何でも書こう


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何でも書こう

1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

1001: 名無しさんAA:18/07/04 02:59
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  60 >

 太平洋戦争(たいへいようせんそう)は第二次世界大戦の局面のとされるが、大戦前
まで日中戦争などとは誰も言わなかった。日本でも日華事変であり国内紛争と言う認識
だったし、又国際的にもそうだった。真珠湾攻撃まで、第二次世界大戦とは誰も言って
いないし、真珠湾攻撃すら太平洋戦争だった。これを変えたのは大日本帝国やドイツ国
など枢軸国とした条約とされるが、これも日本が国際連盟脱退以後に米国からの輸入が
途絶えた為にドイツに輸入を求めた物が軍事同盟とされたからだ。ソ連の不可侵条約で
解る様に、日本はそれが大変な国際的戦争とは気づいていなかった。連合国の主にイギ
リス帝国、アメリカ合衆国、オランダなどを相手に太平洋戦争と決めたのは、1940年の
対日制裁の日米通商航海条約の破棄から始まり、軍部が中心となって作成し1941年11月
15日に大本営政府連絡会議が決定し、盛んに交渉するも、新オレンジ計画の米国の敵国
と目した秘密理の政策が変えられず、日米交渉決裂の結果、東條内閣は12月1日の、
御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定したからだ。日本側の名称も
作戦名で1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定して、
支那事変も含めるとしたからだ。この理由は当然予算編成時に中国から予算ひきはがし
を恐れた陸軍の意向と石油探索を南方に求める海軍の妥協であった。1931年(昭和
6年)に満州事変が起こり、関東軍の後押しによる満洲国が成立すると国際社会の中で
日本は大きく非難されることとなって以来、既に国際社会はドイツを初め条約違反でも
中国を軍事支援していた。1937年11月から翌1938年1月にかけて、こうした条約違反で
中独合作をする事により、中華民国と友好関係にあったドイツを仲介者とするトラウト
マン和平工作が行われたが、12月の南京陥落によって日本側では対中強硬論が政府と
海軍に台頭し陸軍もその声に流されていた。それは総理大臣近衛文麿や外務大臣の広田
弘毅や海軍大臣の米内光政は、この違反に屈した勝手な調停に憤慨したからだ。理由は
中国国内より欧米政府を見ていたからに他ならない。つまり中国と手を握って内政干渉
する欧米の非常に滑稽な米国の戦略が透けて見えていたからだ。1938年「帝国政府
は、爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと
国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす。」との第一次近衛声明で、トラウトマ
ン和平工作は頓挫した。、これによって日本と英米蘭の開戦を機に蒋介石の中華民国政
府が頓挫した。しかしその後台頭する共産党は更に悪かったのである。日米開戦では、
待ってたと日本に対して正式に宣戦布告し、日中戦争(支那事変)も包括する戦争とな
ったのは、中国人が中国大陸の自国民を捨てていたからであった。

1002: 名無しさんAA:18/07/04 02:59
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  61 >

 アメリカ合衆国は、日本海軍によるパールハーバー攻撃の遥か以前より、大消費地と
して植民地化を狙っていた為、支那、特に日本が支援していた満州国の利権を強奪すべ
く、着々と計略を実行に移していた。既に最終段階として、早くから国際法の『中立条
約』に違反し、中国軍に2つの援蒋ルート(南部仏印とビルマ経由)を使って物資を入
れ、イギリスと共に戦闘機・戦闘車両・重火器を含む軍事物資を大量に送り込んだばかり
でなく、空軍兵士(フライング・タイガース)までをも送り込み、日本軍機と戦闘を行
うなどなど、日本軍とはすでに交戦状態、戦争を起こしていた。日本としてその支援の
打ち切りが無くては、中国国内の安定は図れず、それを叩く事が政府の悲願だったが、
陸軍としては手に余るもので、平和裏に叩けるものではなかった。安定の為の内々の和
平協定が必要であったし、そうしたルートは叩いても叩いても北方から西方からも直ぐ
に作っていた事であった。日本軍はこうした大陸の事情に疎く、更に地理的にも巨大で
気候的にも冬の寒さ、雨季の変化、夏の害虫など様々な予備知識が無かった。さらには
中国側からその道を塞ぐと、インドビルマ側から米英の最新兵器が現れたりしていた。
持ってない筈の機関銃、化学兵器、日本のものより大きい重量で大口径の滑腔砲などが
野戦砲として突然山の中から現れた榴砲弾と言われる炸裂弾はその飛散範囲は大きかっ
た。更に空軍である。持ってないだろう中国軍の航空機が ソ連機ドイツ機イタリア機
イギリス機アメリカ機と忽然と現れては、帝国陸軍の兵士を襲った。味方と思われる機
が襲う恐怖は、兵士たちを狂わせた。戦地でラジオも新聞もなく現地人の仲間意識で、
やっと食料を分けてもらい進軍している中に、仲間の国の戦闘機が敵兵に空中から補給
し仲間の住民すらも殺し去っていくのである。全く考えられない事だった。「国際法の
基本原則によれば、もし一国が、武力紛争の、一方の当事国に対して、武器、軍需品の
積み出しを禁止し、他の当事国に対して、その積み出しを許容するとすれば、その国は
必然的に、この紛争に軍事干渉をすることになるものであり、宣戦の有無にかかわらず
、戦争の当事国となるのである。」とその後の東京裁判でも米英列強のその卑劣さを認
めている。こうした事は「国際法」に照らしても分かるとおり、米・英両国は、日本に
対して「宣戦布告をせずに戦争を仕掛けていた」のである。しかもこのことは、日本政
府が再三にわたり注意喚起したが聞く耳は無く、早く宣戦布告しろよと言う態度だった
。彼らはこの勧告をあえて退けて、敵対行為を続行していたのだ。蒋介石総統率いる国
民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続け、アメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や
軍事支援を受け続けた。

1003: 名無しさんAA:18/07/04 03:00
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  62 >
 援蒋ルートは、地の利を活かし各地で抵抗して住民を殺し、徐州会戦や武漢会戦が発
生していた。。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用
い日本軍を攪乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍も
山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。こうし
て日中戦争の戦線は制圧できず伸びて長期戦に陥って住民は落胆していた。蒋介石夫妻
は、かなり上手に宣伝工作活動を行うことで、「悪逆な日本軍により侵略されつつある
可哀そうな中国の人民」を見事に演出していた。それは巧妙に条約違反のアメリカ支援
を取り付けていた事でも解る。その為にわざわざ夫妻揃って、キリスト教に改宗して、
キリスト教国である米国の絶対的な仲間意識を見事に利用し、好条件でユダヤ資本の金
融を調達していた。その為ユダヤを味方につけて、第二次大戦で蒋介石総統の中国国民
党軍に協力し、飛行機と軍人を送り出さない訳には行かなかった。中国南部とビルマ戦
線で日本軍機を大量撃墜したことで知られる「フライング・タイガース」は、その後、
平成になって裁判で軍人の地位を得ている。日米開戦半年前の1941年春、米国防総
省の承認のもとに空軍基地から集められた戦闘機パイロット259人による正規の“エ
リート空軍部隊”だった、と6日付のロサンゼルス・タイムズ紙が報じた。退役軍人会
に入れずに年金さえなかったからだ。アメリカ志願兵部隊の先遣隊は、1941一年七
月二十八日に、ラングーンに到着した。シェンノートのはじめの計画によれば、アメリ
カ志願兵部隊は、昆明〔クンミン〕を基地として使用するはずであった。ところが、飛
行機の発送と隊員募集のおくれ、そして中国側が雨期にはいるまえに昆明に基地を建設
することができなかったので、先遣隊は、ビルマのトングー郊外にあるキエドー飛行場
につれていかれた。ラングーンの北方二七〇キロにあるキエドー飛行場(アスファルト
舗装の一二二〇メートル滑走路がある)は、志願兵部隊の訓練センターとして使用する
ために、ビルマにある英植民地政庁とロンドンの英陸軍省から、中国に貸与されたもの
だった。中華民国の蒋介石は国家主席になって意欲的に国内指導に当たった。しかし、
それは名ばかりで、毛沢東はソビエト連邦の支援の下支配領域を広げていき、1931年に
は江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立するまでに勢力を拡大していた。こ
の事でソ連は後押しに空軍を送っていた。その後西部奥地のソ連国境に近い延安に追い
込まれた様に見えるが実は中国系ソ連軍によって一挙に拡大したのだ。実は 延安から
西安に向かって成都 昆明 雲南 と砂漠と山脈の境目の土地には、一見しては見えな
い空軍基地が14個も出来ていた。その内砂嵐などで地理的要因で7つに絞られたが、
いずれも小さいながら飛ぶのに相応しい平地であった。

1004: 名無しさんAA:18/07/05 16:51
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  63 >

1930年に西安討伐を決め込み、西安事件が起こるが、この時の失態で1931年に
に江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を隠れて樹立するまでに至り、結局は毛は
その代表として蒋介石を手下として動かすことに成功するのである。つまり張作霖は息
子の張作良がソ連に従った為に共産党に殺されたのだ。1938年、漢口〔ハンコウ:
現在の武漢(ウーハン)〕にあった中国国民党の航空基地が破壊されると、彼らの活動
は、たちどころに終止符をうたれてしまったが、日本軍が南京から武漢に占領に行く事
を恐れたソ連機即ち共産党軍が破壊してしまったのである。1937年(昭和12年)7月の
盧溝橋事件で日本と中国は全面衝突盧溝橋事件の後、日本が中国に対し「速戦速決戦略
」を採用したのに対して蒋介石は、華北の日本軍が南下し、武漢地区での中国が東西に
分断されるのを防ぐため、中国軍が華北では後退した言われる。日本は11月5日第10軍
を杭州湾に乗り入れ、第16師団は白茆口に上陸させ、11月7日に上海派遣軍と第10軍を
併せて中支那方面軍として編成し、11月15日なって、第10軍が「一挙追撃を敢行し、
南京を占領すべき」と積極案を出して、参謀本部が容認したのは11月24日なのだ、南京
攻略で、蘇州-嘉興線以東の制限を廃して、作戦を考え 主力は無錫〜湖州線より東部で
準備すると命じて、10軍は嘉興〜湖州〜長興へ、114 師団一部は宜興・漂陽へ、18師団
追撃隊および国崎支隊は広徳に進出し、主力は後方地区に終結したのは12月である。
最前線の部隊は、中国軍によって徹底的に破壊された橋梁や道路を修復しながら進撃を
つづけ、南京入城したのは1937年12月4日まで戦い、12月13日に中華民国 南京市に入城
行進した。南京大虐殺と言われる事件は12月のこの入場から2月の日本軍の交代まで
には全く起こってはいない。特にこの間に海外からも記者が大勢居たからだ。兵士の日
記でもそうした物は出ない。ただ南京入城前に大勢が死んでいてその死体片づけがあっ
たと言う現実だ。それでも一万人もいた筈はない。とされる。なぜなら直ぐに片付いて
僅か1〜2日で再度南京入城の行進は続いたからだ。更に進むと数百の死体は転がって
いて先頭集団で戦闘があったのだろうと解ったというのである。実は、中国の正規軍隊
は、兵士たちの後ろに「督戦隊」(とくせんたい)がいた。督戦隊とは、後ろで「敵を
殺せ、殺せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると殺す係だったのだ。

1005: 名無しさんAA:18/07/05 16:52
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  64 >

 この歴史と世界情勢の真実は不思議な日華事変が、全く真逆に宣伝され、日本は真の
中国独立を望んでいたのに「南京大虐殺」の汚名を着せられた事だ。ドイツ人が南京城
を安全都市にと要望して止まなかった。南京には「防守都市」で無差別爆撃できたが、
日本軍は国際安全区にできるだけ被害が及ばないように配慮した。このことについては
国際安全区委員長ジョンラーベは日本軍に感謝状を贈った。という。この防守都市とは
「地上兵力による占領の企図に対し抵抗しつつある都市をいう」(原爆訴訟東京地裁判
決、昭和38年12月 7日)砲爆撃における軍事目標主義では、軍事目標および防守都市に
対する砲爆撃が認められる。防守都市に対しては無差別攻撃が認められ、無防守都市に
対しては軍事目標に対する攻撃が認められる。赤十字は戦闘行為として認められるのは
(1)軍隊 (2)軍隊の占領する陣地・建物 (3)兵営・要塞・軍関係関連施設 (4)軍需品の
集積所 (5)飛行場・ロケット基地・海軍基地 (6)軍用の交通線と交通手段 (7)放送局・
軍用の電信電話局 (8)戦争遂行に重要な産業  (イ)武器製造工場  (ロ)軍事的性質を
もつ物資製造工場  (ハ)軍事的性質をもつ原料製造工場  (二)武器ないし武器原料の
産業の貯蔵と輸送の施設  (ホ)主に国防エネルギー(石炭・石油・原子力)供給施設
と、主に軍用のガス・電力の生産施設と限られているのである。つまり何もない所には
攻撃してはならない。としていたのだ。南京においてはその要件は当てはまっていたの
だ。それでも空爆はしなかったのである。南京虐殺事件は東京裁判の大きな目的だった
。その為米軍は現地証言や証人を集めに奔走した。しかし、提出された「南京地方法院
検察処敵人罪行調査報告」によれば、第二次大戦後、日本の「戦争犯罪」を裁くための
連合国が開廷した「東京裁判」に備え、中国国民政府は一九四五年十一月七日「南京敵
人罪行調査委員会」を設置し、中国人に南京における日本軍の犯罪を申告するよう呼び
かけたが、日本軍の残虐行為を申告する者が「甚だ少なき」ばかりか、聞き取り調査を
行うと唖然として「口を噤みて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいたという。
やむなく中国政府は暫定的な報告を一九四六年一月二十日、東京裁判に提出したのだが
、「日本軍による大量虐殺」の証拠は埋葬記録を除けば、魯甦という人物の「目撃証言
」ただ一件のみであった。中国国内に国民党軍や共産党軍の残虐行為を見た者は多いが
、日本軍は優しかった為批判する気にならなかった。それどころか聞きまわる米軍も又
憎かったのである。

1006: 名無しさんAA:18/07/05 16:53
南京戦に参加されていたという会津若松の方は言う。「大変なことがあったから、もう
南京には行けませんね」と声をかけると、「いやいや、私は死ぬまでにもう一度南京へ
行きたい。」とおっしゃった。「私は衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をし
た中国の敗残兵も大勢助けた。軍のトラックで送ってやったから中国人の家族が非常に
感謝していて、ある人はわざわざ家の奥の家宝の掛け軸をくれる程だった。そして『戦
争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋の思いで待っ
ている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい。」
とその人は言った。このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後
に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなど
とは到底考えられないほど、大変のどかな日々があった事だった。この方にはその後、
もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている松葉杖
をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです
。キャプションには、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とさ
れた中国兵」と書かれていた。ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加され
たその方がとても喜んだんです。「〜ああ〜。この兵隊のことは良く覚えていますよ。
アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、〜
懐かしいよかった。この写真、いただいてもいいですか。」と言うのである。他にも、
実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。ある人は
「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であっ
て、日本兵も戦死しています」「トーチカ裏から撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、
機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作
ってやりました。」「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨か
せてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたの
で磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」などと多くの証言があった
。ジョン・ラーベさえも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなか
ったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画に
つき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであ
ります」との書簡を送っており、その報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があっ
たことに触れています。「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれ
たので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強い
だけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ。」と、言うのが当時の躾だった

1007: 名無しさんAA:18/07/05 16:55
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  66 >

 ドイツは1932年に支那軍組織の改造の為に国防軍のフォン・ゼークト元帥を指導
者とし、その下にファルケンハウゼン将軍を筆頭とする約六十人の軍事顧問を支那に送
っていた。彼等は軍事顧問であると同時に、端的に云えばドイツ武器の売込の斡旋をす
る仲介者という地位に立って居った。これらの軍事顧問は一方において支那の軍備を高
度化し近代化する為の、そして又かかる軍隊を訓練する為の目的を持ち、一方において
はそのために必要なる軍需資材、特に既成の武器を支那に向けて輸出すると同時に、本
国軍需産業に必要なる原料、鉱石又は油、皮革類を支那より輸入するという、軍需品と
その原料品を中心とする対支貿易を、斡旋する役割を直接間接に果していたのである。
ジョン・ラーベ日記では、10月3日、「政府高官筋の人々、とりわけ 蒋介石夫人の
宋美齢はドイツにあまり好感を持っていないという噂だ。ドイツが日本と防共協定を結
んでおり、ソビエトと同席したくないという理由から、ドイツでのブリュッセル会議へ
の出席を拒否したからだ。私たちの味方でない者はすなわち敵、と夫人は言ったという
。それなら、ドイツ人顧問はどうなんだ。いまや、中国人があんなに誇りにしている高
射砲部隊、つまり防空隊を導入したのは、いったいどこのだれだ。ドイツ人の軍事顧問
じゃないか! (以下略) 」と不満を書き入れている。ヒットラーの台頭する前に社会
党員とはなっていた。途中上司の勧めでナチスに入ってはいたが、形だけの党員だった
。ラーベは当初からのナチス党員では無い。元々根っからナチス党員は国外に出さなか
った。何回も総統暗殺未遂が起こっていたからだ。又ラーベも一度はナチスに入ってい
てチェコで原爆開発実験の現場に派遣されたが、その傲慢さに本国を離れ中国での仕事
に変えて、中国に再訪していた。蒋介石は既に「国共合作」後は周りには共産党員しか
いなく 何時殺されるか解らないぐらいで言いなりだった。愛国正義の合言葉で異常な
政策でも頷くしかなかったのだ。ちなみに、張治中が国民党員の指令をし生粋の共産党
員で毛沢東の入れた「 隠れ共産党員 」だった。実はこのラーベなどドイツ人の指導で
強固なトーチカ陣地を何重にも敷き更にクリークを掘り堅固な要塞として上海は防備し
ていて更にまた上海と南京の間にも堅固な陣地を構築し、戦に備えていて、殆ど負ける
事はないとみて、戦闘扇動のドイツが仲介となり、トラウマン和平協議をしていたので
ある。此処に如何に日本の大本営が無能であったかが解る。しかし現地にはその備えは
伝わっていた。上海派遣軍 2個師団、更にに第2次派遣部隊として 3個師団、そして
手早く終了し国際社会からの非難を避ける為にさらに3個師団と言う8個師団を投入し
たのである。

1008: 名無しさんAA:18/07/05 16:56
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  67 >

 こうして蒋介石の不安の中共産党とドイツ技師の自信満々の提言を持って臨んだのが
上海戦だったが、敗色濃厚となれば、南京を守るべきか放棄すべきかが問題になった。
蒋介石自身は、既に夢破れて和平が欲しかった。しかし幹部は抗戦と放棄の間で揺れ動
いて、11月16日、揚子江上流の重慶に遷都することを決めて宣言した。12月7日
、蒋介石は南京を脱出してしまい、南京は空居城になった。日本軍の南京攻撃が始まる
前のことでした。そも9月頃から日本軍侵攻の噂を聞いた市民は脱出をはじめていた。
南京市政府書簡は「調査によれば本市(南京城区)の現在(11月23日)の人口は約50余
万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である。」と
しており米大使館報告11月27日の報告には、在留外国人に対して「避難勧告」が出され
た。「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っ
ているとのこと。」と書いている。ジョン・ラーベの書物でも察庁長王固盤は、南京に
は中国人がまだ二〇万人住んでいると繰り返した(11月28日付けの日記)と記して
いる。しかし現場にいた古老によれば当時、安全区外に住民はほとんどいなかった。し
かし日本軍の来る前に南京防衛にあたった中国軍が、安全区以外にいる一般市民は、「
漢奸(日本側のスパイ)」とみなすとの布令を発した事で雪崩打って安全区以外の地区
でも非難していった。南京城入城後は食糧配給の試算が目的で南京安全区国際委員会の
を作り報告させた。安全区委員会側も12月17日の文書で「13日に貴軍(日本軍)
が入場した時にわれわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めました」と記して
20万人(安全区内の人口)と報告している。これは厳密性が要求されることから信頼
できる数字であると思われる。また、当時安全区に居た民間人に加え、区外の民間人も
安全区に避難してくることも勘定に入れていたとされ、そのことからも数字は多すぎる
ことはあっても少なすぎることはないと推測される。ラーベの日記でも。「(中国軍・
黄上校との対話)なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ。首
に縄を付けても残せばよかったじゃないか。どうしていつもいつも、一番貧しい人間だ
けが命を捧げなければならないんだ?」(12月6日付けの日記)「日本政府と蒋介石
はなんといってくるだろう。一同、固唾をのんで待っている。何しろ、この街の運命と
二十万の人の命がかかっているのだ」(12月10日付けの日記)

1009: 名無しさんAA:18/07/05 16:59
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  68 >
 南京アメリカ大使館通信「南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切ら
なかった。人口のおよそ五分の四が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退
していった」(12月10日以降の報告)日本軍は安全区委員会の調査の報告として、
食糧補給を25万人として報告した。食糧給付のため日本軍が安全区委員会を通しての
調査結果として割り当てを申請してたのだ。これは極めて重要な報告で、人数の差異が
あれば餓死者や暴動などが発生するからだ。従って数字はかなり正確であると思われる
。こうしてこの時期、良民証(戦闘員でないことを示す日本軍発行の証明書)を発行し
て食糧を給付した。この時の領民症は、給付数は16万とされる。しかしその後は報告
をうけた数字の25万という説が一人走った。しかもこの数字には高齢の女性と12歳
以下の子供は含まれないとする説まであった。もしこれが正しいのであれば、この時点
で30万人以上の中国人が南京市内にいたと推定されるとさえ言う者が現れた。東京裁
判速記録でも、この惨殺に於いて、東京裁判でロヴィン弁護士が「南京ニ於おいテ殺害
サレタ数ハ30万トナッテ居おリマスガ、私ノ承知シテ居(い)ル範囲ニ於キマシテハ南
京ノ人口ハ20万デアリマス」と質問をしたところ、ウエッブ裁判長は「今ハソレヲ持チ
出ス時デハアリマセン」とあわてて発言を封じてしまった。(「極東国際軍事裁判速記
録」58号21・8・29)が残って居る。『南京安全地帯の記録』 第41号 福田氏への手紙
では、 1938年1月14日、ジョン・H・D・ラーベ委員長……我々は貴軍が、10歳以下
の子供、及びいくつかの地区では老人の女性を含めないで、16万人を登録したと理解
しております。すると、当市の人口は多分25万人から30万人ということになります
。この住民を通常の米の配給で養うには……『南京安全地帯の記録』 第54号 プリドウ
ブリューン氏への手紙 1938年1月28日、ジョン・H・D・ラーベ委員長 ……南京25
万の難民のうち、 大部分は市内及び近郊の大規模な火災のために家がありません。…
と書き記している。「南京特務機関 南京班第二回報告(二月中状況)」の治安には
(1)敗殘兵及抗日分子の摘出にこう記されている。「治安確立の先決問題は城内外に
於ける敗殘兵及抗日分子の捜査摘出にしては、昨年12年22日以降、本年1月5日に至るの
間に於て中島兵團の施行せる査問に協力して、約4千名の敗殘兵竝抗日分子を摘出し、
1月6日より2月25日に至る間、更に特務機關に於て天谷警備支隊の協力を得て城内外に
渉る査問を續行し約5百を摘出せり。此の結果良民として(老婆及12歳以下の小兒を
除く)して安居之證を交付せる者左の如し(概數)中島兵團…15万人特務機関…10万人
と報告している。つまり正規軍の囲う住民が15万人で、その兵士や捕虜は10万人で
あった事を示す。

1010: 名無しさんAA:18/07/05 17:02
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  69 >

元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏は南京大虐殺を論じた最初
の記者だった。しかし、彼が見たのは大勢の兵士の虐殺と言えるものではなかった。敵
兵を日本兵の服を来た兵士の処刑だったのだ。「中国軍は南京城内に立てこもって日本
軍を撃退するという作戦をとり、上海方面から南京への日本軍進路にあるすべての建造
物を焼き払って退却しました。敵には何ひとつ残さないという、中国側が焦土作戦と呼
ぶ手段です。住宅からその他の建物まで、一切すべて、遮蔽物を残さないために樹木ま
で切り倒して撤退するのです。」――そういう地域の住民はどうなったのですか。――
「大多数は戦闘の始まる前に避難しました。南京の方向へと逃れ、市内に入った避難民
もかなりいました。漢口のほうにまで逃げていった民間人もかなり多数いました。」「
上海から南京近郊に到達するまで中国軍は日本軍に正面から戦いを挑まず、撤退してい
たし、地元の住民もみな避難していたからでしょう。私は当時、虐殺に類することは何
も目撃しなかったし、聞いたこともありません。虐殺は日本軍が南京を占領してからな
のです。」ダーティン氏のこの言葉は「上海から南京までの間で日本軍による大規模な
殺害や略奪があった」という説とは随分ちがっている。しかし同氏は南京では日本軍の
虐殺があったと明言する。その点は同氏は南京陥落についての第一報、ニューヨーク・
タイムズ1937年12月18日付の記事にもはっきりと書いている。「南京で日本軍が恐怖を
まき散らすなかで民間人も殺される」という見出しのこの記事は、「日本軍の無差別残
虐行為と略奪」があったとし、「中国軍捕虜の大量処刑」と「女性や子供を含めての、
民間人の広範な殺害」とを伝えている。処刑を見ていた将兵たち――さてまず中国軍の
捕虜に関してですが、南京を守っていた軍隊の人数はそもそもどのくらいだったでしょ
う――「唐生智将軍の指揮下に約5万人だったと思います。日本軍の南京総攻撃が始ま
る直前、私は市内をあちこち走りまわって防衛軍の状況を調べました。市内には軍隊が
あふれていた。唐生智司令官にインタビューして「城壁内にこれだけの部隊を入れて守
る作戦はわかったが、日本軍は当然、城壁を包囲するから、もし負けた場合にはどうや
って撤退するのか」と質問したのものです。すると唐将軍は「われわれは死ぬまで戦う
決意だ。撤退は天に向かってのルートだけだ」と豪語していました。しかし実際には、
将軍は日本軍の一部が城壁を越えてすぐ、部下には何も告げず、市外へと逃げたわけで
す。」ダーティン記者は1938年1月9日付の記事でも中国の南京防衛について、合計16個
師団だが、1師団の兵力は2千から3千人程度に減っているので総計約5万人と推定してい
る。これは大きな問題である。何故なら日本軍の入場時には殆どいなかったからだ。

1011: 名無しさんAA:18/07/05 17:04
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  70 >

 ダーティン記者にはその同じ記事のなかで、中国軍の死者数について日本軍が南京
への本格的攻撃を開始した12月上旬から市内を占領して3日目の15日までに3万3
千人が死んだと伝え、そのうちの2万人が処刑されたとみられる、と報道しているから
だ。――捕虜の処刑は実際に目撃しましたか。――「はい。私が南京を去ることになる
12月15日にも城門のすぐ外の揚子江の水ぎわで日本軍が機関銃で中国軍の捕虜を射
殺しているのを見ました。捕虜たちは50人くらいずつにまとめられ、並べられて射殺
されるのです。そのあとにすぐまた50人ほどの次のグループが引き出され、機関銃の
連射で殺されるのです。この処刑が進行している間に別の日本軍の将兵が近くにたむろ
してタバコを喫ったり、大声で話し合っていた光景をいまでもよく覚えています。」と
答えている。――中国の捕虜の側は抵抗とか逃走をまったく試みなかったのですか。―
―「その捕虜たちが両手を縛られていたかどうかはもう覚えていませんが、さからって
も無駄なことは明白でした。中国軍は司令官が逃げて、指揮系統が混乱してしまったこ
ともあって、日本軍が城内に入ってからはすぐ抵抗をやめ降伏するか、軍服を脱ぎすて
て民間人の群にまぎれこむかでした。とても無気力だったのです。軍服を脱いだ軍人達
の多くは『安全地区』に逃げ込みました」――『安全地区』には何人くらいが集まって
いたのでしょうか。――「私の当時の推定では約10万人だったと思います。しかしここ
にも日本軍が入ってきました。中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが原
因だといえばいえます。そのために日本軍に『安全地区』に入って捜査をする口実を与
えてしまった。兵隊ならば衣類を脱ぐと、銃や背嚢(はいのう)をかついでいた跡が半
分タコのようになって体に残っているのがわかるとというのです。若い中国の男たちは
みな日本軍に調べられ、兵士だと断定されると『安全地区』内でも殺されるというケー
スがよくありました。ただ日本軍も外部からいきなり『安全地区』に攻撃をかけるよう
なことはしなかった。市内の他地域での流血にくらべれば、まるでたいしたことはあり
ませんでした。」ダーティン記者は、南京市内での日本軍による民間人の無差別殺害を
も、当時、くわしく報道していた。「12月15日に南京市内を広範にみてまわった外国人
たちは、民間人の死体があちこちにあるのを目撃した。犠牲者のなかには老人や子供も
いた。警官や消防夫がとくに攻撃の標的となった」(1937年12月18日付報道)と書いて
いる。

1012: 名無しさんAA:18/07/05 17:07
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  71 >

 予想されなかった虐殺――日本軍はやはり民間人をも無差別に殺したのですか。――
「はい、無差別の殺害といえます。銃で射つのがもっとも多かった。銃剣を使う場合も
あった。とにかくウサギを殺すような感じでの虐殺が行われたのです」ダーティン氏は
こうした発言をしながらもとくに表情は変えず、淡々とした口調で語りつづける。「南
京の日本軍兵士は、上層部から略奪や虐殺をしてもよいという通達を受けているような
印象を、私は受けました。『中国人を殺せ』というような命令ではないにせよ、『殺し
てもかまわない』というような通達です。こうした行動は私には大きなおどろきでした
」――どうしてですか。――「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などま
るでしていなかったからです。上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間
人をやたらに殺すということはなかった。漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、
それでも規模はごく小さかった。南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違ってい
たのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」――南京にいた
中国の民間人は虐殺などがあるとは思っていなかったということですか。――「南京の
市民や周辺の住民は中国軍にすべてを焼き払われ、戦闘が長く続き、日本軍が南京を制
圧したときには一種の安堵感をおぼえていた人も多かったのです。日本軍の占領をあき
らめからにせよ、歓迎しようとする市民たちもいたのです。それまでの2~30年間も中国
の軍閥に支配され、搾取(さくしゅ)され、軍閥同士の戦いで被害を受け、という状態
で、別に支配者が日本軍になってもそう変わりはしない。日本軍でさえ、またやがては
去って行く。だったら戦闘を終了させたことだけでも日本軍を歓迎してもよいではない
か――そんな受け止め方が多かったのです。まさか日本軍が民間人を虐殺するなどとは
まったく考えていなかったのです。もしそんな心配が前からあったなら、民間人はみな
市内から逃げていたでしょう。」ダーティン氏のこの言葉も、「上海から南京への進撃
途中に日本軍が中国人を大量虐殺した」という説に疑問符を突きつけている。もしそう
した虐殺があったならば、南京陥落時に市内に中国民間人が多数、残っていて、歓迎の
姿勢さえみせるということもなかったはず、と考えるのが自然だろう。では南京市内で
日本軍に殺された中国側民間人の数はどのくらいなのか。ダーティン記者は12月18日付
記事では「数千人にのぼった」と報じている。しかし――民間人の死者の数はもう少し
具体的に推定はできなかったのですか。――「ええ、数千という以上にはわからないで
すね」と答えている。

1013: 名無しさんAA:18/07/05 17:11
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  72 >

 ――日本軍が攻略した時点での南京市内の総人口はどのくらいだったのですか。――
「私が自分の記事で報じたのはたしか50万だったか・・・・・あるいは30万だったか。
とにかく近郊からの避難民もかなり流れ込んでいたわけですから・・・・」海発のハム
レット・アベンド記者の報道は、南京市内にいる中国民間人の人数が30万人だとしてい
ますね。「ああ、そうですか。それなら私もきっと30万人という推定をしていたと思い
ます」とあくまで推定としている。民間人の虐殺については、スティール記者も「大規
模で無差別の殺害」であったことを伝えており、犠牲者の数に関してはやはり「数千人
」という表現を使っている。スティール記者のこうした推定数もダーティン記者同様に
12月15日の時点までの報告である。両記者とも同15日にはアメリカ海軍の砲艦オアフ号
に乗って南京を離れたのだ。犠牲者の総数の推定についてはダーティン氏に改めて尋ね
てみた。――南京で日本軍により戦闘以外で殺された中国の人たちですが、ダーティン
さんの当時の報道では軍人の捕虜が2万人、民間人が比較的なニュアンスのある表現に
せよ数千人とされていますね。――「ええ、当時、できるだけ数多くの関係者に質問し
、自分の体験や見聞も含めて推定した数だといえます。質問した相手のなかには日本側
関係者もいました。中国外務省の職員たちもいました。しかし、ああした状況下などで
は犠牲者の正確な数を推定することはきわめて困難なのは自明です。周知のように中国
側は犠牲者30万と主張しています」――ダーティンさんの報道した数字と中国側のその
数字とではあまりにも差がありすぎますね。――「すでに述べたように、私が南京にい
たのは日本軍の占領から3日目の12月15日までですから、私が報道した数字はあく
までその時点のものです。南京占領後、日本軍の虐殺は2ヶ月以上つづいたといわれて
いるのです」――中国側のいう30万という数字の根拠についてダーティンさん自身はな
にか知っていますか。――「いや、私にはその根拠はわかりません。というのである。
――日中戦争が始まってからはどうですか。――「南京攻防戦の際でも日本軍将兵の中
には自制や寛容さをもって行動している人たちもいました。私自身、日本軍が市内を占
領してすぐ、激しい戦闘のあったばかりの東方の城門で日本軍将校と話をしましたが、
その将校がきわめて礼儀正しかったことを記憶しています。日本軍と接触した他の外国
人たちからも理や情をわきまえているようにみえる将兵に会ったという話を聞きました
。」 

