦期に使われ、大戦後はソ連指導の共産党に乗っ取られ
るのである。しかし境界紛争で対ソ戦になり、自分の子供食べるほどの失政飢餓を毛は
作り、またしてもケ小平による立て直しに、日本が頼られるのである。


203: 名無しさんAA:19/09/24 19:14
 東京をはじめ関東人というのは、自分に都合がよすぎる。今回一度の台風で大騒ぎし
、ブールーシートばかりで停電だからと災害指定をと 森田健作などは言う。馬鹿をい
うな、九州は毎年欠かさず台風はやってくるし、奄美大島始め沖縄ではしょっちゅうの
事だ。大型小型をいとわず、たまにしかこない災害だからと手抜きの限りを尽くした家
が、カビが生えているから、ゴルフ鉄塔が倒れたから、などというの福島原発事故と同
じに合理性でこうなっただけで、別に驚くことでも慌てることでもない。不幸にも家屋
が水浸しになっているとは言え、一週間や二週間でカビが生えるはずもなく、災害でも
突風で鉄塔が倒壊したのではない。バカみたいに天幕を取り除き側幕を下ろしていない
事が問題であり、社長のすべてを補償するなどというばかげた声明も思い違いもはなは
だしい。火災保険や災害保険は各個の責任で行われるものでそれ以上が加害者たる者が
補償するのが道理である。さらに倒壊や半壊を調べているがそうしたものは地震災害に
適用されるべきものであり水害でもない風においては突風でもない限り無意味である。
一体何ゆえにこうしたものに、公的助成があるのか。福岡の水災害では、柳川市は勝手
に流されたなすびハウスに損失補てんはしなかった。流域規制して除外地と全く不平等
な赤線をひいたのだ。そんなくだらない勉強のない行政官僚には、そうした助成する様
な資格など議員もろともない。だいたい倒木災害の中空病木みても行政怠慢なのである
。政府すら公債を出すほど過大な予算を作りながら何に金を使っているやら。まったく
不可解なTV報道ばかりである。もっと真剣に政治をすべきであろう。発電機すら持っ
ていながら職員が各所をまわらないなど考えられない。かつての井戸を持つ家庭すらも
なかにはあるだろうに、配水車しか念頭に無いなどとは全く都市建設を間違えている。



204: 名無しさんAA:19/09/24 20:16
 だいたい激辛料理や大盛り料理あるいはバンジージャンプなどやらせてTV番組とし
ていることは、ほぼ倫理法違反でいじめやパワハラ以外何物でもない。そういう事を、
一人笑いで面白がっているという身内の番組に特化してなぜ放送と言えるのか。全くも
ってナンセンスなとんでもない自己欺瞞の関東心理である。BPOももっと対話すべき
で、今度の韓国向け輸出のニュースも事実と裏事情と議員や国民心理とごっちゃまぜで
まるで真実であるかのような報復処置として報道した。これなどイエロージャーナルの
確たるもので、もっと誤解のない報道をすべきである。例え誤解した大臣がいたとして
も。


