何でも書こう


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何でも書こう

1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

1301: 名無しさんAA:18/08/21 16:17
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  347 >   

ただただ南雲中将の不幸は日本型のいい加減な指令にあった。1942年5月アメリカ
太平洋艦隊が真珠湾のアメリカ海軍への攻撃では、速度の遅いものは倒したが、最新型
の航空母艦は打ちもらしていた。戦争舞台が両国の中間に位置する島ミッドウエー島に
移った時、アメリカの前哨基地には、沈んだはずのアメリカ空母ヨークタウンがいた。
数週間前に日本海軍の爆撃を受けていたはずだったが、被弾の応急処置をし、穴に木の
杭を打って、ほとんどの攻撃をふせいで寄港していたのである。日本では、修復に対す
る考えが違い、船員は修復しないで後で機械工にまかせて直していた。アメリカの場合
には危機管理があった、下士官でも修理する。日本は命令を待たねば何もできなかった
。簡単に沈まないヨークタウンは直ぐに修理され、第二次大戦の中でも重要でドラマチ
ックな修理完了をしていた。不眠不休、真珠湾、24時間で完了。3つの空母がそろっ
ていた。又数学者ジョセフ、ロシュフォート中佐は暗号解読と言う功績まであったAF
という場所はどこか。ミッドウエーの故障を平文で流した結果、反応したところミッド
ウエーがAFと判明した。この時流したデマの水不足が電波に乗ったのだAFは水飢饉
だと。こうして攻撃目標を知るに至る。ここで南雲中将の不幸が始まったフレッチャー
の作戦が、始まり日本艦隊のミッドウエーへの爆撃機が飛び立つのを待っている中に、
飛び込むのだ。これは全く蜘蛛の巣にかかった餌状態だった。爆撃機が戻り再装備をす
るタイミングを見計らい攻撃した。1、南雲艦隊をミッドウエーに向かわせ爆撃計画し
アメリカ艦隊をおびき寄せ、そこを攻撃する。2、次に零戦の航続距離の長さを、作戦
に活かし日本船艦でアメリカ艦隊を殲滅する。南雲艦隊は直線的にミッドウエーに向か
った。50万平方を7機で偵察した結果アメリカ艦隊を見落とした。アメリカ艦隊は4
倍の偵察機と最新鋭レーダーを送った。ミッドウエーから22機。偵察機は日本艦隊を
とらえ隠れた。ミッドウエー島のレーダが爆撃機をとらえると島からアメリカ雷攻機が
日本艦隊に向かう。アメリカ雷撃機は新人で日本の戦闘機にほぼ落とされた。しかし、
それも作戦だった。ミッドウエーでの攻撃は既にばれていた、迎え撃つことは予定され
たので爆撃機は壊滅した。日本爆撃機側は、再度爆撃を日本艦隊に打診した。やっとそ
のとき日本偵察機が400キロ先にアメリカ艦隊を発見。電文の結果日本艦隊は、ミッ
ドウエー爆撃を中止しアメリカ艦隊に応戦を決定。対艦爆弾に積み替えは1時間かかる
。南雲は積み替えを兵装転換を指示した。当燃料はガソリン。攻撃機を格納庫にもどし
外した対地爆弾を横に積んだ。

1302: 名無しさんAA:18/08/21 16:17
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  348 >   
発艦の瞬間は近づいたが、アメリカ雷撃部隊がせまった。戦闘機の援護は全くなかった
。零戦から雷撃機は打ち落とされた。一発でもあたれば日本艦隊は沈むところだ。あと
45分で爆撃機が出れる。第一次雷撃機が出撃の90分後フレチャーは第二次攻撃機の
17機を発艦させた。今度は戦闘機と共に攻撃にだした。ジョンサッチ少佐はジョンサ
ッチ戦法を編み出していた、2機で飛行し1機がおとりになるが、2機目がそれと入れ
替わって真直ぐ標的をとらえると言う戦法だ。ゼロ戦を研究しサッチウィーブと呼ぶこ
の戦法は研究尽くされ練習までしていた戦法だった。それも又モノハン事件で開発され
た対日本戦法でロシアが数量に任せて編み出したものだった。その為日本の零戦は、雷
撃機を攻撃する余裕がなかった。この第二次雷撃機機のパイロットは、新人ではなかっ
たが飛び立てないまま空母加賀に4発の魚雷が命中。ブリッジが吹き飛んだ。1分後に
航空母艦蒼龍(そうりゅう)に命中した。赤城は回避した。3機のドーントレス急降下
爆撃機に狙われた。リックベストの一発が赤城の真ん中に命中。格納庫に直撃。260
人が一瞬で焼死。5分で3隻が大破。旗艦を捨てた。南雲は、このとき撤退を選ばなか
った。偵察機がヨークタウンを発見。零戦18機中13機が対空砲に被弾。ヨークタウ
ンに3発命中させた。日本側は、ヨークタウンの黒煙を見て沈んだと思い込んだが以前
の経験があったため、ヨークタウンは可燃物を投棄していた。燃料火災の対策法は、水
をかけると飛び散る、水は使えないその為米国は消火用の炭酸ガスで火を消した。あら
かじめ炭酸ガスを仕込んでいたのである。日本側の木造甲板は既に知りつくされ、米国
は自沈を避ける用意までしていたのだ。日本側にも15機の残存機があった。15機が
発艦した。ヨークタウンはすぐに修復を終えた。日本機は、修理を終えた状態のヨーク
タウンを攻撃した。結果船体が傾いた。日本側は、2隻の船を沈めたと勘違いをした。
しかし魚雷を無駄にしただけだった。ヨークタウンは戦闘不能になりフレッチャーは用
心の為下船した。さらにヨークタウンからは偵察機が離発着が出来た。敵の残存兵力を
探そうと発艦したのだ。3時間後に飛竜を発見した。アメリカ船から魚雷が発射された
。最後の空母は大破し、結果日本側4800人が死亡。275機を失った。こうして、
太平洋の制海圏を争った関が原は終わり、日本の制海権は大きく失う目にあった。これ
は大本営本部のいい加減な作戦と進化のない技術の為だった。日本に炭酸ガスの消化法
や最新鋭のレーダーなど装備は不十分で、空母の鋼板すら厚さが違っていた。その上、
太平洋の制海権を大本営は暗号解読されて既に自ら無くしていたのを知らなかった。代
わりにこの戦果によってアメリカは戦時体制を進めて海洋進出の早い船出を果たした。

1303: 名無しさんAA:18/08/24 12:46 ID:uH.
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  349 >   
----当時の海軍から見て、陸軍はアメリカ軍より憎い相手だった。「原爆の投下は天佑
だ」と言った米内光政の言葉の意味を、「これで、アメリカ軍より憎い陸軍をやっつけ
ることができる」 と言う喜びの言葉だったのだ。と旧陸軍の帰還兵士には聞こえた。
アメリカ軍の日本占領は、米内光政にとってまさに友軍が来たようなものだった。----
こんな事を書く輩すらいる。が真実は違っていると思われる。第一南雲氏の作戦も牟田
口中将の作戦も双方にあるのは大本営作戦指令そのものが、全く勝手な言い分に覆われ
ていた書かれた作戦だった事だ。南雲には失敗はなく。ミッドウエー海戦すらも偵察が
出来ない事ぐらい解って居る筈で、これもどちらかと言えば不運だったと言えるような
敗戦である。レーダーの知識すらない大本営の作戦部隊は水を石油に変える詐欺に会う
程、只の馬鹿だったのだ。ただ、牟田口中将の場合は、すぐ傍に優秀な佐藤幸徳師団長
を持っていたし、川辺司令官をまだ説得させる術は残って居たであろう。作戦にしても
ダダ広いこの中ビルマ戦線をもっと分析して援蒋ルートを叩く事が出来た可能性がある
。しかし、対して洋上の南雲の場合は、海の上で大本営が持つ暗号解読や他からの情報
が命でもあった。臆病な山本五十六をどんなに威圧しても、或いは米内光政を批判して
も恐らくこの隠したがる大本営の変わらない方針では海軍の敗戦は誰がやっても変わら
ない。当時、大陸は陸軍、太平洋は海軍と言うような縄張りに次第に決まっていたらし
いが、何も好き好んで海軍は戦争拡大策には取り組んでいない。そもそも、米山や山本
の様な知見を持たずに総理大臣になった東条英機の様に、国際社会相手に日本はうまく
戦えると勘違いしたような石原莞爾や阿南惟幾のような者を沢山産んだ陸軍思想に問題
がある。アメリカ武官として駐在し、ハーバド大学にも留学した山本五十六やソ連駐在
で悲痛なソ連の思いを知っていた米山達は、当然世界の広さや偉大さや強さを知ってい
た。ところが陸軍に於いては、あれほど広い原野のシベリア出兵を果たして悲惨な目に
あいながらも、精神論を捨てずに先端科学技術を持つとして、中国を画策していたドイ
ツとは離れられず、駐留武官の教育先に指定したまま共産党の赤化思想を蔓延させてい
た。これが、まだまだ人種偏見と原野開拓を行っていた米国や、既に貴族社会の優雅な
建物の中で様式生活を整えた欧州の勢力争いの中のドイツ思想とでは、おのずと染み入
る感覚が違っていた。日本の海軍と陸軍の方針や知見や感覚が違っても仕方がないが、
それが又日本のこの大戦の起因であり敗因でもある。中国では朝鮮以下に海外留学生は
帰って来ないで毛沢東や蒋介石が幅を利かせて独裁主義で人を動かしていた。日本は形
は独裁主義での天皇直属の皇軍だが、天皇に意見を求める事は殆どなかった。意見は軍
内で統一しは難しい決定でもはかる為に立ち会う事ののみだったのだ。

1304: 名無しさんAA:18/08/24 12:57
山本五十六がやったことは、何もかも中途半端で、無責任極まりないと批判される。ハ
ワイの真珠湾攻撃において、工場の攻撃は無視し、修理施設にも事実上手をつけなかっ
た。重要な燃料タンクも攻撃はしなかった。ハワイを攻撃すれば、世界の非難を浴びる
ことは必定だし、そもそも主力の空母もいないオンボロ戦艦を沈めたところで、米軍の
兵力に殆ど影響を与えないだろうと言うことは素人にも分かることだった。それでも、
陸軍海軍を含めた大本営指導部はその方針を変えなかった。山本五十六はハワイが米国
の太平洋における重要な戦略拠点であるから攻撃したと言うならば、なぜ徹底的にその
基地を破壊しなかったのかが疑問として残る。と言う話をする馬鹿がいる。しかし海軍
に与えられた陸軍の要請は、日本が南方を侵略している時にアメリカ太平洋艦隊の主力
が横から出てきて邪魔しないように数ヶ月抑えておく、と言うのが対米開戦の主旨であ
り米国を叩く事ではなかった。この開戦にあたっての海軍に与えられた大命題は和解の
出来る開戦だった。それを山本は周囲の反対を押し切って真珠湾攻撃という大作戦で果
すしかないと言ったのだ。本当の開戦ならサンフランシスコやワシントン空爆と全戦力
の米国上陸が一番良いだったはずだ。しかし日本は米国はもとより、中国さえも占領な
ど考えていなく、油供給の通行確保のみだった。海軍のこの作戦で日本軍の南方作戦は
予想以上にスムーズに完了している。つまり真珠湾攻撃での海軍に与えられた目標は、
完全に達成されし成果を挙げた。そもそも米国を叩く事が目標であれば米国本土に陸軍
も大部隊を送りやって米国本土決戦を望むのが一番正しいやり方だった事は当然だった
。世界最終戦争を叫びながらも、南方の領土拡張に終始固執した陸軍の矛盾にその敗因
があった。既に明治開国以来からカナダやワシントンなどにロシア艦船は領土取りに出
てアラスカを獲って売って居る。つまり日本も本来のアメリカ決戦太平洋戦争と思って
いれば、当然アメリカの占領に行って売りつけても良かったのである。逆に山本五十六
や米内などに、アメリカを刺激せずにアメリカと戦え。などと言う陸軍の思い付きの方
が中途半端な事だったと知っていたのだ。ここに軍部破綻の原因がある。陸軍は途中で
国民総動員法をかけたが、他国に囲われたドイツの真似事で、日本はあくまで職業軍人
でミッドウェー海戦し、当然勝つべきはずの海戦をするべきだったのだ。当時の日本海
軍機動部隊はハード、ソフトとも名実ともに世界最強の部隊で「物量」でもアメリカを
圧倒していたのだから。南雲と参謀たちが艦隊司令部から大本営命令がされずに、勝手
ににやっておれば勝っていたのだ。しかし、日露戦争以来連戦連勝で頭に血がのぼって
いた軍部と艦隊司令部は陸軍との競争意識で、現場認識も甘く、多くの電文は解読で知
れ渡って、筒抜けの作戦で、飛んで火に行くなんとかと同じになり、意味の無い海戦を
強いられた。恐らく暗号解析や作戦司令が無ければ、勝っていた海戦だったろう。

1305: 名無しさんAA:18/08/24 13:01
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  351 >   

 アメリカ海軍も勝ったのは「偶然だった」「幸運だった」と言っている。つまり暗号
解読が幸運をもたらしたのである。こうした事は、決して、商船を護衛しなかったので
なく陸軍の勝手で護衛できなかったのである。--海軍は陸軍の補給路を保つこともやら
ず、護衛も一切しなかったため、大半の陸軍の船はアメリカ軍の攻撃を受けて海の藻屑
と化した。阿南惟幾ならずとも陸軍は「海軍に騙された」との思いが極めて強かった。
--と言う意見を持つ陸軍の兵士に大きな問題がある。陸軍内にも4つぐらいに意見が分
かれてその派閥が二つに分かれていた。「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」
の永田が作った統制派はその一つだった。国家総動員計画を作り上げ国民全体を戦争の
渦に巻き込んだ。この戦争形態は大本営が作った長州の亡霊集団である。対して陸軍を
はぐくんだ天皇護衛の旧来の日露戦争の遺族の臣下として、乃木将軍などの遺構をしょ
い込んだ東北などの反長州勢の志士達が、皇道派であった。更に開明派とでもいうべき
現場重視の九州勢もいた。いわゆる満州とつながった上海駐留や台湾駐留の事務局干さ
れ族だ。海外での存在感が高く、国内でも意向を無視には出来ない大きなものだった。
関東軍はそれに対抗した。宇垣軍縮が始まって多くは左遷された教育総監真崎甚三郎の
真面目さ真摯に受け継いだ者達やシンパが集まり集団化してそれぞれに四つの考えたが
あった。一つは、対ソ連戦略をちゃんとして北方の守りを固めたが良いと言う者。一つ
は中国経営を満州経営をしっかりやるべき。一つは、ドイツから譲り受けた南洋の委託
統治領を中心にやれ。と言う者と3者がいた。しかし、大本営や軍上層部のとりわけ、
外務省と海外協調もつ事務局は全く違っていて、油田地帯のインドネシアやマレーシア
の、チェレンバン油田とミリ油田の原油ストップをどうにか再開若しくは日本国利権で
その油を日本本土へ供給する事で頭が一杯だった。中間派の石原莞爾が下手に満州を取
った為に中国民に抗日意識を高めてしまい、米国までも反日にさせ、ロシア赤軍とりわ
け共産党ゲリラ応援するパルチザンを生み出して、何もかも行き詰ってしまっていた。
とりわけ米国との外交問題も、何故か満州国建国によって壁が塞がり、国内争乱のもと
蒋介石は政権が保てずアメリカ支援までも取り付ける様相になっていったのだ。この時
点でビルマなど援蒋ルートを叩く事で、一層の悪化した戦争にした陸軍だったのだ。勿
論、太平洋海域でも多くの者が死んだ。しかし、太平洋が自分だけでは手に負えなくな
り陸軍を騙して太平洋に連れ込んだと言うのは全く言いがかりで、そのままでは陸軍が
、日本をつぶす形になっていたのを、海軍が止めた。と言うのが正しい見方であろう。
今の安倍政権の忖度内閣をみれば、これが如何に戦前の軍部と同じであるかを感じとれる

1306: 名無しさんAA:18/08/24 13:14
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  352 >   

 現実にアメリカを程よく太平洋戦争に引き入れ無ければ、敗戦後の日本の分割統治は
ほぼ出来ていてソ連フランス英国米国カナダ中国に日本は分割統治領に変わっていた。
「言わば、アメリカのスパイだとも言える、山本五十六とその後ろ盾の米内光政で代表
される海軍と言う最悪の組織を持ったことが当時の日本の最大の不幸であった。」とい
うのは、陸軍の幻想も甚だしく、未だ「日本陸軍や大日本帝国が勝つはずの世界大戦だ
った。」と言う誇大妄想論である。もし陸軍が当初のごとく中国経営をうまく収めてい
たら、共産党への蒋介石つながりを絶っていた。問題なく米国と蒋介石のつながりもな
かったであろう。日本が終戦出来ずにずるずると、一億総玉砕などといっては兵器も何
も無しに国民に無駄死にを増やしていたのは陸軍の巨大権力である。それを知れば米内
光政の言った様に原爆は天祐であった発言は正に的を得た発言であり、これに怒る軍人
こそが戦争の本質をわすれた世迷い事なのだ。この原爆も悲しいかな日本の一つの神風
であったのだろう。と思わざるを得ない。”阿南惟幾大将が、終戦の日の当日に「米内
と海軍はアメリカの犬」であることを今更ながら知り、陸軍が海軍に騙されたとの思い
がこみ上げてきて「米内を斬れ」と言い残して自害したのだ。”などと勝手な事を言う
のは許されない。もし本当なら、正にこの自害して果てた阿南こそ「獅子身中の虫」で
あり、「非国民にして皇民の恥」であったのである。この自害事件を潔いなど言う言い
方もできようが、後にも先にもそれだけであり、全く、そうした軍人を育てた戦人訓の
教育と総動員令にこそ大きな弊害で、戦争の為の物だった。元々阿南惟幾は全くもって
軍人に相応しくない人間だった。人格的には異常なほど清廉潔白でありながらも、全く
戦略や知略に乏しい人間で、彼らは統制派にいいように利用される皇道派の代表であっ
たのだ。

1307: 名無しさんAA:18/08/24 13:14
人格的には異常なほど清廉潔白でありながらも、全く
戦略や知略に乏しい人間で、彼らは統制派にいいように利用される皇道派の代表であっ
たのだ。彼は大分県竹田市玉来出身であって、父の阿南尚は、内務官吏として転勤を繰
り返したため、幼少時は東京、大分の竹田、徳島などを転々としながら育った。本籍は
竹田市に置かれままで移り住んだ。早くから陸軍将校を志望していたが、徳島中学校時
代に当時第11師団長であった乃木希典陸軍中将の助言があって、陸軍幼年学校を受験
して合格した。その後阿南は乃木を終生の模範として仰いでその行動は規律に溢れてい
たらしい。1929年(昭和4年)8月1日から1933年(昭和8年)8月1日までは侍従武官を務
めており、当時の侍従長は鈴木貫太郎であった。阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念
を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかったという。事実鈴木は終戦の
日本を作った人だ。阿南は先の南雲や河辺と同様に、多分清廉潔白で不器用な明治の軍
人だったのだろう。陸軍を背負い動けなかったし米内が海軍を背負っていた事で双方に
心の内では尊敬していたと思う。鈴木はそこを知っていて何回も御前会議で降伏会議を
した事がこの感謝の気持ちであろう。鈴木はそれだけ懐のある偉人だったしそれで日本
は救われた。


1308: 名無しさんAA:18/08/24 13:36
人格的には異常なほど清廉潔白でありながらも、全く
戦略や知略に乏しい人間で、彼らは統制派にいいように利用される皇道派の代表であっ
たのだ。彼は大分県竹田市玉来出身であって、父の阿南尚は、内務官吏として転勤を繰
り返したため、幼少時は東京、大分の竹田、徳島などを転々としながら育った。本籍は
竹田市に置かれままで移り住んだ。早くから陸軍将校を志望していたが、徳島中学校時
代に当時第11師団長であった乃木希典陸軍中将の助言があって、陸軍幼年学校を受験
して合格した。その後阿南は乃木を終生の模範として仰いでその行動は規律に溢れてい
たらしい。1929年(昭和4年)8月1日から1933年(昭和8年)8月1日までは侍従武官を務
めており、当時の侍従長は鈴木貫太郎であった。阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念
を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかったという。事実鈴木は終戦の
日本を作った人だ。阿南は先の南雲や河辺と同様に、多分清廉潔白で不器用な明治の軍
人だったのだろう。陸軍を背負い動けなかったし米内が海軍を背負っていた事で双方に
心の内では尊敬していたと思う。鈴木はそこを知っていて何回も御前会議で降伏会議を
した事がこの感謝の気持ちであろう。鈴木はそれだけ懐のある偉人だったしそれで日本
は救われた。


1309: 名無しさんAA:18/08/24 13:37
阿南が大佐時代は侍従武官として昭和天皇に仕えていた。昭和天皇の人柄や気持ちを誰
よりもよく知り、昭和天皇に対する忠誠心は陸軍随一と言っても良いほどの明治の軍人
だった。終戦時「大君(天皇)の 深き恵に浴みし身は 言ひ遺すへき片言もなし」と言
う辞世の句を残している。阿南は陸軍大臣の職にあり。昭和天皇が早期終戦を望む中、
陸軍の徹底抗戦・本土決戦の声の代表だった。陸軍大臣である阿南は立場上、天皇の意
に反した徹底抗戦を叫ばざるを得なかった。しかしその理由は阿南自身の長沙作戦にあ
った。侍従武官を辞した後は近衛歩兵第2連隊長を経て東京陸軍幼年学校長となった。
1936年二・二六事件が発生して、鈴木侍従長も襲撃され重傷を負った時、阿南は広報で
、幼年学校生徒への訓話をして「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、
まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え。」と叛乱将校を厳しく批判し、軍人は政治にかかわ
るべきでないと説いて同化したがる青年を止めている。この活動が天皇の目する所とな
った。日中戦争中に重慶政府を叩く為に、湖南省の長沙周辺で香港奪取の作戦が行われ
たが、1941年の9-10月にかけて行われた第一次長沙作戦について、第11軍司令官とし
て阿南惟幾中将は大きな成果を収めていた。ところが支那派遣軍総司令部内で「長沙作
戦がかえって敵の逆宣伝の材料になっている。」との声が耳に入り、阿南軍司令官は鬱
憤を募らせていた。この頃太平洋戦争の開戦によって中国戦線が戦争の主戦場で無くな
った風潮が広がり、これを恐れた阿南軍司令官は、態勢を整えるよう訓示を行った。し
かし、第一次長沙作戦後、重慶国民政府は長沙の不落を宣伝し、湖南省・長沙の重要性
を再認識していた蒋介石は、第6、第9戦区の軍長・師長を南岳へ招集して督励した。
第9戦司令長官・薛岳上将は、戦区内の官僚・軍人代表を長沙に集め、軍民一体による
戦備の強化を訴え、その防衛方針として「天炉戦法」と名付けた後退決戦の戦略を示し
た。それは道路の徹底破壊、中間地帯の焦土化(空室清野)、伏撃地区の縦深配置など
で敵との戦力の逆転を図り、決戦地区(長沙付近)に誘い出し日本軍を四周から「天然
の炉で鉄を溶かす」ように包囲殲滅するという戦略だったが、これが受け入れられた。
この時日本は、中国国民がこの重慶政府を既に中共合作によって北京を追われた亡命政
府とは思っていなかった。中国人も又ほぼ理解していなかった。ある者はこの戦いは、
ゲリラ共産党との戦いで、日本軍の戦いすら認識がなかった者も数多くいた。本来なら
阿南惟幾の役割は、汪兆銘政権(おうちょうめい)の南京政府と国家建設と平安な生活
の政治活動により中国人民を掌握する活動に移行すべき時だった。しかし阿南惟幾は、
そうした事は苦手で不見識であった上その認識すらなく、蒋介石の武力闘争にのって、
武力平定のみの日本式の征伐しかなく 謝ったら戦争は終わりとする考え方しかなかっ
たのである。

1310: 名無しさんAA:18/08/24 13:38
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  354 >   

 既に大本営作戦本部は、1940年から1945年にかけて存在した南京政府に、行政院長の
役(首相)は汪兆銘として首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政
府(なんきんこくみんせいふ)とも呼ばれ初めていた。彼は既に病身であったが日本通
のはずだった。しかしこの阿南には、聞く耳は持たなかった。いや理解する頭脳が無か
った。第一次長沙作戦の成功をみて、第一次長沙作戦の態勢を整えるよう訓示していて
この方針に基づいて中国の日本軍は動いていた。一方国民党軍は既に人民を助けるなど
と言う考慮は微塵もなかった。共産党ゲリラと同じ戦法で、立去った後には、青野作戦
による放火略奪惨殺で原野に戻し、人も食料も森林も橋も失くして立ち去る戦法であり
、恐怖と威圧で防御を固めていた。新牆河―汨水の間の地域が伏撃・誘撃地帯、瀏陽河
―撈刀河間の地区が決戦地区に指定され、各部隊が配置されていた。この事を考えれば
、阿南には他にやり方があったはずだった。また湖南省の民衆は道路の破壊、水田の蓄
水、食料の運び出しなどの作業に総動員されて、保甲制度等の民衆組織を強化して準備
を整えていた。これら民衆組織は、土木作業などの外に密偵の役割も果たし、狼煙をあ
げて日本軍の接近を知らせた。道路破壊・陣地構築・輸送・警戒連絡などに動員されて
いる。数多くの諜報員がいた日本軍にも、抗日に働いた民衆は20万人以上に達していた
事は知れた筈である。つまり阿南はこの時今の国民政府の非道を広報すればよかったの
だ。だが中国軍の挑発に騙されて第二次長沙作戦を作っていたのである。ここでも東京
の大本営司令部の命令がその動きに自由さを止めている。12月8日になって、華南の
日本軍(第23軍)は香港攻略作戦を開始した。が、この背後を衝くため中国軍(第4軍
・暫編第2軍)が、長沙付近から広東方面への南下を開始したのである。これを知った
第11軍では、すぐさま中国軍の南下を牽制する作戦が検討され、12月13日に阿南軍司
令官が即座に作戦を決裁した。第一次長沙作戦が事前から周到に計画準備された作戦で
あったの対し、今回の作戦は咄嗟に決心されたものであり、弾薬・食料・医療品・輸送
手段などの準備は十分に整っていなかった。にも関わらず決済した。ここが阿南の馬鹿
さだった。第二次長沙作戦は当初、香港作戦に策応する形で開始されたのだが、香港の
戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の当時に、軍港としての香港を使用する為に、
日本軍と供に香港を植民地としていたイギリス軍を追い払う為に行われていた。


1311: 名無しさんAA:18/08/25 17:19 ID:sFs
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  355 >   

 香港奪取作戦は日本側作戦名で「C作戦」としていた。日本軍の作戦本部は、九龍半
島の攻略に数週間を見込んでいたが、英国軍側は準備不足の中で城門貯水池の防衛線を
簡単に突破され九龍半島から撤退した。ところが海軍側で、香港島への上陸作戦が行わ
れ、18日夜から19日未明にかけて突然陸戦隊は占領に行った。島内では激戦となっ
たものの、イギリス軍は給水を断たれて25日に降伏するに至った。この間、日本軍は
わずか18日間で香港攻略を完了した。こうして海軍陸戦隊の上陸作戦が華々しく成果
を挙げて、東南アジア戦線における日本軍の優位が確定した事に、陸軍上層部は焦りが
阿南にあったとされる。12月24日にこの報を聞いておらずに、第6師団と第40師団は
新牆河の渡渉を開始した。両師団も中国軍の頑強な抵抗に遭い、夜襲を繰り返して、や
っとその陣地を突破していた。第3師団と澤支隊は25日早朝から攻撃前進を開始した
。実は九龍半島は、水脈の多い沼地の大地で多くの大河が走って海に流れていた。陸軍
の行進はその渡河には多くの労力が必要で本来は意味のない事であった。12月25日にな
って、香港のイギリス軍が降伏した報が来たため、岳州の戦闘司令所にいた阿南軍司令
官は、翌朝漢口への帰還を予定していたが、しかし、26日は悪天候で出発できず、阿南
軍司令官は帰還を見合わせ、陸軍の体面から長沙進攻への熱意を燃やし発破をかけた。
ここで執念のごとく熱意を燃やした事が間違いの本質だった。汨水の南岸の中国軍は、
第37軍( 第60、第95、第140師)第99軍(第92、第99師)と判断され、29日からの
攻撃が予定された。第3師団は汨水の渡河を急ぎ、12月27日の昼に時間を繰り上げて、
渡河を開始した。対岸の第99軍はトーチカ・既設陣地から頑強に抵抗したが、重火器の
援護をうけた第3師団各部隊は、その抵抗を排除して、28日夜までに渡河、第37軍の
背後にまわる追撃を開始した。第6師団は12月26日夜から、第40師団は29日から汨水
の渡河を行ったが、河は数日続いた雨雪のために増水し、架橋作業の渡河には数多くの
困難がともないながらも、渡河を果たした。渡河完了後も、南岸地区の中国軍は険しい
山地の地形を利用して頑強な抵抗が行われた。12月30日夜、第40師団後方では輜重兵第
40連隊が敵襲を受け、連隊長森川敬宇中佐が戦死した。その為中国は諜報作戦で、第40
師団内では、汨水渡河後に作戦を打ち切って反転するという噂が流し、これが帝国陸軍
の弾薬の消耗を早めてしまう一因となった。この過酷な進軍は日本軍を消耗させた。

1312: 名無しさんAA:18/08/25 17:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  356 >  

こうして、日本陸軍は何ら作戦もなく、広い中国大陸で進軍を繰り返したのみだった。
又九龍半島での香港攻略戦で、捕虜となったイギリス軍は11,000名。内訳はイギリス人
が 5,000名、インド人が4,000名、カナダ人が2,000名もあった。捕虜達の証言によれば
、イギリス軍は半年間は持ちこたえる構えで食糧弾薬等を準備していたという。だが香
港はわずか18日間で日本海軍によって攻略された。香港の戦いで捕虜となった将兵は
香港内に設置された捕虜収容所へ抑留されたが、維持出来る体制はなく本国に移送され
た。これが又間違いだったと言える。日本、台湾の捕虜収容所は国家総動員法によって
日本中の若者が徴兵対象となり戦地に送られ、国内や台湾など軍需産業に携わる人員の
不足をきたしたため、それを補うため各地の捕虜収容所から各地の産業の従事に送られ
た。捕虜は多くの記録を残しているが、多くは過酷な鉱山労働だったようだ。この頃に
大本営は陸軍の暴走に手を焼いていた。第一次のカ号作戦(ソロモン島奪取作戦:南洋
作戦)から第二次サ号作戦(インパール作戦:インド洋作戦)は、全く想定はあったも
のの、軍本部の司令の範疇ではなかった。その為C作戦で既に第11軍部隊が汨水南岸
の第37軍包囲作戦を進めている頃に、阿南軍司令官は長沙進攻に、慎重な意見を述べ
る参謀を説き伏せる為、深夜まで説得する一幕があった。これ以上の兵員は融通が利か
ないものだったし、軍規違反の連続とも言えたからだ。しかしこの作戦に熱意を燃やし
ていた阿南は12月27日になって、第11軍の参謀部は、支那派遣軍総司令部に長沙進攻
の許可を求めて、武漢警備中の独立混成第9旅団を、戦場へ呼び寄せてまでいる。しか
し総司令部からの返事は阿南軍司令官の期待したものではなかった。この混成旅団では
武漢警備を旨として、和平を築くことに本分があった為中国軍追撃は本末転倒の話だっ
たのだ。更に、二日後の12月29日、第3師団の豊嶋師団長は、軍司令部に対して「長沙
進攻」を意見具申した。この日に阿南軍司令官は「独断専行」による長沙進攻を決心し
て、長沙方面へ向かう追撃を命令したのである。この長沙進攻の命令を受け取った第3
師団は、第37軍に対する包囲移動をやめると、すぐに長沙への突進を開始した。一方
、突然の命令を受け、すでに第3師団が長沙へ向かっている事を知った第6師団長神田
正種中将はこの事態に憤慨した。第6師団と第40師団は新牆河の渡渉を開始し香港島
奪取を終えたばかりだったからだ。やむなく、罠をはる中国軍に不眠不休による進撃を
再度開始した。がしかし、汨水の線までは、到達しても情報・兵站の十分な準備もない
ままの長沙への進攻を開始した為多くの混乱を生じていた。これは阿南の我が儘だった

1313: 名無しさんAA:18/08/25 17:20
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  357 > 