1014: 名無しさんAA:18/07/05 17:16
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  73 >

 ――日本軍のその種の非人道的な軍事戦略は南京以外ではあまりうかがわれなかった
ということでしたね。――  「日本軍は南京攻略のあと漢口を攻撃して占拠しました
が、私はそのとき漢口にいました。その際には無差別とか大量の殺戮というのはまった
くみませんでした。中国の国民党政権が南京での虐殺を内外に向けて宣伝し、非難して
いたので日本側も気をつけるようになったのかもしれません。」と話した。こうして、
 つまりこの記者のとてつもなくいい加減な話は広く流布されたのであったのだ。噂で
南京の人口を推察し、証しもなく兵士と一般人を分け、その処刑は虐殺と称して勝手な
数字で煽り立てた記事を新聞に載せたのである。実はこの戦時中のこうした記事イエロ
ージャーナルは部数伸ばしに伸ばしたし誇張した記事は多々盛りつけられてあった。も
っと言えば政府に踊らされて金を貰ってでも書いたのだ。新聞の発表とは、別にリーク
記事も推測記事も国の方針に沿えばよかったのだ。日本での大本営発表と同じである。
だがそれが民間での、発行競争の中だったので始末が悪い。又、その結果が実は日本人
が強盗や殺人をやってもいずにやったと書きたてられたのだ。日米開戦まで国の誘導で
なされていた事実もある。実は、米国での日本人収容所は、そうしたあられもない記事
で日本人は野蛮人で次々と職場を奪っている。とまことしやかに報道され、ハリウッド
まで使って「悪魔のジャップ」のイメージ作りがなされた。鬼畜米英の様な話は、日本
だけの話ではなかったのだ。この南京にいた日本人記者の話と全く違う作り話がこの中
にある。何故か。実は彼らも又ドイツ人の派遣した軍事顧問団とつながりが近かったか
らだ。そもそもドイツの軍事顧問団は、本国との連絡を特別には持たなかった。彼らの
船や無線連絡を借りたのである。多くは米英の軍事艦船を借りた連絡であった事がわか
っている。つまりドイツのナチスへの報告さえも、このアメリカの新聞社を使って報告
していたのだった。「興奮や恐怖に駆られて日本軍の近くを突っ走った中国人はすぐに
狙撃された。明かに背中から射たれた老人の死体などが、うつ伏せになって歩道によく
横たわっていた」(1938年1月9日付報道)などと書いている。実はここに大きな間違い
がある。彼は中国軍の戦争や極東の地理を全く理解していなかった。特にドイツが指導
して塹壕を掘り、中国軍「督戦隊」兵士を立たせ、正規の中国軍で後ろから狙って戦争
し、逆に冷静にして日本軍に戦い行かない農奴のような一般兵の督戦士を撃ちまくって
死者が出ても構わない戦争をしていて、それを予想してもいなく、いや知っていても隠
して、現実の死と想像の戦いの記事を世界に発信していたのである。

1015: 名無しさんAA:18/07/05 17:18
実はここに大きな間違い
がある。彼は中国軍の戦争や極東の地理を全く理解していなかった。特にドイツが指導
して塹壕を掘り、中国軍「督戦隊」は兵士を立たせ、正規の中国軍として後ろから狙っ
て戦争し、逆に冷静にして日本軍に戦い行かない農奴のような一般兵を督戦士は撃ちま
くって死者が出ても構わない戦争をしていて、それを予想してもいなく、いや知ってい
ても隠して、現実の死と想像の戦いの記事を世界に発信していたのである。


1016: 名無しさんAA:18/07/05 17:25
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  74 >

「興奮や恐怖に駆られて日本軍の近くを突っ走った中国人はすぐに狙撃された。明かに
 背中から射たれた老人の死体などが、うつ伏せになって歩道によく横たわっていた」
(1938年1月9日付報道)などと書いている。実はここに大きな間違いがある。中国軍の
先に述べた様に「督戦隊」兵士が正規の中国軍であり、その正規兵の前で戦っている兵
士は雇われだったり農奴だったり拉致されたりした、足錠をされた囚人の様な兵士だっ
た。戦場まで僅かな食料でつれまわされ、水や便意すら決まった時にしなければならな
かったのだ。まともな水もなく腹を壊したものが多く 従って臭くてたまらないので、
日本兵の中で勝手に便衣兵と作られていた。しかしこの便衣兵も全く色々いて本当に妻
や子を人質にされた現地の農奴は、都合よく日本兵を数多く殺していた。この南京城で
も戦うようにわざわざ現地人に成りすまして日本軍を乞い、共産党に似せた中国軍と戦
う様にしたりした。この南京戦は上海戦の盧溝橋事件の話し合いの優位さを築く為だっ
た戦の繋がりがあった。上海陥落は当然だったので、国民党軍の南京に日本軍を呼び出
せと言うのは、共産党軍の戦略だった。現場では上海戦でも自軍が日本軍と戦う矛盾の
ままに戦い多くは逃げようとして、多くは背後から撃たれていた。南京でも同じに便衣
兵を集めと督戦隊を置いて戦った。この場所は城壁で逃げる所がなく前線の中国兵が言
う事を聞くからだった。しかし、日本軍が入ると直ぐに降参したのだ。司令官や将校は
既に逃げていたからだ。上海クーデターは、蒋介石が北伐でやられ帰って来た時北京政
府内もコミンテルンの政治顧問ボロディンの指導で左翼化してしまっていたので内部の
革命を試みたものだった。この時、程潜は蒋介石の反共路線を支持し、第1軍第2軍の
総指揮に任ぜられた。同年10月、程は西征軍第4路総指揮に任命され、李宗仁などの
新広西派と協力して、反蒋クーデターを起こした湖南軍の唐生智を討伐している。11
月には、武漢を攻略した程は 湘鄂臨時政務委員会主席に任命され、翌1928年(民国17
年)2月、唐を撃破して長沙を占領した。しかし、その後突然中央政治会議武漢主席の
李宗仁によって、各職から罷免され拘禁されてしまう。その時討伐したはずの唐生智が
牢獄から出され任命されていて、何故かこの南京城に構えていた。程は、早稲田大学で
政治経済学を学び、李根源・李烈鈞らと欧事研究会を組織しての、その幹事となる程の
智慧者だったがここでは一時失脚状態になって、牢獄につながれたのだ。それは蒋介石
政府が既に共産党員が幹部として囲っていたからに他ならない。こうして日本政府の、
血や涙の和平協議や和平工作や国土建設や中国民保護の政策も灰燼に帰したのだった。

1017: 名無しさんAA:18/07/07 01:40
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  75 >

 一方。唐生智は1914年に保定陸軍士官学校を卒業後、辛亥革命、護国戦争、護法運動
、北伐戦争など中華民国建国初期の重要な戦争に参加していずれも逃げ延びている。北
洋軍閥のクーデター時期には、唐生智は壊滅した湖南軍閥に属しており、その都度戦局
を渡り歩いて来ていた。クーデターにより趙恒タを長沙から追い出した後、自ら省長の
職に就き、反対勢力の駆逐を図ったが。趙恒タ側は武漢で反撃準備をしていた呉佩孚に
救助を求め唐生智を追い出した。敗戦して長沙から退き、北閥軍に参加し、1926年6月2
日に正式に部下と共に国民革命軍に参加し、国民革命軍の第八軍の軍長になった。6月
に再び長沙を占領した後、湖南省の主席となった。彼は1961年11月入院したが。12月に
見舞いに来た陳毅は、「孟瀟先生、あなたは友人として余りある人だ。国民党の一級上
将の中であなただけが、我々紅軍、解放軍を攻撃しなかった。」と称えた。つまり国民
党軍の将軍でありながら共産党軍とは戦わなかったのだ。しかし1968年に林彪、江青に
よる文化大革命の反革命集団は数回にわたって湖南に人を送り、唐に対して様々な手を
使って、人民裁判を起こそうとしたが、賀龍が「人民の敵」であると声明させようとし
たが、頑強な抵抗に遭った。彼らは唐が言う通りにしないのを見て腹を立て、一人がピ
ストルを腰から取り出すとテーブルの上に叩きつけ、「言うのか言わないのか!言わな
いならお前を撃ち殺すぞ!」と叫んだが、唐はその一言を聞いて激怒し、衣服をはだけ
て胸を叩き、「小僧!こっちに来い!俺は各地を歴戦して銃弾の雨を歩いてきたが、死
を恐れたことはないぞ!」と言ったと言う。唐の気迫の前に、彼らは頭を下げ、あわて
て退却するしかなかった。と言う逸話が残る。又一方の程潜は蒋介石の北伐について行
った。1927年(民国16年)1月、程は江右軍総指揮に任命され、南京へ進撃を開始し、3
月24日までに南京を攻略して入城した。ところが、この時に程の軍は外国の領事館、教
会、商店、住宅等を破壊・略奪してしまい、長江駐留中のイギリス・アメリカの軍艦も
砲撃で反撃するという事態を引き起こしてしまう(1927年南京事件)。つまり日本が、
南京占領する僅か10年前に同じ様に共産党退治に程将軍は攻略し、その相手が米英の
武器調達にある事を知っていたのである。日本軍入城前には中国人同士が撃ち合った。
又上海戦も同じだった。ラーベの日記ではその模様が淡々と記述される。「私はアメリ
カ人数人と市の南部にでかけました。日本軍司令部と連絡をとり、また街の被害状況を
ざっと調べておこうと思ったのです。司令部はみつかりませんでした。」と彼こそは、
ドイツ人将校の一人で、指揮者だったのだ。

1018: 名無しさんAA:18/07/07 01:41
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  76 >

 ラーベの12月13日(陥落初日)の日記は随分と考えさせられる。「我々はメイン
ストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を轢いてしまったが最後、ふっ
とんでしまう。上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。
 ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。なかにド
イツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は2日後に来ると言った。」 多くの
死体が有ったというが、紅卍字会の埋葬記録が正しければ上海路では20体の埋葬であ
ったから、死体は20体しかなかったことになる。では、ラーベの言うように「市民」
の死体であったのか?支那軍正規兵は、敗戦の際は常に軍服を脱ぎ捨て便衣(平服)を
まとっていた上、逃げようとする 友軍兵士を督戦隊が背後から撃っていた。支那兵に
武装解除を勧めるラーベの近くで、支那軍将校がカービン銃を撃っていた。死体は、撃
たれて死んだ兵士の死体だった。他方、12月8日、唐生智の安全地帯避難命令が出て
、市民は安全地帯の外での移動を禁じられた。日米双方の記録にある上の事実がラーベ
の日記にはない。ところがラーベの署名する国際委員会9号文書は次のように記録する
。「13日、貴軍が城内に入った時、我々はほぼ全ての非戦闘員の住民に安全地帯へ集
まってもらっていた。」つまり市民はほぼ全員が安全地帯に集まっていた。中山北路と
上海路の交差する戦場にいるはずもなかったのである。ラーベが目撃したのは「市民」
ではなく兵士の死体であったことになる。もし日本軍が市民を撃ったのであれば、南京
在住アメリカ人14人がアメリカ大使館のエスピイに訴えた事の記録、「エスピイ報告
」に、その非難が出て来るはずであった。しかしそれもない。日本軍は「市民」を銃撃
していないことになる。上海路へと曲がったが、そこにはいくつかの市民の死体が転が
っていた。そして、前進してくる日本軍に向かって車を走らせた。... 日本軍は北へ向
かっているので、われわれは日本軍を迂回する回り道を車で急行し、三部隊約六百人の
中国兵を武装解除して助けることができた。と書いている。つまり、彼は指導して便衣
兵にさせ、武装解除を命令したのだ。それは何故かそれは前の日に仲間が情報をくれた
からだ。


1019: 名無しさんAA:18/07/07 01:41
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  77 >  

12月12日「夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。
ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した。」龍と周は支那軍の
大佐で、ラーベは彼らと停戦交渉をしていました。」これは彼の部下同様の者で この
上海交戦を指導したドイツの軍事顧問の下に働いていたのを如実に物語っている。支那
軍の将校を匿うということは国際委員会は中立どころか支那兵を動かす上層部だった。
実際、多くの逃げ込んだ支那兵は便衣兵を殺して自らが便衣兵に成りすまし、日本兵の
行為に見せかけて悪事を働いていた。チャイナ・プレスの1938年1月24日 日本
憲兵隊の報告書では、「彼らの中には南京保安隊隊長王信労がいた。彼は陳弥と名乗っ
て、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長
馬包(あしへん)中将や南京警察の高官密信喜もいたといわれている。馬中将は安全地
帯内で攪乱行為の扇動を続けていたと言われる。また安全地帯には黄安大尉ほか十七人
が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は略奪、
扇動、強姦に携わった。」ラーベは龍と周が去った日の日記に「残念ながら我々の友情
にはひびが入った。」と書いており、彼らが使い物にならないと捨てたのだ。悪事を働
いていたことはラーベは知っていたはずです。しかし、ラーベはそれを敢えて日本軍の
暴行というプロパガンダでヒトラーに上申した。12月16日ドイツ人軍事顧問の家は、片
端から日本兵によって荒らされた。中国人はだれひとり、家から出ようとしない。(つ
まり私を守ってくれていない。)私はすでに百人以上、極貧の難民を受け入れていたが
、車を出そうと門を開けると、婦人や子どもが押しあいへしあいしていた。ひざまずい
て、頭を地面にすりつけ、どうか庭に入れてください、とせがんでいる。(つまり味方
であった家族である。)この悲惨な光景は想像を絶する。菊池氏(通訳)と車で下関に
行って、発電所と米の在庫を調べた。発電所は見たところ損傷なく、もし作業員がきち
んと保護されれば、おそらく数日中に稼働できるだろう。手を貸したい気持ちはやまや
まだが、日本軍のあの信じられない行為を考えると、40〜45人もの労働者をかき集める
のはむずかしい。それに、こんななかで、日本当局を通じて我が社のドイツ人技術者を
こちらに呼ぶような危険なことはごめんだ。(つまり自分が将校と知れる危険性があっ
た)

1020: 名無しさんAA:18/07/07 01:42
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  78 >  

「たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区か
ら連れ出され、銃殺されたという。そのうち、50人は安全区の警察官だった。兵士を
安全区に入れたというかどで処刑されたという。」実際は日本兵と戦った便衣兵を束ね
た督戦兵(とくせんへい)で逃亡防止の背後の銃を持つ者達だった。「下関へいく道は
一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通部は中国
人の手で焼きはらわれていた。悒江門(北門)は銃弾で粉々になっている。あたり一帯
は文字通り死屍累々(シシルイルイ)だ。日本軍が手を貸さないので、死体はいっこう
に片づかない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間の宗教的慈善団体)が手を出すこ
とは禁止されている。」この記述は間違いで日本の自治の憲兵隊が査察を終えた所から
直ぐに紅卍会は活動している。逆に赤十字が中国軍の為に活動が制限されていたのだ。
「銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。我々外国人はショ
ックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバ
ラックで機関銃で撃ち殺された。」この話は私が知る8人の老人でも聞かない。方々で
処刑があったと言うのは中国人同士ではあったのだろう。と推測するのが妥当だ。まだ
入城前の話でもあるからだ「晩に岡崎勝男上海総領事が訪ねてきた。彼の話では、銃殺
された兵士が何人かいたのはたしかだが、残りは揚子江にある島の強制収容所に送られ
たという。以前うちの学校で働いていた中国人が撃たれて鼓楼病院に入っていた。強制
労働にかり出されのだ。仕事を終えた旨の証明書をうけとったあと、家に帰る途中、な
んの理由もなくいきなり後ろから2発の銃弾を受けたという。かつて彼がドイツ大使館
からもらった身分証明書が、血で真っ赤に染まっていま私の目の前にある。」と書く更
に「いま、これを書いている間も、日本兵が裏口の扉をこぐしでガンガンたたいている
。ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。小型サーチライトを手に
私が出ていくと、サッといなくなる。正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に
消えていった。その側溝にも、この3日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ
。ぞっとする。女の人や子どもたちが大ぜい、庭の芝生にうずくまっている。目を大き
く見開き、恐怖のあまり口もきけない。そして、互いによりそって体を温めたり、はげ
ましあったりしている。この人たちの最大の希望は、私が「外国の悪魔」日本兵という
悪霊を追い払うことなのだ。この話はもっとも可笑しな話で 岡崎勝男上海総領事が訪
ねる程の人間なら、当たり前なら全く日本軍の暴行などなかったはずだ。実は逆に中国
の残存兵を怖がっていたとしか考えられない。

1021: 名無しさんAA:18/07/07 01:45
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  79 >  

 ラーベ日記1月9日には「11時にクレーガーとハッツが本部に来て、たまたま目に
するはめになった『小規模の』処刑について報告した。日本人将校一人に兵士が二人、
山西路にある池の中に中国人(民間人)を追いこんだ。その男が腰まで水につかったと
き、兵士のひとりが近くにあった砂嚢のかげに ごろりと寝転び、男が水中に沈むまで
発泡し続けたというのだ」この事項は国際委員会の記録にもあります。そして注釈がつ
けられています。「われわれは、日本軍による合法的な死刑執行に対して何ら抗議する
権利はないが、これがあまりにも非能率的で残虐なやり方でおこなわれていることは確
かである。」と国際委員会は便衣兵(いわゆるゲリラ)の処刑は合法的と考えていたわ
けですが、ラーベの日記にはこの見解が一切書かれていないのです。また、ラーベはこ
の暴行する支那兵を匿っているのです。「自転車に乗った日本軍の前哨によれば、総司
令官は三日たたないと到着しないということでした。中国人の民間人の死体がそこここ
にありました。いくつか調べてみたところ、至近距離から背中を撃たれているのがわか
りました。たぶん逃げようとするところ だったのでしょう。中山路と太平路をぬけ、
夫子廟の手前まできて、太平路にあるアリカ人伝道団の地所で車を降りました。」つま
りここではラーベ自身が、中国人の為の偵察将校となり調べているのを告白したような
ものである。何を調べたのか、実はこの戦線で戦った者が逃げた者を督戦兵(とくせん
へい)は背後から殺すのだがその数を数えていたのだ。それらは足に脚錠があったとい
うので直ぐに見分けられたはずだ。又老人子供はその逃げ延びた先の匿った住民であろ
う。殺さなければ正規兵は更にこの地の警官に殺されるのだ。「12月15日、外国の記者
団が上海に向かう日本の軍艦に乗せてもらうことになりました。ところがそのあとで、
イギリスの軍艦でいけることになり、桟橋に集合するよう指示がありました。出発まで
予想以上に時間がかかったので、偵察をかねて、あたりを少し歩くことにしました。そ
こでわれわれが見たものは、広場で日本軍が中国人を縛り上げ、立たせている光景でし
た。順次引きたてられ、銃殺されました。ひざまづいて、後頭部から銃弾を撃ち込まれ
るのです。このような処刑を百例ほど見たとき、指揮をとっていた日本人将校に気づか
れ、すぐに立ち去るように命じられました。ほかの中国人がどうなったかのかはわかり
ません。」これはちょっと考えられない。一列50人ほどとされ100例と証言する。
広場で行われそれをぼっーと見ていたと言うのだ。それも1月9日と言うのだ。ありえ
ない妄想である。


1022: 名無しさんAA:18/07/07 01:52
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  80 >  

 ここに幾つかの日本の同行取材陣の話がある彼らは中国での特派員である。彼らは、
「14日のことだと思いますが、中山門から城門に向かって進んだ左側に蒋介石直系の88
師の司令部がありました。飛行場の手前です。ここで、日本兵が銃剣で中国兵を殺して
いました。敗残兵の整理でしょう。これは戦闘行為の続きだと思います」(東京日日新
聞カメラマン・佐藤振寿)とここでも日本兵の服がそのまま日本人と誤認されている。
南京事件を聞いたのは?「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和21年か22年
頃だったと思います。NHKに『真相箱』という番組があって、そこで南京虐殺があっ
たとの放送を聞いたのがはじめてだったと思います。」先の南京攻略戦に同行した東京
日々新聞カメラマン・佐藤振寿の証言だ。「十三日に、中山門から城内に入りました。
もうこの日は、難民区の近くの通りでラーメン屋が開いていて、日本兵が十銭払って、
食べていました。それでも、中国人の略奪が続いて、中山路で机を運んでいる中国人や
、店の戸をこじ開け盗んでいる者もいました」(東京日日新聞カメラマン・佐藤振寿)
「十六日は、中山路で難民区から摘出された便衣兵の写真を撮っています。中山路いっ
ぱいになりましたが、頭が坊主の者、ひたいに帽子の跡があって陽に焼けている者とか
、はっきり兵士と分かる者を摘出していました。でも髪の長い中国人は、市民とみなさ
れていました」「日本兵の屍体は撮ってはいけないと言われていましたが、私は何でも
撮りました。日本兵が残虐なことをやっている写真なんか一枚もありません。この中に
は日本兵が慰問袋を中国人にわけてやってるのがありますが、たくさんの中国人が群が
っている、そんなものもあります」「朝日新聞が『中国の旅』という連載で、南京で虐
殺があったと、中国人の話を掲載していましたが、そのころ日本には、当時南京にいた
人がたくさんいるわけです。それなのに、『何故日本人に聞かないで、彼らに都合のい
い嘘ばかりのせるのか』そう思いました」「13年春(=1938年春)から3年以上も南
京に駐在し、取材に当たっていた私が、ついぞそういった風聞(=虐殺)も聞いたこと
がないのですからね。私も東京裁判でこのことを初めて知った組です。私は“南京虐殺
”など、信じません」(当時、上海・南京に特派された従軍記者・小山武夫、後に中日
新聞役員・中日ドラゴンズ社長等を歴任)勿論虐殺や処刑が無かったなどとは言う気は
ない。所詮戦争である。武器を持った兵士が日本人だからと100%の人がまともだっ
たとは思わない。しかし、現実に行って来て戦って帰還した人からは2千人ぐらいの、
中国人は死んだが、大陸で殺された者は大勢が日本人だった。と7人の老人の証言だ。
それが嘘とは思えないし、やみくもに命令を出し、それに従ったとは思えないのだ。

1023: 名無しさんAA:18/07/07 01:52
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  81 >  

 大日本皇道立教会を設立して初代会長に就任した大隈重信は、明治維新に際して小松
清廉の推挙により明治元年(1868年)、外国事務局判事に任ぜられた。キリスト教禁令
についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、賠償金問題
など山積みであった。明治2年(1869年)からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処
理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。次いで、大蔵大輔となり、鉄道・電
信の建設、工部省の開設などに尽くした。時の大久保利通ら権勢を欲しいままであった
。これを牽制した大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允
とも結んで近代国家の早期建設を謳って、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった。
当時はまだ倒幕後の不穏な動きもあり「築地梁山泊」と称した大隈の私邸に集まり情報
や対策など国家の中枢として私邸は機能していた。殖産興業と財政改革という点から、
明治8年(1875年)10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に
提出したりしている。殖産興業政策を推進し、征韓論には反対して、その後、単独でも
財政の意見書を提出し、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった
。又大隈は、会計検査院創設のための建議をおこなっており、会計検査院は明治13年
(1880年)3月に設立された。明治14年(1881年)には、正確な統計の必要性を感じ
統計院の設立を建議、設立し、自ら初代院長となった。こうして欧米列強と肩を並べた
資料作りに勤しんだ。しかし、やっと出来た第1次大隈内閣(隈板内閣)では、文部大
臣であった尾崎行雄が行った財閥批判の演説が問題となり、内閣瓦解の発端となり事件
が起こった。共和演説事件(きょうわえんぜつじけん)である。これまで財閥を育てて
海外に対抗していたのだが、財閥支配に憤慨した尾崎は 1898年8月21日に帝国教育会茶
話会で行った演説の中で、「世人は米国を拝金の本元のように思っているが、米国では
金があるために大統領になったものは一人もいない。歴代の大統領は貧乏人の方が多い
。日本では共和政治を行う気遣いはないが、仮に共和政治がありという夢を見たとして
も、おそらく三井、三菱は大統領の候補者となるであろう。米国ではそんなことはでき
ない。」と批判した。これが大日本帝国憲法下の当時の日本では「不敬の言」であると
曲解され、まず宮内省から批判の声が挙がり、初の政党内閣である隈板内閣に批判的な
枢密院・貴族院に非難の声は広がり、陸軍の桂太郎らと密かに連携して尾崎排除を計画
し新聞まで非難した。尾崎は9月6日に参内して明治天皇に謝罪したが、明治天皇より、
不信任の意向が伝えられたことにより辞任した。

1024: 名無しさんAA:18/07/07 01:53
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  82 >  

この舌鋒の鋭さから立憲政友会をつくり、憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問
を行い、「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」と首相・桂を糾弾する演説を行って
大正政変のきっかけとなった。こうして第3次桂内閣退陣後、山本権兵衛が組閣すると
、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党し、以
後政友倶楽部・亦楽会・中正会・憲政会・革新倶楽部と移る。第1次山本内閣がシーメ
ンス汚職事件で総辞職し、清浦奎吾が首相就任に失敗すると、大隈重信に再びお鉢がま
わり第2次大隈内閣が組織され、尾崎は中正会を代表して司法大臣として入閣した。こ
こでこの海外の大企業や日本の財閥の実態を探るべく、新聞社を立ち上げていた平岡浩
太郎に白羽の矢を立てた。玄洋社は平岡浩太郎を社長として旧福岡藩士らが中心となり
、近郊の浪人藩士を食いつなぐ為に作られたものだった。杉山茂丸、頭山満、箱田六輔
、大原義剛、福本誠、内田良五郎(内田良平の父)、進藤喜平太(進藤一馬の父)、月
成功太郎、末永純一郎、武井忍助、古賀壮兵衛、的野半介、月成勲、児玉音松らが創立
に参画して、福岡はもとより佐賀藩士や熊本藩士や山口藩士などが大勢にいた一大右翼
の新聞になっていた。この大所帯から幾つもの部隊を中国に送り出そうとしていた。中
には宮崎滔天や親日開花運動家金玉均や朴泳孝、インドの独立運動家ラース・ビハーリ
ー・ボースらを庇護したり、アメリカと独立戦争を戦うフィリピンのアギナルドなどと
大アジア主義をもつ偏在するグループとも知り合いがいた。玄洋社の社則の条項では「
皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」の民主主義
であり、愛国民主の藩閥政治の打倒にあった。そうした中第一勧銀が貸し付けていた、
野口遵から朝鮮での活動の要件が出て来て1901年(明治34年)に、内田良平らが玄洋社
の海外工作を担う黒龍会を設立した。その後満州経営は大きくなり、朝鮮銀行窓口とな
った。しかし黒龍会によってより多彩な活動が展開されるようになり孫文らの辛亥革命
を支援し、多くの喰い詰め浪人たちが清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っていた。
日本の勝利に大きく貢献した明石元二郎も玄洋社の社中(社員)であった。陸軍参謀本
部参謀次長長岡外史は「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評した。しかし、
在中の満蒙人となると世代交代時代にその繋がりが必要だった。その時の「福陵新報」
は1898年(明治31年)に「九州日報」と改題し、さらに1942年(昭和17年)には新聞統
制に伴い「福岡日日新聞」に合併されて「西日本新聞」となり、現在に至っている。

1025: 名無しさんAA:18/07/07 01:59
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  83 >  

頭山満の玄洋社には来島恒喜など社員がいた。上京し中江兆民に仏語を学んだ後、筑前
共愛公衆会や、頭山満率いる玄洋社に参加していた。朝鮮開化党の金玉均と過ごし朝鮮
の政治改革について語り合った仲となった。その為、大隈重信の条約改正案に反対し、
玄洋社を退社すると大隈を暗殺するべく、1889年(明治22年)10月18日、外務省からの
帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせた。
来島は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害した。享年29歳の若さだった。
大隈の右足切断手術は、佐藤進やドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツの手によ
り行われた。大隈はその後、来島について「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも
思っていない。いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとし
た勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っている。そして大隈は来島
の墓を建ててお参りに行った。伝説では、来島本人は酒を受け付けず、大隈重信暗殺に
出向く際、別れの盃は水であったという。来島も学んだ興志塾(通称人参畑塾)の塾長
高場乱(たかばおさむ)は来島自決の報を聞き、「ながらえて明治の年の秋なから心に
あらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる。博多の侠客だった「勇敢仁平」の
異名をとる大野仁平と話がこじれ乱闘となり、燭台で大野仁平の頭をたたき割っている
血気盛んな若者だった。この事件によって大隈の条約改正案は破棄された。来島の死後
、後の首相となる広田弘毅の父・広田徳平により、墓碑が作られた。大隈襲撃には月成
功太郎(広田弘毅の岳父)も計画に加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き
、単独で決行した。また、博多の玄洋社墓地(崇福寺)にも墓があるが、勝海舟によっ
て谷中霊園にも墓が建てられた。同墓はその後、頭山満によって建て替えられたが、当
初の墓石も傍に横たえて残されている。灯篭も勝の寄贈だが、「暗夜の灯」と彫られた
文字は官憲の手によって削られてしまった。こうして頭山満は福岡のフィクサーとして
名が知れ渡った。頭山満は右翼の総帥とされたが、日産コンテェルンとのつながりが、
出来てからだ。戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々
の戦争において情報収集や裏工作に関係してきて、米国はこの解体に力を注いでいた。
九州のの柳川は乃木希典がよくやって来た地であった。後年希典は、よく銃後の夫人の
哀れさを説いたと言う。彼が宮崎滔天や立花氏とも親交があり、その為に柳川の名家は
その多くが息子を差し出して第二次世界大戦以降跡継ぎを失っている。それに小作人が
虚をついて農地をせしめて成り上がりの大農家となっている。それがこの地方は多い

1026: 名無しさんAA:18/07/07 02:00
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  84 >  

本来は思想的には西郷が起こした西南戦争に賛同した向陽社のほうが大きな右翼だった
。高知の立志社に倣って武部小四郎が矯志社を組織すると、箱田六輔等と共に参加して
1877年(明治10年)、西南戦争に呼応して越智彦四郎、武部小四郎等が挙兵(福岡の変
)するとこれに加わるが敗れ、その後、単身西郷軍に合流し、豊後・日向の本営におい
て謀議に参与。敗戦後、東京の獄に懲役一年の刑を受けている。出獄後は自由民権運動
に参加し、箱田六輔、頭山満、進藤喜平太等と共に向陽社を組織し1879年(明治12年)
11月に開催された愛国社同盟第3回大会では幹事を務め、1880年(明治13年)3月に開催
された愛国社第4回大会においては国会期成同盟の設立に主導的な立場をとっている。
1881年(明治14年)、向陽社を玄洋社と改名して初代社長に就任。1882年(明治15年)
、朝鮮の壬午事変に際し、西郷軍の生き残りの野村忍助と義勇軍計画を起こすなど、早
くからアジア問題に関心を示し、大アジア主義をとっていた。平岡浩太郎が興したこの
玄洋社は進藤喜平太などの勧めで実業方面にも進出し、この時頭山満などが参加した。
赤池・豊国炭鉱などの経営に成功し、その豊富な資産で玄洋社の対外活動を支え、一方
で九州鉄道の創設、官営八幡製鉄所の誘致運動などに関わり、福岡県の経済発展に貢献
している。進藤喜平太の子息で、中野正剛の秘書や玄洋社の最後の社長を務めた進藤一
馬は福岡市長となった。多くの玄洋社の運動家が輩出した福岡藩の藩校である修猷館は
、現在は県立高校(福岡県立修猷館高等学校)となった。進藤の跡を継ぎ1986年(昭和
61年)から1998年(平成10年)まで福岡市長を務めた桑原敬一も修猷館高校出身である
。また、玄洋社の思想に共鳴した柴田徳次郎によって、関東一円の学生によって設立さ
れたのが青年大民團である。青年大民團は玄洋社の思想を多くの青年へ教育するための
教育機関として私塾國士舘を設立しており、こうした関係から第二次世界大戦直後は国
士舘大学はその名称を変更させられていた時期もあった。ここに徳川氏の中国経営が入
った。堀川辰吉郎は幼少時に、福岡にある維新後、元黒田藩士が結成した政治工作結社
「玄洋社」に預けられた。玄洋社の社長は「頭山満」でしたが、隠れた社主は黒田藩主
だった黒田長溥の実子「杉山茂丸」であり、辰吉郎は杉山を後見人として育てられた。
辰吉郎は10歳のころ上京し学習院中等科に入りますが、問題行動を繰り返して放校処
分を受けたため、13歳の時、日本に亡命していた孫文に托され支那に渡り革命行動を
共にした。こうした事は大陸浪人の面目でもあったらしい。


1027: 名無しさんAA:18/07/07 02:02
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  85 >  