205: 名無しさんAA:19/09/25 08:28 ID:Fs
 国連温暖化対策サミットの16歳のグレタ・トゥンベリさんが訴状。

 私が伝えたい事は、私達は貴方々を見ているということです。そもそも、全てが間違
っているのです。私はここにいるべきではありません。私は海の反対側で、学校に通っ
ているべきなのです。貴方々は、私たち若者に希望を托そうと集まっています。よく、
そんなことが言えますね。貴方々は、その空虚な言葉で私の子供時代の夢を奪いました
。それでも、私は、とても幸運な1人です。人々は苦しんでいます。人々は死んでいま
す。生態系は崩壊しつつあります。私たちは、大量絶滅の始まりにいるのです。なのに
、貴方々が話すことは、お金の事や、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。よく
、そんなことが言えますね。三十年以上にわたり、科学が示す事実は極めて明確でした
。なのに、貴方々は、事実から目を背け続け、必要な政策や解決策が見えてすらいない
のに、この場所に来て「十分にやってきた」と言えるのでしょうか。貴方々は、私達の
声を聞いている、緊急性は理解している、と言います。しかし、どんなに悲しく、怒り
を感じるとしても、私はそれを信じたくありません。もし、この状況を本当に理解して
いるのに、行動を起こしていないのならば、あなた方は邪悪そのものです。だから私は
、信じることを拒むのです。今後10年間で(温室効果ガスの)排出量を半分にしよう
という、一般的な考え方があります。しかし、それによって世界の気温上昇を1.5度以
内に抑えられる可能性は50%しかありません。人間のコントロールを超えた、決して後
戻りのできない連鎖反応が始まるリスクがあります。50%という数字は、貴方々にとっ
ては受け入れられるものなのかもしれません。しかし、この数字は、(気候変動転換点
)「ティッピング・ポイント」や、変化が変化を呼ぶ相乗効果、有毒な大気汚染に隠さ
れたさらなる温暖化、そして公平性や「気候の正義」という側面が含まれていません。
この数字は、私たちの世代が、何千億トンもの二酸化炭素を今は存在すらしない技術で
吸収することをあてにしているのです。私たちにとって、50%のリスクというのは決し
て受け入れられません。その結果と生きていかなくてはいけないのは私たちなのです。
IPCCが出した最もよい試算では、気温の上昇を1.5度以内に抑えられる可能性は、
67%とされています。しかし、それを実現しようとした場合、2018年の1月1日にさ
かのぼって数えて、あと420ギガトンの二酸化炭素しか放出できないという計算にな
ります。今日、この数字は、すでにあと350ギガトン未満となっています。これまで
と同じように取り組んでいれば問題は解決できるとか、何らかの技術が解決してくれる
とか、よくそんなふりをすることができますね。今の放出のレベルのままでは、あと8
年半たたないうちに許容できる二酸化炭素の放出量を超えてしまいます。今日、これら
の数値に沿った解決策や計画は全くありません。なぜなら、これらの数値は貴方達にと
ってあまりにも受け入れがたく、そのことをありのままに伝えられるほど大人になって
いないのです。貴方々は私たちを裏切っています。しかし、若者たちは貴方々の裏切り
に気付き始めています。未来の世代の目は、貴方々に向けられています。もし貴方々が
私たちを裏切ることを選ぶなら、私は言います。「あなたたちを絶対に許さない」と。
私たちは、この場で、この瞬間から、線を引きます。ここから逃れることは許しません
。世界は目を覚ましており、変化はやってきています。あなた方が好むと好まざるとに
かかわらずに。ありがとうございました。



206: 名無しさんAA:19/09/25 09:22
 小泉進次郎は国連に行く暇などあるはずがない。先のバカ大臣が無責任にも海洋放出
を仕方ないとした放言をし、全く科学研究や技術進展の予算を行って指導していない事
があからさまになったのだ。小泉氏は、ちゃんと福島近くに汚染水専用の研究施設を作
り、トリチウム研究施設、ヘリウム組成研究施設、水素発電実用化施設を隣同志で直ぐ
に作るべきである。というのも現代の科学では、トリチウムはヘリウムに変換し安定化
し電子や中間子などが放出されなければ、放射能のような毒性を止められると考えられ
る。だったら近畿大学のようにその粒子を防ぐ膜や新たな発電材料としての期待や科学
技術の研究にはどれだけ予算かけても行い完成させることが肝要ではないか。それを全
くやる姿勢も示さずふらふらと海外に出かけていくとは、全く怒り以外何物でもない。
まずは足元の問題を片づけよ。かつての明治天皇の様に。



207: 名無しさんAA:19/09/25 09:42
又韓国は馬鹿な事を言い出した。DMZを「平和地帯」にと文氏は演説し、世界遺産の
登録構想をも視野にいれる。と言う。だいたいDMZそのものが平和のための中立地帯
非武装地帯として定めたものだ。そのフェンスを破り、交通できるように壊したのは。
文氏その人ではないか。そのため病害菌を持った野生動物が行き来して国境付近では、
トンコレラ豚を発症させ、それが今や日本の茨木までやってきている。恐らく韓国人や
中国人が持ち込んだ付着バイキンであろうが、これらに多大な税金と人手を使い日本す
ら対処しなくてはならない。観光を担当する省庁は一体何の無駄金に使っているやら。


208: 名無しさんAA:19/09/25 11:56
 いまだに、増税にこだわり意味のない増税に意気込む政府は、さっさと解体したがい
い。そもそもまったく下準備も自らのばらまき予算にも手を付けず、人気取りの議員の
給与値上げで歳費拡大のみで何ら国会改造や改善を果たさないままで政治形態のあるべ
き姿すら討論しない。まったくそうした中で5輪開催や天皇の生前遷宮を承認しては、
大嘗祭という日本の天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭を行うらしい。この国とき
たら何を考え違いや思い違いしてるのだか。まったく税金を上げて補助を行い、地方の
馬鹿者を大勢つくり、農協型の企業集約をし、まともな商店や工場を壊しまくる。これ
で日本が大きくなるはずはないのに、取り巻き議員取り巻き官僚がおだてあげ、選挙の
バカ支援者が騒動する。本人の人柄や馬鹿さもしらないままに。おかしい限りだ。