 中国軍の作戦に乗って、日本軍は、前回の第一次長沙作戦に比べ歩兵戦力が3分の2
以下という小さな兵力で進軍するに及んだ。それに比べて前回の負けた事で前回の勢力
を考えた布陣で中国軍は待ち構えていたのである。こうして、完全に準備を整えていた
中国軍30個師の蟻地獄の巣の中へ飛び込んでいっていた。前回作戦では実際に中国側
へ与えていたダメージは小さく、更に中国側が防衛準備を進めていたことを、日本側は
見誤っていた。と言うよりは調査や情報を取らなかった阿南の独自のこの作戦に日本軍
(第11軍)は振り回された。その為日本の損害は多く戦死1,591人、戦傷4,412人で、
あった。またその削られる欠員の大きさは重かった。この作戦で中国軍に与えた損害は
、遺棄死体約 28,612、捕虜1,065人である。と報告されているが、しかし重慶国民政府
の広報は、この戦いを利用した広報活動だったが、長沙会戦における完全勝利を宣言し
、日本軍の損害を死傷56,944人、捕虜139人、鹵獲品多数 と発表し、内外に対し戦勝の
宣伝に努めてアメリカ・イギリス両国からの祝電を受け取るに至っている。つまり勝っ
ても負けても、この戦いが徹底した重慶政府の蒋介石の首を取ら無ければ米英の援助が
待っている事を解らなかったのだ。この阿南の仕掛けた戦争で、大きく中国が蒋介石の
政府になる予想や期待を与えたし、それを目標の戦いだった。この為在米移民や国内の
華僑などが蒋介石側につき、全国民から寄せられたとされる義援金や戦勝祝賀献金は、
250万元以上に達したと発表した。これが太平洋戦争の開戦以来の、敗北が続いてい
た連合国陣営の中で唯一日本軍を撃退した「勝利」となって一定の政治的な力をアメリ
カ国内に持たせた光になった。第6師団長神田正種は後に「本作戦は阿南将軍の統帥と
しては、一寸拙かった。予は、阿南さんの人格に絶大な尊敬を持つものであるが、この
作戦計画にはどうも同意し兼ねる。」とし、第40師団長青木成一は「思い出したくも
ない、第二次長沙は恐怖の一言に尽きる」と評した。だた彼は陸軍内の派閥に属してお
らず政治的に無色であったことが評価され、敗戦の愚将で責任も取らず阿南は、戦中に
は地位を得てしまっていた。本来なら勝手な行動と規律違反の軍法ものだったはずだ。
これが阿南の後悔の過去とならなかった。阿南は戦争とはそんなものと思っていたのだ


1314: 名無しさんAA:18/08/25 17:21
 1941年(昭和16年)1月、大本営と支那派遣軍は、重慶政府は既に可笑しな行動にあ
った事に作戦変更が迫られた。満州事変以降から日本を敵対していた為、蒋介石政府に
中国を平定すれば日本は引き揚げるとまで条件を出してトラウマン工作を行っている。
それは日本にとっては攻撃さえなければ中国など要らない物だったからだ。南方の石油
資源の確保。それのみの話だった。だが重慶政府は違っていた。蒋介石は毛沢東の司令
の通りに国内平定の為の国内紛争が必要だった。つまり敵が無ければ団結出来ないと見
ていたのだ。又日本も一枚岩では無かったし、中国には日本が信じられていなかった。
信じていても共産党主義にどう対処すべきか解決法は見つからないままだった。しかし
米国の締め付けは厳しく、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明、ハワイ時間12月7
日)に、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾に至った。実はこの至った原因が
この中国の制裁を加えんととした陸軍の動きにあった。盧溝橋事件からの日中戦争の中
で、1941年9月18日から10月6日の間に湖南省の長沙周辺で行われた日本陸軍の作戦で、
長沙を拠点とする中国軍第9戦区軍に、日本の第11軍が打撃を与えた。これが長沙作
戦である。当初の作戦呼称は加号作戦(後に長沙作戦と命名)。中国側呼称では第二次
長沙戦役(または第二次長沙会戦)という。しかしこの時の日本軍の長沙方面への作戦
に対しては、1941年(昭和16年)6月22日に独ソ戦が開始した事で、7月2日の御前
会議では『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を採択しており、独ソ戦が有利に進展した
ら武力を行使して北方問題を解決するとの方針を決定している。これに基づいて7月7日
に関東軍特殊演習の大動員令が下り、第1次動員として13日に内地から 約300の各部
隊を動員、16日には第2次動員として14個師団基幹の在満州・朝鮮部隊を戦時定員
の充足かつ内地より2個師団を動員、北満に陸軍の膨大な兵力と資材が集積された。陸
軍は、ソ連との戦争を念頭とした態度案を海軍側に提出、陸海軍間で話し合いが行われ
るも、文書から「対ソ開戦」の文字を削除するように海軍側が迫り、5日に妥結した。
これを受け、大本営陸軍部と関東軍は1941年8月9日に年内の対ソ開戦の可能性を断念し
た。しかし、ソ連側はこの情報を得ていて、ナチスドイツがモスクワに迫る中救援に迎
えなくなっていたのである。その後、兵力は充実させたが南方進出方針の決定により、
対ソ戦は行われず満蒙国境警備のみを行うに留まった。その後、太平洋戦争の中期から
島嶼防衛のために南方軍に対し関東軍から兵力・資材の引き抜きを始めた為に末期には
本土決戦のためにさらに兵力・資材を引き抜いて、満州在留邦人でその穴を埋めていっ
た事が解っている。結果的にこの時の、関特演で集められた根こそぎ動員で集められた
兵員・資材は大戦末期まで決戦を迎えることなく、本来とは異なる役目を果たすことに
なった。

1315: 名無しさんAA:18/08/25 18:43
 1941年(昭和16年)1月、大本営と支那派遣軍は、重慶政府は既に可笑しな行動にあ
った事に作戦変更が迫られた。満州事変以降から日本を敵対していた為、蒋介石政府に
中国を平定すれば日本は引き揚げるとまで条件を出してトラウマン工作を行っている。
それは日本にとっては攻撃さえなければ中国など要らない物だったからだ。南方の石油
資源の確保。それのみの話だった。だが重慶政府は違っていた。蒋介石は毛沢東の司令
の通りに国内平定の為の国内紛争が必要だった。つまり敵が無ければ団結出来ないと見
ていたのだ。又日本も一枚岩では無かったし、中国には日本が信じられていなかった。
信じていても共産党主義にどう対処すべきか解決法は見つからないままだった。しかし
米国の締め付けは厳しく、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明、ハワイ時間12月7
日)に、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾に至った。実はこの至った原因が
この中国の制裁を加えんととした陸軍の動きにあった。盧溝橋事件からの日中戦争の中
で、1941年9月18日から10月6日の間に湖南省の長沙周辺で行われた日本陸軍の作戦で、
長沙を拠点とする中国軍第9戦区軍に、日本の第11軍が打撃を与えた。これが長沙作
戦である。当初の作戦呼称は加号作戦(後に長沙作戦と命名)。中国側呼称では第二次
長沙戦役(または第二次長沙会戦)という。しかしこの時の日本軍の長沙方面への作戦
に対しては、1941年(昭和16年)6月22日に独ソ戦が開始した事で、7月2日の御前
会議では『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を採択しており、独ソ戦が有利に進展した
ら武力を行使して北方問題を解決するとの方針を決定している。これに基づいて7月7日
に関東軍特殊演習の大動員令が下り、第1次動員として13日に内地から 約300の各部
隊を動員、16日には第2次動員として14個師団基幹の在満州・朝鮮部隊を戦時定員
の充足かつ内地より2個師団を動員、北満に陸軍の膨大な兵力と資材が集積された。陸
軍は、ソ連との戦争を念頭とした態度案を海軍側に提出、陸海軍間で話し合いが行われ
るも、文書から「対ソ開戦」の文字を削除するように海軍側が迫り、5日に妥結した。
これを受け、大本営陸軍部と関東軍は1941年8月9日に年内の対ソ開戦の可能性を断念し
た。しかし、ソ連側はこの情報を得ていて、ナチスドイツがモスクワに迫る中救援に迎
えなくなっていたのである。その後、兵力は充実させたが南方進出方針の決定により、
対ソ戦は行われず満蒙国境警備のみを行うに留まった。その後、太平洋戦争の中期から
島嶼防衛のために南方軍に対し関東軍から兵力・資材の引き抜きを始めた為に末期には
本土決戦のためにさらに兵力・資材を引き抜いて、満州在留邦人でその穴を埋めていっ
た事が解っている。結果的にこの時の、関特演で集められた根こそぎ動員で集められた
兵員・資材は大戦末期まで決戦を迎えることなく、本来とは異なる役目を果たすことに
なった。

1316: 名無しさんAA:18/08/25 18:43
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  360 > 

 帝国日本軍が太平洋戦争開戦後(S16・12・8)以後に、初めて「軍事的敗北(
任務達成失敗)」した戦いは何か。と言う問いに、正確に長沙攻略の失敗と答える日本
人が一体どのくらいいるだろうか。心の師匠の著書では「香港攻略作戦支援のために、
長沙攻略を実施するのは『隅田川の火事に田園調布の消防車が出動するような愚挙」と
書いている。実の所「香港攻撃部隊を挟撃すべく、かなりの部隊がこの地域から南下」
していた。作戦目的そのものは、そうおかしくは無かったのだが。ただ、ここで問題な
のが用意不足と情報不足、考慮不足の攻略部隊司令官である阿南惟幾中将の行動だった
。阿南は一年前の同様の作戦をやった時「長沙を一時占領して撤退」したのを「日本軍
、長沙攻略失敗」と誇大宣伝されてよほど頭にきたらしく、全開の作戦よりはるかに劣
る戦力&補給体制であるにも拘らず、「南下部隊の牽制のみならず、長沙攻略作戦を実
施」するというムチャな決断をした。実際の第一次は香港島奪取で海外の影響は大きく
これで止まれば、日米開戦もなく捕虜交換の申し出があった可能性すらあるし、日本の
威厳もそのままで、あったはずで連合国の中国支援も取り下げられたのかも知れない。
ところが火に油を注ぐように阿南は行動と言動を取った。国際社会でギリギリの境目に
居る日本の立場も考えずに、陸軍色に染まって天皇の意見すら聞かなかったのである。
その動きは中国側にバレバレで、中国軍は香港攻略戦が早期終了したのを受けて「南下
部隊を急遽呼び戻し、日本軍進撃路側面にアンブッシュ体制(日本側はこの可能性すら
考慮せず)」を敷き、正面には囮部隊を配置するという「軍団レベルでのイア・ドラン
渓谷状態」を長沙近辺に出現させていて、その結果はご想像の通り「香港戦の2倍近い
犠牲を払ったあげく、長沙にすらたどり着けず、『軍団レベルでの退却』を強いられる
」惨憺たる日本軍敗戦の結果となってしまった。これはモノンハン事件より悪かった。
 阿南司令官は、別宮暖朗さんによれば、かなりのろくでなしだった。その後彼がこの
作戦の責任を取って予備役編入となってたら、日本の歴史は変わっていたかも知れない
。軍司令部も1941年9月18日から10月6日の間に何故第一次長沙作戦(だいいちじちょう
ささくせん)を行ったのか。よく南方の石油を盗る為にとは言われるだが、それなら、
ハワイ占領の方が手っ取り早いし交渉の種になる。日米の国力差は開戦前の時点で、ア
メリカは日本に対してGNPで10〜20倍の国力差があり、石油生産量で700倍に
及んでいた。


1317: 名無しさんAA:18/08/25 18:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  361 > 

 陸軍の、盧溝橋事件(7月7日)により始まった華北(北支)での戦闘は、4日後に行
った松井-秦徳純協定によりいったんは収拾した。停戦協定が結ばれたものの、7月25日
の廊坊事件で停戦が破られる。その後は立て続けに26日の広安門事件で日本人に犠牲者
が発生し、29日の通州事件では民間人を含む230名が虐殺された。 武藤章や田中新一ら
拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。この事件以後華中(中支)
において交戦が拡大することになった。予想外の総力戦となった日中戦争は泥沼化し、
解決の目途が立たなくなっていた。そのため日本は南進を行い、中国国民党への物資の
補給路を断ち、石油などの戦略物資を入手することで日中戦争の解決を図ろうとした。
南進が欧米の反発を買うことは必至であったが、欧州は第二次世界大戦の勃発により、
東アジアより後退していたため、アメリカへの対策が問題となった。そこで日独伊三国
同盟や日ソ中立条約を結び、アメリカを包囲することで南進への反発を抑えようとした
。しかしアメリカはこれに強く反発し南進を認めず、日米開戦へと至った。第二次上海
事変は日中戦争と呼ばれる物だ。上手く行くかと思われた中国経営が、突然の蒋介石の
政変劇で共産党征伐を止めて狂った様に日本人虐殺で事件を起こし抗日を叫びだしたの
である。この急激な変化は日本は驚嘆したに違いない。上海事変では、英米仏の各領事
は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを
勧めた。また、回避案として以下を提案した。この提案原文が東京に届いたのはこの日
の深夜であった。1. 中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。 2. 
日本軍は国際租界から撤退する。 3. 中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。
 というものだった。だが多くの偵察部隊からの連絡で、長谷川清海軍中将(海軍上海
特別陸戦隊及び第三艦隊司令長官)は、当初戦争回避を考えていたが、7月からの華北
での戦火拡大から考えて、中国軍はすでに開戦を意図していると察し、主戦論に切り替
えて、5個師団の増援を日本政府に要求するに至った。しかし政府は華北事件の収拾に
気をとられ、1個師団の増援にとどまったのである。1937年(昭和12年)13日午後9時
頃から国民党軍が帝国海軍上海特別陸戦隊への総攻撃を開始し戦闘に突入した。当時、
上海居留民保護のため上海に駐留していた陸戦隊の数は多めに見ても5千人であったの
に対し、国民党軍はすでに無錫、蘇州などですでに20万人以上が待機していた。その
為同日夜には日本海軍が渡洋爆撃命令を発令している。


1318: 名無しさんAA:18/08/25 18:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  362 > 

 前日の8月12日未明には、中国正規軍本隊が上海まで前進してきて、中国軍の中で
屈指の精鋭部隊である第87師、第88師などの約3万人が国際共同租界の日本人区域
を包囲していた。所謂八路軍である。又既にドイツの指導で日本軍の上陸に備えて揚子
江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置していた。対する日本軍には、上海陸戦隊2200、
漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300、呉と佐世保から送られた 特別陸戦隊1200、又
出雲の陸戦隊200、他320と言うまるでお粗末な計4千人あまりしかいなかった。この為
、日本領事は国際委員会を再び招集し、中国軍の撤退を要求した。しかしながら上海市
長は、中国は既に侵略をうけているとの声明を発表し、最後に喩市長は、中国軍は攻撃
されない限りは攻撃しないと、中国政府として認められるのはせいぜいそれぐらいだと
断言した。つまり日本軍が居る事が侵略されている事だと開き直ってしまったのだ。こ
れまで懇願されて治安維持の為に派兵して来たというのに。である。これは蒋介石政府
が既にこの上海市長を抱き込んでいた事に他ならない。中国式の清野作戦が目に見える
筈だったが、戦闘状態を構わないと言う発言で焼野原になり人がいなくなっても良いと
言う意思表示だった。明けて14日に日本艦艇をねらった国民党軍機の空襲が開始され
た。フランス租界・国際共同租界に投下された爆弾はパレス・ホテルとキャセイ・ホテ
ル前の路上に着弾し、729人が即死し、861人が負傷した、31分後には婦女子の避難所と
なっていた大世界娯楽センターに爆弾が落ち1,012人が死亡し、1,007人が負傷した。民
間人3000人以上の死傷者が出た事に対し、国民党政府は遺憾の意を表明し、爆撃は日本
軍機によるものであるとの内容を表明した。九州から南京への渡洋爆撃も予定されてい
たが、九州の天候が悪かったため延期されていた。つまり租界への爆撃、もしくは誤爆
はその後も発生したが日本軍機は居なかったのだ。日本軍の方は渡洋爆撃命令を受けて
、日本海軍も台湾の航空基地より爆撃を飛ばして、杭州や広徳を爆撃していたのだ。つ
まり海軍機のみで陸軍機は飛べなかったのである。こうした陸軍の不手際は続き増援の
派兵を迫った。しかし不拡大を望んだ石原莞爾参謀本部第1部長は派兵をしぶっていた
。9月9日、台湾守備隊、第9師団、第13師団、第101師団に動員命令が下された。そこ
に起こった戦闘で9月末までで第11師団は戦死者1560名、戦傷者3980名、更に第3師団
は戦死者1080名、戦傷者3589名であった。こうして9月27日、石原部長の辞職が決定し
た。 10月9日、3個師団を第10軍として杭州湾から上陸させることを決定した。


1319: 名無しさんAA:18/08/25 18:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  363 > 

 戦後になって、阿南惟幾や石原莞爾などは盛んにもてはやされる。つまり 突出した
人物像に魅力があり、傑作の逸材であるからだろう。しかしここで見る様に国際音痴の
まま陸軍を引っ張っているような日本人の典型的な人物で、実は陸軍の突き上げや国民
の声に引っ張られて戦争拡大を起こした張本人である。もともと海軍が目覚ましい成果
をしたじ航空兵器の運用でも船で運んだ画期的な手軽さがあった上に、海軍の陸戦隊な
どは陸軍以上のものだった為、大陸の遠隔地に拠点を築く意思が無い限り日本陸軍は、
戦争には必要無かった。逆に戦争後の占領社会に武人として治安を司る役人が必要で、
いまのODAを守るPKO活動の様な事や欧米列強の諜報活動の方が重要であったが、
馬鹿な事に日本陸軍は、欧州のドイツを真似た対国防の総動員令に邁進し海軍との競争
を起こしたのである。これでは世論や天皇が戦後において、海軍が褒められ陸軍が突き
放される構図があったのは当然だった。しかし兵士本人としては、陸上で特に厳しい戦
闘に耐えて生きて帰還兵になりながら戦争責任者として白い眼でみられる事は不本意で
あった。その頃日本はその経済効率の悪さから予算措置からも、一括化し国際情勢に合
わせた交渉と戦闘を任せた海軍を主力として、陸軍は中国の治安維持に努めて縮小しよ
うとしていた。しかし226事件や米内光政や鈴木貫太郎などの内閣は、陸軍の反発で
次々と倒閣の憂き目にあっていた。戦後アメリカの歴史家ジョン・ステファンは呼称と
して、第二次世界大戦は広範囲であり、「太平洋戦争」は「あまりに狭すぎる」ので不
適切であり「大東亜戦争」という呼称がふさわしく、「日本がインド洋や太平洋、東ア
ジアおよび東南アジアで繰り広げようとした戦争を最も正確に表現している。」と指摘
している。またイギリスの歴史家C・ソーンは戦時中もアメリカはイギリスとの関係か
らも、この対日戦争にいたった経緯から「太平洋戦争」は不適切で、極東戦争を提唱し
ていた。ソーンの他A・J・P・テイラーらは日本がアジアでの英国勢力を駆逐する為
に開戦し、結果としてイギリスは植民地を失い「敗北」したことを考えれば、「大東亜
戦争」呼称は妥当とした。ジョン・プリチャードらは「十五年戦争」は曖昧で「極東戦
争」は地理的にヨーロッパ中心主義、「対日戦争」の名も一方的なので「大東亜・太平
洋戦争」という呼称を提案しているくらいだ。これらは第二次世界大戦とは言えドイツ
が行った欧米の侵略覇権でのフランス・チェコ・イタリアといった共和国連合として戦
ったドイツと中国が味方とならず日本一国で戦ったような植民地開放の様なアジアの戦
いとは違っていたのである。


1320: 名無しさんAA:18/08/25 19:50
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  364 > 

この頃では、陸軍も陸軍省陸軍大臣杉山元が、政府・海軍と同じく強硬派であった為に
、多田駿陸軍中将を筆頭とする参謀本部は終始、日中和平交渉の継続を強く主張してい
たがいぶかしく思われた。参謀本部の要請によって日露戦争以来の御前会議がわざわざ
開かれるなどしたが、政府・海軍の太平洋の制海権とや陸軍省の中国や南方戦線の早期
決着の確認で済まされ、海陸対立の圧力を受けて嘘がまかり通ってしまう。阿南や石原
達を処罰できなかった弱さもここにあった。この後の中国との交渉は1月15日に打ち
切られたが。この事は致命傷だった。日本はもっと中国からの引き揚げを念頭に置いた
計画を立てるべきだったし、欧米外交官との交渉を、粘り強くすべきだったのである。
翌日16日に近衛内閣は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足り
る新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす。」と
の声明を発した。蒋介石が北伐を繰り返し、失敗して毛沢東の首輪を掛けられた事から
突然に起こった治安悪化と抗日戦線は僅か1年で、毛沢東の狙いどおりにソ連と米英の
支援をうけた国となったのである。しかし国内は、戦前には経済状態や食糧事情は5分
の1と落ち込み、その後敗戦国となって引きあげた後の共産党建国時は30分の1にな
ったと言われている。清野作戦の応酬で、なんら建設が行われず、粛清で知識人は居な
くなったからだ。そして今でもその状態は変わらない。日中戦争において上海事変後の
中国側国民革命軍は堅壁清野と呼ばれる焦土作戦を用い、退却する際には常に掠奪と破
壊が行われたが、中国軍が退却時のこうした発生により、実際には遅く、11月9日と
なる中国軍の退却が予測された。中国政府は「徴発」に反抗する者を漢奸として処刑の
対象としていたが、あるフランス将兵によると彼は中国の住民も掠奪されるばかりでは
なく、数が勝る住民側が掠奪する中国兵を殺害する。という光景を何回も見ていた。中
国側の敗残兵により上海フランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵と
、便衣兵に対処するためフランス租界の警官が銃撃戦を行うという事件も起きていた。
上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは、認めながら
残念なことであるとし、一方中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対
する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされたりしてい
た。つまり毛沢東革命軍、蒋介石国民政府軍、新たな住民防衛として汪兆銘(おうちょ
うめい)の南京政府や市民防衛隊更に海外からの居留民が連れて来た兵士達と入り乱れ
て殺し合いをしていたのだ。馬鹿な中国政府の為にそして日本軍もその土俵の上にいた

1321: 名無しさんAA:18/08/25 19:51
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  365 > 

 そもそもいったんは停戦協定が結ばれたが、そのまま実行されたら共産党叛乱分子に
は動きようがなく、そのままでは蒋介石政権を奪えなかった。7月25日の郎坊事件を
起こしで停戦が破られると、26日の広安門事件で日本人に犠牲者が発生し、29日の
通州事件が起こした。この事件は華北分離工作で日本の傀儡政権である冀東防共自治政
府保安隊によって引き起こされたとされるが確証はない。戦後には盛んに党員の名が出
ている以上傀儡政権構成員でも共産党員だったと考えられる。この民間人を含む230
名が虐殺されたことにより、武藤章や田中新一ら拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎らの
不拡大派を押し切った形を作った。この事件以後華中(中支)において交戦が拡大する
ことになったが、既に蒋介石政権は、多くの防護嚢を敷き始め対戦戦略を作っていた。
ドイツ軍事顧問団の指導により、大陸沿岸と揚子江には砲台が築かれ、第一次世界大戦
型の要塞線「ゼークトライン(チャイニーズヒンデンブルクライン)」が上海の西方の
非武装地帯に上海停戦協定を違反して盧溝橋事件以前から築かれていたのである。又、
継続的に参謀も派遣され、当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファル
ケンハウゼンの計画にそって、国民党軍は上海租界を攻撃し、日本軍を要塞線にひきつ
けようとしたこの作戦は、上海に駐留する日本軍を攻撃により挑発して要塞線で出血を
強いる事で、日本国内の対中干渉世論を転換させる事が目的であった。第一次世界大戦
で得られた軍事的経験に従えば、これはあまり攻撃的ではない作戦計画であり、だから
こそ蒋介石も採用したと思われる。中国軍はドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM9
8歩兵銃、当時世界一といわれたチェコ製の軽機関銃などを装備し、火力では日本軍を
はるかに上回る装備を整えていた、第36師、第87師、第88師、教導総隊などは、ドイツ
軍事顧問団の訓練を受けて精鋭部隊に変身していた。既に 1934年(昭和9年)から、上
海・南京間の陣地構築が始まり、1936年には陣地構築が急ピッチで進んだ。福山と呉県
の間(呉福線)、江陰と無錫の間(錫澄線)、呉淞と竜華の間(淞滬線)、呉県から嘉
興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置されていた。10月10日、上海
派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始した、2日後には各所で突破に成功した。10月26
日、上海派遣軍は最大の目標であった上海近郊の要衝大場鎮を攻略し、翌27日、「日軍
占領大場鎮」というアドバルーンを、上海の日本人街に上げた。大場鎮を落として、上
海はほぼ日本軍の制圧下になった。しかし、中国軍は蘇州河の南岸に陣地を構えており
、第3師団と第9師団は強力な、トーチカのため、進めなかった。

1322: 名無しさんAA:18/08/25 19:53
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  366 > 

この時日本軍は思わぬ反撃を受ける。猛毒の化学兵器の反撃だった。ドイツから大量に
買い付けて輸入していたのだ。というのもこの戦略の基礎となったのが1930年代におけ
る中独合作で、1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需
物資が輸入され、その時多くの最新兵器として輸入された。ゼークト大将とファルケン
ハウゼン中将は戦術だけでなく、戦争指導にまで行い、対日敵視政策、対日強硬策を、
蒋介石に進言し、中国の敵は日本が第一、共産党を第二と考え、昭和10年(1935年)
10月においては、漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲することを提案し、昭和11年
(1936年)4月には、対日開戦のチャンスだと進言している。もともと中国軍には上海を
占領自治する気はなかった。既に武漢政府を樹立し、この上海を荒野にする計画だった
。つまり蒋介石は引き上げる為に、この上海の街を放火よりは化学兵器で清野作戦に出
るつもりで、対岸にいて化学兵器を使用させたのだった。その為日本軍は制圧しても、
一時足止めされた。が、化学兵器は効果が少なかった。上海の街は海辺に面していた。
風を読んで使用されたが浜風によって風向きが変わり時間と共に対岸に流れていった。
その頃物陰や建物に潜んで難を逃れた兵士たちに防毒マスクが配られた。化学兵器使用
の兵隊から奪う事が出来たからだ。防毒面を着用して白保羅路の崇コ女學附近で攻勢に
出る海軍陸戰隊があった。中国の毒瓦斯彈攻撃を報じる新聞記事が出て居る。「毒ガス
彈下を衝く−人馬マスクで進撃」 濱野 (嘉夫) 特派員 十八日発としてある。中国政権
もここまで落ちたかと言う思いで日本兵は見て居たのである。 8月13日に商務印書館付
近の中国軍が日本軍に対し機関銃による射撃を開始して以来、小規模な戦闘が勃発して
中国軍は空襲を加えた事は米国記者の証言でも解る。これ以降翌日には海地区の警備司
令官である張治中が率いた中国政府軍が航空機により日本軍艦艇を攻撃した。日本政府
は国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらに日本の軍艦に対しての爆撃ま
で行った事で、それまで日本が取っていた不拡大政策を見直し、15日未明には「支那軍
膺懲、南京政府の反省を促す。」との声明を発表している。このように中国政府軍によ
る上海攻撃の結果、日中両軍は全面戦争に突入し背景の共産軍解散を目論んで蒋介石が
先の西安事件によって捕らえられ方針を変えざるを得なくなったことが明るみになった
。蒋が作ったソ連と不可侵条約を結び(8月21日)、共産党と妥協して統一戦線(9月22
日第二次国共合作)での戦争の構図は、蒋介石の保身の為とはいえ、他の中国人にとっ
ては非常に罪の重いものだった。

1323: 名無しさんAA:18/08/25 20:05
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  367 > 
 蒋介石はソ連が作った8月21日に不可侵条約を結び、共産党と妥協して9月22日
に第二次国共合作を行い、ドイツ指導の下で作られた国民政府軍の精鋭部隊は、その後
上海から南京に続く約4ヶ月の戦闘では、日本軍の必死の自衛と防戦で、殆ど壊滅状態
に陥ったと言う。しかし、国民党政府軍は共産党指令で、その後の内戦や清野作戦を立
て執拗に戦った。日本敗戦後に、中国国土は共産党政府となるが、当然であろう。共生
世界を叫びながらも、常に嘘で固めた強制強権世界しか作らない共産党に勝つ見込みは
なく、国の建設が出来ない事は解っていた。世界中どこの国もどの時代も共産党とはそ
の程度の下等な思想しか持ち合わせていない。しかしそれでも、欧米列強政府は中国の
巨大な市場を手に入れたい欲望には勝てなく中国紛争に手助けして兵器を送っている。
当時の上海にはフランス租界、日英米の共同租界、上海特別市の三行政区域に自国民を
守るため、 米軍2800人、英国軍2600人、日本海軍陸戦隊2500人、仏軍2050人、伊軍770
人がいたのだ。凡そ一万人の兵士と五万以上の外国居留民の彼らを飛び越えて、英仏や
米国が支援した罪は重い。この後第二次上海事変などにより在中邦人の中国軍や中国人
に虐殺される事件が頻発し、世論は中国を徹底的に叩くべきという方向に傾いてはいた
。「暴支傭懲」である。しかしその声は避難してきた日本の方が高くこの結果、政府は
軍事行動を主張する陸軍・海軍を抑えきることが出来なくなっていた。また日本にやっ
て来ていたスパイの多くは通信社や新聞社の特派員が多く大いに吹聴していた部分もあ
った。扇動された情報によって情勢は 日中両軍による大規模な全面衝突に発展した。
日本軍は北京や上海など主要都市を占領、続いて中華民国政府の首都南京を陥落させた
。1937年8月26日、日本海軍によるものとされる英国大使襲撃事件であるヒューゲッ
セン事件が起きると、今度は英国新聞は日本に対する怒りを顕わにした。1937年10月、
国際連盟は日本を九ヶ国条約及び不戦条約の侵犯であると決議し、1937年11月3日には、
ブリュッセルで九ヶ国条約会議が開かれ、英国は自身が首唱し指導した国際議定によっ
て、それまでソ連により行われていた第二次国共合作中の蒋介石への支援に参加したの
である。ここに国際社会の日本包囲網が完全に出来上がり各国の思惑はあるものの日本
叩きがきまったのだ。これはその後の阿南や永田が進めた陸軍強化の成れの果てであり
、海軍の南雲と全く同じに失敗がそのまま日本の失敗となる前触れとなったのである。
しかし日本の田中や中曽根は馬鹿であろう。共産党政府と日本との戦いが終ったのは、
共産党が自らの社会主義思想が負けたと知った時だ。つまり1970年代なのである。
この時の日本政府も、米国政府も、何故敗戦処理をちゃんとして分割した国にしなかっ
たのか不思議だ。

1324: 名無しさんAA:18/08/25 21:09
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  368 > 

 ヒューゲッセン事件は1937年中国で英大使が戦闘機によって撃たれた事件である
。「八月二十六日午後、ヒューゲッセン大使は、経済顧問ホール・パッチ氏他一人と共
に、イギリス国旗掲揚の自動車に乗って 南京から上海に向う途中、常熟・大倉間で、
飛行機二機から掃射機関銃弾を浴びせられ、背柱に一弾を受けたのである。大使は上海
カンツリー・ホスピタルに運びこまれ手当を受け、危篤状態を脱したが重体、加害機は
日本機と認められる旨が同乗の遭難者から発表された。当時上海方面の制空権が、完全
に日本海軍に帰していた実情から、誰が考えても加害機は日本機であると推定されるの
であった。しかるに、現地海軍は、事を聞いた当初、艦隊長官長谷川中将自ら病院に馳
せつけて、遭難見舞の辞を述べ、遺憾の意を表したに関わらず、たちまち態度をかえ、
事実調査をした結果、その日自動車を襲った飛行機はないと言い出した。現地海軍から
の報告として、海軍省係官の図上説明によると、当日当刻、上海・南京間の上空に遊撃
した海軍機は飛んではいたが、遊撃航路は現場より大きく外れており、かつイギリス国
旗掲揚の自動車を襲った覚えなしと伝えた。イギリス大使館から、謝罪要求の厳重抗議
が提出され、堀内次官と、着任早々のクレーギー・イギリス大使との間に折衝された。
現地海軍が、事実調査の結果を根拠として、加害の責任を否定し続け、次官、イギリス
大使間の折衝は行き詰まり、問題は容易に解決に至らない。イギリス本国に悪感情が湧
くのは、当然であった。」と書く。又杉山の日記には同じ様な事が書かれている。
 八月三十日(杉山陸相に私的意見具申)・・・・

1325: 名無しさんAA:18/08/25 21:09
 八月三十日(杉山陸相に私的意見具申)・・・・
 数日前在南京英国大使ヒューゲッセン氏は 陸軍武官と共に自動車に依り南京上海道
を上海に来る途中 某飛行機上より機関銃射撃を受け重傷を負へり こは多分我海軍飛
行機の射撃に依るものらしきも 昨日支那軍飛行機も機体に赤丸の印を附し我飛行機に
模する事実あり 果して日支何れのものなるや明らかならす 殊に支那共産党は此際、
日本軍のみならす上海租界、其の他を爆撃せし事実あり 又一昨日米商艦フーバー号は
呉淞下流揚子江内に仮泊中 支那飛行機の爆撃を受け死傷者を生せし事実もあり 今後
共産党派の行動に付ては端倪し難きものあり自然上記英国大使の負傷の如きも敢て之を
我軍のものと断定するを得さるのみならす 仮令我軍の射撃によるものとするも 警告
なく戦場内を通過する内外人か戦闘の傍杖を受くることは已むなき次第にして 我が国
より敢て慌てて遺憾の意を表すへき性質のものに非す 我が政府及上海外む、海軍の態
度は余りに慌て過きたる感あり。又 先日来英国軍艦に護衛せられ入港せることもあり
、英国船か支那側を利すへき輸入を続行せることは事実なり 蓋し、今後是等の状勢は
戦時状態の永続せられ支那軍需品漸く欠乏を告くるに際し益々頻繁を加ふへく察せらる
 依て予て希望せし沿岸封鎖を実行するの手段に出つこと益々必要なるを痛感す 依て
此旨大使館附武官に通し重ねて之に関する意見を具申すへく慫慂す 因に海軍の行わん
とする封鎖んは消極的にして第三国船に対して実攻(ママ)なし。


1326: 名無しさんAA:18/08/25 21:10
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  370 > 