 堀川辰吉郎はその後、奉天の「世界紅卍字会」の会長に就任し、日本軍と支那政府と
の折衝に当たり、日支講和に尽力した。1912年に帰国し活動写真の配給会社を経営した
後、1935年に「大日本国粋会」第3代総裁に就任した。国粋会は立憲政友会の用心棒的
存在だった。原敬の内務大臣・床次竹二郎が世話役に、全国の博徒の行動を統制しよう
と出来た物だった。右翼の頭山満を顧問に迎えて結成され、大日本国粋会は、土建業者
を含む博徒の生業を保障して全国的な超党派的純国家主義思想団体として、伝統の侠客
道をもって海外勢力を抑える右翼団体となっていた。侠客の人情を根本信条の行動原則
とした。創立当時、総裁には伯爵大木遠吉、会長は村野常右衛門、理事長は中安信三郎
が務め、会員数60万と称して外国からのスパイ活動や扇動活動する工作員を抑えよう
としていた。しかし、堀川辰吉郎は、大陸での反軍閥運動が逼迫し、東條内閣と対立し
て再び支那に渡った。この江戸から明治に至っては、武士の至難の時代だった。徳川家
は、華族になり少しの俸禄は得た。徳川宗家は公爵で華族の最高位にいた。必ず貴族院
に議席を占める権利を有することになっていた。徳川御三家もそれぞれ侯爵の爵位を授
けられ、後に水戸徳川家だけは勲功を考慮され公爵になった。更に、徳川御三卿家もそ
れぞれ伯爵の爵位を受けた。加えて徳川慶喜家も特別に公爵になり、徳川家だけでもざ
っと公爵3家・侯爵2家・伯爵3家を、明治政府は議員年俸で生活を預かった形である
。しかし徳川家の家臣になれば、全ての大名、旗本、御家人は飢えていた。一方的な、
廃藩置県や農地解放が行われたからだ。それでも、大名については基本的に朝敵でも、
新政府側(薩長土肥など)も全て華族になった。石高や家格・勲功に応じて爵位が割り
当てられた。ちなみに会津松平家はきちんと石高に応じた子爵になっている。問題は、
旗本・御家人だった。基本的に維新後は士族・卒族に編入され、更に卒族は廃止された
、その際に士族になる者と、平民に編入される者に分かれた。士族になる条件は「世襲
の武士であったもの」でありますから、世襲の御家人つまり「譜代」「二半場」の家格
を有する者は士族にでも、非世襲である「抱席」の家格だった者は平民に編入される事
になります。こうして士族としての身分でも有秩禄処分等々で士族の特権は次々と無く
なり、普通の士族と同じように困窮して行く者が多くなっていった。これの救済が藩主
の器であった。多くは新天地の開拓にその希望をのせて、北海道やサハリン・満州に、
その種を一生懸命になった。

1028: 名無しさんAA:18/07/07 02:03
1935年6月10日には梅津・何応欽協定、同月27日には土肥原・秦徳純協定が成立した。
両協定によって国民政府と中国国民党が中国北部に置いていた機関や部隊がいくつか廃
止あるいは移動させられた。梅津・何応欽協定に関しては中央直属駐平憲兵第三団が北
支から撤退し、国民革命軍の第五十一軍、旧東北軍、および第二師と第二十五師が移駐
した。土肥原・秦徳純協定に関しては宋哲元の二十九軍が移動させられている。しかし
その後、1935年10月21日河北で民衆運動が発生した。河北自治運動とされる。最初の運
動は香河県の有力者・武宜亭を指導者とし、減税と自治を要求し、ライフルとショット
ガンで武装しており、この事件は中国側で香河事件と呼ばれた。多くの日本人の「浪人
」が参加していたため、日本の憲兵隊がその中の6人を逮捕して取調べを行い、監視の
下、天津に移送した。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)はそうした中
で出来た中立地帯だった。1935年から1938年まで中国草創期の中国河北省に存在した政
権で、当時の日本側の認識によると、地方自治を求める民衆を背景に殷汝耕の指導によ
り成立していた。中国側からは当時から現代に至るまで日本側の特務機関の工作活動に
より設立された傀儡政権であると主張されているが全く違って、日本政府とは別に孫文
や殷汝耕を後押ししていたのである。この国は日本や米国にも中国側と同様の認識での
傀儡政権であった。国旗には中華民国が最初に定めた五色旗を使用した。つまり国際的
に認められれながら、何一つ自立の出来ない国だった。張作霖はそれを見越して兵を挙
げたのだ。1935年同年11月25日、土肥原賢二に誘われる形で、殷汝耕は「冀東防共
自治委員会」の成立と自治を宣言した。これにより、殷に対して国民政府は逮捕令を発
している。翌月、委員会は冀東防共自治政府に改組され、殷は政務長官に就任した。。
しかし、奉天派の軍人・郭松齢が張作霖に対して兵変を発動すると、殷は郭の配下とな
り、外交処長に任ぜられた。しかし翌月に郭は敗死し、殷は日本領事館に逃げ込んでい
る。蒋介石の国民革命軍総司令部通訊処処長兼参議に任ぜられ、蒋が日本と交渉する際
には通訳を担当した。翌年の上海クーデターを経て、上海市長黄郛の下で秘書に任ぜら
れ、黄郛が外交部長に就任すると、殷汝耕は駐日外交特派員となった。なお、この頃ま
でには、殷汝耕は殷同、袁良、程克とともに、日本通の四巨頭と目されるようになって
いる。しかし5月に済南事件が勃発してから数ヶ月後の冬に、首相田中義一と対立して
いた床次竹二郎が南京を訪れた。この時蒋介石と事件解決等を話し合ったが、このとき
通訳を担当していた殷汝耕は、会談内容をすべて首相の義一に密告してしまい、同郷の
床次は政治的打撃になってしまった。床次は殷の漏洩行為を蒋に通知し、蒋は殷を通訳
から罷免した。

1029: 名無しさんAA:18/07/07 02:10
 日本の満鉄経営で華北工作は失敗に終わっていた。にも関わらず板垣と石原は勝手に
占領地を作ってしまった。この日本が満州事変を起こして中国の東北4省を占領した後
政府は軍部と一様に将来は見えて居なかった。つまり方針は定まっては居なかったのだ
。これに接する河北省(冀),察哈爾(チヤハル)省(察)をはじめ山東,山西,綏遠(す
いえん)の華北5省を中国国民政府から切り離し日本の支配下におこうとした工作が産
まれ殷汝耕によって冀東防共自治委員会が成立し、中立地帯政府が出来たのだ。しかし
結局は「満州国」の抗日運動を孤立させ,対ソ戦に備えて軍事基地を確保し,あわせて
鉄,綿花など重要資源に富む華北を日本の経済ブロックにとりこもうというねらいがあ
ったが、抗日抗争を拡大化させたのみの功績で、ロシアの南下を止める手立てにはなっ
たが中国経営には障害だった。軍にとっては大きな自由度がもたらせられたが、満鉄は
そもそも税金を中国に払った方がうんと安く、又日本政府もそのままの方がこじれずに
済んだ。新たな満州国となった事で国際的には孤立を深め、国内的には中国の産業育成
が税問題で複雑化したのだ。そこに又軍がアヘン経営を持ち込んで、陸軍独自の予算を
作って軍票発行を行ったのである。この華北分離工作は1935年から日本の出先軍によっ
て高圧的に推進され,中国の抗日救国運動をひろげ,最終的に日中戦争をひきおこした
。だがしかし少し前に1920年3月7日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のソビエト
政権は日本のシベリア出兵に対峙すべく、極東共和国を建国して、1922年11月19日まで
存在させて傀儡政権を作っていた。シベリア出兵が開始された時、特にその中核である
日本軍がバイカル湖西岸までにいたるシベリア鉄道沿線を中心とするロシア極東地域を
占領していたが、日本が支持した白軍の主力たるコルチャーク軍が1920年1月、赤軍な
らびにパルチザンの攻勢により瓦解すると、アメリカの圧力等も含め日本政府のシベリ
アからの撤退を強制された。、ボリシェヴィキ政権の政策が硬く根を下ろしたために、
対抗したブルジョア民主主義を掲げた緩衝政権の樹立を構想したクラスノシチョーコフ
を首班として、社会革命党などの協力を得て成立していた。しかし、日米の撤退により
コルチャークと戦った赤軍将校ブリュヘルが共和国軍の最初の司令長官となったことか
らも明らかなように、実際にボリシェヴィキの影響力が強く、赤軍が取り巻き、占領を
続ける日本軍との対決を続けた。しかしその後、赤軍が1922年10月にウラジオストクを
陥落させ、日本は北サハリンを除く地域から撤退し、共和国は存在意義を喪失してソビ
エト政権へ統合される事になった。ウラジオストックはロシアが開港した様に言われる
。だがもともとは古くから鮮卑族や伊濡族やアイヌ族など多用の民族の物々交換場所で
あった。目の前に金角湾が半島に切れ込んでいるが金角湾の名は金の積み出し港だった
からだ。

1030: 名無しさんAA:18/07/07 02:10
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  88 >  

殷汝耕は1937年(民国26年)7月、国民革命軍第29軍軍長宋哲元と秘密裏に連絡を取り
合っていた冀東保安隊第1総隊長張慶余、第2総隊長張硯田が蜂起し、あえなく殷汝耕
は捕縛されてしまった(通州事件)。張慶余は、捕らえた殷を宋に引き渡そうと北平に
護送した。ところが、宋はすでに北平を離れており、日本軍と遭遇した護送部隊は蹴散
らされてしまう。混乱の中殷汝耕は逃げて身を隠したが日本軍は、殷を通州事件の首謀
者と誤解して、まもなく殷は日本軍により逮捕されてしまった。危うく処刑されそうに
なったが、親交のあった頭山満の斡旋で辛うじて助命された。しかし、政務長官は辞任
することになる。こうして殷汝耕は力及ばず袁世凱の北洋軍閥の一部であった馮系(西
北派)は東北の奉系(奉天派)に食われ、奉天軍はその後の安直戦争で直系(直隷派)
皖系(安徽派)も平らげた。しかし孫文が没する。1926年に蒋介石を中心とする直系は
国民革命軍を作り北伐を開始し内紛状態が続いた。晋系(山西派)を率いた、閻錫山(
えん しゃくざん)は模様眺めだったが、中国国民党の北伐が本格化すると、蒋介石と
同盟し、国民政府内で重鎮となった。しかし、権力の拡大とともに蒋と次第に対立、反
蒋戦争の中原大戦で敗北し、一時下野している。復帰後も山西省に拠り、日中戦争期に
は中国共産党や日本軍と交渉・対立した。最後は国共内戦で共産党に敗北し、台湾へ逃
亡している。殷汝耕は治水専門家としての技量を 日本側から評価されることになる。
1942年(民国32年)、殷は汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に参加する形で政界に復帰
した。同年2月、山西煤鉱公司董事長に任命されている。翌年3月17日、国民政府経済委
員会常務委員に任命され、1944年(民国33年)1月からは、治理運河籌備処主任、治理
運河工程局局長を歴任した。しかし、殷は権限の小ささに不満を抱き、6月に治水関係
の職務を辞して北平に戻った。日本降伏後の1945年(民国34年)12月、殷汝耕は漢奸と
して逮捕され、翌年5月、南京に護送された。殷は獄中で回顧録を著し、自分の行動が
実は愛国心に基づいたものであったと主張したが、悪評しか残らず愛国無罪とはならな
かった。1947年(民国36年)、最高法院で死刑が確定すると処刑までの日々は、終日、
読経により過ごしたとされる。12月、南京の刑場で銃殺に処せられたが、最期まで従容
とした態度であったという。享年63歳だった。殷汝耕は汪兆銘は日本留学を果たした親
日家であった為煙たがれ時には罵倒された。しかし袁世凱や孫文らの独裁で強権的支配
に抵抗し中国国民を愛した。だが一方で日本の政府に利用され米国派の蒋介石ロシア派
の毛沢東などとは袂を分けて日遇な運命だった。

1031: 名無しさんAA:18/07/07 02:15
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  89 >  

 済南事件が勃発してから数ヶ月後の冬に、首相田中義一と対立していた床次竹二郎が
南京を訪れ、蒋介石と事件解決等を話し合った時、冀東防共自治政府は独自の政府とし
ては存在しなく北京政府の下に置かれた。柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突の
停止の話し合いだったが、奉天軍の張作霖のテロ行為を止める為の方策とも言える。古
来より熱河は 清朝の夏の別邸地域として歴史上は、漢人のいない土地だった。満州と
中国本土の間にくさびのように存在し、その狭い終端は山海関で海に向かっている。こ
の地は満州国の建国宣言では満州国の一部とされ、塘沽協定が締結された当時は既に、
その山間地は北京を含む中国北部を威圧する場所としても、あるいは満州へ軍隊、扇動
家、工作員が送り込まれる場所としても重要となっていた。また三井が行ったアヘン栽
培による収益が当地の価値を高め、日本の宮家や徳川家の台所を支える形に変わってい
た。その地理上の位置から欧米資本の無い戦略的・政治的に重要な機能地になっていた
。済南事件は馬賊のロシア支援の北軍と日本支援の南軍が戦っている場所だった。日本
が投資した膠済鉄道は日本の借款で大きな経済効果をもたらしていた。同鉄道沿線の鉱
山は日中合弁会社が経営するなど、山東省には日本の権益も存在して治安は悪化してい
たが、済南は主要な商業都市であり、日本人を中心として多くの外国人が居住していた
。この為権益確保と治安維持に日本軍が駐在していた。当時投資総額は約1億5千万円に
なり日本の国家予算の3倍がつぎ込まれて経営していた。第1次国共合作の終了により
北伐が頓挫し、そのままに推移するかに見えたが、1928年(昭和3年)1月上旬、再度
蒋介石が国民革命軍の総司令に就任し、2月に蒋介石は馮玉祥、閻錫山と北伐に関する
協議を行って北伐軍を編成し北伐を宣言した。4月12日、韓荘、台児荘の線を占領し
ていた山東軍は敗れ、戦乱はふたたび山東省に及ぼうとした。これが中国の最初の悪態
であった。破壊活動を続ける共産党員の退治に、逃げ込んで行く共産党ゲリラがいたか
らだが、その要因の一つは大麻の栽培にもあった。南京において1927年(昭和2年)3月
24日早朝、国民軍総司令蒋介石の北伐軍が南京に入城した。その軍長は程潜であった。
当初は平和裏に入城していたが、まもなく、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国
の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日本1人(後述の宿泊
船警備の海軍兵)、イギリス3人、アメリカ合衆国1人、イタリア1人、デンマーク1人の
死者、2人の行方不明者が出た。これを機に貧富の格差が中国内で外国人襲撃となって
いた。これが上海クーデターの遠因になるとは当時はおもいもしなかった日本軍がいた


1032: 名無しさんAA:18/07/07 02:17
 昭和12年8月、第2次上海事変が起きた。上海の難民区で30万人のシナ人を保護
していたフランスのジャキノー神父は、東京日々新聞に次のように語った。
 日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込まなかったため、
   抗日的態度をとるものもなかった。私の永い支那生活中、今度くらい日本軍
   が正義の軍であることを痛感したことはありません。食料があと二、三日分
   しかなく、心配していたところ、松井大将が一万円を寄贈して下され、非常
   に感謝しているところです。
この「松井大将」とは、この後の南京攻略の際に、20万人以上を組織的に虐殺した責
任を問われ、東京裁判で死刑に処せられた上海派遣軍司令官・松井石根(いわね)大将
である。上海で神父に称えられた人が、続く南京では「20万人以上もの組織的虐殺を
した悪魔」となるなどという事がありうるのだろうか。まさに歴史ミステリーである。
 松井石根は貧乏士族の六男で、12歳の時に名古屋から上京し、軍人養成のための全
寮制学校、成城学校に入った。その後、陸軍士官学校は2番、陸軍大学は首席で卒業し
た。参謀本部第二部長の時、張作霖爆死事件が起こり、松井はその犯人河本大作大佐を
厳罰に処すべしと強く主張したが、当時台頭しつつあった革新的青年将校の威勢の中で
、処罰はうやむやのうちに葬り去られた。松井は、軍紀にやかましい煙ったい親父とし
て青年将校から嫌われたが、この下克上の風潮はさらに悪化し、満洲事変の勃発時に、
白昼陸軍省内で永田軍務局長刺殺という前代未聞の不祥事を起こした。松井大将は軍の
長老として、責任をとり、自ら退役を願い出たのである。四十余年の陸軍在職中には、
10年以上も中国に在任し、孫文や、蒋介石など、多くの名士と親交を結んだ。そして
、軍事はもとより、政治、経済その他あらゆる漢民族の文化を研究するにつれて、中国
愛好の念を深め、次第に日中の親善提携と、アジアの復興を念願するようになった。特
に孫文の唱えた日中提携による大アジア主義に、松井は深く共鳴し、現役の時から「大
亜細亜協会」設立発起人の一人となり、退役とともに会長となって、日中和平・提携を
、日本国内、および、中国で説いて回った。松井は孫文の第2、第3革命を陰に陽に支
援し、孫文亡き後は、その遺志を継いで中国の統一と日中提携を実現しうるものは蒋介
石をおいて他にない、との認識から蒋を支援した。昭和2年、蒋介石が北伐の途中大敗
して、最大の危機にあったとき、松井は蒋を日本に呼び、時の田中義一首相に引き合わ
せた。この会談の結果、日本は蒋の北伐を援助し、張作霖を満洲に引き上げさせた。昭
和11年、支那事変の前年には、反蒋介石の巨頭胡漢民らと会談し、蒋介石の南京政府
と提携して、中国の統一を図るべきだと進言している。その足で南京により、蒋介石と
会談して、国父孫文の「大アジア主義」の精神に帰ろうと呼びかけた。

1033: 名無しさんAA:18/07/07 02:17
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  91 >  

 蒋介石軍の戦いぶりは、およそ近代的戦争の常識や国際法をはずれたものであった。
たとえば、「清野戦術」とは、退却に際して、敵軍に利用させないために民家などをす
べて焼き払ってしまうものである。これは、後に南京から撤退する時にも、ニューヨー
ク・タイムズのダーディン記者が目撃・報告しているように、中国軍自体による放火略
奪となって現れる。もうひとつは「便衣兵」で、中国兵が農民に偽装して、日本兵を背
後から襲うというゲリラ戦法である。国際法では正規兵はそれと分かる軍服を着用しな
ければならない。一般市民を戦闘の巻き添えにさせないためのルールである。しかし、
中国軍の「便衣兵」とは、およそ軍隊でなくこのルールを破り、人民の背後に隠れて、
攻撃をする、という不法な「禁じ手」であった。それは、共産党軍が同じだったからだ
。さらに日本軍を驚かせたのは、「督戦隊」であった。これは戦意のない兵隊に対して
、後ろから機関銃掃射を浴びせかけて、前進して戦わなければ、後ろから撃たれるだけ
、という状況に兵を追込むものである。これでは、兵は降伏もできず、死に物狂いで戦
うしかない。南京を根拠とする中国軍は、再び、その付近に大軍を集めつつあり、江南
地方全体の治安を維持する為に、乞われて日本軍は南京攻略を決意した。松井は、南京
攻略を全軍に伝えるに際し、「南京は中国の首都である。これが攻略は世界的事件であ
るゆえに、慎重に研究して日本の名誉を一層発揮し、中国民衆の信頼を増すようにせよ
。特に敵軍といえども抗戦意思を失いたる者および一般官民に対しては、寛容慈悲の態
度を取り、これを宣撫愛護せよ」と命じた。特に松井は南京郊外にある孫文の慰霊廟、
中山陵を戦火から守ることを厳命し、その保全に成功している。12月9日に、松井は
平和理に南京開城を願って、降伏勧告を行ったが、すでに蒋介石や他の将軍達は南京を
脱出し略奪暴行がおこっていた。南京防衛を命ぜられた唐生智将軍も、降伏勧告を無視
して、12日、部下と民衆を置去りにしたまま逃亡した。正規に降伏する機会も与えら
れず、見捨てられた将兵達は、パニックに陥って、城壁の前で大勢が折り重なって圧死
したり、数千人の便衣兵が市民を殺してその衣服を奪い,難民区に紛れ込んだ。南京で
はドイツ人ラーベを委員長とする民間人有志による国際委員会は、その為銃器をもって
、教会に逃げ込み安全地帯を設け、難民区としていた。ラーベは、日本軍に対して、「
貴軍の砲兵隊が安全地帯を砲撃しなかった見事な遣りに感謝するため、我々は筆をとっ
ております。」と謝意を表明している。

1034: 名無しさんAA:18/07/07 02:21
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  92 >  

 しかし、清野戦術と便衣兵とで疲弊していた日本軍の一部にも、「若干の暴行・略奪
事件があった」と憲兵隊から聞かされた。松井は、必要以外の部隊を城外に出させた。
18日、中国軍将兵をもあわせ祀る慰霊祭を執り行い、「これが日中和平の基調であり
、自分の奉ずる大アジア主義の精神である」と声涙くだる訓示を行った。日本軍により
治安が回復すると、民衆も続々と南京に戻り始め、屋台も出るなど、市はもとの活況を
取り戻していった。12月24日から、1月6日まで続いた住民登録では、5万人の人
口増加が記録されている。上海戦から、南京占領までに、日本軍の戦死は2万1,30
0、戦傷病者は5万余であった。勿論多くの中国兵も死んだに違いない。しかし多くは
後ろから銃口が向けられ、逃亡し損ねての足輪のついたままの死体だった。松井大将は
帰還後、昭和14年に日中戦没者の血の沁みた土を取り寄せ、これをもって熱海・伊豆
山の寓居に興亜観音を建立した。この事変を転機として、両民族が親和し、今事変の犠
牲者が東洋平和の礎石となる事を願って、朝夕、読経三昧の生活を送っていた。昭和2
1年、東京裁判が開かれ、松井大将はここから引き立てられ、聞いたこともない南京で
の「20万人以上の虐殺」の責任者として絞首刑に処せられたのである。その思いは、
そうした嘘が通る国際社会への憤慨と日本国への危惧であったとされる。それは弁護士
が言う様にいわゆる証言のもみ消しとしてアメリカ側が松井大将の死刑を急いだからだ
。 すべては、旧日本軍が南京を占領したことから始まっている。当時の中国の首都で
あった南京を攻撃することになり、この戦いで旧日本軍に多くの死傷者がでていた。戦
友を失って殺気も立っていたのだろう。既に南京城内には、南京接近の攻防戦の最中に
、中国軍守備隊の司令官・唐生智は敵前逃亡していて、中国軍の指揮系統は混乱してい
た。大日本軍陸軍大将の南京派遣隊隊長・松井石根の発案で降伏勧告を2度起こしたが
、守備隊は全く応答が無かった。そんな南京守備隊を見た旧日本軍は「守備隊は降伏し
ない」と判断し、攻城戦から城内に入って殲滅戦に切り替えて、南京へ入ります。この
時松井大将が懸念していたのは、実は便衣兵と呼んだ民間人に偽装した制服もないゲリ
ラ兵の存在であったのは当然だ。日本軍は彼らにたびたび悩まされていたからだった。
この便衣兵に対する日本軍の対処が虐殺に見えたのではないかともいわれています。中
国側は丸腰の民間人であったと主張しているのに対し、南京大虐殺否定派は便衣兵の処
刑であるとし、軍事行動としては当然の行為だったとみなしています唐生智将軍が指揮
下に約5万人だった中で何割が便衣兵で何割が逃げれたのか未だ不明である。

1035: 名無しさんAA:18/07/07 02:21
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  93 >  

 この時東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬記録によれば、2月15日の段階で約1
万7千体の埋葬が行われたことになっています。この紅卍会こそは前身の卍会の後継団
体だった。卍会は少林寺拳法で有名な少林寺の下部組織があまりの共産党の放埓に耐え
かねて、日本の資金を乞いて、孤児以外の生活共生を始めたサークルだった。その後日
本の仏教会の活動と連動していて、これにより共産党と対立した。ここに満蒙開拓団な
どで応援を受けた八咫烏の堀川辰吉郎がいた。かれは軍人でも満鉄社員でもなかった。
 そこに日本軍の後ろ盾で自治委員会が成立させて住民代表となった。1938年1月1日で
すから、紅卍字会が自治員会(特務機関)の元で埋葬を行ったのは、元旦以降というこ
とになります。1937年12月13日(陥落)から年末までの埋葬は、軍の指導による使役で
その労働者の元締めだった。日本軍が紅卍字会を雇ったのである。当初1月まで日本軍
の要求しない地区の埋葬活動はできなかった。自由に埋葬ができないという意味でなら
ば、埋葬許可は下りなかったということもあるが、それ以上に労務者が集められず病気
や感染症も考えた埋葬と日本人と中国人の身元区別が必要で遅々として進まなかったの
だ。『南京特務機関の報告』によれば、正式な紅卍字会の埋葬が始まったのは一月上旬
で、紅卍字会の埋葬記録によれば1938年は1月10日には埋葬が始まっている。死体は
どれぐらい存在したかを、上記の日記で言うと、1月7日の時点で一切の埋葬許可が下
りていないというのはありえるが、その状態が2月まで継続したということはない。1
月31日のラーベの日記には「家の前の死体が埋葬された」とは書いていますが、許可
が下りたという記述はされていない。1月22日の記述は、過去においては埋葬許可を
申請したという意味でしょう。これらのことは、ラーベも知っていたと思われますが、
日本軍の残虐度をヒットラーにアピールする為に、家の前の死体がなくなるまで一切の
埋葬が許可されなかったという風に「勘違いさせる」文章を書いたと考えられます。そ
の後安全と解れば難民は続々と安全区に流れ込んできた。ラーベが寄せたのだ。「私達
は城壁にポスターを張り、安全区の友人の家においてもらうよう、それから充分な夜具
と食料を持って来るように指示しました。」つまり中国兵の司令官で命令したのだ。「
次に、もっと貧しい人の為に、いまや方々にある空家や入居前の新築の建物を明け渡し
、最後に極貧の人々、いわゆる「老百姓」に、アメリカ伝道団の学校や大学などの大き
な建物を開放しました。」その為、恐れていた難民の殺到を避けることが出来たのです
。」と言っている。清野戦術で安全区以外は殆ど残って居る家は少なく住民がいた筈だ
これを安全区に入れての空き家に便衣兵を寄せたとしか考えられない。

1036: 名無しさんAA:18/07/07 02:25
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  94 >  

「この様に、安全区は何日にも亘って少しずつ塞がっていったのですが、それでも、一
家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでした。おいそれとは、
手頃な宿が見つからなかったのです。私たちは全ての通りに難民誘導係員をおきました
。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと25万人の難民という「人間
の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定していた数より、更に5万
人も多かったのです。「住民は敵意を持っていなかったし、日本兵を怖がってもいなか
ったと思います。逆に、便衣隊がいましたので日本兵の方が中国人を警戒していました
。」(読売新聞上海特派員・森博)「捕虜を捕らえたが、捕虜にやる食糧がないし、収
容する所がない。放してもまた兵隊になる。それで困って処刑をやったと言っていまし
た。・・・下士官が単独でやったと思います。分隊長クラスの下士官です」(読売新聞
上海特派員・森博)「南京にいる間(虐殺を)見たことがありません。戦後よく人から
聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいくらいです
。アウシュビッツのように殺す場所がある訳でもないですからね、私が虐殺の話を聞い
たのは、東京裁判の時です」(報知新聞カメラマン・二村次郎)「虐殺事件に関しては
、守山(義男)君が船着場で中国兵を射殺する処刑のところを見たといって憤慨してい
たので、よく憶えている。守山君は中国語ができたので、いろいろ面白い記事が送れた
ようだ。しかし、他のそうした虐殺については全く聞いていない。」(東京朝日新聞記
者・平松儀勝)「揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連っている。千は越えていた。
2千に達するかもしれない。1個部隊の死体であった。城内に戻って、警備司令部の参
謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅
した、というのが説明だった」(同盟通信記者・前田雄二)「犠牲が全然なかったとは
いえない。南京に入った翌日だったから14日だと思うが、日本の軍隊が数十人の中国
人を射っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっ
きりしないが、難民区ではなかった」(東京朝日新聞記者・足立和雄)「こうして安全
区を別とすれば、南京市は人気(ひとけ)が無くなり、我々委員会のメンバー、わずか
のアメリカ人新聞記者、取り残されたヨーロッパ人が2〜3人いるだけになりました。
中国側によれば、まだ中国人が大勢安全区の外に隠れていると言う話でしたが、これは
確かめることができませんでした。」(米国記者の証言)

1037: 名無しさんAA:18/07/07 02:27
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  95 >  

 本当の「事実」は、紅卍会という宗教団体が埋葬した記録をつくっている。1937
年12月から翌年3月にかけて南京市内で4万体以上の死体を埋葬した記録が正確だ。
(正確には40371体)この記録は他のいくつかの記録とも符号していて、信憑性の
高いものである。また崇善堂という慈善団体も埋葬の行動をしており、これは11万2
266体と記録している。この数字は日本人中国人を問わず記録されている数字といえ
る、1922年(民国11年)、世界紅卍字会は中華民国山東省済南府において政府の批准に
より組織された。道院の付属施設機関であり、大網二項の宗旨に基いて慈善博愛の善行
を挙弁する附帯事業の執行機関であった。世界紅卍字会の赤色の印「卍」は「万」を当
てることもあるが、発音は共に(wan) とする。紅は赤誠を表徴し、卍は吉祥雲海と称し
て佛相を象徴させたもの。」といわれる。宗教的な仏教シンボルである。支那事変の当
時は、上海などの一部地域を除けば、世界紅卍字会のほうが赤十字社よりはるかに活動
していて、認知度も高かった。満州事変以前から、日本では傀儡政権を担う組織に適し
ていると考られていた節があって盛んに寄付を行ったからだ。図らずもアメリカからの
赤十字は送った荷物が、薬品や食料以外に銃器類が認められた例もあるほど、米軍密偵
の派遣先として利用されていたからだ。1937年の日本軍による南京占領の際には、日本
の法政大学に留学した経験のある南京分会会長・陶錫三(陶宝普、陶錫山)が南京自治会
長に任命された。ただし、病気を理由に執務はしなかった。それでも世界紅卍字会が行
う慈善事業には恒久的のものと臨時のものがあり、恒久的事業として「医院」や「平民
学校」「貧民工廠」(貧民の為の共同工場)「惜字会」(字を粗末にしないという趣旨
の共済会)「因利局」(貧民への為の無利子融資の銀行代行)「育嬰堂」(親が無力の
嬰児を育てる幼児保育施設)「残廃院」(身体に障害を持つ人のためのリハビリ施設)
「卍日々新聞」「慈済印刷所」などのほか、いくつもの慈善事業を行っていた。1929年
9月、満州及び北平中都等の紅卍字会幹部が日本の京都嵯峨の人類愛善会訪問、翌年に
人類愛善会が渡航し、宗教・国籍の違いを超えた世界平和実現活動を前提とした提携関
係を築いた。



1038: 名無しさんAA:18/07/07 02:38
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  95 >  

 本当の「事実」は、紅卍会という宗教団体が埋葬した記録をつくっている。1937
年12月から翌年3月にかけて南京市内で4万体以上の死体を埋葬した記録が正確だ。
(正確には40371体)この記録は他のいくつかの記録とも符号していて、信憑性の
高いものである。また崇善堂という慈善団体も埋葬の行動をしており、これは11万2
266体と記録している。この数字は日本人中国人を問わず記録されている数字といえ
る、1922年(民国11年)、世界紅卍字会は中華民国山東省済南府において政府の批准に
より組織された。道院の付属施設機関であり、大網二項の宗旨に基いて慈善博愛の善行
を挙弁する附帯事業の執行機関であった。世界紅卍字会の赤色の印「卍」は「万」を当
てることもあるが、発音は共に(wan) とする。紅は赤誠を表徴し、卍は吉祥雲海と称し
て佛相を象徴させたもの。」といわれる。宗教的な仏教シンボルである。支那事変の当
時は、上海などの一部地域を除けば、世界紅卍字会のほうが赤十字社よりはるかに活動
していて、認知度も高かった。満州事変以前から、日本では傀儡政権を担う組織に適し
ていると考られていた節があって盛んに寄付を行ったからだ。図らずもアメリカからの
赤十字は送った荷物が、薬品や食料以外に銃器類が認められた例もあるほど、米軍密偵
の派遣先として利用されていたからだ。1937年の日本軍による南京占領の際には、日本
の法政大学に留学した経験のある南京分会会長・陶錫三(陶宝普、陶錫山)が南京自治会
長に任命された。ただし、病気を理由に執務はしなかった。それでも世界紅卍字会が行
う慈善事業には恒久的のものと臨時のものがあり、恒久的事業として「医院」や「平民
学校」「貧民工廠」(貧民の為の共同工場)「惜字会」(字を粗末にしないという趣旨
の共済会)「因利局」(貧民への為の無利子融資の銀行代行)「育嬰堂」(親が無力の
嬰児を育てる幼児保育施設)「残廃院」(身体に障害を持つ人のためのリハビリ施設)
「卍日々新聞」「慈済印刷所」などのほか、いくつもの慈善事業を行っていた。1929年
9月、満州及び北平中都等の紅卍字会幹部が日本の京都嵯峨の人類愛善会訪問、翌年に
人類愛善会が渡航し、宗教・国籍の違いを超えた世界平和実現活動を前提とした提携関
係を築いた。ここに後で八咫烏を率いた堀川辰吉郎がいた。この惨状に涙した様だ。特
に鉄の轡をして鉄砲を持たされて転がり死んだ中国兵に哀れさを感じたという。後年に
世界救世教(メシヤ教)の乗っ取り世界仏教として「人類が平和でありますように。」
と言う標識杭を打ち歩いた。