209: 名無しさんAA:19/09/25 12:30
 小猫のそら   38

 いまだに、増税にこだわり意味のない増税に意気込む政府は、さっさと解体したがい
い。そもそもまったく下準備も自らのばらまき予算にも手を付けず、人気取りの議員の
給与値上げで歳費拡大のみで何ら国会改造や改善を果たさないままで政治形態のあるべ
き姿すら討論しない。まったくそうした中で5輪開催や天皇の生前遷宮を承認しては、
大嘗祭という日本の天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭を行うらしい。この国とき
たら何を考え違いや思い違いしてるのだか。まったく税金を上げて補助を行い、地方の
馬鹿者を大勢つくり、農協型の企業集約をし、まともな商店や工場を壊しまくる。これ
で日本が大きくなるはずはないのに、取り巻き議員取り巻き官僚がおだてあげ、選挙の
バカ支援者が騒動する。本人の人柄や馬鹿さもしらないままに。おかしい限りだ。お隣
韓国はもはや米国すらも文政権のこの馬鹿さに呆れ顔で韓国駐留軍を撤退させても金氏
の北朝鮮との対話して核放棄がなされればそれでいいとトランプ氏は匙を投げた様だ。
ただ韓国を捨てても台湾を支持する。今年も10月1日の国慶節(建国記念日) 中華人民
共和国では、建国70周年記念日に当たる、習近平政権は威信をかけて「香港の治安」
に回復強行する意気込みだが、香港民は台湾の国民党がカイロ宣言時の政党政府と知っ
ている。習近平共産党政府は香港の先に台湾吸収を見据えている。中国共産党の歴史観
では、「台湾の主権はカイロ宣言に基づいて日本から中国に移ったが、その後、反乱軍
である中国国民党政権の占領下に置かれたままで、中華人民共和国の行政権が及んでい
ない。」と言う論法だ。したがって早く台湾を占領し、祖国に復帰させなければならな
い」という声になる。しかし、香港返還協定を実現したケ小平が称賛されたのと裏腹に
、香港・台湾の自由社会の姿が、今までの中国を助け、新しい中国支援の基になってき
た現実は厳然と今もある。「台湾の祖国復帰」を実現すれば、習近平は歴史に名を刻む
が、自由主義・資本主義を取り入れ貿易収支によって国力をつけて来たという現実は、
砂上の楼閣となり、恐らく国内崩壊を目にすることになる。1980年代に国民党政府は、
当の昔に戒厳令を廃止して、国連から追い出されても、台湾は民主化は成功し、大統領
に当たる台湾総統は国民の直接選挙で選ばれるようになった。実は習近平はこの人気の
あるうちに、こうした選挙戦を実地する機運に恵まれている。台湾では、親中派の国民
党と独立志向派の民進党が交互に総統を出している。「台湾が反乱軍の占領下にある」
という声はもはや通用しない。台湾の民族自決権は台湾人自身が握っている状態である
。現在の台湾総統は蔡英文。独立志向派の民進党の総統です。この蔡英文総統が再選を
かける総統選挙が、来年1月に迫る中で、台湾との国交友好国に次々に国交の断交を迫
る甘い飴と厳しい鞭を仕掛けていく。多くは港や交通インフラが未整備でその融資や、
自国の工事業者を送り込み援助を申し出て、国交断絶しない国には、日本の尖閣沖での
軍事パレードのような漁民軍団を送って、フィリピンやベトナムやマレーシアの様に、
住民嫌がらせや機銃弾操作のような虐殺行為をして回っているのだ。これらの遠い要因
に日本の経営者や友好議連がいることを、われわれ日本人は知っておらねばならない。