 つまり当時「海軍の方でも探すのだが日本機はやってないとの結果が出たが。あやし
いと言えば怪しいのだが、かと言って海軍がしたとは断定出来ない。今や中国軍機が勝
手に日の丸を描いて攻撃したり、上海租界を爆撃をしている事や英国軍艦をすらも襲っ
ている事を考えると制空権を得ているとは言え、いたずらに日本海軍がしたとは言えな
い状況は英国は解っているはずだ。更に今では国際規約を違反しても、秘かに支那軍の
軍需物資を送り込んでいる。仮に日本機がしたとしても戦闘の為の軍備品を入れていた
とすれば、その関わる事で襲われた場所も違うのかも知れない。慌てて謝る必要は無か
ったであろう。が兎も角よくよく調べて意見する必要がある。」と考えている事が解る
。更に2機の飛行機である1機なら兎も角2機である事は中国機の可能性は高い。当時
小回りのきく日本機は1機でも充分どこへでも行っていたからだ。しかし日本機に劣る
ソ連機若しくは米機は2機編隊は常習だった。ヒューゲッセン事件での1937年8月26日.
石射猪太郎による言及や杉山陸相の思惑はそうした混乱状態を認めたものでもあった。
K・カール・カワカミ『シナ大陸の真相』では本人も「一見したところ奇妙なことのよ
うに思えるかもしれない」と述べている通り、中国機が「国際租界」を爆撃すれば、た
とえ「誤爆」であっても、普通は中国側への国際的非難をまき起こす結果にしかなりか
ねないが、この「国際租界」を爆撃すると、列強が中国に有利な形での介入を行ってく
れるだろうと中国は考えていた事がありあると解る。しかし欧米列強はその強欲さから
その狂気の謀に乗ったのである。そして今も変わらない。かつて清西蔵とされた5民族
は今や漢民族の意向で人の絶滅民族だ。彼らの残りはチベットとウイグルに逃げた。こ
の世界大戦前は89%〜97%まで現地の民族だった。ところが今や7割が漢民族とさ
れる。つまり虐殺されたのだ。2010年の追跡調査でタイやビルマベトナムに逃げよ
うととして強制連行され母国に帰って行く末不明は三千人にも上る。そしてしばしば、
警官が市民を殺す一般映像まで出回って、労働収容所で生きたままの女性が魚の様に捌
かれて人肉食で食われても国際社会は問題視しない。この現代でさえも。しかし歴史は
この後世界を変えた南京大虐殺 パナイ号(バネー号)事件 レディーバード号事件が起
こる。


1327: 名無しさんAA:18/08/25 21:10
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  371 > 

 既に上海事変で、中国人の中国人による中国国土殲滅作戦が行われていた事を世界は
知るべきだった。いや何よりも日本軍は早く悟るべきであったのだが、この戦争が国内
事変として処理されていた為に戦術や戦略に夢中で戦争の意味や意義を失っていたのだ
。とりわけ日中戦争中の1941年9月18日から10月6日の間に湖南省の長沙周辺で行われた
日本陸軍の作戦である。長沙を拠点とする第一次長沙作戦は爪が甘く、世界に向けた中
国広報非道の国際規範無視の批判を行わなかった上、新聞紙上に中国軍の勝利と宣伝さ
れ阿南は第二次長沙作戦を行った。もともと第一次長沙作戦でも、阿南軍司令官が熱意
をもって推進していたが、計画段階から何度も中止の議論が起こったため「作戦期間の
短縮」などの制約をうけて行っている。支那派遣軍は中央統帥部に揺り動かされながら
も、昭和十六年にはいってから中央の命令に基づき、南支方面軍と共に中、南支海岸の
封鎖遮断しやだん作戦と同時に、長沙作戦を主体とする総合圧力の強化を検討していた
。又現政権を転覆させ事変解決のきっかけをつくるため、夏から秋にかけての総力を挙
げた一大攻勢作戦を決意していた。その主体となったのが第11軍による第二長沙作戦
であった。当時の日本側はハワイ海戦(布哇海戦)想定と太平洋戦争における南方作戦
の一環として、開戦劈頭でマレー作戦に主眼をおいていた。その為、6月独ソ戦の勃発
による「関特演」への兵力転用や、日米交渉の難航による南方作戦準備が問題になるに
つれ、大本営や陸軍省では長沙進攻中止論が台頭していた。しかし第11軍司令官阿南
惟幾中将の長い大いなる熱意をもってこの作戦準備を推し進めた為。それは南方や満州
へ兵力が抽出される前に中国軍に打撃を与え、以後の自存自活を容易にするという理由
で、南方へ転用予定の兵力を使用しないこと、なるべく早期に切り上げ反転帰還する、
という条件付けを受けて作戦は実行に移されることとなった。こうして中央と現地の間
で、八月二十日までに兵力転用命令がなければ、九月十五日攻撃開始予定の長沙作戦は
一応実施するという、あやふやなとり決めで実施された。こうして日中戦争中の1941年
9月18日〜10月6日の間に第一次長沙作戦を中国軍第9戦区軍に、日本の第11軍が打撃を
与えた。ところが11月23日頃、支那派遣軍総司令部内での「長沙作戦がかえって敵の逆
の宣伝の材料になっている」との声が耳に入り、阿南軍司令官は鬱憤を募らせ、日中戦
争中の1941年12月24日〜1942年1月16日まで、湖南省の長沙周辺で太平洋戦争の開戦前
に終わらせる約束により始まった。香港攻略作戦(第23軍)を支援する目的で前回の第
一次長沙作戦の3分の2の兵力である第11軍が実施した。


1328: 名無しさんAA:18/08/25 21:11
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  372 > 

 ところが中国サイトの説明ではこれは第二回、第三回の長沙会戦としている。では、
第一回は何を指すか。説明によるとどうも南京攻防戦をそのまま起こった武漢会戦だっ
た様だ。南京陥落後、薛岳(せつがく)と言う中華民国の軍人がいたが、彼が活躍をし
た。と言う伝説が強い。1914年(民国3年)、中華革命党に加入し、ケ鏗や朱執信に従
って広東で反袁世凱活動に従事した。ケ鏗が粤軍(広東軍)第1師を創設すると孫文の
総統府警衛団の営長となった。陳炯明がクーデターの際には、葉挺と共に宋慶齢を護衛
し救出した。以後、陳討伐のための戦いで軍功をあげた。北伐には、薛岳は第1師副師
長兼第3団団長として参加したが、江西省で孫軍を度々破る軍功をあげた。11月に、
南昌が北伐軍が攻略すると、第1師は浙江省へと移り、翌1927年(民国16年)2月杭州
攻略に貢献した。3月には上海に進軍し、上海総工会など労働者勢力とは協調関係を確
立した。この関係から上海に人気の軍長となった。しかし、蒋介石は中国共産党排除の
動きと共に。薛岳の労働者に対する協調姿勢で蒋の怒りを買い薛は罷免されてしまう。
その1週間後に、蒋は上海クーデターを起こした。その後、薛岳は第4軍軍長李済深の
下に至り、広東新編第2師師長となり、更なる張発奎・黄h翔の反李反蒋クーデターを
起こすと、薛も加わり、第4軍教導第1師となり軍功にて第4軍副軍長に昇格し、軍長
繆培南と共に東江一帯に駐屯した。しかし李・蒋の支持派の陳銘枢・黄紹рノ挟撃され
て半数喪失する大損害を受けて、残軍を率いて北上し、第2次北伐に参加し山東方面の
攻略に活躍した。北伐終了後軍縮・再編に伴い第4師とされ、繆がそのまま師長に残っ
たが、薛は蒋介石に忌避され失脚した。薛は汪兆銘(汪精衛)らの反蒋活動に参加し、
蒋派の蒋光ダイ・蔡廷テカイに大敗を喫し、その後、李宗仁ら新広西派の支援をうけて軍を
回復させた、情勢は依然悪く1932年(民国21年)に香港九龍に一時引退した。1933年(
民国22年)10月、第5次共産党掃討作戦を開始した蒋介石の招聘に応じて薛岳は南昌で
帰参し、北路軍第3路軍副総指揮兼第7縦隊司令に着任した。翌年1月、第1路軍代理
総指揮となり江西省内各地で紅軍を撃破し、10月には紅軍を瑞金から長征に追い立て
ることに成功した。その後も薛は紅軍を追撃し結局、紅軍を殲滅することはできなかっ
たが、薛の軍功は大きく貴州省政府主席になった。、第二次上海事変(淞滬会戦)では
第19集団軍総司令で、左翼軍となり、左翼軍中央作戦区総指揮官で、竹園村で日本軍
と激戦を展開し、双方互角で渡り合った。が 11月5日、日本軍の増援部隊が金山衛上陸
を果たし、第19集団軍は呉福線まで撤退した。13日、左翼軍総司令に昇進して抗戦を
続けたが、その後も日本軍の攻勢に苦戦し、後退を余儀なくした。

1329: 名無しさんAA:18/08/25 21:15
その後薛岳は、南京陥落後に第3戦区前敵総指揮で正規軍は防御し、ゲリラ部隊で攻撃
するという方針を採用して日本軍に対処した。1938年(民国27年)5月、第1戦区第1
兵団総司令に任ぜられ、同月末には第1戦区前敵総指揮に昇進した。この昇進が南京の
大虐殺であるとされる。又その後も土肥原賢二率いる第14師団が河南省内黄県などを
占領していたが、薛は効果的に反撃してこれらの占領地の多くを奪回した。武漢会戦で
は、薛岳は第9戦区第1兵団総司令に任ぜられて、日本軍と戦闘を繰り広げた。最終的
に武漢会戦は中国側の敗北に終わるが、薛自身は第106師団など日本側各師団に大打
撃を与え、良好な戦績をあげている。この薛岳が中国では英雄だが常識を外れた悲惨な
督戦隊の指揮を執ったとされる。つまり中国式の兵士を勇猛果敢に戦わせるには、仲間
でも農民でも街を焼き血祭りにして、鎖で縛って戦地に連れて行き誰でも彼でもどんど
んと捕まえ奴隷状態で戦場から逃さない様に包囲を完璧に囲む事を行ったからだ、勝っ
ても負けても戦争前に清野作戦を確実に行う事とされたのだ。こうした事で彼が応戦し
た町では、どこでも二千年の歴史を持つ古都の面影がない。長沙作戦などの三年前に当
る昭和十三年に、蒋介石が日本軍の来攻を予想して街に火を放ち、ほぼ全域を焼き払っ
たためという。武漢会戦終結後、第9戦区司令長官に昇進し、1939年(民国28年)2月
には湖南省政府主席兼中国国民党省党部主任も兼任し1941年(民国30年)9月及び12
月の3度の長沙会戦で日本軍を湖南省から撃退することに成功したという。これには、
「安・便・足」の三字施政方針と「生・養・教・衛・管・用」の「六政」建設に象徴さ
れる一連の省内施策が功を奏した。と言われる。(安は安居・安業・安心、便は便民・
便国・便戦、足は民足食・国足兵・人足智)とされる。「生民之政」は国民の身体健康
の向上を第一義とすること、「養民之政」は農林業や水利の発展、「教民之政」は小中
学校と中等師範・職業教育の発展、「衛民之政」は警察組織の強化、「管民之政」は、
政治・社会組織の整頓と抗戦喚起、「用民之政」は物価の厳格管理を指すという。この
中で日本では便衣兵と言う名を使う。つまり戦う時はより安価で便衣兵を手足として使
う事が大事だ。と言う意味に見えて仕方がない。ただ彼も何回も紅軍征伐や中国政府と
対立や抗戦して普通の抗日戦士では無かったようだ。「生・養・教・衛・管・用」もと
もと農家の子として生まれ黄埔陸軍小学に入学しているので高貴な家柄であろう。中国
同盟会に加入し、その後中華革命党に加入し反袁世凱活動に従事している。武昌陸軍第
2予備学校に入り、1917年 卒業後は、保定陸軍軍官学校第6期で学んでいる。国共内戦
後は蒋介石が総統に当選すると、薛は総統府参軍長になって、以後台湾に逃れ、総統府
戦略顧問に任ぜられる。

1330: 名無しさんAA:18/08/25 21:15
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  374 > 

 1937年12月13日の南京陥落前日、日本海軍機が揚子江上において、米国アジア艦隊の
揚子江警備船「パナイ号」を爆撃し沈没させた。日本軍の砲弾を避けるため南京上流に
移動中のパナイ号(バネー号)には、艦長のジェームズ・J・ヒューズ少佐以下将校・
乗組員59名、南京アメリカ大使館員4名、アメリカ人ジャーナリスト5名、アメリカ商社
員2名、イギリス人ジャーナリスト1名、イタリア人ジャーナリスト2名、他1名が乗船し
ていた。アメリカでは、事件後主要紙がパナイ号生存者の目撃・証言報道を連日写真入
りで展開し、パナイ号艦長ヒューズ少佐の報告書や南京アメリカ大使館二等書記官ジョ
ージ・アチソン・ジュニアの報告書、日本海軍機による故意爆撃説を公式見解とした。
アメリカ海軍当局査問委員会の報告書等は、次々に全文掲載した。また、あわせて様々
な情報に基づくフェイクニュース的南京大虐殺の報道も加わったため、アメリカ全土で
は、日本商品ボイコット運動が広がっていった。これは毛沢東がソ連経由で流したもの
も相当あったようだ。また、同日、橋本欣五郎大佐の指揮する第10軍野戦重砲兵第13
連帯が、英国砲艦のレディーバード号及び同型艦のビー号に砲撃を加え、レディーバー
ド号旗艦艦長と領事館付陸軍武官およびビー号に乗艦の参謀長からも抗議を受けている
。そのとき、橋本欣五郎大佐が長江上にあるすべての船を砲撃するように命令されてい
ることを認め、ビー号に乗艦の参謀長が英国代理大使ホーウィに打電しているという。
その命令に関して、『日中前面戦争と海軍 パナイ号事件の真相』笠原十九司(青木書
店)に次のようにある。ーーーー
 橋本が長江上のすべての船を砲撃せよとの命令を受けていたというのは、前日12月11
日午後6時に、南京より退却する中国軍を撃滅するために第10軍が発した丁集団命令
(丁集団司令官・柳川平助中将)であった。それは、
1、敵は十数隻の汽船に依り午後4時30分南京を発し上流に退却中なり、尚今後引続
  き退却するものと判断せらる。
2、第18師団(久留米)は蕪湖付近を通過する船は国籍の如何を問わず撃滅すべし
  というものであった。
これは、中国軍が外国国旗を掲揚して外国船に偽装した中国船に乗船したり、あるいは
外国船を借用したり、さらには中国軍に味方した外国船に護送されて、南京からの脱出
を図っているという情報が日本側に流布されていたことによる。漢口のアメリカ大使館
には、12日の朝のレディーバード号事件に続いて、午後に発生した海軍機による英国
砲艦クリケット号とスカラブ号に対する爆撃事件の経緯も伝えられた。

1331: 名無しさんAA:18/08/25 21:38
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  375 > 
 クリケット豪とスカラブ号の両艦は3度の空襲をうけたが、反撃が素早く行われたた
め、爆弾は至近に落とされたものの直撃弾をうけなかったので、船体に目に見える被害
は受ける事はなかった。そのため、日本軍機の空襲は無線通信によりすぐに漢口の英国
大使館にも報告されたのである。なお、英国汽船黄浦号には、南京から最後の脱出をし
たローゼン書記官ら数人のドイツ大使館員も乗船していて、この日本軍機に爆撃される
という運命に遭遇した。このため、ドイツ外務省は、駐日ドイツ陸軍武官に訓令して、
日本政府に激しく抗議させている。同じ12月12日 米国アジア艦隊揚子江警備船の「パ
ナイ号」の安否をめぐって、南京〜漢口〜ワシントン〜東京の間を電文があわただしく
行き交った。再び同書より抜粋すると、まず揚子江警備隊司令官から中国駐留米軍の総
司令官への作戦情報として以下の電報が発信された。
 ”パナイ号は再び砲火の危険にさらされ、上流への移動を余儀なくされた。ジャップ
はパナイ号の周辺にいるジャンク船や小舟を狙って砲撃しているものと信じられる。午
前9時に、イギリス艦レディバード号が蕪湖のアジア石油施設の近くでジャップの砲列
の攻撃を受け、4発の砲弾が命中し、水兵一人が死亡、数名が負傷した。イギリス砲艦
ビー号も直接の砲火にさらされているが、まだ被弾していない。”漢口のジョンソン・
アメリカ大使はそれまで何度か日本政府・軍部に対して、パナイ号への攻撃を避ける措
置をとるよう要請していた。これを受けて駐日アメリカ大使のジョセフ・C・グルーは
、広田引毅外相を訪問して、ジョンソン大使の電報の抜粋を手渡し、「日本の砲兵部隊
は、長江上のあらゆる船を国籍を問わず砲撃するようにと命令されているというが、も
しも無差別にアメリカ船を攻撃することを阻止しるよう手段を講じなければ、アメリカ
市民も被害に巻き込むという 深刻で悲しむべき事件が起こるであろう。」と警告した
。そのときの広田の対応は事務的で、「すべての外国人は南京の戦闘区域から避難する
ように警告されているはずだ。それでも、あなたの報告は軍当局に伝えておきましょう
」と述べただけだった。すなわち、既に20日以上も前から南京から避難するよう再三
の連絡しても離れないまま、戦争している中国の督戦隊を乗船させて、武器供給などの
公務を行う航行が既に特務員から報告されていた上で、前日にその回避を言っても出来
る物ではなかった。又激戦区になってから一日前に連絡に来る事は全く国際的常識では
なく激戦区にした。というのが正解だった。というのもドイツ・フランスは武器を売っ
て手助けしていくつもの倉庫から証拠品は出て居たし、ロシア・アメリカ表向きは親日
を装い裏では中国民や自国民を裏切って唆しの情報を出していたからだ。それは軍部は
既に戦争方針を固めていたのである。

1332: 名無しさんAA:18/08/26 18:32 ID:2lQ
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  376 > 

 長江上のイギリス砲艦が砲撃を受けたという情報に接して、不安にかられていたジョ
ンソン大使は、この日午前11時、パナイ号のアチソンから「日本軍にパナイ号の位置を
報せたし」と同号の投錨地を知らせる電報を受信し、ひとまず安堵の胸をなでおろした
という。しかし、その電報を最後に、午後1時をすぎてもアチソンからの報告が入らな
くなり、漢口のアメリカ大使館に焦慮の雰囲気がただよった。そして、ついに揚子江警
備隊司令官よりパナイ号からの通信が途絶えたという連絡が入ったのである。ジョンソ
ン大使はただちに、ワシントンの国務長官宛に次のように打電した。
 「揚子江警備隊司令官は、本日、13時35分以後、パナイ号との交信が不能となってい
ます。日本陸軍が江上の船舶すべてに対する砲撃命令を発したとの情報があります。本
日、南京付近および蕪湖にてイギリス艦に砲撃があったことに鑑み、直ちに東京に連絡
し、日本外務省に緊急申し入れを行うこと、また、アメリカ人避難民を乗せているパナ
イ号、およびスタンダード石油の船舶の所在についても通告するよう願います。呉松上
流221マイル地点に投錨、がパナイ号からの最新の報告でした。」こうしてパナイ号
との通信が途絶え、焦慮感ただよう漢口のアメリカ大使館に、不吉な思いをつのらせる
以下の電報が、揚子江警備隊司令官から届いた。「護衛船をともなった英国砲艦クルケ
ット号とスカラブ号は、南京上流12マイル(約19.2キロ)の地点で午後3回にわたっ
て空襲される。18発の爆弾が落とされる。1発が商船に命中したほかは命中弾なし。2
隻の砲艦とも攻撃してくる飛行機に対して発砲した。」と、こうした情報に接した漢口
のジョンソンアメリカ大使は、パナイ号やアメリカの商船にも同様な攻撃が行われ、恐
るべき惨事が発生する可能性を察知し、国務省から日本政府に対して、緊急に予防措置
をとるよう要請してほしい旨の電報を打たせた。「本日午後、英国砲艦スカラブ号とク
リケット号は、外国人避難者を乗せたジャーディン倉庫船と商船黄浦号と一緒のところ
を故意に爆撃された。死傷者はなかった、と報告されているが、倉庫船には南京を避難
したアメリカ人が乗っているので、国務省は緊急に東京に訓令して、日本政府が、今後
このようなことが起こるのを阻止するための命令を出すよう、圧力を加えられたし。本
日、蕪湖の日本軍は、イギリス人に対して、日本軍守備隊は長江のすべての船に発砲す
るよう命令を受けていると言っている。もしも日本軍が、これらの船は友好国のもので
あり、アメリカ人と他の外国人の避難のために用意されたものにすぎないことを理解し
なければ、恐るべき惨事が起こるように思われる。」ーーー


1333: 名無しさんAA:18/08/26 18:32
なければ、恐るべき惨事が起こるように思われる。」ーーー
 こうして ジョンソン・アメリカ大使が、通信の途絶えたパナイ号が災難に遭遇する
予感に襲われ、懸命に防止措置をとろうと外交努力をしていたとき、すでに惨事は進行
していたのである。

1334: 名無しさんAA:18/08/26 18:33
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  377 > 
 東京の駐日アメリカ大使ジョセフ・C・グルーが、広田弘毅外相に対し、中支那方面
軍当局にアメリカ人の生命・財産を攻撃しないように厳重措置をとるよう要請したのみ
ならず、上海のガウス米国総領事も同地の岡本季正総領事にパナイ号の位置を知らせ、
関係方面への通報を要請したという。にもかかわらずパナイ号は撃沈された。これは、
当然アメリカ政府を決定的に怒らせた。勿論米国軍部や石油供給の輸入商社ジャーディ
ン社の武器譲渡などは中国政府要請よりの行動が引き金ではあろうが、アメリカ側には
人道主義内のものと考えていた。しかし国際法違反は明確であり、非常に丹念に隠され
てパナイ号に積み込まれていた。船は、煙突は純黄色、船体は白塗りで、アメリカ艦で
あることを明確にするために、上甲板の前と後の屋上に水平に大きな星条旗を新しく描
き、上空のどの角度からも識別できるようになっていた。また、後尾のポールには、緊
急事態に備えて最大の軍艦旗が常時掲げられいたという。そして、当日は晴天であった
。これらの条件は決定的にアメリカ流の正義を持っていた。だがこの中国ではそうした
事は通用しなかった。例えアメリカ国旗を掲げてアメリカ船舶の装いをしても、中国人
の凶暴な督戦隊の清野作戦で各村々を襲撃し火を放った者を追込み逃げ込んだ避難船で
あれば攻撃するのは当然であったからだ。そもそもがこのパナイ号が居た所は居留地で
は無かった上にわざわざ激戦区に航行に来ていた。長江を遡って来ていたパナイ号のヒ
ューズ艦長は、第10軍国崎支隊木下の永山部隊主隊に発見され、手旗信号で停船を命
じらて、乗り込んできた大隊副官の村上繁中尉とやり取りをしている。村上中尉らは、
パナイ号が「日支交戦区域より避難せるものにして他意なし」という言い訳を聞いてい
る。船内を見て確認できたとして握手をしたのち、またボートに乗って艦を離れたとい
う。その後に、砲撃を受けたために沈没した。沈没しつつあったパナイ号の船内から脱
出して北岸に向かった2隻の救命ボートに機関銃掃射を加えたのは、午前中にパナイ号
に乗り込んだ村上繁中尉の指揮する大発(大型発動艇)であったという。さらに、沈み
つつあったパナイ号に接近し、機関銃掃射を加えた日本軍の哨戒艇が、同じ第10軍の
国崎支隊所属の永山部隊の支隊であったという証言がある。「我々が隠れている湿地か
ら脱出する道を探しているときでした。爆撃機3機からなる日本の飛行隊が、長江上流
の空からやってきて我々の上を飛びました。そのうちの一機が我々が負傷者を隠し、我
々も隠れている湿地の葦原の上を旋回しました。この飛行機の行為や先の日本軍哨戒艇
の行為をパナイ号爆撃という信じがたい事実と結びつければ、日本軍が爆撃の証言者を
抹殺するために、我々を探していたということは疑問の余地がありません。」と証言し
ているのは南京アメリカ大使館二等書記官アチソンである。

1335: 名無しさんAA:18/08/26 18:34
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  378 > 

 こうしてその時パナイ号に乗船していた南京アメリカ大使館二等書記官アチソンが、
証言している事を見るとこの頃から大きな変化があったようだ。他国の事情や国際法を
考慮しない日本軍の強引な軍事行動で、南京無差別爆撃ともいえる南京空襲や南京大虐
殺と同質のものではないかと疑わざるを得ない。パナイ号事件もレディーバード号事件
も、爆撃や砲撃の状況を考慮すると、日本側の「誤爆の弁明と陳謝」は不可解である。
この南京入城時から、日本は急激に変化している事情が阿南が始めた無理な行軍である
。この時の死者数が若者の徴兵を増やして、これまでの国際規約内の戦争が無くなった
と言える。加えてドイツ進軍で、中国にいた軍事顧問団も非情な戦略を立てるに至った
ようだ。不平等条約から50年たって陸奥宗光や小村寿太郎の努力で治外法権と関税自
主権をいち早く勝ち取ったアジアの中の日本が出来た。それが日露戦争後だった。明治
の先人達は多分にその欧米列強の思惑の怖さを知ってた。だがこの上海事変の軍人であ
る者達、とりわけ阿南などの世代はそれをその部下に教える知識や教養が無かったと言
える。戦陣訓が出来た頃から、それが先述の様なものが言えない軍部、正論が言えない
大本営の姿になっていたと思われる。そうした事実を踏まえると、日本は負けて当然で
もある。しかし国際社会も又どんなに日本が証拠と弁論を重ねても中国から離れず武器
を送り続けた。つまり第一次大戦の盟約などは途端に藻屑になっていたのである。中国
政府の罠にかかり、日本はロシアの赤熊とアメリカの白熊に挟まれたのだ。逃げ場はな
かった。日本軍には、既に堪忍袋の緒が切れた状態で、日米決戦は日本と言う国の経済
の尻にも火が付き石油や食糧や鉄すらままならなかったのだ。多くの市民が住む南京の
市街地を、空襲し逃げ延びようとする中国兵のみならず、「殲滅掃討作戦」で戦意を喪
失し武器を放棄した投降兵や敗残兵、さらには避難民をも殺害した事実がある。とされ
る。しかし生き残った日本の帰還兵のある上等兵の証言では違っていた。既に空中戦が
あり、日の丸の双発機がまだ開城前の進軍する前を飛んでいたと言うのである。つまり
偽物の日本機で手や国旗を振る日本兵に機銃掃射をして何人も死んだというのである。
勿論陸上でも多くの中国人の偽装日本兵がいたとされる。それでも、それだけ戦争によ
って死んだ日本兵が死者でも放置されれば身ぐるみはがされて 野垂れて死んで行った
証拠だとも言う。

1336: 名無しさんAA:18/08/26 18:35
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  379 > 

 パナイ号事件の石射手帳にも「海軍省は、戦備考査協議会を組織し……今次事変の推
移を見るに、事変勃発いらいの不拡大局地解決方針による時局収拾は、その望みなきに
いたり、今や対支膺懲の作戦を余儀なくせられ、作戦相当長期に渡り、戦局拡大の算大
なるのみならず、その第三国の動向に対しても 慎重なる考慮を必要とするにいたれり
。」と述べている。つまり既に日本軍は住民に対して非常に不安を持って接していた。
 米国外交官ジョージ・アチソン・ジュニアは、敗戦後の日本の駐留米軍GHQのいた
頃に日本に外交官としてマッカーサーと共に訪日して外交官を行った人だ。1919年に、
カリフォルニア大学バークレー校を卒業し、第一次世界大戦中は兵役を務めたという。
1920年に国務省外交局に入り、中国の北京公使館で通訳研修生として勤務し以降、主に
極東関連の事案を担当している。1923年から1924年まで中国の長沙領事館で副領事を行
っている。1926年から1927年までカナダのノースベイ領事館で副領事をし、1927年から
1934年まで中国の天津領事館で領事となり1934年から1939年まで中国の南京公使館に務
め1935年に大使館に昇格し二等書記官となっていた。こうして1938年から1939年までは
南京外交官地区管理委員長も務めた。 長沙作戦(1941年)の前に1937年12月8日、日中
戦争の南京攻略戦により空襲を受け沈没するパナイ号に乗り込んでいたようだ。この時
既に日本は、第三国人に対して南京からの退去を申し入れていた。アチソンら大使館員
は12月11日に合衆国艦隊の揚子江警備船パナイ号で避難を開始しているがしかしながら
 翌12月12日には、パナイ号は日本軍から空襲を受け沈没しパナイ号事件が起こる。ア
チソンらは大使館員は救助されて、上海に搬送されたが何故か1938年3月11日に、又も
アチソンは南京へ戻っている、その2日後に再び上海へ移動している。つまりアチソン
は帰国をしていない。これは米国の諜報工作員の一人だったとも言える行為なのだ。日
米開戦となって、1939年アチソンはワシントンD・C勤務となり、国務省極東部での内
勤となった。1941年から1943年まで国務省極東部次長となった。1943年から中国の重慶
大使館で参事官となり、1945年に代理公使に昇任する。1945年、アチソンは上長であっ
たパトリック・ジェイ・ハーリー駐華大使の業務命令に違反したとの嫌疑をかけられた
。当時のアメリカ連邦議会では、中国国民党政府を支持する勢力が強くあった。しかし
ながらアチソンはそれに反発し、中国共産党に対する武器貸与援助を提言した一人だ。


1337: 名無しさんAA:18/08/26 18:35
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   380    > 

 アチソンは同様の考えを持っていた極東局長ジョン・カーター・ヴィンセントと手を
組んで、アメリカは中国共産党と良好な関係を築くべきである。と盛んに勧奨した。ア
チソンは、国務長官ジェイムズ・バーンズの擁護を受けたものの、その行動は最終的に
はハーリー駐華大使の要求により自宅謹慎となったとされる。しかし1945年9月7日、ア
チソンは連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの政治顧問として、国務省から派
遣されて訪日した。バーンズ国務長官はアチソンに対して、マッカーサーの動きを監視
する役割も期待したとされる。 ウィキソースにアチソン大使の指示項目の原文がある。
10月8日、元内閣総理大臣近衛文麿、高木八尺博士、松本重治、牛場友彦と大日本帝
国憲法改正に関し初めて会合を持ち、12項目の米国側の改正項目案を示して検討を開
始。 国務・陸軍・海軍三省調整委員会が「日本の統治体制改革の指針」( SWNCC228と
SWNCC228/1)を策定した。とされる。 「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)は 1946年1月7日の文書で、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、
基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を
達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきであるとした文書であった。すでに極東委員
会の設置が決定され、米国政府は憲法改正問題に関する指令権を失うこととなり、マッ
カーサーは命令ではなく「情報」の形で伝達された。この後のGHQ草案の作成には「
拘束力ある文書」として取り扱われ、極めて重要な役割を演じた。とされる。米国政府
はこの文書で、改革や憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民
に受容される為、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」
であることを強調している。1946年に、米国政府に対し、朝日新聞、毎日新聞、読売新
聞など報道メディアに報告を行っている。4月、連合国軍最高司令官総司令部内に外交
局が設置されたことに伴い、外交局長に就任。加えて大使の地位も与えられた。1946年
4月22日からは、マッカーサーの代理として対日理事会議長も務めた。 1947年5月3日、
日本国憲法が公布。7月26日には国務・陸軍・海軍調整委員会(SWNCC)が四省(国務・
陸・海・空)調整委員会(SANACC)と改称した。アチソンは公務でワシントンD.C.へ戻
る時、B-17爆撃機に搭乗して東京を出発したが。アチソンを乗せたB-17爆撃機は途中、
エンジントラブルのためグアムでエンジンの交換し3時間のテスト飛行を行った後でも
クェゼリン環礁を出発して、次の目的地であるハワイ諸島のオアフ島を目指したが燃料
切れによりオアフ島の西方約百キロメートルの地点で墜落した。アチソンの遺体は発見
されず、8月17日に死亡したものと推定された。


1338: 名無しさんAA:18/08/26 19:06
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   380    > 

 アチソンは同様の考えを持っていた極東局長ジョン・カーター・ヴィンセントと手を
組んで、アメリカは中国共産党と良好な関係を築くべきである。と盛んに勧奨した。ア
チソンは、国務長官ジェイムズ・バーンズの擁護を受けたものの、その行動は最終的に
はハーリー駐華大使の要求により自宅謹慎となったとされる。しかし1945年9月7日、ア
チソンは連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの政治顧問として、国務省から派
遣されて訪日した。バーンズ国務長官はアチソンに対して、マッカーサーの動きを監視
する役割も期待したとされる。 ウィキソースにアチソン大使の指示項目の原文がある。
10月8日、元内閣総理大臣近衛文麿、高木八尺博士、松本重治、牛場友彦と大日本帝
国憲法改正に関し初めて会合を持ち、12項目の米国側の改正項目案を示して検討を開
始。 国務・陸軍・海軍三省調整委員会が「日本の統治体制改革の指針」( SWNCC228と
SWNCC228/1)を策定した。とされる。 「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)は 1946年1月7日の文書で、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、
基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を
達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきであるとした文書であった。すでに極東委員
会の設置が決定され、米国政府は憲法改正問題に関する指令権を失うこととなり、マッ
カーサーは命令ではなく「情報」の形で伝達された。この後のGHQ草案の作成には「
拘束力ある文書」として取り扱われ、極めて重要な役割を演じた。とされる。米国政府
はこの文書で、改革や憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民
に受容される為、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」
であることを強調している。1946年に、米国政府に対し、朝日新聞、毎日新聞、読売新
聞など報道メディアに報告を行っている。4月、連合国軍最高司令官総司令部内に外交
局が設置されたことに伴い、外交局長に就任。加えて大使の地位も与えられた。1946年
4月22日からは、マッカーサーの代理として対日理事会議長も務めた。 1947年5月3日、
日本国憲法が公布。7月26日には国務・陸軍・海軍調整委員会(SWNCC)が四省(国務・
陸・海・空)調整委員会(SANACC)と改称した。アチソンは公務でワシントンD.C.へ戻
る時、B-17爆撃機に搭乗して東京を出発したが。アチソンを乗せたB-17爆撃機は途中、
エンジントラブルのためグアムでエンジンの交換し3時間のテスト飛行を行った後でも
クェゼリン環礁を出発して、次の目的地であるハワイ諸島のオアフ島を目指したが燃料
切れによりオアフ島の西方約百キロメートルの地点で墜落した。アチソンの遺体は発見
されず、8月17日に死亡したものと推定された。