1039: 名無しさんAA:18/07/07 02:51
多くの書籍のその大半は1938年4月に南京城外で10万5千体を埋葬したとなって
いる。その時期までに城内の死体埋葬はほぼ終了していた。崇善堂は数千の死体埋葬を
すませていた。4月になると気温も上昇し、死体の腐敗もすすむという状況になったの
で、それまで死体に軽く土をかけただけのものなどが城外に放置されていた。これ以外
に日本軍が揚子江に流してしまった遺体などは記録されていないとされる。しかし実態
はそんなに多いことにはならない。ほぼ戦う事よりインフラ整備に兵士は動いていたし
何よりも、この南京を逃げた蒋介石将軍の捕獲にあった。米英仏国の隠れた武器提供は
、タイとベトナムから雲南を通じた援蒋ルートの暴露で解っていて、その大掛かりな、
フランス軍倉庫の捕獲からも解っていたからだ。武器弾薬薬品が赤十字倉庫の食料援助
と共に発見されて国際社会に記者会見までしているが、記事にはされず国際法違反とし
て日本陸軍が非難されるまで至っていた。この内政干渉が国連の脱退のもう一つの理由
だった「我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。」ラーベの日記
は、全くデタラメである。「手榴弾を轢いたら最後、ふっとんでしまう。上海路へと曲
がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。ふと前方を見ると、ちょうど
日本軍がむこうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々
に、日本人司令官は二日後にくるといった。日本軍は北へむかうので、我々は慌てて回
れ右をして追い越して、中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。
全部で六百人。武器を投げ捨てよとの命令に直ぐには従おうとしない兵士もいたが、日
本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収
容した。(「南京の真実」文庫版P122) と書いてある。仮にこの頃の最高法院が、
この兵士を匿ったとして、海外の外国人を入れる事は出来無かったはずだ。それが出来
たと言うその現実は、如何にラーベが中国政府の中心部に居た将校であったかを物語っ
ている。日中戦争(支那事変)当時は、上海などの一部地域を除けば、世界紅卍字会の
ほうが赤十字社よりはるかに優れた活動しており、認知度も高かいもので、いわゆる南
京で話題となる遺体の埋葬は「臨時的慈業」に属する。こうした事を許可したのがこの
最高法院だった。実は事変での傷病兵民の看護や埋葬は本来の事業ではなかったのだ。
末光高義『支那の秘密結社と慈善結社』に掲載されている「世界紅卍字會救済隊規定」
基づいて、「本會の救済隊員は出發に際し戦時公法に依り従軍救護するものとす。」(
第二条)とし、需用品を汽船や汽車等に輸送する場合は、「陸海軍人同等の特遇を受く
るものとす」(第三條)とされていた。これを見れば、世界紅卍字会には赤十字社に匹敵
する特殊な地位が与えられていたことを示すものと解る。白地の楕円に紅の卍は、「人
夫の制服の認識票であり」(第十条・乙)、日中戦争の写真の各所にみることができる。

1040: 名無しさんAA:18/07/09 13:57
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  97 >  

中国人は書く。「私は小さい頃に、外祖父が抗日戦場から何故逃げ出したのか分からな
かった。逃げたことは秘密で、外祖父が死去する前年に、よく雑談の中で何時間も話す
ようになっていた。外祖父は、妻が早く死去した。ということだったが、それが逃げた
理由ではないだろう。私はある日、やつと外祖父から真相を聞き出した。彼は四川省の
貧農の出身で、小さい頃から武術で鍛えていた。1928年に四川で国民党に捕らえられて
兵士にさせられ、1937年の南京大虐殺前夜に少尉にさせられて、日本軍の猛烈な攻撃を
、首都を守れ・国父を守れというスローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍
の進政を食い止めることなど出来ないので、南京城から撤退した。部隊は列車を何両か
手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。その時に周囲から一般の民衆が老人や子供
の手を引きながら列車に乗り込んできた。大勢が列車の屋根にも乗っていた。日本軍は
、すぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない
。誰かが、日本軍が来たぞと叫び、国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降
りろと怒鳴った。しかし誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。
兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。指揮官
は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにした
ら良いのだと言って、一斉射撃を命じた。あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が
溜まったと言う。ここで約1千人の南京市民は、国民党の兵士たちから銃弾を浴びて死
んで行った。国民党の部隊が必死で逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、それ
は日本軍の残虐行為として転嫁された。外祖父は、こんな部隊には残りたくないので、
撤退途中に九江で夜陰に紛れて脱走し、長江を渡り武漢で列車を乗り換え、南の小さな
山村に逃げ込んだ。外祖父の記憶では、他の部隊も同様のことをしてきたという。全て
の国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。外祖父は
貧農の出身だが、国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があつたという。外
祖父は、国民党の軍隊に残っていれば、出世したかもしれない。また抗日戦争で戦死し
ていれば、抗日戦闘英雄烈士との美名で呼ばれたかもしれない。しかし、逃亡する道を
選んだ。そして裏切り者という悪名で呼ばれ、経歴を隠し通して逃げ回った。その過去
の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて語ったのである。南京大虐殺は自分自身が犯
した罪である。外祖父は恥ずかしくてたまらなかっただろう。私は反日・反米の青年で
あり、ネットによく論評を発表していた。だが、そんな単純な反日・反米の青年たちは
利用されているだけなのだ。天国にいる外祖父よ、私を許して下さい」と。

1041: 名無しさんAA:18/07/09 14:01
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  98 >  

 ラーベの日記で、(1938年1月17日)38年 1月17日には下記の様に伝えている。
「昨日の午後、ローゼンと一緒にかなり長い間市内をまわった。すっかり気が滅入って
しまった。日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりの事に言葉
もない。近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。かつての目抜き通り、イ
ルミネーションなら上海の南京路に引けをとらないと、南京っ子の自慢の種だった太平
路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。無傷の家など一軒もない。行け
ども行けども廃墟が広がるだけ。大きな市が立ち、茶店が建ち並んでいた繁華街夫子廟
もめちゃめちゃで見るかげもない。瓦礫、またがれきだ。一体誰が元通りにすると言う
んだ。帰り道、国立劇場と市場の焼け跡に寄ってみた。ここも何もかもすっかり焼け落
ちていた。南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったの
ではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一
どころか半分が廃墟と化したといってよいだろう。日本軍は安全区から出るようにと、
くりかえしていっているが、私は逆にどんどん人が増えているような気がする。上海路
の混雑ときたら、まさに殺人的だ。いまは道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台
ができているのでなおさらだ。そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられて、
なかには盗まれた故宮宝物まで混じっている。難民の数は今や二十五万人と見積もられ
ている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。彼らは、どこに行
ったらいいのかわからない。」―――しかし、これはちょっとおかしい。自らポスター
を貼り引き入れていた事を書いているし、兵士達も見ていて匿っていたからだ。更に、
既に援蒋ルートも 蒋介石軍の本体が重慶に引いて遷都した政府がある事は知っていた
はずだ。いや指導さえしたかも知れない。そして、新たな汪兆銘の武漢政府を応援する
日本軍を探っていたはずだ。日独協定からも可能かどうかは大問題の筈だからだ。
ラーベは既に37年11月28日の日記に、偽りの新居を設けて作戦を練っているのだ
。「寧海路五号の新居に、今日表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。ここには表向
きだけ住んでいることにするつもりだ。家の庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッ
チで進んでいる。二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしま
ったからだ。警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二〇万人住んでいると繰り返し
た。ここにとどまるのかと尋ねると、予想通りの答えが返ってきた。「出来るだけ長く
」 つまり、ずらかるということだ。」―――― と書いている。多分に面と向かっては
中国軍の非道と書けなかったのだろう

1042: 名無しさんAA:18/07/09 14:06
又この日記の嘘は37年12月6日の日付けで「黄上校との話し合いは忘れることが出
来ない。」と書いている事だ。既に12月6日にはいない筈の黄と話した事で書いてい
る。「黄は安全区には大反対だ。そんな物を作ったら、軍紀が乱れるというのだ。」「
日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ
。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。良いですか、あなた方が安全区を設け
さえしなかったら、今そこに逃げ込もうとしている連中を、我が兵士達の役に立てるこ
とが出来たのですぞ。」(つまり督戦隊の前に立たせて戦わせる事が出来るぞ。と言う
脅迫である。)これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句が告げない。し
かもこいつは、蒋介石委員長側近の高官と来ている。ここに残った人は、家族を連れて
逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な
人民の命で償わせようと言うのか。なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を
逃がしたんだ。首に縄を付けても残せば良ったじゃないか。どうしていつもいつも、一
番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ。…(中略)…なんとか考えを変え
るよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつ
にとっちゃ、数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。そうか。貧乏人は死ぬよ
りほか何も役に立たないというわけか! 」――――と、憤慨している。つまり 自分の
情報屋であったり諜報者だったり工作者は全て中層貧民であったに違いない。 1937年5
月には軍事顧問団はとうに 100名を超えるまで膨れ上がり、それぞれに数十人を同じ様
に雇っていたはずだったから千人を超える。しかし、ラーベすらその歯車の中にあった
鬱憤があったのだ。又、12月12日に最後の非難する英国船が出ていて日付けはあわ
ない。   37年12月7日
 城門近くでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている
。安全区は、ひそかに人の認めることになっていたのだ。たった今、クレーガーが中華
門のちかくのシュメーリング家から帰ってきた。こじ開けられ、ところどころ荒らされ
たという。現実家の彼は、とりあえず残っていた飲み物を失敬してきた。十八時、記者
会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。残りはもう発った
のだろう。門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われると言う噂がひろまり
、中華門の近くに住む人達はパニックに陥っている。何百という家族が安全区に押しよ
せているが、こんなに暗くてはもう泊まることころが見つからない。凍え、泣きながら
、女の人や子供たちがシーツの包みに腰かけて、寝場所を探しに行った夫や父親の帰り
を待っている。今日、二千百十七袋、米を取ってきた。明日もまた門を通れるかどうか
は判らない。

1043: 名無しさんAA:18/07/09 14:07
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  100 >  

 蒋介石は11月7日の日記で「抗戦持久」が重要で、「遊撃戦を発動し、敵を疲労させ
る」と書いている。つまり既に7日には決定し10日前には南京は捨てているのである
。しかし日本軍は11月15日、第10軍がやっと「一挙追撃を敢行し、南京を占領すべき
」と積極案を出して、独断で進撃を開始し、この先行独断につられ、激論となっていた
が参謀本部も11月24日に折れて、南京攻略を容認し、蘇州-嘉興線以東の制限を廃して、
上海戦から南京方面攻略に移った位だった。東京裁判判決で、「中国軍はこの市を防衛
するために約五万の兵を残して撤退した。1937年12月12日の夜に、日本軍が南門に殺到
するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。中国軍のほとん
ど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を捨て国際安全地帯に避難した」とあり、中国
軍を約5万とする。と書いている。数は兎も角、12日まで戦闘中なのだ。しかしラー
ベは違っている。
37年12月8日
 何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活
気を帯びている。貧しい人達が街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まる
ところが見つからない家族が、日暮れていく中、この寒空に、家の陰や路上で横になっ
ている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍が口ば
しをいれてくる。いまだに引き上げ無いだけではない。それを急いでいるようにも見え
ないのだ。城壁の外はぐるりと焼き払われ、焼け出された人達がつぎつぎと送られてく
る。われわれはさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動を
していながら、少しも実が上がらないからだ。
37年12月10日
それはそうと日本政府と蒋介石はなんといってくるだろう。一同、固唾をのんで待って
いる。何しろ、この街の運命と二十万の人の命がかかっているのだ。 
37年12月25日
 難民は一人残らず登録し「良民証」を受け取らなければならないということだった。
しかもそれを十日間で終わらせるという。そうはいっても、二十万人もいるのだから大
変だ。早くも、悲惨な情報が次々と寄せられている。登録のとき、健康で屈強な男たち
が大勢よりわけられたのだ。行き着く先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別された。
兵隊用の大がかりな売春宿を作ろうというのだ。そういう情け容赦ない仕打ちを聞かさ
れると、クリスマス気分など吹き飛んでしまう。

1044: 名無しさんAA:18/07/09 14:12
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  101 >   ラーベ日記 12月12日
「夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難さ
せてもらえないかといってきたので、私は承知した。」 龍と周は支那軍の大佐です。
安全区のラーベ邸に匿ったのです。安全区は中立地帯ではなかったということです。
 同じく国際委員会のメンバーであるフィッチ師も支那兵を匿っていました。ラーベの
裏の顔はドイツ軍事顧問団の連絡員でフィッチは妻が蒋介石夫人と親友です。このほか
にも匿った人がいたらしく、支那軍の高級将校らは一般の兵士を見捨てて安全区にトン
ズラし、国際委員会の外国人が匿ったり先導したりしていたわけです。 国際委員会は
「反日」であり、安全区は支那軍便衣隊の隠れ家になっていたのです。これらの潜伏し
た支那兵の中には掠奪、煽動、強姦を犯すものがおり、日本軍が取り締まっています。
委員のベイツ教授は、当初は日本の取り締まりに抗議しましたが、後に支那兵が「なら
ず者」であったこと認めて抗議をやめています。中には日本軍の名をかたっていた者も
多々いました。(逆に日本人の振りしなければ生きていけなかった。)大阪朝日新聞は
2月27日「皇軍の名をかたり南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕らわる」の記事が躍
る。チャイナ・プレス 1938年1月24日 日本憲兵隊の報告書より引用すると、
「彼らの中には南京保安隊隊長王信労がいた。彼は陳弥と名乗って、国際避難民地帯の
第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長馬包中将や南京警察の
高官密信喜もいるといわれている。馬中将は安全地帯内で攪乱行為の扇動を続けていた
と言われる。また安全地帯には黄安大尉ほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を
持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は略奪、扇動、強姦に携わっていたという」
国際委員会は日本兵の非行の話を日本側の外交官補の福田篤泰に訴えをいれますが、な
んら検証することなく、すべてを事実として記録します。福田氏は当時を回顧してこう
言っています。「当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務
所へでかけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。『いまど
こどこで日本の兵隊が15,6の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日
本軍が集団で押し入り物をかっぱらっている』等々だ。その訴えをマギー神父とかフィ
ッチなど3,4人が、ぼくの目の前でそのままどんどんタイプしているのだ。『ちょっ
と待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る。』といくど
も注意した。が、全く聞き入れず、まるで示し合わせていたように構わず打ち続けた。
時に私は彼らをつれて強姦や掠奪の現場にかけつけてみると、何もない。住んでいる者
もいない。そんな形跡もない。そういうことも何度も何度もあった。」と言っている。

1045: 名無しさんAA:18/07/09 14:13
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  102 >  

 攻撃日記では、日本軍による南京攻撃(及び南京陥落)の前日の、12月12日朝、蕪湖
でレディーバード号事件が発生した。満鉄の秘密結社桜会の橋本欣五郎砲兵大佐の指揮
する陸軍砲兵が英国砲艦のレディバード及び同型艦のビーに砲撃を加え被害を与えた。
イギリス海軍のインセクト級砲艦レディバード艦は中国に移動され揚子江で活動してい
た。1937年12月12日早朝、日中戦争の南京攻略戦の際、撤退する国民党軍の傭兵を連れ
た中国船団の中にいたため、日本軍が中国籍の船と誤認して砲撃、本艦と同型艦のビー
に被害を与えた。また陸軍の作戦に協力すべき任務を課せられていた海軍航空部隊指揮
官は、12月11日以来、「南京方面の支那兵が船舶により上流方面に逃走しつつあり」又
「此等船舶は屡々南京とその上流との間を往復しつつあり」等の情報を受領していた。
こうして、12月12日午前、中支那方面軍司令部に連絡参謀として派遣されていた青木武
海軍少佐から「南京上流約10海里の揚子江上に中国の敗残兵を満載した商船約10隻が上
流に向かって逃走中である。陸軍にはこの敵を攻撃する手段がないので、ぜひとも海軍
航空部隊で攻撃してもらいたい。」との、陸軍からの攻撃協力要請の主旨の、電話連絡
を受け、また同日正午には「大小汽船十隻およびジャンク多数は敵退却兵を搭載し南京
上流12浬ないし25浬付近を遡行中」との情報を得て、第二連合航空隊第十二航空隊の三
木森彦大佐は直ちに常州飛行場より攻撃隊を発進させた。中国軍の83個師団約40万の兵
力を江北に撤退させる退却掩護作戦でもあり、南京防衛は固守して援軍を待つものでな
く、敵軍の消耗を目的としたものであった為に、日本軍進撃を食い止めるために橋梁、
道路は徹底的に破壊され、家屋は焼かれ、食料は持ち去られた後は、こうした中国艦船
や米英に艦船に乗って退却して行った。T・ダーディン特派員によれば、南京城外15
マイルの「空野清野作戦」は中国軍の怒りとフラストレーションであり、焼き払いでは
軍事目的には役に立たなかった。元々は督戦隊の目視する事や囚人兵の欲求不満をはき
出させる為に略奪放火を許していた。と言われ、欧州の城が石で出来ているのは、その
戦い方は欧州式で特にドイツが取り入れ指導した古代的陸戦とされる。実は塹壕掘りは
その後ろの正規軍の隠れる場所として掘られた。こうして1937年12月12日、揚子江上に
おいて、日本海軍機が米国アジア艦隊河川砲艦「パナイ」を攻撃して沈没させ、さらに
その際に機銃掃射を行った。パネー号事件とも表記される。同日にレディバード号事件
も発生している。


1046: 名無しさんAA:18/07/09 14:13
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  101 >  

1937年12月5日には、敗残兵が避難しようと乗り込んでいた。放火を追った兵士は連絡し
、蕪湖沖停泊中のイギリス汽船2隻や、蕪湖埠頭のイギリスの会社の倉庫が爆撃された
。大勢隠れていたのである。 12月8日、日本は、第三国人は一律に南京を立ち退くよう
に申し入れを行い、翌9日、揚子江沿岸各地において各国がその船舶車輌を中国軍から
遠ざけ、交戦地域外に移転するように通報した。ドイツ人と共に中国軍は外国旗を掲揚
して外国船を偽装した中国船に乗船した。これが先のラーベの手紙である。あるいは、
外国船を借用したり、さらには中国軍に味方した外国船に護送されて南京からの脱出を
図っていた。日本軍による南京攻撃(及び南京陥落)の前日の、12月12日朝、蕪湖では
レディーバード号事件が発生した。橋本欣五郎砲兵大佐の指揮する義勇軍の陸軍砲兵の
桜会が英国砲艦のレディバード及び同型艦のビーに砲撃を加え被害を与えた。陸軍の作
戦に協力すべき任務を課せられていた海軍航空部隊指揮官は、12月11日以来、「南京方
面の支那兵が船舶により上流方面に逃走しつつあり」又「此等船舶は屡々南京へとその
上流との間を往復しつつあり」等の情報を受領していた。12月12日午前、中支那方面軍
司令部に連絡参謀として派遣されていた青木武海軍少佐から「南京上流約10海里の揚子
江上に中国の敗残兵を満載した商船約10隻が上流に向かって逃走中である。陸軍には、
この敵を攻撃する手段がないので、ぜひとも海軍航空部隊で攻撃してもらいたい」との
(陸軍からの攻撃協力要請の)主旨の電話連絡を受け、また同日正午には「大小汽船十
隻、およびジャンク多数は敵退却兵を搭載し南京上流12浬ないし25浬付近を遡行中。」
との情報を得て、第二連合航空隊第十二航空隊の三木森彦大佐は直ちに常州飛行場より
攻撃隊を発進させた。(分派により三木大佐の指揮下には第十三航空隊の一部も入って
いた。)この時パナイは、中国空軍基地に運ぶガソリンを満載したタンカー3隻を護送
していた。先の思い違い記者ダーティン氏の発言ではこうある。 ――――実際には、
あなたが南京を去った後で南京虐殺はひどくなっていますので、もう少し残っていたら
もっと南京大虐殺の報道ができたと思いませんか。(P561-P562)―――の質問に
 そうですね、私はもっと南京虐殺の事実を目撃できたでしょうね。ただし、ニュース
を外に送れなければ何にもならなかったのも事実です。私はパナイ号の無線を使って、
南京戦のニュースをアメリカへ送っていました。


1047: 名無しさんAA:18/07/09 14:17
フィッチの妻は蒋介石の妻宋美齢と親しい友人であり、さらに中国軍は、南京安全区内
高射砲陣地を設置し、国際委員会の度重なる抗議にも撤去しなかった。が、フィッチは
蒋介石側に立って「唐生智将軍は安全地帯から軍隊と高射砲を一掃する。という非常に
困難な仕事に概して非常によく協力した。」と堂々と記している。米国の新聞報道によ
ると、フィッチは南京攻略戦の時、蒋介石に任命された、"the War Service Corps"(
戦争奉仕企業団)(the War Area Service Corps:戦闘機業務企業)の顧問であった。
更に蒋介石の個人的な友人とされ、軍事顧問の通訳でもあった。1940年、フィッチは、
重慶で蒋介石軍への福祉活動を指導しており、蒋介石に妻宋美齢と共に戦時の政権を支
えている。1941年、中国工業組合(Chinese industrial cooperatives)の相談役に任
命される。 また、報道によれば、フィッチの妻は "Courageous China"(中国勇士会)
"United China Relief Society"(安心中国連合結社)という団体との関係があるとさ
れる。更にこのフィッチの妻には他に大きな疑惑もある。マギーフィルムと呼ばれる物
だ。『WHAT WAR MEANS』出版にあたって、南京安全区国際委員会委員であり金陵大学
(現:南京大学)教授でかつ中華民国政府の顧問であったマイナー・シール・ベイツへ
の書簡(1938年2月4日付)においてティンパーリは次のように書いている。
「ジョージ・フィッチが持参したマギー(南京安全区国際委員会委員ジョン・マギー)
のすばらしいフィルムを一見してから、妙案を考えています。ジョージに直ちにアメリ
カに帰ってもらい、ワシントンで国務省の役人や上院議員などにこの話をするよう進言
しました。効果はてきめんです。中国人への同情が喚起されて、(中略)ハル国務長官
からは会見を申し込まれるだろうし、(ルーズベルト)大統領とも会う事になるかもし
れません。(中略)これはまったく私一人で考えついたことです。(中略)資金の手配
はしているところです。」と書いている。 リバレンド・ジョン・マギーは、英国国教
会派の牧師で、1937年の日本軍による南京攻略の際に設置された国際安全区と呼ばれる
地区を管理する、22人の西洋人の一人であった。彼は日本軍占領下にあって、国際安全
区の赤十字責任者として、難民を日本軍の銃剣、銃殺、強姦から護ることに努めるとと
もに、多くの犠牲者を16ミリ白黒フィルムに記録した。また一方で、被害者がどうして
傷ついたかを日記に書きとめた。これらは歴史的にも重要な虐殺記録となったが。この
、マギーのフィルムは、ドイツ大使ジョン・ローゼンの手でコピーされているし、ドイ
ツのナチ本部にも送られた。ヒットラーに日本軍の非道を報告するための映画であった
。つまりドイツからの軍事顧問団での報告書の類で、それが米国に流れたと言う形であ
る。そして彼らは中国人を日本兵として配役をさせ日本軍が来る前に撮っている。これ
は一体どういう事か。実は本国に帰ってもユダヤ収容所に送られる危険があったからだ

1048: 名無しさんAA:18/07/09 14:18
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  104 >  

 この南京虐殺事件を探っていくと、膨大な資料と更に次々に消えて行く真相とこれま
で思いもしなかった黒い闇が広がっている事に気付く。それはバチカンの動きである。
人々に嘘を信じさせ 清い人に貧しさを授け、愚衆に怒りと悲しみを飢えさせた行為に
徹していた事だ。ファシズムは、軍備拡張、領土拡張に走り、既存の秩序・権益を主張
する米英仏と対立が始まった。ヒトラー総統(Fuhrer:フューラー)は,東欧・ソ連に
「ドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得すること」を1925年の『わが闘争』で公言し,
ドイツを弱体化させるユダヤ人は,共産主義者,ペストのようなものであるとのアンチ
・セミティズムを喧伝,ユダヤ人への憎悪を煽動した。反ユダヤ主義はアンチ・セミテ
ィズムとも言われる。聖職者を志す少年たちに入学する初等教育機関がセミナリオとさ
れる狭義のアンチセミティズムはこの教義に反するもの或いは反論するものとして扱わ
れ村の者とはされなかった。言わばガリレオみたいなものだった。それが長い歴史の間
に、貸付利子を取るユダヤ教徒およびユダヤ人への敵意,憎悪,迫害,偏見を意味する
言葉となった。反ユダヤ主義は,古くは聖書時代からみられるが,19世紀になって、
アンチセミティズムという言葉は、人種説に基づく 新しい反ユダヤ主義理論が出現し
た。ここで反ユダヤ主義は、従来の異教徒教義から宗教教義や慣習の伝統的な反ユダヤ
主義に変化した後に、新たな人種説に基づく反ユダヤ主義(狭義のアンチセミティズム)
と変わる。19世紀に、民族主義に基づく近代国家が成立すると,彼らは,ユダヤ教の
伝統的教義である民族と宗教の間の不可分な関係を否定する〈改革派ユダヤ教〉を創設
した。 しかし,ヨーロッパの民族主義はユダヤ人の同化を拒否し,ユダヤ人をスケー
プゴートにして激しいアンチセミティズム運動を起こした。帝政ロシア末期の混乱の中
で,ユダヤ人を無差別に殺戮(さつりく)するポグロムが広がったため,多数のユダヤ
人はアメリカに逃げた。ところが彼らはユダヤ教徒からユダヤ人を創設した。19世紀末
にいたってこの〈ユダヤ人〉規定をくつがえし,もっぱら「出生や血に基づく人種の集
団」、とする考え方が現れた。直接には1870年代の大不況の影響のもとで没落の危機感
にとらえられた中部ヨーロッパの中間層の間で,資本主義社会の矛盾をあげて〈ユダヤ
人〉=セム人に帰そうとする反ユダヤ主義者のこの主張は強い支持を発揮し,ドイツ,
オーストリア,フランスでこの人種論的反ユダヤ主義(アンチセミティズム)は急速な広
がりをみせた。ここにユダヤ教徒であるかどうかとは無関係におよそひとたびその血を
うけた者は,信仰のいかんにかかわらずつねに〈ユダヤ人〉であり続けるという観念が
成立したのである。

1049: 名無しさんAA:18/07/09 14:24
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  105 >  

 これはバチカンが仕掛けた罠とも言える。こうしてドイツから逃げた人達はナチス前
から大勢いたのである。1933年の6月の人口調査によると、ドイツにおけるユダヤ人の
人口は約50万人でした。ユダヤ人の割合は、合計約6,700万人のドイツ人の人口の1%未
満に過ぎませんでした。ナチスでは、1935年のニュルンベルク法で体系化されたナチス
の人種差別的基準とその後の条例によって、個人の祖父母が実践している宗教に従って
ユダヤ人を分類しました。最終的に、ナチスでは、ユダヤ教から別の宗教に改宗した数
千人もの人々もユダヤ人として分類しました。その中に、ローマカトリック司祭、修道
女、および祖父母がユダヤ人であるプロテスタントの牧師までも含まれてしまう。通常
の人口調査の実施方法とは異なり、これらは正式な普通の調査、すなわちユダヤ教徒と
されるユダヤ人の数が膨れ上がった。全体で、ドイツのユダヤ人の約7割は都市部に住
んでいて、全ユダヤ人の半数はドイツの際立った10大都市に住んでいた。そこに又、
純潔主義が加えられた。1935年ニュルンベルク法が制定され調査が入ると、新しい法律
で、ユダヤ人の政治的権利の多くを剥奪する。さらに、ユダヤ人は、「ドイツ人」また
はその「血族」との結婚や婚外交渉が禁じられ、「人種的不品行」は刑事事件となった
。ニュルンベルク法では、「ユダヤ人」を3人または4人の祖父母を持つ者または実践
的なユダヤ教徒である者と定義しています。即ち親の親が8人いれば半数以下は純粋な
ユダヤの血が流れていけないとしたのだ。だが知っての通りユダヤ人と言うのはどこに
もいない。100%である。居るのはキリスト教義に背くユダヤ教徒だけなのだ。しか
し、不思議な事にその報告ではドイツ人の2〜3割突き詰めれば4人に1人はユダヤ人
と推測された。そして又不思議なのは、戦時期になると8割のドイツ人が終戦時は4割
〜6割とされるドイツ人迫害が起きるのだ。3万人以上の人々が逮捕され、強制収容所
に収容されるに至ったこのポグロムの後、「アーリア化」(ユダヤ人の経営する商店を
「アーリア人」に売ること)が加速したが、このアーリア人=ドイツ人が8割→9.9割
→5割に変化するのである。如何にポグロムが常識的だったかが知れる。ところでこの
中で、ヴァイマル共和政のヒンデンブルク大統領より前のプロイセン王ヴィルヘルム1
世の皇帝時代から続いた悪しき排除主義の慣習であった中から、中独合作は行われて、
大戦の頃でも概算で200人+68人+130人+80人の軍事顧問団400人以上が
中国に来ている。日本でもゾルゲ事件などスパイ事件は起こっている。では戦後にどこ
に消えたのか。彼らドイツ人軍事顧問団500人が中国大陸で忽然と消えるのである。

1050: 名無しさんAA:18/07/09 14:27
「ジョージ・フィッチが持参したマギー(南京安全区国際委員会委員ジョン・マギー)
のすばらしいフィルムを一見してから、妙案を考えています。ジョージに直ちにアメリ
カに帰ってもらい、ワシントンで国務省の役人や上院議員などにこの話をするよう進言
しました。効果はてきめんのはずです。中国人への同情が喚起されて、ハル国務長官か
らは会見を申し込まれるだろうし、(ルーズベルト)大統領とも会う事になるかもしれ
ません。(…)これはまったく私一人で考えついたことです。(…)資金の手配はして
いるところです。」とマギーフイルムストーリーの中でティンパーリは手紙を書いてい
る。しかし、当時のティンパーリを知るティルマン・ダーディンの証言によれば、ティ
ンパーリは金銭的に厳しい生活をしていた。まもなくフィッチは渡米し、政府関係者と
面会し、以後7ヶ月ものあいだ全米各地で講演会を開いた。北村稔の考証ではこれらの
資金源は北京政府の国民党であった。フィッチにかぎらず、中華民国政府の顧問であっ
たベイツも蒋介石をお得意様とするジョン・ラーベも他の安全委員会のメンバーも当時
中華民国の首都だった南京にいた外国人は、殆どが蒋介石と親しかったし、資金提供を
受けたものだろう。嘘をつくのに十分な動機があったし、バチカンの意向にも沿ったと
言える。「これらは国際委員会の61通の文書となりました。殺人は49件記されてい
ます。しかし検証したものは一つもありません(国際委員会書記長スマイス博士証言)
。仮に事実としても南京虐殺などとは程遠い話しです。そしてこの文書は支那国民党の
宣伝本であるティンパーリーの「戦争とは何か」にも使われました。これらは支那人に
金を握らせてウソの訴えをさせて、記録して抗日宣伝に使ったものや隠れている支那軍
の便衣隊の仕業を日本軍の仕業にすり替えたものでした。国際委員会の実態は「反日」
組織であり、支那国民党の宣伝部隊だったわけです。そしてこれが成功しているのだ。
昭和12年(1937年)の支那事変南京戦には、海軍も参加していた。あまり知られ
ていないかもしれないが、海軍第11陸戦隊が揚子江を上り、12月13日には南京に
到着しています。陸地から攻撃してくる支那軍に砲撃を加え、揚子江上を敗走する支那
軍の舟艇を銃撃している。九州の人に限られたが、私も数十人の今は無きご老人の証言
からも、虐殺はあったが南京大虐殺などとはなかった。南京戦は上海上陸や徐州進軍に
比べたら最も小さな戦争だった。何故ならその時になってゼロ戦部隊が画期的な戦勝を
誇ったからだ。更にマギーフィルムも、米国知人を持つ人からの話では当時の生活状態
の記録写真で、死体はあってもそうした虐殺や戦闘のフィルムではなかった。と証言し
ている。更に興味深いのは、日本軍が来る前に中国人宣教師たちが映画を撮っていた事
が知れ渡っていた事だった。

1051: 名無しさんAA:18/07/09 14:28
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  107 >  