210: 名無しさんAA:19/09/25 15:47
  新 柳川散歩道    ----3609

 令和時代になった。柳川の地は飛鳥・奈良時代には、江曲(えごん)の庄とされた。
瀬高の浜という意味である。今や不知火海とも言われなくなった有明海だが、本来長崎
側、つまり雲仙島原の方から見た名が有明海であり、日が昇る海であったのである。こ
こで柳川にはまだ多くの人は住んではいない。実は日本語さえもあまりなかったとされ
る。八女に残る山窟(サンカ)文字の多くはサンスリット語でありアラビア文字の類が
多い。いわゆる梵字の元である。九州王国と大和朝廷が並立して過ごしていた時代は、
文書からは、伝説の天皇時代であり空想の時代とされる。よく邪馬台国の卑弥呼の話が
多く語られるが、それは今の現代人のイメージで、既に紀元前百年頃は中国の始皇帝が
会計山で祝詞を上げた時に、時の方士である取り巻き博士達は、海を越えて東洋に島が
あって宝来山のそそり立つ山がある。そこには不老長寿の薬があります。取りに行きま
しょう。と盛んに誘っている。なぜこうした迷信が生まれたのか。そこにはお茶の文化
がある。八女茶の起源は公的には中国から仏教と共に取り入れられたとされている。が
最近のDNA研究や気候変動などで地球歴史をみると、日本の霧島や雲仙あるいは比島
つまりフィリッピンやマレーシアの火山での突然変異体ではないか。と思われ始めた。
実は日本の大和民族は紀元前五千〜三千年前から住んでいたらしい事が丸山古墳などで
わかっている。特に九州では島が出来上がり早々から来たようだ。桜島や阿蘇や雲仙が
もくもくと火山噴火する頃、興味に釣られてやってきた庶民がいたのではないか。と思
うのである。そうして九州に木々があって動物が繁殖していた頃は、当然のごとく漁師
や猟師がこの大地を駆け巡って暮らしていたであろう。と思われる。令和の元になった
万葉集は、飛鳥・奈良時代の書物で、すでに宮廷時代に移った頃だった。それでも日本
はやはり言葉を持たなかった。いや言葉はあったが文字も言葉も中国人とは違っていた
。朝鮮半島ではハングル文字があったように思われがちだが、それは違う、朝鮮半島の
統一文字はとうとう出来なかった。中世時代にも幾つか試みられチョハル文字やモンゴ
ル表記やキリギス文字などを取り入れられた為何一つ本物にならなかったのである。そ
の後属国平和主義では中国文字が統一された事で、朝鮮国も漢文漢語を常用として使用
されていた。日本が日韓併合で乗り込んだ時も、その漢文漢語さえも通じにくく識字率
3〜5%という分盲率だった。そこで国家予算をかけて学校建設に着手する一時は補助
によって6千以上の小中学校が作られたが、これで奴隷制度が崩壊すると反対運動をし
かけたのが両班たち地主であった。その頃はすでにコリアンカースト制が確立し使用人
は農奴とされて、売買対象の資産である奴隷あったからだ。つまりその奴隷が言葉学問
を収めてしまえばピラミッド頂点近くにいた8%の両班の地位は無くなる上に、平等や
法律ということでは、幼年期から農作業や子守りさせていたことが違法となったからだ
。朝鮮のこうした中国支配の武人政治から、日本では言葉を大事にした歌人政治として
和歌が生まれ当て字文化が花開いて日本を覆っていた。それは日本の声言葉に意味の似
た漢語を当て字として使ったものだった。その為フリガナとしてカタカナ、ひらがなが
生まれていた。