1339: 名無しさんAA:18/09/01 21:52 ID:mb2
 このアチソンがパナイ号事件では、殆ど九死に一生を得る様な体験をしている。なの
に又何度も中国に来て更に日本に駐留して国務省の極東局長に座った。これは一体何を
意味して居るのか。又アチソンは国民党軍を推していた米国政府にわざわざ反発して、
中国共産党に対する武器貸与援助を提言している事から共産党員であった事が解る。こ
の当時は米国内にコミンテルンの同志は数多くいたのであろう。第二次世界大戦後半の
1944年の7月に不思議な会議が行われた。場所はアメリカ合衆国のニューハンプシ
ャー州ブレトン・ウッズである。会議名は、非公式の連合国主要国通貨金融会議である
。後に連合国通貨金融会議にそのプランは渡され45ヵ国参加で締結された。世にいう
ブレトンウッズ体制である。1945年に発効した国際金融機構についての協定でこれで、
「アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替相場制」が決まった。これまでも米国基軸
の変動する為替相場の通貨比率で運用されていた。ここで固定相場のドルペッグ制が決
められた。というのもこれまでの大きな大戦を受けてユダヤ金融家に不安が走っていた
。既にアメリカ国内に世界の金の8割は貯めこめられ、疲弊した各国には金本位制で買
い付けする力が無かったからだ。世界大恐慌により各国がブロック経済圏をつくって、
二度の世界大戦をまねいた反省によって、第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を
安定化させる必要があった。つまり自由な貿易経済が阻害されるといつまた同じ戦争が
起こるかわからない危機感があったのだ。資源国はどこも貧困地でありアメリカの製品
を買う相手がいなかったし、それで又国内不況が起こる事を阻止する必要に迫られたの
である。そのため具体的には国際的協力による通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国
の開発を行い自由で多角的な世界貿易体制をつくり為替相場の安定が計る必要と、国際
通貨基金(IMF)や、国際復興開発銀行(IBRD)の設立して貸付を行う必要に迫
られたののである。こうしてこれらの組織を創る決定をしこれを中心とする体制を確立
させたのである。ソ連は1944年のブレトン=ウッズ会議には代表団を派遣し、参加
し一時は積極的に動き、国際通貨基金への12億ドルの出資を表明するなどしてケイン
ズを喜ばした。しかしソ連はブレトン=ウッズ協定に調印したが批准を行わず、アメリ
カなどの催促にもかかわらず、結局、IMFにも世銀にも参加しなかった。更にIMF
にいったん加盟したチェコスロヴァキアに対しては、圧力をかけて脱退させたのだった
。その上でソ連は独自に東欧諸国を含むコメコン(経済相互援助会議)を創設し、ブレ
トン=ウッズ体制と張り合った。また外国貿易の国家独占をふまえてルーブル通貨管理
、外貨の国家の独占、関税の強化など、世界経済からの分離を始めて行った。


1340: 名無しさんAA:18/09/02 00:55
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   382    > 

 この国際通貨基金IMFと世界銀行が誕生した時のブレトンウッズ会議は、イギリス
代表が経済学者のフェビアン社会主義者のジョン・メイナード・ケインズだったのに対
して、米国代表はハル・ノートの作成者、財務次官のハリー・デクスター・ホワイトだ
った。又この会議の主催者でこの会議を取り仕切ったのが、米国財務長官のヘンリー・
モーゲンソーJr.と言う異例であった。ヘンリー・モーゲンソーJr.は、日独に苛酷な
賠償請求を課した事で知られモーゲンソー・プランの提唱者で、父親はロスチャイルド
一族の銀行家ゴールドスミス家、母親はロスチャイルド一族の鉱山王だったグッゲンハ
イム財閥の出身という人物である。彼らは各国代表と言いながらも私的会議だったが、
それでも絶大な権力を持っていたのかIMFの設立資金88億ドルのうち、アメリカは
27.5億、イギリス13億、ソ連12億、中国5.5億、フランス4.5億、インド
4億を拠出させて、アメリカが全体の3分の1を占めて設立されている。1973年に
国際通貨制度が変動相場制に移行してからは、加盟国の国際収支の不均衡を是正したり
、発展途上国への支援したりするための融資を主な任務として機能させている。国際復
興銀行(世銀)の方は国際連合の専門機関の一つとして世界大戦後の戦後復興に必要な
長期性の資金を融資する機関として設立され、その資金の多くはアメリカに依存した。
 日本は1952年に国際復興開発銀行(世界銀行)に加盟し、1953年から66年
の間に合計31件、8億6290万ドルの融資を受け、電力・鉄鋼などの重工業の復興
に充て、60年代には高速道路や新幹線の建設に充てた。1990年代には世銀借款を
完済し、現在では日本は世銀に対するアメリカに次いで多く出資している国になった。
今では戦後復興よりも1960年代から開発途上国への融資などで役割を果たすように
なったが、実はこうした貸付環境を良くしても、戦後復興には二度の大戦とその間を通
じ、欧州に工業製品などを輸出し続けて儲けたアメリカに、工業生産が集中して存在し
ていた。通貨がドルが世界の貿易決済通貨として使われる体制を決めたものの、欧州な
どのアメリカ以外の国々は、金も工業設備もないので何もアメリカに頼るものがなく、
ドルを得られないのでは輸入も輸出もできなかった。こうしてとりあえずは無償提供の
人道援助から始まっていた。ソ連も代表団を派遣して会議に参加し協定に調印した。が
しかし拠出に当たり、最終的に国内批准はせず、割り当て出資を拒み、IMFには参加
しなかった。その上先にIMFに参加したチェコスロバキアに圧力をかけ脱退させて、
同じ仕組みの、東欧諸国によるコメコンを設立した。国内を納得させる事が不可能と決
断したのである。又ここで世界政府が出来てソ連は下部につく事は許せなかったのだ。

1341: 名無しさんAA:18/09/02 00:55
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   383    > 

 世界はドルを貿易決済通貨とするブレトンウッズ体制に切り替わったのだが、世界の
金と工業設備の多くがアメリカに集まり、そのアメリカの通貨が世界の貿易決済通貨と
して使われる体制下では、欧州などアメリカ以外の国々は、金も工業設備もないので何
もアメリカに拠るものがなく、ドルを得られないので輸入もできなかった。制度が始ま
って3年後の1947年には、ブレトンウッズ体制は世界の貿易振興や経済発展には、
役立たないことが明らかになった。世界の富の大半がアメリカに集まり、他国より工業
生産が発展していたという状況を考えれば、確かに他の国が輸出をしてドルを手にし、
世界にドルが流通することは考えにくい。アメリカは考えたのだろう。ドルを貿易決済
通貨にして世界経済を発展させるには、アメリカ国外の世界で流通するドルの量を増や
す必要がある。外国にドルを流出させるには、アメリカは意図的に輸入や経済援助を増
やし、国際収支を赤字にしなければならなかった。この問題を解くため、最初にアメリ
カがやったのは、当時ちょうど始まったばかりの「冷戦」を口実にした、西側諸国への
気前良い「経済援助」だった。その代表は、西欧諸国に対する巨額の経済援助「マーシ
ャルプラン」(欧州復興計画、1947−51年)であり、日本に対しては朝鮮戦争(
1950−53年)に際しての軍事特需や、ソニーやトヨタなど日本のメーカーに対す
る技術提供であった。「欧州や日本の共産化を防ぐため、アメリカからの巨額の経済援
助が必要だ。」という説明が考案された。ケインズはフェビアン社会主義者で、ホワイ
トは国際共産党主義者で、社会主義者と共産主義者が協議して戦後の“資本主義体制”
を決定するという実に不思議な会議は、フェビアン協会が卓越した知識人の協会だった
から集められた会議とも言える。フェビアン協会は1884年1月4日にロンドンで設立され
た。和名は「改良社会主義」と訳されていて社会主義草創期に新生活友愛会と言う支部
が出来て、清潔で単純化された生活の模範を示すことで、ゆっくりした社会変革をしよ
うとした機運にあった。しかし、個人の精神生活に籠ろうとするグループと、社会改革
に携わろうとするグループがあり、後者のメンバーがより政治的な団体を別に作ろうと
した結果、フェビアン協会の創設が決まった。さしずめ日本はその前者の方の発展形か
も知れない。設立後、数々の著名な社会主義に魅力を感じた多くの知識人が入会しメン
バーとなり、ステータスの様に見えた。このグループは革命的ではなく、むしろ緩やか
な変革を志向し、漸進的社会変革や教条主義的マルクス主義に対抗し、暴力革命を否定
しそうしたものをした抑制思想や運動をフェビアン主義とされた。

1342: 名無しさんAA:18/09/02 00:56
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   384    > 

 このフェビアン社会主義の目指すものは、今の中国の様な意味不明の理想郷である。
それは、土地と産業資本の共有化を目指すなど社会主義団体としての綱領を明確にして
いるからだ。中国社会は、少なくともこの要綱に於ける企業資本と土地に関して個人の
所有は認めていない。フェビアン社会主義の特色のひとつである、レント(地代)論が
ある。これはリカードの言う比較優位理論の骨子を援用し、土地・資本・技能における
比較優位から得られる超過利潤は社会的に共有されるべき、という主張からだが、少な
くとも良い方向の管理社会で余剰利得の個人所得を認めない。と言う事では日本の税制
も似て居たと言える。ここにあるのは世界政府と言う思想に近い物だった。ケインズも
ホワイトもリトアニア移民のユダヤ人の息子だったらしく、常に領土紛争の餌食になっ
て紛争が絶えなかった為、土地と言うものを最初から独占物とさせない思想を訴えたの
かも知れない。その上でその領土の特殊性で得られる富を公平に分配すると言う主義を
尊重したのであろう。だが、不思議にもそれは日本の江戸幕府の考え方と同じだった。
違っていたのその経済に対する精神性だったのだろう。江戸時代の幕府にしろ藩主にし
ろ巨大な権力を持っていた。だがその土地も資本も技能も恐らく直ぐに無駄になる地域
性をもっていたのである。それが地震や津波や火山や豪雨といった自然災害の多い国の
特徴だったのだ。更にその超過利潤の再配分は、徳川氏の、目利きの効くように行った
参勤交代や江戸城に婦女子を住まわすと言うしきたりを置いたものだった。これによっ
て図らずも再配分となり、金の産出する所や海外交易の場所を幕府直轄として領地差を
少なくしたのである。ところがこうした思想は人や社会を管理する事で成功する。江戸
期も随分と試行錯誤して御犬様で有名な徳川綱吉の頃にやっと精神性が出てきて朱子学
や道教などでやっと人がまとめられたのが現状のようだ。荻生徂徠はそうした江戸元禄
期の享保年間に出た儒者である。古文辞(こぶんじ)学派を作り、名は双松(なべまつ)、
字は茂卿、通称は惣右衛門(そうえもん)とされる。徂徠は号で物部氏のの家系の出とい
い「物徂徠(ぶっそらい)」と称した。父は徳川綱吉の侍医。江戸に生まれ14歳の時に
「四書大全」などを学んで江戸に戻り、柳沢保明(やなぎさわやすあきら)に仕えている
。将軍綱吉の学問相手も務め,赤穂浪士処断の時「法にのっとり厳罰に処すべき」と献
言し有名である。1709年江戸茅場(かやば)町の自宅に家塾園(けんえん)を開いて、山県
周南、安藤東野、服部南郭、太宰春台らの門人を育てて、徂徠の学問は宋学や山鹿素行
伊藤仁斎の復古学の影響を受けながらも、批判し古文辞学による六経(りくけい)の正確
な理解を通じて新たな儒教体系の確立したと言われる。今の中国に聞かせたい偉業である。

1343: 名無しさんAA:18/09/02 00:56
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   385    > 

 終戦からの1945年から47年まで、英米は敵国だったドイツや日本が国力を復活
しないような方策の策定だった。特にドイツには、主要な鉱工業の生産量に上限を設け
て経済成長を阻害させた。しかしソ連の「IMFの政策は、計画経済と対立する」とし
ての、IMF不参加で結果、ブレトンウッズ体制は資本主義世界(西側世界)だけでの
スタートとなった。この頃疲弊したイギリスも、ブレトンウッズへの参加に迷いを見せ
ていた。その為アメリカは、イギリスへの200億ドルの武器貸与額の帳消しと、37
.5億ドル の借款供与でようやく参加を認めさせた。英国はV2攻撃によって国内産業
は早いうちに壊滅し微々たる生産で対抗していた。これに米国の武器支援が累積で20
0億ドルにもなっていたのである。又アメリカは、1948年に国際貿易機構(ITO
)を結成しようとしますが、多くの国が同意しませんでした。そのため、暫定的な措置
として、GATTが23カ国の参加で結成されます。GATTは、「最恵国の待遇」や
「内国民の待遇」を原則に据え、貿易の数量制限の撤廃と関税率の引き下げを目指すも
のだった。その後GATTは、1995年にはWTOに衣替えをして、国連の一機関と
なって存在した。このIMF、IBRD、GATT、ゴールドとドルの兌換制をまとめ
て、『ブレトンウッズ体制』と言う。この体制が戦後のアメリカの経済力に大きく寄与
した体制だったが最初は機能しなかった。その為マーシャルプランの導入を機に、これ
まで敵国条項で抑止政策していた日本やドイツの投資禁止が廃止され、政策は180度
転換し、西ドイツや日本に対する気前の良い経済援助、技術援助が開始された。元々、
世界のウラン鉱山のほぼ全てを独占するロスチャイルド財閥の配下で軍需産業関連会社
が、大戦後に予定されていた米ソの二大国間の核軍拡競争と原子力産業によって、原料
や技術供与からくる莫大な利益を見込んで、核の脅威を世界に示した後の商売を見据え
た会議の必要があった為だ。という真相だった。よく巨大金融資本とは、ワンワールド
構想で勇名な「フリーメーソン」とも言われるが戦後に幅を利かして冷戦に飛び回った
事は確かなようだ。代表的プレイヤーのキッシンジャーはその回顧録には苦悩をしたた
めている。日本に於ける戦費は、天皇の口座によって戦争のための兵器購入資金を敵国
である米国ディロン・リード銀行から「借り入れ」ていた。ディロン・リード銀行社長
は、J・フォレスタル国防長官であって、「日米安保条約」を策定した親日家だった。

1344: 名無しさんAA:18/09/02 00:57
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   386    > 

また、副社長は陸軍次官のウィリアム・ドレーパーだった。ある意味アメリカ国防長官
が社長を兼務している銀行が、敵国である日本軍の総指揮権を持つ天皇に戦争資金を貸
し付けていた事は異常とも言える。こうして貧相な日本軍の兵器購入資金は天皇口座の
一部がスイス銀行に莫大な財産を蓄積した事で賄えた。このディロン・リード銀行の親
会社はブッシュ一族のカーライル軍事産業専門投資会社であり、ブッシュ一族が経営す
る銀行がハリマン銀行であった。第二次世界大戦の戦費がアメリカの、ディロン・リー
ド銀行・ハリマン銀行・カーライル投資会社から出ていた事で、海軍の軍船は建設中止
は仕方なかった。こうした立場の天皇は、戦後に戦争責任を問うことは別問題だったが
、東条英機以下軍部が全ての責任を負うという東京裁判に、天皇を犯罪人で決着させる
事は困難だったといえよう。江戸の黒船来航と明治開国期から既にディロン・リード銀
行やハリマン銀行の日本の代理人は天皇を指定していた。彼らが、マンハッタン計画に
おいて、ディロン・リード銀行の社員として現場で核兵器開発を指揮したデイヴィッド
・カーママンを通じて海軍基地の、広島、長崎に投下する事を示唆した。とされている
。彼らが核兵器製造の専門家であると同時に、ニューヨークでディロン社の兵器を販売
する「死の商人」の商社カーママン&ウィットキンを経営していた。このカーママン&
ウィッキン社は、カーママンと昭和天皇が共同で設立したメキシコ原油の掘削会社の筈
が、いつの間にか兵器商社に変わっていた。ウィリアム・ドレーパーは、大学卒業直後
に米国陸軍に入隊し、第一次世界大戦中は歩兵連隊の少佐として戦い、終戦後は予備役
なったが後に第77歩兵師団の参謀長(1936年〜1940年)にまで昇進し、同時にニューヨ
ークのナショナル・シティ・バンク(1919年〜1921年)、バンカーズ・トラスト(1923
年-1927年)、ディロン・リード(1927年-1953年)と渡り歩いている。1937年ディロン
・リード(戦間期の米国で数百万ドルのドイツ産業の債券を引き受け投資銀行)の副社
長に就任した。しかし、優生学の支持者であったドレイパーは、ニューヨークの米国の
自然史博物館で開催された第3回「国際優生学会議」(国際優生学会連盟主催)を後援
し、許しがたいドイツのユダヤ迫害に資金提供している。日本とアメリカが戦争すれば
するほど、ディロン・リード銀行が儲かる仕組みであり、ディロン・リード銀行の株主
となっているベクテル社は、世界最大の核兵器原料メーカーで近年の福島原発の汚染水
問題でも研究者を派遣した。このベクテルはパパブッシュが経営している。

1345: 名無しさんAA:18/09/02 00:57
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   387    > 
 マーシャルプランは、1947年に米国務長官ジョージ・マーシャルが発した宣言的
な演説によって始まったが、ハーバード大学で行われた演説を聞いたのは、欧州のジャ
ーナリストらが中心で、欧州、特にイギリスでは大々的に報じられたが、米国内マスコ
ミではあまり報じられなかった。ホワイトハウスはこの日、トルーマン大統領の記者会
見を行なっていて、国内マスコミの目をそらした形になった。米国内に知らせないよう
にしたのは、議会や世論から、対外援助の大盤振る舞いを無駄遣いと批判され、計画を
潰されかねない恐れがあったからと言われる。思惑通りに1950年代以降、ドイツや
日本は、アメリカからの経済援助と技術支援、巨額の買い付けによって、急速に経済力
を回復し、対米輸出を増やし、ドル備蓄を増やして行った。米政府はまた、冷戦を口実
に自国の防衛費を増やして、世界中に米軍基地を置き、海外で駐留費を使いまくった。
終戦時には大きな黒字だったアメリカの国際収支は、1958年には赤字になり、その
後は日独などからの輸入が増えて行き、経常収支も赤字となった。1972年代には、
ユダヤの金融の長であるデイビッド・ロックフェラーは、オランダ王室ビルダーバーグ
会議への日本の参加を打診した。しかし昭和天皇は断られたため、ズビグネフ・ブレジ
ンスキーに日本が加わる会議の創設を提案した。この時宮沢喜一、大来佐武郎らを招待
した勉強会が開催され、翌年の1973年10月に「三極委員会」が誕生したといわれる。そ
の後昭和天皇に拝謁して、米国が管理していたロスチャイルド銀行の天皇家の口座や、
スイス銀行の口座をそのままにしておく事を懇願しに来たとされる。1965年からの
ベトナム戦争の出費大幅増に加え、米国内での「偉大な社会計画」の、貧困対策の出費
などで、米政府のドル増刷に拍車がかかり、経常赤字増加で、アメリカからの金の流出
はついに止まらなかったからだ。1971年には、米政府はドル発行総額の22%分し
か金を保有していない状態になり、ニクソン大統領が金とドルとの交換停止を宣言して
「ニクソンショック」を引き起こし、ブレトンウッズ体制を終焉させてその処理に銀行
は天皇家の資金が必要だったのである。2007年にも来日、回想録の出版記念会が都内の
ホテルで催され、出版記念サイン会が催された。この時のデイビッド・ロックフェラー
の来日はシティグループがサブプライム問題で大きな損失を被ったことで天皇に会いに
きたとされる。デイヴィッド・ロックフェラーのオフィスには150000人の名刺を納めた
ローロデックスがあるが、その中には世界の政財界の要人4万人の「銀行外交官」と称
される親交ある人達がいる。その中の斎藤邦彦(元駐米大使、元外務事務次官)はロッ
クフェラー宅で甲虫類のコレクションを見学しているが、民間人として天皇を自宅に招
いた唯一の人物であるという。

1346: 名無しさんAA:18/09/02 00:58
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   388    > 

 アメリカが赤字を拡大し、世界にドルを流出させ世界経済は成長させた。貿易量は増
え続け、同時にドルの刷りすぎ状態で、国内にインフレや金相場の値上がりが起きた。
ブレトンウッズ体制は金1オンス35ドルの固定相場制であった為、相場を維持するに
は、ドルをアメリカの金保有量に見合う限度の発行量にとどめておく規則が必要だった
。しかし実際にはドル発行量の規制は何もなく、ドルはアメリカの金保有量に見合う額
を大きく超えて増刷され続けていたのだ。ロンドンの金相場(自由市場)は、1960
年代から1オンス40ドルを超えて値上がりし出していた。この状態で各国政府は、手
持ちのドルを米政府に持ち込んで金に替え、それをロンドンで売れば利益が出る状態に
なっていて盛んにピストン式の利ザヤ稼ぎをしたのだ。アメリカは日独などにドルを金
に替えないようクギを差したが、1965年からはベトナム戦争の出費大幅増に加え、
米国内での「偉大な社会計画」(Great Society programs)と呼ばれる貧困対策の出費
などで、米政府のドル増刷に拍車がかかったままで、一向に変化がなく経常赤字は増加
し続けた。アメリカからの金の流出も止まらず、ついに1971年には、米政府はドル
発行総額の22%分しか金を保有していない状態になり、ニクソン大統領が金とドルと
の交換停止を宣言して「ニクソンショック」を引き起こし、ブレトンウッズ体制が終焉
した。この時キッシンジャーは中東に飛び中東のオイルマネーをドル建てとして行く確
約をとり一番の購入者の日本に了承を求めていたのである。ニクソンショック前のアメ
リカの状況は、今のアメリカの状況と良く似ていて、当時ベトナムの戦費や財政の大盤
振る舞いによってドルの信用不安が起き、1972年のニクソン訪中など世界の政治体
制の「多極化」が推進されていた。今はイラクの戦費や、テロ対策・ハリケーン被害、
復旧費などの財政の大盤振る舞いが行われ、ドルの信用不安が起こり、同時にロシアや
中国の台頭をアメリカが容認し、世界の多極化が推進されている。歴史は繰り返されて
いるとも言える。ブレトンウッズ体制の、基軸通貨のポンドからドルへの移行は、単に
覇権国イギリスが崩壊してアメリカに覇権が移ったわけではない。イギリスの覇権維持
のために、アメリカを利用する体制を作っていた。それが先の金交換である。これを裏
で画策したのが、金融資本家=金貸しだった。金融資本家は、当時の覇権国イギリスを
2度の戦争に陥れたが、次の覇権国アメリカを利用してより磐石な覇権(米英中心主義
)を握り中央銀行の発行権を得ている。そして、その中心はロスチャイルドであった。
当時アメリカ資本を握っていたロックフェラーとの力関係については、ロックフェラー
はロスチャイルドと縁戚となりの手下となって協働していた。

1347: 名無しさんAA:18/09/02 00:59
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   389    > 

 よく第二次世界大戦で話題なのは、極悪非道のナチズムの台頭とされる。しかし現実
には一番ひどかったのは共産主義の台頭であって、ナチスと言う社会主義正義党はソ連
の赤軍の様に、暴力革命を起こしていないし暴力革命を支持もせず国民の反共産主義の
中から自国防衛に出来て民主的に選ばれたヒットラー政権であった。更に間違えてなら
ないのは、そのソ連の共産主義を応援したのはユダヤの代理人となっていたチャーチル
でありフランスの保護の為にドイツとソ連との対立で消耗戦を期待したイギリス国民で
あり、独国VS仏国では仏国に味方し独国VS露国では露国を味方した。こうして囲わ
れてしまった独国人にとって活路は南下政策しかなかったのである。しかし日本では、
こうしたフランス戦争の頃に開国したと言う、実に運のいい開国であり、中東のオスマ
ン軍が露国や英国と戦って居る頃で。大英帝国が世界の植民地に手一杯で日英同盟が出
来た。欧米から言えば日本はまだよちよち歩きの幼児のようなもので、第一次世界大戦
すらも国としては幼稚園の幼児が重たい鉄砲を持って世界大戦に出かけて、英国の様な
大人の後ろをついて行くような有様だった。日本が自立しようとしたとき一番中国と違
ったのは金融の独立が図られた事だろう。日本の金融制度は徳川幕府の金塊から始まる
。新たに出来た明治政府には、各藩が所有していた保有する資産しかなかった。日本は
、英国や仏国米国と戦争した長州と薩摩の賠償金に追われ、徳川埋蔵金しか頼れる物は
なかっただろう。薩長土肥の新政府において薩摩のみが金を持っていた。対外交易、つ
まり密貿易で貯めていた。しかし薩英戦争での膨大な賠償金で借金財政となるところを
支払い拒否続けて徳川幕府が仕方なしに代理支払いしていた。この為薩摩と長州は、ど
うしても徳川氏を政権内の末席にでも、旧幕藩の首領を入れる事は出来なかった。統合
紙幣で中央銀行券の発行が待たれた時、日本銀行設立に新政府は動く。創設時には薩摩
財政を担っていた松方正義に預けられ、金融制度の中枢であるスイスユニオン銀行の、
バックアップを求めた。スイスのチューリヒおよびバーゼルに本拠を置くスイス最大の
銀行で、当時から世界有数の金融持株会社ではあったものの、1862年設立当初はスイス
興業の為のスルザー家拠出で出来た五百万フランの資本金の小さな民間投資会社でしか
なかった。。今では1998年のスイス銀行コーポレーションなどをスイス・ユニオン銀行
との合併した「UBS」が正式社名となり、スイス銀行のシンボルマークである3つの
鍵がブランド登録された銀行になっている。

1348: 名無しさんAA:18/09/02 00:59
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   389    > 

 1877年に渡欧し、1878年3月から12月まで第3共和制下のフランスのパリ
に滞在して、時のフランス蔵相のレオン・セイとの会談にこぎつけた。この事から次の
3つのアドバイスを受けて実行している。1.日本が発券を独占する中央銀行が権利を
持つべきである。2.フランス銀行やイングランド銀行は参考にならない。3.最新の
ベルギー国立銀行を例として精査するべし。というものだ。その後フランス滞在におい
てレオン・セイの紹介で、フランスのアルフォンス・ロスチャイルドと会見している。
アルフォンス・ロスチャイルドは1827年にロチルド家(ロスチャイルド家)の始祖であ
るマイアー・アムシェル・ロートシルトの五男(末子)のジェームス・ド・ロチルド男
爵の長男としてパリに生まれている。ロシア皇帝が作った東インド交易の株式会社配当
で大儲けして1870年5月にアルフォンスは皇帝ナポレオン3世に召集されてワイン産業に
投資して住み着いていた。しかし、スペイン王位継承問題で普仏関係が悪化する中では
普仏関係の調停を英国にするよう働きかけてほしいと依頼されていた。ロチルド銀行を
を継承した頃に普仏戦争が勃発し、プロイセン軍のパリ包囲戦中、アルフォンス所有の
フェリエール宮殿もプロイセン占領軍に大本営として接収されたが、ヴィルヘルム1世
が一切の略奪を禁止し、鉄血宰相ビスマルクが入城した事で難を逃れた。この時既に、
英国に資金を移していた事もあって、パリ包囲戦中は、ロンドン・ロスチャイルド家の
協力も得て、飢餓にあえぐパリ市民に食料を届ける救援活動に尽くしたと言われるが、
恐らくはこの救援活動こそが資金や貴金属の移動であったのだろう。フランス銀行理事
であった事で、プロイセン政府との交渉にも活躍し、その後代々継いで松方正義に会っ
ていた。鉄道投資でロシアとも繋がりのあったアルフォンヌは、1883年には財政困窮に
陥ったロシア帝国政府の公債発行を引き受ける代わりに、バクー油田の中でも最大規模
のバニト油田をロシア政府よりもらい受けている。バクー油田の開発を進めている。そ
の後縁戚に当たるアルフレッド・ノーベルに資金提供して開発を進め、大成功を収めた
。専用列車で鉄道旅行するのが趣味だったといい、ルネサンス期の金工品を収集してい
た。慈善活動も熱心に行い、フランス全土に博物館や役所、学校を寄贈している。寄贈
を行った市町村の数は二百にも及ぶ程でフランス文化を憂い、芸術家の保護に熱心だっ
たと言われる。

1349: 名無しさんAA:18/09/02 01:00
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   390    > 

ベルギー国立銀行(BNB:ベルギー ナショナル バンク)ベルギー国有国際銀行は
、ベルギーがまだネーデルラント連合王国の頃、1822年にソシエテ・ジェネラル・ド・
ベルギーという総合商社の会計部門として立ち上がった。ウィレム1世が発起人であり
、彼と関係者が株式の大部分を保有した。この会社は大掛かりな抵当貸付を営む一方、
政府銀行家として国債を発行し、中央銀行としての発券や、貯蓄銀行の資金を預かりを
していた。しかし1835年、対抗して民間用にベルギー銀行をチャールズが男がつくった
がベルギー銀行は、ジョン・コックリルと組んで、ベルギー総合会社とロスチャイルド
が計画していたパリ=ブリュッセル鉄道の利権を奪った。コックリルは羊毛屋だったが
1817年1月にウィレム1世から工場建設の為のスラン城をわずか4.5万フランで払い下げ
てもらい、手広く商売を行い、羊毛・染色、精糖、各種鉱業と製鉄・機械におよび、オ
ランダ・フランスにも投資をする一大コンツェルンを築きあげて居た。両社は共に手形
の応酬や株式発券などでライバルを潰そうとした戦いを繰り広げていた。しかし国王排
除の1848年革命では、ともにデフォルトしてしまっていた。この救済にベルギーは双方
の銀行券を法定通貨として認め、元法務大臣のフランソワ・ド・オシー卿を初代総裁と
して国立銀行とした。第一次世界大戦ではドイツ帝国に占領されたが、10億ベルギー
フランをこえる銀行券を発券して、フランス、ベルギー、イタリア、スイスを原加盟国
とする通貨同盟の中心であった。景気循環を入れた為替レートを決めたり、参加国の金
為準備・金為替両方の制度をつくり一貫した口座振替制度を牽引してきた存在だった。
フランス銀行の正貨準備高は25%も跳ね上がり、正金の余剰が生まれ、比較的少額決済
に使われた銀硬貨が都市部で相対的に希少となったのだ。名目の市場原理が、実際には
農村部の残存銀へ投機を追認した変動価格の金本位制および産業資本が此処に生まれて
居た。しかし、ロスチャイルドら東アジア貿易を重視して金銀比価を固定した(金銀複
本位制)を主張する金融資本とが対立した構図にあった。しかし歴史上この通貨同盟は
古くから投資し後ろ盾となり、スラブ通貨同盟や北欧通貨同盟、中東通貨同盟、アジア
通貨同盟、と世界を決める通貨価値の決定権を持っていたのである。しかし普仏戦争に
敗れたフランスは50億フランの対独賠償債務を背負い、フランス銀行が兌換停止とな
り、大不況で減価した銀が通貨同盟圏に押し寄せた。1878年にはラテン通貨同盟全体が
、目的を失って銀貨の発行を停止し変化した。この事はオセアニアをふくめた東アジア
貿易での銀貨による支払いが倍増したロスチャイルド系の投資銀行も又影響を受けた。

1350: 名無しさんAA:18/09/02 01:00
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   391    > 