砲艦勢多艦長 寺崎隆司少佐
「13日の午後3時15分です。中興碼頭には日本陸軍が来ていまして 日の丸を振っ
ていました。南京に着いたら陸軍と連絡せよと司令官から命令されていましたので、中
興碼頭に向かうと保津に信号しましたら先頭の保津がすぐに中興碼頭に向かったので、
勢多が先頭になり、さらに先の下関桟橋に向かいました。下関桟橋に近づきますと多く
の兵が手を振っているので、双眼鏡で見ますと中国兵なのです。中国兵は日本の軍艦が
こんなに早く来るとは思わず、中国の軍艦だと思って手を振ったのだと思います。そこ
でまた二十五ミリ機銃で掃射して近づきました」(ここまでにジャンクや筏の支那兵に
遭遇している)寺崎隆司少佐は翌年の7月まで南京にいましたが、もちろん南京虐殺な
ど見ておりません。
砲艦勢多 次席大尉・関口鉱造 
15日の南京偵察で「星条旗を掲げている建物(鼓楼病院)をのぞいたところ、年配の
米国人(発音で米国人とすぐ判りました)が出てきたので城内の様子を訊ねました。こ
の人がフィッチ氏であったのでしょう・・・彼の話を要約すると『城内(難民区?)は
完全に非武装化され難民が溢れている。しかし、便衣に姿をかえた支那兵が潜入してい
ることは事実である。難民の処理、治安の維持については米・英など第三国が斡旋して
日本軍当局と交渉中である』・・・」「城内(難民区)は女子供でゴッタ返していたが
、若い男の姿はあまり見かけませんでした。時折り、窓越しに険悪な眼で注視している
男を見かけましたが、便衣兵らしく思われました。」
国際安全委員会の委員だったマギー牧師の目撃証言
東京裁判において、マギー牧師は「私は自分の証言の中ではっきりと申してあると思い
ますが、ただわずか一人の事件だけは、自分で目撃いたしました。」と回答し、日本兵
に後ろから、誰かが何かされて驚いて逃げ出した中国人が、竹垣があって行詰りになっ
た為に逃げられなくなった処を、日本兵が追い詰めて殺した件のみが自身が目撃したも
のである。」と証言した。
南京の病院で勤務していたアメリカ人、ジェームズ・マッカラム医師
1937年12月29日の日記にこう書いています。「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正
しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がい
ました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を
抱き上げているのを目撃しました」(東京裁判 速記録210) 

1052: 名無しさんAA:18/07/09 14:35
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  108 >  
 さらに、こう書いています。「12月31日、今日 私は民衆の群が当該地帯から中山路
を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から 日本軍の手に
よって配分された米を携帯して帰って来ました」。「日本人の善行を一つ報告しなけれ
ばならない。とても気持ちのよい日本人が最近病院にやってきた。彼らに患者の食料の
不足を告げたところ、きょう、百斤の豆と牛肉を持ってきてくれた。この一ヵ月という
もの肉は食べられなかったので、この贈り物は大歓迎だ。他に欲しいものはないかと言
ってくれた」(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p263)
 ハロルド・J・ティンパーリの指示により、「侵略された中国」と題して、YMCA
(キリスト教青年会)による反日キャンペーン用に全米各地で上映されてました。その
目的は、日本軍の蛮行を訴えることでした。ハロルド・J・ティンパーリとジョージ・
アシュモア・フィッチは、南京大虐殺30万人説の有力な証拠の一つとされた『戦争と
は何か----中国における日本の暴虐』(1938年7月)という本を共著で出版しまし
た。また、ハロルド・J・ティンパーリは、中国国民党(蒋介石)の中央宣伝部国際宣
伝処の顧問を務めていました。ジョージ・アシュモア・フィッチは、第二次上海事変の
後、上海の日本人街の虹口公園で行われた祝賀式典(昭和7年4月29日)では、その
会場に爆弾を投げ、爆弾テロを行ったテロリストの尹奉吉を、自身の運転する自動車で
会場まで送迎したことがありました。(上海天長節爆弾事件)この事件は、大韓民国の
臨時政府の首班の金九の指示で尹奉吉を使い行われた爆弾テロでした。ワシントンでは
国務次官のスタンレイ・ホーンベックをはじめ下院の外交委員会や、戦時情報局などの
要人、新聞記者などの報道関係者にもフィルムで上映会を催し映画を見せています。又
このフィルムは、昭和13年(1938年)5月の「LIFE」誌においても紹介された。
このマギーフィルムは、全米で上映会が開催され、反日世論の醸成と中国に対する同情
論の醸成に、大きな威力を発揮しました。これが中国民の惨状を大きくしたのである。
先に言った様にポグロムは欧州世界に横たわった常識だったのだ。ペテルブルクのロシ
ア人民連合やロシア人連合・ロシア帝政党やモスクワの対革命闘争活動協会やオデッサ
の「双頭の白鷲」などの、多くの右翼集団は1905年革命の時期とその後に創られた2つ
の集団、神聖旅団とロシア会議に集約され更に黒百人組に収斂された。この集団は右翼
政治団体だったがテロリスト集団であり、小商店主・浮浪者・職業的犯罪者から成り立
っていて、ロシア皇帝の資金源でロシア正教会が動かしていた。そしてロシア革命と同
時に赤化した共産党は同じ様に公式に秘密警察に移行させKGBとなった。彼らが共産
中国で指導指揮しながら、日本軍を翻弄させていた。要するに中独米英ソの合作だった

1053: 名無しさんAA:18/07/09 14:42
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  109 >  
「『虐殺』などという事件は、艦長以下全乗組員とも目撃しておりません」南京陥落後
、海軍は南京下関から1.8キロ離れた紅卍字会の保国寺難民区(難民と市民二万余り
)に対して食料や被服を給与しています。そして敗残兵の掠奪から市民を守っていまし
た。これに尽力したのが土井中佐で、救援物資が到着したとき、市民と難民は「南京下
関平和街」の横断幕をはり爆竹をあげ、日の丸を掲げ、歓呼して迎えています。土井中
佐に紅卍字会から感謝状が送られました。紅卍字会 陳漢森の礼状「・・・閣下の軍艦
は江浜府に停泊する際、閣下は民衆が餓えている状況を察せられ、小麦粉と食用油を賜
り、大勢の民衆の命をお助けになりました。また道路の整備と橋架けを命ぜられ、且つ
自らご指導に当たられました。・・」土井申二中佐「私は第三艦隊艦隊司令部にいき、
人道上、宝塔橋街をそのままにすることができない、といいました。すると長谷川清司
令長官は宝塔橋街でやったことを非常に喜び、医療品や食料をくださいました。(中略
)平和街が落ち着いた頃、比良(砲艦)は蕪湖の警備を命ぜられましたので中興碼頭を
離れました。陳漢森(紅卍字会の代表者)はその後もわざわざ礼状をくれまして、終戦
まで手紙のやりとりをしました。よっぽど感謝したものと思います」 南京で30万人
を虐殺するような日本軍に 救援物資をくれただけで感謝してずっと手紙のやりとりを
するはずがありません。日本軍は武士道の精神で行動していました。もちろん陸軍も同
じで、脇坂部隊(歩兵36連隊)は13日夜、敵の戦死体をねんごろに埋葬し、一晩中
読経をあげて弔いました。18日には陸海軍合同で慰霊祭を行っています。当時のドイ
ツでは、虐殺の推進を管理していた親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンが「ユダヤ人問題
の最終解決」と言う様に、この法や慣習に乗らない人とテロリスト問題は国家問題とし
て人々を悩ませていた。しかし、日本人は同時期に多くのユダヤ人を救い、大本営方針
に逆らっても助けた。同時期の、ナチス・ドイツの人種政策「人種に基づく国家の敵の
定義」によって行われた政策には、ロマ人に対するポライモス(ロマ絶滅政策)、成人
の精神障害者へのT4作戦(優生学での絶滅選別)、反社会分子とされた人々(労働忌避
者、浮浪者、シンティ・ロマ人など)や、障害者、同性愛者(ナチス・ドイツとホロコ
ーストによる同性愛者迫害)若しくは(絶種手術)、エホバの証人、スラヴ人に対する
迫害などへの強制労働もホロコーストに含んで語られる。主に独ソ戦における戦争捕虜
、現地住民が飢餓や強制労働による死亡者に対しても「ホロコースト」の語が使用され
る。ここに国の資金でわざわざナチスから逃げてた軍事顧問団の虚像が浮かびあがる。
日本を非難しながら、母国の非道は訴えて居ない。それどころか中国でもやっていると
報告せねばならない矛盾に陥っていたのである。そこで虐殺をねつ造するしかなかった

1054: 名無しさんAA:18/07/09 14:44
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  110 >  

 つまり 本当の敵であるドイツのヒットラー政権下の兵士で、虐殺やホロコーストや
ポグロムなどを強く批判する姿勢を持つ信者の一人と言う 全く矛盾に満ちた人生の中
にあったのが中国に派遣された軍事顧問団であった。そこに醜悪な米国ユダヤ資本の参
下で蒋介石将軍は期待されながら、痛烈な抗日共産党の毛沢東の毒牙に刺されていた。
この構図の唯一の頼りは 反大日本帝国の狼煙により集金して国民の声に答えて愚衆の
暴動を抑える事しかなかったのである。対してやってくる日本軍はやさしい軍隊だった
。ラーベの日記には 37年12月26日
安全区の二十万もの人々の食糧事情はだんだん厳しくなってきた。米はあと一週間しか
持たないだろうとスマイスは言っているが、私はそれほど悲観的には見ていない。
W・マイヤー社長の1938年1月3日付けの書状に関して 〜
 ドイツ大使館を通じてお手紙いただきまいした。去年、漢口へ行くようにとのご連絡
をいただきましたが間に合いませんでした。電報が届いたとき、ドイツ人たちはすでに
クトゥー号で発った後だったのです。また韓さん一家を始め、中国人従業員は皆オフィ
スに避難しておりましので、彼らを見捨てることは出来ないと考えておりました。あの
ときお返事しましたように、私は安全区を設置するために当地で発足した国際委員会の
代表を引き受けました。現在はここに二十万人もの中国人非戦闘員の避難場所になって
います。これを組織するのはかなずしも容易な仕事ではありませんでした。しかも日本
から全面的には承認を得られず、中国上層部が、ぎりぎりまで、つまり南京から逃げ出
すまで部下と共にここに駐留していた為に、いっそう困難になりました。今まで、給食
所や食糧の配給所などを設置して、安全区にひしめいている二十万人の市民をどうにか
養ってこられました。ところが今度、「難民の保護は新しく設立された自治委員会が引
き継ぐ。よって米販売所を閉鎖すべし」との命令が日本軍から出されたのです。市内に
秩序が回復し、南京を出る許可が下りましたらそちらに参ります。今のまでのところ、
申請は全て却下されています。安全区委員会の解散まで私が当地にとどまることをお許
し下さいますよう、遅ればせながらお願い申し上げます。というのも、わずかとはいえ
、我々外国人の存在が大勢の人々の禍福を左右するからです。十二月十二日以来、私の
家と庭だけでも六百人以上の極貧の難民たちがおります。たいていは庭の藁小屋に住ん
でおり、毎日支給される米を食べて生きています。
 ナチ式敬礼を持って     ジョン・ラーベ  と買いて送っている。

1055: 名無しさんAA:18/07/09 21:09
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  111 >  

 しかし、日米開戦を宣言して( 米国はちゃんとした宣言はしていないまま戦争し、
日本は日本にいる外交官に天皇宣下をしている。)3月も過ぎると一変した。日本船籍
の民間船団を次々と攻撃したのである。大西洋ではドイツのUボート攻撃を批判しなが
らも、太平洋では客船貨物船を限らず、日本が進出し占領したマラッカ海峡のパレンバ
ン油田と今のブルネイ傍のミリ油田からの油輸送を止める為に、やみくもに襲撃してい
たのだ。実は中国建設も日本軍にとってそう難題では無かった。一番の難題は米国ソ連
などの海外からのゲリラ支援と、それに伴う犯罪者処刑への国際的非難だった。よく、
日本の第二次世界大戦を南方ビルマ戦線の失敗や、マレーシア占領から南洋開戦の失敗
として説明される。だがそれは正確ではない。基本的に日本が負けたのは日米開戦が、
アメリカが思う通りで行ったことだった。非開戦派の多い中で大日本帝国は威信を賭け
て戦った。戦えば米国は解ってくれるだろう。ソ連は仲裁に入るだろう。と勝手に思い
違いした。同じ人間のはずだ。と紳士的に捉えていたのである。今の日本国憲法と同じ
に……世界は、……国際社会は、と主語の相手のいない思想の中に陥っていたのである
。それは、民間で言えば、いつも獲れた肉や芋を分け合った引っ越してきた隣の立派な
城の紳士が、ボロボロの掘っ建て小屋を襲うなどと考えるだろうか。と言う事だった。
今でもステーキを食べる様な金持ちが、生臭い海の魚なんて食べないだろう。としてい
たが、今や寿司に刺身に盛況である。明治以来日本人は、我々も石のお城の様な文化を
作るのだ法治世界を築くのだ。とばかりに「殖産興業」「富国強兵」を強制してきたの
である。しかし当の欧米は明治のとある偉人が言う様に、「伝聞しかず一見するは、知
るにおぞましき制度なり、欧米王朝貴族は、愚民の(中国の)大陸文化の似て卑猥なり
…。」などと言っている。日本が戦争を宣言したのは、勿論真珠湾攻撃からだが、頻繁
に中小船舶は、王道から外れて、既に米国からの攻撃に逢っていて、日本海軍にも敵対
攻撃を仕掛けよと、国内では海軍は散々陸軍からの突き上げは起こっていた。しかし、
山本五十六は断じて非道は行わない。王道の戦いが肝心であるとの信念だった。その為
、日米開戦は陸軍の開戦宣言反対と共に、日に日に遅れていた。元々南洋諸島は日本の
管理地となっていたし、米軍が攻撃する言われは何一つ無かった。永野修身は教育者と
しては優れた実績を残した。海軍兵学校校長の兵学校長時代は、伊藤整一とともに自学
自習を骨子とするダルトン式教育を採用し、体罰の禁止など、抜本的な教育改革を推進
し画期的な海軍文化を開花させている。既に非開戦論者の山本五十六は、戦争では、今
後の日本の身が持たないと危惧していたのである。

1056: 名無しさんAA:18/07/09 21:11
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  112 >  

 水野広徳は1923年(大正12年) 水野広徳は、米国を仮想敵国とする新国防方
針が二三年に作成に大きな批判記事を書いた。これはこの国防方針に対して水野なりの
論点で「新国防方針の解剖」としたが、これは多くの海軍の見方でもあった。こうして
『中央公論』大正十二年六月号に論評を書き、日米戦争を徹底して分析、日米戦うべか
らずと警告した。「次の日米戦争は空軍が主体となり、空襲によって、東京全市は一夜
にして灰じんに帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の総力戦となるため、日本は
国家破産し、敗北する以外にない。当局者が発狂せざる限り、英米両国を同時に仮想敵
として国防方針を策立することはあるまい。」と指摘した。太平洋戦争が始まる十八年
前にすでに敗北を見通していたのである。その後、一九三二年(昭和七)十月、水野は
日米戦争仮想物語『興亡の此一戦』(東海書院)を刊行したが、東京大空襲の惨状、被
害をリアルに措き、日本の敗北をにおわせた内容であったため「左傾的記事があり」と
いう理由で、直ちに発禁処分となってしまった。が大方がこの見方と同一であった。よ
く「中国における権益問題でアメリカと対立した日本政府は、内政に対する国民の不満
をそらす意図もあって、対米開戦を決意する。開戦当初、日本はアメリカより海軍力に
おいてやや優位にあり、その優位を維持し戦局を有利に展開しようと海軍はフィリピン
に奇襲攻撃をかけマニラを占領しようとした。」などとデタラメを書く輩がいる。しか
し、それは全く外れている。日本は第一次大戦後は、ドイツの南洋諸島領地が国連から
の日本の委託統治領になり南洋諸島の建設に入ったのだが、それでも客船や貨物船の安
全がないまま、三井、郵便汽船の船舶が沈んでいた。この批判によって海軍は日米開戦
に陥ってしまったのである。既に開戦前から、劈頭パナマ運河の封鎖、フィリピン・グ
ァム占領、カリフォルニアへの潜水艦攻撃を敢行してドイツ以上に商船や漁船などの、
一般民間船の爆破を決行して撃沈させていたのである。こうして西太平洋の制海権を握
った。戦時に至ってはこの海軍の平和主義が、ハワイの石油貯蔵タンクの50余りは、
全く爆撃対象としなかった。その為、生産力に優るアメリカが海上封鎖による持久戦法
をとり、中ソ両国も反日に転じ、戦局は逆転する。そして艦隊主力をもって行なわれた
ヤップ島沖海戦では日本は簡単に敗北し、アメリカはグアム島など南洋の島々を次々に
占領し、日本側守備隊は全滅するのである。こうしてマニラも奪い返されソビエトから
は樺太(からふと)に侵攻されて、最後の油田もこれを占領され、中国軍は南満州など
を支配下にされて。ついに内閣は総辞職するに至った。山本五十六の甘さのままの海軍
だったのである。

1057: 名無しさんAA:18/07/09 21:24
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  113 >  

 米国留学した者なら一度は目を通したであろう「太平洋戦争」と言う本はよく読まれ
て関心はあったようだ。日米開戦の17年も前に、英人軍事評論家のヘクター・C・バ
イウォーターは、太平洋戦争 (The Great Pacific War) の予測をしていたが、それは
ヘクターのみではない。結論からいえば、日本がアメリカに屈服し屈辱的な講和を強い
られるというものである。このバイウォーターの「太平洋戦争と其批判」は、海軍少佐
の石丸藤太により訳されて、文明協会から発行されたが、結論が気に入らないと言うこ
とで、この貴重な予告を日本人は信じなかった。と言うよりは、これを肝に日米関係を
良好にしようと 幾度も頭を下げた外交が、結果的にアメリカ合衆国をのさばらせた。
ロシアの大陸横断鉄道は、ウラジオストック〜舞鶴〜香港〜横浜〜ハワイ〜カルホルニ
アと繋がって、大勢のユダヤ人は米国に避難したが、日本は一度でも差別による足止め
にする事はなかった。しかし、1941年の日米開戦によって中断したのである。この航路
には、日米間のしからみがあった。太平洋航路は、パシフィック・メール汽船会社によ
って1867年元旦に一番船「コロラド」の米国出航から始まった。その22日後の 1月24日
横浜到着、そして最終目的地の香港には 1月30日到着したのであった。この頃には日本
には太平洋を横断する民間船はなかった。1896年になって初めて 日本郵船がシアトル
航路を開設し、1898年東洋汽船がサンフランシスコ航路を開始して日本船社の参入とな
り競争が始まった。そしてその競争が落ち着いた頃戦争で中断された。1941年の、日米
開戦で中断した太平洋航路は、戦後になって復活した。しかし、戦争中の航空機の技術
革新により、太平洋航路の連絡交流の役目においては、既に客船需要は急速に衰退して
いた。戦後 1953年(昭28)7月22日、横浜港から一隻の客船が、北米・シアトルに向けて
出帆した記事がのった。戦前の日本の客船黄金時代を今に伝える唯一の生き証人として
その時まで横浜港で保存された船の話である。あまりにも有名な「氷川丸」が就航した
のである。日本の客船が定期航路で太平洋を横断するのは、戦争前夜の1941年(昭16)夏
に航路が休止されてから、実に12年ぶりのことと書かれた。その「氷川丸」の1957年
(昭32)頃の運航予定表も残って居る。かつては姉妹船「平安丸」「日枝丸」と合わせて
3隻で、2週に1回の割で日本とシアトルを結ぶ便が運航されて他を圧倒して移民など
を送り出していた。しかし再就航した「氷川丸」1隻ではさすがに2ヶ月1回の割の乗
客しかいなく、激減してしまいました。それでも、まだ航空機が一般的でなかった時代
で、日本から戦後の留学生や移民などを送り出し、重宝されていたのである。


1058: 名無しさんAA:18/07/09 21:41
 汽船の歴史は日本では結構浅い。1824年には、一定日数内に、英印間を乗切った
汽船に対する八千ポンドの賞金がインドで発表された。そのため四百七十トン百二十馬
力の汽船がデットフォードで造られ、翌二五年八月十六日にファルマウスを解纜(かい
らん)させ、百十三日目にカルカッタに着いた。だが、賞金が出るくらい貴重で、大洋
航路が汽船会社の算盤(そろばん)に合うのは、まだまだ先の時代の事だった。これと
前後して、インド政府に身売のつもりで英国から押渡った汽船ファルコン号は、新しい
汽罐(きかん)も両輪もはぎとられて、ただの帆船としてやっと買手がついたという。
こうして大洋航路の汽船会社は幕があがるが、それはようやく三十年代の終頃になって
設立された。こうして日本人の乗れる船会社がアジア航路にやっと出て来る。
東洋航路 The Peninsular & Oriental Steam Navigation Company(P & O), 1837
大西洋航路 The Cunard Company, 1838
太平洋航路 The Pacific Steam Navigation Company, 1840
の3大航路が確立した時代だった。しかし、これで七つの海にでた汽船が通じたのだ。
しかし、この初期の時代は、ただ大陸の対岸に行きつくのみの航海であった。つまり、
「太平洋汽船会社」とは名乗っても、実はリヴァープールと南米の太平洋岸チリ、ペル
ーをつなぐラインで、バルボアのように、拠点拠点の港には行かず、太平洋を覗(のぞ
)いたというまでのことだったのだ。それでも胸躍る航海であったに違いない。サザン
プトンを起点とする、P&O(彼阿ピーオー)はそうした中で便利な航路を開港した。
1945年に、スエズを“鉄道や陸路”で連絡しながら、香港まで延びた航路である。
しかし太平洋の中の日本には、一隻の汽船も渡らなかった帆船の時代だった。汽船にと
っては、世界はまだ扁平で冒険の時代だったのだ。独立戦争時代でも、両輪パドル船だ
ろうが、低圧の単式機関だろうが、炭庫を広くとって、ボイラーの水には海水を使い、
羽根車を回転させた船で、人を運ぶ事より資材の運搬や積み荷の方が大事だった。六十
年代中頃までは、ふんだんに大西洋は行き来し、あのミシシッピ川さえ登っていたのだ
が太平洋は未知の海で石炭を積み込んでまで航海するほどの利益はなかった。1843
年に三千二百七十トン一千馬力というのが、北大西洋に煙を吐い通行していた位である
。日本の開国まではそうしたものだった。しかし、開国の頃パナマ地峡に線路で連絡さ
れると、ニューヨーク・サンフランシスコ間の太平洋郵船パシフィック・メイル号は、
1949年二月の処女航路以来は人気で非常な景気で人気を博した。「パナマ」「オレ
ゴン」「ゴールデン・ゲート」「コロンビア」などの当年切っての優秀船が就航して、
次にくる太平洋横断就航をいつでも来いと待構えた。事実これらの船の大部分が、後日
ヨコハマへ入ってくる事になった。1914年にパナマ運河が開通してのことだが。

1059: 名無しさんAA:18/07/09 21:42
1849年二月の処女航路以来は人気で非常な景気で人気を博した。「パナマ」「オレ
ゴン」「ゴールデン・ゲート」「コロンビア」などの当年切っての優秀船が就航して、
次にくる太平洋横断就航をいつでも来いと待構えた。事実これらの船の大部分が、後日
ヨコハマへ入ってくる事になった。1914年にパナマ運河が開通してのことだが。


1060: 名無しさんAA:18/07/09 23:20
 かくして米国独立戦争が終ると、米英の貿易戦争が幕開けした。1815〜50年の
カリフォルニアは黄金狂時代に入っていた。その船はゴールド・ラッシュの中従前未聞
の快速船が生れ出た。「カリフォルニアン・クリッパー」である。設計者アルゴノーツ
の願いそのままに、収容人数・快適さ・機械装備、おまけに「美しさ」を驚異的に高め
た絶品を就航させた。それまでニューヨーク〜サンフランシスコ間の帆走記録は143
日〜267日だったが、天才技師ドナルド・マッケイのこの木造船は処女航海に110
日で走り、彼の最大傑作フライング・クラウド(木造1793ton )は同じ年に89日
の驚異的新記録を作った。だがこのカリフォルニアン・クリッパーに関する最大の驚異
は、その早さだけでなく、太平洋横断のいわゆる「三角航海」によって全世界を席巻(
せっけん)した最高収益を過分に出した事である。「三角航海」とはニューヨーク、サ
ンフランシスコ、広東(または上海)の三点を一航路に結び、世界一周航路を継続して
回ったものだ。カリフォルニアン・クリッパーはこのコースを確保し、ニューヨークか
ら貨物と旅客を満載し、人気のサンフランシスコで降ろすと、空荷で一気に太平洋を横
切って中国に向かい、銀の硬貨で広東または上海で茶を積込み、その後インド洋および
喜望峯経由で、綿花や香辛料を持って帰航したのだ。こうして英国の持っていたスペイ
ン銀は英国人は使い果たす事になる。折しもゴールドラッシュで人は押し寄せサンフラ
ンシスコに乗り込んできた。このコースはきわめて合理的航路で、カリフォルニア貿易
は五〇年代を通してほとんど片道貿易で収益を持った。実は金輸送は少数の船で限られ
陸路もありそう多くなかった。金掘に失敗した者は定着して戻らない。つまり片道でも
充分だった。これが砂金の代りに金色の麦を輸送する様になっていく。労働者の食糧も
輸送を産んだのだ。55年以降でも少量だった金より重宝となった。当時のシナ貿易は
、茶積み船はほとんど空荷でシナに向うのが常だったが、実に1852年当時の英支の
貿易の数字について見ても、シナへの輸出総額は約三百万ポンドだが、シナからの輸入
は茶だけでゆうに六千万ポンドに達している。この米国船の三角航路と、英船の自国の
往復路競争をしたが、勝負は明らかに負けだった。黄金狂患者が創り出した米船の画期
的な船のスピードと航路は、英国を寄せ付けなかった。この利益は物をいい、三角路に
は途中でカリフォルニア貿易というおまけが付いた。運賃競争の上で物を言い利益の面
寄せ付けなかった。こうして「三角」航路はすぐさまロンドンを一角加えた事実上の四
角航路となり、米国クリッパーはシナ米国間の貿易だけでなくシナ英国間の貿易をも、
一時は独占した。こうして南北戦争が終ったころは、上海ロンドン間の英米帆船のクリ
ッパー戦争は完全に米国の勝利に帰して他の国をはじいていた。これが後の日米開戦に
米国の人間に欲望を掻き立て、夢を与えていた。

1061: 名無しさんAA:18/07/09 23:24
当時のシナ貿易は
、茶積み船はほとんど空荷でシナに向うのが常だったが、実に1852年当時の英支の
貿易の数字について見ても、シナへの輸出総額は約三百万ポンドだが、シナからの輸入
は茶だけでゆうに六千万ポンドに達している。この英国船の三角航路と、米船の自国の
往復路競争をしたが、勝負は明らかに負けだった。黄金狂患者が創り出した英船の画期
的な船のスピードと航路は、米国を寄せ付けなかった。この利益は物をいい、三角路に
は途中でカリフォルニア貿易というおまけが付いた。運賃競争の上で物を言い利益の面
寄せ付けなかった。こうして「三角」航路はすぐさまロンドンを一角加えた事実上の四
角航路となり、米国クリッパーはシナ米国間の貿易だけでなくシナ英国間の貿易をも、
一時は独占した。こうして南北戦争が終ったころは、上海ロンドン間の英米帆船のクリ
ッパー戦争は完全に英国の勝利に帰して他の国をはじいていた。これが後の日米開戦に
米国の人間に欲望を掻き立て、夢を与えていた。


1062: 名無しさんAA:18/07/09 23:30
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  116 > 

 こうして1954年に「和親」条約が成功しても米国に太平洋に汽船が通う商船など
の余裕はなかった。当の五八年に「通商」条約がハリスの手でできてしまったのだが、
結局、実は蒸気軍艦船の威嚇も、横断汽船のための和親条約ではなかったのだ。単なる
こけ脅しの一手だったのである。こうして最初の複式機関を据えたスクリュー汽船が、
英国旗をなびかせていった。南北戦争は英米海運戦および市場戦の上で決定的に英国を
勝利させ、次の時代の帆船も汽船も鉄や鋼で造られるようになっても、もう英国の重工
業の優位が物をいった。しかも六九年にスエズ運河が開通しても日本を開いた殊勲賞は
米国だったが、実利はヨコハマ当初の貿易額を見ても八〇%は英国のものだったのであ
る。カリフォルニア黄金狂時代に生れ出た太平洋郵船(パシフィック・メイル)会社の
「コロラド」(三、七二八トン)が金門湾を解纜したのは一八六七年(慶応三)一月の
元旦のことだった。航海は月一回、姉妹船に、中国丸、日本丸、米国丸などがあったが
、いずれも図体は四千トンに近い大きさだが、木造の、使い古した単式機関両輪船で、
大西洋上の鉄造複式機関船に比べて前世紀の遺物であった。サンフランシスコ横浜間は
二十二日、横浜香港間七日、横浜碇泊日数をいれて全コース三十日と言う長い時間を乗
せた。 サンフランシスコの C. W. Brooks 会社の船で、合衆国政府の郵便補助金を受
け、この船を最初として定期に太平洋を往復した。1881年以降の出来事だった。こ
の年3月ハワイ王国国王カラカウアが、10か月に亘る世界一周各国歴訪旅行のアジア
最初の訪問地として日本を訪問した。日本を訪問した初の国家元首となった。赤坂仮御
所を訪問し、明治天皇との単独会談を行い、ハワイ・アジア連合を構築し、明治天皇が
その盟主となること、また姪のカイウラニを日本の皇室に嫁がせることなどを提案した
。同時に親日家のロマノフ朝第12代皇帝アレクサンドル2世が暗殺され世界は不穏な動
きが謄著になった。日本初の私鉄の日本鉄道設立帝政議会の国会開設の詔が発せられ、
9年後の国会開設を約束された。日本最後の斬首刑が執行され、廃藩置県と共に開拓使
官有物払下げ事件が起こっている。次々と新しい技術が取り入れられ新しい会社が出来
日本の近代史が走り出す。1856年に初代駐日米国領事タウンゼント・ハリス下田に
米国領事館設置したが、8月23日 - 安政八戸沖地震発生。9月23日 - 安政3年の台風。と
日本争乱の匂いが漂った。この時勝手に大老が国を売り開国して、大洋航路から追われ
て、上海をも含めた日本沿海航路をよたよたと稼せぐ頃、1865年の造船所設立以来
、原始的な蓄積会社の観がある維新政府が、郵便汽船三菱会社は新鋭船を所有すること
ができた。

1063: 名無しさんAA:18/07/10 05:18 ID:SB6
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  117 > 
 こうして80年代が訪れる数年前に、横浜佐世保の造船所や佐賀君津の軍艦所を造り
すでに沿海航路を覆っていた 米の太平洋郵船と英の彼阿ピーオーを駆逐することがで
きた。こうして日本郵船が早くも90年代に太平洋航路に営業を争うこととなったが、
日本は帆船と言う汽船の前史を所有しなかったからこそ、後史の汽船を先進国以上の早
さで組成し、修理改造し、所有することを成し得ていたのである。もとより傍若無人の
気概ある維新政府の支持や江戸幕府の指示が、あったればこその話だろう。しかしこの
日本人のバイタリティーや審美眼や読先術は、中国の公害もそうだが中国人民の飛行機
や船や水力ダムなどの発電機やTVを国産技術として習得しようとしていない事に比べて
かなりの違いがある。日本で「仕事が先を教える」「技術が人を育てる」と言われる。
職業姿勢の違いは、第二次世界大戦でも民族性の違いが出て居る。トゥキディデスは「
新興の大国は必ず既存の大国へ挑戦し、既存の大国がそれに応じた結果、戦争がしばし
ば起こってしまう」との法則を見出しこの法則を「トゥキディデスの罠」という。とし
ているがしかし、日本では全く皆無であろう。日本は、古代から中国からの技術や文化
を取り入れて来た。朝鮮に於いてしばしば戦争は起こっていたが、それは領土戦争でな
く防衛戦争である。その為中国が攻めても日本が攻めてもいずれもその王朝は滅んだ。
そこには海があり台風がやって来る。中国も朝貢外交で臣下の礼があれば、それだけで
事足りた。日本の歴史はそうして進んだ。国内争乱に於いて、中国では大陸での覇権争
いはあったが、概して日本と中国は、それぞれに独立した視野や主権で国家経営してい
た。つまり競争競合の覇権争いや既存を犯す「トゥキディデスの罠」は起こらなかった
対して欧州諸国はそうは行かなかった。エジプト遠征でもフン族の戦いでもあのローマ
帝国ですら、自領の山を切り塩や金は他国に求めて国内を鎮めている。その為競技場を
造りアテナを滅ぼしドイツの様に生存圏問題を起こし下層民排斥を起した。不思議にも
どの時代でもどんな調査でもだれがシュミレーションしても日本は大国に勝てないと、
考えて行動し、それは的を得ている。それは聖徳太子以前から今日まで、小野妹子や、
武内宿禰(たけのうちすくね)の時代でも、言葉は違うが「防衛に専念すべし」として
戦っても勝てない事を示唆し、占領でなく討伐のみに傾いた処置に終わっている。つま
り世界観の違いがここにある。対米戦争前から、アメリカに勝つためには何よりも船を
作り、彼らの船を沈めなければならない。との見方は誰にも解る。軍用艦艇の記録は、
開戦時点における日本の艦艇は237隻、100万1千トンだ。 一方アメリカは345隻、143万
9千トン。トン数の比率は69.56%でいわゆる対米7割で、なんとか維持していたぐらい
で勝る事があるなどとは思っていない。そも過去に於いて鉄板船すら真似た国なのだ