211: 名無しさんAA:19/09/25 20:01
  歴史の群像     124

 第二次世界大戦は、真に不思議な戦争だった。日本の満州国建設を米国が反対したが
、ソ連が侵攻し、日中戦争は蒋介石将軍が日本に頼って来て進駐したのに、北伐の為に
共産党軍との戦いを熾烈化し、いつの間にか共産党と国民党が一緒になって抗日戦線な
どを言い出した。もともと日本はアジア解放に向けて戦っていたが、米国も又同じ様に
奴隷解放植民地解放と偽って蒋介石を入れたカイロ会談をしていた。そして終わってみ
ると、ドイツの為に作られた卑劣な原子爆弾を日本に落とされ、ベトナムのフランスか
らの解放もなく、フィリッピンの独立にも難色を示し、蒋介石将軍の共産党との戦いに
は兵すら寄こさず、軍艦の台湾寄港すらなかった。戦争突入時も勝手に敵国呼ばわりさ
れて、物資輸入を国際法違反しても止められ、開戦もあれだけ新聞記者70人海外新聞
16社がいる中で宣戦布告を皇居広場で天皇みずから発表したのに、次の日にアメリカ
の新聞に載ることなく、その次の日に突然の強襲あるいは秘密の不意打ちの真珠湾攻撃
とされてその後は、真珠湾を忘れるなと宣伝工作された。真珠湾攻撃の前に日本の偵察
潜水艦はすでに攻撃され拿捕されている。もちろん、ノルウェーでも領海に侵入してき
たソ連の潜水艦が問答無用で撃沈されているし、イギリス・ドイツの艦船は戦争前から
鉄鉱石の資源確保にノルーウェーやスエーデンやデンマークはいずれも小国でロシア側
もドイツ側も、イギリスやフランスの同盟国として戦争していた。「領空、領海、領地
を侵犯するものは攻撃していい。」が大戦後も国際的ルールの範疇であり、日本だけが
それをしなかった。北海道沖カムチャッカの樺太よりで大韓航空機が撃ち落されたのも
それが原因だった。戦争上の「先制攻撃」とは全くことなる理論で日本も実は宣戦布告
なしにアメリカやイギリス艦船を撃沈させる事は可能だった。今でも尖閣や竹島を防衛
として空爆は可能だがあえてしていない。「真珠湾の先制奇襲が恥ずべき行為」っての
は、まさに戦後にアメリカの宣伝広告であり戦後の日本人にまで植えつけた概念である
。又新聞社各位も不埒にも真珠湾攻撃当時の見出しに「真珠湾奇襲攻撃は見事なる快挙
」「胸のすくような出来事」「周到に準備され実行された素晴らしき名作戦」「日本は
完璧な形でアメリカに宣戦布告を叩きつけた。」という言葉を文字にしている。実際に
も、大本営発表映画も、描かれ方は勇壮痛快な音楽に載せて壮挙として報じ、各新聞社
もそれに倣って真珠湾奇襲を華々しく報じたのだった。こうして日本政府自体は、天皇
以下ちゃんとした宣誓布告の正義の正面戦争を模索していたにも関わらず、軍部も新聞
も「痛快な先制奇襲攻撃を行った」と認識させていた間違い報道し、国民もそれに酔っ
たし、米国もそうした主張を大統領が声明した。ここで不思議がらない訳にいかない。
なぜ、この米政府と軍部と報道各社がなぜにこうも息があったように「先制奇襲攻撃」
を認識としているのか。ここに米国のしたたかな戦略があった。都合よく事を運ぶため
徹底して環境遮断する計画を、日英同盟を外す時から行ってたのだった。日英同盟は、
ロシアは厳しい環境地が多いが、実は国そのものが国民はよりよい環境を求めて勝手に
未開発の周辺国に移り住む事から始まった国だ。国家権力側もこれを利用して、人々が
苦労して入植・開墾した土地に後で追いかけ、政治力・軍事力を用いて、労せず入手す
る。これを繰り返して出来た国だった。これは、今中国の官民一体の南進運動で行う、
領土拡大策と同じだ。これが第三者に強い警戒感をもたらせたのは当然で、これに日英
が立ち向かったのである。


212: 名無しさんAA:19/09/26 07:36
 なーにが隠れ停電だ。勝手な呼称をTV局はつけるな。電気事業法ではメーター管理
まで電気供給者の管轄権監理権限を認めている。もちろん所有者は供給申請者の持ち物
ではあろうが。それでも東電の復旧率の詐欺的表示は全く違法であろう。もともとが、
強電・弱電・通信線(微弱電線)に分けているのは電気業界の技術的問題からだ。そも
そも高圧電線や供給幹線が復旧されたとして100%だなどという嘘を許認している方
つまり、TV局や市民や政府や自治体が頭を狂ってる。勉強不足も甚だしくそんな知識
がないのだったら、公言や映像放送の解説をやめよ。放送局をたたんでしまえ社会悪だ
嘘を容認したり、勧めたり、わざわざ迫力映像を編集したりというの映画の世界でTV
には全く必要ない。NHKが土俵を頭上から放送するようなものだ。全く必要ない。誰
が考えたのか、神事披露の競技会は、そもそもが舞台登場の芝居観客と同じ鑑賞をして
楽しむものだ。これに解説をして審判までつけたのは相撲協会の意思だったろうが。今
の5場所鑑賞は守銭奴商売に他ならず力士の為にも成っていない。社会の監視団体TV
局が自らその責任を放棄しては全く放送など成立しない。人間の視点は目だろうが社会
の視点は論拠ある視点なのである。裏付けも論拠もない東電のホームページをただ鵜呑
みにしたような虚偽報道は、するほうがおかしい。何のために台風報道に現地状況を、
わざわざ記者に外に立たせて生報道してるのか。よくじっくり考えてみよ。