 こうして、ベルギーの中央銀行は、欧州中央銀行制度に参加していて日銀のモデルと
なった。松方正義は明治維新後には、独自通貨ベルギー・フランを発行していたこの姿
や会計処理を真似て日銀を作った。国立銀行の設立時に通貨発行権をベルギー総合会社
に譲った歴史をもっており、現代へいたるまでの経営史も他行との関わりにおいて興味
深く、ベルギーの中央銀行を真似て、天皇家や各藩の男爵や伯爵家の持つ地方銀行や更
に三井や三菱や海外資本に銀行部門を作らせ彼らからその資本である株式を持ち合いし
て不足分を海外から供給すると言う負担の少ない方式でスムーズに出来あがった。この
時横浜に出て来ていたのが、みなとみらいに銀行業務発祥の地とした、英国系金融機関
HSBCグループの香港上海銀行は,創業2年目の1866年(慶応2年) 居留地62番に、
日本で初の支店となる横浜支店を開設した。その後, 居留地2番(現山下町2番地)に移
転した横浜支店は貿易金融業務の提供に留まらず、日本政府に対して銀行業や通貨制度
に関する助言も行いました。香港上海銀行は、現在日本で営業を行っている最も古い銀
行です。日本で一番最初の銀行は 明治6年創立の 「第一国立銀行」とされ、日本橋に
発祥の地のプレートが飾られている。これは「日本の資本による銀行」の意味だという
。つまり銀行の文字が作られたのは、この第一国立銀行からだ。それまでは両替商であ
り、外国資本はあくまでも銀行業務を行ったに過ぎない。ところがその銀行業務は実は
日本初は長崎のグラバー商会が最初である。この商会業務そのものが日本最初であり、
商会と言うのが物々交換の中の会計処理を示している。つまり古物商の質屋と同じに、
輸出入品を預かっていたのである。知っての通り、幕末の騒動期には佐賀鍋島藩や薩摩
島津藩更に幕府直轄で反射炉が出来て、輸入品か国産品かが紛らわしく長崎からの輸入
も見つかり難かった為に摘発は無かったものの、基本的には幕府許可が出ない品々では
密貿易と言う他はない。ただ長崎では今の長崎造船所で日本初の機関車が走っている様
に長崎出島付近では既に便利な南蛮品は長崎奉行の責任で認めていた様だ。しかしこの
グラバーも横浜に本社のジャーディン・マセソン商会やサッスーン家が乗り込んで来る
に至っては支店のグラバー商会は手も足も出なかった。こうしてその後見人としてこの
ロスチャイルド家4代目当主アルフォンス・ロスチャイルドは、それに乗って出資や株
券の保証に同意した。だが日本政府には厳しい制限があった。当然日銀を設立した松方
正義はそのために国立銀行条例を改正し、国立銀行から貨幣発行権を奪って日銀総裁を
置いた。

1351: 名無しさんAA:18/09/02 02:20
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   392    > 

 それは諸大名だった伯爵家には全く憤慨するものだった。各藩内の流通や会計の融通
に銀行を設立させ、その銀行発行券や今までの藩札が見る間に只の紙切れになったのだ
。その上その中央銀行の設立に買わされた株券がそのまま日本銀行券と引き換えられて
、覇権国とのカウンターパートの関係者で押え、ロスチャイルドのカウンターパートに
なって株券譲渡に及んで今までの発行権限は無くなり、日銀券発行権限も各藩の銀行が
株券を持っていながら外されたのだから。これが日本の金融史上、重要なポイントで、
新政府にとっては仕方のない事だったのである。貨幣発行権を奪われた各藩の公立銀行
は期限内に私立銀行に転換させられた。こうして日銀券の流通により、江戸時代の「藩
札」以来の地方通貨は姿を消し、日本の金融は日銀の支配下に入ったのである。この時
に要になったのは、その制度が金本位制とした事だった。金と紙幣との兌換制度を確立
することによって、それまでバラバラに発行されていた紙幣を統合した。この為各藩や
産業の長であった財閥はこぞって閉鎖された金鉱山や銅鉱山或いは石炭鉱脈に力をいれ
資本投下をそうした鉱山運営に注いだ。この時、三井組と小野組を中核にして設立した
「三井小野組合銀行」の後身「第一銀行」は大量の日本銀行株を保有していた。従来、
三井も小野も互いに同様の営業を為していたがこれら富豪を含めなければ、新しい事業
に邁進できないとして、かねてより井上馨、渋沢栄一紙幣頭、芳川顕正紙幣権頭の尽力
により2社を纏めたものとして作られた。払込資本金244万円。今の価値で244億
と考えて良い。初代頭取には、大蔵省の内紛から 下野していた渋沢栄一が就任した。
又日本銀行創設以前にちゃっかり紙幣発券が認められており、発行する銀行券は金貨と
の交換を義務付けられていた。また、日本初の株式会社でもある。行章は「二重星(ダ
ブルスター)」であった。陸羽の物産と上方の物産を交易していたとされる小野家は、
、上方から木綿・古手などの雑貨を運び、奥州から砂鉄・紅花・紫根を上方に送って、
物産交易を営み財を成していった。江戸後期には幕府の「金銀御為替御用達」となり十
人組に加入し、御為替名目金を自己の営業資金に流用し、京都では和糸・生絹・紅花問
屋を、江戸では下り油・下り古手・繰綿問屋、盛岡では木綿商・古手商・酒造業を営ん
でいた。小野江戸の小野組は、日本橋本石町(現日本銀行敷地内)に為替会社を置き、
日本橋田所町に油店を持っていた。盛岡紺屋町の井筒屋の小野善助の時代に明治新政府
が出来たが全国に支店を置いたこの商店は分社化を決定し、京都府庁に転籍を申し出る
に至っていた。

1352: 名無しさんAA:18/09/02 02:21
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   393    > 

 小野助次郎は神戸へ、小野善右衛門は東京への転籍を希望したが、京都はその届出を
処理しなかった。小野組は当時既に全国28の支店を持つ大商人であって、租税収入の
減少と献納金の喪失は京都府庁には受け入れがたかったからだ。ここに国と藩の確執が
あった。直ぐに小野一族は小野組として転籍の許可を求める裁判に至った。しかし京都
の裁判所は裁判を行おうとしなかった。当時江戸に本拠地を変更していたが、後藤新平
は巨大資本と役所の馴れ合いを許さず京都裁判で、明治新政府内の長州閥と薩摩閥の争
いに巻き込まれる事を恐れていた新政府は京都府に許可の受入れを説いていた。当時の
明治政府は封建体制の範である移動の禁止を否定していたことから転籍の許可はスムー
ズに行われる事は原則だったが宮家の権利も絡んでいたのである。行政と司法の癒着に
激怒した司法卿江藤新平は直ぐに北畠治房を派遣し小野組の戸籍の送付を命令したが、
それでも事は進まなかった。京都裁判所はこの京都府の対応を見て、受け入れを迫ると
ともに命令に服さない場合は六円の賠償金を知事と大参事に納付するよう命じた。それ
でもなお、京都府は前回と同様の理由で速やかな対応を拒否した。さらに征韓論を巡る
一連の事件によって江藤新平が下野し、事態はますます膠着状態に陥いった。その法を
無視した京都府の対応に、明治政府から疑問の声が上がる。見かねて声を上げたのは、
長州の文部卿木戸孝允だった。木戸は知事長谷信篤に裁判所の命令に従うよう説得を始
め、京都裁判所の北畠治房も厳しい態度で京都府に臨むようになった。1873年(明治6
年)年末、知事へ対して懲役100日もしくは贖罪金40円、大参事に対しては懲役100日も
しくは贖罪金30円という命令を再度下して、両者が守らないと見るや、大参事槇村正直
は東京に出た機に身柄を拘束して、ついに収監に至った。知事長谷信篤は司法の強硬な
手法に動揺し木戸の説得を受け入れ、翌1874年(明治7年)になってようやく送籍手続
きがとられて小野助次郎、小野善右衛門両名の移籍の希望は叶った。しかし明治3年か
ら3年間以上も経ち時代は大きく動いていてそうした事に足元を掬われた形で破産した
。1871年(明治4年)の廃藩置県以後、三井・島田・小野三家の為替方は府県方と称し
、三府七二県に支店。出張所を置き公金の収支に従事していた。中でも小野組は為替方
であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を全国的に手がけていた。

1353: 名無しさんAA:18/09/02 02:21
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   394    > 

生糸取引は古河市兵衛が、為替店は小野善衛門(西村勘八)が統括していたが、1872年
(明治5年)渋沢栄一の仲介によって、三井組と共同で「三井小野組合銀行」を設立し
たが三井は、鉱山開発などの資本も必要な事から三井銀行を別に作っていた。小野商会
は三井を大きく凌駕した老舗であったが、政府方針突然輸出入制限を行い、為替方に対
する方針を担保額の引き上げなどを行い、国際協調の為に優遇策を切った事で小野組は
御用御免を願い出て、資金全部を大蔵省に提出して精算をし、1877年処分を完了した。
こうして三井小野組合銀行は政府の第一銀行となり第一勧業銀行に合併していく。
 ところが、お隣りの朝鮮半島では近代金融制度の基盤がないまま開国主義にいた。こ
こにロシアが作った清露銀行が資本投下を狙っていた。欧米や日本の資本主義の影響を
受けた李氏朝鮮では、1884年以後日本の第一銀行韓国総支店(1878年設立)に関税収入
の管理を委託し、やがてはそれを担保にして同銀行からの融資を受けるようになった。
1902年以降大韓帝国(李氏朝鮮が改称)で第一銀行券を発行して、それを韓国国内の公
用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行化していた。その後第一次日韓
協約により目賀田種太郎が韓国の財務顧問につくと、この時民間銀行に過ぎない第一銀
行が外国の中央銀行業務を行っている事を問題視して韓国統監伊藤博文と相談した。結
果ここで日韓併合直前の1909年に韓国銀行条例(韓国法)に基づく中央銀行・韓国銀行
が大韓帝国政府と、日本皇室、韓国皇室および個人から資本金により設立されて、第一
銀行から中央銀行業務を取り上げた形となった。その韓国銀行は併合後の1911年には、
朝鮮銀行法(日本法)に基づく特殊銀行として朝鮮銀行と改称された。当初は日韓併合
時に、日本銀行券を朝鮮にも流通させる目的もあったが、その有力な意見を蹴って、元
老で財政通として知られていた松方正義が、「朝鮮経済の不安定さが、そのまま内地に
影響するのはまずいだろう」との見解を示したことから朝鮮銀行券を発行することにな
った。1884年には李氏朝鮮(後の大韓帝国)と契約して、関税取扱業務を代行し、後に
民間銀行でありながら、同国の中央銀行の業務を代行した。こうして1896年に普通銀行
の第一銀行に改組。1943年に三井銀行と合併して帝国銀行(通称・帝銀)となった。最
初の苦労する時期に小野銀行は第一銀行として、朝鮮半島経済を支えた業務を行い信用
を得てその地位を作っていたが、朝鮮半島での日本の第一銀行韓国総支店も政府に取り
上げられた形となった。不運な事だった

1354: 名無しさんAA:18/09/02 02:22
1873年(明治6年)7月20日 - 株式会社第一国立銀行開業。資本金250万円。
1874年(明治7年)     - 三井財閥が同行100万円分の株式を担保にオリエンタル・
バンクから借り入れ。
1875年(明治8年)8月 - 小野組の倒産により150万円に減資。
総監役渋沢栄一が頭取に就任。
1884年(明治17年) - 李氏朝鮮国政府と契約。釜山、仁川、元山での海関税を
取り扱う。
1896年(明治29年)9月 - 国立銀行条例による営業満了。株式会社第一銀行と改称。
1902年(明治35年) - 韓国で第一銀行券を発行。韓国政府公認紙幣として流通
1909年(明治42年)11月 - 株式会社韓国銀行(のちの株式会社朝鮮銀行)へ
韓国中央銀行業務を譲渡。
1912年(大正元年)9月 - 株式会社二十銀行を合併。
1927年(昭和2年)4月 - 株式会社東海銀行を合併[注釈 1]。
1931年(昭和6年)10月 - 株式会社古河銀行を合併(古河銀行は、小野組の流れ)
1940年(昭和15年)4月 - 前年傘下の国際信託株式会社を第一信託株式会社と改称。
1943年(昭和18年)4月   - 株式会社三井銀行と合併。株式会社帝国銀行設立。


1355: 名無しさんAA:18/09/02 02:23
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   395    > 
 オリエンタル・バンクは、時々インディアン銀行と称されていた。1842年、ボンベイ
で設立されて、当時は「バンク・オブ・ウェスタン・インディア」という名前であった
為だ。設立3年後には、本社がロンドンへ移動するに伴い、オリエンタル・バンク・コ
ーポレーションに改称した。1851年、イギリス東インド会社に続いてアヘン貿易の特許
状を得て、カルカッタ、コロンボ、それに香港をふくむ南京条約で開港された都市群、
それから日本の横浜、モーリシャス、ケープタウンにまで支店を展開した。1860年代、
オリエンタル・バンクの活動はインド・中国を軸にして、スリランカのプランテーショ
ンへ資本を集中投下し紅茶と香料輸出に出たが、そこにはずっと以前から手ごわい先客
がいた。英領セイロン総督のはじまる前からの、スリランカはバークレイズのデイビッ
ド・バークレイのプランテーションでがあったのだ。オリエンタル・バンクは、元々19
世紀のイギリス領インド帝国の農民の産業輸出用の植民地銀行として登場していた。香
港で最初の銀行であったし、同時に、その香港で初めて紙幣を発行した銀行でもある。
1893年恐慌で倒産するまで、日本国債の発行を積極的に引き受けた。明治期の文献には
、英国東洋銀行と書かれた。一方、1890年代に浅草に資本金20万円の東洋銀行という紛
らわしい別の金融機関が存在した。英国東洋銀行は幕末から明治維新にかけて、一般的
にはオリエンタル・バンクと呼ばれていた。これらの事情を考えて、呼称は、オリエン
タル・バンクに統一されている。そしてセイロンにオリエンタル・バンクが登場した時
にはマイアー・アムシェル・ロートシルトの孫モーリス・ベネディクト・ド・ウォルム
ズの所有地であった。ウォルムズ家は二百家族の一つであり、モーリスが1867年に死ん
でも農園の継承者はソロモンなどにいくらでもいたのである。この頃からオリエンタル
・バンクは投下資本の回収が出来なくなって融通資金が滞り、貸し渋りをするようにな
って行った。1866年の恐慌時代は、乗り超えたものの、会長のハリー・ゴードンがオー
バーレンド・ガーニー商会取締役兼任であったのをとがめられて辞任し、その後1873年
と1875年に不安定なチリ政府公債の発行に関与し、これがもとで1878年に9万ポンドの
損失を計上。1877年末、「諸支店での損失」補填のため準備金を17万5000ポンド取り崩
し。翌年末、チリでの損失以外で、オーストラリアを含む諸地域の支店で発生した焦げ
付きなどの損失補填に24万ポンド、銀価格下落に伴う損失補填に18万ポンドを充当した
。これらは予期せぬ火山噴火や地震や津波などであったと思われる。1884年、特許状の
禁じる半額減資を断行した為知る処となり、取り付け騒ぎが起きて、預金者をなだめる
ためリストラをした。その後各支店から株式を発行、「ニュー・オリエンタル・バンク
・コーポレーション」として再出発した形を取った。

1356: 名無しさんAA:18/09/02 02:28
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   397    > 

 イギリスでは、各孤島の植民地は植民大臣の直轄とされていた。総督は大臣から命を
受けて任期6年を務めるにすぎない。そして植民大臣は南アフリカ情勢に釘付けでもあ
った。そこで、副大臣のピアブリッジ男爵ヘンリー・ドゥ・ウォルムズが一族の利益で
セイロンを支配した。こうしてオリエンタル・バンクは追い出されたのである。1685年
頃アムステルダムに移り住んだユグノー教徒や教団は、もともと工業職人集団で経済資
本の要の人々であった。プロテスタント系であった彼らは世界初の銀行協会の組織を作
り金融融通を制度にした。ここに従来ではカトリック同盟がバチカンを通じて隠れて利
潤をため込んでいた権力が、初めて公に商業としての保険や貸金や利子の為の投資家が
生まれた瞬間だった。ナントの勅令やユグノー戦争はそうした新教団の行う融通資金を
認める代わりに、プロテスタント教会もカトリック教会も並びに国王には従来通りの課
税を敷くと言う3重課税の対抗戦争だった。1685年にアムステルダムに移住して起こっ
た貿易戦争でも、いち早く17世紀最大の銀行家にまで成長し、フランス革命後には多
くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもユダヤ系以外はプロテスタン
ト系によってフランス銀行業は担われている。ユグノーはとくに集中マニュファクチュ
アの担い手として重要であり、金融・商業においても支配的であった。コルベールは、
重商主義政策の柱に国内の金融業・商業・工業の発展を据えていたので、当然その担い
手であるユグノーを保護し、これと提携する道を選んだ。毛織物工業では、ラングドッ
ク・プロヴァンス・ドフィネはレヴァント地方への輸出用ラシャが大量に生産されてい
た。シャンパーニュ地方のスダンも北ドイツへの輸出用ラシャを生産し、毛織物工業の
中核でもあったが、ここではユグノーの製造業者が織機の半数を所有していた。ユグノ
ーはカルヴァン派がジュネーブで神権政治(1541年〜1564年)を履行して以降主流派と
なり、そしてマックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
で称賛して現代資本主義の元とされる。多年の戦争による莫大な戦費の為にフランスの
財政は破綻しかかっており、重税の為にフランスの民衆は困窮しきっていた。1709年に
はかつて革命を起こして王政を打倒したことのある「イギリス人を見習え」と謡う小唄
が流行したほどであったのだ。こうしてフランスの持っていた公国の財宝管理者だった
ベルギーの銀行とフランスの分家筋のイングランド銀行がインド洋や東南アジアで衝突
した。

1357: 名無しさんAA:18/09/02 02:29
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   398    > 

 1825年時の恐慌はフランス、ドイツ、アメリカにも影響していて、特にフランスにつ
いては国会で、「消費を増加させる事が機械によって生産物を増加させるほど容易でな
い」と言うような議論まであったとされる。1826年、セーの経済学概論の5版が出され
、セーが消費の限界を認めたと思われるほど経済の動きはて停滞していた。この恐慌に
付いては、イギリス政府の認識としては、1、投機の拡大 2、それを地方銀行の小額
銀行券が醸成した。とされ、その論点としては、ある者は銀行券の過発行を全般に非難
し、他の者は地方銀行のみを非難したとされる。結果として、まず前提として金融市場
に援助が必要とされる場合それは政府でなくイングランド銀行が行うべきとされ、1826
年に二つの法律が通され、1、5ポンド未満の小額銀行券の発行禁止  2、発行権の
ある株式銀行の設立、イングランド銀行の支店の設立、などが決められた。これらにつ
いては、スコットランドの銀行制度が安定していた。と言う現実から決められたとされ
る。当時のイギリス商務省長官で有力政治家であったハスキソンが、金銀複本位制の考
えを抱いたとされる。ハスキソンは、明らかに一定量取れて行く鉱物資源に活路を見た
1、当時の有力貿易相手であった南米が銀を多く算出していた事や、2、当時希少金属
こそが取付け時の金属準備となる事 3、戦時等の海外への流出に対応する為に必要な
戦争物資である。と言う資源だった事。などが考えられていた。が、政府内での明確な
国策結果は出なかった。ただ、これに付き後の1844年銀行条例がその3条で金属準備の
1/5は銀でも良いとされた事に関係が有る。こうした複本位制は19世紀後半に於い
ても国際金融史上では又、大きな問題になっていく。しかし日本はまだ江戸期真っ盛り
であり、逆に銀の需要が増えたスペインやフランスやオランダに向けて、浮世絵に包ん
だ有田焼などがどんどんと輸出されている頃だった。つまり、欧州社会はこうした海外
貿易の幕開けと共に、海外から格安輸入で自国産業の空洞化現象を引き起こしていたの
である。これが不況の元だった。このフランス恐慌が終わった頃、1890年に「ベアリン
グ恐慌」が起こった。これは恐慌史のうえでも1873年恐慌の次に起きたものとして取り
上げられる。一般的にはアメリカ、ドイツ等の工業隆盛に伴い又イギリスを徐々に凌駕
するにつれ景気循環の波が移行していった為とされる。

1358: 名無しさんAA:18/09/02 02:29

  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   399    > 

 オリエンタル・バンクは世界中に支店をばらまいていた頃、それらをベアリング恐慌
が直撃した。ベアリング恐慌は、欧州第6番目の有力者と呼ばれたベアリング商会が、
貸付債権が出せず証券の転売不可能になったイングランド銀行内の事件だった。1880年
代後半からは金持ちが増え、金満家の余剰金による投資ブームが訪れていた。北米への
投資、南アフリカでの金鉱等への投資、南米への投資、などが進んで旧来商社の農産物
の輸出入商社にも貸付の枠が広まったのである。南米への証券投資でも89年のイギリス
海外証券投資総額が1億2千2百万ポンドにある中に、4千万ポンドもの量が南米の投
資に向けられていた1/3の量だ。その中で多くがアルゼンチンに向けられ、それが、
「セデユラス」という「土地担保付債権」で売られていたのが現状だった。イギリスで
名門とされる会社は、ある時この確定利付き債権の一部が、アルゼンチンの財政状態に
不安を持った事で、イギリス国内では大きく危惧されて、この農産物用の優良な証券に
、価格下落が起ってしまい資金集めが困難になった。当初は商会は取るに足らない状況
と、楽観視していたが、取り合えず帳簿を銀行に完全開示し、大蔵大臣ゴッシェンとの
接触を持った。しかしこの時ゴッシェン総裁は「一商会の為には介入する事は出来ない
。」と話し、「支払い能力があるなら、あらゆる支援を惜しまない。」との発言してし
まった。こうして、ベアリングの状態が明かになるにつれて波乱が起こる。イングラン
ド銀行内部で主たる銀行、商社の会合が行われ、商社の支払い能力の調査と成ったのだ
。こうした事件と並行してフランスからは金(三百万ポンド)が払い込まれ、又ロシア
からも百五十万ポンドが振り込まれた。更にバンクレートを6%に引上げた。バンクレ
ートは中央銀行の市中銀行に貸し出す金利である。実際は支払い能力に問題は無かった
が、中央銀行は支払い拒否を恐れて、銀行の悪しき慣行である担保設定を行い、しかも
保証基金を作って防衛に務めた。これらが更に危機を煽った。それらの結果も、「銀行
の取付は一軒も無く、又国内の金の流出も起きなかった。」が、保証基金は3年間の予
定であったのが存続された続けた。これらを総括すれば@“保証基金“の創設は全く例
外であり一般的には持ちいれられた。A1883年以来引退していたTCベアリングは改組
され同社の取締役になりその財産を正大に新会社の自由に委ねられクラパムは「家族の
個人財産が次々に注ぎ込まれた。」B1844年法の法執行の停止を回避した事でその悪し
き慣行になる事がまぬがれた。C上記の通り政府から保証を取り付けたこと。とされる
。しかしこれが慣行になるなら正しくいう「民営」の根幹の問題になった。

1359: 名無しさんAA:18/09/02 02:30
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   400    > 
 イングランド銀行内部で開かれた主要銀行の会議は「公衆の利益が危機に瀕しており
ベアリング家にとってはその負債を払う事が不可能であった事を考慮して(実際には支
払い能力はあったが)同家の援助を行う決定」をし、イングランド銀行が「債務の為に
支給し」その代わり全ての不測の損失は3年間継続する「保証基金」によって「各自の
保証金額に比例して保証される」ことが申し合わせられた。こうして保証基金は1700万
ポンドにも達した。又並行して大臣は「ベアリング商会の手形の割引によって蒙るかも
しれない損失の半分を負担する約束をした」とされる。(ポンド・スターリング)但し
これについてはクラパムによれば文書にした時には表現は「曖昧」にされたと言う。保
証人については損害は発生せず、結果的に「直接的政府の支出」は無かった。結果1894
年には一切の支払いが新会社に移行されたとされます。実は日清戦争(にっしんせんそ
う)は、この年、1894年(明治27年)7月25日から 1895年(明治28年)3月(光緒21年2
月)にかけて、日英同盟の下で行われたが、この時大英帝国が正に各所植民地の叛乱と
、同じ欧州内の銀行権力の覇権争いと、スラブ地域の食糧輸送の制海権でオスマン軍と
戦い挑んでいた頃の事情があった。日清戦争では朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と
清国の戦争であったがしかし、アロー戦争以来のアヘン専売と清の開港と共に起こった
賠償金支払い問題だった戦争とも言えた。一方でこの戦争の結果が香港上海銀行やイン
ド・オーストラリア・中国チャータード銀行に競り負けて、1892年6月8日に清算される
結果も産んだ。オリエンタル・バンクは純利益は、ほとんど全てを配当していた。準備
金積み立ては主として増資のプレミアムで行われていたのだ。株主の構成に大変興味が
持たれる中実は債権者は対照的に、倍額責任条項がなかった。このため重い損害を被っ
たままになった。現在バークレイズ銀行は香港上海銀行(HSBC)の支配下にある。
こうしてオリエンタル・バンクが引き受けていた外債元利支払事務は、横浜正金銀行が
引き継ぎ、横浜正金銀行ロンドン出張所は支店に昇格した。この時の金融関係は全く、
微妙なものだった。先のベルギー銀行がベルギーフランを発行していたのはフランスが
後ろ盾に在ったからだが、フランスの金融はスイス銀行の金庫にあった。その実態は、
ベニスの商人を握っていた名門オーストリアハンガリー帝国のハプスブルク家の預金で
あったとされる。しかしロシア皇帝が資本投下した為に新興勢力であるイングランドに
大勢が替えて行こうとしていた。イギリス対オランダの東インド会社の抗争が熾烈にな
ったからだ。特に中国の権益には強い欲望が渦巻いていて拮抗していた。この時英国は
米国の独立を認めた、米国は仏国と組みスペイン攻略に出て居た。日本は英国について
行ったが、仏領インドシナと呼ばれたベトナムはフランスの物だった。

1360: 名無しさんAA:18/09/02 02:31
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   401    > 

 江戸時代、三井家は紀伊徳川の守護する伊勢松坂から出て来ていた。御用商人として
、紀州徳川家に対しては、既に巨額の御用金(貸付金)があり、これからもこれを納入
し続けなければならないことは、三井家の経済的・政治的負担でもあった。幕末期にお
いて起こった政変は、紀州家御用金の激増を招いた。1769年10月時点で、上納金額は金
36万4629両、銀662貫500目で、利息年8%,返済15ヶ年賦で既に回収出
来ない部分は不良資産として大元方に計上され消化された中の残額だった。これは恐ろ
しく巨大な数字で現代で365兆円を上回るものだ。享保期には、幕府は大坂・二条・
大津の御蔵にあった米・大豆を、米相場で売却する事に決めるが、その代銀の江戸送金
を1722(享保7)年から三井へ一手に任せた。それだけでなく、臨時御用とか急御用が
増えて、金銀為替送金を命ぜられていた。歴史的には嘉永6年(1853年)ペリー提督の
アメリカ艦隊が浦賀沖に来航し、幕府に開国を迫り、翌安政元年(1854年)幕府は日米
和親条約を締結した(ペリー来航)。安政5年(1858年)、アメリカの強い要求により
、幕府は日米通商修好条約を締結し、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様
の条約を結び(安政五カ国条約)、幕府の鎖国体制は完全に崩れた。そんな中、文久2
年旧暦8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と、
補償を艦隊の力を背景にイギリスが迫り、攘夷実行名目で着々と兵制の近代化を培って
いた薩摩藩兵が、実力でこれを阻止しようとして鹿児島湾で激突した。薩英戦争である
。更に続けて英仏米の連合艦隊に封鎖された関門海峡で下関戦争が起こり、歴史的には
1864年の戦闘を馬関戦争とされるが、薩英戦争におけるイギリスへの薩摩の賠償金二万
五千ポンドで、一両一ポンド換算で二万五千両幕府に肩代わりしてもらっている。薩摩
はその前年に藩政改革において、薩摩が三都の商人から借りていた五百万両を無利息の
250年賦返済を決めていて、反射炉建設他色々の借財があって、明治新政府になって
踏み倒している。渋る三井に50万御用金の催促が32万も減額して18万両でも手に
入れればよい。とされたが、これは幕府も崩壊寸前であり、しかも、小栗と(三井の三
野村)利左衛門の個人ルートで決定したとしか考えられない催促であった。こうしてこ
の年(1867年)10月,大政奉還,あくまで戦闘を主張した小栗忠順(当時の幕府の勘定
奉行)は翌年1868(慶応4)年知行地に帰ったところ,同年閏4月,勤皇軍に捕えられて
斬殺された。

1361: 名無しさんAA:18/09/02 02:31
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   402    > 

 鳥羽伏見の戦いの前夜に薩摩へ金千両を献納する三井組の最後の賭けが行なわれた。
かくて,1868(慶応4)年2月、新政府の会計局が設けられた時に、三井・小野・島田
三家が為替方三家として御用達を命ぜられるのである。翌68(慶応4)年1月17日、
三家は正式に会計事務局(金穀出納所改名)為替御用達となり,御為替方三井組が誕生
する。三井は前年末更に千両を献金し、翌1月15日は三井・小野・島田共同で1万両
2月13日に三家で3万両を拠出している。と会計官調達金元帳に記されている。この
金は「京両替店の地下穴蔵に「密建金」と名づけて秘蔵してあった秘密の積立金によっ
てまかなわれたものであった。」大元方の資金が全く枯渇していたときに、秘密の積立
金は確かにあったろうが、どのように明治維新以降の三井が立直っていくかは、三野村
利左衛門の腕だけでなく、諸研究のテーマでもあった。大臣になった時大隈財政は、各
開港場に貿易管轄の通商司を同年2月に設置し、7月大蔵省が設けられた。その下に属
してこれまでの商法司を廃止させた。その担い手として通商会社,金融を担当する為替
会社が設けられた。総頭取には小野・島田とともに任ぜられた三井は1872年7月までに
14万五千両を出資し(三井身元金総額94万8500 両の15%)とした。」 要するに御用
商人達は、時の施政者への金貸しを、徳川の時代から、薩摩、明治政府へと連綿と行な
ってきたのだった。ここに一人の佐渡の金山から生まれた画期的人物がいた益田である
。現在の新潟県佐渡市相川に生まれ幼名は徳之進と言った。父の鷹之助は箱館奉行を務
めたが曾祖父は筑後のキリスタンで罪人扱いとして佐渡に赴任していた。鷹之助が江戸
に赴任し孝も江戸に出て、ヘボン塾(現・明治学院大学)に学んだ。この頃麻布善福寺
に置かれていたアメリカ公使館に勤務し、南関村の手塚と同じくハリスから英語を学ん
だ。文久3年(1863年)、フランスに派遣された父とともに遣欧使節団(第二回遣欧使
節、または横浜鎖港談判使節団)に参加して、ヨーロッパを訪れていた。ヨーロッパか
ら帰国後は幕府陸軍に入隊。騎兵畑を歩み、慶応3年(1867年)6月15日に旗本とな
って、慶応4年(1868年)1月には騎兵頭並に昇進した。丁度薩英戦争の頃の話である。
賠償金問題の頃小栗から小判の粗悪鋳造を頼まれ 三井の持つ両替小判を西洋技術で、
銀の抽出に成功していた。こうして新鋳造技術は益田孝とともに,岡田平蔵が中心とな
って岡田組という新会社を設立する機会を得た。

1362: 名無しさんAA:18/09/02 02:32
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   403    > 

 横浜鎖港談判使節団は、池田長発(筑後守)を正使、河津祐邦(伊豆守)を副使、更
に河田熙(相模守)を目付とし、文久3年12月29日から元治元年7月22日にかけて(1864
年2月6日 - 8月23日)幕府が不平等条約の改定交渉にフランスに派遣した外交団である
。第2回遣欧使節、又は池田使節団とも呼ばれる。というのも孝明天皇は文久3年5月10
日(1863年6月25日)攘夷勅命を発して、幕府は5月9日(1863年6月24日)各国公使に開
港場の閉鎖を通達した。諸外国は当然拒否し、幕府も9日後に撤回した。更に下関事件
や薩英戦争、フランス士官カミュ殺害事件等が起きて諸外国との軋轢も高まっていた。
この状況で、幕府は攘夷派懐柔のため、江戸に近い横浜閉鎖交渉の使節団を派遣した。
これはもとより達成不可能な任務で、使節団の目的はフランス士官殺害事件の賠償交渉
のみが主眼となった。パリに着いた一行は皇帝ナポレオン3世に謁見し、横浜の鎖港に
関する交渉は、横浜を対日貿易・交渉の拠点と考えるフランスの抵抗にあい失敗に終わ
った。もとより長発自身も西欧の文明の強大さを認識して開国の重要性を感じ、交渉を
途中で打ち切り、5月17日(6月20日)、フランス政府とパリ約定を結んだ。一行は他の
国には寄らずそのまま帰路に就き、同年7月22日(8月23日)に帰国した。ここに「日本
條約基金」と題した1868(明治1)年1月8日付けの1通の書簡がある。いわく、
1868年1月8日、国務省、ワシントン 拝啓、名誉をもって以下の如くご通知しま
す。1864年10月22日付けで合衆国も参加して結んだ日本との取極め書の条項に
より、本政府は日本政府より、本質的に相当する理由のない、この取極め書に述べられ
る賠償金支払い分としての金貨・60万ドルを受領しました。この総額は 合衆国登記
公債に投資され、議会の処分決定を待っています。敬具 ウィリアム・H・スーワード
下院外交委員会委員長 N・P・バンクス閣下 というものだった。この金貨・60万
ドルは、「下関戦争」の合計300万ドルの下関戦争賠償金のうち、アメリカに支払わ
れるべき78万5千ドル分の半分に相当する金額と、その合衆国登記公債の利子や通貨
交換差益なども含め、当時アメリカ政府の手に渡っていたものであった。通常ならアメ
リカ政府の歳入として国庫に納入されてもおかしくない入金だが、その後に残りの支払
い分や長期に渡る公債の利子も合わさり、アメリカ国内で後に「日本賠償金基金」とも
呼ばれ、その処分について、アメリカ議会では15年もかけて繰り返しその処分方法が
論じられ、ようやく1883(明治16)年2月、日本がアメリカに支払った全賠償金
額を日本政府に返還する決定がなされた。と云うものだ。


1363: 名無しさんAA:18/09/02 02:32
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   404    >
 