1064: 名無しさんAA:18/07/12 23:49
 今でもコンピューターによる日米開戦のシミュレーションでも。米国と戦争したら、
日本は勝てない。100%が結論は、どんなに「緒戦優勢としても、徐々に国力の差は
顕在化する、ソ連は参戦し、開戦三〜四年で日本は敗れる。」というものだったという
。これは、原爆投下以外、ほぼ正確に太平洋戦争の帰趨を言い当てている。単なる憶測
の域を超えた研究なのだが、殆ど正確だ。…研究所は商船隊の撃沈率をはじき出し、や
がて補給路は断たれる。と結論づけた。驚くことにその撃沈率は、その戦後に調査され
た実際の数字と、ピタリ一致するのだ。…推計は日本郵船に蓄積されていた、英ロイズ
保険組合のデーターではじき出し独潜水艦による英商船隊撃沈率をもとに計算されたが
、まあ誰がどう考えても同じであろう。日本は海域が広いだけで人は半魚人ではない。
海の中では生きられない。造船予想の結果も歴史的現実でも、開戦から最初の半年間の
、つまり日本が連戦連勝していた時期ですらも、米国船は減るどころか23隻も増して
いるのだ。その内訳は目を見張る位に造船する艦艇規模も、米国の建造とは差があり、
2年も経てば、隻数&トン数は開戦時点の約2倍である。撃沈された船を計算に外して
も、2年間で「開戦時の合衆国海軍」をもう1個大隊が運用出来た程の保有数なのだ。
一方で日本の建造は、ピークに戦争前後は肩を並べて、艦艇数こそ248隻と多いが、
殆ど作れたのは小さな舟艇や特攻艇である。当初大型輸送艦が少し多めに数が出現する
。が、それは捕獲した船を改造したからだ。最初から原料不足していた中で、民間商船
に至っては「300万トン」か「1500万トン」かが 論争はあるが、いずれも太平
洋戦争の起こる頃には既に沈められていて民需300万トン説も疑わしい程少ない保有
だ。既に、日本の民間商船はアメリカの潜水艦によって次々と撃沈された事が解ってい
て、日本列島の回り180度海で護れないのだ。輸送商船が次々沈められて資源や軍需
物資を輸送する船舶が不足し、日本は既に物資が欠乏し兵器すら生産する事もままなら
ず、アメリカ軍の圧倒的な物量の前に敗れ去ることになる。これは容易に推測できる。
逆に言えばだからこそ、戦争したのである。更に正しく言えば日本の持てる船は、建造
し損害が無い事だが、アメリカの建造量もを上回る事は全くないし損害量を増やす事も
ない。製造した大型戦艦の大和ですら、鋼板不足で厚さが問われ、海軍では一般的には
甲板を木造として、鉄の使用量は極限まで絞って作っている。「味方の商船を守りひた
すら損害を抑えつつ、相手の商船を沈めてひたすら損害を与え続けるなどとは全くでき
ないのだ。戦いで生産が出来ずそれがまた原料不足を呼び造船できず、増産どころか、
損失すらも補えなくなる。戦前の軍部だって予想していた事だ。戦時に資源が無い中で
はその予想以上の船を日本は造り 粉骨砕身(ふんこつさいしん) したのだが、沈没も又
予想の3倍以上もあった。と言う激しい戦闘だった事が解る。。

1065: 名無しさんAA:18/07/12 23:50
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  119 > 

開戦してしばらくはタンカー不足で商船からの改造が相次いだ。がそれは、開戦第1年
目に70万トン近い輸送船とタンカーを捕獲できたからだ。実に大きい収穫とみえるがこ
の殆どはサミエル商会が英国に会社を売ったからだ。つまりドイツとの戦争で英国の油
の供給は、米国の経済制裁で日本への輸送は絶たれたが、それとは別に英国自体も自国
の供給の為に東南アジアの油田も輸送船も接取したのである。又一方でロシアとドイツ
の協定でロシアのバクー油田路が絶たれて、英国は米国に頼らざるを得なかったのだ。
日本に原油を運んでいたシェル石油の利権は英国海軍は買い取った。しかし航路や位置
が乗務員から把握出来た。その上で仏英海軍の守りは油田よりシンガポール本部だった
。それがマレーの強襲で可能になったのである。「43年に日本が作った全輸送船」と
ほぼ等しい量の船が捕獲し手に入った。これは棚からぼた餅ではない。その前に充分に
調査し分析し手にいれた。例えばチェレンバレン急襲も2千人の遠征部隊が消えている
。ミリ油田でも五百人の先行派遣兵士が死んだ。そうして日本への油輸送を始めたが、
長くは続かなかった。45年には油田地帯への船が米国の「シャットアウト作戦」が、
実行されたからだ。日本はマレー戦略ではシンガポール陥落をしていたが、海軍はこの
地を守る空軍を送れなかったのだ。この失敗はひた隠しされたが、どうしようも無かっ
た。巨大戦艦「武蔵」をフィリピンのこの海域に投入したが、空母のいない船団には、
全く勝ち目はなく、ましてはフィリピンを奪還したアメリカに勝つ見込みすらなかった
こうしてタンカー就航の9〜8割が沈められた。残りの1〜2割の残っていたのは北方
海域の樺太油田とされたオハ油田からの輸送タンカーであった。しかしここでも大本営
は失敗してしまう。つまり北方の守備と南方の守備を分けずにいた事だ。地理的条件も
気候や天候条件も全く違ったこの人間の条件に、作戦司令部は卓上机上の議論で決めた
。仮に横浜から直接ハワイに出港して攻撃していれば、真珠湾攻撃も全くの急襲であり
成功したであろう。しかし、海軍の水や食糧と共に油の供給もアリューシャン給油所で
供給し戦艦を終結させて出陣したのである。これらは当然英国のスパイが入ったシェル
の石油商人から米国に打電されていて この動きを元に空母をハワイの港からはずした
。実は1940年にアメリカ海軍がダッチハーバーに基地を設置していた、第二次世界大戦
中には大日本帝国海軍の攻撃対象となっていた。1942年ミッドウェー海戦と連動する形
で空母「龍驤」「隼鷹」を主力とする日本海軍の航空隊による空襲を受け大きな被害を
出したものの、日本陸海軍の上陸を受けることはなかった。また、第二次世界大戦中は
アメリカ軍の北方作戦の中心基地として機能した。ここの奪還をアメリカは危惧した。

1066: 名無しさんAA:18/07/12 23:55
 不思議な事だが、米国はアリューシャン列島を非常に重要視していた。太平洋戦争の
開戦当時の連合艦隊作戦計画では、「占領または攻撃破壊すべき外郭要地」として定め
られていた程だった。これは十分に検討されたものではなかったが、北方のアラスカの
油田が見つかった頃だった。1942年、第一段作戦を終えた日本では、AL作戦も含めた
第二段作戦を立案した。AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、
米ソ間の連絡を妨害し、シベリアにアメリカ軍の航空部隊が進出するのを妨害しようと
するものであった。1942年2月の図上演習では、当時開発されたとの情報があった米大
型爆撃機が、アリューシャン列島の基地から帝都空襲をおこない奇襲に成功するという
結果が示されたことで、同方面の関心はさらに強くはなっていた。同作戦でミッドウェ
ーとキスカ間に哨戒機を往復させてアメリカ海軍空母が近接するのを防ごうという意見
もあったが、殆ど机上論であり、軍令部航空主務部員の三代辰吉も連合艦隊航空参謀の
佐々木彰も霧などの関係から到底そのような飛行哨戒は不可能と考え、全くそうした案
は考慮しなかったと回想している。アリューシャンには、攻撃部隊が空母隼鷹、龍驤を
中心とする空母2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦5隻の艦隊(細萱戊子郎中将、角田覚治少将)
で大湊を出航し、続いて巡洋艦2隻、駆逐艦3隻、輸送船2隻のキスカ島攻略部隊が5月28
日、巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、輸送船1隻のアッツ島攻略部隊が5月29日にそれぞれ出航し
て海戦している。真珠湾攻撃でも暗号が傍受されていたが、その後の海戦でも日本は、
この近くの孤島はあまり気にかけて居なかった。これが日本の敗因となっている。ダッ
チハーバーの空襲は防衛作戦で押収基地の一つとして行っているに過ぎない。アメリカ
軍は暗号解読により日本軍の攻撃を知り、ロバート・シオボルド少将麾下の巡洋艦5隻
、駆逐艦4隻をコジャック島方面に、駆逐艦9隻をウナラスカ島に配備した。しかし、
1942年(昭和17年)6月3日から翌日にかけて、日本海軍機によるダッチハーバーに対す
る空爆やアッツ島、キスカ島の攻略でアメリカ軍を撃退した日本軍は両島を占領した。
これは、アメリカにとって第二次世界大戦における初の領土喪失であった。この事は、
各地で敗北を重ねるだけでなく、アメリカ本土砲撃をはじめとする本土への攻撃を受け
ていたアメリカ国民の士気喪失につながるとして軍および政府は強い危機感を感じた。
6月3日早朝、龍驤の攻撃隊がダッチハーバーのアメリカ海軍基地を空襲し、翌4日日本
軍は再度空襲を行い基地内外に大きな被害を与え、施設や宿舎などを炎上させた。日本
軍は6月6日にアッツ島翌日にキスカ島に上陸し占領した。両島ともアメリカ軍の守備隊
は存在していなかった。アメリカ軍は10日になって、アッツ島、キスカ島に日本が上陸
していることを発見、爆撃機による空襲を開始した。12日には駆逐艦響が爆撃により
損傷した。

1067: 名無しさんAA:18/07/13 00:10
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  121 > 

 実はこの地こそ太平洋戦争の勝敗を喫する所である事を米国も日本も、名のある将軍
は知っていたのだ。よく考えれば簡単な事で、1年2年かけて巨砲の軍艦を作るよりは
この島をもって空母とし戦艦として利用できれば手っ取り早く安価な砦となる。ハワイ
と同じく飛行場と製油タンク巨砲の砲台が幾つも設置されれば、後は食料が自給できて
ばそれで済むのである。こんな手軽な軍艦はない。しかしこの地は暖流と寒流が合わさ
る所で霧が立ち込める要所で この地を守るのも攻めるのにも、既にレーダー開発して
いた米国に利があった。日本が太平洋戦争開戦の決定を各部隊に知らせるために用いた
暗号は「ニイタカヤマノボレ 1208」だったが、これは「12月8日に開戦するので各部隊
は事前計画に従って作戦行動を取れ」という意味の他に、日本が国際社会で更に高見の
地位に登るしかない。との意志や悲痛な声でもあった。それは新高山(ニイタカヤマ)
とは現台湾にある「玉山」という山の日本名での呼称で、当時の日本国内では最高峰であ
った富士山(3776m)より新高山(3952m)と海外が標高が高いものを示す意味があった
。「ニイタカヤマ」は、技術や軍事の高い米国そのものの文化の事だったのである。つ
まり「ニイタカヤマノボレ一二〇八」という海軍の暗号電文は日米交渉は決裂したから
12月8日に決行すると言う意味に、新たな山は危険な所気を引きしめよ。と言う自戒
の訓令でもあったのだったのだ。もともと日本はこうした戦いは好きではない。伝統的
にバルチック艦隊撃沈以来防備で叩くのがやり方だった。アメリカと戦争になった場合
、日本はどのように戦うのか。は何回も想定していただろう。日本海軍は1904年〜1905
年の日露戦争以降、バルチック艦隊の戦法しか眼中になかった。太平洋を隔てた米国を
仮想敵国とはみなさず、米国のみが日本を敵としていた。日本海軍の持っていた伝統的
な戦争では、対アメリカ作戦では充分勝てる見込みだったのだ。太平洋を渡って来る中
アメリカの艦隊に対し、潜水艦等で相手の戦力を減らし、日本近海に来たところで艦隊
主力による決戦によってアメリカ海軍を打倒するというものが、伝統戦法であった。こ
れは、少しずつ相手の戦力を減らし、迎え撃つ作戦で、それを頭に国の防衛戦力の拡大
をしていた。「漸減邀撃(ぜんげんようげき)作戦」と呼ばれて、南洋を砦としていた
戦法だ。軍艦を多く保有することで、日本よりも強大な海軍力を誇るアメリカの力を弱
めつつ対抗しようとしていました。その主眼にあるのは、戦艦を中心の軍艦同士の海戦
で、いわゆる巨砲主義で対抗した船の砲弾より遠くから大きな威力の弾を飛ばせる事が
大事とされていた。対抗した船が沈む沈まないは2の次だったのである。世界中の海軍
が、大きな軍艦になるべく大きな大砲を積むことで、敵の優位に立とうとしていたのだ。

1068: 名無しさんAA:18/07/13 00:18
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  122 > 
 だがこの日本海軍伝統の作戦計画に対して、連合艦隊司令長官に就任した山本五十六
(いそろく)は異論を唱えていた。連合艦隊司令長官は、作戦計画については軍令部(
大本営海軍)の指示を受けているしかし、天皇直属であり、非常に立場の高い地位での
存在でした。アメリカとの戦争に大反対していた山本長官は、アメリカと戦わなければ
ならなくなった場合、先制攻撃によって敵の海軍力の中枢に大打撃を与えて、それ以上
日本と戦う気を失わせることだけが、唯一の取る道だと主張していた。事実もしハワイ
が製油貯蔵タンクも空母も全く撃破していたならば全く違っていたであろう。ドイツは
もっと勢力を増して、もっと日本は徹底的に戦い合い悲惨な結果だったろう。山本長官
がこのような主張をした背景は、日米の国力差を知っていたからだ。アメリカは日本よ
りも圧倒的に経済規模も、工業力も大きく高く、長期戦になれば確実に日本に不利にな
ると予想された。アメリカ・ハーバード大学への留学やアメリカ大使館勤務を経験して
いた山本長官は、その際にアメリカの工業力が日本とかけ離れて高いことを認識してい
たのである。1940(昭和15)年9月の御前会議で、当時の近衛首相に対アメリカ戦の自
信を問われると、「是非やれと言われれば、はじめの半年や一年は存分に暴れてご覧に
入れましょう。ただし二年三年ともなれば確信はありません。」と述べています。ここ
に2・3年すれば確実に日本は敗けますよ。と素直には言えない力が日本の弱さだった
。こうして先制奇襲攻撃を行う事を発案するが山本長官の力はそこまでで、勝つ見込み
は立てられず、航空本部技術部長や空母赤城艦長を務め、航空畑を歴任して、自身がそ
れまで育ててきた航空部隊(空母部隊)による攻撃には自信を深めている。だがそれは
優位な攻撃形態と言うだけで、空母に攻撃機や爆撃機、戦闘機を搭載し、遠く敵本拠地
まで隠密行動で近づいて攻撃する事は、米国でも考えているものと思われ、日本はやら
ないと思われていた。短時間に敵に大打撃を与えられる。と考案された戦略の中でハワ
イ・真珠湾に、アメリカ太平洋艦隊への奇襲攻撃が最も有効である。そう考えた。山本
五十六(いそろく)は名前も珍しいが、実は生まれた当時の父の年齢56歳だった為に
この名を付けられた。本人は気に入ってはいなかった。そんな五十六だったが、生まれ
ながらにかなり頑固な気性で、小学校時代に友人から「鉛筆は食えないだろ。」と冷や
かされるや、ボリボリを鉛筆を食べ始めたといいますから、その負けず嫌いぶりは驚く
べきものだった。しかし、中学生の五十六に将来変える出来事が起こった10歳年上の
親戚の甥で、軍人を目指していた人が病気で亡くなったのである。この死を悼んだ親は
五十六に軍人になることを強く勧め、これを受け、五十六は海軍兵学校を受験すること
となり、200人の合格者中、2位という好成績で難関を突破した。

1069: 名無しさんAA:18/07/13 00:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  123 > 

 当時は本家を護り奉る(たてまつる)。と言うのは習わしだった。つまり次男以下は
この家主や当主の代用品として生かされ、もしもの為の身内筋だった。仮に何名もの代
理が産まれていたら、直ぐに奉公人や養子に出されて育つのが一般的であったのだ。日
本がロシアと戦った日露戦争の最中に、五十六は兵学校を優秀な成績で卒業したため、
少尉候補生として直ぐに戦場に送られる事となった。装甲巡洋艦・日進に配置され、そ
れが彼の配属された船であったが、この初陣は彼にとっては悲惨なものだった。敵の攻
撃により日進は被弾し、五十六は左手・左足を失いかねない怪我を負ってしまったから
だ。場合によっては切断も止むなしという大怪我をするが、奇跡的な回復を果たして、
又海軍に復帰し、その後様々な軍艦で任務をこなして行く。しかしその後艦船の近代化
に声を上げた為25歳の時には、駐在員としてアメリカに渡ることで、見識を広める処
置が海軍では取られた。1913年(大正2年)には、老齢の両親が揃って亡くなっている
。この後、海軍幹部となるための登竜門・海軍大学校に入学を果たした。またこの時に
旧長岡藩家老という由緒正しい家格を持つ山本家を相続することとなり、高野五十六は
海軍エリート候補生、山本五十六としてここに誕生した。32歳で五十六は海軍大学校
を無事に卒業したが、腸チフスに掛かりまたもや生死の境を彷徨う。どうにか命を取り
留め、仕事も順調に進め始めた頃、五十六は友人から紹介された礼子との結婚を果たし
た。しかしながら1919年(大正8年)、再び公務でのアメリカ駐在が決まり、甘い新婚
生活は出来なかった。「アメリカ駐在時代、セントラルパークなどに出かけ、得意のカ
メラ撮影で、米国人の生活やありさまを写し取っている。被写体の多くは、女性と子供
たちであった。」と記憶されていて、平和をこよなく愛している事が解る。留学中には
アメリカ中を旅行して見聞を広め、デトロイトの自動車工場、テキサスなど各地の油田
視察し、メキシコの採掘状況など見学している。メキシコシティの日本大使館で、駐在
武官の山田健三少佐は山本と同郷人で、日露戦争時に山本の兄の戦友と判明し親しくな
った。山田が急遽帰国することになったが旅費が足りず、その窮状に借金していた自前
の旅費を山田に提供している。その為パンと水とバナナの貧乏旅行をしメキシコ政府か
ら、日本の亡命者扱いを受けた。又長官時代油の代わりの代替え油が開発されたとする
詐欺に海軍がかかった。この時も山本は、海軍を相手に「水からガソリン」なんて話を
堂々と売り込だ本多維富を受け入れている。

1070: 名無しさんAA:18/07/13 00:26
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  124 > 

米内 光政(よない みつまさ)は、公私共に山本五十六の上司だった。日本の海軍軍人
だったが、乞われて政治家になった。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一
等。第23代連合艦隊司令長官で49〜52代海軍大臣となり第37代内閣総理大臣となった
。旧盛岡藩士・米内受政の長男として生まれたが、異様な人格者だった。海軍兵学校の
29期に入校。同期生に高橋三吉、藤田尚徳、佐久間勉、八角三郎(中学も同期)らがい
るが、兵学校では「グズ政」という渾名がつく程の文才だった。当時の米内のノートは
記述の質・量が膨大であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度
からアプローチをかけ問題を解決して対処を考えている。これは詰め込み式教育が当た
り前だった海軍教育においては珍しい勉強法で、米内の勉強法を知っていた当時の教官
は「彼は上手くいけば化ける。いや、それ以上の逸材になるかも知れない」と目を掛け
、多少の成績の不振でも米内をかばい続けて何とか米内を海軍兵学校から卒業させた。
後に同期の藤田尚徳は人事局長時代、当時の呉鎮守府司令長官・谷口尚真から「君のク
ラスでは誰が一番有望かね」という質問に即座に「それは米内です」と答えたという。
谷口はそれに「そうか。僕も同意見だ。ただ米内君は面倒くさがり屋で、その面倒くさ
がりの度が少し過ぎてやせんかと思うがね。」と答えたという。ハーバード留学時代に
嵌められた山本五十六について言えば、彼は「嵌められやすい」人材だったのでしょう
私生活もそんな感じである。終戦前に、たぶん良心の呵責と自責の念で精神的に耐え切
れなくなって最後は自殺に近い形で航空移動中南方で行方不明で死んだ事になってる。
それと対照的に、米内光正は山本五十六とは違うとんでもないワルだったと言われる。
1915年(大正4年)に、ロシア・サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官に赴任
しているが、ロシア時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書で、米内は「語学の上
達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、
(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している程だ。ある同期生は「
ロシア語で電話が出来る海軍省内唯一の人」と回想し、佐世保鎮守府参謀時代は「暇つ
ぶし」と称して『ラスプーチン秘録』というロシア語で書かれたルポを翻訳したりして
いた。彼は石原莞爾によく似た境遇に於いて その年代の環境の差だろうか全く違う様
な 対照的思想を持っていた。莞爾が国柱会を得て最終戦争に備える事念頭に戦略があ
たが、米内は、日本のソ連駐在からか日本人の相互扶助的、独善的覇者の国家王道国家
を求めていた。

1071: 名無しさんAA:18/07/13 00:32
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  124 > 

 その後ポーランド駐在員監督を経て1922年(大正11年)、装甲巡洋艦「春日」艦長。
1923年(大正12年)、練習艦「磐手」艦長。と艦長就任で世界を回った。米内はニュー
ジーランドの小学校を訪問した事があるが、もともと口数が少ない方で挨拶をした際は
、「 I'm glad to see you, thank you.」としか話さなかったと言う。1924年(大正13
年)戦艦「扶桑」「陸奥」艦長。1925年(大正14年)、任海軍少将。第二艦隊参謀長で
当時の司令長官の谷口尚真の下に赴いた。谷口があまりにも謹厳であり部下にもこれを
要求したため米内が「河の水棲むほどの清さかな」という句を送っている。それを預か
る谷口は「ありがとう。」とこれを受け取ったという。鎮海要港部司令官になったが、
この役職は「クビ前の島流し」と言われたが、ここでも「帝国海軍の将来を考える時必
ずこの人に大任を託す時期が来ると思う。」と周りの者が持ち上げた。彼の運命はこう
して誰かが庇って護られた人生だった。1936年(昭和11年)、二・二六事件発生の際、
鎮守府に着いた米内は参謀長の井上成美とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、
制圧に動いている。こうして連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に補される。1937年
(昭和12年)、林内閣の海軍大臣に就任したが、米内は軍政が嫌いで連合艦隊司令長官
を就任僅か2ヶ月で退任し海相になるを非常に渋った。周囲には「一属吏になるなんて
、全くありがたくない話だ。」とぼやいていた。当初、林銑十郎は海相に末次信正を望
み、両人間で了解済みであった。しかし海軍次官・山本五十六は前海相・永野修身に、
米内を強く推して軍令部総長・伏見宮博恭王の同意を得て決定したようだ。4月に海軍
大将に進級したが、海相の初期には「金魚大臣」と渾名(あだな)がついた。大臣秘書
官だった実松譲中佐は、米内のあまりの博識に驚き、どこでそんな知識を身につけたの
か質問した。と「鎮海に二年、佐世保に一年、横須賀に一年、官舎でやもめ暮らしをし
ている間に読書の癖がついた。特に鎮海の閑職時代には書物を読むのが何より楽しみで
あった。そして、いま海軍大臣という大事な仕事をするのに、それが非常に役に立って
いるように思われる。人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境
遇を、もっとも意義あらしめることが大切だ。」と答え、永野は「練習艦の米内艦長か
ら教えられているような少尉候補生時代の気分に戻った」と回顧している。これらから
も東洋的な孤立した自主独立道徳主義であり、明治以降の誰でもが開港で夢見たが知っ
てがっかりした日本人の、言わば西洋嫌いの堅物の横顔が見える

1072: 名無しさんAA:18/07/13 00:47
1933年(昭和8年)、佐世保鎮守府司令長官に着任した時友鶴事件が発生した。この
時査問委員会の一人である森田貫一機関中将は、佐世保の米内を訪ねた際、米内は「こ
れは(日本海軍の)根幹に関わることだ。僕はどうなってもいいから本当のことをしっ
かりやってくれ」と言って真相解明に力をいれた。納入業者の財閥の力が強い中で、森
田は「偉い人だ。米内さんが職を賭して徹底解決を推進された。役人根性で責任回避を
謀り、うやむやにしていたら、日本海軍は大変なことになった」と話している。1937年
(昭和12年)6月4日、第1次近衛内閣でも海相に留任した。8月9日に第二次上海事変が
発生した。8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。8月14日に、不拡大
主義は消滅して、北支事変は支那事変になった。その後全面戦争論を展開し、台湾から
杭州に向けて進軍し、更に8月15日には 長崎から南京に向けて海軍航空隊による渡洋爆
撃を敢行した。同日から 8月30日まで、上海・揚州・蘇州・句容・浦口・南昌・九江を
連日爆撃し、これにより日中戦争の戦火が各地に拡大した。こうして1938年(昭和13年
)1月11日の御前会議では、トラウトマン工作 の交渉打切りを強く主張し、「蒋介石を
対手とせず」の第一次近衛声明につながった。とされる。この行動に歴史家は正反議論
があるが、少なくとも時の事情を一番知っていた大臣で、最も日本の為の事だったろう
。何故ならこの進軍が無ければ、もっと大勢の日本人が死んでいただろう。しかしこの
空爆で中国への米国支援が拡大し米国の反日対策が成功したのも事実であった。11月25
日の五相会議で、米内は海南島攻略を提案し合意事項とした。当時の海軍中央部では、
「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識であった、米内
は「対英米戦と海南島作戦の関係性」は承知であり。この件に関し「第二次上海事変で
、出兵に反対する賀屋興宣を閣議で怒鳴りつけ、無理矢理に兵を出しては、シナ事変を
泥沼化させた」「海南島に出兵を強行して日米関係を決定的に悪化させた」という批判
も当然の帰結だった。海軍次官・山本五十六、軍務局長・井上成美とともに、ドイツ・
イタリアとの日独伊三国軍事同盟には、かなり反対している。これらから国際事情も又
よく知り、中国の共産党化も良く知っていて、蒋介石の行動や腹積もりも見透かしてい
る大物だったのだろう。日独防共協定締結に際しての意見は、「なぜソ連と手を握らな
いか」と慨嘆した親ソ派であったと言われる。その為両派の折衷案をひっさげてたのが
馬鹿な松岡だった。ソ連との不可侵条約とドイツと輸出入協定を結んだが、これが国防
協定として米国は宣伝し、米国の反日をあおった。基本的に対ソも対米も外交的に破綻
していたのである。これが中国の蒋介石夫人を始めとする、宣伝工作の浸透だった。そ
こまで中国人に操られる西洋社会はあり、国際社会は馬鹿だったのである。

1073: 名無しさんAA:18/07/13 00:52
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  126 > 

8月の五相会議の席上では、ドイツと同盟を締結し日独伊と英仏米ソ間で戦争となった
場合、海軍として見通しはどうかと石渡荘太郎から問われたが、堂々と米内は「勝てる
見込みはありません。日本の海軍は、米英を相手に戦争ができるように建造されており
ません。独伊の海軍にいたっては問題になりません。」と言下に答えた。この事は大き
く問題になったが、8月30日 昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を止め
たことに対し)良くやってくれたので日本の国は救われた」という言葉を残している。
 同年に豊後水道で潜水艦が沈没し呉鎮守府が引き揚げ作業に当たったが、沈没場所が
水深数百メートルである上に、潮の流れが速いため作業は難航し、外部から経費の無駄
遣いと批判を浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるなら、
やめてしまえ。」と意欲が低下していた。それを察した鎮守府参謀長が海軍省に報告に
行ったところ、当時海軍次官であった山本五十六は「経費はいくらかかってもいいから
しっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように。」と激励した。米内も「次官から聞
いた。御苦労。」とただそれだけ述べた。参謀長は現場に戻り、これを現場に伝えたと
ころ非常に奮起が上がり作業も無事終了した。参謀長は戦後に「あの短い大臣の言葉と
次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している。
 海軍大将の立場で日中戦争を拡大する工作を行い、米軍の原爆投下を天祐(天の恵み
)であると言った。とされ、ある意味まじめな山本五十六と違ってこの人はのうのうと
戦後も生きながらえている。山本は石炭から石油へのエネルギーの転換中のアメリカの
発展する工業力を見聞している。山本は飛行機の発達に注目し、留学時の研究テーマに
選び、飛行機の将来性、飛行機の燃料となる石油への着目は、当時の山本の指導上官で
あり、米国駐在武官であった上田良武(よしたけ)大佐の影響を受けたと考えられてい
る。上田は、帰国後、航空機試験所長など航空畑を歴任し、海軍における航空機開発の
先頭に立ち続けた人物でした。恐らく山本が飛行機について本格的な話を聞かされたの
は上田が最初であり、山本の飛行機への興味は、上田の山本への指導抜きには語れない
とされている。上田良武 (うえだよしたけ) は明治の海軍卿で国連海空軍代表、及び、
ワシントンから第2次ロンドンまでの海軍軍縮会議に案内した海軍代表武官であった。
おおむね大佐・少将が派遣され、百武代表以降、ロンドン軍縮条約随員要員として送ら
れた佐藤代表以外は、パリに派遣された上でジュネーブ入りしている。殆どの代表随員
となる半年前から欧米を出張しており、海外に慣れた人物ばかりである。

1074: 名無しさんAA:18/07/14 18:25
 その後大正10年11月12日開会されたワシントン軍縮会議では、日本は、大きな岐路に
たった。11年2月6日調印・12年8月17日発効したこの軍縮調印は、英国の被害を負った
第一次世界大戦後だった為に、米国や仏国と共に、他国の艦船建造の増強を遅らせる為
の手法だった。世界大戦を無傷で終えた日本は、八八艦隊計画、米国はダニエルズ計画
を推進して海軍の充実や拡大を図る途上にあった。しかし米国では植民地購入の後で、
膨大な予算の浪費において、アメリカの議会背景は猛反対の反応を示していた。世界大
戦の損害を回復する必要がある欧州諸国との戦力比を考慮しアメリカ・イギリス・日本
・フランス・イタリアの5カ国で主力艦の建造量を調整し削減する事を決定することと
した。この条約によって、戦艦・駆逐艦の保有量を固定し、10年間の新戦艦建造凍結
を決定させ英国は経済停滞による新造船の遅れをさせまいと企画したのだった。海軍は
巨大戦艦を5隻既に発注し作っていた。しかしこのあおりを受けて直ぐに、砲台のない
この条約の対抗策として空母に転化した。又、妙高型・ペンサコラ級に見られる巡洋艦
の強力化や、龍驤・レンジャーに代表される新造空母の小型化が生じた。こうして抜け
穴となる空母建造に対してもジュネーブ軍縮会議が持ち出された。昭和2年6月20日
開会し2ヶ月もの議論があったが8月4日に決裂した。二回目のワシントン条約の結果
では、補助艦の強化でも英国では問題視して、その強化や空母および巡洋艦の制限も勘
案されるようになっていたからだ。しかし、国家予算保護のワシントン条約が、大恐慌
対策の米国と、その前の条約と同じに経済の危機を回避せねばならない英国とは、この
局面での建造調整は出来なかった。重巡洋艦重視のアメリカと軽巡洋艦重視のイギリス
が反目してこの条約は決着を見ることなく決裂したのだ。巡洋艦は帆船や石炭の頃は、
旗艦の周囲に置いた浅瀬用の補助艦の流れの軍艦だった。しかし重油によるエンジンで
砲弾の貯蔵が可能になり大型砲台すら可能になっていた。この巡洋艦は1922年のワシン
トン軍縮会議で締結されたワシントン海軍軍縮条約によって、「砲口径5インチ(127mm)
超過8インチ(203mm)以下で基準排水量10,000トン以下の艦」と定義された。これを一般
に条約型巡洋艦と言った。それ以前まで、大日本帝国海軍では、アメリカ合衆国海軍の
新造オマハ級軽巡洋艦の出現に脅威を感じていた。1923年計画艦で1922年11月に起工さ
れた新型の巡洋艦は、直前のワシントン条約に定義された砲口径上限制限の20cm砲搭載
していたからだ。この為日本でも巡洋艦「古鷹」を新造する。それに刺激された列強は
、この巡洋艦が条約上は主力艦のような厳しい保有比率制限を受けない補助艦艇扱いで
ある事を理由に、これに着目し主力艦に匹敵しうる戦力として位置付けて造りだした。