213: 名無しさんAA:19/09/26 21:30 ID:lQ
ばかげた東京のやり方は目に余る。本来ゴルフ練習場には、市町村が撤去命令を出し、
早急な対応ができないなら自治体が代理作業は行うことができる。つまり仮設住宅と同
じである。その後の修理は各個が行うのだろうが、道路上や公益毀損には議員が市町村
や都道府県に圧力かけても行える権利を持つ。まったくばかげて間違っている議員たち
だ。



214: 名無しさんAA:19/09/26 22:17
グレタ・トゥンベリさんは本当に天使か神なのかも知れない。
 グレタさんは国連本部で23日開かれた気候行動サミットで演説するなど大きな注目
を集め、米国の右派メディアやインターネット上で「彼女は病気だ」「両親に洗脳され
た」などと中傷されている。 右派メディアなどで批判や中傷が相次いでいる事態を受
けて、グレタさんは「ほら、また始まった…。ヘイト(憎悪)をあおる者たちが私の見
た目や服、振る舞い、人と違うことを攻撃している。彼らは思いつく限りのうそや陰謀
論をつくり出す。」と指摘。「気候問題や生態系の危機について話さないことに死にも
のぐるいになっている。あらゆる手を使って、話の焦点をそらそうとしているようだ。
」と訴え「なぜ大人たちは、子供が科学を奨励するのをあざ笑ったり脅したりすること
に時間を費やそうとするのか、正直言って理解できない」と、ツイッターで反論した。
その上で「でもこれ以上、彼らに注意を向けて時間を無駄にしないで。金曜日に(路上
で開く地球温暖化対策を訴えるデモで)会いましょう」と呼び掛けた。
まさしく正論である。彼女の行いを批判する意図が分からない。地球温暖化が人の行動
で起こっているのか、天体の周期なのかは未だ不確実だが、地球温暖化の原因は別にし
ても、この温暖化現象は起こっている。更に恐らく温暖化の起因だろうとされる二酸化
炭素ガスの地球に対する有毒性は、過去の恐竜時代からの絶滅の歴史でも証明されてい
る。だとしたら、確実にこれを食い止めなければ人類文明は崩壊する。この子供たちが
「許さない」とするのは、この人類文明の崩壊に、阿鼻叫喚の地獄が待っていることが
わかっているからだ。当然既に人生を謳歌し老衰で死んでいく人たちはこのままで幸せ
だろう。しかし、今の昔のような幸福が遠のいた上に、更に生きることに必要な財産を
奪われる子供たちは、声をあげて当然であろう。我々大人達は全力でこの聲を聞くべき
なのは確かなのだ。特にIT業界は、こんな巨悪を作り出す技術は、すでに必要ない。
人格のない下品な仕事はやめるべきでこんな進化は人類悪である。


215: 名無しさんAA:19/09/27 00:17
 ゴルフ練習場側の弁護士は自然災害と言ったらしいが、そうではない。ゴルフ練習場
の社長や経営者の過失災害である。まったくネットを下げずに持つはずはない。風圧の
計算でも空気の重さ16gを30Km風速と面積直圧で持つはずはなく。透過率があっ
たとしても看板の大きさでも倒壊する。それがネットなのだ。正に管理不足認識不足の
殺人行為である。弁護士も社長も何を勉強して生きてきたのか。まったく東京人の顔を
みるようだ。議員も市長も国会や政府も全く国民保護の行政機関の責任を果たしていな
い。バカばかりである。



216: 名無しさんAA:19/09/27 00:30
 税制調査会はバカじゃないのか。今度の税率アップで転嫁Gメンを派遣したが、ここ
で買い控えでは企業は成り立たず、転嫁なしに値引き競争し売上アップをはかるしか無
いのが現状だ。そもそもこの消費税では今までの日本社会の過去がない。つまり8%や
5%のUP時のように1割の中小企業が商店や工場が閉鎖する。そしてそれが3割にな
るまでずるずると長引く。今の補助金税制で残った企業しかない状態と無料の自治体や
国の機関しかどこの町にも残ってないのはその証である。これは国会や政府による国民
いじめつまりパワハラ以外なにものでもない。政府がパワハラをやり国会で自浄能力も
削減努力もない以上、日本国民は弱い者いじめのルールでしか生き残れない。まったく
薄情な鬼畜行為の結晶であろうこの増税で、おそらく30年は日本は浮上しない。

 


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