そもそもアメリカ国務省では、何故、登記公債に投資するなどの特別処理がなされたの
か。当時のスーワード国務長官が決定したものだが、バンクス委員長宛てに、「本質的
に相当する理由がない」と個人的見解を書いた。即ち受け取る理由のない賠償金とした
のだ。つまり取り過ぎた賠償金だったのだ。なぜアメリカがこんな賠償要求をしたのか
。またこの300万ドルという金額そのものは、一体現今の価値でどの位か、あるいは
「取りすぎだ」と言うほど膨大なものだったのか。米国内の世論は「取りすぎだ」との
気運が強く、スーワード国務長官はその世論に配慮して登記公債に入れたと見る向きが
多い。しかし、若年寄・酒井忠眦(ただます)が横浜で4カ国と下関賠償取極め書を取
り交わした元治元(1864)年9月22日頃や、この翌年、ニューヨーク・デイリー
・トリビューン紙にフランシス・ホールの下関賠償記事が「日本からの興味ある情報」
と題して載ったぐらいで余りにも簡素だった。アメリカ国内は南北戦争時代であり日本
を気にするほどの余裕はないかった。それでも、このバンクス宛の書簡を書いた約1年
前の1867年3月末には、スーワード国務長官が主導し、アメリカ合衆国が720万
ドルでロシア帝国領のアラスカ購入に調印したが、多数の共和党議員からさえ「スーワ
ードの愚行」とか「スーワードの巨大冷蔵庫購入」などの声も出て、強い非難と反対意
見も出されていた。スーワードの粘り強い説得が議会でなされ、最終的にこのアラスカ
買収条約は上院議会で認められ、下院からも予算が付けられたが、今から振り返れば、
当時「巨大冷蔵庫」と非難されたアラスカは、その後金が発見され、一大原油・天然ガ
ス田が発見され、地政学的リスク面でも重要になったアラスカの地は、アメリカにとっ
ては金額に換算できない程の要所となった。そのアラスカの半額である。日本にとって
は膨大な散財で支払金だった。この300万ドルが如何に途方も無い大金であったかは
、当時の、次の幾つかの数字を比較して見れば感覚的に理解する事は出来る。当時ドル
・両の交換比率「一ドル三分換え」で換算すると、225万両の大金だった。下関戦争
の前年、文久3(1863)年当時の徳川幕府「貨幣方歳出」では、現金歳出は金換算
で705万7千両だ。これに「米方歳出」の約66万石を、当時の米の単価、1石2両
で金換算した148万5千両を合計すると、総歳出額は854万2千両になる。従って
この賠償金額300万ドル、すなわち225万両は、現金支出と現物支給の米を合わせ
た日本の総歳出額の26%強になる。文久3年の幕府年間歳出額の四分の一強という、
大変高額な賠償金額だった。

1364: 名無しさんAA:18/09/02 02:34
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   405    > 

この賠償交渉をした2年前、すなわち文久2(1862)年8月29日、当時の幕府は
蒸気軍艦を購入に、幕閣・板倉勝静(かつきよ)は、アメリカ公使・プルーインと会談
した。やり取りの中でアメリカでの最新造船軍艦の例として、船の長さが20−25間
の約千トン級の蒸気軍艦で16万ドル、長さが35間の約千五百トン級で、大馬力の最
新エンジンを搭載して30万ドル位の値段だと交渉している。これは300万ドルとい
う賠償金額が、当時最大35間・千五百トン級大型強力蒸気軍艦が一度に10艘も購入
できる金額だったのである。又鹿児島の薩摩藩が抱えていた積み上がった藩債の500
万両の強引な返済計画で無利子の踏み倒し、新政府樹立に動いたのはその軍艦20隻分
で、正に天文学的金額だったのだ。計画は、家老の調所笑左衛門廣郷と部下が発案し、
天保六年(1835)十二月頃に、500万両の藩債の踏み倒しに着手し、その方法は
新古を問わず、すべて250年ローンの無利子返済と言う無茶苦茶なものでした。債権
者側の京・大坂・江戸・奈良や国元などの大商人、親類筋、寺社などの隔てなく、一律
にこの返済方法を押し付け実施しました。返済額は年に2万両を明治四年(1871)
の暮れまで毎年の返済を実行し、旧藩債消滅の暴令発布の前年、すなわち明治五年の暮
れから返済を停止した。この新政府の踏み倒しの煽りを食ったのが長崎のグラバー商会
だったのは当然だった。下関で砲撃されたアメリカ商船・ペンブローク号の船主・ラッ
セル商会の損害賠償請求書によって、プルーイン公使はアメリカ公使館・善福寺の焼失
賠償と共に、幕府に合計1万ドルの賠償金支払いを求めていた。この時期は、老中格・
小笠原長行がイギリスに生麦事件の賠償金の44万ドルを支払い、条約4カ国に三港鎖
港通告を出し、将軍後見職・一橋慶喜が朝廷の命ずる攘夷を指揮するとして単独で江戸
に帰り、江戸の幕府では諸役の総反対にあって立ち往生をした頃だった。幕府は既に、
プルーイン公使のもとに外国奉行を派遣し、ペンブローク号の賠償金は支払うが、人心
が安定するまで支払いの延期を願いたいと交渉し、プルーインの同意を得ていたのだっ
た。その後、薩英戦争や朝廷内の「文久3年8月18日」の孝明天皇によるクーデター
など大事件の陰で解決が遅れ、1年近くも遅延された。痺れを切らしたプルーインは、
未払いの賠償金に遅延の利息支払いを要求するなど圧力をかけ始め、やっと元治1(1
864)年7月1日、幕府は30日以内の賠償金支払いを承諾すると云う経緯があった
。このペンブローク号賠償金の解決は、ちょうど下関戦争が始まる1ヶ月前の事だった。

1365: 名無しさんAA:18/09/02 02:36
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   406    > 

 実は馬関攻撃で被害にあったと主張するアメリカ商船・ペンブローク号へ日本政府か
らの賠償金は支払われ、軍艦・ワイオミング号派遣による長州軍艦破壊でアメリカの国
威に対する侮辱を晴らし、事件としては全て解決していた。しかしその上で下関戦争が
始まり、下関賠償取極め書による合計300万ドルの賠償金のうち更に78万5千ドル
がアメリカへ支払われるという成り行きが、ここでスーワード国務長官が言う、「本質
的に相当する理由のない賠償金」の重要な視点の一つでもある。突然の馬関攻撃後も、
長州藩は攘夷の姿勢を崩さず、下関海峡は通航不能となっていた。これは日本と貿易を
行う諸外国にとって非常な不都合を生じていた。アジアにおいて最も有力な戦力を有す
るのはイギリスだが、対日貿易ではイギリスは順調に利益を上げており、海峡封鎖でも
イギリス船が直接被害を受けていないこともあって、本国では多額の戦費のかかる武力
行使には消極的で、下関海峡封鎖の問題については静観の構えだった。だが、駐日公使
ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖によって、横浜に次いで重要な長崎貿易が
麻痺状態になっていることを問題視し、さらに長州藩による攘夷が継続していることに
より幕府の開国政策が後退する恐れに危機感を持っていた。元治元年(1864年)2月に
幕府は横浜鎖港を諸外国に持ち出してきていたのを機に武力行使を決意した。日本人に
攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の力を示す必要を感じたオールコックは長州
藩への懲罰攻撃を決意し、この方針にフランス、オランダ、アメリカを同意させ、4月
に四国連合による武力行使が決定された。オールコックは本国に下関攻撃する旨の書簡
を送っていた。だが、本国外務省側は依然として日本との全面戦争につながりかねない
武力行使には否定的でこれを否認する旨の訓示を日本へ送って来た。しかしこの当時は
イギリスと日本との連絡には二カ月から半年かかり、訓示が到着したのは攻撃実行後と
なり、結局、現地公使の裁量で戦争が進められたのだった。しかしこの戦争はあっけな
い英国の勝利に終わる。というのもそもそも日本で作った大砲は命中率も低く炸裂弾で
はなかった。対して外国船の狙いをすました砲弾に下関砲台はいとも簡単に吹き飛んだ
。この四国連合艦隊の艦は17隻で、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ
軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からなり、総員約5000の兵力であった。また横浜には
イギリス軍艦1隻、アメリカ軍艦1隻と香港から移駐してきた陸軍分遣隊1350人が待機
していたのである。

1366: 名無しさんAA:18/09/02 02:37
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   407    > 

幕府は伝令をすぐに走らせ8月4日、四国連合艦隊の来襲が近いことを知った藩庁は、よ
うやく海峡通航を保障する止戦方針を決め、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向か
わせるが、艦隊は既に戦闘態勢に入っており手遅れであった。下関を守る長州藩の兵力
は奇兵隊(高杉は前年に解任されており総管は赤禰武人)など2000人弱・砲100門強 で
あり、主力部隊を京都へ派遣していた。8月8日、戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節
の使者に高杉晋作を任じた。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていたが、家老の宍戸
備前の養子宍戸刑部を名乗り、四国連合艦隊の旗艦のユーライアラス号に乗り込んで、
キューパー司令官との談判に臨んだ。イギリス側通訳のアーネスト・サトウはこの時の
高杉の様子を非常に傲然としていたが、出された要求は何の反対もせずに全て受け入れ
たと述べている。18日に下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の
必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万
ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立した。ただし、賠償金については長州藩
ではなく幕府に請求することになった。これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能な事
もあるが、今回の外国船への攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったま
でという名目であった。1866年1月のイギリスからの提案で、賠償金配分は、急速
にヨーロッパ3カ国政府の合意ができ始めた。この最終的合意は、各国の派遣した軍艦
や兵士数には無関係に決まった。先ずアメリカ、フランス、オランダの3カ国船舶への
砲撃賠償として、ほぼ1年半前に幕府が批准こそ拒否し破棄したが、かって横浜鎖港談
判使節・池田筑後守一行が 「巴里約定」 でフランス政府と合意したフランス軍艦・キ
エンシャン号砲撃の賠償金・14万ドルを基礎に、先ずこの3カ国が14万ドルずつを
取り、残りの258万ドルを4等分し、各国とも64万5千ドルずつの配分とする事と
なった。すなわち、アメリカ、フランス、オランダが合計78万5千ドルづつ、イギリ
スが64万5千ドルという配分だった。米国スーワードは「欧州に任す」 態度であり、
英国外務大臣・ラッセル卿は日本に居るオールコック公使に宛てに、数次に渡り武力行
使禁止の書簡を送っていた事もあり、瀬戸内海に入ること自体に、「勝手に日本領土内
に侵入した」とクレームの対象になりかねない危険と、理由もなく軍艦を派遣し高額な
賠償金を取ったなどと強い反対意見が出るかも知れない本国の反応の危うさの対策に、
自ら英国取り分を少なくさせていた。

1367: 名無しさんAA:18/09/02 02:38
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   408    > 

 実はこの時馬関攻撃で砲弾を受けた中にラッセル商会の船があった。当時ラッセル商
会(ラッセルしょうかい、中:旗昌洋行)は、19世紀において極東で著名であった。
アメリカ系の貿易会社で生糸の貿易に実績があった。主に上海に拠点を置き、横浜にも
支店を置いた。主にトルコから中国への阿片の輸出と、東アジアからの生糸と茶の輸入
を中心に取引を行なっていたといわれる。1824年、アメリカ合衆国コネチカット州ミド
ルタウン出身の事業家サミュエル・ラッセルはより広州で設立し、1830年、ブライアン
ト&スタージスとパーキンス商会がラッセル商会と合併し石油事業にサミュエル商会を
設立させようとしていたところだった。サミュエル商会は知っての通り日本最古の輸入
石油会社でエッソ石油の本体であった。ラッセル商会は1845年、商会の共同出資者の一
人であるジョン・マレー・フォーブスが清からボストンへ帰国し、大陸横断鉄道建設に
参加して投資を行った。こうして利益が中国大陸にあると見て1846年本拠地を上海外灘
へ移転した。しかし、1853年に太平天国の乱により、広州・上海と茶葉の産地とを結ぶ
道路が寸断され、直接武夷山から仕入れるため福州へ赴いた。1862年になって、カニン
ガムが船舶会社である上海蒸気船舶会社(中:旗昌輪船公司)を設立させ、上海−漢口
間を開通させ、続いて。1867年、上海−天津間を開通させた。こうして京都に出来た生
糸取引の水力発電の紡績工場に感心して、1878年、上海で生糸工場を建設した。その後
アヘンと茶葉の交易で利益をあげ、1891年、ラッセル商会が中心となって中国国立銀行
を香港に設立する。勿論サッスーン家デイヴィッド・サスーンとの繋がりも多く、1911
年、中国国立銀行の営業を停止する。1905年に清朝によって大清戸部銀行が北京に設立
されて大清銀行(1908年に改称)を経て、中華民国成立後、臨時大総統孫文が中國銀行
と改称し、1912年中央銀行として稼働したからだ。1928年10月26日の中國銀行条例が作
られ、政府特別許可の国際為替銀行として本社管理部門は北京から上海へ移って大清戸
部銀行が以降中国銀行となった。戦後1935年に国民政府によって幣制改革が行われると
、交通銀行・中央銀行・中国農民銀行と共に法幣を発行する発券銀行となった。北京市
に本店を置く中華人民共和国第3の商業銀行である。総資産は16兆8156億人民元とされ
、2016年には世界第5位にランクされている。日本には東京都・横浜市・大阪市・名古
屋市・神戸市に支店を置き。中国建設銀行、中国工商銀行、中国農業銀行と共に中国四
大商業銀行とされる。 なお、中華人民共和国の中央銀行は中国人民銀行とされた。

1368: 名無しさんAA:18/09/02 02:44
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   409    > 

 1874年(明治7年)から翌年にかけて、三井組はオリエンタル・バンクから百万ドル
にのぼる借入れを行なっている。とりわけ、明治7年11月にオリエンタル・バンクへ
提出された抵当差し入れは、日本米十万余石(63万2400円)、日本産生糸・茶・各種輸
入品(99万2600円)、及び第一国立銀行券(100万円)からなる合計262万5000円である
。この頃は恐らく1ドル=1両から超インフレを起こして1ドル=1円=1両時代だっ
たのだろう。それでも263万ドルである。今の1ドル=百円換算で2億6千3百万円
である。概算3億円のこの巨大な抵当を差し出して、6億円相当のドルを借りている。
それではオリエンタル・バンク横浜支店からの累計百万ドルにも及ぶ借入金を、三井組
はどのようにして返済したのであろうか。その内実は、三井組横浜支店の「田村報告」
によって、ある程度明らかになっている。オリエンタル・バンクの返済要求に対して、
三野村(三井組本店代表)は交渉を重ね、いくつかの条件と引き換えに、返済猶予を、
しばらくの間、認めさせることに成功した。それは条件として台湾事件に対する清国の
賠償金50万両のうち、44万5万6千両を、日本政府が三井組経由でオリエンタル・
バンクに預け入れることを約束し、日本政府が三井組経由で金貨30万円をオリエンタ
ル・バンクに預け入れること。の確約をしたのだ。更に利息をこれまで9%から12%
に引き上げることを了承している。このように、三井組は政府の援助によって、危機を
乗り切ったのである。金貨30万円については鉱山経営からおそらく産出していただろ
う。台湾事件は1874年(明治7年)10月に、台風の嵐で台湾に漂着した宮古島島民54
人が現地の先住民に殺害される事件が発生し、この事件に対して、清政府が「台湾人は
化外の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外)」の
事件とし責任はない。とした為に、領土外であれば犯罪捜査の為に出兵する。としたも
ので、54人殺害という大規模な殺戮事件であるため、警察ではなく軍を派遣した事件
である。この日本軍が行った最初の海外派兵には、清国アモイ駐在のアメリカ合衆国総
領事チャールズ・ルジャンドルも英国領事館もそこを通じて抗議していた為野蛮な原住
民制圧には賛成していた。征台の役(せいたいのえき)、台湾事件(たいわんじけん)
とも呼ばれ、宮古島島民の遭難から台湾出兵に至るまでの一連の出来事を牡丹社事件は
(ぼたんしゃじけん)と呼ぶこともある。当時は台湾さえ清は自国の範囲でないと表明
し、日本の領地であるなら日本が成敗すればいい。と投げ捨てたのである。


1369: 名無しさんAA:18/09/02 03:00
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   410    > 
 しかし、日本ではこの年秋から政変が続き、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂した
(明治六年政変)、翌1874年1月は岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(
佐賀の乱)が起こるなど 政情不安が昂じ、大久保利通を中心とする明治政府は国内の
不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年(明治7年)4月、
参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務
都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った。いざ準備に入ると海外領事館
も日本政府も意見は真っ二つに割れていた。英国でも先の公使パークスやデロングの後
任のアメリカ公使ジョン・ビンガムは反対し、参議木戸孝允らの長州系は征韓論を否定
しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして辞任している。こ
うして谷干城と赤松則良に、台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を
任命し海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門を付け、陸軍省から熊本
鎮台所轄歩兵一大隊砲兵一小隊の出兵命令が命じられる。という経緯で台湾上陸した。
5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日
、台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷の命令によって本格的な制圧を開始した。
6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。こうして戦死者は
12名であった。劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域の風土病であるマラリアに罹患す
るなど被害が現地軍に広がり、早急な解決が必要となった。マラリアは猖獗をきわめ、
561名がそれにより病死した。明治政府は、出兵の際に清国へ通達をせず、また清国
内に権益を持つ列強に対して通達・根回しを行わなかった。これにより紛争の引き金に
なりかねない失策となっていた。清国の実力者李鴻章、イギリスの駐日大使パークスは
当初から日本の軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で、
和議が進められ全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と再交渉した。
大久保は、ルジャンドルとフランス人法学者ボアソナードを顧問として台湾問題を交渉
し、主たる交渉相手を総理衙門大臣の恭親王として会談した。中国は捨て日本が拾った
形だったののでなかなか難航した。イギリスは中国認可の領事館を置き、ウェードの仲
介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款」が調印されるに至った
日清両国間互換条款互換憑単によると清国は遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(
テール)を払い、40万両を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。また、
清国が日本軍の行動を承認していたため、琉球民は日本人ということになり、この時、
琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなった。つまり中国は琉球も台湾も日本
の物として相手したくなかったのだ。台湾に道路も学校も造りたくなかったのだ。

1370: 名無しさんAA:18/09/02 03:03
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   411    > 

 このとき明治政府は兵員輸送に英米の船会社を想定していた。しかし拒否され大型船
を急遽購入して国有会社であった日本国郵便蒸汽船会社に運航を委託した。がこれも又
米英国との関係で拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用する
ことに決定した。この時この協力により、以降三菱と名を替え、政府からの恩恵を享受
できることとなった。こうして三菱は一大財閥になるきっかけとなった。オリエンタル
バンクの代理人に、グラバーの名も挙がっており、その影響力があった。三井は この
オリエンタル銀行の融資によって破産を免れたという過去を持った。もともと三井の破
産する様な収益悪化はこの日本郵船と三井客船との顧客獲得競争による価格戦争にあっ
た。日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされた
ため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人・軍属 5,990余人の中の患者延
べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った
。1871年(明治4年)兵部省が陸軍省と海軍省に分かれて出来たが、軍医寮は陸軍省に
属して、軍医頭に松本良順を当たらせた。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く又
経験不足で、総力を挙げて事態にあたったが漢方医が殆どだった。出征軍の医務責任者
に桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医(大尉相当)がいて他に
24名の医官を従軍させたが、熱帯病の治療経験は無く、彼らの交代に22名が到着し
たため、ようやく帰国できた。これは宮内省から外国人医師が派遣された為で、明治天
皇のはからいだった。ドイツ出身のセンベルゲルは、東京大学医学部の前身に大学東校
のお雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙だったが、能力低くトラブルを起こ
していた。しかし、一緒に送られた6台の製氷機械は大いに役に立った。とされる。こ
の軍の創設と軍艦購入においては、徳川時代の遺物を摂取していたが、新たな鉄道建設
に明治政府が初めて国債を発行した。1870年(明治3年)4月前年ホレシオ・ネルソン
・レイと、関税収入と鉄道営業収益を担保に金利12%で百万ポンドを借り入れる契約
をした。明治政府から権限を付与されたレイによって、パリのエマイル・エルランジェ
商会が引受け、シュローダー商会が募集取り扱いを行う公募債として調達されることに
なった。明治政府は、公債払込金の受け取り等の代理店として、先述したオリエンタル
バンクを指定した。ロンドン証券取引所で公債募集を行ったシュローダー商会だったが
この後1923年に、米国ニューヨークのウォール街に進出し、1936年にニューヨークのJ
・ヘンリー・シュローダー銀行は、ロックフェラー財閥と資本を提携し、シュローダー
・ロックフェラー商会という投資銀行を設立した。

1371: 名無しさんAA:18/09/02 03:14
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   412    > 

 そもそもここで払われた日本や中国の巨大な賠償金は、一度英国と仏国に入ったが、
結局はオスマントルコやスラブ等の戦争で疲弊した欧州に物資供給してた米国に入った
。第二国立銀行(だいにこくりつぎんこう)は明治期に横浜で設立された銀行で、後の
横浜銀行の前身の一つで、その名の通り日本で二番目の銀行だった。私立銀行第二銀行
と改称した時期もあったりしたが、初代頭取は豪商だった原善三郎が就任し、早い時期
から洋銀券をめぐりオリエンタル・バンクと関わりを持った。第一国立銀行(だいいち
こくりつぎんこう)は、その後株式会社第一銀行(だいいちぎんこう)となり、かつて
存在した日本の都市銀行で、今は第一勧業銀行を経て、現在はみずほ銀行が承継してい
る。第一銀行も同じ様に三井財閥が同行百万円分の株式を担保にオリエンタル・バンク
から借り入れたりして総監役渋沢栄一が頭取に就任した頃から関係が深い。、J・ヘン
リー・シュローダー銀行は、ロンドンの独占的な手形引受会社委員会を構成する17の
マーチャント・バンクのなかで2番目の資本金をもつ会社としてリストアップされてい
る。当時は一番だった。(シュローダーはドイツ語読みで英語ではシュレーダーである
)合衆国ではほとんど知られていないことであるが、この会社は米国の歴史においては
大きな役割を果たした。他の銀行と同様、この銀行も又最初はイングランド銀行の認可
を受けなければならなかった。ウォーバーグ一族と同じく、フォン・シュローダー家は
ドイツのハンブルクで銀行業を開始した。1900年という世紀の変わり目に、ブルー
ノ・フォン・シュローダー男爵はロンドン支店を開設していた。1902年、彼はただ
ちにフランク・シリル・ティアクスの参加を決定した。ティアクスはハンブルクのエマ
・フランチェスカと結婚し、1912年から1945年までイングランド銀行の理事を
つとめた。つまり明治政府の債権発行にはイングランド銀行理事の持つ権限でなされた
のだった。世界の富を持つと言われたハクズブルク家の総帥フェルディナンド大公は、
サラエボでガヴリロ・プリンチップによって暗殺された。オーストリアはセルビア人の
謝罪を要求し、セルビアは謝罪文を送り届けた。それにも関わらず、オーストリア側は
宣戦布告し、次第に他のヨーロッパの国々がその争いに参加した。こうしてスラブ領有
を巡って第一次世界大戦が始まった。ひとたび戦争がはじまってしまうと、それを継続
することが難しいことに気づいた。ドイツにおける最大の問題は、食糧と石炭の不足で
あり、戦争を継続することは困難であったのだ。既にハクズブルク家以上の金銀が米国
のゴールドラッシュや中国・日本の賠償金で米国本土を満たしてしまい価値が下がった
のである。つまり米国発行の兌換紙幣は 流通に埋め合わせ出来る量が発行できたのだ

1372: 名無しさんAA:18/09/02 03:18
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   413    > 

 ロスチャイルドが関与している他の企業もそうであるが、イングランド銀行は1694年
の創立以来ずっと国際的陰謀とスパイ活動の中心となってきた。ただし、ロスチャイル
ドがイングランド銀行と関わりをもつにいたるのは、ようやく1812年のことだったと言
われる。ワーテルローの戦いでイギリスが敗れたという根も葉もないうわさが、ロンド
ン証券取引所になぜか広まると、これを利用してネイサン・マイアー・ロスチャイルド
は財産を6500倍に増やしたのである。こうして急速に大きくなったイングランド銀行だ
が、もともと革命から誕生していた。オレンジ公ウィリアム三世が国王ジェームズ二世
を王座から追放した革命(名誉革命)で、イングランド銀行の特許状がウィリアム三世
によって授与された。縁戚だからオランダ・ベルギーなどネットワークが存在したのだ
ろう。これで以来、国王に対する反乱は一度も起こっていない。こうして革命には不可
欠の資金源を支配下に収めてきたので、王室はずっと安泰だったのである。国王チャー
ルズ二世(在位1660〜1685)はバッキンガム公爵(ジョージ・ヴィラーズ)以下の閣僚
(クリフォード、アシュレー、バッキンガム、アーリントン、ローンダーデイル、その
名前を組み合わせるとCABAL(陰謀)という言葉になる。)5人のおかげで不安定
な地位をなんとかもちこたえた。しかし、この時陰謀を意味する新しいことば「CAB
AL」をつくりだした。と言われている。オラニエ公ウィレム1世(1533〜1548)は、
サクソニー家のアン、ブルボン家のシャルロット、コリニー家の王女らと結婚すること
数度におよんだ。今日、ヨーロッパを支配する各王室および、領国をもたない王室も、
すべて、オレンジ公ウィリアム三世の直系子孫である。すなわち、オランダのユリアナ
女王、デンマーク女王マルガレータ、ノルウェーのオラフ五世、スウェーデンのグスタ
フ、ギリシアのコンスタンティン、モナコのレニエ大公、ルクセンブルク大公ジャンな
どである。これは政略結婚の極みであり、イスラム型のハーレムでの支配に他ならない
後々の、アンソニー・サットンも、「ヨーロッパの王族はすべてサックス=コーバーグ
=ゴータ家に起源があり・・」と言っていた程だ。イングランド銀行の株主たちは初期
には「1300人協会」と呼ばれた人達がいた。株主には、イングランド国王と女王も
名前を連ね、それぞれ1万ポンドずつの価値に相当する株式割当を受けた。マールボロ
公爵は1万ポンドを出資した。彼は1697年には例の「仲介手数料」のなかから多額の金
を東インド会社にも投資した。のちに彼は、アメリカ港湾局の前身であるハドソン湾会
社の総督になるが、この会社は75%もの配当金を出した。結構な金額だ。


1373: 名無しさんAA:18/09/03 20:38
 他にも井上毅もプロイセン憲法の研究者としてつとに有名であり、当時のドイツにお
ける憲法学者が皆ユダヤ人であったことを考え合わせる時、思い半ばに過ぐるものがあ
ろう。何故ユダヤ人が特にドイツにおいてこの憲法問題に熱心であったかというに、こ
れが国家を内部から転覆させるマルクス主義国家論への捷径であることを知っていたか
らに他ならない。伊藤博文から美濃部達吉に至るまで愛用した「機関」という言葉は、
ドイツのユダヤ人の間では、マルクスももちろんこの「Organ」 という言葉が大好きだ
ったのである為だが、階級闘争における「支配者」が「被支配者」を「抑圧」「搾取」
する「手段」「道具」という意味から、ドイツでは専ら使われていたのである。恐らく
伊藤博文も美濃部達吉もこのユダヤ人の真意は知る由もないのではないか。ドイツは、
あくまでドイツであった。そもそもドイツ人はドイツ人かどうか。を非常に気にしてい
る民族だった。自らが混血などと思っていなかったのだ。スラブからやって来る移民の
他の民族を絶対相容れない、ポーランド系ドイツ人ロシア系ドイツ人デンマーク系ドイ
ツ人などとは認めて居なかった。それは中間というものの存在する余地のない民族闘争
がはるか昔から繰り広げられていたからだ。しかし日本人は夢にも知なかった。日露の
戦争になって、ロシアの首都サンクトペトロブルグの日本公使館駐在武官の明石元二郎
陸軍大佐である。 開戦にともなってスウェーデンのストックホルムに拠点を移して、
ロシア革命の工作をした賭される。運動家に資金を供給し 、革命の火に油を注ぎ、 帝
政ロシア崩壊の導火線を仕組み、彼に戦争継続の困難ならしめ、米国のルーズベルトが
斡旋する日露講和会議の席に着かざるを得ざらしめた。と言う、後にドイツ皇帝ウイル
ヘルム2世は 「明石一人で、 大山満州軍20万に匹敵する戦果を上げた」 と激賞し、
ウォーナーの「日露戦争全史」は「東郷や大山はロシアの艦隊や地上軍を撃破したが、
明石はロシアの心臓部に直接攻撃を加えた」 と記している。工作資金百万円現代価値
500億円が使われた。それでも日露戦争の戦費とされた8200万ポンドを起債して戦費
総額は当時の金で18億2629万円つまり1826分の1だったのだ。現代の相対価値にし
て約5000倍とされ9兆131億円つまり10兆円が無駄な国家予算として使われて
その支払いは戦後まで続いた。クーン・ローブ商会に就職したシフは1370年からフラン
クフルトのゲットーで、初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド時代に「グリュー
ネシルト(緑の盾)」と呼ばれる建物に赤の盾ロスチャイルド家の隣に住んでいた。そ
の後日露戦争にシフの援助になるが、金を工面した高橋是清は若い頃騙されて米国では
奴隷になろうとした。その高橋でさえも「ロシアでの反ユダヤ主義(ポグロム)に対す
る報復」だったと言われて、「世の中は解らない。」と言った。日本が憲法制定でドイ
ツに回った時はもっと理解していなかったであろう。

1374: 名無しさんAA:18/09/03 20:52
 ユダヤ人が日本人に謝らなければならない事の最大の問題は、戦後日本共産党を育て
残置諜者として残していったことである。これは具体的にはニューディーラーが全て行
ったことであったのだが。共産主義者や自由主義者から成っていたニューディーラーは
社会主義革命こそ行わなかったが、戦前の日本にあった類い稀な長所をすべて破壊した
のである。それ以上に大きな誤りは、残置諜者として日本共産党を育てて社会党に融通
し自由党に資金を入れた事である。我々が戦後改革によって犯した誤りは、この残置諜
者=日本共産党=自由民主党なかりせば、既にもうとっくに賢明な日本人達は、本来の
大和民族の日本に蘇生したであろう。東京裁判、日本国憲法、その他の戦後改革による
悪弊も、この病理をタブーにして一指だに触れさせじとするこの侠党達がなかりせば、
とっくに払拭された事であろう。不思議な事だが、日本共産党は米国共和党から自由民
主党は米国民主党から日本社会党はソ連共産党からその資金が出て居た。理由は簡単だ
った。日本を動かしたい米国の意志と、共産側に寝返らない為の英国の意志でソ連から
の資金あったからだ。東京裁判の場合でも、これにニューディーラーが持ち込んだ論理
が戦前からの日本共産党の講座派史観(天皇制を軍部の絶対悪とする史観)と一致する
ことで日本共産党をとらえたのであるが、日本国憲法の場合には、教科書的マルクス・
レーニン主義しか知らない日本共産党が憲法を捉えるべき要素はほとんどなかったのだ
が、あるとすれば、第28条の勤労者の団結権の保障ぐらいのものである。あとはすべ
てマルクス・レーニン主義世界の、教科書からは出てこないものである。しかし何故か
それにもかかわらず、日本共産党は日本国憲法を溺愛した。不思議に思われるであろう
。その答えはユダヤ教の宗教的呪縛力なのである。いきなりこういっても日本の皆様に
はピンとこないだろう。いや何よりも、日本共産党自身が全く意識していない。一般の
戦後改革、例えば国家意識、民族意識の去勢にしても、果たして日本共産党がどの程度
に、この意味を知っているだろうか。恐らく、プロレタリア国際主義というコミンテル
ンのテーゼにある線からこれを考えているのであろう。しかしそれでは、わかっている
とはいい難い。マルクス主義の国家論ぐらいしか来ない。つまり、国家を破壊するには
愛国心が最大の障害物になるわけで、もし日本共産党がこの辺まで分かっていたという
なら、家族制度は国家転覆のやはり大きな障害物なのである。憲法にある自由、平等、
男女同権等はすべてこの目的に添ったものである。共産党には、そこまで知っていての
日本国憲法を死守ではない。私にはそうは思えない。もともと日本は集落に於いて社会
主義的共同生活者の農耕民族だったのだ。言わば郷土愛や郷愁において参加している。
そしてそれは、共産党のみならず自由党も民主党も同じだった。つまり社会とこそ革新
だったのである。

1375: 名無しさんAA:18/09/03 21:02
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 57

 日本共産党が日本国憲法改訂をタブーとして死守する根拠は、マルクス・レーニン主
義からは導き出せない。ではこれはどう説明すればいいのか。それはユダヤ教の呪縛力
としか説明できない。擬似宗教性といわれるものである。今や中国共産党社会でも跋扈
して共産党と言うの擬似宗教科学は、その飴と鞭の文化を駆使して、疑似信仰において
最も巨大な力を作用させる国家として復活した。マルクス主義の害毒といった場合に、
およそ普通は表面に現われたもの、例えば安保騒動の如きものとしか捉えず、日本共産
党の民主連合政府綱領や自民党の米国隷属主義を見て、革命というマルクス主義の現実
的脅威はなくなったと考えるかも知れない。だが、問題はそんな生易しいものではない
。というのが現実である。マルクス主義とは単なる「革命理論」ではないということで
ある。それは経済至上主義にその恐ろしい本質がある。人は蟻の共同生活の様な同族社
会を好み、その中の上位主義を目指す。本能的にそうした社会を築きたがるのである。
しかし、今日本の中の行方不明の若者や社会に溶け込めない自殺者などはその被害者な
のだ。核家族で愛に飢えた青年の暴走や貧困でもなく食べられない子供達の急増も同じ
である。マルクス主義の戦後における影響の最たるものは、この稿でとり上げる戦後の
病理、虚妄性、日本歴史の真の構築を阻む跛行性をつくり出したということにある。と
いわねばならない。これらを具体的にいうと、国家・民族意識、愛国心の去勢、道徳観
の失墜、拝金主義の培養、家族制度の崩壊、その他、戦前の日本が世界に誇った冠絶し
た長所を失墜せしめたことにある。マルクス主義はこの病理の精神的支柱となっている
。創価学会などはその最たるものだ。これは根拠のないことではない。何故ならば、日
本共産党は戦前の日本の長所をすべて「絶対悪」として否定するもので発展した。そし
て、日本共産党はマルクス主義を唯一絶対の世界観として信奉する政党である。これを
模倣した経済団体が創価学会である。彼らが仏教徒の団体などと言うのは嘘偽りの中に
ある。戦後の病理のマルクス主義と言う癌に併発した白血病みたいなものだ。歴史のな
い新興宗教に宗教を語る資格などない。本来の伝統がないからだ。こうした新主義主張
がマルクスと密接な関係があることはわかったが、これらはただ単に散在していただけ
では、これほどの影響を及ぼせたかどうか疑わしい。それにはやはりこれらをひとまと
めにパックして、しかも日本国民に強制する力をもった何物かがなければならない。そ
れがアメリカ占領軍中のニューディール派であり、その所産である日本国憲法と、その
擁護者としての日本共産党や経済至上で米国に貢ぐ自由民主党なのである。この脱却は
かなりの意識改革を必要とする。