1075: 名無しさんAA:18/07/14 18:27

    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  129 > 
ロンドン海軍軍縮会議でのこの問題は、日本を相手に艦の建造や戦力低下を標榜して
行った意志は同じだったがその中身に於いて大きく違っていた。この会議で締結された
ロンドン海軍軍縮条約において、砲口径6.1インチ(155mm)超過8インチ(203mm)以下の巡
洋艦を「カテゴリーA」、砲口径6.1インチ(155mm)以下の巡洋艦を「カテゴリーB」と
分類し、保有制限枠を設けたまでは進んだ。日本では、前者が重巡洋艦、後者を軽巡洋
艦と通称された。日本海軍の正式な分類では、前者は一等巡洋艦もしくは甲巡、後者は
二等巡洋艦もしくは乙巡である。しかし英国はジュネーブ会議で、うやむやになったこ
の巡洋艦制限問題に決着をつけられなかった。又これをそのままにしておくことも又、
英国を弱くするものだっだ。何故なら無制限に認める事はドイツや仏国の建造も許す事
だったからだ。こうして英国主導の強力なロンドン軍縮会議が開かれた。ワシントン条
約の期限切れが迫り、この会議の準備中に世界大恐慌が勃発した。財政破綻の危機が訪
れていた米国には弱みがかかり、米国軟化で条約は締結に漕ぎつけた。しかし、条約の
非加盟国のドイツがポケット戦艦を就役させて、フランスは対抗艦を建造せざるを得な
くなって、フランスを仮想敵とするイタリアも、フランスに対抗する戦艦の必要性が高
まってこの条約協定には意味がなくなった。直ぐにこの協定は仏伊両国が脱退を表明し
、昭和5年1月21日開会 4月22日調印・12月31日の発効だったが、発効を待たずして
瓦解した。又この軍艦製造には大きな問題が介在していた。それは相次ぐ恐慌の連鎖で
経済破綻した国内で、軍需によるその救済である。こうして再度ジュネーブ軍縮会議が
大国以外も引き入れて開かれる事となった。しかし日本はこの年も問題だった。一つは
一年前の満州事変である。二つ目は1932年2月2日のジュネーヴで国際連盟主催の
ものが一般軍備制限会議として開催された事だ。日本代表には伝統的に陸軍は居なかっ
た。代表団として出席していた海軍における建造制限ではなかったのだ。アメリカ合衆
国、ソ連邦も招集されて64カ国が参加し、これはパリ講和会議以来の大きな国際会議
であった。折しも日本が上海事変を起こし、戦火が中国の大陸本土に拡大している最中
で蒋介石政権のプロパガンダは大いに暗躍して、大日本帝国の表明するアジア経済圏の
脱植民地主義などは全くかき消されていた。もっとも米英ソはこの中国大陸においては
、既に分割接収の話し合いが起こっていて、日本を敵視した政策は固まっていたのだが
。昭和5年すなわち1930年は、日本は昭和天皇が産まれてやっと軍部に天皇の意見
が産まれた時代だった。これまでの勝手な軍部の大正天皇を持ち上げた世界から明るい
希望が産まれていた。

1076: 名無しさんAA:18/07/25 20:21

    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  130 > 

 戦闘中止の会議の成功に国際社会の期待が高まっていた。アメリカは日本の中国進出
に態度を硬化させたていが、イギリスはアメリカとの共同歩調を取ろうとしなかった。
恐慌にあえぐ各国はそれぞれ自国の労働運動の高揚や植民地の独立運動を抑え、ブロッ
ク経済体制を維持するために軍隊の拡大を図っており、ドイツの台頭でイギリスやフラ
ンス、の軍需工業資本家は盛んに軍縮条約が成立しないよう暗躍していた。当然ドイツ
も同じだった。ジュネーヴ軍縮会議はこのようにして始めから失敗を予告されていた。
1930年2月9日に若槻軍縮会議の全権大使は、英放送局から日本へ向けて演説放送
をして初の国際中継放送を日本に送った。これは画期的な広報ではあったが、これは、
日本の争乱の元になった。2月20日に第17回総選挙で民政党273,政友会174,国民同
志会6,無産諸派5,革新党3,中立その他5と言う結果で、民政党圧勝して絶対多数を、
確保したのである。これによって統帥権問題が再燃していた。これは関東大震災で軍部
と行政警察の自治が衝突していたからだ。明治憲法下で天皇の権能は特に規定がなけれ
ば国務大臣が輔弼する。しかしそれは憲法には明記されておらず慣習であった。また、
同じく慣習的に軍令の戦争作戦・用兵や徴兵に関する統帥事務については、国務大臣で
はなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)の大本営本部の指揮下軍部が、
補翼し、何となく分かれて権利行使を行っていたのだ。大日本帝国憲法第11条の天皇
大権で、陸軍や海軍への統帥権は、陸海軍の組織と編制の制度、および勤務規則の設定
、人事と職務の決定、出兵と撤兵の命令、戦略の決定、軍事作戦の立案や指揮命令など
の事細かには規定されていた。陸軍は陸軍大臣と参謀総長に、海軍では海軍大臣と軍令
部総長に委託され、各大臣は軍政権(軍に関する行政事務)を、参謀総長・軍令部総長
は軍令権を担った。しかし明治憲法下ではその天皇の権能は規定が無ければ国務大臣が
輔弼し指令を出せる話だったのだ。が憲法明記がなく、既に慣習的に軍令は国務大臣で
はなく、統帥部が勝手に行っていたのだ。つまり国務大臣が海軍大臣や陸軍大臣を任命
拒否が出来た筈がその事務する参謀総長が実権を握っていたのである。この軍令と国務
大臣が輔弼するところの軍政の範囲についての争いが原因で統帥権干犯問題が発生して
、この明治憲法が抱えていた欠陥が終戦に至るまで解決をしないまま、日本の軍国主義
化を進めて行き、敗戦に至る事になった。この軍縮会議や国連脱退問題も、実は議会を
仕切った国務大臣ではなく、総理大臣の直属軍部としての陸海軍の参謀長合意であった
のである。

1077: 名無しさんAA:18/07/25 20:50
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  131 > 
 写真集『私たちの神父様は写真家』は、ソウル大教区のチェ・スンニョン神父の本だ
。収拾した写真約1千点がある。ソウル大教区古文書庫の責任者だった頃、メリノール
本部の古文書庫の中に朝鮮半島の古い写真を見つけ、複写した編集した本だ。チャン神
父は前書きで「宣教師たちは専門家にも負けない資料を写真として残した。当時、貧し
くみすぼらしかった朝鮮半島の現実が映像として記録されて、明るい子供たちの姿は、
ほほえましい。」と紹介している。2012年朝鮮日報の記事は 「1931年1月26日の朝鮮日
報社会面には、「世界初の試み」が報道された。東京航空輸送会社「エアーガール」、
つまりスチュワーデスを飛行機に搭乗させることにしたという記事だ。この航空会社は
「部屋には綺麗なエアーガール(公衆の女給仕)を乗せ、カクテルと熱いコーヒー・、
茶を勧めることにする先進的計画」を発表したと書いてある。実は世界的にはそうした
給仕女は既に一般的だったがアジアに無かった。「欧米各国ではすでに飛行機の中でお
菓子とお茶を勧めることなどはしている。が、美人が給仕をするのは今回が世界で初め
てである」と書いている。現代文明の花であるとしばらく自慢されてきた飛行機も、最
近では一般的になって普通の一交通機関となったと表現するほどになった。1936年に飛
行機の搭乗人が395人に上って、スピード愛好時代の到来と書いた頃だ。 「このような
雰囲気の中、1937年に、この土地(朝鮮半島)最初のスチュワーデス公開募集が行われ
た。中区小公洞にある日本の航空輸送会社・京城営業所では、「麗人を求める」広告を
出し、エアーガールを募集し、市内で綺麗な処女だけで約七十人が応募した。この試験
を通じて選抜された一人の女性について、記事は「この麗しき処女こそ、朝鮮航空系の
最初に咲く一輪の花であろう」と表現した。1922年(大正11年)以降に内地人向けの教
育に尋常小学校と現地人向けの普通学校が発足させた。普通学校の就学率が、1933年(
昭和8年)でも2割という低率であり、義務教育でもなく、授業料が必要だった当時で
は当然であった。教科書は日本語であったが朝鮮語も必須で、朝鮮の歴史も教えた。校
長は日本人が多く、教員は朝鮮人が主であった。そうして昭和14年にやっと普通学校
も小学校に名称変更され、昭和16年で就学率は55%に上昇した。そうした中の広告だっ
た。中学校、女学校も日本人と朝鮮人は別々とし普通学校からの進学率は4%と極端に
低かったが、大多数の朝鮮人の子どもは、民間で勉強した。じつは李朝以来の初等教育
機関として書堂があり、貴人には初歩の漢文と習字を教えていたのである。昭和4年か
らは、総督府編纂の国語、朝鮮語、算術の教科書を学ぶことになり、日本語を理解する
朝鮮人の割合は、昭和4年8%が、17年24%(台湾62%)、20年35%(台湾70%)と低
率ながらも上がった。しかし大々的な国語普及運動を行ったが成果は挙がらなかった。

1078: 名無しさんAA:18/07/25 20:51
 識字率に関して、朝鮮では朝鮮総督府が公式に識字率を調査したのは1930年の1回限
りなどと堂々と嘘をつく輩がいる。今や資料は朝鮮側が勝手に廃棄したが、明治時代か
ら色々な実態調査は行われていた事が知られている。1930年は朝鮮国勢調査の数字では
日本帝国の支配下で朝鮮は工業化が進み豊かになった。しかし生活実態は、工業従事者
世帯で朝鮮人に占める割合は、1940年でも僅か5%程度だ。つまりロシアへの国債払いに
追われていたのである。工業従事者など賃金労働者の所得は、物価を加味すると、実質
的には向上しなかったとされる。しかし賃金の無い農奴の時代からは飛躍的な生活実態
が起こっていた。朝鮮人と日本人の間にも概ね2倍の給与格差があった。株主会社の持
ち主の9割が日本人であり、日本語の解らない朝鮮職工に与えられ能力差であったとも
言われる。1910年から1918年までこの時期は韓国併合直後で、土地調査を実施
していた。1915年まで一様に伸びたが、1920年に急激に物価も工賃も上がり、
インフレになったが農業生産はそのまま高価にならず安価で食生活が送れた。満州から
の輸入で答えたのである。代わりに輸出したのが繊維だ。日本向けの殖産興業の多くは
朝鮮女工の織物で「フランス人宣教師シャルル・ダレの朝鮮事情では1871年から、
1872年にかけての見聞に、不作で飢餓が朝鮮半島を襲い、国土は荒廃した。あまり
の酷さに、西海岸の人々の中には、娘を中国人の密航業者に一人当たり米一升で売るも
のもいた。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は、惨た
らしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、「どこの道にも死体が転がっている」と訴え
た。しかし、そんな時でさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの食料買入れを許さず、む
しろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく事を選んた。日韓併合後には農地は一割
程度しか広がっていない。ところが農業の生産は飛躍的に伸びて、日本地主の家に農奴
は集まって来た。統治時代の道知事「朴栄」は公平無私なる観察を下せば、いくら日本
の朝鮮統治に反対しても善政である事に違いなく如何に伊藤博文公を毛嫌いしても公の
真意には感謝せざるを得ない」と、ある評者の言である。「究意するに韓国を亡ぼした
のは日本でもなければ之を責めるにも当たらぬ。また当時の李完用始め自余の責任者で
もなければ之を攻撃するの必要なし。」と言った。加耶大学客員教授の基鎬は書いてい
る。十九世紀から二十世紀初め帝国主義、列強諸国時代、暗愚の李朝両班階級は、その
挑戦に直面、固唾を飲んだままで無為無策だった。その失策は、あらためて糾弾すべき
であって、日本帝国主義の植民地へと転落したことについての責任を、他国のせいにす
べきではない。大いに反省すべきなのにもかかわらず、今日にいたるまでいつまでも、
錯誤した常識を放置、愚純の感情に委せているわけで、今日のような歴史の初段は、当
然再発すること、火を見るより明らかである。と危惧している。両班には良かったのだ

1079: 名無しさんAA:18/07/25 22:01

    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  133 > 

「朴泰赫」は書いている。日本人地主は、韓国人の小作人の間で、大きく評判が良かっ
た。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されたし
、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えた。農地開拓と河川整備を
進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。それに日本人地主は、昔の両班
たちよりもはるかに寛容だった。かつての両班のように小作人である常人を理不尽に、
不義や苛める事が無かったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主
のほうが、物わかりが良かった。だから、日本人の地主は人気があった。皆な、韓国人
の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然だった。
日本人の下で働いていた常人たちは、羨望の目で見られ、日本人が所有していた農地は
、独立後には、「敵産」として全て没収されたがしかし、日本人が、今日の韓国農業の
発展の土づくりから基礎を作った事は、否定できない事実だ。と書いた。つまり、農産
高はおろか農地も把握していた。農地はその後1940年まで2万km2 程度の広がった。公
式には0.2万km2しか増えておらず、農地把握にいそしんでいた初めの10年で1.9万km2も
の開墾できたのは、そこが部族の紛争地だったからだ。つまり農地が増えたのではなく
、把握率が上がった。農地として本来の作業が出来たと考えられる。農地とほぼ同じ程
度上昇している農産高も同様です。把握していない農地の生産高は0だったが、その後
管理されを集計ができていたと考えられ。従って統計上では、人口も飛躍的に増えて、
1910年からの10年間で1313万人から1692万人に激増している出生数・死亡数ともに辻褄
が合わない程住民登録が出来たのである。これまで把握していなかった人の所得や生産
高が把握できたのだ。これを問題視したのが両班の朝鮮共産党員であった。明治44年
度末に於ける私立学校現在数は普通学校および実業学校を除き合計約千七百校にして、
近年著しく減少の趨勢を示し、明治44年中設立の許可を与えたるものは39校あるの
みに反し廃校の届出を為したるものは461校の多きに及べり。』(1911年)と声明を
発している。



1080: 名無しさんAA:18/07/25 22:02

『今なお職員の言動が穏当を欠き、その経営また宜しきを得ざるもの尠か
らず。之が指導監督の必要洵に緊切なるものあるを以て、本年度に於ては視学の制度を
設け、私立学校の指導監督を一層周到ならしめたり』と監視無くては何をするかわから
ぬ朝鮮人の姿勢が見え隠れする。今の日本の朝鮮学校の様な問題が朝鮮国内大きく持ち
上がり、共産党思想の教育に多数の宣教師やロシア人やドイツ人共産員などまで入れた
教育をして抗日ゲリラの養成に至っていたのだ。公費を補助し、その実態調査において
『約五百校は外国宣教師の直接間接関係する所謂宗教学校にして、輓今漸次良傾向を示
し」と言う様に危惧され明治44年度末に於ける私立学校現在数は普通学校および実業
学校を除き合計約千七百校にして、著しく減少を示した、明治44年中設立許可を与え
たるものは39校あるのみに反し廃校の届出を為したるものは461校の多きに及べり
。と全く憂国の士は居なく 意固地な廃国ゲリラの巣窟を朝鮮人自らが望んだのだ。



1081: 名無しさんAA:18/07/25 22:03
 韓国政府は、小学校制度に織り込んでいた「義務教育の精神」を全く廃してしまった
と自ら言っている。つまり、教育を朝鮮人に任せたところ、その大部分を占むる長老・
監理両派に属する学校は進んで本府の指示を請い、殆ど全部その教科課程を略普通学校
または高等普通学校の課程と一致せしめ、教科目にハングルの国語を加えてしまい、漢
文を捨てたのだ(1913年版)として『私立学校の整理改善は本府の常に留意する所にし
て年々之が指導監督に力を致すと共に…』『特種の私立学校に対しては国庫及地方費よ
り補助金を交付してその改善に資し、一而、私立学校規則を改正してその方針を明確に
し…(中略)…その校数に於ては年々減少せるも…概して維持比較的鞏固なる学校のみ
存続するの情勢を示し、国語の教授実科の施設に勗むるもの漸く増加し頗る往時の面目
を革めたり。然れども往々にして朝鮮教育の方針に遠ざかるものなきに非ざるを以て、
常に厳密なる注意を加えつつあり』(1917年版)と閉鎖させる事につながった。つまり
朝鮮人達は、嘘を平気でいい、日本からの資金援助を貰いながら独立闘争に火をつけて
ハングルを広めて行って最後は歴史すら嘘をついて由々しき事態に陥ったと言うのだ。
植民地朝鮮で農地造成(土地改良)事業が本格化したのは、1920年に「産米増殖計画」
が開始されて以降のことだった。この計画は、1918年にベラルーシは独立宣言を果たし
第一次世界大戦が勃発していた。この為多くのロシア人や東欧州人が日本に逃げて来た
。この事情で日本はシベリア出兵を決めた。食料は高価で取引され日本国内のコメ不作
は朝鮮の農業振興に一層の力が入れられた。この農業景気或いは食料景気は1910年(明
治43年)に、韓国併合条約が漢城つまり現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用
首相により調印され、韓国併合して以来の好景気をもたらした。この食料供給力を補う
ために開始事業での資本投下は更に朝鮮人の両班の懐を潤した。ところが30年代には、
農業不況にともなって農産物問題は、戦争の終結と共に物価安定化した。朝鮮から日本
国内へのコメ輸出量を抑え、この増量計画は中途半端に中止された。しかし農地造成事
業は、朝鮮における食糧の安定供給ではなく、なにより、朝鮮国内での工業化を果たし
て急激な工業生産の伸びを見せ、1940には化学物生産量などは大きく追い越した。
物価は適度なインフレを保ち主食はコメ需給バランスが崩れて安価になり。「産米増殖
計画」は平和裏の中、大規模な水利事業が実施された。こうして貯水池などの築造によ
って、更に地元の農民は伝統的な水利慣行の変更で殖産興業をして朝鮮半島は潤ったの
である。しかし追いやられた両班達は地元農民をそそのかししばしば水利事業に対する
反対運動をおこした。しかし、日本人大地主や朝鮮総督府の主導によって事業は強力に
推進されたが、ソ連の支援で地下活動やパルチザン活動にはいると中国まで進出した。


1082: 名無しさんAA:18/07/26 17:46
かれてその派閥が二つに分かれていた。「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」
の永田が作った統制派はその一つだった。国家総動員計画を作り上げ国民全体を戦争の
渦に巻き込んだ事務局が作った長州の亡霊集団である。対して陸軍をはぐくんだ天皇護
衛の旧来の日露戦争の遺族の臣下として、乃木将軍などの遺構をしょい込んだ東北など
の反長州勢の志士達、皇道派である。更に開明派とでもいうべき現場重視の九州勢であ
る。台湾をして海外での存在感が高く意向を無視には出来ない大きなものだった。関東
軍はそれに対抗した。宇垣軍縮が始まって多くは左遷され教育総監真崎甚三郎の真面目
さ真摯に受け継いだ者達が集まり集団化しそれぞれに四つの考えたがあった。一つは、
対ソ連戦略をちゃんとして北方の守りを固めたが良いと言う者。一つは中国経営をしっ
かりやるべき。一つはドイツから譲り受けた南洋の委託統治領をちゃんとやれ。と言う
者と3者がいた。しかし、軍上層部のとりわけ大本営をもつ事務局は全く違っていて、
油田地帯とりわけインドネシアやマレーシアの、チェレンバン油田とミリ油田を取って
その油を日本本土へ供給する事が大事だった。中間派の石原莞爾が下手に満州を取った
為に中国国民に抗日意識を高め、米国を反日にさせ、ロシア赤軍とりわけ共産党ゲリラ
のパルチザンを生み出して、米国との外交問題も満州国建国によって壁が塞がり、国内
争乱の蒋介石は政権が保てずアメリカ支援までも取り付ける様相になっていった。この
時点でビルマなど援蒋ルートを叩く事で一層の悪化した戦争にした陸軍だったのだ。勿
論太平洋海域でも多くの者が死んだ。しかし、太平洋が自分だけでは手に負えなくなり
、陸軍を騙して太平洋に連れ込んだと言うのは全く言いがかりでそのままでは陸軍が、
日本をつぶす形になっていたのを、海軍が止めた。と言うのが正しい見方である。現実
にアメリカを程よく太平洋戦争に引き入れ無ければ、敗戦後ソ連フランス英国米国カナ
ダ中国に日本は分割統治領に変わっていた。「言わば、アメリカのスパイだとも言える
、山本五十六とその後ろ盾の米内光政で代表される海軍と言う最悪の組織を持ったこと
が当時の日本の最大の不幸であった。」というのは幻想も甚だしく、未だ「日本陸軍や
大日本帝国が勝つはずの世界大戦だった。」と言う誇大妄想論である。それを知れば、
米内光政の言った原爆は天祐であった発言は正に的を得た発言であり、日本の神風であ
ったのだろう。阿南惟幾大将が、終戦の日当日に「米内と海軍はアメリカの犬」である
ことを今更ながら知り、陸軍が海軍に騙されたとの思いがこみ上げてきて「米内を斬れ
」と言い残して自害したのだ。などと言うのが本当なら、正にこの自害して果てた阿南
こそ「獅子身中の虫」であり、「非国民で皇民の恥」であったのである。

1083: 名無しさんAA:18/07/29 11:39 ID:AHg
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  133 > 

「朴泰赫」は書いている。日本人地主は、韓国人の小作人の間で、大きく評判が良かっ
た。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されたし
、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えた。農地開拓と河川整備を
進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。それに日本人地主は、昔の両班
たちよりもはるかに寛容だった。かつての両班のように小作人である常人を理不尽に、
不義や苛める事が無かったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主
のほうが、物わかりが良かった。だから、日本人の地主は人気があった。皆な、韓国人
の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然だった。
日本人の下で働いていた常人たちは、羨望の目で見られ、日本人が所有していた農地は
、独立後には、「敵産」として全て没収されたがしかし、日本人が、今日の韓国農業の
発展の土づくりから基礎を作った事は、否定できない事実だ。と書いた。つまり、農産
高はおろか農地も把握していた。農地はその後1940年まで2万km2 程度の広がった。公
式には0.2万km2しか増えておらず、農地把握にいそしんでいた初めの10年で1.9万km2も
の開墾できたのは、そこが部族の紛争地だったからだ。つまり農地が増えたのではなく
、把握率が上がった。農地として本来の作業が出来たと考えられる。農地とほぼ同じ程
度上昇している農産高も同様です。把握していない農地の生産高は0だったが、その後
管理されを集計ができていたと考えられ。従って統計上では、人口も飛躍的に増えて、
1910年からの10年間で1313万人から1692万人に激増している出生数・死亡数ともに辻褄
が合わない程住民登録が出来たのである。これまで把握していなかった人の所得や生産
高が把握できたのだ。これを問題視したのが両班の朝鮮共産党員であった。明治44年
度末に於ける私立学校現在数は普通学校および実業学校を除き合計約千七百校にして、
近年著しく減少の趨勢を示し、明治44年中設立の許可を与えたるものは39校あるの
みに反し廃校の届出を為したるものは461校の多きに及べり。』(1911年)と声明を
発している。『今なお職員の言動が穏当を欠き、その経営また宜しきを得ざるもの尠か
らず。之が指導監督の必要洵に緊切なるものあるを以て、本年度に於ては視学の制度を
設け、私立学校の指導監督を一層周到ならしめたり』と監視無くては何をするかわから
ぬ朝鮮人の姿勢が見え隠れする。


1084: 名無しさんAA:18/07/29 11:40
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  134> 

 今の日本の朝鮮学校の様な問題が朝鮮国内大きく持ち上がり、共産党思想の教育に多
数の宣教師やロシア人やドイツ人共産員などまで入れた教育をして、共産党抗日ゲリラ
の養成に至っていたのだ。公費を補助し、その実態調査において『約五百校は外国宣教
師の直接間接関係する所謂宗教学校にして、輓今漸次良傾向を示し」と言う様に、危惧
された。明治44年度末に於ける私立学校現在数は普通学校および実業学校を除き合計
約千七百校あったが、著しく減少を示した、明治44年中設立許可を与えたるものは僅
か39校あるのみに反して、廃校の届出を為したるものは461校の多きに及べり。と
全くこの朝鮮半島が瞬く間に共産党抗日の牙城となり行く姿が出てくる。自国に対した
憂国の士は居なく 意固地な廃国ゲリラの巣窟を朝鮮人自らが望んだのである。この時
韓国政府は、日本が小学校制度に織り込んでいた「義務教育の精神」を全く拒絶し廃し
てしまったと自ら言っている。つまり、教育を朝鮮人に任せたところ、その大部分を占
むる長老・監理両派に属する学校は進んで本府の指示を請いながら、殆ど全部その教科
課程を略普通学校または高等普通学校の課程と一致せしめ、教科目にハングルの国語を
加えてしまい、漢文を捨てて、戦う姿勢に変わったのだった(1913年版)として『私立
学校の整理改善は本府の常に留意する所にして年々之が指導監督に力を致すと共に…』
『特種の私立学校に対しては国庫及地方費より補助金を交付してその改善に資し、一而
、私立学校規則を改正してその方針を明確にし…(中略)…その校数に於ては年々減少
せるも…概して維持比較的鞏固なる学校のみ存続するの情勢を示し、国語の教授実科の
施設に勗むるもの漸く増加し頗る往時の面目を革めたり。然れども往々にして朝鮮教育
の方針に遠ざかるものなきに非ざるを以て、常に厳密なる注意を加えつつあり』(1917
年版)と、朝鮮人自らが日本から金を貰い学校を作り学校の本分を捨て反政府ゲリラの
巣窟とさせ、これまで使わなかったハングルを暗号の様に使う事で、最終的に閉鎖させ
る事につながった。つまり朝鮮人達は、嘘を平気でいい、日本からの資金援助を貰いな
がら独立闘争に火をつけてハングルを広めて行って、最後は歴史すら嘘をついて由々し
き事態に陥ったと言うのが今までの歴史だったと書き記し、100年経った今でも変わ
らない姿にあるのだ。日本が植民地朝鮮で農地造成(土地改良)事業が本格化したのは
、1920年に「産米増殖計画」が開始されて以降のことだったが、この計画は、1918年に
ベラルーシなどでは独立宣言を果たして、第一次世界大戦が勃発していた頃だった。こ
の時多くのロシア人や東欧州人が日本に逃げて来た。

1085: 名無しさんAA:18/07/29 12:09
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  135> 
 この時の多くのユダヤ人が今日の米国金融資本だったり、メジャーと言われる国際企
業の創業者達である。勿論第一陣のユダヤ資本はイギリスより清教徒達と米国大陸に渡
って行った人達だが、彼らはシフに見られるように、屈強の正義感でロシア打倒ボグロ
ム廃止の人達で技術革新で名声や金を新時代の革命に身を投じた清貧の人達だった。が
今回の大陸鉄道を通じて日本経由で米国に行った人は、母国救済を捨てた人達だった。
言わば、力の無い難民達だった。この事情で、国際社会は日本にシベリア出兵を求めた
し、日本がそれを受け入れ決めた。この為、日本ではこれまで安価だった食料は高価で
取引され日本国内のコメ不作からも、尚一層の朝鮮の農業振興に力が入れられた。この
為朝鮮半島では農業は、軍事景気或いは食料景気が起こり1910年(明治43年)に日本以
上の活気に沸き、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用
首相により調印され、韓国併合して以来の好景気をもたらさせたのである。つまりここ
に李斯朝鮮王朝と臣下の金と権力を持った両班(貴族および科挙官僚を輩出する階層)
の力に逆転現象が出来たのだ。つまり守るべき王をすて、王に会いにくる伊藤博文を暗
殺するに至ったのである。この両班・良民・卑賤民と言うピラミッドは壊れる事無く、
良民に入る、中人(技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・常人(一般の農民)と言う
国民階層には不満が詰まっていた。ところがこの食料供給力を補うために開始した事業
での日本の資本投下は、更に朝鮮人の両班の懐を潤したのみで止まった為、下層級には
伝わらず30年代には、農業不況になって現れた。どの産業でも言えるが社員の給与や
生活向上が無ければ搾取者の頂点の社長のみでは産業育成にはつながらない。こうして
農産物問題は、そのまま戦争の終結と共に物価安定化と言う方向が放置された。朝鮮か
ら日本国内へのコメ輸出量は抑えられ、この増量計画は中止された。しかし農地造成事
業そのものは、増産よりは朝鮮における食糧の安定供給に成果を得て、朝鮮国内での国
民疲弊を無くし工業化を果たさせた。こうして急激な工業生産の伸びを見せ、1940
年には化学物生産量などは大きく世界一となり日本を追い越した。物価は適度なインフ
レを保ち主食はコメ需給バランスが崩れて安価になり。「産米増殖計画」は平和裏の中
、大規模な水利事業が実施された。こうして貯水池などの築造によって、更に地元の農
民は伝統的な水利慣行の変更で殖産興業をして朝鮮半島は潤ったのである。しかし、こ
の政策で追いやられた両班達は地元農民をそそのかし、しばしば水利事業に対する反対
運動を台湾に渡航してもおこさせた。しかし、日本人大地主や朝鮮総督府の主導によっ
て事業は強力に推進されたが、それでもソ連の支援で地下活動やパルチザン活動にはい
ると中国まで進出した。

1086: 名無しさんAA:18/07/29 12:32
 この時の多くのユダヤ人が今日の米国金融資本だったり、メジャーと言われる国際企
業の創業者達である。勿論第一陣のユダヤ資本はイギリスより清教徒達と米国大陸に渡
って行った人達だが、彼らはシフに見られるように、屈強の正義感でロシア打倒ボグロ
ム廃止の人達で技術革新で名声や金を新時代の革命に身を投じた清貧の人達だった。が
今回の大陸鉄道を通じて日本経由で米国に行った人は、母国救済を捨てた人達だった。
言わば、力の無い難民達だった。この事情で、国際社会は日本にシベリア出兵を求めた
し、日本がそれを受け入れ決めた。この為、日本ではこれまで安価だった食料は高価で
取引され日本国内のコメ不作からも、尚一層の朝鮮の農業振興に力が入れられた。この
為朝鮮半島では農業は、軍事景気或いは食料景気が起こり1910年(明治43年)に日本以
上の活気に沸き、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用
首相により調印され、韓国併合して以来の好景気をもたらさせたのである。つまりここ
に李斯朝鮮王朝と臣下の金と権力を持った両班(貴族および科挙官僚を輩出する階層)
の力に逆転現象が出来たのだ。つまり守るべき王をすて、王に会いにくる伊藤博文を暗
殺するに至ったのである。この両班・良民・卑賤民と言うピラミッドは壊れる事無く、
良民に入る、中人(技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・常人(一般の農民)と言う
国民階層には不満が詰まっていた。ところがこの食料供給力を補うために開始した事業
での日本の資本投下は、更に朝鮮人の両班の懐を潤したのみで止まった為、下層級には
伝わらず30年代には、農業不況になって現れた。どの産業でも言えるが社員の給与や
生活向上が無ければ搾取者の頂点の社長のみでは産業育成にはつながらない。こうして
農産物問題は、そのまま戦争の終結と共に物価安定化と言う方向が放置された。朝鮮か
ら日本国内へのコメ輸出量は抑えられ、この増量計画は中止された。しかし農地造成事
業そのものは、増産よりは朝鮮における食糧の安定供給に成果を得て、朝鮮国内での国
民疲弊を無くし工業化を果たさせた。こうして急激な工業生産の伸びを見せ、1940
年には化学物生産量などは大きく世界一となり日本を追い越した。物価は適度なインフ
レを保ち主食はコメ需給バランスが崩れて安価になり。「産米増殖計画」は平和裏の中
、大規模な水利事業が実施された。こうして貯水池などの築造によって、更に地元の農
民は伝統的な水利慣行の変更で殖産興業をして朝鮮半島は潤ったのである。しかし、こ
の政策で追いやられた両班達は地元農民をそそのかし、しばしば水利事業に対する反対
運動を台湾に渡航してもおこさせた。しかし、日本人大地主や朝鮮総督府の主導によっ
て事業は強力に推進されたが、それでもソ連の支援で地下活動やパルチザン活動にはい
ると中国まで進出した。

1087: 名無しさんAA:18/07/29 12:37
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  136 > 

日本は日清戦争て勝って朝鮮半島の権益を持った。しかし西洋列強の三国干渉によって
、独立国としての李斯朝鮮の意向を尊重して植民地としなかった。しかし、李斯朝鮮は
事もあろうにロシアに自ら身売りして、ロシアの権益を許したのである。その為1905年
には日露戦争を起こし日本勝利となってもロシアが貸付していた朝鮮の負債の返済に及
んだ。こうして日本が朝鮮王朝の保護国となった事で、日本に対しての請求が出来る様
に日韓併合を国際社会は仕組んだのである。1909年に表面化した李氏朝鮮政府の分別を
欠いた債権返済不足は国際社会の大きな危機であった。多くのユダヤや東欧国家は運営
にその利子配当で国家経営していたからだ。返済延期は許されても返済拒否しロシアへ
の合流は許されなかった。何故なら借り手も貸し手もロシアでは中間金融家は要らない
からだ。大陸鉄道も朝鮮王朝も代金請求先だったのである。当時ロシアのロマノフ王朝
は日本の賠償金も払わない代わりドイツユダヤへの返済も途絶えていた。又ロシアのソ
連邦移行でもその権益と共産党の返済に関して協議が続いている中にあった。朝鮮が国
家経営能力不足で財政破綻し、欧米列強に対する莫大な借金、土地資源の抵当でのロシ
アへの権益移譲の運営財政は益々難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭して
、日本への併合を望む声は国内でも高まり暴動に発展した。こうして露親派や清親派が
交差する朝鮮半島に降り立って現状視察を行う為に降りたったのが伊東博文だった。彼
は日韓併合反対派で、国内の殖産興業と富国強兵をもっと進めて国家予算の負荷を無く
して行くべきと唱えていた。と言うのも日本の国家予算2億円追加を含めて2.6億し
かない一般会計の財政の中で特別会計18億2千万更に遺族補償に2億8千万又次の年
の遺族保証金の予算が必要である。如何に日露戦争の負担が大きかったか50倍以上の
金を払ったと言う事は、今後何もしなくて国家予算を借金返済に充てても50年の損害
である。その上ロシアの借金を背負う事を求めたのが朝鮮人だったのである。まともに
死んだ兵士はその殆どは日本人だった。これが何の原因で起き、誰のせいで戦わなけれ
ばならなかったかは、火を見るより明らかな事で、朝鮮人の日和見姿勢の親露派のせい
だったのである。反対して当然である。国の財政に重きを成した伊藤の心情は察して余
りある中にあった。国の一般・特別会計の日露戦争の戦費総額は18億2629万円のこの捻
出に大きな交渉がある事が懸念された。しかし、1909年10月26日安重根は満州のハルピ
ン駅ホームで、凶弾によって伊藤博文は暗殺された。実はこうした国際金融の仕組みを
伊東博文は日本の中で一番良く知る人だったのである。