1376: 名無しさんAA:18/09/03 22:22 ID:6IE
 では、これほどまでに多大の影響を戦後日本に及ぼしたマルクス主義とは一体、如何
なるものなのか。日本のみなさんは、虚構論理というものを信じられるだろうか。それ
は一見学問体系の如き体裁を整えてはいるが、事実は真っ赤な嘘で固めたもの、それが
虚構論理という実態である。世界には、大変手の込んだ虚構論理というものが存在する
。それが、マルクス主義を広めたコミンテルン集団なのである。そういう仮設を設定す
るには、2つの前提が要求される。1つは誰かが目的を持ち周到に計画し出費を惜しま
ない無駄に投資する事だ。もう1つは何の目的でそんなものを構築したのか。と言う事
に納得させられる嘘の回答を持ち得る事だ。この2つの前提に答えなければ、そのよう
な虚構論理は持ち出せない。例えば王立アカデミーでは30年も40年も前から石油は
枯渇する。と煽っていた。それが嘘だと誰も言えない。何故か新規油井が掘られ油田が
発見されたからだ。と言う言い訳を持っていたからだ。しかし、真実はその策井戸資金
の為や油メジャーの地位の保全に巨大な利益が欲しかったからだ。日本でも銀行潰しに
竹中平蔵が同じ手法を行った。つまり日本の債権焦げ付きが終わっているにも関わらず
過去の恣意的な米国金融グラフで日本銀協を脅迫したのである。そこある意図も解らず
その為企業はビックバン以来でも活躍のなかったハゲタカファンドに覆われて潰されて
いったのだった。当然である本来貸付すべき市中銀行が貸し剥しするくらい絞めたのだ
から。本来政府予算を減らし流通紙幣を増やすべきが逆をやったのだ。当然その後国外
に出た利益は日本を貧困化させ今では日銀が政府起債を買い戻してやっと景気が順調に
なった。馬鹿の極みである。そして政府は能天気に今でも増税論を敷いている。国家予
算を絞ること、そして企業が借りても設備投資させる事。この2つを止めて産業は成り
たたない。この基本を知らないで不良債権の排除をとことんやったのだ。馬鹿の極みだ
そして強制貸付した金は直ぐに銀行は返した。銀行自体は堅調で市中が不況だったから
だ。そして曰く、「行財政改革が今だ途中だから不況である。」との論陣をはった。そ
して小泉時代に売り払った山林やNTT株国鉄用地は全く売り払われたが、不況の焼け
石には水だった。当然である当時の資料では7兆円程度が米国に送られていたのだから
ただし海外旅行やその分材木や肥料や医学機器が日本に入って来たのだろうだろうが。
が問題はそうして太らせた米国投資家の運用先が無かった事だ。国内運用合戦で巨大な
悪質事件が起こった。直ぐにリーマン以外は銀行とした査定を受けて政府救済を受けた
だがリーマンは江戸期からの投資会社である意味日本的な投資家としての意地があった
ため救済が受けれずに破産した。7兆円の負債は140兆すなわち20倍の国家損失を
起こしたとされる。それが虚構論理の構築により既存歴史を破壊方向へ流すという雄大
なプロセスであった。これがマルクス主義である。嘘は自然が許さない。と言った処か

1377: 名無しさんAA:18/09/03 22:31
 こうして、マルクス主義成立過程の種明かしして行く前に、資本・共産両建て主義と
言う物を考えたい。さて、これが20世紀に入り、戦争という手段が19世紀的な革命
とに有効な手段と考えられるようになった。これがレーニン主義の暴力革命である。と
同時に、神経戦、心理戦ともいうべき革命、戦争の如き組織性を必要としない手段も考
えついた。近世史では、この我々の逆転プログラムによって創られたものだった。教科
書的な歴史観では何も分からないだろうが、これらを要約して我々は両建て主義と呼ん
でいる。つまり、革命による変革の共産主義(マルクス)の共産党宣言と、戦争による
暴力革命変革した資本主義(レーニン)帝国主義論が合致してマルクス・レーニン主義
となったのだ。このようなマルクス・レーニン主義は資本論として、ユダヤ民族解放の
「手段」「道具」にすぎかったのである。これをまるで歴史の発展法則として見て売り
込んだのは、勿論ユダヤ人であった。そのために近世史は、今日見る如く救い難い混乱
に陥ってしまった。典型的な訓話学者の上田耕一郎氏や不破哲三氏にはにわかに信じ難
いことであろうが、これが真実だ。つまり勝手に創られた株式操作に理屈をつけた様な
話だったのである。よくTVで何とかエコノミストとされるが全く間違っていて庶民が
株式操作や相場介入できるならいざ知らず、株式を動かすのは大きな運用資金の一部の
者である。LTCM危機も全く同じだった。取り巻きがついて回り取って付けた理屈を
説明するのだ。が実態は難しくない。赤字を隠し運用実績を隠して米国政府の様に強く
支配した力が動かす。銀行の銀行である中央銀行以外に銀行の銀行として運用実績をつ
けた会社が、中央銀行に潰された。それには目的がある。ただそれだけだ。多くの日本
の銀行・生保・証券会社・商社・社会保険に営業し資金を得て、それを潰した。日本政
府が3億円貸付すれば良かったのが蹴って14兆が消えたのだ。狙い撃ちされた米国の
銀行団のノーベル学者叩きだった。フランス革命における変革の手段で、感性的なスロ
ーガンを身に着け、「自由」「平等」「博愛」のスローガンを 日本国憲法の骨子とし
て持ち込んだのも同じユダヤ人である。弱者解放のためのスローガンが、高度な理性的
国家日本へ持ち込まれると、予想だにしなかった混乱を引きおこすことに我々は、気が
つかなかった。これが第一期だったが、第二期では反撃プログラムであるマルクス主義
の成立過程が存在した。マルクス主義はマルクスが構築した論理であるからマルクス主
義と呼ばれている、とこう解釈するのが当り前と考えられているようである。しかし、
現実には、マルクスには、虚構論理の構築を依頼した注文主がいた。この注文主こそが
マルクスに送った手紙、発注書ともいうべきものが第二次大戦前にこの世に出た。これ
は日本でも知られているマルクス主義の源流である。この事が全く理解されていないよ
うである。

1378: 名無しさんAA:18/09/03 23:03
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 60 

 次に紹介するのが、この手紙、つまり発注者のユダヤ人バリニッシュ・レヴィーの、
マルクスに宛てた文面の一部である。「救世主(メシア)は団結せるユダヤそれ自身で
ある。宇宙の支配(世界)は他人種の統一に、各個独立主義の城壁たる国境及び君主国
の廃止と、ユダヤ人に対し随所に市民的権利を認むる世界共和国の建設によって保たれ
るであろう。全然同一種族でかつ全く同一の伝統的陶冶をうけているイスラエルの子孫
、しかも特殊国家を形成していないイスラエルの子孫は、爾後地球の全表面に拡がり、
この新しい人類社会の組織の裡に到るところ何らの抵抗なく指導要因となるであろう。
殊に彼らの中のある学者の賢実なる指導を労働大衆に課するに至ったならば、尚更の事
である。世界共和国(世界政府)を建設したならば、国家の統治権は無産者の勝利によ
って、何らの努力を要せずしてイスラエル人の手に移る。ここにおいて私有権は到る所
 公共財産を管理するユダヤ人の支配によって廃止せらるるに至るべく、かくてメシア
の時代の到来せる時、ユダヤ人は全世界の人民の財産をその鍵の下に掌握すべしという
ユダヤ伝統の約束は実現せらるるものと信ずる。」と書いている。この手紙の意味する
ところを概略すると、自己のメシア思想の実現には先ず、非ユダヤ人、つまりキリスト
教社会の現状維持の砦である国家を転覆する必要がある。しかもその国家転覆の最大の
障害は君主制である。これを実現して人類社会に新秩序を建設する。つまりユダヤ王の
下による世界政府の逆転劇である。これだけで十分とも考えられるはずだが、さらに、
もう一つの考えが附随しているのである。それはユダヤ民族固有の唯物思想がある。既
存の秩序を転覆すれば協力者たるプロレタリアートにより、なんなく全財産がユダヤの
もとに転がり込んでくるであろう。という推測だ。しかも、そのことはユダヤ民族の、
伝統的約束であるということを述べているのである。ここに、ユダヤ的思考の最も大切
な2つの要素が含まれている。その1つは、メシア思想の基本パターンである。選民た
るユダヤ民族が、異教徒との葛藤に勝利を収め、至福千年王国を建設するという終末論
がここにある。これが唯物史観の原型で、選民とはプロレタリアートであり、異教徒が
ブルジョアジーと言う訳なのである。これが今の西洋思想の根本にある。この姿は今の
中東にイスラムのイスラム国ISが宣言した「カリフの統治国・イスラムの理想郷」と
何ら変わらない夢がある事が解る。更にロシアの「ソ連復活」や中国の「中華の夢」と
全く「パンアメリカン」と変わらない覇権思想が介在する事が解る。しかし既に地球は
もたず、異常気象で巨大台風や洪水、日照り干ばつ山火事、海洋汚染漁獲減少と一気に
経済資源の縮小と生活負荷の上昇が起こっている。すなわちもう人類問題過ぎ生物問題になっているのである。

1379: 名無しさんAA:18/09/03 23:15
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 61 

 これこそユダヤ的思考法の二元論の原型である。これに宗教的倫理観が加味されるの
で、善悪二元論と呼ばれる。ロシアから亡命した哲学者ベルジャーエフは既に、マルク
ス主義は、出発点において黙示録的性格を有すると分析していた。また、日本では鈴木
成高氏がその著書『歴史的国家の理念』において、「唯物史観はその最後の帰結におい
てプロレタリア独裁を想定し、歴史の弁証法的発展を止揚することによって、一種の、
エスカトロギー終末論に陥っているのである。発展的力学の論理はそこにおいて停止し
、階級対立の消滅、国家の解消とともに歴史もまた終止する。それは、ユダヤ的終末観
とその外形において極めて酷似するものがある。すなわちプロレタリアートは神の選民
に該当し、ブルジョアは異邦人に該当する。歴史はエホバの代わりに、同じく人間意志
と能力を超越した、経済的必然によって支配されるのである。」と述べ、かなり克明に
本質を突いている。日本では恐らく唯一人の仮設論者であろう。この構図は、ユダヤ・
キリスト教(いわゆるヘブライズム)の終末論的歴史観とマルクス主義の歴史観が、そ
の基本構想において全くおなじである。マルクス主義とヘブライズムがいかに同じ土壌
に立ち、同じ延長線上にあるかは賢明な有識者がしばしば指摘しているところである。
さて、もう一つの要素たるものは、ユダヤの民法ともいわれるタルムードの思想である
。これはユダヤ人たるものの、生まれてから死ぬまで信念としているものだ。タルムー
ドは5、6世紀ごろ完成された実に膨大な法であるが、また日本では、戦後いろいろの
ユダヤ人、日本人によって紹介されているようであるが、不思議なことに、何故かこの
最も肝心なところが紹介されていない。肝心なところというのは、「シュルハンアルク
ノショッツェンハミツバッド第348条」である。すなわち「非ユダヤ人達の所有する
財産は、本来ユダヤ人に属するものなれど一時彼らに預けてあるだけである。故に何ら
の遠慮もなくこれら財産をユダヤ人の手に収むるも可なり」とするものである。これの
意味するところは大別して2つある。1つは、「一時預けてあるものであるから、何時
なん時でも代償を払わずに取り返して然るべきものである」ということであり、もう1
つはユダヤ人の財産は故なく非ユダヤ人に奪われたものである。」ということになる。
 詰まるところ、「世界はユダヤのものだ。今使わせいるのは一時的に預けているだけ
で、いつでも、ユダヤ人なら取り戻してもいいのだ。」と天才バカボンの意識なのだ。
たまげたたわごとなのだが、これが終始一貫して唱えられ崇拝され意見されて歴史を作
って来ていた。驚くべき感覚である。


1380: 名無しさんAA:18/09/03 23:18
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 62 

 前者がレヴィーのマルクスヘの手紙の骨子となっているものだ。つまり、私有財産の
奪取という思想はここから来ている。さらにもう1つの後者の解釈は マルクスの大作
「資本論」の根本思想をなしているものでもある。つまり、「ユダヤ人の財産は故なく
非ユダヤ人に奪われたものである」から かの有名な剰余価値説が生まれているわけで
あり、「搾取」とマルクスが強調するものが存在するのである。短絡的なマルクス主義
の論理的飛躍は、本来なら日本のインテリ層が見ぬけないはずはないと思う。しかるに
何故、そのような論理的飛躍があるにも拘らず、これだけの信者を集められるのか。と
いう疑問がある。これは宗教的呪縛力としか説明できないタチの悪いクセのものである
。遠目に眺めればマルクス主義の真の素顔は宗教ということでもある。日本共産党の態
度を見ればこのことはすぐわかる。科学といいながら、実際は決して経験科学の実証を
受け入れようとしない態度がしばしば見受けられる。ここで、共産主義者のいう科学的
社会主義の「科学」という形容詞がどこから出たか。説明した如きマルクス主義が何故
「科学」といわれるのか、この答もこの際明らかにしておこう。これは、レヴィーらの
熱烈な民族主義グループが宣伝のため吹聴したからだ。唯物史観のいう「社会の必然的
な発展法則」ということを強調する事で、人間の意識から独立した物質的、客観的条件
により歴史は動かされ、一定の法則に従って一定の方向性をもって動く。と説明した。
これを弁証法的唯物論を社会応用した唯物史観であると宣伝しているわけである。虚構
の大きさ故に、かえって多くの人々は自己陶酔に陥る。アカデミックな真摯な態度と、
宗教的呪縛力の奇妙な混合といえよう。以上のようなことから、日本で行われている、
マルクス主義論争は不毛の論争といわねばならない。もっとも、日本のインテリ層は、
恐らくマルクス主義の成立過程をご存知なかったのだろうから、無理もないことかも知
れない。完全な虚構論理であれば共産主義の矛盾を衝くのは易しい。虚構を現実に無理
にあてはめようとするのであるから、すべてその矛盾は露見する。だが、それでもなお
現在もマルクス主義が生き続けるのかということを解明しなければならないだろう。こ
の論法は、日本のオウム真理教でも使われた手法である。つまり解らない事や解る節度
に線引きのない状態にさせて、勝手な狭義の中に引き摺り込むのだ。他が一つでも間違
いがあれば、ほら俺の言ってる事が正しい。全部正しいのだ。と言う魔法の呪文である
よく、あの東大など頭のいい若者が馬鹿の麻原などに。などと言うが人はおよそ半分も
人を見抜けない。時に自分が落ち込んでいる中では 傍にいる計略にははまってしまう
ものだ。

1381: 名無しさんAA:18/09/04 00:01
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 63 

 このような虚構論理を科学と誤認させるだけの根拠はあるにはある。それは「絶対的
貧困化」という設定である。物質的、経済的にこれより悪くなることはないところまで
行きつけば、人や社会は根本的に変革されるという仮説である。つまり火事場の馬鹿力
的発展である。これは説得力があった。複雑なメカニズムをもつ人間社会で設備や機械
の如く、体制が古くなったからそっくり取り替えるという訳にはいかない、がしかし、
結局それでも押し寄せる「絶対的貧困化」の必然性を説けば、その「恐怖」と共に人間
社会は変革に対しても説得力をもつ。というものだった。このマルクス流の考え方は、
ものの見事に図に当たったのである。水に沈むとして、自然に手足を掻き泳ぐ事に似て
いる。フォームも何もない。だがその前に岸まで泳ぎ着こうとするのである。だが人は
水に浮く存在である事を自覚しなければならない。つまり。この水の恐怖が先に走って
その対処法が見えなくなる事がある。だが本当は冷静になればそうした改革は必要なく
人は生きていけたのである。しかしこの宗教のマルクス主義は一神教的思想はユダヤ的
世界観のコピーで、その唯物論は、有神論のもつ“矛盾”と“限界”に反動で生命を得
て、キリスト教の効力を失った時代の「代替宗教」言わば擬似宗教になった。つまり一
言で述べるなら、マルクス主義とは、19世紀の欧州の時代背景にした、特定地域の、
一時的に発生した宗教であるといえた。イギリスの世界的歴史学者であるアーノルド・
トインビー博士は、「マルクス主義はキリスト教の亜流だ。」と言ったが、中世の「神
」の力が喪失していく時代に、ヨーロッパ人は次なる「福音」として、マルクス・共産
主義を受け入れ、マルクスの「理想郷=共産制社会の実現」という“予言”を信じたの
た。このマルクス主義は当たった。「ユダヤ民族解放」の為の虚構理論を利用し日本開
放を勝手使い米国は戦争を進めたのだ。戦後日本の混乱に最大責任があるのはそうした
間違えた開放論で、それの原資となったマルクス主義であった。日本の共産主義論者は
、何かというとすぐ「マルクスはこういっている」とマルクスやレーニンの原典から答
を出す。訓話学的アプローチの好きな彼らは自分の頭で考えていない。自分の頭で考え
ていれば訓話学的態度に陥ることはない。彼らがもう少し注意深いアプローチをとって
いれば、「共産党宣言」「経済学批判」「資本論」というマルクスの原典の発表順序に
気をとめ嘘の話と解る筈だ。結論が先に出されその説明が後に続くということは仮説で
しか成り立たない根拠である。つまりサイコロの目が先にありその為に理由を付けたの
だ。


1382: 名無しさんAA:18/09/04 00:54
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 64

 根本的な問題は、二元論による唯物論と観念論の二者択一を強制されることである。
マルクス主義の学習はこの点から入門させるのを常とする。結果として唯物論を否応な
しに選択させられ、これをすべての土台として考えさせられる。しかも二極分化を強制
する。つまり、如何なる時でも中間というものの存在を認めない。元来哲学的に唯物論
と観念論は二者択一云々の問題ではない。原点においてすでに二元論的思考に陥ってい
る当然の帰結として唯物論絶対優先ということに導かれる。その結果に、社会的存在が
意識を決定するという原則を勝手に創る。したがって、戦争も革命も物質的、経済的要
因によってのみ引き起こされるものであるという絶対論に導かれる。これがマルクス主
義の最も肝要な点である。原点からしてこの調子だから、以後経験科学の実証など考え
たくもなくなる。また、こういう盲目的な二者択一を強制できるのは宗教的呪縛力以外
にはありえないということも真理であろう。更にこれは人間にとって致命的な欠陥でも
ある。というのも人間は動物の様な成長過程を得ない。生物学的に馬や羊の様に生まれ
て直ぐに立てないし、しつけを暴力的には行えない。そこに幼児教育では二者択一の中
の原始的学習法で幼児の危険を取り除く。つまり親は言葉や行為は二者択一で話して、
行動を学ばせるのである。基本は危ないか、危なくないかの、この認識で育って行くの
である。動物の勝手な潜在意識の中の条件反射的な二者択一の仕分け本能を利用して、
錯覚させているのである。ウラジミール・レーニンはユダヤ人であり熱烈なユダヤ民族
主義者であった。この点はマルクスに劣らないだろう。血統的には父系が蒙古族のカル
ムイック人であり、母系がユダヤ人である。クループスカヤ夫人は純粋のユダヤ人であ
った。建前論からいえば、レーニン主義とはマルクス主義を資本主義の最高段階、帝国
主義の時代に適用、発展させたものということになっている。しかしレーニンは、革命
家でも思想家でも無かった。実際は、煽戦家策略家だった。レーニンが「帝国主義論」
を使ったが本人も認めている如く、ホブソンの「帝国主義」の盗作で、側近に勧められ
た「帝国主義諸国間の戦争は不可避である」という点を言ったのみだった。レーニンが
「帝国主義論」を書いた目的はただこの一点にある。戦争というものが、ユダヤ民族の
解放事業に最も有効な手段であるということを見抜いた為の目的だったのだ。19世紀
のマルクスの持ち出した内部抗争による国家の転覆手段よりも、ずっと安く手っ取り早
い手段が戦争だった。戦争で国家が疲弊した時が一番の変革、解放事業のチャンスであ
るということで、中国にもそれを輸出したのである

1383: 名無しさんAA:18/09/04 00:55
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 65

1913年8月18日付の『セーベルナヤ・プラウダ』紙上でレーニンは「ロシアにお
けるロシア民族は、全体の43%を占めるにすぎないのに、(政府高官は)自らロシア
民族にあらゆる特権を与えようと努力している。そしてロシア在住の他民族、いわゆる
タタール人に対してますます彼らの権利をきりつめて、分離政策を推し進め、相互に反
目させるような政策をとりつつある。その最も極端な現われが、ユダヤ人学校の民族別
化政策である。この内容は、私立、官立をとわず、すべての学校でユダヤ人に門戸を、
完全に閉ざそうとしており、そのためユダヤ人中学生の数を百分率で制限しようとして
いる。ヨーロッパでは中世にだけ存在したこのような差別政策を今頃から始めようとし
ている。」とこうして、ユダヤ人の差別をこのように熱心に反対、批判する。ユダヤ人
でなければできるものではない。又『イスクラ』の1903年2月15日号の中では、
ユダヤ人労働者総同盟、通称「ブンド」を非難する主張で、「ユダヤ人プロレタリアー
トに独自の政党が必要か」と題して論じられているものがあるが、この論文の中でレー
ニンは、シオニズムを猛烈に攻撃している。シオニズムはハンガリー生まれのジャーナ
リストの、テオドル・ヘルツル博士がドレフュス事件を見るにつけユダヤ人は結局自分
の国を建設しなければならないと決心し、祖先の地、シオンの丘、パレスチナへ帰ろう
とする運動である。つまり現在のイスラエル建国はこのシオニズム運動の結晶であるの
はいうまでもない。ではユダヤ人レーニンは何故、この理想的なシオニズム運動を攻撃
したのか。実はユダヤ人の運動にはもう1つあったのである。それはマルクスの唱える
革命、レーニン自身の唱える戦争での暴力革命である。この2本を組み合わせて両建て
主義というのだが、この線からのユダヤ人の理想の実現という線があったのである。今
流にいえば、前者をハト派、後者をタカ派というべきか。レーニン自身は勿論、レーニ
ン主義という如く後者のタカ派路線の要である。ヘルツル博士の唱えるナショナルホー
ムとしての国家建設運動の如きは白昼夢にすぎないと見て居た。建前論のマルクス・レ
ーニン主義ではシオニズム運動のユダヤ人だけの運動に論及する必要は毛頭ないはずだ
。思わず本音が出て、このブンド攻撃の論文をだしたと言う事だろう。明らかに内輪の
ケンカといった感じがあり、これが建前論としてのマルクス主義を論じるレーニンと同
一人物かと思わせるほどの口調が貫いているという。革命と建前論に終始するものは、
今日では日本共産党以外ほとんどなくなった。当時から、欧米の新聞論調はロシア革命
とはいわず、「ロシア・クーデター」と呼んでいた。つまり、クーデターは革命と違い
国家転覆し首がすげかえられただけのものだったのである。

1384: 名無しさんAA:18/09/04 00:55
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 66

 ユダヤ権力がツァー権力にとって代わったものという意味で使われたが、それがフラ
ンス革命に次ぐユダヤ人の反撃プログラムの第二弾だったのである。実はこのロシア革
命には予言された一面を見せる。1913年10月、ウィーンで発行されていたユダヤ
機関誌『ハンマー』第274号に次のような記事がある。「ロシア皇帝ツァーはキエフ
においてユダヤ人に対する徹底的な撲滅政策を決議した。運命は この大闘争の結果に
かかっている。ただしそれはユダヤ人の運命ではない。何故ならユダヤ人は負けること
がないからである。それはただツァーの運命にすぎないというだけのことである。ツァ
ーの勝利は、その終焉の発端にすぎない。逃れる道はないことを知るべきである。この
ことをよくのみ込んでおけ。我々はキエフにおいて、全世界に向かってわれらに侮辱を
あたえるものを容赦しないことを示そう。もしユダヤ人が今までにロシアに革命を起す
事実を隠す政策をとっていたのなら、キエフ事件におけるツァーの態度が判った今日、
その政策は捨てるべきである。この事件の結果がどうであろうと、ツァーに対しては、
容赦しない。それが我々ユダヤ人の決心である。」と書いている。この自信にあふれた
予言を発表している。このような状勢に対しては警戒論も勿論出ている。その一例とし
て、駐露オランダ公使ウーデンディクは、英国外相バルフォアに対して次の様な報告を
送っている。「ボルシェヴィキに対しては、すみやかに弾圧を加えねばならない。この
ままだと全世界にその毒牙は広がるだろう。ボルシェヴィキは国家をもたないユダヤ人
に鼓吹されている。その目的はユダヤ人の利益のために、現状の変革を狙っているので
ある。この危険を救うのは列強の共同行動のみである。」と。これに対して、親ユダヤ
主義者、英国首相ロイド・ジョージとアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンが強固に
反対したことはいうまでもない。ボルシェヴィキ1917年の十月革命以前から活動してい
た者は特にオールド・ボリシェヴィキと呼ばれる。日本語では過激派と和訳された。ボ
リシェヴィキはメンシェヴィキや社会革命党に比べ少数派であったが、人事と要職を握
ったので「多数派」を名乗った。暴力革命を主張し、徹底した中央集権による組織統制
が特徴である。その特徴は、そのまま後身であるソビエト連邦共産党へと引き継がれた
。当初はメンシェヴィキとされた白ロシア人の三月革命だったが、ボリシェヴィキ(多
数派)とされる赤ロシア軍の十月革命が起こり少数派のユダヤ人の政権が多数派を名乗
ってソ連邦が出来たと言われている。


1385: 名無しさんAA:18/09/04 00:57
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 67 

 これらの状況証拠をみてもわかる通り、ロシア政変というものはユダヤ人の解放運動
だった。実は、今世紀に入っての革命運動というものは、ユダヤ人の苦しめられていた
国々で起きていたのである。ロシア然り、ドイツ然りである。これはフランス革命の結
果、ある程度の自由を獲得したユダヤ人がフランスその他西欧、ユダヤ人に寛大だった
スカンジナビア諸国、ユダヤ人を経済的刺激要因などに、巧みに利用する術を心得てい
たからだ。アングロサクソン諸国などにおいては革命運動がほとんど起こっていないの
もそれが理由だ。もしこれが社会の発展法則云々ということなら、均等に起こって然る
べきだが起こって居ない。ロシア政変の成功はアメリカの援助に負うところ大きいとさ
れている。第二次大戦後の米ソ関係しかしらない人は驚かれるだろう。しかし、もっと
ものことだから世界の常識となっている。現在のアメリカとウィルソン時代からルーズ
ベルト時代までのアメリカは少しは違うといえるかも知れない。が、当時のアメリカは
ユダヤ勢力が非常に強かった。JSAといわれたものである。日本では隷猶国といって
いたそうだが。ユダヤ人ではないが親ユダヤ主義者のウィルソンが、ロシア政変には、
非常な努力を惜しまなかったのである。財界の巨頭クーン・ローブ商会のヤコブ・シフ
は、トロツキーらを通じて当時の金で1200万ドルという巨費を出してシフが日露戦
争の時、日本に貸したのも目的は同じであった。とされる。またアメリカ政府は個々の
革命家にも便宜を与えた。ツァーの弾圧の激しかった当時、ロシアでのユダヤ人革命家
はいろいろと行動を制限されていたと言うより迫害されていた。そこでアメリカ政府は
これらロシアのユダヤ人革命家を一旦アメリカに入国させ、アメリカの市民権を与えて
再びロシアへ送り返すという手の込んだことをしでかした。これらアメリカ市民権をも
ったユダヤ人革命家は、当時国際関係においては弱かったツアーのロシアで、治外法権
をもったものの如くふるまえたのであった。これと同じようなことはまだ他にもある。
日本がシベリア出兵を決議した翌日に、ウィルソンは米軍の派遣を発表している。これ
は偶然ではない。ユダヤ権力の擁護が真の狙いだったのだ。それともう1つは、日本の
極東地域での伸長を妨害することだった。これはユダヤ民族がナショナルホーム建設候
補地として満州を狙っていたことに対する側面援助に他ならない。ビロビジャンにユダ
ヤ人入植地をつくったのも、マクロ的に考えれば満州へのユダヤ人進出に対する橋頭堡
(きょうとうほ)であり、ミクロに考えればアメリカとの接点をつくることであった。

1386: 名無しさんAA:18/09/04 10:25
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 68 

 ここでちょっとインターナショナルの概念について触れておこう。このインターナシ
ョナルというのはユダヤ人の横の連帯のことであり、日本語でいう「国際」という観念
とは根本的に異なる。それはユダヤ人は国家を持たなかった民族で、インターナショナ
ルのみだった。国家をもった民族の国家間の「国際」とは違う概念である。マルクス主
義を盲信する人々は、「プロレタリア・国際主義」という言葉を信じてユダヤ人と同様
に国家を否定して共産党間の横の串刺しの方が国家より優先すると考えている。これが
虚妄であることは中ソ対立、中越戦争を見れば明白だ。ユダヤ勢力は得意の両建て主義
の一方の雄として「プロレタリアート」無産階級を創造して、国家を内部から崩壊させ
るため階級闘争なるものを指導してきた。それはラテン語の Proles =子孫という意味
の言葉から出ているもので、子孫しか財産のない者、言葉でいうところの「無産者」で
ある。また逆の意味では、子孫を生産する以外に能のない、「無産階級者」は何も地位
のないものという意味にもユダヤ人は使われている。つまり、この用語にはユダヤ人の
自己侮蔑的意味がこめられて、無産階級者=労働者=自由人=定住し安住の資産を成し
得ない者。それがインターナショナルの語源なのである。貧困生活で大英博物館へ通う
生活を始めたマルクスは女中に子供を宿し、エンゲルスがそれを認知していたという。
何故、極貧状態の中で生活しているものが女中など雇えるのか、という疑問もある。が
、マルクスの実像はユダヤの組織から巨額の資金を得ていた。マルクスがロンドン時代
に住んだソーホーにある住居は当時で都心高級マンションともいうべきものだった。ソ
ーホー地区は19世紀の高級住宅街。マルクスは、恵まれた環境の中でゆうゆうと至上
目的の創作にかかっていたのである。ここではマルクスが創作した『資本論』は、日本
では「経済学体系」の中へ組み込まれているがそれが単なる虚構で作った夢言葉でマル
クス主義やこの『資本論』の怪物たる威力も、放浪民=自由人の労働者を作りだして、
発揮する。「共産党宣言」や「経済学批判」では、学問体系としては、この絵空事を、
まじめに考えるのは日本人だけだ。だが『資本論』は個々の部分に学究的態度の反映が
見出されることは否定できない。悲しいかな戦争によって、全体を流れる難民思想はマ
ルクス主義と同じく、メシア思想とタルムードの思想に他ならない。総論反対、各論賛
成とでも言うべき人生物語だ。やはりこれも、強制の予言者といわなければならないよ
うである。つまり戦争を仕掛けて放浪の労働者を作り、羊の群れの様に誘導する。日本
では『資本論』の研究レベルは他国と比べてケタ外れに高い。江戸から4回の農地解放
廃藩置県から5回も投げ出された労働者ということで、『資本論』の予言通りである。

1387: 名無しさんAA:18/09/04 10:26
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 69
 マルクスが一連の予言者のけじめとして、また自己の学者としての欲求を満たす為に
余生を打ち込んだのがこの『資本論』である、マルクス主義と同じく「始めに結論あり
き」という類いで考え、結論に導く工程を考える。その工程の為に出された結論とは、
「革命」である。したがって、革命に行きつかない理論は却下される。従って帰納的手
法では迷宮入りするしかない。演繹的に分解する必要がある。そこで予言者の発想の源
流、構築作業の過程、目的などの解明に焦点を当てなければならない。資本論の源流も
タルムードの思想にあり。再三繰り返しで恐縮であるが、「非ユダヤ人の財産は一時的
に彼らに預けてあるものである。」と言う思考で、原点はやはりここから始まるものだ
。『資本論』の中での骨格の剰余価値の法則というのが正にこれである。マルクスは、
これを「搾取」と呼んだ。マルクスの頭に「搾取」の方が先にあり、タルムードの思想
が「本来自分達に属する筈の財産が、理不尽にも今は他人の手にある」と導く。この考
えが「搾取」という言葉の原像である。「 Ausbeutung 」というドイツ語が普通日本で
「搾取」といわれている言葉である。この「 Ausbeutung 」という言葉は、中世におい
てユダヤ人に投げつけられた言葉で、中世においてはユダヤ人に許された唯一の正業が
高利貸しであった。この特殊な職業からして商法も又、特殊なものにならざるを得なか
った。その特殊なユダヤ人の商法を非ユダヤ人は「搾取」と蔑んだのである。強烈な民
族主義者であるマルクスがこの不名誉な言葉をいつかは非ユダヤ人に投げ返してやりた
いと秘かに思っていたとしても、なんら不思議はない。マルクスの考えでは、本来自分
達に属するものを故なく奪われている。のであるからそれを取り返すのは当り前なので
ある。しかるに高利貸しの如き収奪でさっそく「搾取」という言葉を投げられている。
『資本論』の胆は、剰余価値の法則で「貸付利息の利潤」或いは「労働価以上の商品価
」にあるが、これは論理的に考えても人間社会にあてはめるべきものではなく、蟻社会
か蜜蜂社会にででもあてはめるべきものである。この剰余価値論の構築には、マルクス
主義の構築の時と同じく、二極分化論を立てた終末論の展開である。労働者即ちユダヤ
民族が理不尽に財産を奪われているということ、したがって手段を選ばずこれをとり返
すのは当然であるという「論理性」の衣でもって信じ込ませれば目的は達するわけであ
る。この時代には証明する如何なる材料も見出せず、マルクスも枕を高くしてパークに
眠りについたが、昨今ではそうもいかなくなったようだ。資本論は唯物史観の肉付けの
役を与えられたもので、労働価+余剰利益=労働価+搾取分の論法である。したがって
、唯物史観と同じく「絶対的貧困化」が如何にして必然性をもつものかという説明する
のを目的としていることは当然である。今では生産のない蟻の論法とされる。

1388: 名無しさんAA:18/09/04 11:52
 マルクスはタルムードの前述の思想とメシア思想の黙示録のパターンを実にうまく結
びつけたものだ。だが、発想の原点は非常に卓抜なものであるが、結論である「絶対的
貧困化」と「革命に至る過程」の説明には、妙案はなかったものと見える。生産力と生
産関係の矛盾というのがマルクスがそのプロセスで用いた仮説の中身である。生産関係
というのはメシア思想の二値論理による二極分化でブルジョアジー(資本家)とプロレ
タリアート(労働者)の葛藤ということでうまく設定できたが(少なくともマルクスは
そう思っていた)、生産力などは非常に苦しく、この生産力というのは膨脹した生産力
という風に設定されている。つまりは、豊かな生産力である。そうであれば、マルクス
は「資本主義」体制で、いいかえれば「市場経済」体制で生産力が飛躍的に増大すると
いうことを認めていたことになる。「経済学」に足を入れたマルクスなら、それは認識
していてもおかしくはない。市場経済原則を崩し自由競争を原則とした生産体制を止め
た「共産主義」体制では、生産力が落ちることぐらい、とうの昔に分かっていたであろ
う。しかしマルクスは、建前論としては、「共産主義」経済体制で無限に豊かになると
いう結果を探らなければならなかった。そこで相対する「資本主義」というものをマル
クスが見つけ創造し、実在するものではなかった。自由競争生産体制がその唯一の基盤
として経済体制であると空想して創造した。しかし所詮発想のみで封建制社会の原則は
そのままで、次元の異なるものではあり得なかった。こうして「資本主義」は否定の為
の否定材料として設定された。つまり共産主義を理想社会として夢に登場させられたも
のにすぎなかった。ここでよく論議される資本主義と社会主義、あるいは共産主義との
収斂説は架空のものと知るべきである。中国のケ小平の推進する近代化を一方の収斂現
象と見、他方スエーデンあたりの福祉国家を資本主義からの収斂現象のサンプルと考え
るが如き意見は意味をなさない。何故なら双方ともに原始社会からあった各個の夢物語
だっただけだ。誤まってはならないことは、「資本主義」という言葉である。多くの人
々も一般化しているが、その意味のとり方は共通していない。社会科学の用語や、経済
体制の一つとして受け取っている向きは多い。当然のことながら、共産主義、社会主義
、あるいは封建主義社会と対比されるのが普通だが、これは間違っている。ユダヤ人が
この「資本主義」という言葉を発する意味は、搾取の手段、方法のもので、非ユダヤ人
に宣伝するときは、マルクス主義の社会科学用語として過渡期の経済体制として売り込
んでいるだけの話である。つまり純粋な社会主義も或いは純粋な資本主義や自由主義も
存在していなく、泥棒とするユダヤ人以外の人種からユダヤに戻す為の方便で意味はな
いものだ。資本主義や自由社会にも税や計画は必要で、社会共産主義でも土地管理の責
任者や所有者の登録は必要なのだ。何ら変わるものではない。

1389: 名無しさんAA:18/09/04 11:55
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 71 

 かつては、共産主義での革命を叫び、内部からの国家崩壊、権力奪取を目ざすもので
あり続け、19世紀にはこれを主武器と考えていた。20世紀に入ると「資本主義」が
順当に発達し「自由・平等・博愛」と言うスローガンを見つけ、思わぬチャンスを内包
する事になり、ユダヤ人達は金融資本を武器に出来るようになった。それは「戦争」と
言う過程で拡大した。レーニンのいう如く「戦争は革命への最短距離にあるまたとない
チャンスである。」と論した。かくてレーニンはホブソンの「帝国主義」を丸写しにし
て「帝国主義戦争不可避論」を論じ、有名な「帝国主義論」を書き上げた。これは扇動
煽戦の為の虚構仮設で、レーニンの用いた方法で戦争を起こす事に成功した。マルクス
と同じ弁証法的唯物論という虚構で経済的要因がすべてを決すると強弁することにより
、戦争必然論を説いた。レーニンにとっては、戦争を起こさない資本主義は三文の値打
ちもなかった。つまり「資本主義」「帝国主義」というものは革命の方便で戦争を起こ
すための手段、方法にすぎなかった。それは例えば、「市場経済」の原則という言葉で
表現しても同じだった。「市場経済体制」「自由競争生産体制」などと言う事になる事
も、社会主義でも同じで、経済体制というものは自由競争を唯一の原則とするものであ
った。つまり意識は低くとも競争原理が無い訳ではなかった。したがって、例えば日本
でいえば、江戸時代も明治以後も全く同じ自由な経済体制であり規制が違っていただけ
に他ならない。規制は自由化しても封建社会でも、共産社会も又同じ様に出来るのであ
る。経済メカニズムの複雑性や、生産力、技術の差、基幹産業の違いはあれ、江戸時代
も明治以降も同じ自由競争を原則とした生産体制である。つまり、自由競争経済体制と
いう変な言葉も、共産主義という疎外形態の経済体制を対比としてあるものではない。

1390: 名無しさんAA:18/09/04 11:55
それは民主主義だろうが独裁主義だろうが変わるものではなかった。世界の複数の経済
体制の一つであるかの如く持ち出されるが、自然の摂理として平等というものは決して
あり得ない。経済において自由競争が自然の摂理であるし、力の差は、資産や生産の差
は当然のごとく、共産主義や独裁でも起こるのである。ユダヤ人は資本主義や共産主義
を両建て主義といって使用した。これ以外はこの両建て主義の引き立て役にすぎない。
封建制社会、古代奴隷制社会、原始共産制社会等いずれもユダヤ人にとってはどうでも
いい事だったのである。この2つを両建てとして至上目的の達成に向かうということを
示し行動していたのだ。「資本主義」「社会主義」を日本人は経済体制と誤認して苦心
の末、収斂論というものまで出した。資本主義と社会主義が収斂するかの如き幻想を抱
くのも虚構論理にはまってしまえばむしろ自然かも知れない。しかし、元々、それは、
「自由と平等の収斂」というあり得ない概念に収斂されることで、現実はその線引きす
る規制の問題なのだ。自由と平等は決して両立しない原則である。そこに「資本主義」
「社会主義」を経済体制と考えることが誤りであることが立証できるのである。


1391: 名無しさんAA:18/09/04 12:42
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 72

 歴史的に、ユダヤ民族と言われる人々は、至上目的に自己のメシア思想を基調として
「共産主義」という架空を創造し、そこに自由競争原則の「資本主義」を諸悪の根源た
る悪玉に仕上げる宣伝をした。一方でディアスポラ以来の筆舌につくしがたい苦難から
脱するために、現状を絶対悪としその対応物として絶対善の架空の未来を設定し、ごく
自然に「資本主義」と命名し置いて、宗教民族の流浪の民としてこれを利用した。一方
、絶対善の架空未来を「共産主義」は家系も神もいない経済宗教の呪縛力でユダヤ支配
を広げた。しかしこの西洋式の答や結果から数式を見つける人生観と、逆に基礎や足元
を清め固めて積み上げる人生に未来がある。とした和風式の考え方とは、こんなにも違
う物だろうか。と言うのが、第一次や第二次の世界大戦の結果だったのだろう。日本人
は朝鮮半島を、中国大陸を、その後南洋やマラッカのインドネシアを軍を率いて行った
。がそこには自衛の為と言う理由はあっても、目的など無かった。しかし、逆に米英を
初めとする列強国には、巨大な植民地拡大、植民地支配と言う目的があって、理由など
は後付けだったが、その為に非常に武力も経済力も強かったのだ。この違いの大きさは
改めて痛感させられる、かくの如き単純極まりない神話が、近世史にも、大きな影響を
及ぼし人類の歴史を迷路に追いこんだという事実だ。現在、世界の3分の1をの国々で
は、自由競争体制から離脱している。そしてソ連や中国は超軍事大国化している。ソ連
では半分がロシア人であり、後の半分は60種類以上の多民族から成っている国だが、
1917年のクーデターは、ロシア人はツァーの暴政に終止符を打つのに成功し、すぐ
ユダヤ人の政権に取って変えられた。力不足のためスターリン1人にユダヤ権力はつぶ
された。その原因は色々あるが、赤軍を掌握できなかった事が敗因だされる。何故なら
、我々ユダヤ人は軍人としての素質は極めて弱く、赤軍掌握を不可能にした原因とされ
た。スターリン死後にロシア人の権力は強くなり、今日、ロシア人でなくては指導的ポ
ストにつくことはできない。非ロシア人はソ連ででは、タタールと言う言葉で表される
。タタール人の仲間は、現在は息苦しい空気の中で圧し潰されたようだ。現指導体制が
崩壊した後、如何なる人物が、指導権を握るかは、予測がつかないが、80年代経済的
な動脈硬化症とも合わせて、タタール人のくび木の動きは活発化せざるを得ないと、時
のソ連の疎外形態の国家から、解放するのは、経済的不満分子ではなく民族的不満分子
であると予想され、ゴルバチョフ政権時もペレストロイカが失敗した。

1392: 名無しさんAA:18/09/04 19:21


 何を今更 経団連が青田刈りを禁止し、球団の新人闘争にも助言していながら
馬鹿か 老害もはなはだしい中西なんぞ腐れきっている。 そも経団連とは経済団体の
長として、こうした社会人の育成 或いは社会人の生活を守る為や 公共福祉の増進を
掲げたたから国としては団体を認めたのだ。もしこの団体がこうした社会規約を守らな
いで政治助言など行っているのなら とんでもない事で政治結社に当たる。こうした、
政治家の集団決済は、市民平等の位置からずれていて政治結社認定は不法行為と定める
。つまり集団で徒党を組んだ社会活動は すべからく公共の福祉を持ちあげねば一切が
不法行為と 日本国憲法は規定している。つまり会社は会社法組合は組合法である。基
本的市町村団体が集まる 町長会議や県知事会議などは殆ど違法行為であって警察が取
り締まらないだけの話である。つまり基本は指定暴力団など規定しなくても取り締まる
事はできたのだ。




1393: 名無しさんAA:18/09/05 11:06
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 73 

 実にに不思議なことだが、論理的に辻褄が合わないことでありながらも、その論理的
不整合が今まで全く研究されていない問題が日本の各所に存在する。1920年代のニ
ューヨークにおいてロシア人の亡命団体である「ユニティ・オブ・ロシア」は、ソ連の
支配者達の人名録を出版しているが、それによると当時のソ連政府の各委員会に占める
ユダヤ人の数やパーセンテージは巨大である。それを見る限り7割強がユダヤ人で占め
ているここには、極左的戦後改革を強行したユダヤの秘密がある。そして戦後の日本に
もそれは起こっている。何故か。それは実はアメリカが資本主義や自由社会と言う名の
共産主義者の世界だった為だ。かつてアメリカ国内も、およそ9割の資金や資産が1割
の人に握られている。現代でもGNPなどでは少しは比率が変わったが、大金持ち優遇
国家である事は変わりがない。馬鹿な事は日本はそうした奴隷差別国家と同じ税制を引
いてしまった事だ。消費税はそうした高額所得者から税収できない国の税制だったので
ある。日本共産党が当初、アメリカ占領軍を「解放者」であると規定したことは、野坂
発言で有名である。アメリカが資本主義国であったという事実を、如何にして矛盾なく
論理的に整合させることが可能なのか。これは戦後史研究上の最大の問題点である。が
、この問題解明をしようという試みは未だなされていない。ブレトンウッズ体制もそう
だし、韓国国旗の三度の掲揚事件もそうだ。私はここで率直にこれらの日本の戦後史を
創ったのがユダヤ人であり、それが実に恥ずかしいほどの我々の無知に基因しているも
のであることを告白し、我々の「信じ難いほどの頭の悪さ」をお許しいただきたいので
ある。日本人は、その戦後史の顕著な跛行性、経済面の驚異的な高度成長と精神衛生面
の硬直化、停滞性、虚妄性に深く悩まされているのではないかと考えている。戦前日本
にあった世界に冠たる長所や、美点は跡形もなく消され、残ったものは欲の皮のつっぱ
り合いで、金、金、金の拝金主義的傾向で、国際的にはエコノミック・アニマルぶりの
みである。現在までのところ確実にいえることは、日本人はいまだに、この戦後史の、
180度転換の真の原因や理由について語っていないし、世代が終わり盲目同然である
ということである。日本人は大変困難な二元論的思考を強いられていた。つまり、戦前
のいいものを、消し去る行為と、民主主義といわれる戦後持ち込まれた制度を使うと言
う行為の、その疑問と、民主主義は一点も誤まることのない善玉の制度であると盲信さ
せられ強制されるジレンマである。


1394: 名無しさんAA:18/09/05 11:08
 制度的に、天皇制と民主主義が相容れないアンチテーゼであるということは、案外と
日本人は理解していないのではないか。と思える。日本では「民主主義」は全く聖域に
祭り上げられている。戦後30年を経た今日であっても、日本では「民主主義」を批判
しようものなら、それこそ袋叩きに会う。軍国主義礼賛とののしられ、よしんば、民主
主義にケチをつけるとしても、それは民主主義の本質に対してではなく、それに対応す
る態度が問題にされる。戦後史の謎を解く鍵は、こうした環境にあるものと思われる。
民主主義という言葉は、ギリシア時代に遡る事が常識化している。しかし今日、日本が
、否、世界中で云々されている「民主主義」というものは、全く違った物で、実は我々
ユダヤ人が創作したものである。ギリシア時代でさえ、多数決はなかった。路地裏の、
広場の中の井戸端会議で体制批判をする事はなく街の有力者の、ローマ独裁の伝達方法
が庶民的だったのみだ。戦後の占領改革が始まるや否や、我々在米ユダヤ人達は、戦前
の「天皇陛下万歳」に代わる言葉として「民主主義・自由・平等」を日本人の頭に植え
つけることに成功した。かくて「民主主義」の呪文は、天皇現人神に代わる絶対の善の
神として聖域に安置された。しかし、この飾られた「民主主義」には奇妙なことが多い
。例えば、イデオロギー的に絶対に相容れることのない自民党と共産党とがこの「民主
主義」の守護神を買って出ている。本来これはおかしいのであるが、絶対の善玉を自己
の看板にしない手はない。選挙戦では同じ土俵で行われたのだ。ここで考えるべきこと
は「民主主義」とは何ら実体を伴わない虚構概念であるということである。具体的概念
であれば、双方のイデオロギーに奉仕するなどはありえないが。しかし実体のない理想
なのでどうとでも言える。そう考えてくると、もう一つ面白い事実を発見する。それは
「民主主義」の精神的支柱である「日本国憲法」の中には、「民主主義」という語句が
全くない。という現実である。日本国憲法を、形容する時には必ず「民主主義」「民主
的」といった言葉で飾られているが内容にその文言はない。このように「民主主義」と
は何ら実体のない虚構論理の目かくし役も与えられているものを日本人は大切にした。
この奇妙な「民主主義」の本質は是非とも明らかにされなければならないが、日本人は
実に巧みにこれを利用した。この民主主義は、絶対の擁護者を自任するマルクス主義の
本質であるのだが、軍国主義を引いて天皇礼賛していた日本人にはハードルの低いもの
で、監理者には居心地のいいものだったのだろう。日本に来たゴルバチョフは、「これ
は素晴らしい、我々が求めていた理想の社会主義だ。」と感激している。又当時の米国
は「ジャパンイズNO1」や「ゼロサム社会」など次々と日本を見習えと発言した。マ
ルクス主義即革命ではないが、日本の戦後には病巣をおいてしまった。しかしそれでも
ソ連指導者には理想郷であったのだ。

1395: 名無しさんAA:18/09/05 11:08
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 75 

 私は、これら民主主義とマルクス主義がいずれもユダヤ的思考の所産であることを告
白し、その虚構性と源流を白日の下にさらし、同時に、我々が第二次大戦終結時におい
て日本人の精神的虚脱状態にあった時、巧妙に日本人の頭脳、意識の中へインプリント
してしまった。また、それが我々ユダヤ人の浅はかな錯覚によって引きおこされたもの
であることをご説明させて頂き、お許しをねがいたいと思うのである。これは我々の罪
ほろぼしの一環でもあって日本の共産党に残した、マルクス主義への絶対視ということ
の大前提の上で、あのアメリカの占領改革がマルクス主義に基づくもので、敗戦後の改
革を行ったニューディーラー達が、マルクス主義を頂くグループであった事を証明し説
明したい。ニューディーラーがマルクス主義を頂くグループであったということは、彼
らがすべからずユダヤ人から成っていたという事実からもいえる事だが。別章で説明し
た如くマルクス主義はユダヤ民族解放のための虚構ハイポセシスであって、これらから
ユダヤ人グループは、マルクス主義を駆使したのは当然すぎるほど当然であった。日本
共産党は戦後間もなく、アメリカ占領軍を解放者と規定し、双手を挙げてこれを歓迎し
た。このことは後でコミンフォルムにより激しく批判されることになったことは、日本
人ならご存知の筈である。その後に、アメリカでマッカーシズムの嵐が吹き荒れる頃、
日本でもレッドパージが起こったからだ。この頃より日本共産党は、反転しアメリカを
「帝国主義者」と呼びはじめて、今日に至っている。ここに、2つのアメリカの顔が存
することを知る。つまり、今日共産党が規定している「帝国主義」のアメリカと、終戦
直後日本共産党が規定した「解放者としてのアメリカ」である。これの意味するのは、
非資本主義的アメリカ人が、現実に社会主義化は行わなかったが、数々の左傾化政策等
を行いその後遺症のまま今日に持っている事実である。これは絶対に相容れない対立物
であったはずである。日本で議論されている単に「アメリカの占領改革」といった事で
は片づけてはいけない。本質的重要な部分で見抜くことが必要である。これが現実の歴
史で日本がある理由だからだ。もう一つ別の角度から見てみよう。戦後数年して、アメ
リカのマッカーシズムといわれる嵐は「赤狩り」といわれるものである。この時「非米
活動調査委員会」というものがつくられた。この非米活動というのは内政、外交両面に
おけるアメリカの国益に反する政治活動という意味で、戦時中日本でいわれた「国賊」
「非国民」の類いとは根本的に違うものであった。いわゆるボランテアの類である。

1396: 名無しさんAA:18/09/05 11:09
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 76 
 マッカーシズムは、1948年頃から1950年代半ばのアメリカで、激しい反共産
主義運動が起きた。この時代表だったジョセフ・マッカーシー上院議員の名から付いた
名称である。マッカーシズムの嵐は様々な現象を巻き起こした。この非米活動というの
は、具体的にはルーズベルト政府、即ちニューディール派を指すものである。内政にお
いては資本主義国アメリカで明らかに共産主義政策と考えられるような極左政策を行い
ながら、外交、軍事面ではアメリカに何ら利害関係のない対独戦に強引に引きずり込む
という過激な政策を行ったニューディール派が、戦後処理においてヤルタ条約により、
ソ連を極端に利し、対中国政策でも失敗し、米国は、中国大陸を完全に失うことになっ
た。また対日戦後処理においてもこれから問題にする如くに、極左政策を実行し、日本
資本主義の基礎を崩さんばかりの変革を行った。既に日本は廃藩置県で新政府は農地の
開放を行い、その後戦前にも大農地分割や軍事接収を行い、殆ど小作人と言うのは経済
使用人だった。これを農奴に看たてて開放し、財閥開放まで及んだ。理由は米国資本家
との対抗を無くす為だった。しかし、これらは資本主義国アメリカの国益に合致するも
のとは決していえないものであった。アングロサクソン系を中心とするアメリカの支配
層は、長い間のユダヤ支配から脱出するために、遂に立ち上がったのがマッカーシズム
の本質である。いわばアングロサクソン革命である。ここでいうところの「赤狩り」と
は「ユダヤ狩り」に他ならない。これにより、ニューディール派は完全に息の根をとめ
られ、以後「名存実亡」となろうとした。つまり移民ユダヤのアメリカと清教徒アング
ロサクソンのアメリカと2つの顔があったのだ。この時ユダヤ系アメリカというものが
アメリカの真の国益に関係なく行動するものであったことが事実として起こったのであ
る。つまり幾多の激戦で死者をだしてまで進出した中国大陸が、アングロサクソン米国
は何一つ手に取れなかったのだ。典型的な軍人といわれたマッカーサーもこれを疑問視
した。しかし軍部も、現実にはこのニューディーラーに操られ組みしていた。ダグラス
・マッカーサーは戦後1945年8月30日から約5年半、日本占領に当たったGHQ
の最高司令官である。軍人であるマッカーサーは、政治に弱く。当時東京のGHQへ送
られる諸々の指令は、トルーマン大統領以下、閣僚の全く関知しない内に国務省の秘密
グループから発せられていたが分らなかった。政府中枢がもう少し気を配っていたら、
このようなことにはならなかったが、この国務省の覆面グループと呼ばれる秘密組織は
、つまるところニューディーラーの残党であった。議会やトップの目をかすめて送られ
てくるこれらのニューディーラーの残滓の指令を逐一実行に移していたのが、無知な軍
人マッカーサーであったのだ。

1397: 名無しさんAA:18/09/05 11:09
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 77 

 しかし、有名な、FEC(極東委員会)230号といわれる本国から送られた指令は
、財閥の解体から始まって独占資本を日本共産党の息のかかった労組などに、二足三文
で払下げることや、革命行為があっても見て見ぬふりをしろ、といったロシア革命もど
きの極左政策の命令であった。何も分らないマッカーサーは、そのようなニューディラ
ーの下部の一部グループから送られた指令を忠実に実行していたが。ある時から調査を
する様になった。ここで判明したのが、直接手足となってこれを推進したのが「GS」
といわれる民政局のホイットニーや、憲法の作者であるチャールズ・ケーディスであっ
たとされる。チャールズ・ケーディス(ユダヤ人)はGHQ民政局次長で、日本国憲法
の草案作りの実務責任者だったそれに対して「G2」といわれるマーカット、ウイロビ
ーのグループは、懸命にこれらニューディーラーの暴走を阻止しようとした。また民間
人では、例のグラマン事件で有名になった当時『ニューズウィーク』誌の外報部長であ
ったハリー・カーンも極左化阻止に力を尽くした。ここで、ルーズベルト政府、つまり
ニューディーラーの日本に対する態度とドイツに対する態度は根本的に違っていたのだ
。ドイツに対してはユダヤ人の権利に制限を加えた。ドイツ民族的な憎悪を露骨に現わ
しこの民族対立に危惧したからだ。しかし日本に対しては、朝鮮人にそのような感情的
な行動があったがそれを阻止せず、規制した形跡は見当たらない。我々ユダヤ人は、第
二次大戦においてはドイツは我々に対する加害者であると考えていたし、日本に対して
も加害者であり朝鮮人は被害者ではないかと考えていたのである。そのようなことから
、戦後処理については日本に対しては民族的敵意をもった政策を最初から考えていた。
しかし、それがむしろ日本人の政策がより自由に、より平等にしてあげた形であった事
が知らしめる事になった。我々の苦しい経験からして、朝鮮人や日本人にも、より自由
な生活をしてもらいたいと真に短絡な考え方で戦後改革を行うことになったのである。
しかし、それが大変な誤りであることに我々が気づくのは、戦後改革の悪弊が出てしま
ってからであった。日本でも、日本の戦後改革を行ったのがニューディーラーであると
いうことは、知られているがしかし、私の見るところでは、ニューディーラーとは一体
何者か、ニューディーラーの本質となると、その認識ははなはだ心もとない認識であろ
う。朝鮮国内が全くいらだつくらいに支離滅裂な状態になった事で強くこれが間違いで
あった事を露呈した。

1398: 名無しさんAA:18/09/05 11:10
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 78 

 ニューディーラーがユダヤ人のグループであるということは知ることが出来る。しか
らば、自ずとその政策のはしばしに現われてくる ユダヤ的思考の所産を発見できる。
また、このグループの政策が自ずと共産主義であることが簡単に理解される。事実、マ
ッカーシーの「赤狩り」というのはこのニューディーラーの残滓を一掃することだった
し、マッカーシズムが吹き荒れた時、日本人はアメリカにも「赤」がいるのかと不思議
がっていたが、この赤とはニューディーラーのことに他ならなかった。ニューディーラ
ーの指導者の一人は、フランクリン・デラノ・ルーズベルトであった。アメリカ人の中
で90%は今でもルーズベルトがユダヤ人であったことを知らない。しかし、彼は若い
頃ユダヤの支援で育った。歴記としたユダヤ人だったのだ。この第32代アメリカ大統
領フランクリン・ルーズベルトは、良きにつけ悪しきにつけ、日本人には因縁深い名前
である。1933年、奇しくもヒトラーが政権をとったその年にアメリカ大統領に当選
した、1945年、第二次大戦終結の年に死去するまで、文字通り独裁者としてアメリ
カに君臨した。このルーズベルトを語る場合、先ず真っ先きに留意すべきことは、この
ルーズベルトという名前が今日では半ばタブーとなっている事実がある。この点は日本
ではあまり気づかれていない。さらに、全米600万のユダヤ系市民の間では、完全な
タブーであるということも、全く知られていないようである。もともとユダヤ問題など
、殆ど関心のない日本人である。それもむしろ当然かも知れない。何をさて置いても、
彼がユダヤ人でありチャーチルとも仲が良かったという事実だ。ルーズベルトは、正真
正銘のユダヤ人で、このようなユダヤ人を「諜者」といっている。マルクスも改宗後は
この諜者であった。この諜者というのは、ユダヤ民族の遠大な計画のために表面上改宗
したことにし、クリスチャンになるわけである。しかし、本質的に、強固なユダヤ教徒
であった。陸軍中野学校の卒業生が戸籍上死亡したことにして特殊な任務についたのと
似ている。ルーズベルトの家系はユダヤ系であった。このような名門のユダヤ家系の中
から改宗者が出た時は、例にたがわず諜者となる場合が多い。ルーズベルトの家系のル
ーツの祖先は17世紀の末葉、オランダにいたユダヤ人である。ローゼンフェルト家の
先祖は異教徒審問中、スペインから亡命したユダヤ人の一群に属し、ローゼンカンポと
称されていた。その後 この一群のユダヤ家は欧州各地に分散している。彼らの中の、
ヤコブス・ローズベルトがオランダに定住し、この一家のみが諜者となるためプロテス
タントに改宗したといわれる。

1399: 名無しさんAA:18/09/05 11:13
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 79 

 この一家が1649年、オランダから当時ニューアムステルダムと呼ばれていたニュ
ーヨークへ移住して投資家であった父が亡くなっている。1682年にクラエス・マル
テンザン・ローズベルトはジャネツェ・サミュエルズと結婚し、戦後、布商を営んでい
た。また、1935年3月14日の『ニューヨーク・タイムズ』紙上で『デトロイト・
ジューイッシュ・クロニクル』紙に掲載されたルーズベルトの書翰によると、「自分の
先祖は多分ユダヤ家であろう」と記しているという。ルーズベルトが全米のユダヤ系の
市民からモーセの再来として信仰に近い尊敬を集めていたことは、よく知られている。
ルーズベルトは1933年大統領に当選するや否や、在米ユダヤ系市民から信じられな
いほどの喜びで迎えられ崇拝された。これはなんとも奇妙な話だった。何故なら、ルー
ズベルトは選挙公約では、ユダヤ系市民の利益になるようなことは何一つ公約していな
い。また今後ユダヤ系市民にどのような政策を行うかも全く予測などできないはずなの
である。しかし何故にか、盛大に祝われたのだ。もしルーズベルトがユダヤ人でないと
するならばあり得ない話だ。ルーズベルトが当選し、生みの母ゼームス・ルーズベルト
夫人がジューイッシュメタルを贈られ、ニューヨークユダヤ協会の名誉会員に推薦され
、その祝賀式典の式上で、ニューヨーク市長ラガーディア(ユダヤ人)は、全ニューヨ
ークユダヤ人の名において金牌を贈与した。これに対して母親は金一封を謝礼として贈
っている。シオン組合の前会長ルイス・リプスキーは同夫人はアメリカの勇敢な指導者
を生んだとの讃辞を呈し、マイロン・ザルツバーガーは「夫人は単に米国の母として、
偉大なるのみならず、世界の母として偉大となられることを希望する」と述べている。
これに加え、メタルの鋳造がある。1933年3月4日に大々的に売り出されメタルは
、表面にルーズベルトを演出し、裏面にダビデの星がきざまれているものである。ルー
ズベルトの当選を待ちかねたように、せきを切ったルーズベルト絶賛がユダヤ系市民か
ら起こった。ルーズベルトを囲繞するブレーントラストは全てユダヤ人であり、その大
部分がマルクス主義者であったことは、日本でもよく知られている。大部分はプライベ
ートブレーンであるが、見逃せないのは、国務、財務、労働の3つの重要な長官を、ル
ーズベルトのこのグループだったということである。国務長官のコーデル・ハルも妻君
がクーン・ローブ商会のユダヤ人ヤコブ・シフの親類の出身である。開戦後交換船で帰
国した栗栖大使が語ったように、ハルは圧力のため思うように政策がすすめられなかっ
たのであった。


1400: 名無しさんAA:18/09/05 11:22
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 80 

 野村大使ではとてもそんなハルの本音は聞き出せないだろうが、栗栖大使の腕では、
さすがに、ハルががっちりルーズベルトに、いいかえれば、ニューディーラーに組み入
れられていたのを見抜いていた。アメリカ国務長官を務めたコーデル・ハルは、有名な
『ハル・ノート』を日本に突き付けて、日本政府を挑発した張本人だった。1945年
に「ノーベル平和賞」を受賞した。財務長官ヘンリー・モーゲンソーもユダヤ人であっ
た。戦後処理をめぐって対独強硬案を出し、最もユダヤ的なユダヤ人だった。このモー
ゲンソーは、ルーズベルトの史上最大の赤字作りにも貢献する。モーゲンソーは戦後、
「全米ユダヤ人組織連合」の名誉会長を務め、イスラエル援助機関を指導した。もう一
人の労働長官はフランシス・パーキンス女史である。彼女は、労働者に団結権を与え、
階級闘争を激化させる要因をつくった。ロシア系ユダヤ人である。アメリカで史上初の
女性閣僚であった。これら指導者がユダヤ人であるということは述べた如く、共産主義
を自己解放のための手段、道具として活用しようと考えた。それは何ら不思議ではない
。なんの臆面もなく資本主義国アメリカで共産主義化政策を追求していた訳は、彼らの
信条にある。これら3人のほかに、私的ブレーンが数多く存在したことは有名である。
ルーズベルトの取り巻き連に顕著なことは、俗流ラジカルといわれるユダヤ人マルクス
主義者の群である。その代表格が、ウィーンから来たフェリックス・フランクフルター
である。彼は12歳の時渡米して、1906年、ハーバード大学で法学士号をとり政界
入りし、検事総長特別補佐、陸軍省法律顧問等を経て1920年最高裁判事に任命され
た、ハーバード大学教授で一見自由主義者の如き経歴であるが、実は大学で盛んに革命
思想を吹き込んでいた。ユダヤ人学生を卒業後政府内の、枢要な地位に推薦することに
努力し、彼が最高裁判事に任命され、ルーズベルトの許に入って国民から抗議が寄せら
れた。ルーズベルトは気にせず9名の最高裁判事の中の2人までユダヤ人に占めさせた
。もう一人の最高裁判事ルイス・ブランダイスも、ルーズベルトの私的アドバイザーで
あった。「世界シオン賢人会」の会員であった彼は、日本国憲法の事実上の草案作製者
で、現在ニューヨークでの弁護士をしているケーディスは、これらユダヤ系法曹人の弟
子である。バーナード・バルークについては有名であるが、兵器産業界の大立物であり
、第一次大戦にアメリカが参戦したのもこのバルークの力が真に大きい。当時バルーク
の許可なしには工場一つ建てられなかった。


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