1088: 名無しさんAA:18/07/29 16:38
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  137 > 

 これを機に韓国内のソ連への返済金はうやむやにされ韓国併合への流れが加速して、
日本側への返済金となり、大韓帝国は独立国としての形を日本から教えてもらう結果に
なった。本来は印璽すら持たず契約すらせず声明すら発しなかった国として成り立たな
い王朝の後ろ盾などと言うのはあり得ない事だが、当時の日本は富国強兵殖産興業を、
欧米列強の仲間入りしたい最中だったのだ。勿論大陸も又洋務運動など日本の様に考え
る者もいた。しかし日本ほど清廉潔白なまま純粋な技術希求はなかった。1910年〜1945
年大韓帝国の要請を受け日本が併合し韓国皇帝純宗の「請願」で、総理の李完指示の下
で、側近の李人稙が密使として動き、日本が李氏朝鮮の破綻財政を肩代わりして解決す
る合意を取り付けた。自立出来ない未開の地だった朝鮮半島の、誰もが手を付けなかっ
た蛮族の地を、地理的問題から国家経営に乗り出す。日本国内並みのインフラ整備に力
を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを、公私共に資
金や資材や人材を投入、総力を揚げて短期間で日本国内並みに完全整備する事になった
のである。理由は3つあった。もともと日韓併合反対派が多い中、国内的な反発を避け
たかったのだ。更にロシアの復活する前に日本側陣営にする必要があった事だ。更には
既に日本は債権国であった。つまり朝鮮半島経営は一か八かの大いなる賭けで日本政府
を飲み込む程の大事件だった。つまりいくら注ぎ込んでも成功させなければならない物
だったのである。ただの地政学的隣国であっただけで、朝鮮半島は日本の復興資金に、
ただのりして安楽を得たのだった。(明治43年〜昭和20年)李朝末期の韓国は、暗黒の
世界であったが、日本がこの暗黒を破り、光明をもたらした。1890年代〜1930
年代の間の日本人が韓国にもたらした革命的な大改革は、西洋にも当時の朝鮮人社会に
も どれほどまでに賞賛されたことだったか。韓国人が自らの手では到底行えなかった
偉業であった為、諸外国から次々に視察に訪れる程だった。1940年代の化学工業は
一部ではドイツさえ超えていたとある。それが今の北朝鮮にあったのである。しかし、
1929年に朝鮮半島全域で大規模な水害が発生し約700人死亡して約1000人以
上の負傷者が出た。この急激な水害の被災者が出て病気が蔓延した。そして1930年
は不作になっていった。既に植民地政策の頃を通じて、朝鮮においては、日本版鉄道網
などの交通機関が整備されていた上、その後も大規模な水利事業や水力電源開発が実施
され不作なる理由はなかった。


1089: 名無しさんAA:18/07/29 16:39
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  138 > 
 更に化学肥料工業などの重化学工業部門を中心に工業化が急速に進展していて、日本
以上に大陸では化学肥料の流通が起こっていた。それは日本以上に天然の肥溜めは韓国
は大事に隠していたからだ。こうした朝鮮半島への資本投下や発展のそれは、日本の軍
事的要請にもとづくものであり、あるいは朝鮮に賦存する資源を開発して日本に安価で
安定的に供給することをめざすものになっていたかrだ。その中で不作になったのは単
に朝鮮人の悪態や悪行だった。インフラ整備や産業開発に際して、朝鮮人にはあまりに
も多大な幸せをもたらした。時の技術が数世代を超えて日本以上の文化生活がもたらせ
られたのだ。その日本人信仰は宗教に近く敬われた。しかし一方でそれが両班は大きな
不幸をもたらせられていた。多数決と言う強権的な手法で農地解放が採用され、朝鮮人
利害関係者達、つまり昔の権力者の意向はしばしば無視されて過去の権力が蔑みや罵倒
に変わってしまったからだ。この改革的事業の民主化の過程で、生産が個々に変化し生
活の基盤を失って移住を強いられた朝鮮人の中には米国や欧州に渡った人も多くいた。
代わりにチェコのユダヤ人や農奴に土地が取られた赤化革命家などが朝鮮にやって来て
つながった者も多かったのである。インフラ整備・産業開発は、朝鮮経済に大きな変化
をもたらし、農村において、近代的農業や所得水準が出来た。又兼業・副業就業機会が
増え、その結果において、確かに朝鮮農民の所得水準は増えた。しかし両班や地主など
、古来からの農地所有者は逆だった。権利を失う農家が続出し、近代化しない農場主は
借金すらした。その裏で農奴の移動は、朝鮮人地主から日本人地主への農地所有集中が
進んだ。農奴が離反して居なくなったからだ。植民地下での朝鮮では、工業化の急速な
伸展で、非農業部門における労働力市場の展開が起こり、満州やロシア或いは中国の苦
力(クーリー)すら入り込んで競争する時代になっていった。つまり農地を喪失した農
民でも、小作農として農村に滞留せざるを得ない状況に変化した。それが農地の小作料
水準を高止まりさせて、農民の所得水準を停滞させる一つの要因となった。農村に滞留
することさえ困難となった朝鮮農民には、「満洲」や日本に移住して、土木作業などの
中国苦力など最下層民としての労働力市場への参入しか残っていなかったのである。こ
れが朝鮮人は悲劇にしか見えなかった。そこに共産党のソ連勧誘が重なっていた。当時
、京城など都市の雑業者となる者も多数現れた。近代的に流動的市民となった中で貧窮
した農民は、相対的に高価な生産されたコメは商品として輸出され、代わりに「満洲」
から輸入された粟などの安価な雑穀類を購入して消費して暮らした。それでも1930年代
の大洪水で農業不況に陥った、農村に留まることができず、数多くの零細農民が就業機
会を求めて日本や「満洲」に渡り、都市部最下層の労働力市場への参入を試みた。

1090: 名無しさんAA:18/07/29 16:40
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  139 > 

 北朝鮮などでは一部の農民は、森林地帯に分け入って焼畑農業を行い火田民とされた
。あるいは、京城(現ソウル)市内に流入して都市の雑業商人となった者もいた。京城
市街の周辺部には粗末な家屋を立てて居住し、日雇いなど単純労働に従事する都市貧民
(土幕民)の集落が大きく形成された。それでも暮らしぶりは過去に比べてはるかに良
く自由市民になっていった。その変化は海外からやって来る宣教師の報告が、欧州やア
メリカの各所に残っていてその姿を記録している中にも見て取れる。この1929・3
0年の天候不順は、日本の東北地方も、中国の西北地方も 朝鮮半島も大飢饉に陥らせ
ていたが、朝鮮飢餓は比較的には少なかった。米国のシカゴの小麦市場も高止まりにな
るほど世界的飢餓だったが、日本でも世界から見れば小さかった。犬養政権は金輸出再
禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさ
めたのだが、一方では満州事変を黙認した事で、陸軍との関係も悪くなかった。陸軍の
勝手なこの行為は、国際的孤立を日本政府にもたらし、満州国の権益では南満州鉄道な
どの企業を推す政府と中国亡命高官を推す軍部に軋轢が生じていたのである。同時に起
こったこの時の天候不順は、世界的兆候であり、1929年(昭和4年)の世界恐慌にまで
及んだのだ。アメリカのニューヨークより発した大不況により企業倒産が相次いで社会
不安が増し満州事変(柳条湖事件)勃発し農本主義者が海軍による5・15事件を起こ
した。もし日本が日韓併合をしていなかったなら朝鮮人と言う民族はこの世に存在しな
かったであろう。それ程の異常気象だった。河北省では大水害が起きと陜西省では大干
害が起こっていた。被災者3,000万人以上。餓死者900〜2,000万人。陜西
省だけで、100万人以上の婦女子を含む200万人以上が流民となり、70万人以上
の女性や子供が中国人人身売買業者によって奴隷(性の奴隷)として売られた。父権を絶
対視する当時の正統派儒教は、女性や子供の人権を一切認めず単に男の夫や父の道具と
しか認識されていなかった。中国では、人身売買はアヘンの密売と同じく普通に行われ
ていたし、重要な産業であった。中国には、歴史的事実として、人道などは存在しない
。日本政府は、23年の関東大震災に、清朝最後の皇帝溥儀と北洋軍閥の段祺瑞の北京
政府から受けた支援を、恩義として忘れず「人道」の見地から二つの調査団を派遣して
いた。たとえ、現在の国家や政府が反日的侮日的であっても、民衆には罪はないと割り
切っていたのだ。かつての北朝鮮への穀物支援のように。無償で被災民の救済に乗り出
し、一定の効果を持っていた。戦前の日本人は、「敵に塩を送る」事を武士道的美徳と
し、「罪を憎んで、人を憎まず」の天皇神話を信仰していた。

1091: 名無しさんAA:18/07/29 16:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  140 >  
 しかし西洋列強のキリスト教団は、大災害や戦争を布教の好機として救済活動に乗り
出して競う事になっていた。宣教師らは、被災地で人が命を失うのは唯一絶対神の「愛
」を信じない事に対する神の審判である。と糾弾して、被災民達に貧困や困窮から抜け
出すには伝統的民俗宗教や土着的自然宗教を捨て普遍的教義のキリスト教を信仰する事
だと布教に熱心だった。又、キリスト教会は、天皇制度国家日本の救済活動には侵略意
図ありとして反天皇的宣伝をおこなった。これに日本軍部は、被災地の被害状況を調べ
るべく調査団を派遣したが、往々にして妨害された。日本赤十字社は、軍部の協力を得
て、被災民を助ける為に優秀な医師や看護婦達を被災地に派遣した。中国人の指導者達
は、被災した同胞が幾ら餓死しようともペストやチフスなどで病死しようとも気にはし
なかった。というのもこの雑多な文化国家は敵が減るのは喜びとしたのだ。当時の中国
には、疫病や衛生のその知識も制度も意志もなかったのだ。こうして日本軍部は、中国
の風土病やペストやチフスなどの細菌研究にも乗り出した。戦後、この細菌研究は細菌
兵器開発として宣伝され非人道的犯罪と認定されたが、現実的には日本兵保護が目的で
細菌研究をしていたもので、野口英世などを見て解る様に武器になる程の培養や遺伝子
改造などはできないぐらいの技術なのである。この頃正露丸は万能薬だった。正露丸の
成立は、1830年にドイツ人化学者カール・ライヘンバッハが、ヨーロッパブナの木から
木クレオソートを蒸留したことが起源だ。当初は化膿傷の治療に用いられ、後に防腐剤
として食肉の保存などに使用され、更に殺菌効果を期待して胃腸疾患に内服されるよう
になった。日本には1839年長崎の和蘭商館長ニーマンにより持ち込まれ、1856年刊の薬
物書には木クレオソートを「結麗阿曹多(ケレヲソート)」と記した記載が見られる。
また、1866年刊の「新薬百品考」には、結麗阿曹多の製法、効能、用法が簡潔に記載さ
れている。1902年、大阪の薬商中島佐一薬房が戦争の征軍に「忠勇征露丸」の売薬免許
を取得。木クレオソート丸剤に「忠勇征露丸」という商品名がつけられた。一方、日清
戦争において不衛生な水源による伝染病に悩まされた帝国陸軍は、感染症の対策に取り
組んでいた。陸軍軍医学校の教官であった戸塚機知三等軍医正は、1903年にこのクレオ
ソート剤がチフス菌に対する著明な抑制効果を持つことを発見した。 1930年7月
中原大戦では。蒋介石軍60万人以上対反蒋介石軍70万人以上。中立、張学良軍20
万人以上。各軍は、強制連行した数十万人の苦力(クーリー)、数多くの従軍慰安婦(
性の奴隷)、日常品は勿論武器やアヘンなどを扱ういかがわしい商人を多数抱えて行軍
している。彼等は、イナゴの様に食糧等を暴力的に現地で調達していた。気の荒い盗賊
の様な兵士は、駐屯地周囲の地元民から強奪し、抵抗すれば容赦なく虐殺した。

1092: 名無しさんAA:18/07/29 16:46
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  141 >  


 ここで戦場となった地元民は、強盗の様な軍閥軍兵士を兵匪と毛嫌いしたが、それ以
上に見境なく虐殺する乞食の様な中国共産党員を最も凶暴な共匪と恐れられていた。上
海や香港の秘密結社は、不法行為で暴利を得る為に、内戦を拡大させるべく両陣営を煽
り立てていた。ここが中国や朝鮮人の不思議なところである。中国国内は、法秩序を失
い、約2,000万人の匪賊などが横行する無法地帯となってしまっていたが、これを
斡旋していたのだ。この中には、多くの朝鮮の宮廷の下の両班を初めとする既得権益者
は朝鮮を逃れて反日本帝国で離合集散する中に仲間になっていた。中国社会は常に、「
勝って生き残る」か「負けて死ぬ」かの二者択一の実力主義社会として成立していた。
能力至上主義社会で温情などは露ほどもない社会だった。「生きる事」を選んだ中国人
や朝鮮人は、自分本位で金銭を第一とし、損得勘定で行動する為に貧しく弱い被災者を
救済するなどとんでもない事だったのだ。人望があった汪兆銘ら穏健派は、飢餓と疫病
に苦しむ民衆を救済するべく北京で反蒋介石の国民政府を組織するが、理論のみで軍事
力を持たない為に参加者や賛同者は少なかった。武力を持たない者の正論は、負け犬の
遠吠えとして聞こえ誰からも支持されなかったようだ。こうして社会を混乱させるだけ
の部隊を作り有害無益な行動をとった。非暴力・無抵抗や人道などは、犬の糞ほどの価
値もなかった。それを真に受けるのは、無能な日本人だけであった。中華民国最大の内
戦である中原大戦は、買収された張学良軍が味方した蒋介石軍の大勝利で終結したので
ある。戦死者は、蒋介石軍9万人以上、反蒋介石軍30万人以上であった。戦災による
庶民の被害者数は、両軍の戦死者の合計50万人以上といわれている。勝利者は、戦闘
終了後兵士に対し褒美として、3日間支配地で略奪、強姦、殺人、放火の自由を与えた
。軍資金や物資な乏しい中国では、味方であっても負傷者の治療はせず、敵兵への治療
はなおさらしなかった。敗走兵は匪賊として集団となって村や町を襲撃し、略奪しては
戦闘力を軍閥に売り込んだ。集団に入れなかった敗残兵は、盗賊と見なされて民衆の前
に猟奇的に惨殺された。「弱い者」は生きる資格がない社会であり、他人の助けが得ら
れない以上は「個」人として強く生き抜くしかない社会で他人をけっして信用しないの
が掟とする社会であり、他人をむやみに信用するのは無能な馬鹿の証拠とされた。



1093: 名無しさんAA:18/07/30 14:32 ID:gyk
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  142 > 
 1930年 関東庁警察が取り扱った満鉄とその附属地への破壊工作件数は、129
4件。一日30件の割合である。関東軍が取り扱って件数は、運行妨害・貨物被害60
件、電線妨害20件。関東軍も関東庁警察も、破壊工作を止めない反日派中国人への不
満や怒りが増して、蒋介石には中国経営を捨てていた事はこの事実を見ても解り得る。
。1930年の河南大戦。死者は12万人に達し、負傷者は1万9,500人以上、省
外へ逃亡した戦争難民118万5,000人以上。軍に拉致され、軍役を強いられた者
は129万7,700人以上。女は強姦され娼婦として売られ、男は兵士する為に連れ
去れて殺され、男の子は奴隷として売られた。鬼畜のような中国には、人権も、人道も
、良心も、道徳も、何もなかった。そして朝鮮人は共産党幹部として組み入れられそれ
を喜んで指導していた。そこにあるのは、自分だけの「個人の利」でけであった。個の
利の為に、自分の「面子」が存在している。「面子」は「利」であったのだ。中国人に
は、西洋式や日本人の様な戦争と言う意識はない。敵兵捕獲の捕虜収容所は概念すらな
く、食糧や医薬品は貴重品の為に、捕虜が仲間となっても死ぬまで苦力として酷使する
か、あるい味方の兵士として採用しても鉄砲の前で戦わせを殺させるか、その場で猟奇
的手段で惨殺するか。であった。時にはその人肉さえ食する事を厭わなかった。この敵
を殺して生きるか、敵に殺されるか、その二者しか選択はない非情さに日本人は畏怖し
た。中には狂人になった者も多々居たと言う。日本の軍事力は、中国の総軍事力に比べ
てはるかに弱小であり、その装備も中国軍に劣っていた。日本軍の装備は、国際的な軍
縮要請を受けた国会での軍事費削減攻勢の中にあって、日露戦争の賠償金も無く、朝鮮
半島の負担が重くのしかかっていたからだ。その為にそれほど近代化されずにいたのだ
。1931年 揚子江、准河及び大運河流域の16省で大水害。被災者は8,000万
人以上で、死者は14万人以上である。数百万人の難民が、南京や上海の都市部に流入
し、各都市の治安は悪化した。避難民や下層階級の貧民は餓えと寒さに苦しみ、毎朝、
都市では百人近い不運な者が路上で死んでいた。貧困者に、救いのないのが中国社会で
あった。各革命政府及び軍閥の兵士は盗賊(兵匪)と同じで、貧しい無力な農民から女
や食糧を奪い、抵抗すれば容赦なく殺しそして家を焼いた。三光作戦とは、屠城作戦や
清野作戦と同様に、中国民族の伝統的正攻法である。中国大地は、血に塗られた地獄の
様な土地であった。歴史的事実として、中国人は中国人を猟奇的に惨殺していた。何時
の時代でも、中国の歴史では武官や軍人は戦場で残虐行為を行うのが因習であり、文官
・知識人から人殺し集団として嫌われ、社会的身分・地位は低かったが。支配者は常に
この武官の反乱を恐れながら支配していた。

1094: 名無しさんAA:18/07/30 14:33
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  143 >  

 極東アジアでは、文官は武官より身分が高く、文官は戦場へ出ない為に武官より遥か
に残忍であった。役人とは、一般庶民を知恵なき獣人とし奴隷としてあしらい、そして
重税を課して全てを奪い賄賂も厭わなかった。ゆえに、民衆は位の低い役人でも「官匪
」として恐れられた。中国の何れの政府も腐敗し、ワイロと横領が横行していた事実は
その証でもあった。貪官汚吏の横暴によって、民衆は救い様のない地獄生活を強いられ
、悲惨の極地で生きて居たのである。中国人には自力による自浄能力は遥かに無理で、
外的な衝撃のみが現状を改善する唯一の望みであった。その為英国も米国も日本さえも
歓迎された。ヘレン・ミアーズは「調査団が集めた事実を証拠として日本は、中国に対
して世界平和を乱した罪で告発できる。」(『アメリカの鏡・日本』)とさえ言ってい
る。それでも独裁中国には、独裁との認識すらない。戦前には円借款3億円の支払いを
遅延し、そして金を返すのが惜しくなって借金を踏み倒す事に米国を利用した。同じ様
にユダヤにそして共産党に資金を借りた。日本の配慮や思いやりや気遣いが、逆に中国
の強欲を引き出し、そして踏みにじられたのである。円借款は3億円であったが、全く
返さない事で更に追加融資を迫り元利合計10億円に達していた。そして話し合いすら
応じなかった。遂に日本軍部は、貸した金の返還を督促し、渋れば担保を差し押さえ、
最悪の場合は懲罰的に軍事力を行使して返還させる事を検討した。こうして辛亥革命で
清朝が崩壊するや、山東省などの貧困層漢族が大挙して満州に移住した。満州の水田農
耕可能な土地には、すでに多くの朝鮮人が入植し生活していたので混乱や紛争は必然だ
った。新たな入植者である漢族は、華夷意識から、満州族や朝鮮族を下位者と見下して
彼らが苦労して切り開いた土地を次々と奪った。今でもソ連領まで敷地を伸ばし問題と
なった事でもその性格が解るだろう。この事で内乱が起こった。蒙古と漢人と朝鮮族の
戦いである。山東省から出てきた張作霖等は、多数派となった漢族入植者の支持を得る
為に朝鮮人農民への迫害を加えて行った。その上馬賊として勢力を広げ軍閥化して名を
上げた。漢人と蒙古人に媚びを売ったのだ。更に脅しと独立国としての開放協力も約束
した。過去の清朝時代は、漢族の入植が禁止されていた為に、現実的には満州族やモン
ゴル族は多数派でも実権を持たなかった。朝鮮族と漢族は少数派でもこれまで通りこの
地域を治めていた。しかし漢族の大量入植で多数派と少数派が入れ替わり、満州は無法
地帯と化した事で秩序や治安は大いに求めていた。

1095: 名無しさんAA:18/07/30 15:01
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  144 >  

 が、1931年になって中国国民党(中国ファシスト)政権は、非常任理事国に選任
され、ソ連の傀儡と米国の欲望と更にドイツの生存主義を利用して、蒋介石は日本から
離れて動き出す。9月18日の満州事変はある意味国際社会の帰結だった。日本軍は、
中国兵士捕虜を信用して武装を取り上げて故郷へ帰し国際協定や規約に順守した行動を
とった。しかし、帰らない者や帰れない者は特種工人として強制連行し地域復興の為に
鉄道や橋などの建設現場での低賃金の使役の道も残した。戦後、この行為にジュネーブ
条約(俘虜条約)違反の戦争犯罪とされ、多くの日本兵が戦犯として処分された。しか
しこれは言いがかりに過ぎなかった。この事でも、欧米列強は勝手に中国支援と日本排
除を模索してた事が解る。その苦役は多くの日本人と全く同じ条件で同じ賃金だったか
らだ。その後の年金などの生活保障や昇級がなかっただけで日本人に国籍を変えれば又
同じになった。彼らの多くは協定違反には問えない督戦隊の前線兵であったのだ。彼ら
が郷里に帰らないのは、郷里から国民党の強制で差し出された農奴だったので、当然だ
った。中国兵捕虜を信用して武装を取り上げて返した事の馬鹿さは裏目に出た。おなじ
将軍が何度も利口になって襲ってきたからだ。しかし日本には囚人として収監する収容
所を持たなかった。つまりもともと日本軍は植民地とは思っていなく、中国国民党の援
軍として要請によって中国派遣に及んでいたのだ。日本は共産思想やゲリラ思想の南下
が本国に及ばなければそれで良かったのである。しかしその進軍は頼りにされ過ぎて、
羨望された。山東省など華北の被災民は、救済せず戦乱ばかりを繰り返す非人間的中国
人指導者に絶望して、日本軍が支配する安全で安心な満州に逃亡してくる始末だった。

1096: 名無しさんAA:18/07/30 15:01
数十万人の日本人居留民が、中国各地で生活していた。中国政府は、日本人を自国民同
様に見捨て、そして危害を加えていた。国際世論は、中国の主権防衛を無条件で容認し
、日本の自衛権に基ずく自国民保護を侵略行為として盛んに宣伝し、実態調査すらしな
いイエロージャーナルに頼った。そこには欧州戦争の参加の為に、日本の行為は全てに
完全否定し、中国侵略から大戦に引きずり込む意図がアリアリと見える。米国政府も、
軍も記者も民間商社もこぞって本国国民に戦争参加を呼び掛ける為の処置をした。戦前
の日本には、こうした生命財産を自力で守るという正当防衛の権限すらも、西洋列強か
らは認められてはいなかったのである。板垣征四郎や土肥原賢二らは、華北分離作を取
った日本人として、日本国家の国益と自国民を平和的に守ろうとした行為が、何故だか
人道の罪及び平和に対する罪にあたるとしてA級戦犯の汚名を記せられている。市民裁
判的リンチであり、巣鴨で縛り首で処刑されたのだ。ここには画一的に、国際常識が専
ら中国人側を被害者として、日本人を加害者として判断し 昭和6年(1931年)夏に、
満州事変の際、奉天臨時市長となって清朝最期の皇帝の溥儀を隠棲先の天津から脱出さ
せた行為すらも罪としている。全くの間違いである。中国はこうした歴史的事実を全く
知らずA級戦犯を呪い、A級戦犯が祀れている靖国神社の廃社を訴えている。


1097: 名無しさんAA:18/07/30 15:15
 1930年は中国においての共産ゲリラは市民の協力もないままに活発化していた。
これに中国国民党は片っ端から相手して討伐をしていた。しかし、ある年から中共合作
に応じた。これによって7月28日に長沙の日本領事館が中国共産党軍に焼かれた。そ
の後日本軍は中国国民党の意見を聞いてその地を離れた。が同時に、いきなり長沙ソビ
エト政府の樹立を宣言した。つまり中国共産党と中国国民党には既に合意が出来て居た
事になる。事はこれで終わらなかった。日本軍の偽装をして、海外列強の戦艦を攻撃し
たのである。しかしこの共産党軍に列国の砲艦は中国共産党政府を砲撃した。7月30
日の事だった。昭和天皇は、戦争ではなく平和を希望していた。満州事変の不拡大早期
解決を望んでいた。その為、一度は裁可した熱河作戦の取り消しを軍部に求めていた。
しかし軍部は一度は進んでいまったこの作戦を変更する事は出来なかった。これが先の
裁判での、昭和天皇の統帥権問題となったのである。こうして、満州事変不拡大という
希望はうやむやになり、2・26事件でこれをを拒否した形で進んだ。1931年9月
18日 国際連盟の年一回の総会が開催された。中国代表の施肇基は、「中国の主権を
侵害している日本は侵略である。」と激しく非難した。治安を守る部隊がいながら治安
をせず清野作戦しての意見だった。制裁を科す可能ある規約第15条の採択を強く求め
た。これにイギリスのロバート・セシル代表は、中国が終わらない内戦と度重なる災害
で無法状態にあり、過激派民族主義者による日本人居留民への横暴などを知っていた。
これを考慮して、中国側が要求する規約15条を避け、当事者間の話し合いで解決を図
る事を求める規約第11条の採択を求めた。9月30日 国際連盟理事会は、国際紛争
解決決議は全会一致で行うという原則に従い、日中両国に話し合いによる和解を求める
決議が採択された。中国側に対し、日本軍が管理する満鉄附属地外における日本人居留
民の生命財産を保護する事の約束が課されていた。日本側に対し、日本人居留民の保護
が確保され次第、「出来る限り速やかに」軍隊を条約上認められた鉄道附属地に引き揚
げさせる事も提言された。更に新たな事態が生じない限り、次回会合を10月14日と
決めた。しかし10月8日 関東軍は、張学良軍が反撃の為に集結している錦州を示威
する為に、10機程度の軽軍用機で爆撃した。中国側は、錦州爆撃を、国際連盟勧告を
無視した新たな侵略行為と告発して、欧米で反日世論を大いに煽った。国際連盟理事会
に当問題に関する会合を開くよう要請し、反日親中国の国民世論に従って対日強硬派と
して鳴らした、ヘンリー・スチムソン国務長官を事務局のロビーとして送った。だが、
本来アメリカは国際連盟加盟国ではなかったし、全く関係の無い国だった。過度に米国
が中国を支持した理由は、米国の意志通りに、その工作を行い大いに第二次世界大戦の
機運を盛り上げ、軽軍用機の張学良攻撃すらも企画した事を示している。

1098: 名無しさんAA:18/07/30 15:29
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  146 >

 1931年11月になって ソ連の支援を受けた中国は公約通りに、江西省の瑞金に
一党独裁体制の中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立した。毛沢東にしてみれば蒋介石
の了解の上だった。主席は当然毛沢東だった。何故合意の上かと言えば、そもそもの、
盧溝橋事件そのものが中共合作による指令で、蒋介石が軍を動員し、大本営を設置して
、上海周辺に軍の集結を命じたものだったからだ。これを指導したドイツの軍事顧問は
「蒋介石は戦争を決意した」と本国に打電し報告している。そして、上海周辺には、そ
のドイツの顧問の指導で作られた強固な防衛線が築かれていて幾千の日本兵が死んでい
ったのである。このゼークトラインと呼ばれるものは、溝と土塁で幾重にも防いで鉄壁
の守りだと共産党に国民党はわざわざ報告している。作戦の基本「日本軍を挑発して、
上海に誘引して有利な地勢で戦い、出血を強いる」というものが毛の司令だった。この
日華事変の主導権を握っていたの、あくまで蒋介石だったが、自信のあまり、自分の政
権が自分の国で、共産党の指図のまま自分で革命を仕掛けた戦争だった。外務省は、8
月13日までこの国民党外交部の口車に乗り、のんきに交渉を続けていた。陸軍参謀本
部の石原莞爾は、御前会議で昭和天皇から下問されても尚、上海での決戦=蒋介石との
対決を避けようとし上申している程の馬鹿だった。満州事変・柳条湖事件は、石原莞爾
らの関東軍の緻密かつ、入念な事前の計画に基づくものであった。対して、盧溝橋事件
は偶然の発砲が発端となり、また、松井=秦徳純協定により盧溝橋事件はいったん収拾
したように見せた。が1941年(昭和16年)12月までは、双方とも宣戦布告や最後通牒を
行わず、戦争という体裁を望まなかったのみの話であり。現実は相当イカレタ話だった
。国際的孤立を避けたい日本側の意図は利用され、外国の支援なしに戦闘を継続できな
い蒋介石側が工作を仕掛けていて、共産党はその支援体制を整えていた。戦後毛沢東は
ちゃんと蒋介石に送った劉少奇将軍と共に抗日戦線の布告の声明を行ったと話している
のである。この蒋介石声明を無視していただけであり又蒋介石側も明快に共産党と協定
で行っているなどとは言えなかった為に日本を攻撃すると声明を発したに過ぎなかった
。この時日本側では多くは共産党と国民党が一体である事を知っていた。


1099: 名無しさんAA:18/07/30 15:29
それを石原な
どはもみ消した。軍部も紛争が勃発した当初は北支事変と称して政府を詐欺た。1937年
の第1次近衛内閣の閣議決定で支那事変を正式の呼称とした。1941年12月に上海抗戦で
負けて、敗走し重慶に逃げ込んで、共産党員に護られて蒋介石の重慶政府が出来ると、
すぐさま日本に宣戦布告し、事変が戦争にエスカレートしたが、当然だったが、石原な
どの懐柔策で米国の中国支援が見えなくさせていた。これを受け、東條内閣は10日の
閣議で大東亜戦争の一部に含めることを決定したのである。日本の占領地域内には既に
中華民国臨時政府(北京)や中華民国維新政府(南京)中華ソヴィエト共和国臨時政府
(延安)中華独立政府(安徽)台湾自治政府(台湾)などの勝手な自治政府が誕生して
いた。


1100: 名無しさんAA:18/07/30 18:13
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  148 > 

それでも彼は、それ以上もそれ以下もない機関士のみの人だった。武昌以来、革命軍を
指揮して来たと言う自負はあったが、帰国して中国革命を成し遂げた孫文やそれに仕え
た段祺瑞の様な、才能や知見のある政治家ではなかった。皇帝治政時代、これまで革命
派を弾圧してきた黎元洪は、暫定的な司令官に任命され、渋々軍政府湖北都督に就任し
た黎元洪だったが、清朝の軍機大臣(総理大臣)である袁世凱との対座し停戦交渉を行
い、いつのまにか革命の中心人物となって躍り出ていた。しかし、革命派内部は、武昌
派と上海派に分かれていてそれをまとめる程の器量はもっていなかった。そこにアメリ
カから帰国した中国革命同盟会の孫文が推され、人望から一本化されて、1912年に南京
で中華民国臨時大総統に就任した。この時黎元洪を妥協案として副大総統に就任させる
事にして新中国政府が出来た。ところが黎元洪としては面白くなく、袁世凱を担ぎあげ
て「第二革命」を起こし袁世凱の軍事力の前に孫文を排除したのである。広すぎる中国
の地方の思い思いの勝手な強権は、これ以来ずっーと吹き荒れるのである。器量の狭い
黎元洪から始まる中国の国難の始まりだった。こうしてやむを得ず孫文は日本に亡命し
た。袁世凱の死は、本来なら北洋軍の側近の段祺瑞・馮国璋・徐世昌らが大総統を継い
で「袁世凱の後継者」声を発するべきだった。が、帝政復活宣言以来反乱まで起こした
梁啓超ら南方の護国系が納得せず、北洋軍閥内にも、多くの派閥があり一応は国内平穏
には黎元洪が、無難な人事であったのである。この時まで指導者は中国統一、国内和平
を望んで、身を引いた知見を持っている指導者の姿や思想があったようだ。しかし「中
華民国の後継者」をアピールできた黎元洪は袁同様に大総統府の長であるとして、国務
院の段祺瑞を排除して、政事堂国務卿が握る実務権限を自分のものにしたのだ。こうし
て段祺瑞が下野した途端に、北洋軍閥系の督軍が続々と中華民国からの独立を宣言した
のである。如何に北洋軍閥で孫文と段祺瑞が信頼され期待されていたかが解る。ここで
中国指導者は派閥のない非参戦派の張勲に督軍団との仲裁を依頼して国内を武力鎮圧し
、張勲は此処に立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せた。しかしこの康有為は皇帝君主
を回顧夢見ている軍人であり、清朝宣統帝を復位させてしまうのである。迷走を続ける
ままの中国国家にまともな人間は居なかったのだ。ここでアメリカが蒋介石を担ぎ出す
用意をするが、その前に黎元洪はドイツ資金での工作を続けている。袁世凱の息子と、
黎元洪の娘と結婚していて国際関係も国内事情も良かったからだ。



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